たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『クリスマス・キャロル』_祈り

2013年12月08日 13時39分01秒 | ミュージカル・舞台・映画
重くなりますがよろしかったらおつき合いください。

「1994年12月6日(火)

(カトリック教会の)港のみえるクリスマス、というのに行ってきた。クリスマスソングの演奏がすばらしかったなんて間抜けなことしか書けないが、「聖しこの夜」が流れた時にはMちゃんにも届いているのかなあと思うと涙がにじんだ。
Christmas-キリスト誕生の700年前、イザヤは予言されているそうだ-神の御子が使わされる、と。
神はわたしたちに愛を与えてくださった、それがキリストを使わされた、という形で現われていると、わたしたちはその愛をうけとめ、分かち合おう、愛を与えあうのがChristmasであると、キリストが生まれたのは淋しくて暗くて寒い家畜小屋の中、その状況は、まさに人がこの世にあって出会うさまざまな苦しみであると。
わたしたちの苦しみを全部背負ってキリストは十字架にかかり、その死する時もまた他になにもない、ただ十字架の上。
神はわたしたちに命を与えてくださった。
この世での旅を終える時はこの世で得たものを全ておいていかなければならない、全てをおいて罪を許され、神のもとへ帰るのが死だとー。
こんなお話があったかな。
死して永遠の魂を得る、というのがキリスト教の考え方のようだ。まだピンとこないし、正直言ってなんとなく押しつけがましかったり、胸くその悪いものを感じないではない。
ただ慰めを求めている。
Mちゃんが神に与えられた命を全うして神のもとへ帰っていった、のだ考えるのは都合がよすぎるだろうか。
Mちゃんの肉体が二度と戻らない、という事実は消えない。そのことをしっかりと受けとめ、何を残してくれたのか、何を教えてくれたのかをみつけることがわたしのつぐないであり、唯一してあげられることなのだ。
どうすることもできない傷みがあることを知ってしまった。なんと大きな贈り物だろう。
人は愚かでちっぽけなものだ、が消えることない傷みをしっかりと受けとめ、背負っていくことができるのも人である。
どんなに悔やんでも悔やみきれないことに変わりはない。自分を責めることにようやく疲れてしまった。
頭の中でぐるぐるといろんなものがまわることはやめにして、ただあるがままになすがままに風のように生きていきたい。
でも現実には仕事もないし、目の前にあることに煩わされているのだが・・・。
いろんなことを知るようになると、つらいこと、悲しいこと、淋しいこと、くやしいこと、諸々あることがわかってしまう。それらを受けとめていくのが大人である。
わたしがわたし自身を開放していくためにこんなつらい代償が必要だった、なんてひどすぎる。」

長くなりますが続きます。

「1994年12月25日(日)

今年はまた武道館でイヴコンサートを楽しみ、今日は『スクルージ(クリスマス・キャロル)』をみてクリスマスは終わりだ。今年はこのままなにごともなく終わりだろう。
つらい一年になってしまった、同時に貴重な一年でもある。忘れることはない。
今もなお胸が苦しい。
家族に対するメッセージを一行詩にすることがあるのだそうだ、今、わたしはこう書くだろう。

自ら人生にピリオドを打ってしまった妹へ
「なんで生きようとはしなかったのか」
 どんなにあなたを責めても
「なんで力になってやろうとしなかったのか」
 どんなに自分を責めても
  もう帰ってはこないんだね、Mちゃん


心を通い合わせないまま終ってしまった、二度と会うことはない-背負っていくにはあまりに重過ぎる、でも逃げ出せない、わたしは強くなれるだろうか。Mちゃんの分も呼吸していくことが、わたしのつぐないであり責務だ。しっかり受け取めなければならない、Mちゃんの贈ってくれたかけがえのないものをー
なんで、そんな取り返しのつかないことをした?
悔いは消えない、いっぱい、いっぱい、泣いてきた、なのにまだ涙が出てくる、
いつまでも悲しんでばかりもいられないけどね・・・。
気持ち、ほんの前向きで年の瀬をむかえようとしている。
「あっちにぶつかり、こっちにぶつかりし、いっぱい傷をつくりながら生きてきた」
テレビドラマの中の台詞だ。
「自分の人生が好き」だとも―。
わたしはなんと今まで傷つくことをおそれてきたことかーあまりに大きな傷をもった今ようやく気づくなんて-
幼い時からの自信のなさをずっとひきずってきた。意固地なさをひきずってきた。
自分を守ることにばかり必死になってきた。きっと多くのものを見落としてきたにちがいない。
まだ間に合うだろうか。やり直すのにおそいことはないはずだ。今までの自分を否定してしまうのではなく―
いつも頭の中にブロックを組み立ててきた。Mちゃんの死で崩れ去った。
心の扉に鍵をかけ続けてきた。
今ようやくほんの少し開こうとしている。
気負うのではなく、肩の力を抜いて、ふわふわと風のように生きられたらいいな。
結局は自分さがしの旅なのかもしれないけれど、生きていくことはー
自意識を捨て去っていくことがわたしのテーマなのかもしれない。
ほんとにもうコンサートなどに逃げてはいられない。ぶつかることから逃げるのではない。「こんなもんだ」と割り切ることがいちばん嫌いなはずだったのに、そうした方が楽な時もいっぱいあるってわかってしまったから・・・よくわからない。
生きていくことは難しい。でもそんなに悪いことでもないはずだ。
長い時が流れたような気がしてしまうなあ。
それにしても、わたしが自分の愚かさに気づくのに、自分を解き放っていくのに、こんな大きな代償が必要だったなんてきついよ、今も信じられない、もういないなんてー
わたしは強くならなければいけない、うかつに死ねないよ、
Mちゃんにしてあげられなかったカウンセラーへの道を進んで行こうと思う

とりあえず、MerryChristmas-」


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
自分で読み返しながら自分のエネルギーにびっくりしています。
知る人が近くに誰もいないアパートの中でわたしはこの日記をしたためていました。
よくやっていましたよね。
お別れの直後、アパートを引き払って家に戻ろうかとかなり気持ちがぐらつきました。
でも母との関係を考えると家には戻らず、結果的にそれでよかったなと今は思います。
物理的に距離を置くことで母の病気にダイレクトに巻き込まれなかった。知らない人には誤解されてしまいそうな言い方ですが、家族だからこそ、親子だからこそ離れていることが必要だった、このことではその後もずいぶんと自分の中で後ろめたさのようなものを感じ続けることにはなりますが、中井久夫さんの『看護のための精神医学』という本の中の記述によって気持ちが救われました。このことはまた別の機会に書きたいと思っています。


この時から20年経っても自分の進む道がわからず迷子の私がいます。
経済状況もあるので仕方ないですよね。


若かりし頃買った『クリスマス・キャロル』を読み返しました。
今だから深く理解することができる。『レ・ミゼラブル』と同じ19世紀のヨーロッパ。今の日本と通じているものがあるように思います。
長くなるのでまたあらためます。


ドイツ・ローテンブルクの街並み。
携帯で撮っているので解像度が低いですが、歩いてて楽しかったです。
10月ですが寒かった。日本の12月ぐらい。

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