「少年がベッドの上で祈っている。母親の祈りに合わせて祈りの言葉を繰り返している。階下では父親が息子のために木靴を削っている。削りながら、二階から聞こえる祈りに合わせて、祈りの言葉を繰り返している。
この静かで、そして大変美しいシーンは、「木靴の樹」という奇跡的な作品を最もよく現わすシーンだろう。そこには、余計な会話はない。過剰なモノローグも訓話もない。ただ、低くつぶやくような祈りの言葉が繰り返されるばかり。あたかも、世界全体が祈りという沈黙でみたされているかのようだ。
しかし、これはなんと豊饒な沈黙だろう。いいつくせぬ感謝と願い。家族が互いに寄せるいたわりと信頼。作為の言葉では決して語りえぬまごころのすべてが、この「祈りという沈黙」のうちにある。
洋の東西を問わず、祈りの本質は沈黙にある。沈黙といっても、ただ口を閉じるということではない。むしろ、心の声を静めるために、口で祈りの言葉を繰り返す。そのとき、自分はもはや祈りの一部となり、祈りは沈黙となる。
ここに登場する農民たちは、そんな沈黙のこころを暗黙のうちに知っている。種をまき収穫する、その自分たちもやはり大いなる自然の一部分であるのと同じように、朝な夕なの祈りもまた、万物の根底なる大いなる祈りに包まれてあることを、知っている。それこそ、彼ら底辺を生きる人々が千数百年来守り育ててきた。カトリシズムの原点だ。
ベッドの上でミネクが唱えていたのは、カトリックでも最もポピュラーな、「ロザリオの祈り」である。受胎告知の時の天使の挨拶を元にした「アヴェ・マリア」の祈りを50回から、時に100回くりかえす祈りだ。この「アヴェ・マリア」の祈りの最後の一節は「聖マリア、罪びとなる我らのために、今も臨終のときも祈りたまえ」となっている。つまり自分が祈っているようでいて、実は「我らのために祈りたまえ」なのだ。繰り返しそう祈るとき、祈る自分はそのまま大いなる祈りに包まれている。
このような祈りの本質は、「なむあみだぶつ」をひたすら繰り返すお念仏の伝統を持つ我々にはなじみぶかい。たとえば、浄土宗系の称名念仏において、一遍が「称ふれば我も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とうたい、また蓬如上人が「なむあみだぶつに身をば丸めたる」というのと、こころはひとつだ。
実際、ミネクが眠そうな目でたどたどしくアヴェ・マリアを繰り返す姿は、「となふれば我も仏もない」境地であり、大いなる祈りに包まれて、「身をば丸めたる」安らぎの境地にほかならない。よく見ると彼はまだちゃんと祈りのことばを覚えていないようすだが、それはそれで象徴的だ。祈りとは何かを語ることではなく、祈りのうちに身を丸めて黙することなのだから。
「木靴の樹」が、見るものの心に、ほかのどんな作品とも違う特別な深い感動を呼び起こすのは、このような「祈りという沈黙」の世界を生きる人々を映し出しているからだ。
貧しい彼らが門付けの浮浪者に食事を分けるのは、単なる憐れみからではなく、浮浪者のうちに、祈りの世界と現実の世界との境界を行き来する聖性を見ているからである。
未亡人の必死の祈りで牛がいやされるエピソードが感動的なのは、奇蹟のようなできごとに対してというよりも、彼女が祈りの世界に全面的に身をゆだねている、その姿に対してではないだろうか。
そのことは、ラストのふたつの主観ショット、すなわちミネクの目から見た去りゆく我が家と、見送る農民たちの目からみた去りゆくミネクたちの馬車の、比類のない美しさに凝縮されている。この二つのショットが痛切でありながら同時に静謐な救いを秘めているのは、彼らのまなざしが家や馬車の背後の暗がりを突き抜けて、「祈りという沈黙」の世界をみつめているからだ。嘆きかなしんだとてどうなろう。人はやがて同じ様に、この世をすら去っていく存在なのだ。窓越しに見送る家族が表にも出ずに、ただひたすら繰り返すアヴェ・マリアには、我々の日常のいいかげんな慰めや励ましの言葉を恥じ入らせる、気高さがある。
今もロンバルディア地方(イタリア)では、この映画のように、あちらこちらの教会の鐘の音がひねもす鳴り響いているのだろうか。いつか訪ねて、すべてを包み込むような鐘の音の、沈黙の響きのなかを歩いてみたいと思っている。
晴佐久 昌英 カトリック司教」
(1990年10月13日 東宝出版事業室 フランス映画社発行より本文、写真ともに引用しています。)
1990年の私は、大きな喪失体験もなくたぶんほとんど意味を理解できていなかったと思いますが、今こうして読み返してみると本当によくわかります。
『赤毛のアン』『大草原の小さな家』『レ・ミゼラブル』などとも根っこでつながっていきます。今わたしたちが忘れてしまっているたくさんのことを教えてくれているように思います。ストーリィなど、これからもパンフレットから書いていきたいと思っています。
この静かで、そして大変美しいシーンは、「木靴の樹」という奇跡的な作品を最もよく現わすシーンだろう。そこには、余計な会話はない。過剰なモノローグも訓話もない。ただ、低くつぶやくような祈りの言葉が繰り返されるばかり。あたかも、世界全体が祈りという沈黙でみたされているかのようだ。
しかし、これはなんと豊饒な沈黙だろう。いいつくせぬ感謝と願い。家族が互いに寄せるいたわりと信頼。作為の言葉では決して語りえぬまごころのすべてが、この「祈りという沈黙」のうちにある。
洋の東西を問わず、祈りの本質は沈黙にある。沈黙といっても、ただ口を閉じるということではない。むしろ、心の声を静めるために、口で祈りの言葉を繰り返す。そのとき、自分はもはや祈りの一部となり、祈りは沈黙となる。
ここに登場する農民たちは、そんな沈黙のこころを暗黙のうちに知っている。種をまき収穫する、その自分たちもやはり大いなる自然の一部分であるのと同じように、朝な夕なの祈りもまた、万物の根底なる大いなる祈りに包まれてあることを、知っている。それこそ、彼ら底辺を生きる人々が千数百年来守り育ててきた。カトリシズムの原点だ。
ベッドの上でミネクが唱えていたのは、カトリックでも最もポピュラーな、「ロザリオの祈り」である。受胎告知の時の天使の挨拶を元にした「アヴェ・マリア」の祈りを50回から、時に100回くりかえす祈りだ。この「アヴェ・マリア」の祈りの最後の一節は「聖マリア、罪びとなる我らのために、今も臨終のときも祈りたまえ」となっている。つまり自分が祈っているようでいて、実は「我らのために祈りたまえ」なのだ。繰り返しそう祈るとき、祈る自分はそのまま大いなる祈りに包まれている。
このような祈りの本質は、「なむあみだぶつ」をひたすら繰り返すお念仏の伝統を持つ我々にはなじみぶかい。たとえば、浄土宗系の称名念仏において、一遍が「称ふれば我も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とうたい、また蓬如上人が「なむあみだぶつに身をば丸めたる」というのと、こころはひとつだ。
実際、ミネクが眠そうな目でたどたどしくアヴェ・マリアを繰り返す姿は、「となふれば我も仏もない」境地であり、大いなる祈りに包まれて、「身をば丸めたる」安らぎの境地にほかならない。よく見ると彼はまだちゃんと祈りのことばを覚えていないようすだが、それはそれで象徴的だ。祈りとは何かを語ることではなく、祈りのうちに身を丸めて黙することなのだから。
「木靴の樹」が、見るものの心に、ほかのどんな作品とも違う特別な深い感動を呼び起こすのは、このような「祈りという沈黙」の世界を生きる人々を映し出しているからだ。
貧しい彼らが門付けの浮浪者に食事を分けるのは、単なる憐れみからではなく、浮浪者のうちに、祈りの世界と現実の世界との境界を行き来する聖性を見ているからである。
未亡人の必死の祈りで牛がいやされるエピソードが感動的なのは、奇蹟のようなできごとに対してというよりも、彼女が祈りの世界に全面的に身をゆだねている、その姿に対してではないだろうか。
そのことは、ラストのふたつの主観ショット、すなわちミネクの目から見た去りゆく我が家と、見送る農民たちの目からみた去りゆくミネクたちの馬車の、比類のない美しさに凝縮されている。この二つのショットが痛切でありながら同時に静謐な救いを秘めているのは、彼らのまなざしが家や馬車の背後の暗がりを突き抜けて、「祈りという沈黙」の世界をみつめているからだ。嘆きかなしんだとてどうなろう。人はやがて同じ様に、この世をすら去っていく存在なのだ。窓越しに見送る家族が表にも出ずに、ただひたすら繰り返すアヴェ・マリアには、我々の日常のいいかげんな慰めや励ましの言葉を恥じ入らせる、気高さがある。
今もロンバルディア地方(イタリア)では、この映画のように、あちらこちらの教会の鐘の音がひねもす鳴り響いているのだろうか。いつか訪ねて、すべてを包み込むような鐘の音の、沈黙の響きのなかを歩いてみたいと思っている。
晴佐久 昌英 カトリック司教」
(1990年10月13日 東宝出版事業室 フランス映画社発行より本文、写真ともに引用しています。)
1990年の私は、大きな喪失体験もなくたぶんほとんど意味を理解できていなかったと思いますが、今こうして読み返してみると本当によくわかります。
『赤毛のアン』『大草原の小さな家』『レ・ミゼラブル』などとも根っこでつながっていきます。今わたしたちが忘れてしまっているたくさんのことを教えてくれているように思います。ストーリィなど、これからもパンフレットから書いていきたいと思っています。