人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

刺激と人生範囲:2050年の自分を描く

2005-11-18 00:00:00 | 人生論・閃き
人は動物である以上、好奇心を持つ生物である。好奇心がなければ学習がなく、成長がなく、安定性や安全な暮らしが望めない。

しかし、今は知らなくてもいい情報が報道されるなどして入手可能となることが多い。このような情報過剰によって、より情報を求める者と逆に情報を押し返すものが生じる。私は、その情報過剰を整理することがある意味「サバイバル」に繋がるため、前者が自然と考える。

しかし、人が興味持てる内容・範囲・期間などには限度があるだろう。その限度を超えた場合、好奇心が満足される・自然消滅するのいずれかの途を辿り、新たな刺激を求めることになる。

好奇心があるからこそ刺激が大きい。よって、好奇心が失せてしまっては刺激が足りなくなる。しかし刺激は、個人差があれど最低60歳までは要求されるものと考える。

前述の情報過剰によって、(好奇心の低下を経由せずとも)刺激が多く、ひとつひとつの情報の効果・影響力が希薄化されている。そして、他人の極端な成功も失敗も理解でき、本を手に取ればドラマやマンガの主人公とともに恋や冒険ができる。ということは、逆に、何もしなくても日常で好奇心が満たされる恐れもある。今の日本は、刺激過剰だ。

それは、雇用市場にも影響を与えているのではないだろうか。フリーター・ニートが急増しているのは彼ら自身のせいだけではなく、むしろ平成に生まれたにも関わらず昔ながらの愛社精神・終身雇用願望をもてる方が不思議とも言いうるのではないだろうか。

そして、それは私のような昭和50年代生まれの人間にも、ある程度言えることではないだろうか。

若者の間で起業が増えているが、これが必ずしも中小企業庁が望む雇用増大や経済活性に繋がるとは限らない。当ブログで過去に書いた、「逃げ」である場合も多いと考えるからだ。適応できない。コミュニケーションが下手である。自己至上主義である。

そして、人は飽きっぽくなっている。

幼児は、「ガラガラ」の音や、信号が赤から青に変わっただけで素直に、極端に喜べる「才能」がある。しかし大人の我々は、ルーティンが含まれる仕事を何年続けられるのだろうか。日本人の道徳のひとつである「忍耐」も薄れているのではないか。

反面、すべてにおいて悲観的になる必要はない。今は、誰でも何でもできる。選択肢はほぼ無限である。会社を辞めても、退学しても、なんとかなる。(もっとも、選択肢が多ければいいというのは人口の5%にもあてはまらないだろう。)

・・・このような理解の下、私は自分の人生を考えた。

私は今年はじめて、「3年計画」でなく「30年計画」を考える視野を得た。今までは想像もできず、「30過ぎで結婚するんだろう」程度だったが、今は60歳までの人生計画を練りたいと思い、また練れると思い始めた。そして、一歩ずつ動き始めた。

30年は長い月日である。私はまだ30年を生きた経験がないが、これに異論はないと思う。この間に、私は広範囲における経験を得、「能力ポートフォリオ」を作りたいと考える。今は、ひとつのもので優秀になればいい世の中ではない。「優秀」という位についた数だけの能力を集めたポートフォリオで勝負するようになると私は考える。

反面、そうしなくても20代で大金持ちになり、退職してハワイで住むことも可能である。私の生きたい人生ではないが、それはそれでいいのかもしれない。しかし、逆に彼らが60歳まで働けないのだ。もはや仕事にやりがいを感じていないのだ。満たされすぎたのだ。

能力ポートフォリオがあれば、そうはならない。常に新しい「刺激」がある。当然得る過程は長く、これは刺激の連続他ならない。そして、能力を組み合わせることによって新しいものが作られる可能性もある。「好奇心」も湧く。色んな人に会える。「The TRUTH」などという天の法則などがあるのであれば、自分なりにそれに近づけるのではないか。

私の描くこのようなビジョンを言葉で示すのは難しいが、簡単にいうと
① 人は刺激が必要で、もう得れなくなれば逃げる
② 現代で60歳まで刺激を保つためには「能力ポートフォリオ」が必要

そして、語弊を恐れずざっくり言ってしまうと、

③ 人生とは長い「ひまつぶし」である。

これはかなり広義に捉えれば、マザーテレサにもナポレオンにもあてはまる。テレビにたとえるのならば、どんなにTBSが好きでもチャンネルを多く持ってみて日テレも見える選択肢を得る価値はあるだろう。反論する人は多いだろうが、上記を踏まえた上で、少しでも理解してほしい。皆に、何かを求めていてほしい。

ここで断っておくが、命を過小評価しているわけではない。むしろ逆だからこそ、このような発言によりインパクトを発見を世間に与えることができると信じている。

・・・そしてこのような前提の下、今後「安定性」などという幻想の定義がまったく変わってくる。安定性という温室は、その場しのぎでしかないのかもしれない。仕事は変わる。夢も動く。命は進む。

ならば、常に新しいドアを叩く以外はない。
過去に繋がっていなくても、正当化できなくても、理由がなくても。

27年目の夜明けが迎えるのは、このひとつの確信である。
それ以降の夜明けが迎えるのは、それを実現すべく走る姿であってほしい。