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四生の盲者日記

妄想による愉快な国際時事ネタ解釈

季節というもの

2002-05-24 22:36:40 | エッセイ
 文面はうろ覚えであるのだが、魯迅に「北京には夏と冬しかない」という文章を記憶している。
 魯迅の、例えば『故郷』『狂人日記』といった、自国民に歯ぎしりしているような小説を読んでいると、思わずなにかの隠喩だろうかと勘繰りたくなる。が、上記の文章はあくまでも随筆のようであったので、誉め言葉でもけなし言葉でもないだろう。
 魯迅の故郷である紹興、を含む江南地方では割合に四季がはっきりしている。そういった場所で生まれ育った人間にとって、北京はまさに「夏と冬しかない」土地に思える。
 85年から4年間、筆者は北京に滞在していたが。昨日までほおを切るようだった寒風が、今日は熱風になっている、といったような季節の反転には、最後までとまどった覚えがある。
季節感から言えば、北京には極寒と酷暑というはっきりとした季節があり、逆にわかり易い。

 季節感の無い土地―――――――。
 より正確に書くならば、四季がはっきりしている土地にたまたま生まれ育った人間にとって季節の変化を捉えづらい土地、といった場所の方が地球の表面積からするとそうでない場所より多そうであるが、多分の偏見を交えて書くならば一年中寒いか、一年中暑いかの2種類がある。
 それでも、一年中寒い場所には「多少暖かくなったかな」程度の季節感はあるらしい。
 もともとそういった土地は、ヒトが暮らしやすい場所ではないので、他所者にとっては「なんか最近そんなに寒くない」程度でも、その土地に暮らす人々の季節感を満足させるに充分であろう。
 もっとも、寒い土地での「比較的暖かな」季節とは、季節感を味わうためだけのものでは決してない。
 ヒトという種が発生したのは、反対に一年中暑い場所だろうといわれている。
 そういった土地でも地理学的に季節はあることになっており、「雨がよく降る、あまり降らない」で季節を分けている、らしい。
 眉唾である。
 そもそも、中学校の教科書で習う「世界の気候」などというものは、比較的季節のはっきりした土地に生まれ育った連中が、自分等の都合よく区分する為に勝手に付けたものであり、そこに住んでいる人間は季節など考えた事もないと筆者は断言する。
 理由ははっきりしており、一年中暑い場所はヒトが生きていくのに適しているからである。遊んでいても生存できる、といってもよい。
 生活、極論すれば生命、に影響を与えうる環境の変化、に対してヒトという種は学習、適応能力をもっている。これはヒトに限ったことではなく、現在の時点で地球上に生存している全ての生物は、結果論として環境の変化に適応してきたからこそ今そこにいるのだといってよい。
 対偶として、絶滅した種はなんらかの形で(変化が急激すぎる、種としての適応能力に不足があるなど)環境の変化に適応できなかった、となるが。これは水槽の淡水魚を海に放すなどという無益な殺生をせずとも、水をはった洗面器に顔を突っ込んでみればすぐに体感できる。
 季節という環境の変化が生活に影響を与えうる、からこそ季節の変化を認識しなければならないのであって、一年中暑い場所においては降雨量の過多程度では衣食住に困ることはなく、そもそも季節を分ける必要がない。ヒト以外の種はもっとあからさまで、年に一回しか発情しないはずの犬猫も、一年中発情している。あえて尾篭な表現をすれば、まさに365日朝から晩までさかっている。
そのような土地に生まれ育った人間が季節を認識できるとは、筆者には考えられない。もっとも、当人達にしてみれば「生活に困らないのならば、別にいいじゃないか」となるのだろう。

 地球が球形でありかつ自転軸が公転面に対して傾いているため、地域によっては地球の公転軌道上の位置関係から(すなわち年間を通して)、単位面積・時間あたりの太陽熱輻射量に過多が生じ気温が上下する。(くどいようだが)地球上の地域によっては、この気温の上下はおおまかに四分できるので、それぞれに名前をつけたものが季節といえる。
 確かに、季節を認識する必要のない地域に生まれ育った人々が、それを認識できないのは彼等の責任ではないし、他所者の筆者が口をはさむ事柄ではない。なんといっても当人が困らないのだから。
 地球は、1周公転する間に365.25回自転する。1回自転する間が1日であり、1日を12の2倍で分割したのが1時間、更に12の倍数で分割していったのが1分であり1秒である。
 余談だが、なぜ12かというと1日を分割する事を思い付いた人間、または連中、の片手の指が6本だったからだろうと考えている、根拠はまったくなく妄想に限りなく近い。
 季節を認識する必要のない地域における時間感覚は、地球の公転というより自転が基準となる。つまり、暗いか明るいかの区別しかつけられない。
 そこでの一生とは、生まれてから死ぬまで、一年単位の繰り返しで年をとっていくものではなく、今日と同じ明日が永遠に続いていく錯覚にすぎない。
 そこに生まれ育った人々は、それでも困ることはない、むしろ幸福である、なんといっても年をとる気がしないのだから。
 季節感のはっきりしている地域に生まれ育った人が、そういった場所にいくとその錯覚はより大きいものになる。雪が降るとか、梅雨があるとかのステレオタイプではなく。一年を通して窓外の風景は変わらない、風が変わるわけでもない、渡り鳥が姿を見せるわけでもなく、虫が鳴き始める事もない。
 判でおしたような毎日が強制的につづく環境。
 そのような環境に放りこまれた、季節感のはっきりしている地域に生まれ育った人は、よほど気をつけていても季節感を喪失し、やがては年、月、週単位の時間感覚までをも、浦島太郎のように喪失していくのである。
 一年中暑い場所の紫外線は、当然ながら強烈である。それは当人の錯覚など関係なく、露出した肌を焼く。
 環境の変化に対して、ヒトという種は適応能力をもっている。
 強烈な紫外線に適応した結果としてメラニン色素が増え、皮膚は厚みを増して硬化し、毛穴は全開となる。しみ、皺が増え、毛穴が目立つようになるといってもよい。
 一言でいって、老ける。当人の錯覚はどうであれ。

 まさに浦島太郎である。

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