白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年六月二〇日(1)

2017年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年六月二十日作。

(1)測りを取り出す隅の暗さを拭き取る

(2)醒めた目がまた右後ろに黙って見て居る

(3)夏日を病んでゆく一人

(4)悔やめばますます深淵の深さ

(5)貼り付いた無表情が歳を重ねる

☞何日も同じシーンばかり繰り返されているような気がする。特にテレビ報道。しかしなぜそういうことになるのか?「ご意向」にせよ「忖度」にせよ。それが可能なのはなぜか?人々はどのような仕組みに従うことで「ご意向」なり「忖度」なりを実現するのか。あるいは実現しないのか。レーヴィットから。

「ひとは《他者》についてはひどく適切な性格づけを与える一方、じぶんがそのことで自身にかんしてどのように言いあて、じぶんを共に=性格づけているかは、そのさい注意しない。経験的によく知られているこの事実は、まったく一般的に、他者についての知識がじぶん自身への非明示的な顧慮から得られることにもどづいている。じぶん自身について他者から、他者にかんしてはじぶん自身をもとに知り、評価することを、たいていの場合ひとは気づかない。だからこそ、第三者からみれば、他者をめぐる評価のうちには、評価する者自身が映しだされているのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.187」岩波文庫)

「他者の評価にかかわるこうした諸刃のありかたは、とはいえ、他者との関係における各人固有のふるまいが有する《原則的な両義性》の、ひとつの特殊例にすぎない。その両義性は、もっとも日常的で非拘束的な関係にはじまり、排他的な関係の崇高な弁証法から帰結する、多少なりとも喜劇的な悲劇にいたるまで共同相互存在を支配して、突然、<私のもの>と<きみのもの>との、解きがたい取りちがえと取りかえまで昂進する。自己中心主義から他者中心主義的な装いという仮面を剥がすこころみは、しばしばくわだてられる。その試行は、けれども、自己中心主義の慎ましく偽装された装いのうちに、ひどく極端な無私性を発見するという、くわだてらることの稀なこころみ以上に原理的にいって見こみのあるものではない」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.188」岩波文庫)

「いくつかの慣用句が、<私>と<きみ>のあいだのこの原則的な弁証法を暗示していよう──その詳細なテクストは、日常的な生の関係によって各人に与えられる。『私はこれ以上《きみを》引き留めらくありません』とはすなわち、事情によれば同時にあるいは主要にはまた、《私は》これ以上きみに引き留められたくない、である。『《私は》これからもう一度じぶんの仕事にとりかからなければならない』とはすなわち、事情により同時にもしくは主としてまた、《きみが》もうひとりでいたいと思っているのは分かっている、である。『《きみには》だいたい明日なにかやることがあるのか』とはすなわち、事情によって同時にあるいはおもにまた、《私は》もともと~をやるつもりだった、であり、『《私は》もともと~をやるつもりだった』は、事情によればさらにあるいはまた主要には、《きみが私といっしょに》~をやると私はもともと思っていた、を意味する。『私は近々Xに二週間旅行するだろう』は、事情によれば同時にあるいは主要にはまた、《きみは》ちょうど二週間ひとりでいることができる、であり、意味されているのは、事情によってさらにあるいはまた主要には、だから《きみは》しばらく《Yと》ふたりでいることができる、である。後者は、だが事情によればさらに、だから《私はYとは》いっしょにいなくてもよい、を意味するのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.188~189」岩波文庫)

「他者を励ますことでひとはじぶん自身を元気づけ、他者に忠告することでじぶん自身に訓戒を与える。じぶん自身に責めを負うことで他者を許し、他者に自由を与えて、自身が他者から自由になる。他者からじぶん自身を解放することで、他者にその自由を返還する。じぶんが妻にとってふさわしい夫ではないと妻に宣言し、そのことで妻に、妻がじぶんにふさわしい妻ではないと宣言する。他者を批判してじぶん自身を正当化し、他者を正当化することでじぶん自身を批判する。他者を攻撃して、そのことでじぶん自身を防御する。第三者に反対して第二の者を護り、じぶん自身を顧慮してこの第二の者を護る等々である」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.189~190」岩波文庫)

「この両義性は、《相互のさまざまな関係》にもかかわっている。《関係が関係にそくしていること》は、人間的生のあらゆる叙述における非明示的な動機なのである。AとBが一時的に互いに遠ざかることで、遠ざかった両者のそれぞれがふたたび近づく。第三者に対する両者共通の反感によって、両者相互の共感が強化される。Xに対する両者の関係が悪化するとともに、Yに対するかれらの関係が──偶然ではなく──改善される。第三者を『犠牲にして』たいていは二者間の了解がなりたち、かれらはいわば『その点で』互いに出会う。二者の一方が第三者と知りあうことで、第一の者に対するその者の根源的な関係が変化する。子どものひとりを偏愛すれば、他の子どもへの愛は減少し、一方の者を賞賛することが他方を非難することを意味する。『第三者』がたんにくわわることで、どのような場合でもすでに、一者の他者への関係はあらかじめ変容することになる等々である」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.190」岩波文庫)

「決定的な《アクセント》がそのつど──一方の者自身か、あるいは他方の者か──どちかに置かれているかは、多くの場合あとからはじめて示される。それまで通用していた関係規定が破綻して、はじめて示されるのだ。ひとつの関係がある変化をこうむるとき、一方の者のふるまいがその関係にそくしたものでなくなるのは、まさに一方の者のふるまいがつねにすでに、関係に-そくして他方の者に対して同調しているからである。ふるまいは、いまやその根源的な意味を喪失する。ふるまいは他方の者の期待されるふるまいに向けられていたのであるから、正当でないもの、調子の合わないものとなるのである。いっさいの具体的な関係にとって決定的なこうしたアクセントの問題については、とはいえこれ以上、形式的なかたちでは解明されない。だから範例によって直観的な理解を与えることが必要である」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.190~191」岩波文庫)

「Aが、Bの出かけるコンサートのチケットの世話をした──ただしそれはもともと、コンサートのあとでBをXへと連れてゆくためである、とする。コンサートのまえに、同伴できないことがあきらかになる。そこでAは、コンサートへは出かけないことにする。出かけない動機についてBから尋ねられたとき、Aにとって、つぎのように答える可能性が開かれている。つまり(1)Bが同伴を必要とする場合だけAは出かけた、と答えるか、(2)《かれが》(Aが)Bを同伴することができれば出かけた、と答えるかである。このふたつの答えのちがいに、関係について問われるべきことが両義的なしかたで表現されている。しかも、アクセントが(1)においてはBにあり、(2)にあってはAにあることによってである。両者は『正しい』答えである。とはいえ第二の答えのほうが、方向を-与えるアクセントという意味で率直な答えである。そのかぎりで見てとられうるのは、(1)のばあい同伴者(A)が(Bを)同伴することが不明確となり、さらにはBの側を強調することでじぶんは陰に隠れうることである──本来のアクセントは、Bをだれかが同伴することにではなく、《じぶんが》同伴することにあるにもかかわらず、あるいはまさにそれゆえに、である。関係に-そくして問題なのは、Aにとっておもに関心があったのが、《じぶんが》Bを同伴することができることであったか、あるいはBが同伴されることであったか、である。(1)の答えはまちがいではない。むしろことばどおりには正しいけれども率直ではなく、その意味において真実ではない。Aはその答えによって、あたかもじぶんが『Bのために』だけ、コンサートに出かけたり、出かけなかったりしたかのような見かけをつくり出すことができるからである。じっさいAはたしかに、『Bのために』も出かけたり、Bのために出かけなかったりもしただろう。だが関係に-そくして(両義的に)、すなわち同時に《じぶん自身のために》、Bのありうべき同伴者として、そうしたのだ。こうした関係にそくしたありかたが強調されるのは、Bにはおよそ同伴する者が、あるいはじぶんという同伴者が欠けていることへの配慮においてではない。《じぶんには》Bを同伴することが-できない、という配慮においてである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.191~192」岩波文庫)

「関係の原理的な構造は、かくてつねに、《一者》のふるまいが《他者》によってともに規定されていることにある。ふるまいは相互再帰的なありかたにおいて再帰的なのである。他者に対する一者の関係を度外視すれば、一者がなすことのすべては理解できない。一者は閉ざされた《個人》としてすべてをなすのではなく、《ペルソナ》として、すなわち或る『役割』を有した者としていっさいをなすからである。一者が『私たち』という意味では明示的に語ったり、行為したりしない場合であっても、一者の役割は、他者への関係によってすでにそれ自体として、一者に割りあてられているものなのである。両義性は、第二の者である他者への関係から、一者のふるまいもともに規定されることから生じる。この両義性はさらに、それ自身によっても変容してゆくことになる」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.193」岩波文庫)

「両義性が回帰するのは、ひとがかかわる者がそれ自身またその者自身にかかわるからである。一者のふるまいにもとづいて、他者はその者に立ちかえる。こうした往還、ふるまいにおけるこの《交替》は、とはいえその意義からして、両者のふるまいが《代わる代わる》一方から他方へ移されてゆくことには還元されず、それぞれのふるまいを、それ自身においてあらかじめ変容させている。一者のふるまいが他者のふるまいを目ざしている場合、他者のありうべき応答的なふるまいをあらかじめ見こして、一者は他者にふるまっている。他者が一者自身へと立ちかえることが、一者の意図的な立ちかえりにはじめから先んずる傾向を動機づけているのだ。じぶんのふるまいは、したがってたんに、他者《に》向けられているばかりではない。同時に他者に《したがって》いる。ふるまいは、あらかじめ他者にあわせて裁断されているのである。他者に対するじぶんのふるまいにふくまれる、原初的な両義性が回帰するのは、したがって、一者が(他者に対して)みずからふるまうさいに《関係に対して関係する》からである。ふるまいにおいて関係に対して関係するとは、私に対する他者のありうべきふるまいを、私があらかじめ考慮に入れて、或る他者に対してふるまっていることを意味する。この構造は、理論的にはかくも技巧的にきわだったものとも見えようが──事実的なさまざまな関係がそのことで必然的には明瞭なものとはならないとしても──、その構造は日常的に自明なかたちで習熟され、遂行される。一者が他者をすでに知っていると信じている場合にはいつでも、期待される他者の反応へと先だって回帰しながら、一者は他者に対してそれとは知らずにふるまっているのだ」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.193~194」岩波文庫)

「『互いに対して焦点を合わせている』ふたりが交わす討論ではすべて、他方が可能な一定の答えをじぶんに与えることをまえもって推測しながら、一方はあらかじめ他方に対して語りかける。語りかけるときには、他者のありうべき反駁に対してじぶんの側ですでに反論している。だから、討論する者たちが互いに対してより焦点を合わせるほど、状況によってはそれだけただちに、論拠がいわば戦線を交替するという独特な現象が展開する。この交替は、討議の相互的なありかたが、一方と他方の立場の交替と混同へまで高まったことのあかしである。そのばあい討議の終わりには、各自が最初はその論拠で相手を打ち負かそうとしていたまさにその論拠によって、各自は撃ちぬかれることになるだろう」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.194~195」岩波文庫)

「各自が最初はその論拠で相手を打ち負かそうとしていたまさにその論拠によって、各自は撃ちぬかれることになる」、というわけだ。しかし審議過程の終わりはいつも同じだ。「撃ちぬかれることになる」のは常に既に野党である。というのも議案はその内容がどのようなものであるにせよ形式民主主義の原則に則って多数決で決められるより他に手段がないからだ。その意味では野党もまた与党の太鼓持ちの役割りしか果たすことができていないと言うほかない。


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