白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/物語化圧力への抵抗

2020年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
民話や説話の特徴として、やや大きな村落共同体になると、別々の話が一連の大きな物語として一貫性を持ってきてしまう傾向がある。柳田國男「遠野物語」にはそれが顕著に見られる。一個のやや大きな言語共同体といってもいい。そこでは各々の説話に特有の微細な差異が覆い隠されてしまい、同調圧力が働き、どれも同様の起承転結を持った一種の説話として一括りになってしまう。熊楠はそのような差異の抹消という面を特に警戒した。極めて微々たる違いが問題になるような際、微々たる違いとはいえ、違いそのものが同調圧力によって覆い隠されてしまっていればもうそれは民俗学研究の素材としては使えなくなってしまうからである。熊楠はいう。

「柳田〔邦男〕君の『遠野物語』八七と八八に、大病人の死に瀕せる者、寺に詣る途上知人に遭い、次に寺に入って僧に面し茶を飲んで去ったが、後に聞き合わすと、その時歩行叶わず外出するはずなく、その日死亡したと知れた話二条を載す。いずれも茶を飲んだ跡を改むると、畳の敷合せへこぼしあったとあり」(南方熊楠「臨死の病人の魂、寺に行く話」『南方民俗学・P.285』河出文庫)

柳田による該当箇所に目を通してみよう。第一に。

「人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にして、主人大煩いして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺(ぼだいじ)に訪い来たれり。和尚(おしょう)鄭重(ていちょう)にあしらい茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せにやりしに、門を出でて家の方に向い、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体(てい)なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態(ようだい)にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶碗を置きし処を改めしに、畳の敷合せへ皆こぼしてありたり」(柳田國男「遠野物語・八十七」『柳田國男全集4・P.51』ちくま文庫)

第二に。

「これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺(じょうけんじ)は曹洞宗にて、遠野郷十二ヵ寺の触頭(ふれがしら)なり。ある日の夕方に村人何某という者、本宿より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をしておる者なれば、いつの間によくなりしやと問うに、二、三日気分もよろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりしゆえ出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失(う)せたり」(柳田國男「遠野物語・八十八」『柳田國男全集4・P.51』ちくま文庫)

どちらもよくある民俗説話としてひとまとめにしてしまえる形態を取っている。死んでいるか死ぬ直前のはずの人間が別の場所に元気な姿で出現したという、極めてありがちな話である。たいそう奇妙な奇跡ででもあるかのように思える。ところがこの二つの話はどちらも「遠野物語」が出版された一九一〇年(明治四十三年)に収録されたというばかりでなく、どちらの説話も同様の文体で描かれている点に注意する必要性があるだろう。幻覚を見たというのならわかる。むしろ幻覚ならより一層理解しやすい。同一価値観のもとに置かれた村落共同体では少しばかり類似した話が二つ揃うやたちまち二つが一つの説話へ統合される傾向があるからである。さらに当時はようやく近代日本社会というものが出現した頃でもある。政府主導による言文一致運動が始まって二十年ほど過ぎた頃だ。同一言語の使用という制度は、あたかも今のマスコミのように、別々の違った話を一瞬にして同一化してしまい、両者に間にある微々たる差異を忘れさせてしまう機能を持つ。そこでさらに、ここで柳田が挙げている二つの説話は、日清日露両大戦に勝利した大日本帝国が日本国民の霊魂不滅を高らかに歌い上げようとしていたちょうどその時に、政府の側からは願ってもない大和魂不滅神話へといともたやすく接続されてしまう。時期が悪かったとか言ってみても歴史を変えることはできない。かといって柳田國男に責任があるわけでもまたない。一方、熊楠はこれら説話をどう考えたか。茶に着目した。

「熊野では、人死して枕飯を炊(かし)ぐ間に、その魂妙法山へ詣で、途上茶店に憩いて食事をし、畢(おわ)りて必ず食碗を伏せ茶を喫まずに去ると言い伝え、したがって食後腕を伏せたり茶を呑まなんだりするを忌む。よって考うるに、以前病人死ぬ直前に寺に行って茶を喫み、死後は飲まぬという説が広く行なわれたのが、分離して後には別々の話となったものか。また拙妻の父は闘鶏(とりあわせ)神社(県社、旧称田辺権現)の神主だったが、この社祭礼の日は近郷の民にして家内に不浄の女ある者来たって茶を乞い飲んだ。その縁(つて)のない者は、田辺町のいずれの家にても不浄の女のない家に来て茶を乞い飲んだ。かくせずに祭礼を観ると、馬に蹴られるなど不慮の難に罹る、と話した。これらから見ると、仏教または両部神道盛んな時、茶に滅罪祓除(ふつじょ)の力あると信ぜられたらしい」(南方熊楠「臨死の病人の魂、寺に行く話」『南方民俗学・P.285~286』河出文庫)

日本列島に茶が輸入されたというだけでなく、茶の主成分であるカフェインの効果に着目し、有効活用され始めたのは、「仏教または両部神道盛んな時」だった。と、脱構築する。実際、茶の持つ覚醒効果に着目して鎌倉幕府第三代将軍源実朝が抱えていた鬱状態を和らげ、幕府に近づくことに成功したのは茶の開祖・栄西である。栄西は臨済宗の「仏教徒」である。中世の始まりの頃、戦乱で列島各地が滅茶滅茶になり不安が不安を呼び起こしていく時代に茶の効用を説いた宗教者だった。茶が注目され始めた時期、すなわち「仏教または両部神道盛んな時」だったのだ。

そもそも茶の輸入以前に茶を飲み残したとか百杯飲んで帰って行ったとかいう説話は成立しないし成立しようがない。そういう微細な違いを時として一緒くたにしてしまう柳田に対して熊楠は何とも言いようのない警戒感を示していることが見て取れる。例えば、「源氏物語」に「橋姫」の巻がある。宇治川を渡る橋の周囲には様々な女性が往来し参集していただろう。しかし「橋姫」は「源氏物語」成立以前には一人もいない。「橋姫」は源氏物語が書かれ、二人の姫君の一方が琵琶を、もう一方が琴の音を奏でて始めて出現したのである。

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熊楠による熊野案内/神事としての耳塚

2020年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
耳塚の意味に関し熊楠は柳田國男との相違を見せている。

「『郷土研究』三巻に、柳田國男氏、耳塚の由来を論じ、人間の耳は容易に截り取り、はるばると輸送もできまじければ、耳塚というものは多くは人の耳を埋めたでなかろうということで、奥羽地方の伝説に獅子舞同士出会い争闘して耳を切られたというから、京都大仏の耳塚も獅子舞の喧嘩で取られた獅子頭の耳か、祭に神に献じた獣畜の耳を埋めたのを、後年太閤征韓に府会したのであろう、太閤は敵の耳や鼻を取って来いと命ずるような残忍な人ではない、諸方に存する鼻塚も人の鼻を取って埋めたでなく、花塚または突き出た端(ハナ)塚の意味であろう、というように言われた。これは実にはなはだしい牽強で、養子やその妻妾を殺して畜生塚を築き、武田を殺してその妻を妾とし、旧友だった佐々の娘九歳なるを磔殺にしたほどの人が、たといときとして慈仁の念を催すことなきにあらざりしにせよ、敵を殺しもしくは殺す代りにその耳鼻を取らしむるくらいのことは躊躇すべきや」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.251~252』河出文庫)

柳田の主張とは別様に、秀吉による耳切(みみきり)劓(はなそぎ)ばかりが残酷だとは限らない。世界史はもとよりのことだ。ヘロドトスはいう。

「スキュタイ人は最初に倒した敵の血を飲む。また戦闘で殺した敵兵は、ことごとくその首級を王の許へ持参する。首級を持参すれば鹵獲物の分配に与ることができるが、さもなくば分配に与れぬからである。スキュタイ人は首級の皮を次のようにして剥ぎとる。耳のあたりで丸く刃物を入れ、首級をつかんでゆすぶり、頭皮と頭蓋骨を離す。それから牛の肋骨を用いて皮から肉をそぎ落し、手で揉んで柔軟にすると一種の手巾ができる。それを自分の乗馬の馬勒にかけて誇るのである。この手巾を一番多く所有する者が、最大の勇士と判定されるからである。またスキュタイの人の中には、剥いだ皮を羊飼の着る皮衣のように縫い合せ、自分の身につける上衣まで作るものも少なくない。さらにまた、敵の死体の右腕の皮を爪ごと剥いで、矢筒の被いを作るものも多い。人間の皮というものは実際厚くもあり艶もよく、ほとんど他のどの皮よりも白く光沢がある」(ヘロドトス「歴史・中・巻四・六四・P.45~46」岩波文庫)

アルトーはこう述べる。

「ヘリオガバルスの全生涯とは、現動化するアナーキーである、というのも、『一者』と『二者』という敵対する両極、男と女を寄せ集める統一の神であるエラガバルスは、矛盾の終わり、戦争とアナーキーの消去であるが、同じく、この矛盾と無秩序の大地の上では、アナーキーを作動させるものでもあるからだ。そしてヘリオガバルスがおし進める地点におけるアナーキーとは、現実化された詩なのである。どんな詩のなかにも本質的な矛盾がある。詩とは、粉砕されてめらめらと炎をあげる多様性である。そして秩序を回復させる詩は、まず無秩序を、燃えさかる局面をもつ無秩序を蘇らせる。それはこれらの局面を互いに衝突させ、それを唯一の地点に連れ戻す。すなわち、火、身振り、血、叫びである。その実在そのものが秩序への挑戦である世界のなかに詩と秩序を連れ戻すことは、戦争と戦争の永続性を取り戻すことである。熱烈な残酷さの状態を取り戻すことであり、諸事物と諸局面のアナーキーを取り戻すことであるが、それら事物と局面は、統一性のなかにあらためて沈み込み、融合してしまう前に覚醒するのである。この危険なアナーキーを目覚めさせる者はつねにその最初の犠牲(いけにえ)である。そしてヘリオガバルスはひとりの熱心なアナーキストであり、まず自分自身を貪り食らい、最後に自分の糞便を貪るのだ。私はヘリオガバルスのなかに敏感なひとつの知性を見てとるが、それはそれぞれの事物とそれぞれの事物との出会いからひとつの観念を引き出す。この男は、ローマのヘラクレス神殿の階段で火をつけさせた竃のなかに儀式の品々を投げ込みながらこう叫ぶ。『《これだけが、そう、これだけがひとりの皇帝にふさわしいのだ》』、と」(アルトー「ヘリオガバルス・第三章・アナーキー・P.157〜158」河出文庫)

日本史に限ってみても、とりわけ戦国時代になってから、耳切(みみきり)劓(はなそぎ)、斬首強姦は盛大に行われてきたと熊楠はいう。

「純友が藤原子高を捕え、截耳割鼻、その妻を奪い将れ去り、平時忠が院使花方の頬に烙印し鼻を殺ぎ、これは法皇をかくし奉るという意を洩らせるなど、敵を耳刂劓(じぎ)することむかしよりあったので、戦国に至っては戦場で鼻切ること、すごぶる盛んなりしあまり、何の高名にもならぬ場合多かりしよう、『北条五代記』巻三に見え、信長、長島城を攻めし時、大鳥居累を陥れ斬首二千人、その耳鼻を城中へ贈り、斎藤道三はその臣下に討たれて鼻を殺がれた」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~253』河出文庫)

さらに熊楠は寺石正路の記録を引きつつこう述べる。

「耳塚は晒し物の主意にあらず、供養のものたりと知る。耳塚と申せしは、言葉の語路宜しきにや、また他の耳塚の名に慣れてや、『都名所図会』的の命名なり。実は鼻塚と申すべし」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.252~254』河出文庫)

戦国時代には当たり前だったと述べた、その上で、秀吉の耳塚に関し、「武道に取って尋常事」とし同時に「その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあった」とする。

「秀吉も時節なみに敵民を耳刂劓するを武道に取って尋常事と心得、諸将に命じて左様させたが、その耳鼻を埋めて弔い遣るだけの慈心はあったと判る」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.254』河出文庫)

熊楠のいう「弔い遣るだけの慈心」。それは古代ギリシア神話の時代から受け継がれてきた《信仰》というに等しい。それとの類似関係について柳田はあまり意識的であると思われない。ところが柳田は、その無意識ゆえ、ふいに興味深い文章を連ねている。

「伴蒿渓(ばんこうけい)の『閑田(かんでん)次筆』の節によれば、耳塚築造の事例は前後三度あったという。太閤(たいこう)秀吉の前には八幡太郎義家が奥州征討の獲物をもって河内国に耳塚を築きかつ耳納寺を建立した。それが第二である。筑前糟屋(かすや)郡香椎(かしい)村大字浜男(はまお)の海辺に一の耳塚がある。神功(じんぐう)皇后三韓征伐の御帰途に作らせたものというそうで、しからばそれが最初である」(柳田國男「耳塚の由来について」『柳田國男全集15・P.549』ちくま文庫)

柳田は歴史的資料をただ時系列的に列挙したまでのことだ。しかしその流れを見るとただ単なる軍事行為というだけでは括りきれない《神事》でもあったことが浮上してくる。日本書紀の記述で神功皇后の新羅征伐において様々な不可解な記述が盛り込まれているのもその一つである。なぜか船上で産気づく。天皇あるいは歴史に名を残す才人が生まれる時、その状況は常に「異常出産」でなければならないというモチーフを踏襲している。

「時に、適(たまたま)皇后(きさき)の開胎(うむがつき)に当(あた)れり。皇后、則ち石(いし)を取(と)りて腰(みこし)に挿(さしはさ)みて、祈(いの)りたまひて曰(まう)したまはく、『事(こと)竟(を)へて還(かえ)らむ日に、茲土(ここ)に産(あ)れたまへ』ともうしたまふ。其の石は、今(いま)伊覩県(いとのあがた)の道(みち)の辺(ほとり)に在(あ)り。既(すで)にして則ち荒魂(あらみたま)を撝(を)ぎたまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)とし、和魂(にぎみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎮(しずめ)としたまふ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政前紀・P.146~148」岩波文庫)

このとき生まれたのは後の応神天皇。さらに出産だけでなく新羅征伐の戦闘行為で血塗れになっているため、紀州熊野まで大きく迂回するルートを取ってようやく都入りを果たす。熊野はその頃すでにミソギの地として忘れてはならない神域だった。

「時(とき)に皇后(きさき)、忍熊王師(おしくまのみこいくさ)を起(おこ)して待(ま)てりと聞(きこ)しめして、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命(みことおほ)せて、皇子(みこ)を懐(いだ)きて、横(よこしま)に南海(みなみのみち)より出(い)でて、紀伊水門(きのくにのみなと)に泊(とま)らしむ」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.158~160」岩波文庫)

紀伊国のあちこちをうろうろしているのはそのためである。

「皇后、南(みなみのかた)紀伊国(きのくに)に詣(いた)りまして、太子(ひつぎのみこ)に日高(ひたか)に会(あ)ひぬ。群臣(まへつきみ)と議及(はか)りて、遂(つひ)に忍熊王を攻(せ)めむとして、更(さら)に小竹宮(しののみや)に遷(うつ)ります」(「日本書紀2・巻第九・神功皇后摂政元年二月・P.160」岩波文庫)

新羅(しらき)は倭(やまと)に朝貢することを余儀なくされたが、その理由の大きな根拠はむしろ倭の側にあり、「新羅(しらき)」=「神の坐す白い国」という信仰が根強くあったことと関係している。その意味で軍事的な侵攻を意味するだけでなく、軍事行動がただちに「神事」の成就として成立させられなければならないという強迫神経症にも似た慌ただしさを含んでいるのであろう。その後で斉明天皇もまた朝鮮半島へ出兵しているが、そのときは既に新羅は唐の軍隊に占領され、残された百済救出行動となって再現されることとなった。これもまた東アジアの中で「神域」とされる地域の僅か一部であれ、倭国に編入させておかねばならないという神経症的軍事行動の様相を呈して見られる。

「是歳(ことし)、百済(くだら)の為(ため)に、将(まさ)に新羅(しらぎ)を伐(う)たむと欲(おもほ)して、乃(すなは)ち駿河国(するがのくに)に勅(みことのり)して船(ふね)を造(つく)らしむ。已(すで)に訖(つくりおは)りて、続麻郊(をみの)に挽(き)至(いた)る時(とき)に、其(そ)の船(ふね)、夜中(よなか)に故(ゆゑ)も無(な)くして、艫舳(へとも)相反(あひかへ)れり。衆(ひとびと)終(つひ)に敗(やぶ)れむことを知(さと)りぬ。科野国(しなののくに)言(まう)さく、『蠅(はへ)群(むらが)れて西(にし)に向(むか)ひて、巨坂(おほさか)を飛(と)び踰(こ)ゆ。大(おほ)きさ十囲(といだき)許(ばかり)。高(たか)さ蒼天(あめ)に至(いた)れり』とまうす。或(ある)いは救軍(すくひのいくさ)の敗績(やぶ)れむ怪(しるし)といふことを知(さと)る。童謡(わざうた)有(あ)りて曰(い)はく、まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが」(「日本書紀4・巻第二十六・斉明天皇六年十月~七年正月・P.366」岩波文庫)

というふうに。

ところで秀吉はいったん天下取りとなっており、京の都ではまったくの敵なし。「見せしめ」とか「晒し物」とかを用意する必要はもはやない。にもかかわらず膝下の東山五条の地を選んでわざわざ耳塚を築かせたのにはもっと多くの、あるいは《別の》理由があったと考えられないだろうか。意外と気の小さい秀吉は「神事」として、俗語でいう「神頼み」として、耳塚を築いたと考えられないだろうか。少なくとも全国各地に耳塚や鼻塚があった時代、直径の後継者としての子供に恵まれなかった秀吉が軍事ばかりでなく、神功皇后のエピソードにならって「神事」としての耳塚(実は鼻だとも)建設に着手したと思われなくもないのである。

また、源平合戦の少し前、源頼義が京の六条西洞院(にしのとういん)に「耳納堂」(みのうどう)を作った、という伝説がある。実際に耳が入っているのかどうかは知らない。ところでこの、京の六条西洞院の「堂」とは何か。

「後白河(ごしらかは)の法皇の長講堂(ちやうがうだう)の過去帳(くはこちやう)にも、『祇王・祇女・仏(ほとけ)・とぢらが尊霊(ソンリヤウ)』と、四人一所に入(いれ)られけり。あはれなりし事どもなり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・祇王・P.29」岩波書店)

源氏か平家か勝利するのはいずれなのかまだ判然としない頃、後白河院が作った長講堂(ちょうこうどう)がそれに当たる。また「六条」といっても何度も戦火に陥り、いまではどれがその長講堂なのかよくわからないところもあるが、当時の「六条」は今の「五条通り」をやや南へ下った地点と考えるのが妥当ではないかと言われている。

なお、山岳地帯を通して熊野と深く繋がっており、宮廷人のミソギの場として有名だった吉野について。「敵に塩を送る」ということわざがある。しかし山地だからといってその必要性は何らない。柳田はいう。

「山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。いったんその便益を解していた者が、これを抛棄(ほうき)したということはあり得ぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実とか若葉と根、または菌類などが多く、生で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽・炭焼の小屋に尋ねて来て、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹(かわがに)を持って来て焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおらぬが、日本では山中に塩分を含む泉いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に逃げ込んだ平地人が、山小屋に塩を乞(こ)いに来た。一握(ひとつか)みの塩を悦(よろこ)んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が『羈旅漫記』(きりょまんろく)かに見えておりました」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.250~251』ちくま文庫)

さらに熊楠は吉野の「国樔(くずひと)」と芸能とを接続して考えられるのではと示唆していた。彼ら「国樔」は山中で何を食していたか。

「十九年の冬十月(ふゆかむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国樔人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて醴酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく、

橿(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作(つく)り横臼(よくす)に醸(か)める大御酒(おほみき)うまらに聞(きこ)し持(も)ち食(を)せまろが父(ち)

歌(うたよみ)既(すで)に訖(をは)りて、則(すなは)ち口(くち)を打(う)ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し。故(このゆゑ)に、京(みやこ)に遠(とほ)からずと雖(いへど)も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然(しか)れども此(これ)より後(のち)、婁(しばしば)参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)を献る。其の土毛は、栗(くり)・菌(たけ)及(およ)び年魚(あゆ)の類(たぐひ)なり」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月~二十年九月・P.208」岩波文庫)

様々あったのだ。

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熊楠による熊野案内/遊女式部と鎌倉陥落

2020年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
かつて生理中の女性が七日間独居するために設けられた小屋を「待屋」(たいや)といった。明治時代の日本ではまだ全国各地に残っていた。熊楠は子供時代にその中の様子を見て痛くショックを受けたといっている。

「吾輩幼児なお熊野辺で待屋(たいや)という小盧を家ごとに別に構え、月事ある婦女は一週間その中に独居した。ーーー今日婦女の衛生処理大いに進み、月事小屋などどの地にも見るを得べからざる世となっては、古人が月水を大いに恐れた意味は到底分からず。したがって米国などには月水を至って清浄神聖なものとする輩すらある由。そんな人に和泉式部が伏拝みの詠などを聴かせても全然真実らしく思わず、言実に過ぎたりとか、ほんの歌詠上の誇張とか評すること必せり」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.248』河出文庫)

このようなことを一九一七年(大正六年)にもなってアメリカ人に話したとて通じないのは当たり前だと述べる。しかもアメリカがヨーロッパから独立したとき既に生理中の女性に関する健康管理方法は随分進歩していたわけなので、ますます理解は誤解へと横滑りしていくに違いないと。

そこでなぜ「和泉式部」の話題が出てくるのか。日本では当たり前のように理解者はばんばん出てくる。ところがアメリカ人に聞かせてもなぜそこで「和泉式部」なのか、戦後の日本文化研究家ならいざ知らず、一九一七年(大正六年)のアメリカ人には理解不可能に違いないと熊楠は言いたがっているようだ。大正時代に至ってなお日本では、生理中の女性の現実生活と「和泉式部」の話題は直結していた。だが世界史の中でもつい最近発生したばかりで込み入った歴史を持たないアメリカ人の中ではこんがらがって意味不明、宛先不明な話題と化す。

柳田國男は「和泉式部と足袋」の中でこう述べている。

「鷲や狼が赤児を持って来てくれたという話は、日本でも古くから各地に語り伝えられているが、それはそのような事実がかつて一度でもあってその経験を不精確にまたは誇張して記憶しているのではなく、むしろ今一段と荒唐無稽なる昔の信仰、すなわち偉人というものが尋常一様の産屋(うぶや)の中からは生れず、往々にして異類の姿を仮りて世に出たものだという神話の、ただ少しばかり合理化して保存せられたものであったことは、今まで集めてみた若干の類例だけでも、おおよそは推論することができるかと思う」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・熊の子・鹿の子」『柳田國男全集10・P.355』ちくま文庫)

歴史に名を残すほどの人物。ここで扱われている和歌なら和泉式部。それも童女の場合なので「白い鹿の子」だと語り伝えられたりした。ところが「鹿の子」だというためには条件がある。それは女性が足袋を履く風習が習慣化した社会になって始めて生まれてくることができる、という条件である。鹿の足先は二つに分かれている。だから実際に鹿の子であろうとなかろうと、あるいは鹿に育てられたのであろうとなかろうと、鹿の側がより一層問題なのではなく、逆に履き物の先が二つに分かれた「足袋」というものが日常生活の中にそこそこ根付いている必要性があるのだ。さらに柳田のいうように、「尋常一様の産屋(うぶや)の中からは生れず、往々にして異類の姿を仮りて世に出たものだという神話」、にふさわしい人物でなくてはならない。和泉式部の場合は「白鹿」。ちょうどそこに当てはまったのが和泉式部であり、子どもの頃から和歌に優れた才能を発揮した一人の女性だった。そして女性である以上、まだまだ衛生環境不十分だった頃の生理とは、切っても切り離せない伝説がまとわりついてくることとなった。

ちなみに和泉式部や小野小町に関する伝説は日本各地にある。数えきれないほど大量にある。生まれた場所や死んだ場所だけでもなぜか複数ある。歌を詠んだ場所を入れると数十は下らないだろう。そのように膨大な式部伝説の中から柳田が取り上げるのは熊野に関する説話である。

「熊野本宮路の伏拝(ふしおがみ)の石塔なども、路傍ではあり苔深く古びていたから、ほとんど信じない者の通行を許さぬくらいであったが、式部が月の障りの歌を詠み権現が塵にまじわるの御返歌をなされたということが、始めて記録せられたのは元応三年の『続千載集』(ぞくせんざいしゅう)である」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・雨乞小町など」『柳田國男全集10・P.374』ちくま文庫)

そう述べる柳田なのだが、しかし「続千載集」に収録されるほどの歌だったかどうかは極めて怪しいと見ている。

「『続千載集』によれば、和泉式部本宮に詣ろうとして、伏拝という処に来て一泊しますと、急に身の様子が変って、奉幣が不可能になりました。そこで次のような歌を詠んだといってあります。

はれやらぬ身にうき雲のたなびきて月のさはりとなるぞかなしき

そうするとその夜の夢に、神自ら御答の歌を御示しになりました。

もろともに塵にまじはる神なれば月のさはりも何か苦しき

この二つの歌は二つとも、作者の名誉のためにぜひ否定せねばならぬほど粗末な歌であります。最も手短かにおかしい点を申しますと、はれやらぬということは意味をなさず、浮雲のたなびくということはありませぬ。また神歌と称する方は、いわゆる和光同塵(わこうどうじん)の意を託したのでしょうが、本末の関係があやしい上に、差支えがないということを苦しからずといったのは、神にふさわしからぬ中代の俗語でありました。従って二首とも偽作ということになり、歌は偽作で事柄だけが真実ということは、あり得ないのであります。実際また熊野参詣の盛んになったのは、和泉式部の頃よりも少し後からであって、あるいはこのような手筒な歌を詠んで身を歎き、さらにまた神から許されたという夢を見た、女の道者もあったか知れませんが、故障のある婦人が参拝を制せられたのは多分一般の作法で、特に名歌の徳をもって、この作者のみが許されたというのが、話の骨子だとしますと、歌がまずければ話にはなりませぬ。どうしてまた堂々たる撰集にこれを載せたかと考えますと、つまりはその当時、もっぱらこの霊夢の奇瑞を談ずる者が、熊野に往来した京の人に多かったためで、それはまた誓願寺の念仏功徳を、熊野の信仰と結び付けようとした、一遍上人の門徒ではなかったかと思います。なお伏拝という地名は遥拝処という事で、伊勢を始めとして諸国の大社の周囲には、何かの理由があって参籠のできぬ者のために、特に幾つとなく設けてありました。女が伏拝に来て信心をするということは、霊山の中腹に女人堂(にょにんどう)というものがあり、女人結界石(けっかいせき)があり、また白山、立山、日光、金北山等の麓に近く、姥石、比丘尼(びくに)岩などがあって、登山困難の口碑が残っていると同じ意味だと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・勅撰集中の伝説」『柳田國男全集10・P.450~451』ちくま文庫)

柳田は資料取集にやや手間取っているように見えるけれども大事な点は押さえている。要するに、重要なのは熊野信仰だからだ。柳田がいうようにこの歌は間違いなく偽作であったとしよう。二条為世撰になる「続千載集」発表は一三二〇年(元応二年)、七年前の一三一三年(正和二年)には京極為兼による「玉葉和歌集」が発表されている。京極派の女性歌人・永福門院はこんな歌を詠んでいる。

「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ」(新日本古典文学体系「永福門院百番御自歌合・一一二」『中世和歌集・鎌倉編・P.413』岩波書店)

烏(からす)の出現。さらに玉葉で爲子はこう詠んだ。

「音もなく夜はふけすぎて遠近の里の犬こそ聲あはすなれ」(「玉葉和歌集・卷第十五・従三位爲子・P.335」岩波文庫)

夜になると犬(いぬ)たちがあちこちで啼いていると。

烏にしても犬にしても「万葉集」に載ったのとは意味がまったく違っている。万葉集に出てくる犬や烏はただそこにいるべくしているごく当たり前の動物として詠まれた。しかし十四世紀前半、「玉葉和歌集」、「続千載集」、などで再登場してきた烏や犬はただそこにいるというよりもなお一層、京の都においてさえ不気味さを増していく不穏な世情の象徴として読み込まれたものだ。永福門院や従三位爲子の歌によって烏や犬は新しく「見出された」のである。

その五十年ばかり前から、親鸞、道元、日蓮、一遍など、日本思想史に残る仏教系哲学者が多く輩出した。戦乱の世に入っていたことは誰もが知っている。ちなみに東京大学理学部人類学教室の鈴木尚は一九五三年(昭和二十八年)五月から一九五六年(昭和三十一年)三月に渡る三回の調査の結果、神奈川県鎌倉市材木座の松林一帯で、人間の人骨計九百十体を発掘した。しかしこれらの人骨は大小三十二箇所に分けて掘られた濠の中に密集状態で埋められていたものだけであり、その多くが武装していることと馬も同様に埋められている様子から、武士階級に限って埋葬されたものだろうと推測された。さらにその特徴からこれら密集した人骨は鎌倉幕府滅亡戦となった新田義貞による鎌倉攻めの残骸であるとほぼ断定された。捕らえられ処刑された武士だけでもそれほどの数に上っている。ということは実際の死者は遥かに多い。太平記に「六千余人」とある。

「血は流れて、湣々(こんこん)たる洪河(こうが)の如し。尸(かばね)は満ちて、塁々(るいるい)たる郊原(こうげん)の如し。死骸は焼けて見えねども、後(のち)に名字(みょうじ)を尋ぬれば、ここ一所(いっしょ)にして自害したる者、すべて八百七十三人なり。この外(ほか)、平家の門葉たる人々、その恩顧を蒙(こうぶ)る族(やから)、僧俗男女(そうぞくなんにょ)を云はず、聞き伝へ、泉下(せんか)に恩を報ずる人々、その数を知らず。鎌倉中(かまくらじゅう)を数ふるに、すべて六千余人とぞ聞こえし」(「太平記2・第十巻・9・相模入道自害(さがみのにゅうどうじがい)の事・P.161」岩波文庫)

荒廃していく世相の中で、歌をもって民衆の苦しみを訴えようとする動きが、特に女性を通して受け継がれることになる。熊野を通過したことで、それらの系列の一つに和泉式部という名が大きく加わったのではと思われる。

熊楠の愛読書「御伽草子」に次の文章がある。

「和泉式部(いづみしきぶ)と申して、やさしき遊女(ゆうぢよ)有り」(日本古典文学体系「和泉式部」『御伽草子・P.312』岩波書店)

これら数々の草子は全国に散っていった熊野比丘尼の「絵解き」を通して伝播していった。

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熊楠による熊野案内/地方政界と橋詰で待つ女

2020年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
大規模伐採の始まりと同時に自然生態系の異変にいち早く気づいた熊楠は東奔西走する。急速に失われていく紀州の自然環境。ところが、よもやと思っていた場所に意想外の希少種が宿っていたことも稀にはあった。

「粘菌ごとき種数の比較的少なき一群くらかくのごとくなれば、藻、菌、地衣、苔、蘚等の種類広大なる諸群について、小生が紀州および十津川で見出でたる数は莫大のものに御座候。たとい小生の創見の新種にならずとも世界中に植物分布の学をなすにおいてはなはだ益あることに御座候。このほか小生一向専心気にとめぬながら、上等植物においても従来四国、九州、また琉球、また熱帯地方にのみ産すと思われたるもので、紀州にあることを見出だしたるものも多く候。たとえばWolffiaと申し、これほどの植物で、世界の上等隠花植物中最小のものと称するものなど、台湾にはあれど本州にあるを知らざりしに、小生紀州和歌浦の東禅寺と申す寺の古き手水鉢の中より見出だし候」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.424』河出文庫)

とはいえ、そのようなことは滅多にない。数えるほどもない。ほとんどの場合、生態系は今の世界的環境変動と同じくほんの些細な例外に過ぎないと思われていた生物の一種が突然大規模な範囲で壊滅していたり、あるいは今のように絶滅危惧種が本当に消滅してしまいもはやどこを探しても見当たらなくなっている、という事態から一挙に広がる傾向を持つ。始めのうちはマスコミも取り上げない。もっともマスコミが取り上げないのは、そのうち自分自身がその犠牲者として死に、あるいは身近な人々もどんどん死んでいくといった実際の現場を目の当たりにするまで気づこうとしないからなのだが。熊楠による次の文章は前にも引用した。

「小生初めこの姦徒より承しは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂(うわさ)によれば文書偽造の廉(かど)なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱(うろん)過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上(かきあげ)中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.381~382』河出文庫)

内容は同じだが二つに分けて述べている箇所もある。

第一に。

「今春三月末中村代議士(敬次郎)内務大臣と会見の結果、本県に制定せる一村一社の制は、大臣の意にも政府の意にもあらざること知れ、また近く古趾、旧林保存等のことを首唱する人多く出で候に、当県は今に合祀と濫滅と絶えず。これはただ県知事や官吏のいを咎むるべきにあらず。騎虎の勢い一旦言い出して、利慾深き村吏、姦民などの乗ずるところとなりたるにて、何とか合祀を全く止めてくれるにあらずんば、これまで紀州に存せし動植物種にして全滅するものはなはだ多からんと憂慮致し候」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.425』河出文庫)

第二に。

「しかして、神社の森にのみ限れる濫滅にあらずして、すでに行政裁判所にて那智の神社と色川村へ下付成りたる那智山林ごときも(前月二十五日勝浦港より来たりし拙弟の酒店の番頭の言によるに)、大林区署よりはいつ切るも宜しとの許可を受けあり、那智滝の水源たる寺山の林木をもことごとく伐り払うはずにて、これを手に入れたる色川村にては二十万円ばかりの利分のうち十二万円は弁護士の酬労に仕払うつもりとのことなり。また中辺路の唯一の林木(拾い子谷〔ひらいごだに〕とて、小生の発見せる南方丁字蘚、友人宇井氏の発見せる紀州シダ等珍物多く、熊野の官道を歩して熊野の林景を見得るはここの外なきなり。その他はすでに濫伐のため全くの禿山にて、熊野諸王子の社は濫併のため一、二を除き全滅なり)、八十余丁と申す。実は六十町に過ぎじ」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.425~426』河出文庫)

次のケースは不遜乱暴極まりない特定の業者が関係の深い地方政界人と繋がりを持っている場合に起こしがちなものだ。今でもしばしば見られ訴訟に発展する。「鳥が巣を作りたる」ことで一部の木の枝が他の枝と少し変わって見える。何千年もの昔から変わらない自然循環の一つだ。ところが伐採目的で呼ばれた業者と地方官吏はそれを「見た目」だけでわざとらしく「枯損木」と決めつけて伐採する。重機を振り回して「わざと乱暴に四方へあてちらし」伐採する。すると周囲の樹木もまたあちこち傷だらけになるため「見た目」ばかりは「枯損木」に見える。そして行政の側はいう。これらもまた「枯損木」ゆえに斬り捨てると。

「小生の舅二年前死亡後の神主、たちまち世話人と申し合わせ、右の健壮の大樟を枯損木と称し、きり尽し根まで掘り売り、神泉全く滅す。小生これを知らず、珍しき健壮大樟の写真とり保勝会長徳川候へ呈せんと六月末に行きしに、右の次第ゆえに大いに呆れ、郡役所へかけあうに、枝の一部に枯損ありしゆえ枯損木なりという。それは鳥が巣を作りたるなり。しかして、この樹を掘り取るとて、わざと乱暴に四方へあてちらし、他のマキ、冬青(もち)等の樹十三本を損傷せしむ。これまた枯損木を作り伐らんためなり。よって甚(いた)く抗議せしに、郡長止むを得ず、件(くだん)の社の社務所より世話人を集め語る。その最中に発頭人(前郡長たりし人)口より涎出で動くこと能わず、戸板へのせ宅へ帰り、五日ばかり樟のことのみ言いちらし狂死す。ほかに今二本の大樟を枯損木と称し、すでに伐採の許可を得たるも、小生見るに少しも枯損の趣きなし、これは残る。また県庁への書上(かきあげ)には、この社の林に樟木二十五本あり、とあり。しかるに小生みずから行き見るに、右の三本しかなし。すべて地方今日のこと虚偽のみ行なわるることかくのごとし」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.392~393』河出文庫)

そこで問題だが、「那智滝の水源たる寺山の林木をもことごとく伐り払うはずにて、これを手に入れたる色川村にては二十万円ばかりの利分のうち十二万円は弁護士の酬労に仕払うつもりとのこと」、とある箇所。結果的にどうなったか。先に述べた通り。

「色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」

当初提示された数万円という額面の誘惑に駆られたため途中から他村のことは別にして官吏の側を支援した。が、その実情は「村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」で泣きを見た。さらに言うまでもなく、売った土地は返ってこない。もし地方官吏に噛みつき、そんな話ではなかったはずでは、と訴訟を起こしたとする。今度は和歌山県庁並びに和歌山県警が前に出てくるだろう。それでもなお食い下がったとしよう。次に東京から派遣された大日本帝国陸軍並びに特高警察が熊野の土地へ堂々と入り込んできてすべての村民は沈黙するほかなくなるだろう。

国策に対して抵抗する勢力がある場合、それら抵抗勢力のあいだに金銭を介して内部分裂を起こさせ、抵抗運動そのものを内部から瓦解させてしまう方法は特に日本だけの特産品というわけでなく先進諸外国ではもはやお家芸だった。一八六七年(慶応三年)生まれの同い年で留学経験もある熊楠や漱石から見れば、そうした日本政府の陰湿な暴力政治が火を吹くのはもはや目に見えていた。それにしてもおかしなのは、熊楠が、熊野の土地は記紀神話の時代から、スメラミコト、何度も繰り返された天皇御幸、歴代天皇のミソギの地、若王子信仰、熊野九十九王子社、など神話時代から皇室と非常に関係が深く、文献を上げて「万葉集」、「平家物語」、「太平記」、後白河院や西行の和歌など様々な面から紹介しても、明治政府は実質的に無視したという事実だろう。

もっとも、全国平均で見て収益に恵まれているとは言えない土地の村民がついうっかり土地買収に乗ってしまうということはしばしばある。

「色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」

そうなってしまえばもう挽回の余地はないに等しい。だから熊楠は「色川村」だけを責めたりはしない。むしろ中央官僚はそういうことを平気でやる連中だと知っていた。さらに熊楠はそもそも政治運動家でない。にもかかわらず政治活動に奔走しなくてはならないような事態に陥っている。肝心の生物学研究に没頭できない事情のため近頃は鬱々して仕方がないという気持ちを述べた書簡を残しもしている。自然生態系の規則正しい循環維持が人間生活にとってどれほど重要な課題か、知っているからこそわざわざ畑違いの政治活動に奔走したのである。

思うわけだが、政治運動に分裂は付きものだ。金銭による買収は今なお問われ続けているけれども止む気配はほぼ一向に見られない。かつて既得権益を持った団体の力が低下すると、低下したぶん、次に勢力を拡大した団体の既得権益へと移動するばかりだ。移動する先にはこれまでと違った新しい儲け話が転がっているからそうするのだろう。そしてかつて既得権益を持った団体が消滅すると同時に次に出てきた団体が既得権益団体化する。これまでそうだったようにこれからもそうだろう。そこで問題になるのは神社合祀問題の渦中で起こった「色川村」の件のように、あらかじめ承諾された進路が何らかの事情のため途中で屈折し、双方ともに損害が発生する場合である。

かつて近江国瀬田の唐橋は東海道の物流の要衝だった。様々な人間が通っていく。その中に京の都での勤務を終えて美濃国へ帰ろうとしている一人の男がいた。唐橋は見晴らしがいい。或る女が立って、往来を見ている。そこへ美濃国へ急ぐ男の姿が目に入った。女は、頼みごとがあるのだが、と男に近づく。

「美濃へ下(くだり)ケルニ、勢田(せた)ノ橋ヲ渡ルニ、橋ノ上ニ、女ノ裾取(すそとり)タルガ立テリケレバ、遠助、怪シト見テ過(すぐ)ル程ニ、女ノ云(いは)ク、『彼(あ)レハ、何(いづ)チ御(おは)スル人ゾ』ト。然レバ、遠助、馬ヨリ下(おり)テ、『美濃ヘ罷(まか)ル人也』ト答フ。女『言付(ことづけ)申サムト思フハ、聞給(ききたま)ヒテヤ』ト云ければ、遠助、『申シ侍リナム』ト答フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.128」岩波書店)

男は女の申し出を気前よく引き受けた。宛先を述べるので、或る「箱」をそこまで持って行ってくれればそこに或る別の女がいるはずだから手渡してほしい、というもの。

「此ノ箱、方県(かたかた)ノ郡(こほり)ノ唐(もろこし)ノ郷(さと)ノ段(きだ)ノ橋ノ許(もと)ニ持御(もておは)シタラバ、橋ノ西ノ爪(つめ)ニ、女房御(おは)セムトスラム。其ノ女房ニ、此レ奉リ給(たまへ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.128」岩波書店)

美濃国には実際「方県(かたかた)ノ郡(こほり)」というところがあった。再編再々編されながらも一八九七年(明治三十年)まで岐阜県方県郡(かたかたぐん)として実在した。しかし「方県(かたかた)ノ郡(こほり)」は実在するしよく知ってはいても、そのすぐ後の「唐(もろこし)ノ郷(さと)」は「異境」を意味する言葉であって、不気味な気がしなくもない。ともあれ、男は下向途中でもあるし引き受けることにして「箱」を受け取り故郷美濃国へ帰った。ところが、ようやく都での勤務を終えた解放感からか、道中、女の頼みごとを軽んじて後に回すことにし、受け取った「箱」だけ家の棚の上に置いて済ましていた。

一方、男の妻は「箱」が気になる。もしや夫が都にいる間に他に好みの女でも出来て、その土産かもといぶかしがる。ここが屈折点だ。夫が出かけているあいだに妻が「箱」を開けて中を覗き込むと、無惨にえぐり抜かれた無数の眼球と陰毛を残したまま斬り落とされた多くの男性器が詰め込まれていた。

「遠助ガ出(いで)タル間(ま)ニ、妻蜜(ひそか)ニ箱ヲ取下(とりおろ)シテ開(あけ)テ見ケレバ、人ノ目ヲ抉(くじり)テ数(あまた)入レタリ。亦、男ノ摩羅(まら)ヲ毛少シ付(つ)ケツツ多ク切入(きりい)レタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.129」岩波書店)

話を聞かされた男は慌てて約束の橋の橋詰へ「箱」を持っていった。言われた通り、或る女が待っていた。女は「箱」の中を改める。と、「見たな」と見抜かれ、女の顔はみるみる凄まじい憤怒の形相に変わり男を睨み付ける。帰宅することはできたにはできたが、男は急な病に犯され死んでしまう。妻は夫を亡くし、もう若くもなく、一人残されるはめに陥ってしまった。

妻はちょっとした嫉妬心から「箱」を開けてみたに過ぎない。が、その中に詰め込まれていたのは計り知れないほど酷い目に合って泣かされた無数の女性らの怨嗟の象徴だった。この、ちょっとした出来心のため、神代から様々な伝統が伝わる土地をいとも安易に売り払い、土地買収の甘い話に乗って結局損をした村民の立場とはそういうものである。なお、「今昔物語」のこの条で注意すべきは嫉妬がどうしたこうしたということだけでなく、最初に「唐橋」の女が言ったようにきっちり「橋ノ西ノ爪(つめ)ニ」持って行ってほしいという点である。というのはそこまでが「唐(もろこし)ノ郷(さと)」=「異境」であって何がどのように屈折するかおぼつかないため、慎重を期して「橋の詰」まで着地すること。橋の上は或る地域から別の地域への境界領域であって予想もつかないことが発生しやすい。だから女性は重要な荷物の場合、必ず「橋詰」で受け取って始めて任務を完了したと見るのである。逆にいえば男性は橋の途中でどんな風の吹き回しから気持ちをころりと変えてしまうかわからない。室町時代になってなお男性に対する信用は激しく下落していたのである。

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熊楠による熊野案内/人柱とは何か・忘れ去られる童子・童女の神聖性

2020年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
髑髏(どくろ)には髑髏(どくろ)を。という形式が安定した敵討ちとして定着するためには両者の等価性があらかじめ前提されていなくてはならない。

「予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬の刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.245』河出文庫)

という作業が対抗措置としての意味を持つのはどのような場合か。いつどのような方法でもよいとは限らない。このような敵討ちの方法が個人的な思想信条だけでなく広く社会的なレベルで意味を持つのは、敵討ちの戦利品として相手方の「馬の髑髏(どくろ)」を自分の家の玄関に飾り付けたその瞬間に限って、である。債権-債務関係に即して考えた場合、より一層大掛かりな方法として「人柱」(ひとばしら)という方法があった。

「『大正十四年六月二十五日』大阪毎日新聞に、誰かが築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。横田伝松氏よりの来示に、大須城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めにされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡史を編んだ人ときくから、特に書きつけておく」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.231~232』河出文庫)

人間は何か目的が計画通りにはかどらない時、神仏に祈ったりする。願を懸けたりする。今なおやっている。

「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)

熊楠は世界中で行われていた人柱の事例を列挙しつつ、日本だけは例外だなどと考えたがるのは思い上がりに過ぎないと喝破する。例えば、次のような話が残っているではないかと。

「『甲子夜話』の、大坂城内に現ずる山伏、『老媼茶話』の、猪苗代城の亀姫、島原城の大女、、姫路城天守の貴女等、築城の人柱に立った女の霊が、上に引いたインドのマリー同然いわゆるヌシとなりてその城を鎮守したものらしい」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.232』河出文庫)

加藤清正の邸宅に残る千畳敷の話題にも触れている。

「日本にも『甲子夜話』五九に、『彦根城の江戸邸はもと加藤清正の邸で、その千畳敷の天井に乗物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。あるいはいわく、清正、妻の屍を容れてあり。あるいは言う、この中に妖怪いて時として内より戸を開くをみるに、老婆の形なる者みぬ、と。数人の話すところかくのごとし』と。これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.243~244』河出文庫)

近代国家の出現によって人柱の風習は消えていった。だがその間、人間の代わりにその地域で特に崇められてきた動物、あるいはそれと置き換えられ得るにふさわしい等価性を持つ何らかの品物を礎石として埋めたか、新築された邸宅のどこかに安置したのは明らかだろうと思われる。いずれにしろ、重要な場所に安置したからそこが重要な場所になったのではなく、そこに安置したのでその場所が極めて重要な神聖性を持つことになったという点は明確にしておこう。なお、加藤清正による姫路城の「姥石」(おばいし)について、柳田國男は次のような点に着目している。

「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)

姫路城の守護神はなるほどただ単なる任意の「老女」ではない。にもかかわらず「最も威霊のある女性の神であった」ことは動かしがたい、という見方である。老女はまた山姥であり、日本の記紀神話を見ると、その最初の出現は冥界に入った伊弉冉尊(イザナミノミコト)においてである。これらの説話に共通して見られる点は、童子、童女、老婆、山姥、といった大人以外の世界の住人たちに対する根深い信仰である。一般大衆の中に立ちまじり日常生活の中に心底溶け込んでしまい忙しい大人の頭の中では既に欄外に位置する境界領域を生きる人々らへの、普段は意識に上ってこない畏怖の感覚である。熊楠は人柱について、それほど遠い時代にのみ存在したこととしてばかり考えるわけにはいかないという。むしろもっと近い時代、東京や大坂などの中心部はいざ知らず、日本の大半を占める地方にはつい最近までそのような風習が残っていたではないかと問いかける。

「賎民の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)

柳田國男「遠野物語」にこうある。

「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)

地方の富裕な旧家にザシキワラシは姿を見せる。その姿は「多くは十二、三ばかりの童児なり」。この箇所のようにほんの一部ではあれ、柳田はかつて日本各地で行われていたであろう人柱信仰を少しばかり書き残さずにはおれなかったのだろう。物事が上手く行かない時は児童を生贄(いけにえ)にするのがよい、という原始的信仰。まったく消し去ってしまうわけにはいかなかった。ほんの僅かばかりが書き残された。もっとも、柳田に岩手県遠野の民間伝承を語り伝えたのは佐々木喜善(ささききよし)である。柳田による編集過程で、「遠野物語」の文体の出現によって、今度は逆に消え去った部分がわかってきた。

「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)

このような事情は一九一〇年(明治四十三年)出版の「遠野物語」では跡形もなく消えてしまっている。それから十七年後の一九二六年(大正十五年)、「山の人生」において始めて露呈された。「遠野物語」出版時の一九一〇年(明治四十三年)は近代日本といっても名ばかりであるだけでなく、そもそも「遠野物語」の文体自体がようやく成立したばかりである。逆に「山の人生」で描かれたような地方の山村で行われていた「民衆=常民」の生活実態は、現代人の目から見れば幾らおぞましく映ろうとも、当時の明治中央政権から見れば、取るに足りないありふれた日常生活の断片でしかなかった。

「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.83』ちくま文庫)

なるほどそうかもしれない。明治年間に起こった文体の急激な変化。それは一九一〇年(明治四十三年)出版「遠野物語」から十七年を経た一九二六年(大正十五年)、「山の人生」における独特の文体を獲得して始めて「隠れた現実」が目の前に出現したということを、ともすれば忘れてさせてしまう効果を持つ。一九二六年(大正十五年)に入ってようやく、かつて遠野在住の語り部・佐々木喜善(ささききよし)が言わんとしていたことに柳田はようやく気づき始めたということができる。

しかしなぜこのような事態が起こるのか。言語は貨幣のように立ち働くからである。いったん新しい言語体系が打ち立てられるやもはや以前に何があったかなかったか、覆い隠され忘れ去られることになる。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

その意味で「遠野物語」の文体は近代日本成立以前の地方の山間部ではどのような生活様式がありふれた日常として残存していたか、それら様々な諸事情を隠蔽する方向へ働いたことを忘れてはならないのである。

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