エレベーターボーイが自動車の運転手のことを指して「ムッシュー」と呼んでいる場面を見た<私>。労働者階級がようやく「ムッシュー」と呼ばれる時代に入ってきたかと気づく一方、実際のところは、まだまだただ単に言葉遣いの上だけでの変化に過ぎないだろうと<私>は思う。プルーストの記述ではこうなる。「運転手がムッシューと呼ばれるのを聞いた私が、一週間前に伯爵になったばかりのX伯爵が『伯爵夫人はお疲れのようですね』と言われてだれのことかと後ろをふり向いたときと同じほど驚いたのは、ひとえにそうした用語に慣れていなかったのが原因である」。
「運転手がムッシューと呼ばれるのを聞いた私が、一週間前に伯爵になったばかりのX伯爵が『伯爵夫人はお疲れのようですね』と言われてだれのことかと後ろをふり向いたときと同じほど驚いたのは、ひとえにそうした用語に慣れていなかったのが原因である。私は一度たりとも労働者とブルジョワと大貴族とを分け隔てしたことはなく、友人を選ぶにもどの階級の人間かなどと区別はしなかったはずである。どちらかといえば好きなのは労働者で、そのつぎが大貴族であるが、それは好みの問題ではなく、ブルジョワよりも大貴族のほうが労働者に礼儀を尽くすことを知っているからで、それは大貴族がブルジョワのように労働者を軽蔑しないからか、あるいはだれにでも進んで礼儀正しく振る舞うからであろう。きれいな女性たちが、だれもが喜んでくれるのを承知のうえで、嬉々として笑顔をふりまくのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.394~395」岩波文庫 二〇一五年)
フランス語のあらゆる変化について桁外れに敏感だったプルーストが「そうした用語に慣れていなかった」ということはあり得ない。しかしあえてそういう記述を取っている理由は、それが極めて辛辣な皮肉以外の何ものでもないことによる。「労働者」が「ムッシュー」になった。だからといって「労働力価値」が新しく見直され、賃金が飛躍的に上昇し、労働者の生活様式自体も実際に向上したかといえば、そんなわけではまるでない。とすればそこにはむしろ逆に陰湿かつ狡猾な欺瞞があることになる。或る種の社会問題に置き換えればもっとよくわかるかもしれない。例えば、或るカルト団体の「名称」(シニフィアン)が突然変更されたとしよう。だからといってそのシニフィエ(内容・内実)まですっかり変わったと考える人間はほとんどいない。かえって不審感を持つ人々が増えることならあるに違いないけれども。「失われた時を求めて」の中で、シャルリュスは自らが同性愛者であることを隠そうとして社交界で大演説を振るうが、その身振り(言語)自体が逆に新しい不審感を必然的に呼び集めてしまうように。
「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
とはいえしかし、一見したところ難解に思える部分がある。「私は一度たりとも労働者とブルジョワと大貴族とを分け隔てしたことはなく、友人を選ぶにもどの階級の人間かなどと区別はしなかったはずである」。プルーストの時代ともなればとりわけ階級差別に敏感な作家が相手の階級によって付き合い方の「区別」を設けるなどもってのほかだった。鈍感な作家は論外だとしても、さらに悪質なタイプ、敏感でありながら鈍感を装って「区別」し差別に及ぶ作家などもはやプルーストの眼中にはない。しかしここで問題になっていることをよく考えてみよう。「区別しない」ためには「区別できる」目を持っていなくては不可能な点だ。そこでプルーストが言っているのは「労働者・大貴族・ブルジョワ」という<記号>が、その身振り(言語・態度)において、どれほどくっきり可視化されていたかということでなくてはならない。それぞれの階級に属する人々の身振り(言語・態度)が明瞭に読み取れる時代だった。その上でプルーストはいう。「どちらかといえば好きなのは労働者で、そのつぎが大貴族であるが、それは好みの問題ではなく、ブルジョワよりも大貴族のほうが労働者に礼儀を尽くすことを知っているからで、それは大貴族がブルジョワのように労働者を軽蔑しないからか、あるいはだれにでも進んで礼儀正しく振る舞うからであろう。きれいな女性たちが、だれもが喜んでくれるのを承知のうえで、嬉々として笑顔をふりまくのと同じである」。だからといって序列化しているのは確かではないか、というより、プルースト自ら序列化され得ると明言しているに等しい。
「労働者・大貴族・ブルジョワ」という<記号>が生成されるために最低限必要だった作業。ニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
まず第一に行われなければならなかったのは「人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題」である。そしてそれは実現された。あらゆる人類は<人間>という「ある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきもの」にされた。そこで始めて、少なくとも近代社会の成立とともに、「労働者・大貴族・ブルジョワ」という<記号>による区別が可能になる。また人類初の総力戦(第一次世界大戦)を可能にしたのもこの作業である。だがプルーストが序列化しているかのように見えるこの並び。それは「好みの問題ではなく」とわざわざ断っているように、すでに<記号化>されてしまった家畜(人間)が演じる身振り(言語・態度)の<わかりやすさ・明瞭さ>という観点から述べられた並びである。プルーストを読んでいて、ともすれば作家というよりずっと記号論者に近く思えてくるのはそのためだ。
一方、<私>の母の世代はどうか。当然違っている。まったく同じなどということはあり得ない。もし仮にまったく同じであれば、なぜかはわからないにせよ、その場所にだけは資本主義が浸透していないという珍妙な事態になってしまう。プルーストはSF好きだったけれども、同時に、「失われた時を求めて」はSFでは全然ない。例えば<私>の母は食事をとる場所について、主人は主人の部屋で、従僕は従僕の部屋で、という因習的形式を守っていた旧世代である。というふうに暴露的リアルの側に立っている。
「母は、たとえば部屋付の従僕が本来の則(のり)を越えて一度『あなた』と言ったあといつのまにか私にたいして三人称で話しかけるのをやめてしまうのを見ると、このような越権行為には不満を覚えたもので、それはサン=シモンの『回想録』において、その資格のない貴族がなんらかの口実を設けて真正な文書のなかで『殿下』を詐称したり、公爵たちに然るべき礼を尽くさずに少しずつその義務を怠ったりするたびに噴きだす不満と、なんら変わるところはない。頑固きわまりない『コンブレーの気性』が存在していたわけで、それが解消するには何世紀にもわたる善意(母の善意は無限であったが)と平等理論を必要とするだろう。母は、部屋付の従僕にはとうてい手を差し出すことなどできなかったが、その従僕に十フランを与えることにはなんの抵抗も覚えなかった(もとよりこちらのほうがずっと母を喜ばせた)」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.395~396」岩波文庫 二〇一五年)
ここでの母もまたほとんど<記号>と変わらないくらい形式化されている。「母は、部屋付の従僕にはとうてい手を差し出すことなどできなかったが、その従僕に十フランを与えることにはなんの抵抗も覚えなかった」とあるように。
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