白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて33

2022年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。ナンテンは渇水にさえ気をつけていれば毎年実をつけてくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「名称:“ナンテン”」(2022.9.30)

二〇二二年九月三十日午前八時四十分頃撮影。前回撮影は二〇二二年九月二十六日。写真ではわかりにくいのですが、右へ伸びた枝に付いた実もやや赤みがかってきました。近所を散歩している際にちらほら見えるナンテンも早いものではもうすっかり赤くなっている実を見かけます。なお、このナンテンはタマの飼主が生まれた時すでに実家の庭にあったもの。引っ越しのたびに一緒に連れて来ました。樹齢五十四年以上ということになります。

参考になれば幸いです。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・プルーストによる<記号>という問い/総力戦を可能にしたもの

2022年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
エレベーターボーイが自動車の運転手のことを指して「ムッシュー」と呼んでいる場面を見た<私>。労働者階級がようやく「ムッシュー」と呼ばれる時代に入ってきたかと気づく一方、実際のところは、まだまだただ単に言葉遣いの上だけでの変化に過ぎないだろうと<私>は思う。プルーストの記述ではこうなる。「運転手がムッシューと呼ばれるのを聞いた私が、一週間前に伯爵になったばかりのX伯爵が『伯爵夫人はお疲れのようですね』と言われてだれのことかと後ろをふり向いたときと同じほど驚いたのは、ひとえにそうした用語に慣れていなかったのが原因である」。

「運転手がムッシューと呼ばれるのを聞いた私が、一週間前に伯爵になったばかりのX伯爵が『伯爵夫人はお疲れのようですね』と言われてだれのことかと後ろをふり向いたときと同じほど驚いたのは、ひとえにそうした用語に慣れていなかったのが原因である。私は一度たりとも労働者とブルジョワと大貴族とを分け隔てしたことはなく、友人を選ぶにもどの階級の人間かなどと区別はしなかったはずである。どちらかといえば好きなのは労働者で、そのつぎが大貴族であるが、それは好みの問題ではなく、ブルジョワよりも大貴族のほうが労働者に礼儀を尽くすことを知っているからで、それは大貴族がブルジョワのように労働者を軽蔑しないからか、あるいはだれにでも進んで礼儀正しく振る舞うからであろう。きれいな女性たちが、だれもが喜んでくれるのを承知のうえで、嬉々として笑顔をふりまくのと同じである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.394~395」岩波文庫 二〇一五年)

フランス語のあらゆる変化について桁外れに敏感だったプルーストが「そうした用語に慣れていなかった」ということはあり得ない。しかしあえてそういう記述を取っている理由は、それが極めて辛辣な皮肉以外の何ものでもないことによる。「労働者」が「ムッシュー」になった。だからといって「労働力価値」が新しく見直され、賃金が飛躍的に上昇し、労働者の生活様式自体も実際に向上したかといえば、そんなわけではまるでない。とすればそこにはむしろ逆に陰湿かつ狡猾な欺瞞があることになる。或る種の社会問題に置き換えればもっとよくわかるかもしれない。例えば、或るカルト団体の「名称」(シニフィアン)が突然変更されたとしよう。だからといってそのシニフィエ(内容・内実)まですっかり変わったと考える人間はほとんどいない。かえって不審感を持つ人々が増えることならあるに違いないけれども。「失われた時を求めて」の中で、シャルリュスは自らが同性愛者であることを隠そうとして社交界で大演説を振るうが、その身振り(言語)自体が逆に新しい不審感を必然的に呼び集めてしまうように。

「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

とはいえしかし、一見したところ難解に思える部分がある。「私は一度たりとも労働者とブルジョワと大貴族とを分け隔てしたことはなく、友人を選ぶにもどの階級の人間かなどと区別はしなかったはずである」。プルーストの時代ともなればとりわけ階級差別に敏感な作家が相手の階級によって付き合い方の「区別」を設けるなどもってのほかだった。鈍感な作家は論外だとしても、さらに悪質なタイプ、敏感でありながら鈍感を装って「区別」し差別に及ぶ作家などもはやプルーストの眼中にはない。しかしここで問題になっていることをよく考えてみよう。「区別しない」ためには「区別できる」目を持っていなくては不可能な点だ。そこでプルーストが言っているのは「労働者・大貴族・ブルジョワ」という<記号>が、その身振り(言語・態度)において、どれほどくっきり可視化されていたかということでなくてはならない。それぞれの階級に属する人々の身振り(言語・態度)が明瞭に読み取れる時代だった。その上でプルーストはいう。「どちらかといえば好きなのは労働者で、そのつぎが大貴族であるが、それは好みの問題ではなく、ブルジョワよりも大貴族のほうが労働者に礼儀を尽くすことを知っているからで、それは大貴族がブルジョワのように労働者を軽蔑しないからか、あるいはだれにでも進んで礼儀正しく振る舞うからであろう。きれいな女性たちが、だれもが喜んでくれるのを承知のうえで、嬉々として笑顔をふりまくのと同じである」。だからといって序列化しているのは確かではないか、というより、プルースト自ら序列化され得ると明言しているに等しい。

「労働者・大貴族・ブルジョワ」という<記号>が生成されるために最低限必要だった作業。ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

まず第一に行われなければならなかったのは「人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題」である。そしてそれは実現された。あらゆる人類は<人間>という「ある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきもの」にされた。そこで始めて、少なくとも近代社会の成立とともに、「労働者・大貴族・ブルジョワ」という<記号>による区別が可能になる。また人類初の総力戦(第一次世界大戦)を可能にしたのもこの作業である。だがプルーストが序列化しているかのように見えるこの並び。それは「好みの問題ではなく」とわざわざ断っているように、すでに<記号化>されてしまった家畜(人間)が演じる身振り(言語・態度)の<わかりやすさ・明瞭さ>という観点から述べられた並びである。プルーストを読んでいて、ともすれば作家というよりずっと記号論者に近く思えてくるのはそのためだ。

一方、<私>の母の世代はどうか。当然違っている。まったく同じなどということはあり得ない。もし仮にまったく同じであれば、なぜかはわからないにせよ、その場所にだけは資本主義が浸透していないという珍妙な事態になってしまう。プルーストはSF好きだったけれども、同時に、「失われた時を求めて」はSFでは全然ない。例えば<私>の母は食事をとる場所について、主人は主人の部屋で、従僕は従僕の部屋で、という因習的形式を守っていた旧世代である。というふうに暴露的リアルの側に立っている。

「母は、たとえば部屋付の従僕が本来の則(のり)を越えて一度『あなた』と言ったあといつのまにか私にたいして三人称で話しかけるのをやめてしまうのを見ると、このような越権行為には不満を覚えたもので、それはサン=シモンの『回想録』において、その資格のない貴族がなんらかの口実を設けて真正な文書のなかで『殿下』を詐称したり、公爵たちに然るべき礼を尽くさずに少しずつその義務を怠ったりするたびに噴きだす不満と、なんら変わるところはない。頑固きわまりない『コンブレーの気性』が存在していたわけで、それが解消するには何世紀にもわたる善意(母の善意は無限であったが)と平等理論を必要とするだろう。母は、部屋付の従僕にはとうてい手を差し出すことなどできなかったが、その従僕に十フランを与えることにはなんの抵抗も覚えなかった(もとよりこちらのほうがずっと母を喜ばせた)」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.395~396」岩波文庫 二〇一五年)

ここでの母もまたほとんど<記号>と変わらないくらい形式化されている。「母は、部屋付の従僕にはとうてい手を差し出すことなどできなかったが、その従僕に十フランを与えることにはなんの抵抗も覚えなかった」とあるように。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて32

2022年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。キンモクセイは渇水にさえ気をつけていればほぼ確実に育ってくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「名称:“キンモクセイ”」(2022.9.29)

撮影時刻は二〇二二年九月二十九日午前十一時三十分頃。広がりのある独特の香りが漂い、「あっ、秋だ」、と感じさせてくれます。芳醇な懐かしい香り。新聞配達をしていた頃を思い出します。

参考になれば幸いです。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・サニエットの生成変化/身振り(言語)の二重性活用法

2022年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
サニエットに対する周囲の評価、<ナイーヴ・無遠慮・退屈>。サニエット自身の自己評価でもあるため、もう救いようがないかのように見える。しかしプルーストは同時かつ周到に別の言葉へ置き換えてもいる。<謙虚・好奇心・人気者でない>。にもかかわらず余りにもプライドが高すぎてごく当り前の社交辞令一つ交わそうとしなかったことが自分で自分自身のことを「サニエット=<ナイーヴ・無遠慮・退屈>」というステレオタイプ(紋切型)へ押し固めてしまった。<人気者でない>のは、プルーストの言葉でいうと、(正直な告白を伴う)「大胆さを欠いていた」からに過ぎない。今の日本でも職場・教室・サークルなどではいつも起きているしどこでも見られるありふれた現象である。性別を問わず美麗な容姿がものを言うのは最初だけ、ほんのいっときでしかない。容姿以上にものを言うのは最初の顔合わせの直後から生じる<欲望としての身振り>である。とにかくよくしゃべる人間、気の利いたジョークをタイミングよく差し挟む人間、洗練された落ち着き、ここという時にずば抜けた瞬発力を発揮する行動力。それら身振り(言語・態度)によって美麗な容姿はただ単に空疎な空き缶同様、逆にからかいの種になる。しかし美麗な容姿の側もそれを見越しており、からかいの種にされまいと出来うる限りあらかじめ<欲望としての身振り>を各種取り揃えて必死で身につけておき、何か集まりがあるたびに、少しでも集まりが生じるや否やそれを披露せずにはいられない。プルーストが社交界のことを「虚無の王国」だというのはそういう意味で言っているのであり、なおかつ文字通りその通りだと知らぬ者はもはや誰一人いない。ゆえに今の日本、とりわけテレビマスコミは見るも無惨なほど一九〇〇年当時の社交界=「虚無の王国」の様相を呈して憚るところを知らないと言わねばならない。

さて、サニエットの無遠慮さに戻ろう。プルーストは「あまりにも遠慮がちなこの男は、病的なまでに無遠慮な男でもあった」と書く。もちろん、その直前に「人はけっして単一の存在ではないからであろう」と述べて人間の内的多様性を前提した上で語っている。さらに面白いのは次の文章で「サニエット」は「小鳥」に<なり>、「手紙」は「ヘビ」に<なる>シーン。プルーストは生成変化(成ること)を決して見逃さない。

「その一方、人はけっして単一の存在ではないからであろう、あまりにも遠慮がちなこの男は、病的なまでに無遠慮な男でもあった。一度、私の意に反してサニエットがふらりと訪ねてきたとき、だれからのものか一通の手紙が私のテーブルのうえに放ってあった。そのうち私は、サニエットが私の言うことを上(うわ)の空でしか聞いていないのに気づいた。差出人の見当のつかないその手紙に魅入られたサニエットのすがたを見ていた私は、その七宝焼のような目玉が、いまにも眼窩(がんか)からとび出して、好奇心によって磁気を与えられたそのなんの変哲もない手紙へと吸い寄せられるような気がした。まるで小鳥が、ヘビのほうへ否応なく引き寄せられるようなあんばいである。とうとうサニエットは我慢できず、私の部屋の整理整頓をするかのように、まずはその手紙の位置を変えた。しかしそれだけでは充分でなかったのか、手紙を手にとると、まるで無意識の動作のようにそれを裏返し、さらにもう一度裏返した」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.389~390」岩波文庫 二〇一五年)

<私>はサニエットにとっても<私>自身にとっても事態を良好な方向へ向け換える方法を思いつく。しばらくの期間、<私>のところにサニエットを引きつけておき、その時間を利用してサニエットに最良のアドバイスをしてやる。或る種の社交上のテクニックを伝授してやる。「そうすればほかの人たちもサニエットを招待するようになったかもしれず、そうなればその人たちのために私はただちにお払い箱になって、その結果、私の招待はサニエットを有頂天にするとともに厄介払いするという二重の利益をもたらしたかもしれないからである」。身振り(言語)が常に持っている両義性、ここでは少なくとも二重性を活用するのだ。

「その日、私は体調がよくなかったので、つぎの汽車で帰るべく三十分後には出ていただきたいと頼んだ。サニエットは、私が病気であることを疑ったわけではないのに、『一時間十五分ほどお邪魔をしてそれから帰ります』と答えた。それからというもの、サニエットに来てもらえる状況になるたびに、私はぜひ来るようにと言わなかったことを悔やんだ。ひょっとすると、そう言ってやれば私がサニエットの呪われた運命を祓(はら)ってやることができたかもしれないからで、そうすればほかの人たちもサニエットを招待するようになったかもしれず、そうなればその人たちのために私はただちにお払い箱になって、その結果、私の招待はサニエットを有頂天にするとともに厄介払いするという二重の利益をもたらしたかもしれないからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.390~391」岩波文庫 二〇一五年)

なお、先日の「国葬」について。日本国民に限っただけでも七割方が反対を表明したにもかかわらず挙行されたことで逆に明るみに出された事情がある。ヴェルデュラン家に関するサン=ルーのことばを引用しておくことは無駄ではないだろう。

「サン=ルーのことばを最後まで聞いてそれは、多くの聡明な人たちまでが採りいれるのを見てしばしば驚かされる流行(はやり)ことばへの妥協であるとわかった。『あの環境では』とロベールは私に言った、『ほら、部族をつくり、単式誓願修道会や礼拝堂をつくるだろ。きみもまさかあれが小党派ではないとは言うまい。仲間うちの人間にはいやに愛想がいいが、仲間でない人間はいくら軽蔑しても足りないという態度だ。ハムレットみたいに、あるべきか、あらざるべきか、それが問題なのではなくて、仲間であるか、仲間であらざるか、それが問題なのさ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.385~386」岩波文庫 二〇一五年)

呆れるばかりの物価高の真ん中に集結し結束を固めたつもりの「あの部族」。誰が仲間であり誰が仲間でないか、モザイクもかけずによく堂々と放送させたものだと驚嘆するほかない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて31

2022年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。クロマツは渇水にさえ気をつけていればほぼ確実に育ってくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。ただ剪定を怠ると写真のように怪物化してしまうので注意したいですね。


「名称:“クロマツ”」(2022.9.28)

撮影時間は二〇二二年九月二十八日午前九時頃。最初は盆栽として購入したもの。直植えして形を整えていこうと思っていました。ところが直植えしたまでは順調だったのですが、うつ状態長期化に伴って剪定が怠りがちになったあげく、遂にまんまるのまま巨大化しました。症状が軽微な時に出来るだけ剪定して平均的な形に保っておくことが大事なのでしょう。もっとも、それだけでも気が億劫になることはしょっちゅうあります。

参考になれば幸いです。

BGM1

BGM2

BGM3