午前五時はディヴィーヌにとって特別な時間である。教会の鐘の音だ。午前五時。五つの鐘の音が空からディヴィーヌに落ちかかる。三、四年前、ディヴィーヌが霧雨の下を、通りから通りへさまよいながら、雨に濡れないように建物の壁すれすれに通ってコミ箱をあさり回る生活を送っていた頃の思い出にディヴィーヌを落とす。なお、「徹夜した」とあるのはミニョンとの情交が終わって安らぎのうちに「探偵」雑誌に目を通しているとやがて日が明けたわけだが。
「ディヴィーヌは鐘が鳴るのを聞いている(というのも彼女は徹夜しているのだから)。消えゆく音色のかわりに、打つ音、五つの打つ音が敷石の上に落ちてくる、そしてこの打つ音とともに、濡れた敷石の上に、三、四年前、この同じ時刻に、小さな町のいくつかの通りで、ゴミ箱のゴミのなかのわずかなパンをあさっていたディヴィーヌを落とすのだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.69」河出文庫)
記憶は閃光のごとく接続される。いまはミニョンのおかげで屋根裏部屋だけは確保できている。だが記憶は教会の鐘の音にまつわる様々なことを忘れてはいない。ディヴィーヌは鐘の音によってまたたく間に変身する。
「いい香りのする屋根裏部屋で、朝のお告げの鐘は、暴力的に彼女を、足を休め、少しは寒くないようにとミサを聞きに、聖体を拝領しにやって来る湿ったボロを纏った浮浪者に変えてしまう」(ジュネ「花のノートルダム・P.69」河出文庫)
さらにディヴィーヌがまだ少年だった頃。「ある小さな町」。パリはまだ遠い。
「彼女がキュラフロワだった頃、そして彼女がスレート葺の家から逃げ出して、ある小さな町に辿り着いた頃の思い出が、しかも苦しみもなく舞い戻ってくる」(ジュネ「花のノートルダム・P.69~70」河出文庫)
現在の鐘の音がなぜかつて鐘の音にともなって記憶された「思い出」を反復させるのか。スピノザはいう。
「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)
同性愛者として華々しくデビューすることになったパリは遠いけれども、そこへと繋がる「ある小さな町」にはその町なりの思い出が薔薇のように点々と花開いていた。彼らはどれも夜明けごとに「公園の芝生から生まれたばかり」の初々しさを放っていた。
「その町では、黄金色の、薔薇色の、あるいは蒼白い朝に、人形のようなーーー彼らから見れば、うぶだと思ってしまうーーー魂をもった乞食たちが、まるで兄弟のようだとも言える仕種をしながら近づいてくる。彼らは、寝場所にしている並木道のベンチや、アルム広場のベンチから起き上げり、あるいは公園の芝生から生まれたばかりなのだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.70」河出文庫)
ディヴィーヌは記憶がいい。やさしく思い出す方法を身につけてもいる。そのディヴィーヌは同時に残虐非道な美しい少年たちを愛する男性同性愛者ディヴィーヌでもある。
ーーーーー
さて、アルトー。構想は単純だ。アルトーは演劇の転倒を目指している。
「私の『宣言』を一度読んだのに、あなたがあくまで自分の反論にこだわっているとは信じられません、それともあなたはあれを読まなかったか、まずい読み方をしたということです。私のスペクタクルはコボーの即興とは何の関係もないでしょう。私のスペクタクルは、どんなに激しく具体のなかに、外のなかに飛び込もうと、脳の閉ざされた部屋ではなく開かれた自然のなかに根を下ろしていようと、そのために俳優の無教養で軽率な気まぐれに委ねられてはいません。とりわけ現代の俳優ですが、彼は台本から抜け出して飛び込むと、もう何もわからないのです。私のスペクタクルは演劇の運命をこんな偶然に委ねないように私は気をつけるでしょう。そうなのです。実際にはいまにも起ころうとしているのはこのことです。問題となっているのは、まさしく芸術的創造の出発点を変え、演劇のいつもの法則をひっくり返すことです」(アルトー「言語についての手紙」(第二の手紙)『演劇とその分身・P.178~179』河出文庫)
ところが、アルトーの厳密に突き詰めて思考された提案であっても、その思考は言語的次元を経由せずには不可能である以上、形而上学として行われるほかないという壁がいつも立ちはだかる。どれほど具体的な言葉を用いて論じてみてもなお、むしろ具体的であればあるほど欧米形而上学の「なか」にのみ「《われわれは設置されているのだ》」という問題はびくともしないとデリダはいう。
「『思考すること』による形而上学の侵犯には、形而上学に逆戻りするという危険がつねにともなう。かかる問いのなかにこそ、《われわれは設置されているのだ》」(デリダ「エクリチュールと差異・P.397」法政大学出版局)
デリダの危機感もまたここから来ている。常に既にあらかじめ人間は紀元前からずっとヨーロッパ、そして近代世界成立以降は欧米中心主義という形而上学の「なか」に組み込まれて日々それを用いることで欧米中心主義を強化保管するように「《われわれは設置されているのだ》」という《現実において》、何をどのようになすべきか、あるいはなさないべきか。
「おそらくいまやわれわれは、現代演劇がアルトーに誠実であるためにはどのような条件が必要であるか、ではなくて、どのような場合には確実にアルトーに不誠実なものになるか、と問うことができるはずだ。不誠実な主題とはどのようなものだろうか。周知のとおり戦闘的に声高にアルトーを標榜する者たちのなかにさえ、そうした主題は見出される。ここではその主題を列挙するにとどめておこう。以下のものは、疑いなく残酷演劇とは無縁である。
1、聖性を欠いたすべての演劇。
2、言葉(パロール)を特権化するすべての演劇。語によるすべての演劇。たとえこの特権が、自分を破壊したり、身振りや絶望的な繰り返しに復帰する言葉であるとしても、この点には変わりはない。それは言葉の自分自身に対する《否定的な》関係であり、演劇のニヒリズムなのだ。これが依然として不条理演劇と呼ばれているものである。このような演劇は言葉によって憔悴してしまい、古典的な舞台の機能を破壊しないというだけでなく、それは、アルトーが(そしておそらくニーチェが)理解していたような意味での《肯定》とはなりえないだろう。
3、芸術の全体性から何かを排除してしまう、すべての《抽象的な》演劇。芸術の全体性とは、生と生が有する意味作用の資源のことであり、それは、舞踏、音楽、造形的な深み、可視的イメージ、音響、音声等々のことだ。抽象的な演劇とは、意味と感覚の全体性が焼き尽くされてはいないような演劇である。ただし、ここから、『全体的な人間』(アルトー全集・第四巻・P.147)に向けられる全体演劇を創り出すためには、すべての芸術を集めたり並べたりすれば十分だと結論するなら、過ちを犯すことになるだろう。このような寄せ集めの全体性、このような外在的で人為的な猿真似ほど全体演劇からかけ離れたものはない。かえって、舞台上の手段のいくつかを見かけ上憔悴させる方が、彼の『メッセージ』のような何ものかへの忠実性(メッセージという観念がすでにアルトーを裏切っている)について語ることに何らかの意味があると仮定するならーーーわれわれはそのようなことを信じてはいないのだがーーー、今日にあっては、さまざまな芸術と芸術家を総動員したり、嘲笑的で安心しきった警察の監視下で騒擾や騒乱を即興的に作り出すことよりも、破壊の作業における厳密で細心で忍耐強く容赦をしない簡潔さや、依然としてとても堅固な装置を備えた権威的な劇作品にしっかり狙いを定めた簡素な鋭さの方が、より確実に必要とされているのである。
4、すべての異化の演劇。この演劇は、舞台の空間に道を開いて侵入する力や創造的行為に対して観客が(さらに舞台演出家や俳優も)参加しないということを、啓蒙的に執拗に、体系的に重々しく神聖視しているだけだ。『力から切り離されて、力の高揚にただ立ちあうだけの姿勢に精神を押しやろうとする』『芸術に関するヨーロッパの理想』(第四巻・P.15)、すなわち古典的な逆説に、《異化効果》は囚われたままなのである。『残酷演劇では観客は中央に位置し、スペクタクルの方が観客を取り囲む』(第四巻・P.98)のだが、そうなると、もはや視線の距離は純粋なものではなくなり、この距離は感覚可能な場の全体性に対して超然としてはいられない。包囲された観客はもはや自分のスペクタクルを《構成する》ことも、スペクタクルを対象としておのれに与えることもできない。もはや観客もスペクタクルもなく、あるのは《祝祭》なのだ(第四巻・P.102)。古典的な演劇性に張り巡らされているすべての境界(再現前化されるもの/再現前化するもの、シニフィエ/シニフィアン、作者/舞台演出家/俳優/観客、舞台/客席、テクスト/解釈=演技等々)とは、祝祭という危険を前にしての、倫理-形而上学的な禁止であり、皺、渋面、作り笑いといった恐怖の徴候だったのである。侵犯によって開かれる祝祭の空間のなかでは、再現前化の距離はもはや維持されえないだろう。『底のない』『絶対的危険』(一九四五年九月)を前にして、残酷の祝祭は欄干と手すりを取り外してしまう。『私が必要とするのは、何よりもまず存在物であるような俳優たちです。つまり、その俳優たちは舞台上で、ナイフの一撃がもたらす真の感覚を恐れず、また、仮想上の分娩がもたらす彼らにとっては《絶対的に》現実のものである苦痛を恐れたりはしないことです。ムネ・シュリィは自分が行なっていることを信じこんでおり、またそのような幻想を与えていますが、彼は自分が手すりに守られていることを知っています。けれども私はその手すりを消し去るのですーーー』(ロジェ・ブランへの手紙)。アルトーがこのように祝祭と呼んだもの、『底のないもの』のこのような脅威に比べれば、『ハプニング』は微笑をさそう。残酷性の経験にとって『ハプニング』とは、エレウシスの秘儀にとってのニースのカーニヴァルのようなものだ。なぜかと言えば、その最たる理由は、アルトーが命じていた全体的革命を、『ハプニング』は政治的なアジテーションに代えてしまうからである。祝祭は政治的《行為》であらねばならない。そして、政治的革命の《行為》は《演劇的》であるのだ。
5、すべての非政治的演劇。祝祭は政治的《行為》であらねばならないとわれわれは言っているのであって、世界に関する政治道徳的な構想やヴィジョンのーーー雄弁であったりなかったり、教育的であったりなかったり、文明化されていたりなかったりするようなーーー伝達であらねばならないと言っているのではない。もしもこの行為とこの祝祭の政治的意味や、ここでアルトーの欲望を魅了している社会のイメージの考察を行なおうとするならーーーこの場でそれを行なうことはわれわれにはできないがーーー、ルソーに言及して、そこにある最大の近接のなかの最大の差異を確認するのを避けることはできないだろう。ルソーにおいても、古典的なスペクタクルの批判、言語の《分節》に対する不信、再現前化=代理に代わる公共的祝祭という理想と、完全に自己に現前している社会という一種の模範とが結び合わされていた。この社会の模範は、社会生活の決定的な瞬間に、《再現前化=代理》への依拠を無用で有害なものにしてしまう小さな共同体のなかに見出される。ここで言う再現前化とは、代補することであり、政治的であると同じく演劇的でもある代理のことだ。『社会契約論』においても『ダランベール氏への手紙』においてもルソーが嫌疑をかけていたのはーーーそれが何を再現前化=代理するかに関わりなくーーー《再現前化=代理するもの》一般だったという点を、非常に正確に証明することも可能だろう。『ダランベール氏への手紙』でルソーが提案しているのは、演劇による再現前化を、展示されるものもスペクタクルもない、『見るべきものが何もない』公共的祝祭に置き換えることだった。この祝祭では観客自身も俳優にならねばならない。『けれども、結局、このスペクタクルの目的とはどのようなものになるのでしょうか。目的など何もない、と言ってもいいでしょうーーー。広場の真ん中に花で飾られた杭を立て、そのまわりに民衆を集めてごらんなさい。すると祝祭が始まるでしょう。もっといいやり方があります。観客たちをスペクタクルにしてしまい、彼ら自身を俳優にしてしまうのです』。
6、すべてのイデオロギー演劇、すべての文化的演劇、すべてのコミュニケーションと《演技》による演劇。これらの演劇はある内容を伝達し、(政治的、宗教的、心理的、形而上学的というふうに、その性質がいかなるものであれ)あるメッセージを送ろうとしており、聴衆たちに対して言説の内容を読みものとして与えるのであって、舞台の《行為》と《現在という時間》によって完全に汲み尽くされることはなく、舞台と一体となることもなく、舞台がなくとも《反復される》ことが可能なのだ。われわれはここでアルトーの企ての深い本質のごときもの、彼の歴史-形而上学的決断に触れている。《アルトーは反復一般を消し去りたいと望んでいた》。彼にとって反復は悪であり、そしてこの点を中心にして、彼のテクストの読解の全体を組織することもおそらく可能だろう。反復は力、現前、生をそれ自身から切り離す。この分離は、自己を守るために自己を差異化して自己を延期するもの、消費を抑えて恐れに屈するものの節約的(エコノミック)で打算的な挙措なのだ。このような反復の力が、破壊したいとアルトーが望んでいたもののすべてを支配していたのであり、そして、その力はいくつもの名前をもっているのである。すなわち、<神>、<存在>、<弁証法>。<神>とは永遠性であり、その永遠性の死は果てしなく続いていて、生の内なる差異と反復として、生を脅かすことを決してやめない。われわれが恐れねばならないのは、生きた<神>ではなくて、<死んだ神>なのだ。<神>とは<死>である。『なぜなら無限さえも死んでしまったからだ、/無限とはある死者の名前だ/だが、その死者は死んではいない』(『84』)。反復が存在するやいなや、<神>がそこにいる。そして、現前するものはおのれを保持し保留する。言い換えるなら、現前するものは自分自身から窃取されるのだ。『絶対的なものは一個の存在者ではない。それは決して一個の存在者になることはない。なぜなら、それが存在者になるためには、私に対して犯罪を犯すことが必要だからだ。つまり、私から一個の存在者を引き剥がさねばならないのだ。その存在者は、いつの日か神になることを望んでいた。だが、そんなことはありえない。<神>には、たった一度で自分のすべてを現すことなどできないのだ。<神>は永遠が無限の回数にわたって永遠に繰り返されるあいだ、無限に何度も何度も現すものだからだ。これによって永続性が創り出されるのである』(一九四五年九月)。再-現前的な反復のまた別の名前は<存在>である。<存在>という形式のもとでは、生と死の諸々の形式や諸々の力の無限の多様性が無際限に語のなかで混ぜ合わされ反復されるようになる。というのも反復の可能性によって構成されない語や、より一般的に言えば、記号などないからだ。反復されない記号、その『最初』においてすでに反復によって分割されていないような記号は記号ではない。したがって、記号作用としての返送は、それが毎回同一のものに返送されるためには、理念的なものでなければならないーーーそして理念性とは反復によって確立される力でしかないのだ。それゆえ、<存在>は永遠の反復の支配語であり、生きることに対する<神>と<死>の勝利なのである。(たとえば『哲学の誕生』における)ニーチェと同様に、アルトーは<生>を<存在>に包摂させることを拒否し、系譜の順序を逆転させる。『まず最初に生きること、それから魂に従って存在すること。存在の問題はその帰結でしかない』(一九四五年九月)。『人間の身体にとって、存在ほど大きな敵はない』(一九四七年九月)。別の未刊のテクストのいくつかは、アルトーが独自に『存在の彼方』(一九四七年二月)と呼ぶものに価値を与えようとしている。その際アルトーは『存在の彼方』というプラトンの表現を(アルトーがプラトンを読んでいたことは疑いないのだが)ニーチェのスタイルで用いているのだ。最後に、<弁証法>とは、消費が現前性のなかに回収される運動である。それは反復の経済(エコノミー)であり、真理の経済(エコノミー)なのだ。反復は否定性を《概括》し、過ぎ去った現在を真理として、理念性として集約し保持する。真なるものとはつねに、反復されるものなのである。非-反復、たった一度のうちに現在を使い尽くす回帰なき断固たる消費、これらは恐れをいだく論証性に、迂回しえぬ存在論に、弁証法に終止符を打つに違いない。『弁証法(ある種の弁証法)は私を破滅させたものであるのだからーーー』(一九四五年九月)。
つねに弁証法はわれわれを破滅させるものであった。なぜなら、弁証法はつねにわれわれの拒否《を考慮ずみ》であるからだ。同様に弁証法はわれわれの肯定をも考慮ずみなのである。反復としての死を拒否することは、死を、回帰することのない、現在の消費として肯定することである。そして、この逆も成り立つ。これが、肯定に関するニーチェ的反復をおびやかす図式である。現在の唯一性を死に付与して現在《そのもの》を出現させようとする純粋な消費、絶対的な気前よさはすでに、現在の現前性を保持したいと望み始めているのだ。それはすでに書物と記憶を開始し、記憶としての存在の思考を開始しているのである。現在を保持しようと望まぬこと、それは、現在において代替不可能で死にゆく現前性を構成するもの、つまり、現在のうちにあって反復されぬものを保護したいと望むことだ。すなわち、それは、純粋な差異を享受することである。ヘーゲル以降に思考されている思考の歴史の基盤が、血の気のない粗描にまで縮減されたなら、以上のごときものになるはずである。
演劇の可能性とは、悲劇を反復として考察するこのような思考に課せられた炉心である。反復の脅威が演劇ほどに組織されている場は他にはない。反復の起源としての舞台に、原初的反復に、これほど近づける場所は演劇以外にはない。この反復を、それ自身から、またそのドゥブルから引き離して、消去しなければならないのだ。ここでいうドゥブルは、アルトーが『演劇とその分身(ドゥブル)』について語っているような意味ではなく、襞、内的な重複を指し示しており、これが反復の抑え難い運動によって、演劇や生などから、その現在の行為がもつ単一の現前性を窃取してしまうのである。『一度』とは、意味も、現前性も、判読可能性ももたぬものの謎だ。ところで、アルトーにとって、残酷の祝祭はたった《一度》しか起こってはならないのである。『テクストの批評は学者を気取る者たちに、形式の批評は審美家たちにまかせよう。すでに語られたことはもはや語られるべきではないということ、表現は二度価値をもちはしないし、二度生きたりはしないということ、口にされた言葉はどれもみな死んでおり、その言葉が作用するのはそれが口にされる瞬間だけだということ、使用された形式はもはや役に立たず、ただ別の形式を探すように誘うだけだということ、演劇=劇場は、為された行為が二度繰り返されないこの世で唯一の場所だということ、これらのことを認めることにしよう』(第四巻・P.91)。事実、見かけはその通りである。演劇の再現前化が終了すると、その背後には、その現在性の背後には、いかなる痕跡も、持ち帰るべきいかなる客体も残されないのだ。演劇の再現前化とは書物でも作品でもなく、現実態(エネルゲイア)である。かかる意味で、演劇の再現前化は唯一の生の芸術なのである。『演劇が教えるものとは、まさしく、一度為されたならもはや為されるべきではない行動の無用性であり、行動によって無用なものにされた状態の卓越した有用性であって、かかる状態が《逆転して》昇華を産み出すのだ』(P.99)。このような意味において、残酷演劇は、経済=節約も留保も回帰も歴史も欠いた差異と消費の芸術だと言えるだろう。それは純粋な差異としての純粋な現前である。残酷演劇の行為は忘れられねばならない。それも、積極的に忘れられねばならない。ここでは、『道徳の系譜』の第二論文が語る、あの《積極的な忘却》を実践する必要がある。『道徳の系譜』もまた『祝祭』と『残酷性』をわれわれに説明してくれるのだ。
非演劇的エクリチュールに対するアルトーの嫌悪も同じ意味を持っている。アルトーに嫌悪を抱かせるものは、『パイドロス』の場合のように、身体の身振りではない。つまり、魂のなかへ真理を記入することとは無縁な、記憶を低下させる感覚的で記憶術的な刻印ではないのだ。反対に、知解可能な真理の場としてのエクリチュール、生きた身体にとっての他者、理念性、反復こそがアルトーに嫌悪を抱かせる。プラトンはエクリチュールを身体として批判する。アルトーはエクリチュールを身体の消去、一度しか起こらない生きた身振りを消去するものとして批判する。エクリチュールとは反復一般の空間そのものなのである。だからこそ、『テクストと《書かれた》詩という、この迷信と手を切らねばならない。書かれた詩は一度だけ価値を持ち、その後では廃棄されるべきだ』(第四巻・P.93~94)。
このように不誠実性の主題を示してみれば、ただちに分かることだが、誠実は不可能である。今日、世界のどこにもアルトーの欲望に応える演劇は存在しない。この点からすると、アルトー自身の試みも例外ではないだろう。誰よりもアルトー自身がそのことを承知していた。残酷演劇の『文法』とは『見出すべき』ものだとアルトーは語っていたのだが、この『文法』はつねに到達しえない限界であり続けるだろう。それは、反復ではない再現前化、十全な現在であって自己のうちに自己の死としての自己の重複(ドゥブル)を含まぬ《再》-現前化、反復しない現在、つまり時間の外の現在、非-現在という限界なのである。現在が現在として与えられ、出現し、現前化し、時間の舞台ないし舞台の時間を開くのは、自己の内部にある固有の差異を現在が受け入れる場合のみであり、また、それは、現在の起源的反復の内にある襞において、再現前化においてでしかない。すなわち、それは弁証法においてでしかないのだ。
アルトーはこのことをよく承知していた。『ーーーある種の弁証法ーーー』。なぜなら、弁証法の《地平》をそれにふさわしい形でーーー慣例的なヘーゲル主義の外でーーー思考するなら、弁証法が有限性の、生と死の統一の、差異の、起源的反復の、無際限な運動であることがおそらく理解されるはずだからだ。言い換えるなら、弁証法とは、単一の起源の不在としての、悲劇の起源なのだ。かかる意味で、弁証法は悲劇であり、純粋な起源という哲学的ないしキリスト教的観念に抗し、『始まりの精神』に抗する唯一可能な肯定なのである。『だが、始まりの精神は私に愚かなことばかり行なうように仕向け続けたのであり、そして私の方はキリスト教精神である始まりの精神から身を引き離そうとし続けたのだーーー』(一九四五年九月)。悲劇的なものは反復の不可能性ではなく、反復の必然性なのだ。
残酷演劇が始まり成就されるのは、単一の現前の純粋性においてではなく、すでに、再現前化においてであり、『<創造>の第二期』においてであり、単一の起源の葛藤では決してありえなかったような、諸力の葛藤においてであることをアルトーは承知していた。おそらくそこで残酷性の実践の開始が可能になるのだが、また、それによって残酷性は《損われる》ことになる。起源はつねに《損われて》いるのだ。これが演劇の錬金術である。『おそらく先へ進む前に、ひとは、典型となる原始的演劇ということで、われわれが何を言おうとしているのか、と尋ねることだろう。これによって、われわれは問題の核心そのものに入っていく。もしもひとが実際に演劇の諸起源と存在根拠(あるいは原初的な必然性)の問いを提起するなら、ひとは、一方では形而上学的に、ある種の本質的な劇(ドラマ)の物質化、あるいはむしろその外在化を見出す。この劇には、多様であると同時に単一な仕方で、あらゆる劇の本質的な諸原理が含まれているだろう。この諸原理はそれら自身としてすでに《方向づけられ》、そして《分割され》ており、原理としての性格を失うにはいたらなかったが、諸々の葛藤の無限のパースペクティヴを、たっぷりと能動的に、つまり、すぐにでも放出できるほどに含みもつには十分であった。このような劇を哲学的に分析するのは不可能である。詩的にのみーーー。そして、人々が完璧に感じているように、この本質的な劇は実在する。この劇は、<創造>そのものよりも繊細な何ものかの似姿として存在する。<創造>とは一なるーーーそして《葛藤なき》ーーー<意志>から帰結したものとして思い浮かべるべきものなのだ。本質的な劇はーーーこれはあらゆる<大いなる神秘>の基盤に存しているのだがーーー、<創造>の第二期と、困難と<分身>の時期と、物質と観念の凝固の時期と結合するのだと信じなければならない。単一性と秩序が支配しているようなところでは、演劇も劇もありえないように思われる。真の演劇は、しかも詩と同様に、ただし詩とは異なる道を経て、自己を組織立てる無秩序(アナーキー)から誕生するーーー』(第四巻・P.60、61、62)。
したがって、原始的演劇と残酷性が始まるのは、反復からでもあるのだ。だが、再現前化なき演劇という観念、この不可能なものの観念は、たとえ演劇の実践を制御する手助けにはならないとしても、おそらくわれわれが演劇実践の起源、その前日、その限界を思考し、今日において演劇をその歴史の開始を起点にして、その死の地平のなかで思考することを可能にしてくれる。西洋演劇の現実態(エネルゲイア)はこのようにその可能性のなかに浮かびあがってくるのだが、この可能性の方は偶発的なものではなく、<西洋>の全歴史にとって、構成する中心であり、構造化する場なのである。しかし反復はこの中心とこの場を窃取し、そして、われわれがその可能性について語ったばかりのことがらは、死を《地平》のように、また、誕生を過去における《開始》のように語ることをわれわれに禁じることになるだろう。
アルトーは、純粋演劇の可能性と不可能性という限界の最も間近にいたのである。現前は、それが現前となり、そして自己への現前となるために、つねにすでに再現前化され始めていたのであり、つねにすでに損われていた。肯定そのものも、みずからを反復することによって、みずからを損わねばならぬのである。これが意味するのは、再現前化の歴史と悲劇の空間を開始する父の殺害、アルトーがその起源の最も間近で、要するに、反復したい、ただし《たった一度だけ》反復したいと望んだ父の殺害は終焉することがなく、無際限に反復されるということだ。父の殺害は反復されることによって始まる。この殺害は消え去り、そして、侵犯された法を確立する。そのためには、一個の記号が、すなわち反復がありさえすれば十分なのである。
この限界の表面の下で、そして、内的差異も反復も欠いた現前の純粋性(あるいは、純粋な差異の純粋性と言っても、逆説的だが同じことになる)を救いたいと望む限りで、アルトーは演劇の不可能性をも欲した。すなわち、アルトー自身が舞台を消し去りたいと望んでいたのであり、つねに父によって住みつかれ、あるいは取り憑かれ、殺害の反復によって支配された場所で起こるようなことなどもはや見たくないと望んでいたのである。『ここに眠る』のなかで『私ことアントナン・アルトー、私は私の息子であり、/私の父であり、私の母であり、/そして私だ』と書いて、原-舞台を解消したいと望んだのは、アルトーではなかっただろうか」(デリダ「エクリチュールと差異・P.488~501」法政大学出版局)
というところで、次回から再び「傑作と縁を切る」の途中の箇所、いったん放置しておいた部分へ戻ってみることにしたい。
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なお、新型ウイルス感染問題について。日本のマスコミは連日報道し続けている。正確な情報の提示が必要なのは言うまでもない。世界ではすでに撲滅されたウイルスは様々ある。だが研究は続けられなくてはならない。なのでそれら稀少ウイルスを研究目的で保存している機関はもちろんある。CDC(アメリカ疾病管理予防センター)もその一つ。WHO(世界保健機関)の上級職は慣例的にCDC(アメリカ疾病管理予防センター)出身者が多いことでも知られる。さて奇妙なことに、アメリカには新型ではないものの年単位でみて同時多発的ウイルス感染を越える死者数がはじき出されている部門がある。銃による年間死者数だ。新型ウイルスの場合、たとえばSARSが大流行したのは二〇〇三年。死者数774人。さらにMERS大流行は二〇一二年。死者数858人。ところがそれ以降に限ってみても、たとえば二〇一六年の統計を見ると、全米での銃による総死者数は約39000人にのぼっている。銃乱射事件での死者数は451人。銃による殺人での死者数は約14000人。しかし最も多いのは自殺である。銃による自殺者数は約23000人にのぼる。それら銃による死者数だけを合わせて十年単位でみると年間約3万人が銃によって死んでいることになる。数十人単位の犠牲者が出る銃乱射事件は日本でも報道されるが、個別的な銃殺の場合、貧困地域、家庭内、繁華街の飲食店の中、街路でのすれ違いなど、それら一つ一つは報道されない。さらに銃を用いた自殺の場合になると世界的有名人以外まったく報道されない。「パンデミック」と「アウトブレイク」はどちらも医学/医療用語である。しかし「アウトブレイク」でありなおかつ「パンデミック」の要件を満たすSARSやMERS流行期の死者数と比較した場合はもちろんのことだが、さらにSARS感染での死者数とMERS感染での死者数との合計死者数をさえ、アメリカ国内での銃による総死者数はたった一年間だけでもそれらを遥かに上回っていることを忘れ去ってしまってはならないだろうと考える。
またさらに薬物(ドラッグ)による死者数(二〇一七年に年間7万人超)が加わる。だがアメリカ当局者はその原因について「医師が処方箋薬を大量に出したため」としている。だが「クスリなしで仕事に出かけることは無理」と答える多くのビジネスパーソン、労働者らにとって、「クスリなしで仕事を続けることはもう限界だ」と発言するのは困難でもある。アメリカ社会はすでに病気であるという事実を認めることになる。事実を口にすると職を失うことになりかねない。もし失業すれば今度、家族、親しい人、近い人など、それらをどうやって養っていくのかという危機感がいつもある。また、相当強力な作用を持つドラッグ使用に関し、諸外国に比べてアメリカは寛容だ。グローバル資本主義の頂点に位置していなければ気が済まないアメリカ国家当局は、社会的レベルで錯綜した諸問題をこつこつと解決していくより、「医師が処方箋薬を大量に出したため」に薬物依存による死者が急増したと責任転嫁を図っている。しかし問題はそこまでしないと回っていかないアメリカ社会の構造的欠陥にあるのは明白であり以前から国内外を含め再三に渡り指摘されてきた。アメリカは自国第一主義を掲げてTPPから離脱し自由貿易を反故化したーーー抵抗勢力を軍事力で押さえ込んだーーーにもかかわらずアメリカはますます自浄作用を失っていっているように見える。ベイトソンはいう。
「個々の生物でもその集団でも、自分たちが生き残ることだけを考え、他者を力で圧倒することが『適応』なのだと考えて、その原則の上に行動を組み立てていったとしたら、その《進歩》の行き着くところが自分たちの生きる場の破壊でしかないことは、過去百年の歴史を見るとき、あまりに明白であります。環境を破壊することは、自らを破壊する確実なやり方です」(ベイトソン「精神の生態学・P.599」新思索社)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「ディヴィーヌは鐘が鳴るのを聞いている(というのも彼女は徹夜しているのだから)。消えゆく音色のかわりに、打つ音、五つの打つ音が敷石の上に落ちてくる、そしてこの打つ音とともに、濡れた敷石の上に、三、四年前、この同じ時刻に、小さな町のいくつかの通りで、ゴミ箱のゴミのなかのわずかなパンをあさっていたディヴィーヌを落とすのだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.69」河出文庫)
記憶は閃光のごとく接続される。いまはミニョンのおかげで屋根裏部屋だけは確保できている。だが記憶は教会の鐘の音にまつわる様々なことを忘れてはいない。ディヴィーヌは鐘の音によってまたたく間に変身する。
「いい香りのする屋根裏部屋で、朝のお告げの鐘は、暴力的に彼女を、足を休め、少しは寒くないようにとミサを聞きに、聖体を拝領しにやって来る湿ったボロを纏った浮浪者に変えてしまう」(ジュネ「花のノートルダム・P.69」河出文庫)
さらにディヴィーヌがまだ少年だった頃。「ある小さな町」。パリはまだ遠い。
「彼女がキュラフロワだった頃、そして彼女がスレート葺の家から逃げ出して、ある小さな町に辿り着いた頃の思い出が、しかも苦しみもなく舞い戻ってくる」(ジュネ「花のノートルダム・P.69~70」河出文庫)
現在の鐘の音がなぜかつて鐘の音にともなって記憶された「思い出」を反復させるのか。スピノザはいう。
「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫)
同性愛者として華々しくデビューすることになったパリは遠いけれども、そこへと繋がる「ある小さな町」にはその町なりの思い出が薔薇のように点々と花開いていた。彼らはどれも夜明けごとに「公園の芝生から生まれたばかり」の初々しさを放っていた。
「その町では、黄金色の、薔薇色の、あるいは蒼白い朝に、人形のようなーーー彼らから見れば、うぶだと思ってしまうーーー魂をもった乞食たちが、まるで兄弟のようだとも言える仕種をしながら近づいてくる。彼らは、寝場所にしている並木道のベンチや、アルム広場のベンチから起き上げり、あるいは公園の芝生から生まれたばかりなのだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.70」河出文庫)
ディヴィーヌは記憶がいい。やさしく思い出す方法を身につけてもいる。そのディヴィーヌは同時に残虐非道な美しい少年たちを愛する男性同性愛者ディヴィーヌでもある。
ーーーーー
さて、アルトー。構想は単純だ。アルトーは演劇の転倒を目指している。
「私の『宣言』を一度読んだのに、あなたがあくまで自分の反論にこだわっているとは信じられません、それともあなたはあれを読まなかったか、まずい読み方をしたということです。私のスペクタクルはコボーの即興とは何の関係もないでしょう。私のスペクタクルは、どんなに激しく具体のなかに、外のなかに飛び込もうと、脳の閉ざされた部屋ではなく開かれた自然のなかに根を下ろしていようと、そのために俳優の無教養で軽率な気まぐれに委ねられてはいません。とりわけ現代の俳優ですが、彼は台本から抜け出して飛び込むと、もう何もわからないのです。私のスペクタクルは演劇の運命をこんな偶然に委ねないように私は気をつけるでしょう。そうなのです。実際にはいまにも起ころうとしているのはこのことです。問題となっているのは、まさしく芸術的創造の出発点を変え、演劇のいつもの法則をひっくり返すことです」(アルトー「言語についての手紙」(第二の手紙)『演劇とその分身・P.178~179』河出文庫)
ところが、アルトーの厳密に突き詰めて思考された提案であっても、その思考は言語的次元を経由せずには不可能である以上、形而上学として行われるほかないという壁がいつも立ちはだかる。どれほど具体的な言葉を用いて論じてみてもなお、むしろ具体的であればあるほど欧米形而上学の「なか」にのみ「《われわれは設置されているのだ》」という問題はびくともしないとデリダはいう。
「『思考すること』による形而上学の侵犯には、形而上学に逆戻りするという危険がつねにともなう。かかる問いのなかにこそ、《われわれは設置されているのだ》」(デリダ「エクリチュールと差異・P.397」法政大学出版局)
デリダの危機感もまたここから来ている。常に既にあらかじめ人間は紀元前からずっとヨーロッパ、そして近代世界成立以降は欧米中心主義という形而上学の「なか」に組み込まれて日々それを用いることで欧米中心主義を強化保管するように「《われわれは設置されているのだ》」という《現実において》、何をどのようになすべきか、あるいはなさないべきか。
「おそらくいまやわれわれは、現代演劇がアルトーに誠実であるためにはどのような条件が必要であるか、ではなくて、どのような場合には確実にアルトーに不誠実なものになるか、と問うことができるはずだ。不誠実な主題とはどのようなものだろうか。周知のとおり戦闘的に声高にアルトーを標榜する者たちのなかにさえ、そうした主題は見出される。ここではその主題を列挙するにとどめておこう。以下のものは、疑いなく残酷演劇とは無縁である。
1、聖性を欠いたすべての演劇。
2、言葉(パロール)を特権化するすべての演劇。語によるすべての演劇。たとえこの特権が、自分を破壊したり、身振りや絶望的な繰り返しに復帰する言葉であるとしても、この点には変わりはない。それは言葉の自分自身に対する《否定的な》関係であり、演劇のニヒリズムなのだ。これが依然として不条理演劇と呼ばれているものである。このような演劇は言葉によって憔悴してしまい、古典的な舞台の機能を破壊しないというだけでなく、それは、アルトーが(そしておそらくニーチェが)理解していたような意味での《肯定》とはなりえないだろう。
3、芸術の全体性から何かを排除してしまう、すべての《抽象的な》演劇。芸術の全体性とは、生と生が有する意味作用の資源のことであり、それは、舞踏、音楽、造形的な深み、可視的イメージ、音響、音声等々のことだ。抽象的な演劇とは、意味と感覚の全体性が焼き尽くされてはいないような演劇である。ただし、ここから、『全体的な人間』(アルトー全集・第四巻・P.147)に向けられる全体演劇を創り出すためには、すべての芸術を集めたり並べたりすれば十分だと結論するなら、過ちを犯すことになるだろう。このような寄せ集めの全体性、このような外在的で人為的な猿真似ほど全体演劇からかけ離れたものはない。かえって、舞台上の手段のいくつかを見かけ上憔悴させる方が、彼の『メッセージ』のような何ものかへの忠実性(メッセージという観念がすでにアルトーを裏切っている)について語ることに何らかの意味があると仮定するならーーーわれわれはそのようなことを信じてはいないのだがーーー、今日にあっては、さまざまな芸術と芸術家を総動員したり、嘲笑的で安心しきった警察の監視下で騒擾や騒乱を即興的に作り出すことよりも、破壊の作業における厳密で細心で忍耐強く容赦をしない簡潔さや、依然としてとても堅固な装置を備えた権威的な劇作品にしっかり狙いを定めた簡素な鋭さの方が、より確実に必要とされているのである。
4、すべての異化の演劇。この演劇は、舞台の空間に道を開いて侵入する力や創造的行為に対して観客が(さらに舞台演出家や俳優も)参加しないということを、啓蒙的に執拗に、体系的に重々しく神聖視しているだけだ。『力から切り離されて、力の高揚にただ立ちあうだけの姿勢に精神を押しやろうとする』『芸術に関するヨーロッパの理想』(第四巻・P.15)、すなわち古典的な逆説に、《異化効果》は囚われたままなのである。『残酷演劇では観客は中央に位置し、スペクタクルの方が観客を取り囲む』(第四巻・P.98)のだが、そうなると、もはや視線の距離は純粋なものではなくなり、この距離は感覚可能な場の全体性に対して超然としてはいられない。包囲された観客はもはや自分のスペクタクルを《構成する》ことも、スペクタクルを対象としておのれに与えることもできない。もはや観客もスペクタクルもなく、あるのは《祝祭》なのだ(第四巻・P.102)。古典的な演劇性に張り巡らされているすべての境界(再現前化されるもの/再現前化するもの、シニフィエ/シニフィアン、作者/舞台演出家/俳優/観客、舞台/客席、テクスト/解釈=演技等々)とは、祝祭という危険を前にしての、倫理-形而上学的な禁止であり、皺、渋面、作り笑いといった恐怖の徴候だったのである。侵犯によって開かれる祝祭の空間のなかでは、再現前化の距離はもはや維持されえないだろう。『底のない』『絶対的危険』(一九四五年九月)を前にして、残酷の祝祭は欄干と手すりを取り外してしまう。『私が必要とするのは、何よりもまず存在物であるような俳優たちです。つまり、その俳優たちは舞台上で、ナイフの一撃がもたらす真の感覚を恐れず、また、仮想上の分娩がもたらす彼らにとっては《絶対的に》現実のものである苦痛を恐れたりはしないことです。ムネ・シュリィは自分が行なっていることを信じこんでおり、またそのような幻想を与えていますが、彼は自分が手すりに守られていることを知っています。けれども私はその手すりを消し去るのですーーー』(ロジェ・ブランへの手紙)。アルトーがこのように祝祭と呼んだもの、『底のないもの』のこのような脅威に比べれば、『ハプニング』は微笑をさそう。残酷性の経験にとって『ハプニング』とは、エレウシスの秘儀にとってのニースのカーニヴァルのようなものだ。なぜかと言えば、その最たる理由は、アルトーが命じていた全体的革命を、『ハプニング』は政治的なアジテーションに代えてしまうからである。祝祭は政治的《行為》であらねばならない。そして、政治的革命の《行為》は《演劇的》であるのだ。
5、すべての非政治的演劇。祝祭は政治的《行為》であらねばならないとわれわれは言っているのであって、世界に関する政治道徳的な構想やヴィジョンのーーー雄弁であったりなかったり、教育的であったりなかったり、文明化されていたりなかったりするようなーーー伝達であらねばならないと言っているのではない。もしもこの行為とこの祝祭の政治的意味や、ここでアルトーの欲望を魅了している社会のイメージの考察を行なおうとするならーーーこの場でそれを行なうことはわれわれにはできないがーーー、ルソーに言及して、そこにある最大の近接のなかの最大の差異を確認するのを避けることはできないだろう。ルソーにおいても、古典的なスペクタクルの批判、言語の《分節》に対する不信、再現前化=代理に代わる公共的祝祭という理想と、完全に自己に現前している社会という一種の模範とが結び合わされていた。この社会の模範は、社会生活の決定的な瞬間に、《再現前化=代理》への依拠を無用で有害なものにしてしまう小さな共同体のなかに見出される。ここで言う再現前化とは、代補することであり、政治的であると同じく演劇的でもある代理のことだ。『社会契約論』においても『ダランベール氏への手紙』においてもルソーが嫌疑をかけていたのはーーーそれが何を再現前化=代理するかに関わりなくーーー《再現前化=代理するもの》一般だったという点を、非常に正確に証明することも可能だろう。『ダランベール氏への手紙』でルソーが提案しているのは、演劇による再現前化を、展示されるものもスペクタクルもない、『見るべきものが何もない』公共的祝祭に置き換えることだった。この祝祭では観客自身も俳優にならねばならない。『けれども、結局、このスペクタクルの目的とはどのようなものになるのでしょうか。目的など何もない、と言ってもいいでしょうーーー。広場の真ん中に花で飾られた杭を立て、そのまわりに民衆を集めてごらんなさい。すると祝祭が始まるでしょう。もっといいやり方があります。観客たちをスペクタクルにしてしまい、彼ら自身を俳優にしてしまうのです』。
6、すべてのイデオロギー演劇、すべての文化的演劇、すべてのコミュニケーションと《演技》による演劇。これらの演劇はある内容を伝達し、(政治的、宗教的、心理的、形而上学的というふうに、その性質がいかなるものであれ)あるメッセージを送ろうとしており、聴衆たちに対して言説の内容を読みものとして与えるのであって、舞台の《行為》と《現在という時間》によって完全に汲み尽くされることはなく、舞台と一体となることもなく、舞台がなくとも《反復される》ことが可能なのだ。われわれはここでアルトーの企ての深い本質のごときもの、彼の歴史-形而上学的決断に触れている。《アルトーは反復一般を消し去りたいと望んでいた》。彼にとって反復は悪であり、そしてこの点を中心にして、彼のテクストの読解の全体を組織することもおそらく可能だろう。反復は力、現前、生をそれ自身から切り離す。この分離は、自己を守るために自己を差異化して自己を延期するもの、消費を抑えて恐れに屈するものの節約的(エコノミック)で打算的な挙措なのだ。このような反復の力が、破壊したいとアルトーが望んでいたもののすべてを支配していたのであり、そして、その力はいくつもの名前をもっているのである。すなわち、<神>、<存在>、<弁証法>。<神>とは永遠性であり、その永遠性の死は果てしなく続いていて、生の内なる差異と反復として、生を脅かすことを決してやめない。われわれが恐れねばならないのは、生きた<神>ではなくて、<死んだ神>なのだ。<神>とは<死>である。『なぜなら無限さえも死んでしまったからだ、/無限とはある死者の名前だ/だが、その死者は死んではいない』(『84』)。反復が存在するやいなや、<神>がそこにいる。そして、現前するものはおのれを保持し保留する。言い換えるなら、現前するものは自分自身から窃取されるのだ。『絶対的なものは一個の存在者ではない。それは決して一個の存在者になることはない。なぜなら、それが存在者になるためには、私に対して犯罪を犯すことが必要だからだ。つまり、私から一個の存在者を引き剥がさねばならないのだ。その存在者は、いつの日か神になることを望んでいた。だが、そんなことはありえない。<神>には、たった一度で自分のすべてを現すことなどできないのだ。<神>は永遠が無限の回数にわたって永遠に繰り返されるあいだ、無限に何度も何度も現すものだからだ。これによって永続性が創り出されるのである』(一九四五年九月)。再-現前的な反復のまた別の名前は<存在>である。<存在>という形式のもとでは、生と死の諸々の形式や諸々の力の無限の多様性が無際限に語のなかで混ぜ合わされ反復されるようになる。というのも反復の可能性によって構成されない語や、より一般的に言えば、記号などないからだ。反復されない記号、その『最初』においてすでに反復によって分割されていないような記号は記号ではない。したがって、記号作用としての返送は、それが毎回同一のものに返送されるためには、理念的なものでなければならないーーーそして理念性とは反復によって確立される力でしかないのだ。それゆえ、<存在>は永遠の反復の支配語であり、生きることに対する<神>と<死>の勝利なのである。(たとえば『哲学の誕生』における)ニーチェと同様に、アルトーは<生>を<存在>に包摂させることを拒否し、系譜の順序を逆転させる。『まず最初に生きること、それから魂に従って存在すること。存在の問題はその帰結でしかない』(一九四五年九月)。『人間の身体にとって、存在ほど大きな敵はない』(一九四七年九月)。別の未刊のテクストのいくつかは、アルトーが独自に『存在の彼方』(一九四七年二月)と呼ぶものに価値を与えようとしている。その際アルトーは『存在の彼方』というプラトンの表現を(アルトーがプラトンを読んでいたことは疑いないのだが)ニーチェのスタイルで用いているのだ。最後に、<弁証法>とは、消費が現前性のなかに回収される運動である。それは反復の経済(エコノミー)であり、真理の経済(エコノミー)なのだ。反復は否定性を《概括》し、過ぎ去った現在を真理として、理念性として集約し保持する。真なるものとはつねに、反復されるものなのである。非-反復、たった一度のうちに現在を使い尽くす回帰なき断固たる消費、これらは恐れをいだく論証性に、迂回しえぬ存在論に、弁証法に終止符を打つに違いない。『弁証法(ある種の弁証法)は私を破滅させたものであるのだからーーー』(一九四五年九月)。
つねに弁証法はわれわれを破滅させるものであった。なぜなら、弁証法はつねにわれわれの拒否《を考慮ずみ》であるからだ。同様に弁証法はわれわれの肯定をも考慮ずみなのである。反復としての死を拒否することは、死を、回帰することのない、現在の消費として肯定することである。そして、この逆も成り立つ。これが、肯定に関するニーチェ的反復をおびやかす図式である。現在の唯一性を死に付与して現在《そのもの》を出現させようとする純粋な消費、絶対的な気前よさはすでに、現在の現前性を保持したいと望み始めているのだ。それはすでに書物と記憶を開始し、記憶としての存在の思考を開始しているのである。現在を保持しようと望まぬこと、それは、現在において代替不可能で死にゆく現前性を構成するもの、つまり、現在のうちにあって反復されぬものを保護したいと望むことだ。すなわち、それは、純粋な差異を享受することである。ヘーゲル以降に思考されている思考の歴史の基盤が、血の気のない粗描にまで縮減されたなら、以上のごときものになるはずである。
演劇の可能性とは、悲劇を反復として考察するこのような思考に課せられた炉心である。反復の脅威が演劇ほどに組織されている場は他にはない。反復の起源としての舞台に、原初的反復に、これほど近づける場所は演劇以外にはない。この反復を、それ自身から、またそのドゥブルから引き離して、消去しなければならないのだ。ここでいうドゥブルは、アルトーが『演劇とその分身(ドゥブル)』について語っているような意味ではなく、襞、内的な重複を指し示しており、これが反復の抑え難い運動によって、演劇や生などから、その現在の行為がもつ単一の現前性を窃取してしまうのである。『一度』とは、意味も、現前性も、判読可能性ももたぬものの謎だ。ところで、アルトーにとって、残酷の祝祭はたった《一度》しか起こってはならないのである。『テクストの批評は学者を気取る者たちに、形式の批評は審美家たちにまかせよう。すでに語られたことはもはや語られるべきではないということ、表現は二度価値をもちはしないし、二度生きたりはしないということ、口にされた言葉はどれもみな死んでおり、その言葉が作用するのはそれが口にされる瞬間だけだということ、使用された形式はもはや役に立たず、ただ別の形式を探すように誘うだけだということ、演劇=劇場は、為された行為が二度繰り返されないこの世で唯一の場所だということ、これらのことを認めることにしよう』(第四巻・P.91)。事実、見かけはその通りである。演劇の再現前化が終了すると、その背後には、その現在性の背後には、いかなる痕跡も、持ち帰るべきいかなる客体も残されないのだ。演劇の再現前化とは書物でも作品でもなく、現実態(エネルゲイア)である。かかる意味で、演劇の再現前化は唯一の生の芸術なのである。『演劇が教えるものとは、まさしく、一度為されたならもはや為されるべきではない行動の無用性であり、行動によって無用なものにされた状態の卓越した有用性であって、かかる状態が《逆転して》昇華を産み出すのだ』(P.99)。このような意味において、残酷演劇は、経済=節約も留保も回帰も歴史も欠いた差異と消費の芸術だと言えるだろう。それは純粋な差異としての純粋な現前である。残酷演劇の行為は忘れられねばならない。それも、積極的に忘れられねばならない。ここでは、『道徳の系譜』の第二論文が語る、あの《積極的な忘却》を実践する必要がある。『道徳の系譜』もまた『祝祭』と『残酷性』をわれわれに説明してくれるのだ。
非演劇的エクリチュールに対するアルトーの嫌悪も同じ意味を持っている。アルトーに嫌悪を抱かせるものは、『パイドロス』の場合のように、身体の身振りではない。つまり、魂のなかへ真理を記入することとは無縁な、記憶を低下させる感覚的で記憶術的な刻印ではないのだ。反対に、知解可能な真理の場としてのエクリチュール、生きた身体にとっての他者、理念性、反復こそがアルトーに嫌悪を抱かせる。プラトンはエクリチュールを身体として批判する。アルトーはエクリチュールを身体の消去、一度しか起こらない生きた身振りを消去するものとして批判する。エクリチュールとは反復一般の空間そのものなのである。だからこそ、『テクストと《書かれた》詩という、この迷信と手を切らねばならない。書かれた詩は一度だけ価値を持ち、その後では廃棄されるべきだ』(第四巻・P.93~94)。
このように不誠実性の主題を示してみれば、ただちに分かることだが、誠実は不可能である。今日、世界のどこにもアルトーの欲望に応える演劇は存在しない。この点からすると、アルトー自身の試みも例外ではないだろう。誰よりもアルトー自身がそのことを承知していた。残酷演劇の『文法』とは『見出すべき』ものだとアルトーは語っていたのだが、この『文法』はつねに到達しえない限界であり続けるだろう。それは、反復ではない再現前化、十全な現在であって自己のうちに自己の死としての自己の重複(ドゥブル)を含まぬ《再》-現前化、反復しない現在、つまり時間の外の現在、非-現在という限界なのである。現在が現在として与えられ、出現し、現前化し、時間の舞台ないし舞台の時間を開くのは、自己の内部にある固有の差異を現在が受け入れる場合のみであり、また、それは、現在の起源的反復の内にある襞において、再現前化においてでしかない。すなわち、それは弁証法においてでしかないのだ。
アルトーはこのことをよく承知していた。『ーーーある種の弁証法ーーー』。なぜなら、弁証法の《地平》をそれにふさわしい形でーーー慣例的なヘーゲル主義の外でーーー思考するなら、弁証法が有限性の、生と死の統一の、差異の、起源的反復の、無際限な運動であることがおそらく理解されるはずだからだ。言い換えるなら、弁証法とは、単一の起源の不在としての、悲劇の起源なのだ。かかる意味で、弁証法は悲劇であり、純粋な起源という哲学的ないしキリスト教的観念に抗し、『始まりの精神』に抗する唯一可能な肯定なのである。『だが、始まりの精神は私に愚かなことばかり行なうように仕向け続けたのであり、そして私の方はキリスト教精神である始まりの精神から身を引き離そうとし続けたのだーーー』(一九四五年九月)。悲劇的なものは反復の不可能性ではなく、反復の必然性なのだ。
残酷演劇が始まり成就されるのは、単一の現前の純粋性においてではなく、すでに、再現前化においてであり、『<創造>の第二期』においてであり、単一の起源の葛藤では決してありえなかったような、諸力の葛藤においてであることをアルトーは承知していた。おそらくそこで残酷性の実践の開始が可能になるのだが、また、それによって残酷性は《損われる》ことになる。起源はつねに《損われて》いるのだ。これが演劇の錬金術である。『おそらく先へ進む前に、ひとは、典型となる原始的演劇ということで、われわれが何を言おうとしているのか、と尋ねることだろう。これによって、われわれは問題の核心そのものに入っていく。もしもひとが実際に演劇の諸起源と存在根拠(あるいは原初的な必然性)の問いを提起するなら、ひとは、一方では形而上学的に、ある種の本質的な劇(ドラマ)の物質化、あるいはむしろその外在化を見出す。この劇には、多様であると同時に単一な仕方で、あらゆる劇の本質的な諸原理が含まれているだろう。この諸原理はそれら自身としてすでに《方向づけられ》、そして《分割され》ており、原理としての性格を失うにはいたらなかったが、諸々の葛藤の無限のパースペクティヴを、たっぷりと能動的に、つまり、すぐにでも放出できるほどに含みもつには十分であった。このような劇を哲学的に分析するのは不可能である。詩的にのみーーー。そして、人々が完璧に感じているように、この本質的な劇は実在する。この劇は、<創造>そのものよりも繊細な何ものかの似姿として存在する。<創造>とは一なるーーーそして《葛藤なき》ーーー<意志>から帰結したものとして思い浮かべるべきものなのだ。本質的な劇はーーーこれはあらゆる<大いなる神秘>の基盤に存しているのだがーーー、<創造>の第二期と、困難と<分身>の時期と、物質と観念の凝固の時期と結合するのだと信じなければならない。単一性と秩序が支配しているようなところでは、演劇も劇もありえないように思われる。真の演劇は、しかも詩と同様に、ただし詩とは異なる道を経て、自己を組織立てる無秩序(アナーキー)から誕生するーーー』(第四巻・P.60、61、62)。
したがって、原始的演劇と残酷性が始まるのは、反復からでもあるのだ。だが、再現前化なき演劇という観念、この不可能なものの観念は、たとえ演劇の実践を制御する手助けにはならないとしても、おそらくわれわれが演劇実践の起源、その前日、その限界を思考し、今日において演劇をその歴史の開始を起点にして、その死の地平のなかで思考することを可能にしてくれる。西洋演劇の現実態(エネルゲイア)はこのようにその可能性のなかに浮かびあがってくるのだが、この可能性の方は偶発的なものではなく、<西洋>の全歴史にとって、構成する中心であり、構造化する場なのである。しかし反復はこの中心とこの場を窃取し、そして、われわれがその可能性について語ったばかりのことがらは、死を《地平》のように、また、誕生を過去における《開始》のように語ることをわれわれに禁じることになるだろう。
アルトーは、純粋演劇の可能性と不可能性という限界の最も間近にいたのである。現前は、それが現前となり、そして自己への現前となるために、つねにすでに再現前化され始めていたのであり、つねにすでに損われていた。肯定そのものも、みずからを反復することによって、みずからを損わねばならぬのである。これが意味するのは、再現前化の歴史と悲劇の空間を開始する父の殺害、アルトーがその起源の最も間近で、要するに、反復したい、ただし《たった一度だけ》反復したいと望んだ父の殺害は終焉することがなく、無際限に反復されるということだ。父の殺害は反復されることによって始まる。この殺害は消え去り、そして、侵犯された法を確立する。そのためには、一個の記号が、すなわち反復がありさえすれば十分なのである。
この限界の表面の下で、そして、内的差異も反復も欠いた現前の純粋性(あるいは、純粋な差異の純粋性と言っても、逆説的だが同じことになる)を救いたいと望む限りで、アルトーは演劇の不可能性をも欲した。すなわち、アルトー自身が舞台を消し去りたいと望んでいたのであり、つねに父によって住みつかれ、あるいは取り憑かれ、殺害の反復によって支配された場所で起こるようなことなどもはや見たくないと望んでいたのである。『ここに眠る』のなかで『私ことアントナン・アルトー、私は私の息子であり、/私の父であり、私の母であり、/そして私だ』と書いて、原-舞台を解消したいと望んだのは、アルトーではなかっただろうか」(デリダ「エクリチュールと差異・P.488~501」法政大学出版局)
というところで、次回から再び「傑作と縁を切る」の途中の箇所、いったん放置しておいた部分へ戻ってみることにしたい。
ーーーーー
なお、新型ウイルス感染問題について。日本のマスコミは連日報道し続けている。正確な情報の提示が必要なのは言うまでもない。世界ではすでに撲滅されたウイルスは様々ある。だが研究は続けられなくてはならない。なのでそれら稀少ウイルスを研究目的で保存している機関はもちろんある。CDC(アメリカ疾病管理予防センター)もその一つ。WHO(世界保健機関)の上級職は慣例的にCDC(アメリカ疾病管理予防センター)出身者が多いことでも知られる。さて奇妙なことに、アメリカには新型ではないものの年単位でみて同時多発的ウイルス感染を越える死者数がはじき出されている部門がある。銃による年間死者数だ。新型ウイルスの場合、たとえばSARSが大流行したのは二〇〇三年。死者数774人。さらにMERS大流行は二〇一二年。死者数858人。ところがそれ以降に限ってみても、たとえば二〇一六年の統計を見ると、全米での銃による総死者数は約39000人にのぼっている。銃乱射事件での死者数は451人。銃による殺人での死者数は約14000人。しかし最も多いのは自殺である。銃による自殺者数は約23000人にのぼる。それら銃による死者数だけを合わせて十年単位でみると年間約3万人が銃によって死んでいることになる。数十人単位の犠牲者が出る銃乱射事件は日本でも報道されるが、個別的な銃殺の場合、貧困地域、家庭内、繁華街の飲食店の中、街路でのすれ違いなど、それら一つ一つは報道されない。さらに銃を用いた自殺の場合になると世界的有名人以外まったく報道されない。「パンデミック」と「アウトブレイク」はどちらも医学/医療用語である。しかし「アウトブレイク」でありなおかつ「パンデミック」の要件を満たすSARSやMERS流行期の死者数と比較した場合はもちろんのことだが、さらにSARS感染での死者数とMERS感染での死者数との合計死者数をさえ、アメリカ国内での銃による総死者数はたった一年間だけでもそれらを遥かに上回っていることを忘れ去ってしまってはならないだろうと考える。
またさらに薬物(ドラッグ)による死者数(二〇一七年に年間7万人超)が加わる。だがアメリカ当局者はその原因について「医師が処方箋薬を大量に出したため」としている。だが「クスリなしで仕事に出かけることは無理」と答える多くのビジネスパーソン、労働者らにとって、「クスリなしで仕事を続けることはもう限界だ」と発言するのは困難でもある。アメリカ社会はすでに病気であるという事実を認めることになる。事実を口にすると職を失うことになりかねない。もし失業すれば今度、家族、親しい人、近い人など、それらをどうやって養っていくのかという危機感がいつもある。また、相当強力な作用を持つドラッグ使用に関し、諸外国に比べてアメリカは寛容だ。グローバル資本主義の頂点に位置していなければ気が済まないアメリカ国家当局は、社会的レベルで錯綜した諸問題をこつこつと解決していくより、「医師が処方箋薬を大量に出したため」に薬物依存による死者が急増したと責任転嫁を図っている。しかし問題はそこまでしないと回っていかないアメリカ社会の構造的欠陥にあるのは明白であり以前から国内外を含め再三に渡り指摘されてきた。アメリカは自国第一主義を掲げてTPPから離脱し自由貿易を反故化したーーー抵抗勢力を軍事力で押さえ込んだーーーにもかかわらずアメリカはますます自浄作用を失っていっているように見える。ベイトソンはいう。
「個々の生物でもその集団でも、自分たちが生き残ることだけを考え、他者を力で圧倒することが『適応』なのだと考えて、その原則の上に行動を組み立てていったとしたら、その《進歩》の行き着くところが自分たちの生きる場の破壊でしかないことは、過去百年の歴史を見るとき、あまりに明白であります。環境を破壊することは、自らを破壊する確実なやり方です」(ベイトソン「精神の生態学・P.599」新思索社)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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