隅田川東岸一帯。今の江東区や墨田区辺りだろうか。鈴木咲子はいう。
「東京の日本橋から見て東の地域には、古くから続く園芸文化が今も残っていて、ちょっと裏路地に入れば、狭い敷地に並んだ大小の花木たちが、ほのぼのと陽光に包まれて佇んでいるのに出会います」(鈴木咲子「花壇の思い出」『群像・2024・5・P.386』講談社 二〇二四年)
近代以前、例えば江戸時代の浮世絵に目を通してみると「朝顔」、「紫陽花」、「菊」、「菖蒲」などが相当するのかもしれない。浮世絵で目立つのは桜や柳といった大きな樹木だが園芸となるともっと小ぶりの品種が対象であり、松もまた巨木ではなく盆栽、梅なら盆梅というふうになってくる。
それらは鈴木咲子のいういわゆる「下町」に限らず、さらに軍事大国化していく大日本帝国の首都の中にあってさえ、ささやかではあれ市民が熱心に手を掛けて日々の暮らしに興を添える「文化」としてせっせと育まれていた。
ちなみに夏目漱石作品で「朝顔」が顔を覗かせている箇所はたいへん有名。一九一二(大正元)年「行人」から。
「自分達が大阪から帰ったとき朝貌はまだ咲いていた。然し父の興味はもう朝貌から離れていた。『どうしました。例の変り種は』と自分が聞いてみると、父は苦笑いをして『実は朝貌もあまり思わしくないから、来年からはもう止めだ』と答えた。自分は大方父の誇りとして我々に見せた妙な花や葉が、恐らくその道の人から鑑定すると、成っていなかったんだろうと判断して、茶の間で大きな声を立てて笑った。すると例のお重とお貞さんが父を弁護した。『そうじゃ無いのよ。あんまり手数が掛るんで、御父さんも根気が尽きちまったのよ。それでも御父さんだからあれだけに出来たんですって、皆(みん)な賞めていらしったわ』。母と嫂は自分の顔を見て、さも自分の無識を嘲(あざ)けるように笑い出した。すると傍(そば)にいた小さな芳江までが嫂と同じように意味のある笑い方をした」(夏目漱石「行人・P.185」新潮文庫 一九五二年)
百万人都市東京。軍事大国化と並行しつつも園芸文化は江戸時代同様衰退する気配が見られない。
一方、考えてみたいことがある。
第二次世界大戦敗北後の戦後民主主義日本。東京を中心として息を吹き返したかのような「豊かさ」の恩恵を受け始めた地方都市に至るまで、なぜ「豊かさ」を謳歌しようとすればするほど逆に<文化としての園芸>の場はどんどん切り詰められていったのか。
とりわけ一九七〇年代。少しさかのぼれば一九六〇年代に始まった「高度成長」路線と並行しつつ、園芸は裏路地へ、民家が密集する曲がりくねった裏路地の片隅へ、まるで邪魔だといわんばかりに立ち退きを要求された経過がある。園芸への圧力というだけでは到底なく、もっと遥かに長く<文化>として成立していた園芸の場所を根こそぎにする「国策」と化した無謀な都市計画の貫徹はいったい今や何を残したか。
巨大スポンサーの宣伝くらいが関の山のマス-コミとしては引くに引けない国策(大阪万博、リニア新幹線、こっそり拡張が進められている在沖縄米軍基地と自衛隊施設との秘密のミステリー)について、島国日本が約束破りにも等しい政治手法で売り飛ばされていく事態をまるで報道しないのである。