山男はいつも必ず山の中にいるのだろうか。そうとは限らない。ではしばしば町に降りてくるのだろうか。しばしばとまではいかないだろう。しかしほんの時たま、町へ降りてくることもあった。「七つ森」がその通過点だ。ここまで来ると山男は慎重になる。
「ここは七つ森だ。ちゃんと七っつ、森がある。松(まつ)のいっぱい生えてるのもある、坊主(ぼうず)が黄いろなのもある。そしてここまで来てみると、おれはまもなく町へ行く。町へはいって行くとすれば、化けないとなぐり殺される」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.82』新潮文庫 一九九〇年)
山人は山の中に限り、常日頃から平地人に恐れられてはいる。だが山人は町へ出てくると逆に平地人を恐れ怯える。見つかった場合、ややもすれば虐殺され屍体を山中に運び込まれて放置されるがまま終わる。そんなままならぬ関係にある両者のあいだ、山人と平地人との境界線上に「七つ森」は位置する。詩「屈折率」でわずかばかり触れられる「七つ森」はひとつひとつの森(丘)が多彩な特徴を持つことを語る。
「七つ森のこつちのひとつが 水の中よりもつと明るく そしてたいへん巨(おほ)きいのに わたくしはでこぼこ凍(こほ)つたみちをふみ このでこぼこの雪をふみ 向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ 陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに (またアラツデイン 洋燈<ランプ>とり) 急がなければならないのか」(宮沢賢治「春と修羅・屈折率」『宮沢賢治詩集・P.24』新潮文庫 一九九〇年)
この詩「屈折率」で顔をのぞかせる「陰気な郵便脚夫(きやくふ)」とは何か。これまで長く「ドッペルゲンガー=もう一人の宮沢賢治」という解釈が通説として採用されてきた。「黒い長いオーヴァを着た医者らしいもの」(小岩井農場)など。それは間違っていないと思われるが、「死の世界の側のもう一人の宮沢賢治」というより「死のもう一つ手前、<乖離>する賢治のもう一方」として考えておくのがよりいっそう妥当だろうと思われる。生と死について極端な二項(生か死か)しかないと考えるのはいかにも乱暴であり、またなお現代社会の日常生活において常軌を逸した過酷な状況(DV、職場や教室でのいじめ・精神的リンチ)の中に放り込まれた人間はしばしば<乖離>状態に陥ることで実際の耐えられない苦痛をやや離れた場所からどこかぼうっとした虚無的感情のうちに眺めて見つめ、その過酷な状況が過ぎ去るのをやり過ごすということがわかってきたからである。
さて、山男は「一人(ひとり)まえの木樵(きこり)のかたち」に化ける。するともうすぐそこが「町の入口」と化している。山男のままではなしに「木樵(きこり)のかたち」に変身するや否やなぜかそこがやおら「町の入口」に変身するといってもいい。「町」というものに与えられた性質がよくわかるに違いない。それは町で暮らす人々にとって馴染み深い者であればあるほど近くに「入口」を出現させるという性質を持つ。山男が山男姿のままだったならいつまでも「入口」は遠のくままだったろう。
「一人(ひとり)まえの木樵(きこり)のかたちに化けました。そしたらもうすぐ、そこが町の入口だったのです」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.83』新潮文庫 一九九〇年)
山男は町の中へ入っていってうろうろする。魚屋の店頭を眺めて吊るしてある「ゆで章魚(だこ)」に関心したりする。するとそこで「大きな荷物をしょった、汚(きた)ない浅黄服(あさぎふく)の支那(しな)人」とばったり出くわす。その支那人は行商中で山男に「六神丸(ろくしんがん)」という薬を売り込む。山男から見た行商の支那人の姿形について。二つ拾っておこう。
(1)「どうもその支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼が、とかげのようでへんに怖(こわ)くてしかたありませんでした」
(2)「あの手の指はずいぶん細いぞ。爪(つめ)もあんまり尖(とが)っているしいよいよこわい」
見た目の印象に過ぎないが、いずれにしてもその「支那人」は極度の栄養失調状態を示している。しかし賢治はあえてそうとは書かず、山男から見た支那人のイメージ描写に任せる。そして山男が支那人と対話しているうち、周りの情景はすっかり変わっている。
「じぶんはいつか町の中でなく、空のように碧いひろい野原のまんなかに、眼のふちの赤い支那人とたった二人、荷物を間に置いて向いあって立っているのでした」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.85』新潮文庫 一九九〇年)
町に住む平地人の世界に溶け込んでいない者たちの遭遇は「町でなく」、さらに、おそらくどこと名指すことのできない別の世界へ舞台を置き換えて行われる。支那人のいう通り六神丸を飲んだ山男の姿形はふいに変わってしまう。「ちいさな箱のようなもの」に変わって草の上に落ちているばかりである。「ただ一箱の小さな六神丸」と化した。山男は悔しがってこう思う。
「やられた、畜生(ちくしょう)、とうとうやられた、さっきからあんまり爪が尖ってあやしいとおもっていた。畜生、すっかりうまくだまされた」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.85』新潮文庫 一九九〇年)
支那人が背負っっている行李の中に入れられて、ばたりと蓋が閉じた。暗闇になるかとおもいきや、「日光は行李の目からうつくしくすきとおって見えました」。行李の中から外は丸見えになる。するとさらに行李にふろしきがかかったらしい。急に暗くなった。驚いたことに行李の中にはもう一人いて、「おまえさんはどこから来なすったね」と声をかけてきた。人間のようだが山男と同様に小さな箱になっているらしい。山男は思う。「ーーー六神丸というものは、みんなおれのようなぐあいに人間が薬で改良されたもんだなーーー」。
行李の中でもう一人の男としゃべっていると行商の支那人は、声が大きいから静かにしてくれという。すると山男は逆に大声を張り上げて怒鳴り返した。
「『きさまが町へはいったら、おれはすぐ、この支那人はあやしいやつだとどなってやる。さあどうだ』。支那人は、外でしんとしてしまいました。じつにしばらくの間、しいんとしてしまいました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87』新潮文庫 一九九〇年)
行商の支那人は「しんとして」、「じつにしばらくの間、しいんとして」しまった。山男の気持ちが揺れた。
「いままで峠(とうげ)や林のなかで、荷物をおろしてなにかひどく考え込(こ)んでいたような支那人は、みんなこんなことを誰(たれ)かに云(い)われてたのだなと考えました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87』新潮文庫 一九九〇年)
そう思うと山男は支那人のことが途端に「かあいそうに」思われてきた。支那人はいう。山男はそれに応じて返事を返し、対話する。
「『それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する。それ、あまり同情ない』。山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯(いわし)の頭や菜っ葉汁(じる)をたべるかわりにくれてやろうとおもいながら答えました。『支那人さん、もういいよ。そんなに泣かなくてもいいよ。おれは町にはいったら、あまり声を出さないようにしよう。安心しな』。すると外の支那人は、やっと胸をなでおろしたらしく、ほおという息の声も、ぽんぽんと足を叩(たた)いている音も聞えました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87~88』新潮文庫 一九九〇年)
この時、瞬間的に何かが起っている。行商の支那人へ向けられていた山男の攻撃的リビドーが、支那人の置かれた哀れな境遇を物語る言葉が壁となって逆に山男の方向へ逆流してきた。山男は行商の支那人に対する「良心の疚しさ」を芽生えさせてしまう。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)
賢治の文章に「山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯(いわし)の頭や菜っ葉汁(じる)をたべるかわりにくれてやろうとおもいながら答えました」と、説明のような文章が挿入されている。どこか見覚えがないだろうか。例えば次の箇所。
「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)
法華経主義者=賢治の信仰告白。如来的実践(菩薩的無償性)。過剰で逸脱した絶対的自己犠牲の精神がふいに湧きおこるのだ。自己犠牲の精神を発揮するのはなるほど各自の自由だけれどもあまりにも過剰だと自殺に至る。そこまで行くと信仰の自由を遥かに通り越してカルトの自由へ容易に転化してしまう。またさらに、その死が天上・浄土への移動だとは必ずしも限らないしそもそも誰一人として知らない。しかし法華経主義の「優等生」賢治はそれでもなお法華経に説かれた文章そのままを実際に生きようと願う。あまりにも「優等生過ぎる法華経主義者」=賢治の姿はこのように何度も死に接近する。
ところで山男は行李の中で「六神丸」になってしまったもう一人の支那人と対話する。山男が尋ねるとその支那人は「上海(しゃんはい)」からやって来たと答える。行商の支那人の名は「陳(ちん)」というらしい。
「『支那人というものは薬にされたり、薬にしてそれを売ってあるいたり気の毒なもんだな』。『そうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳(ちん)のようないやしいやつばかりだが、ほんとうの支那人なら、いくらでもえらいりっぱな人がある。われわれはみな孔子聖人(こうしせいじん)の末なのだ』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.89』新潮文庫 一九九〇年)
支那人には支那人同士の間でれっきとした上下関係が存在するという。「われわれは孔子の末」で「ほんとうの支那人」だが陳(ちん)のような行商人は「いやしい」とされている世界があるのだ。それにしても籠の中は蒸し暑くてかなわない。風の一つも入れてほしいと山男ははきはき言う。
「『早く風を入れないと、おれたちはみんな蒸(む)れてしまう。お前の損になるよ』。すると陳が外でおろおろ声(ごえ)を出しました。『それ、もとも困る、がまんしてくれるよろしい』。『がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんじゃないんだ。ひとりでにむれてしまうさ。早く蓋をあけろ』。『も二十分まつよろしい』。『えい、仕方ない。そんならも少し急いであるきな』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.89~90』新潮文庫 一九九〇年)
山男の側の発言は圧倒的に強い立場に位置していることがありありとわかる。そして陳は反論することなく山男の優位な立場からの発言をそれとして受け止め「おろおろ」する。しかしなぜ「おろおろ」するかはわからない。両者の上下関係は変わらない。そこで賢治独特の法華経主義の徹底性について述べておかねばならない。この箇所での賢治は山男と陳との間に横たわっている均衡性を欠いた上下関係を解消してやらねばならいという点である。貧しいがゆえに行商するほかない陳は「おろおろ」する。賢治の他の作品を見ても、しょっちゅう「おろおろ」する人間なり動物なりが登場してくる。と同時に、賢治という徹底的法華経主義者の心の中で、これら「おろおろ」するすべての存在をいつか必ず天上・浄土・ユートピアへ持って行ってやらなければならないという命題が出現する。不可能だとしてもなお、少なくとも「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(雨ニモマケズ)と賢治は深い諦めとともに言うのだが、一方、その決意はとてつもなく激しい。
上海からやって来たもう一人の支那人との対話。両者とも命懸けであるにもかかわらずどこかとぼけた風味を漂わせている。その微妙なニュアンスが絶望的事態の到来を回避させ、最終的ディストピア化を延々と先延ばしにしていく。
「『おまえが呑んでもとの通りになってからは、おれたちをみんな水に漬(つ)けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る』。『そうか。よし、引き受けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸薬というのはこれだな。そしてこっちの瓶は人間が六神丸になるほうか。陳もさきおれといっしょにこの水薬をのんだがね、どうして六神丸にならなかったろう』。『それはいっしょに丸薬を呑んだからだ』。『ああ、そうか。もし陳がこの丸薬だけ呑んだらどうなるだろう。変わらない人間がまたもとの人間に変るとどうも変だな』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.90~91』新潮文庫 一九九〇年)
山男のいう言葉、「変わらない人間がまたもとの人間に変る」は、この箇所でたいへん巨大な可能性を示している。荘子はいう。
「子祀・子輿・子犁・子來、四人相與語曰、孰能以无爲首、以生爲脊、以死爲尻、孰知死生存亡之一體者、吾與之友矣、四人相視而笑、莫逆於心、遂相與爲友、俄而子輿有病、子祀往問之、曰、偉哉、夫造物者、將以予爲此拘拘也、曲僂發背、上有五管、頣隠於齊、肩高於頂、句贅指天、陰陽之気有乱、其心間而无事、偏遷而鑑于井曰、嗟乎、夫造物者、又將以予爲此拘拘也、子祀曰、女惡之乎、亡、予何惡、浸假而化予之左臂以爲雞、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以爲彈、予因以求鴞炙、浸假而化予之尻以爲輪、以神爲馬、予因而乗之、豈更駕哉、且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也、此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之、且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉
(書き下し)子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、四人相(あ)い与(とも)に語りて曰わく、孰(たれ)か能く無(む)を以て首(こうべ)と為し、生を以て脊(せ)と為し、死を以て尻(しり)と為すや。孰か死生存亡の一体なるを知る者ぞ。吾れこれと友たらんと。四人相い視(み)て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂(つい)に相い与に友と為(な)る。俄(にわ)かにして子輿に病あり、子祀往(ゆ)きてこれを問う。曰わく、偉なるかな、夫(か)の造物者(ぞうぶつしゃ)。将(まさ)に予れを以て此の拘拘(こうこう)を為さんとすと。曲僂(きょくる)背に発し、上に五管あり、頣(あご)は斉(へそ=臍)に隠れ、肩は頂(あたま)より高く、句贅(こうぜい)は天を指(さ)す。陰陽の気に乱(みだ)るることあるも、其の心間(しずか=閑)にして無事(むじ)なり。偏遷(へんせん)して井(せい)に鑑(かがみ)して曰わく、嗟手(ああ)、夫の造物者、又た将に予れを以て此の拘拘を為さんとするなりと。子祀曰わく、女(なんじ)これを悪(にく)むかと。曰わく、亡(いな)、予れ何ぞ悪まん。浸(ようや)くに仮(いた)りて予れの左臂(さひ)を化して雞(けい)と為(な)さば、予れは因(よ)りて時夜(じや)を求めん。浸くに仮りて予れの右臂を化して弾(だん)と為さば、予れは因りて鴞炙(きょうしゃ)を求めん。浸くに仮りて予れの尻を化して輪と為し、神(しん)を以て馬と為さば、予れは因りてこれに乗らん。豈(あ)に更(さら)に駕(が)せんや。且(か)つ夫れ得る者は時なり、失う者は順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽も入(い)ること能(あた)わず、此れ古(いにし)えの謂わゆる県解(けんかい)なり。而も自ら解くこと能わざる者は、物これを結ぶあればなり。且つ夫れ物の天に勝たざるや久し。吾れ又た何ぞ悪(にく)まんと。
(現代語訳)子祀(しし)と子輿(しよ)と子犁(しり)と子来(しらい)とが、四人でいっしょに語りあった。『無を頭とし、生を背(せなか)とし、死を尻とすることのできる者が、、だれかいるだろうか。死と生と。存と亡とが一体であることをわきまえた者が、だれかいるだろうか。われわれはそういう者と友だちになりたい』。四人はこういうと、顔を見あわせてにっこり笑い、心からうちとけて、そのまま互いに友だちとなった。〔その後〕、突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに訪ねていくと、子輿はこういった、『偉大だね、あの造物者(ぞうぶつしゃ)は。わしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』。背中はひどい背むしでもりあがり、内臓は頭の上にきて頣(あご)は臍(へそ)のあたりにかくれ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天をさしている。体内の陰陽の気が乱れているのだが、その心は平静で格別の事もない。よろめきながら井戸の〔そばに行くと〕、水に姿をうつして、『ああ、あの造物者はまたわしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』といった子祀はいう、『君はそれがいやかね』。『いや、わしがどうしていやがろう。〔造化のはたらきが〕だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。それに、いったいこの世に生を受けたのは生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでゆくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自然の道理に従っていくということなら、〔生死のために感情を動かすこともなく〕、喜びや悲しみの感情が入りこむ余地はない。こういう境地が、むかしの人のいう県解(けんかい)ーーーすなわち束縛からの解放ということだ。しかもなお自分で解放することができない〔で生死のためにくよくよする〕というのは、外界の事物がその心の中で固まっているからだ。それに、そもそも外界の事物が自然の道理に勝てないのは、むかしからのことだ。わしは〔ただ自然の道理に従うばかり〕、またどうしてこの病をいやがったりしようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・大宗師篇・第六・五・P.194~197」岩波文庫 一九七一年)
荘子の主旨はこうだ。「だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ」。心身の全的解放と何ものにでも変身していく意志。そしてそれを指して「縣解(けんかい)」=「束縛からの解放」というのだと。
再び「七つ森」の情景に戻ろう。賢治は詩「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」のほぼすべてを費やして七つ森の多彩多様な変容ぶりを形容して見せる。
「七つ森の雪にうづみしひとつなり、けむりの下を逼(せま)りくるもの。月の下なる七つ森のそのひとつなり、かすかに雪の皺(しわ)たたむもの。月をうけし七つ森のはてのひとつなり、さびしき谷をうちいだくもの。月の下なる七つ森のその三つなり、小松まばらに雪を着るもの。月の下なる七つ森のその二つなり、オリオンと白き雪とをいただけるもの。七つ森の二つがなかのひとつなり、鉱石(かね)など堀りしあとのあるもの。月の下なる七つ森のなかの一つなり、雪白々と裾(すそ)を引くもの。月の下なる七つ森のその三つなり、白々として起伏(きふく)するもの。七つ森の三つがなかの一つなり、貝のぼたんをあまた噴(ふ)くもの。月の下なる七つ森のはての一つなり、けはしく白く稜立(かどだ)てるもの。稜立てる七つ森のそのはてのもの、旋(めぐ)り了(をは)りてまこと明るし」(宮沢賢治「文語詩稿・鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」『宮沢賢治詩集・P.321』新潮文庫 一九九〇年)
これらの組み合わせはもちろんもっと多く考えられるわけだが、すぐ近くを走る列車の中から見える情景だけを取ってもすでに目まぐるしい変容を遂げていく。とすると七つ森はいったいどこからどこまでが森なのか、それとも一つ一つの森が七つ集まっているのでそう呼ばれているに過ぎないのか、あるいは無数の組み合わせを内部に組み込んだ森がありそれを人間の眼の側から見て手前勝手に七つに切り取りさらに合体させて「七つ森」と名づけているだけのことなのか、さっぱりわからなくなるという謎めいた時空間のあり方が浮上する。こうも言える。山と町との境界線は何も山岳地帯と都市との間に存在するというわけではなく、町の中や大都市の中にあってさえ忽然と出現してまた忽然と消え失せてしまうものではないだろうかと。山男と行商の支那人との対話を通して、また同時にその場がふいに急転して「どこかわからない地・どこでもない地」へ瞬時に変わっている点に注目したいと思う。
BGM1
BGM2
BGM3
「ここは七つ森だ。ちゃんと七っつ、森がある。松(まつ)のいっぱい生えてるのもある、坊主(ぼうず)が黄いろなのもある。そしてここまで来てみると、おれはまもなく町へ行く。町へはいって行くとすれば、化けないとなぐり殺される」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.82』新潮文庫 一九九〇年)
山人は山の中に限り、常日頃から平地人に恐れられてはいる。だが山人は町へ出てくると逆に平地人を恐れ怯える。見つかった場合、ややもすれば虐殺され屍体を山中に運び込まれて放置されるがまま終わる。そんなままならぬ関係にある両者のあいだ、山人と平地人との境界線上に「七つ森」は位置する。詩「屈折率」でわずかばかり触れられる「七つ森」はひとつひとつの森(丘)が多彩な特徴を持つことを語る。
「七つ森のこつちのひとつが 水の中よりもつと明るく そしてたいへん巨(おほ)きいのに わたくしはでこぼこ凍(こほ)つたみちをふみ このでこぼこの雪をふみ 向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ 陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに (またアラツデイン 洋燈<ランプ>とり) 急がなければならないのか」(宮沢賢治「春と修羅・屈折率」『宮沢賢治詩集・P.24』新潮文庫 一九九〇年)
この詩「屈折率」で顔をのぞかせる「陰気な郵便脚夫(きやくふ)」とは何か。これまで長く「ドッペルゲンガー=もう一人の宮沢賢治」という解釈が通説として採用されてきた。「黒い長いオーヴァを着た医者らしいもの」(小岩井農場)など。それは間違っていないと思われるが、「死の世界の側のもう一人の宮沢賢治」というより「死のもう一つ手前、<乖離>する賢治のもう一方」として考えておくのがよりいっそう妥当だろうと思われる。生と死について極端な二項(生か死か)しかないと考えるのはいかにも乱暴であり、またなお現代社会の日常生活において常軌を逸した過酷な状況(DV、職場や教室でのいじめ・精神的リンチ)の中に放り込まれた人間はしばしば<乖離>状態に陥ることで実際の耐えられない苦痛をやや離れた場所からどこかぼうっとした虚無的感情のうちに眺めて見つめ、その過酷な状況が過ぎ去るのをやり過ごすということがわかってきたからである。
さて、山男は「一人(ひとり)まえの木樵(きこり)のかたち」に化ける。するともうすぐそこが「町の入口」と化している。山男のままではなしに「木樵(きこり)のかたち」に変身するや否やなぜかそこがやおら「町の入口」に変身するといってもいい。「町」というものに与えられた性質がよくわかるに違いない。それは町で暮らす人々にとって馴染み深い者であればあるほど近くに「入口」を出現させるという性質を持つ。山男が山男姿のままだったならいつまでも「入口」は遠のくままだったろう。
「一人(ひとり)まえの木樵(きこり)のかたちに化けました。そしたらもうすぐ、そこが町の入口だったのです」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.83』新潮文庫 一九九〇年)
山男は町の中へ入っていってうろうろする。魚屋の店頭を眺めて吊るしてある「ゆで章魚(だこ)」に関心したりする。するとそこで「大きな荷物をしょった、汚(きた)ない浅黄服(あさぎふく)の支那(しな)人」とばったり出くわす。その支那人は行商中で山男に「六神丸(ろくしんがん)」という薬を売り込む。山男から見た行商の支那人の姿形について。二つ拾っておこう。
(1)「どうもその支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼が、とかげのようでへんに怖(こわ)くてしかたありませんでした」
(2)「あの手の指はずいぶん細いぞ。爪(つめ)もあんまり尖(とが)っているしいよいよこわい」
見た目の印象に過ぎないが、いずれにしてもその「支那人」は極度の栄養失調状態を示している。しかし賢治はあえてそうとは書かず、山男から見た支那人のイメージ描写に任せる。そして山男が支那人と対話しているうち、周りの情景はすっかり変わっている。
「じぶんはいつか町の中でなく、空のように碧いひろい野原のまんなかに、眼のふちの赤い支那人とたった二人、荷物を間に置いて向いあって立っているのでした」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.85』新潮文庫 一九九〇年)
町に住む平地人の世界に溶け込んでいない者たちの遭遇は「町でなく」、さらに、おそらくどこと名指すことのできない別の世界へ舞台を置き換えて行われる。支那人のいう通り六神丸を飲んだ山男の姿形はふいに変わってしまう。「ちいさな箱のようなもの」に変わって草の上に落ちているばかりである。「ただ一箱の小さな六神丸」と化した。山男は悔しがってこう思う。
「やられた、畜生(ちくしょう)、とうとうやられた、さっきからあんまり爪が尖ってあやしいとおもっていた。畜生、すっかりうまくだまされた」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.85』新潮文庫 一九九〇年)
支那人が背負っっている行李の中に入れられて、ばたりと蓋が閉じた。暗闇になるかとおもいきや、「日光は行李の目からうつくしくすきとおって見えました」。行李の中から外は丸見えになる。するとさらに行李にふろしきがかかったらしい。急に暗くなった。驚いたことに行李の中にはもう一人いて、「おまえさんはどこから来なすったね」と声をかけてきた。人間のようだが山男と同様に小さな箱になっているらしい。山男は思う。「ーーー六神丸というものは、みんなおれのようなぐあいに人間が薬で改良されたもんだなーーー」。
行李の中でもう一人の男としゃべっていると行商の支那人は、声が大きいから静かにしてくれという。すると山男は逆に大声を張り上げて怒鳴り返した。
「『きさまが町へはいったら、おれはすぐ、この支那人はあやしいやつだとどなってやる。さあどうだ』。支那人は、外でしんとしてしまいました。じつにしばらくの間、しいんとしてしまいました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87』新潮文庫 一九九〇年)
行商の支那人は「しんとして」、「じつにしばらくの間、しいんとして」しまった。山男の気持ちが揺れた。
「いままで峠(とうげ)や林のなかで、荷物をおろしてなにかひどく考え込(こ)んでいたような支那人は、みんなこんなことを誰(たれ)かに云(い)われてたのだなと考えました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87』新潮文庫 一九九〇年)
そう思うと山男は支那人のことが途端に「かあいそうに」思われてきた。支那人はいう。山男はそれに応じて返事を返し、対話する。
「『それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する。それ、あまり同情ない』。山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯(いわし)の頭や菜っ葉汁(じる)をたべるかわりにくれてやろうとおもいながら答えました。『支那人さん、もういいよ。そんなに泣かなくてもいいよ。おれは町にはいったら、あまり声を出さないようにしよう。安心しな』。すると外の支那人は、やっと胸をなでおろしたらしく、ほおという息の声も、ぽんぽんと足を叩(たた)いている音も聞えました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87~88』新潮文庫 一九九〇年)
この時、瞬間的に何かが起っている。行商の支那人へ向けられていた山男の攻撃的リビドーが、支那人の置かれた哀れな境遇を物語る言葉が壁となって逆に山男の方向へ逆流してきた。山男は行商の支那人に対する「良心の疚しさ」を芽生えさせてしまう。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)
賢治の文章に「山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯(いわし)の頭や菜っ葉汁(じる)をたべるかわりにくれてやろうとおもいながら答えました」と、説明のような文章が挿入されている。どこか見覚えがないだろうか。例えば次の箇所。
「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)
法華経主義者=賢治の信仰告白。如来的実践(菩薩的無償性)。過剰で逸脱した絶対的自己犠牲の精神がふいに湧きおこるのだ。自己犠牲の精神を発揮するのはなるほど各自の自由だけれどもあまりにも過剰だと自殺に至る。そこまで行くと信仰の自由を遥かに通り越してカルトの自由へ容易に転化してしまう。またさらに、その死が天上・浄土への移動だとは必ずしも限らないしそもそも誰一人として知らない。しかし法華経主義の「優等生」賢治はそれでもなお法華経に説かれた文章そのままを実際に生きようと願う。あまりにも「優等生過ぎる法華経主義者」=賢治の姿はこのように何度も死に接近する。
ところで山男は行李の中で「六神丸」になってしまったもう一人の支那人と対話する。山男が尋ねるとその支那人は「上海(しゃんはい)」からやって来たと答える。行商の支那人の名は「陳(ちん)」というらしい。
「『支那人というものは薬にされたり、薬にしてそれを売ってあるいたり気の毒なもんだな』。『そうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳(ちん)のようないやしいやつばかりだが、ほんとうの支那人なら、いくらでもえらいりっぱな人がある。われわれはみな孔子聖人(こうしせいじん)の末なのだ』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.89』新潮文庫 一九九〇年)
支那人には支那人同士の間でれっきとした上下関係が存在するという。「われわれは孔子の末」で「ほんとうの支那人」だが陳(ちん)のような行商人は「いやしい」とされている世界があるのだ。それにしても籠の中は蒸し暑くてかなわない。風の一つも入れてほしいと山男ははきはき言う。
「『早く風を入れないと、おれたちはみんな蒸(む)れてしまう。お前の損になるよ』。すると陳が外でおろおろ声(ごえ)を出しました。『それ、もとも困る、がまんしてくれるよろしい』。『がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんじゃないんだ。ひとりでにむれてしまうさ。早く蓋をあけろ』。『も二十分まつよろしい』。『えい、仕方ない。そんならも少し急いであるきな』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.89~90』新潮文庫 一九九〇年)
山男の側の発言は圧倒的に強い立場に位置していることがありありとわかる。そして陳は反論することなく山男の優位な立場からの発言をそれとして受け止め「おろおろ」する。しかしなぜ「おろおろ」するかはわからない。両者の上下関係は変わらない。そこで賢治独特の法華経主義の徹底性について述べておかねばならない。この箇所での賢治は山男と陳との間に横たわっている均衡性を欠いた上下関係を解消してやらねばならいという点である。貧しいがゆえに行商するほかない陳は「おろおろ」する。賢治の他の作品を見ても、しょっちゅう「おろおろ」する人間なり動物なりが登場してくる。と同時に、賢治という徹底的法華経主義者の心の中で、これら「おろおろ」するすべての存在をいつか必ず天上・浄土・ユートピアへ持って行ってやらなければならないという命題が出現する。不可能だとしてもなお、少なくとも「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(雨ニモマケズ)と賢治は深い諦めとともに言うのだが、一方、その決意はとてつもなく激しい。
上海からやって来たもう一人の支那人との対話。両者とも命懸けであるにもかかわらずどこかとぼけた風味を漂わせている。その微妙なニュアンスが絶望的事態の到来を回避させ、最終的ディストピア化を延々と先延ばしにしていく。
「『おまえが呑んでもとの通りになってからは、おれたちをみんな水に漬(つ)けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る』。『そうか。よし、引き受けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸薬というのはこれだな。そしてこっちの瓶は人間が六神丸になるほうか。陳もさきおれといっしょにこの水薬をのんだがね、どうして六神丸にならなかったろう』。『それはいっしょに丸薬を呑んだからだ』。『ああ、そうか。もし陳がこの丸薬だけ呑んだらどうなるだろう。変わらない人間がまたもとの人間に変るとどうも変だな』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.90~91』新潮文庫 一九九〇年)
山男のいう言葉、「変わらない人間がまたもとの人間に変る」は、この箇所でたいへん巨大な可能性を示している。荘子はいう。
「子祀・子輿・子犁・子來、四人相與語曰、孰能以无爲首、以生爲脊、以死爲尻、孰知死生存亡之一體者、吾與之友矣、四人相視而笑、莫逆於心、遂相與爲友、俄而子輿有病、子祀往問之、曰、偉哉、夫造物者、將以予爲此拘拘也、曲僂發背、上有五管、頣隠於齊、肩高於頂、句贅指天、陰陽之気有乱、其心間而无事、偏遷而鑑于井曰、嗟乎、夫造物者、又將以予爲此拘拘也、子祀曰、女惡之乎、亡、予何惡、浸假而化予之左臂以爲雞、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以爲彈、予因以求鴞炙、浸假而化予之尻以爲輪、以神爲馬、予因而乗之、豈更駕哉、且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也、此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之、且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉
(書き下し)子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、四人相(あ)い与(とも)に語りて曰わく、孰(たれ)か能く無(む)を以て首(こうべ)と為し、生を以て脊(せ)と為し、死を以て尻(しり)と為すや。孰か死生存亡の一体なるを知る者ぞ。吾れこれと友たらんと。四人相い視(み)て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂(つい)に相い与に友と為(な)る。俄(にわ)かにして子輿に病あり、子祀往(ゆ)きてこれを問う。曰わく、偉なるかな、夫(か)の造物者(ぞうぶつしゃ)。将(まさ)に予れを以て此の拘拘(こうこう)を為さんとすと。曲僂(きょくる)背に発し、上に五管あり、頣(あご)は斉(へそ=臍)に隠れ、肩は頂(あたま)より高く、句贅(こうぜい)は天を指(さ)す。陰陽の気に乱(みだ)るることあるも、其の心間(しずか=閑)にして無事(むじ)なり。偏遷(へんせん)して井(せい)に鑑(かがみ)して曰わく、嗟手(ああ)、夫の造物者、又た将に予れを以て此の拘拘を為さんとするなりと。子祀曰わく、女(なんじ)これを悪(にく)むかと。曰わく、亡(いな)、予れ何ぞ悪まん。浸(ようや)くに仮(いた)りて予れの左臂(さひ)を化して雞(けい)と為(な)さば、予れは因(よ)りて時夜(じや)を求めん。浸くに仮りて予れの右臂を化して弾(だん)と為さば、予れは因りて鴞炙(きょうしゃ)を求めん。浸くに仮りて予れの尻を化して輪と為し、神(しん)を以て馬と為さば、予れは因りてこれに乗らん。豈(あ)に更(さら)に駕(が)せんや。且(か)つ夫れ得る者は時なり、失う者は順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽も入(い)ること能(あた)わず、此れ古(いにし)えの謂わゆる県解(けんかい)なり。而も自ら解くこと能わざる者は、物これを結ぶあればなり。且つ夫れ物の天に勝たざるや久し。吾れ又た何ぞ悪(にく)まんと。
(現代語訳)子祀(しし)と子輿(しよ)と子犁(しり)と子来(しらい)とが、四人でいっしょに語りあった。『無を頭とし、生を背(せなか)とし、死を尻とすることのできる者が、、だれかいるだろうか。死と生と。存と亡とが一体であることをわきまえた者が、だれかいるだろうか。われわれはそういう者と友だちになりたい』。四人はこういうと、顔を見あわせてにっこり笑い、心からうちとけて、そのまま互いに友だちとなった。〔その後〕、突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに訪ねていくと、子輿はこういった、『偉大だね、あの造物者(ぞうぶつしゃ)は。わしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』。背中はひどい背むしでもりあがり、内臓は頭の上にきて頣(あご)は臍(へそ)のあたりにかくれ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天をさしている。体内の陰陽の気が乱れているのだが、その心は平静で格別の事もない。よろめきながら井戸の〔そばに行くと〕、水に姿をうつして、『ああ、あの造物者はまたわしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』といった子祀はいう、『君はそれがいやかね』。『いや、わしがどうしていやがろう。〔造化のはたらきが〕だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。それに、いったいこの世に生を受けたのは生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでゆくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自然の道理に従っていくということなら、〔生死のために感情を動かすこともなく〕、喜びや悲しみの感情が入りこむ余地はない。こういう境地が、むかしの人のいう県解(けんかい)ーーーすなわち束縛からの解放ということだ。しかもなお自分で解放することができない〔で生死のためにくよくよする〕というのは、外界の事物がその心の中で固まっているからだ。それに、そもそも外界の事物が自然の道理に勝てないのは、むかしからのことだ。わしは〔ただ自然の道理に従うばかり〕、またどうしてこの病をいやがったりしようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・大宗師篇・第六・五・P.194~197」岩波文庫 一九七一年)
荘子の主旨はこうだ。「だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ」。心身の全的解放と何ものにでも変身していく意志。そしてそれを指して「縣解(けんかい)」=「束縛からの解放」というのだと。
再び「七つ森」の情景に戻ろう。賢治は詩「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」のほぼすべてを費やして七つ森の多彩多様な変容ぶりを形容して見せる。
「七つ森の雪にうづみしひとつなり、けむりの下を逼(せま)りくるもの。月の下なる七つ森のそのひとつなり、かすかに雪の皺(しわ)たたむもの。月をうけし七つ森のはてのひとつなり、さびしき谷をうちいだくもの。月の下なる七つ森のその三つなり、小松まばらに雪を着るもの。月の下なる七つ森のその二つなり、オリオンと白き雪とをいただけるもの。七つ森の二つがなかのひとつなり、鉱石(かね)など堀りしあとのあるもの。月の下なる七つ森のなかの一つなり、雪白々と裾(すそ)を引くもの。月の下なる七つ森のその三つなり、白々として起伏(きふく)するもの。七つ森の三つがなかの一つなり、貝のぼたんをあまた噴(ふ)くもの。月の下なる七つ森のはての一つなり、けはしく白く稜立(かどだ)てるもの。稜立てる七つ森のそのはてのもの、旋(めぐ)り了(をは)りてまこと明るし」(宮沢賢治「文語詩稿・鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」『宮沢賢治詩集・P.321』新潮文庫 一九九〇年)
これらの組み合わせはもちろんもっと多く考えられるわけだが、すぐ近くを走る列車の中から見える情景だけを取ってもすでに目まぐるしい変容を遂げていく。とすると七つ森はいったいどこからどこまでが森なのか、それとも一つ一つの森が七つ集まっているのでそう呼ばれているに過ぎないのか、あるいは無数の組み合わせを内部に組み込んだ森がありそれを人間の眼の側から見て手前勝手に七つに切り取りさらに合体させて「七つ森」と名づけているだけのことなのか、さっぱりわからなくなるという謎めいた時空間のあり方が浮上する。こうも言える。山と町との境界線は何も山岳地帯と都市との間に存在するというわけではなく、町の中や大都市の中にあってさえ忽然と出現してまた忽然と消え失せてしまうものではないだろうかと。山男と行商の支那人との対話を通して、また同時にその場がふいに急転して「どこかわからない地・どこでもない地」へ瞬時に変わっている点に注目したいと思う。
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