白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・薬に変った山男と<おろおろ>する支那人「山男の四月」

2021年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
山男はいつも必ず山の中にいるのだろうか。そうとは限らない。ではしばしば町に降りてくるのだろうか。しばしばとまではいかないだろう。しかしほんの時たま、町へ降りてくることもあった。「七つ森」がその通過点だ。ここまで来ると山男は慎重になる。

「ここは七つ森だ。ちゃんと七っつ、森がある。松(まつ)のいっぱい生えてるのもある、坊主(ぼうず)が黄いろなのもある。そしてここまで来てみると、おれはまもなく町へ行く。町へはいって行くとすれば、化けないとなぐり殺される」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.82』新潮文庫 一九九〇年)

山人は山の中に限り、常日頃から平地人に恐れられてはいる。だが山人は町へ出てくると逆に平地人を恐れ怯える。見つかった場合、ややもすれば虐殺され屍体を山中に運び込まれて放置されるがまま終わる。そんなままならぬ関係にある両者のあいだ、山人と平地人との境界線上に「七つ森」は位置する。詩「屈折率」でわずかばかり触れられる「七つ森」はひとつひとつの森(丘)が多彩な特徴を持つことを語る。

「七つ森のこつちのひとつが 水の中よりもつと明るく そしてたいへん巨(おほ)きいのに わたくしはでこぼこ凍(こほ)つたみちをふみ このでこぼこの雪をふみ 向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ 陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに (またアラツデイン 洋燈<ランプ>とり) 急がなければならないのか」(宮沢賢治「春と修羅・屈折率」『宮沢賢治詩集・P.24』新潮文庫 一九九〇年)

この詩「屈折率」で顔をのぞかせる「陰気な郵便脚夫(きやくふ)」とは何か。これまで長く「ドッペルゲンガー=もう一人の宮沢賢治」という解釈が通説として採用されてきた。「黒い長いオーヴァを着た医者らしいもの」(小岩井農場)など。それは間違っていないと思われるが、「死の世界の側のもう一人の宮沢賢治」というより「死のもう一つ手前、<乖離>する賢治のもう一方」として考えておくのがよりいっそう妥当だろうと思われる。生と死について極端な二項(生か死か)しかないと考えるのはいかにも乱暴であり、またなお現代社会の日常生活において常軌を逸した過酷な状況(DV、職場や教室でのいじめ・精神的リンチ)の中に放り込まれた人間はしばしば<乖離>状態に陥ることで実際の耐えられない苦痛をやや離れた場所からどこかぼうっとした虚無的感情のうちに眺めて見つめ、その過酷な状況が過ぎ去るのをやり過ごすということがわかってきたからである。

さて、山男は「一人(ひとり)まえの木樵(きこり)のかたち」に化ける。するともうすぐそこが「町の入口」と化している。山男のままではなしに「木樵(きこり)のかたち」に変身するや否やなぜかそこがやおら「町の入口」に変身するといってもいい。「町」というものに与えられた性質がよくわかるに違いない。それは町で暮らす人々にとって馴染み深い者であればあるほど近くに「入口」を出現させるという性質を持つ。山男が山男姿のままだったならいつまでも「入口」は遠のくままだったろう。

「一人(ひとり)まえの木樵(きこり)のかたちに化けました。そしたらもうすぐ、そこが町の入口だったのです」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.83』新潮文庫 一九九〇年)

山男は町の中へ入っていってうろうろする。魚屋の店頭を眺めて吊るしてある「ゆで章魚(だこ)」に関心したりする。するとそこで「大きな荷物をしょった、汚(きた)ない浅黄服(あさぎふく)の支那(しな)人」とばったり出くわす。その支那人は行商中で山男に「六神丸(ろくしんがん)」という薬を売り込む。山男から見た行商の支那人の姿形について。二つ拾っておこう。

(1)「どうもその支那人のぐちゃぐちゃした赤い眼が、とかげのようでへんに怖(こわ)くてしかたありませんでした」

(2)「あの手の指はずいぶん細いぞ。爪(つめ)もあんまり尖(とが)っているしいよいよこわい」

見た目の印象に過ぎないが、いずれにしてもその「支那人」は極度の栄養失調状態を示している。しかし賢治はあえてそうとは書かず、山男から見た支那人のイメージ描写に任せる。そして山男が支那人と対話しているうち、周りの情景はすっかり変わっている。

「じぶんはいつか町の中でなく、空のように碧いひろい野原のまんなかに、眼のふちの赤い支那人とたった二人、荷物を間に置いて向いあって立っているのでした」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.85』新潮文庫 一九九〇年)

町に住む平地人の世界に溶け込んでいない者たちの遭遇は「町でなく」、さらに、おそらくどこと名指すことのできない別の世界へ舞台を置き換えて行われる。支那人のいう通り六神丸を飲んだ山男の姿形はふいに変わってしまう。「ちいさな箱のようなもの」に変わって草の上に落ちているばかりである。「ただ一箱の小さな六神丸」と化した。山男は悔しがってこう思う。

「やられた、畜生(ちくしょう)、とうとうやられた、さっきからあんまり爪が尖ってあやしいとおもっていた。畜生、すっかりうまくだまされた」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.85』新潮文庫 一九九〇年)

支那人が背負っっている行李の中に入れられて、ばたりと蓋が閉じた。暗闇になるかとおもいきや、「日光は行李の目からうつくしくすきとおって見えました」。行李の中から外は丸見えになる。するとさらに行李にふろしきがかかったらしい。急に暗くなった。驚いたことに行李の中にはもう一人いて、「おまえさんはどこから来なすったね」と声をかけてきた。人間のようだが山男と同様に小さな箱になっているらしい。山男は思う。「ーーー六神丸というものは、みんなおれのようなぐあいに人間が薬で改良されたもんだなーーー」。

行李の中でもう一人の男としゃべっていると行商の支那人は、声が大きいから静かにしてくれという。すると山男は逆に大声を張り上げて怒鳴り返した。

「『きさまが町へはいったら、おれはすぐ、この支那人はあやしいやつだとどなってやる。さあどうだ』。支那人は、外でしんとしてしまいました。じつにしばらくの間、しいんとしてしまいました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87』新潮文庫 一九九〇年)

行商の支那人は「しんとして」、「じつにしばらくの間、しいんとして」しまった。山男の気持ちが揺れた。

「いままで峠(とうげ)や林のなかで、荷物をおろしてなにかひどく考え込(こ)んでいたような支那人は、みんなこんなことを誰(たれ)かに云(い)われてたのだなと考えました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87』新潮文庫 一九九〇年)

そう思うと山男は支那人のことが途端に「かあいそうに」思われてきた。支那人はいう。山男はそれに応じて返事を返し、対話する。

「『それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する。それ、あまり同情ない』。山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯(いわし)の頭や菜っ葉汁(じる)をたべるかわりにくれてやろうとおもいながら答えました。『支那人さん、もういいよ。そんなに泣かなくてもいいよ。おれは町にはいったら、あまり声を出さないようにしよう。安心しな』。すると外の支那人は、やっと胸をなでおろしたらしく、ほおという息の声も、ぽんぽんと足を叩(たた)いている音も聞えました」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.87~88』新潮文庫 一九九〇年)

この時、瞬間的に何かが起っている。行商の支那人へ向けられていた山男の攻撃的リビドーが、支那人の置かれた哀れな境遇を物語る言葉が壁となって逆に山男の方向へ逆流してきた。山男は行商の支那人に対する「良心の疚しさ」を芽生えさせてしまう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

賢治の文章に「山男はもう支那人が、あんまり気の毒になってしまって、おれのからだなどは、支那人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯(いわし)の頭や菜っ葉汁(じる)をたべるかわりにくれてやろうとおもいながら答えました」と、説明のような文章が挿入されている。どこか見覚えがないだろうか。例えば次の箇所。

「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません」(宮沢賢治「烏の北斗七星」『注文の多い料理店・P.64』新潮文庫 一九九〇年)

法華経主義者=賢治の信仰告白。如来的実践(菩薩的無償性)。過剰で逸脱した絶対的自己犠牲の精神がふいに湧きおこるのだ。自己犠牲の精神を発揮するのはなるほど各自の自由だけれどもあまりにも過剰だと自殺に至る。そこまで行くと信仰の自由を遥かに通り越してカルトの自由へ容易に転化してしまう。またさらに、その死が天上・浄土への移動だとは必ずしも限らないしそもそも誰一人として知らない。しかし法華経主義の「優等生」賢治はそれでもなお法華経に説かれた文章そのままを実際に生きようと願う。あまりにも「優等生過ぎる法華経主義者」=賢治の姿はこのように何度も死に接近する。

ところで山男は行李の中で「六神丸」になってしまったもう一人の支那人と対話する。山男が尋ねるとその支那人は「上海(しゃんはい)」からやって来たと答える。行商の支那人の名は「陳(ちん)」というらしい。

「『支那人というものは薬にされたり、薬にしてそれを売ってあるいたり気の毒なもんだな』。『そうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳(ちん)のようないやしいやつばかりだが、ほんとうの支那人なら、いくらでもえらいりっぱな人がある。われわれはみな孔子聖人(こうしせいじん)の末なのだ』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.89』新潮文庫 一九九〇年)

支那人には支那人同士の間でれっきとした上下関係が存在するという。「われわれは孔子の末」で「ほんとうの支那人」だが陳(ちん)のような行商人は「いやしい」とされている世界があるのだ。それにしても籠の中は蒸し暑くてかなわない。風の一つも入れてほしいと山男ははきはき言う。

「『早く風を入れないと、おれたちはみんな蒸(む)れてしまう。お前の損になるよ』。すると陳が外でおろおろ声(ごえ)を出しました。『それ、もとも困る、がまんしてくれるよろしい』。『がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんじゃないんだ。ひとりでにむれてしまうさ。早く蓋をあけろ』。『も二十分まつよろしい』。『えい、仕方ない。そんならも少し急いであるきな』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.89~90』新潮文庫 一九九〇年)

山男の側の発言は圧倒的に強い立場に位置していることがありありとわかる。そして陳は反論することなく山男の優位な立場からの発言をそれとして受け止め「おろおろ」する。しかしなぜ「おろおろ」するかはわからない。両者の上下関係は変わらない。そこで賢治独特の法華経主義の徹底性について述べておかねばならない。この箇所での賢治は山男と陳との間に横たわっている均衡性を欠いた上下関係を解消してやらねばならいという点である。貧しいがゆえに行商するほかない陳は「おろおろ」する。賢治の他の作品を見ても、しょっちゅう「おろおろ」する人間なり動物なりが登場してくる。と同時に、賢治という徹底的法華経主義者の心の中で、これら「おろおろ」するすべての存在をいつか必ず天上・浄土・ユートピアへ持って行ってやらなければならないという命題が出現する。不可能だとしてもなお、少なくとも「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」(雨ニモマケズ)と賢治は深い諦めとともに言うのだが、一方、その決意はとてつもなく激しい。

上海からやって来たもう一人の支那人との対話。両者とも命懸けであるにもかかわらずどこかとぼけた風味を漂わせている。その微妙なニュアンスが絶望的事態の到来を回避させ、最終的ディストピア化を延々と先延ばしにしていく。

「『おまえが呑んでもとの通りになってからは、おれたちをみんな水に漬(つ)けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る』。『そうか。よし、引き受けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸薬というのはこれだな。そしてこっちの瓶は人間が六神丸になるほうか。陳もさきおれといっしょにこの水薬をのんだがね、どうして六神丸にならなかったろう』。『それはいっしょに丸薬を呑んだからだ』。『ああ、そうか。もし陳がこの丸薬だけ呑んだらどうなるだろう。変わらない人間がまたもとの人間に変るとどうも変だな』」(宮沢賢治「山男の四月」『注文の多い料理店・P.90~91』新潮文庫 一九九〇年)

山男のいう言葉、「変わらない人間がまたもとの人間に変る」は、この箇所でたいへん巨大な可能性を示している。荘子はいう。

「子祀・子輿・子犁・子來、四人相與語曰、孰能以无爲首、以生爲脊、以死爲尻、孰知死生存亡之一體者、吾與之友矣、四人相視而笑、莫逆於心、遂相與爲友、俄而子輿有病、子祀往問之、曰、偉哉、夫造物者、將以予爲此拘拘也、曲僂發背、上有五管、頣隠於齊、肩高於頂、句贅指天、陰陽之気有乱、其心間而无事、偏遷而鑑于井曰、嗟乎、夫造物者、又將以予爲此拘拘也、子祀曰、女惡之乎、亡、予何惡、浸假而化予之左臂以爲雞、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以爲彈、予因以求鴞炙、浸假而化予之尻以爲輪、以神爲馬、予因而乗之、豈更駕哉、且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也、此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之、且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉

(書き下し)子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、四人相(あ)い与(とも)に語りて曰わく、孰(たれ)か能く無(む)を以て首(こうべ)と為し、生を以て脊(せ)と為し、死を以て尻(しり)と為すや。孰か死生存亡の一体なるを知る者ぞ。吾れこれと友たらんと。四人相い視(み)て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂(つい)に相い与に友と為(な)る。俄(にわ)かにして子輿に病あり、子祀往(ゆ)きてこれを問う。曰わく、偉なるかな、夫(か)の造物者(ぞうぶつしゃ)。将(まさ)に予れを以て此の拘拘(こうこう)を為さんとすと。曲僂(きょくる)背に発し、上に五管あり、頣(あご)は斉(へそ=臍)に隠れ、肩は頂(あたま)より高く、句贅(こうぜい)は天を指(さ)す。陰陽の気に乱(みだ)るることあるも、其の心間(しずか=閑)にして無事(むじ)なり。偏遷(へんせん)して井(せい)に鑑(かがみ)して曰わく、嗟手(ああ)、夫の造物者、又た将に予れを以て此の拘拘を為さんとするなりと。子祀曰わく、女(なんじ)これを悪(にく)むかと。曰わく、亡(いな)、予れ何ぞ悪まん。浸(ようや)くに仮(いた)りて予れの左臂(さひ)を化して雞(けい)と為(な)さば、予れは因(よ)りて時夜(じや)を求めん。浸くに仮りて予れの右臂を化して弾(だん)と為さば、予れは因りて鴞炙(きょうしゃ)を求めん。浸くに仮りて予れの尻を化して輪と為し、神(しん)を以て馬と為さば、予れは因りてこれに乗らん。豈(あ)に更(さら)に駕(が)せんや。且(か)つ夫れ得る者は時なり、失う者は順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽も入(い)ること能(あた)わず、此れ古(いにし)えの謂わゆる県解(けんかい)なり。而も自ら解くこと能わざる者は、物これを結ぶあればなり。且つ夫れ物の天に勝たざるや久し。吾れ又た何ぞ悪(にく)まんと。

(現代語訳)子祀(しし)と子輿(しよ)と子犁(しり)と子来(しらい)とが、四人でいっしょに語りあった。『無を頭とし、生を背(せなか)とし、死を尻とすることのできる者が、、だれかいるだろうか。死と生と。存と亡とが一体であることをわきまえた者が、だれかいるだろうか。われわれはそういう者と友だちになりたい』。四人はこういうと、顔を見あわせてにっこり笑い、心からうちとけて、そのまま互いに友だちとなった。〔その後〕、突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに訪ねていくと、子輿はこういった、『偉大だね、あの造物者(ぞうぶつしゃ)は。わしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』。背中はひどい背むしでもりあがり、内臓は頭の上にきて頣(あご)は臍(へそ)のあたりにかくれ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天をさしている。体内の陰陽の気が乱れているのだが、その心は平静で格別の事もない。よろめきながら井戸の〔そばに行くと〕、水に姿をうつして、『ああ、あの造物者はまたわしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』といった子祀はいう、『君はそれがいやかね』。『いや、わしがどうしていやがろう。〔造化のはたらきが〕だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。それに、いったいこの世に生を受けたのは生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでゆくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自然の道理に従っていくということなら、〔生死のために感情を動かすこともなく〕、喜びや悲しみの感情が入りこむ余地はない。こういう境地が、むかしの人のいう県解(けんかい)ーーーすなわち束縛からの解放ということだ。しかもなお自分で解放することができない〔で生死のためにくよくよする〕というのは、外界の事物がその心の中で固まっているからだ。それに、そもそも外界の事物が自然の道理に勝てないのは、むかしからのことだ。わしは〔ただ自然の道理に従うばかり〕、またどうしてこの病をいやがったりしようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・大宗師篇・第六・五・P.194~197」岩波文庫 一九七一年)

荘子の主旨はこうだ。「だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ」。心身の全的解放と何ものにでも変身していく意志。そしてそれを指して「縣解(けんかい)」=「束縛からの解放」というのだと。

再び「七つ森」の情景に戻ろう。賢治は詩「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」のほぼすべてを費やして七つ森の多彩多様な変容ぶりを形容して見せる。

「七つ森の雪にうづみしひとつなり、けむりの下を逼(せま)りくるもの。月の下なる七つ森のそのひとつなり、かすかに雪の皺(しわ)たたむもの。月をうけし七つ森のはてのひとつなり、さびしき谷をうちいだくもの。月の下なる七つ森のその三つなり、小松まばらに雪を着るもの。月の下なる七つ森のその二つなり、オリオンと白き雪とをいただけるもの。七つ森の二つがなかのひとつなり、鉱石(かね)など堀りしあとのあるもの。月の下なる七つ森のなかの一つなり、雪白々と裾(すそ)を引くもの。月の下なる七つ森のその三つなり、白々として起伏(きふく)するもの。七つ森の三つがなかの一つなり、貝のぼたんをあまた噴(ふ)くもの。月の下なる七つ森のはての一つなり、けはしく白く稜立(かどだ)てるもの。稜立てる七つ森のそのはてのもの、旋(めぐ)り了(をは)りてまこと明るし」(宮沢賢治「文語詩稿・鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし」『宮沢賢治詩集・P.321』新潮文庫 一九九〇年)

これらの組み合わせはもちろんもっと多く考えられるわけだが、すぐ近くを走る列車の中から見える情景だけを取ってもすでに目まぐるしい変容を遂げていく。とすると七つ森はいったいどこからどこまでが森なのか、それとも一つ一つの森が七つ集まっているのでそう呼ばれているに過ぎないのか、あるいは無数の組み合わせを内部に組み込んだ森がありそれを人間の眼の側から見て手前勝手に七つに切り取りさらに合体させて「七つ森」と名づけているだけのことなのか、さっぱりわからなくなるという謎めいた時空間のあり方が浮上する。こうも言える。山と町との境界線は何も山岳地帯と都市との間に存在するというわけではなく、町の中や大都市の中にあってさえ忽然と出現してまた忽然と消え失せてしまうものではないだろうかと。山男と行商の支那人との対話を通して、また同時にその場がふいに急転して「どこかわからない地・どこでもない地」へ瞬時に変わっている点に注目したいと思う。

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Blog21・こけつまろびつ新天地「ポラーノの広場」

2021年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
内面から湧き起ってくる理想的欲望を満たすために必要とされたのはいつも子どもの頃から見て学び覚えた外界の風景とそれを書きあらわし言いあらわす言葉、そして身体だった。<記憶><対話><夢><回想>などをさらに何度も繰り返し<再発見>し、それらをいったん解体してふたたび再構成する時に用いられる言語のパッチワークやモザイクという方法はその実践の一つに属する。だがしかしそれが実在するとすればどのような仕方で実在するのか。宮沢賢治の場合、イーハトーヴォ(ワンダーランドとしての日本岩手県)にあるという「ポラーノの広場」がそれに相当する。

<わたくし>(レオーノ・キュースト)はモリーオ市の博物局に勤める十八等官。郊外の競馬場を植物園に改装する過程でその番小屋の宿直員になった立場から語られる。途方もなく広大な土地はすでに競馬場ではないが植物園になってもいない。どちらでもないがどちらでもあると言い得る。その<あいだ>でもある。例えばその場所を説明するとすればどうなるか。説明する人によりけりで次のようになるだろう。「競馬場ではなく植物園でもなくその<あいだ>でもなくそれらのいずれでもある」。言い換えると「AではなくBでもなくCでもなくDでもない」。このケースは逆にこうも言い換えることができる。「AでありBでもありCでもありDでもある」と。あたかも諸商品の無限の系列のようだ。だがそれらすべての商品を一気に貫き通っていくことができる特権的商品が世界にたった一つだけある。貨幣である。キューストが語る「ポラーノの広場」はモリーオ市の広大な野原としては局所的な土地でしかないが、同時にそれはいずれにも変身し得る点で貨幣的特権性と重ね合わされたユートピアとして出現する。ただ単なる土地の情景とユートピア的無限(夢幻)性との合体は次の文章のとおり、賢治のいう「別の世界のことのように」して立ち現れる。

「そのときでした。野原のずうっと西北の方でぼぉとたしかにトローンボーンかバスの音がきこえました。わたくしはきっとそっちを向きました。するとまた西の方でもきこえるのです。わたくしはおもわず身ぶるいしました。野原ぜんたいに誰(たれ)か魔術(まじゅつ)でもかけているかそうでなければ昔からの云い伝え通りひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却(かえ)ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしていたことが別の世界のことのように思われてきました」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.402~403』新潮文庫 一九九五年)

キューストは痛く感動に揺さぶられる。精神的地殻変動といっていいかもしれない。逃げた山羊を探しているうちに出会ったファゼーロが案内役だ。ファゼーロが暮らす家の主人はテーモ。ファゼーロはテーモのことをひどい人間だという。ところがそれ以上に県会議員のデストゥパーゴにこき使われているみじめな立場であることを隠そうとしない。というより隠しようがない。デストゥパーゴがばちばち打ち鳴らす皮むち一つであちこち使われているため誰もが知っており、もはや隠していても仕方ないというわけだ。そんな県会議員デストゥパーゴだが一方的な悪人かとおもいきや、その評判は二つに分かれている。有権者の立場次第でころころ違って語られる万華鏡のような政治家。大正時代すでにその種の政治家は山ほどいた。

そんな或る時キューストは出張のためおもむいた隣県のセンダード市でデストゥパーゴとばったり出会う。その時のデストゥパーゴは行方不明になっていたのだが、まさかセンダード市をうろついているとは思いがけなかった。そこで自分に関する評判の低劣ぶりについてデストゥパーゴはこう述べる。

「『わたくしがここへ人を避(さ)けて来ているのは全くちがった事情です。じつはあなたもご承知でしょうがあの林の中でわたくしが社長になって木材乾溜(かんりゅう)の会社をたてたのです。ところがそれがこの頃の薬品の価格の変動でだんだん欠損になってどうにもしかたなくなったのです。わたくしはいろいろやって見ましたがどうしてもいかなかったのです。もちろんあの事業にはわたくしの全財産を賭(と)してあります。すると重役会である重役がそれをあのまま醸造所(じょうぞうじょ)にしようということを発議しました。そこでわたくしどもも賛成して試験的にごくわずか造って見たのですが、それを税務署へ届け出なかったのです。ところがそれをだしにしてわたくしのある部下のものがわたくしを脅迫(きょうはく)しました。あの晩はじつに六(むつ)ヶしい場合でした。あすこに来ていたのはみんな株主でした。わざとあすこをえらんだのです。ところが株主の反感は非常だったのです。わたくしももうやけくそになってああいう風に酔(よ)っていたのです。そこへあなたが出て来たのですからなあ』」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.458~459』新潮文庫 一九九五年)

ただ単なる言い訳に過ぎないのかそれとも実感なのか、よくわからないがキューストはデストゥパーゴが語る困難な立場に同情を覚える。だが一方、出張を終えてモリーノに帰ってきたキューストはファゼーロと会って、そんな話など冗談じゃないと説明を受ける。この箇所は二人の対話形式。

「『デストゥパーゴにわたしはセンダードで会いましたよ。大へんおちぶれて気の毒なくらいだった』。『いいえ、デストゥパーゴは落ちぶれるもんですか。大将センダードのまちにたくさん土地を持っていますよ』。『はてな、財産はみんなあの乾溜会社にかけてしまったと云っていたが』。『どうして、どうして、あの山猫がそんなことをするもんですか。会社の株がただみたいになったから大将遁げてしまったんです』。『いや、何か重役の人が醸造の方へかかろうとして手続を欠いて責任を負ったとか云っていたが』。『どうしてどうして。酒をつくることなんかみんな大将の考(かんがえ)なんですよ』。『だって試験的にわずかつくっただけだそうじゃないですか』。『あなたはよっぽどうまくだまされておいでですよ。あの工場からアセトンだと云って樽詰(たるづ)めにして出したのはみんな立派な混成酒でさあ。悪いのには木精(もくせい)もまぜたんです。その密造なら二年もやっていたんです』。『じゃポラーノの広場で使ったのもそれか』。『そうですとも。いや何と云っても大将はずるいもんですよ。みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入(なきねいり)でさあ』」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.464~465』新潮文庫 一九九五年)

長く競馬場周辺の土地で暮らしてきたファゼーロは薄暗がりの内情に通じている。それによるとなるほどデストゥパーゴはとんでもない県議というほかない。「みんなにも弱味があるから、まあこのまま泣寝入(なきねいり)」というのは、デストゥパーゴ主催の「ポラーノの広場」で出された「振るまい酒」を一度は口にしてしまっているため、まったく無関係な立場の市民から見れば少しばかり「共犯者」の印を押された格好になるからだが。しかしデストゥパーゴが姿をくらましている間、ファゼーロとその仲間たちはもう二度と騙されるものかと新しい「ポラーノの広場」設立を目指して懸命に奔走していた。というのも「ポラーノの広場」はデストゥパーゴらが入ってきて手前勝手なことをやらかし出す遥か以前、もっとずっと古くからモリーノに伝わる伝説の聖地=ユートピアだからである。

「『ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかう酒盛(さかも)りだった。けれどもむかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない』。『だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵(こさ)えようではないか』。『そうだ、あんな卑怯(ひきょう)な、みっともないわざとじぶんをごまかすようなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢(いきおい)がよくて面白(おもしろ)いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう』。『ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから』。『さあよしやるぞ。ぼくはもう皮を十一枚あすこへ漬(つ)けて置いたし、一かま分の木はもうそこにできている』」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.470』新潮文庫 一九九五年)

ところでデストゥパーゴは「山猫博士」とも呼ばれていた。こうある。

「『なぜ山猫博士って云うんだ』。『ぼくよくわからない。ミーロは知ってるの?』『うん』ミーロはこっちをふりむいて云いました。『あいつは山猫を釣(つ)ってあるいて外国へ売る商売なんだって』。『山猫を?じゃ動物園の商売かい』。『動物園じゃないなあ』。ミーロもわからないというふうにだまってしまいました」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.389』新潮文庫 一九九五年)

「山猫博士」=「デストゥパーゴ」が実に気前よくどんどん「ポラーノの広場」を利用した理由について。

「『山猫の野郎来年の選挙の仕度なんですよ。ただで酒を呑ませるポラーノの広場とはうまく考えたなあ』。『この春からかわるがわるこうやってみんなを集めて呑ませたんです』。『その酒もなあ』。『そいつは云うな。さあ一杯(いっぱい)やりませんか』。『いいえわたくしどもは呑みません』」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.426』新潮文庫 一九九五年)

デストゥパーゴは自分の周囲に「ただ酒」を振るまって有権者の票を集めていた。だから酒を呑まずに水を飲む人間がやってくるとあからさまに不機嫌になり嘲笑してみせる癖があった。そういう人間がやってくると場が「白けてしまう」、迷惑だというのである。

「『よし、よし、まあすきなら水をやっておけ。しかしどうも水を呑むやつらが来るとポラーノの広場も少ししらぱっくれるね』」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.416』新潮文庫 一九九五年)

そして賢治だが作品「ポラーノの広場」との関連を強く臭わせる詩を書き留めている。二箇所ばかり拾っておこう。

(1)「あっちもこっちも ひとさわぎおこして いっぱい呑(の)みたいやつらばかりだ 羊歯(しだ)の葉と雲 世界はそんなにつめたく暗い けれどもまもなく さういうやつらは ひとりで腐(くさ)って ひとりで雨に流される」(宮沢賢治「詩ノート・政治家」『宮沢賢治詩集・P.258』新潮文庫 一九九〇年)

忘れたいことが多過ぎるという市民感情に敏感な賢治でもあった。当時は物価高騰からあちこちで密造酒が増産されていた。普通の酒を大っぴらに飲めるような市民はとてもではないが少数派だった。それをいいことに横着・傲慢な政治家が粗製濫造した密造酒をふるまって廻っていたという経済的事情がある。さらに賢治は畳みかける。

(2)「酒を呑(の)みたいために尤(もっとも)らしい波瀾(はらん)を起すやつも じぶんだけで面白いことをしつくして 人生が砂っ原だなんていふにせ教師も いつでもきょろきょろひとと自分とくらべるやつらも そいつらみんなをびしゃびしゃに叩(たた)きつけ」(宮沢賢治「詩ノート・サキノハカといふ黒い花といっしょに」『宮沢賢治詩集・P.260』新潮文庫 一九九〇年)

だが賢治はただ単に啓蒙啓発活動に没頭していたわけではまったくない。特に農学校教師だったこともあり、教育環境の改革に熱心に取り組んだ。次の文章に「テニス」とあるが別にテニスに限ったことではなくテニスがいけないというわけではなおさらなく、教育現場で生徒は教師の言うがままに動けばよいのであって、そのための悪質な方便の一つとして利用されたのが当時はまだ珍しかった「テニス」だったというに過ぎない。詩の中にこんな一節がある。

「これからの本当の勉強はねえ テニスをしながら商売の先生から 義理で教はることでないんだ きみのやうにさ 吹雪(ふぶき)やわづかの仕事のひまで 泣きながら からだに刻んで行く勉強が まもなくぐんぐん強い芽を噴(ふ)いて どこまでのびるかわからない それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」(宮沢賢治「春と修羅・第三集・一〇八二・あすこの田はねえ」『宮沢賢治詩集・P.240~241』新潮文庫 一九九〇年)

賢治が目指す「あたらしい学問のはじまり」。ファゼーロとその仲間たちが立ち上げた新しい「ポラーノの広場」。それから七年後、「ポラーノの広場」がようやく軌道に乗ってきたらしいと話に聞いていた語り手のキュースト。すでに大新聞の社員として働いている彼のもとにファゼーロが作ったと思われる詩を載せた手紙が届いた。「ポラーノの広場」の歌の歌詞が書き付けてある。

「まさしきねがいに いさかうとも 銀河のかなたに ともにわらい なべてのなやみを たきぎともしつつ、はえある世界を ともにつくらん」(宮沢賢治「ポラーノの広場」『ポラーノの広場・P.475』新潮文庫 一九九五年)

ちなみのこの歌詞は賢治自身によるものとされ、楽譜になって今なお残されている。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・森と人との弁証法「狼森と笊森、盗森」

2021年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
黒い松の森は四つある。南から「狼森(オイノもり)」、「笊森(ざるもり)」、「黒坂森」、そして北端が「盗森(ぬすともり)」と呼ばれていた。ある年、「水のようにつめたいすきとおる風が、柏の枯(か)れ葉をさらさら鳴らし、岩手山の銀の冠(かんむり)には、雲の影(かげ)がくっきり黒くうつっている日」。四人の百姓が畑を作って暮らしていこうと始めてこの土地へ入った。家族も一緒だ。地面に鍬(くわ)を入れる前、彼らは黒々と繁る森に向って大きくこう声をかけた。

「四人(よつたり)の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃(そろ)えて叫びました。『ここへ畑起してもいいかあ』。『いいぞお』。森が一斉(いっせい)にこたえました。みんなは又(また)叫びました。『ここに家建ててもいいかあ』。『ようし』。森は一ぺんにこたえました。みんなはまた声をそろえてたずねました。『ここで火をたいてもいいかあ』。『いいぞお』。森は一ぺんにこたえました。みんなはまた叫びました。『すこし木(きい)貰(もら)ってもいいかあ』。『ようし』。森は一斉にこたえました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.29~30』新潮文庫 一九九〇年)

翌年の春、最初に撒いた種は蕎麦(そば)と稗(ひえ)。秋になった。始めて作った畑だったがともかく穀物が実った。新しい畑も増やすことができた。みんなは精一杯よろこんだ。そして「土の堅く凍(こお)った朝」。連れてきた子どもたち九人のうちどういうわけか年齢の下の子どもたち四人だけがいなくなっていた。周辺をみんなで探したが影も形も見あたらない。森の奥へ分け行って探してみるしかない。その前に森の奥へ大きく声をかけた。

「みんなは、てんでにすきな方向へ向いて、一緒(いっしょ)に叫びました。『たれか童(わらし)ゃど知らないか』。『しらない』と森は一斉にこたえました。『そんだらさがしに行くぞお』とみんなはまた叫びました。『来お』と森は一斉にこたえました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.31』新潮文庫 一九九〇年)

一番近くの狼森(オイノもり)へ入ることにした。柳田國男はいう。

「猿の経立(ふつたち)、御犬(おいぬ)の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼(おおかみ)のことなり。山口の村に近き二ツ山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押し上ぐるようにしてかわるがわる吠(ほ)えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄(ものすご)く恐ろしきものはなし」(柳田國男「遠野物語・三十六」『柳田國男全集4・P.29~30』ちくま文庫 一九八九年)

何が出てくるかわからないため、大人たちはそれぞれ農具を手にしている。しばらくすると森の奥から何かパチパチと爆ぜる音が聞こえてきた。行ってみると九疋の狼(オイノ)が火祭りをして歌い踊っており、子供たちは楽しそうに栗とか初茸(はつたけ)を食べていた。ちなみに狼森はアカマツの密生地。初茸(はつたけ)はアカマツ林にできる食用キノコ。大人たちはその光景を目にして「狼どの、狼どの、童(わらし)ゃど返して呉(け)ろ」と叫んだ。驚いた狼たちは歌も踊りも一度にやめてしまい、祭りの火も消えた。狼たちは困った顔をみせていたが森の奥へ逃げていった。子どもたちは家に返されることになった。そこで狼は大人たちにひとこと、こう声を残していった。

「みんなは、子供らの手を引いて、森を出ようとしました。すると森の奥の方で狼どもが、『悪く思わないで呉ろ。栗だのきのこだの、うんとご馳走(ちそう)したぞ』と叫ぶのがきこえました。みんなはうちに帰ってから粟餅(あわもち)をこしらえてお礼に狼森へ置いて来ました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.33』新潮文庫 一九九〇年)

その翌年。子どもは十一人に増え、馬を二頭連れてくることができた。秋になり、粟や稗も前年よりよほど順調に実った。そして「霜柱(しもばしら)のたったつめたい朝」。今度は山刀(なた)や鍬(くわ)など生活必需品である農具が見当たらない。また森の奥へ探しに行かなければということになり、前のように森へ入る前にみんなで声をあげた。

「めいめいすきな方へ向いて、いっしょにたかく叫びました。『おらの道具知らないかあ』。『知らないぞお』と森は一ぺんにこたえました。『さがしに行くぞお』とみんなは叫びました。『来お』と森は一斉に答えました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.34』新潮文庫 一九九〇年)

誰も農具がないのでみんなは仕方なく手ぶらで森へ入った。最初は一番近い狼森(オイノもり)から。例の九疋の狼が出てきた。農具のことを尋ねられた狼たちの返事が面白い。

「『無い、無い、決して無い、無い。外(ほか)をさがして無かったら、もう一ぺんおいで』」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.34』新潮文庫 一九九〇年)

狼が子どもたちと戯れたがることはあるとしても農具を持ち去る必然性はまるでない。もっともだと考えた大人たちはさらに北西方向に位置する「笊森(ざるもり)」へ向った。するとそこに大きな笊(ざる)が伏せてあるのを見つけた。なんだか怪しい。笊の中を見ようとあけてみたところ農具が揃って出てきた。さらに「黄金(きん)色の目」をした山男があぐらをかいて座っている。子どもたちはびっくりしたようだが大人たちは察しがついるようで特に驚くこともなく、山男に声をかけて言った。

「『山男、これからいたずら止(や)めて呉(け)ろよ。くれぐれも頼(たの)むぞ、これからいたずら止めで呉ろよ』。山男は、大へん恐縮(きょうしゅく)したように、頭をかいて立って居(お)りました。みんなはてんでに、自分の農具を取って、森を出て行こうとしました。すると森の中で、さっきの山男が、『おらさも粟餅持って来て呉ろよ』と叫んでくるりと向うを向いて、手で頭をかくして、森のもっと奥の方へ走って行きました。みんなはあっはあっはと笑って、うちへ帰りました。そして又(また)粟餅をこしらえて、狼森と笊森に持って行って置いて来ました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.35』新潮文庫 一九九〇年)

大正時代になってなお山の中で山人が暮らしているのは当り前の時代だった。大人たちはそれをよく知っている。むしろ山人は先住民でもある。古い記録は「日本書紀」にも見える。

「十九年の冬十月(ふゆかむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国樔人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて醴酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく、

橿(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作(つく)り横臼(よくす)に醸(か)める大御酒(おほみき)うまらに聞(きこ)し持(も)ち食(を)せまろが父(ち)

歌(うたよみ)既(すで)に訖(をは)りて、則(すなは)ち口(くち)を打(う)ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し。故(このゆゑ)に、京(みやこ)に遠(とほ)からずと雖(いへど)も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然(しか)れども此(これ)より後(のち)、婁(しばしば)参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)を献る。其の土毛は、栗(くり)・菌(たけ)及(およ)び年魚(あゆ)の類(たぐひ)なり」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月~二十年九月・P.208」岩波文庫 一九九四年)

それについて柳田はいう。

(1)「わが国は小さな人口稠密(ちゅうみつ)な国でありながら、いわゆる人跡未踏の地がまだかなり多い。国と国と、県と県との境は大半深山である。平安の旧都に接しても、近江・丹波・若狭に接した山はこれである。吉野の奥伊勢・紀州の境も深山である。中国・四国・九州は比較的よく開ているというが、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)・出雲の三瓶(さんべ)山の周囲は村里がはなはだ少ない。四国の阿波・土佐の境山・九州の市房(いちふさ)山地方も山が深い。京より東はもちろんの事で、美濃・飛騨から白山・立山へかけての山地、次にはいやな名だがいわゆる日本アルプスの連山、赤石・白根の山系、それから信越より南会津にかけての山々のごとき、今日都会の旅人のあえて入り込まぬはもちろん、猟師・樵夫(しょうふ)も容易に往来せぬ区域がずいぶんと広いのである。これらの深山には神武(じんむ)東征の以前から住んでいた蛮民が、我々のために排斥せられて窮迫せられてようやくのことで遁(に)げ籠り、新来の文明民に対しいうべからざる畏怖と憎悪とを抱いていっさいの交通を断っている者が大分いるらしいのである。ーーー中学校の歴史では日本の先住民は残らず北の方へ立ち退いたように書いてあるが、根拠のないことである。佐伯と土蜘(つちぐも)と国巣(くず)と蝦夷(えぞ)と同じか別かは別問題として、これらの先住民の子孫は恋々としてなかなかこの島を見捨てはせぬ。奥羽六県は少なくとも頼朝の時代までは立派な生蛮地(せいばんち)であった。アイヌ語の地名は今でも半分以上である。またこの方面の隘勇線(あいゆうせん)より以内にも後世まで蛮族がおった。大和の吉野の国巣という人種は蝦蟇(がま)を御馳走とする人民であるが、四方の平地と海岸がすべて文明化した後まで、我々の隣人として往来しておった。新年に都へ来て舞を舞い歌を歌ったのはその中の一部であるか全部であるかは分らぬが、別に他国へ立ち退いたとも聞かぬ。『播磨風土記』を見ると、今の播但鉄道の線路近くに数の異人種が奈良朝時代の後まで住んでいた。蝦夷が遠く今の青森県まで遁(に)げた時代に丹波の大江山にも伊勢の鈴鹿山にも鬼がいて、その鬼は時々京までも人を取りに来たらしい。九州はことに異人種の跋扈(ばっこ)した地方であって、奈良朝の世まで肥前の基肄(きい)、肥後の菊池、豊後の大野等の深山に近き郡には城があった。皆いわゆる隘勇線であったのである。ゆえに平家の残党などが敗軍して深山に遁げて入るといかなる山中にもすでに住民がおって、その一部分は娘を貰ったりして歓迎せられたが、他の一部分はあるいは食べられたかもしれぬ。ーーーさてこれらの山中の蛮民がいずれの島からも舟に乗ってことごとく他境に立ち退いたということは、とてもできない想像であって、なるほどその大部分は死に絶え、ないしは平地に降って我々の文明に同化したでもあろうが、もともと敵である。少なくもその一部分は我慢をして深山の底に踏み留まり野獣に近い生活を続けて、今日までも生存して来たであろうと想像するのは、あながち不自然なる空想でもなかろう。それも田畑を耕し住家を建てればこそ痕跡も残るであろうが、山中を漂泊して採取をもって生を営んでいる以上は、人に知られずに永い年月を経るのも不思議でなく、いわんや人の近づかぬ山中は広いのである」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.188~190』ちくま文庫 一九八九年)

(2)「相州箱根の山男は裸体にして木葉樹皮を衣とす。深山にありて魚を獲るを業とし、市の立つ日を知ってこれを里に持ち来たり米と交易す。人馴れて怪しむことなし。売買のほか他言せず、用事終れば去る」(柳田國男「山人の市に通うこと」『柳田國男全集6・P.139』ちくま文庫 一九八九年)

さらにその翌年。周囲はすっかり畑になり納屋(なや)も出来た。ところが或る「霜の一面に置いた朝」、納屋に収納しておいた粟がそっくりなくなっていた。みんながっかり。探してみるしかない。あちこちへ向けて大声をあげる。

「『おらの粟知らないかあ』。『知らないぞお』。森は一ぺんにこたえました。『さがしに行くぞ』とみんなは叫びました。『来お』と森は一斉(いっせい)にこたえました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.36』新潮文庫 一九九〇年)

いつものように近くの狼森(オイノもり)から訪ねてみる。狼たちはもう知っていたらしい。ふと嘲笑まじりにこう言う。「ここには粟なんか無い、無い、決して無い」。さらに次は笊森(ざるもり)へ行ってみた。いつかの山男が出てきた。山男も何か知っているようで、にやにやしながら言う。「あわもちだ。おらはなっても取らないよ。粟をさがすなら、もっと北に行って見たらよかべ」。さらに北方向の奥には黒坂森がある。みんなは黒坂森に向って粟を返してほしいと頼んでみた。すると黒坂森は森だから当然かもしれないが、声だけが返ってきた。

「『おれはあけ方、まっ黒な大きな足が、空を北へ飛んで行くのを見た。もう少し北の方へ行って見ろ』」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.37』新潮文庫 一九九〇年)

そこは「松のまっ黒な盗森(ぬすともり)」。名前がそもそも盗っ人臭いと言いながら皆は粟を返せと怒鳴ってみた。すると森の奥から「まっくろな手の長い大きな大きな男」が出てきてこういう。

「『何だと。おれをぬすとだと。そう云うやつは、みんなたたき潰(つぶ)してやるぞ。ぜんたい何の証拠(しょうこ)があるんだ』」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.38』新潮文庫 一九九〇年)

押し問答になった。しかし盗森の反論はどこまでも力強い。みんなは怖くなりもう逃げようかと考えた。ここで作者=賢治の文章は不明瞭な書き方を選んでいる。一方で「まっくろな手の長い大きな大きな男」が「云いました」とある。もう一方、「盗森はどなりました」とある。そしてまた黒坂森は「まっ黒な大きな足が、空を北へ飛んで行くのを見た」と証言している。山人が「空を飛ぶ」ことはない。とすると「盗森」は山の「精霊」なのかという問いになるだろう。この辺りから山と村との境界線が急速に曖昧になっていくように思える。<神>としての山と人間とのテリトリーがそこで重なり区別され得る最前線というべき領域となるに違いない。山神信仰や巨石信仰は農耕社会成立より遥かに古い。そのとき、「銀の冠(かんむり)をかぶった岩手山」が荘厳さをたたえて声を響かせた。

「『ぬすとはたしかに盗森に相違(そうい)ない。おれはあけがた、東の空のひかりと、西の月のあかりとで、たしかにそれを見届けた。しかしみんなももう帰ってよかろう。栗はきっと返させよう。だから悪く思わんで置け。一体盗森は、じぶんで粟餅(あわもち)をこさえて見たくてたまらなかったのだ。それで粟も盗んで来たのだ。はっはっは』」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.39』新潮文庫 一九九〇年)

岩手山がしゃべる。みんなはあっけにとられてしまった。そして知らぬ間に「まっ黒な男」の姿もすっかり消えてしまっている。わけがわからないなりにがやがやおしゃべりしながらみんなが帰宅してみると、空っぽになっていた納屋の中に消えたはずの粟がまた戻ってきていた。しかしともかくこれで、周辺にある四つの森(狼森・笊森・黒坂森・盗森)すべてを踏破したことになる。

「さてそれから森もすっかりみんなの友だちでした。そして毎年(まいねん)、冬のはじめにはきっと粟餅を貰(もら)いました」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.39』新潮文庫 一九九〇年)

村落共同体の信仰は全国各地にあるけれども、それらはどれも地理的条件の違いや気象条件の違いにより様々でありまちまちである。その地域に入った人々とその地域がもともと持っている立地条件次第で幾つも変化形があり、そもそもオリジナルな原型のようなものからして<ない>ようなものだ。山間部の産物と海浜部の産物との間で交易が始まったのも、交換関係の最初ではないだろう。まず始めは森の中で或る森の住人と他の森の住人との間で始まったに違いない。そこから拡大していったわけでもまたないだろう。或る海浜部の産物と別の海浜部の産物との間で交易が開始された。その後になって始めて、山間部の産物と海浜部の産物との間で交易が始まったのではと思われる。

さて、作品冒頭でたった一つだけだが謎が提出されている。こうある。

「森にはまだ名前もなく、めいめい勝手に、おれはおれだと思っているだけでした」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.27』新潮文庫 一九九〇年)

なるほどそうだ。森は始めから一つの名前を携えて出現したわけでもなんでもない。陸地は<全体で陸地である>というのと変わらない。登場する「四つの森」もあらかじめそれぞれの名前を持っていたわけでは何らない。切り分けた者がいなくてはならない。<名づけ>の作業を行なった者がなくては、そもそも一つの大地を四つに切り分けることなどできるわけがない。そしてその作業=<名づけ>を行い道を付けていったのはほかでもない人間とその言語以外に考えられない。それでもなお、人間が用いる言語にはある種の限界がある。ヘーゲルは次のように述べる。

「私は、《個別的なもの》と言うとき、じつはむしろそれを全く一般的なものであると言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、人々の求めているものは、みなどれも《この》ものである。もっと正確な言い表わし方をして、この一枚の紙と言うとき、《すべての》紙、《どの》紙も《一枚の》紙なのである。だから私は相変らずただ一般的なものを語っているだけである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、《言葉に表現できない》ものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている」(ヘーゲル「精神現象学・上・意識・このものと思いこみ・P.138」平凡社ライブラリー 一九九七年)

また同じことになるだろうけれども、古代中国では荘子がこう言っている。

「物無非彼、物無非是、自彼則不見、自知則知之、故曰、彼出於是、是亦因彼、彼是方生之説也、雖然方生方死、方死方生、方可方不可、方不可方可、因是因非、因非因是、是以聖人不由而照之于天、亦因是也、是亦彼也、彼亦是也、彼亦一是非、此亦一是非、果且有彼是乎哉、果且無彼是乎哉、彼是莫得其偶、謂之道樞、樞始得其環中、以應無窮、是亦一無窮、非亦一無窮也、故曰莫若以明

(書き下し)物は彼に非ざるは無く、物は是れに非ざるは無し。自ら彼とすることは則(乃)ち見えず、自ら知ることは則(乃)ちこれを知る。故に曰わく、彼は是れより出で、是れも亦た彼に因(よ)ると。彼と是れと方(まさ)に生ずるの説なり。然(しか)りと雖(いえど)も方に生ずれば方に死し、方に死すれば方に生ず。方に可なれば方に不可、方に不可なれば方に可なり。是(ぜ)に因りて非(ひ)に因り、非に因りて是に因る。是(ここ)を以て聖人は由(よ)らずしてこれを天に照す、亦(た=唯)だ是れに因るのみ。是れも亦た彼なり、彼も亦た是れなり。彼も亦た一是非(ぜひ)、此れも亦た一是非(ぜひ)。果(は)たして彼と是れと有るか、果たして彼と是れと無きか。彼と是れと其の偶(ぐう=対)を得るなき、これを道枢(どうすう)と謂う。枢にして始めて其の環中(かんちゅう)を得て、以て無窮に応ず。是(ぜ)も亦た一無窮、非も亦た一無窮なり。故に曰わく、明(めい)を以(もち)うるに若(し)くなしと。

(現代語訳)物は彼(あれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。〔此方からすればすべてが彼(あれ)、彼方からすればすべてが此(これ)である〕。自分で自分を彼(あれ)とすることは分からないが、自分で自分を此(これ)としてわきまえることは分かるものである。だから『彼(あれ)は此(これ)から出てくるし、此(これ)もまた彼(あれ)によってあらわれる』という。彼(あれ)と此(これ)とは〔あの恵施の説く〕方生(ほうせい)の説(ーーーちょうど一しょに生まれるという説)である。けれども、〔恵施も説くように〕ちょうど生まれることはちょうど死ぬことであり、死ぬことはまたそのまま生まれることである。〔判断についても同じことで〕、可(よ)しとすることはそのまま可(よ)くないとすることであり、可(よ)くないとすることはまたそのまま可(よ)しとすることである。善(よ)しとしたことい身をまかせて悪(あ)しとしたことにまかせたことになる。悪しとしたことに身をまかせて善しとしたことにまかせたことになる。〔善し悪しの区別も相対的なものだから〕。そこで、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明にゆだねる。そしてひたすらそこに身をまかせていく。〔そこでは〕此(これ)も彼(あれ)であり、彼(あれ)もまた此(これ)である。そして彼(あれ)にも善し悪しの判断があり、此(これ)にも善し悪しの判断がある。果たして彼(あれ)と此(これ)とがあるのか。果たして彼(あれ)と此(これ)とがないことになるのか。〔もちろん彼(あれ)と此(これ)との対立はないことになる。このように〕彼(あれ)と此(これ)とがその対立をなくしてしまった〔ーーー対立を超えた絶対の〕境地、それを道枢(どうすう)ーーー道の枢(とぼそ)ーーーという。枢(とぼそ)であってこそ環(わ)の中心にいて窮まりない変転に対処できる。善しとすることも一つの窮まりない変転であり、悪しとすることも一つの窮まりない変転である。だから、〔善し悪しを立てるのは〕『真の明智を用いる立場に及ばない』といったのだ」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・三・P.54~57」岩波文庫 一九七一年)

そこでもう一度振り返ってみると次の文章に出会う。村のみんなが黒坂森に向って声をかけた時のこと。声だけが返ってきたとある。そして賢治はこう付け加えている。

「栗餅のことなどは、一言も云わなかったそうです」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.37』新潮文庫 一九九〇年)

黒坂森は森である。従って返事はするけれども<見返り>としての「粟餅」を求めなかったというわけだ。賢治はこう続けている。

「なぜなら、この森が私へこの話をしたあとで、私は財布(さいふ)からありっきりの銅貨を七銭(しちせん)出して、お礼にやったのでしたが、この森は仲々受け取りませんでした、この位気性がさっぱりとしていますから」(宮沢賢治「狼森と笊森、盗森」『注文の多い料理店・P.37』新潮文庫 一九九〇年)

賢治は何を言いたがっているのか。そもそも<数値化不可能なもの>=<交換不可能なもの>のことを<神>と呼び、また交換不可能で一方的に如来的実践(菩薩的無償性)を与えるばかりの尊さを指して<神>としたのではなかったろうか。

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Blog21・ベーリング行最大急行「氷河鼠の毛皮」

2021年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
知りたいと思わないだろうか。

「十二月二十六日の夜八時ベーリング行の列車に乗ってイーハトブを発(た)った人たちが、どんな眼(め)にあったか」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.257』新潮文庫 一九九五年)

一九二〇年(大正九年)、第一次大戦「戦後恐慌」発生。五月二日、日本初のメーデーが東京上野公園で開催された。翌一九二一年(大正十年)十二月二十三日、帝国日本は岩手県盛岡駅からシベリア出兵の一箇中隊を北方へ出発させた。作品発表はその翌々年に当たる一九二三年(大正十二年)四月十五日付「岩手毎日新聞」紙上。シベリア利権をめぐりロシアと日本は一九二一年(大正十年)から何度かに分けて協議に入っていた。日本は同時に満州利権拡大化を進めており、さらにシベリア地域が正式にソ連へ編入されたこともあり、その間、日本が主張するシベリアでの利権確保と沿海州の軍備制限要求は二度に渡って行われた協議で二度とも決裂。「シベリア撤兵」は一九二二年(大正十一年)、撤兵とはいうものの実際は北樺太に日本軍を駐留させたまま、他の漢口・青島・北満州などからの撤兵に留まった。

この撤兵はワシントン会議での決議(並びに国際世論)に押されてしぶしぶ行われた撤兵であり、北方侵攻へ着々と準備を整えていた日本軍としては余儀なくされた撤退だった。そのため国内では不満が高まる。日本国内の大衆のあいだには、日露戦争に勝利したにもかかわらずなぜもっとたくさんの土地と利権が転がり込んでこないのかという政府批判がわだかまっており、大衆による日本政府批判と政府そのものの弱体化、そして日本軍部の加速的台頭が同時進行していた。

一九二二年(大正十一年)九月の「長春(ちょうしゅん)会議」の最中に発覚した「押収武器紛失事件」はあまりにも有名。日本軍がロシア軍を武装解除した際、約三十万トンの武器・弾薬が押収されたが、シベリアから撤退したチェコ軍がその内訳の正確な点検要求を行ったため実施したところ、兵器格納用列車十九両のうち、貨物列車がすり換えられていたことが判明。そして武器の数量確認が実施された時、大量の兵器紛失が発覚した。アメリカ軍はすでにシベリアから撤兵した後である。中国軍はその場にいなかった。押収された兵器はそもそもロシア・チョコのもの。とすれば貨物列車ごと兵器を紛失させることが可能な立場にいたのは日本軍のみに限られる。国際世論は一気に日本軍へ疑惑の目を集中させた。そんな時期に賢治はなにげなく作品「氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮」を発表した。

小説では「ベーリング」という固有名詞が使われる。けれども実在するベーリング市のことではなく、賢治が言うように北極圏まで突き進む大型列車が目指す極北の地を漠然と意味する賢治独特の用語として出てくる。詩集では次の箇所が見られる。

「電信ばしらはやさしく白い碍子(がいし)をつらね ベーリング市までつづくとおもはれる」(宮沢賢治「春と修羅・一本木野」『宮沢賢治詩集・P.120』新潮文庫 一九九〇年)

見ればなるほど「ベーリング市」となってはいるが、詩というものの性質上、しかも賢治のような俊才が特定地域を名指して用いるような稚拙なミスを犯すとは考えられない。仮にニーチェがいうとすれば「北方への意志」と言い換えることができるしそう読まれてしかるべきだろう。賢治自身、「ベーリング市までつづくとおもはれる」とある中の「つづくとおもはれる」は、どこまでもがむしゃらに北極圏すらをも目指すばかりの権力意志の隠喩として用いていることは明白と言わねばならない。ところで登場人物たちがベーリング行き列車に乗り込んだ夜のイーハトヴ(賢治のいう<ドリームランドとしての日本岩手県>)は「ひどい吹雪」の日だった。

「町や空や通りはまるっきり白だか水色だか変にばさばさした雪の粉でいっぱい、風はひっきりなしに電線や枯(か)れたポプラを鳴らし、鴉(からす)なども半分凍(こお)ったようになってふらふらと空を流されて行きました。ただ、まあ、その中から馬そりの鈴(すず)のチリンチリン鳴る音が、やっと聞えるのでやっぱり誰(たれ)か通っているなということがわかるのでした」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.257』新潮文庫 一九九五年)

或る車両に一人の紳士が乗っていた。近辺では「イーハトヴのタイチ」と呼ばれていた。

「まん中には顔の赤い肥(ふと)った紳士(しんし)がどっしりと腰掛けていました。その人は毛皮を一杯(いっぱい)に着込んで、二人前の席をとり、アラスカ金の大きな指環(ゆびわ)をはめ、十連発のぴかぴかする素敵(すてき)な鉄砲(てっぽう)を持っていかにも元気そう」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.259』新潮文庫 一九九五年)

ほかにも何人かが同じ車両に乗り合わせていた。「黄いろな帆布の青年」もその一人。周囲の会話にはまったく関心がないらしい様子で列車の窓から吹雪いて行き過ぎる周辺の景色を注意深く眺めているようだ。あとは狐そっくりの目で辺りをきょろきょろしている紳士がちらほらいるくらいか。

「黄いろな帆布の青年は立って自分の窓のカーテンを上げました。そのカーテンのうしろには湯気の凍り付いたぎらぎらの窓ガラスでした。たしかにその窓ガラスは変に青く光っていたのです。船乗りの青年はポケットから小さなナイフを出してその窓の羊歯(しだ)の葉の形をした氷をガリガリ削(けず)り落しました。削り取られた分の窓ガラスはつめたくて実によく透(すき)とおり向うでは山脈の雪が耿々(こうこう)とひかり、その上の鉄いろをしたつめたい空にはまるでたったいまみがきをかけたような青い月がすきっとかかっていました。野原の雪は青じろく見え煙(けむり)の影(かげ)は夢(ゆめ)のようにかけたのです。唐檜(とうひ)やとど松がまっ黒に立ってちらちら窓を過ぎて行きます」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.260』新潮文庫 一九九五年)

車内では「イーハトヴのタイチ」がほかの乗客をつかまえて自分が着込んできた高価な外套をこれ見よがしに紹介する。

「『どうだろう、わしの防寒の設備は大丈夫(だいじょうぶ)だろうか』。ーーー『イーハトブの冬の着物の上に、ラッコ裏の内外套(うちがいとう)ね、海狸(びばあ)の中外套ね、黒狐表裏の外外套ね』。ーーー『それから北極兄弟商会パテントの緩慢(かんまん)燃焼外套ね』。ーーー『それから氷河鼠(ひょうがねずみ)の頸(くび)のとこの毛皮だけでこさえた上着ね』。ーーー『四百五十疋(ぴき)分だ。どうだろう。こんなことで大丈夫だろうか』。ーーー『わしはね、主に黒狐をとって来るつもりなんだ。黒狐の毛皮九百枚持って来てみせるというかけをしたんだ』」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.261~262』新潮文庫 一九九五年)

だんだん酔っ払ってきた金満家「イーハトヴのタイチ」はますます調子よく、自慢の毛皮を話題にしてご満悦の様子だ。

「『ね、おい、氷河鼠の頸のところの毛皮だけだぜ。ええ、氷河鼠の上等さ。君、君、百六十疋の分なんだ。君、君斯(こ)う見渡(みわた)すというと外套二枚ぐらいのお方もずいぶんあるようだが外套二枚じゃだめだねえ、君は三枚だからいいね、けれども、君、君、君のその外套は全体それは毛じゃないよ。君はさっきモロッコ狐だとか云(い)ったねえ。どうしてどうしてちゃんとわかるよ。それはほんとの毛じゃないよ。ほんとの毛皮じゃないんだよ』。『失敬なことを云うな。失敬な』。『いいや、ほんとのことを云うがね。たしかにそれはにせものだ。絹糸で拵(こしら)えたんだ』。『失敬なやつだ』」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.263』新潮文庫 一九九五年)

一方、タイチのあけっぴろげな自慢話を聞いているのか聞いていないのかわからないが、せっせと窓ガラスを磨いてどんどん通り過ぎていく周辺の雪景色に見入っている「黄いろな帆布の青年」のほかには、「客車の隅でしきりに鉛筆(えんぴつ)をなめながらきょときょと聴(き)き耳をたてて何か書きつけているあの痩(やせ)た赤髯の男」がいて、その二人がやや目立つ程度でしかない車内だった。そんな折、昔の汽車ではよくあることだがふいに電燈のあかりが消えそうなくらいすうっと暗くなった。

「窓は月のあかりでまるで螺鈿(らでん)のように青びかりみんなの顔も俄に淋(さび)しく見えました」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.266』新潮文庫 一九九五年)

紅茶の売り子のボーイが言った。

「『まっくらでござんすなおばけが出そう』」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.266』新潮文庫 一九九五年)

この場合、「おばけ」は「妖怪」でも「幽霊」でも構わない。どこの誰だかさっぱりわからない「スパイ(諜報員)」が世界中に溢れかえっていた時期だ。ちなみにマルクス=エンゲルスは公言している。

「ヨーロッパに幽霊が出るーーー共産主義という幽霊である」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・P.37」岩波文庫 一九五一年)

読者家の賢治はもちろんマルクスを読んでいる。コペルニクスの名とともにこう書いてもいる。

「新らしい時代のコペルニクスよ 余りにも重苦しい重力の法則から この銀河系統を解き放て ーーー新たな時代のマルクスよ これらの盲目(まうもく)な衝動から動く世界を 素晴しく美しい構成に変へよ」(宮沢賢治「詩ノート・生徒諸君に寄せる」『宮沢賢治詩集・P.266~268』新潮文庫 一九九〇年)

賢治はいう。「重苦しい重力の法則から この銀河系統を解き放て」。束縛を与えるばかりで逆に自由を奪い取る俗世間の鎖を断ち切ること。それが大事だと。ニーチェの言葉にならったと考えられる。「ツァラトゥストラ」から二箇所上げよう。

(1)「わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。ーーーこの霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・読むことと書くこと・P.62」中公文庫 一九七三年)

(2)「わたしは、悪魔にたいしては、神の代弁者だ。その悪魔とは、重さの霊なのだ。かろやかな者たちよ、どうしてわたしが神々(こうごう)しい舞踏に敵意をもとう」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第二部・舞踏の歌・P.168」中公文庫 一九七三年)

ある日の夜明け方、いきなり列車が停止した。同じ列車にいた「赤ひげ」がまるで別人の顔色になり二十人ほどの部下を連れて車内へ乱入。占拠しようとした。

「赤ひげはまるで違(ちが)った物凄(ものすご)い顔をしてピカピカするピストルをつきつけてはいって来ました。そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人というよりは白熊(しろくま)といった方がよいような、いや、白熊というよりは雪狐と云った方がいいようなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや、着たというよりは毛皮で皮ができてるというた方がいいような、ものが変な仮面をかぶったりえき巻を眼まで上げたりしてまっ白ないきをふうふう吐きながら大きなピストルをみんな握(にぎ)って車室の中にはいって来ました」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.266~267』新潮文庫 一九九五年)

でっぷり肥えた金満家タイチは捕まってしまう。そこへ「黄いろな帆布の青年」が飛んで割り込む。武術の心得があるのか熊たちからタイチを奪還し、今度は逆に「赤ひげ」を捕虜に取った。そして熊軍団に向っていう。

「『おい、熊ども。きさまらのしたことは尤(もっと)もだ。けれどもなおれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけあいけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度はゆるして呉(く)れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜(ほりょ)にしたこの男は返すから』」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.269』新潮文庫 一九九五年)

金満家タイチがシベリア方面でやっている途方もない密猟については「黄いろな帆布の青年」も否定できないが、今後は重ね重ね気を付けさせるからという。その条件が受け入れられて事態は収集され、にわかに発生した混乱は解決された。あわや銃撃戦かという瞬間だった。一人の乗客がつぶやく。

「『あの赤ひげは熊の方の間諜(かんちょう)だったね』」(宮沢賢治「氷河鼠の毛皮」『ポラーノの広場・P.270』新潮文庫 一九九五年)

熊はソ連のゲリラ部隊。一方、北極までも制覇しようとしてシベリアをどんどん通過する日本人たち。その構図が生々しく伝わってくる作品だとは言える。だが両者ともに抱えている日常生活上の苦労は違わない。賢治の場合、個人的にではあれ、詩にこうしたためている。

「さびしい不漁と旱害(かんがい)のあとを 海に沿ふ いくつもの峠(たうげ)を越(こ)えたり 萱(かや)の野原を通ったりして ひとりここまで来たのだけれども いまこの荒(あ)れた河原の砂の、うす陽(び)のなかにまどろめば、肩(かた)またせなのうら寒く 何か不安なこの感じ」(宮沢賢治「春と修羅・第二集・三五六・旅程幻想」『宮沢賢治詩集・P.190~191』新潮文庫 一九九〇年)

この事情は当時の敵国ソ連で暮らす人々の間でもさして違っていなかったに違いない。だからなのか賢治は作品の終わり方を「手打ち」で締め括っている。その意味で作品「氷河鼠の毛皮」は加速する戦争の足音を取り扱った小説に分類することができるだろう。ところがしかし二十一世紀も二十年を経た現在、人間というより本当の白熊やジュゴン、狐といった動物たちがもはや絶滅に瀕し、日に日に重くのしかかる生存環境の危機の訴えを、様々な喘ぎを喘ぎながら送り届けてやまない世界が遂に到来してしまったと言えるかもしれない。

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Blog21・贈物としての季節「まなづるとダァリア」

2021年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
「くだもの畑の丘(おか)のいただき」に三本のダァリアの花があった。二本は黄色いダァリア。一本は赤くてさらに高くそして大きなダァリア。周辺に少し風が吹き付ける季節でもあるようだった。しばらくすると「北風又三郎」がその年はじめて「笛(ふえ)のように青ぞらを叫(さけ)んで過ぎた」。そして畑の「梨の実」は落ちたようだ。

「北風又三郎が、今年はじめて笛(ふえ)のように青ぞらを叫(さけ)んで過ぎた時、丘のふもとのやまならしの木はせわしくひらめき、果物(くだもの)畑の梨(なし)の実は落ちましたが、此(こ)のたけ高い三本のダァリアは、ほんのわずか、きらびやかなわらいを揚(あ)げただけでした」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.15』新潮文庫 一九九五年)

二本ある黄色いダァリアの会話が始まる。四度繰り返される。その都度言葉は少しずつ変わっていく。変奏曲形式を取っている。その第一。

(1)「『お日さまは、今日はコバルト硝子(ガラス)の光のこなを、すこうしよけいにお播(ま)きになさるようですわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.16』新潮文庫 一九九五年)

(2)「『あなたは今日はいつもより、少し青ざめて見えるのよ。きっとあたしもそうだわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.16』新潮文庫 一九九五年)

この時、もう一本のひと際大きな赤いダァリアはこう洩らす。三本あるダァリアの中では最も色鮮やかで高く大きく花開いているのだが。

「『あたしの光でそこらが赤く燃えるようにならないくらいなら、まるでつまらないのよ。あたしもうほんとうに苛々(いらいら)してしまうわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.16』新潮文庫 一九九五年)

陽光を受けて輝くのも結構なことなのかもしれない。だが丘の上で一番大きい赤いダァリアは「あたしの光でそこらが赤く燃えるようにならないくらいなら、まるでつまらない」という。自分自身が「太陽」でありたいと。作者であると同時に法華経主義者でもある賢治の目からみれば、自ら「大日如来」でありたいとする野心を抱いたダァリアが一人いることになる。その日の会話はそれで終わる。夜が訪れる。それにしても賢治の描く夜の描写はいつも抜群に美しい。

「やがて太陽は落ち、黄水晶(シトリン)の薄明穹(はくめいきゅう)も沈(しず)み、星が光りそめ、空は青黝(あおぐろ)い淵(ふち)になりました」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.16』新潮文庫 一九九五年)

しばらくすると星あかりの下を「ピートリリ、ピートリリ」という鳥の鳴き声が聞こえてくる。秋になると越冬のために東北地方へやってくる<まなづる>の声だ。赤いダァリアは自分がどれくらい美しく見えているか<まなづる>に尋ねる。

「『ああきれいだよ』。鳥は向うの沼の方のくらやみに消えながらそこにつつましく白く咲いていた一本の白いダァリアに声ひくく叫びました。『今ばんは』。白いダァリアはつつましくわらっていました」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.17』新潮文庫 一九九五年)

実は沼に近い暗いところに白いダァリアが一本あったことがわかる。丘の上ではないのであまり目立たないのだろう。返事が「つつましく」というより「つつましく」思われるのは白いダァリアが置かれている立場だ。ちなみに全国各地で花見にもいろいろあるが、特にダァリアでなくてもその立地条件次第で人々が集まり撮影していく花はだいたい限られてくる。その意味で「沼の方」にある白いダァリアは不利な立場に置かれている。しかし賢治はその声を拾っておく。そして翌日。丘の上の黄色い二本のダァリアの会話。その第二。赤いダァリアを見て驚いている模様。

(1)「『あなたのまわりは桃色(ももいろ)の後光よ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.17』新潮文庫 一九九五年)

(2)「『あなたのまわりは虹(にじ)から赤い光だけを集めて来たようよ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.17』新潮文庫 一九九五年)

ところが赤いダァリアは不満らしい。陽光を与えられて、言い換えれば「受け身の立場」で美しく輝くのではなく、あくまで自分自身が陽の光でありたいと願う。高慢といえばいえる。だがそう思っていない人間、周囲は<私>がいて始めて華やぎ盛り上がるのでなければ気が済まないという人間はしばしば見かける。そこに目線を合わせて見れば決して「笑える」話ではない。例えばやたらテレビに出たがる政治家や黒幕と呼ばれて満更でもない人々がそれに相当する。その種の言葉を賢治はこう書く。

「『あら、そう。だってやっぱりつまらないわ。あたしあたしの光でそらを赤くしようと思っているのよ。お日さまが、いつもより金粉をいくらかよけいに撒(ま)いていらっしゃるのよ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.17~18』新潮文庫 一九九五年)

星空の下をいつもの<まなづる>が通過する。最も大きな赤いダァリアはいつものように自分がどう見えているか<まなづる>に尋ねてみる。

「『ずいぶん光っていますね』。まなづるは、向うのほのじろい霧(きり)のなかに落ちて行きながらまた声ひくく白いダァリアへ声をかけて行きました。『今晩は。ご機嫌(きげん)はいかがですか』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.18』新潮文庫 一九九五年)

夜明けの情景。賢治の文章は昇ってくる日光について、微妙な変化をつける。

「星はめぐり、金星の終りの歌で、そらはすっかり銀色になり、夜があけました。日光は今朝はかがやく琥珀(こはく)の波です」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.18』新潮文庫 一九九五年)

黄色いダァリアの会話。その第三。赤いダァリアに向けられたものだ。

(1)「『後光は昨日の五倍も大きくなってるわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.18』新潮文庫 一九九五年)

(2)「『あの梨の木まであなたの光が行っていますわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.18』新潮文庫 一九九五年)

一本のダァリアは「梨の木まであなたの光が行っています」という。梨の木はすでに果実を落として収穫された後だ。その年の最盛期はとうに終わっているので「そう映って見える」にきまっているわけだが、ダァリア仲間としては慎重で微妙な言葉遣いにならざるを得ない。赤いダァリアはまだまだ不満である。こうぼやく。

「『ええ、それはそうよ。だってつまらないわ。誰(たれ)もまだあたしを女王さまだとは云わないんだから』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.19』新潮文庫 一九九五年)

そこで賢治はこの作品の中ではじめて「秋」という言葉を投げ込んでいる。「かんばしくきらびやかな、秋の一日の暮れ、露(つゆ)は落ち」と。一方、依然として野心満々のダァリアは飛んできた鳥の<まなづる>に尋ねる。<まなづる>の返事にはどこか奇妙な歪みが生じている。

「『さあ、大したもんですね。けれどももう大分くらいからな』。まなづるはそして向うの沼の岸を通ってあの白いダァリアに云いました。『今晩は、いいお晩ですね』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.19』新潮文庫 一九九五年)

さらに翌日。黄色いダァリアたちの言葉はすっかり語彙を取り換えてしまった。第四の会話。

(1)「『あたしらには前のように赤く見えないわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.20』新潮文庫 一九九五年)

(2)「『あたしたちにだけそう見えるのよ。ね。気にかけないで下さいね。あたしたちには何だかあなたに黒いぶちぶちができたように見えますわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.20』新潮文庫 一九九五年)

言われた赤いダァリアはどきりとする。太陽が輝くと丘のくだもの畑ではすでに「苹果(りんご)の半分はつやつや赤くなりました」と賢治は書きつける。つやつやに赤いのはすでにりんごであり、りんごは最も華やかに秋の果物畑を彩る。ダァリアはどうなったのか。<まなづる>の返事はいつもと異なり気をつかい過ぎてわざとらしい。むしろ意図的にわざとらしさを演じている模様でさえある。

「『さよう。むずかしいですね』。まなづるはあわただしく沼の方へ飛んで行きながら白いダァリアに云いました。『今晩は少しあたたかですね』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.20』新潮文庫 一九九五年)

そして夜明け。みずみずしい苹果(りんご)の匂いが辺り一面に打ち広がっている。赤いダァリアはいらいらしてそばの黄色いダァリアたちを問いただす。

「『ほんとうを云って下さい。ほんとうを云って下さい。あなたがた私にかくしているんでしょう。黒いの。黒いの』。『ええ、黒いようよ。だけどほんとうはよく見えませんわ』。『あらっ。何だってあたし赤に黒のぶちなんていやだわ』」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.21』新潮文庫 一九九五年)

するとそこへ「顔の黄いろに尖(とが)ったせいの低い変な三角の帽子(ぼうし)をかぶった人」がやって来た。農家で使う鋏(はさみ)を手にしているらしい。赤いダァリアを見つけていう。

「『あっこれだ。これがおれたちの親方の紋(もん)だ』。そしてポキリと枝を折りました。赤いダァリアはぐったりとなってその手のなかに入って行きました」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.21~22』新潮文庫 一九九五年)

あっけない瞬間に立ち合わせた黄色いダァリアたちは驚いて叫んだ。だが赤いダァリアは持って行かれるがまま、その叫び声も急速に弱々しく遠のいていく。間もなく丘のふもとの木々のざわめきの中へ消え去った。残された黄色いダァリアの悲痛な叫び声は、しかし、季節がすっかり変わってしまったことを周囲に送り届けるばかり。消え去った赤いダァリアへの呼び声と晩秋の到来とを告げる声との二つに分裂し二重化される。

「黄色なダァリアの涙(なみだ)の中でギラギラの太陽はのぼりました」(宮沢賢治「まなづるとダァリア」『ポラーノの広場・P.22』新潮文庫 一九九五年)

ここで「太陽」は「ギラギラ」とのぼる。宮沢賢治特有の描き方であり、おそらく季節変わりの節目を強調する意図が込められた形容詞だろうに思う。自然界の<掟>が今とは比較にならない厳しさをたたえていた時代だったから。四月になって登山が始まる頃、ふいに到来して一挙に去っていく東北地方特有の暴風雪を描いた作品「水仙月の四日」の終わり付近でも「お日さま」は「ギラギラ」と描かれている。

「ギラギラのお日さまがお登りになりました。今朝(けさ)は青味がかって一そう立派です」(宮沢賢治「水仙月の四日」『注文の多い料理店・P.78』新潮文庫 一九九〇年)

自然界からの贈物はいつも一方的なものだ。噴火、地震、台風、豪雨、旱魃など、制御するにもしきれない<力>を宇宙的次元の周期性をたたえて忽然と出現させる。人間はそれについて畏怖の念を込めて<無償>とか<贈与>とかの形容詞(あるいは名詞)を与えて呼んできたし今なおそう呼んではいる。だがそれへの敬意はずいぶん変わってしまったか、ともすればすっかり忘れ去られてしまったというほかない。

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