二〇一七年四月二十九日作。
(1)雨しょうしょう凍てる花弁の落ち掛かる
(2)幾時代かがここも戦争ありました
(3)奉公してきた首を吊る縄がない
(4)狂気の準備が足りない普通になれない
(5)辛いでしょうね時々は
(6)岩砕き極東有事の波濤煌めき
☞「さて孤立して捉えられた場合、《否定性》は(存在論的次元において)純粋の《無》である。この《無》は(抽象的=《自我》の)《行動》となって《存在》の中で無化する。だが、その《行動》はこの《存在》を無化して、したがって、《存在》がなければこの行動は《無》でしかない以上、己れ自身を無化して無となる。したがって、《否定性》は《存在》の《有限性》(或いは現在とは決してならぬであろう真の未来への現前)以外の何ものでもなく、《行動》は本質的に《有限的》である。(形而上学的次元において)、《行動》によって創造された歴史的世界が必然的に発端と終末とをもつのはそのためである。そうして、その存在自体が《行動》であるものは、(現象学的次元において)自己自身及び他者に対して否応なく《死すべきもの》として『現われる』のであった」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.384」国文社)
「だからこそヘーゲルは引用節において《死》を『非実在性』すなわち《否定性》ないし『否定的なもの』と呼ぶことができたのだが、《人間》が《行動》であり、《行動》が《死》として『現われる』《否定性》であるならば、《人間》はその人間的ないしは言葉を話す現存在においては《死》でしかない、つまり不定の期間遷延され、それ自身を意識する《死》でしかないことになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.384~385」国文社)
「したがって、《言説》或いは言葉を話す存在としての《人間》を哲学的に説明すること、──これは死の事実を率直に受け容れ、哲学上の三つの次元において、その意義と範囲とを記述することになる。だが、これこそはヘーゲル以前の哲学者たちが怠っていたことであった」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「ヘーゲルはこれに驚いてはいない。なぜならば、死が『最も恐るべきもおんであり』、死の受容は『最も大きな力を要する』ということを彼は知っているからである。《悟性》がおの受容を要求すると述べる。なぜなら、《悟性》はその言説によって実在するものを開示し、己れ自身を己れ自身に開示するからである。このような悟性が有限性から生まれる以上、悟性は死を思惟し死について語ることによって悟性である。──すなわち己れ自身とその根源とを自覚する言説である。だがまたヘーゲルは『力なき美』が《悟性》の要求に応ずることができないことをも知っている。審美家、ロマン主義者、神秘主義者たちは死の観念から逃れ、《無》自体をも何か《存在する》ものとして語る」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「だが、『《精神》の生』は『死の前に脅えその暴威から自己を守る』生ではなく、『死を耐え忍び死の中に自己を保つ』生である、とヘーゲルは述べる。それは、《精神》が言葉により開示された《存在》であり、《精神》の生が《世界》と己れ自身とを自覚する哲学者或いは《賢者》の現存在だからである。ところで、人間が有限であり死すべきもの《である》以上、人間が真に自己を意識するのは、自己の有限性を、したがって自己の死を自己の死を意識することによってである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「加えて、《精神》は『絶対の分裂の中に自己自身を見いだして初めて自己の真理を得る』。なぜならば、再度繰り返すことになるが、《精神》は《言説》によって開示された《実在するもの》だからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
ポイントを押さえておこう。「《精神》は《言説》によって開示された《実在するもの》だからである」、とある。もっともなことだろう。現実的な意味で「言語先行」だという動かしようのない事実の確定。だから余計なお節介を全て取り払ってしまえば、ヘーゲルの手に残るものは観念論的ユートピアではなく、逆に唯物論的言語形態だけが取り残されてしまうことになる。観念論は唯物論へ転化する。
「弁証法の正しい理解と認識はきわめて重要である。それは現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理である。また弁証法はあらゆる真の学的認識の魂である。普通の意味においては、抽象的な悟性的規定に立ちどまらないということは、単なる公平にすぎないと考えられている。諺にも<自他ともに生かせ>と言われているが、これは或るものを認めるとともに、他のものをを認めることを意味する。しかしもっと立入って考えてみれば、有限なものは単に外部から制限されているのではなく、自分自身の本性によって自己を揚棄し、自分自身によって反対のものへ移っていくのである。例えばわれわれは、人間は死すべきものであると言い、そして死を外部の事情にもとづくものと考えているが、こうした見方によると、人間には生きるという性質ともう一つ可死的であるという性質と、二つの特殊な性質があることになる。しかし本当の見方はそうではなく、生命そのものがそのうちに死の萌芽を担っているのであって、一般に有限なものは自分自身のうちで自己と矛盾し、それによって自己を揚棄するのである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.246~247」岩波文庫)
「ここで問題となっているような事柄は、哲学以外のあらゆる意識およびあらゆる経験のうちにすでに見出されるものである。われわれの周囲にあるすべてのものは弁証法の実例とみることができる。われわれは、あらゆる有限なものは確固としたもの、究極のものではなくて、変化し消滅するものであることを知っている。これがすなわち有限なものの弁証法であって、潜在的に自分自身の他者である有限なものは、この弁証法によって実際またその直接の存在を超出させられ、そしてその反対のものへ転化する」(ヘーゲル「小論理学・上・P.248~249」岩波文庫)
「弁証法がその成果として否定的なものを持つ場合、この否定的なものはまさに成果であるから、それは同時に肯定的なものでもある。というのは、この否定的なものは、それを成果として生み出したものを揚棄されたものとしてそのうちに含んでおり、それなしには存在しないからである」(ヘーゲル「小論理学・上・P.251」岩波文庫)
コジェーヴに戻ろう。
「ところで、《言説》は、《自然》に対立し、自己自身でもある所与としての動物を《闘争》において否定し、所与の自己に与えられた《自然的世界》を《労働》により否定する《人間》の中に生まれる。この《実在するもの》の《人間》と《自然》とへの『分裂』から《悟性》及びその《言説》が生まれ、それらが《実在するもの》を開示し、それによってこの実在するものを《精神》へと変貌せしめる。この《対立》、この《人間》と所与の《実在するもの》との葛藤は、最初は開示する人間の言説の《誤まった》性格を通して顕在化され、《賢者》の言説が実在と《再び合一する》のは時の終わり、《歴史》の終局においてでしかない。そのときに初めて『《精神》は再び自己を見いだす」と述べることができ、精神は、実在を十全に開示する『その真理を得る』と述べることができる。だが、精神が自己を再び見いだすとしても、それは、歴史的過程の中でさまざまな形の誤謬となって顕在化する『分裂』の中で、そしてそれによってであり、この過程自体、互いに継起し、時間の中で次々に生まれては死んで行く世代のそれである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385~386」国文社)
死が《自然》の中に《人間》を生み出し、死が《人間》をその究極的な宿命へと歩ませ、自己をあますことなく意識する《賢者》、したがって自己自身の有限性を意識する賢者の宿命へと歩ませる。したがって、通俗的な人間に倣い、自己の人間的現存在の根拠であり、単に闘争と労働としてばかりか、人間のうちに、そして人間に対して顕在化される《否定性》を知らぬふりをする限り、《人間》は《知恵》あるいは自己意識の充溢には到達しない。通俗的な人間は死を『これは何物でもない』とか、『これは偽である』と言えるようなものとして受け止め、速やかにそれに背を向け、日々の生活に戻る」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.386」国文社)
注釈を見ておく。たった今あげた引用部分は極めて大事なので、コジェーヴがハイデッガー「存在と時間」からこっそり密輸入したと考えられる部分をハイデッガーから引いてみよう。内容はほとんど変わらない。
「ひとは確実な死を《気にしており》、しかもそれを本来的に確承して《いない》。現存在の頽落的日常性は、死の確実性を《知って》いるけれども、それをおのれの《存在》においてたしかめることを避けている。しかしながら、この逃避は、それが何に臨んでたじろぐのかという点に着目するならば、死はひとごとでない、係累のない、追い越すことのできない、《確実な》可能性として把握されなくてはならない、ということを、現象的に証拠だてるものなのである。《死はたしかにやって来る、しかし、いますぐというわけではない》と、ひとは言う。この《しかし》によって、世間は死が確実であることを打ち消す。《いますぐというわけではない》は、たんに否定的な言明ではなく、世間はそこにひとつの自己解釈を含めているのである。すなわち、世間は死にこの解釈を与えながら、自分を──まだ自分の手に入るもの、まだ自分が従事することのできるもののところへ差し向けているのである。日常性は急用の配慮へひとを急き立て、張り合いのない《無為な死の想念》を厄介払いする。死は《そのうちまた──》へあと廻しにされ、しかもそのさい、いわゆる《大方の見積もり》が頼みにされる。こうして世間は、死の確実さの特異な性格、すなわち、《死はいかなる瞬間にも可能である》ということを、蔽いかくしてしまう」(ハイデッガー「存在と時間・下・P.75~76」ちくま学芸文庫)
「死の確実さには、いつもその到来時期の無規定性が伴っている。この無規定性を逃避するために、日常的な《死へ臨む存在》は、それにある規定性を付与する。しかしこのように規定することは、死亡の到来時刻を算定するということではありえない。むしろ、現存在はかような規定性からは逃亡するのである。日常的な配慮が確実な死の無規定性に規定をつける手だては、身近な日常生活の見通しのきく用件や機会などを、いつくるかわからない死の無規定性の手前へ繰り入れるという仕方である」(ハイデッガー「存在と時間・下・P.76」ちくま学芸文庫)
「ところが、無規定性が蔽いかくされると、確実性もその影響をうける。こうして、確実でしかも無規定──すなわち、いかなる瞬間にも可能であるという、死のもっとも固有な可能性の性格は、包みかくされることになる」(ハイデッガー「存在と時間・下・P.76」ちくま学芸文庫)
さて、説明が長いといっても、ヘーゲルの文章自身が長いので仕方のない箇所は当然出てくる。今ここで問題とされている諸問題はこれまで見てきた通りであって、その範囲を逸脱するほどまでには至っていない。他の訳文では次のようなものが入手可能でなおかつわかり良いかと思われる。
「普通行われてきたところによれば、ある一つの表象を《分析する》ということは、その表象によって知られたものとされる形式を、止揚〔廃棄〕することにほかならなかった。一つの表象をそのもとの要素に分解するということは、少なくとも当該表象の形式をもっていない契機へと、すなわち自己の無媒介の所有物となっているような契機へと帰って行くことである。なるほどこの分析は、それ自身よく知られた、固定した、静止的な規定であるような《思想》〔考えられたもの〕に、行きつきはする。だが、このようにして《分けられたもの》、この非現実的なものこそは、本質的契機なのである。なぜならば、具体的なものは分離され、非現実的なものになるからこそ、動くものであるのだから。分けるというはたらきは、《悟性》、最も不思議で偉大で、あるいはむしろ絶対的な威力である《悟性》の力であり仕事である。自分のなかに完結して安らい、実体としてその契機を支えている円は、直接的〔無媒介〕な、それゆえ少しも不思議でない関係である。しかし、その円の領域から分離された偶然なものそのもの、結びつけられたもの、他のものと関連してのみ現実的なものが自己の定在をえ、また分離されて自由になるということは、否定的なものの巨大な威力であるのだからである。つまりそれは思惟の、純粋自我の活力である。前に言った非現実性を死と呼ぶとすれば、この死こそは最も恐ろしいものである。そこで、死んだものにしっかり目をすえるには、最大の力が必要である。力のない美は悟性をきらう〔ノヴァリス、耽美派〕。それは、悟性が美の果たしえないことを求めるからである。だが、死を避け、荒廃からきれいに身を守る生ではなく、死に耐えて死のなかに自己を支える生こそは、精神の生である。精神は、甘んじて、自ら絶対的分裂のなかにいるときにだけ、自らの真理をえている。精神がこの威力であるのは、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものに目をすえて、それに足を止めるからこそ、そういう威力なのである。このように足を止めることが、否定的なものを存在に向けかえる魔力である。──この魔力は、前に主観と呼ばれたものと同じものである。この主観は、自らの場〔境位〕において規定性に定在を与える点で、抽象的な、すなわち、とにかく《存在する》というだけの直接〔無媒介〕性を止揚〔廃棄〕する点で、このようにして真の実体であるという点で、存在でありまた無媒介〔直接〕性である、がこの無媒介性は、媒介を自己の外にもっているのではなく、媒介そのものなのである」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.48~50」平凡社ライブラリー)
「物神崇拝」(ぶっしんすうはい)。俗にいう「フェティシズム」。「フェチ」と略しても問題ない。というより、省略された言語「フェチ」のほうが社会の中で断然有効かつ合理的に使用されているのが現状だ。
さて前ページで、睦月影郎「永遠のエロ」(二見文庫)を参照した。そのわけは大きく分けて三点ある。(1)「フェチ」の理解において大変わかりやすい文章であること。(2)書籍の側から読者を選ぶことなく逆に読者の側から書籍を手に取る「フェチ文学」を一挙に読ませてしまう技巧的文体を体得していること。(3)時代考証面で専門的知識を押さえていること。
次の文章はフェチについて極めて注意深い筆致で書かれている。噛み砕くつもりで目を通してみることは決して悪くはないし、また、つまらない時間潰しよりも次元違いの速度を獲得するツールとしての存在価値を有していると認められること。
「テクストは物神(フェティッシュ)だ。《この物神は私を欲する》。テクストは、語彙、参照物、読みやすさ、等々、見えないフィルターや選別板を配置して、私を選ぶ。そして、テクストの中に紛れて(機械仕掛の神のように、《うしろに》いるのではない)、いつも他者が、作者がいる。制度としての作者は死んだ。彼の公民的、情念的、伝記的人格は消滅した。王位を失った彼の人格はもはや作品に対して恐るべき父性を発揮することはない。文学史や教育や世論はこの父性の物語を、手を変え、品を変え、作り上げてきたものだ。しかし、テクストの内部に、何らかの形で、作者は《私を欲する》。私は彼の形象(彼の表象でも、投影でもない)を必要とするのだ。彼が私の形象を必要とするように(《おしゃべり》は別にして)」(バルト「テクストの快楽・P.51~52」みすず書房)
文学/思想/建築/デザイン/茶道/華道/能/陶芸/剣道/チェス/囲碁/将棋/麻雀/サーフィン/テニス/盆栽/弓道/オーケストラ/釣り/カメラ/料理、等々。これらすべては「何か」がフェチ化された後の形態として可視化されたものだ。そして同時に言わねばならない。世界最大のフェチ的対象(物神)はほかでもない貨幣だと。かつて貨幣であった様々なものが交換経済を継続していくうちに、貨幣は世界最大のフェチ的対象(物神)となった。
そしてまた、文学/思想/建築/デザイン/茶道/華道/能/陶芸/剣道/チェス/囲碁/将棋/麻雀/サーフィン/テニス/盆栽/弓道/オーケストラ/釣り/カメラ/料理、等々。これらがなぜ「或る種のフェチ」に属すると目されているかは、ごく一般的な意味であれ、どのように受け止めていればまず間違いを犯すことがないのだろう。ニーチェから引いておこう。
「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである。真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」・「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)
ニーチェの鋭い分析力はなるほどもっともな理論として、わかり切ったことだと語る人々は少なくない。しかし偏差値で比較する場合、平均的レベル以上の国公立の大学の大学院ではこの「わかり切ったこと」を受講生の側から説明できなくては話にならない。真面目に相手にされない。そこで、次の文章にも目を通して、少しばかり「ゆとり」をもって考えられる時間を日常生活の中へしっかり組み込むことがここ二〜三年のうちだけ見ても極めて大切だろうと考えないわけにはいかなくなってきた。’00年代以降、明らかな歴史的流動におけるリゾーム社会の基礎的研究を参照しつつ、ただ単なる専門家依存社会に陥ってしまう危険性を孕みながらも孕みを避けつつスムーズに問題提起の断層を切り分けて引き継いでいくこと。年齢では四十代後半〜七〇代前半世代の中にその作業に耐え得る人材が居るではないか。 しかし彼ら彼女らは大手マスコミからだんだん排除されていく悪循環の環の中へ閉じ込められつつある。
「現代的なものは交換の外に逃がれようと絶えず努力している。それは作品の市場に抵抗し(マスコミを拒んで)、記号に抵抗し(意味を免れて、狂気によって)、正しいセックスに抵抗する(再生産の目的から悦楽を切り離す倒錯によって)。しかし、どうしようもない。交換は、それを否定しているようにみえるものを飼い馴して、すべてを取り込んでしまう。それはテクストを捉える。テクストを無用な、しかし、合法的な消費の回路にのせる。こうして、テクストは再び集団経済の中に入る(心理的な面だけだとしても)。有用なのはテクストの無用性そのものだ。ポトラッチのように。いいかえれば、社会は引き裂かれた形で生きているのだ。崇高な、無私無欲のテクストと、商業上の物件とに。その物件の価値はといえば──その物件の無償性なのである。しかし、このように引き裂かれていることを社会は全然意識していない。《社会は自分の倒錯を知らない》。《係争中の両当事者はそれぞれの分け前を持っている。衝動は満足に対する権利を持ち、現実は当然受けるべき尊敬を受ける。『しかし』》と、フロイトはつけ加える。《『誰もが知っているように、無償なものは死しかない』》。テクストにとって、無償なものは、自分自身の破壊しかないだろう」(バルト「テクストの快楽・P.44~45」みすず書房)
二〇一七年四月二十六日作。
(1)耐え難きはふるさとの砂のこぼれる
(2)分け入ればしとどに濡れて
(3)黒薔薇に水をもう朝
(4)PTAにモロイの訪ねる
(5)掘削している見返り美人
(6)磯波ふと消え鼓一擲
☞「脱ぎ去り、一糸まとわぬ姿で向き直り、彼の傍らに腰を下ろしてきた。『すごいわ、高射砲のように逞しい──』奈津が、屹立しているペニスを見下ろして言い、やがて優雅な仕草で添い寝してきた」(睦月影郎「永遠のエロ・P.18」二見文庫)
で、なぜ官能小説なのか。戦争とは何かという抜き差しならない問題とセットであるからだ。と言うだけなら誰にでも言えるだろう。もし余裕があれば是非カバー・イラストを見てほしい。官能系ではあるものの、芯の部分から性とは何か、という課題と常日頃から付き合っていて始めて描き得る表紙デザインだ。
戦闘機は時代ゆえ、ではない。もし時代ゆえに戦闘機の描写が「ない」とすれば、どうだろう。隅々まで隈無く見ないとただ単なる「B級ポルノ」と勘違いされそうなぎりぎりの線上にある。わかるだろうか。女性の姿をじっくり観察したいと思う。資本主義社会であるがゆえにいわゆる「サービス」として胸元がやや非常識な描かれ方へ傾斜しているのは常としても。
特に「美人」と言われる部類には入ってこない、どこにでもごろごろ転がっているような、ごく普通の女性だ。ゆえに、注目すべきは服装へ移る。ずば抜けてプロポーションが目を引くというわけではない。通勤通学の時間帯であれば毎日でも視野に入ってくるタイプでしかない。見るべきは僅か三点のみ。(1)真っ白いシャツ。(2)やや短めの黒いタイト・スカート。(3)特に何と言うこともないスタンダードな口紅。それだけ。
作家にとって官能小説の仕上げは、はなはだ難しいと言われている。が、次の文章を見てみよう。
「零戦は一人では動かず、整備兵の補助が必要なのである」(睦月影郎「永遠のエロ・P.152」二見文庫)
ここまで述べて、もし今後の日本人の人口が減少していくようであれば、もっと真剣に考えなければならない。特に今の内閣の顔ぶれは。
ところで、なのか、もちろん、なのか。一旦息継ぎするのか、それとも、従って必然的に、なのか。この違いに横たわる深淵さについて、どのような資格を持って始めて発言することができるか。
ドゥルーズから引用してきた。たびたび引用してきた。だがこの「深淵さ」について、もう一度引用するのはなぜか。引用してきた側のほうが既に疲れを感じ出しているから、と言えばいいのだろうか。もし読者の側が飽き飽きしていると考え得るなら、引用する側も引用を読まされる側もただ単なる暇つぶしでしかないだろう。それを承知の上で再考を促したい。文学の営みとは一度々々違ってはいる。だが文学でない営みなど存在しないし、存在した試しもないだろう。
先に該当する箇所を上げておこう。この部分は作者自身がそうであったように読者の側もまた同程度のアルコール依存症者でなくてはならないということを意味しない。とはいえ、日本にも同様のアルコール依存/薬物依存症者は居る。その点でリアルの精緻な模写たり得ていることは確かだ。フィッツジェラルド。この痛ましさ。
「もちろん生涯はひとつの崩壊の過程であるが、そこでドラマチックな役割を果たす打撃なら──外側からやってくるか、少なくともやってくると思われる不意の大打撃なら──覚えていて文句を言ったり、気弱になったときに友達に言えるような打撃なら、被害の深刻さは一度に現われることはない。ところが内側からの打撃もある──気がついてみると何もかも手遅れだし、自分はもう二度とまともな人間になれないと、決定的に悟らせてしまうような打撃である。第一の種類の崩壊作用はてきぱきと運ぶ──第二のものだと、起ってもまず気がつかないかわりに、まったくだしぬけに致命傷をつきつける」(フィッツジェラルド「崩壊」・「フィッツジェラルド作品集3・P.184」荒地出版社)
「人生には別の破壊があるという本題に戻るわけだが、壊れたと悟るのは打撃をうけたのと同時ではなくて、小康状態に入ってからである」(フィッツジェラルド「崩壊」・「フィッツジェラルド作品集3・P.185~186」荒地出版社)
「──そして、それを知ったときには、古い皿のように壊れていた」(フィッツジェラルド「崩壊」・「フィッツジェラルド作品集3・P.186」荒地出版社)
「夕暮時の人のいなくなった射撃場に立っている感じ。ライフルは空っぽだし、標的もひっこんだ。何の問題もない──ただ静寂があって、聞えるのは自分の呼吸だけ」(フィッツジェラルド「取り扱い注意」・「フィッツジェラルド作品集3・P.192」荒地出版社)
「ぼくはただ完全に静かなところで考えぬいてみたかった。なぜぼくは悲しみに対しては悲しい姿勢、憂鬱に対しては憂鬱な姿勢、悲劇に対しては悲劇的な姿勢をとるようになったのか。《恐怖や同情の対象と自己との区別が、なぜつかなくなってしまったのか》と。こんなことはどうでもいい区別と思うかもしれないが、そうではない。こういう区別を見失うことは、何ひとつできなくなってしまうようなものだ。気狂いが仕事ができなくなるのはこういう問題だ。レーニンはプロレタリアの苦しみを苦しもうとはしなかった。ワシントンは兵卒の苦しみを、ディケンズはロンドンの貧乏人の苦しみを経験しようとはしなかった。そしてトルストイは、同情の対象にとけこもうとしたが、その努力は本物ではなく失敗に終った」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.196~193」荒地出版社)
「ぼくの自己犠牲ぶりは底なしだった」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.197」荒地出版社)
他人のための自己犠牲ではなく、フィッツジェラルドが生きていくためにアルコールに費やした「自己犠牲」であるところを見落とさないようにしよう。
「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.197」(荒地出版社)
「過去においてぼく自身の幸福はしばしば恍惚状態に近づき、最も親しい人たちと分ちあうこともできず、静かな街や小道を歩いて発散しなければならず、そのうちのわずかな断片が本のごく一部となって結晶したにすぎない──ぼくの幸福自己欺瞞の才能でも、何でもかまわない例外だと思っている。それは自然ではなくて不自然なもの──好景気と同じように不自然だった。ぼくのその後の経験は、好景気がすんだときに国民をのみこんだ絶望の波と同じだった。この事実を見きわめるのに数ヶ月をかけているけれどもぼくはこの新しい運命の中で何とか生きてゆくことだろう。アメリカの黒人たちは快活な禁欲主義によってたえがたい生存条件に耐えることができたが、真実への感覚を失ったように──ぼくの場合も代償を支払わなければならない。もうぼくは郵便屋や八百屋や編集者や従妹の夫に好意を持ったりしない。好意を持てば、彼らはぼくを嫌うだろうしそうなると人生はもうそんなに楽しくはなくなるだろう。ぼくのドアの上には『猛犬注意』の看板がいつもかかっていることになる。ぼくは正真正銘の犬になるつもりだけれども、もしきみがたっぷり肉のついた骨を投げれば、ぼくはきみの手までなめるかもしれない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」・「フィッツジェラルド作品集3・P.200」荒地出版社)
ドゥルーズはこう論じる。
「『もちろん、人生全体は崩壊の過程である』。これほどハンマー音をわれわれの頭の中に響かせる文はほとんどない。フィッツジェラルドの短編小説ほど、沈黙を課し、恐怖にかられた承服を強いるという、抗い難い傑作の特徴を持つテクストはほとんどない。フィッツジェラルドの全作品は、この命題、とりわけ『もちろん』の唯一無比な展開である。こちらに男と女がいる。あちらに何組かのカップルがいる(何故カップルか。運動が、対合の過程として定められる過程が既に肝要であるからである)。みんなが幸福であるためのすべてを持っている。美しく、魅力的で、富裕、軽薄、才気に満ちていると言われる。次いで、何ものかが通り過ぎて、みんなが、まさに皿やグラスのように割れていく。死によって二人ともども連れ去られるのでなければ、分裂病者とアルコホリック〔アルコール中毒者・依存者・アルコール飲み〕の恐ろしい差し向かいである。有名な自己-破壊というものであろうか。それにしても、正確には、何が通り過ぎたのか」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.268」河出文庫)
「二人は、自分たちの力に余る特別なことをやってみたわけではない。ところが、二人が、自分たちには余りに大きな《戦闘》から目覚めてみると、身体は割れ、筋肉は捻挫し、魂は死んでいるのだ。『弾丸のない銃を手にしながら、標的も降ろされて使われなくなった夕暮れの射撃場に立っている感じだった。解くべき問題はなく、静寂だけ。私の呼吸音だけが──私の自己犠牲は、暗く湿った信管でしかなかった』。たしかに内でも外でも、沢山のことが通り過ぎた。戦争、株価暴落、老化、抑鬱、病気、才気の枯渇。ただし、これら騒々しい事故は、即座に効果を発揮し終わる。事故だけで事に十分であるためには、まったく別の本性の何ものかを穿って深くしなければならないだろう。しかるに、その何ものかは、事故から隔たって、遅すぎた時になって、明かされるのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.268~269」河出文庫)
「二人は、自分たちの力に余る特別なことをやってみたわけではない。ところが、二人が、自分たちには余りに大きな《戦闘》から目覚めてみると、身体は割れ、筋肉は捻挫し、魂は死んでいるのだ。『弾丸のない銃を手にしながら、標的も降ろされて使われなくなった夕暮れの射撃場に立っている感じだった。解くべき問題はなく、静寂だけ。私の呼吸音だけが──私の自己犠牲は、暗く湿った信管でしかなかった』。たしかに内でも外でも、沢山のことが通り過ぎた。戦争、株価暴落、老化、抑鬱、病気、才気の枯渇。ただし、これら騒々しい事故は、即座に効果を発揮し終わる。事故だけで事に十分であるためには、まったく別の本性の何ものかを穿って深くしなければならないだろう。しかるに、その何ものかは、事故から隔たって、遅すぎた時になって、明かされるのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.268~269」河出文庫)
「何ものかは、事故から隔たって、遅すぎた時になって、明かされる」。当り前のようでいて実はほとんど忘れ去っている様々な事態を想起してみよう。
「沈黙した裂け目。『何故、われわれは、平和・愛・健康を順番に失ってきたのか』。沈黙の知覚不可能な裂け目が表面にあったのだ。それは表面の<唯一無比の出来事>、事故にぶら下がり自己を見下ろし、自己自身の場の上を飛ぶ出来事である。真の差異は、内と外の間にはない。裂け目は内でも外でもない。裂け目は、境界にあり、無感覚で非物体的で観念的である。だから、裂け目は外と内に到来するものと、衝突・交差の複雑な関係、リズムの異なる二つの歩調の間歇的合流の複雑な関係を持っている。到来する騒々しいものは、裂け目の縁に到来し、裂け目がなければ何ものでもない。逆に、到来するものの打撃の下でなければ、裂け目は、その道を静かにたどることはできないし、最小抵抗線に沿って方角を変えその巣を広げることもできない。こうして、二人は、そして、騒音と沈黙は、婚姻を親密に続けて、最期にはバリバリと破裂してしまう。いまやその意義はこうなる。内と外での労働が裂け目の縁を緩めると同時に、裂け目の動きは身体の深層で受肉されてきたのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.269~270」河出文庫)
この箇所で再び注目しておこう。「裂け目は内でも外でもない。裂け目は、境界にあり、無感覚で非物体的で観念的である」。
このセンテンスからは、哲学/思想のフィールドでは収め切れない文章がつづく。
「ブスケが傷の永遠性について話すとき、自分の身体が抱える忌まわしい個人的な傷の名において話しているのである。フィッツジェラルドやラウリーが非物質的な形而上学的裂け目について話すとき、また、思考の場所と支障、思考の源泉と涸渇、意味と無-意味をそこに同時に見出すとき、二人は、飲み干されて身体の中に裂け目を実現させたアルコールのすべてをもってそうしているのである。アルトーが、思考の侵食について同時に本質的で偶然的な何ごとかとして話すとき、また、根底的な無力でありながら高度の力であることとして話すとき、既に分裂病のどん底から話しているのである。各人が、何らかのリスクを冒し、リスクの果てまで行って、そこから不可侵の権利を引き出す」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273」河出文庫)
「抽象的に思考する者が智恵と分別の忠告を与えるとき、与える者の側に何が残っているだろうか。忠告を与えるときには何時でも、波打ち際に留まったままで、ブスケ《の》傷について、フィッツジェラルド《の》アルコリスム(アルコール中毒・依存)とラウリー《の》アルコリスムについて、ニーチェ《の》狂気とアルトー《の》狂気について話しているのだろうか。そんなお喋りの専門家になるのか。やられた者が深入りしないことだけを願うのか。募金をしたり特集号を組んだりするのか。それとも、裂け目を伸ばす程度には、少しだけ自分で見に行き、少しアルコリスムになり、少し狂気になり、少し自殺願望になり、少しゲリラ兵になるが、裂け目を治癒不可能になるまで深くしない程度にしておくというのか。どこを向いても、すべてが悲しげに見える」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.273~274」河出文庫)
そうだ。「すべてが悲しげに見える」。しかし、見ている側と見られている側(例えばドゥルーズ)とを完全に分け隔てしてしまっては、両者の距離は増々開くことはあっても、見られている側(例えばドゥルーズ)による論文がそのフィールドで絶賛されたとしても、ドゥルーズにはそのようなことは関係ない。
「そして、アルコール飲みは、この硬直が隠匿する柔らかさを愛するのと同様に、自分を捕える硬直も愛するのである。一方の時期が他方の時期の中にあり、現在がこれほど固くなり硬直するのは、破裂しそうな柔らかな点を占拠するためにほかならない。同時的な二つの時期は、奇妙な仕方で複合される。すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、《複合過去》しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)。これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全-能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の《中で》経験するやり方を表現する。ここにおいて、複合過去は隔たりや完遂をまったく表現していない。現在の時期は、動詞・持つの時期であるが、すべての存在者は、『過去』として、《同時的な》別の時期の中に、分有の時期、分詞の固定の時期の中にある。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.275~276」河出文庫)
この部分の記述は極めて正確だ。なぜなら「死なない程度」に飲めという政治的囁きは、依存症者Aが依存症者Bを増やしていく流通=言語作法とまったく同じだから。しかしこのことを「善悪」できめることはできない。
「しかしながら、さらに別のものになるために、緊張は解けてしまう。というのは、当然にも、複合過去は『私は飲んでしまったを-持っている』に到るからである。現在の時期は、もはやアルコールの効果の時期ではなくなり、アルコールの効果の効果の時期になる。そして、今や、この別の時期が、近い過去(私が飲んでいた時期)を無差別に含んでしまう。また、この近い過去が隠匿する想像的同一化のシステムと、多かれ少なかれ遠ざかった素面の過去のリアルな要素も含んでしまう。それによって、現在の硬化はまったく意味を変える。すなわち、現在は、固い現在としては、影響力を失って色褪せ、何ものも締め付けず、別の時期のすべての相を等しく遠ざける。まるで、近くの過去、しかしまた、近くの過去で構成された同一化の過去、そして最期に、〔その構成の〕材料を提供していた素面の過去、これらすべてが、羽ばたいて逃げ去り、等しくなったかのようである。これらすべての過去との距離を維持しているのが、全般的に拡大する色褪せた現在、増大する砂漠の中で改めて硬直する新たな現在である。複合過去の一次効果は、唯一の複合過去『私は飲んでしまったを-持っている』の二次効果で置き換えられる。この助動詞現在形は、一切の分詞と一切の分有からの無限の距離を表現するだけである。現在の硬化(私は持っている)と、過去(私は飲んでしまった)の逃走の効果には、今や関連性があることになる。であったことを持っている(has been)においてすべては頂点に達する。過去の逃走の効果、あらゆる意味での対象喪失が、アルコリスムの抑鬱的な面を構成する。そして、この逃走の効果が、たぶん、フィッツジェラルドの作品の最大の力になっているものであり、フィッツジェラルドが最も深く表現したものである」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.276~277」河出文庫)
二〇一七年四月二十四日作。
(1)白砂へフルスピードの自死の血しぶく
(2)貨幣かそれとも紙幣がお望み
(3)影の中に影がこっそり
(4)調和を目指して冷めてしまったお味噌汁
(5)正気のようで狂気のようで四十九歳
(6)ぼんやりと飢餓同盟待ち続けている
☞「だからこそヘーゲルは引用節において《死》を『非実在性』すなわち《否定性》ないし『否定的なもの』と呼ぶことができたのだが、《人間》が《行動》であり、《行動》が《死》として『現われる』《否定性》であるならば、《人間》はその人間的ないしは言葉を話す現存在においては《死》でしかない、つまり不定の期間遷延され、それ自身を意識する《死》でしかないことになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.384~385」国文社)
「したがって、《言説》或いは言葉を話す存在としての《人間》を哲学的に説明すること、──これは死の事実を率直に受け容れ、哲学上の三つの次元において、その意義と範囲とを記述することになる。だが、これこそはヘーゲル以前の哲学者たちが怠っていたことであった」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「ヘーゲルはこれに驚いてはいない。なぜならば、死が『最も恐るべきもおんであり』、死の受容は『最も大きな力を要する』ということを彼は知っているからである。《悟性》がおの受容を要求すると述べる。なぜなら、《悟性》はその言説によって実在するものを開示し、己れ自身を己れ自身に開示するからである。このような悟性が有限性から生まれる以上、悟性は死を思惟し死について語ることによって悟性である。──すなわち己れ自身とその根源とを自覚する言説である。だがまたヘーゲルは『力なき美』が《悟性》の要求に応ずることができないことをも知っている。審美家、ロマン主義者、神秘主義者たちは死の観念から逃れ、《無》自体をも何か《存在する》ものとして語る」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「だが、『《精神》の生』は『死の前に脅えその暴威から自己を守る』生ではなく、『死を耐え忍び死の中に自己を保つ』生である、とヘーゲルは述べる。それは、《精神》が言葉により開示された《存在》であり、《精神》の生が《世界》と己れ自身とを自覚する哲学者或いは《賢者》の現存在だからである。ところで、人間が有限であり死すべきもの《である》以上、人間が真に自己を意識するのは、自己の有限性を、したがって自己の死を自己の死を意識することによってである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
「加えて、《精神》は『絶対の分裂の中に自己自身を見いだして初めて自己の真理を得る』。なぜならば、再度繰り返すことになるが、《精神》は《言説》によって開示された《実在するもの》だからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385」国文社)
注目しよう。「《精神》は《言説》によって開示された《実在するもの》だからである」、とある。そうであれば人間の精神は言語を伴うばかりか、言語の出現以前に存在することは不可能だったという事実を端的無類の思想で捉えたという宣言にほかならない。ここまで引用してきてようやく明確化されてきたヘーゲル哲学体系の始まり。この始まりの時点で既に人間の精神は常に既に言語を伴ってでしか実在されないし、言語が発生を見ないうちは「絶対的精神」=「神」もまた実在しないということを洩らしている。何とヘーゲルは、「神」は言語を伴う限りで、言語活動によってのみ、実在し得ると語っていることになる。この系譜はニーチェへと受け継がれることになるのだが。
「ところで、《言説》は、《自然》に対立し、自己自身でもある所与としての動物を《闘争》において否定し、所与の自己に与えられた《自然的世界》を《労働》により否定する《人間》の中に生まれる。この《実在するもの》の《人間》と《自然》とへの『分裂』から《悟性》及びその《言説》が生まれ、それらが《実在するもの》を開示し、それによってこの実在するものを《精神》へと変貌せしめる。この《対立》、この《人間》と所与の《実在するもの》との葛藤は、最初は開示する人間の言説の《誤まった》性格を通して顕在化され、《賢者》の言説が実在と《再び合一する》のは時の終わり、《歴史》の終局においてでしかない。そのときに初めて『《精神》は再び自己を見いだす」と述べることができ、精神は、実在を十全に開示する『その真理を得る』と述べることができる。だが、精神が自己を再び見いだすとしても、それは、歴史的過程の中でさまざまな形の誤謬となって顕在化する『分裂』の中で、そしてそれによってであり、この過程自体、互いに継起し、時間の中で次々に生まれては死んで行く世代のそれである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.385~386」国文社)