白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・足利方・新田方双方の奏状

2021年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
足利尊氏と新田義貞との間が急速に悪化する。建武二年(一三三五年)の秋、尊氏は義貞討伐の奏状を上奏。一方、義貞も尊氏討伐の奏状を上奏した。まず尊氏が上奏した奏状。「早く義貞朝臣(よしさだあそん)が一類を誅罰(ちゅうばつ)して、天下の泰平(たいへい)を致さんと請(こ)ふ状」にこうある。

「嚢沙(のうしゃ)背水(はいすい)の謀(はかりごと)」(「太平記2・第十四巻・二・P.349」岩波文庫 二〇一四年)

「嚢沙(のうしゃ)」は「史記・淮陰候列伝」から引かれたもの。

「かくて戦闘が行なわれ、韓信と濰水(いすい)をはさんで対陣した。韓信はそこで夜、部下に作らせた一万余りの袋の中に砂をいっぱいにつめさせ、川上で流れをせきとめ、軍をひきつれ半分ほど川を渡って竜且を攻撃したが、負けたふりをして退却した。竜且ははたして喜び、『韓信が臆病なことは知れ切っていたわい』といい、そのまま韓信を追撃して川を渡り出した。韓信は部下に命じ、せきとめた土嚢(どのう)を切り開かせるや、川水は一度にどうと流れてきた。竜且の軍の大半は川を渡りきれなかった。すかさずすぐに攻撃を加えて竜且を殺した。竜且の部下で川の東に残っていた軍兵は、ちりぢりになって逃走し、斉王の田広も逃げ去った。かくて韓信は逃げる敵を城陽(じょうよう)まで追いかけ、楚の兵卒を全員捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.23』岩波文庫 一九七五年)

「背水(はいすい)」も同様。「背水の陣」でお馴染み。

「韓信はそこで一万人の兵を先行させ、〔井陘の口を〕出ると、河を背にして陣がまえさせた。趙軍は遥かにそれを眺めて、大笑いした。あけがた、韓信は大将の旗じるしと陣太鼓をうちたて、進軍の太鼓を鳴らしながら、井陘の出口を出た。趙はとりでを開いて出撃し、しばらくの間、大激戦が展開された。このとき韓信と張耳は負けたふりをして、太鼓や旗さしものを投げ捨て、河岸の陣へと逃走した。河岸の軍は、陣を開いて受けいれた。ふたたび激しい戦闘となった。趙の軍ははたしてとりでをがらあきにして、漢の太鼓や旗さしものを奪いとろうと競争し、韓信と張耳の軍を追って来た。韓信と張耳が河岸の軍に入ったあと、その軍兵はみな必死になって戦ったので、うち破ることができなかった。〔そのあいだに〕韓信が出しておいた別働隊二千騎は、趙がとりでをがらあきにして戦利品を追い求めるのをうかがっていたから、いまこそと趙のとりでの中へかけ入り、趙の旗さしものを全部ぬきとり、漢の赤旗二千本をうち立てた。趙軍は勝とうとして勝てず、韓信らをとらえることもできず、とりでにひき返そうとしたとき、とりでの上すべて漢の赤旗がひらめいて、それを見るや仰天して漢はもはや趙の王や将軍たちを全部とらえたものと思いこんだ。兵はかくて混乱し逃走しだした。趙の将軍がかれらを斬ったが、くいとめることはできなかった。この機をすかさず、漢軍は前後からはさみうちし、趙の軍をさんざんにうち破って、捕虜とし、成安君(陳余)を泜水(ちすい)の側で斬り殺し、趙王歇(けつ)を捕虜とした」(「淮陰候列伝・第三十二」『史記列伝3・P.16~17』岩波文庫 一九七五年)

尊氏はさらに畳み掛ける。義貞側の中は侫臣(ねいしん)・讒臣(ざんしん)ばかりで放置していていいものかと。かつて驕り高ぶった趙高(ちょうこう)のもとを去って項羽の軍に加わった章邯(しょうかん)が続出するに違いないと主張する。

「豈(あ)に、趙高(ちょうこう)内に謀(はか)りしかば、章邯(しょうかん)楚(そ)に降(くだ)つしの謂(い)ひに非(あら)ずや」(「太平記2・第十四巻・二・P.350」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・始皇本紀」から引かれたもの。

「欣は邯に会って、『趙高が朝廷にあって政権をとっていますので、将軍が功を立てられても殺され、功をたてられなっくても殺されましょう』と言った。この時、項羽が秦軍を急襲し、王離(おうり)を虜(とりこ)にしたので、邯らはついに兵を率いて諸侯に降った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.174』ちくま学芸文庫 一九九五年)

一方、義貞が上奏した奏状。「早く逆臣(ぎゃくしん)尊氏直義等(ただよしら)を誅(ちゅう)して、天下を徇(しず)めんと請(こ)ふ状」に、護良親王の奢侈を諫めるだけでよかったものを殺す必要などまったっくなかった、にもかかわらず殺した点を挙げて帝太甲の事例に比している。文面に「武丁(ぶてい)」とあるのは「太甲」の誤り。

「親王刑を贖(あがな)ふ事は、侈(おご)りを押(おさ)へ正(せい)に帰せしめんと為(な)すのみ。古(いにし)へは、武丁(ぶてい)を桐宮(とうきゅう)に放つ。豈(あ)に此(こ)の謂(い)ひに非(あら)ずや」(「太平記2・第十四巻・二・P.354」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・殷本紀」に載る事例。

「太甲は成湯(湯王)の嫡長孫で、これが帝太甲である。帝太甲の元年に伊尹は伊訓(伊尹の教え)と肆命(しめい=おこなわれなければならない政教を述べたもの)と徂后(そこう=湯王の法度を記したもの)を作ったが、帝太甲が暴虐不明で、湯の法に遵(したが)わず徳を乱したので、伊尹は帝を桐宮(どうきゅう=離宮があった地名とも、また離宮の名ともいう)に三年間放逐した。この間、伊尹が政を摂行して国事に当たり、諸侯を入朝させた。帝太甲は三年間、桐宮におると過ちを悔い、後悔して善人になったので、伊尹は帝太甲を迎えて政治を譲った。この後、帝太甲は徳を修め、諸侯は、みな帰服し百姓は安んじた」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.50~51』ちくま学芸文庫 一九九五年)

こうもいう。

「忽(たちま)ち浮雲(ふうん)の雍蔽(ようへい)を払ひ」(「太平記2・第十四巻・二・P.356」岩波文庫 二〇一四年)

李白の詩の一節。「浮雲蔽日」は侫臣・讒臣の類はただちに切り捨てなくてはならないとする主張を述べる場合、しばしば用いられる。

「總爲浮雲能蔽日

(書き下し)総(すべ)て浮雲(ふうん)の能(よ)く日(ひ)を蔽(おお)うが為(ため)に

(現代語訳)結局は、浮雲が太陽の光を蔽いかくしてしまうそのせいで」(「登金陵鳳凰臺」『李白詩選・第五章・P.155~156』岩波文庫 一九九七年)

尊氏・義貞両者の上奏文はすぐさま詮議にかけられた。が、朝廷ではこんな調子。

「大臣(たいしん)は禄(ろく)を重んじて口を閉じ、小臣(しょうしん)は聞きを憚つて言(げん)を出ださざる」(「太平記2・第十四巻・二・P.356」岩波文庫 二〇一四年)

重臣らはだんまり。他の臣下らは勃発した事態に関わることを恐れて何一つ言わない。この箇所は「本朝文粋」に載る慶滋保胤の文章からの引用。

「大臣重禄不諫、小臣畏罪不言」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第二・四五・令上封事詔・慶滋保胤・P.139」岩波書店 一九九二年)

足利方と新田方との合戦は矢矧(やはぎ)・鷺坂(さぎさか)・手越(てごし)と進んでいくが、一度は出家しようとした尊氏が軍(いくさ)に戻ったため、竹ノ下軍(たけのしたのいくさ)辺りから新田方に不利な戦況へ傾き始めた。足利直義(ただよし)が村上信貞(むらかみのぶさだ)に恩賞の下文(くだしぶみ)を与える場面。

「かの成王(せいおう)、桐の葉に書いて士に与へ給ひし」(「太平記2・第十四巻・八・P.382」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・晋世家」から引かれている。

「成王が叔虞と戯れていたとき、桐の葉を珪(たま)の形(上が尖<とが>り下が四角)にきって叔虞に与え、『これをもっておまえを封じよう』と言った。このことから、太史の佚(いつ)が、吉日をえらんで叔虞を封ずるように請うた。成王が、『わしはあれと戯れていただけのことだ』と言うと、佚は、『天子に戯言(たわごと)ということはございません。天子が一言をいえば、史官はそれを書きしるし、礼によってその事をおこない、楽によってその事をうたうのでございます』と答え、ついに叔虞を唐に封じた」(「晋世家・第九」『史記3・世家・上・P.167』ちくま学芸文庫 一九九五年)

箱根・竹ノ下は激戦地となる。新田義貞は出会う軍勢について敵か味方かいちいち確認していかねばならないような状態に陥ってしまった。

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Blog21・微子(びし)去り范増(はんぞう)死に殺声(さっせい)の惨曲

2021年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
万里小路藤房が出家・遁世した時、辞任に当たって「伯夷・叔斉」の故事を語ったとある。

「伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)が潔(いさぎよ)きを踏みし跡」(「太平記2・第十三巻・二・P.301」岩波文庫 二〇一四年)

伍子胥や重耳とともに何度も出てくるエピソードだが「史記・列伝」の中でも最初に載っている。

「西伯がなくなるにおよび、武王は〔父の〕木主(いはい)を車に安置しーーー父を文王とよぶことにしてーーー東へ向かって殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を征伐に出た。伯夷と叔斉はその馬の手綱にとりついて、いさめた、『なくなられた父ぎみを葬りもせず、しかも干戈(いくさ)をおこすとは、孝といえましょうか。臣として君を弑(しい)せんとすること、仁といえましょうか』。側のものがやいばをむけようとした。太公(たいこう)=呂尚(りょしょう)は『これぞ義人である』と言い、おしかかえてつれてゆかせた。武王は殷の乱れを平定しおえて、天下は周(しゅう)を主人とした。ところが伯夷と叔斉ははそれを恥とし、義をまもって周の穀物を食べることをいさぎよしとせず、首陽山(しゅようざん)に隠れ住み、薇(ぜんまい)を採って食べていた。餓(う)えて死がせまったとき歌を作った。その辞(ことば)にいう、『彼(か)の西山(せいざん)に登り、その薇(び)を采(と)りぬ。暴を以って暴に易(か)え、その非を知らず。神農(しんのう)・虞・夏も忽焉(にわかに)して没せり、我(われ)、安(いずく)にか適(ゆ)きて帰(き)せん。于嗟(ああ)徂(ゆ)かん、命(めい)の衰えたるかな』。かくて首陽山において餓え死にした」(「伯夷列伝 第一」『史記列伝1・P.10~11』岩波文庫 一九七五年)

次の箇所は三善文衡(みよしふんひら)が西園寺公宗(さいおんじきんむね)に向かって語りかける場面。

「微子(びし)去つて殷(いん)の代傾(かたぶ)き、范増(はんぞう)罪(つみ)せられて楚王(そおう)滅(ほろ)びたり」(「太平記2・第十三巻・三・P.306」岩波文庫 二〇一四年)

(1)「微子(びし)去つて殷(いん)の代傾(かたぶ)き」は「史記・殷本紀」にあるエピソード。

「微子(紂の庶兄)は、たびたび諫めても聴かれないので、太師や少師(太師疵と少師疆でともに楽官)とはかり殷を去った」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.58』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「范増(はんぞう)罪(つみ)せられて楚王(そおう)滅(ほろ)び」は「史記・項羽本紀」に詳しい。

「漢の三年、項王はしばしば漢の甬道を侵し、漢軍は食糧が乏しくなった。漢では食糧の絶たれるのを恐れ、和睦を請うて滎陽以東を楚に割き、以西を漢の領土としようといった。項王ははこれを許そうとしたが、歴陽候范増(はんぞう)は、『漢は与(くみ)しやすいのです。いま滎陽以西の地をすてて取らなければ、あとでかならず悔いますぞ』と言った。そこで項王は范増と急に滎陽を囲んだ。漢王は困窮のあげく陳平の策を用い、反間(はんかん=間諜)を放って項王に范増を疑わせるようにした。項王の使者が来たので、大牢(たいろう=牛羊豚の料理、第一等のん馳走の意味)の用意をし、これを進めようとしながら、使者を見るとわざとびっくりしたふうをして、『わたしは亜父(あふ)殿(范増)の使者だと思っていましたのに、項王の使者でしたか』と言い、料理を持ち去って別の下等な食事を項王の使者に食べさした。使者が帰って項王に報告すると、項王は范増が漢と通じているものと疑い、すこしく范増の権限を取りあげた。范増は大いに怒って、『天下の事はもうあらかた定まった。この後は君主自身で画策せられるのがよい、わたしは骸骨(がいこつ)を乞い一兵卒にしていただきましょう』と言った。項王がこれを許すと、范増は項王のもとより去り、彭城に行く途中、背中に癰(よう)が出て死んだ」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.222~223』ちくま学芸文庫 一九九五年)

鎮圧されたはずの反乱が今度はより一層大規模な暴発となって出現するほんの少しばかり手前。琴の音が奏でられるシーン。

「第一第二の絃は索々(さくさく)たり、秋の風(かぜ)松を払ひて疎韻(そいん)落つ。第三第四の絃は冷々(れいれい)たり、夜の鶴(つる)子を憶(おも)ひて籠中(ろうちゅう)に鳴く。絃々(げんげん)掩抑(えんよく)してただ拍子に移る」(「太平記2・第十三巻・三・P.318~319」岩波文庫 二〇一四年)

白居易「五絃の弾」からの引用。「和漢朗詠集」に載っている部分。

「第一第二絃索々 松風払松疎韻落 第三第四絃冷々 夜鶴憶子籠中鳴 第五絃声尤掩抑 瀧水凍咽流不得

(書き下し)第一第二の絃(くゑん)は索々(さくさく)たり 秋の風松(まつ)を払(はら)て疎韻(おんいん)落つ 第三第四の絃は冷々(れいれい)たり 夜の鶴(つる)子を憶(おも)て籠(こ)の中(うち)に鳴く 第五の弦の音はもとも掩抑(えんよく)せり 隴水(りようすい)凍(こほ)り咽(むせ)んで流るることを得(え)ず」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・管絃・四六三・白居易・P.177」新潮社 一九八三年)

次の箇所は管絃の遊びにばかりかまけていた「晋の平公(へいこう)」が病死する直前にあったとされるエピソード。「太平記」で「濮水(ぼくすい)の辺(ほと)りを過ぎ」ていくのは「晋の平公(へいこう)」、と書かれているが、それは間違い。「濮水(ぼくすい)の辺(ほと)りを過ぎ」ていくのは「衛(えい)の霊公」。

「昔、晋の平公(へいこう)、濮水(ぼくすい)の辺(ほと)りを過ぎ給ひけるに、流るる水の声に管絃(かんげん)の響(ひび)きあり。平公、則ち師涓(しけん)と云ひける楽人(がくじん)を召して、これを琴(きん)の曲に移さしむ。その曲殺声(さっせい)にして、聞く人涙を流さずと云ふ事なし」(「太平記2・第十三巻・三・P.319」岩波文庫 二〇一四年)

「韓非子」にこうある。「衛(えい)の霊公」が濮水(ぼくすい)の上(ほとり)で聴きつけ、その楽官「師涓(しけん)」に覚えさせ、「晋の平公(へいこう)」に聴かせた。平公の楽官「師曠(しこう)」はその楽曲の由来を知っており平公に不吉だと知らせるわけだが、普段から管絃遊びに惑溺している平公は諫言に耳を貸そうとしない。

「奚謂好音、昔者衛霊公、将之晋、至濮水之上、税車而放馬、設舎以宿、夜分而聞鼓新声者、而説之、使人問左右、尽報弗聞、乃召師涓而告之曰、有鼓新声者、使人問左右、尽報弗聞、其状似鬼神、子為聴而写之、師涓曰諾、因静坐撫琴而写之、師涓明日報曰、臣得之矣、而未習也、請復一宿習之、霊公曰諾、因復留宿、明日而習之、遂去之晋、晋平公觴之於施夷之台、酒酣、霊公起曰、有新声、願請以示、平公曰善、乃召師涓。令坐師曠之旁、援琴鼓之、未終、師曠撫止之曰、此亡国之声、不可遂也、平公曰、此道奚出、師曠曰、此師延之所作、与紂為靡靡之楽也、及武王伐紂、師延東走、至於濮水而自投、故聞此声者、必於濮水之上、先聞此声者、其国必削、不可遂、平公曰、寡人所好者音也、子其使遂之、師涓鼓究之

(書き下し)奚(なに)をか音を好むと謂うや。昔者(むかし)、衛(えい)の霊公、将(まさ)に晋(しん)に之(ゆ)かんとして濮水(ぼくすい)の上(ほとり)に至り、車を税(と=脱)きて馬を放ち、舎(しゃ)を設(もう)けて以て宿(しゅく)す。夜分(やぶん)にして新声を鼓(こ)する者を聞きて、而してこれを説(よろこ)び、人をして左右に問わしむるに、尽々(ことごと)く聞かずと報(ほう)ず。乃ち師涓(しけん)を召(め)してこれに告げて曰わく、新声を鼓する者有り、人をして左右に聞かしむるに、尽々く聞かずと報ず。其の状、鬼神に似たり。子為(た)めに聴きてこれを写せと。師涓曰わく、諾(だく)と。因(よ)りて静坐して琴を撫(ぶ)してこれを写す。師涓、明日(めいじつ)報じて曰わく、臣これを得たり、而(しか)るに未(いま)だ習わず。請(こ)う。復(ま)た一宿してこれを習わんと。霊公曰わく、諾と。因りて復(ま)た留宿(りゅうしゅく)し、明日にしてこれを習い、遂に去って晋に之(ゆ)く。晋の平公これを施夷(しい)の台に觴(しょう)す。酒酣(たけな)わにして霊公起(た)ちて曰わく、新声有り。願わくは請う、以て示さんと。平公曰わく、善しと。乃ち師涓を召し、師曠(しこう)の旁(かたわら)に坐して琴を援(ひ)きてこれを鼓せしむ。未だ終わらざるに、師曠撫してこれを止めて曰わく、此れ亡国の声、遂(と)ぐべからずと。平公曰わく、此れ奚(いず)く道(よ)り出(い)づるやと。師曠曰わく、此れ師延(しえん)の作る所、紂の与(ため)に靡靡(びび)の楽を為(つく)れるなり。武王、紂を伐つに及び、師延は東に走(に)げ、濮水に至りて自ら投ず。故に此の声を聞く者は、必ず濮水の上(ほとり)に於(お)いてし、先ず此の声を聞く者は、其の国必ず削らる。遂ぐべからずと。平公曰わく、寡人、好む所の者は音なり。子(し)、其れこれを遂げしめよと。師涓鼓してこれを究(きわ)む。

(現代語訳)音楽を好むとはどういうことか。むかし、衛(えい)の霊公は晋(しん)の国に行こうとして、濮水(ぼくすい)の川岸まで来ると、車から馬を解き放し、小屋を作って宿泊した。夜(よ)なかになって、新曲を奏(かな)でる音色(ねいろ)が聞こえてきたのでそれが気にいり、人をやってそのあたりの人々にたずねさせたところ、みな聞いたものはないという。そこで、楽官の師涓(しけん)をよんで告げていうには、『新曲を奏でるものがあったので、人をやってこのまわりの者にたずねさせたが、みな聞かないと言っている。まるで幽霊に出あったようだ。そなた、わしのために聞きとってその曲を写し取ってくれ』。師涓は『承知しました』と答えると、そのまま静かに坐って琴を爪弾(つまび)きながら写し取った。明くる日、師涓は報告して、『わたくしめ、写し取ることはできましたが、まだ弾(ひ)き慣(な)れていません。どうかもう一晩泊って慣れておきたいものです』。霊公が『よし』と言ったので、そのままもう一泊して、翌日まで弾き慣らすと、そこでこの地を離れて晋に向かった。晋の平公は施夷(しい)の宮の台(テラス)で歓迎の宴をひらいた。酒がまわってたけなわになったとき、霊公が立ちあがると、『新曲があります。どうかこれをご披露(ひろう)したいものだ』と言った。平公が『どうぞ』と答えたので、そこで師涓をよび出し、晋の楽官の師曠の傍(そば)に坐らせ、琴をひきよせてあの新曲を弾かせたが、終りまで弾かないうちに師曠が師涓の手をおさえて曲をとめ、『これは某国の音楽です。終りまで弾いてはいけません』と言った。平公は『これはどこでできたものか』とたずねると、師曠は答えた、『これは〔殷(いん)の楽官の〕師延が作ったもので、紂王のためにとうに繊細な美しい音楽にしたのです。周の武王が紂を討伐したとき、師延は東に逃げ、濮水まで行ってそこに身を投げて自殺しました。ですから、この音楽を聞かれたのは、きっと濮水のほとりのことでしょう。人より先にこの音楽を聞いた者は、必ずその国が削られます。終りまで弾いてはいけませんよ』。しかし、平公は言った、『わしが愛好するのは音曲じゃ。そなた、ぜひ終りまで弾かせよ』。師涓は琴を弾いて曲を終った」(「韓非子1・十過・第十・五・P.166~169」岩波文庫 一九九四年)

この種の音楽について孔子の言葉が引用されている。

「鄭声(ていせい)の雅(が)を乱る」(「太平記2・第十三巻・三・P.320」岩波文庫 二〇一四年)

「論語」から。

「子曰、悪紫之奪朱也、悪鄭声之乱雅楽也、悪利口之覆邦家

(書き下し)子曰わく、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽を乱(みだ)るを悪む。利口(りこう)の邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すを悪む。

(現代語訳)先生がいわれた。『混合色の紫色が原色の朱色を圧倒するのをわたしは憎む。扇情的な鄭の音楽が調和のとれた古典楽を混乱させるのをわたしは憎む。まことしやかな雄弁が、偉大な国家を転覆(てんぷく)させるのをわたしは憎む』」(「論語・第九巻・第十七・陽貨篇・十八・P.507」中公文庫 一九七三年)

さらに北条時行との決戦で足利尊氏はこう叫ぶ。

「六韜(りくとう)の十四変(じゅうしへん)に、『敵長途(ちょうど)を経(へ)て来たらば討て』と云へり。これ武宣王(ぶせんおう)の教ふる処(ところ)の兵法(ひょうほう)なり」「太平記2・第十三巻・八・P.337」岩波文庫)

兵法の古典「六韜(りくとう)」にある言葉。

「攻撃しようと思うものは、まず敵の十四の変化を察知しなければなりません。十四のうちのどれか一つでも変化(隙)が見えたら、ただちに撃つべきです。敵軍はかならず敗走するでありましょう」(「六韜・第六巻・犬韜・第五十二・武蜂・P.195」中公文庫 二〇〇五年)

箱根、藤沢、腰越、茅ヶ崎と、佐々木道誉らの軍勢はどんどん追い上げ追い込んで遂に北条時行は死ぬ。しかしそれで終わるのではなく、むしろ誰が敵で誰が味方か入れ換わり立ち換わりしてばかりで本当は何がしたいのか、ますますわからなくなる南北朝期は急速に混迷の度合いを深めていく。ところが用いられる言葉はなぜ同じ言葉の繰り返しばかりで間に合ってしまうのだろうか。

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Blog21・万里小路藤房最後の供奉

2021年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
塩谷高貞(えんやたかさだ)が「龍馬(りゅうめ)なり」といって筋骨逞しい非凡な馬を献上した。その特徴の一つ。

「両の耳は竹を剥(そ)いで直(すぐ)にして天を指し」(「太平記2・第十三巻・一・P.287」岩波文庫 二〇一四年)

杜甫はいう。

「竹批双耳峻

(書き下し)竹(たけ)批(そ)ぎて双耳(そうじ)峻(そばだ)ち

(現代語訳)ふたつの耳は竹をそいだようにそばだち」(「房兵曹胡馬」『杜甫詩選・P.18~19』岩波文庫 一九九一年)

その形容詞が龍馬=天馬の条件の一つに入っている。後醍醐帝はこの馬の到来について洞院公賢(とういんきんかた)に「吉凶」どちらかと尋ねる。公賢は「第一の嘉祥(かしょう)」なりと答える。さらにこのような嘉祥の例がもう二つ上げられている。

「虞舜(ぐしゅん)の代に鳳凰(ほうおう)来たり、孔子(こうし)の時麒麟(きりん)出づ」(「太平記2・第十三巻・一・P.289」岩波文庫 二〇一四年)

(1)「虞舜(ぐしゅん)の代の鳳凰(ほうおう)」。「史記・五帝本紀」から。

「四海のうちは、みな帝舜の功を戴くようになった。ここで禹は九招(きゅうしょう)の楽(舜の徳を謳歌する音楽)をつくり、四方の異物を供したので鳳凰(ほうおう)も飛んできた。天下に徳を明らかにしたのは、実に虞帝(帝舜)から始まるのである」(「五帝本紀・第一」『史記1・本紀・P.26』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「孔子(こうし)の時麒麟(きりん)」。諸説あるが、孔子「春秋」の記述は必ずしも時系列に沿ってまとめられたものでない。ラストにそう読める記述があるからといって孔子がミステリアスで予言的な言葉を残すだろうかという疑問は常にあるため、できるだけ時系列に忠実に沿ってまとめられたと考えられる「左氏伝」を見るとこうある。

「十四年春、西方の大野沢(だいやたく)で狩猟を催し、叔孫氏(叔孫武叔)の御者子鉏商(ししょしょう)が麟(りん)を捕獲したが、これを不祥として、虞人(山沢管理人)に下賜した。仲尼(孔子)はこれを観察して、『麟である』と言ってから、これを収納し〔記録に止めた〕」(「春秋左氏伝・下・哀公十四年・P.451」岩波文庫 一九八九年)

吉祥ではなく真逆の「不祥」。また、漢文だったはずなので「麒麟」ではなく「獲麟」と書かれていたと思われる。結局のところ、正体不明。ところが「太平記」では瑞兆としての記述で称揚される。

「魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)の御時、彭祖(ほうそ)と名を替へて、この術を文帝に授け奉る」(「太平記2・第十三巻・一・P.291」岩波文庫 二〇一四年)

この箇所は「和漢朗詠集」からの引用。

「採故事於漢武 則赤萸插宮人之衣 尋旧跡於魏文 亦黄花助彭祖之術

(書き下し)故事(こし)を漢武(かんぶ)に採(と)れば 則ち赤萸(せきゆ)宮人(きうじん)の衣(ころも)に插(さしはさ)めり 旧跡(きうせき)を魏文(ぎぶん)に尋ぬれば、また黄花(くわうくわ)彭祖(はうそ)が術(じゆつ)を助く」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・九日付菊・二六二・P.102」新潮社 一九八三年)

一方、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は「吉事(きちじ)にあるべからず」という。戦乱直後の国は民衆・武家ともに疲弊している。今はまだ答えを出す時期ではなく、むしろ訴訟処理や主君におもねる臣下の取り扱いについて慎重になるべき時であると。例えば次のように。

「執政(しっせい)哺(ほ)を吐き、人の愁(うれ)へを聞」(「太平記2・第十三巻・二・P.295」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・魯周公世家」から引かれた箇所。

「わしは一沐(もく)の洗髪の間にも三度髪を握って立ち、一飯の食事の間にも三度口中の食べ物を吐き出して立ち、強いて天下の士に会おうとするのは、天下の賢人を見失うことを恐れるからである」(「魯周公世家・第三」『史記3・世家・上・P.69』ちくま学芸文庫 一九九五年)

なるほど見た目ばかりは吉兆であるかのように見えはすると藤房はいう。

「虞芮(ぐぜい)の訴へ止(や)んで、諫鼓(かんこ)も打つ人なし」(「太平記2・第十三巻・二・P.295」岩波文庫 二〇一四年)

(1)「虞芮(ぐぜい)の訴へ止(や)んで」は「史記・周本紀」にあるエピソード。

「虞(ぐ)・芮(ぜい)<ともに山西・河東にあった国>二国の国人に争訴があり、是非が決しなかった。西伯に訴えるため周に行ったところ、周の国境を入ると、田を耕す者はみな畔(あぜ)を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。虞・芮の人は、まだ西伯に会わないのに自ら恥じ、たがいに、『われわれの争うところは、周人の恥とするところである。どうして訴えにゆくことができよう。ゆけば、ただ恥をかくだけである』と言い、ついに帰って共に譲りあった」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.64』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「諫鼓(かんこ)も打つ人なし」は「和漢朗詠集」に見えており、主君に諫言する時に鳴らす太鼓の音一つ聞こえないという意味。

「刑鞭蒲朽螢空去 諫鼓苔深鳥不驚

(書き下し)刑鞭(けいへん)蒲(かま)朽(く)ちて螢(ほたる)空(むな)しく去(さ)んぬ 諫鼓(かんこ)苔(こけ)深(ふか)うして鳥驚(おどろ)かず」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六六三・国風・P.249」新潮社 一九八三年)

だから周囲の諸卿らは既に天下は安泰になったと勘違いしている。実状は逆であって訴訟がのろのろで進まないため、記録所・決断所に殺到する人間が不平不満を抱いたまま諦めて見る見る減り、訴訟も諫鼓も森閑としてしまっているに過ぎない。それを見て天下泰平などととんでもない錯覚だと藤房はいう。真っ先に取り掛かるべきはこうだと述べる。

「雍歯(ようし)が功を先として、諸卒の恨みを散ずべき」(「太平記2・第十三巻・二・P.296」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・留候世家」から。留候(りゅうこう)が機転を利かせて論功行賞を滞りなく収めた事例。留候は漢王・劉邦に仕えた張良(ちょうりょう)のこと。

「『上が平素から憎んでおられ、群臣もそれを知っている者で、もっともひどいのは誰でしょうか』。『雍歯(ようし)に対しては、わしは旧怨がある。彼はかつてしばしばわしを苦しめ辱しめた。わしは彼を殺そうと思っているのだが、彼の軍功が多いので、殺すにしのびないのだ』。『今すぐ、まず雍歯を封じて、群臣たちにお示しください。群臣たちは、雍歯が封ぜられたのを見れば、みな安心いたしましょう』。そこで上は酒宴を催し、雍歯を什方(じゅうほう)候に封じ、一方また急に丞相・御史をうながして、人びとの功を定め、封をおこのうた。群臣は酒を飲む手をやめ、みな喜んで言うよう、『雍歯さえ候となったのだから、われらには何の心配もなかろう』と」(「留候世家・第二十五」『史記4・世家・下・P.214』ちくま学芸文庫 一九九五年)

藤房はその他いろいろと諫言したが聞き入れられず、後醍醐帝は大内裏造営はむろんのこと酒宴さえ控える気色一つ見えない。絶望した藤房は出家・遁世しようと決意する。そして建武一年(一三三四年)九月、石清水八幡宮への行幸での供奉(ぐぶ)が藤房最後の供奉となった。藤房なりの風情・衣裳で動員されたその行列は周囲の目を驚かせた。

「看督長(かどのおさ)十六人、冠(かぶり)の老懸(おいかけ)に、袖単(そでひとえ)白くしたる薄紅(うすくれない)の袍(うわぎぬ)に、白袴(しろばかま)を着(ちゃく)し、いちびの脛巾(はばき)に乱(みだ)れ緒(お)履(は)いて、列を引く。次に、走(わし)り下部(しもべ)八人、細烏帽子(ほそえぼし)に上下(かみしも)一色(ひといろ)の家の紋の水干(すいかん)着て、二行に歩み続きたり。その後(のち)、大理は、巻纓(けんえい)の老懸に、赤衣素袴(せきいそこ)、靴(か)の沓(くつ)履(は)いて、蒔絵(まきえ)の平鞘(ひらざや)の太刀を佩(は)き、安摩(あま)の面(おもて)の羽(はね)付けたる平胡籙(ひらやなぐい)を負ひ、甲斐(かい)の大黒(おおぐろ)とて、五尺三寸ありける名馬の太く逞(たくま)しきに、沃懸地(いかけじ)の鞍置いて、厚総(あつぶさ)の鞦(しりがい)に、唐糸(からいと)の段の手綱(たづな)ゆるらかに結んで懸け、鞍の上閑(しず)かに乗りうけて、町(まち)に三所(みところ)の手綱入れさせ、小路(こうじ)に余りて歩ませ出でたれば、馬副(うまぞえ)の侍二人(ににん)、布衣(ほい)に上(うわ)くくりして右に副ひ、その跡には、上烏帽子(うわえぼし)に縹(はなだ)の打ち絹を重ねて、袖単を出だしたる水干着たる舎人(とねり)の雑色(ぞうしき)四人、次に、白張(しらはり)に香(こう)の衣重ねたる童(わらわ)一人、次には、細烏帽子(ほそえぼし)に香の水干(すいかん)着たる舎人(とねり)八人、その跡、直垂着(ひたたれぎ)の雑人等(ぞうにんら)百余人、警蹕(けいひつ)の声高らかに、あたりを払つて供奉(ぐぶ)せられたり」(「太平記2・第十三巻・二・P.299」岩波文庫 二〇一四年)

見納めの行列で供奉した後、岩蔵(今の京都市左京区岩倉)に隠棲し、またすぐ行脚の路へ入った。規模と衣裳とをこらした最後の供奉を終えた藤房の心境はどのようなものだっただろうか。もう後に続いているのは「冷え枯れた」孤独な道ばかりだ。

「『古人の云う、茶の湯名人に成りて後は、道具一種さえあれば、佗数寄するが専一也。心敬法師連歌の語に曰く、連歌は、枯(かれ)かじけて寒かれと云う。茶の湯の果ても其の如く成りたき』と、紹鷗常に云うと、辻玄哉云われしと也」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.249』東洋文庫 一九七一年)

連歌から茶の湯への道を押し進めた武野紹鷗はいつもそう心がけていたらしい。

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Blog21・巨額の建設資金・紙幣と讒言の迷宮

2021年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
讒言により左遷先で孤独な日々を送った菅原道真を偲ぶ文章が続く。

「都府楼(とふろう)の瓦(かわら)の色、観音寺(かんのんじ)の鐘の声」(「太平記2・第十二巻・二・P.238」岩波文庫 二〇一四年)

「和漢朗詠集」からの引用だが作者はそもそも菅原道真。

「都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声

(書き下し)都府楼(とふろう)には纔(わづ)かに瓦(かはら)の色を看(み)る 観音寺(くわんおんじ)にはただ鐘(かね)の声のみを聴く」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・閑居・六二〇・菅原道真(すがはらのみちざね)・P.233~234」新潮社 一九八三年)

その心境を述べる文章は調子の良い七五調。

「この秋は独(ひと)りわが身の秋と作(な)り」(「太平記2・第十二巻・二・P.238」岩波文庫 二〇一四年)

白居易「燕子樓(えんしろう)」の中の有名な一節。もともとは徐州(今の中国江蘇省銅山県)の高級官僚だった張尚書(ちょうしょうしょ)の愛妓(あいぎ=盼盼<はんはん>)が待てども待てどもやって来ない相手を思い、やるせなく恨めしい気持ちで一杯になっている様子を冷え込んでいく霜月(十二月後半頃)の長さに込めた。徐州の地方官吏・績之(せきし)が盼盼(はんはん)の消息をよく知っていたようで、白居易は績之が作った盼盼の詩を聞いた。さらに績之から聞いた盼盼の半生を白居易版盼盼の半生として「燕子樓」を作って詠んだ。この箇所はたいそう人気が高く日本の和歌にも詠まれている。

「燕子樓中霜月夜 秋來只爲一人長

(書き下し)燕子樓中(えんしろうちゆう)霜月(さうげつ)の夜(よ) 秋來(しゅうらい)ただ一人(いちにん)のために長(なが)し。

(現代語訳)燕子楼(えんしろう)のなかで霜の降る月の夜 秋になってからこの夜はわれ一人のためにながながしい」(漢詩選10「燕子樓」『白居易・P.232』集英社 一九九六年)

ひとしきり道真の怨霊伝説が語られ、打ち続いた大火や落雷のため今や大内裏は見る影もない痕跡を残すのみとなってしまっている現状認識が読み手に共有される仕組みを取る。そこで大内裏を再建すべき時かどうかの問いに戻る。今の時点を評価するに当たり、例えば勝利した武王が油断して早々に武装解除した先例が上げられる。

「馬を花山(かさん)の野に放ちて、牛を桃林の塘(つつみ)につながざる」(「太平記2・第十二巻・二・P.247」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・周本紀」にこうある。

「馬を華山の南に放ち、牛を桃林(華山の東)の墟(おか)に放ち、干戈(かんか)を偃(ふ)せ、兵をやめ旅(ぐん)をといて、天下にふたたび兵車・軍隊を用いないことを示した」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.71』ちくま学芸文庫 一九九五年)

疲弊した国土・民衆はどうなるのか。しかし「大内裏(だいだいり)作らるべし」との考えは変わらず巨額の建設資金調達のため紙幣発行・諸国の武家への課税などが実施された。さらに神泉苑(しんせんえん)の修理も行われた。もはや伝説化している空海(くうかい)と守敏(しゅびん)との雨乞い祈祷対決のエピソードがメイン。華やかだった平安京の過去へのノスタルジーを駆き立てる手法。僧侶同士の対決だからか「法華経」の言葉が出てくる。

「呪詛諸毒薬(しゅそしょどくやく)、還着於本人(げんじゃくおほんにん)」(「太平記2・第十二巻・八・P.270」岩波文庫 二〇一四年)

次の箇所。

「呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人

(書き下し)呪詛(のろい)と諸の毒薬に 身を害(そこな)われんと欲(せ)られん者は 彼の観音の力を念ぜば 還(かえ)って本の人に著(つ)きなん」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.262」岩波文庫 一九六七年)

呪詛と毒薬で殺されようとしている者が観世音菩薩に祈れば、逆に毒薬の効果は先に呪詛した本人に舞い戻るという意味。しかし実際そうなっているかどうかは今なお判然としない。

次に秦の始皇帝の嫡子・扶蘇(ふそ)が臣下・蒙恬(もうてん)とともに自害へ追い込まれた事例。

「扶蘇(ふそ)刑せられて秦(しん)の世傾く」(「太平記2・第十二巻・九・P.277」岩波文庫 二〇一四年)

「史記・始皇本紀」では簡略に書かれている。

「高(こう)は公子胡亥、丞相李斯とひそかにはかり、始皇の封じた公子扶蘇に賜う詔書を破り棄て、いつわって丞相李斯が始皇の遺詔を沙丘で受けたと言い、胡亥を立てて太子とした。また別に扶蘇と蒙恬(もうてん)に賜う詔書を偽造して、二人の罪状を数え、どちらにも死を賜うと申し送った」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.165』ちくま学芸文庫 一九九五年)

一方「史記・李斯列伝」では次のように一層詳細に書かれている。

「始皇帝の詔(みことのり)を丞相が受けた、といつわり(おもてむき始皇帝はまだ存命中)、丞相は公子胡亥を太子に立てた。また〔始皇帝の〕書翰の文面を次のように改めて、長男の扶蘇に与えた、『朕(ちん)は天下を巡察し、名山の神々を祭り、わが寿(よわい)長かれと祈った。しかるに汝扶蘇は将軍蒙恬とともに、軍勢数十万をひきいて国境の地に駐屯(ちゅうとん)すること、すでに十余年である。進撃することはあたわず、士卒の損害は多くして、一寸一尺の領土をひろめた功績(いさおし)はなく、なおかえってしばしば上書して、わがなせることをあからさまにそしった。その職分をとかれ都へ帰って太子となれぬゆえに、日に夜に恨みをいだくのであろう。扶蘇は人の子として不孝である。剣を与うる、これをもって自決せよ。将軍蒙恬は扶蘇とともに外地にあり、扶蘇の過(あやま)ちを改め正さないのは、当然その陰謀を知るゆえである。人の臣として不忠である、死を賜わり、軍隊は副将王離(おうり)に預けることとする』。その書翰には皇帝の玉璽を押して封じ、胡亥の食客にそれをたずさえさせ、上郡にいる扶蘇に送った。使者が到着して、扶蘇は書翰を開いてみて、涙にくれ、奥の部屋にはいり、自殺しようとした。蒙恬は扶蘇をとどめて、言った、『陛下は外にお出ましになって、まだ太子をお定めにはなりませんでした。わたくしに三十万の兵をひきいて辺境を守備せしめられ、公子さまは監察のお役目、これは天下の重任であります。今ただ一人の使者がまいったからとて、にわかに自殺しようとなさいますが、使者が贋者(にせもの)でないと、どうしてわかりましょうぞ。なにとぞ重ねてのご沙汰(さた)を願われますよう。いま一度のご沙汰があったその上で死をとげられましても、けっして遅くはございません』。使者はくりかえし早くせよとうながした。扶蘇はきまじめな性格であったので、蒙恬にむかって、『父上が子に死ねとおおせられるのだ。それをどうして重ねて願い出ることができよう』と言い、その場で自殺した」(「李斯列伝・第二十七」『史記列伝2・P.179~180』岩波文庫 一九七五年)

同じ「史記」でも「本紀」と「列伝」そして「世家」の三つはそれぞれ別々にまとめられたものだ。「始皇本紀」に「李斯列伝」と同じエピソードが含まれているのは当然のことであり、むしろ含まれていないほうがおかしい。しかし「始皇本紀」の中で李斯に関するエピソードが「李斯列伝」よりも豊富に含まれていたとすればそれはもっとおかしい。歴史はそれを捉える側の位置によって異なるからである。

ともすれば「反=後醍醐帝」という嫌疑をかけられた護良親王の書簡には孔子の言葉の引用が見られる。讒言を払拭できない悔しさが滲む。

「浸潤(しんじゅん)の譖(しん)、膚受(ふじゅ)の愬(そ)」(「太平記2・第十二巻・九・P.277」岩波文庫 二〇一四年)

「論語」にこうある。

「子張問明、子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣

(書き下し)子張、明(めい)を問う。子曰わく、浸潤(しんじゅん)の譖(そし)り、膚受(ふじゅ)の愬(うつた)え、行なわれざる、明と謂(い)うべし。浸潤(しんじゅん)の譖(そし)り、膚受(ふじゅ)の愬(うつた)え、行なわれざる、遠しと謂うべし。

(現代語訳)子張が、聡明(そうめい)とはどういうことかとおたずねした。先生がこたえられた。『じわじわとしみこんでくるような他人の中傷と、皮膚にじかに感じさせる無実の罪の訴え、これを受けつけないのが聡明である。じわじわとしみこんでくるような中傷と、皮膚にじかに感じさせる無実の罪の訴えを受けつけなければ、それは聡明を越えて遠大な前方を見とおす見識といってもよい』」(「論語・第六巻・第十二・顔淵篇・六・P.331」中公文庫 一九七三年)

だが護良親王は無念のうちに処刑される。とはいえ一体、護良親王は何に敗北したのか。足利尊氏の言動を指して讒言に過ぎないと何度訴えたとしても、実際に讒言だったとしても、後醍醐帝の目に《見える》動きと《見せる》動きとはまた違っている。それはいつも何らかの言葉の連鎖という形式で後醍醐帝の頭の中で言語化される。そして尊氏の動きはいつも明瞭に言語化されうる。ところが護良親王の動きは尊氏ほどには明瞭でない。言語化されにくい部分が多過ぎる。言語化されない部分は《見えない》動きへ編入される。この《見えない》動きが多ければ多いほど疑いは日に日に増殖していく。護良親王は言葉の肉体としても、肉体の言葉としても、いずれの場合においても、尊氏が用いる言語に敗北したのではないだろうか。

趣向を変えよう。「華厳教入法界品」。善財童子(ぜんざいどうじ)はなぜ善財と名づけられたのか。その説明は以前引いた。また、無限に多種多様な諸商品の系列のように次々と変化するサーラドヴァジャ比丘についても以前触れた。次にサーラドヴァジャ比丘の両眼から出現する光明の変容について見てみたい。

「両眼からは、阿僧祇数の仏国土の微塵の数に等しい数の百千倍もの日輪が現れ出でて、あらゆる大地獄を照らし出し、世間の大闇黒を取り除き、衆生たちの迷妄という闇を取り除き、寒冷地獄の不幸に落ちた衆生たちの寒冷の苦しみを鎮め、泥から成る国土〔垢濁国土(くじょくこくど)〕に純白色の光明を解き放ち、黄金から成る国土に瑠璃色の光明を解き放ち、瑠璃から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、白銀から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、黄金から成る国土に玻璃色の光明を解き放ち、玻璃から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、黄金から成る国土に硨磲(しゃこ)色の光明を解き放ち、硨磲から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、赤珠から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、黄金から成る国土に赤珠色の光明を解き放ち、瑪瑙から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、黄金から成る国土に瑪瑙色の光明を解き放ち、帝青から成る国土に日蔵摩尼王色の光明を解き放ち、日蔵摩尼王でできた国土に帝青摩尼王色の光明を解き放ち、赤珠から成る国土に月光網摩尼王色の光明を解き放ち、月光網摩尼王でできた国土に赤珠色の光明を解き放ち、一つの宝石から成る国土に多様な宝石の色の光明を解き放ち、多様な宝石から成る国土に一つの宝石の色の光明を解き放ちながら、このようにしてあらゆる菩薩の説法会における無量の衆生たちを利益することに努めている日輪が、あらゆる法界に遍満しているのを善財童子は見た」(「華厳経・入法界品・上・第六章・P.198~199」岩波文庫 二〇二一年)

覚えやすいように見えて実は覚えにくい。一箇所間違うと次に続く文面は懇切丁寧に同じく一箇所づつずれていくからである。とても短い「般若心経」でも同じ熟語が何度か出てくるため、もう既に通り過ぎた箇所をふたたび繰り返し読んでしまうという失敗が起きる場合がある。そんなふうにここでも「黄金から成る国土に瑠璃色の光明を解き放ち、瑠璃から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、白銀から成る国土に黄金色の光明を解き放ち、黄金から成る国土に玻璃色の光明を解き放ち、玻璃から成る国土に黄金色の光明を解き放ち」と、あやうくもう一度反復してしまいかねない箇所がある。しかしそれはそれとして、善財童子命名の説明箇所と大変似ていないだろうか。「黄金でつくられた容器は銀粉で満たされ、銀でつくられた容器は金粉で満たされ、金銀でつくられた容器は瑠璃と摩尼宝石で満たされ、玻璃でつくられた容器は硨磲で満たされ、硨磲でつくられた容器は玻璃宝石で満たされ」、等々。サンスクリット原典からの邦訳なのでなおさらそう感じるのかもしれないが、重々しい説教に満ちた色々な仏典の中で、なぜかひときわ軽快な心地よさを覚えるのである。

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Blog21・「太平記」的戦略・一言一句の「厚み」

2021年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
この際、いっそのこと大内裏再建プロジェクトを押し進めようと平安時代初期の華やかだった頃の大内裏の様子が回想される。長々と語られるわけだが、いったん思いついたプロジェクトがたちまち大規模化していく過程は今も昔も変わらない。例えば外国からの使節を迎える鴻臚館(こうろかん)についてこう述べられる。

「後会期(こうかいご)遥(はる)かなり、纓(えい)を鴻臚(こうろ)の暁(あかつき)の露に濡(うるお)す」(「太平記2・第十二巻・一・P.226」岩波文庫 二〇一四年)

鴻臚館はどのような施設なのかではなく、鴻臚館に関する感動的エピソードが選択されているところがポイント。しかもこの箇所は「和漢朗詠集」からほぼそのまま引っ張ってきたもの。

「前途程遠 馳思於雁山之暮雲 後会期遥 霑纓於鴻臚之暁涙

(書き下し)前途(ぜんど)程(ほど)遠し 思ひを雁山(がんさん)の暮(ゆふべ)の雲に馳せ 後会期(こうくわいご)遥(はる)かなり 纓(えい)を鴻臚(かうろ)の暁(あかつき)の涙(なむだ)に霑(うるほ)す」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・餞別・六三二・大江朝綱(おほえのあさつな)・P.238」新潮社 一九八三年)

次の赴任地は「雁山(がんさん)」だというのだが、そもそも「雁山(がんさん)」とはどこにあるのか。「山海経」に出てくる。

「さらに北へ水行すること五百里、鴈門(がんもん)の山につく」(「山海経・第三・北山経・P.66~67」平凡社ライブラリー 一九九四年)

平安京の鴻臚館で用事を済ませた後は雁山に赴任する。雁の啼き声ばかりが響き渡るそうとう鄙びた僻地への赴任。官僚としては地方へ飛ばされ廻っているに等しい。読む者聞く者を安直なセンチメンタリズムに惑溺させる効果がある。次にこうある。

「君子は飽かんことを求むることなく、居(きょ)安からんことを求むることなし」(「太平記2・第十二巻・一・P.228」岩波文庫 二〇一四年)

「論語」に見える孔子の言葉。何をどう運営するにしてもまず節制が大事だという箇所。

「子曰、君子食無求飽、居無求安、敏於事而慎於言、就有道而正焉、可謂好学也已矣

(現代語訳)先生がいわれた。『貴族たるものは、食べ物は腹いっぱい、住宅は快適を求めない。行動は敏活、発言は慎重であり、そのうえ、有識者について批判を求める。こんな人がいたら、本について勉強しなくとも、それだけで学を好むといえるだろう』」(「論語・第一巻・第一・学而篇・十四・P.25」中公文庫 一九七三年)

さらになぜか菅原道真(すがわらのみちざね)に関するエピソードに入っていく。大内裏は何度か焼けたことがありその一つに道真の怨霊伝説が含まれるからなのだが。従って道真自身の歌がこれでもかと引用される。けれども、ともすれば単調な繰り返しになりがちな道真伝説を語るに当たりアクセントとして引用されてくるのは漢籍の有名な文章ばかり。次の箇所は読み手の教養レベルを試すテストのような箇所。二個のエピソードが入っているのだが、それをうまく包み込んでいる形式は白居易の歌であり、音楽でいえばこの部分で転調させて変化を付け、単調さを回避させている。

「誰(たれ)か知らん、偽言(ぎげん)巧みにして、簧(こう)に似たることを。君に勧め、鼻を掩(おお)はしむとも、君掩ふこと莫(な)かれ。夫婦をして参商(しんしょう)たらしむ。請(こ)ふ、君蜂(はち)を捕(と)らしむとも、君捕ること莫(な)かれ。母子をして豺狼(さいろう)と成らしむ」(「太平記2・第十二巻・二・P.234」岩波文庫 二〇一四年)

形式そのものは目に見えない。それがわかる読み手とわからない読み手とで読む者も聞く者もテストを受けるわけである。下敷きになっている形式は次のとおり。

「誰知僞言巧以簧 勸君掩鼻君莫掩 使君夫婦爲参商 勸君捕蜂君莫捕 使君父子爲豺狼

(書き下し)誰(たれ)か知(し)らん僞言(ぎげん)の巧(たくみ)にして簧(くわう)に似(に)たるを。君(きみ)に勸(すす)めて鼻(はな)を掩(おほ)はしむるも君(きみ)掩(おほ)ふなかれ。君(きみ)が夫婦(ふうふ)をして参商(しんしやう)とならしめん。君(きみ)に勸(すす)めて蜂(はち)を捕(と)らしむるも君(きみ)捕(と)るなかれ 君(きみ)が父子(ふし)をして豺狼(さいらう)とならしめん。

(現代語訳)うそが上手で笙(しょう)のようにうまいことをいうものがいる。だから鼻をかくせとすすめられてもかくすな。君たち夫婦を永久にへだててしまうぞ。蜂(はち)をとれといわれてもとってはならぬ。君たち親子を豺狼(さいろう)のようにかみあわすぞ」(漢詩選10「天可度」『白居易・P.106~108』集英社 一九九六年)

投入されている二個のエピソードについて。

(1)「劓(はなそ)ぎ」のエピソードは「韓非子」から。

「荊王所愛妾有鄭袖者、荊王新得美女、鄭袖因教之曰、王甚喜人之掩口也、為近王、必掩口、美女入見、近王因掩口、王問其故、鄭袖曰、此固言悪王之臭、及王与鄭袖美女三人坐、袖因先誡御者曰、王適有言、必亟聴従王言、美女前近王、甚数掩口、王悖然怒曰、劓之、御者因揄刀而劓美人

(書き下し)荊王(けいおう)の愛する所の妾(しよう)に鄭袖(ていしゆう)なる者有り。荊王新たに美女を得たり。鄭袖因(よ)りてこれに教えて曰わく、王は甚だ人の口を掩(おお)うを喜ぶ。為<若>(も)し王に近づけば、必ず口を掩えと。美女入れて見(まみ)え、王に近づくや因りて口を掩う。王其の故を問う。鄭袖曰わく、王適<若>(も)し言有れば、必ず亟(すみや)かに王の言に聴従(ちようじゆう)せよと。美女前(すす)みて王に近づき、甚だ数々(しばしば)口を掩う。王悖自然(ぼつぜん)として怒りて曰わく、これを劓(はなそ)げと。御者因りて刀を揄(ぬ)きて美人を劓ぐ。

(現代語訳)楚王が寵愛した妾(しょう)に鄭袖(ていしゅう)という者がいた。楚王が新しく美女を手に入れたとき、鄭袖はその女に教えてこう言った、『王さまは、人が口もとをおおい隠すのがとてもお好きです。もし王さまのお側によられたら、必ずお口をおおいなさい』。美女は宮中に入ってお目どおりをしたが、王の側近くによると、そこで口もとをおおった。王がそのわけをたずねると、鄭袖は答えた、『あの人はもともと王さまの体の臭いが嫌いだと言っていました』。その後、王が鄭袖と美女と三人でいっしょにくつろいだときのこと、鄭袖はそのために前もって側仕えに注意して『もし何か王さまの言いつけがあれば、必ずすぐにそれに従うのですよ』と言っておいたが、美女は前に進んで王のお側によると、何度もくりかえして口もとをおおった。王はむっとして怒り、『こやつを鼻そぎの刑にせよ』と命じた。側仕えはそこで刀を抜くと、美人の鼻を切り落とした」(「韓非子2・内儲説下・六微・第三十一・P.331~334」岩波文庫 一九九四年)

(2)「父子(ふし)をして豺狼(さいらう)」のエピソードは継母の策謀で自害へ追い込まれた伯奇(はくき)の話。以前、「今昔物語」を論じた折に取り上げた。なぜ「蜂(はち)」かというのは、継母が自分でこっそり蜂を自分の胸に付けておいて畑の中ほどでわざと倒れ、大声を上げて助けを呼んだ。駆けつけた伯奇は継母の胸にとまっている蜂を手で追い払った。しかし継母が畑の中まで入っていったのも始めから計算のうちであり、遠くにいる父親から見ればあたかも伯奇が後妻に入った継母を犯そうとしているようにしか見えない。怒った父親は伯奇を家から追放する。

「継母、蜜(ひそか)ニ蜂ヲ取(とり)テ、袖ノ内ニ裹(つつ)ミ持(も)テ、薗ノ中ニ伯奇ト共ニ行テ、菜ヲ採(つみ)テ遊ブ間、継母、俄(にはか)ニ地(ヂ)イン倒レテ云ク、『我ガ懐(ふところ)ニ蜂有(あ)リテ我ヲ螫(さ)ス』ト。伯奇、此レヲ見テ、継母ノ懐ヲ捜(さぐり)テ、蜂ヲ揮(はら)ヒ捨テツ。父、此ノ事ヲ見テ、遠キ間ニテ、継母ノ音(こゑ)ヲバ不聞(きか)ズシテ、伯奇、謀(はかりこと)ノ心有ケリト信ジツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第二十・P.212」岩波書店 一九九九年)

継母を政治的讒言(ざんげん)者と重ね合わせて語った上でさらに讒言によって左遷された道真伝説が語り継がれる。流刑にあった高級官僚は数多い。その舞台となったのは大内裏。幾多の名場面を生んだあの「《懐かしい》大内裏」。ノスタルジーとセンチメンタリズムが溢れかえる。従って平安時代初期の大内裏を見たことがない三八〇年後の読み手の感情の中で、知りもしない華々しかった時代の大内裏再建への機運が高まってくる構造になっている。次に「蘭橈桂檝(らんじょうけいしょう)」という見慣れない言葉が出てくる。

「蘭橈桂檝(らんじょうけいしょう)、梢(しょう)の船を南海の月に敲(さおさ)し」(「太平記2・第十二巻・二・P.237」岩波文庫 二〇一四年)

「和漢朗詠集」からの引用。

「蕙帯蘿衣 抽簪於北山之北 蘭橈桂檝 鼓舷於東海之東

(書き下し)蕙帯蘿衣(くゑいたいらい) 簪(かむざし)を北山(ほくさん)の北(きた)に抽(ぬきん)づ 蘭橈桂檝(らんぜうけいせふ) 舷(ふなばた)を東海(とうかい)の東(ひむがし)に鼓(たた)く」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・閑居・六一九・大江朝綱(おほえのあさつな)・P.233」新潮社 一九八三年)

だが理由もなくただ単に「和漢朗詠集」を引用したわけではない。「蕙帯蘿衣(くゑいたいらい)」は太宰府に配流された道真を評しつつ隠者が身にまとうスタイルの象徴として用いられている。「楚辞」にこうある。

「荷衣兮蕙帯 儵而來兮忽而逝

(書き下し)荷(はす)の衣(ころも)に、蕙(けい)の帯(おび) 儵(しゅく)として来(き)たり、忽(こつ)として逝(ゆ)く

(現代語訳)わたしは、荷(はす)の衣に蕙(めぼうき)の帯を着て〔待ったのであるが〕 〔少司命君の〕訪れは突然で、しかも、あっという間に去ってゆかれた」(「楚辞・九歌 第二(少司命)・P.145~148」岩波文庫)

また「蘭橈桂檝(らんぜうけいせふ)」もそもそも「楚辞」にある詩の一節。

「桂櫂兮蘭枻 斲冰兮積雪

(書き下し)桂(けい)の櫂(かい)に蘭(らん)の枻(ふなばた) 氷(こおり)を斲(き)りて雪(ゆき)を積(つ)む

(現代語訳)桂木を櫂とし、蘭を枻(ふなばた)として 氷を切って、雪を積んだ」(「楚辞・九歌 第二(湘君)・P.120~123」岩波文庫 二〇二一年)

「太平記」では「南海」となっているが「和漢朗詠集」では「東海」とある。というのは、秦の横暴について魏王の客将(かくしょう)・新垣衍(しんえんえん)が斉の魯仲連(ろちゅうれん)と面会した時、魯仲連はもし秦王が帝を称するくらいなら「東海」に身投げするつもりだと言い放った故事を踏まえているからである。

「秦は礼儀をすて、いくさの手柄を第一とする国にて、詐術をもって士を使い、人民を奴隷のように使っております。あの国がもしほしいままに帝となり、まちがって天下の政治をとるようなことがあれば、それがしは東の海にとびこんで死ぬほかない」(「魯仲連・鄒陽列伝・第二十三」『史記列伝2・P.82』岩波文庫 一九七五年)

こう見てくると「太平記」は歴史の多数性を証拠立てる書物ではあっても、逆に歴史を一本化する書物ではまったくないことがわかってくる。ゆえに、にもかかわらずなぜ、という問いはますます厚みを増すのだ。

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