せっせと略奪に励むエリック。なるほど戦場での略奪行為は「富の蓄積」である。戦後のことなど誰にもわからない。だからエリックは戦後の「栄光」を完全に信じ込んでいるわけではない。戦場で確かなことは、戦時中にかぎり、「略奪行為」は「富の蓄積」と違わない、ということだけである。略奪のための富の蓄積なのか、それとも富の蓄積のための略奪なのか、あるいは「権力を確保する資産へ到達すること」が大事なのか。平時とちがって戦時は、これら切断され区別されている種々の欲望が地続きになって現われ出てくる。
「彼はフランスを略奪し、美術館から奪った調度、絵画、敷物、衣類、金品などをドイツへ送り込むのだった。己れの宿命が速やかに全うされることを、潔く死神の懐に抱かれることを彼は願っていた。氷のような非情さで彼はその苦行をつづけるのだった」(ジュネ「葬儀・P.175」河出文庫)
様々な金品に手をつけるエリック。美術館を狙うわけだが、よりによってなぜ《美術》館なのか。フランスだからである。エリックは他のどの国にもないものがフランスの美術館にはあると信じている。フランスの美術館を略奪することはフランスを略奪ことと同じことだという考えがエリックにはあるしドイツ軍にもあった。逆に連合国軍の側であるソ連軍にもアメリカ軍にもあった。なので、フランスの同盟国であるとはいえ、ソ連軍やアメリカ軍を見るフランス軍の目は、同一行動を取ることを取り決めた盗賊同士が盗賊同士の行動を盗み見て監視し合う相互監視カメラの目に果てしなく似通ってくる。
「長いことかかって下着を選んだり、革具や、英国製の生地を注文したりするのと同じような動機から、自分を地上につなぎとめるために、必死で、己れの社会生活を正当化する口実を探し求め、それを見つけ出すのだった」(ジュネ「葬儀・P.175」河出文庫)
戦時にもかかわらず、それでもなお略奪のためには「口実」が必要だと考えているエリック。エリックが洗練された盗賊に成り切っていないのはこういう描写のうちに認められる。だから「いちばん手軽な目標」しか見当たらない。
「要するに、自分に目標を、それもいちばん手軽な目標を授けるのだった。だいいち重要な目標を選べるだけの信念をなにひとつ持ち合わせていなかった」(ジュネ「葬儀・P.175」河出文庫)
わからないとしか言いようがないのである。エリック自身にしても。「信念」は「重要な目標」の出現と同時に創設されるのであって、それ以前にはただ単なる略奪の反復しかない。反復しているうちに金品が蓄積されてくる。蓄積されたぶんを貨幣と交換しているうちに、わざわざ戦争している自分が馬鹿馬鹿しく見えてくる。もっと手っ取り早く儲ける手段はないか。資本家という手段があるではないか。しかしエリックの身分で資本家になることは不可能である。エリックの履歴はすでに傷物だからだ。優等生の奴らはうまくやっていやがるとエリックは罵るわけだが、その罵りはすぐフランスへの呪いの言葉へ変換されフランス撲滅へと変形されナチスドイツ正当化へ接続されてしまう。
「俺にできることといえばこれだけだ。一つの心棒(それが俺だ)となって、なにひとつ羨まなくていいように、この世でいちばん珍重される装飾品を自分のまわりに取りつけることだ。贅沢と金さえあれば、俺は自由だ。いちばん安易なやり方で自分を完成させることが必要だった」(ジュネ「葬儀・P.175~176」河出文庫)
この「いちばん安易なやり方」がエリックとその仲間たちにとってはナチスドイツの一員として俊敏果敢に立ち働くことだった。そしてそれは目の前に転がっていて、悲惨なエリックから見れば光り輝く後光を帯びつつ、いつどんなときでも薫香のように呼び招きかけてくるのだ。
「たったの一日でも、そうだ、たったの一日でも自分が全うされるのを見れば、彼は満足だったろう。『俺の葬式は盛大にやる』という本がある。われわれは盛大な葬式を、荘厳な埋葬を目標に行動するのだ。葬式こそ傑作の名にふさわしい一大事業、まさしくわれわれの生涯の栄冠ともいえるだろう。神の如く崇められて死ぬべきであり、栄光に与(あずか)れることさえ《わかっておれば》、私の生前であろうと死後であろうとそれほど問題ではない」(ジュネ「葬儀・P.176」河出文庫)
しかしそれはわかりはしない。保障のない「栄光」へ向かってがむしゃらに略奪や侵略を、ますます大規模化していく略奪や侵略を繰り返していくほかない。そして遂にはエリック自身の身体が略奪や侵略として変容するまでに立ち至らなくてはならない。もはやエリックはただそこに居るというだけでただちに略奪あるいは侵略として恐れられなくてはならない存在へと至る過程をうろうろしている或る力としてしか存在しない。その運動が停止するのは死ぬときではなく、葬儀においてである。
葬儀において執り行われる形式が、葬儀の形式の側から、エリックがどのような人物であったかをながながと語りかけるのだ。生前のエリックの価値を決定する決定権は葬儀の側にあるのであって生前のエリックにはない。だがしかし、それが盛大に執り行われるというだけで死者の価値が高まるわけではない。価格が決めるのは葬式の価値である。だが価格によって決められる葬式はすでに商品化されている。死者の価値を決めるのは葬式ではなく葬儀の形式である。だからジュネはジャンの死をジュネのズボンのポケットの中に入れることができた。
高価な葬式というだけでは本当はどのような価値を持っていた人物なのかを決めることはまったくできない。高価であろうがなかろうが決めるのは葬儀の形式であって、要するに葬儀は生前の人物がどのような人物だったかをほぼ完全に覆い隠してしまうような形式においてこそ、仮面としての葬儀は始めて可能になるのである。ジュネは有り余る想像力にもかかわらず、いつも具体的に語る。そしてまた具体的にしか語らない。
さて、アルトー。ここからしばらく、演劇の舞台装置についての説明のような文章が続く。実際、この部分は本文の第三章として舞台装置に関する説明に当てられている。だが文体は第一、二章とほとんど違わない。具体的に思えるのは説明だからではない。具体的かどうかについてはそもそも第一章からして具体的なこと以外のことは書かれていない。文体が異なるという点で区別可能なのであり、抽象的か具体的かという区別は始めから成り立たない問いであって持ち込むべき問いでもない。ただ文体の差異という点でのみ何かが異なるというに過ぎない。アルトーにとって演劇はつねに具体的だ。人間にとって仮面が具体的であるように。
「彼はいまにも自らの美しさを擦りへらそうとしている青年の美の絶頂にある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.110」河出文庫)
とりわけ日本で、いわゆる「美少年」というのはどういう風貌をしているだろうか。マスコミ経営陣にとって、顔を中心としてその身体が、いつも高い商品価値を持つと考えられる人々のことを指していう。その意味で美少年は美少女に似ている。むしろ美少女の側が先にモデルとして出来上がってから事後的に選別、加工、陳列ならびに販売されるのが美少年であると言える。そして美少年に群がる女性らがそこに見ているのは美少女化された美少年であって、そこでたちまち多くの女性らがおそらく将来において実現することはないだろうと《感じる》自分の似姿を不意に発見し見つめ直しさらに見つめ返し興奮するのである。要するに、女性による美少年愛は女性自身の自己愛の産物にほかならない。しかし逆に理想化された美少女に群がる男性らはなぜ「ロリコン」などというレッテルを貼り付けられ、どの男性もがまったく同一人物ででもあるかのように一様に犯罪者予備軍扱いされ社会の中で社会から忌み嫌われ汚辱まみれの泥沼に叩き込まれ世間の晒しものとして見せしめにされるのだろうか。顔を中心としてその身体が、いつも高い商品価値を持つと考えられる美少女を《商品化》して販売目的で大々的に宣伝するマスコミとそのスポンサー。美少年に群がる女性らは美少年のうちに自己愛を見出して陶酔する。ところが美少女に群がる男性らは美少女のうちに自己愛を見出すことはほとんどない。逆に男性らはすべての自己愛を愛する対象としての美少女へ注ぎ込んでしまい自己内部をからっぽにしてしまうばかりでなく持てるかぎりの労働力と貯蓄のほとんど一切をどんどん切り崩して美少女とそのイメージ維持のために考えられるかぎりのアイデアを提案しながらとことん尽くしつつ最後を遂げる。
なお、美少女に群がらない美少年というものもまたいつの時代にも大勢いた。なぜ群がらないかといえば、美少年は美女を母に持つことで生まれてくることができたにもかかわらず、むしろ美女を母として持つことでしか生まれてくることができなかったがゆえに、母から授かった美貌を返しても返しても返しきれない負債として感じているため、いつまで経っても母の美貌を憎悪するのである。美少年の多くがそもそも美少女に対して女性差別的な傾向を見せるのは、いずれ誰かの母としてさらなる美少年を生み出すかもしれない美少女というものに恐怖を感じ、あらかじめ徹底的に軽蔑し隷属させ卑下そのものと化しておく必要性を嗅ぎとっているからである。そしてこれら悲喜劇はしばしば殺人事件として表面化することがある。けれども殺人事件化する以前すでにマスコミとそのスポンサーは《美》というどのようにでも変化する強度の流動性を適当に加工=変造して何度も繰り返し商品流通過程に乗せることで、一見複雑に見えるがその実なんということもないシステムから莫大な収益を上げて資本として君臨するのである。
「しかしこの溢れんばかりの女性らしさ、輝きの下で、まさに毎朝彼がつける太陽の三重冠の輝きの下で透けて見えるあのウェヌス風の刻印、彼はそれらを母に追うているのだ。ふしだらな女、娼婦、『男性的なもの』の虐待に応じる以外のことはけっしてできなかった売女である彼の母に」(アルトー「ヘリオガバルス・P.110」河出文庫)
マスコミ各局というものはグローバル通信網が一定の地点で取り得る様々な形態の一つ一つなのであり、だから通信網なしにマスコミは存在しない。マスコミの存在しない時代には美少女も、したがって美少年もまた存在することはできなかった。ところが紀元前すでにマスコミは発達していた。海運や陸運を通して。流通していた。たとえば古代ギリシアは地中海沿岸で最も早く通信網を獲得した一大世界を形成していた。遺産として残された様々な造形は後に美術品として取り扱われることになった。しかしそれらは美術品の原型ではあっても、美の原型とまでは言えない。美はあらゆるところから出現してくるからである。いつも流動する強度としてしか存在することができない。その都度ちがった差異的なものを含むかぎりで変化しつつ出現してくる。固形物としてはけっして捕獲できない不断の多様性であるとしか言えない。だから、ヘリオガバルスの母ユリア・ソエミアは娼婦であるにもかかわらず相手を選んだのである。「彼女を欲した男性たちではなく、彼女が選んだ男性たちに彼女が身を委ねた」のは、ただひたすら美少年の生産に励んだがゆえであると言いうる。そしてその条件は相手の男性にのみあるのではなく、まずもってユリア・ソエミア自身が他のどの女性よりも多くの美を持っていると承認されていたかぎりで始めて条件として機能したのだ。
「そして私が言いたいのは、ユリア・ソエミアに関して私が『男性的なもの』の虐待について語るとき、ユリア・ソエミアの発情が単なる皮膚のすり寄せだけに満足するのではなく、彼女を欲した男性たちではなく、彼女が選んだ男性たちに彼女が身を委ねたのは、儀式的観念においてであり、原理に従ってのことだということである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.110」河出文庫)
今のネット社会では保存された大量の精子バンクから選択することができる。女性は精子を選び取ることができる。精子はショッピングの対象と化した。しかしショッピングは同時に商品交換であるかぎりどこまで行っても格差はつきまとうばかりか、この種のショッピングは格差を冪乗(べきじょう)的な増殖傾向へ向け換えるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「彼はフランスを略奪し、美術館から奪った調度、絵画、敷物、衣類、金品などをドイツへ送り込むのだった。己れの宿命が速やかに全うされることを、潔く死神の懐に抱かれることを彼は願っていた。氷のような非情さで彼はその苦行をつづけるのだった」(ジュネ「葬儀・P.175」河出文庫)
様々な金品に手をつけるエリック。美術館を狙うわけだが、よりによってなぜ《美術》館なのか。フランスだからである。エリックは他のどの国にもないものがフランスの美術館にはあると信じている。フランスの美術館を略奪することはフランスを略奪ことと同じことだという考えがエリックにはあるしドイツ軍にもあった。逆に連合国軍の側であるソ連軍にもアメリカ軍にもあった。なので、フランスの同盟国であるとはいえ、ソ連軍やアメリカ軍を見るフランス軍の目は、同一行動を取ることを取り決めた盗賊同士が盗賊同士の行動を盗み見て監視し合う相互監視カメラの目に果てしなく似通ってくる。
「長いことかかって下着を選んだり、革具や、英国製の生地を注文したりするのと同じような動機から、自分を地上につなぎとめるために、必死で、己れの社会生活を正当化する口実を探し求め、それを見つけ出すのだった」(ジュネ「葬儀・P.175」河出文庫)
戦時にもかかわらず、それでもなお略奪のためには「口実」が必要だと考えているエリック。エリックが洗練された盗賊に成り切っていないのはこういう描写のうちに認められる。だから「いちばん手軽な目標」しか見当たらない。
「要するに、自分に目標を、それもいちばん手軽な目標を授けるのだった。だいいち重要な目標を選べるだけの信念をなにひとつ持ち合わせていなかった」(ジュネ「葬儀・P.175」河出文庫)
わからないとしか言いようがないのである。エリック自身にしても。「信念」は「重要な目標」の出現と同時に創設されるのであって、それ以前にはただ単なる略奪の反復しかない。反復しているうちに金品が蓄積されてくる。蓄積されたぶんを貨幣と交換しているうちに、わざわざ戦争している自分が馬鹿馬鹿しく見えてくる。もっと手っ取り早く儲ける手段はないか。資本家という手段があるではないか。しかしエリックの身分で資本家になることは不可能である。エリックの履歴はすでに傷物だからだ。優等生の奴らはうまくやっていやがるとエリックは罵るわけだが、その罵りはすぐフランスへの呪いの言葉へ変換されフランス撲滅へと変形されナチスドイツ正当化へ接続されてしまう。
「俺にできることといえばこれだけだ。一つの心棒(それが俺だ)となって、なにひとつ羨まなくていいように、この世でいちばん珍重される装飾品を自分のまわりに取りつけることだ。贅沢と金さえあれば、俺は自由だ。いちばん安易なやり方で自分を完成させることが必要だった」(ジュネ「葬儀・P.175~176」河出文庫)
この「いちばん安易なやり方」がエリックとその仲間たちにとってはナチスドイツの一員として俊敏果敢に立ち働くことだった。そしてそれは目の前に転がっていて、悲惨なエリックから見れば光り輝く後光を帯びつつ、いつどんなときでも薫香のように呼び招きかけてくるのだ。
「たったの一日でも、そうだ、たったの一日でも自分が全うされるのを見れば、彼は満足だったろう。『俺の葬式は盛大にやる』という本がある。われわれは盛大な葬式を、荘厳な埋葬を目標に行動するのだ。葬式こそ傑作の名にふさわしい一大事業、まさしくわれわれの生涯の栄冠ともいえるだろう。神の如く崇められて死ぬべきであり、栄光に与(あずか)れることさえ《わかっておれば》、私の生前であろうと死後であろうとそれほど問題ではない」(ジュネ「葬儀・P.176」河出文庫)
しかしそれはわかりはしない。保障のない「栄光」へ向かってがむしゃらに略奪や侵略を、ますます大規模化していく略奪や侵略を繰り返していくほかない。そして遂にはエリック自身の身体が略奪や侵略として変容するまでに立ち至らなくてはならない。もはやエリックはただそこに居るというだけでただちに略奪あるいは侵略として恐れられなくてはならない存在へと至る過程をうろうろしている或る力としてしか存在しない。その運動が停止するのは死ぬときではなく、葬儀においてである。
葬儀において執り行われる形式が、葬儀の形式の側から、エリックがどのような人物であったかをながながと語りかけるのだ。生前のエリックの価値を決定する決定権は葬儀の側にあるのであって生前のエリックにはない。だがしかし、それが盛大に執り行われるというだけで死者の価値が高まるわけではない。価格が決めるのは葬式の価値である。だが価格によって決められる葬式はすでに商品化されている。死者の価値を決めるのは葬式ではなく葬儀の形式である。だからジュネはジャンの死をジュネのズボンのポケットの中に入れることができた。
高価な葬式というだけでは本当はどのような価値を持っていた人物なのかを決めることはまったくできない。高価であろうがなかろうが決めるのは葬儀の形式であって、要するに葬儀は生前の人物がどのような人物だったかをほぼ完全に覆い隠してしまうような形式においてこそ、仮面としての葬儀は始めて可能になるのである。ジュネは有り余る想像力にもかかわらず、いつも具体的に語る。そしてまた具体的にしか語らない。
さて、アルトー。ここからしばらく、演劇の舞台装置についての説明のような文章が続く。実際、この部分は本文の第三章として舞台装置に関する説明に当てられている。だが文体は第一、二章とほとんど違わない。具体的に思えるのは説明だからではない。具体的かどうかについてはそもそも第一章からして具体的なこと以外のことは書かれていない。文体が異なるという点で区別可能なのであり、抽象的か具体的かという区別は始めから成り立たない問いであって持ち込むべき問いでもない。ただ文体の差異という点でのみ何かが異なるというに過ぎない。アルトーにとって演劇はつねに具体的だ。人間にとって仮面が具体的であるように。
「彼はいまにも自らの美しさを擦りへらそうとしている青年の美の絶頂にある」(アルトー「ヘリオガバルス・P.110」河出文庫)
とりわけ日本で、いわゆる「美少年」というのはどういう風貌をしているだろうか。マスコミ経営陣にとって、顔を中心としてその身体が、いつも高い商品価値を持つと考えられる人々のことを指していう。その意味で美少年は美少女に似ている。むしろ美少女の側が先にモデルとして出来上がってから事後的に選別、加工、陳列ならびに販売されるのが美少年であると言える。そして美少年に群がる女性らがそこに見ているのは美少女化された美少年であって、そこでたちまち多くの女性らがおそらく将来において実現することはないだろうと《感じる》自分の似姿を不意に発見し見つめ直しさらに見つめ返し興奮するのである。要するに、女性による美少年愛は女性自身の自己愛の産物にほかならない。しかし逆に理想化された美少女に群がる男性らはなぜ「ロリコン」などというレッテルを貼り付けられ、どの男性もがまったく同一人物ででもあるかのように一様に犯罪者予備軍扱いされ社会の中で社会から忌み嫌われ汚辱まみれの泥沼に叩き込まれ世間の晒しものとして見せしめにされるのだろうか。顔を中心としてその身体が、いつも高い商品価値を持つと考えられる美少女を《商品化》して販売目的で大々的に宣伝するマスコミとそのスポンサー。美少年に群がる女性らは美少年のうちに自己愛を見出して陶酔する。ところが美少女に群がる男性らは美少女のうちに自己愛を見出すことはほとんどない。逆に男性らはすべての自己愛を愛する対象としての美少女へ注ぎ込んでしまい自己内部をからっぽにしてしまうばかりでなく持てるかぎりの労働力と貯蓄のほとんど一切をどんどん切り崩して美少女とそのイメージ維持のために考えられるかぎりのアイデアを提案しながらとことん尽くしつつ最後を遂げる。
なお、美少女に群がらない美少年というものもまたいつの時代にも大勢いた。なぜ群がらないかといえば、美少年は美女を母に持つことで生まれてくることができたにもかかわらず、むしろ美女を母として持つことでしか生まれてくることができなかったがゆえに、母から授かった美貌を返しても返しても返しきれない負債として感じているため、いつまで経っても母の美貌を憎悪するのである。美少年の多くがそもそも美少女に対して女性差別的な傾向を見せるのは、いずれ誰かの母としてさらなる美少年を生み出すかもしれない美少女というものに恐怖を感じ、あらかじめ徹底的に軽蔑し隷属させ卑下そのものと化しておく必要性を嗅ぎとっているからである。そしてこれら悲喜劇はしばしば殺人事件として表面化することがある。けれども殺人事件化する以前すでにマスコミとそのスポンサーは《美》というどのようにでも変化する強度の流動性を適当に加工=変造して何度も繰り返し商品流通過程に乗せることで、一見複雑に見えるがその実なんということもないシステムから莫大な収益を上げて資本として君臨するのである。
「しかしこの溢れんばかりの女性らしさ、輝きの下で、まさに毎朝彼がつける太陽の三重冠の輝きの下で透けて見えるあのウェヌス風の刻印、彼はそれらを母に追うているのだ。ふしだらな女、娼婦、『男性的なもの』の虐待に応じる以外のことはけっしてできなかった売女である彼の母に」(アルトー「ヘリオガバルス・P.110」河出文庫)
マスコミ各局というものはグローバル通信網が一定の地点で取り得る様々な形態の一つ一つなのであり、だから通信網なしにマスコミは存在しない。マスコミの存在しない時代には美少女も、したがって美少年もまた存在することはできなかった。ところが紀元前すでにマスコミは発達していた。海運や陸運を通して。流通していた。たとえば古代ギリシアは地中海沿岸で最も早く通信網を獲得した一大世界を形成していた。遺産として残された様々な造形は後に美術品として取り扱われることになった。しかしそれらは美術品の原型ではあっても、美の原型とまでは言えない。美はあらゆるところから出現してくるからである。いつも流動する強度としてしか存在することができない。その都度ちがった差異的なものを含むかぎりで変化しつつ出現してくる。固形物としてはけっして捕獲できない不断の多様性であるとしか言えない。だから、ヘリオガバルスの母ユリア・ソエミアは娼婦であるにもかかわらず相手を選んだのである。「彼女を欲した男性たちではなく、彼女が選んだ男性たちに彼女が身を委ねた」のは、ただひたすら美少年の生産に励んだがゆえであると言いうる。そしてその条件は相手の男性にのみあるのではなく、まずもってユリア・ソエミア自身が他のどの女性よりも多くの美を持っていると承認されていたかぎりで始めて条件として機能したのだ。
「そして私が言いたいのは、ユリア・ソエミアに関して私が『男性的なもの』の虐待について語るとき、ユリア・ソエミアの発情が単なる皮膚のすり寄せだけに満足するのではなく、彼女を欲した男性たちではなく、彼女が選んだ男性たちに彼女が身を委ねたのは、儀式的観念においてであり、原理に従ってのことだということである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.110」河出文庫)
今のネット社会では保存された大量の精子バンクから選択することができる。女性は精子を選び取ることができる。精子はショッピングの対象と化した。しかしショッピングは同時に商品交換であるかぎりどこまで行っても格差はつきまとうばかりか、この種のショッピングは格差を冪乗(べきじょう)的な増殖傾向へ向け換えるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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