熊楠は田辺市に居を構えていた。「鬢女郎」(びんじよろう)=「鬢上﨟」(びんじょうろう)について当たり前のように知っていた。ところが神社合祀によって古くからの祭祀とともに存在したその「社」特有の「吉祥草とタチクラマゴケ」は絶滅した。
「下芳養(しもはや)村の託言(よりこと)の神社ははなはだ古き社にて、古え人犠を享(きょう)したりとて、近年までも『鬢女郎』(びんじよろう)と名づけ、少女を撰み人牲を擬しそなえし、大なる冬青(もち)の樹あり、はなはだ古いものなり。その社の四周に吉祥草とタチクラマゴケ密生し、はなはだ美なりし。しかるに、官命とて掃除ばかりするゆえ、今は一本もなし」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.390』河出文庫)
ここで「鬢女郎」(びんじよろう)とあるのは「鬢上﨟」(びんじょうろう)のこと。祭祀の時、村の中から選抜された七歳前後の童子の鬢を成人女性のように結わせて肩車に乗せ登場させる。なお、このような時の肩車の意味については、つい先日、その神事性について「一遍聖絵」の一説を引いて述べた。
さらに注目すべきは、童子とはいえ、あくまで成人女性の姿形に整えられなければならないという点。とすれば祭祀は神事である以上、その童女は「神の妻」として捧げられることを意味する。「下芳養(しもはや)村の託言(よりこと)の神社」は今の和歌山県田辺市芳養町「大神社」(おおじんじゃ)。中辺路の海岸からの入口に位置しており長く「芳養王子」を祀っていた。漂着神伝承が残る。折口信夫なら「常世の国・まれびと」伝承と言うだろう。かつて海神が漂着し、年に一度訪れるようになり、その時期に合わせて祭祀を催す。海神に捧げられたのは熊楠が述べているように始めは「人犠を享(きょう)したり」とある通り、人身御供だったに違いない。フレイザーはいう。
「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫)
とともに重要なのは説話の保管に関してである。説話はその時その時の社会的事情によって変形を被ることが少なくない。柳田はいう。
「関君の母御は、果して何れの型に属する説話保管者であつたらうか。それが先づ考へて見たい問題である。此集に出て居る姪の話といふのは、何れも其おばあ様から聴いたものばかりだと云ふが、之を読みかへすと何箇所とも無く、ずつと以前に母からか誰からか、聴いて覚えて居るのと違つた話があると、関君は謂ふのである。それはこの恋慕すべき老婦人が、同じ昔話の色々の話し方を知つて居て、一つを男の子に、他の一つを幼ない孫娘に、分配して与へられたものか、但しは又時や気分や相手の兒の年頃などに応じて、少しづつ作為加減して話すだけの技能をもつて居られたのであらうか。其不審を散ずべき機会はもう来ないであらうが、大体に女性は物語を職業とする者までが、古伝の改刪には臆病であるのを例とする。肥前の島原ばかりにそんな大膽な気風が、あつたと想像するのは無理だらうと思ふ。ただもし人が昔話を好み、聴けば片端から記憶の引出しに、仕分けて蔵つて置くだけの熱心さへ持つて居たならば、此地方はちやうど其望みのままに、一つの説話のさまざまの小変化を幾つとなく拾つて竝べてみることの出来る時代に、入つて居たのかも知れぬといふ事は言い得る。我々の採集事業は、いつもこの時期といふものの牽制を受けて、必ずしも骨を折る程度と比例して、よい成績が挙がるとはきまつて居ない。殊に民譚に在つては其条件が力強くて、折角の優れた伝承者の値打を、時期の不利が割引することさへ有るといふことを、関君も私も此実例に依つて、経験しようとして居るのではあるまいか」(柳田國男「昔話覚書・島原半島民話集」『柳田國男集・第六巻・P.475~476』筑摩書房)
柳田國男「遠野物語」は確かに金字塔といえる内容を持つと言われ今なお評価が高い。だが実をいえば柳田が「遠野物語」で打ち立てた金字塔は「遠野物語」の内容ではなくて、その文体である。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)
なぜザシキワラシが住み着いた家は長者になったのか。次の文章を見てみよう。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
ザシキワラシは子どもである。もうこの世にいない死んでしまった子のことだ。少しでも口減らしして借金返済に当て、あるいは蓄財に廻すほか不景気を乗り切る方法のない農山漁村では幾らでもあったありふれた日常茶飯事だった。「遠野物語」の文体では、その当時はまだ生々しく残っていた村落共同体の人間関係や不作に襲われた年のしのぎ方、子殺しの際の親の気持ちなど、重要な部分がともすればあっさり消えてしまっている。だが他方、遠野では古来、日本狼(おおかみ)は「御犬(おいぬ)」と呼ばれ恐れられ神格化されていたことがわかる。
「猿の経立(ふつたち)、御犬(おいぬ)の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼(おおかみ)のことなり。山口の村に近き二ツ山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押し上ぐるようにしてかわるがわる吠(ほ)えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄(ものすご)く恐ろしきものはなし」(柳田國男「遠野物語・三十六」『柳田國男全集4・P.29~30』ちくま文庫)
そんな狼も生態系の破壊によってもはや絶滅してしまった。
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「下芳養(しもはや)村の託言(よりこと)の神社ははなはだ古き社にて、古え人犠を享(きょう)したりとて、近年までも『鬢女郎』(びんじよろう)と名づけ、少女を撰み人牲を擬しそなえし、大なる冬青(もち)の樹あり、はなはだ古いものなり。その社の四周に吉祥草とタチクラマゴケ密生し、はなはだ美なりし。しかるに、官命とて掃除ばかりするゆえ、今は一本もなし」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.390』河出文庫)
ここで「鬢女郎」(びんじよろう)とあるのは「鬢上﨟」(びんじょうろう)のこと。祭祀の時、村の中から選抜された七歳前後の童子の鬢を成人女性のように結わせて肩車に乗せ登場させる。なお、このような時の肩車の意味については、つい先日、その神事性について「一遍聖絵」の一説を引いて述べた。
さらに注目すべきは、童子とはいえ、あくまで成人女性の姿形に整えられなければならないという点。とすれば祭祀は神事である以上、その童女は「神の妻」として捧げられることを意味する。「下芳養(しもはや)村の託言(よりこと)の神社」は今の和歌山県田辺市芳養町「大神社」(おおじんじゃ)。中辺路の海岸からの入口に位置しており長く「芳養王子」を祀っていた。漂着神伝承が残る。折口信夫なら「常世の国・まれびと」伝承と言うだろう。かつて海神が漂着し、年に一度訪れるようになり、その時期に合わせて祭祀を催す。海神に捧げられたのは熊楠が述べているように始めは「人犠を享(きょう)したり」とある通り、人身御供だったに違いない。フレイザーはいう。
「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫)
とともに重要なのは説話の保管に関してである。説話はその時その時の社会的事情によって変形を被ることが少なくない。柳田はいう。
「関君の母御は、果して何れの型に属する説話保管者であつたらうか。それが先づ考へて見たい問題である。此集に出て居る姪の話といふのは、何れも其おばあ様から聴いたものばかりだと云ふが、之を読みかへすと何箇所とも無く、ずつと以前に母からか誰からか、聴いて覚えて居るのと違つた話があると、関君は謂ふのである。それはこの恋慕すべき老婦人が、同じ昔話の色々の話し方を知つて居て、一つを男の子に、他の一つを幼ない孫娘に、分配して与へられたものか、但しは又時や気分や相手の兒の年頃などに応じて、少しづつ作為加減して話すだけの技能をもつて居られたのであらうか。其不審を散ずべき機会はもう来ないであらうが、大体に女性は物語を職業とする者までが、古伝の改刪には臆病であるのを例とする。肥前の島原ばかりにそんな大膽な気風が、あつたと想像するのは無理だらうと思ふ。ただもし人が昔話を好み、聴けば片端から記憶の引出しに、仕分けて蔵つて置くだけの熱心さへ持つて居たならば、此地方はちやうど其望みのままに、一つの説話のさまざまの小変化を幾つとなく拾つて竝べてみることの出来る時代に、入つて居たのかも知れぬといふ事は言い得る。我々の採集事業は、いつもこの時期といふものの牽制を受けて、必ずしも骨を折る程度と比例して、よい成績が挙がるとはきまつて居ない。殊に民譚に在つては其条件が力強くて、折角の優れた伝承者の値打を、時期の不利が割引することさへ有るといふことを、関君も私も此実例に依つて、経験しようとして居るのではあるまいか」(柳田國男「昔話覚書・島原半島民話集」『柳田國男集・第六巻・P.475~476』筑摩書房)
柳田國男「遠野物語」は確かに金字塔といえる内容を持つと言われ今なお評価が高い。だが実をいえば柳田が「遠野物語」で打ち立てた金字塔は「遠野物語」の内容ではなくて、その文体である。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)
なぜザシキワラシが住み着いた家は長者になったのか。次の文章を見てみよう。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
ザシキワラシは子どもである。もうこの世にいない死んでしまった子のことだ。少しでも口減らしして借金返済に当て、あるいは蓄財に廻すほか不景気を乗り切る方法のない農山漁村では幾らでもあったありふれた日常茶飯事だった。「遠野物語」の文体では、その当時はまだ生々しく残っていた村落共同体の人間関係や不作に襲われた年のしのぎ方、子殺しの際の親の気持ちなど、重要な部分がともすればあっさり消えてしまっている。だが他方、遠野では古来、日本狼(おおかみ)は「御犬(おいぬ)」と呼ばれ恐れられ神格化されていたことがわかる。
「猿の経立(ふつたち)、御犬(おいぬ)の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼(おおかみ)のことなり。山口の村に近き二ツ山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押し上ぐるようにしてかわるがわる吠(ほ)えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄(ものすご)く恐ろしきものはなし」(柳田國男「遠野物語・三十六」『柳田國男全集4・P.29~30』ちくま文庫)
そんな狼も生態系の破壊によってもはや絶滅してしまった。
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