白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/「鬢女郎」(びんじよろう)と日本狼

2020年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は田辺市に居を構えていた。「鬢女郎」(びんじよろう)=「鬢上﨟」(びんじょうろう)について当たり前のように知っていた。ところが神社合祀によって古くからの祭祀とともに存在したその「社」特有の「吉祥草とタチクラマゴケ」は絶滅した。

「下芳養(しもはや)村の託言(よりこと)の神社ははなはだ古き社にて、古え人犠を享(きょう)したりとて、近年までも『鬢女郎』(びんじよろう)と名づけ、少女を撰み人牲を擬しそなえし、大なる冬青(もち)の樹あり、はなはだ古いものなり。その社の四周に吉祥草とタチクラマゴケ密生し、はなはだ美なりし。しかるに、官命とて掃除ばかりするゆえ、今は一本もなし」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.390』河出文庫)

ここで「鬢女郎」(びんじよろう)とあるのは「鬢上﨟」(びんじょうろう)のこと。祭祀の時、村の中から選抜された七歳前後の童子の鬢を成人女性のように結わせて肩車に乗せ登場させる。なお、このような時の肩車の意味については、つい先日、その神事性について「一遍聖絵」の一説を引いて述べた。

さらに注目すべきは、童子とはいえ、あくまで成人女性の姿形に整えられなければならないという点。とすれば祭祀は神事である以上、その童女は「神の妻」として捧げられることを意味する。「下芳養(しもはや)村の託言(よりこと)の神社」は今の和歌山県田辺市芳養町「大神社」(おおじんじゃ)。中辺路の海岸からの入口に位置しており長く「芳養王子」を祀っていた。漂着神伝承が残る。折口信夫なら「常世の国・まれびと」伝承と言うだろう。かつて海神が漂着し、年に一度訪れるようになり、その時期に合わせて祭祀を催す。海神に捧げられたのは熊楠が述べているように始めは「人犠を享(きょう)したり」とある通り、人身御供だったに違いない。フレイザーはいう。

「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫)

とともに重要なのは説話の保管に関してである。説話はその時その時の社会的事情によって変形を被ることが少なくない。柳田はいう。

「関君の母御は、果して何れの型に属する説話保管者であつたらうか。それが先づ考へて見たい問題である。此集に出て居る姪の話といふのは、何れも其おばあ様から聴いたものばかりだと云ふが、之を読みかへすと何箇所とも無く、ずつと以前に母からか誰からか、聴いて覚えて居るのと違つた話があると、関君は謂ふのである。それはこの恋慕すべき老婦人が、同じ昔話の色々の話し方を知つて居て、一つを男の子に、他の一つを幼ない孫娘に、分配して与へられたものか、但しは又時や気分や相手の兒の年頃などに応じて、少しづつ作為加減して話すだけの技能をもつて居られたのであらうか。其不審を散ずべき機会はもう来ないであらうが、大体に女性は物語を職業とする者までが、古伝の改刪には臆病であるのを例とする。肥前の島原ばかりにそんな大膽な気風が、あつたと想像するのは無理だらうと思ふ。ただもし人が昔話を好み、聴けば片端から記憶の引出しに、仕分けて蔵つて置くだけの熱心さへ持つて居たならば、此地方はちやうど其望みのままに、一つの説話のさまざまの小変化を幾つとなく拾つて竝べてみることの出来る時代に、入つて居たのかも知れぬといふ事は言い得る。我々の採集事業は、いつもこの時期といふものの牽制を受けて、必ずしも骨を折る程度と比例して、よい成績が挙がるとはきまつて居ない。殊に民譚に在つては其条件が力強くて、折角の優れた伝承者の値打を、時期の不利が割引することさへ有るといふことを、関君も私も此実例に依つて、経験しようとして居るのではあるまいか」(柳田國男「昔話覚書・島原半島民話集」『柳田國男集・第六巻・P.475~476』筑摩書房)

柳田國男「遠野物語」は確かに金字塔といえる内容を持つと言われ今なお評価が高い。だが実をいえば柳田が「遠野物語」で打ち立てた金字塔は「遠野物語」の内容ではなくて、その文体である。

「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)

なぜザシキワラシが住み着いた家は長者になったのか。次の文章を見てみよう。

「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)

ザシキワラシは子どもである。もうこの世にいない死んでしまった子のことだ。少しでも口減らしして借金返済に当て、あるいは蓄財に廻すほか不景気を乗り切る方法のない農山漁村では幾らでもあったありふれた日常茶飯事だった。「遠野物語」の文体では、その当時はまだ生々しく残っていた村落共同体の人間関係や不作に襲われた年のしのぎ方、子殺しの際の親の気持ちなど、重要な部分がともすればあっさり消えてしまっている。だが他方、遠野では古来、日本狼(おおかみ)は「御犬(おいぬ)」と呼ばれ恐れられ神格化されていたことがわかる。

「猿の経立(ふつたち)、御犬(おいぬ)の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼(おおかみ)のことなり。山口の村に近き二ツ山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押し上ぐるようにしてかわるがわる吠(ほ)えたり。正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄(ものすご)く恐ろしきものはなし」(柳田國男「遠野物語・三十六」『柳田國男全集4・P.29~30』ちくま文庫)

そんな狼も生態系の破壊によってもはや絶滅してしまった。

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熊楠による熊野案内/近代化と熊楠の憂鬱

2020年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム
右京の切腹は「この曙(あけぼの)」=夜明けに執行するとの命令が下った時、采女は母が暮らす神奈川で休養していた。志賀左馬之介はただちに事の次第を書き付けた手紙を采女のもとへ送り届けさせる。

「左馬之助方(さまのすけかた)より文いそぎて始終を書き付け、『この曙(あけぼの)に浅草の慶養寺(けいやうじ)にて切腹』と申し遣(つか)はしける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)

日が昇るまでに浅草へと慌てる采女。海路で何とか浅草へ到着した時すでに「夜も白々と明けぬ」。江戸の町は明け方を迎えたばかりだった。浅草慶養寺の周りには物見高い人々が参集している。そこへ大勢の付き添いを随えた新しい乗物が門前に到着、中から右京が降り立った。慌てる様子一つなく悠々と周囲を眺めている。その衣装は右京がこの世で身にまとう最後の衣装だ。「白うきよらかなる唐綾(からあや)の織物に、あだなる露草の縫尽(ぬひづく)し、浅黄上下(あさぎかみしも)」。浅黄は浅葱(あさぎ)で、藍染の一種。水色にほぼ近い。はかない露草の刺繍でびっしり埋め尽くされている。また門前には数々の卒塔婆(そとば)が立ち並んでいるのが見える。それぞれの家々が出した哀惜の念、涙の数で綴ったものだ。

「新しき乗物、大勢つきづきありて、外門(そともん)にかきすゑてゆたけに出(いで)しけはひ、またなくはなやかなり。白うきよらかなる唐綾(からあや)の織物に、あだなる露草の縫尽(ぬひづく)し、浅黄上下(あさぎかみしも)織目ただしく、うららかにそこらを見渡し給ふに、卒塔婆(そとば)の数の立ちけるは家々の涙ぞかし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.419』小学館)

次の漢文は「梢に残るを待つとも」と読ませているが本文は誤り。「縦旧年花残梢、待後春是人心」が正しい。境内には咲き遅れ散り残った山桜が見える。右京なき後の采女にことか。悲しいというほかない。

「縦旧年花梢残待後春是人心(たとひきうねんのはなこずゑにのこるをまつともこうしゆんこれじんしん)」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.419~420』小学館)

錦の縁取りした畳に座った右京。吉川勘解由(きちかはかげゆ)が介錯の準備を整えて待っている。当時すでに腹切りでさえ形式が出来上がっていた。戦国時代とはまた違い近世的に構造化された切腹作法が完成されている。切腹するかしないか。それすら上の者の決定に従わねばならない。なおかつ儀式ゆえ式次第があり、定められた順序に則って執行される。右京は介錯役の吉川勘解由を近くへ呼び寄せ、自分の「鬢(びん)の美しげなる、押し切り、畳紙(たたうがみ)に包みて」言う。京都堀川にいる母のもとへ、今はの右京の形見だと言って、送り届けて下さい。

「錦の縁(へり)取りし畳に座して、介錯(かいしやく)の吉川勘解由(きちかはかげゆ)を招き、鬢(びん)の美しげなる、押し切り、畳紙(たたうがみ)に包みて、『これなん都堀川(ほりかは)の母の許(もと)へ、今はの形見と、便(たよ)りに言ひ送り給はれ』とさし置く」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)

そして立ち合いの和尚にこう述べる。長寿を保つ美人であってなお鬢は薄く白髪にもなりましょう。容色が最も新鮮で衰えないうちに誠の心を果たして剣の上に伏すのなら、これこそ成仏だと考えます。

「この世の長生(ちやうせい)をたもつ美人、鬢糸(びんし)をまぬかれず。容色新(あらた)なる本意達して、自(みづか)ら剣(やいば)の上にふす事、これ成仏(じやうぶつ)」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)

辞世の詠。袂から青地の短冊を取り出し硯を借りて書きつける。春秋月花をめでた月日ももはや夢のごとし。

「春は花秋は月にとたはぶれて詠(なが)めし事も夢のまたゆめ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)

辞世を書き置くや間髪入れず右京は腹を掻き切った。吉川勘解由は介錯した。吉川がその場を立ち退こうとしたその時、采女が駆け込んできた。「頼む」と言うやただちに腹を掻っ捌いた。そこで吉川は采女の首も介錯した。右京十六歳、采女十八歳。それを最後に二人は寛永の春の終わり、闇に消えた。

「采女走りかかり、『頼む』とばかり声して、腹掻き切れば、これも首かけて打ちぬ。今年十六・十八を一期(いちご)として、寛永の春の末に闇(やみ)とはなりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)

長年両人に仕えていた家来たちは哀れを催し、互いに思いあまって刀を抜き放ち差し違えて死に、あるいは二人の菩提を弔うため髪を剃り落として出家した。

「年頃召し使はれし家の子ども、この哀れに思ひあひて、指し違へるもあり、また、もとどり切りて世を捨てて、主人の菩提(ぼだい)を弔ひけるとなり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420』小学館)

すぐに初七日がやって来た。取り残された格好の志賀左馬之助はこのまま生きていても仕方がないと、思いのたけを書き残し、自害して果てた。

「志賀左馬之助も、世にありてせんかたなしと、思ふ程を書き残して、七日に当り空(むな)しくなりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.420~421』小学館)

江戸時代には切腹一つ取っても形式性あるいは記号化が加速した。西鶴は美貌の少年だけでなく歌舞伎役者や老出家らの間で行われた同性愛の諸相をも様々に取り上げている。とはいえ何も好みの顔立ちばかりが重視されたわけではない。この種の同性愛で最も微妙なポイントは、例えば右京の場合、武道に優れた細野を殺害し采女への愛を貫いたように、「ただ一心の正しきを寵愛」という点にあった。熊楠はいう。

「テーベの聖軍隊は若契に基づく。史家バックルかつて道義学上これもっとも潜心研究を要することながら、一概に避難の声高き社会にあって十分研究を遂ぐる見込みなしと嘆じた。『経国美談』を繙く者誰かかの隊士の忠勇義烈に感奮せざらん。しかるにエバミノンダス討死の際死なば共にと契約の詞違えず二人その尸上に殪れたと聞きて、敵王フィリムポス、この人にしてこの病ありと嘆じた。スパルタ王アゲシラオスは美童メガバテスを思い出づる常盤の山の岩躑躅のたびたびをの念を抑えて事に及ばず。マキシムス・チリウスこれをレオニダスの武烈に勝る大勇と讃し、ジオゲネス・ラエルチウズは特に哲学者ゼノの外色に染まざりしを称揚した(ボール『色痴編』一四二頁。レッキー『欧州道徳史(ヒストリ・オブ・ユーロピアン・モラルス)』五章二節注)。けだしギリシアで肖像を公立された最初の人物がアリストゲイトンとハルモジオスの二若契者だったり、哲学者や詩人でこれを称道すること多かったのを参考すると、初め武道奨励の一途よりこれを善事(よいこと)としたが、もとより天然に背いたことゆえ、これを非とする者も少なくなかったので、わが邦の熊沢先生同様、世間一汎の旧慣でよいところもあれば強いて咎めずに置けくらいの説が多かったと見える。このよいところすなわち節義を研(みが)き志操を高くするほどの若契は特にギリシアとペルシアに限ったようエルシュおよびグリューベルの『百科全書』に書きおるが、そは東洋のことを明らめなんだからで、日本にも支那にもそんな例はたくさんある。『武功雑記』に、小笠原兵部大輔、大坂で打死の刻(とき)、十人の近習九人までもその側らに義を遂げ、一人他所で働き死を共にせざりし島館弥右衛門は、主君父子百日の追善に役義残すところなく勤め済まし見事に書置して追腹を切る。右十人共に小姓達なり。兵部大輔は小姓の容貌を第一と択ばず、ただ一心の正しきを寵愛せられた、とある。これはエバミノンダスの一条に優るとも劣らず」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.307~308』河出文庫)

さらに右京の死体の上に重なって自害した采女。重なり合うことに何の意味もなかったわけではない。ただ単に抱きついたというわけでもまたない。「太平記」のエピソードから平家蟹をテーマとして熊楠が論じた秦武文(はたのたけぶん)に由来する武文蟹。秦武文は御息所(みやすどころ)を一宮=尊良親王(たかながしんのう)の流刑地へ送り届ける途中で邪魔が入り失敗。腹十文字に掻き切って自害した。その後、事態が急転したため一宮はいったん流刑地から離れ再起することができたのだが、とうとう越前金崎城を最後に全滅することとなる。一宮は新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)から戦況を聞く。新田義顕は切腹の方法を自分の身をもって一宮に伝える。

「新田越後守義顕(にったえちごのかみよしあき)は、一宮(いちのみや)に向かひまゐらせて、『合戦今はこれまでと覚えて候ふ。われわれは、力なく弓箭(きゅうせん)の名を惜しむべき家にて候ふ間、自害仕(つかまつ)らんずるにて候ふ。上様(うえさま)の御事(おんこと)は、たとひ敵の中へ御出で候ふとも、失ひまゐらすまでの事はよも候はじ。ただかやうにて御座(ござ)候へとこそ存じ候へ』と申されければ、一宮、いつよりも御快(おんこころよ)げにうち笑(え)ませ給ひて、『主上(しゅしょう)、帝都へ還幸(かんこう)なりし時、われを以て元首(げんしゅ)とし、汝(なんじ)を以て股肱(ここう)の臣たらしむ。それ股肱なくして、元首保(たも)つ事を得(え)んや。されば、わが命を白刃(はくじん)の上に縮(しじ)めて、怨(あた)を黄泉(こうせん)の下に酬(むく)はんと思ふなり。そもそも自害をばいかやうにしたるがよきものぞ』と仰せられければ、義顕、感涙(かんるい)を押さへて、『かやうに仕るものにて候ふ』と申しもはてず、左の脇に刀を突き立て、右の小脇のあばら骨三枚懸けて掻き破り、その刀を抜いて宮の御前に差し置き、うつ伏しになつて死ににけり」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.248~249」岩波文庫)

血塗れの刀を手に取った一宮。心変わりする様子もなくぶすりと自分の胸元に刀を突き立て、新田義顕の上に倒れ臥して死んだ。

「一宮、やがてその刀を召されて(御覧ずるに、柄口(つかぐち)に血余つて滑りければ、御衣(ぎょい)の袖を以て、刀の)柄(つか)をきりきりと押し巻かせ給ひて、雪の如くなる御膚(おんはだえ)を顕(あらわ)され、御心(おんむな)もとの辺に突き立てて、義顕が枕の上に臥させ給ふ」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.249」岩波文庫)

さらに家臣らも打ち続く。それを見た「並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」。

「頭大夫行房(とうのだいぶゆきふさ)、武田五郎(たけだのごろう)、里見大炊助時義(さとみおおいのすけときよし)、気比弥三郎大夫氏治(けひのやさぶろうたゆううじはる)、太田帥法眼賢覚(おおたそつのほうげんけんがく)、御前に候ひけるが、『いざさらば、宮の御供仕らん』とて、前にありける瓦気(かわらけ)に刀の刃をかき合はせ、同音(どうおん)に念仏申して、一度に皆腹を切る。これを見て、庭上(ていしょう)に並み居(い)たる兵三百八十人、互ひに差し違へ差し違へ、上が上に重(かさ)なり臥(ふ)す」(「太平記3・第十八巻・9・金崎城落つる事・P.249~250」岩波文庫)

瓦気(かわらけ)で刀の刃をかき合わせ、とあるのは、城内の瓦で刀の刃を磨くという意味。軍記物の記述とはいえ、「三百八十人」が同時に自害、重なり合って死んでいく。敗北を敗北と認めるほかない時、人間は何を考え、どう行動するのか。もっとも、死ねばいいというわけではない。熊楠はむしろ逆に、追い詰められた場合、ただ単に切腹してお茶を濁してしまうことを許すような人間ではない。熊楠は書きながら問うてもいる。「ただ一心の正しき」とは何かと。さらに年末はもう目の前。

「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)

熊野比丘尼たちによる「ただ一心の正しき」。戦後日本の新自由主義は彼らに残された最後の血の一滴さえ奪い去っていった。誰も語りたがらないし誰かが語ろうとしても語らせようとしない。江戸時代よりなお一層事態は深刻である。そしてこれからもっと深刻さを増していくだろう。

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熊楠による熊野案内/リズムと抑揚、生死の境界線

2020年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
長者伝説、花咲爺系列、それらは様々なヴァリエーションを持つが、一様に共通する特徴について柳田國男はこう述べる。

「奥州の花咲爺は、花咲かせとの対照のために、我々は雁取爺という方の名を採用しているが、実地には上の爺下の爺、もしくは是と似よりの名を以て記憶せられるものが多く、既にアイヌの中にまでも、この名の昔話が数多く入込んでいるそうである。元来は善悪二組の爺婆が、一方は幸運に恵まれて家富み栄え、他方はすべてがその逆を行って破滅する話の、全部を総括する名称だったかも知れぬが、その中でも特にこの犬の子を川から拾い上げる話が、そう呼ぶのに似つかわしかったと見えて、現在はほぼ是一つに限られている」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.209~210』筑摩書房)

柳田による要点は次に列挙された通り。

「一、上下ふたりの爺は、春になって川に簗を掛ける。上の爺の簗に小さな白犬が流れて来る。上の爺は無慈悲でそれを取って投げると、今度は下の爺の簗に行って掛かる。下の爺は拾って還って可愛がって育てる。岩手県の一例には木の株が一つ流れて来たというのがある。それを下の爺が拾って還って割ろうとすると、中から声をかけて子犬が出て来たとも謂っている。越後南蒲原では婆が洗濯をしていると、香箱が流れて来てその中にえのころがいたといい、越の上新郡のは流れて来たのは大きな桃で、それを持って来て臼の中にしまって置くと、いつの間にか子犬になっていたとも謂う。

二、その子犬はちょっとの間に大きくなる。一ぱい食わせれば一ぱいだけ、二はい食わせれば二はいだけ大きくなったとも謂えば、碗で食わせると碗だけおがり、皿で食わせれば皿だけおがったとも謂って、色々の形容で急激の成長ぶりと説いているのである。

三、その犬が大きくなってから、山へ鹿捕りに爺を誘うて行く。鉈も小ダスも弁当も爺様もみんな背なかへ載せて行くというところに、子供の面白がりそうな犬と爺とのか数回の問答がある。

四、それから山に入って、喜界島などよりは又ずっと大がかりな狩猟が行われる。あっちの山の鹿も来い、こっちの山の鹿も来いという類の呪文の詞を、犬が自ら唱えたというのと、爺に教えて唱えさせたという例と二つあるが、とにかくにこれによって莫大な獲物をもって還って来るのである。

五、上の爺がそれを羨んで、強いて犬を借りて同じ事を試み、尽く失敗する條は他の話も同じく、怒って犬を叩き殺して山に埋めると、そこから樹が生えて急激に成長する。それを臼に听るから松の木といっている例もあるが、コメの木となっていいる方が話は面白い。コメの方は方言で、土地によって木は一定せぬが、とにかく灌木で臼などになる木ではないからである。

六、その木を臼に窪めて、唱えごとをいつしつ物を搗くと、金銀又は米が際限もなく涌き出す。上の爺が借りて試みて又失敗し、怒って焚いてしまって灰になるまでは亦他の話と近い。

七、ただ最終の灰の利用だけがちがっているのである。人の善い下の爺は灰を籠に入れて、風の吹く日に屋根に上って待っていると、雁の一群がグェグェと鳴いて通って行く。ここでも『雁の眼わあぐ(灰)入れ、爺の眼わあぐ入んな』と唱え言をして灰を撒くと、果してばたばたと雁が空から落ちて来る。例の真似爺は呪文を取りちがえたので、自分の眼へ灰が入ってころころと屋根から転げ落ちる。それを婆がいたに待構えていて、雁だと思って棒で打つというのがおしまいで、粗野だと言えばまあ大文粗野な話である」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.210~211』筑摩書房)

単純だといえば言える。ところが今のように世界が安易にネットで繋がってしまえるような時代でなかった点で、当時はのっぴきならない重要性を担っていた。

「一層解にくかったのは鹿取りの呪文で、下の爺が『あっちのスガリもこっちや来う、こっちのスガリもこっちや来う』というと、鹿がびんぐりびんぐりと走り集まって来る。上の爺が真似をして同じ呪文を唱えると、四方の蜂が飛んで来て爺を螯したというに至っては、このスガリという奥州の方言が、鹿を意味し同時に地蜂を意味し、相違はただ僅かの音抑揚の差にあったとすると、これは座頭か何かの口で話す昔話だけに、保存し得るような微妙なるユウモアである」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.212』筑摩書房)

説話が説話だけで完結していたならなるほど「ユーモア」で済ませることもできた。ところが単なる駄洒落ではとても済まされない伝達技術を持っていた(「僅かの音抑揚の差にあった」)のが、何を隠そう「座頭・歌比丘尼」らであった。今なお日本各地に散在する歴史的実態は彼らの存在なしにけっして見えてこない。彼らはその職業ゆえに賤視された。ところが賤視されると同時に神人とも考えられ崇められた。彼らは日本列島とその歴史の中に埋れたパルマコン(医薬/毒薬)として近代日本の成立とともにその聖性を剥奪されていった。彼らが常に楽器を手放さなかったことはもっと重要な点として考察されてよい。

「日本の文藝の中には、表現の方法そのものが、特にフォクロアの性質を十分に帯びているものが多いことは、座頭や歌比丘尼の例がよく示している」(柳田國男「口承文藝史考・文藝とフォクロア・五」『柳田國男集・第六巻・P.150』筑摩書房)

さて、熊楠の愛読書、西鶴「男色大鑑」から続き。

同じ頃に召し抱えられた細野主膳という人物がいた。武勇は誇りにしているのは勝手だが、いつも刀の柄をがちゃがちゃと鳴らし歩いて周囲に脅しをかけているように見えるので疎まれていた。

「近きころほひに召し出(いだ)されし細野主膳(ほそのしゆぜん)とて、勇みを先として朝夕太刀(たち)の柄(つか)をならせば、人皆うとみ果てける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)

その細野主膳が右京に懸想した。右京はすでに采女と愛を交わそうと契りの手紙を見せあった仲だ。にもかかわらず、ずかずかと近づきあれこれしつこく口説いてくる細野主膳の声が「蝉の耳かしましき」かのように感じられ鬱陶しく思う。そこに頼まれもしないのに、節木松斎という茶坊主が細野と右京との間を取り持ってやろうとしゃしゃり出てきた。右京に近づき「命を懸けて情(なさけ)の御返事」を細野へやってはもらえまいかと話しかける。右京は松斎に向かってすぐさま言う。「法師の役は羽箒(はばはき)にて塵埃(ちりほこり)の心駆けあるべし。無用の媒(なかだち)なり。この文も壺(つぼ)のつめにもなりぬべき」。もはや戦国の世は終わっている。千利休のような本格派の茶人がいるわけでもない。ましてや人の心の機微をよく考えてみもしないで、はったり半分で刀の音を鳴らしながら他人の愛人に近寄ってくる人間の間に割り込んで両者の気持ちを取り持とうなどと。何を考えているのか。茶坊主はもっと本来の茶道の何たるかを学んでみるべきではないか。そうでなくてはせっかくの茶壺の意味をわからないだろう。と、そっけなく答えた。

「節木松斎(ふしきしようさい)とて、茶流(さりう)の調度を預けおかせ給ふ坊主、この恋を請(う)け取(と)り、『命を懸けて情(なさけ)の御返事』と申せば、右京うち笑ひて、『法師の役は羽箒(はばはき)にて塵埃(ちりほこり)の心駆けあるべし。無用の媒(なかだち)なり。この文も壺(つぼ)のつめにもなりぬべき』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415~416』小学館)

松斎は思いがけず痛いところを突かれた形になり激怒する。松斎は細野ともども袖にもされなかったと訴え細野主膳をそそのかして右京殺害を謀る。殺害を済ませばただちに他国へ逃げて行方をくらましてしまえばよい。右京のふいを付いて今夜にでも、と計画を語る。細野はいいアイデアだと思ったのか一も二もなく話に乗る。しかし小声の策略であっても城内の動きは伝わるのが早い。細野・松斎両者のただならぬ身ごしらえの話を耳に入れた右京。多少剣のたしなみはあるものの、自分の命がどちらに転ぶのか誰も知らない。いったん采女に事情の急変を知らせようと思うけれども、一方、采女を巻き添えにすることは本意でない。気持ちを落ち着け、右京みずから細野の寝首を、と刀を腰に決行を決意する。寛永十六年(一六三九年)卯月(四月)十七日のこと。

「松斎是非なく、主膳にすすめて、右京を討つて他(ひと)の国へ今宵(こよひうち)に立ちのくに極めければ、今日の夕(ゆふべ)を待ちて身拵(みごしら)へするを聞きて、はやのがれぬ所と思ひ定め、このあらまし采女(うねめ)にも知らせずしては、後の恨みも深かるべし、いわんもさすが武勇(ぶよう)の甲斐(かひ)はなし、我としずまる心の海、人を抱(いだ)きて淵に沈む事あらじ、と思ひ定め、寛永十七年卯月(うづき)十七日の夜なりけり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416』小学館)

雨がしきりに降っている。物淋しい夜だった。「宿直人(とのゐ)も眠りにおかされ、袖を敷寝(しきね)して前後を弁(わきま)へず」前後不覚に居眠っている。この時とばかりに右京は細野のところへ向かう。雪よりも白いかと見まごうほどの「薄衣(うすぎぬ)を引違(ひきちが)へ、きよげに着なし、錦の袴(はかま)すそ高(だか)に、常より薫物(たきもの)をかをらせ、太刀引きそばめ、しのびやかに立ちむかふ」。

「折節その夜は雨もしきりに物淋(ものさび)しく、宿直人(とのゐ)も眠りにおかされ、袖を敷寝(しきね)して前後を弁(わきま)へず、この時とうちむかふ、その様えもいはれず。雪ねたましき薄衣(うすぎぬ)を引違(ひきちが)へ、きよげに着なし、錦の袴(はかま)すそ高(だか)に、常より薫物(たきもの)をかをらせ、太刀引きそばめ、しのびやかに立ちむかふ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416』小学館)

一方の細野主膳。この日は宿直(とのい)を務めていた。「鷹(たか)づくし屏風(びやうぶ)に寄り懸り」、「持てる扇の要(かなめ)」が外れたようで、うつむいて下を見たところ、今しかないと走り出た右京。細野の「右の肩先より乳(ち)の下まで切り付けぬ」。

「主膳は広間をつとめて、鷹(たか)づくし屏風(びやうぶ)に寄り懸り、持てる扇の要(かなめ)はしるを、さしうつぶいて見る所を、はしり懸りて声を掛けて打つ程に、右の肩先より乳(ち)の下まで切り付けぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.416~417』小学館)

ばっさり行ったつもりだが主膳は武士である。しばしのあいだ二人はもつれあった。とはいえ、最初に深手を負った主膳。口惜しがりながら倒れた。そこを右京は押し伏せて、二太刀刺し貫いた。細野主膳は死んだ。さらに、あの失礼な茶坊主はどこにと、「燈(ともしび)をしめし、すずろに時をうつしける」。なんとなくぼうっとして待っていた。

「しばし切り結びけれども、深手(ふかで)に痛み、『口惜しや』といふ声ともに倒れしを押し伏せ、二刀さし通し、かの法師めも一太刀と、燈(ともしび)をしめし、すずろに時をうつしける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)

そこへ、それまで眠りこけていた番人らが騒ぎで目を覚まし、ようやく現場にやって来た。現場の凄まじい様子を見て「建久(けんきう)のむかし、富士の狩場(かりば)の周章(さわぎ)」(曽我兄弟の敵討ち)もかくやとただちに右京を取り囲んで捕縛し、主人の前へ引きつれ出した。

「これぞ建久(けんきう)のむかし、富士の狩場(かりば)の周章(さわぎ)もかくこそ。敷台(しきだい)に織田の何がし・建部(たけべ)四郎、いそぎ燈(ともしび)あらはし、右京を取りかこめ御前に出(いで)ける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)

殿様はいう。どんな恨みがあったのか知らないが、それでもなお上のものの知らないうちを見計らって勝手に狼藉を働く行為を許すわけにはいかない。

「いかなる宿意(しゆくい)にてにあれかし上(かみ)をないがしろにしたる事いはれなし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)

殿様は「徳松主殿」に細かく調査させる。すると次第に内容がわかってきた。協議の結果、いったん「預り」となる。内部調査に当たった徳松主殿は右京の側に筋があり情もあると考えたのか、屋敷内の一室を右京に与え、夜の間いろいろと語り合った。

「子細(しさい)は徳松主殿(とくまつとのも)にあらためさせ給ふに、段々至極(しごく)の始終を申しあぐるに、『御預り』との御意くだし給へば、右京を屋形の一間なる所をしつらひ、その夜はさまざまいたはりける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)

ところが細野主膳の両親というのは小笠原家に直属する一族。父親は寛永九年(一六三二年)、播磨国明石十万石から豊前小倉十七万石へ出世した当時の小笠原忠真(おがさわらただざね)。ねじ込んできて言った。「腹を切るのが妥当である」と。

「討たれし人の親は、小笠原の家久しき細野民部(ほそのみんぶ)なりしが、我が子の討たれし所へかけ込み、『腹切らんにはしかじ』と怒(いか)れる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.417』小学館)

母親もいう。「人殺しを助けてこの世に生かしておくのですか」。もっとものように聞こえる。けれども小笠原一族もまた徳川政権ができるまでは戦乱の中でさんざん大量殺戮に手を染めてきた軍事集団だった。

「人を殺したる者、故なくたすけ、世に時めかせんの事は」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)

話を聞きつけた京都東福寺の首座までが口を出してきた。この人物は少々ややこしい。「天樹院殿の御局刑部卿の御子」。さらに天樹院は徳川第二代将軍秀忠の長女。豊臣秀頼の妻・千姫。なぜ口出しするのかよくわからないが、ともかく右京に切腹を命じる。茶坊主の松斎も立場上もはやこれまでと知ったのか自害した。

「御局宮内卿(おつぼねくないきやう)の子に、はじめは東福寺(とうふくじ)の首座(しゆそ)たりしが、いつの頃還俗(げんぞく)して後藤の何がし、馬に鞭(むち)をすすめ、しがじかの事申されけるに、道理に極(きは)まり、右京に切腹仰せ付けられければ、中立ちせし松斎も、吾(われ)と最後に及びける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.418』小学館)

だが西鶴はここで小説を終わらせていない。もちろん熊楠も、ここで終わるような戯作者の作品であったならそれほど高く評価しなかったに違いない。問題はもう少し先のほんの僅かな記述に見えている。そこに至って始めて西鶴のこの小説はまず第一に「太平記」の或る箇所へと、さらに古代ギリシアへと一挙に繋がることになる。

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熊楠による熊野案内/奇譚出現条件と愛の厚み

2020年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
有史以前からあった動物と人類との気の遠くなるような関係はけっして侮れない。熊楠はいう。

「回教徒が猫を好遇すること、すこぶる梵教、仏教、拝火教諸徒に反せるは、所見多し。例せば、A.G.Busbequius,“Travels into Turkey”,London,1744,p.140にいわく、トルコ人は、狗(いぬ)を猥褻汚穢の畜とし、これを卑しめども、猫を貞潔温良の獣とす。熊楠案ずるに、いかに賢い犬も、猥行の節一目を憚らず、しかるに猫は交会の状を人に見せることはなはだ稀なり(A.Lacassange,“De la Criminalite chez les Animaux, ”Revue scientifique,3me serie,tom.ⅲ,p.37)。事の起りは、マホメット猫を特愛し、かつて机上書を読みしに、猫その袖上に眠れり、礼拝の時到って起(た)たんとせしが、猫を覚(おこ)すを憚り、袖を切っててらに赴けりとは、漢の哀帝が、董賢を嬖幸(へいこう)して、ために断袖せしと、東西好一対の談なり」(南方熊楠「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」『南方民俗学・P.216~217』河出文庫)

そう述べているからといって熊楠は犬より猫を好むというわけではない。犬猫ばかりか「十二支」について縦横無尽に論じたくらいの研究者だから。とはいえ、世間一般では犬も猫もどちらも好き、という人々は少なくない。柳田國男は「花咲爺」のヴァリエーションの一つに次の説話を載せている。しかし犬にせよ猫にせよ奇瑞の徴(しるし)として現われるためには、常に、定められた或る条件を含む限りで、という様式が既にあった。

「羽前東田川郡の狩川村で採集せられた一話では、婆が川へ出て洗い物をしていると、向うの方から香箱が一つ流れて来る。それを拾い上げて中をあけて見れば、白い子犬が一匹入っている。うちにはもう猫が一匹いるので、おまえは入用がないからと又川に流してしまおうとすると、その子犬がわんわんと鳴く。そんなら猫をいじめず仲よくするかと婆がきくと、又わんわんと鳴いたので連れて還ったとあって、後は長者の家の鼠を脅かして、打出小槌と延命小袋と、二つの宝物を犬猫二人で持って来て、終に爺婆の家を金持ちにしたという、グリムの童話集にもある指輪奪還と、同系統の話に続いているのである。我邦の民間説話に於ては、川を流れて下って来るということが、海を漂うて来て岸に着いたということと、いつも大よそ同じような感じで迎えられている。犬でも奇瑞を現ずべきものは、やはりこういう出現の形式を取らなければならなかったのである」(柳田國男「昔話と文學・花咲爺」『柳田國男集・第六巻・P.206』筑摩書房)

花咲爺系列に属する民話については柳田によるよりまとまった論考が続いている。そう長いものではないので、次の機会には続きを述べたいとおもう。

さて、熊楠の愛読書。今回は再び西鶴「男色大鑑」から。熊楠は人間の性というものについてただ単に馬鹿馬鹿しいばかりの興味本位で世界中の文献から収集研究したわけでは何らない。性の厚み、その幅広さ、奥行き、など様々な観点から大真面目に取り上げた日本最初の本格的研究者である。

次の小説は「何がしの侍従(じじゆう)」に仕える人々が登場するが、この「侍従」が誰なのかわかりづらい。後で出てくる実在の人物名などを考慮すると、おそらく徳川第三代将軍家光のすぐ側に仕えた老中クラスの人物を指していると考えられる。その侍従のもとに仕える者の中に伊丹右京(いたみうきやう)という若い風雅(詩歌)の達者がいた。さらに同じ家に仕える者にもう一人、母川采女(もかはうねめ)という十八歳のモダンな若者がいた。

「伊丹右京(いたみうきやう)といへるあり。よろづ花車(きやしや)の道にかしこく、形(かたち)は見るにまばゆき程の美童なり。同じ流れに住みける母川采女(もかはうねめ)といひて、これも十八になり、人柄もすくよかに当流の若き者なり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.413』小学館)

采女はふと右京の妖艶な姿を見て、はたと心を奪われ思わず戸惑ってしまう。采女はそのまま寝込み、部屋を閉ざして籠り切ってしまった。体の調子も日に日に弱っていく様子である。話を聞いた仲間たちが声を掛け合い、采女のもとへ見舞いに訪れる。その中の一人の姿を認めるや否や采女はいきなり取り乱し、顔色が変わり、言葉の端々もなんだか的を得ずしどろもどろになった。見舞いにきた仲間たちは、ははあ、これはもしや、と気づいた。しかし采女は病身ゆえそれ以上問い詰めるわけにはいかない。

「昼夜のわかちもなく戸をさしこめて、その事となく嘆きぬ。よわり行くをかなしみ、親しき人、薬の事など沙汰(さた)し侍るに、折節、若い輩(ともがら)いざなひまかりて、病家(びやうか)をあはれみし人の中に、焦(こが)るる御方も見えければ、いとど乱れて、この奸(ねぢ)け人、色のあらはれ、言葉のすゑも人皆それとは聞きぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.413』小学館)

いったん仲間たちが帰って部屋が静かになった頃合いを見計らい、采女の年上の愛人・志賀左馬之助(しがさまのすけ)が小さく声をかけてやる。あなたの今の様子はどう見ても判別しようがない。たぶんさっき見えられたお仲間の中に心を懸けている方がいるのでしょう。あまり一途に黙ってばかりいるのも罪なことですよ、と。

「御身のさまいかにとも分けがたく、心に懸る事もあらば、我には隔(へだ)て給ふまじ。今見えわたり給ふ人の御中に、思し召し入られし御方あるべし。さのみしふねき、罪ふかし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)

だが采女は頑固に否定するだけで、そのうち何も言わなくなり夢うつつの間を揺ら揺らと漂っているかのような状態に陥った。心配した親らは陰陽師を呼んで話を聞く。陰陽師はいう。命にかかわる病ではありません。おそらく物の怪とか悪霊のせいでしょう。「尊き聖(ひじり)に仰せて祈り加持(かぢ)し給へ」と述べた。

「これは物のけ・窮鬼(きゆうき)のたぐひなるべし。尊き聖(ひじり)に仰せて祈り加持(かぢ)し給へ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)

そこで呼ばれたのが上野寛永寺の天海大僧正と浅草寺の中尊権僧正の二人。日本広しといえど、知らぬ者のない僧侶の名。とりわけ天海は徳川家康の代から幕府最大の黒幕として名が轟いている。ゆえに「何がしの侍従」の家の日頃の人脈から、周辺はかなりの権力者層が頻繁に出入りする場でもあることがわかる。しかし政略結婚ならいざ知らず、本物の恋愛感情の動きは予測不可能であり、従って権力や加持祈祷などでどうなるものでもない。西鶴の冷徹な目は本物と偽物とを瞬時に見分ける目を持っていたといえる。随分のちに志賀直哉が西鶴を評して、怖い物書きだという主旨の発言を残しているが。それはそれとして。恋愛の機微では何枚も上手の愛人・左馬之介は人の気配が失せたのを見計って再び采女のもとへこっそりやって来て言った。わたしとの関係など気にすることはありません。いま大事なことは、今のあなたの恋愛を成就させることです。わたしが便りを届ける役目を引き受けましょう。安心しなさい。

「我との事を恥ぢさせ給ふにや。是非それがし便りして、思ひ人の御返しを取り、首尾は心やすかれ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)

これまで何度か抱き合った間柄とはいえ、ゆえになおさらうれしい言葉と采女はしみじみ胸を打たれる。

「今までのよしみとて、うれしき人の諫め」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.414』小学館)

左馬之助は采女が思いのたけを綴った手紙を袖に入れて伊丹右京の所へ何気なく立ち寄った風を装う。左馬之介の姿を認めた右京は教科書「貞観政要」を読んだり「新古今」に目を通したりして退屈したので、気晴らしに庭の桜でも眺めていたところですと言う。

「過ぎし一日(ひとへ)は、御前に貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)の興行(こうぎやう)にいとまなく、今日(けふ)も只今(ただいま)までは新古今(しんこきん)を読めと仰せられて相詰めしが、少しの気晴しに、物をもいはぬ桜を友とせし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)

左馬之介は素早く采女の手紙を右京に手渡す。右京も呼吸を見てそっと木陰に寄り手紙を読む。右京は察しが早い。わたしのことでそんなに悩んでいらっしゃったとは。放っておくわけにはいきません。と言い、その日のうちに返事を書き左馬之介に託した。左馬之助は間を置かず手紙を采女に渡す。目を通した采女はうれしさ余ってたちまち寝床から起き上がり日に日に体力を取り戻し始めた。

「『我ゆゑに悩みましますは見捨てがたし』と、その日返しを給はりて、采女(うねめ)に渡せば、うれしさ寝間(ねま)をはなれ、夜にましむかしの気力になりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻三・四・薬はきかぬ房枕」『井原西鶴集2・P.415』小学館)

しかしそれだけで終わらないのが世の常というもの。

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熊楠による熊野案内/「水の女」と黄泉の国

2020年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠はシンデレラ系物語が世界中に存在することを知っていた。

「シンダレラ物語は、何人も知らぬ者なき通り、欧米で最も盛んに行なわるる仙姑伝(フェアリーテイル)なり。シンダレラ、継母に悪まれ、常に灰中に坐し、厮役(しえき)厨務に苦しめられ、生活全く異母妹の盛飾遊食するに反せり。一旦仙姑の助けにより、貴公子に見初められしが、公子これを執えんとするごとに、駛(と)く去って影を留めず。しかるに、ある夕、例のごとく公子眼前に舞踏済み、遁れ去らんとして、仙姑がくれたる履を落とす。公子これを拾い、衆女を試むるに、シンダレラの足のみこれに合う。公子よって意中の人を認め、これを娶る」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.190~191』河出文庫)

日本では「鉢かづき」が有名だが、あくまで鉢を被ったまま主人に「かづく」(仕える)のであって、ただ単に鉢を被っているからといって鉢を「かつぐ」(かついでいる)女性のこととしてしまってはいけないと釘を刺している。

「この博士は、したがって『鉢かづき』の草紙を『鉢かつぎ』とよませある。つまるところ、この人の生まれた地にはカヅクという語を知らぬ人のみなりしなり」(南方熊楠「女の後庭犯すこと、トルコ風呂、アナバの猫、その他」『浄のセクソロジー・P.489』河出文庫)

熊楠の愛読書・御伽草子。その中で「鉢かづき」は継母による継子いじめの代表的作品とされている。徹底的にいじめ抜かれる。そんな或る日、鉢かづきは仕えている家の「御曹司=若君」から直々に湯殿の世話を命じられる。この若君は貴族の一員としてはとても珍しく周囲の目を気にしないさばけた性格。それでもなお鉢かづきはやや躊躇を覚えながら、若君の湯殿へ赴く。貴人男性の全裸の世話を務め上げて見せなくてはならない。

「御兄(あに)たちも殿上(とのうへ)も、御湯殿(ゆどの)へ入(い)らせ給ふ。かの鉢(はち)かづき『御湯(ゆ)、うつしさふらふ』と申す聲(こゑ)、やさしく聞(きこ)えける。『御行水(ぎやうずい)』とてさしいだす、手足(てあし)の美(うつく)しさ尋常(じんじやう)げに見(み)えければ、世に不思議におぼしめし、『やあ鉢(はち)かづき、人もなきに、何(なに)かは苦(くる)しかるべき、御湯殿(ゆどの)してまゐらせよ』との給(たま)へば、今さら昔を思ひ出して、人にこそ湯殿(ゆどの)させつれ、人の湯殿(ゆどの)をばいかがするやらんと思(おも)へども、主命(しうめい)なれば力(ちから)なし。御湯殿(ゆどの)へこそ参(まい)りける」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.67』岩波書店)

鉢かづきによる湯殿での振る舞いは若君の心を動かすことになる。その場ですでに二人は性行為に及ぶ。もちろん鉢かづきの側から誘惑したわけではなく若君が鉢かづきの振る舞いに魅せられてしまったからなのだが。ところでしかし、その場面へ至るまでの継子いじめのエピソードが徹底性を欠いているような場合はどうだろう。次の論考で折口信夫のいう「神女」《としての》「水の女」は発生する余地を失ってしまう。

「こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。此七処女はは、何の為に召されたか。言うまでもなく《みづのをひも》を解き奉る為である。だが、紐と言えば、すぐに連想せられるのは、性的生活である。先輩諸家の解説にも、此先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であった。『ひも』の神秘をとり扱う神女は、条件的に神の嫁の資格を持たねばならなかったのである。《みづのをひも》を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。《みづのをひも》を解き、又結ぶ神事があったのである。七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊(アヅマアソビ)天人も、飛行の力は、天の羽衣に繋がっていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を著せ、脱がせられる神があった。其神の力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は『衣』と言う名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと《小さきもの》ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御体の霊結びを奉仕する巫女があった」(折口信夫「水の女」『折口信夫全集2・P.97~98』中公文庫)

あたかも真っ赤に灼熱した焼きごてで傷口をごしごし擦りつけるかのような、継母によって何度も繰り返される徹底的な継子いじめのエピソードが語られたその後、ほぼただちに若君の口から湯殿を務め上げるよう呼び出される鉢かづき。ただ単に湯殿を務めたというだけでは「神の妻」への切符を手に入れることはできない。是非とも継子いじめが置かれていなくては神女となる資格に欠けるのである。とすれば、継子いじめのエピソードは鉢かづきが神女へ至るために避けて通ることのできないイニシエーションであり、通過しなくてはならない必要不可欠な条件として置かれたことが認められる。むしろそれに気づくことなしに読み語りしてしまった場合、ややもすると「鉢かづき」がイニシエーションの重要性を描いた御伽草子にほかならないという実態は見逃されてしまうのである。

熊楠の愛読書は多岐に渡る。何ヶ月か前に既に論じたアープレーイユス「黄金の驢馬」もその一冊。国内だけでなく古代から見られる諸外国の風俗風習儀式生活様式の諸形態すべてに通じていなければ、どのような条件のもとでその小説が書かれたのか、そしてなぜその文章はそのような形態を取ることになっているのか、わかりようがないからである。紀元前のギリシア哲学であっても、例えばプラトンが残した僅か一行であれ、その一行はどのような環境下で出現するべくして出現することができたのか。それを知っていなければただ単に目に止まった語彙や警句のようなフレーズを見つけたとしても、そこだけを取り出してきて都合よくみだりに用いるべきでないというのが熊楠の基本的研究態度だ。

御伽草子「鉢かづき」におけるイニシエーション《としての》継子いじめについて、アープレーイユス「黄金の驢馬」の愛読者だった熊楠が気付いていないはずはない。「黄金の驢馬」でプシューケーは冥界の女王プロセルピナのもとへ赴き用事を済ませ冥界から生還したように、驢馬のルキウスもまた冥界から生還する。

「さて熱心な読者よ、あなた方は、その部屋で二人が交わした会話や、そこで起こったことについて知りたいと強く望まれることでしょう。話すことが許されていれば喜んで話しましょう。お耳に入れてよいなら喜んでお聞かせするでしょう。しかしそれについての不謹慎なお喋(しゃべ)りによって私の舌は、あるいは大それた好奇心によってあなた方の耳は、共にひとしく罰をこうむること必定です。しかし、そうなると、今度はあなた方が、熱い敬虔な関心を抱いたまま宙ぶらりんの気持ちであれこれと憶測し、煩悶(はんもん)することになるでしょう。私もそれは望みません。そこで一つ話を聞いて下さい。でも、この話はみんな真実だと思って下さい。ーーー私は死の境界にやってきて、冥界の女王プロセルピナの神殿の敷居をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。真夜中に太陽が晃々(こうこう)と輝いているのを見ました。冥界の神々にも天上の神々にも目(ま)のあたりに接し、膝下に額(ぬか)ずいてきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.461~462」岩波文庫)

冥界降りのエピソードはホメロス「オデュッセウス」のものが最も有名かもしれない。そしてまたそれらは各々の地域によって多かれ少なかれ異なる言語で描かれているにもかかわらず著しい類似性を示している。他でもない日本最古の説話集にもその姿が見える。例えば日本霊異記の中で、「豊前国宮子郡(ぶぜんのくにみやこのこほり)の少領(せうりやう)〔次官〕だった膳臣広国(かしはでのおみひろくに)の黄泉国(よみのくに)往還説話。何が語られているのだろうか。広国は死んで三日後に生き返る。

「慶雲(きゃううん)の二年の乙巳(きのとみ)の秋の九月十五日の庚申(かのえさる)に、広国忽(たちまち)に死にき。逕(ふ)ること三日、戌(いぬ)の日の申(さる)の時に、更に甦(い)きて語り」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.176」講談社学術文庫)

広国は冥界での体験を語る。「王」は黄泉の国の王。東アジア仏教説話なので閻魔を指す。閻魔はいう。すでに死んだ父親が今、地獄でどのような日々を送っているか知りたければ「南の方」へ行って見てくるがよいと。南方は「度南」(となん)に類する仮想の国。後の平安時代以降、流刑地とされた土佐の秦、讃岐の白峰、九州の太宰府、隠岐島、東国の伊豆、東北の異民族居住地などに繋がるものと思われる。

「王、広国に詔(の)りて曰(のたま)はく、『汝、罪无(な)し。家に還るべし。然(しか)れども、慎(ゆめ)、黄泉(よみのくに)の事を以て忘(みだり)て宣(の)ぶこと勿(なか)れ。若(も)し父を見むと欲(おも)はば、南の方に往け』とのたまふ」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.177」講談社学術文庫)

広国が訪ねてみるとなるほど父は地獄で悲惨な責め苦を課せられている。

「往いて見るに、実(まこと)に我が父有り。甚だ熱き熱銅の柱を抱(うだ)かしめられて立つ。鉄(くろがね)の釘(くぎ)を三十七其の身に打ち立て、鉄を以て打たる。夙(あした)に三百段、昼に三百段、夕(ゆふべ)に三百段、合(あは)せて九百段、日毎(ごと)に打ち迫(せ)む」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.180」講談社学術文庫)

ずいぶん大袈裟に見えるがまず第一に仏教信者獲得という目的があったため、説話は当たり前のように酷い内容に傾く。地獄で責め苦に甘んじている父親は自分が重罪を課された理由を次のように語る。

「我、妻子を養はむが為に、故(かれ)、或(ある)は生ける物を殺しき。或は八両の綿をおきのりて、強ひて十両に倍(ま)して徴(はた)りき。或は小斤(せうごん)の稲をおきのりて強(し)ひて太斤(たごん)に取れり。或は人の物を強ひて奪ひ取れり。或は他(ひと)の妻を姧(かだ)み犯しき。父母(ぶも)に孝養(けうやう)したてまつらず、師長を恭敬(くぎやう)せず、(ぬひ)にあらぬ者(ひと)を罵(の)り慢(あなづ)りき。是(か)くの如き罪の故に、我が身少(ちひさ)しと雖(いへど)も、三十七鉄(くろがね)の釘(くぎ)立ち、毎(つね)に、九百段、鉄(くろがね)の鞭(すはえ)もて打ち迫(せ)めらる」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.181」講談社学術文庫)

問題は前半。妻子を養っていくために生き物を殺した。八両の綿を十両と偽って金儲けした。さらに「小斤(せうごん)の稲をおきのりて強(し)ひて太斤(たごん)に取れり」というのは、軽い秤で稲を貸した後で重い秤で取り立てること。他人の物品を強引に奪い取った。人妻と不倫した。また父母にできるだけのことをしてやれた生涯だったとは必ずしも言えない。他人に罵詈雑言を浴びせたりした。目上の人間に対していつも尊敬の態度を忘れなかったとは言えない。しかしこの言葉通りだとすれば、戦後日本の焼跡闇市時代の一般市民の言動と何ら変わるところはない。そうしなければ多くの人々は生きていくことはできなかったし、むしろばたばた死んでいった。すなわち、この説話に広国が登場した時代、七〇五年(慶雲二年)もまた同様の悲惨な暮らしが常だったことがわかる。

ところでこの説話では、広国の父は黄泉の国に閉じ込められているはず。しかし広国の家を訪れたことがあるという。地獄行きになっているので当時の仏教説話に従って動物の姿に変えられているわけだが。訪れたという日付が面白い。一度目は七月七日。七夕神話の日に「大蛇」となって現われた。蛇は紀州道成寺に残る説話にあるように、奈良時代すでに「蛇姓の淫」として性欲の象徴とされていた。熊楠は蛇に関する論考で「邪視」についてこう述べている。

「『淵鑑類函』四二五、鶏の条を探ると、<王褒(おうほう)曰く、魚瞰鶏睨、李善以為(おも)えらく魚目暝(つむ)らず、鶏好く邪視す>とある。鶏はよく恐ろしい眼付きで睨むをいうので、この田辺辺で古く天狗が時に白鶏に化けるなどいい忌む人があったは、多少その邪視を怖れたからだろう」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)

ちなみに言っておくとここで言及されている「邪視」は、どこにでもいる人間が「色目を使う」とか「疑り深い」とかいう凡庸な意味でではない。逆に動物を事例に取って語られている通り、野生の感性の一つとして論考されている。

「魚瞰とは死んでも眼を閉じぬ事、鶏睨とはよく邪視する事を解いたのだ」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.311~312』岩波文庫)

常人では思いも及ばない次元の事情を見極める場合にも邪視が用いられている。

「後漢の張平子の『西京賦』に、<ここにおいて鳥獣、目を殫(つく)し覩窮(みきわ)む、遷延し邪視す、乎長揚の宮に集まる>」(南方熊楠「蛇に関する民族と伝説」『十二支考・上・P.313』岩波文庫)

古代ギリシア神話でテイレシアスが盲者になるのと引き換えに予言者としての力を得たように。

次に五月五日。五節句の一つ、「端午の節句」。中国由来。ゆえに「牛頭天王(ごずてんのう)」から始めなければならない。古来世界中で飼われていた牛は日常生活維持のための必需だった。だが伝染病の輸出入をも担うため疫病の神として信仰されるようになったのが牛頭天王。疫病を蔓延させる力を持つ動物であるがゆえに疫病を鎮める力をも持つと考える古代の思考様式に従って「疫除けの神」ともなったのである。一方、鎧兜で武装した武者人形(五月人形)は武士の時代(鎌倉時代)頃から定着し始める。さらに菖蒲酒の風習も中国由来。厄除として室町時代から徐々に広がり江戸時代に慣習化し俳諧にも詠まれたようだ。また「鯉のぼり」は当たり前のことだが戦国時代が終わり、その後、江戸時代から流行するようになったもの。しかし菖蒲湯や菖蒲の飾りは薬草として知られていたため、日本で最も早く見える記事としては少なくとも奈良時代の宮中行事が上げられるだろう。

また、なぜ「狗」なのか。犬は牛や羊を制御する。生活様式の点から言えば第一にその性質を上げねばならない。そして犬の信用の厚さはもはや宗教の領域に達するとする見解があった。

「犬に宗教の信念あった咄(はなし)諸国に多い。『隋書』に文帝の時代、四月八日魏州に舎利塔を立つ。一黒狗耽耳(たんじ)白胸なるあり、塔前において左股を舒(の)べ右脚を屈し、人の行道するを見ればすなわち起ちて行道し、人の持斎するを見ればまたすなわち持斎す」(南方熊楠「十二支考・下・犬に関する伝説・P.238」岩波文庫)

赤い狗について。次の記述を見ると天狗伝説と混合されたのかも知れない。

「了意の『東海道名所記』に『大きなる赤犬かけ出てすきまなく吠えかかる云々、楽阿弥も魂を失うて俄(にわか)に虎という字を書いて見すれども田舎育ちの犬なりければ読めざりけん、逃ぐる足許へ飛び付く』とある」(南方熊楠「十二支考・下・犬に関する伝説・P.265」岩波文庫)

さらに端午の節句はそもそも男子のためばかりと決まったわけでは何らないと思われる節がある。

「夫の家里(さと)の住家(すみか)も親の家、鏡(かがみ)の家の家ならで、家と、いふ物なけれども、誰(た)が世に許(ゆる)し定めけん、五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」(日本古典文学体系「女殺油地獄・下之巻」『近松浄瑠璃集・上・P.411』岩波書店)

また芭蕉門下の丈草も、菖蒲の日ばかりはほとんどの男が家の外へ出て行ってはしゃいでいるため、家の主人は間違いなく女であるという意味の句を詠んでいる。「菖蒲ふく一夜は女の宿なるものを」(転寝草)。

蛇になって失敗、赤犬でまた失敗。さてしかし、正月一日、猫になって現われた時だけは無事に済んだ。三年分の食料を手に入れて。

「我飢ゑて、七月七日に大蛇に成りて汝が家に到り、屋房(やど)に入らむとせし時に、杖を以て懸け棄(う)てき。又、五月五日に赤き狗(いぬ)に成りて汝が家に到りし時に、犬を喚(よ)び相(あは)せて、唯(ただ)に追ひ打ちしかば、飢ゑ熱(ほとほ)りて還りき。我正月一日に狸(ねこ)に成りて汝が家に入りし時に、供養せし宍(しし)、種(くさぐさ)の物に飽きき。是を以て三年(みとせ)の粮(かりて)を継(つな)げり」(「日本霊異記・上巻・非理に他の物を奪ひ、悪行を為し、報を受けて奇しき事を示しし縁 第三十・P.181」講談社学術文庫)

黄泉の国〔冥界〕に還ってから「三年(みとせ)の粮(かりて)を継(つな)げり」と広国は聞かされた。

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