白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「太平記」が語る憂鬱/加速する未来なき諸個人

2021年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
大内弘世(おおうちひろよ)は長く南朝方の武将として動いていた。その間、周防(すおう)・長門(ながと)へ軍事侵攻し両国(今の山口県)を制圧、意気揚々と武威を振りかざし偉人を気取っていた。ところがしかし何を思ったのか幕府方へ帰順する。この時期、「太平記」は貞治(じょうじ)三年(一三六四年)と表記しているがそれは誤りで正しくは貞治二年(一三六三年)。「大内介(おおうちのすけ)降参(こうさん)」の条としてまとめられているものの、その文面は政治的指導者のあり方についての論評が半分強を占めている。

「堯(ぎょう)の代に四凶(しきょう)の族(ぞく)あり。魯国(ろこく)に小正茅(しょうせいぼう)あり」(「太平記6・第三十九・一・P.137」岩波文庫 二〇一六年)

漢籍から二箇所引かれている。一つは「堯(ぎょう)の代に四凶(しきょう)の族(ぞく)あり」。次に「魯国(ろこく)に小正茅(しょうせいぼう)あり」。前者は堯の後を継いだ舜によって罰せられた。「四凶(しきょう)の族(ぞく)」は「讙兜(かんとう)・共工(きょうこう)・三苗(さんびょう)・鯀(こん)」の四者。

(1)「讙兜(かんとう)が共工を推薦したとき、堯はそれをしりぞけて工師(土木の長官)にしたが、はたして共工は淫(みだ)らでよこしまで、効果があがらなかった。また、四嶽が鯀(こん)を推薦して洪水を治めさせようとしたとき、堯はやはり、それをしりぞけたが、四嶽が強いて試してみるように言ったので、試したところ、はたして成績が挙らず、百姓が困った。また当時、江淮(こうわい)地方には三苗(さんびょう)がいて、しばしば乱をおこしていたので、舜は巡狩から帰ると帝堯に、共工を幽陵に流して北狄(ほくてき)の風俗を変え、讙兜を崇山(すうざん)に放って南蛮の風俗を変え、三苗を三危(さんき=甘粛の西方にあるといわれる山)にうつして西戎(せいじゅう)の風俗を変え、鯀を羽山に逐うて東夷の風俗を変えるように請うた。この四者が罰せられて天下が、ことごとく服従した」(「五帝本紀・第一」『史記1・本紀・P.18』ちくま学芸文庫 一九九五年)

後者にある「魯国(ろこく)に小正茅(しょうせいぼう)」。孔子によって誅殺され、孔子は魯国の重鎮となる。

(2)「魯の大夫で政治を乱した少政卯(しょうせいぼう)を誅し、自ら国政に参与した」(「孔子世家・第十七」『史記4・世家・下・P.88』ちくま学芸文庫 一九九五年)

さらに繰り返し反復されるフレーズ。

「死をば善道(ぜんどう)に守り」(「太平記6・第三十九・一・P.137」岩波文庫 二〇一六年)

この箇所はもう何度繰り返されたか覚えていないほど。「論語」から「守死善道」の部分のみをそのまま書き下したものだが、なぜか「太平記」はいつもこのセンテンスの他の部分を無視した上で引用するのが特徴的。

「子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也

(書き下し)子曰わく、篤(あつ)く信じて学を好み、死にいたるまで守りて道を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道あるときは則(すなわ)ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。邦(くに)に道あるとき、貧しく且(か)つ賤(いや)しきは恥なり。邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。

(現代語訳)先生がいわれた。『かたい信念をもって学問を愛し、死にいたるまで守りつづけて道をほめたたえる。危機にのぞんだ国家に入国せず、内乱のある国家には長く滞在しない。天下に道義が行われる太平の世には、表にたって活動するが、道義が失われる乱世には裏に隠れる。道義が行なわれる国家において、貧乏で無名の生活をおくるのは不名誉なことである。道義が行なわれない国家において、財産をもち高位に上るのは不名誉なことである』」(「論語・第四巻・第八・泰伯篇・十三・P.223~224」中公文庫 一九七三年)

次はやや込み入った条件における対応についての是非が焦点。

「百里奚(ひゃくりけい)は虞(ぐ)の君を棄てて、秦(しん)の穆公(ぼくこう)に仕へ、菅夷吾(かんいご)は桓公(かんこう)に下つて、公子(こうし)糾(きゅう)とともに死せざりしはいかに」(「太平記6・第三十九・一・P.138」岩波文庫 二〇一六年)

二つの事例が続けざまに問われる。(1)「百里奚(ひゃくりけい)」のエピソードは「史記・秦本紀」から。(2)「菅夷吾(かんいご)」は「史記・斉太公世家」から。

(1)「繆公は任好(にんこう)の元年、自ら将として茅津(ぼうしん)を伐って勝った。四年、晋から妻を迎えた。晋の太子申生(しんせい)の姉である。その年、斉の桓公が楚を伐ち、邵陵(しょうりょう=河南・許昌の東南方)に行った。五年、晋の献公が虞(ぐ)・虢(かく)を滅ぼし、虞の君と大夫の百里奚(ひゃくりけい)を虜にした。璧(たま)と馬で虞人を買収した結果である。百里奚を虜にすると、秦の繆公の夫人の侍臣にした(百里奚は虞の君の仕えるに足らないのを知り、はやく虞を逃れ虜にならなかったという説がある)。百里奚は秦を逃げ出して、苑(えん=河南・南陽地方)に行ったところ、楚の里人にとらえられた。繆公は百里奚の賢明なのを聞き、重く買いとろうと思ったが、楚人が引き渡さないかもしれないと、人を楚にやって、『貴地にわが侍臣の百里奚がいるが羖羊(めひつじ)の皮五枚でつぐないたい』と言わした。楚人はついに許して百里奚を与えた」(「秦本紀・第五」『史記1・本紀・P.107』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「桓公は即位すると、直ちに出兵して魯を攻め、管仲を殺そうと考えていた。すると鮑叔牙(ほうしゅくが)が言った。『わたくしは幸いにもわが君に従うことができ、わが君はついに位にお即(つ)きになりました。しかし、わが君の尊さは、これ以上わたくしらによって増すことはできませぬ。わが君がただ斉一国を統治なさるなら、高傒とわたくしとだけで足りましょうが、もし天下の覇者になろうと思し召すなら、何としても管夷吾(かんいご=管仲、名は夷吾)を手に入れなくてはなりませぬ。夷吾のいる国は、国として重きをなします。彼を失ってはなりませぬ』。桓公はそのことばに従った。そこでいつわって管仲を呼びだし、ぞんぶんに処置するふうをよそおいながら、実は彼を登用しようとした。管仲にはそれがわかっていたので、自らゆくことを願ったのである。鮑叔牙が迎えに行って管仲を引き取った。堂阜(どうふ=斉の国都に近い地)に到着すると手足の桎梏(かせ)をはずし、身を清め祓(はろ)うて桓公に謁見した。桓公は礼を厚くして大夫に取り立て、国政にあずからせた」(「斉太公世家・第二」『史記3・世家・上・P.38~39』ちくま学芸文庫 一九九五年)

さらに孔子の弟子たちにとって百里奚(ひゃくりけい)のケースはさておくとしても、菅夷吾(かんいご)の身の振る舞い方はなかなか納得できるものではなかった。

「菅夷吾は、召忽(しょうこつ)とともに死せざりしを、子路(しろ)、『仁(じん)にあらず』と譏(そし)りしかば、『豈(あ)に匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)の諒(まこと)を為(な)して、自ら溝瀆(こうとく)に経(くび)れて知らるること莫(な)きが若(ごと)くならんや』と」(「太平記6・第三十九・一・P.138」岩波文庫 二〇一六年)

「論語」から二箇所引用して語らせるしかない。子路の問いに孔子が答える場面。

(1)「子路曰、桓公殺公子糾、召忽死之、管仲不死、曰未仁乎、子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也、如其仁、如其仁

(書き下し)子路曰(い)わく、桓(かん)公、公子(こうし)糾(きゅう)を殺す。召忽(しょうこつ)これに死し、管仲(かんちゅう)は死せず。曰わく、未だ仁ならざるか。子曰わく、桓公、諸侯を九合して、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。その仁に如(し)かんや、その仁に如(し)かんや。

(現代語訳)子路がおたずねした。『斉の桓公が競争者の兄公子糾を殺したとき、その付け人であった召忽は君に殉じて死んだが、管仲は生き残って桓公につかえました。これは仁徳に反するといえませんか』。先生がいわれた。『桓公は諸侯を九度集めて会盟を開いたが、武力をもって強制したのではなかった。これはまったく管仲のおかげであった。だれがこの仁徳に及ぶものがあろうか。だれがこの仁徳に及ぶものがあろうか』」(「論語・第七巻・第十四・憲問篇・五・P.399~400」中公文庫 一九七三年)

次に同様の事例について、子貢の問いに孔子が答える場面。

(2)「子貢曰、管仲非仁者与、桓公公子糾、不能死、又相之、子曰、管仲相桓公覇諸侯、一匡天下、民到于今受其賜、微管仲、吾其被髪左衽矣、豈若匹夫匹婦之為諒也、自経於溝瀆而莫之知也

(書き下し)子貢曰(い)わく、管仲は仁者に非(あら)ざるか。桓公、公子糾を殺す。死すること能わず、またこれを相(たす)く、子曰わく、管仲、桓公を相けて諸侯に覇(は)たらしめ、天下を一匡(いっきょう)す。民、今に到(いた)るまでその賜(たまもの)を受く。管仲微(なか)りせば、吾(われ)それ髪(はつ)を被(こうむ)り衽(じん)を左にせん。豈(あに)匹夫匹婦(ひっぷひっぷ)の諒(まこと)を為(な)すや。自(みずか)ら溝瀆(こうとく)に経(くび)れてこれを知るもの莫(な)きが若(ごと)くならんや。

(現代語訳)子貢がおたずねした。『管仲は仁徳のある人ではないのでしょう。桓公が公子糾を殺害したとき、死におくれてしまい、それどころか、桓公の宰相になってこれを助けたのですから』。先生がいわれた。『管仲は桓公を助けて諸侯の覇者とならせ、天下を改革した。人民は現在までそのおかげをこうむっている。管仲が出なかったとしたならば、われわれは今、ざんばら髪に衿(えり)を左前に着ているだろうよ。どうして管仲のような大人物が、一般の男女のように、ちょっとした誠(まこと)を立てるために首つり自殺をして、死骸(しがい)を溝(どぶ)に投げ込まれ、だれにもわからなくなってしまうのと同じようにすべきだと考えられよう』」(「論語・第七巻・第十四・憲問篇・十八・P.401~402」中公文庫 一九七三年)

いつも礼儀を重んじる孔子。とはいえ殉死の風習が常識かつ礼にかなった時代であろうともそれが常に正しいとは限らないと言うわけである。さらに政治的覇者についての評価も孔子にすれば世間の評価と比較して必ずしも一致するとは限らずむしろ一致しない場合が多い。また、孔子は管仲「のような大人物」の言動と一般民衆のそれとを同列に論じることはできないとする。今の言葉で言えば孔子は人材育成に関し、個人的性格や出身階級のばらつきにこだわるタイプではないが、「やればできる。やらなければそれがその人間の限界である」とする精神論の立場を取る。

ところで話は多少脱線するが、たとえ異教徒であっても自陣営に置いておきたい逸材というのはどの時代にもいる。例えば「高僧伝」に出てくる「曇無讖(どんむしん)」のケース。

「曇無讖(どんむしん)はある時、蒙遜(もうそん)に告げた。『幽鬼が集落におし入って来る。きっと疫病が大流行するだろう』。蒙遜は信用せず、自分の目でたしかめたいと思った。曇無讖はさっそく呪術を蒙遜の身に加え、蒙遜は幽鬼を見てちぢみ上がった。曇無讖は『精進潔斎し、神呪でもって追っ払うべきだ』と言い、そこで三日をかけて呪文を誦えたうえ、蒙遜に言った。『幽鬼はもう立ち去った』。その時、国界で幽鬼を見た者がおり、『数百の疫病神があたふたと逃げ去ってゆくのを見た』と言った」(「高僧伝1・巻第二・訳経篇中・曇無讖・P.217」岩波文庫 二〇〇九年)

明らかに仏教徒ではない。ガンジス川流域出身らしいが「涅槃教」に出会い仏教徒へ宗旨替えした謎の「怪僧」。こんなエピソードが見える。

「経典のテキストを失ってはなるまいと枕にして寝ていたところ、何者かがそれを地べたに引きずり下ろそうとする。曇無讖はびっくりして目覚め、盗人だと思った。そんなことが三晩つづき、空中に声が聞こえた。『これは如来の解脱の法蔵である。どうしてそれを枕にするのか』。曇無讖はそこではっと気づいて恥じ入り、特別に高い場所に置いた。夜中にそれを盗もうとした者があり、何度も持ち上げようとするが、まったく持ち上げられない。翌朝、曇無讖が経典を持ち運ぶと、重そうな様子はない。盗もうとした者はそれを見て聖人だと思い、そろってやって来て拝礼してわびた」(「高僧伝1・巻第二・訳経篇中・曇無讖・P.214~215」岩波文庫 二〇〇九年)

だが逆説は、その力の「逸脱=過剰」によって有名になればなるほど周囲が放っておかないことだ。北魏の託跋燾(たくばつとう)が軍事力を振りかざしつつ曇無讖を寄越せと蒙遜(もうそん)に迫ってきた。一度は話し合いですり抜けることができた。しかし二度目はそうはいかない。北魏はさらに本格的な軍事力を誇示して蒙遜を脅迫した。そこで曇無讖は自ら政治闘争の場から離れようとする。立場の変化が本来の目的を有無をいわせず捻じ曲げていくことに耐え難い憂鬱を感じるのだ。こうある。

「北魏の胡虜の託跋燾(たくばつとう)は曇無讖が道術を身に備えていると聞き、使者を遣わして招請するとともに、『もし讖を遣わさなれば、ただちに武力攻撃を加えるぞ』と蒙遜に通告したが、蒙遜は長年にわたって曇無讖に師事していたので、立ち去るのを許すに忍びなかった。その後、北魏はまた偽政権の太常(たいじょう)の高平公李順(りじゅん)を遣わして蒙遜を使持節・侍中・都督涼州西域諸軍事・太傅・驃騎大将軍・涼州牧・涼王に拝命し、九錫(きゅうしゃく)の礼を加えるとともに、さらにまた蒙遜にこう命じた。『聞けばその地には曇摩讖法師がおられ、博学で知識の豊かなことは羅什(らじゅう)の仲間、秘密の呪文の神秘的な効験は澄(ちょう)公の類(たぐい)であるとか。朕は仏道について講義してもらいたく思う。駅馬を馳せて送り届けるがよい』。蒙遜は李順と新楽門の上で宴会し、蒙遜は李順に言った。『西蕃の老臣なる蒙遜、朝廷に仕えたてまつり、不届き千万なことは何ら致さぬのに、しかるに天子様におかれては諂(へつら)いの言葉を信じて受け入れられ、わけもなしにきつく追いつめられる。先日、上表して曇無讖を手元に留めおきたくお頼み申したにもかかわらず、今ここにやって来られて差し出せとの仰せ。このお方はわが一門にとっての老師、一緒に命を落とすのが当然のこと、残された齢(よわい)はまったく惜しくはない。人間生まれては必ず死ぬのがさだめ、いかほどの時間とも思われぬ』。李順は言った。『王の誠実ぶりは以前から際立ち、愛(いと)しの皇子を侍子として入朝させられた。朝廷におかれては王の忠勤を愛(め)でられ、それ故、あきらけくも特別の礼遇を加えられたのである。しかるに王はこの一人の胡僧のために山岳を築くべきほどの偉大な功業を台なしにされ、たった一日の怒りの気持ちを抑えきれず、これまでの美事を損なわれる。そんなことでは朝廷が厚遇されるわけがあろうか。窃(ひそ)かに大王のために賛成しかねる次第だ。主上のこのうえなき虚心坦懐なお気持ちは、弘文(こうぶん)の承知しているところである』。弘文とは蒙遜が北魏に派遣した使者である。蒙遜は言った。『太常どのはまるで蘇秦(そしん)のように口がお上手。恐らく心の中はお言葉とは裏腹なのであろう』。蒙遜は曇無讖を惜しんで遣わさなかったため、再度また北魏から強迫された。蒙遜の義和三年(四二二)三月に至って、曇無讖は西方に旅に出ることを固く請い、あらたに『涅槃教』の後段を探し求めようとした。蒙遜は彼が立ち去ろうとすることに立腹し、そこで密かに曇無讖の殺害を計画した。うわべは取りつくろって食料を支給して出発させ、手厚く財宝を贈り物としたが、出発の日に臨んで、曇無讖はなんと涙を流しながら大衆に告げた。『私には前世の業(ごう)の報いが訪れようとしている。衆聖がたも救うことはできぬ。そもそも心に誓ったことなので、ここに留まるわけにはゆかぬのだ』。出発するに及んで、蒙遜は果して刺客を遣わして道中において殺害させた。享年は四十九。この歳は宋の元嘉十年(四三三)であった。出家も在家も、遠くの者も近くの者もこぞって残念がった。やがて蒙遜のまわりの者は、白昼に鬼神が剣を持って蒙遜に撃ちかかるのを絶えず目にした。四月に至って、蒙遜は病床に臥せって亡くなった」(「高僧伝1・巻第二・訳経篇中・曇無讖・P.221~223」岩波文庫 二〇〇九年)

しかしこのエピソードはただ単に人材登用を巡る政治闘争という凡庸な枠組みでは語りきれない。というのは、曇無讖に対する蒙遜の同性愛的神格化、並びに託跋燾の乱入による三角関係の出現という事態が生じているからである。蒙遜は曇無讖を託跋燾に取られるくらいなら、むしろ曇無讖を殺してしまいたいと欲望しそのとおり殺害した。ところが最愛の同性愛者を失った蒙遜は自分で暗殺を命じておきながら失意のあまり発病。一年後に死去する。このケースで最も傷ついたのは誰か。うすうす自分の将来に暗雲が垂れ込めているのを察し、なおかつ実際に殺された曇無讖ではない。他の誰でもなく暗殺を命じた蒙遜である。さらに述べると、曇無讖に対する至上の同性愛を蒙遜に意識化させたのは託跋燾の国家的圧力の介入による。同じことだが曇無讖に対する蒙遜の同性愛的欲望はその時はじめて因果関係を出現させている点にも注目すべきだろう。

このように貨幣でも軍事力でも解決できないリビドーの流れを解決に導く過程の到来は近代資本主義社会の成立を待たねばならない。貨幣は大事だ。資本主義は貨幣がなければ誰一人として生きていけない世界を樹立させた。今や貨幣は生活していくために必要不可欠な価値物となった。そしてその制度のもとで不要不急の貨幣蓄蔵者とただちに貨幣を必要とする貧困層との格差があまりにも増大した。このような状態を放置して遊んでいたのがかつてのロシアであり中国である。国家は転倒した。その教訓から社会保障制度を取り入れた戦後資本主義は延命する手段を学んだ。資本主義は自分自身を延命させつつ同時に自己目的をも達成するため日夜様々な「公理系」を発明して取り入れ組み込み、もはや諸個人の身体の内部まですっかりデータ化され浸透している。いつどこへどれくらいの貨幣を融通するのがベターか、逆に融通させないのがベターか。貨幣を与えることはとりもなおさず職業もしくは社会保障を与えることである。それができなくては資本は誰の手元へも還流することができない。店頭に並んだ商品が買われなければ資本主義は価値を実現することができず破滅するほかない。破滅を回避したければ資本は労働力を買わなくてはならない。すぐにでも買わなければ自滅する資本の側が今や幾らでもあるからである。

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Blog21・「太平記」における「魯酒薄而邯鄲圍」

2021年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
「大元軍(たいげんいくさ)」の条に語らせる「太平記」。

「相如(しょうじょ)が破壁(はへき)、風寒くして夜の衣短く」(「太平記6・第三十八・十二・P.128」岩波文庫 二〇一六年)

「史記・司馬相如列伝」からの引用。

「梁の孝王はかれを諸士たちと同じ宿舎に住まわせた。司馬相如は学者・論客たちと生活をともにすることができ、そうして数年たって、かれは『子虚(しきょ)の賦(ふ)』を書きあらわした。そのころ、梁の孝王が卒した(前一四四年)。司馬相如はそこで〔郷里の成都へ〕帰ったが、かれの家は貧しくなっていて、生活の手段となるものは何ひとつ残っていなかった。ーーー宴がおわり、〔宿舎へ〕引きあげたあと、司馬相如は使いをやって、卓文君の侍女にたくさん贈り物をして、恋したう心を〔手紙で卓文君に〕伝えさせた。卓文君はその夜家を出奔(しゅっぽん)して、司馬相如のもとへ身を寄せ、司馬相如はすぐに二人いっしょに馬車を走らせて、成都〔の自分の家〕へ帰った。しかしその家は四方に壁がつっ立っているだけ〔という貧しいもの〕であった」(「司馬相如列伝 第五十七」『史記列伝4・P.154~156』岩波文庫 一九七五年)

次は何度か見てきた。

「天すでに刻を与へたり。取らずんば、却(かえ)つて禍(わざわ)ひあるべし」(「太平記6・第三十八・十二・P.130」岩波文庫 二〇一六年)

范蠡(はんれい)が越王匂践(こうせん)に述べた言葉。

「会稽のときのことは、天が越を呉に賜うたのに、呉は天に逆ろうて受けなかったのです。いまは天が呉を越に賜うのです。越として何と天に逆らうべきでしょうか。君王が朝早くから夜おそくまで政務に励まれたのも、呉のためではなかったのですか。はかりにはかって二十二年、それを一朝に棄てて、それでよいのですか。天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けるのです。斧(おの)の柄をつくるために木を伐る者は、いま持っている斧の柄にあわせて伐ればよいのです(詩経・豳風<ひんぷう>・伐柯<ばっか>の『柯を伐り柯を伐る、その則遠からず』を引用したもの)。わが君は会稽の苦しみをお忘れになったのですか」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289~290』ちくま学芸文庫 一九九五年)

「太平記」の語りが「大元軍(たいげんいくさ)」を参照しているとおり、細川清氏(きようじ)は従弟(いとこ)の細川頼之(よりゆき)が仕掛けたほんの些細な戦略にまんまと陥れられたことになる。

「人として遠き慮(おもんぱかり)なき時は、必ず近き愁へあり」(「太平記6・第三十八・十二・P.133」岩波文庫 二〇一六年)

「論語」から。

「子曰、人而無遠慮、必有近憂

(書き下し)子曰わく、人にして遠き慮(おもんぱか)りなければ、必ず近き憂(うれ)いあり。

(現代語訳)先生がいわれた。『人として遠い先のことを考えないと、きっと手近な心配事が起こる』」(「論語・第八巻・第十五・衛霊公篇・十二・P.439~440」中公文庫 一九七三年)

そしてまた第三十八巻ともなると公家・武家ともに同じことの繰り返しばかりになっていく。ところでその傾向はどの辺りから顕著になったか。(1)佐々木道誉を始めとする婆娑羅風情の徹底化。(2)婆娑羅的華美を誇る武士の一騎打ちが、より破格の徹底的婆娑羅性と置き換えられるに及び、敢えてパフォーマンスの領域を越え「下克上」というリアリズムの象徴と化した点。いずれももはやただ単なる戦争ごっこではない。次の文章を振り返って見よう。

「唇(くちびる)竭(つ)きて歯寒く、魯酒(ろしゅ)薄くして邯鄲(かんたん)囲まる」(「太平記5・第三十五・七・P.359」岩波文庫 二〇一六年)

「荘子」からの引用。だがこの箇所は因果関係の破綻が否定されるのではなく逆に承認されている。南北朝期に起こった思想的断層、歴史哲学における紀元前と紀元後との裂け目がここに描かれている。

「唇竭則歯寒、魯酒薄而邯鄲圍

(書き下し)唇(くちびる)竭(あ=掲)がれば則ち歯(は)寒く、魯酒(ろしゅ)薄くして邯鄲(かんたん)囲まる

(現代語訳)唇をそらして挙げる〔のはもともと歯と関係のないことだが、その〕ために歯は寒くなる。魯(ろ)の酒が薄かった〔のはもともと趙(ちょう)と関係のないことだが、その〕ために趙の都の邯鄲(かんたん=河北省邯鄲県)が軍に包囲された」(「荘子(第二冊)・外篇・胠篋篇・第十・P.48~49」岩波文庫 一九七五年)

楚の宣王が諸侯を朝会した。そのうち魯の恭公は遅刻したものの酒を献上した。楚の宣王が贈られた酒を飲んでみると薄かったので怒った。魯の恭公は献上した酒に言いがかりを付けられたため言い返した。恭公は畏れ多くも周公の後胤であり楚のような下級の諸侯に酒を贈ることからしてもとより礼にそぐわないというのに、その味を責めるなどもってのほかだと。恭公は席を立つと挨拶もせず帰ってしまった。激怒した楚の宣王は斉とともに魯に攻め込んだ。その機会を利用し魏は趙に攻め込んで邯鄲の都を包囲した。誰一人まったく考え及ぶはずのなかった予想外の因果系列がまたたく間に発生したわけである。「偶然性の必然性」とメイヤスーはいう。

「私は存在それ自体の非存在を考えられないし、結果として、また同じく、否定的事実のみの偶然性を考えることもできないのだ。偶然性は(絶対的なものとして)思考可能であり、また、存在と非存在の二つの領野が存続しないことは思考不可能であるからして、存在しないこともありうるしかじかの存在者と、存在することもありうるしかじかの非存在者がつねにどちらもあることが必要なのだと言わねばならない。ゆえに解決は次のように言える。《無ではなく何かが存在することは必然的である、なぜなら、他のものでない何かが存在することは必然的に偶然的だからである》。存在者の偶然性の必然性は、偶然的存在者の必然的存在を強制するのである」(カンタン・メイヤスー「有限性の後で・第三章・P.128~129」人文書院 二〇一六年)

この事例は読者に向けて大変多くの示唆を与えるに違いない。あるいは振り返らせてみるに違いない。メイヤスーが思弁的実在論の代表的思想家の一人として登場するよりずっと以前から因果関係を主軸とするパースペクティヴ(地平)に収まらない事例として注目されていただけでなく、想定外の事態発生について、発生と同時に因果系列が出現する場合も否定できないケースとしてあれこれ注目されてきた。因果関係は同時か少なくとも事後的に発生したとしか言えない事件があるのだ。言うまでもなく「荘子」は「論語」、「韓非子」、「易経」などと同様、春秋戦国時代に多く出現した帝国統治論を述べる代表的書籍の一つである。古代ギリシア哲学がそうであるように古代中国哲学もまたその時代の政治的経済的諸条件のもとで、それらと常に交わり合いながら出現してきた来歴を持つ。「荘子」の中で最も有名な「邯鄲の夢」の故事を振り返ってみよう。

「昔者、莊周、夢爲胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喻適志與、不知周也、俄然覺、則蘧蘧然周也、不知、周之夢爲胡蝶與、胡蝶之夢爲周與、周與胡蝶、則必有分矣、此之謂物化

(書き下し)昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喻(たのし=愉)みて志(こころ)に適(かな)うか、周なることを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分あらん。此れをこれ物化と謂う。

(現代語訳)むかし、荘周(そうしゅう)は自分が蝶(ちょう)になった夢を見た。楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であったからであろう。自分が荘周であることを自覚しなかった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく荘周である。いったい荘周が蝶となった夢を見たのだろうか。それとも蝶が荘周になった夢を見ているのだろうか。荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。こうした移行を物化(ぶっか=すなわち万物の変化)と名づけるのだ」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・十三・P.88~89」岩波文庫 一九七一年)

古典的道学者なら荘子のいう「物化」は、万物が等しく変容していく過程を指してそう教えるに違いない。しかし果たしてそれだけでよいのか。もちろん全然よくない。荘周は夢の中で胡蝶になった。夢から覚めると自分は荘周だった。夢だったと知ったのは目を覚ました後、事後的にであって、胡蝶として振る舞っている荘周は自分が荘周であることをまったく知らない。すっかり忘却している。一方に胡蝶としての荘周がいる。もう一方に荘周としての荘周がいる。或る時、荘周はまぎれもなく胡蝶だったのであり、別の時、荘周はまぎれもなく荘周だった。両者の間には切断があるのだ。或る日の朝、目覚めれば自分が虫になっていたカフカ作品の主人公のように。ここでもまた必然的因果関係はアプリオリでない。むしろ逆にスキゾフレニーとして「楽しく飛びまわる蝶になりきって、のびのびと快適であった」。さらに面白いのは次の箇所。

「子游曰、敢問其方、子綦曰、夫大塊噫気其名爲風、是唯无作、作則萬竅怒号、而獨不聞之翏翏乎、山陵之畏佳、大木百圍竅穴、似鼻、似口、似耳、似枅、似圈、似臼、似洼、似汚、激者、号者、叱者、吸者、叫者、号者、深者、咬者、前者唱于、而隨者唱喁、泠風則小和、飄風則大和、厲風濟則衆竅爲虚、而獨不見之調調之刀刀乎

(書き下し)子游(しゆう)曰わく、敢(あ)えて其の方(さま=状)を問わんと。子綦曰わく、夫(そ)れ大塊(たいかい)の噫気(あいき)は其の名を風と為(な)す。是(こ)れ唯(ただ)作(お=起)こるなし、作これば則(すなわ)ち万竅怒号(ばんきょうどごう)す。而(なんじ)は独(まさ)にこの翏翏(りゅうりゅう)たるを聞かざるか。山陵の畏佳(いし)たる、大木百囲の竅穴(きょうけつ)は、鼻に似、口に似、耳に似、枅(さけつぼ)に似、圈(さかずき)に似、臼(うす)に似、洼(あ)に似、汚(お)に似たり。激(ほ=噭)ゆる者あり、号(よ)ぶ者あり、叱(しか)る者あり、吸(す)う者あり、叫(さけ)ぶ者あり、号(なきさけ)ぶ者あり、深(ふか)き者あり、咬(かなし)き者あり、前なる者は于(う)と唱(とな)え、而して随(したが)う者は喁(ぎょう)と唱う。泠(零)風は則ち小和し、飄風は則ち大和す。厲風濟(や=止)めば則ち衆竅も虚と為る。而(なんじ)独(まさ)に之(こ)の調調(ちょうちょう)たると之の刀刀(とうとう)たるを見ざるかと。

(現代語訳)子游がいった、『ぜひとも、そのことについてお教え下さい』。子綦は答える、『そもそも大地のあくびで吐き出された息、それが風というものだ。これはいつも起こるわけではないが、起こったとなると、すべての穴という穴はどよめき叫ぶ。お前はいったいあのひゅうひゅうと鳴る〔遥かな風〕音を聞いたことがないか。山の尾根がうねうねと廻(めぐ)っているところ、百囲(ひゃくかか)えもある大木の穴は、鼻の穴のような、口のような、耳の穴のような、細長い酒壺の口のような、杯(さかずき)のような、臼(うす)のような、深い池のような、狭い窪地(くぼち)のような、さまざまな形である〔が、さて風が吹きわたると、それが鳴りひびく〕。吼(ほ)えたてるもの、高々と呼ぶもの、低く叱りつけるもの、細々と吸いこむもの、叫(さけ)ぶもの、号泣するもの、深々とこもったもの、悲しげなもの。前のものが<ううっ>とうなると、後のものは<ごおっ>と声をたてる。微風(そよかぜ)のときは軽やかな調和(ハーモニー)、強風のときは壮大な調和(ハーモニー)。そしてはげしい風が止むと、もろもろの穴はみなひっそりと静まりかえる。お前はいったいあの〔風の中の樹々が〕ざわざわと動きゆらゆらと揺れるさまを見たことがないか』」(「荘子(第一冊)・内篇・斉物論篇・第二・一・P.42~44」岩波文庫 一九七一年)

子游は風の音をただ単なる雑音としてしか聴いていなかった。BGMとして聴いてはいなかった。ましてや聴く価値で十分に満たされたノイズとして聴くことなど思いのほかだっただろう。一瞬々々で色彩を変化させていく風の音をBGMにできなかったとは何と無意味な時間を過ごしてきたことか。

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Blog21・「太平記」に出現した「マナ」の交換

2021年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
細川清氏(きようじ)が従弟(いとこ)の細川頼之(よりゆき)の陽動作戦に乗せられ自滅に至った経緯。「太平記」は「大元軍(たいげんいくさ)」の条を設け回想させ、両者の同一性を強調する。

「大器(たいき)は遅くなると云へり」(「太平記6・第三十八・十二・P.126」岩波文庫 二〇一六年)

「老子」にある有名な語句。

「大器晩成

(書き下し)大器は晩成す」(「老子・下篇・第四十一章・P.101」中公文庫 一九七三年)

次の語句もまたしばしば出てくるものの一つ。

「死を善道(ぜんどう)に守り」(「太平記6・第三十八・十二・P.126」岩波文庫 二〇一六年)

「論語・泰伯篇」の一節からさらにその中の一箇所を引用したケース。

「子曰、篤信好学、守死善道、危邦不入、乱邦不居、天下有道則見、無道則隠、邦有道、貧且賤焉恥也、邦無道、富且貴焉恥也

(書き下し)子曰わく、篤(あつ)く信じて学を好み、死にいたるまで守りて道を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道あるときは則(すなわ)ち見(あら)われ、道なきときは則ち隠る。邦(くに)に道あるとき、貧しく且(か)つ賤(いや)しきは恥なり。邦に道なきとき、富み且つ貴きは恥なり。

(現代語訳)先生がいわれた。『かたい信念をもって学問を愛し、死にいたるまで守りつづけて道をほめたたえる。危機にのぞんだ国家に入国せず、内乱のある国家には長く滞在しない。天下に道義が行われる太平の世には、表にたって活動するが、道義が失われる乱世には裏に隠れる。道義が行なわれる国家において、貧乏で無名の生活をおくるのは不名誉なことである。道義が行なわれない国家において、財産をもち高位に上るのは不名誉なことである』」(「論語・第四巻・第八・泰伯篇・十三・P.223~224」中公文庫 一九七三年)

次の文章で言及されている「兵」は「兵士」ではなく「武器」のこと。貧窮のあまり三人の子育てに困り果てた老人が剣を売って肉饅頭(にくまんじゅう)を買っているところを帝師が見つけた。老人はいう。

「兵の凶器(きょうき)なる事を知らず」(「太平記6・第三十八・十二・P.127」岩波文庫 二〇一六年)

范蠡(はんれい)による越王匂践(こうせん)への進言が下敷きになっている。「史記・越王句践世家」から。

「兵(はもの)は凶器、戦さは逆徳、争いは事の末と聞いております」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.283』ちくま学芸文庫 一九九五年)

老人はさらにこう続ける。

「座(い)ながら三尺の雄剣(ゆうけん)を提(ひっさ)げて、立ち所に四海(しかい)の乱を理(おさ)めん」(「太平記6・第三十八・十二・P.127」岩波文庫 二〇一六年)

「和漢朗詠集」からの引用。

「漢高三尺之剣 坐制諸侯 張良一巻之書 立登師傅

(書き下し)漢高三尺(かんこうさんじやう)の剣 坐(ゐ)ながら諸侯(しょこう)を制(せい)し 張良(ちやうりやう)一巻(いつくゑん)の書(しよ) 立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六五三・後漢書・P.245」新潮社 一九八三年)

ところで、ネットを使えない後期高齢者のため夕刊を取っているのだが、十月二十八日「朝日新聞」夕刊で中西進が縄文時代から太平洋を取り囲む形であったとされる「マナ」の風習について述べていた。なぜ朝日なのかは個別的かつ単純な事情から、ただ単に販売所が家の近くにあるというに過ぎず、思想的な諸条件による選択とは関係がない。

さて、「マナ」の風習について中西進はいつものように得意の万葉学を中心に述べているが、関心を引かれたのはその分布の環太平洋性である。それについてはマルセル・モースから引いてみたい。まず前提として。

(1)「ポリネシアのマナという語そのものは、それぞれの存在の呪術的な力だけでなく、名誉も表している。マナの最も正しい訳の一つは権威と富である。トリンギット族とハイダ族のポトラッチは互いに行う奉仕を名誉なこととみなしている。オーストラリアの先住民のように未開な部族においても、名誉の問題はわれわれの社会におけるように気にかけられ、名誉の意識は、贈与、給付、食物の提供、席次、儀礼などによって与えられる。人類は署名を行うようになるはるか以前に、名誉や名前によって約束することを知っていたのである」(モース「贈与論・第二章・P.101」ちくま学芸文庫 二〇〇九年)

モースは「贈る義務」という言葉を用いる。「ポトラッチ」は「消尽・蕩尽」を意味する。

(2)「《贈る義務はポトラッチの本質である》。首長は自分のために、息子のために、婿あるいは娘のために、死者のためにポトラッチをしなければならない。こうして首長は自分の部族、村、家族における権威を保ち、自分の民族内および他の民族における首長間の地位を維持することができる。首長にそれが出来るのは、精霊につきまとわれ、それに好かれ、幸運にも恵まれている時だけであり、自分が財産によって所有され、またそれを所有している時だけである。そして首長が多くの財産を所有している証しとなるのは、それを消費し、他人と共有し、他人を凌ぎ、彼らを『彼の名声の影』の内に入れることである。クワキウトル族やハイダ族の貴族は中国の文官や役人が持っているのと同じ『面子』の観念を持っている。ポトラッチを与えなかった神話中の大首長の一人は『腐った顔』を持っていたという。この表現は中国における面子よりも正確である。というのはアメリカ北西部では威信を失うことは魂を失うことになるからである。ポトラッチで失うのはまさしく『面子』であり、舞踏の仮面であり、精霊を化身させる権利であり、紋章ないしトーテムを持つ権利である。そこで賭けられているのは人格(ペルソナ)である」(モース「贈与論・第二章・P.103~104」ちくま学芸文庫 二〇〇九年)

次に贈り物を「受け取る義務」についてこう述べる。

(3)「《物を受け取るという義務》も、強制されている。誰も贈り物やポトラッチを拒否する権利を持ってないない。贈り物を拒むことはお返しすることを恐れていることを表している。実際にお返しするまでは『やられた』状態になることを恐れる。実際、その時にはすでに『やられた』状態になっているのである。それは自分の名前の『重みを失う』ことであり、あらかじめ自分がやられたことを認めることであり、あるいはその逆に自分が勝利者で不敗であることを宣言するようなものである」(モース「贈与論・第二章・P.106」ちくま学芸文庫 二〇〇九年)

始めに「贈る義務」、次に「受け取る義務」とあった。すると当然「お返しをする義務」について述べられなければならない。

(4)「《お返しをする義務》はポトラッチの本質であるが、破壊のみを行うポトラッチの場合は別である。破壊そのものは多くの場合、精霊に捧げる供犠であり、精霊のために行われる。ーーー十分にお返しをする義務は強制的なものであり、お返しをしなかったり、同じ価値の物の破壊を実施しなかったりすると、永久に『面子』を失うことになる」(モース「贈与論・第二章・P.108」ちくま学芸文庫 二〇〇九年)

「太平記」では佐々木道誉の贈与と楠正儀の返礼がそのケースに当たるだろう。

「佐渡判官入道道誉(さどのほうがんにゅうどうどうよ)は、都を落ちける時、わが宿所(しゅくしょ)へは、定めてさもとあるある大将ぞ入り替はらんずらん、尋常(じんじょう)に取りしたためて見すべしとて、六間(むま)の会所(かいしょ)六所(ろくしょ)に、大文(だいもん)の畳を敷き並べ、本尊(ほんぞん)、脇絵(わきのえ)、花瓶(かびん)、香炉(こうろ)、鑵子(かんす)、建盞(けんさん)に至るまで、一様(いちよう)に皆置(お)き調(ととの)へて、書院には、羲之(ぎし)が草書(そうしょ)の碣(けつ)、韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしゅう)、眠蔵(めんぞう)には、沈(じん)の枕に緞子(どんす)の宿直物(とのいえもの)、十二間(けん)の遠侍(とおさぶらい)には、鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥(くぐい)、三棹(みさお)懸け並べ、三石(さんごく)ばかりなる大筒(おおづつ)に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしゃ)二人(ににん)留(とど)め置(お)きて、『誰(たて)にても、この宿所へ入らんずる人に、一献(いっこん)勧めよ』と、申し置きたりける。ーーー道誉は、相模守(さがみのかみ)が当敵(とうてき)なれば、この宿所をば、こぼち焼くべしと憤(いきどお)りけれども、楠、この情けを感じて、その儀を止めしかば、泉水(せんずい)の木の一本をも損ぜず、畳の一帖(じょう)も取り散らさで、その後(のち)、幾程(いくほど)なくして楠また落ちし時も、六所の飾り、遠侍の酒肴(さけさかな)、先のよりも結構し、眠蔵には、秘蔵の鎧に白太刀(しろたち)一振(ひとふり)置いて、郎等(ろうどう)二人留め置き、判官入道道誉に交替してぞ帰りける」(「太平記5・第三十六・十六・P.466~467」岩波文庫 二〇一六年)

こうして始めて「贈り物の循環」という概念が出現する。

(5)「ポトラッチで交換される物の中に贈り物の循環を強制するような力、つまり贈り物を与え、お返しをさせる力が存在することを示すことができる。ーーー多種多様な財産ーーー消費するための物と共有するための物とーーー家族の貴重品、護符、紋章のついた青銅品、毛皮の毛布、紋章で飾った織物などがある。ーーーこれらの貴重品すべては呪術的性格を持つ寡婦産(亡父から継承する財産)である。それらを与えた者と《受け取った物》とが同一視され、またそれらの護符をクランに与えた精霊の先祖である英雄とも同一視されている。いずれにせよ、あらゆる部族において貴重品はすべて霊的な起源に由来し、霊的な性格を備えている。さらにこれらの貴重品は紋章のついた大きい箱に収められており、箱自体にもそれぞれ霊力が付与されており、装飾した内壁も生命ある存在である。所有者の魂を宿し、しゃべると言われている」(モース「贈与論・第二章・P.110~111」ちくま学芸文庫 二〇〇九年)

この種の「循環」についてもう少し踏み込んでモースは述べる。

(6)「財物の循環は、男女や子供の循環、饗宴、儀礼、儀式、舞踏の循環、さらに冗談や侮辱の循環に続いて行われる。要するにその循環はすべて同じなのである。物を与え、それを返すのは、『敬意』ーーー『礼儀』とも言えるーーーが与えられ返されるからである。しかしまた物を与える時に人は自らを与え、自らを与えるとすれば、それは自分と自分の財産とを他人に『負っている』からである」(モース「贈与論・第二章・P.114」ちくま学芸文庫 二〇〇九年)

原始社会はおそらくそうだったに違いない。ところが近代社会の成立とともに「交換」の意味はすっかり変容した。アダム・スミスはいう。

「人が富んだり貧しかったりするのは、人間生活の必需品、便益品および娯楽品をどの程度享受できるかによる。だが、分業がひとたび徹底的に行き渡るようになったあとは、一人の人間が自分の労働で充足できるのは、このうちのごく小さい部分にすぎない。かれは、その圧倒的大部分を他の人々の労働に仰がなければならない。つまりかれは、自分が支配できる労働の量、または他人から購買できる労働の量におうじて、富んだり貧しかったりするにちがいない。したがって、およそ商品の価値は、それを所有していても自分では使用または消費しようとせず他の商品と交換しようと思っている人にとっては、その商品でかれが購買または支配できる他人の労働の量に等しい。それゆえ、労働はすべての商品の交換価値の真の尺度である」(アダム・スミス「国富論1・第一篇・第五章・P.32」中公文庫 一九七九年)

労働(力)の商品化は必然的成り行きとして描かれる。ニーチェから三箇所引いておこう。

(1)「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

(2)「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

(3)「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

(3)の「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》」という事情は「滅私奉公・過労死・自殺・自爆テロ」といった諸形態を取るに至る。しかし今の先進国や多国籍企業から見ればそのような行為は余りにももったいないものに映る。ではどうするべきか。内向させるのではなく外向させるのが有利だと判断する。もちろん条件付きである。どのような条件なのか。バタイユはいう。

「軍事秩序は、消尽が大饗宴(オルギア)さながらに頻繁に繰り返される情況に応じていたあの漠然たる不安感や不満の感情に終止符を打った。それは諸力を合理的に用いるよう命じ、そうすることで権力の絶え間ない増大を計ったのである。征服という方法的な精神は、供犠の精神とは正反対のものであり、そもそも初めから軍事社会の王たちは供犠に捧げられるのを拒むのである。軍事秩序の原則は、暴力性を方法的なやり方で外部へと方向転換することである。もし暴力性が内部で猛威をふるっているとすると、軍事秩序は可能な限りそれに対立しようとする。そして暴力の方向を外へとずらしながら、ある現実的な目標へとそれを服従させる。このようにして軍事秩序は一般的に暴力を服従させるのである。だから軍事秩序は派手に人目をひく戦闘の諸形態とは、つまりそういう戦闘は有効性を合理的に計算することよりも狂熱の堰を切ったような爆発によりよく応じているのだけれども、そのような戦闘形態とは正反対のものなのである。軍事秩序はもはや、かつて原始的な社会体制が戦闘や祝祭においてそうしたように、諸力の最も大きな濫費を狙うことはない。諸力を蕩尽する活動は残っているけれども、ある効率的生産性の原則に最大限に服従しているのである。原始的な社会は、戦争においても、奴隷を略奪することに限定していた。そしてその社会の原則に応じて、こうした獲得物を祭礼において虐殺することでその埋め合わせをしていたのである。ところが軍事秩序は戦争から得た収益を奴隷へと編成し、奴隷という収益を労働へと編成する。征服という活動をある方法的な操作、つまり帝国の拡大を目ざした操作とするのである」(バタイユ「宗教の理論・第二部・1・軍事秩序・P.85~86」ちくま学芸文庫 二〇〇二年)

さらに現代社会では帝国の外見はもちろん、その意味もがらりと変わった。ドゥルーズはいう。

「現在の資本主義は過剰生産の資本主義である。もはや原料を買いつけたり、完成品を売ったりするのではなく、完成品を買ったり、部品を組み立てたりするのである。いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである。だから現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場が企業に席をあけわたしたのである。家族も学校も軍隊も工場も、それが国家でも民間の有力者でもかまわないなら、とにかくひとりの所有者だけで成り立つ同じひとつの企業が、歪曲と変換を受けつける数字化した形象にあらわれるようになるのだ。芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった。市場の獲得は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の『魂』になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・政治・追伸ー管理社会について・P.363~364」河出文庫)

遥か彼方の古代、「マナ」があった。なくなったのだろうか。それとも外見ばかりを置き換えて残存しているのだろうか。折口信夫がいうようにかつて「マナ」は「もの」であり「ものの怪(け)」の「もの=鬼・精霊・種々の力」でもあった。「マナ」が本当にそのようなものであるのなら、今なお数値化できない部分は残ることになる。同時にありとあらゆる「もの」を数値化=商品化せずにはいられない資本主義は今後ますます不可視の「マナ」を追って世界中を延々駆け巡り続けていくだろう。ところが資本主義は世界そのものである。世界が世界自身を追いかける。自分で自分自身の身体検査を延々かつますます厳密に行わずにはいられなくなっている資本主義。今後の成り行きに注目しないではいられない。

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Blog21・「太平記」の充実と空虚な中心

2021年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
細川相模守清氏(ほそかわさがみのかみきようじ)もまた佐々木道誉の計略に乗せられて南朝の後村上帝方へ寝返り復讐欲(劣等感・ルサンチマン)に燃える武将の一人。一方、清氏の従弟(いとこ)・細川右馬頭頼之(ほそかわうまのかみよりゆき)は足利義詮将軍方。頼之はいう。清氏の気持ちは痛いほどよくわかる。しかし互いに合戦し合うつもりは毛頭ないと。

「往(い)んじをば尤(とが)めず」(「太平記6・第三十八・九・P.101」岩波文庫 二〇一六年)

すでに過去となった過ちの責任は追求すべきでないし、また追求するつもりもないと述べる。「論語」から引かれた言葉。

「哀公問社於宰我、宰我対曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰使民戦栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不諫、既往不咎

(書き下し)哀公(あいこう)、社(しゃ)を宰我(さいが)に問う。宰我、対(こた)えて曰(い)わく、夏后(かこう)氏は松を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人(しゅうひと)は栗(りつ)を以てす。曰わく、民(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしめんとてなりと。子(し)これを聞きて曰わく、成せし事は説くべからず、遂(と)げし事は諌(いさむ)べからず、既往(きおう)は咎(とが)むべからず。

(現代語訳)魯の哀公が、宰我に国の社の神木のことをたずねられた。宰我がかしこまっておこたえした。『夏の御代(みよ)は松をもちい、殷代は柏(ひのき)をもちいましたが、周代は栗をもちいています。栗をもちいるのには、国民を戦慄(せんりつ)させようという意味がこもっておりますぞ』。先生がこの話を聞いていわれた。『すでに終わった事件について論じてはならないし、落着した事件について諫(いさ)めてもいけない。すべて過(す)ぎ去(さ)ったことの責任は問うべきではないのだ』」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・二一・P.78~79」中公文庫 一九七三年)

細川清氏の頸(くび)を取ったのは伊賀掃部助高光(いがかもんのすけたかみつ)。こうある。

「その身は深田(ふけだ)の土にまみれて、頸は敵の鋒(きっさき)にり。ただ元暦(げんりゃく)の古へ、木曾左馬頭義仲(きそさまのかみよしなか)が粟津(あわづ)の松原にて討たれ」(「太平記6・第三十八・九・P.108」岩波文庫 二〇一六年)

「平家物語」参照。追い詰められた木曾義仲がもう自害するほか手段はないと考え、近江粟津(あわず)の松原に入り込んだところ、深い田んぼの中に分けいってしまい身動きできなくなった。そこをけっして対等の相手とはいえない三浦ノ石田の次郎為久(ためひさ)の郎等(部下)にあっけなく斬首され太刀の先高く首を吊るされ見せしめにされた。それを見た今井四郎は「大義名分」を失い、太刀の先を自分の口に差し込み自害してみせた。

「木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけたまふが、正月廿一日、入相(いりあひ)ばかりの事なるに、うす氷ははッたりけり、ふか田(た)ありとも知(し)らずして、馬をざッとうら入(いれ)たれば、馬のかしらも見(み)えざりけり。あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。今井がゆくへのおぼつかなさに、ふりあふぎたまへるうち甲を、三浦ノ石田の次郎為久(ためひさ)、追(お)ッかかッて、よッぴいてひやうふつと射(い)る。いた手なれば、まッかうを馬のかしらにあてて、うつぶしたまえへる処(ところ)に、石田が郎等二人(ににん)落(おち)あうて、つひに木曾殿の頸をばとッてンげり。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、『此(この)日ごろ日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久が討(う)ち奉たるぞや』となのりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、『いまはたれをかばはむとてか、いくさをもすべき。これを見たまへ、東国の殿原(とのばら)、日本一の剛(かう)の者の自害する手本』とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落(おつ)、つらぬかッてぞ失(う)せにける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第九・木曾最後・P.134~135」岩波書店 一九九三年)

次に「太元軍(たいげんいくさ)」の故事が挿入される。

「用ゐる則(とき)は行ひ、舎(す)つる則(とき)は蔵(かく)る。唯(ただ)我と爾(なんじ)とこれあるかな」(「太平記6・第三十八・十二・P.119」岩波文庫 二〇一六年)

孔子流の融通無碍な倫理を示す言葉。「論語」から。

「子謂顔淵曰、用之則行、舎之則蔵、唯我与爾有是夫

(書き下し)子、顔淵(がんえん)に謂(い)いて曰わく、これを用うれば則ち行ない、これを舎(す)つれば則ち蔵(かく)る。

(現代語訳)先生が顔淵にむかっていわれた。『用いられれば世間で活動するし、見捨てられれば隠遁(いんとん)する。これは自分とおまえだけができることだね』」(「論語・第四巻・第七・述而篇・十・P.185」中公文庫 一九七三年)

さらに孔子は、いかにも無謀でこれ見よがしの輩と行動を共にすることを極度に嫌っていた。

「暴虎憑河(ぼうこひょうが)して、死すとも悔(く)ひ無からん者には、吾与(くみ)せじ。必ずや事に臨(のぞ)んで懼(おそ)り、謀(はかりごと)を好んで成さん者なり」(「太平記6・第三十八・十二・P.119」岩波文庫 二〇一六年)

同じく「論語・述而篇・十」にある言葉。

「暴虎馮河、死而無悔者、吾不与也、必也臨事而懼、好謀而成者也

(書き下し)暴虎馮河(ぼうこひょうか)し、死して悔(く)いなき者は、吾与(とも)にせざるなり。必ずや事に臨(のぞ)みて懼(おそ)れ、謀(ぼう)を好みて成さん者なり。

(現代語訳)虎(とら)を手討ちにし、河をかちわりして、死んでも後悔しない、そんなものとはいっしょに仕事はできないよ。事にあたって慎重にかまえ、よく計画をたてて成功するものといっしょにやりたいのだ」(「論語・第四巻・第七・述而篇・十・P.185」中公文庫 一九七三年)

ところで一昨日昨日のテレビ報道を見ていたら、どの局も天皇制並びに皇族の変容について喚き散らしていないものはなかった。テレビだけでなくネットでもそうなのだ。他に重大なニュースはないのだろうか。俗世間はずっと昔から表向きは「愛はお金(貨幣価値)に変えられない」とする一方、実のところ「いっときの恋愛感情などよりお金ほど大切なものはない」という内情と桎梏のもとで連綿と生活してきた。しかしその逆を実現した結婚が事実として報道された。前提として資本主義はありとあらゆるものを次々と数値化せずにはおかない制度だが、にもかかわらず数値化不可能な行動を皇族関係者に許した。資本主義にとって偏狭なナショナリズムは足枷になるため、今回の結婚は資本の側から見ればむしろ順調かつ断然決行してもらいたい手順を踏んだといえる。さらに多くのコメンテーターが口にこそ出さないものの「純血」という言葉を問題視しているのは丸わかりである。しかし競馬ではあるまいし「純血・血統」を正当性の根拠に据えるや否やとんでもない問題が再発する。「純血・血統」というイデオロギーは今なお「優生思想」と固く結びついており、とりわけヨーロッパでは「悪夢のような《アウシュヴィッツ》」の記憶をPTSDそのものとして立ち現われさせて止まないからである。また、愛の力が貨幣の力を一時的に中断させ異次元の地平を開いたことはなるほど確かだとしてもなお、これまでの経緯からこれからの推移を含めてたちまちテレビ、雑誌、ネットなど関連する様々な場を瞬時に出現させ、それらすべてを通して脱コード化に伴う再領土化が今度は数値化され貨幣交換の場へ投げ込まれることは、資本主義にすれば当然想定済みの経過であり何ら驚くに当たらないこともまた確かだと言わざるを得ない。ベルグソンはいう。

「われわれの視点からすると、生命は全体としてある巨大な波として現れる。その波はある中心から広がり、その円周のほぼすべての点で止まり、その場の振動に変わる。ただ一点で、障害はこじ開けられ、推進力が自由に通過した。人間の形態が記憶しているのはこの自由である。人間以外のところではすべて、意識は袋小路に追い込まれる。人間においてのみ、意識は立ち止まらずに進んだ。それゆえ人間は、生命が携えていたものすべてを引き連れていくわけではないが、生命の運動を無際限に続ける。生命の他の線の上では、生命が含んでいた別の傾向が進展していた。すべては補い合っているので、これらの傾向のいくらかを人間は保存していただろうが、保存していたのはそのうちのわずかなものだけである。《お好みに応じて、人間とも超人とも呼べるような、はっきりしないぼんやりとした存在が自己を実在化しようとしたが、自己のある部分を道の途中で捨てることで初めてそうするに至ったかのように、すべては進行している》」(ベルクソン「創造的進化・P.338」ちくま学芸文庫 二〇一〇年)

一旦突破された「伝統」。にもかかわらず今回の突破はすでに資本に回収されている。例えば、写真集の生産・流通・販売、そして実現される剰余価値。今後発表されていくに違いない商品化可能なすべての映像や文章。資本がではなく、グローバル資本主義はそもそも倫理というものを知らない。

もう一つ気になるのはパンデミック禍の長期化によって発生した「家呑み」の習慣。一九二〇年代「禁酒法」下のアメリカを思わせる。実質賃金の上昇が絶望的に見込めない現時点では短時間で安上がりな「家呑み」の習慣は飛躍的に定着するだろう。そして無数の擬似的フィッツジェラルドが出現し、内臓疾患だけでなく精神医療の現場においても一切の病院はパンクするか、少なくともいつもパンク寸前状態と化していなくてはならなくなる。

「アルコール飲みは、この硬直が隠匿する柔らかさを愛するのと同様に、自分を捕える硬直も愛するのである。一方の時期が他方の時期の中にあり、現在がこれほど固くなり硬直するのは、破裂しそうな柔らかな点を占拠するためにほかならない。同時的な二つの時期は、奇妙な仕方で複合される。すなわち、アルコール飲みは、半過去や未来を生きるのではなく、《複合過去》しか持たないのである。ただし極めて特殊な複合過去である。アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)。これが、二つの時期の交接を表現し、アルコール飲みが躁的な全-能性を享受しながら一方の時期を他方の時期の《中で》経験するやり方を表現する。ここにおいて、複合過去は隔たりや完遂をまったく表現していない。現在の時期は、動詞・持つの時期であるが、すべての存在者は、『過去』として、《同時的な》別の時期の中に、分有の時期、分詞の固定の時期の中にある。それにしても、この締め付け、現在が別の時期を包囲し占拠し締め付けるこの方式は、ほとんど堪え難い何とも奇妙な緊張である。現在は、柔らかな中心・溶岩・液状ガラス・粘性ガラスの周囲で、円形の水晶や花崗岩になる」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第22セリー・P.275~276」河出文庫 二〇〇七年)

問題はまだこれから出現するのである。

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Blog21・「太平記」は生き延びつつも加速しない

2021年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
諸国(しょこく)宮方(みやかた)蜂起(ほうき)の条。山名時氏(やまなときうじ)・師氏(もろうじ)父子、足利直冬(ただふゆ)らが兵を挙げるがしばらくして敗退する。

「先んずる則(とき)は、人を制するに利あり」(「太平記6・第三十八・三・P.80」岩波文庫 二〇一六年)

何度も出てくる「史記・項羽本紀」からの引用。

「先んずれば人を制し、後れれば人に制せられる」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.195』ちくま学芸文庫 一九九五年)

さらに繰り返し出てくる次の語句。

「いかでか会稽(かいけい)の恥(はじ)を雪(すす)がまし」(「太平記6・第三十八・四・P.87」岩波文庫 二〇一六年)

「史記・越王句践世家」から。

「会稽のときのことは、天が越を呉に賜うたのに、呉は天に逆ろうて受けなかったのです。いまは天が呉を越に賜うのです。越として何と天に逆らうべきでしょうか。君王が朝早くから夜おそくまで政務に励まれたのも、呉のためではなかったのですか。はかりにはかって二十二年、それを一朝に棄てて、それでよいのですか。天の与えるものを取らなければ、かえって咎(とが)を受けるのです。斧(おの)の柄をつくるために木を伐る者は、いま持っている斧の柄にあわせて伐ればよいのです(詩経・豳風<ひんぷう>・伐柯<ばっか>の『柯を伐り柯を伐る、その則遠からず』を引用したもの)。わが君は会稽の苦しみをお忘れになったのですか」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.289~290』ちくま学芸文庫 一九九五年)

一方、菊池勢が九州で勢力を盛り返してきたため、九州鎮圧に当たって幕府方は斯波氏経(しばうじつね)を派遣した。ところが氏経は自分の乗る船はもちろん部下らの船に遊女を呼び集め、士卒程度の乗る小船にも二、三十人の遊女を乗船させて筑紫へ向かった。

「陣中に女多く交(まじ)りてある時は、陰(いん)の気、陽(よう)の気を消すゆゑに、兵気かつて立ち上がらず」(「太平記6・第三十八・五・P.89」岩波文庫 二〇一六年)

杜甫「新婚別」からの引用。

「婦人在軍中 兵気恐不揚

(書き下し)婦人(ふじん)の軍中(ぐんちゅう)に在(あ)らば 兵気(へいき)は恐(おそ)らくは揚(あ)がらざらん

(現代語訳)婦人が軍中にありますならば、士気は恐らく振るわぬことでありましょう」(「新婚別」『杜甫詩選・P.181~183』岩波文庫 一九九一年)

このすぐ後に漢の李陵に関するエピソードが語られる。だが「太平記」の文面は「史記・李将軍(李広)列伝」とその孫の李陵に関する故事とを混同したものになっていて判然としない。しかし中国漢文学に造詣の深い二人の小説家は次のように翻案しており、両者の文章とも大変似ている。一方は中島敦で戦時中の作品。もう一方は陳舜臣で戦後の作品。ただ単に似ているからというのではなく、両者の立場が異なっているにもかかわらず内容がかなり接近している点で興味深い。日本中世は「近江粟津橋本供御人(あわづはしもとくごにん)・京桂供御人(桂女<かつらめ>)・祇園社所属の女性神人(じんにん)・熊野比丘尼(くまのびくに)」など芸能・行商を媒介項として女性の社会進出が目立ち始める反面、多くの女性たちは被賎視されるがまま生きるほかなかったという実状を探る手がかりの一つであることは間違いない。

(1)「陣中視察の時、李陵は偶々(たまたま)或る輜重車(しちょうしゃ)中に男の服を纏(まと)うた女を発見した。全軍の車輌(しゃりょう)について一々取調べたところ、同様にして潜(ひそ)んでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮(りく)に遇(あ)った時、その妻子等が逐(お)われて西辺に遷(うつ)り住んだ。それら寡婦(かふ)のなか衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、或いは彼等を華客(とくい)とする娼婦(しょうふ)となり果てた者が少くない。兵車中に隠れて遥々(はるばる)漠北まで従い来(き)たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女等を斬(き)るべくカンタンに命じた。彼女等を伴い来たった士卒については一言のふれるところも無い。㵎間(たにま)の凹地(くぼち)に引出された女共の疳高(かんだか)い号泣が暫(しばら)くつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑まれたようにフッと消えて行くのを、軍幕の中の将士一同は粛然たる思いで聞いた」(中島敦「李陵」『李陵・山月記・P.77』新潮文庫 一九六九年)

(2)「李陵は部隊の行動に鋭さが欠けていることに気づいた。戦鼓(せんこ)を鳴らしても奮(ふる)い立(た)たない。李陵の軍では、戦鼓が前進、銅鑼(どら)が停止の合図だったのである。『うぬ、女が軍中にいるのだな』。李陵は軍中の捜索を命じた。そのころ、犯罪者の妻や娘を辺境に移して、さがしてみると、はたしてかなりの数の女が車のなかにひそんでいた。李陵は女たちをひきずり出して、すべて斬りすてた」(陳舜臣「小説十八史略(三)・11・P.81~82」講談社文庫 一九九二年)

ところで畠山入道道誓は案に違わず没落した。

「富貴(ふっき)は草頭(そうとう)の露(つゆ)」(「太平記6・第三十八・八・P.99」岩波文庫 二〇一六年)

杜甫「送孔巣父謝病帰遊江東、兼呈李白」から抜粋された箇所。

「富貴何如草頭露

(書き下し)富貴(ふうき)は草頭(そうとう)の露(つゆ)に何如(いかん)ぞ

(現代語訳)俗世間の富と名誉は草の葉末の露とどちらがはかないといえようか」(「送孔巣父謝病帰遊江東、兼呈李白」『杜甫詩選・P.26~27』岩波文庫 一九九一年)

「太平記」はまだ続く。だが加速したりはしないしそもそも出来ない。加速化の出現は明治近代に入って構造化された古典的資本主義制度のもとで始めて可能になった。現代社会では加速主義に見られるように新自由主義という名称で次々と変容してきた「公理系」《として》「常に微調整され得る限りで」生き延びることが可能となったし、今なお自分で自分自身をアップ・デートしつつ生き延びていく模様である。しかしなぜそのようなことが可能なのか。二点上げておこう。

(1)「こうしたことは、社会の公理系については、いかにいっそう真実であることか。すなわち、この社会の公理系が自分自身の内部を充実する仕方、この公理系がその極限を押し返し拡大する仕方、この公理系がみずから体系の飽和化を防いで、さらに種々の公理を付け加える仕方、この公理系がきしみを生じ調子の狂いを通じて復調することによってしか作動しない仕方、こうした仕方はすべて、決定し管理し反応し登記する社会諸器官を前提としている。つまり、種々の技術機械の作用には還元されないテクノクラシーや官僚制を前提としている。要するに、種々の脱コード化した流れの連接や、これらの間の微分の比や、さらにこれらの流れの多様な分裂や裂け目、こういったものはすべて全面的に調整を要求するものであり、この調整の主要器官が《国家》なのである。資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・P.301~302」河出書房新社 一九八六年)

(2)「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)

ところが中国・上海で摩天楼のように林立する高層ビル群を見たニック・ランドはアメリカに渡り、慌てて公理系の枠組みの中から調整機能として動く社会主義的諸政策を根こそぎ削り落とすようアメリカ全土に呼びかけ共和党トランプ政権誕生へ導く重要な役割を果たした。すると「公理系」の制御を失った資本主義は二乗、三乗と冪乗的に加速する弾みを付け、そのため爆発的に生じてくる故障の受け皿をも破棄した結果、政権自体が四年で転倒・自爆したのだった。だが逆説は、脱コード化のスキゾフレニーな流れを「公理系」という水路で微調整するための社会主義的諸政策による修正機能を保持している限り、資本主義はけっして滅びることはなくますます延命していくということだろう。「アンチ・オイディプス」を大変高く評価したニック・ランドが次作「千のプラトー」を罵倒した理由はドゥルーズ=ガタリの次の文章にある。

「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫 二〇一〇年)

必要なのは「慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニック」だというのか?ーーーそれがニック・ランドには加速主義の否定を意味するものに思えたがゆえに激怒した。それをイギリスで見ていたかつての同僚たちはランドを評して「彼は右翼になってしまった」と述べている。しかし右翼というのは余りにも単純過ぎる呼び名だろう。アメリカやイギリスで右翼というのは階級差別、人種差別、白人至上主義、血統至上主義など様々な分類が可能であり、共和党なら右翼で民主党なら左翼とは必ずしも限らない。バイデン政権になったからといって沖縄の米軍基地は少しも移動しない。共和党内部の左派は民主党内部の右派より遥かに民主主義尊重的でありその逆も同様だ。人権に関してアメリカは中国共産党指導部による新疆ウイグル自治区の扱いを問題視している。ところがアメリカもまた白人警官による黒人虐殺事件を起こしている。黒人に対する虐待はもとよりアジア系・南米系・アフリカ系移民に対する差別的気質は今なお収まっていない。アメリカにせよ中国にせよ、その圧倒的国力にもかかわらず言語の用い方が軽率化するのはなぜか。ハイ・レベルな言語を手に入れたにもかかわらず、むしろ言語をも手に入れたがゆえ、より一層暴力による対立を押し進める態度こそ問題にされねばならないのではと思われる。そのような暴力は世界のあちこちでナショナリズムを煽り立て、もはや意味不明なカルト教団を発生させる一方だというのに。

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