白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/震旦(しんだん)の普明(ふみやう)・その言語並びに音楽、そして異神との遭遇

2021年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「震旦(しんだん)ノ上定林寺(じやうぢやうりんじ)」は今の中国江蘇省江寧府にある仏教寺院。そこに普明(ふみやう)という一人の僧がいた。「臨渭(りんゐ)」(甘粛省奉安県東南部)の出身。幼少時に出家して懺悔に専心し、それを生業(なりわい)としていた。

普明が法花経を読誦すると普賢菩薩が六牙の白象に乗って現れ光を放つ。維摩経を読誦すると容姿端麗な大勢の采女(うねめ)らが雅楽に合わせて舞を舞い歌を詠じる音(こゑ)が大空にまで満ち満ちた。さらに真言(しんごん)・陀羅尼(だらに)を祈り始めると誰もが救われ著しい癒しの力を見せつけるのだった。

「法花経ノ普賢品(ふげんぼん)ヲ読誦スル時ニハ、普賢菩薩(ふげんぼさつ)、六牙(ろくげ)ノ白象(びやくざう)ニ乗(じよう)ジテ、光ヲ放(はなち)テ其ノ所ニ現ジ給フ。維摩経ヲ読誦スル時ニハ、妓楽(ぎがく)・歌詠(かえい)、虚空(こくう)ニ満(みち)テ、其ノ音(こゑ)ヲ聞ク。亦、神呪(じんじゆ)ヲ以テ祈(いのり)乞フ事、皆其ノ験(しるし)新(あら)タ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.117」岩波書店)

普賢菩薩と「六牙(ろくげ)ノ白象(びやくざう)」について法華経にこうある。

「我爾時乗 六牙白象王

(書き下し)われ(普賢菩薩)はその時、六牙(ろくげ)の白象王(びやくぞうおう)に乗り」(「法華経・下・巻第八・普賢菩薩勧発品・第二十八・P.320」岩波文庫)

また、「十万種の伎楽(ぎがく)」にも言及が見える。

「過去有仏 名雲雷音王。多陀阿伽度。阿羅訶。三藐三仏陀。國名現一切世間。劫名喜見。妙音菩薩。於万二千歳。以十万種伎楽。供養雲雷音王仏。幷奉上。八万四千七寶鉢。以是因緣果報。今生浄華宿王智仏國。有是神力。

(書き下し)過去に仏有(いま)せり、雲雷音王多陀阿阿伽度(うんらいおんおうただあかど)・阿羅訶(あらか)・三藐三仏陀(さんみやくさんぶつだ)と名づけたてまつる。国をば現一切世間(げんいつさいせけん)と名づけ、劫をば喜見と名づく。妙音菩薩は万二千歳において、十万種の伎楽(ぎがく)をもって、雲雷音王仏を供養し、幷びに八万四千の七宝の鉢を奉上(たてま)つれり。この因縁の果報を以って、今、浄華宿王智仏(じようけしゆくおうちぶつ)の国に生れて、この神力(じんりき)有り」(「法華経・下・巻第七・妙音菩薩品・第二十四・P.228」岩波文庫)

さらに維摩経の一節から引用したとされる世阿弥作「山姥(やまんば)」に「舞歌(ぶが)音楽の妙音」とある。

「道を極め名を立(な)てて、世上万徳(せじやうばんとく)の妙華(めうくわ)を開く事、此一曲の故(ゆへ)ならずや、然らばわらはが身ををとぶらひ、舞歌(ぶが)音楽の妙音の、声(こゑ)仏事をもなし給はば、などかわらはも輪廻を逃(のが)れ、帰性(きしやう)の善所(ぜんしよ)に至(いた)らざらんと」(新日本古典文学体系「山姥」『謡曲百番・P.162~163』岩波書店)

また「神呪(じんじゆ)」は密教でいう短い呪文の「真言(しんごん)」と長い呪文の「陀羅尼(だらに)」とを指す。

そんな折、王遁(わうとん)という男性の妻が重病に陥った。その苦痛はとてもではないが堪え難いという。夫の王遁はすぐ普明に請うて祈祷してくれるよう嘆願した。王遁の招きを引き受けた普明は王遁の家に到着。普明が家の門を入ると同時に王遁の妻は気を失って倒れてしまった。その時、普明は一つの生き物を見た。猫に似ている。体長約60〜90センチ。それがなぜか犬の穴から飛び出してきた。と、途端に妻の病は治癒した。

「普明、王遁ガ請(しよう)ニ依(より)テ其ノ家ニ至ル間、既ニ門ヲ入ル時ニ、其ノ妻(め)悶絶(もんぜつ)シテ、其ノ時ニ、普明、一ノ生(いき)タル者ヲ見ルニ、狸(ねこ)ニ似タリ。長サ数尺許(ばかり)也。犬ノ穴ヨリ出(いで)ヌ。其ノ時ニ、王遁ガ妻(め)ノ病愈(いえ)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.117」岩波書店)

また或る時、普明が道を歩いていると、水辺で祭祀が執り行われているところに出くわした。巫覡(かむなぎ)=神子(みこ)・巫女(みこ)は普明に向かっていう。「神が普明の姿を見てみんな逃げ去ってしまった」。

「普明、昔、道ヲ行(ゆき)ケル間、人有(あり)テ水ノ辺(ほとり)ニシテ神ヲ祭ル事有(あり)ケリ。巫覡(かむなぎ)其ノ所ニ有(あり)テ、普明ヲ見テ云(いは)ク、『神、普明ヲ見テ皆走リ逃(にげ)ス』トナム云ヒケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第十六・P.118」岩波書店)

さて。法華経にせよ維摩経にせよ密教の神呪にせよ、ここでの出現の仕方はいずれも言語と音楽である点に注意したい。普明は弓矢や刀剣類は身に付けず、ただひたすら言語と音楽でのみその任務を達成している。この意味で普明の言語と音楽は貨幣に等しい。補足しておくと、猫に似ており犬の穴から飛び出してきた物の正体は「狐(きつね)」。王遁の妻の病気の原因は狐に憑依されたことによるとされる。中国には「二尾の狐」伝説がある。日本では「玉藻前(たまものまえ)」伝説が有名。絶世の美女に化けて、もう少しのところで鳥羽院の全リビドーを吸い取って命を奪い去ってしまう直前まで持っていった桁違いの妖狐伝説として根強く残る。

「玉藻前(たまものまえ)」伝説がなぜ発生したかについて、朝廷の摂関家トップの座を争って藤原忠実(ただざね)とその次男藤原頼長(よりなが)との対立関係があったことは以前既に論じた。忠実は東寺の支配下に入った伏見稲荷信仰の側。頼長は従来の陰陽道の側。陰陽道で狐は男性を誘惑する「陰獣(いんじゅう)」とされていた。両者は親子の間柄だがそもそも価値観が対立していたため馬が合うわけがない。そして玉藻前は久寿二年(一一五五年)、那須野(なすの)の草原を老狐姿でいるところを何本もの箭(や)で射抜かれ殺害された。その翌年、保元一年(一一五六年)に鳥羽院死去。「保元の乱」勃発。華やかな王朝時代は没落し血で血を洗う武家政権へと移っていく。

さらに江戸時代。路傍で寝ていた狐をいじめ殺した女性が、後になって発狂し、逆に狐の怨霊に呪い殺された話が「甲子夜話」に見える。

「平戸の郷医に玄丹と云ありしが、或時病人あり迚(とて)呼に来る。村家のことゆゑ夫の病は婦来り、自ら薬箱を持ち且つ嚮導す。玄丹即(すなはち)出てともに行く。半途にして路傍に狐の臥(ふす)を見る。かの婦云。狐を窘(くるし)め見せ申さんやと。玄丹曰。よからん。婦乃(すなはち)手にて己が咽をしめたれば、向に臥(ふせ)ゐたる狐驚起(おどろきたち)て苦きさまなり。婦また云ふ。今少し困(くる)しめ候はん迚(とて)、両手にて咽を弥々強くしめたれば、狐ますます苦しみて息出ざる体なり。夫より婦、己が息の出ざるほどに咽をしめたれば、狐即悶絶したり。玄丹笑て去り、病人を診(うらな)ひ薬を与へて還れり。然るに四、五日を過て復(また)同処より病人あり迚(とて)呼に来る。玄丹先の病再発なるやと思ひ、往て見るに、此度は先日の婦の発狂せる体なり。聞けば狐のつきたるにて、さまざまの譫語(うはごと)し、汝にくきやつなり。先に我が寐(いね)ゐたるを種々に苦しめ、後は悶絶までさせたり。夫とは知ずして有りしが、其後近処の人に其ことを語て笑ひ罵りたるを伝聞(つたへきけ)り。今其怨を酬ひ汝をとり殺すなりと云ふ。玄丹も覚有ることゆゑ驚て聞居たりと云。其後のことは不知」(「甲子夜話1・巻十四・十七・P.240」東洋文庫)

もう一つ、押さえておこう。

「水ノ辺(ほとり)ニシテ神ヲ祭ル」とあるのは仏教伝播以前からその地で信仰されていた土着の神の祭祀であり、この場合は水辺なので恐らく「水神(みずのかみ)」。それ以後、そこが或る秩序〔価値体系〕と別の秩序〔価値体系〕との境界になる。仏教へ転向した者たちが多い一方、山間部へ移動した者たちもまた多い。定住民と移動民との接触という見地から見れば大変重要。

「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)

日本では柳田國男がこう述べている。

「最初は麓の方から駆け登ったとしても、いったん山に入ってから後は遷徙(せんし)移動に至っては、全然下界と没交渉にこれを行うことができる処ばかりである。九州で申さば今でもこの徒の活動しているのは彦山と霧島の連山である。阿蘇火山の東側の外輪山を通ればほとんど無人の地のみである。ただ阪梨(さかなし)の峠を鉄道が横ぎるようになったら彼等は大いに面食うことになるであろう。四国では石鎚山彙(いしづちさんさんい)と剣山の奥が本拠であるらしい。吉野川の上流には処々に閑静な徒渉(としょう)場があるのみならず、多くの山の峯は白昼大手を振って往来しても見咎(みとが)める者もなく、必要があればちょっと鬱散る(うつさん)のために海岸に出てみることも自由である。それから本土においても彼等にとって不退の領土がある。前に述べた大井川の上流から、たとえば木曽の親類を訪問するにも良い路が幾筋もある。赤石・農鳥(のうとり)に就いて北に向えば、高遠(たかとお)の町の火を眼下に見つつ、そっと蓼科(たてしな)の方へ越えることもできる。夜行の貨物列車に驚かされるのが厭(いや)なら、守屋岳(もりやだけ)の峯伝いに岡谷の製糸工場のすこし下流で天竜川を渡ってもよろしい。塩尻峠や鳥居峠では日本人の方が閉口して地の底を俯伏(ふふく)している。山人にとってはおそらくは里近い平野が我々の方の山路、峠路に該当することであろう。我々の旅人が麓の宿の旅籠(はたご)に泊って明日の山越えの用意をするように、彼等はまた一人旅の昼道は危いなどと、言っているかも知れぬ」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.393』ちくま文庫)

さらに。

「秋葉の奥山のごときもまた安全な路線である。天竜の峡谷で足を沾(ぬら)すことさえ承知ならば、何の骨折りもなく木曽駒ヶ岳一帯の幹路に取り附き得る。木曽から立山へ、または神通(じんずう)川が面倒なら位山(くらいやま)・川上岳の峯通に直接に白山に掛り能郷(のうご)の白山から夜叉池(やしゃがいけ)の霊地を巡遊して、北国海道などは一飛(ひととび)に比良(ひら)にも鞍馬(くらま)にも比叡にも愛宕(あたご)にも出られ、柳桜の平安城を指点して、口先だけならば将門(まさかど)・純友(すみとも)の豪語もなし得たのである。それから西へ行けば大山・三瓶(さんべ)山、因幡・出雲にも小さな植民地がある。また熊野の奥へ越えるのには逢阪山(おうさかやま)に往来の人がちと多過ぎる。ゆえに湖東胆吹山(いぶきやま)の筋を迂回(うかい)して伊勢・大和の境山へ行く。路はやや遥かではあるが住心地(すみごこち)の好い南の海辺である。夜寒の苦が少なくしてかつ白く柔かい海の魚を取り得る望みもある。伊豆の天城(あまぎ)よりは近所で静かでよい。夏になれば富士川を越えて東北の新天地にも遊ぶことができる。富士の八湖を左手にして籠阪(かごさか)を夜半に横ぎり、笹子(ささご)・大菩薩(だいぼさつ)を経て秩父(ちちぶ)の奥に行けばゆるりと休息する。荒船から碓氷(うすい)にかかり浅間の中腹を伝って、左に折れて戸隠・黒姫・妙高山附近の故郷を訪ねるもよし、あるいはまた白根から南会津に入れば、只見川の水源地のごときは安楽国の一である。駒ヶ岳・飯豊(いいで)・朝日岳まで行けば広い国と大きな海が見える。鳥海山(ちょうかいさん)へは大分迂回せねばならぬが、奥州境の山に沿うて北秋田に入り、田代・岩木の山に行けば多くの同類がいる。阿仁(あに)から岩手山の方に出てもよし、鹿角(かづの)の沢へ下ると銅山の煙には弱るが、北上川の分水嶺を過ぎて東海の荒浜の見える閉伊(へい)の山地にも落ち付くことができる」(柳田國男「山人外伝史料」『柳田国男全集4・P.394』ちくま文庫)

家郷とはどこか。そして世阿弥の描いた「山姥」はなぜ「鬼女」の姿で出現しなくてはならなかったのか。自然生態系に壊滅的打撃を与え、原発汚染水を海に垂れ流して顧みない今の日本政府にはもはや何一つ見えないだろう。ニーチェのいうように神の殺害者はなるほど人間だというほかない。問題の根は遥かに深い。

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熊楠による熊野案内/李山竜(りのさんりよう)の冥界下り

2021年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

唐の時代。王城諸門警護に当たる官庁は左右に分かれて置かれており、右側を「右監門(うかんもん)」といった。「李(り)ノ山竜(さんりよう)」はその武官。もともとは「憑洲(ひようしう)」(今の中国陜西省大茘県)出身。「武徳(ぶとく)ノ間」(六一八年~六二六年)に突然死した。

ところが、死んだはずの山竜の「胸・掌(たなごころ)」だけはまだ暖かいままだった。家人らは不審に思い、しばらくの間、火葬せずに置いていた。

「但シ、山竜ガ胸・掌(たなごころ)許(ばか)リ煖(あたた)カ也。家ノ人、此レヲ怪(あやし)ムデ暫ク不喪(もせ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.143」岩波書店)

七日が過ぎようとしていた時、山竜が突然生き返った。そして親族らに語って聞かせるには、冥界で種々の役割に従事する役人に捕えられ、閻魔王の前の階段の下に引き出されたという。冥界は広大な敷地を誇っており、地上の首都同様、様々な官庁が林立している。その庭は甚だ広大で、庭の中に手枷(てかせ)・足枷(あしかせ)を嵌められ、鎖に繋がれた罪人がひしめき合っている。

閻魔王は山竜に問う。「そなたは生前、何か良きことを行ったか」。山竜は答える。「私の郷(さと)で講演があるときには欠かさず施主と等量のお布施を供えてきました」。しかしそれだけなら金さえあれば誰にでも出来ることであり、閻魔王としては耳に蛸ができるほど聞き飽きたありふれた返答でしかない。そこで閻魔王はさらに山竜に問いかけた。「ただ、そなた自身にとってひたすら何か良きことを行ったことがあるか」。山竜は答えた。「法花経二巻を誦(じゅ)してきて、そらんじることができます」。すると閻魔王はおっしゃった。「それは大変貴い行いである。速やかに階段を登りなさい」。

「王ノ宣(のたま)ハク、『汝ガ身ニ只何(いか)ナル善根(ぜんごん)ヲカ造レル』ト。山竜答(こたへ)テ云(いは)ク、『我レ、法花経(ほくゑきやう)二巻ヲ誦(じゆ)セリ』ト。王ノ宣(のたま)ハク、『甚ダ貴シ。速(すみやか)ニ階(はし)ニ可登(のぼるべ)シ』ト」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.144」岩波書店)

山竜は閻魔庁の階段を登った。また、閻魔庁の東北(うしとら)は鬼門の方角だが、そこに法会を行うための講座が設置されている。王は山竜に向かってそこで経を読誦すべしと命じる。講座に着いた山竜は王に向かい合う形でさっそく経を誦み始めた。「妙法蓮華経(めうほふれんぐゑきやう)序品(じよほん)第一」は法華経の巻頭部分。その箇所を読誦するや否や閻魔王はおっしゃった。「もう止(や)めてよい」。山竜はわけのわからないまま王の指示に従って講座を降り再び階段の下にひかえた。階段の下に戻って無数の罪人が鎖に繋がれている庭を見渡してみると、ついさっきまでひしめていていたはずの罪人らはすべて、瞬時に消え失せて誰一人見当たらない。

「山竜誦(じゆ)シテ云(いは)ク、『妙法蓮華経(めうほふれんぐゑきやう)序品(じよほん)第一』ト読(よみし)カバ、王ノ宣(のたま)ハク、『読誦ノ法師、速(すみやか)ニ止(や)メ』ト。山竜、王ノ言(こと)ニ随(したがひ)テ、即チ止(やめ)テ座ヲ下(おり)ヌ。亦、階(はし)ノ本(もと)ニテ庭ヲ見ルニ、誡メ置(おき)タリツル多(おほく)ノ罪人、忽(たちまち)ニ失(う)セテ不見(みえ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.144」岩波書店)

閻魔王はいう。「そなたが経を誦する功徳はただ単に自分一人の利益にのみ限られるものではない。庭に満ち溢れて苦を受けていた多くの衆生はそなたの誦した経を聞き、囚われの身から解放されることができた。どうしてこれを限りなき善根でないと言えようか。今やそなたを解き放とう。速やかに人間の世界へ還(かえ)りなさい」。

「君ガ経ヲ誦(じゆ)スル功徳(くどく)、只自(みづ)カラノ利益(りやく)ノミニ非(あら)ズ。庭ノ中ノ多(おほく)ノ苦ノ衆生(しうじやう)、皆、経ヲ聞クニ依(より)テ、囚(とらはれ)ヲ免(まぬ)カルル事ヲ得(え)ツ。豈(あ)ニ此レ、無限(かぎりな)キ善根(ぜんごん)ニ非(あら)ズヤ。今、我レ、君ヲ放ツ。速ニ人間(にんげん)ニ還(かへ)リ去(い)ネ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.144」岩波書店)

山竜は王に向かって深く礼拝し、閻魔庁を去ってもともと生きていた世界へ還ろうと数十歩ほど歩いたところ、王は部下の獄卒に命じて山竜に地獄巡りをさせるよう命じた。山竜は一人の獄卒に連れ沿われ地獄を案内されることになった。

80メートルばかり歩いただろうか、一つの鉄(くろがね)で築かれた城に着いた。城は豪壮で鉄の屋根が上部を覆っている。小型の窓がたくさんあり、お盆くらいのもあれば鉢くらいのもある。見ていると、男女様々な者らが窓の中へ飛び込んでいくのだが、出てくることはない。山竜は不可解に思い獄卒にわけを尋ねてみた。獄卒はいう。「これが八大地獄(等活地獄・黒縄地獄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱地獄・大焦熱地獄・阿鼻地獄)の世界だ。獄中には多くの仕切りがある。というのも罪状がそれぞれ異っているように、それに応じて各自が受ける罰も異なるからだ。ここに飛び込んでいく様々な者は、そもそもの罪状に応じて地獄で罪の報酬を受けることになる」。

「百余歩(ふ)ヲ行(あるき)テ見レバ、一ノ鉄(くろがね)ノ城(じやう)有リ。甚ダ広ク大キ也。其ノ上(う)ヘニ野有(あり)テ、其ノ城(じやう)ヲ覆ヘリ。旁(かたはら)ニ多(おほく)ノ小キ窓有リ、或ハ、大(おほき)ナル事、小キ盆ノ如シ。或ハ鉢ノ如シ。見レバ、諸(もろもろ)ノ男女、飛(とび)テ窓ノ中ニ入(いり)テ、亦出(いづ)ル事無シ。山竜怪(あやしみ)テ使ニ問フ、『此レハ何(いか)ナル所』ト。使ノ云(いは)ク、『此ハ此レ、大地獄(だいぢごく)也。獄ノ中ニ多(おほく)ノ隔(へだて)有リ。罪ヲ罰(ばつ)セル事各(おのおの)異(こと)也。此ノ諸(もろもろ)ノ人ハ、本ノ業(ごふ)ニ随(したがひ)テ、地獄ニ趣(おもむき)テ其ノ罪ヲ受クル也』ト」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.145」岩波書店)

山竜は哀れと畏怖の情に襲われ、恐れながら「南無仏(なもぶつ)」と唱えた。獄卒は「さあ、行こう」と先を促した。さらに一つの城門にたどり着いた。銅(あかがね)をどろどろに溶かして流し込む釜茹で用の大きな鍋がある。その傍で二人の罪人が居眠っている。山竜はなぜ居眠っているのかと問うてみた。二人はいう。「我々はこの釜茹での鍋がぐつぐつ沸騰している中へ入った。どうしようもなく堪え難い。ところがそなたが『南無仏(なもぶつ)』と唱えて下さったのを承(うけたまわ)り、地獄にいる罪人はみんな一日だけ休息を取ることができた。疲れ果てていたので居眠っていたというわけです」。

「我等、此ノ鑊(かなへ)ノ沸(わ)ケル中ニ入レリ。難堪(たへがた)キ事無限(かぎりな)シ。而(しか)ルニ、君ノ『南無仏(なもぶつ)ト称シ給ヘルヲ聞クニ依(より)テ、地獄ノ中ノ罪人皆、一日、息(やす)ム事ヲ得テ、痩(つか)レ睡(ねぶ)レル也』」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.145」岩波書店)

それを聞いた山竜はまた哀れと畏怖の情に襲われ「南無仏(なもぶつ)」と唱えた。そこで山竜を案内していた獄卒がいう。「冥途の官庁はとても数が多い。閻魔王はもうそなたを解き放ちなされた。ついては、ここから出て行くに当たって赦免状を請い受けておかれるのがよい。というのは、これまでの事情を知らない他の官庁の役人は再びそなたを捕縛しようとするだろうから」。

「官府、其ノ数(かず)多シ。王、今、君ヲ放チ給フ。君去ラムニハ、王ニ免(ゆる)ス書(ふみ)ヲ可申(まうすべ)シ。若(も)シ其ノ書(ふみ)ヲ不取(とら)ズハ、恐タクハ他ノ官ノ者、此ノ由ヲ不知(しら)ズシテ、亦、君ヲ捕ヘムト為(せむ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.145~146」岩波書店)

そんなわけで閻魔王は書面を書き、獄卒に手渡していう。「五道等ノ暑ヲ可取(とるべ)シ」。「五道(ごどう)」は「地獄道・餓鬼道・畜生道・人道・天道」を指す。初期仏教に阿修羅道はなかった。それら五箇所の冥界の長官からそれぞれ署名を貰い受けてこいという意味。獄卒は山竜を連れて冥界の二箇所の官庁から署名を貰って廻った。なかなか骨の折れる組織構造だが、それはもちろん、地上の都の官庁組織に対応していることから必然的にそうなる。ダンテ「神曲」で世界が三層構造を取っているように。ともかく、山竜は地獄巡りを終えて冥界から還ろうとしていると、見知らぬ三人の者が現れた。そしていう。「閻魔王はそなたを解放されてここから出ることをお許しになられたようだ。我々はもはやそれを止めることはできない。ただ、多くても少なくても構わないのだが、我々が欲しいと望むものを送ってもらいたい」。

言い終わる間もなく獄卒が説明に入った。「王はそなたを解き放ちなさった。ところでこの三人を覚えてはいないか。そなたが冥界にやって来たとき最初にそなたを捕えた従者だ。一人は棒主(ばうのぬし)といってそなたの頭を棒で殴った役人。二人目は縄主(なはのぬし)といって赤い縄でそなたをぐるぐる巻きに縛り付けた役人。三人目は袋主(ふくろのぬし)といって袋を持ってきてそなたの息を吸い込み窒息の苦しみを与えた役人。そなたが地上へ還ることを許されたのを知って、こんなふうに何でもいいから物を請うているのだ」。

「王、君ヲ放チ給フ。此ノ三人ヲ不知(しら)ズヤ。三人ハ此レ、前(さき)ニ君ヲ捕ヘシ使者也。一(ひとり)ヲバ此レ棒主(ばうのぬし)ト云フ、棒ヲ以テ君ガ頭(かしら)ヲ撃ツ。一(ひとり)ヲバ此レ縄主(なはのぬし)ト云フ、赤キ縄ヲ以テ君ヲ縛ル。一(ひとり)ヲバ此レ袋主(ふくろのぬし)ト云フ、袋ヲ以(もて)君ガ気(いき)ヲ吸フ者也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.146」岩波書店)

これは賄賂の要求なのではとやや不審に思いはするものの、恐怖心で一杯になっている山竜はともかく家に帰ってから供物を送ろうと約束する。しかし供物を送るにしてもどのような方法でなのか。三人の冥界の役人はいう。「水辺(みずのほとり)あるいは樹下(うゑきのもと)で焼くこと」。そういうと三人の役人は山竜を許して帰らせてくれた。

「三人ノ云(いは)ク、『水ノ辺(ほと)リ、若(もし)ハ、樹(うゑき)ノ下(もと)ニシテ此ヲ焼(やけ)』ト云(いひ)テ、山竜ヲ免(ゆる)シテ還ラシム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.146」岩波書店)

山竜が元の家に還ってきたと思うとなるほど魂は地上に戻ったようである。観察するに、家人らは泣く泣く山竜の葬儀の準備にかかっている。そこで山竜は自分の屍(しかばね)に寄り添うと立ちどころに蘇った。

「山竜、家ニ還(かへり)ヌト思フニ活(よみがへり)テ、見レバ、家ノ人泣キ合(あひ)テ、我レヲ葬(さう)セムズル具(ぐ)ヲ営ム。山竜、屍(しにがばね)ノ傍ニ至(いたり)ヌレバ、即チ活(よみがへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.147」岩波書店)

後日、約束した通り冥界の用途に紙で仕立てた銭を作り、合わせて酒や肉類を用意し、水辺でそれらの物を焼いた。するとたちまち冥界にいるはずの三人の役人が出現して言った。「そなたは約束を忘れなかったばかりか、さらに食物を供えて贈物としてくれた」。言い終わると三人の姿は跡形もなく消え失せた。

「後(のち)ノ日、紙ヲ剪(きり)て銭帛(せんはく)ヲ造リ、幷(ならび)ニ酒肉ヲ以テ、自(みづ)カラ水ノ辺(ほとり)ニシテ此ヲ焼ク。忽(たちまち)ニ見レバ三人来(きたり)テ云(いは)ク、『君、信ヲ不失(うしなは)ズシテ、重(かさね)テ遺愧(ゆいき)ノ賀ヲ相(あ)ヒ贈(お)クル』ト云ヒ畢(をはり)テ後、三人不見(みえ)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第三十・P.147」岩波書店)

さて。「水辺」が「此方(こなた)」と「彼方(かなた)=異界」との境界線とされているのはこれまで見てきた説話と同様。さらにこの説話は典型的な「冥界下り」の条と言える。古代世界の民族創生神話では必ずといっていいほど試練として課されている。最も有名なのはホメロス「オデュッセイア」の主人公・オデュッセウスの場合だが、オデュッセウスの評価を巡って、必ずしも「英雄」だとばかりも言えないとする見方も根強い。なぜかといえば、オデュッセウスが次々と打倒していく敵は多少なりとも戯画化されており、その正体は何かというと、そもそも古代地中海沿岸で暮らしていた種々の先住民がモデルだからである。なので、例えばアドルノなどは「ユダヤ人思想家」としてナチス・ドイツに殺されかけた経験があり、思想家としてのニーチェを高く評価する一方、逆にそれを乱用しナチス党をオデュッセウス一行に喩えて英雄視した、ニーチェ以後の様々な思想家らを徹底的に批判している。しかしそれはヨーロッパ近代国家成立以後の事情であり、古代神話の読解にはまた別の秩序〔価値体系〕への場所移動が必要になる。差し当たり参考にしたいのは熊楠の愛読書の一つ・アープレーイユス「黄金の驢馬」。こうある。

「さて熱心な読者よ、あなた方は、その部屋で二人が交わした会話や、そこで起こったことについて知りたいと強く望まれることでしょう。話すことが許されていれば喜んで話しましょう。お耳に入れてよいなら喜んでお聞かせするでしょう。しかしそれについての不謹慎なお喋(しゃべ)りによって私の舌は、あるいは大それた好奇心によってあなた方の耳は、共にひとしく罰をこうむること必定です。しかし、そうなると、今度はあなた方が、熱い敬虔な関心を抱いたまま宙ぶらりんの気持ちであれこれと憶測し、煩悶(はんもん)することになるでしょう。私もそれは望みません。そこで一つ話を聞いて下さい。でも、この話はみんな真実だと思って下さい。ーーー私は死の境界にやってきて、冥界の女王プロセルピナの神殿の敷居をまたぎ、あらゆる要素を通ってこの世に還ってきました。真夜中に太陽が晃々(こうこう)と輝いているのを見ました。冥界の神々にも天上の神々にも目(ま)のあたりに接し、膝下に額(ぬか)ずいてきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.461~462」岩波文庫)

なぜ「冥界下り」が必要になるのか。エリアーデはこう述べる。

「密儀へのイニシエーションによって、この地上で早くも神との合一をはたすのである。言いかえれば、《生きている》個人が『神聖化された』のであって、死後の霊魂が神聖化されたのではない」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.126」ちくま学芸文庫)

《生きている》個人の『神聖化』というイニシエーション。この試練。それをくぐり抜けたものだけが「金」になるとエリアーデはいう。諸商品の無限の系列から《排除される》限りで貨幣が出現する過程とまったく違わない。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

オシリスの蘇りもまた、死ぬと同時にばらばらに切断されあちこちに撒き散らされる。

「イシスは旅をつづけてブトに着くと、そこで育った息子のホロのもとに棺を置きました。だが、月の光の下で夜狩りをしていたテュポンがちょうどそこへ来ました。彼はオシリスの遺骸に気がつくと、それを十四に切断してばらまきました。それを知るとイシスは、パピルスの舟に乗って沼地を渡って探し回りました。だがらパピルスの舟で渡る人は、鰐(わに)も襲わないのだと言われています。鰐も女神様ゆえに、そんなことをするのは恐ろしい、あるいは女神様を崇めているのでしょう。しかしこのために、エジプト中にオシリスの墓というのがたくさんあることになりました。イシスは、切断された部分を見つけてはそこに葬ったので、ということです。しかし、それは違うという人もあります。その人たちの意見によりますと、イシスは、なるべく多くの町でオシリスが拝まれるようにと、彼の象を造って、さながら遺骸そのものを与えるかのように、各都市に配ったというのです。こうすれば、もしテュポンがホロスとの戦いに勝って、そこでオシリスの本当の墓を捜し出そうとしても、あまりたくさんのオシリスの墓のことを聞かされ、時には見せられなどして、もうやめておこうという気になるだろうから、なのだそうです。オシリスの体の部分で最後まで見つけることができなかったのは、ただ一つ、彼の陰部でした。海中にほうり込まれたとたんに、レピドトスたのパグロスだのオクシュリュンコスだのいう魚どもがたかって、食べてしまったからです。ですからこれらの魚はエジプトではいちばん嫌われているのです。イシスはその隠部の似像を造って崇めました。エジプト人は今でもこれを祀るお祭をしております」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・十八・P.40~41」岩波文庫)

だが遂にオシリスは生まれ変わって蘇る。古代ギリシアの祭祀・ディオニュソス祭(古代ローマではサトゥルヌナリア祭)は死と再生の物語を何度も繰り返し反復していくことになる。

「クレア様、オシリスがディオニュソスと同じ神だということを、誰があなた以上に知っていましょうか。あなたはデルポイでディオニュソスを信じる女性たちを束ねていらっしゃる方ですし、お父上とお母上からオシリスの秘儀を授かっておいでなのですから。しかし一般の人々のために、これらの神が同じものだという証拠を提供すべきだとするなら、秘儀にかかわるゆえに口にしてはならぬことは、そのままそこに置いておくことにして、アピスを葬る際に祭司たちが人々の目の前でやることをここでは申しましょう。とにかく彼らがアピスの遺体を舟に載せて運ぶ時、あれはバッコスの祭とほとんど違わないのですから。鹿の毛皮をまといます、ティルソスをかざします、口々に叫びます。そして激しく体を動かします。ちょうどディオニュソスの祭の恍惚に身を任せた人々のようにです。こんな風ですからディオニュソスの方でも、多くのギリシア人が牛の姿をしたディオニュソス像を描きますし、エリスの女たちはディオニュソスに祈りつつ、『牛の脚もて、神よ、来りませ』と呼びかけます。ーーーギリシアのティタネスの伝説や夜祭の行事は、オシリスの切断、よみがえり、生まれ変わりの話と一致しております」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・三五・P.68~69」岩波文庫)

今なお世界各地で行われている様々な祭祀はディオニュソス祭の変化形として見ることができる。その期間ばかりは一切の秩序〔価値体系〕は溶けて消え失せる。そういう期間が金輪際なくなってしまうと人間は社会的に窒息するほかない。その意味で近代以降の世界的な行事、例えば「五輪」はディオニュソス祭の神聖さといささかの関係も持ち得ないどころか、むしろ逆に人間を社会的に窒息させる方向へ押し進める機能を担っている。大規模な生態系破壊をますます押し進めていく自殺行為をなぜ国民の側が引き受けなければならないのだろうか。理解できないというしかない。

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熊楠による熊野案内/地獄に呼び出された恵如禅師・焼け爛れた脚のスティグマ

2021年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

隋(五九一年〜六一九年)の都・長安に真寂寺(しんじやくじ)という寺があり、恵如禅師(ゑによぜんじ)という高僧が住んでいた。若い頃から心を込めて仏道に打ち込み、毎日欠かさず難行苦行に専心していた。

或る日のこと。恵如は弟子たちに「けっして私を起こしてはいけない」と告げるや、眠ったようにまったく動かなくなった。弟子たちはもう目を覚ますかもう目を覚ますかと待っているうちに七日目を迎えた。それでもなお恵如は動かないまま。弟子たちはこれはえらいことになったと慌てたり嘆き合ったりした。それを見ていた理解ある僧はいう。「この人は三昧(さんまい)の定(ぢやう)に入ったのだ。精神を集中し寂静の境地に達しておられる」。

そして七日が過ぎた時、恵如は不意に目を見開き涙を流して慟哭し始めた。弟子たちは意味がわからないので事情を尋ねる。恵如はいう。「そなたたち、まず私の脚を見るがよい」と、自らの脚を弟子たちの前に投げ出した。弟子たちが凝視して見ると、恵如の脚の一部は赤く焼け爛れ、限りない激痛が走っているらしい。「こ、これは?もともと恵如師の脚には傷一つなかったはずだが、たちまち赤く焼け爛れてしまっている」。

「『汝等(なむぢら)、先ヅ我ガ脚ヲ可見(みるべ)シ』ト云(いひ)テ、令見(み)シム。見レバ、大キニ焼ケテ赤ミ爛(ただ)レタリ、痛ム事無限(かぎりな)シ。見ル人問(とひ)テ云(いは)ク、『此レ、何(いか)ナル事ゾ。本(もと)、脚ニ恙(つつが)無シ。而(しか)ルニ、俄(にはか)ニ爛(ただれ)タルゾ』」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十六・P.164」岩波書店)

恵如はいう。「私は閻魔王に請われて王のもとへ詣でて来た。王はそこで仏道を行うよう私に命じられたのでそれに従った。七日を経た頃、王は私におっしゃった。『そなた、死んだ父母が今どのような姿でいるか、見たいと思わぬか』と。出来ることなら見たいものですと答えると、王は従者を遣わして呼び出させた。すると一匹の亀がやって来て私の足の裏を舐め、目からぽろぽろと涙をこぼすと、また去っていった」。

「我レ、閻魔王(えんまわう)ノ請(しやう)ヲ得テ、王ノ許ニ詣(まうで)タリツ。王ノ命(めい)ニ依(より)テ、道(だう)ヲ行フ事、七日ニ満(みち)テ後、王ノ宣(のたま)ハク、『汝(なむ)ヂ、死(しに)タル父母(ぶも)ノ有様見ムト思フヤ否ヤ』ト。『願(ねがは)クハ見ムト思フ』ト申ス時ニ、王、人ヲ遣(つかはし)テ召スニ、一ノ亀来(きたり)タリ。恵如ガ足ノ裏ヲ舐(めぶり)テ、目ヨリ涙ヲ出(いだ)シテ去(さり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十六・P.164」岩波書店)

閻魔王は、もう一人はどうした、とおっしゃる。従者はいう。「もう一人は重罪ゆえ、ここへ召し出すことはできません」。王は恵如を見て問いかける。「本当に見たいと思うか」。恵如は答える。「はい、見たいと思います」。それならと、閻魔は従者に命じて地獄を案内せよと告げた。従者は恵如を連れて地獄の門の前までやって来た。獄門は極めて堅固に閉ざされており従者が開けようとしてもびくともしない。そこで従者は門の外から声を張り上げて獄門を開けるように言った。聞こえたようで獄門の中から返事が返ってきた。すると従者は恵如にいう。「そなた、門のそばに立っていてはいけない。遠くで離れて待つように」。

恵如は従者の言葉に従い、門から離れたところへ立ち退いて待っていると獄門が開いた。その瞬間、地獄の猛焔が門からどろどろ流出してきた。鍛冶職人が槌を打ち下ろし鉄を鍛えている溶鉱炉ででもあるかのように、火花が爆発する星のごとくあちこちに散りほとばしっている。火花の欠片が飛んできて恵如の脚に降りかかった。びっくりしてすぐに払い落とし、目を上げて獄門の中を見つめると、「鉄(くろがね)の湯」=「釜茹でのためにどろどろに溶かされ煮えたぎる鉄」の中に百個ほどの頭ばかりが見えたかと思うとすぐに門は閉じられた。そのため、もう一人の親の今の姿に会うことは遂にできなかった。

「恵如、使ノ教ヘニ随(したがひ)テ立去(たちさ)ル間ニ、獄門開(ひらけ)ヌ。大キナル火、門ヨリ流レ出(いで)タリ。其ノ火、鍛治(かぢ)ノ槌(つち)ニ被打(うた)レテ散ル様(やう)ニ星ノ如クニ迸(ほとはしり)テ、一ノ星、恵如ガ脚ニ着ク。恵如、此レヲ迷(まど)ヒ払(はらひ)テ、目ヲ挙(あげ)テ獄門ヲ見レバ、鉄(くろがね)ノ湯ノ中ニ百ノ頭(かしら)有リト許(ばかり)見ル程ニ、門既に閉ヅ。遂ニ相見ル事不得(え)ズ成(なり)ニキ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十六・P.164~165」岩波書店)

恵如の話に周囲の弟子たちは言葉を失って呆然としている。恵如はいう。「閻魔王は仏道のお礼にと私に絹三十疋を与えようとおっしゃられたが、固く辞して頂かずにおいた」。一連の出来事を弟子たちに語って聞かせた後、恵如が自分の僧房に戻ると、房の床の上に固辞したはずの絹が置かれていた。脚の一部の焼け爛れた箇所は銭くらいの大きさで、百日少し経ってようやく治癒した。

「恵如ガ云(いは)ク、『王、我レニ絹三十疋ヲ与ヘ給フト云ヘドモ、我レ、固ク辞シテ不請給(うけたまへ)ズ』ト。帰(かへり)テ後、房(ばう)ニシテ見ルニ、此ノ絹、床ノ上ニ有リ。其ノ焼ケタル脚、大(おほき)ナル事銭ノ如クシテ、百余日有(あり)テ愈(いえ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第四十六・P.165」岩波書店)

さて。この説話に見えている特徴は恵如の脚に刻印された「大キニ焼ケテ赤ミ爛(ただ)レ」た火傷の痕跡である。言い換えれば「スティグマ」。古代、日本だけでなく、どこへ行っても鍛冶師は製鉄過程で目に障害を負って「一つ目」を余儀なくされたように、或る種の職業に従事する者らは特定の瑕(きず)=《スティグマ》を身体に刻印される。それは神々に捧げる犠牲者の場合にも共通する。柳田國男はいう。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)

あるいはジュネが自分自身について「卑怯者、裏切り者、泥棒、男色者」《として》「数知れぬ汚穢(おえ)」というスティグマの堆積物を自負するように。

「この、然りという言葉ーーーあるいはそれと同じ意味の文句ーーーを口にするやいなや、わたしは自分の心の中に、人がそうであるとしてわたしを非難したところの者になろうという欲求が起るのを感じるのだった。わたしは十六だった。読者はわたしの言うことの意味を理解されただろう、つまり、わたしの心の中にはすでに自分の潔白さの意識が宿りうるいかなる場所も残ってはいなかったのだ。わたしは自分がまさに人にそう思われたところの、卑怯者、裏切り者、泥棒、男色者であると認めたのだ。ときに人はなんの証拠もなしに罪を責められることもありうる。しかし、わたしが自分を罪ある者と認めるために、人を裏切り者とか、泥棒とか、卑怯者などとよばれる者にする行為を行なったのだと思われるかもしれないが、決してそうではなかった。わたしは少しばかり気長に自分を省みさえすれば、自分の裡(うち)にそうした名でよばれるだけの十分な理由を発見することができたのである。そして呆然(ぼうぜん)となりながら、自分が数知れぬ汚穢(おえ)から成り立っていることを知るのだった。わたしは穢らわしい者となった。わたしは次第にこの状態に馴れていった。やがてわたしは自分がそうであることを平気で人に言えるようになる。そして人々がわたしに寄せていた蔑(さげす)みが憎悪(ぞうお)に変った、ーーーわたしは、成功した」(ジュネ「泥棒日記・P.252~253」新潮文庫)

またクレルが殺人を犯すたびに戻ってくる石炭倉庫で全身を覆う石炭の喪服じみた「黒さ」のように。

「クレルは、他人にとっては夜に見えるが、自分にとっては光である塊であるだけに強く、船のいちばん底の領域で仕事をしているだけに強いのであった。最後に、彼は石炭の黒さのなかに、葬儀に用いる品物や道具の懐かしさ、その軽やかな重さを感じた。その顔を黒いヴェールでかくして、彼は自分の手にかかって殺された者の喪に服した」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.127」河出文庫)

さらに熊楠は「ダイダラボウシ、ダイラボッチ」に関心を示す。そのスティグマは「巨人の足跡」。

「大太法師より転訛して、本誌〔『東洋学雑誌』〕に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の俚伝をBenjamin Taylor,‘Storyology’,1900,p,11に列挙せる中に、『路側の巌より迸(ほとばし)る泉は、毎(つね)に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり』とあるを合わせ考えるうちに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の切は正見と謂うべし。再び攷うつに、『宇治拾遺』三十三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。その人体軀偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか。中古巨漢を呼ぶ俗間の綽号(あだな)と思わる。果たして然(しか)らば、大太は反って大太郎の略なり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.292』河出文庫)

柳田國男は熊楠から聞いたとしてこう述べる。

「南方熊楠(みなかたくまぐす)氏に聞いた話であるが、一本ダタラは誰もその形を見た者はいないが、しばしば積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足ずつ、印(しる)して行った跡を見るそうだ」(柳田國男「一目小僧・二」『柳田國男全集6・P.225』ちくま文庫)

巨人に畏怖すべき特権性を見る精神はもう一方で小人にも同様の特権性を認めないわけにはいかない。「一寸法師」。それは「ただ者(もの)にてはあらざれ、ただ化(ばけ)物風情(ふぜい)」である。

「生(うま)れおちてより後(のち)、せい一寸(すん)ありぬれば、やがてその名(な)を、一寸法師(ぼうし)とぞ名(な)づけられなり。年(とし)月をふる程(ほど)に、はや十二、三になるまで育(そだ)てぬれどもせいも人ならず。つくづくと思(おも)ひけるは、ただ者(もの)にてはあらざれ、ただ化(ばけ)物風情(ふぜい)にてこそ候へ」(日本古典文学体系「一寸法師」『御伽草子・P.319~320』岩波書店)

誰でも知っているように一寸法師は最後に金銀財宝に恵まれる。金銀財宝に恵まれるにもかかわらず、ではなく、それゆえ逆に上流階級からも最下層階級からもほとんど支持されない。上流階級から見ればただ単なる「成り上がり」に過ぎず、最下層階級から見ればむしろ自分たち嫌われ者を退治する側の「でしゃばり」に過ぎない。だから「一寸法師」伝説の支持者の多くは今なおどちらでもない不安定な市民階級に絞られてしまう。しかし重要なのはジュネ文学に出てくる倒錯した登場人物や「ダイダラボッチ」あるいは「一寸法師」などに象徴される「過剰・逸脱」という条件にほかならない。世界とその秩序〔価値体系〕を転換させる力とそのダイナミックな流動性は、そのような形を借りてでしか言語化することができないのだ。

もう一つ上げておきたいのは以前取り上げたもので、継母に追放された継子の説話・「鉢かづき」。

摂津国(今の大阪府)の国司を務める「山蔭(かげ)の三位中将(さんみちうじやう)」。その第四御子を「宰相殿御曹司(さいしやうどのおんざうし)」といった。この御曹司は家の中でも末っ子であり、さらに上の兄弟らとは価値観が異なっている。家を追い出されて惨めな境遇に叩き込まれ、そこらへんを彷徨い歩いていたところを保護される形で家に運び込まれ、使用人として働くことになったどこの誰とも知れない女性を自分の近くに置き、「湯殿(ゆどの)=風呂」へ一緒に入って身の周りの世話をさせる。

「御兄(あに)たちも殿上(とのうへ)も、御湯殿(ゆどの)へ入(い)らせ給ふ。かの鉢(はち)かづき『御湯(ゆ)、うつしさふらふ』と申す聲(こゑ)、やさしく聞(きこ)えける。『御行水(ぎやうずい)』とてさしいだす、手足(てあし)の美(うつく)しさ尋常(じんじやう)げに見(み)えければ、世に不思議におぼしめし、『やあ鉢(はち)かづき、人もなきに、何(なに)かは苦(くる)しかるべき、御湯殿(ゆどの)してまゐらせよ』との給(たま)へば、今さら昔を思ひ出して、人にこそ湯殿(ゆどの)させつれ、人の湯殿(ゆどの)をばいかがするやらんと思(おも)へども、主命(しうめい)なれば力(ちから)なし。御湯殿(ゆどの)へこそ参(まい)りける」(日本古典文学体系「鉢かづき」『御伽草子・P.67』岩波書店)

周囲は奇異の目で見るが御曹司は一向に気にしない。あれよという間に二人は体を重ね合わせてもはや切っても切れない仲に陥る。我慢の限界に達した山蔭の三位中将一家は二人を許すわけにはいかなくなり、先に二人は家出を決意する。ところがひょんなきっかけで思わぬ事態が起こり「鉢かづき」を巡る物語は急転する。「鉢かづき」もまた、社会的排除という過酷な一撃を受けた上で始めて成立する点に注目する必要性があるだろう。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

恵如の脚に刻印された「大キニ焼ケテ赤ミ爛(ただ)レ」た火傷の痕跡。この特権的《排除》なしに貨幣に等しい条件を得ることはけっしてできない。

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熊楠による熊野案内/震旦(しんだん)ノ予洲(よしう)・厠(かわや)の前に出現した鬼

2021年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「震旦(しんだん)ノ予洲(よしう)」(今の中国河南省・安徽省周辺)に恵果和尚(ゑくわわじやう)という高僧がいた。宋の時代(四二〇年~四七九年)の初頭、その都に入り、瓦官寺(ぐわくわんじ)という寺に住んで法華経・十字経などの経典の読誦に専心した。宋の「京師(けいし)=都」は「建康」(今の江蘇省南京)。

「宋(そう)ノ代ノ始メニ京師(けいし)ニ入(いり)テ、瓦官寺(ぐわくわんじ)ト云フ寺ニ留マリ住(ぢうし)テ、法花(ほくゑ)・十地(じふぢ)等ノ経ヲ読誦(どくじゆ)スルヲ業トス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十一・P.127」岩波書店)

或る時、恵果は厠(=便所)の前で一人の鬼と出くわした。鬼は恵果を見つけるといきなり取って喰うかというとそうでもなく、逆にうやうやしく改まった態度で近づき、こういった。「私は昔、お寺に務めておりまして、その寺の事務員をやっていた者です。実は事務局にいた時、少々誤りを犯してしまいました。だからでしょう、今は地獄で糞尿をがつがつ喰らいながら終わりの見えない世界へ堕ちています。ところで和尚は大変徳が高く、慈悲心に満ち溢れ、その恵(めぐみ)は殊(こと)にすぐれていらっしゃると伺っております。そこでもし出来ることならば、私を糞尿地獄の苦しみから助け出し、救って頂きたいのです。私は以前、三千の銭を持ち出して、どこそこの所にある柿の木の下に埋めて隠しておきました。それを掘り出して是非とも私の供養をしてもらいたいのです」。

「我レ昔シ、前(さき)ノ世ニ衆僧(しゆそう)ノ為ニ維那(ゆいな)ト成レリキ。而(しか)ルニ、少(す)コシ、誤(あやま)テリシ事有(あり)シニ依(より)テ、今糞ヲ噉(はめ)ル鬼ノ中ニ堕(おち)タリ。聖人(しやうにん)ハ、徳高クシテ業(げふ)明カニ、慈悲広大ニシテ利益殊勝(りやくしゆしよう)ニ在(ましま)スト聞ク。願(ねがは)クハ、我ガ此ノ苦ヲ助ケ救ヒ給(た)マヘ。我レ昔シ、銭三千ヲ持(も)テ、然々(しかしか)ノ所ノ柿(かき)ノ下(もと)ニ埋(うづ)メリキ。其ノ銭ヲ掘(ほ)リ出(い)デテ、我ガ為ニ功徳(くどく)ヲ修(しゆ)シ給ヘ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十一・P.127~128」岩波書店)

鬼は恵果にその柿の木の場所を教えた。恵果は寺の雑用に従事する僧らに命じて掘らせてみると実際に三千の銭が出てきた。そこで法華経一部(巻第八・普賢菩薩勧発品・第二十八)を写経し、その鬼のために法会を開いて供養してやった。しばらく経った或る夜、恵果の夢の中にその鬼が出てきた。恵果に向かって丁寧に礼拝するとこう述べた。「和尚様の功徳によって私は今や鬼道から解放され、新しい人生を生き直せることとなりました」。

「我レ、既ニ聖人(しやうにん)ノ徳ニ依ルガ故ニ、鬼ノ道ヲ免(まぬか)レテ生ヲ改(あらたむ)ル事ヲ得タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第七・第二十一・P.128」岩波書店)

その途端、ふっと恵果の夢は覚めた。

さて。この説話には四箇所の異界が出てくる。第一に「厠(かわや)」。古代から便所は異界性を帯びた特別な空間と見做されてきた。厠神(かわやがみ)伝説は日本にも数多い。水洗トイレの普及とともになくなるかと思えばそうではなく、今度は学校や職場でのいじめの場所へと様変わりし、今なお被害者の怨念を残す領域へ変化しつつ様々な怪異伝説を生み出し続けている。

第二に「柿の木」。本朝部から幾つか取り上げてきたように「不成(なら)ヌ柿ノ木」は或る共同体と別の共同体との境にある。「巻第二十・第三話・天狗(てんぐ)、仏(ほとけ)と現(げん)じて木末(こずえ)に坐(いま)せる語(こと)」に、今の京都市下京区五条西洞院薮下町・「五条の道祖神(さえのかみ)」にあった不成(なら)ぬ柿の木に黄金に光り輝く仏が出現した話が見える。周囲は宮中の貴人から下々の衆まで大勢の人々が拝みにやってきてごった返した。しかしなぜ仏でなく天狗の所業だとばれたのか。木の梢(こずえ)はそもそも鬼の定位置であり、そこに仏が出現するとはいかにも不審。そう思った「光(ひかる)の大臣(おとど)」によって正体を見破られ、天狗は翼の折れた屎鵄(くそとび=のすり)と化して木から落ちた。また「巻二十八・第四十話・以外術被盗食瓜語(ぐゑずつをもつてうりをぬすみくはるること)」では、一人の翁が現れて運送請負人一行が籠に積み込んで運んでいた沢山の瓜をあっという間に場所移動させて皆で食ってしまい、籠の中に積み込んでおいたはずの瓜を空っぽにして見せた。そこも大和国(やまとのくに)から平安京への入口に当たる宇治市六地蔵の辺りにあったという「不成(なら)ヌ柿ノ木」の木陰。五条の道祖神も宇治市六地蔵付近も長く「境(さかい)」として位置付けられていた。或る共同体と別の共同体との間に位置し、そこを境界線として両者の秩序〔価値体系〕が異なる地点。だから古くから取引・交換・売買・交易の場として栄えた歴史を持つ。

第三に「糞と銭」。フロイトは「贈物」という概念を通して、幼児の糞便と大人の金銭とをアナロジー(類似・類推)で結びつけた。

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

さらにメラニー・クラインはこう述べている。

「子どもの内のサディスティックな攻撃性はその対象として父親と母親の両方を選び、父親と母親も子どもの空想の中で、殴られ、ずたずたに裂かれ、切られ、細切れに踏みにじられるのである。しかし、子どものこの攻撃性は、結合した両親から罰せられるのではないか、との不安を呼び起こす。そしてこの不安はまた、対象の口愛-サディズム的取り入れによって中和され、かくして早期の超自我形成に向かってすでに方向づけられている。ーーーー私の経験では、母親の身体に向けられる空想化された攻撃性では、かなりの部分が尿道愛的サディズムや肛門愛的サディズムによって占められて、それらは口愛的サディズムや筋肉サディズムのすぐ後につけ加えられてきたのであった。空想においては、排泄物は危険な武器に変えられるーーーすなわち、おもらしは切ったり刺したり火をつけたり水浸しにしたりすることとみなされるし、糞塊は武器や飛び道具と同等のものとみなされる。今まで述べた時期の後半になると、このような攻撃性の荒々しい様相は、サディズムが工夫できる最も手のこんだ方法による《隠れ襲撃》という形に変化する。かくして、排泄物は有毒物質と同等にみなされるようになる」(メラニー・クライン「自我の発達における象徴形成の重要性」『メラニー・クライン著作集1・P.265~266』誠信書房)

だからといって、子どものサディズム的衝動をすべて奪い取ってしまえばいいかというと、そうではないとデリダはいう。メラニー・クラインを参照しつつ一定程度のサディズムは必要であり、もしそれがまったくなければいかなる学習能力も人間から消え失せてしまうだろうと。

「フリッツには、彼が《文字を書いて》いる時には、行は道を意味し、文字はその道ーーーいわばペンーーーの上を二輪車に乗ることを意味していた。例えば‘i’と‘e’は1台の二輪車に乗って一緒に走っていてーーー‘i’が通常運転していたが──現実の世界ではまったく見ることのできないような優しさで、2人はお互いに愛しあっていた。というのは、2人はいつも互いに一緒に乗っているので、大変似てきてお互いの相違もほとんどなくなってしまっていた。というのは、‘i’と‘e’は初めも終りも同じであり、ーーー彼はラテン語の小文字アルファベットの話をしているのだがーーー‘i’は真ん中に小さなストロークをもっており、‘e’は小さな穴をもっているだけであった。ゴシック文字の‘i’と‘e’は、彼によると、それらは1台の二輪車に乗っているが、ゴシックの‘e’は、小さな箱をもっているのに対して、ラテン語の<e>は小さな穴をもっているといった別の型の二輪車のような違いにすぎなかった。‘i’たちは、非常に技術がうまくて優れて賢いし、たくさんの武器をもち、洞穴ーーーその間には多くの山や庭や港があるがーーーに住んでいた。それらはペニスを意味し、それらの道は性行為を意味していた。一方、‘I’たちは、バカで無器用でなまけもので汚いことを意味していた。彼らは地下の穴で生活していた。‘L’の街では、ゴミと紙が道路に集まっていた。ーーーその小さな‘汚ならしい’家々の中では、‘I’の国で買った染料を水とまぜて、ワインとして飲んだり売ったりしていた。彼らはうまく歩くことができず、鍬を反対にもっているので掘ることもできない、といった具合であった。‘I’という文字はいわば糞便を意味していることもわかった。このように、いろいろな空想が他の文字に対しても話された。かくて、彼は、空想がこの制止の説明と解釈を与えてくれるまで、2つ続く‘S’を書けなくて、いつも1つだけ書いていた。‘S’の1つは彼自身であり、他は彼の父親であった。彼らはモータボートに乗って一緒にでかけた。というのも、ペンはまたボートを意味しており、ノートは湖を意味していたからである。彼自身である‘S’は、他の‘S’が所有しているボートに乗り込んで、すばやく湖に船出していった。これが、なぜ彼が2つ続きの‘S’を同時に書けなかったかの理由であった。彼は長い‘S’の代わりによく普通の‘S’を使ったが、それは、こうして取り残された長い‘S’の部分は彼にとっては‘人の鼻を持ち去られるようなもの’、という事実に基づいて決定されていたことがわかった。この誤りが父親に対する彼の去勢願望のためであることがわかったので、そう解釈すると、その誤りは消失した」(メラニー・クライン「子どものリビドー発達における学校の役割」『メラニー・クライン著作集1・P.75~76』誠信書房)

第四に「夢」。これについては前回「巻第六・第二十二・震旦貧女(しんだんのまづしきをむな)、銭供養薬師像得富語(ぜにをやくしのざうにくやうしてとみをえたること)」で述べた。「言語流通装置《としての》夢」についてはさらに述べる機会があるだろう。

翻って江戸時代の日本。「厠(かわや)」の中から消えて二十年間行方不明だった男性が再び出現した説話が「耳袋」に見える。寛延(かんえん)宝暦(ほうれき)の頃(一七四八年〜一七六三年)。江州八幡(今の滋賀県近江八幡市)に松前市兵衛(まつまえいちべい)という、そこそこ富裕な男性がいた。財産と妻を残し突然行方不明になってしまい、金銀を惜しまず捜索に当たったが発見できない。妻は仕方なく、夫の市兵衛が行方不明になった日を命日とし、別の男性を迎えて再婚した。市兵衛がいなくなった時の状況は次の通り。

或る夜、市兵衛は「用場(ようば)」(便所)へ行くといって下女に灯火を持たせて「厠(かわや)」へ行った。下女が外で待っているといつまで経っても市兵衛は出てこない。市兵衛の妻は最初、下女に下心があるのではと疑った。で、厠へ行って見てみると下女は厠の外でただ突っ立って待っているばかり。不審に思った妻は厠の前から声をかけてみた。「なぜこんなに長いのですか」。ところが一向に返事がない。思い切って戸を開けてみるともはや市兵衛の姿は消え失せていた。

「彼の失せし初めは、夜に入り用場へ至り候とて下女を召連れ、厠(かわや)の外に下女は灯(とも)し火を持ち居しに、いつまで待てども出でず。妻は、右下女に夫の心ありやと疑いて、かのかわやに至りしに、下女は戸の外に居しゆえ、『何ゆえ用場の永き事』と表よりたずね問いしに、いっこう答えなければ戸を明け見しに、いずち行きけん行方なし。かかる事ゆえそのみぎりは、右の下女など難儀せしとなり」(根岸鎮衛「二十年を経て帰りし者の事」『耳袋1・巻の五・P.407』平凡社ライブラリー)

それから二十年ほどが過ぎた或る日。厠の中から人を呼ぶ声が聞こえる。行って見ると行方不明になっていた市兵衛がいる。いなくなった時に身に付けていた服装のままだ。人々は仰天して一連の事情を語って聞かせたが、これといった反応はない。腹が減っているらしく食事は沢山取った。しばらくすると着ている衣服が埃のように消え失せ、市兵衛は素っ裸になってしまった。そこですぐさま衣類を着せて薬を飲ませたりしてみたところ、二十年前に自分が厠の中から消え失せてしまったことなど何一つ覚えていない様子。病気を患っているように見えるので、その種の祈祷師など呼んで加持祈祷してもらったりしたけれども全然効果がなかった。

「しかるに二十年ほど過ぎて、或日かのかわやにて人を呼び候声聞えしゆえ、至りて見れば、右市兵衛、行方なくなりし時の衣服に少しも違いなく坐し居しゆえ、人々大きに驚き、『しかじかの事なり』と申しければ、しかと答えもなく、空腹の由にて、食を好む。さっそく食事などすすめけるに、暫くありて着し居候衣類も、ほこりのごとくなりて散りうせて裸になりしゆえ、さっそく衣類を与え薬などあたえしかど、何かいにしえの事覚えたある様子にもこれなく、病気或いは痛む所などの呪(まじない)などなしける由」(根岸鎮衛「二十年を経て帰りし者の事」『耳袋1・巻の五・P.407~408』平凡社ライブラリー)

その後、既に妻は再婚しているので、妻と、再婚した夫と、そこへかつての夫である市兵衛を交え、奇妙な新生活が始まったという。しかしこの、厠を中継点とした「二十年の不在」説話が一体何と関係するのか、よくわからない。時代背景としては、地方の人口減少が露わになり始め、疲弊するばかりの農村の実情や一揆の多発がある。説話に宝暦(ほうれき)の頃とある。宝暦が終わり明和(めいわ)になるが、明和二年、幕府は間引き厳禁令を出した。労働力確保のためだが、しかし農村で子どもが生まれないわけではない。ところが生きていくためには生まれてきた嬰児をすぐさま殺すほか農民らは食べていくすべがなかった。流産は当時、大変な危険を伴う処置であり母子とも同時に死ぬ場合が多かった。なので生まれたばかりの嬰児の鼻と口を塞いで窒息死させる。それが間引き。産婆がその役割を引き受けていた。もし産婆がいない場合はどうしたのだろう。例えば厠で用を足している時、うっかりして手が滑り、生まれたばかりの嬰児をそのまま取り落としてしまったという話なら幾らでもある。

逆に幕府の役人が地方を巡回して廻ると、農民らはしばしば酒びたりになっていたり、どんちゃん騒ぎでまともに畑仕事に出ていない光景ばかりが目に付くようになる。だから幕府に上げられてくる情報は地方の疲弊というより地方の農民は仕事をさぼりがちだというマイナス・イメージばかりが行き交い、実態に即した情報は中央政府に届かなくなりつつあった。徳川幕藩体制という政治構造の中では、農民らの暮らしを苦しめて止まない不安定な労働環境という項目は、ともすれば覆い隠されてしまうのである。ただ明治近代になって柳田國男が「遠野物語」の中でこっそり、わかるようにしかわからないような形式で、農山村の悲惨さを報告してはいるのだが。

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熊楠による熊野案内/「震旦(しんだん)ノ辺土」の独身女性と労働力の置き換え可能性

2021年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「震旦(しんだん)ノ辺土」は中国の片田舎を指す。特にどこという指定はない。指定がないのは説話掲載に当たって特に指定する必要性がないのと、そもそも広大な領土を持つ古代中国では辺鄙な土地であればどこにでもあったことによる。

或る片田舎に貧しくなおかつ「寡(やもめ)=独身」の女性がいた。「要略録」では「孤独自活」と記されている。もっとも、「孤独」と記するとはいえ、今のように独り身で淋しいとか周囲から孤立しているとかいった意味はない。逆にシングル・マザーのように自ら積極的に選択したライフスタイルといった意味もない。ただ「単身」で生活を送っているということ。また古代から近代にかけて、中国に限らず世界中で、単身者は何かと暮らしに不自由することが多かった。戦後少しずつ改善されたとはいえ今なお多いのは今回のパンデミックでこれまでの社会構造が根底から問われ直すきっかけになったわけだが。

ところで、片田舎で暮らすその独身女性はほとんどまったくといっていいほど貯蓄がなかった。あるのは、ただ「一文(いちもん)ノ銅(あかがね)ノ銭許(ばかり)」。説話でいう「一文(いちもん)ノ銅(あかがね)ノ銭」は、正確な貨幣価値に換算して幾らということではなく、最も安価な金銭を意味する。それが少しばかり残っている。女性は思う。「わずか一文のお金だけど、自分のためだけの資産や食料と交換してそれで終わりにしてしまっていいのだろうか。そうではないだろう。せめて残された僅かなお金だけでも仏様にお供えして差し上げよう」。

「此ノ一文ノ銭、我ガ為ニ一生ノ間ノ資糧(しろう)ト不可成(なすべから)ズ。然レバ不如(しか)ジ、我レ、此ノ銭ヲ以(もて)、仏像ニ供養シ奉ラム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)

そう決めるとさっそくお寺に詣でて、霊験あらたかと言われる薬師如来の前に賽銭を奉納して家に帰った。それから七日を経た或る日、隣県の富裕な家に夫婦が住んでいたのだが、その妻が突然死してしまった。夫は再婚相手を探してみたけれども、思い通りの条件に合う相手を見つけることはできずにいた。

「隣ノ里ニ一人ノ富(とめる)人有リ。其ノ妻(め)頓(にはかに)死(し)シヌ。然レバ、其ノ夫有(あり)テ、妻(め)ヲ求ム。然而(しかれど)モ、心ニ随フ事ヲ不得(え)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)

そこで例の、著しくご利益があると評判の薬師如来のところへ詣で、理想の再婚相手に巡り会えるよう祈願した。その夜。夢に一人の僧が出てきた。そしていう。「そなた、実は隣の里に一人の貧窮して困っている女人がいる。その女人を速やかに新しい妻として迎えなさい」。

「汝(なむ)ヂ、速(すみやか)ニ、其(それ)ノ里ニ一人ノ貧(まづしき)女有リ、其レヲ以テ妻(め)ト可為(なすべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)

夢から醒めると男性は隣県へ出かけて行き、その独身女性を探し出して求婚した。女性はいう。「わたしの家はたいへん貧しく、せっかくですが、はいそうですかと簡単にお受けすることはできかねます」。

「我レ、家貧クシテ此ノ事ヲ可承引(うけひくべ)キニ非ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第二十二・P.54」岩波書店)

男性は夢に出てきた僧の話を語って聞かせた。すると女性にも心当たりがあったのか遂に結婚することになった。それから数年が経ち二人は三男二女をもうけた。もともと富裕な家だったが富裕さもまた衰えることはなかった。

さて。説話の転回点を成しているのは男性が見た夢である。夢を境として事態が転倒するのは「今昔物語」の特徴の一つ。さらに夢の中で語られる言葉は大変明確だ。そしてこの説話では隣の「里ニ一人ノ貧(まづしき)女有リ」と、境界線を跨ぎ越えることが条件の中に詰め込まれている。夢を境としているだけでなく、実際に県境を越えることが転回を実現する。男性の側は第一に夫婦から単身者への転化。第二に単身者から夫婦への復帰。女性の側は貧窮している独身生活から富裕な共同生活への転化。妻にせよ夫にせよ置き換えることができる、という点に注意しておこう。それはずっと後にイギリスの産業革命で労働力が問題となった時、労働力商品の置き換え可能性がもはや自明化していたことと奇妙な一致を示している。

ところで夢を見ている時、人間の脳の中で起こっていることについては今なおよくわかっていない。しかしベルクソンは脳の機能について「一種の電話交換局にほかならない」と述べている。

「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫)

夢は言葉だけで構成されているわけではなく或る種の光景を伴う。だがその光景もまた言葉と同じく視覚化された言語であることに変わりはない。言語はもちろん深層などではなく表層である。また、夢でしかないとはいえ、説話に登場する夢の中の言葉はいつも決まって大変明確な輪郭を取って語られる。だが明確であろうとなかろうと言語は貨幣と同様に一般的なものであり、従って微細な部分を削り落として始めて出現することができるという条件を持つ。

「輪郭のはっきり決まっている言葉、人間の諸印象のうちの安定したもの、共通なもの、したがって非人格的なものを記憶に蓄えている剥き出しの言葉は、私たちの個人的な意識の微妙で捉えがたい印象を押し潰すか、あるいは少なくとも覆い隠してしまう」(ベルクソン「時間と自由・P.158」岩波文庫)

言語は、それまで見えなかったものを可視化し現わすとともに、なぜそうなったかという過程を覆い隠すものでもある。ニーチェはいう。

「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)

一般化される限りで出現し可視化されるが、一方、そこへ立ち至った過程と微細な部分とを脱落させなければ、出現し可視化されることはけっしてない。この極めて困難なダブルバインドはいつどのようにして乗り越えられるのだろうか。

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