主人公はエルムノンヴィルへの途中で「道に迷いそうになった」。意識が曖昧になる。「道しるべの板の文字が、ところどころかすれていたから」迷うわけではない。「道しるべの板の文字が、ところどころかすれていたから」といって、必ずしも迷う必然性は出てこない。後の記述にあるように、目的地の情景はあまりにも細かく詳述されている。にもかかわらず、ここだけが、かつては頻繁に通った目的地へ至る途中の一部だけが、なぜこうも曖昧になっているのか、が問題とされなくてはならない。
「一瞬、道に迷いそうになった。さまざまな岐路を示す道しるべの板の文字が、ところどころかすれていたからである」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.249』岩波文庫)
だからといってこれはネルヴァルのミスではない。或る価値観を持つ場所から別の価値観を持つ場所への移動にはいつもぼんやりした意識混濁が伴う。たとえばイギリスのヴァージニア・ウルフ作品ではそのような過程が頻出する。手持ちの理論や常識的考え方ではとてもではないが「分析できない」ような意識状態に陥ったとき、作品「船出」の主人公レイチェルは或る事実の発見に立ち至る。
「分析できない感情をいくつも抱え込むという、これまでなかった事態に陥ったレイチェルは、自分の精神状態に何か良い効果をもたらす計画を立てることは不可能だった。ーーーわたくしが抱いているこの感情には名前がない、と思った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.65」岩波文庫)
デビュー作品「船出」ではまだ単純である。旅行という形を取ってイギリスから南米への地理的移動から描かれているためか、それにともなう変化はあらかじめ想定されていると言える。しかし作品「灯台へ」では大仕掛けな場所移動があるわけではない。ラムジー夫人がさまようのは夜の思索の時間帯であり、あくまでも思索の中でという限定条件のもとにおいてであり、しかしそれゆえに、さまよい出ていくのはニーチェのいう意味での「力」である。
「考えること、いや考えることでさえなく、響き合いながら広がっていたすべてのものが、ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに、自分が本来の自分に帰っていくような、他人には見えない楔形(くさびがた)をした暗闇(ダークネス)の芯になるような、そんな気がする。相変わらずすわって編物を続けながら、夫人はこんなふうに自分の存在を感じていた。そしてこの隠れた自分は、余分なもの一切を脱ぎ捨てているので、自由に未知の冒険に乗り出すこともできそうだった。日常の人生がしばしの間見えなくなると、体験の領域は途方もなく広がり始める。誰にだって、この無限の力を感じることはできるはず、と彼女は思った。ーーー黒い楔形にならず普段の自分でいる限り、安らぎなどは見出しようがない。日頃の自分を脱ぎ捨ててこそ、苛立ち、焦り、心の動揺などがかききえていく。そしてこの平穏さ、この休息、この永遠の時間のただ中で、さまざまの事が一つに重なり合うとき、夫人の口許には、われ知らず、人生に対する勝利を謳(うた)う声が浮かんでくるーーー。いつもこんな時間にこんな気分で周囲を見ていると、見ている何かに自分が溶け込んでいくような気がする」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.115~117」岩波文庫)
ラムジー夫人より若年層に属する画家志望のリリーは、立場上、ラムジー夫人を観察できる有利な立場にある。そんなリリーだが、しかし、見た目には全然わからないものの、或る種の錯乱状態に陥る。その直前、リリーは意識混濁を起こしている。印象的なシーンだ。
「リリーは外界についての意識を失い始めていた。そして周辺の事物の印象が薄れ、自分の名前や性格や容貌なども忘れて、ーーー彼女の心は、その奥底から、さまざまな場面や名前、言葉や記憶や観念を、まるで噴水のように噴き上げていった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.307」岩波文庫)
さらに、南米でもなく地方都市でもなく、ほかならぬロンドンのピカデリー周辺で、ダロウェイ夫人は気まぐれな散歩という過程を通過中に、次のように様々な思考を産出する。
「彼女はとても若いような気もし、お話にならないほど老けた気もした。ナイフみたいにあらゆるものの中へ切りこむし、外部にいて眺めてもいる。タクシーの群れを眺めていると、遠い遠い海の上にひとりぼっちでいるような、そんな気持ちによくなるし、たった一日でも生きていることが、とてもとても危険だという感じが、しょっちゅうする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.13~14」角川文庫)
「自分はやがてかならず死滅するってことは、それほど大変なことなのかしら。わたしがいなくなっても、これらのすべてのことは平気でつづいて行くにちがいないってことは、怪(け)しからぬことなのかしら?それとも、いっそ、死は絶対に自己消滅だと信ずることが、かえって安心できるんじゃないかしら?自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物のうちに生きる、と信ずることが。だって、わたしは故郷の木々の一部分にちがいないのだ、また、あそこにいく棟にも分かれたしまりのない醜い家の一部分、会ったこともない人々の一部分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.15」角川文庫)
「しかし今も時々、自分のものであるこの体が、(彼女はオランダの画家の絵を観るために立ちどまった)この体が、さまざまの能力をそなえていながら、まるでないもののようにーーーまったく知られないもののように思われるのだ。自分自身が眼に見えぬものとなり、ひとに見られず、知られないような、妙な気がする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.17~18」角川文庫)
だからといってイギリスのウルフだけが特別だというわけではない。アメリカに渡ってみよう。フォークナーは書いている。
「彼は太陽が、やはり傾いた位置ではあったが、反対の方角から照りつけているのに気づいた。初め彼は自分が身を回していたからだと思った。それから、いまが夕方なのに気づいた。走っていて倒れたのは朝だったが、そしてそれから自分ではすぐに起きあがったように思えたが、いまは夕方なのに気づいた。『俺は眠ってたんだ』彼は思った。『六時間以上も眠った。走っているうちに知らずに眠りこんじまったんだな。どうもそうらしいな』彼は別に驚きを感じなかった。もう時間は、光と闇の領域は、とっくにその秩序を失っていた。ふと瞼(まぶた)を閉じ、一瞬とも思える時間の後で目を開けば、光か闇のどちらかが、入れかわっているといった感じだった。その一方から他方へ移るのが何時(いつ)のことか、彼には分らなくなっていた、自分が横になったのさえ知らず、眠りこんだのは何時か、覚めたのもおぼえずに歩きだしたのは何時か、彼には分らなかった。時には一夜の眠りがーーー藁(わら)塚や溝の中、空家(あきや)の屋根の下での眠りがーーー逃亡の時間である光や昼間を挟(はさ)まずに、すぐ次の一夜につながるように思われ、また逆に一つの昼間が逃亡と切迫感に満ちた次の昼間へと続き、その間は夜も休息のひまがなく、太陽はまるで沈むどころか、地平線に達する前にまた後戻りしているかに思われた」(フォークナー「八月の光・P.347~348」新潮文庫)
クリスマスは眠りのうちに昼と夜とがすでに等価性を持って実在していることに気づく。クリスマスは睡眠しているのであり意識混濁しているわけではないのだが、眠っているうちにクリスマスだけでなく世界中の人間はいったいどのような意識状態に陥っているかを考えてみれば驚くことは何一つない。クリスマスが気づいた重要なことは、一九三〇年頃のアメリカ社会にはもはや昼夜の区別はないに等しいという認識である。「六時間以上」眠ったはずだから日中に眠りだしたとすれば起きた時は夜であり逆なら逆であるにもかかわらず、「もう時間は、光と闇の領域は、とっくにその秩序を失っていた」と感じるほかない社会が出現した。そのような社会的規模の変化は睡眠と睡眠とのあいだの覚醒状態を通して意識化される。しかし覚醒と覚醒とのあいだの睡眠状態あるいは混濁状態を通過することなくして認識することは誰にもできない。そして一九三〇年代前半のアメリカ社会は、アメリカ全体がいつも、打ち続く不況の中を模索する途上に自分で自分自身の身を置いたという事実を抜きにして語ることはできない。
「アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.275」河出文庫)
一九二〇年代アメリカの、十年に渡る祝祭の日々、十年に渡るバブル、という「過去を-持っている」社会において、覚醒と睡眠との境界線は消滅しだし、「夜も休息のひまがなく、太陽はまるで沈むどころか、地平線に達する前にまた後戻りしているか」のような事態が出現した。そしてそのような諸力の運動は自動的に反復を《欲する》するほかなく、反復はその反復をさらに加速していくばかりの社会を出現させることになる。
ネルヴァルに戻ろう。エルムノンヴィルというのは主人公にとってどのような地だろうか。
「『アナルカルシス』と『エミール』の情景を興趣豊かに実現したような眺めを前にすると、かつてこの領地を所有していた人物がよみがえらせた、哲学的な古代のあらゆる記憶がそっくり戻ってきた」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.249~250』岩波文庫)
かつて「この領地を所有していた人物」が創設した地。別のところでこう書かれている。
「林のただ中にスイスを思わせるような風物がくっきりと現れ出るのは、自らの一族の故郷のおもかげを移植しようとしたルネ・ド・ジラルダンのアイデアによるものです」(ネルヴァル「アンジェリック」『火の娘たち・P.174』岩波文庫)
ただ、「スイス」といっても今のような国連規約に基づく「中立国」ではなく、そもそも「中立」などという立場は存在しない。存在しないがゆえにわざわざ当時の「理想主義者」の一群はそのような地を夢見たのだった。そして比較的恵まれた層に属する人々はそれをほんの僅かではあるが実現して見せもした。しかし主人公が見ている光景はそれから百年後の光景である。もはや廃墟、残骸である。ところが廃墟、残骸ゆえにますます想像力は羽ばたく。なかでもルソーが尊敬されているのはその理想主義にもかかわらず、実をいうとその緻密な分析にあったのではと思わせる部分がある。人間は近代化とともに「生活の知恵」あるいは「技術」を身につけたが、並行して、身体の可能性をだんだん喪失してきたのではなかろうかという問いである。
「未開人の身体は彼が知っているただ一つの道具であるから、彼はそれを今日では練習の不足のためにわれわれの身体ではできないようなさまざまな用途に使う。そして未開人が必要にせまられて獲得する力と敏捷さとをわれわれから奪いとるのは、じつにわれわれの生活の知恵なのである。もし彼が斧をもっていたなら、いま、彼の手首はあれほど強い枝を折るだろうか?もし石投げ器をもっていたなら、手であれほど力一杯に石を投げるだろうか?」(ルソー「人間不平等起源論・P.43」岩波文庫)
なるほど人間は「石投げ器」を発明し、さらに「生活の知恵」をいつも口実として利用しながら、その延長上で遂に原爆を発明した。また、ルソーは思想家であって「自称-予言者」というような近現代のほら吹きでもなんでもない。その上で次のようにいう。社会の上層部に属する人間たちがどさくさ紛れに「共通の敵を斥(しりぞ)け」ようと掛け声を上げ出したときは、それがなんであれ慎重に考え行動するようにと。
「富者は、隣人たちすべてを相互に対抗して武装させ、彼らの所有を彼らの欲求と同じように負担の大きいものにする状況、しかもどんな人も富のなかにも貧しさのなかにも安全を見出さないような状況の恐ろしさを彼らに説明してから、富者は隣人たちを、自分の目的へつれてゆくためのもっともらしい理由を、容易に説明したのである。彼は彼らにむかって言った。『弱い者たちを抑圧からまもり、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。正義と平和の規則を設定しよう。それは、すべての者が従わなければならず、だれをも特別扱いをせず、そして強い者も弱い者も平等におたがいの義務に従わせることによって、いわば運命の気紛(きまぐ)れを償(つぐな)う規則なのだ。要するに、われわれの力をわれわれの不利な方に向けないで、それを一つの最高の権力に集中しよう、賢明な法に則ってわれわれを支配し、その結合体の全員を保護防衛し、共通の敵を斥(しりぞ)け、われわれを永遠の和合のなかに維持する権力に』。粗雑でおだてに乗りやすい人々をそそのかすためには、こんな弁舌に似たものすら要らないぐらいであった。もっとも彼らは、たがいの間で解決すべき事件があまりに多すぎて、仲裁者なしではすませなかったし、また、強欲と野心とがありすぎて、長い間、主人なしではすませなかったのだ。だれもかれも自分の自由を確保するつもりで、自分の鉄鎖へむかって駆けつけた。なぜなら、彼らは、政治制度の利益を感ずるだけの理性はもっていたけれども、その危険を見通すだけの経験をつんでいなかったからである。その弊害をもっともよく予感しえたのは、まさにこれを利用しようと思っていた者たちであった」(ルソー「人間不平等起源論・P.105~106」岩波文庫)
新しい政治制度がもたらす「弊害をもっともよく予感しえたのは、まさにこれを利用しようと思っていた者たち」だった。それは一般的な次元では一七八九年フランス革命前後にようやくはっきりしてきた。資本主義的生産様式を貫徹するためには「自由・平等・平和」というスローガンで一般大衆の総意を経る必要があったわけだが、ただ単にスローガンとして終わらせるだけではせっかく獲得した自由貿易体制であるにもかかわらず、特権階級だけの特権だと見抜かれてたちまち瓦解してしまう恐れがあった。だから生成期の資本主義はまだむき出しの暴力装置=国家を必要としていた。したがって支配者層が早急に必要としたのは新しい政治制度をよりいっそう打ち固め資本主義を確実なものにするための仕組み作りである。当時の富裕層は自分たちと一般市民とのあいだに議会と民主主義という形式を作り上げ押し込むことで一般大衆に少しばかり譲歩した。政治的装置として快調に作動するまでには幾つもの試練を経ることになるのだが、差し当たりこの形式民主主義という政治形態は成功をもたらした。ところがしかし、この譲歩は、最も上層に位置する富裕層からみれば自らの利益に反する「弊害」に見えて仕方がない。ところがこの譲歩なしに資本主義と自由貿易はない。計算するまでもなかった。まず最初に譲歩しておきナポレオン体制樹立と同時に確実となった資本主義は、だからフランスにおいて「徹底的」になされたと言われているわけである。もはや過去形だが。
さて、朦朧たる睡眠と覚醒との違いについてネルヴァルはこう述べる。両者のあいだにまだ区別が実在した最後の時期に属する。しかしネルヴァルは「道化=非理性=狂気」が混雑しながらも実在した古典主義時代の作者ではない。その後、古典主義時代に起こった事態の反復として十九世紀半ば突如として現われた。「オーレリア」発表は一八五五年。
「私にとって覚醒と睡眠との唯一の相違は、前者に在っては、一切が私の眼に変容することだった。近づいて来る一人一人が別人に見え、物品はその形を変える半陰影のようなものを帯び、光の反映、色の配合は崩れて、私を不断の一連の印象の中に置くのであった。それ等の印象はばらばらのものではなく、より外的要素を脱した夢によって、その真らしさを保たれて行った」(ネルヴァル「オーレリア・P.16」岩波文庫)
覚醒時に見るものはすべて諸商品の無限の系列のように変容してばかりいる。当たり前といえば当たり前だが。次のように。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
だが「外的要素を脱した夢によって」始めて「保たれる」ものがあり、ネルヴァルにはそれこそが「真らしさ」に思える。マルクスにすればそれは「夢」というフィルターを通してではなく、明らかに自然力としての労働力だということになるだろう。けれどもネルヴァルは「労働力だけ」でひとくくりにしようと考えているわけではない。ネルヴァルが考えているのは多分、後にニーチェがいうことになる「力への意志」だろう。アルトーにすればそれは「器官なき身体」である。しかしもっと重要なことは、ニーチェのいうように、夢を見ているとき人間は「不完全な状態に後退させられている」という事情を前提として、古代には「幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる」ばかりか、その傾向は現代人の頭の中でさえ今なお何度も繰り返し生き生きと反復されているという点だろう。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらあこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
さらにニーチェはしばしば言うのだが、一度古代人を理解したなら、今度は古代人の側から現代人の行動をじっくり観察してみるべきだと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「一瞬、道に迷いそうになった。さまざまな岐路を示す道しるべの板の文字が、ところどころかすれていたからである」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.249』岩波文庫)
だからといってこれはネルヴァルのミスではない。或る価値観を持つ場所から別の価値観を持つ場所への移動にはいつもぼんやりした意識混濁が伴う。たとえばイギリスのヴァージニア・ウルフ作品ではそのような過程が頻出する。手持ちの理論や常識的考え方ではとてもではないが「分析できない」ような意識状態に陥ったとき、作品「船出」の主人公レイチェルは或る事実の発見に立ち至る。
「分析できない感情をいくつも抱え込むという、これまでなかった事態に陥ったレイチェルは、自分の精神状態に何か良い効果をもたらす計画を立てることは不可能だった。ーーーわたくしが抱いているこの感情には名前がない、と思った」(ヴァージニア・ウルフ「船出・下・P.65」岩波文庫)
デビュー作品「船出」ではまだ単純である。旅行という形を取ってイギリスから南米への地理的移動から描かれているためか、それにともなう変化はあらかじめ想定されていると言える。しかし作品「灯台へ」では大仕掛けな場所移動があるわけではない。ラムジー夫人がさまようのは夜の思索の時間帯であり、あくまでも思索の中でという限定条件のもとにおいてであり、しかしそれゆえに、さまよい出ていくのはニーチェのいう意味での「力」である。
「考えること、いや考えることでさえなく、響き合いながら広がっていたすべてのものが、ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに、自分が本来の自分に帰っていくような、他人には見えない楔形(くさびがた)をした暗闇(ダークネス)の芯になるような、そんな気がする。相変わらずすわって編物を続けながら、夫人はこんなふうに自分の存在を感じていた。そしてこの隠れた自分は、余分なもの一切を脱ぎ捨てているので、自由に未知の冒険に乗り出すこともできそうだった。日常の人生がしばしの間見えなくなると、体験の領域は途方もなく広がり始める。誰にだって、この無限の力を感じることはできるはず、と彼女は思った。ーーー黒い楔形にならず普段の自分でいる限り、安らぎなどは見出しようがない。日頃の自分を脱ぎ捨ててこそ、苛立ち、焦り、心の動揺などがかききえていく。そしてこの平穏さ、この休息、この永遠の時間のただ中で、さまざまの事が一つに重なり合うとき、夫人の口許には、われ知らず、人生に対する勝利を謳(うた)う声が浮かんでくるーーー。いつもこんな時間にこんな気分で周囲を見ていると、見ている何かに自分が溶け込んでいくような気がする」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.115~117」岩波文庫)
ラムジー夫人より若年層に属する画家志望のリリーは、立場上、ラムジー夫人を観察できる有利な立場にある。そんなリリーだが、しかし、見た目には全然わからないものの、或る種の錯乱状態に陥る。その直前、リリーは意識混濁を起こしている。印象的なシーンだ。
「リリーは外界についての意識を失い始めていた。そして周辺の事物の印象が薄れ、自分の名前や性格や容貌なども忘れて、ーーー彼女の心は、その奥底から、さまざまな場面や名前、言葉や記憶や観念を、まるで噴水のように噴き上げていった」(ヴァージニア・ウルフ「灯台へ・P.307」岩波文庫)
さらに、南米でもなく地方都市でもなく、ほかならぬロンドンのピカデリー周辺で、ダロウェイ夫人は気まぐれな散歩という過程を通過中に、次のように様々な思考を産出する。
「彼女はとても若いような気もし、お話にならないほど老けた気もした。ナイフみたいにあらゆるものの中へ切りこむし、外部にいて眺めてもいる。タクシーの群れを眺めていると、遠い遠い海の上にひとりぼっちでいるような、そんな気持ちによくなるし、たった一日でも生きていることが、とてもとても危険だという感じが、しょっちゅうする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.13~14」角川文庫)
「自分はやがてかならず死滅するってことは、それほど大変なことなのかしら。わたしがいなくなっても、これらのすべてのことは平気でつづいて行くにちがいないってことは、怪(け)しからぬことなのかしら?それとも、いっそ、死は絶対に自己消滅だと信ずることが、かえって安心できるんじゃないかしら?自己は消滅しても、このロンドンの街路で、事物のうちに生きる、と信ずることが。だって、わたしは故郷の木々の一部分にちがいないのだ、また、あそこにいく棟にも分かれたしまりのない醜い家の一部分、会ったこともない人々の一部分なのだ」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.15」角川文庫)
「しかし今も時々、自分のものであるこの体が、(彼女はオランダの画家の絵を観るために立ちどまった)この体が、さまざまの能力をそなえていながら、まるでないもののようにーーーまったく知られないもののように思われるのだ。自分自身が眼に見えぬものとなり、ひとに見られず、知られないような、妙な気がする」(ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人・P.17~18」角川文庫)
だからといってイギリスのウルフだけが特別だというわけではない。アメリカに渡ってみよう。フォークナーは書いている。
「彼は太陽が、やはり傾いた位置ではあったが、反対の方角から照りつけているのに気づいた。初め彼は自分が身を回していたからだと思った。それから、いまが夕方なのに気づいた。走っていて倒れたのは朝だったが、そしてそれから自分ではすぐに起きあがったように思えたが、いまは夕方なのに気づいた。『俺は眠ってたんだ』彼は思った。『六時間以上も眠った。走っているうちに知らずに眠りこんじまったんだな。どうもそうらしいな』彼は別に驚きを感じなかった。もう時間は、光と闇の領域は、とっくにその秩序を失っていた。ふと瞼(まぶた)を閉じ、一瞬とも思える時間の後で目を開けば、光か闇のどちらかが、入れかわっているといった感じだった。その一方から他方へ移るのが何時(いつ)のことか、彼には分らなくなっていた、自分が横になったのさえ知らず、眠りこんだのは何時か、覚めたのもおぼえずに歩きだしたのは何時か、彼には分らなかった。時には一夜の眠りがーーー藁(わら)塚や溝の中、空家(あきや)の屋根の下での眠りがーーー逃亡の時間である光や昼間を挟(はさ)まずに、すぐ次の一夜につながるように思われ、また逆に一つの昼間が逃亡と切迫感に満ちた次の昼間へと続き、その間は夜も休息のひまがなく、太陽はまるで沈むどころか、地平線に達する前にまた後戻りしているかに思われた」(フォークナー「八月の光・P.347~348」新潮文庫)
クリスマスは眠りのうちに昼と夜とがすでに等価性を持って実在していることに気づく。クリスマスは睡眠しているのであり意識混濁しているわけではないのだが、眠っているうちにクリスマスだけでなく世界中の人間はいったいどのような意識状態に陥っているかを考えてみれば驚くことは何一つない。クリスマスが気づいた重要なことは、一九三〇年頃のアメリカ社会にはもはや昼夜の区別はないに等しいという認識である。「六時間以上」眠ったはずだから日中に眠りだしたとすれば起きた時は夜であり逆なら逆であるにもかかわらず、「もう時間は、光と闇の領域は、とっくにその秩序を失っていた」と感じるほかない社会が出現した。そのような社会的規模の変化は睡眠と睡眠とのあいだの覚醒状態を通して意識化される。しかし覚醒と覚醒とのあいだの睡眠状態あるいは混濁状態を通過することなくして認識することは誰にもできない。そして一九三〇年代前半のアメリカ社会は、アメリカ全体がいつも、打ち続く不況の中を模索する途上に自分で自分自身の身を置いたという事実を抜きにして語ることはできない。
「アルコール飲みは、酔いを材料にして、想像的な過去を複合する。まるで、柔らかな過去分詞が、固い助動詞現在形に結合しに来たかのように。私は愛してしまったを-持っている、私は行なってしまったを-持っている、私は見てしまったを-持っている(j’ai-aimé, j’ai-fait, j’ai-vu)」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・P.275」河出文庫)
一九二〇年代アメリカの、十年に渡る祝祭の日々、十年に渡るバブル、という「過去を-持っている」社会において、覚醒と睡眠との境界線は消滅しだし、「夜も休息のひまがなく、太陽はまるで沈むどころか、地平線に達する前にまた後戻りしているか」のような事態が出現した。そしてそのような諸力の運動は自動的に反復を《欲する》するほかなく、反復はその反復をさらに加速していくばかりの社会を出現させることになる。
ネルヴァルに戻ろう。エルムノンヴィルというのは主人公にとってどのような地だろうか。
「『アナルカルシス』と『エミール』の情景を興趣豊かに実現したような眺めを前にすると、かつてこの領地を所有していた人物がよみがえらせた、哲学的な古代のあらゆる記憶がそっくり戻ってきた」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.249~250』岩波文庫)
かつて「この領地を所有していた人物」が創設した地。別のところでこう書かれている。
「林のただ中にスイスを思わせるような風物がくっきりと現れ出るのは、自らの一族の故郷のおもかげを移植しようとしたルネ・ド・ジラルダンのアイデアによるものです」(ネルヴァル「アンジェリック」『火の娘たち・P.174』岩波文庫)
ただ、「スイス」といっても今のような国連規約に基づく「中立国」ではなく、そもそも「中立」などという立場は存在しない。存在しないがゆえにわざわざ当時の「理想主義者」の一群はそのような地を夢見たのだった。そして比較的恵まれた層に属する人々はそれをほんの僅かではあるが実現して見せもした。しかし主人公が見ている光景はそれから百年後の光景である。もはや廃墟、残骸である。ところが廃墟、残骸ゆえにますます想像力は羽ばたく。なかでもルソーが尊敬されているのはその理想主義にもかかわらず、実をいうとその緻密な分析にあったのではと思わせる部分がある。人間は近代化とともに「生活の知恵」あるいは「技術」を身につけたが、並行して、身体の可能性をだんだん喪失してきたのではなかろうかという問いである。
「未開人の身体は彼が知っているただ一つの道具であるから、彼はそれを今日では練習の不足のためにわれわれの身体ではできないようなさまざまな用途に使う。そして未開人が必要にせまられて獲得する力と敏捷さとをわれわれから奪いとるのは、じつにわれわれの生活の知恵なのである。もし彼が斧をもっていたなら、いま、彼の手首はあれほど強い枝を折るだろうか?もし石投げ器をもっていたなら、手であれほど力一杯に石を投げるだろうか?」(ルソー「人間不平等起源論・P.43」岩波文庫)
なるほど人間は「石投げ器」を発明し、さらに「生活の知恵」をいつも口実として利用しながら、その延長上で遂に原爆を発明した。また、ルソーは思想家であって「自称-予言者」というような近現代のほら吹きでもなんでもない。その上で次のようにいう。社会の上層部に属する人間たちがどさくさ紛れに「共通の敵を斥(しりぞ)け」ようと掛け声を上げ出したときは、それがなんであれ慎重に考え行動するようにと。
「富者は、隣人たちすべてを相互に対抗して武装させ、彼らの所有を彼らの欲求と同じように負担の大きいものにする状況、しかもどんな人も富のなかにも貧しさのなかにも安全を見出さないような状況の恐ろしさを彼らに説明してから、富者は隣人たちを、自分の目的へつれてゆくためのもっともらしい理由を、容易に説明したのである。彼は彼らにむかって言った。『弱い者たちを抑圧からまもり、野心家を抑え、そして各人に属するものの所有を各人に保証するために団結しよう。正義と平和の規則を設定しよう。それは、すべての者が従わなければならず、だれをも特別扱いをせず、そして強い者も弱い者も平等におたがいの義務に従わせることによって、いわば運命の気紛(きまぐ)れを償(つぐな)う規則なのだ。要するに、われわれの力をわれわれの不利な方に向けないで、それを一つの最高の権力に集中しよう、賢明な法に則ってわれわれを支配し、その結合体の全員を保護防衛し、共通の敵を斥(しりぞ)け、われわれを永遠の和合のなかに維持する権力に』。粗雑でおだてに乗りやすい人々をそそのかすためには、こんな弁舌に似たものすら要らないぐらいであった。もっとも彼らは、たがいの間で解決すべき事件があまりに多すぎて、仲裁者なしではすませなかったし、また、強欲と野心とがありすぎて、長い間、主人なしではすませなかったのだ。だれもかれも自分の自由を確保するつもりで、自分の鉄鎖へむかって駆けつけた。なぜなら、彼らは、政治制度の利益を感ずるだけの理性はもっていたけれども、その危険を見通すだけの経験をつんでいなかったからである。その弊害をもっともよく予感しえたのは、まさにこれを利用しようと思っていた者たちであった」(ルソー「人間不平等起源論・P.105~106」岩波文庫)
新しい政治制度がもたらす「弊害をもっともよく予感しえたのは、まさにこれを利用しようと思っていた者たち」だった。それは一般的な次元では一七八九年フランス革命前後にようやくはっきりしてきた。資本主義的生産様式を貫徹するためには「自由・平等・平和」というスローガンで一般大衆の総意を経る必要があったわけだが、ただ単にスローガンとして終わらせるだけではせっかく獲得した自由貿易体制であるにもかかわらず、特権階級だけの特権だと見抜かれてたちまち瓦解してしまう恐れがあった。だから生成期の資本主義はまだむき出しの暴力装置=国家を必要としていた。したがって支配者層が早急に必要としたのは新しい政治制度をよりいっそう打ち固め資本主義を確実なものにするための仕組み作りである。当時の富裕層は自分たちと一般市民とのあいだに議会と民主主義という形式を作り上げ押し込むことで一般大衆に少しばかり譲歩した。政治的装置として快調に作動するまでには幾つもの試練を経ることになるのだが、差し当たりこの形式民主主義という政治形態は成功をもたらした。ところがしかし、この譲歩は、最も上層に位置する富裕層からみれば自らの利益に反する「弊害」に見えて仕方がない。ところがこの譲歩なしに資本主義と自由貿易はない。計算するまでもなかった。まず最初に譲歩しておきナポレオン体制樹立と同時に確実となった資本主義は、だからフランスにおいて「徹底的」になされたと言われているわけである。もはや過去形だが。
さて、朦朧たる睡眠と覚醒との違いについてネルヴァルはこう述べる。両者のあいだにまだ区別が実在した最後の時期に属する。しかしネルヴァルは「道化=非理性=狂気」が混雑しながらも実在した古典主義時代の作者ではない。その後、古典主義時代に起こった事態の反復として十九世紀半ば突如として現われた。「オーレリア」発表は一八五五年。
「私にとって覚醒と睡眠との唯一の相違は、前者に在っては、一切が私の眼に変容することだった。近づいて来る一人一人が別人に見え、物品はその形を変える半陰影のようなものを帯び、光の反映、色の配合は崩れて、私を不断の一連の印象の中に置くのであった。それ等の印象はばらばらのものではなく、より外的要素を脱した夢によって、その真らしさを保たれて行った」(ネルヴァル「オーレリア・P.16」岩波文庫)
覚醒時に見るものはすべて諸商品の無限の系列のように変容してばかりいる。当たり前といえば当たり前だが。次のように。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
だが「外的要素を脱した夢によって」始めて「保たれる」ものがあり、ネルヴァルにはそれこそが「真らしさ」に思える。マルクスにすればそれは「夢」というフィルターを通してではなく、明らかに自然力としての労働力だということになるだろう。けれどもネルヴァルは「労働力だけ」でひとくくりにしようと考えているわけではない。ネルヴァルが考えているのは多分、後にニーチェがいうことになる「力への意志」だろう。アルトーにすればそれは「器官なき身体」である。しかしもっと重要なことは、ニーチェのいうように、夢を見ているとき人間は「不完全な状態に後退させられている」という事情を前提として、古代には「幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる」ばかりか、その傾向は現代人の頭の中でさえ今なお何度も繰り返し生き生きと反復されているという点だろう。
「《夢と文化》。ーーー睡眠によってもっともひどく損われる頭脳の機能は記憶力である、それはまったく中絶するのではなくーーー人類の原始時代にはだれしも昼間や目覚めているときでもそうであったかもしれぬような、不完全な状態に後退させられている。実際それは恣意的で混乱しているので、ほんのかすか似ているだけでもたえず事物をとりちがえるのであるが、その同じ恣意や混乱でもって、諸民族は彼らの神話を詩作したのであった。そして今でもなお旅行者は、どれほどひどく未開人が忘れがちであるか、どれほどその精神が記憶力の短い緊張ののちにあちらあこちらとよろめきはじめたり、単なる気のゆるみから嘘やたわごとをいいだしたりするかということを観察するのが常である。しかしわれわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.35~36」ちくま学芸文庫)
さらにニーチェはしばしば言うのだが、一度古代人を理解したなら、今度は古代人の側から現代人の行動をじっくり観察してみるべきだと。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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