白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・読み違い・目論見外れ・錯覚だらけのバルベック海辺のリゾートホテル

2022年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
グランドホテルのメインダイニングルームには巨大なガラスの「仕切り」があると述べた。それは昼間は外の大きな景色を眺め渡すのに便利な「仕切り」なのだが、夜になると逆に外からじろじろ眺められるのにとても便利な「仕切り」へ変貌する。バルベックの町で生活する様々な人々が興味本位で<覗き見>しにやって来てあれこれ批評する楽しみを提供する装置というもう一つの機能を発揮する。その意味で巨大なガラスの「仕切り」はホテルに滞在する富裕層にとってのみ特権的な立場を提供するだけではなく中に入ることのできない地元住民に対して<覗き見>の快楽を与えもする両義性を持つ。「貧しい人たちからすると、それは奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界」に見える。なぜそういう事態が起こるのか。というのは、地元住民たちからすれば珍しいものを見たいという欲望から覗きに来るわけではなく、夜になるとよりいっそう鮮明に光り輝く巨大なガラスの「仕切り」の内部が「奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界」に見えるその瞬間、地元住民に<覗き見>への欲望を出現させるからである。

「ホテルのメインダイニングルームには電気の泉から大量の灯りが湧きだし、まるで巨大な魔法の水槽となった。そのガラスの仕切りの前には、闇に隠れて見えない、バルベックの工場などで働く人や、漁師たち、プチ・ブルジョワの家族らが、集まっては押し合いへしあいしつつ、ガラスの内側の黄金色の渦のなかをゆらゆらとうごめく人たちの贅沢な暮らしをのぞき見ている。貧しい人たちからすると、それは奇妙な魚や軟体動物の生態と同じほど不思議な世界なのだ(大きな社会問題として、この不思議な生きものたちの饗宴をガラスの仕切りだけでいつまでも守ることができるのか、暗闇のなかでむさぼるように見つめる無名の連中がこの生きものを自分たちの水槽に移して食べてしまわないかという疑念が起こる)。さしあたり、足を止めて暗闇に紛れこむ群衆のなかに作家なり人間魚類学の愛好家なりがいたりすると、年老いた女の怪物どもの顎(あご)がひと切れの食物をぱくりと飲みこんで閉じるのを眺めては、その怪物たちを種族や先天的性格や後天的性格によって得意げに分類したかもしれない。それによるとあるセルビアの老婦人などは、口には海の大魚の突起をもつのに、小さいときからフォーブール・サン=ジェルマンの淡水で育ち、ラ・ロシュフーコー一族のようにサラダを食べる、と説明されるだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.104~105」岩波文庫 二〇一二年)

また<私>は日頃から、様々な人間を幾つかの類型に沿って区別する習慣を身につけている。場所移動すればしたで、コンブレーにいる友人知人たちととてもよく似た人物たち(ルグランダン、スワン家の門衛、スワン夫人自身)と共通の類似性を持つ別人たちをバルベックでも見出す。だから<私>はバルベックにいるにもかかわらず「カフェのボーイに変身したルグランダン」に出会う。また「門衛は私が一度だけ会った短期滞在の外国人」になっている。さらに「男性に変化して遊泳監視人になったスワン夫人」が出現する。しかしなぜそういうことになるのか。プルーストは「風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに惹きつけ、記憶にとどめておくので、このように自然の力がある人物を新たな肉体のなかに移植しても、元の人物像がさほど損傷することはない」という。しかし「風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに」ではなく、逆に特徴的な部分だけを「切り離す」ことが可能な限りで始めて「ある人物を新たな肉体のなかに移植」することができるのだ。

「そんなわけでバルベック滞在の最初の数日のうちに、私はルグランダンや、スワン家の門衛や、スワン夫人自身と出会うことになった。ルグランタンはカフェのボーイに、門衛は私が一度だけ会った短期滞在の外国人に、夫人は遊泳監視人になっていたのである。しかも磁力のようなものが、風貌と気性のいくつかの特徴を相互に切り離さずに惹きつけ、記憶にとどめておくので、このように自然の力がある人物を新たな肉体のなかに移植しても、元の人物像がさほど損傷することはない。カフェのボーイに変身したルグランダンは、その背丈と横からみた鼻筋とあごの一部を元のまま保っていたし、男性に変化して遊泳監視人になったスワン夫人は、いつもの風貌だけでなく、ある種の話しかたの癖まで受けついでいた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.111」岩波文庫 二〇一二年)

バルベックの地元の名士ステルマリアは娘のステルマリア嬢を伴ってホテルにやって来ている。<私>にとって地元の名士ステルマリアはどうでもいいのだがステルマリア嬢にはいたく欲望をそそられる。とはいえ何らのきっかけもなしにいきなり声をかけるような乱暴な真似はとてもできない。だが地元の名士ステルマリアはフランス上流階級の大人物にはまるで弱い。例えば同じくこのホテルに滞在しているヴィルパリジ侯爵夫人などには頭を上げることができない。実をいえばヴィルパリジ侯爵夫人は<私>の祖母の女学校時代の学友でありたいへん近い親友でもある。だからヴィルパリジ侯爵夫人と祖母との長年の友人関係を媒介にできれば、「ステルマリア嬢と私をへだてるーーーすくなくともバルベックではーーー無限の社会的距離をまたたくまに飛びこえることができると思えた」。この「無限の社会的距離」はどこまでも遠くへ延びているわけだが、或る種の媒介項を差し挟むことで瞬時に消滅させることもできる。だからといって「あってないようなもの」ではない。あるのである。実際に両者の間に横たわる「無限の社会的距離」として傲然と両者を「仕切り」分けている無限大の壁にも等しい。ところがこの「距離」はただひたすら遠くなるばかりではなく逆に恐ろしく近くなることもあるという伸縮自在性を持つ。極めて近くなるともはや消滅するに等しい。この操作が可能なのは<私>でもステルマリア嬢でもない。ヴィルパリジ侯爵夫人と<私>の祖母との交友関係以外にない。

「ヴィルパリジ侯爵夫人ときたら正真正銘の夫人に違いなく、その力をそぐ魔法にかけられていないどころか、みずから魔法を用いて私の力になってくれるのだ。その魔法のおかげで、私の力は百倍にもなり、まるで伝説の鳥の翼に運ばれるかのように、ステルマリア嬢と私をへだてるーーーすくなくともバルベックではーーー無限の社会的距離をまたたくまに飛びこえることができると思えた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.112」岩波文庫 二〇一二年)

その意味では<私>とステルマリア嬢との接続はいともたやすいだろう。ところが<私>の祖母は高級ホテルで古くからの友人知人にばったり出くわした場合に要請される長々しい挨拶や形ばかりのおしゃべりがいかに時間の無駄遣いであって本来の目的を阻害してしまうことになるかと考えているので、あえて「ヴィルパリジ夫人が見えないふりをした」。またヴィルパリジ夫人の側も「祖母がおやまあと挨拶したくないのを悟り、これまた宙をみつめた」。チャンスは目の前までやって来たにもかかわらず、<チャンスそのもの>として媒介項の機能を果たすことができる二人の老婦人はお互い旧知の間柄であるがゆえ<私>に素通りさせてしまう。<私>の目論見から「夫人は遠ざかり、ひとり取り残された私は、遭難した海で助けを求めていたのに、近づくように見えた船が止まらずに消え去ったときの気分」へ転落する。

「たまたま同じホテルに投宿した旧知の間柄でも、たがいにお忍びの振りをしても許されることを前提にしたほうが便利だと考えていたから、支配人が口にした名を聞くと、目をそらしただけで、ヴィルパリジ夫人が見えないふりをした。夫人のほうでも祖母がおやまあと挨拶したくないのを悟り、これまた宙をみつめた。夫人は遠ざかり、ひとり取り残された私は、遭難した海で助けを求めていたのに、近づくように見えた船が止まらずに消え去ったときの気分である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.114」岩波文庫 二〇一二年)

グランドホテルでは新しい客という以外ほとんど何者でもない<私>。ステルマリア嬢は食事時にいつも帽子をかぶって登場する。しかしそのデザインは「いささか時代遅れ」だ。ところが<私>にはなぜか「優しい女性」に見える。その理由は次のように大変失礼なものだ。「その帽子のせいで貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」。

「いつも食事のときには、いささか時代遅れの羽根飾りにこれみよがしに挿したグレーのフェルト帽をかぶってきて、それが私に優しい女性に見えたが、それは帽子が銀色とバラ色のまじる顔色と調和していたからではなく、その帽子のせいで貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.120」岩波文庫 二〇一二年)

<私>がひしひしと感じている孤独な心細さが理解できないというわけでは決してない。しかし相手の女性が「貧しい女」に見えてくればくるほど<私>は親近感を覚えるというのは余りにも失礼ではないだろうか。帽子とは何か。<象形文字>の一つとして登場している。この場面は状況次第で逆に「その帽子のせいで裕福な女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」と変換することができる。それにしてもなぜ「貧しい女性」に見えたり逆に「裕福な女」に見えたりと変換可能なのか。帽子という<象形文字>はただ単なる<社会的地位>を表示する徴(しるし)としてだけではなく、流行に対してどのような考え方を持っているかという、自分の<精神的態度>をも差し示してしまうからである。試しによりいっそう精神的な面に注目するとすれば、「貧しい女性」でも「裕福な女」でもなく、わざとらしいお世辞でないかぎり、むしろ「豊かな女性」と形容するのが礼儀作法にかなっているのではと思われる。だがしかしプルーストは確かに「貧しい女に思えてきて女が私に近しい存在になるからだった」と書いている。なぜなら、この場面での<私>にとって、実のところ相手の女性が「貧しい女」であって始めて「私に近しい存在」たり得ることこそ事実だからである。そのように服装を含めた<身振り仕草>というものはいつも或る種の言葉なのであり、そもそも言葉が始めから<身振り仕草>としてすでに語っているからである。

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Blog21・監視する<象形文字>/悲劇と快楽の乱舞への助走

2022年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
バルベック=プラージュ目指して移動中の駅名に「ヴォル」とか「ヴィル」とか付いている駅名がいくつもある。それらは<私>にとって「『ハトは飛ぶ(ヴォル)』ゲームにおける『飛ぶ(ヴォル)』のように『ヴィル』という語が飛び去るように感じられ」る。言葉というものは韻を踏んでいるとどれも同じような効果をもたらすことがしょっちょうある。この場合、バルベックが海辺の砂浜であることから「砂と風通しの良すぎる無人の空間と塩と」というイメージと「ヴィル」(町)とが合体するに際して「『ハトは飛ぶ(ヴォル)』ゲーム」の印象が介在してきてどの駅名も定着した感じではなく「飛び去るように感じられ」る。逆に「ルーサンヴィルやマルタンヴィル」は習慣的に固定されてしまっているため確固たる「ある種の暗い魅力が備わるように感じられ」る。後者の側の記憶はより古くから習慣のうちに固定化されている記憶に顕著な特徴を持っており、重厚で安心感を与えるけれどもそのぶん動かないという意味では極めて鈍重で胸焼けしそうでもある。

しかし重要なのは、第一に「ヴィル(ヴォル)」という語が韻として働いているだけで前者の駅名から受けるイメージと後者の駅名から受けるイメージとがまるで異なるということと、第二に「ヴィル(ヴォル)」という語は切り離し可能であるという点、第三に駅名とその意味(イメージ)との間は絶対的な関係にあるわけではなく切断可能な点。<切断・再接続>が可能であるがゆえ、その<意味・イメージ>もまた受け取る側の立場次第で様々に異なる。ところが駅名というものはその土地の部分でしかないにもかかわらずその土地を代表する場合もあるため、あまりに大袈裟過ぎると転倒を起こして虚しさばかりをつのらせるものに変わってしまう。もし仮に、日本の或る土地の駅名に「ゲートウェイ」と接続したとしよう。するとその他の地域住民、とりわけ世界中の外国人から見ると世界宗教史的な意味を持つ「バビロンの城門」を思わせてしまうため、プルーストが<私>に感じさせているように何かとんでもない違和感を出現させる。さらに一度出現させてしまった違和感はそのあり得ないような軽薄さと相まってあたかも日本の公共放送局の「字幕捏造疑惑」と連結させる効果を持つ。

「小さな鉄道はひっきりなしに私たちを立ち止まらせた。そこは、バルベック=プラージュに着く手前の駅で、それらの駅名(アンカルヴィル、マルクーヴィル、ドーヴィル、ポン=タ=クールーヴル、アランブーヴィル、サン=マルス=ル=ヴィユ、エルモンヴィル、メーヌヴィル)は、どれも私には奇妙な名に思えた。これらの名前は、かりに本で読んだなら、コンブレー近在の小さな町や村の名となんらかの関係があると思えたかもしれない。ところが物理的には同じ音符をいくつも組み合わせているだけの音楽でも、ハーモニーとオーケストレーションの色調が違うと、ふたつのモチーフが音楽家の耳にも似ても似つかないものに感じられることがある。それと同じで、このもの悲しいいくつもの名前は、砂と風通しの良すぎる無人の空間と塩とで出来ていて、その上方を『ハトは飛ぶ(ヴォル)』ゲームにおける『飛ぶ(ヴォル)』のように『ヴィル』という語が飛び去るように感じられ、なにひとつルーサンヴィルやマルタンヴィルといったべつの地名を想わせることがなかった。こちらの地名は、『広間』の食卓で大叔母が何度も口にするのを聞いていたからか、ある種の暗い魅力が備わるように感じられ、その魅力にはジャムの味とか、薪の燃える匂いとか、ベルゴットの本の紙の匂いとか、向かいの家の砂岩の色とかの精髄が混じっていたのかもしれない。これらの名前は、私の記憶の底から気泡のように浮かびあがって、表面に到達するのに幾層にも重なるさまざまな異境を越えて来なければならないはずなのに、今日でもその特殊な効力をなんら失わないのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.67~68」岩波文庫 二〇一二年)

目的地到着後すぐ<私>は祖母が用意してくれた部屋に入る。海辺のリゾート地に立つグランドホテルは一種の社交界を形成している。<私>はまだコンブレーでの生活が全身に染み付いており、慣れない空間全体から拒否されているように感じる。これが「《私の》部屋」だとはとても思えない。「部屋にあふれる家具調度は、私のことを知らず、私がそれらに投げかける不信の眼(まなこ)を投げ返してくるだけ」で突然の異物混入に迷惑しているとでも言いたげだ。また「振り子時計」は時計というより遥かに<象形文字>に近く「いっときも休むことなくわけのわからないことばをしゃべりつづけ」てくる「意地悪」な何ものかに思える。とりわけ「私が苦しめられた」のは二つ。一つは「ななめに置かれた大きな脚付鏡台で、この鏡台が出てゆかなければ私にくつろぎはありえないと感じられた」。もう一つは「ホテルの一番上にあるこの部屋はまるで展望台だった」ことだ。

「せめていっときなりとベッドに横になりたかったが、そんなことをしても無駄だったにちがいない。われわれひとりひとりにとって物質的身体ではないにしても意識する身体とでもいうべきこのような一連の感覚を、休ませることはできそうになかったからである。また、さまざまな見知らぬ家具調度にとり巻かれているせいでこの身体のあらゆる知覚はたえず厳戒の防御態勢を強いられ、私の視線や聴覚が、いや、すべての感覚がラ・バリュ枢機卿が檻(おり)のなかで立つことも座ることもできなかったのと同様の、きわめて窮屈で不自由な姿勢を余儀なくされたからである(たとえ私が両脚を伸ばしたとしてもそれは変わらない)。さまざまなものを部屋のなかに存在させるのはわれわれの注意力の働きであり、それらを撤去してわれわれの入る余地をつくってくれるのは習慣の力である。バルベックの私の部屋にはその余地が私のために存在しておらず(それゆえ《私の》部屋というのは名ばかりだった)、部屋にあふれる家具調度は、私のことを知らず、私がそれらに投げかける不信の眼(まなこ)を投げ返してくるだけで、私の存在などまるで意に介さず、むしろ私のせいで自分たちの単調な生活がかき乱されると証言していた。振り子時計はーーー家では振り子時計の音が聞こえるのは、せいぜい一週間に数秒間で、私が深い瞑想から出てくるときに限られていたのにーーーいっときも休むことなくわけのわからないことばをしゃべりつづけ、その発言は私に意地悪なものにちがいなかった。というのもそれを黙って聴いていた大きな紫色のカーテンの態度が、第三者がいて、目障りだと肩をすくめる人の態度と同じだったからである。おの紫色のカーテンのおかげで、天井の高いこの部屋は、ギーズ公暗殺とか、さらに後にはクック旅行代理店のガイドに引率された観光客の訪問とかには格好の舞台になりうる歴史的性格を帯びたが、私の睡眠にはまるで不都合だった。私が苦しめられたのは、まわりの壁に並ぶガラス戸つきの小さな書棚と、とりわけななめに置かれた大きな脚付鏡台で、この鏡台が出てゆかなければ私にくつろぎはありえないと感じられた。私はたえず視線を上に向けたがーーーパリの私の部屋にあるさまざまなものは、それが私の諸器官の付属品であり、私自身の延長にほかならず、私自身の瞳と同じく邪魔にならなかったーーーその先にあるのはやたらに高い天井で、そもそも祖母が私のために選んでくれたホテルの一番上にあるこの部屋はまるで展望台だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.77~78」岩波文庫 二〇一二年)

<鏡>にしても<展望台>にしても後々窒息しそうになるほど<私>を苦しめることになるとともに<私>に快楽を与えることにもなる装置である。両者とも<監視>のテーマに関わる。すでに一度触れたが、シャルリュスとジュピアンとが演じる男性同士の同性愛にしてもヴァントゥイユ嬢とアルベルチーヌとが演じる女性同士の同性愛にしても、<私>は、こちら側からはすっかり見えるが相手側からはまったく見えない「パノプティコン的」<展望台>から<覗き見>することに成功している。「見る=見られる」関係において<覗き見>は対等ではなくいつも不均衡だ。プルーストは読者に向けて否応なく、社会の至るところで蠢いている物事の<不均衡性>を見せつける。暴露と言えば欧米の大衆紙や日本の週刊誌を思わせるが、プルースト作品は舞台が一流の社交界とその周辺に設定されておりプルースト自身がその内部の人間だったこととその文学作品がこれまた世界的水準にあるため、スキャンダルを取り扱っているのは事実だが、そのスキャンダルを通して何かまるで根本的に異なる重大問題を提出していることは確かだ。その一つが「言語」自身の問題である点はすでに述べた。また二十一世紀的今日的な監視管理網というテーマならバルベックへの出発間際ですでに提供されていた。ネット社会で両義的な問題と化している「位置情報」機能について。

「『娘や』と祖母は言った、『あなたがセヴィニエ夫人とそっくりになるのが今から目に浮かぶわ。目の前に地図を広げて、いっときたりとも私たちから目を離すまいとするでしょうから』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.40」岩波文庫 二〇一二年)

バルベックのグランドホテルの<私>の部屋は同行した祖母の部屋に隣接している。始めて訪れる土地の巨大なホテルの一室。心細い思いで一杯になっている<私>が、見知らぬ部屋に置かれたあらゆる調度類から全面的に拒否されていると感じ不安に襲われている時、隣室と「仕切り」一つで隔てられた祖母がノックを返してくれた。祖母のノックの音は見知らぬ<象形文字>ではまったくなく、すぐさま慣れ親しんだ意味を聞き取ることができた。

「すると私がノックしたとたん、べつのノックの音が三つ聞こえた。それはイントネーションの異なる、冷静な権威を帯びた音で、念を押すために二度くり返され、こう言っていた、『心配しないでね、ちゃんと聞こえましたよ、すぐに行きますからね』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.82」岩波文庫 二〇一二年)

或る習慣だけで通用する価値体系の場からまるで別の価値体系が入り乱れて混在するバルベックの<習慣なき地帯>ともいうべき土地に慣れるまで、もう少し時間がかかるだろう。不安に襲われる<私>は「古い愛着」から切り離されて「未来」へ向かおうとしているわけだが、そう感じるたびに「古い愛着」は「悲痛な叫びをあげて私を苦しめたのである」。

「たしかにそんな愛着も、やがてべつの愛着にとって替わられ消えてゆく(そのときは死が、ついで新たな生命が、『習慣』という名のもとに二重の仕事を完了しているはずだ)。しかし古い愛着は、消滅するまでは毎晩、苦しむことになる。とりわけこの最初の夜、もはや自分の居場所がなくなる未来が現実のものとして目の前にあることに憤慨した古い愛着は、おのれを傷つけるものから目をそらせぬ私のまなざしが届きそうもない高い天井にとどまろうとするたびに、悲痛な叫びをあげて私を苦しめたのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.87~88」岩波文庫 二〇一二年)

その文章は或る恋愛の終わりと別の新しい恋愛の始まりが交差する地点に似ている。ずっと後の箇所でプルーストはこう書いている。

「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)

しかし重要なのはそういうセンチメンタルな(浪花節的な)事情ではまるでない。問題はもっと遥かに深刻だ。「愛と嫉妬」は主体も対象も複数のばらばらな部分対象に<置き換え>ることができるし実際そうしているという人間自身の問題である。その時、主体というものは確固たる一つの存在として固定されているに違いないなどと一体どこの誰にいうことができるだろうか。そこからしてそもそも疑わしい。主体とはなんのことを指して言っているのか。むしろそれは不実極まりないというのも愚かなほど無数の星のように分割可能な状態をいつもキープしてはいないだろうか。分割可能だということは絶対的繋がりというものは<ない>のであり、逆に「愛と嫉妬」ばかりか時間自体、切断・別のものとの再接続・それの再切断、さらに別のものとの再々接続というふうにどこまでも非連続的である。プルーストが「心の間歇」と呼ぶ部分。忘却・反復・置き換え。

びくびくしていた<私>は翌朝、陽光がバルベックの「砂浜とその向こうの海の最初の支脈を明るく照らし出すと、私には太陽がべつの斜面も見せてくれるような気がした」。するともう、「ぐるりとめぐるこの陽光の街道をたどってゆけば、時々刻々と移り変わりを見せる景色のなかから絶景の地だけを訪ね、居ながらにして多様な旅ができるのではないかと思えた」。この「絶景」はそれぞれ個人的な趣味嗜好によって異なるのは当然のことだ。<私>は<私>にとって「絶景」だと信じられるものだけを寄せ集めてくればいい。そして「居ながらにして多様な旅」をする。

「光の当たりかたが多様なせいで、長期にわたり実際に踏破した旅程と同じく、場所の方向が変わり、目の前に新たな目標があらわれて、そこまで行きたいと思わせられる。朝、ホテルの背後から昇ってきた太陽が目の前の砂浜とその向こうの海の最初の支脈を明るく照らし出すと、私には太陽がべつの斜面も見せてくれるような気がした。ぐるりとめぐるこの陽光の街道をたどってゆけば、時々刻々と移り変わりを見せる景色のなかから絶景の地だけを訪ね、居ながらにして多様な旅ができるのではないかと思えた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.89~90」岩波文庫 二〇一二年)

可能性はいつも<過剰と貧困>とともに到来する。物理的には途轍もなく遠い場所にある「絶景」と、逆にすぐそばの、それもバカンスで同じグランドホテルに父親とやって来た美少女と、そして<私>との接続をいともたやすく可能にする。その後しばらくしてアルベルチーヌを含む少女たちの「一団」と出会う。それらはどれも最初、<象形文字>として出現する。どんな読解も可能にするという点では欲望を増大させるけれども終わりが見えないという点では悲劇の兆候をすでに含む。一方、どれもまっさらの<象形文字>としてはいずれも偶然の出会いを準備し、そららは互いに呼び合い寄せ集められ、欲望の中へ絶望を打ち込み、絶望の瞬間に全然別の美少女を出現させ、どの<象形文字>も次の記号へ迂回させ、その記号はさらに次の記号へ延々迂回させていく。そうすればするほど<私>はいったいバルベックまで何をしに来たのかさっぱりわからなくなってくる。

また「仕切り」は隣接した<私>と祖母の部屋との間だけにあるわけではない。コンブレーとバルベックとは或る価値体系と別の価値体系とで仕切られている。そしてこの日の昼食で訪れた「メインダイニングルーム」にはホテル内部と海辺との間に「大きな透明なガラスの仕切り」があって「透明とはいえ閉ざされた窓枠が、私たちと砂浜とをショーウインドーのように隔てていた」。当初はただ単に健康を取り戻そうと「保養」に訪れたはずのバルベックで<私>を呼び込み<私>に呼び込まれたのは逆にその悲劇的未遂と想定外の快楽に満ちた展開へと繰り延べされていく。

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Blog21・移動中に発生した<『習慣』の一時的停止>と美女の出現

2022年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
汽車でバルベックへ移動中のこと。<私>は思う。常々「連続する日々のなかに多くの錯誤が介在する」。というのは、しばしば「昨日や一昨日よりも古い日々、まだジルベルトを愛していた日々に生きていることがあった」からだ。しかし現在の中に突如として過去の記憶が割り込んできてそれが現在進行中という形式を取ることは誰にとっても当り前であり、そういう時間のあり方について「錯誤」だと考えることが逆に倒錯しているのである。ところが文面を見ると「<私>の場合は」という条件付きの告白になっているため、一見するとプルーストだけの特異体質であるかのように思えてしまう。だが実は、そう見せることでプルーストはわざと読者を冷や冷やさせて悦んでいるのかもしれない。ジルベルトに関する思い出は不意に出現する。「ジルベルトを愛していた自我が、すでにほぼ完全にべつの自我におき替わっていたにもかかわらず、ふたたび不意にあらわれ、しかも重大な機会ではなく、つまらないきっかけでよみがえることが多かった」。それには言いようのない苦痛が伴う。「それは、ずいぶん前にあらかた消滅していた自我がジルベルトとの別離に際して感じた苦痛だった」からだ。この苦痛は些細なきっかけが引き金になって繰り返し出現する。些細なきっかけというのは「郵政省次官の家族」という言葉である。

「しばしば私は(われわれの人生が時間を追って進行することはまずなく、連続する日々のなかに多くの錯誤が介在するのが常で)、昨日や一昨日よりも古い日々、まだジルベルトを愛していた日々に生きていることがあった。すると突然、もうジルベルトに会えないことが、まるで当時と同じ苦痛となった。ジルベルトを愛していた自我が、すでにほぼ完全にべつの自我におき替わっていたにもかかわらず、ふたたび不意にあらわれ、しかも重大な機会ではなく、つまらないきっかけでよみがえることが多かったのである。たとえばノルマンディー滞在のことに先回りをするなら、バルベックで私は、たまたま堤防のうえですれ違った見知らぬ人が、『郵政省次官の家族』と言うのを小耳にはさんだ。ところが(そのときはこの家族が私の人生にどんな影響をおよぼすことになるかは知らなかった)、この些細に思えたはずの発言が、私に激しい苦痛をひきおこした。それは、ずいぶん前にあらかた消滅していた自我がジルベルトとの別離に際して感じた苦痛だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.25~26」岩波文庫 二〇一二年)

忘却していた過去の記憶が「なんらかの言葉」の不意打ちに出会い、現在の中に割り込んできて現在を<創る>のである。

「正確を期すなら、なんらかの言葉(たとえば『郵政省次官の家族』という言葉)が忘却のなかに大切にしまわれていなければ、ふたたびわれわれが過去を見出すことはできない、と言うべきかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.29」岩波文庫 二〇一二年)

また逆に、過去に衝撃を受けた或る場面が不意に現在に割り込んできてようやく「なんらかの言葉」を思い出す場合もある。さらに、過去に衝撃を受けた或る場面が不意に現在に割り込んできて、もっと古い頃の記憶やつい最近の記憶が次々と現在を構成してしまう場合もある。だから「なんらかの言葉」というのは狭い意味での言葉では必ずしもなく、二分とか二時間とかの時計時間で計測可能な時間とは無関係な「或る場面」であっても構わない。

<私>は移動中の汽車の中で「セヴィニエ夫人の手紙」という回想録を読む。そこでとても「うっとり」する箇所に出会う。セヴィニエ夫人は或る種の条件が揃う場合、「幻想」を見ると述べている箇所である。

「汽車のなかでつぎの箇所を読みかえした私は、のちの私なら(夫人はドストエフスキーがさまざまな性格の人物を描いたのと同じ方法で風景を描いているのではないか)『セヴィニエ夫人の手紙』のドストエフスキー的側面と呼んだにちがいないものにうっとりしていた。夫人は、月が出てくる手紙で、こう書いていたのである。『私は、誘惑には抵抗できませんでした。不要な被りものや外套など一切合切を身につけてあの並木の散歩道に出ますと、あたりの空気は自室の空気と同じように気持がいいのです。私には、ありとあらゆる幻想が見えます。《白と黒の衣の修道士たち、灰色と白の衣をまとった何人もの修道女、あちらこちらに投げ捨てられた飾り襟などの布地、木々にもたれてすくっと立って姿の隠れている男たち》、云々』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.52~53」岩波文庫 二〇一二年)

ドストエフスキーの長編はどれも複数の様々な声がオーケストラのように音を立て合い響き合う。バフチンはそれを「ポリフォニー小説・カーニバル小説」と呼んでドストエフスキー読解のための新しい扉を切り開いた。一人一人の登場人物がまるで違ったことを口走ったり行動したりするからそのように読める。和音に聴こえるにせよ不協和音に聴こえるにせよ。だがそれが「ポリフォニー小説・カーニバル小説」として成立しているのは一人一人の登場人物の言動が一貫しているからである。通例なら一貫性の見られない登場人物が出てくるとしても、その人物は<一貫性の見られない登場人物としてはいつも一貫している>。だが「セヴィニエ夫人」の場合、同一人物(セヴィニエ夫人自身)が、或る特定の条件が揃った時に限り「ありとあらゆる幻想」が見えると述べている。とすると「セヴィニエ夫人」は、しばしばかどうかはわからないが少なくとも一度は確実に、目の前に実際には存在しない<幻想・幻覚>によって現在を構成したということになるほかない。そして<私>はその箇所にいたく感銘を受けて「うっとり」している。だから止まることなくいつも活動している「時間の経過」というのは、過去の記憶の反復だけでなく新しく加工=変造を受けて創造さえされた無数の部分が寄せ集められいびつに継ぎ接ぎされた非連続的パッチークというに等しい。プルーストはいつも、失われた記憶を掘り起こして人生の連続性を打ち立てようとする。しかしそうすればするほど、連続しているはずのものが実は非連続的なもののモザイクに過ぎないことを証明してしまう。

都市から都市へ移動中の汽車の中で<私>は、びっくりするほど印象のよい美女がカフェオレ販売にやって来たを見た瞬間、まるで別人格になる。文学に喩えれば「傑作」というにふさわしいという意味のことを読者に向けて力説する。この時、<私>の「『習慣』の一時的停止」が伴っている。

「普段われわれは美と幸福とが個性的なものであることを忘れてしまい、かわりに因習的な類型を頭に想いうかべている。この類型は、われわれが気に入った相手のさまざまな顔や味わったいろいろな喜びをいわば平均してつくりあげたもので、それゆえわれわれが手にするのは抽象的で活気に欠ける無味乾燥なイメージにすぎない。そこには美と幸福に固有の、既知のものとは異なる新たなものに備わる性格が欠けているからである。われわれは人生を厭世的に見てそれで正しいと考えているが、そのじつ幸福と美を考慮に入れたつもりでそれを排除し、幸福と美のかけらもない合成物に置き換えている。そのようなわけで、文学通の人にいくらか新しい『傑作』について話しても、読む前からあくびが出るほど退屈しそうな顔を見せられるのは、自分が読んだ傑作をすべて合成したものを想像するからである。ところが傑作というものは、特殊なもの、予想外のもので、既存のすべての傑作の総和でつくられるものではなく、この総和を完全に自家薬籠中のものにしてもなお決して見出すことのできないものなのだ。ほかでもない、傑作はこの総和の外に存在するからである。さっきは飽き飽きした顔を見せていた文学通も、この新しい作品を読んだとたん、そこに描かれた現実に興味を覚えはじめる。これと同様に、私の思考がひとりきりで描きだす美の典型とはまるで異質なこの美しい娘のおかげで、たちまち私はある種の幸福、娘のそばで暮らしたら実現すると思える幸福を味わいたくなった(われわれが幸福を味わえるのは、つねに特殊なこのような形態だけである)。ところがここでもやはり、『習慣』の一時的停止が大きな役割を果たしていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.56~57」岩波文庫 二〇一二年)

旅行中という異例の条件に置かれているため「『習慣』の一時的停止」が前提となって、びっくりするほど印象のよい美女がカフェオレ販売にやって来たと仰天したのか、それとも<私>に対してびっくりするほど鋭い印象を与える美女がカフェオレ販売にやって来たため「『習慣』の一時的停止」が発生したのか、よくわからない。おそらく両者が同時に作用したのだろう。しかし重要なのは、カフェオレ販売の娘はまるで見知らぬ「未知の世界」=「外部」として登場しているという点でなくてはならない。「生活上の慣習が中断され、場所も時刻も変わると」、とプルーストは述べているがただそれだけでは不十分なのであり、そのほんのいっときだけが他の退屈な時間と<切り離されて>後になっても<取り出せる>記憶として部分的に打刻されなくてはならない。だから時間は連続的なものでは決してなく非連続的な<諸断片>のぎくしゃくしたモザイクとして延々引き延ばされていくのだ。

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Blog21・記号としてのゲルマント/夢の多元性/愛と嫉妬の象徴としてのソナタの<断片>

2022年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはこう書いている。「当時のゲルマントの名は、酸素なりべつの気体なりを封じこめた小さな風船のようなものだ」と。

「そもそも当時のゲルマントの名は、酸素なりべつの気体なりを封じこめた小さな風船のようなものだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.27」岩波文庫 二〇一三年)

或る「家の名」がシニフィアン(意味するもの=記号)の側である場合、シニフィエ(意味されるもの=意味内容)は「つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられる」ことができる。なぜならシニフィアンとシニフィエとの間には「なんの関係もな」いからである。言い換えれば、両者の間は切断されている。だからこそ「名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである」とプルーストはいう。

「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)

ゲルマント大公妃が他の何人ものゲルマント大公妃と次々置き換え可能なのはただ「同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」。その名が指し示す内容は唯一絶対的な人物ではなく、逆にまるで別々の女性たちによって受け継がれていっているに過ぎない。

そのような無数の断片の繋がりについてプルーストは例えば「睡眠」を例に取っている。目を覚ました時、人間は記憶というものがいかに当てにならないかを指して「序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある」と書く。「途切れてしまったりすることがある」。この箇所でプルーストは記憶について、少なくとも睡眠中は、ばらばらの<諸断片>へと解体されていることを認めている。

「人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる。目覚めると本能的にそれを調べ、一瞬のうちに自分のいる地点と目覚めまでに経過した時間をそこに読みとるのだが、序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある。かりに眠れないまま明けがた近くになり、本を読んでいる最中、ふだん寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ちあげているだけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので、目覚めた最初の瞬間には、もはや時刻がわからず、寝ようと横になったところだと考えるかもしれない。眠るにはさらに場違いな、ふだんとかけ離れた姿勢、たとえば夕食後に肘掛け椅子に座ったままでうとうとしたりすると、その場合、大混乱は必至で、すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子となって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.29」岩波文庫 二〇一〇年)

夢の中で人間は「何百万もの人間のだれにでも」なったり動物や植物になったりまるで脈略のないシーンが次々と出現したのを確かに見ているわけだが、睡眠から覚醒してしばらくの間、なぜ自分がほかでもない自分に戻ったとわかるのか。はなはだ疑問だと述べてもいる。人格は唯一というわけではなく、逆に無数の人格が複合し合った多元的なものではないかと。

「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)

そもそも唯一絶対的な「中味」という確固たるものがあるという考え自体がただ単なる<思い込み>でしかない。というのも、たったいま通過してきた睡眠から目覚めたばかりの人間は、通常「われわれ」と呼んで不思議がっていない「われわれ」というにはほど遠い。むしろ「なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』」と呼ぶのが的を得ている。

「みずから通過してきたと思われる(とはいえわれわれがいまだに《われわれ》と言うことさえない)真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』であろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301~302」岩波文庫 二〇一五年)

また「愛と嫉妬」というテーマはプルースト作品の中で何度も繰り返される。そしてそれは「連続して分割できない同じひとつの情念ではない」。逆に「それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立って」いるにもかかわらず「絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続してみるという印象を与え」るがゆえ「単一のもの」だと思い込まれる<錯覚>なのだ。

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続してみるという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

この「愛と嫉妬」という一見連続して思えているものもまた、実のところ、無数に多元的な<諸断片>のモザイクであるにもかかわらず、瞬時に行われる<慣習・掟>の作用によってあたかも<まるで一つも途切れてなどいない一連の有機体として>再構成されるに過ぎない。スワンとオデットとの恋愛関係の中でスワンはソナタ全曲を誰かに演奏してもらおうと思っていたが「一節」でいいとオデットはいう。ソナタの一節は何を意味しているか。オデットは二人の恋愛関係においていう。「どうして残りが必要ですの?これが《あたしたちの》曲ですもの」。

「こんなわけでスワンは、オデットの勝手気ままな願いに応じて、ソナタ全曲をだれかに演奏してもらう計画は諦め、あいかわらずこの一節しか知らないでいた。オデットから『どうして残りが必要ですの?これが《あたしたちの》曲ですもの』と言い渡されていたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.86」岩波文庫 二〇一一年)

<一曲のソナタ>という言葉が統一と全体という錯覚へ誘惑するのであって、スワンに愛される女性=オデットの立場からすれば統一も全体も必要ない。二人の「愛/嫉妬」にとって必要なのはこれこそ<《あたしたちの》曲>というにふさわしい<一節>=<断片>だけですでに充分なのであり、必要に応じて<《あたしたちの》曲>というにふさわしい<一節>=<断片として>、その箇所だけを取り出すことができるという事実である。

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Blog21・「海辺のリゾート地」=「バルベック」への場所移動

2022年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
バルベックへの場所移動はプルーストにとって何をもたらすのか。或る地点から別の地点への移動は<差異>の出現なしにあり得ない。<私>は旅行の醍醐味について思う。「出発と到着との差異をできるかぎり感じずに済むようにするのでもなく、その差異をできるだけ深いものとし、想像力がわれわれを、暮らす場所から行きたい場所の中心にまで一足飛びに運んでくれるとき、われわれの頭のなかにその差異が存在したときのとおりに、そっくり全面的に感じるところにある」と。また「その差異をできるだけ深いものとし」と述べて一つの場所からもう一つの場所への<切断>と<あいだ>とを強調している。そしていう。「われわれをある名前からべつの名前へと運んでくれる」。二つの場所は地理的には繋がっているけれども、移動という点でバルベックは、それまで作品の舞台だったコンブレーやパリとは決定的に異なるもう一つの場所だ。「ある名前からべつの名前へ」というのは両者がそもそも別々のものであり、なおかつ<或る一つの価値体系>から<別の一つの価値体系>への場所移動だということを意味する。

「旅行本来の醍醐味は、途中で車を降りたり疲れたときに休めるところにあるのではなく、また、出発と到着との差異をできるかぎり感じずに済むようにするのでもなく、その差異をできるだけ深いものとし、想像力がわれわれを、暮らす場所から行きたい場所の中心にまで一足飛びに運んでくれるとき、われわれの頭のなかにその差異が存在したときのとおりに、そっくり全面的に感じるところにある。それが奇跡に思えるのは、一足飛びに一定の距離を越えるからではなく、一足飛びに地上の相異なるふたつの個性をつなぎ、われわれをある名前からべつの名前へと運んでくれるからだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.29」岩波文庫 二〇一二年)

場所移動は瞬時に行われるわけではない。移動中、「一方の窓から他方の窓へ」と景色は移り変わる。そこで<私>は「連続して一幅の画をつくりあげようとした」。というのは一つの窓から見える景色はもう一つの窓から見える景色とは異なっており、一つ一つはそれぞれ<個別的断片>に過ぎないからだ。連続した「一幅の画」はあらかじめ連続しているわけではまるでなく、逆に「間歇的で相反する断片」を「寄せあつめ継ぎあわせて」でなければ「連続」した「全体の眺望」にはなり得ない。「全体」はその後に生じる集合体的なモザイクでしかない。一つの<断片>ともう一つの<断片>との<あいだ>は<間歇的>であり、連続的ではなく非連続的な<個別的事象>であるがゆえ、「全体」というものは事後的に「つくりあげ」られるモザイク的創造行為なのだ。

「そこで私は、一方の窓から他方の窓へとくり返し駆けより、移り気で美しい真っ赤な私の朝の間歇的で相反する断片を寄せあつめ継ぎあわせて全体の眺望を捉え、連続して一幅の画をつくりあげようとした」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.55」岩波文庫 二〇一二年)

だがしかしプルーストは世界について、連続性ではなく非連続性、一つの全体ではなく各々の個別が、ばらばらに散在しているということについてまるで知っていなかったわけではない。例えば「屋根の線や石のニュアンスなど」一つ一つがそれぞれ別々の「中味」を持っていると始めから感じ取ってはいた。

「私が、屋根の線や石のニュアンスなどをなんとか正確に想い出そうとしたのは、なぜかわからないが、いまにもそれらの蓋(ふた)が開いて詰っている中味を引き渡してくれるように思えたからである」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.382」岩波文庫 二〇一〇年)

だからこそ、アルベルチーヌ失踪という<象形文字>から<私>が受けた「精神的衝撃の延長である苦痛」という「中味」(意味)を日頃から身近なすべての友人知人たち一人一人へ向けて伝達・配送することができる。この場合、アルベルチーヌ失踪という<象形文字>はシニフィアン(意味するもの)であり<私>が受けた「精神的衝撃の延長である苦痛」はシニフィエ(意味されるもの)である。<私>と同じようにアルベルチーヌと親交が深かった人々へ向けて伝達・配送される情報は、一つの「<象形文字>=シニフィアン(意味するもの)」だが、それを受け取った複数の人々に同じ「精神的衝撃の延長である苦痛」という「シニフィエ(意味されるもの)」を与える。一つの商品の無限の系列のように拡大再生産可能なものだ。情報が封書の中に入っていてもネット社会を飛び交うメールのように送受信される場合でも、<私>と同じようにアルベルチーヌと親交が深かった人々に与えられる衝撃は同じものである。

「こうむった精神的衝撃の延長である苦痛は、なんとかして形を変えようと切望する。人は、あれこれ計画を立てたり問い合わせをしたりすれば苦痛を追い払えるだろう、そうすれば苦痛は限りなく形を変えるだろうと期待するもので、そのほうがありのままの苦痛を堪(こら)えつづけるよりも楽だからである。苦痛を感じながら身を横たえているベッドは、あまりにも狭く、固く、冷たく思われるものだ。そんなわけで私は両脚でしかと立ちあがったが、部屋のなかを歩むのに細心の注意をはらった。アルベルチーヌが座っていた椅子や、金色の上靴(ミュール)を履いてペダルを踏んでいたピアノラなど、本人の使っていたものがなにひとつ目にはいらぬ位置に身を置くようにしたのだ。そうした事物はどれも、私の想い出が教えこんだ特殊なことばを用いて、アルベルチーヌの出奔をべつの形に翻訳し、いま一度それを私に告げようとしているように思われたからである。しかし見つめまいとしても、それらは目にはいる。すると全身の力が抜け、私は青いサテン張りの肘掛け椅子のひとつに倒れるように座りこんだ。この肘掛け椅子の表面の艶やかな光沢は、つい一時間前、射しこむ日の光のせいで麻痺したかのような部屋の薄明かりのなかで、私にさまざまな夢を見させてくれたものだが、そのときは情熱的に胸を躍らせたこれらの夢も、いまや私には縁遠いものとなった。いままでこの肘掛け椅子には、あいにくアルベルチーヌが目の前にいるときにしか座ったことがなかったのだ。それで、私はじっと座っていることができず、立ちあがった。このように各瞬間、われわれ自身を構成してはいるもののアルベルチーヌの出奔をいまだに知らぬ無数のしがない存在のひとつがあらわれるから、その『自我』のひとつひとつにこの出奔を知らせなくてはならず、つまりいまだそれを知らぬ全員に今しがた生じた不幸を知らせなくてはならずーーーこの人たちがまるで赤の他人で、私の感受性を借りて苦しむことなどない人たちであったなら、これほど辛い想いはしなかったであろうーーー、そのひとりひとりがその都度はじめて『アルベルチーヌさまは自分のトランクを全部出してくれとおっしゃいました』ーーーそれはバルベックで母のトランクの横へ積みこまれるのを見た棺(ひつぎ)の形をしたトランクだーーー『アルベルチーヌさまはお発ちになりました』ということばを聞かなければならないのだ。そのひとりひとりに、私は自分の悲嘆を教えなければならなかった。この悲嘆は、忌まわしい状況の総体から勝手にとり出した悲観的結論などではさらさらない。われわれ自身が選んだわけではなく外部から到来した特殊な印象が間歇的に無意識裡によみがえったものである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.44~46」岩波文庫 二〇一七年)

ここで「アルベルチーヌ失踪」=「精神的衝撃の延長である苦痛」という等価性が出現している。なぜそうなるのか。スピノザはいう。

「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・上・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫 一九五一年)

さて、バルベックはノルマンディー地方の「海辺のリゾート地」である。場所移動する前の土地とした後の土地とでは<価値体系>がまるで異なっている。非連続的で「間歇的」な場所移動を経て価値体系もまた異なる場所へ出た。当り前といえばそれまでかもしれないが、非連続的という意味で、この旅行自体が多元的<諸断片>からなる価値変動でなければならない。場所移動に伴う<或る価値体系>から<別の価値体系>への変動がまったくない場合、安い労働力で生産し流通(場所移動)させ、できあがった諸商品の消費によって価値を実現させることができないのと同様である。だから「市場」はいつも「リゾート地」に似ている。固定されているものは何一つなく、逆にいつも不安定な変動相場性によって支配されている。その様相を人格化して描いたとすればプルーストの次の文章のようになる。

「コンブレーでは、私たちは皆に知られており、私はだれにも気兼ねなどしなかった。海辺のリゾート地の生活では、隣人は赤の他人である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.91」岩波文庫 二〇一二年)

バルベックへ到着した数日後の朝、海辺で交響楽団のコンサートが行われた。そこで<私>はワーグナー作曲「ローエングリン前奏曲」や「タンホイザー序曲」に感銘を受ける。<私>はとりわけワーグナー信者というわけではないのだが、この時に聴いた「ローエングリン前奏曲」や「タンホイザー序曲」を「真実」だと思い、自分の頭の中の「真実」の枠の中に「入れこもうと」する。真実というのは入れたり出したりできるものなのだろうか。と読者は<私>の無邪気さに微笑まざるを得ない。そもそも「真実」という絶対的な何かが存在するものなのだろうか。しかしその瞬間の<私>にはそうとしか思えない。

(1)ワーグナー「ローエングリン・第一幕・前奏曲」

(2)ワーグナー「タンホイザー序曲」

だが重要なのは<価値体系>といっても「海辺のリゾート地」=「バルベック」は価値が体系化しておらず、むしろばらばらに解体されたアナーキーな場所に思われることだ。その意味でワーグナーはあくまで「酩酊的・麻酔的」でありアナーキー的な「無調性」とは違っていると言わねばならない。プルーストはこう書いている。

「この娘たちは、海辺のリゾート暮らしを特徴づける社会的尺度の変化という恩恵をもこうむっていた。ふだんの環境でわれわれの存在を大きくひき伸ばしてくれる特権もここでは目立たなくなり、事実上、消滅してしまう。それにひきかえここでは一見そんな特権があると見える人間だけが、うわべだけ幅を利かせ大手を振ってのさばっている。そんなうわべだけの羽振りのよさのせいで私の目には、見知らぬ女性が、この日には例の娘たちが、いともたやすく途轍もない重要性を帯び、その娘たちに私の持ちうる重要性を知らしめるのはかえって不可能になる」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.342」岩波文庫 二〇一二年)

そんなバルベックへの場所移動がなければ<私>とアルベルチーヌとの出会いはなかった。またバルベックがコンブレーやパリとはまるで異なるリゾート地独特のアナーキーな場所でなかったとしたら、偶然、次々出現する衝撃的事実に<私>が出くわすことはもっとなかったに違いない。

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