白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

熊楠による熊野案内/人柱とは何か・忘れ去られる童子・童女の神聖性

2020年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
髑髏(どくろ)には髑髏(どくろ)を。という形式が安定した敵討ちとして定着するためには両者の等価性があらかじめ前提されていなくてはならない。

「予の幼時和歌山に橋本という士族あり。その家の屋根に白くされた馬の髑髏(どくろ)があった。むかし祖先が敵に殺されたと聞き、その妻長刀(なぎなた)を持って駆けつけたが敵見えず、せめてもの腹癒せに敵の馬の刎(は)ねその首を持ち帰って置いた、と聞いた」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.245』河出文庫)

という作業が対抗措置としての意味を持つのはどのような場合か。いつどのような方法でもよいとは限らない。このような敵討ちの方法が個人的な思想信条だけでなく広く社会的なレベルで意味を持つのは、敵討ちの戦利品として相手方の「馬の髑髏(どくろ)」を自分の家の玄関に飾り付けたその瞬間に限って、である。債権-債務関係に即して考えた場合、より一層大掛かりな方法として「人柱」(ひとばしら)という方法があった。

「『大正十四年六月二十五日』大阪毎日新聞に、誰かが築島に人柱はきくが築城に人柱は聞かぬというように書かれたが、井林広政氏から、かつて伊予大洲の城は立てる時お亀という女を人柱にしたので、お亀城と名づく、と聞いた。この人は大洲生れの士族なれば虚伝でもなかろう。横田伝松氏よりの来示に、大須城を亀の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時、下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中(あた)って生埋めにされ、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の池も、オセキという女を人柱に入れた伝説あり、と。氏は郡史を編んだ人ときくから、特に書きつけておく」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.231~232』河出文庫)

人間は何か目的が計画通りにはかどらない時、神仏に祈ったりする。願を懸けたりする。今なおやっている。

「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)

熊楠は世界中で行われていた人柱の事例を列挙しつつ、日本だけは例外だなどと考えたがるのは思い上がりに過ぎないと喝破する。例えば、次のような話が残っているではないかと。

「『甲子夜話』の、大坂城内に現ずる山伏、『老媼茶話』の、猪苗代城の亀姫、島原城の大女、、姫路城天守の貴女等、築城の人柱に立った女の霊が、上に引いたインドのマリー同然いわゆるヌシとなりてその城を鎮守したものらしい」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.232』河出文庫)

加藤清正の邸宅に残る千畳敷の話題にも触れている。

「日本にも『甲子夜話』五九に、『彦根城の江戸邸はもと加藤清正の邸で、その千畳敷の天井に乗物を釣り下げあり、人の開き見るを禁ず。あるいはいわく、清正、妻の屍を容れてあり。あるいは言う、この中に妖怪いて時として内より戸を開くをみるに、老婆の形なる者みぬ、と。数人の話すところかくのごとし』と。これはドイツで人柱の代りに空棺を埋めたごとく、人屍の代りに葬式の乗物を釣り下げて千畳敷のヌシとしたのであるまいか」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.243~244』河出文庫)

近代国家の出現によって人柱の風習は消えていった。だがその間、人間の代わりにその地域で特に崇められてきた動物、あるいはそれと置き換えられ得るにふさわしい等価性を持つ何らかの品物を礎石として埋めたか、新築された邸宅のどこかに安置したのは明らかだろうと思われる。いずれにしろ、重要な場所に安置したからそこが重要な場所になったのではなく、そこに安置したのでその場所が極めて重要な神聖性を持つことになったという点は明確にしておこう。なお、加藤清正による姫路城の「姥石」(おばいし)について、柳田國男は次のような点に着目している。

「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)

姫路城の守護神はなるほどただ単なる任意の「老女」ではない。にもかかわらず「最も威霊のある女性の神であった」ことは動かしがたい、という見方である。老女はまた山姥であり、日本の記紀神話を見ると、その最初の出現は冥界に入った伊弉冉尊(イザナミノミコト)においてである。これらの説話に共通して見られる点は、童子、童女、老婆、山姥、といった大人以外の世界の住人たちに対する根深い信仰である。一般大衆の中に立ちまじり日常生活の中に心底溶け込んでしまい忙しい大人の頭の中では既に欄外に位置する境界領域を生きる人々らへの、普段は意識に上ってこない畏怖の感覚である。熊楠は人柱について、それほど遠い時代にのみ存在したこととしてばかり考えるわけにはいかないという。むしろもっと近い時代、東京や大坂などの中心部はいざ知らず、日本の大半を占める地方にはつい最近までそのような風習が残っていたではないかと問いかける。

「奴婢賎民の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)

柳田國男「遠野物語」にこうある。

「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)

地方の富裕な旧家にザシキワラシは姿を見せる。その姿は「多くは十二、三ばかりの童児なり」。この箇所のようにほんの一部ではあれ、柳田はかつて日本各地で行われていたであろう人柱信仰を少しばかり書き残さずにはおれなかったのだろう。物事が上手く行かない時は児童を生贄(いけにえ)にするのがよい、という原始的信仰。まったく消し去ってしまうわけにはいかなかった。ほんの僅かばかりが書き残された。もっとも、柳田に岩手県遠野の民間伝承を語り伝えたのは佐々木喜善(ささききよし)である。柳田による編集過程で、「遠野物語」の文体の出現によって、今度は逆に消え去った部分がわかってきた。

「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)

このような事情は一九一〇年(明治四十三年)出版の「遠野物語」では跡形もなく消えてしまっている。それから十七年後の一九二六年(大正十五年)、「山の人生」において始めて露呈された。「遠野物語」出版時の一九一〇年(明治四十三年)は近代日本といっても名ばかりであるだけでなく、そもそも「遠野物語」の文体自体がようやく成立したばかりである。逆に「山の人生」で描かれたような地方の山村で行われていた「民衆=常民」の生活実態は、現代人の目から見れば幾らおぞましく映ろうとも、当時の明治中央政権から見れば、取るに足りないありふれた日常生活の断片でしかなかった。

「我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.83』ちくま文庫)

なるほどそうかもしれない。明治年間に起こった文体の急激な変化。それは一九一〇年(明治四十三年)出版「遠野物語」から十七年を経た一九二六年(大正十五年)、「山の人生」における独特の文体を獲得して始めて「隠れた現実」が目の前に出現したということを、ともすれば忘れてさせてしまう効果を持つ。一九二六年(大正十五年)に入ってようやく、かつて遠野在住の語り部・佐々木喜善(ささききよし)が言わんとしていたことに柳田はようやく気づき始めたということができる。

しかしなぜこのような事態が起こるのか。言語は貨幣のように立ち働くからである。いったん新しい言語体系が打ち立てられるやもはや以前に何があったかなかったか、覆い隠され忘れ去られることになる。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

その意味で「遠野物語」の文体は近代日本成立以前の地方の山間部ではどのような生活様式がありふれた日常として残存していたか、それら様々な諸事情を隠蔽する方向へ働いたことを忘れてはならないのである。

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熊楠による熊野案内/山神の傷〔スティグマ〕

2020年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ダイダラホウシという名は今でも子どもたちの間で時々聞かれる。遠い昔の話だからだろうか。遠い昔には実際にいたというのだろうか。というより、むしろ戦後日本になって逆に、ますます耳にする機会が増したように思われないだろうか。熊楠も関心を寄せてはいる。けれども柳田國男ほどのめり込んで述べてはいない。順を追ってみよう。

「大太法師より転訛して、本誌〔『東洋学雑誌』〕に見えたる、ダイダラボウシ、ダイラボッチは出でたるか。世界通有の俚伝をBenjamin Taylor,‘Storyology’,1900,p,11に列挙せる中に、『路側の巌より迸(ほとばし)る泉は、毎(つね)に某仙某聖の撃ちて出だせるところにして、丘腹の大窪はすべて巨人の足跡たり』とあるを合わせ考えるうちに、この名称を大なる人の義とせる『笑覧』の切は正見と謂うべし。再び攷うつに、『宇治拾遺』三十三章に、盗賊の大将軍大太郎の話あり。その人体軀偉大なりしより、この名を享けたるならん。ダイダラ、ダイラ、二つながら大太郎を意味するか。中古巨漢を呼ぶ俗間の綽号(あだな)と思わる。果たして然(しか)らば、大太は反って大太郎の略なり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.292』河出文庫)

そこで「宇治拾遺物語」を見てみる。

「昔、大太郎とて、いみじき盗人の大将軍ありけり」(「宇治拾遺物語・巻第三・一・P.76」角川文庫)

と、それだけで終わってしまいそうなイメージがなくもない。けれども熊楠はそう簡単に終わらせることのできる説話だと思ってはいない。というのは、名前が大変似ているというだけでなく、盗人は盗人でも、「いみじき」とあるように、例外的に驚異的力の持ち主として上げている点に着目すべきだからである。その意味では熊楠の関心は柳田とは別の意味で高かったと思われる。熊楠の文章を追うと「一本ダタラ」に関連する次の伝説を見ることになる。熊楠はいう。

「広畠氏知りし人の話に、伊勢の巨勢という村をはなるること三里ばかりの山、四里四方怪物ありとて人入らず。大胆なるものあり、その山に近く炭焼きし、冬になりて里に出でんとするに、妻なる者出産近づき止むを得ず小屋に止まるに、妻にわかに産す。よって医に薬もらわんとて夫走り行きぬ。帰りて見れば、小屋に血淋璃として人なし。大いに驚き鉄砲持ち、鍋の足を三つ折り鉄砲に込(こ)めて、雪上の大足跡をたずね行くに、一丈ばかりの大人ごときもの妻の髪をつかみ、吊し持ち行く。後より追いかけ三十間ばかりになりしとき、かの者ふりむき、妻を樹枝にかける。さて、この者の顔を見るや否、妻を攫み首を食い切る、と同時にかねてかかる怪物を打たんには脇を打つべしと聞きたるゆえ、脇を打ちしに大いに呻き、山岳動揺して走り去る。日暮れたるゆえ帰り見れば、生まれたる児は全く食われたりと見え、血のみあり。翌日行きて血を尋ね穴に至りしに、大いなる猴(さる)苦しみおる。それを打ち殺し、保存の法もなきゆえ尾を取り帰る。払子(ほっす)のごとき白色のものにて、はなはだ美なり」(南方熊楠「山男について、神社合祀反対の開始、その他」『南方民俗学・P.416』河出文庫)

では一本ダタラの正体はただ単に大きな「猴(さる)」だったということだろうか。そう簡単でもない。大型の猿が生息していたとするなら、少なくとも熊楠の周囲で「伊勢」に伝わるこの種の伝説だけが特化されて残されるということはなく、逆に全国津々浦々に残されているのが常識的だろう。ところが一本ダタラの場合、そうではない。だからこそ熊楠は専門外の分野であるにもかかわらずわざわざ書き残した。一方、柳田も、一本ダタラについては、熊楠から聞いたとして紹介している。

「南方熊楠(みなかたくまぐす)氏に聞いた話であるが、一本ダタラは誰もその形を見た者はいないが、しばしば積雪の上に幅一尺ばかりもある大足跡を一足ずつ、印(しる)して行った跡を見るそうだ」(柳田國男「一目小僧・二」『柳田國男全集6・P.225』ちくま文庫)

一本ダタラは、しかし、なぜ「一本」でなければならないのか。また同様に、妖怪に多い特徴として「一つ目」が上げられる。「一つ足」と「一つ目」とについて、柳田はいう。そしてとりわけそれらは「山の神」との結びつきが強い傾向に注意する必要性があると思われる。

「信州の松本平では、山神の跛者(びっこ)だと言うているという事は、平瀬麦雨(ばくう)君がこれを報ぜられた。この地方では何でも物の高低あるものを見ると、これを山の神と呼び、その極端なる適用にしてしかも普通に行われているのは、稲草の成育が肥料の加減などで著しく高低のある場合に、この田はえらく山の神ができたなどというそうである。これから推測すると、一本ダタラその他の足の一つということも、眇者(かんち)を目が一つというほど自然ではないが、やはりまた元は松本地方で考えているように、跛者を意味していたのではなかろうか。そうしてこの地方でも土佐の片足神などと同じく、山の神に上げる草履類は常に片足だけだそうである」(柳田國男「一目小僧・五」『柳田國男全集6・P.232』ちくま文庫)

次の文章で柳田は「御霊が五郎に」変わっていく必然的過程を述べている。歴史書の中に登場する実在の人物の名と混同されてきた結果を踏まえているからだが、特に残念無念のうちに非業の死を遂げた人物の名と混同されやすい。他方、その初発となったと考えられる人物の名は菅原道真であって太郎でも五郎でもないのだが、祟り神=怨霊としては一、二を争う御霊であるには違いない。なお、神代を含めると初発は菅原道真だと言えない事情が出てくるのでこの場合は省略する。ただ、もし本当に神代を含めて議論しようとすると、記紀神話に登場する「蛭子」(ヒルコ)、「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)など、怨霊化したに違いない名も勘案しなくてはいけない。そうすると話がたまらなく複雑化する。しかしここで述べられている箇所に限ってみても既に、海に流された「蛭子」(ヒルコ)、熊野で「根の国」に入った(死んだ)「素戔嗚尊」(スサノオノミコト)、などに限らず、全国津々浦々で祭祀対象とされている「〔若〕王子信仰」は、暗黙の裡に怨霊の系列に含まれていると考えられてよいだろう。

「御霊が五郎に間違ったのにはなお仔細(しさい)がある。御霊は文字の示すごとくミタマであって、ひとの霊魂を意味している。我々の祖先はその中でも若くて不自然に死んだ人のミタマをことに怖れ、打ち棄てておくと人間に疫病その他の災害を加える者と考え、年々御霊会(ごりょうえ)という祭をして、なるだけ遠方へ送るように努めたが、人の力だけでは十分でないところから、ある種の神様に御霊の統御と管理とを御依頼申しておった。後世に至っても祇園(ぎおん)の牛頭(ごず)大王がその方の専門のようになってしまわれたが、古くは天神も八幡も、それぞれこの任務の一部分を御引受けなされたのである。天神は人も知るごとく、御自身がすでに御霊の有力なるものであったからもっともと思うが、八幡様の方は今の思想では何ゆえということが解らない。しかも石清水のごときは、その京都まで上(のぼ)って来られた当初の形式が、いかにもよく紫野今宮の御霊の神などと似ていたのみならず、近い頃まで厄神(やくじん)参りと称して、正月十五日にこの山の下の院へ参拝する風があったのを見ると、何か仔細のあったことと思われる。また若宮・今宮などと称して非業に死んだ勇士の霊を八幡に祭ったという例は往々にあるが、熊野や諏訪や白山などではそのような話を聞かぬのを見れば、この神に限ってよく御霊を指導して、内にはやさしく外に対しては烈しく、その厲威(れいい)を働かしめる御神徳を昔は備えられたのであろう。もししかりとすれば鎌倉の権五郎、八幡太郎の家来で左の眼を箭(や)で傷ついたという話のある人を、鎌倉の御霊で八幡様の摂社で、八幡の統御の下に立つ亡霊を祭った社の神と間違えても、必ずしも無学の致すところとは言われず、諸国の同名の社がなるほどと言ってこの説に従ったのも仕方がなかったと見ねばならぬ」(柳田國男「一目小僧・二十」『柳田國男全集6・P.264~265』ちくま文庫)

柳田は「一つ目/一つ足」を特徴とする妖怪について、いったん次のようにまとめている。神とは何かに関する。それは「過剰-逸脱」の象徴的存在でなければならなかった。だから柳田が次に語っているように「一目小僧は多くの『おばけ』と同じくーーー実は一方の目を潰された神である」。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統と失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)

巨大過ぎるもの。極少過ぎるもの。身体のどこかの箇所が数の上で多かったり逆に少なかったりするもの。それらはあるいは神として畏怖され、逆の場合、遠ざけられ遺棄致死された。そのような傾向は東アジアだけでなく、古代ギリシア、エジプト、ペルシア、小アジア、古代中国、ポリネシア、台湾、八重山群島、沖縄など、様々な土地で共通に見られ、中米などにも似た神話が残されている点を加味するとおよそ世界中に存在すると言える。神として扱われたのは特に神の声を伝える能力があるとされた児童である。だいたい思春期前半の童子・童女が一定の儀礼に則る形で共同体の普段の生活から一年ほど隔離され、「依代」(よりしろ)として用いられた。エリアーデが報告している儀式は風習として長く、アニミズムの時代から続く、ほとんどどこの村落共同体でも行われていたもののようだ。

「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)

この文章に「ナイフで身体に傷をつけたり」とある。そうすることであえてただ一人の童子なり童女なりを特権化するのである。この「傷」のことをスティグマ(徴=しるし)と呼ぶことは容易である。そしてスティグマ(徴=しるし)なしに神に近づくことは不可能とされる。なぜなら神はそれこそありとあらゆる大自然の生態系の威力であって、古代人は自然生態系がもたらす取り返しのつかないような種々の大災害(スティグマ)を最も恐れ敬ってきたからである。さて、「大太郎といういみじき盗の大将軍」のエピソードに戻ろう。今度は熊楠の側でなく柳田がそれを取り上げてこう述べている。「大太郎」はなぜ「タロウ」と呼ばれるのか。

「柳亭種彦の『用捨箱』(ようじゃばこ)には、大太発意(だいたぼっち)はすなわち一寸法師の反対で、これも大男をひやかした名だろうと言ってある。大太郎といういみじき盗の大将軍の話は、早く『宇治拾遺』に見えており、烏帽子(えぼし)商人の大太郎は『盛衰記』の中にもあって、いたってありふれた名だから不思議もないようだが、自分はさらに遡って、何ゆえに我々の家の惣領息子を、タロウと呼び始めたかを不思議とする。漢字が入って来てちょうど太の字と郎の字を宛ててもよくなったが、それよりも前から藤原の鎌足だの、足彦(たらしひこ)・帯姫(たらしひめ)だのという貴人の御名があったのを、まるで因(ちな)みのないものと断定することができるであろうか。筑後の高良(こうら)社の延長年間の解状(げじょう)には、大多良男(だいたらお)と大多良咩(ひめ)のこの国の二神に、従五位下を授けられたことが見え、宇佐八幡の『人聞菩薩朝記』には、豊前の猪山にも大多羅眸神を祭ってあったと述べている。少なくもその頃までは、神にこのような名があっても怪まれなかった。そうしておそらくは人類のために、射貫(いぬ)き蹴裂(けさ)きというような奇抜極まる水土の功をなし遂げた神としては、足跡はまたその宣誓の証拠として、神聖視されたものであろうと思う」(柳田國男「ダイダラ坊の足跡・太郎という神の名」『柳田國男全集6・P.491』ちくま文庫)

巨人伝説を人工的に創設することもできた。「韓非子」に記録がある。

「(1)趙王父令工、施鉤梯而縁潘吾、刻疎其上、広三尺、長五尺、而勒之曰、主父常遊於此

(書き下し)趙の主父(しゅほ)、工に令して、鉤梯(こうてい)を施して潘吾(はご)に縁(よ)じ、疎(あしあと=迹)を其の上に刻(こく)せしむ。広さ三尺、長さ五尺、而してこれに勒(ろく)して曰わく、主父常(かつ=嘗)て此(ここ)に遊ぶと。

(現代語訳)趙の主父(しゅほ=武霊帝)は工人に命じ、鉤(かぎ)のついた縄ばしごをかけて潘吾(はご)の山によじ登らせ、その頂上に人の足跡を彫りこませた。幅は三尺、長さは五尺もあって、そこに文字を刻んで『主父、かつてここに遊覧す』と書き残した。

(2)秦昭王令工、施鉤梯而上華山、以松柏之心為博、箭長八尺、棊長八寸、而勒之曰、昭王嘗与天神博於此矣

(書き下し)秦の昭王 工に令して、鉤梯を施して華山(かざん)に上り、松柏(しょうはく)の心(しん)を以て博(はく)を為(つく)らしむ。箭(せん)の長さ八尺、棊(き)の長さ八寸、而してこれに勒して曰わく、昭王嘗(かつ)て天神と此に博すと。

(現代語訳)秦の昭王は工人に命じ、鉤のついた縄ばしごをかけて華山に登らせ、〔腐りにくい〕松や柏(ひのき)の芯(しん)を使ってすごろくを作らせた。数取り棒の長さは八尺、こまの長さは八寸もあって、そこに文字を刻んで『昭王、かつて天の神とここですごろく遊びをす』と書き残した」(「韓非子3・外儲説左上・第三十二・P.49~51」岩波文庫)

これらのケースは皇帝の権力にふさわしい舞台装置をわざわざ大々的に作り上げたわけだ。それを作ることができるということがなおのこと、時の権力者の巨大さ(趙王の権威/昭王の権威)を臣民に対して示すことになった。といっても作るのは巨大な足型だけでよいのである。精霊流しのように日本の風習にも見られる。「運び去る乗物・媒体は目に見える有形のものである」ということを条件として、その上に何か大切なものが乗っていると見るのは古来、当たり前に行われてきた文化遺産である。

「害悪を小舟で送り出すという風習を考えればよいだろう。というのもこの場合、一方では害悪は目に見えない無形のものであるが、一方ではこれを運び去る乗物・媒体は目に見える有形のものである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257」ちくま学芸文庫)

熊楠は「紀州にはダイダラボウシなどの名なく」と言いつつ、一方でそのような形態を呈するものを指して「弁慶の足跡」と言うと述べている。

「紀州にはダイダラボウシなどの名なく、岩壁上天然の大窪人足の状を呈するものを、弁慶の足跡といい、当地近傍にも一つ二つ見受けるなり」(南方熊楠「ダイダラホウシの足跡」『南方民俗学・P.296』河出文庫)

熊楠は熊野の山の神についてたいへん熱心に考えていたところが見られる。「弁慶」へのこだわりがそもそもそれを語ってはいないだろうか。俗に「弁慶の七つ道具」というけれども、いつも決まって「七つ」揃っているわけではない。一つを「義経記」から、もう一つを「高館」から引こう。

「武蔵房は弓を持たず、四尺二寸(約1.27メートル)の柄に鶴(つる)の装飾を施(ほどこ)した太刀を持ち、岩透(いわとお)しと呼ばれる脇差(わきざし)を腰に差していた。そして猪(いのしし)の目を彫(ほ)った鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)を添えて舟の中に投げ入れた。そしていつも身から放さぬ一丈二尺(約3.6メートル)の棒に、筋金(すじがね)を蛭巻(ひるま)きにして尖端(せんたん)を金具で包(つつ)んだ櫟(いちい)の打ち棒を小脇に抱えて小舟に飛び乗った」(「〔現代語〕義経記・巻第四・住吉大物二ヶ所合戦のこと・P.186」勉誠出版)

「一尺八寸の打刀(うちがたな)を十文字に差(さ)すままに、箙刀(えびらがたな)、首掻(くびかき)刀、長刀(なぎなた)、小反刃(こぞりは)を少違(ちが)へ、鞍(くら)の前輪(まえわ)に締(し)め付(つ)け、弓手に熊手(くまで)ををつ取(と)つて、馬手(めて)に長刀(なぎなた)うち担(かた)げ、膝(ひざ)にて馬をぞ乗(の)つたりける」(新日本古典文学体系「高館」『舞の本・P.459』岩波書店)

これらの中で「鉞(まさかり)、薙鎌(なぎかま)、熊手(くまで)」などはとりわけ顕著に思えないだろうか。熊野のような山の民の生活において、それらは祭祀に用いられる祭具であると同時に、山岳地帯での日常生活になくてはならない重要な仕事道具だったことは論を待たないのではと思われるのである。そしてまた、祭具を取り扱う者はいつも特権的な「傷」=「スティグマ」(徴=しるし)の持ち主でなければならなかった。

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熊楠による熊野案内/「陰の間」と変身欲望

2020年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
和歌山県だけが特別だとは思われないものの、確たる古典に記載がほとんど見られないのは淋しい、と熊楠はいう。岩田淳一宛書簡から男性同性愛に関する。

「和歌山という処は歴代ことのほか女色の行なわれし所にて、徳川末期には娼妓とは明言しがたきも遊郭は数カ所でき候(今もそれが北の新地と申しのこりあり。大坂辺よりも遊びにくるほどの女多し。芸妓というものの、実は売芸よりも売色の方なり)。光瑞法主の漢学の師たりし小山憲栄の話に、若いとき諸国を歩きしに和歌山と金沢くらい女色の乱蕩せし地はなかりしとのことに候。したがって男色の話とては、西鶴の『大鑑』巻四に『待ち兼ねしは三年めの命』の一条あるのみ。その外に何たる話は伝わらず」(南方熊楠「カゲロウとカゲマ、御座直し、『弘法大師一巻之書』、その他」『浄のセクソロジー・P.390~391』河出文庫)

菊井松三郎は十六歳の美少年。その情人(兄貴分)を瀬川卯兵衛といった。瀬川はなかなか熟考するタイプの男で義にも厚い。ところがしかし、恋愛では世の常と言いながら、定石通り二人の間に一人の男が割り込んでくる。松三郎を「譲れ」と言ってくる。

「横山清蔵といった男が松三郎に執心をかけ、卯兵衛とも知り合いだのに、無理にも譲れという書状をさし付けたのこそ鬱陶しい」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.101~102』角川ソフィア文庫)

割り込みとはいえ、清蔵もまた本気であって、今すぐにでも決闘してどちらが松三郎にふさわしいか決めようではないかとねじ込んできた。譲るに譲れぬ卯兵衛も清蔵がそうまで言うならと決闘に赴く。江戸時代の武士同士の決闘だから当然のことながら刀で斬り合う果し合いである。必ずどちらかが死なねばならない。とそこで、清蔵はふと考えを改め直して言った。松三郎は今年でようやく十六歳、衆道(男性同性愛)の花道はこれからだ。しかし、あと三年経てば二十歳になって元服し前髪を切ることになる。決闘するならその時にしないか、という。卯兵衛もそれはいいと賛同する。三年のあいだ卯兵衛と清蔵とは大いに語り合った。小説には詳しく書かれていないが、おそらく二人とも自らの思う男道についてあたかも哲学を語り合うかのように腹を割って思うところを述べ合ったのだろう。だが逆に、いったん気心が知れ合うと時間が経つのは途轍もなく早い。三年後。約束の十月二十七日早朝、名もない野寺で卯兵衛と清蔵は刺し違えて死んだ。瀬川卯兵衛の心配りはなかなかのものだ。武士の作法に従って挟箱を持参しており、その中には卯兵衛と清蔵との位牌まで用意してあった。心の底まで理解し合った同志ゆえ、お互い、同時に死ぬほかなかったのだろうと思われる。もしどちらか一方が生き残れば、生き残った側が一人で松三郎を独占してしまう形になり、生き残ったがゆえかえって悔やむことになる。そのような事態こそ避けなければならない。松三郎のためにも。しかし両人討死の報を聞いて駆けつけた松三郎は周りの言うことには耳も傾けず、あっさり自害して果てた。

「今ぞと思う時、卯兵衛は挟箱をあけさせ、位牌(いはい)を二つ取り出し、かねてから二人の俗名命日までほり付けてあるのを互にとりかわし香花(こうげ)をたむけしばしの間はものもいわず、心底を感じあい、袖は折から時雨とぬれ、偽りのない仏の利剣を抜き持って、卯兵衛は二十三、清蔵は二十四、惜しや、花散り月くもり、後に残った松三郎は心の闇にまよって、その夜半に聞きつけて御寺にかけ入り、今年十九を一期として出家になって二人をとむらい給えと皆々すすめても聞き入れず、同じ枯野の霜と消えてしまった」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.103』角川ソフィア文庫)

だからといって、紀州には女色ばかりで男色はほとんどなかったわけではないだろう。ただ、派手に踊り騒ぐばかりの遊郭遊びが目立っていたというだけのことで、男性同性愛者は逆に舟に乗っても、「耳ちかく囁(ささや)く風情」、「添寝」、「思いおうての恋舟」、といった情味を好んだものと思われる。

「玉津島の入江に浮かれて寄って行くのに、若衆七、八人の花やかな舟がいて、外のとはかわって、謡いも鼓もなくて、それぞれにねんごろらしい男が二人ずつ一方に寄って耳ちかく囁(ささや)く風情、あるいは添寝し、又は一画ずつ皆の書いてゆく筆遊び、かといえば扇引きするのもあり、思いおうての恋舟、これよりうらやましいものはない」(井原西鶴「待兼しは三年目の命」『男色大鑑・P.99』角川ソフィア文庫)

また西鶴は、広間と広間との間の「陰の間」に詰めて、ただ相方が情愛を傾けに来るのをひたすら静かに待っている「陰間(かげま)=カゲマヤロウ、ヤロウ」に関し、見習うべき態度だと褒めている。

「見る人もなしとて、湯漬食(ゆづけめし)の早喰(はやぐ)い。肴重箱(ちうばこ)には、山桝(さんせう)の皮(かわ)ばかり、残して、手(て)洗ふて、じねんに、ひあからせ、しのびて見る程、おかしや、人は、陰(かげ)の間(ま)を、嗜(たしな)むへき事也」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷三・五・敵無(てきなし)の花軍(はないくさ)・P.133」岩波文庫)

ところで、京の都の内裏の「南殿」(なでん)=紫辰殿(ししんでん)でのこと。今でいう国会議事堂本会議場では、男ばかりになると、次のようなことがあったらしい。

「小野(をの)ノ宮(みや)ノ実資(さねすけ)ノ右ノ大臣」は「藤原実資」(ふじわらのさねすけ)のこと。弾正ノ弼(ひつ)源ノ顕定(あきさだ)が公文書を受け取るために待っている際、よほど暇だったのか、自分の男性器をぽろりと出して見せた。といっても藤原実資の位置からはまったく見えず、下段(あるいは地面か)に控えている藤原範国(ふじわらののりくに)にはまともによく見えた。場が場だけに面白くて思わず笑ってしまったという話。

「今昔(いまはむかし)、藤原ノ範国(のりくに)ト云フ人有ケリ。五位(ごゐ)ノ蔵人(くらうど)ニテ有ケル時、小野(をの)ノ宮(みや)ノ実資(さねすけ)ノ右ノ大臣ト申ス人、陣(ぢん)ノ御座(ござ)ニ着(つき)テ、上卿(しやうけい)トシテ事定メ給ヒケルニ、彼(か)ノ範国ハ五位ノ職事(しきじ)ニテ、申文(もうしぶみ)ヲ給ハラムガ為ニ、陣ノ御座ニ向(むかひ)テ上卿ノ仰(おほ)セヲ奉(うけたまは)ル間、弾正ノ弼(ひつ)源ノ顕定(あきさだ)ト云フ人、殿上人(でんじやうびと)ニテ有ケルガ、南殿(なでん)ノ東ノ妻(つま)ニシテ、摩羅(まら)ヲ掻(かき)き出(いだ)ス。上卿ハ奥ノ方ニ御(おは)スレバ、否不見給(えみたまは)ズ。範国ハ、陣ノ御座ノ南ノ土(つち)ニテ此レヲ見テ、可咲(をかし)サニ不堪(たへ)ズシテ咲(わらひ)ヌ」「今昔物語集5・巻第二十八・第二十五・P.239」岩波書店)

こういう時の笑い声は意外と響く。審議に集中している人間の耳にもよく聞こえるものだ。この日の議長を勤めていた藤原実資は怒り出して「なぜ笑う」と藤原範国を問い詰めた。「立派なものが見えたので」と範国は言葉を濁しつつ答えるほかなかった。その問答を聞いて弾正ノ弼源ノ顕定はたまらなく可笑しがった。ここで発生しているのはベイトソンのいう「ユーモア」の構造である。

「2《ユーモア》。ユーモアとは、思考や関係の奥に秘められたテーマの探索に関わるものであるようだ。その際、異なった論理レベル、または異なったコミュニケーション・モードをひとつに圧縮したメッセージを用いるというのが、ユーモアの方法である。比喩のはずだったメッセージが突然字句通りの意味において捉えられるとき、または字句通りの意味のはずだったものに突然比喩としての意味が生じるとき、ひとつの発見が起こる。このときーーーすなわちコミュニケーション様式のラベルづけが解体し、再統合されるときーーーがユーモアの沸き上がる瞬間だといえる。笑いを呼ぶ『オチ』の台詞というのは、応々にして、それまでメッセージを特定のモードに帰属させていたシグナル(コレハ字句通リノ言葉ダ、コレハ空想ダ、等)の裏をかいて、それを別様に解釈することを迫る。つまり笑わせる言葉というのは、それまでモードの分類に携わっていた高次の論理階型のメッセージを、なんらかのモードの《中に》引き入れる、という奇妙なはたらきをする」(ベイトソン「精神の生態学・精神分裂病の理論化に向けて・P.290~291」新思索社)

だからといって現代社会で通用させてしまってよいかどうかはまた議論を要すると考えられる。しかしここで見ておくべきは、男性ばかりの高級官僚の不祥事というのは平安時代からあったという点、そしてもう一つは、今は女性も含めてあるという点だろう。

さらに、古くは「婚(とつ)ぐ」といっても女性が男性の家に入るという意味に限ったわけではない。ただ単なる性行為を指して「婚(とつ)ぐ」ともいう。昼寝している間に夢の中で若い女性と性交した僧侶の話。「吉々(よくよく)婚(とつぎ)テ婬(いん)ヲ行(ぎやう)ジツ」。目を覚ますと百五十センチ程の蛇が横たわって死んでいた。

「久(ひさし)ク寝タリケル夢ニ、『美(うるはし)キ女ノ若キガ傍(かたはら)ニ来タルト臥(ふ)シテ、吉々(よくよく)婚(とつぎ)テ婬(いん)ヲ行(ぎやう)ジツ』ト見テ、急(き)ト驚キ覚(さめ)タルニ、傍(かたはら)見レバ、五尺許(バカリ)ノ蛇(へみ)有リ。愕(おびえ)テカサト起テ見テバ、蛇、死(しに)テ口ヲ開(あけ)テ有リ。奇異(あさまし)ク恐(おそろ)シクテ、我ガ前(まへ)ヲ見レバ、婬ヲ行ジテ湿(うるひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第四十・P.387」岩波書店)

死んだ蛇の口から男性の精液がどろどろと滴り落ちていた。蛇と愛欲との深い関係は日本だけに限らず、ずっと昔の古代ギリシア文献などにもよく出てくる。しかし愛欲は何も蛇ばかりとは限らない。「野干」(やかん)=「狐」(きつね)の話はどこか悲しい。なぜだろうか。相手が狐になると感情的な距離が蛇よりもぐっと近く感じられるからに違いない。

或る美男子が都の朱雀門付近を歩いていた。見ると十七、八歳ばかりの端麗な女性が一人佇んでいる。

「今昔(いまはむかし)、年若くして形(かたち)美麗なる男有けり。誰人(たれひと)と不知(しら)ず。侍(さぶらい)の程の者なるべし。其の男、何(いず)れの所より来(きたり)けるにか有けむ、二条朱雀に行くに、朱雀門(しゆじやくもん)の前を渡る間、年十七、八歳許(ばかり)有る女の、形端正(たんじよう)にして姿美麗なる、微妙(みみよう)の衣を重ね着たる、大路に立てり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.215」岩波文庫)

男性は声を掛け、その夜、二人で朱雀門の近くの小屋で夜通し性行為に耽る。ただ、女性は別れの朝に男にいう。「我れ君に代て命を失はむ事疑ひ無し」。これで自分は死ぬだろうと。

「而(しか)る間、日暮れて夜に入(いり)ぬれば、其の辺(ほとり)近き小屋を借て将行(いてゆき)て宿(やどり)ぬ。既に交臥(きようが)して、終夜(よもすがら)行く末までの契(ちぎり)を成(な)して、夜あけぬれば、女返(かえ)り行くとて男に云く、『我れ君に代て命を失はむ事疑ひ無し』」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.216」岩波文庫)

もし嘘だと思うなら試しにあなたの持っている扇を、と男の扇を持ち去っていった。男は本気にしていない。だが翌日、何となく気には掛かっていたので朱雀門辺りへまたやって来た。するとそこには一匹の若い狐の死体が横たわっていた。扇を見せる格好で。

「男怪(あや)しと思て寄て見れば、殿の内に一(ひとつ)の若き狐(きつね)、扇を面(おもて)に覆(おおい)て死(しに)て臥(ふ)せり。其の扇、我が夜前の扇也」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第五・P.217」岩波文庫)

死と愛欲と再生とは。熊楠は写真に映る顔に似合わず、何か様々な事象を頭の中で緻密に繋いではほどき、また別様に繋いではほどき、を繰り返しつつ自己創造していたように思われる。熊楠の頭脳はそれじたいもはや常に動いて止まることを知らないリゾームと化していたに違いない。

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熊楠による熊野案内/熊野三山反魂香

2020年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠を激怒させたのはただ単なる神社合祀という点に限ってではない。一般大衆が考えてもなかなかわかりづらいように、綿密かつ狡猾に仕組まれた「文書偽造」。さらに土地買収のための「運動費(悪く言わば賄賂)」の横行。

「小生初めこの姦徒より承しは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂(うわさ)によれば文書偽造の廉(かど)なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱(うろん)過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上(かきあげ)中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.381~382』河出文庫)

熊楠は誰もが知る日本の歴史・古典から様々な箇所を引用しつつ抗議することを止めない。それが同時に熊野固有の生態系保存に繋がる。

例えば、次に上げる太平記の文章。そこに書かれた熊野に関する奇瑞奇怪な現象のあれこれ。なぜ奇瑞奇怪なのか。というのは、そもそもそのような特異な環境は熊野本来の自然生態系を抜きにして語ることはできなかったからだ。「熊野人」という言葉が印象的な部分。山岳地帯の戦闘だけでなく水軍としても非凡な存在感を誇っていた。

「高野(こうや)より紀伊路(きのじ)に出でて、千里(せんり)の浜(はま)を打ち過ぎて、田辺(たなべ)の宿(しゅく)に逗留(とうりゅう)し、四、五日、渡海(とかい)の船をそろへ給ふに、熊野(くまの)の新宮別当湛誉(しんぐうのべっとうたんよ)、湯浅入道成仏(ゆあさにゅうどうじょうぶつ)、山本判官(やまもとほうがん)、東四郎(とうのしろう)、西四郎(さいのしろう)以下(いげ)の熊野人(くまのびと)ども、馬、物具(もののぐ)、弓箭(ゆみや)、太刀、長刀(なぎなた)、絹布(きぬぬの)の類(たぐ)ひ、兵粮米(ひょうろうまい)、に至るまで、われ劣らじと奉りける間、行路(こうろ)の資(たす)け万(よろ)づ卓散(たくさん)なり。かくて順風になりにければ、かの熊野人ども、兵船(ひょうせん)三百余艘漕(こ)ぎ並(なら)べて、淡路国(あわじのくに)武島(むしま)へ送り奉る」(「太平記4・第二十四巻・義助朝臣予州下向の事、付道の間高野参詣の事・P.74~75」岩波文庫)

熊野信仰の広さ深さは江戸時代に書かれた妖異怪談集であり、一六六六年(寛文六年)出版の「伽婢子」でも盛大に披露されている。和泉(いづみ)の堺(さかひ)で薬種を扱って商売している長次という男が瘡毒(さうどく)を病んで奈良の吉野の奥深く、十津川まで湯治にやってきた。

「それより紀伊国、和歌・吹上の浦を過(すぎ)て、由良の湊(みなと)よりふねををりて、恋しき都をなげめやり、高野山にまうでて、滝口時頼(たきぐちときより)入道にあふて、案内せさせ、院々谷々おがみめぐり、これよりくま野に参詣すべしとて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より和歌のうら、吹上の浜、古木の杜(もり)、蕪坂(かぶらざか)・千里(ちさと)の浜のあたりちかく、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、

岩田川ちかひのふねにさほさしてしづむわが身もうかびぬるかな

それより本宮(ほんぐう)にまうでつつ、新宮・那智(なち)のこりなくめぐりて」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之二・十津川(とづがは)の仙境(せんきやう)・P.39~40」岩波書店)

とそこへ、源平合戦で入水して死んだはずの平維盛が出現する。維盛は死んではいない。十津川で生きているという。そういうことならと真夜中にもかかわらず長次は気持ちを落ち着かせ、平氏滅亡後の世の中の推移を語る。あれから「弘治(こうぢ)二年(一五五六年)丙辰(ひのへたつ)の歳(とし)まで星霜(せいぞう)三百七十四年」が過ぎたと。耳を傾けていた維盛は三百七十四年の間にそれほど様々な死闘が繰り広げられ、世の中も変わっていたのかと不覚にも涙する。長次は場所を記憶しておくのだが、翌年訪れてみると、もはやその場所はただただ深山幽谷が静寂を湛えているばかりだった。

近松門左衛門は浄瑠璃「けいせい反魂香」で次のように扱っている。

「飛鳥(あすか)の社濱(やしろはま)の宮(みや)。王子々々は九十九所。百に成りても思ひなき世は和歌〔若〕(わか)の浦(うら)、こずゑにかかる藤代(ふぢしろ)や、岩代峠(いはしろたうげ)潮見(しほみ)坂、かきうつす繪(ゑ)は残るとも我は残らぬ身と聞けばいとしやさこそ我が夫(つま)の、涙にくれて筆捨(ふです)て松の、しづくは袖に満(み)つ潮(しほ)の、新宮(しんぐう)の宮居(みやゐ)かうかうと、出島(じま)に寄(よ)する磯(いそ)の浪(なみ)、岸(きし)打つ浪(なみ)は補陀落(ふだらく)や那智(なち)は千手、観世音(くわんぜおん)、いにしへ花(くわ)山の、法皇(ほふわう)の、后(きさき)のわかれを、戀ひしたひ、十善(ぜん)御身を捨(す)て高野(かうや)西國熊野(くまの)へ三度(ど)、後生前生(ごしやうぜんしやう)の宿願(しゆくぐわん)かけて、發心門(ほつしんもん)に入る人は神や受(う)くらん御本社(ほんしや)の、證誠殿(しようじやうでん)の階(しざはし)をおいてくだりて、待ちうけ悦び給ふとかや、我はいかなる罪業(ざいごふ)の、其の因縁(いんえん)の十二社(しや)をめぐる輪廻(りんゑ)をはなれねば、うたがひふかき音無川(おとなしがは)ながれの、罪(つみ)をかけて見る業(ごふ)のはかりの重(おも)りには、それさへ軽(かる)き盤石(ばんじやく)の、岩田川(いはたがは)にぞ着きにける、垂迹和光(すいしやくわくわう)の方便にや名所々々宮立ちまで、顕はれ動(うご)き見えければ元信信心肝(しんじんきも)にそみ、我が書(か)く筆とも思はれず目(め)をふさぎ、南無(なむ)日本第一霊験(りやうげん)、三所権現(ごんげん)と伏(ふ)しをがみ、頭(かうべ)をあげて目(め)をひらけば南無(なむ)三寶、さきに立ちたる我が妻はまっさかさまに天を踏(ふ)み、両手をはこんで歩(あゆ)み行く、はっとおどろき是なう浅ましの姿やな、誠や人の物語死(し)したる人の熊野詣(くまのまう)では、あるひはさかさま後向(うしろむ)き生(い)きたる人には變(かは)ると聞く、立居に付けて宵(よひ)より心にかかること有りしが、扨はそなたは死(し)んだかと、こぼしそめたる涙よりつきぬ歎(なげ)きと成りにけり」(日本古典文学体系「けいせい反魂香・三熊野かげろふ姿(すがた)」『近松浄瑠璃集下・P.166~167』岩波書店)

この箇所で「飛鳥」(あすか)とあるのは次の歌を踏まえる。

「世の中はなにか常なるあすか川昨日(きのう)の淵(ふち)ぞ今日(けふ)は瀬になる」(「古今和歌集・巻第十八・九三三・P.218」岩波文庫)

さらに「王子々々は九十九所」とあるのは京の都から考えて、という意味。謡曲「俊寛」にこうある。

「都よりの道中(だうちう)の、九十九所(くじふくしよ)の、王子迄、ことごとく順礼の、神路(しんろ)に幣(ぬさ)を捧(ささ)げつつ」(新日本古典文学体系「俊寛」『謡曲百番・P.467』岩波書店)

また、「新宮(しんぐう)の宮居(みやゐ)」を起こすため「満(み)つ潮(しほ)の」、が取り入れられている。

「熊野新宮にてよみ侍りける

天くだる神や願をみつしほの湊に近き千木のかたそぎ」(「玉葉和歌集・卷第二十・中原師光朝臣・P.439」岩波文庫)

熊野と直接関係はないが、「けいせい反魂香」には、近松作品であるにもかかわらず西鶴作品からの引用もあって面白い。例えば、「湯(ゆ)の尾峠(をたうげ)の孫杓子(まごじやくし)」。西鶴にこうある。

「越前(えちぜん)の国湯尾峠(ゆのおとうげ)の茶屋の軒端に大きいしゃくしを看板にして、孫じゃくしといって疱瘡(ほうそう)がかるくすむ守り札を出している」(井原西鶴「雪中(せつちゆう)の時鳥(ほととぎす)」『男色大鑑・P.65』角川ソフィア文庫)

さらに「片肌(かたはだ)脱(ぬ)いだる立髪(たてがみ)男」。大津絵で「男伊達」を描いたもの。江戸時代の大津は東海道の宿場町として大変繁盛していた。土産といえば大津絵だった。西鶴が列挙しているようにかつてはもっと多くの絵柄があったようだ。

「いかに北國のはてなればとて、あなどりたまふな、寺泊(とまり)という所に、傾城町(けいせいまち)あり、いざーーー、奥の間に、やさしくも、屏風(へうふ)引廻(ひきまは)して有ける、押繪(おしゑ)を見れば、花かたげて、吉野参(よしのまいり)の人形、板木押(はんぎおし)の弘法大師、鼠の嫁入(よめり)、鎌倉團右衛門(かまくらだんゑもん)、多門(たもん)庄左衛門が、連奴(つれやつこ)、これみな、大津の追分(おいわけ)にて、書(かき)し物ぞかし、見るに、都なつかしく、おもふうちに、亭主膳をすえける」(井原西鶴「好色一代男・卷三・集礼(しゆらい)は五匁の外(ほか)・P.87~88」岩波文庫)

その意味ではこれら諸テクストは引用の《織物》だということができる。

「『テクスト』は複数的である。ということは、単に『テクスト』がいくつもの意味をもつということではなく、意味の複数性そのものを実現するということである。それは《還元不可能な》複数性である(ただ単に容認可能な複数性ではない)。『テクスト』は意味の共存ではない。それは通過であり、横断である。したがって『テクスト』は、たとえ自由な解釈であっても解釈に属することはありえず、爆発に、散布に属する。実際、『テクスト』の複数性は、内容の曖昧さに由来するものではなく、『テクスト』を織りなしている記号表現の、《立体画的複数性》とでも呼べるものに由来するのだ(語源的に、テクストとは織物のことである)」(バルト「作品からテクストへ」『物語の構造分析・P.97』みすず書房)

ただ、今の日本の政治は高度テクノロジーを駆使しながら、駆使すればするほどますます、一体誰が責任者なのか、さっぱり判然としないほど監禁=監視する側の没人格化がどんどん増していることは間違いない。

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社)

この傾向は日毎に加速していることを忘れないようにしよう。

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熊楠による熊野案内/遥かなる熊野人

2020年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
地名には様々な歴史が詰まっている。「拾い子谷」(ひらいごだに)。旧・和歌山県田辺市本宮町平井郷(ひらいごう)のこと。熊楠はこの地でも珍しい隠花植物を発見している。

「拾(ひら)い子谷(ごだに)=東西牟婁郡の間八十町にわたる、熊野には今日熊野街道の面影を百分の一たりとも忍ばしめるところはここあるのみ。ただし、古えの熊野本宮参詣の正路にはあらず。大学目録に、野中とあるはこの谷のことなり。宇井縫蔵が近く見出だせしキシュウシダ、小生発見の葉なき熊野丁字ゴケ、また従来四国で見出だしおりしヤハズアジサイ、粘菌中もっとも美麗なるCribraria violaceaその他小生一々おぼえぬが、分布学上珍とするに堪うるものはなはだ多く、かつ行歩少しも嶮ならぬゆえ、相応の保護を加え、一層繁殖させなんには、最も植物学の実際をなすに好適の地なり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.383』河出文庫)

熊楠のいう「丁字ゴケ」は、形が「丁」の文字に似ていることから「丁」字を当て、それに「コケ」(苔)を付けただけのシンプルな呼び名。「クマノチョウジコケ」の学名で正式採用されている。

ところで熊野といっても古代には先住民がいたに違いない。それも複数。彼らはそれぞれの本拠地というべき土地を持ちつつ、それぞれの事情に応じて移動することもあったに違いない。そのことを示す文章が折口信夫にある。

「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)

記紀に見られる「熊野、大和、吉野」の繋がりについて。まず「熊野久湏毗(くまのくすび)の命(みこと)」=「熊野櫲樟日命(くまののくすびのみこと)」について。

古事記から。

「右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名は、熊野久湏毗(くまのくすび)の命(みこと)」(新潮日本古典集成「古事記・上つ巻・天照大御神と須佐之男命・天の安の河の誓約(うけひ)・P.47〜48」新潮社)

日本書紀から。

「既(すで)にして素戔嗚尊、天照大神の髻鬘(みいなだき)及(およ)び腕(たぶさ)に纏(ま)かせる、八坂瓊(やさかに)の御統(みすまる)を乞(こ)ひ取(と)りて、天真名井(あまのまなゐ)に濯(ふりすす)ぎて、齟然(さがみ)に咀嚼(か)みて、吹(ふ)き棄(う)つる気噴(いふき)の狭霧(さぎり)に生まるる神を、号(なづ)けまつりて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)と曰(まう)す。次(つぎ)に天穂日命(あまのほひのみこと)。是(これ)出雲臣(いづものおみ)・土師連等(はじのむらじら)が祖(おや)なり。次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)。是(これ)凡川内直(おほしかふちのあたひ)・山代直等(やましろのあたひら)が祖なり。次に活津彦根命(いくつひこねのみこと)。次に熊野櫲樟日命(くまののくすびのみこと)。凡(すべ)て五(いつはしら)の男(ひこがみ)ます」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第六段・P.64〜66」岩波文庫)

次に「国巣」(くにす)=「国樔」(くづひと)について。

古事記から。

「その山へ入(い)りませば、また尾生ふる人に遇ひましき。この人巌(いはほ)を押し分けて出で来(く)。しかして、『なは誰(たれ)ぞ』と問ひたまへば、『あは国つ神、名は石押分之子(いはおしわくのこ)といふ。今、天つ神の御子幸行しぬと聞きつれば、参向(まゐむか)へつるにこそ』と答へ白しき(こは吉野の国巣〔くにす〕が祖〔おや〕ぞ)」(新潮日本古典集成「古事記・中つ巻・神武天皇・宇陀での戦勝・P.114」新潮社)

日本書紀から。

「亦(また)尾有りて磐石(いは)を披(おしわ)けて出(きた)れり。天皇問ひて曰はく、『汝は何人ぞ』とのたまふ。対へて曰さく、『臣(やつかれ)は是磐排別(いはおしわく)が子(こ)なり』とまうす。排別、此をば飫時和句(おしわく)と云ふ。此即(これすなは)ち吉野の国樔部(くずら)が始祖(はじめのおや)なり」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年八月~九月・P.216」岩波文庫)

さらに吉野の国樔は宮廷の祭祀の際、歌舞音曲に携わった点について。

「十九年の冬十月(ふゆかむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国樔人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて醴酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく、

橿(かし)の生(ふ)に横臼(よくす)を作(つく)り横臼(よくす)に醸(か)める大御酒(おほみき)うまらに聞(きこ)し持(も)ち食(を)せまろが父(ち)

歌(うたよみ)既(すで)に訖(をは)りて、則(すなは)ち口(くち)を打(う)ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月〜二十年九月・P.208」岩波文庫)

そしてまた熊野は古来、芸能との繋がりが大変強い。

「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)

比丘尼に配偶者(夫)がいたということは何ら驚くに当たらない。仏教徒の「尼」(あま)と修験道の「比丘尼」(びくに)とはそもそも違っている。詳しくは、柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.387~398』(ちくま文庫)、参照。

また「西鶴の小説など」とある。江戸時代になると熊野は、西鶴だけでなく近松門左衛門など、浮世草子や浄瑠璃を通し当たり前の素材として取り扱われていた。「坂田」は山形県酒田市。「勧進比丘尼(くはんじんびくに)」が登場する。柳田が触れているように勧進比丘尼がだんだんその信仰から切り離され、一方は富裕層へ、もう一方は徳川体制下の遊女へ、と二分割されていく様子が、「昔を語る」手法で描かれた場面。

「今男盛(おとこさかり)二十六の春。坂田といふ所に、はじめてつきぬ。此浦のけしき、桜は浪にうつり、誠に、花の上漕ぐ、蜑(あま)の釣舟と読(よみ)しは、此所ぞと、御寺(みてら)の門前より詠(ながむ)れば、勧進比丘尼(くはんじんびくに)、声を揃(そろえ)て、うたひ来(きた)れり、是はと立よれば、かちん染の布子(ぬのこ)に、黒綸子(くろりんず)の二つわり、前結びにして、あたまは、何國でも同じ風俗也、元是(もとこれ)は、嘉様(かやう)の事をする身にあらねど、いつ比より、おりやう、猥(みだり)になして、遊女同然に、相手も定(さだめ)ず、百に二人といふこそ笑(おか)し、あれは正しく、江戸滅多(めつた)町にて、しのび、ちぎりをこめし、清林がつれし、米(こめ)かみ、其時は、菅笠(すけかさ)がありくやうに見しが、はやくも、其身にはなりぬと、むかしを語る」(井原西鶴「好色一代男・卷三・木綿布子(もめんぬのこ)もかりの世・P.90~91」岩波文庫)

なお、「おりやう」は「御寮」。年配(今でいう三十五歳程度)の比丘尼。「米(こめ)かみ」は子比丘尼のこと。さらに西行作とされている和歌が持ち出されているけれども、後に芭蕉が取り上げて始めて広く世に知られるようになった経緯があり、また西行自作自選の「山家集」にも「山家心中集」にも入っていないことから、通例通り、本当に西行作かどうかは判別しかねるというしかない。もう一つの理由として、この場面は、世之介が詠じたことになってはいるが、心身ともにすでに衰えを隠せない比丘尼が「百に二人」(一人で五十)を条件として「いい女と遊ばない?」と声をかけて来るシーンであって、例えば昭和年代の繁華街でボーイが「社長っ!」と声をかけるための決まり文句に等しい。だから歌の歌詞にしてもどれでもよいというわけでなく、単にそこだけ知っていれば誰にでも通じる「隠語」として社会的規模で通用するものでなくてはならなかったはずである。もし本当に西行なら西行でいいのだが、「花の上漕ぐ蜑(あま)の釣舟」というフレーズは、いかにも新古今前後に成立した類種のものを集めて作り込んだキャッチコピー的印象と、江戸期以後の花街の匂いがするため逆に決めかねるところがあると思われる。

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