白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

熊楠による熊野案内/鬼神の速度

2021年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

かつて、九州「筑前国(ちくぜんのくに)塔坂(たうさか)」に道祖神を祀る祠があった。今の福岡県筑紫野市塔原(とうのばる)。八世紀建立とされる何らかの宗教施設があったことはわかっており、今は「塔原塔跡」といって、一基の塔心礎の遺跡が田んぼの傍にぽつんと残されている。

或る日、九州各地を流浪(るろう)して歩く修行僧が「筑前国(ちくぜんのくに)塔坂(たうさか)」付近を通過中、夜になり、この道祖神の祠のそばで宿を取ることにした。祠に寄りかかって眠っていると、真夜中頃、既にみんな寝ているだろうと思われる時間帯なのだが、大勢の馬と人々の声が近づいてくる音が聞こえる。すぐ近くまで来ると道祖神の祠の前を通りかかり、「道祖神はいらっしゃるか」と問いかける声がする。真っ暗闇なのでその姿はまったく見えない。

「道祖(さえ)在(まし)ますか」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.81」岩波文庫)

不思議に思った修行僧が耳を澄ますと道祖神の祠の中から返事が返ってきた。「おります」という。

「此の祠(ほこら)の内に、『侍(はべ)り』と答ふ音(こえ)有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.81」岩波文庫)

通りがかった一行は再び問いかける。「明日、武蔵寺(むぞうじ)にお参りなさるか」。

「明日は武蔵寺(むぞうじ)にや参り給ふ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.81」岩波文庫)

祠の中から返事がする。「いや、参らないが。そもそも何のことでありましょうか」。一行の側から説明がある。「明日、武蔵寺で新しく仏が出現なさるとのこと。そこで、<梵天(ぼんでん)・帝尺(たいじやく)・四大天王(しだいてんのう)・竜神八部(りゆうじんはちぶ)皆集(あつ)まり給ふ>。知っておられないのではなかろうか」。

「『明日武蔵寺に新(あたらし)き仏(ほとけ)可出給(いでたまうべ)しとて、梵天(ぼんでん)・帝尺(たいじやく)・四大天王(しだいてんのう)・竜神八部(りゆうじんはちぶ)皆集(あつ)まり給ふ』とは知り不給(たまわ)ざるか」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82」岩波文庫)

すると祠の中から、「それはまだお聞きしていない。知らせて下さってありがたい。となれば必ず参って差し上げましょう」と返事がした。一行の側は伝える。「明日の午前十時頃。きっと参って下さい。お待ちしております」。

「然(さ)は明日の巳時許(みのときばかり)の事なる。必(かならず)参り給へ。待申(まちもう)さむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82」岩波文庫)

そう告げると大勢の馬と人々の声は過ぎ去って行った。このやり取りを聞いていた旅の僧は思う。「何と、鬼神が告げたのか」。

「此は早う鬼神(きじん)の云ふ事也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82」岩波文庫)

翌日、旅の僧は夜が明けるやただちに武蔵寺へ参って周囲を見渡してみた。何か変わった事態が起こりそうな気配はまるでない。人っ子ひとり見えず、むしろ普段以上に静かな気がする。何か事情でもあるのだろうと仏の前でしばらく待っているともう正午近くになった。その時、七、八十歳くらいだろうか、翁(おきな)が歩いてやって来た。黒髪はすっかり無く、白髪さえほとんど残っていない頭で、もともと小柄な上にさらに腰が曲がっていて、杖に寄りかかっている。

「年(とし)七、八十許(ばかり)なる翁(おきな)の黒き髪も無くて、白しとても所々(ところどころ)有る頭(かしら)に、袋の様なる烏帽子(えぼうし)を押入れて、本(もと)よりも小(ちいさ)かりける男の、弥(いよい)よ腰屈(かがまり)をれば、杖に懸(かか)りて歩(あゆ)び来る、有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.82~83」岩波文庫)

そのすぐ後ろを尼(あま)が付いてくる。尼は小型の黒い桶を肘にさげ持っている。何か入っているようだ。

「小(ちいさ)く黒き桶(おけ)に、何にか有らむ、物を入て、尼臂(ひじに)提(ささげ)たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

お堂の前に着くと、翁は御仏の前で二、三度拝んだ。すると尼は持っていた桶を翁のそばに置いて「お坊さんを呼んで参ります」と言って去った。しばらく待っていると六十歳くらいの僧がやって来た。

「暫許(しばしばかり)有て、年(とし)六十許有る僧出来(いできたり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

僧は御仏の前にひざまずいて礼拝すると、翁に向かって何の用だろうかと問うた。翁はいう。「もはやいつ死ぬともわからない身になりました。白髪がほんの少しばかり残っておりますが、それも今日剃(そ)り落としてしまい、仏様の弟子になりたいと思ってやって参りました」。

「今日明日とも不知(しら)ぬ身に罷成(まかりなり)にたれば、此の白髪(しらが)の少し残(のこり)たる、今日剃(そり)て、御弟子(みでし)と罷成(まかりな)らむと思給ふる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

僧は何と貴い志(こころざし)だろうと思わず涙を拭いながら、それではさっそく、と出家の準備に取り掛かった。翁の頭をきれいに洗って残された白髪を剃り上げた。なんと桶に入れてあったのは頭を洗い浄めるための湯だった。

「此の小桶なりつるは早う湯也けり。其の湯を以て翁頭(かしら)を洗(あらい)て剃(そり)つ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83」岩波文庫)

翁の頭はすっかり丸坊主になって受戒し、さらに御仏に礼拝すると、皆、その場を去って行った。後にはさらに何もない。静寂が戻っている。その光景を見ていた旅の僧は思った。「翁の出家・受戒を御仏が歓喜でお迎えなさるに当たって、天の神・地の霊がお集まりになると聞き、鬼神(きじん)も新しい仏様が出現されると道祖神に告げに来たに違いない」。

「然(さ)は、『此の翁の出家するを随喜(ずいき)し給』とて、天衆(てんしゆ)・地類(じるい)の集り給を聞て、鬼神(きじん)も『新(あたらし)き仏出給(いでたま)ふ』とは、道祖(さえ)には告(つぐ)るにこそ有けれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十二・P.83~84」岩波文庫)

旅の僧は考え及んで深い感慨を覚えた。

ところで、なぜ桶には湯が入っていたのか。現場は二日市温泉街にほど近い。今の福岡県筑紫野市武蔵。武蔵寺は「藤の寺」として有名。大宰府に近いとはいえ何も梅ばかりが名物だとは限らない。「万葉集」に次の歌が見える。大伴四綱(おほとものよつな)が太宰府に赴任中の大伴旅人(おほとものたびと)に宛てて詠んだ。「九州でも藤の花盛りになっておりましょう。奈良の都を懐かしく思い出さないだろうか」と。

「藤波(ふじなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三三〇・大伴四綱(おほとものよつな)・P.232」小学館)

同じ頃、太宰府にいる大友旅人は宴会で盛り上がっていた。酒にちなんだ歌を合わせて十三首詠んでいる。

「験(しるし)なきものを思(おも)はずは一坏(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべくあるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三三八・大友旅人(おほとものたびと)・P.234」小学館)

「酒の名を聖(ひじり)と負(おほ)せし古(いにしへ)の大(おほ)き聖の言(こと)の宜(よろ)しさ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三三九・大友旅人(おほとものたびと)・P.234」小学館)

「古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせしものは酒にしあるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四〇・大友旅人(おほとものたびと)・P.234」小学館)

「賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするし優(まさ)りたるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四一・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「言はむすべせむすべ知らず極(きは)まりて貴(たふと)きものは酒にしあるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四二・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「なかなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)になりにてしかも酒に染(し)みなむ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四三・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まむ人をよく見ば猿にかも似る」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四四・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒にあにまさめやも」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四五・大友旅人(おほとものたびと)・P.235」小学館)

「夜(よる)光(ひか)る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るにあにしかめやも」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四六・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「世の中の遊びの道にすずしきは酔(ゑ)ひ泣(な)きするにあるべかるらし」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四七・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「この世(よ)にし楽しくあらば来(こ)む世(よ)には虫にも鳥にも我(われ)はなりなむ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四八・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「生ける者(ひと)遂(つひ)にも死ぬるものにあればこの世(よ)なる間(ま)は楽しくをあらな」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三四九・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

「もだ居(を)りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第三・三五〇・大友旅人(おほとものたびと)・P.236」小学館)

藤も梅も全然出てこない、といった様子。また、歌の中に「濁(にご)れる酒」とある。酒泉神話は世界各地で見られるが「今昔物語」にも載る。「其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ」とある。

「其ノ郷ノ中ニ泉有リ。石ナドヲ以て畳(たた)ムデ微妙(めでた)クシテ、上(う)ヘニ屋(や)ヲ造リ覆(おほひ)タリ。僧、此レヲ見テ、此ノ泉ヲ飲(のま)ムト思テ寄タルニ、其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ。『何(いか)ナレバ此ノ泉ハ黄(きば)ミタルニカ有ラム』ト思テ、吉(よ)ク見レバ、此ノ泉、早(はや)ウ、水ニハ非(あら)ズシテ酒ノ湧出(わきいづ)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467」岩波書店)

純米酒の酒造法がまだなかった頃の説話。おそらく「マッカリ」に近いものだったと思われる。

さて。ここで問題になるのは、流通するもの、である。告知という形式でその内容は言語で伝達される。また、言語でしか伝達できない。そして告知内容を流通させてあちこち巡回するものこそ「鬼神(きじん)」である。道祖神は或る境界領域と別の境界領域とを画する場にある。旅の神であり、他所からの疫病の侵入防止を願って祀られた神である。さらに生殖を司る神でもある。なぜ生殖なのか。或る村落共同体と別の村落共同体との境(さかい)は両者を分割すると共に両者が出会う地点でもあるという両価性を担うからだ。道祖神には石を彫って人間の姿形を浮き彫りにしたものが多い。男性の形と女性の形とが一心同体にされているものが見られる。古代ギリシアにもそっくりなエピソードがある。

「メルクリウスとウェヌスとのあいだに生まれた男の子を、水の精たちがイダの山の洞窟で育てました。この子は、両親に生き写しの顔立ちでしたが、名前も、良心の名から取って、ヘルム=アプロディトスというのでした。十五歳になると、ふるさとの山を捨て、育ての親ともいうべきイダの山を離れました。見知らぬ国々をさまよい、はじめての河々を見ることが嬉しくて、そういう熱意が労苦を忘れさせていたのです。リュキアの町々や、リュキアに近いカリアにまでやってゆきます。底まで水の澄んだ池を見たのが、この地でのことだったのです。そこには、沼地の葦(あし)も、実のならない水草(みずくさ)も、先の尖った藺草(いぐさ)もありません。水は、すっかり透明なのです。ただ、まわりは、みずみずしい芝と、常緑の青草にとり囲まれています。この泉に、ひとりの妖精(ニンフ)が住んでいました。でも、彼女は、狩猟には向いていず、弓を引いたり、駈け比べをしたりする習慣もありません。水の精たちのなかではひとりだけ、俊足のディアナ女神とも馴染(なじ)みはないのです。姉妹たちは、よく彼女にこういったといいます。『サルマキス、投げ槍か、色美しい矢筒を手にしたらどうなの?そんな呑気(のんき)な暮らしのあいまに、猟のつらさを味わってみたら?』それでも、投げ槍や、色美しい矢筒を手にすることも、呑気な暮らしのあいまに狩りのつらさを味わうこともしないのです。自分の泉に美しいからだを浸したり、黄楊(つげ)の櫛(くし)で髪をといたりしては、どうすれば自分にいちばんよく似合うかを、水に写った姿に問いかけています。透けた薄衣(うすぎぬ)に身をつつんで、柔らかな木の葉や、しなやかな草のうえに身を横たえているかとおもうと、せっせと花を摘んだりしているのです。少年の姿をみとめて、とたんに彼を自分のものにしたいと思ったのも、たまたま花摘みの最中(さいちゅう)でした。すぐにも駈け寄りたいと思ったものの、でも、そうする前に、姿かたちを整え、着物のすみずみまでを見回し、顔をつくり、美しく見えるように努めました。それから、つぎのように口をきりました。『ねえ、お若いかた、まるで神さまのようにも見受けられますわ。もし神さまでいらっしゃるなら、さしづめクピードでいらっしゃいましょう。もし人間だとおっしゃるなら、ご両親こそおしあわせなかたですわ。ご兄弟もね。それに、もしいらっしゃるなら、ご姉妹も、それからお乳をさしあげた乳母さまも、さぞご幸福なことでしょうね。でも、そのかたたちみんなより、もっともっとおしあわせなのが、あなたのお許婚者(いいなずけ)、あなたが妻にと思っていらっしゃるおかたですわーーーそんなかたがいらっしゃるとして。ねえ、誰かそんなかたがおありなら、わたしは浮気のお相手でいいのですし、誰もおありでなければ、わたしをそういうものとお考えくださいません?わたしたち、結婚することにいたしましょうよ』水の精は、ここで言葉を切りました。少年の顔が赤くなります。愛とはどういうものか、それを知ってはいなかったからです。でも、赤くなったということが、かえって彼の美しさを増しています。日当たりのよい木に垂れさがった果実か、あるいは、赤く染めた象牙の色とでもいいましょうか。それとも、あのお月さまが蝕(しょく)をおこして、それを助けようとの鉦(かね)の音もむなしく、白銀(しろがね)の顔(かんばせ)が赤らみを帯びて来るーーーそんな様子とでも。妖精(ニンフ)は、せめて姉妹(きょうだい)の接吻をでもと、際限なく迫りながら、早くも、少年の白い項(うなじ)に手を回そうとしているのです。その彼女に『やめてったら!』と少年はいいます。『でなければ、あちらへ行くよ。きみにも、この場所にもさようならだ』サルマキスはおののいて、『この場所は、あんたに任せるわ。どうぞお好きなように、坊っちゃん!』といって、うしろを向いて立ち去るようなふりをします。が、それでも、少年のほうは、当然ながら、草原にはもう誰もいず、人に見られてはいないというつもりで、あちらこちらへ歩を運び、やがて、ひたひたと寄せる泉の水のなかへ爪先を、それから足を踝(くるぶし)まで、浸すのでした。とおもうと、猶予をおかず、こころより水の冷たさに心を奪われて、たおやかなからだから衣服を脱ぎ捨てます。するとどうでしょう、何とも好ましいその姿!サルマキスは、その裸身に焦がれて、燃え立ったのです。妖精(ニンフ)の両の目も、爛々(らんらん)と光ります。きらめく日輪が、向けられた鏡のなかにその姿を映し出すーーーそんなふうにとでもいいましょうか。もう、じっとしてはいられない彼女です。喜びを先へのばすことはもうできません。抱きしめたいと思う心がはやって、狂ったようになりながら、自分をおさえかねているのです。少年は、手のひらでからだを叩くと、さっと水にとびこみました。抜き手を切って泳いでいますが、澄んだ水の中でからだが光っているのが見えるのですーーーまるで、透明なガラスの箱にいれられた象牙の彫像か、白百合(しらゆり)の花ででもあるかのようです。『わたしの勝ちよ!とうとう手に入れたわ』水の精はそう叫びます。そして、衣服をすっかりかなぐり捨てると、ざぶんと水中に飛びこみました。あらがう相手をつかまえ、無理じいに接吻を奪うと、手を下へ回して、強引に胸にさわり、前後左右から少年に抱きつきます。ついには、必死にさからってのがれようとする相手に、蛇のように巻きつくのです。鷲(わし)につかまえられ、空高くへさらわれた蛇なら、ぶらさがりながら相手の頭と足にからみつき、広がった翼を尾で巻くでしょうーーーそんなふうなのです。あるいは、よく見かけるように、常春藤(きづた)が大きな木の幹にからんでいるありさまとでも、また、ヒドラの類が海中でとらえた敵を、四方にのばした触手でつかまえているさまとでも、いえばいえるでしょうか。アトラスの曾孫(ひまご)である少年は、頑張り抜いて、待望の喜びを妖精(ニンフ)に与えようとはしません。彼女は、からだを押しつけ、まるで糊(のり)づけされたかのように全身を合わせて、『あがくがいいわ、いたずら小僧さん』といいます。『どうしたって、逃げられないのよ。神さま、どうかお願いです、いついつまでもこのひとをわたしから、わたしをこのひとから、引き離さないでくださいますように!』この願いを、神々さまはお聞きいれになりました。つまり、ふたりのからだは混ざりあって合一し、見たところ、ひとつの形になってしまったのです。枝と枝を、樹皮につつんでつぎ木すると、成長するにつれてひとつになり、いっしょに大きくなって行くのが認められますが、ちょうどそのように、ふたりは、しっかりと抱きあって合体したのです。今や、彼らは、もうふたりではなくなって、複合体とでもいうべきものなのですが、女だとか男だとか称せられるものではなく、どちらでもなく、どちらでもあるというふうに見えるのです」(オウィディウス「変身物語・上・巻四・P.151~156」岩波文庫)

こうある。「彼らは、もうふたりではなくなって、複合体とでもいうべきものなのですが、女だとか男だとか称せられるものではなく、どちらでもなく、どちらでもある」。どんなものにでも変化可能なもの。そこに貨幣にのみ与えられた特権的機能を見ないわけにはいかない。

「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.161」国民文庫)

ゆえにその場では定期的に市が立ち、祝祭が行われ、人々が諸商品を交換し合う場所として、次第に賑わいを増していくのである。諸所の道祖神を巡りながら情報を伝達していく「鬼神」の速度はこの場合、馬が走る速度と一致する。

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コメント

熊楠による熊野案内/妖術法師の上下関係

2021年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、京で「外術(げずつ)」=「仏法以外の外道の術」を好んで生業にしている下賤の法師がいた。例えば、履いている下駄や草履をさっと子犬に変えて這わせてみたり、懐(ふところ)から狐を取り出して鳴かせてみたり、あるいは馬や牛の尻から中に入って口から出てきて見せたり、という芸を披露していた。

「履(はき)たる足駄(あしだ)・尻切(しりきれ)などを急(き)と犬の子などに成して這(はわ)せ、又懐(ふところ)より狐を鳴(なか)せて出し、又馬・牛の立(たて)る尻より入て、口より出(いず)など為(す)る事をぞしける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.157」岩波文庫)

数年ほど続けていたが、隣に住んでいる若い男性はそれを見て大変うらやましく思うようになった。とうとう法師の家に行き、この術を習いたいと熱心に頼み込んだがすぐに教えてくれすはずもない。そこで折り入って習いたいと重ね重ね頼み込んでみた。すると法師はいう。「もし本当に習いたい気持ちがあるのなら、けっして他人に知られないよう厳格に七日間、精進潔斎して身を浄め、新しい桶に「交飯(かしきがて)」(まぜご飯)をきれいに用意し、その桶を自ら持って貴いお方のところへ赴き、そこでこの術を習うべし。私にできることはそれだけのこと。要するにそなたをそこへ案内するばかり」。そう聞いた隣りの若い男性は教えられた通り、精進し始め、注連縄(しめなわ)を張って誰にも会わず七日間家に籠って身を浄めることに励んだ。そして新しい桶を用意して交飯(かしきがて)を桶の中にきれいに詰めた。

その間、法師は家にやって来ていう。「そなた、本当に習いたいと心底から願っているのなら、けっして腰に刀を持つことのないよう気を付けなさい」。何度も繰り返しそう戒めた。

「汝(なん)ぢ実(まこと)に此事を習取(ならいと)らむと思ふ志(こころざし)有らば、努々(ゆめゆめ)腰に刀を持つ事無(なか)れ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.158」岩波文庫)

若い男性は思う。刀を腰に差さないなんて簡単なこと。外していればよいだけの話。修行のためならもっと厳しい決まり事があったとて守るというのに。「なぜ刀のことばかりこんなに何度も繰り返し気を付けるよう言うのか。腑に落ちない。もし刀を持たずに赴いて、まさかとは思うが妙なことに遭遇でもしたらそれこそ無益というべきだろう」。

「刀不差(ささ)ざらむ事は安き事にては有ども、此の法師の此(か)く云ふ、極(きわめ)て怪し。若(も)し刀を不差(ささず)して、怪しき事有らば、益無(やくな)かるべし」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.158~159」岩波文庫)

と考えてこっそり短刀を用意して繰り返し刃を研いでおくことにした。そのうち、明日になれば精進はもう七日に満ちるという日の夕方、法師が家にやって来た。そしていう。「けっして他人に見られないよう、交飯の桶を自分で持ち、出かけるべし。さらに言っておくが、決して刀は身に付けないように」。

「努々(ゆめゆめ)人に不知(しら)せで、彼(かの)交飯(かしきがて)の桶を、汝ぢ自(みずから)持て、可出立(いでたつべ)き也。尚々(なおなお)刀持つ事無かれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.159」岩波文庫)

ようやく午前零時頃。法師は男性を連れて二人きりで家を出た。男性は気になっていたので短刀をこっそり懐に忍び隠しておいた。辺りはまだ真っ暗。法師は先に立ってどことも知れぬ山の中を踏み分けて行く。歩き続けて既に午前十時頃にもなったろうか、遥々歩いて来たものだと思っていると、山の中に、理想的に建造された僧坊が見えた。法師は低く仕立てられた小柴垣(こしばがき)のそばにひざまずき、僧坊の中に聞こえるように咳払いをして来訪を知らせた。すると、ふすまを引き開けて誰か出てきた。ずいぶん老いて睫毛が長く、大変身分の高い僧のようだ。法師に来訪の要件を尋ねてやり取りしている。法師は事情を説明し、若い男性を連れてきた主旨を述べた。すると小柴垣のそばで待っていた若い男性に向かって僧坊の主人が問うた。「そなた、まさか刀を持っておるまいな」。

「此尊(このみこと)は若(も)し刀や差(さし)たる」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.160」岩波文庫)

若い男性はそのようなことはまったくないと答えた。僧房の主人の様相を窺っていると、胸の内に暗雲が垂れ込めてくるような不気味さを漂わせている。主人は僧房から若い僧を呼び出し、縁側に立って、来訪した若い男性を指していう。「刀を持っていないかどうか、こやつの懐を捜(さぐ)ってみよ」。

「其男の懐(ふところ)に刀(かたな)差たると捜(さぐ)れ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.160」岩波文庫)

命じられた若い僧は懐を捜りに近づいてきた。男性は思う。「おれの懐には短刀が入れてある。きっと捜り出すだろう。そうなればよいことなどあるはずがない。たちまち殺されるに違いない。どのみち死ぬのならこの老僧にしがみ付いて死んでやろう」。若い僧がすぐそばまで来た。その時、ひそかに懐から短刀を抜き放ち、縁側に立っている老僧に飛びかかった。と同時に老僧の姿はぱっと消え失せた。

「若(わかき)僧寄来(よりきたり)て、男の懐を捜(さぐら)むと為(す)るに、男の思はく、『我が懐に刀有(あり)。定(さだめ)て捜出(さぐりいで)なむとす。其後は我(わ)れ吉(よ)き事不有(あら)じ。然れば、我が身忽(たちまち)に徒(いたずら)に成なむず。同(おなじ)死にを、此老僧に取付(とりつき)て死なむ』と思(おもい)て、若き僧の既に来る時に、蜜(ひそか)に懐なる刀を抜(ぬき)て儲(もうけ)て、延(えん)に立たつ老僧に飛び懸(かか)る時に、老僧急(き)と失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.160」岩波文庫)

同じく、僧房も消えてしまって見当たらない。不審に思って周囲を見渡してみる。どこか知らないけれども何か大きなお堂の中らしい。

「其の時に見れば、坊も不見(みえ)ず。奇異(あさまし)く思(おもい)て見廻(みめぐら)せば、何(いず)くとも不思(おぼえ)ず大(おお)きなる堂の内に有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.160」岩波文庫)

先に立って男性を連れてきた法師はとても悔しがりながら、人のことをすっかり無駄にしてしまった奴だ、と泣きじゃくって延々と抗議している。男性はこれ以上言うこともない。遥々歩いてきたものだと思っていたわけだが、しっかり周囲の様子を見渡してみると、何とそこは山の奥深くでもなんでもなく、京中の一条通と西洞院通との交差点付近にある大峰寺。

「導(みちびき)たる法師手を打(うち)て云(いわく)、『永く人(ひとを)徒(いたずら)に成(なし)つる主かな』とて、泣き逆(さか)ふ事無限(かぎりな)し。男更に陳(の)ぶる方無し。吉(よ)く見廻(みめぐらせ)ば、『遥(はるか)に来(きたり)ぬ』と思ひつれども、早う一条と西の洞院(とういん)とに有る大峰(おおみね)と云寺に来たる也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.160~161」岩波文庫)

この、「一条と西の洞院(とういん)とに有る大峰(おおみね)と云寺」は、今の京都市上京区西洞院通と一条通との交差点をやや北へ入った大峰図子町(おおみねずしちょう)付近にあった大峰寺を指す。

また陽成院(やうぜいいん)亡き後、南北を走る西洞院通と東西を走る一条通から二条通の間に位置する大峰図子町(おおみねずしちょう)に隣接する小川町辺りは急速に荒廃し始めており、浮草や菖蒲が生い茂る湿度の高い薄暗い土地へ舞い戻っていた。そんな或る日、手入れもされず放置されるがままに取り残されていた池から年老いた翁姿の「水精(みづのたま)」が出現し、衰弱しきった様子でかつての棲家の現状について切々と語って聞かせるエピソードが、「巻第二十七・第五話・冷泉院水精(れいぜんゐんのみづのたま)、成人形被捕語(ひとのかたちとなりてとらへらるること)」に見える。

「陽成院(やうぜいのゐん)ノ御(おはし)マシケル所ハ、二条ヨリハ北、西ノ洞院(とうゐん)ヨリハ西、大炊(おほひ)ノ御門(みかど)ヨリハ南、油ノ小路ヨリハ東、二町(ふたまち)ニナム住(すま)セ給ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第五・P.98」岩波書店)

たいへんわかりにくい書き方なので今の住所に変換するとほぼこうなる。

京都市中京区夷川通(えびすがわどおり)小川東入東夷川通付近。北側に児童公園がある。

事情がさっぱりわからない男性はそのまま自宅に帰った。法師は泣く泣く家に帰り、二、三日ほど生きていたが突然死してしまった。天狗でも祀っていたのだろうか。詳細は不明。

「男我れにも非(あら)ぬ心地(ここち)して家に返(かえり)ぬ。法師は泣々(なくな)く家に返(かえり)て、二、三日許(ばかり)有て俄(にわか)に死にけり。天狗を祭(まつり)たるにや有けむ、委(くわし)く其の故(ゆえ)を不知(しら)ず」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第九・P.161」岩波文庫)

さて。自在に変化することができるという点で法師は貨幣に似ている。ただし、諸商品の無限の系列からの排除として見た場合、上にではなく下に、である。下賤の法師という社会的位置付けがまず先に既定事実として描かれている。一方、どことも知れぬ山中に立派な僧房と若い僧などを出現させ、身に危険が及ぶや消え失せた老主人は上に排除された貨幣に等しい位置を占めている。そこでは妖術と引き換えに持ち運ばれてきた「新品の桶・桶一杯の交飯」との交換条件が前提されていた。だからもし刀が出てこなかったとすれば、一方から「新品の桶・桶一杯の交飯」が差し出され、もう一方から「妖術習得法」が与えられていたことになる。ただ、この交換が等価交換かどうかはまだわからない。一方の或るものともう一方の別のものとが互いに等置されて始めて、そこに等価性が出現するからである。

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熊楠による熊野案内/消える男根の謎

2021年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

貞観十八年(八七六年)〜元慶八年(八八四年)。陽成院(ようぜいいん)が天皇だった頃。宮中警護に当たる滝口に「道範(みちのり)」という侍がいた。「陸奥国(みちのくのくに)」(今の青森県・岩手県・宮城県・福島県)で産する金を京へ運搬する使者に指名され、従者たちとともに出かけた。途中、信濃国(しなののくに)(今の長野県)で宿泊することになった。その郡司(こおりのつかさ)の屋敷が宿舎である。盛大な歓待を受けた後、郡司は従者らを引き連れて家を引き上げた。

慣れない旅宿(たびのやどり)で寝付けない道範は、寝所からこっそり起き出して屋敷の中をぶらぶら見物しているうち、郡司の妻の部屋を覗いてみた。屏風や几帳などが立て並べてあり畳は清潔で二段構えの棚などもセンス良くしつらえられている。馥郁として漂ってくる薫香の香が心にくい。よく見ると郡司の妻は二十歳代半ば。うるわしげな髪にほっそりした肢体、額の格好もいい感じで、どこといって汚点一つ見当たらない。とても魅力的だ。

「吉(よ)く臨(のぞ)けば、年二十余許(ばかり)の女、頭(かしら)つき姿細(ほそ)やかにて、額(ひたい)つき吉(よ)く、有様此(ここ)は弊(つたな)しと見ゆる所無し。微妙(めでた)くて臥(ふし)たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.162」岩波文庫)

道範はこれを見過ごして通り過ぎるなど、それはないでしょうと辺りの気配を伺うと咎める人はいそうにない。遣戸(やりど)をそっと開いて部屋の中に入った。とても親切な郡司の妻に心ない仕打ちを仕掛けるのは気が咎めなくはないけれども、女性の姿形を見ていると込み上げてくる思いは抑えがたく、そばに近づいてしまった。

「極(きわめ)て懃(ねんごろ)に当(あたり)つる郡司(こおりのつかさ)の妻(め)を、後目無(うしろめたな)き心を仕(つか)わむが糸惜(いとおし)けれども、女の有様を見るに、思ひ難忍(しのびがた)くて寄(よる)也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.162~163」岩波文庫)

女性のすぐ横に添い臥してみると特に驚いた様子を見せない。さらに近寄り、もうこれ以上ないほど近くで顔を覗き込む道範。季節は夏の終わり頃なのでまだ残暑。女性の衣裳は上が薄紫色の衣を一枚、下は紅(くれない)の袴を付けただけ。馥(こうば)しい香料の香りが部屋の家具などにも降りまわれていて鼻をくすぐってくる。

道範はもう我慢できず自分の衣を脱ぎ捨て女性の衣服と胸の間に手を差し入れた。しばらくは着物を引き上げて拒むかのふりを見せていたが、ひどく嫌がることもなく、道範は手を胸の谷間に這わせた。

「道範我が衣をば脱棄(ぬぎすて)て、女の懐(ふところ)に入る。暫(しばし)は引塞(ひきふさ)ぐ様に為(す)れども、気悪(けあし)くも辞(いな)ぶ事無ければ、懐に入ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.163」岩波文庫)

道範はむずむずしてきた「摩羅(まら)」=男根を手でしゃくり出そうとする。と、陰毛ばかりはあるのだが、男根が消え失せている。そんなはずはないだろう。びっくりしてよくよく男根を探ってみた。にもかかわらず、あたかも頭髪を掻き回すばかりのようで男根それ自体は跡形もなく消え失せてすっかり無い。仰天した道範は女性の美貌のことなどまるで忘れてしまい驚くばかり。女性は道範が慌てふためいて自分の男根を探しまくっている姿を見つつ、ふふっと笑みを浮かべた。

「其程に、男の摩羅(まら)を痒(かゆ)がる様にすれば、掻捜(かきさぐり)たるに、毛許(ばかり)有て、摩羅(まら)失(うせ)にたり。驚き怪(あやし)くて、強(あながち)に捜(さぐる)と云へども、惣(すべて)頭(かしら)の髪を捜(さぐ)るが如(ごとく)にて、露(つゆ)跡だに無し。大(おおき)に驚(おどろき)て、女の微妙(めでた)かりつる事も忘れぬ。女、男の此(か)く捜迷(さぐりまどい)て怪(あやし)びたる気色を見て、少し頬咲(ほほえみ)たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.163」岩波文庫)

腑に落ちない道範はこっそり起き上がり他人に気づかれないよう自分の寝所へ戻った。そして部屋でもう一度確かめてみる。しかし無い。消え失せている。奇怪に思った道範は常から使っている部下を呼んで言った。「あの部屋にとても魅力的な女性が寝ている。俺は行ってきたよ。何かいいことがあるかもな。そなたもどうか」。

「彼(かしこ)に微妙(めでた)き女なむ有る。我も行(ゆき)たりつるを。何事か有らむ、汝(なんじ)を行(ゆけ)」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.163~164」岩波文庫)

しばらくすると部下が返ってきた。腑に落ちない顔をしている。道範は「こいつも同じ目にあったな」と思い、さらに他の部下を呼んで同じように教えた。これまた不審気な様子で戻ってきた。合計七、八人の部下に同じことをやらせてみたが、どの部下も一様に不可解な顔で戻ってくる。なかには天を仰いで呆然としている者もいる。夜のうちに道範は考え直てみた。するとどうも昨夕の歓迎の豪華さが気にかかる。不審な思いに駆られた道範は夜明けを待ってすぐに郡司(こおりのつかさ)の屋敷を出発し、既に800メートルほど進んだだろうか。後ろから郡司の従者が馬に乗って声を上げて追いかけてきた。昨夜食事を運んでくれていた郎等である。白い紙に包んだ何かを捧げ持っている。追いつくと説明し始めた。

「これは我が郡司が<差し上げよ>とおっしゃられて持って参ったものです。なぜこのような物を棄てたまま出発なさるのか。いつものように朝食の準備をしておりましたのに、急いでいらっしゃるようで、これさえ落とし忘れておられる。なので拾い集めて差し上げに参った次第です」。中を開けてみると松茸(まつたけ)を包み集めような格好で九本の男根が並んでいる。

「『此は郡司(こおりのつかさ)の<奉(たてまつれ)>と候(さぶら)ひつる物也。此(かか)る物をば何(いか)で棄(すて)ては御(おわし)ましぬるぞ。形(かた)の如く今朝の御儲(もうけ)など営(いとなみ)て候(さぶら)ひつれども、急(いそ)がせ給(たまい)ける程に、此(こ)れをさへ落させ給(たまい)てけり。然(さ)れば拾ひ集(あつめ)て奉(たてまつ)る也』と云て取すれば、『何ぞ』と思て開(ひらき)て見(みれ)ば、松茸(まつたけ)を裹集(つつみあつめ)たる如(ごとく)にして、男の摩羅(まら)九つ有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.164~165」岩波文庫)

昨夜、郡司の妻の部屋へ忍び込んだのは道範を入れて計九人。包み紙を開いて見ると男根が九本。郡司の従者はその包みを手渡すとすぐに帰って行った。同時に、包みに集め並べられていた九本の男根が目の前からふいに消え失せた。何がなんだか理解できないうちにそれぞれ自分の股間を探ってみると男根が元通りの位置に戻っている。不可解に思いながらも道範一行は京からの使者として果たすべき職務がある。信濃国からさらに陸奥国へ進めて陸奥産の金を受け取ると、再び信濃国の宿舎になっている郡司の屋敷へ戻ってきた。郡司には馬・絹など様々な褒美を取らせる。そこで「言いにくいことだが」と例の一件について説明してほしいと言った。郡司は大量の贈り物を頂戴したことで隠すことはないと考え、次のように述べた。

私が若かった頃、信濃国のここからもっと奥(おく)の郡(こおり)の郡司(こおりのつかさ)を務める老人がおりました。その郡司には若い妻がいて、私がこっそり忍び寄って夜を共にしようとすると急に男根が消え失せた。何と奇妙なと感慨に打たれ、その郡司に是非ともと頼み込んでその術を習得したのです。そなたもこの術を習いたいというお気持ちがおありでしたら、速やかに京へ上り、今度は「公物(くもつ)」=「黄金」をたっぷり贈り物とされ、もう一度こちらへおいで下さい。そして清浄な気持ちで習われるがよいでしょう。

「其れは若く侍(はべり)し時に、此国の奥(おく)の郡(こおり)に侍(はべり)し郡司(こおりのつかさ)の年老(としおい)たりしが妻(め)の若く侍(はべり)しが許(もと)に、忍(しのび)て罷寄(まかりより)たりしに、摩羅(まら)を失ひて侍(はべり)しに、怪(あやし)びを成して、其の郡の司に強(あながち)に志(こころざし)を運(はこび)て、習(ならい)て侍(は)べる也。其れを習(なら)はむの本意在(ましま)さば、此度(このたび)は公物(くもつ)多く具し給へり。速(すみやか)に上り給て、態(わざと)下給(くだりたまい)て心静(しずか)に習ひ給へ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.165~166」岩波文庫)

道範はさっそく京へ上り陸奥国産の黄金を納めて差し上げると、しばらくの暇を貰ってそれなりの黄金を準備し、また信濃国のその郡司のところへ下った。水を浴び身を清める七日間の精進潔斎の後、「後夜(ごや)」(午前四時頃)、郡司と道範の二人だけで深山(ふかきやま)に入った。大きな河が流れている。二人はその辺(ほとり)に立った。そして「今後永遠に仏法を信じることはあるまい」と願いを発して種々の身振り仕草を演じ、さらに言うに言われぬ外道(仏道から見た罪深い道)の誓いを立てた。

「七日に満(み)つ日、後夜(ごや)に、郡司(こおりのつかさ)と道範、亦(また)人も不具(ぐせ)ずして、深山(ふかきやま)に入ぬ。大(おおき)なる河の流れたる辺(ほとり)に行ぬ。『永く三宝(さんぽう)を不信(しん)ざし』と云ふ願発(おこ)して、様々(さまざま)の事共をして、艶(えもいわ)ず罪深き誓言(せいごん)をなむ立(たて)けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.166」岩波文庫)

郡司はいう。私は川上へ行く。すると川上から流れてくるものがある。それが鬼であれ神であれ、寄り付いて抱き抱えるべし。

「己(おのれ)は水の上(かみ)へ入なむとす。其水の上より来らむ物を、鬼にまれ神にまれ、寄(より)て懐(いだ)け」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.167」岩波文庫)

待っていると河の上空が黒々と曇り出し、雷鳴が轟き、暴風雨が発生し、河はたちまち増水してきた。見る見るうちに川上から、頭部だけでも人間の腕でひと抱えほどある大蛇が出現した。金属製の椀のような眼球をらんらんと光輝かせ、頸(くび)から下は紺青色・緑青色の胴体をつやつやに照り返しながらこちらへ向かってくる。

「暫許(しばしばかり)見れば、河の上より、頭(かしら)は一抱許(ひとかかえばかり)有(ある)蛇(へみ)の、目は鋎(かなまり)を入たるが如くにて、頸(くび)の下は紅(くれない)の色にして、上は紺青(こんじよう)・禄青(ろくしよう)を塗(ぬり)たるが如くに、つやめきて見ゆ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.167」岩波文庫)

これを丸ごとしがみ付いて抱き抱えろと?恐怖の余り道範は草むらに隠れて大蛇をやり過ごしてしまった。ところで、この「蛇・目は鋎(かなまり)」という特徴には、妖怪〔鬼・ものの怪〕とただならぬ関係がある。奈良の吉野山で修行に励む或る聖人の目前に現れた大蛇の姿形にこうある。

「蛇共聖人(しようにん)の香を聞(か)ぎて、頭(かしら)を四、五尺許(ばかり)皆持上(もちあ)け合(あい)たるを見れば、上は紺青(こんじよう)・禄青(ろくしよう)を塗(ぬり)たるが如し。頸(くび)の下には紅(くれない)の打掻練(うちかいねり)を押(おし)たるが如し。目は鋺(かなまり)の様に鑭(きら)めき、舌は焔(ほのお)の様に霹(ひら)めき合(あい)たり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十四・第四十三・P.257」岩波文庫)

また、先日取り上げた「巻第二十・第七話・染殿(そめどの)の后(きさき)、天宮(てんぐ)の為(ため)に嬈乱(にようらん)せられたる語(こと)」では、鬼に転化した高明な聖人の様相がこう書かれている。「裕衣(とうさぎ)」は褌(ふんどし)のこと。

「物を不食(くわ)ざりければ、十余日を経て、餓(う)へ死にけり。其後忽(たちまち)に鬼と成ぬ。其(その)形、身(み)裸(はだか)にして、頭(かしら)は禿(かぶろ)也。長(た)け八尺許(ばかり)にして、膚(はだえ)の黒き事漆(うるし)を塗れるが如し。目は鋎(かなまり)を入(いれ)たるが如くして、口広く開(ひらき)て、剣(つるぎ)の如くなる歯生(おい)たり。上下に牙を食ひ出したり。赤き裕衣(とうさぎ)を掻(かき)て、槌(つち)を腰に差したり。此鬼俄(にわか)に后の御(おわし)ます御几帳(みきちよう)の喬(そば)に立たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第七・P.153~154」岩波文庫)

さらに「神と蛇」との関係について折口信夫はこう述べている。

「琉球の石垣島の盆の祭りには、沢山の精霊が出て来た。即、『おしまい(爺)・あつぱあ(婆)』が多くの眷属をひきつれて現れ、家々を廻って、祝福して歩く。此群を『あんがまあ』と言ひ、大倭から来るものと考へてゐるが、其は海の彼方の理想郷からであらう。

春の初めの清明節には、『まやの神』と言ふ神が現れる。此は台湾の蕃人も持ってゐる信仰である。『まや』は即『まやの国』から来る神で、蓑笠で顔を裹んで来て、やはり、家々を祝福して廻る。宮良(メイラ)村には、海岸に『なびんづう』と言ふ洞穴があって、『黒また・赤また』と称する二人の神が現れる。『また』は蛇のことである。此神は、顔には面(メン)を被り、体は蔓で飾り、二神揃って踊れば、村の若者も此を中心にして踊り出す。此時、若者は、若者になる洗礼を受けるのだから、成年戒の意味も含まれてゐるのである。

かうした神々の来臨は、曾て、水葬せられた先祖の霊が一處に集合してゐて、其處から来るのである、と考へたものらしく、此等の神は、非常に恐れられてゐるのを見ても、古い意味を持ってゐるのである。蓑笠を著けて家に這入ることの出来るのは、神のみであるから、中でも、『あんがまあ』と言ふ祖先の霊の出る祭りは、最古い意味をもってゐると思はれる。其が、盆の行事と結合して、遣ってゐるのであらう。

此信仰の源は一つであるが、三様に岐れてゐる。内地の例に当てて見れば、よくわかることで、最初の考へは、死霊の来ることである。此死霊をはっきり伝へた村と、祝福に来る常世神の信仰を持ち続けた村とがある。内地では此観念が変って、山或は空から来るものと考へる様になってゐる。

歳神は、祖先の霊が一箇年間の農業を祝福しに来るので、此を迎へる為に歳棚を作るのであるが、今は門松ばかりを樹てるやうになって了うた。多くの眷属を伴って来るので、随って供物も沢山供へる。その供物自身が神の象徴なのである。古い信仰では、餅・握り飯は魂の象徴であった。だから、餅が白鳥になって飛ぶ事のわけもわかるのである。白鳥はもとより、魂の象徴である。

神が大勢眷属を連れて来るのは、群行の様式である。假装の古いものに風流(フリウ)があり、仏教味が加はって練道(レンダウ)となるが、源は一つで、神の行列である。初春に神の群行があるのは固有であるが、盆に来るのは、仏教と融合してゐる。徒然草に、東國では大晦日の晩に魂祭りをしたことが見える。歳神と同じであり、更に初春に来る鬼である。

まきむくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かつらせよ

古今集巻二十に、かういふ歌がある。柳田國男先生が古今集以前に、既に、此風はあったらしい、と言って居られる通り、大嘗祭には、日本中の出来るだけ多くの民族が出て来たもので、穴師山の山人も其一つなのである。即、土地の神々が、祭りに参与すると言ふ考へが、かうした『しきたり』を産んだのである。彼等は、彼等の神の代表者として来り加り、神と精霊と問答をし、結局、精霊が負ける、と言ふ行事をすることになって居たのだ」(折口信夫全集3「鬼の話・P.7~9」中公文庫)

次に「火・焔」との関係について「宇治拾遺物語」所収「百鬼夜行」のシーン。「火をてんのめのごとくにともして」とある。「天の眼・貂の目」いずれにせよ強い光線を意味する。

「大かたやうやうさまざまなるものども、あかき色には青き物をき、くろき色には赤き物をき、たうさきにかき、大かた目一(ひとつ)ある物あり、口なき物など、大かたいかにもいふべきにあらぬ物ども、百人計(ばかり)ひしめきあつまりて、火をてんのめのごとくにともして、我ゐたるうつぼ木(ぎ)のまへに居(ゐ)まはりぬ」(「宇治拾遺物語・巻第一・三・P.19」角川文庫)

そして「目一(ひとつ)ある物」。「火・焔」を取り扱う職務に就いていた人々はいずれも目に障害を負う場合が多かった。こうある。

「天目一箇神(あめのまひとつのかみ)をして雑(くさぐさ)の刀(たち)・斧(おの)又鉄(くろがね)の鐸(さなき)を作らしむ」(「古語拾遺・P.19」岩波文庫)

そうであって始めて、なぜ固形の銅ではなくどろどろに溶けた「銅(あかがね)の湯」なのかの意味もはっきりする。

(1)「銅(あかがね)の湯を入て、此の僧共の口毎(くちごと)に宛(あて)て入(いれ)つれば、暫(しばし)許(ばかり)有て、尻より流れ出(い)づ。目・耳・鼻より焔(ほのお)ほめめき出(い)づ。身の節毎(ふしごと)に煙(けぶり)出(いで)て、くゆり合たり。各(おのおの)涙を流して叫ぶ音(こえ)悲し。僧毎(ごと)に皆次第に飲まれ畢(はて)つれば、皆解免(ときゆる)して、本(もと)の房々(ぼうぼう)に返し送(おくり)つ。其の後、此の人共、空に飛び畢(はて)て失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.100」岩波文庫)

(2)「慥(たしか)に吉(よ)く見れば、銅(あかがね)の湯を器毎(うつわごと)に盛(も)れり。打ち責(せめ)て鬼の呑(のま)せむそら可呑(のむべ)くも非(あら)ぬ銅の湯を、心と泣々(なくな)く呑(のむ)也けり。辛(から)くして呑畢(のみは)つれば、亦(また)乞(こ)ひ副(そ)へて呑(の)む者も有り。下の下衆(げす)に至(いたる)まで此れを不呑(のま)ぬ者無し」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十・P.102~103」岩波文庫)

というふうに。また、能「紅葉狩」に出現する鬼の姿はこうだ。「火焔・煙」、そして「眼(まなこ)は日月(じつげつ)」。眼球はそれ自体で光り輝いているように見える。

「取々(とりどり)化生(けしやう)の姿(すがた)を顕はし、あるひは厳(いはほ)に、火焔を放(はな)し、または虚空(こくう)に、炎(ほのほ)を降(ふ)らし、咸陽宮の、煙(けぶり)の中(なか)に、七尺(しっせき)の屏風(へいふう)の、上になほ、あまりてその丈(たけ)、一丈の鬼神(きじん)の、角(つの)は架木(かぼく)、眼(まなこ)は日月(じつげつ)」(新日本古典文学体系「紅葉狩」『謡曲百番・P.191』岩波書店)

赤鬼だけでなく青鬼もいる。西鶴は金銀に抱きついたまま死んだ利助(りすけ)の死にぎわの様相をこう書いている。

「『我(わ)が死んだらば、この金銀誰(た)が物にかなるべし。思へば惜しやかなしや』と、しがみ付きかみ付き、涙に紅(くれなゐ)の筋引きて、顔つきはさながら角(つの)なき青鬼(せいき)のごとし。面影(おもかげ)屋内(やない)を飛びめぐりて落ち入るを、押し付くればよみがへりして、銀(かね)を尋ぬる事三十四、五度に及べり」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻四・四・茶の十徳も一度に皆」『井原西鶴集3・P.193』小学館)

赤い肌は日焼け。黒い肌は製鉄現場の煙をかぶって黒々とし、なおかつ汗にまみれて照り輝いて見える。青い肌は青黒いというべきで、平安京の高級官僚と比較すると、列島各地でもっと古くから暮らしていた先住民が山岳地帯へ追われた後の姿に似る。そこにさらに黒潮に乗って列島南部にたどり着いた肌の浅黒い東南アジア系諸部族の遺伝子が入っている。そのことは今や科学的研究結果として自明である。しかしなぜ、あえて「男根と眼球」が問題なのか。

「巻第二十七・第二十一話・美濃国紀遠助(みののくにのきのとほすけ)、値女霊遂死語(をむなのりやうにあひてつひにしぬること)」で、遠助は近江国(あふみのくに)の「勢多(せた)の橋」に佇む女性に頼まれて美濃国方県(かたかた)郡(今の岐阜市北部)の或る橋で待つ別の女性のもとまで一つの箱を届けて欲しいと頼まれる。遠助の妻が箱の蓋を開けて中を覗いてしまう。そこには人間の大量の眼球と男根とが詰め込まれていた。それを見た遠助の妻と遠助自身もしばらくして急死してしまう。

「遠助ガ出(いで)タル間(ま)ニ、妻蜜(ひそか)ニ箱ヲ取下(とりおろ)シテ開(あけ)テ見ケレバ、人ノ目ヲ抉(くじり)テ数(あまた)入レタリ。亦、男ノ摩羅(まら)ヲ毛少シ付(つ)ケツツ多ク切入(きりい)レタリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十一・P.129」岩波書店)

ところで道範は最初の試練に失敗したため、次の試練に挑戦する。大きな猪がそこらへんの石をばらばらに喰い千切り、火花を散らしながら体毛を逆立てて突進してくる。

「暫許(しばしばかり)見(みれ)ば、長(たけ)は四尺許(ばかり)有る猪(い)の牙(きば)を食出(くいいで)たるが、石(いわ)をはらはらと食(くえ)ば、火ひらひらと出て、毛をいからかして走り懸(かかり)て食ふ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.167~168」岩波文庫)

「もはやここまで。死ぬほかない」と思い切って猪に抱きついてみれば、90センチほどのただ単なる枯れ木。

「『今は限りぞ』と思(おもい)て、寄て抱(いだき)たれば、三尺許なる朽木(くちき)を抱きたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)

したがって、男根消失術を習得することは叶わなかったが、どうでもよいものを何物かに化けさせる術を習うことはできた。

「前の摩羅(まら)失ふ事は習(ならわ)せ不得給(えたまわ)ず成ぬ。墓無(はかな)き物に成しなど為(す)る事は習ひ給ひつめり。然(さ)れば、其を教へ申さむ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)

男根消失並びに再出現あるいは思うがままのサイズの変化など自由自在に操れるようになるためには、日本政府が推進する「生涯学習」が必要だろう。それでも叶わないかもしれないが。さて再び京に上り宮中警護に当たる滝口の侍に戻った道範。天皇の御座所・清涼殿の北東に位置する滝口所(たきぐちところ)で暇にまかせて同僚と賭博したりして遊んでいる時、言い争いになると同僚らの沓(くつ)を全部、子犬に変えて走らせてみたり、あるいは古い草履を90センチほどの鯉に変え、脚付きの俎板(まないた)の上に載せ、生きたまま踊りを踊らせてみたり奇怪な芸能をいろいろと演じた。

「滝口(たきぐち)の陣(じん)にして、滝口共の履置(はきおき)たる沓(くつ)共を、諍(あらそ)ひ事をして、皆犬の子に成して這(はわ)せけり。亦(また)、古藁沓(ふるわらぐつ)を、三尺許(ばかり)の鯉に成して、大盤(だいばん)の上にして、生乍(いきながら)踊(おどら)せなど為(な)す事をなむしける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168」岩波文庫)

そのことが話題になり陽成天皇の耳に入った。天皇は道範に教えるよう命じてこの変化の術を習得された。御几帳(みきちよう)=垂れ布を掛けるための横木の上に突如「賀茂(かも)の祭」(今の葵祭)の行列を出現させ、歩かせて見せたりされたらしい。

「其後、御几帳(みきちよう)の手の上より賀茂(かも)の祭の共奉(ぐぶ)を渡す事などを為(せ)させ給ひけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.168~169」岩波文庫)

しかしなぜか周囲の反応はおもわしくなかったらしい。というのは、天皇自身が「三宝に違(たが)ふ術(ずつ)」=「外術(ぐゑずつ)」を用いることに対するアレルギーが宮廷内では大勢を占めていたからである。

「其故(そのゆえ)は帝王(ていおう)の御身にて、永く三宝に違(たが)ふ術(ずつ)を習(ならい)て為(せ)させ給ふ事をなむ、皆人謗(そし)り申(もうし)けり。云ふ甲斐(かい)無(な)き下﨟(げろう)の為(す)るをだに罪深き事と云ふに、此(か)く為(な)させ給ひつるに、然ればにや狂気(おうき)なむ御(おわし)ましける」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十・P.169」岩波文庫)

さて。諸商品の変化について。第一に「男根実在」から「男根不在」への転化。第二に「男根不在」から「男根実在」への再転化。そして重要なのは第三。「x量の黄金」と「y量の商品(A男根変容術・Bその他の物の変容術」との交換。この中で「Bその他の物の変容術」は次のように諸商品の無限の系列を往来するだけに過ぎない。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

だが「A男根変容術」に限り、いつも黄金が頂点の位置を占めていなければならず、また、黄金が頂点の位置を占めている限りで、次のような力を持つ。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

その意味でこの「排除」は歴史的でなおかつ社会的なものでなくてはならない。諸商品のただ単なる往来が金銭を介した流通になるや、その習慣はただ単なる習慣や伝統の領域を脱して、次のように《法》へと転化する。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

アナロジー(類似・類推)の発生について、熊楠はこういっている。

「中国人が化石のスピリフェルを燕の変身したものと間違えたこと以外にも、ある物の起源を、それと表面的な類似を持つ他の物に見るという、通俗的な誤りの例は多い。たとえば、スウェーデンの一老博物学者がその『花暦』の中で、九月の初めに燕が水中に引きこもることを、日暮(ひぐれ)すこし前に彼の鶏がねぐらに就くのを話すのと、まるで同じ気楽な調子で書いているが、それと同じように、中国の『礼記』の月令第六には、『季秋の月(陰暦十月)、鴻雁来賓し、爵(すずめ)、大水に入りて蛤となる。孟冬の月(陰暦十一月)、水はじめて氷り、薙、大水に入りて蜃となる』と書かれている。中国人はまた、鵰(くまたか)は化して珂(くつわがい)となり、老いたる伏翼(こうもり)は化して魁蛤(あかがい)となる、と思っていた。日本人もかつては、鳰(かいつぶり)という水鳥と、千鳥(ちどり)という渉禽類の一種とが、海の『鳥貝』(Cardium mutieum)という貝に変身すると信じていた。『その肉の卵の如くなる(味が?)』とも、『肉を見るに鳥の形あり』とも書かれている。烏賊(いか)は、日本人が『からすとんび』と呼んでいる鋭い顎と黒い墨液(すみ)のために、中国人から烏の変身したものとされた。これらの誤りはすべて、くちばし状の脚を持った有穀類と鳥類との類似に根拠を持つと考えられるが、このことは、二百年すこし前に、『スコットランド王国の枢密院議員になったばかりの』ロバート・マーリ卿が、フジツボが雁(がん)に変身するという民間伝承を、前者の鰓が発生学的に後者の羽と思われることから、真実だと科学界で断言した事件を思い合わせると、ますます明らかになるであろう」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.381~382』河出文庫)

それがなぜあたかも「真理」であるかのように信じ込まれ、転倒した錯覚を事実として信じ切ってしまうに至るのか。ニーチェはいう。

「真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)

取り返しのつかない重大な過ちは今後なお犯されていくのかもしれない。

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熊楠による熊野案内/国立仏教施設私物化の惨劇

2021年04月13日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

今の奈良県奈良市大安寺町に「大安寺(だいあんじ)」という寺院がある。その起源は奈良時代。東大寺・興福寺・法隆寺・薬師寺などと並ぶ大寺院として天皇の命により出発した。

「秋七月に、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『今年(ことし)、大宮(おほみや)及(およ)び大寺(おほでら)を造作(つく)らしむ』とのたまふ。即(すなは)ち百済川(くだらがは)の側(ほとり)を以(も)て宮処(みやどころ)とす」(「日本書紀4・巻第二十三・舒明天皇十一年・P.108」岩波文庫」)

「大宮(おほみや)」は百済大宮(くだらおおみや)、「大寺(おほでら)」は百済大寺(くだらおおでら)を指す。また、「大寺」は「私寺」に対する「公寺」を意味し、国立仏教施設をいう。さらに。

「九月(ながつき)の癸丑(みづのとのうし)の朔(ついたち)乙卯(きのとのうのひ)に、天皇(すめらみこと)、大臣(おほきみ)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『朕(われ)、大寺(おほでら)を起(おこ)し造(つく)らむと思欲(おも)ふ。近江(あふみ)と越(こし)との丁(よほろ)を発(おこ)せ』とのたまふ。百済大寺(くだらおほでら)ぞ」(「日本書紀4・巻第二十四・皇極天皇元年・P.186」岩波文庫」)

「近江(あふみ)」は今の滋賀県、「越(こし)」は今の新潟県・富山県・石川県・福井県を指し、「丁(よほろ)」はその時代の国立建造物建設に携わった賦役人のこと。大量の工事関係者が従事したと考えられる。当時の大安寺はとりわけ仏教のための学問研究施設として東大寺と並び称されるほど大規模なものだった。それが平安時代に入ると急速に小規模化した。

いつ頃のことかはっきりしないが、大寺だった当時の大安寺の別当(べっとう=事務局長)の娘で、周囲の群を抜くほど美麗だと評判の女性がいた。或る「蔵人(くろうど)」=「天皇の秘書」がその女性のもとに夜な夜な通うようになった。二人は急速に接近し、蔵人は通い詰めているうちに夜だけでなく昼間も大安寺別当の娘のところに入り浸るようになった。とはいえ、何か咎め立てがあったという記載はまったく見られないので、おそらく公認の間柄だったのだろう。昼間も入り浸っているうちに蔵人は昼寝し始めた。すっかり眠り込んでしまったようで、そのうち夢を見た。どんな夢か。

寺院の事務局はその一家が取り仕切っていた。上中下と様々な身分の者が立ち働いている。蔵人の夢の中でいきなり阿鼻叫喚の大声が響き渡った。何かあったのかと立ち上がり家の中を見て廻っていると、事務局長を務める舅(しゅうと)、その妻、そしてそこに勤務している者らすべてが大きな銀(しろかね)の器(うつわ)を高く捧げ持って嗚咽している。

「立(たち)て行(ゆき)て見れば、舅(しゆうと)の僧、姑(しゆうとめ)の尼君(あまぎみ)より始めて、有限(あるかぎり)の人皆大(おお)きなる器(うつわもの)を捧(ささげ)て泣き迷(まど)ふ也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十・P.102」岩波文庫)

蔵人はいぶかしく思う。「あの器には何が入っているのだろう」。よく覗き込んでみると、どの器にも、銅(あかがね)を焔で溶かせたどろどろの湯が盛られている。たとえ鬼を責め立てて無理矢理飲ませようとしてもけっして飲むことはあるまいと思われるような銅(あかがね)の湯を、泣きながらも、みんなで率先してぐいぐい飲み込んでいる。かろうじて飲み下すとまたもう一杯欲しいと自ら頼んで二杯目を飲み干す者もいる。事務局長とその妻とを筆頭に、身分の低い下男下女など末端に至るまで全員がぐらぐら煮えたぎる銅の湯を泣きじゃくりながら、しかし愉悦感に満ちて、繰り返し飲み干し、歓喜の大声を張り上げている。

「慥(たしか)に吉(よ)く見れば、銅(あかがね)の湯を器毎(うつわごと)に盛(も)れり。打ち責(せめ)て鬼の呑(のま)せむそら可呑(のむべ)くも非(あら)ぬ銅の湯を、心と泣々(なくな)く呑(のむ)也けり。辛(から)くして呑畢(のみは)つれば、亦(また)乞(こ)ひ副(そ)へて呑(の)む者も有り。下の下衆(げす)に至(いたる)まで此れを不呑(のま)ぬ者無し」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十・P.102~103」岩波文庫)

そのうち蔵人が臥している横へ事務局で働く女房がやって来て、蔵人の愛人である女性(事務局長の娘)にも銅の湯を勧める。女性は銀(しろかね)の器を手に取ると、うんうんといかにも悩ましげな声を上げながら涙ながらに飲み干した。蔵人が見ていると女性の「目・耳・鼻」から焔が吹き出し煙を上げている。

「此の娘にも大きなる銀(しろかね)の器に銅の湯を一器(ひとつき)入れて、女房有て取(とらせ)ぬれば、此の娘此(こ)れを取て、細く労(ろう)た気(げ)なる音(こえ)を挙(あげ)て泣々(なくな)く呑めば、目・耳・鼻より焔(ほのお)、煙(けぶ)り出づ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十・P.103」岩波文庫)

類話を参照しよう。この場合、銅(あかがね)の湯は「目・耳・鼻」だけでなく、尻からも垂れ流しになっていなければならない。次のように。

「暫(しばし)許(ばかり)有て、尻より流れ出(い)づ。目・耳・鼻より焔(ほのお)ほめめき出(い)づ。身の節毎(ふしごと)に煙(けぶり)出(いで)て、くゆり合たり。各(おのおの)涙を流して叫ぶ音(こえ)悲し。僧毎(ごと)に皆次第に飲まれ畢(はて)つれば、皆解免(ときゆる)して、本(もと)の房々(ぼうぼう)に返し送(おくり)つ。其の後、此の人共、空に飛び畢(はて)て失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.100」岩波文庫)

死んだ東大寺の僧が山中の見知らぬ寺院で一日一度受け続けていた罰と同一である。事務局の女房は蔵人の愛人が飲み終えると次に客人である蔵人にも飲むよう勧めてきた。「私もこれを?」と戦慄した時、蔵人はふいに夢から醒めた。夢から醒めてみると建物の台所から女房どもが食べ物を料理してせっせと運んでいる。舅らはそれらをたらふく平らげながらどうでもいいくだらない話に打ち興じ、我が物顔で満足げな様子だ。蔵人ははたと気づいた。「こいつら、寺の物品を私物化して実は遊んでいたのか」。

「寺の別当なるは、寺の物を心に任せて仕(つか)ふ。寺の物を食(くう)にこそは有らめ。其れが此(か)くは見ゆる也けり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十・P.103」岩波文庫)

さて。諸商品の変化を見よう。第一に「国立寺院の公共物」から「銅(あかがね)の湯」への転化。第二に「銅(あかがね)の湯」から「国立寺院の事務局長一家の私物」への転化。流通過程は蔵人の夢の中ということに設定されており、公共物と私物との《あいだ》は「銅(あかがね)の湯」に映って見える構造を取っている。言い換えれば、ニーチェのいう債権者と債務者との等価性は著しく侵害されている。そこで、破られて出来た穴を埋め戻し均衡を取り戻すために、ややもすれば公金を投入し押し隠してしまおうとしても、蔵人(天皇の秘書官)にばれてしまった以上、隠し通すことはもはやできない。

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熊楠による熊野案内/母は二度死ぬ

2021年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

長和四年(一〇一五年)、藤原保昌(やすまさ)が「丹後(たんご)の守(かみ)」を務めていた頃。安昌は武芸に秀で、丹後国長官の職を務めると共に、郎等(部下・従者)を引き連れ、鹿狩を自らの生業のようにしていた。また、郎等(部下・従者)の一人に「弓箭(きゅうせん)」=「弓矢」に長けた者がおり、なかでも鹿狩にすぐれた腕前を発揮して安昌から特段の信頼を得ていた。

明後日にまた鹿狩を控えた日の夜、この郎等の夢の中に亡き母が出てきた。死んだ母がその子の夢に出てきたとしても何らおかしくはない。そして今や安昌から絶大な信頼を得ている息子に向かっていう。「いま、私は鹿の身になって丹後国の山野で暮らしています。明後日(あさって)に狩があるとのことですが、その狩の日に私は鹿としての命を終えることになるでしょう。そなたが弓矢に秀でていることは誰もが知ること。私がどう逃げようとしてもそなたの箭(や)から逃げ切ることはもはやできまいと思っています。だからよく聞いて下さい。大型の女鹿(めじか)が目の前に現れたら、その鹿こそそなたの亡き母だと心得て、けっして箭を射ることがないよう気を付けていて下さい。私は敢えて前に進み出てそなたの馬に走り寄ろうとするから、わかるだろうと思います」。

「明後日(あさて)の狩に我れ既に命終(おわり)なむとす。多(おおく)の射手(いて)の中を逃げ遁(のが)れむと為(す)るに、汝(なん)ぢ弓箭の道に極(きわめ)たるに依て、汝(なんじ)が手を難遁(のがれがた)かりなむ。然れば汝ぢ、大(おおき)ならむ女鹿(めじか)の出来(いできた)らむを見て、『此れ我が母也』と知て、射る事無かれ。我(わ)れ進(すすみ)て汝が所に懸(かからむ)とす」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)

そこで夢は醒めた。郎等は亡き母を思い出し、懐かしい思い出で一杯になるだけでなく、射殺さないで欲しいという言葉から何か不吉な感じをも受け取り、胸騒ぎを覚えた。そして夜明け。郎等は体調不良を理由に次の鹿狩を辞退したいと安昌に申し出た。だが安昌はこの郎等の弓矢の腕前を見物するのが鹿狩の目的の大きな一つでもある。郎等の申し出を退けた。郎等は重ね重ね何度も辞退したいと述べた。すると安昌は怒り出していう。「明日の鹿狩に同行しないというのなら、おのれ、この場でただちに自害して自らの頸(くび)を差し出すべし」。

「此の狩、只汝が鹿を射(いむ)を可見(みるべ)き故也。而るに、何ぞ汝ぢ強(あながち)に此を辞する。若(も)し明日の狩に不参(まいら)ずは、速(すみやか)に汝が頸(くび)を可召(めすべき)也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)

郎等は怯えて縮み上がってしまった。そこで密かに思う。たとえ狩には参上しても夢に出てきた亡き母の言葉を信じ、その鹿ばかりはけっして射殺さないよう気を付けないといけない、と。

「譬(たと)ひ参れりと云ふとも、夢の告(つげ)を不錯(あやまた)ず、其の鹿を不可射(いるべから)ず」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.59」岩波文庫)

鹿狩当日の二月二十日頃。頭一つ秀でた狩の腕にもかかわらず郎等は気乗りがしない。だが鹿狩が始まると郎等の腕前は否応なく群を抜いて際立つ。安昌も興奮して郎等の活躍に目を凝らしている。すると郎等の目前に七、八頭ばかりの鹿の群れが出現した。その中に一頭の大型の女鹿がいる。郎等は弓を持つ左手をしっかり握りしめ鎧(あぶみ)を馬の腹に固定して姿勢を整えるうちに夢で見たことをすっかり忘れてしまった。大型の獲物を射殺すことに集中している。箭(や)を放つと一撃で鹿の腹を片方からもう片方へ見事に貫き通してみせた。

「此の男七(ななつ)、八許(やつばかり)具(ぐし)たる大(おお)まけに値(あう)。其の中に大(おおき)なる女鹿有(あり)。弓手(ゆんで)に合(あわせ)て弓引て、鎧(あぶみ)を踏返(ふみかえし)て押宛馬(うまにおしあ)てて、掻あふる程に、此の男夢の告(つげ)皆忘れにけり。箭(や)を放(は)なつ。鹿の右の腹より彼方(かなた)に鷹胯(かりまた)を射通しつ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)

射られた鹿は倒れながら郎等を返り見る。倒れていく鹿の顔を見るとそれは何とまぎれもなく亡き母の顔。「痛いっーーー」。悲痛なわななきを聞くや郎等は夢に出てきた母の言葉を思い出した。悔いや悲しみや様々な情が入り混じるものの既に女鹿は死んでいくばかり。即死に近い。だが名もない一人の郎等に残された選択肢など知れたものだ。その場で馬から飛び降り、泣きながら弓矢を投げ棄て、あっと言う間もなく髻(もとどり)をばっさり切り落として出家してしまった。

「鹿被射(いら)れて見返(みかえり)たる㒵(かお)を見れば、現(あらわ)に我が母の㒵にして、『痛』など云ふ。其の時に男、夢の告を思出して、悔ひ悲(かなし)ぶとと云へども、甲斐(かい)無(な)くして、忽(たちまち)に馬より踊落(おどりおち)て、泣々(なくな)く弓箭(きゆうせん)を投棄てて、其の庭に髻(もとどり)を切て法師と成ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)

安昌は驚いて理由を問いただした。郎等は先日見た夢について説明した。安昌はいう。「なぜそれをもっと先に言わなかったのか。話してくれていたなら今日の狩に参加させることはなかったというのに」。

「汝(なん)ぢ極(きわめ)て愚(おろか)也。何ぞ其の由を前に不云(いわ)ざる。我れ其の由を聞ましかば、汝が今日の狩の役を速(すみやか)に許してけれ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第七・P.60」岩波文庫)

当時、不吉な影を落とす夢はよくないことが起こる前兆とされていた。だから安昌はそう言ったのだろうか。確かにそうだ。しかしそう言ったのはおそらく理由のうちの一つに過ぎない。安昌は丹後守(たんごのかみ)に赴任する直前、藤原道長の斡旋で和泉式部と結婚している。丹後へは妻・和泉式部も同行した。道長の名が出てくるのはなぜかというと、安昌は道長の家司(けいし)を務めているからでもある。家司(けいし)は親王・摂関・大臣、そして三位以上の家の家政を司る高級官僚。四位・五位に相当する。以前述べたが六位以下の場合は「下家司(しもけいし)」と呼ばれた。

さて。鹿について。あるいはなぜ鹿で《なければならなかった》のか。和泉式部は平安京の歌人として押しも押されもせぬインテリというばかりでなく全国各地を旅する勢力的な女性の象徴でもあった。柳田國男はいう。

「肥前と三河と、二箇所の足袋の由来を比べてみて、誰にも気の付くのは双方ともに、御本尊が薬師如来であったことである。これが我々にはなんらかの手掛かりを与えはしないだろうか。和泉式部が生れたという土地は、肥前の杵島郡を西の端にして、他の一端は陸中の和賀郡まで、京を除いても全国に七箇所、注意していたらなおこれ以上にも顕われて来るかも知れない。伝説の和泉式部は若狭の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)、または大磯の虎などと同様に、たいそうもない旅行家であった」(柳田國男「桃太郎の誕生・和泉式部の足袋・南無薬師」『柳田國男全集10・P.367~368』ちくま文庫)

和泉式部が旅する女性だったことは事実であり、さらに柳田が注目しているのは和泉式部の「足袋(たび)」に、である。足袋は言うまでもなく鹿の蹄と同じく二つに割れている。郎等の亡き母もまた足袋を履いていただろう。すると、安昌の妻としての和泉式部・安昌の郎等の亡き母・鹿の蹄はまっすぐ繋がってくる。フロイトが「夢判断」で見抜いているように夢の中ではすべての助詞が脱落する。言語と光景ばかりが脈略なく展開する。言い換えれば文法を破綻させた状態で、にもかかわらずアナロジー(類似・類推)を通して重ねて考えられるものはすべて二重・三重に押し重ねられ、《同一の価値》を与えられて出現する。また、夢は願望充足だとフロイトはいった。苦悩に満ちた夢であってもなお、それはむしろ自分自身を罰する欲望を果たすためとして十分に位置付けられる。

では郎等が、鹿としての亡き母を射殺すことに躊躇したとしても特におかしくはない。しかし郎等は夢に現れた警告をなぜ上司に当たる安昌に告げずに黙っていたのか。安昌には事後になってようやく告げている。とすれば郎等は鹿として出現するはずの亡き母を実のところは射殺したいと欲望したいと願っていたのだろうか。ところがそれは足袋(たび)を通して明確な繋がりを持つ鹿としての和泉式部・上司の妻をも同時に射殺すに等しい。実母・上司の妻・鹿。弓矢の腕前では安昌が一目も二目も置く郎等はそれを瞬時に貫き通した。ところが、夢に過ぎないにもかかわらず親殺しは逆罪(ぎゃくざい)でありけっして許されない重罪だった。郎等はそれを知っていて上司の安昌にわざと告げていない。告げたのは射殺した後、事後的かつ極めて事務的にである。聞かされた安昌は先に説明しておいてくれれば郎等を参加させることはなかったのにと言っている。そして安昌のさらなる上司は道長であって、もし安昌が親殺し=逆罪を犯すとすれば平安京の政治的大実力者・道長そのものに対して逆臣の立場に置かれることになる。だが当時の平安京の高級官僚の中では、もし安昌ほどの高い地位にいればそれはけっして不可能ではない状況にあった。安昌の政治的位置から見れば道長を射殺すことは、本当にやるとすれば、けっしてできない相談ではなかった。そうなれば道長ではなく安昌が平安京政府の実権を握ることになっていたに違いない。

諸商品の無限の系列として見た場合、「郎等の実母・郎等の上司の妻・鹿」がある。しかしそのどれも個別的な次元に留まる。ところがその三者が郎等の箭(や)で一つにまとめて貫かれた瞬間、郎等の欲望は郎等の上司・安昌の、道長に対する苛烈な権力意志へと置き換えられて表面化している。その点に着目しなくては丸見えになっている事情も見えないままただ単なるエピソードとして通り過ごしてしまうのかもしれない。郎等は鹿を射殺すや否やとっさに、何者かに取り憑かれでもしたかのようにたちまち髻を切り棄て法師になった。郎等は自身の男性の象徴を刀で斬り落とし世間をも棄てて去った。安昌の逆罪意志を引き受けた上で、それを鹿狩に置き換えて亡き母を射殺すことで、ともすれば上へ向かおうとしていた安昌の苛烈な逆罪意志を自分自身の側へ向け換え、世間から去った。ばらばらになっていた諸商品のそれぞれを箭(や)で貫き通して一つにまとめ上げ貨幣化し、その光り輝く太陽を誰もが直視できないうちに、ただちに髻をばっさり切り棄て事態の収拾を図った郎等。なお、本文ではその郎等の名前が入れられるはずの箇所は欠字のまま、これまでもこれからも永遠に空白となっている。ただ、山へ修行に入ったまま生涯ずっと降りてくることはなかった。

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