白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性4

2020年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
盗賊らの住処で。二つの盗賊が鉢合わせになる。後からやって来た盗賊は「略奪物(ぶんどりひん)」を得た代わりに「仲間三人」を失ったという。「三人の死んだ仲間」=「略奪物(ぶんどりひん)」。

「三人の死んだ仲間を悼みながらも、ほらそこに置いている略奪物(ぶんどりひん)をここまで持って来た」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.157」岩波文庫)

最初の「略奪物(ぶんどりひん)」はテーバイの町中。クリュセールという両替屋を狙った。そのとき棟梁のラマクスを失う。重傷を負ったラマクスは自害する。

「俺たちが誰一人、いくら頼んでも朋輩(ほうばい)殺しをやろうってしないのを見て取ると、残った手で自分の剣を執り、長いことそれに接吻(くちづけ)してたが、やがていきなり柄(つか)も徹(とお)れと胸の真ん中をさし貫いた。そこでもって俺たちは勇ましい棟梁の器量に感じ入りつつ、遺骸を麻の衣に鄭重(ていちょう)にくるみ込んで、海へ入れて隠しておいた。されば今とてラマクス兄貴は海全体を墓場にしてやすんでいる」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.143」岩波文庫)

棟梁だからか「海全体」を「墓場」として見なされる。次に仲間のアルキムスを失う。アルキムスの死体も海に葬られるが、ラマクスの従者の立場としてである。

「ラマクス兄貴の好い道連れってわけでな、俺たちは同じようにして葬って来た」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.145」岩波文庫)

テーバイから離れプラタイアイへ移動。仲間のトラシュレオーンの全身を熊の毛皮で覆い尽くし、デーモカレースの屋敷の中に潜ませる。ところが夜になって召使いの青年に見つかってしまい捕物が始まる。トラシュレオーンは人間だがすっかり転倒した状況に置かれることによってまるで本物の熊だ。

「さんざん犬に咬みつかれ刃に裂かれてからまでも、しきりに熊の吼(ほ)え声(ごえ)や唸(うな)り声(ごえ)をまね、立派に雄々(おお)しく身に降りかかった難儀をしのびつづけてからに、自分の名を辱めずに、運命の手に命を終えた」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の4・P.156」岩波文庫)

マルクスに言わせればこういう構造を取っている。

「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)

さらにそれだけでなく、このエピソードは、いついかなるときにも人間は共通して「獣性」を根本に持っていることを物語る。

「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)

だがしかし、獣性だけでもまたない。たとえば、「キュベレ祭=ヒラリア祭」というものがある。

「春分の日(三月二十二日)に、森でマツの木が一本切られ、キュベレの聖所に運ばれる。ここでマツは神として扱われる。木は羊毛の帯とスミレの花輪で飾られるが、これはちょうどアドニスの血からアネモネが生えてきたように、スミレがアッティスの血から生え出したと言われているからである。若者の像が、この木の中央に取りつけられる。二日目(三月二十三日)の主要な儀式は、ラッパを吹くことであったように見える。三日目(三月二十四日)は『血の日』として知られた。大祭司が両腕から血を採り、これを供え物とする。像を前にしてアッティスの弔いが行われたのは、この日かその夜であったかもしれない。その後この像は厳かに葬られた。四日目(三月二十五日)には『喜びの祭り』(『ヒラリア祭』〔Hilaria キュベレを祭った、大地の生命の再生を祝う祭り〕)が行われる。ここではおそらく、アッティスの復活が祝われた。少なくとも、アッティスの復活の祝いは、その死の儀式が終わって間もないうちに行われたように見受けられる。ローマのヒラリア祭は三月二十七日、アルモの小川までの行列で幕を閉じた。この小川で、女神キュベレのための去勢牛の荷車、女神の像、その他神聖な品々に水を浴びせた。だがこの女神の水浴は、彼女の故国アジアでの祭りでも、その一部となっていたことが知られている。水辺から戻ると、荷車と牡牛たちは瑞々しい春の花々をふり掛けられた」(フレイザー「金枝篇・上・第三章・第五節・P.405~406」ちくま学芸文庫)

植物の豊穣に関して男性と女性との両方が関わっていることはわかるのだが。両性具有に関係する。

「アッティスを愛しているアグディスティスが、祝宴の開かれている穴に入ってくる。そこに居合わせた者は皆、狂気に襲われ、王は自分の生殖器を切りとり、アッティスは逃げて、松の木の下でみずからを傷つけて死んでしまう。アグディスティスは絶望して、アッティスを蘇生させようとしたが、ゼウスはそれを許さなかった。ゼウスが容認したのは、ただアッティスの身体が腐らないようにし、髪の毛が伸びたり小指が動いたりすることで生きていることの証しとすることだけであった。アグディスティスは両性具有のおおいなる母のひとつの顕現にすぎないのであり、アッティスはキュベレーの息子であり、恋人であり、その犠牲者でもあった」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.115~116」ちくま学芸文庫)

その祭の原型として、派手な生殖器の去勢が行われたことは疑えない。

「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)

しかしただ男性信者らが生殖器を切り捨てたというばかりでは半分ほどの意味しかなさないと考えるべきだろう。南方熊楠はフレイザーを参照しつつ次の説を上げている。

「笛と太鼓を奏する最中に神官小刀で自身を創つくるを見て参詣人追い追い夢中になって血塗れ騒ぎをなし、ついには衣を脱ぎ喚き踊り出で備え付けの刀を採って惜気もなく大事極まる物を切り去り、それを手に持って町中を狂い奔しどこかの家へ投げ込むと、それ福が降って来たと大悦びでその家より女の衣装と装飾(かざり)をその人に捧ぐるを取って一生著用する」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.277』河出文庫)

男女の性の入れ換わりがある。さらに別のところで。

「西暦一世紀には、半男女を、尤物(ゆうぶつ)の頂上として求め愛した。男女両相の最美な所を合成して作り上げた半男半女の像にその頃の名作多く(一七七二年版ド・ポウの『亜米利加人の研究』百二頁)、ローマ帝国を、始終して性欲上の望みを満たさんため、最高価で贖(あがな)われたは、美女でも姣童(わかしゅ)でもなくて、実に艶容無双の半男女だったと記憶する」(南方熊楠「十二支考・上・馬に関する民俗と伝説・P.374~375」岩波文庫)

両性具有という存在は時に男性であり時に女性であり時に両性である。二重化された性は三重の機能を持つ。男性から女性あるいは女性から男性というだけなら一身で二つの性を持つというに過ぎないが、実際には三重化されている。男性にもなり女性にもなり同時に両性でもある。一挙にして対立する両極のあいだを一方から他方へと飛躍可能である。機能としては貨幣と等価である。

「アピスというのはオシリスの像に生命が吹き込まれたものだとされています。生成力の光が月から発して、発情期の牛に触れるとアピスが生まれるのだというのです。ですからアピスは、その明るい面が次第にかげって陰にになるというように、いろいろの面で月の満ちかけに似ているわけです。さらに、パメノトの月の朔日(ついたち)には『オシリスの月詣で』という祭が催されますが、これは春の到来を告げるものです。このようにオシリスの力は月に帰せられているのですが、人々はこれをイシス(彼女は生殖の力です)とオシリスが交わっていると申します。ですから月は世界を生んだ母と言われ、かつ男女両性の具有者だと信じられています」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について四三・P.82~83」岩波文庫)

それを神と見るかどうか。キリスト教がヨーロッパ世界を制覇してしまうまで、古代人の中では神と考える人々がいたことは確かである。なお、今の市民社会でも男性器と女性器の両方を持って生まれてくるインターセックスの人々がいる。ところが、生まれるやいなや大抵の場合、男性器切除手術が行われ、女性として生きていくことが通例化している。とはいえ、男性器を切除した場合、その後その人はずっと女性として生きていくことになるかといえば必ずしもそうではない。むしろ思春期頃になるとジェンダートラブルを起こすことが珍しくない。身体はなるほど見た目は女性であり自覚的には非男性を生きている。だがそもそも両性具有者=インターセックスという点で、そうであったということを周囲から知らされていなくても自分は男性であるという意識が蘇ってくる場合がある。また思春期の間はなんともなくても十代後半から結婚前後にかけてLGBTではないかという意識に目覚めることが少なくない。生まれてすぐの男性器切除という通例を含めて見直す必要性を感じないわけにはいかない。

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仮面等価性3

2020年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
ルキウスは驢馬になる。一方で「パンフィレエ」=「鳥」があり、他方で「ルキウス」=「驢馬」がある。

「いかにもこれは鳥じゃあなしに驢馬の姿」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の3・P.122」岩波文庫)

ルキウスは方法に誤りがあったのではとフォーティスに訊ねる。

「まったくこうした不思議が、なんて小さな、またつまらない野草のおかげで成就されるか、まあ考えてこらんなさいな。茴香(ういきょう)をちょっぴりに桂の葉をそえ、泉の水に浸したものを、身に浴びるとか飲むとかするだけ」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の3・P.120~121」岩波文庫)

かといって「茴香(ういきょう)をちょっぴりに桂の葉をそえ、泉の水に浸したものを、身に浴びるとか飲むとかするだけ」で本当に変身することができるのか。紀元前から様々な薬草類の組み合わせが実験的に繰り返され有効性を検証されていたことは明らかなのだが、しかしフォーティスが軽々しく口にする「泉の水」とはどこのどのような「泉の水」なのか。

ちなみにフォーティスの女主人パンフィレエはなるほど家の「奥様」ではあるものの、日中の街路で自分好みの「様子の好い綺麗な若者」を見つけるといてもたってもいられなくなりベッドへ誘惑し飽きるまで男の精気を喰らい尽くさずにはいられないタイプの女性である。パンフィレエにとって若年男性の精力は単なる子作りのためにあるのではなく逆にパンフィレエの性的快楽を堪能させるのみならず、パンフィレエ自身の力への意志をよりいっそう増殖するための使用価値に過ぎない。ところが女性にとってそこそこ魅力的な若年男性なら誰でもよいという現代の若年女性層にありがちな指向ではなく、必ず目当ての男性でなければ気が済まないのがパンフィレエの性的欲望の特徴である。したがって目当ての男性にのみ狙いを定めて誘惑する機会というのはそういつも簡単にごろごろ転がっているわけではない。そこでパンフィレエは「鳥」に変身して自分好みの「様子の好い綺麗な若者」の居場所へ飛んで行こうと考え実行する。その方法として、軟膏状に調合した薬剤を全身に塗りつけた上で「木兎」(みみずく)=「梟」(ふくろう)に変身する。

「梟=ミネルウァ」であり、ミネルウァ(=アテネ)は古代ギリシア=ローマの時代から知恵の女神であり同時に軍神でもある。頭の回転が速く多岐に渡る戦略をたちまち組み立て一つの都市をほとんど一挙に秩序化する手腕の持ち主だ。競争心や嫉妬心が桁外れに強く、たとえばソポクレス「アイアス」で描かれているように狂気を武器に用いてアイアスを狂人に変え自殺へ追い込む。またオウィディウス「変身物語」にあるように、機織りの技術に秀でた女性アラクネの作品に嫉妬してアラクネを蜘蛛に変え、アラクネは死んでなお永遠に機織りの従事者へ転じさせられてしまう。ただ単に嫉妬に燃えるというだけでなく相手を変身させることで新しい秩序設立に際して巧みに利用する点で戦略的知性を発揮する。アイアスの場合、アテネ(=ミネルウァ)による狂気の利用はアイアスの権力意志=他地域への軍事的侵略行動が急速に度を越して拡大していく時期に当たっている点を見逃すべきでないだろう。アテネが用いた狂気の正体とは、それまで次々と外界へ向けられていたアイアスの侵略意志を内面へ向け換えるという精神医学的技巧に過ぎない。この種の技術は後々キリスト教によって大々的に取り入れられる。ニーチェはいう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)

アイアスは正気に戻ったときすでに『良心の疚しさ』を全身で受け止めるほかなかった。ゆえに周囲からの進言という形でもらされる不安と心配とをよそに、あえて「自殺」を選択する。

さて、「泉の水」の問題に戻ろう。少し前、「巻の2」で「ピンプレエ」という言葉が出ている。

「ピンプレエの詩神のつかいの歌人(うたうど)」(アープレーイユス「黄金」の驢馬・巻の2・P.80」岩波文庫)

ここでいう「ピンプレエ」はピエリアにある泉の名。ムーサ(複数形でムーサイ)らの住処とされている。ピエリアの名は今のギリシア共和国ピエリア県に受け継がれており、神話に登場するオリンポス山は今もここにある。風光明美な土地で有名だが、昨今では例に漏れず豪雨災害に見舞われるようになった。ムーサは英語で“Muse”(ミューズ)だが、古代ギリシア=ローマ時代すでに音楽や美術、芸術全般の神として信仰されていた。ゆえに近現代になり“Museum”(ミュージアム)は美術館の総称となる。しかし「ピンプレエの詩神のつかいの歌人(うたうど)」とは誰のことなのか。吟唱詩人オルペウスとされる。そもそも芸術一般の神になる前は圧倒的に歌唱の神として描かれている。

「あいつ(オルペウス)のは、声音(こわね)のたのしさにあらゆる者を牽(ひ)きつけた」(アイスキュロス「アガメムノン」『ギリシア悲劇1・P.209』ちくま文庫)

さらに。

「セイレーンのそばを通った時にはオルペウスが対抗して歌を歌ってアルゴナウタイを船に引き留めた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.63」岩波文庫)

またプラトンはこう語っている。

「ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気とがある。この狂気は、柔かく汚れなき魂をとらえては、これをよびさまし熱狂せしめ、叙情のうたをはじめ、その他の詩の中にその激情を詠(よ)ましめる。そしてそれによって、数えきれぬ古人のいさおを言葉でかざり、後の世の人々の心の糧たらしめる」(プラトン「パイドロス・P.54~55」岩波文庫)

ところが。

「カリオペーとオイアグロスから、しかし名義上はアポロンから、ヘーラクレースが殺したリノスおよび歌によって木石を動かした吟唱詩人オルペウスが生れた。オルペウスはその妻エウリュディケーが蛇に噛まれてなくなった時に、彼女を連れ戻そうと思って冥府に降り、彼女を地上にかえすようにとプルートーンを説き伏せた。プルートーンはオルペウスが自分の家に着くまで途上で後を振りむかないという条件で、そうしようと約束した。しかし、彼は約を破って振り返り、妻を眺めたので、彼女は再び帰ってしまった。オルペウスはまたディオニューソスの秘教(ミュステーリア)を発見し、狂乱女たちに引き裂かれてピエリアーに葬られた」(アポロドーロス「ギリシア神話・第一巻・P.32~33」岩波文庫)

しかしムーサたち=オルペウス教徒は蘇るのである。その歌唱によって、また狂気の踊りによって。

「かれらはハデスで蒙るべきことを蒙り、定められた期間留まると、別の導き手が再びかれらをこの世へ連れもどすのだ。その期間は何度も繰り返される永い周期をなしている」(プラトン「パイドン・P.154」岩波文庫)

このような経緯を経てだんだん醸成されてきた信仰がオルペウス教であり、オルペウスは死と再生との密儀を司るイニシエーションの創始者と見なされることとなった。

ところで、パンフィレエが「木兎」(みみずく)=「梟」(ふくろう)に変身するとき全身に塗りつけた軟膏状の薬剤とはなんだったのか。幻覚を催させる薬草類の中でヨーロッパで突出して有名なものはベラドンナである。しかし何らかの物質を用いなくても古代には幻想や幻覚は実にしばしばあったと、文献学者の立場からニーチェはいう。

「われわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・一二・P.36」ちくま学芸文庫)

しかしパンフィレエは明らかに軟膏を用いている。それは何か。紀元前十三世紀頃に書かれたインドの文献にソーマが出てくる。以前、その讃歌の部分を引用した。今度はその作り方が述べられている箇所を見てみよう。

「1 底深きグラーヴァンが圧搾のため上向きてあるところ、〔そこに〕汝は、インドラよ、臼にて搾られたる〔ソーマ〕を、心ゆくまで飲まんことを。
2 陰陽両根(?)のごとく、圧搾の両器具(臼と杵?)の整えられたるところ、〔そこに〕汝は、インドラよ、ーーー。
3 主婦が退(の)きつ進みつ身をこなすところ、〔そこに〕汝は、インドラよ、ーーー。
4 人々が杵を、〔馬を〕御(ぎょ)せんがために手綱を〔かくるが〕ごとく、〔紐にて〕固く結ぶところ、〔そこに〕汝は、インドラよ、ーーー。
5 たとい汝は家ごとに準備せらるるとも、愛らしき臼よ、ここに最もほがらかに鳴り響け。戦勝者の太鼓のごとく。
6 また、樹木(臼の木材)よ、なが頂(いただき)を風は吹きわたる。さらばインドラの飲まんがため、臼よ、ソーマを搾れ。
7 祭祀により〔財宝〕をもたらし、最も多く勝利の賞をうる両者(臼と杵)は実に、口を広く上方に開く、ソーマの茎を噛み砕く・〔インドラの〕二頭の栗毛のごとく。
8 今日われらに、樹木(臼と杵)よ、高立(たかだ)つ汝らは、高立つ圧搾者たちと共に、インドラのため蜜に富むソーマ液を〔搾れ〕。
9 〔臼に〕残れるもの(ソーマ液)を、両個のチャムー槽に取りいだせ。ソーマをパヴィトラ(羊毛の水濾)の腕に注げ。〔ソーマの茎を〕牛の皮の上に置け」(「リグ・ヴェーダ讃歌・1-28・P.111~112」岩波文庫)

しかしこれだけではソーマを飲むことはできない。ソーマの摂取法はあくまで飲料としてだからだ。この箇所にはただ「搾れ」とあるだけで、むしろソーマ製造に際してそれを粉末化する過程が重視されている。確かに粉末状では心もとなく重要な儀式のおいてあまりインパクトがなかったのかもしれない。第九章ソーマ讃歌では粉末状ではなく牛乳と混ぜて使用される部分に重点が置かれている。

「幼子(おさなご)ソーマを、乳をいだす牝牛たちもまた〔乳もて〕調合す」。「牛乳もて塗らる(ソーマと牛乳との混合)」。「天の最上の乳酪(クリーム)」。「彼は牝牛(牛乳)に達せんと欲す(牛乳との混合)」。「〔牛乳もて〕塗らる」。

臼と杵とを用いていったん粉末状にしたものを牛乳で溶かしながら柔らかな飲料にしたのだろう。さらにもう一つ特色がある。

「赤らめる彼(ソーマ)」。「最も甘美にして・赤らみ・爽快なる滴(しずく)」。粉末に牛乳を混ぜるとやや赤みが出るか赤みを残す飲料。このあたりまでくるとようやく、現代の薬物学で言われているようにソーマの原料はベニテングタケではなかったかという一つの仮説に辿りつくことができる。しかしベニテングタケを摂取した場合は幻覚というより遥かに錯乱というべき効果が大きいので短絡的に結論できない。茸の仲間では日本でも昔からワライタケやシビレタケは有名で、何日か前にも「今昔物語」(巻第二十八・二十八話)を取り上げた。いずれにしても陶酔、戦士、詩想、万能感、至上の快楽、といったソーマ讃歌の特徴には一致しない。そして肝心な点だが、古代儀式において用いられたこの種の薬物は、どれほど摂取したとしても、実際に何百キロも離れた場所へ移動するわけではないということを忘れてはいけない。

「移動しないで同じ場所で強度として行われる精神の旅が語られてきたことは驚くには及ばない。このような旅は遊牧生活の一部分である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.72」河出文庫)

というふうに。

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仮面等価性2

2020年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
等価性の観念は古代ギリシア=ローマの至るところで出現していた。「死体を安置している間に生じた損傷部分」=「見張人の顔から同じだけそっくり切りとってつくろうこと」。

「もし朝になってその死屍(しかばね)が無事そっくりとつつがなく渡しかえされなかった場合は、何によらず切り取られたり減ったりしたところを、自分の顔から同じだけそっくり切りとってつくろわなきゃならん、という約束」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の2・P.74~75」岩波文庫)

その保証のために「七人の証人」が死者の顔について詳細に観察し述べ上げる。

「七人の証人を呼び入れ、てずから顔の覆いを取り去って長いことむくろの上で涙を流したのち、居合わせる人たちの堅い真実を願いもとめて、いちいちの顔の様子をくわしくさし示し、いった言葉を一人の者に委細に書板へ記しつけさせる。ーーーその書状にみなみな印をおしてから、出てゆきました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の2・P.76~77」岩波文庫)

証人が七人なのはキリスト教の聖数が七だからでありキリスト教の影響が広範囲に及んでいたことを物語る。アープレーイユス「黄金の驢馬」執筆は二世紀。とはいえ、百五十五年頃すでにプラトンの翻訳も行っており、以前から古代ギリシア哲学に多大な関心を寄せていた。さらに紀元前一世紀頃に成立したとされるアポロドーロス「ギリシア神話」やヘシオドス「神統記」などのギリシア神話はもとより、もっと古い紀元前五世紀頃を全盛期とするギリシア悲劇作家(アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス)の影響。ホメロス「オデュッセウス」などのギリシア叙事詩を大いに吸収した後に創作に打ち込める環境にいたことは「黄金の驢馬」執筆にあたってたいへん有利な立場にあった。

ところで主人公ルキウスのもとへ、このような一夜の死者の見張人として特別な依頼が回ってくるのはどうしてか。ルキウスはエクスタシーを伴うイニシエーションの儀式を小婢(こしもと)フォーティスとのあいだで演じられた毎夜の性行為で果たしているからである。

「等しく寝台に上がって私の上にきっちり乗り込み、たびたび前へのり出しながらしなやかにからだを動かし、ぴちぴちした背中をゆすぶり、揺れ動くウェヌスのたのしみで私を満ち飽かせてくれましたが、しまいには心も疲れ手肢(てあし)もいたみ、すっかりくたびれはてて、二人とも一緒に息をあえぎあえぎ、お互いの胸の中へくずれおちるという始末でした。こんなふうに何度となく手合わせをしつづけて一晩じゅう朝の光のさかいまで、やすみやすみは盃につかれを和(なご)めながらもまたすき心を煽(あお)りたてつ、かつはたのしさの思いをたかめつ、時を過ごしました。その夜の先例にならってそれからもまた幾夜さを、こうして同じように重ねていった」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の2・P.68~68」岩波文庫)

フォーティスはルキウスが手紙を届ける旅の途中で寄った家の「小婢(こしもと)、侍女、女中」である。古代からヨーロッパは階級社会だった。ところがルキウス(客人)とフォーティス(下女)のあいだで繰り返し反復される性行為は夜闇にまぎれて実行された階級間の境界線をぶち抜き無効化してしまう脱社会的作業であり、だからこそ特権的イニシエーションの意味を帯びるのである。夜ごとに二人に降り注ぐ悦楽に満ちたエクスタシーの乱舞はルキウスに或る特別な力を与える儀式として描かれている点に注目したい。ルキウスはフォーティスと性行為に及ぶまでしばらくのあいだ焦(じ)らされる。フォーティスはなるほど「小婢(こしもと)、侍女、女中」だが同時に恋愛の様々な技巧に熟達した女性として登場する。

近代以前、貴族階級の家で育つ娘らは伝統的に行儀よくしつけられるため、家事労働のために肉体を用いて動き回るということはない。さらに顔を除いて身体のすべての部分を特定の衣装で覆い隠しており言葉遣いも清潔過ぎるあまり、男性の性的関心をほとんど引かない。貴族階級の家の娘はどれもこれも多くは政略結婚のための飾りでしかなく肉体的にはマネキンに等しい。危険な行動を極端に制限されているため身体のどこをどう探しても日焼けや傷がなく肉感を喪失している。だが逆にその「小婢(こしもと)、侍女、女中」は違っている。もっと身軽な衣装であちこち動き回らねばならないので普段は隠れている肉体の奥深くまで不意に露出する。日々の労働で鍛えられた無駄のない腹部と筋肉質な足腰は性行為の時の野獣性を思わせる。動けば動くほど肉体も陰影深く時々刻々と色合いを変化させるために異性から見ていて目が離せない。そんなフォーティスの躍動する肉体に惹かれたルキウスは、得意の想像力の力を借りて古代神話に登場する美しい女神のイメージを重ね合わせる。さらにフォーティスは毎日のように幾つかの髪型を使い分ける器用な女性である。神話に出てくる女神の姿と重ね合わせてルキウスの想像力が爆発寸前にまで高揚してくることを見抜いている。だが一見知らぬ顔を装いながら、ルキウスの性欲が最高潮に高まってくる時期を上手く計算していた。ちなみに、この場合の男女を置き換えればたちまちD.H.ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」になるのはもはやわかりきったことだ。

とはいえ重要なのは、第一に異種の階級に属する人間同士の性的同一化という点であり、第二に二人の性行為の繰り返しによるルキウスの死と再生の反復という点である。第一の階級間境界線の性的無効化は同時に国家的背任行為であり犯罪であるが、まさしくそのことによって神にも似た超人的行為であり特権性の付与を示唆する。この直後に死者の見張人という特別な仕事が突然舞い込んでくるのは理由として十分なのだ。さらに第二の性行為の反復による死と再生はルキウスの小さな死(自傷行為)によって顕著に見られる。ルキウスは性行為の直前に「すっかり酒浸(さけびた)し」になる。そこでフォーティスは全裸になってルキウスに向かい、堂々たる肉体を見せつけながら「息が絶えようと打ってかかる」ことを約束させる。性行為が繰り返されるたびに疲れを払い除けるため再び「盃」を傾ける。ここで酒が登場するのは明らかにディオニュソス=バッコス祭の反復として考えられる。というのも、もう一つの理由があり、それは何かというと最初に男性が上に乗って女性を組み敷くのでなく、「小婢(こしもと)、侍女、女中」でなおかつ女性のフォーティスの側から逆にルキウスの身体を下に敷いて上に馬乗りになり、「たびたび前へのり出しながらしなやかにからだを動かし」、あれよという間もなくイニシエーションにおける導師のごとくルキウスをエクスタシーへと導くからである。このパターンの変化型としてルネサンスの口火を切ったダンテ「新曲」のベアトリーチェを上げることができる。ダンテを天上の詩の世界へ導くのは女神ベアトリーチェだが、煉獄篇後半で始めて登場するベアトリーチェは他でもない戦車に乗って降臨する。

ちなみにローマ第四皇帝クラウディウス帝は、「死と再生」、「オルギア」(熱狂的舞踏)、「生贄(牡牛・牡羊)殺害」、「自傷行為」、を含むイニシエーション的儀礼色の強いアッティスとキュベレーの密儀を公式行事として採用した。アープレーイユス「黄金の驢馬」執筆の百年ほど前のことだ。春分の種まきの季節を起点とした宗教行事である。

「祭りは春分の時期、三月十五日から二十八日にかけて行なわれた。初日(カンナ・イントラット、『葦の持ちこみ』)に、葦を背負った同信者集団が、切った葦を寺院へ運びこんだ(伝説によるとキュベレーは幼児アッティカが、サンガリオス川の川辺に捨てられているのを見つけた)。七日後、木を背負った同信者集団が、森から切った松の木を運びこむ(アルボル・イントラット)。幹は死体のように幅のせまい帯でくるまれ、アッティスの像がその真ん中に結びつけられる。その木は死んだ神をあらわしていた。『血の日』(デイエス・サングイニス)である三月二十四日に、司祭と新たな入信者は笛とシンバルとタンバリンの音にあわせて野蛮な踊りを踊り、血が出るまで自分たちの身体を鞭打ち、ナイフで腕を深く傷つける。興奮が最高潮に達すると、生殖器を切りとって供物として女神に捧げる入信者もいる」(エリアーデ「世界宗教史4・第二十六章・P.117」ちくま学芸文庫)

男根の切断は宦官の行う単なる自傷行為に思えるかもしれないが、それ以上に遥かに不死と再生への願いが込められている。一年間で蓄積したマイナス要素の破棄とそれに伴う新生への希求がある。アッティスとキュベレーの神話を形式化すると、大地を母とし太陽を父とした太陽信仰として整えることができる。だから切断した男根は母なる大地に捧げられ、豊穣祈願の儀礼とされるとともに、毎年々々新しく蘇る不死性を象徴するわけである。

ともあれ、ルキウスとフォーティスの夜ごとの性行為の反復によって、始めて「黄金の驢馬」固有の歴史が始まる。ヘラクレイトス哲学についてニーチェが述べた通りだ。

「あるものはただ永遠なる生成のみであるということ、一切の現実的なものは、ヘラクレイトスの教えるごとく、ただ絶えまなく作用し生成するのみであって、存在することもなくあくまで無常のものであるということ、このことは、思うだに恐ろしい気も遠くなることであって、その影響の点で、誰かが地震の際に、ゆるぎなく根ざした大地にたいする信頼を失うときに覚えるあの感情に、もっとも近いものである。この影響をその反対のものへ、すなわち崇高なもの、恍惚たる驚嘆へ転ずるには、驚くべき力が必要であった。ヘラクレイトスは、あらゆる生成と消滅の過程を本来あるがままの姿で観察することによって、これを達成した。すなわち彼はこの過程を、両極性という形で、つまり一つの力が質的に異なり対立する二つの働きに分離するとともに、またこれらの質は絶えまなく自己との軋轢(あつれき)を生み、相互に対立するものへ分裂してゆく。これらの対立物は、再び相寄るべく絶えまなく努力する。大衆は、何か固定したもの、完成したもの、持続するものが認められるように考えるのであるが、実際は、いついかなる瞬間においても明暗、甘苦が、あたかも二人の格闘者が互いに上になったり下になったりして闘っているように、組んずほぐれずしているのである」(ニーチェ「ギリシア人の悲劇時代における哲学」『悲劇の誕生・P.381』ちくま学芸文庫)

また、この事情は男女の性行為のみを意味しているわけではない。同性愛関係においても同様に当てはまる。ジュネ作品の中でしばしば派手な喧嘩を演じる兄弟クレルとロベール。クレルとロベールとが直接に性行為を行うわけではない。クレルはブレストで淫売屋を切り盛りして稼いでいるリジアーヌと関係する。リジアーヌはクレルの弟ロベールと関係する。兄弟はリジアーヌの肉体を介して結びつく。リジアーヌは奇妙な疎外感を覚える。

「《たとえ離れていても、あの二人は世界の端と端から互いに呼び交わしているんだわーーー》《兄が航海をはじめれば、ロベールの顔はいつも西の方を向いていることになるだろう。あたしは日まわりの花と結婚しなければなるまいーーー》《微笑と悪罵が投げ交わされ、二人のまわりに巻きつき、二人を結びつけ縛りあげてしまう。二人のうち、どちらが強いかは誰にも分らない。そして彼らの子供は、二人のあいだを自由に通り過ぎるけれども、少しの邪魔にはならないんだわーーー》ーーー何ものも切り離すことのできない二人の恋人の秘密の物語に、彼女は立会っているのだった。彼らの喧嘩は微笑でいっぱいになり、彼らの遊びは侮辱で飾られている。微笑と侮辱はその意味を変える。彼らは笑いながら罵り合う」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.392~393」河出文庫)

「彼らの子供」というのは少年ロジェのことを指す。同性愛者だけでは子どもの生産は不可能ではないかという疑問もあろうかと思う。けれども世界中で圧倒的多数を占めるのは異性愛者であり、子どもの生産、要するに労働力商品の再生産だけなら異性愛者に任せておくだけで有り余るほど大量生産されてきたし今後もなおしばらくのあいだ、高度テクノロジーの世界的配分によって人間労働力が徐々に不必要になってくるまでは、これまでの途上国において大量生産されていく。低賃金重労働に従事する労働力商品生産地はどの多国籍企業複合体にとっても魅力的な労働力市場であり続けるからである。

だから先進諸国はどんどん生まれてくる子どもたちと彼らの生存のために最低限必要な労働環境を提供することが思うように上手くはかどっていないという自分の足元の問題に対して積極的に向き合わねばならない。そうでないと多国籍企業複合体が高度テクノロジーを次々取り入れることで正規の従業員を削減し合理化と諸商品の大量生産に成功したとしても、それら生産した大量の諸商品の消費者も同時に減少してしまえば商品は売れない。自明である。大量生産した諸商品は大量消費によって貨幣交換されない以上、どれほど知名度の高い多国籍企業の商品であっても利子を生んで手元に回帰してくることは不可能である。大量生産は大量消費を前提している。消費者(お客様)に商品を買ってもらうためには労働力商品としての労働者がいつも必ず存在しているというだけでは不十分であり、労働者自身がそれなりの労賃とその貯蓄を手にしていなければ消費は回転しない。消費行動が停滞すれば剰余価値の実現は不可能となり銀行業務はたちまち鈍化するし実際に鈍化傾向を示している。二〇二〇年のパンデミックは今の資本主義(アメリカ発ネオリベラリズム)がそのような方向へ向けて想像を絶する加速力で推し進められていたという事実を世界的規模で顕在化するのに役立ったと言える。

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仮面等価性1

2020年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
しばらくのあいだ、等価なもの(等価な行為)として見なされてきたものを見つけては、ランダムに上げていこうと思う。さて始めに次の会話から。「男性の身体の八つ裂き」=「男性の男根の切断」。

「この男をバッコスの贄(にえ)みたいに、ずたずたに引き裂いちまおうじゃないか。それともそいつの手足を縛りつけて、男のあれを切り取っちまおうか」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の1・P.22」岩波文庫)

さて、急速な近代化に伴ってスラヴ地域に出現した異端信仰教団殺人事件をモデルとしたマゾッホの文学作品「魂を漁る女」。三回に分けた。主に主人公ドラゴミラの自傷行為についてその言葉を中心に追って見た。特徴はすでに明確化できたと思われる。単純に言えば、「反復」であり「常習性」である。冒頭部にあたる場面でドラゴミラは、刃物で自分の手首を切り、血が流れると「気持ちがいい」と言っている。

ロシア社会の急速な近代化と古来から続くスラヴ地域土着の信仰生活とのダブルバインド状況が作品の舞台になっており、宗教殺人という自傷行為とその反復を快楽へ置き換えることで事態の打開を計り破滅した人々の鎮魂歌ともなっている。しかしなぜ惨劇にまで至る自傷行為が快楽に置き換わるのか。それはただ単なるマゾヒズムという言葉では説明できないだろうと思われる。それまでの知識や教養ではしのぎ切れない極限状況へ叩き込まれてなす術を失った時、人間という動物は一体どのように振る舞うのか。それが作品のテーマだったように思う。人それぞれだといえば言える。けれどもなぜスラヴ地域なのか。表面的にはキリスト教化され教会もすでにあるものの、大都会を少し離れた村落共同体で長く根付いてきた日常の信仰生活はあくまでもスラヴ独特の土着的なものだ。そのようなとき人間は個人であれ集団であれ自傷行為に快感を覚えるような精神状態へ変化するのである。それが村落共同体の場合、共同体の構成員の多くが自傷行為へ滑り込んでいく。そこに活路を見出すわけだ。というのは、自傷と自殺は別々の行為だからである。

自殺は一撃であり首吊りや投身や銃器で頭を撃ち抜くという方法が圧倒的に多い。けれども自傷行為の場合、刃物ですっぱりというケースが圧倒的であって、そこに一つの大きな違いがある。それによって得られる快楽があり、さらに何度も繰り返し反復可能になる。自殺との違いは過酷な状況からの逃避ではなく過酷な状況の無効化が目指されていると考えることができないだろうかと思われるのである。ドゥルーズが指摘するように、マゾヒズムについてフロイトと同様の考え方を適用してみても上手くいかない。快楽の獲得だけが目指されているとすればフロイト的解釈で説明可能である。ところがドラゴミラはアポリア(困難)を乗り越えるためにアポリア(困難)そのものを劇的に無効化する方法を案出したといったほうが正しいように思われる。逃げ道のないダブルバインド(板挟み)を抹消してしまうにはどうするか。来る日も来る日も自分を責め苛んで止まない前代未聞の過酷かつ急激な社会的変化。その苦痛を快楽へ置き換えることができれば苦痛は宿命でも運命でもなくなり無効化される。苦痛は苦痛でなくなる。そこには刑罰を自ら進んで受け入れるという嘲弄の態度が見られる。

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)

さらに言えば。

「あなたは男ではありません。私が男にしてさしあげますーーー。マゾッホの小説にたえずあらわれるこの主題は、なにを意味するのか。『男になる』とはなにを意味するのか。それは決して《父のように振舞う》ことでも、その地位を占めることでもないのはあきらかである。それは逆に、父の地位と父との類似を除去することで、新しい人間〔男〕を誕生させることなのだ。責め苦はまさに父に対して、もしくは息子のうちなる父の似姿に対して行使される。すでに述べたように、マゾヒズムの幻想とは『子どもが叩かれる』ではなく、《父が叩かれる》なのだ」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.151~152」河出文庫)

またマゾッホのデビュー作「毛皮を着たヴィーナス」の「毛皮」だが、スラヴ地域、広い意味でロシアから中国東北部、サハリンにかけては、毛皮は獣性の証しであり、西欧ですでに近代的衣装として取り扱われていた「洒落たファッション」を意味しない。むしろ地域によりけりで特定の野獣の毛皮を身にまとって狩猟を行うことがその野獣から獣性という力を得ることであり、同時に野獣から身を守ることを意味し、だから野獣の毛皮は守護神として扱われた。フレイザーはアイヌと熊の関係をトーテムの一つの型として分類している。

「熊の肉と毛皮は通常彼らに食と衣を供給するものである。だが熊は賢く力の強い動物であるから、熊という種に対しては、多くの仲間の死でこの種が被る損失に、なんらかの満足や贖いを捧げることが必要になる。この満足ないし贖いが、幼い熊たちを育てることである。生きている限り子熊たちには敬意を払い、殺すときには悲しみと献身的な愛情を過度に示すことである。こうすることで他の熊たちは宥められ、仲間の殺害に腹を立てる殺害者を攻撃したり土地を荒らしたりはしなくなる。アイヌ人たちから、彼らの生活の術のひとつを奪うことはなくなる、というわけである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十二節・P.162」ちくま学芸文庫)

ところで、日本では五〜十年ほど前、特に十代の女性のあいだで「リストカット」が流行したのを覚えているだろうか。その特徴もまた「反復」であり「常習性」だった。医療の専門家からは過剰な承認欲求ではないかという説があった。それも部分的には当たっているように思える。自分で切った手首の画像をネットで自己紹介したりする事例が多く見られたという意味では。しかし今のネット世界でリストカットの画像をわざわざ掲載する人々はあまり見かけなくなってきたように思う。なぜだろうか。

そもそもリストカットはネット社会の世界化に合わせて出現した症状では全然ないということが上げられる。アメリカでは一九六〇年代すでに刃物を用いたリストカットが社会現象化していた。ネットで画像紹介するという行為は自傷行為の直後に「すっきりした」あるいは「変わった」自分を世間に向けて広く周知徹底させるための公的事業というに近い。ただ単なる承認欲求という個人的生活圏内で収集を付けることが目指されているわけではないように思えるのである。

とはいえ、ここ数年でリストカットそのものは減少した。それは主にカウンセリングや医療分野の啓発活動の成果により他のもっとずっと安全な行為へ置き換えられたからである。たとえば、時間はかかるけれども読書、スポーツ、グループで行う社会活動といったものへ。ところが、より広い意味での自傷行為は今なお日常生活の中に溶け込んでいる。まるで変わっていない。単純な例を挙げれば、アルコール・薬物の過剰摂取。ここ最近有名になったものでは生活資金に困っているわけでもないのに繰り返し反復してしまわざるを得ない若年女性による援助交際。かつて自分をいじめた特定人物に対する暴力的復讐のためでもなく単なる健康維持目的でもない、ただひたすら見た目の身体的変容ばかりを強引に目指す肉体改造。苦痛を伴えば伴うほど効果的だと信じて疑わないカルト的な日常儀式。たとえば余りにも早すぎる早起きの連続による心臓発作や、反対に眠ってしまうと死んでしまうのではないかと不安と緊張でいっぱいの不眠症状、あるいは欠かしたまま眠ってしまうと死ぬに違いないという特定の呪文の反復など。

そしてさらに、意外に思う人々も少なくないと思われるが「思い出づくり」しないと人生が滅茶苦茶になる、という不安もまたそうだ。この種の「思い出づくり」が増えたのは日本では一九八〇年代。テレビドラマ全盛期とバブル景気が重なった時期にあたる。まだインターネットがない頃、話題になったテレビドラマのシナリオについていけないと職場や学校で孤立するということがしばしばあり、しかもドラマと瓜二つのシーンを演出できる場所に二十代の社会人や学生らが殺到し、ドラマと瓜二つの恋愛を展開し、ドラマと同じような別れ方をすることが有力な「思い出づくり」として成立していた。大日本ドラマ帝国主義とでもいうべき世相が幅を利かせていた。思い出は全員同じでなければ許すことができないという空気が充満しており、余り有名でない音楽や趣味に打ち込んでいてもなかなか理解されないか、むしろ嘲笑されるといった風潮で鬱勃たる日々が続いていた。だから今なお「思い出づくり」はファシズム化するとたちまち危険な行為になる。そしてその子や孫の世代が今の子育て世代に当たっている。

このところ、マスコミは育児分担を当たり前のことのように言うけれども、それができるのはまだまだ恵まれた家庭環境が築かれている世帯に限ったケースばかりである。共働きしても育児はどちらかに偏りがちな場合はまだまだ多い。むしろ収入は二〇二〇年のパンデミック以前から不安定極まりない。職業選択の自由といっても相変わらず、学歴、資格、容姿、が中心であって、バブル景気でもないのに何か一九八〇年代へ逆戻りした感さえある。

気になる点を上げれば、奇妙な形で重なってきた「思い出づくり」と「ネグレクト」(育児放棄)との共時性である。というより加速的に形式化してきたような面がある。たとえば、スマートフォンに記録された結婚前の付き合い方から始まって、結婚、リゾート地での決まり切った写真の数々、子どもの名付けに際してのはしゃぎぶり、母親仲間同士で交わされる幼児の成長記録のやりとりに出てくるお約束的言葉の乱発。そして子どもが三歳頃になってようやく子育てが本番へ入り、ただ単に「思い出づくり」というカテゴリーではくくり切れなくなり、家事育児も本格化し、遊び心だけでやっていける「思い出づくり」の時期が過ぎると同時に子どももまた面倒なだけの無用の長物に見え出してきて、本音のところでは「もうそろそろ死んでくれないかな」と考え始めるようになる。育児の悩みというよりも「思い出づくり」が終わるともう子どもに用はないらしい。ここ最近の日本のネグレクトは、奇妙に形式化され強迫神経症的になってきた「思い出づくり」症候群に似ている。もっとも、最先端はいつものようにアメリカなのだが。それでも欧米では原則的に様々な人々がそれぞれ違った生活様式で暮らしているので、「思い出」といっても話は個々人で当然違っており、全員が同じ体験を共有していなければ楽しくないということはあまりない。個々人それぞれがそれぞれの思い出を順番に語っていき、それぞれに違った体験に耳を傾けてひとときを過ごすスタイルが一般的である。むしろ瓜二つの同じような体験がそのまま「思い出」になってしまっているのはアルコールや薬物依存症者、DV被害者並びに加害者の会、レイプに伴うPTSD、犯罪被害者並びに加害者の会、など何らかの精神障害者の集まりで多く見られる傾向である。その意味では逆に健常者らの側が誰もかれも瓜二つの「思い出づくり」体験で盛り上がっている日本は世界でも珍しい北朝鮮にも似た転倒した社会だといえるかもしれない。

また自傷行為は、動物の場合、動物園や水族館ではしばしば見られる。顔面に裂傷の痕跡を残した象や擦り傷だらけで水槽の隅にうずくまっている魚はときどきいる。またペット産業の巨大化とともに犬や猫の自傷行為も増大した。

そしてもはやドラゴミラはどこにもいなくなったかのように見えはする。けれどもそれはただ単に自傷的殺戮の形式が無限に延長された諸商品の系列のように多様化し、ますます脱中心化してあちこちに散乱しているため、一見そう見えないというに過ぎない。

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森の精霊ドラゴミラ3

2020年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
ドラゴミラの考える苦しみの与え方を見るとそこに時間観念の重要性を垣間見ることができる。もっと大規模で華々しい刑罰が行われていた古代にはなかった感覚である。中世いっぱいを通して主にキリスト教世界の中で醸成された人間独特の苦しみに対する意識である。さらに近代の出現は銃器の出現と同時であり、銃器を用いてあっさり殺傷するよりも銃器を用いずにじわじわといたぶることに快感を覚えると言う。

「遠慮なく白状しますと、このような獲物の斃(たお)し方をする狩猟よりも狩り立て猟の方が、私にはおもしろいわ。何よりこうした猟はあっけなく終わってしまうんですもの。ずどんと一発、よくってもせいぜい刀でぐさり。それでおしまいです。でも狩り立て猟では、まず獣の居場所をつきとめ、逃げるのを追いかけ、最後に死に追いやる楽しみが味わえますわ。ーーー私は苦しみに耐えることもすばらしいと思っているのですよ、少なくともほかのものを苦しめるのとおなじくらいはね」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・14・P.413」中公文庫)

さらに他人を苦しめることと自分自身が苦しみに耐えることとの等価性に言及している点も見逃せない。マゾッホの同時代人ニーチェは刑罰の観念の根底には債権債務関係の意識が横たわっていると述べる。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

次の言葉は宗教者にはありがちな思考だが、通常はただ単に思考するだけのことであってむしろ日々の世俗的生活に忙しい。ところが異端者は異端であればあるほど徹底的に信仰生活の側へ急傾斜する。

「この悲惨と罪悪の世界を離れて光のなかへと昇って行くことに、私は憧れているのです」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・24・P.525」中公文庫)

個々人を越えた力で時々刻々と推し進められてくる近代化の波。近いうちに自分もその大波の中に飲み込まれてあっけなく消え失せてしまうことはドラゴミラ自身よく承知している。スラヴ地域の近代化はもはや近くの大都市キエフでは日常である。ところがなおキエフ近郊の村落共同体では古くからの信仰生活が息づいている。どちらがどのような滅び方をするか、もはや誰の目にも明らかだった。ドラゴミラらは農村の古さびた簡素な教会で最後の晩餐を催す。パンと葡萄酒が用意される。キリストの肉体とその血を喰らい尽くすのだ。

「新たに喇叭が吹き鳴らされたかと思うと、まるでバッコスの巫女やキュベレーの従者たちの一団が広間になだれ込んできたような情景になった。先頭には美しい娘たちが、金色のサンダルを履き、足首まである金色の縁取りの白い衣をまとい、肩と腕は露わにして、豊かな髪には花綱を巻きつけ、笛を吹きシンバルを叩きながら入ってきたのだ。つづいて第二の組は、肩に豹の毛皮をかけ、手に手に指揮棒のような金色の細い棒をもって、歌い踊りながらやって来た。そのあとには鞭打つ女たちがつづいていた。腕も足も露わで、黒い革を身にまとい、頭には獣の頭部を載せ、赤い絹の帯を締めて、鞭を振りまわしている。ついで生け贄を捧げる女たちが登場した。ーーー若く美しく妖しい魅力あるれるこれらの娘たちは、全員がそのほっそりとした見事な肢体を回転させてバッコスの巫女のように踊り、それと同時に血に飢えているような赤い唇から歓声が漏れ、大きな輝く瞳は残酷に笑っていた」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・24・P.527~528」中公文庫)

教会内にみなぎる狂気。しかし「鞭打つ女たち」が登場するようなこの種の儀式はヨーロッパでは特別珍しい狂信的なものとは見なされない。たとえばドイツの復活祭で「鞭打ち」の儀式が登場する。“Schmeckostern”(シュメックオステルン)と呼ばれているが、“Schmicke”は「鞭」を意味し、“Ostern”は「復活祭」を意味する。古代ギリシアでは神々自身が狂気を巻き起こす。アテナの場合。

「アテナ それはこのわたしがしたこと、破滅を喜ぶその思いを阻んだのは。容易に振り払うことのできない妄想をその眼に投げ込んで、羊の群れの方に、そしてまたまだ分配のすまぬままに番人たちが見張りをしている家畜の群れに向かうように、わたしが彼をそらせてしまったのです。するとあの男はその中に踊り込み、角もつ獣に斬りかかり、手当り次第に裂き殺す。しかもある時は、わが手に捕え殺したのは、獣ではなくアトレウスの子の二人の王であると信じ、またある時は他の将を襲って殺したつもりでいた。そこでこの狂気に苦しむ男を駆りたてて、わたしは運命の網の中に投げこんでいった。その後、この仕事にひと息ついたあとで、あの男はまた生き残った牛や羊を一匹残らずしばり合わせ、自分の家の方に連れて行く、それも自分では立派な角のある動物ではなく、人間を駆りたてているつもりで。そして今、家の中でこれらをしばったまま傷めつけているのです。さあお前にも、この狂乱の有様をはっきりと見せてあげよう。これを見てアルゴスの皆の人に告げるがよい。しっかりして、そのままじっとしていることです。この男からの危害をおそれることもない。わたしがその眼差をそらして、お前を見えないようにしてあげようから」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.12~13』ちくま文庫)

さらにディオニュソスの場合。

「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)

神への生贄の儀式を執り行うドラゴミラ。

「ようやく全員がそろった。その数二十一人であった。ドラゴミラは祭壇に上がり、神に向かって、慈悲をもって生け贄を受け入れてくださるようにと懇請した。それからヘンリカと二人で、生け贄のための刀をとり、死に捧げられた人々を片端から情け容赦なく屠っていった。ーーー空しく慈悲を求める人々、死の不安に震える人々を、ひとりずつつかまえ、祭壇の上に横たわらせる。するとそこには二人の女祭司が待ち構えていて、袖をたくし上げた露わな腕で刀を振り下ろすのであった。今や聞こえるものは苦痛にたえかねる人々、死んでいく人々の泣き声、溜め息、悲鳴ばかりとなって、それがいつ終わるともなくつづいた。そのうち不意に、生け贄を捧げる二人の女は一種の敬虔な憤怒に捉えられ、生温かい血を手からしたたらせながら、酔いしれたバッコスの巫女のように歓声を挙げ、残酷な歓喜のうちに笑い、抑制を忘れた狂気の賛美歌を歌いはじめた。二人は一種の血の陶酔の虜になっており、鼻翼は広がり、唇はぴくぴくと震え、殺戮の快楽に目はらんらんと輝いていた。二人のほてったからだを包んでいる猛獣の毛皮の匂いと混じった血の匂いが、そして古代ローマの闘技場の雰囲気が、二人を酔わせているようだった。二人は一瞬たりとも手を休めようとはせず、やがて最後の生け贄の息の根を止め、彼らのみが知り崇める怒りと復讐の神のために、この大殺戮を成就させた」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・26・P.544」中公文庫)

マゾッホは「この大殺戮」と書く。集められた二十一人が続々と処刑されていく血塗れの光景。しかし「たった二十一人でしかない」ということもロシアの代表的知識人の一人であるマゾッホにはよくわかっていた。作品の設定としては大袈裟な残忍さを精一杯演出させたわけだ。一方で血と快楽に陶酔する生贄の儀式は、他方でどこか冷淡で自動機械を思わせる処刑方法を取る。ドラゴミラの身振りは、一方で亡びゆく村落共同体の生々しい信仰生活を、他方で機械仕掛けの合理性に貫かれた資本主義的生産様式の両方を同時に照らし上げる映し鏡にほかならない。

「魂を漁る女」発表は一八八六年。その十五年前、フランスのパリ・コミューン軍事衝突でコミューン側の死者数は約三万人。それに比べてほとんど知られていないが同年ロシア軍は清朝に編入されていたイリ地方を軍事制圧。清朝は徐々に軍事的巻き返しを図り、結果的に古くから同地域の住民の多くを占めていたイスラム教徒は数千人の死者を出している。また一八七七年〜翌一八七八年に渡った露土(ロシア=トルコ)戦争でのロシア側死者数約二万人。また「魂を漁る女」発表の三年後にあたる一八八九年、ロシア皇帝アレクサンドル三世は地方部長制度を設立、中央政府が任命した貴族が地方部長となり全国各地の農民の裁判権や行政権を貴族に集中させ、翌年地方自治法改定により農民階級は地方議会議員選出のための直接選挙制を剥奪された。一八六一年から始まった農奴解放令と土地売買自由化は農民の小作農化・農業労働者化を押し進め、工業労働者の激増とともに一八九〇年代にかけて資本主義的大経営体制を加速させた。

生贄の歴史的資料について若干引いておこう。

「カフカス地方東部のアルバニア人は『月』の神殿に聖なる奴隷を数多く囲い、その中の多くの者が霊感を受けて予言を行った。ひとりがいつも以上に霊感の兆しを見せ、ちょうど密林を彷徨うゴンド族の男のように、森をひとりであちこちうろつきまわると、大祭司が彼を聖なる鎖で拘束し、一年間彼に贅沢な暮らしをさせる。一年が終わると彼は軟膏を塗られ、生贄として引き出される。そして、このような人間の生贄を殺すことが仕事となっている男、経験によってこれが手馴れたものとなっている男がひとり、群衆の中から進み出て、聖なる槍で生贄の脇腹を刺し、心臓を一突きにした。殺される男の倒れ方によって、国の繁栄の吉凶を占ったのである。その後遺体はある場所に埋められ、清めの儀式としてすべての人々がその上に立った。この最後の行為は明らかに、人々の罪がこの生贄に移し替えられたことを示している」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.256~257」ちくま学芸文庫)

極めてアニミズム的な色彩が見られる。生贄はただちにスケープゴートとして取り扱われている。

「害悪の一掃が定期的に行われるようになる場合、この儀式は概して一年に一度ということになり、それが行われる時期は通常、北極帯や温帯の地域では冬の終わり、熱帯地域では雨季の始まりか終わりといった、はっきりとした季節の変わり目になる。こういった天候の変化は、とくに食糧事情や衣料事情や住宅事情の悪い蛮族にとっては死亡率の上昇をもたらしがちであり、この事態を未開人は悪霊の仕業と考えることになる。ならば悪霊こそ追い払うべきものである。そこでニューブリテン島やペルーでは、悪魔は雨季に始まり追い出される。あるいはかつてはそうであった」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257~258」ちくま学芸文庫)

フレイザーは、ギニア、トンキン、ラサ、ホー族、イロクォイ族など、広く行われていたスケープゴートの登場する儀式に特有の「公的・定期的」性格について述べる。

「公的・定期的悪魔祓いは、一般に全住民の放埒三昧の期間に、先行もしくは後続する」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.258」ちくま学芸文庫)

スケープゴートの必要性並びに機能について。

「なぜ人々の罪や悲しみをその身に引き受ける者として死にゆく神が選ばれねばならなかったか、という疑問については、スケープゴートとして聖性を用いる慣習において、かつて明確に別個のものとしてあった二つの風習が、結びついてしまったという可能性を考えることができる。一方では、すでに見たように、人間もしくは動物の神を殺すという風習は、その聖なる命を年齢ゆえの衰弱から救うことが目的であった。一方で、これもすでに見たように、一年に一度罪や害悪を全面的に追放するという風習があった。そして、人々がたまたまこの二つの風習を結びつけてしまうと、死にゆく神をスケープゴートとして雇うという結果になる。これが殺されるのは、元来は罪を拭い去るためではなく、老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならないのだから、人々はこの機会に、罪や苦しみという自分たちの重荷を、いっそ彼に背負わせてしまおうと考えたのかもしれない。この男ならば、墓場を越えた見知らぬ世界まで、その重荷を運んで行ってくれそうだからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.260」ちくま学芸文庫)

古代ギリシアもまた文明化されてくると実際に生きている国王をスケープゴートとして殺害するわけにはいかなくなる。するとその代理として殺害される者は死刑囚の中から選ばれるようになった。死刑囚ほどの人間は人間でありながら同時に実在する「過剰=逸脱」の体現者として考えられたからだろう。

「聖なる存在をスケープゴートとして用いることは、以前述べた。『死神の追放』というヨーロッパの習俗にまつわる曖昧な部分を、消し去ってくれる。この儀式において『死神』と呼ばれるものが、本来は植物霊であったと考える根拠はすでに述べた。この植物霊は、再び若い活力を備えて蘇るようにと、毎年春に殺されたのだった。だが、すでに見たように、この仮説だけでは説明不可能なある種の特徴が、この儀式にはある。『死神』の像が運び出されて埋葬され、もしくは焼かれる際の、歓喜という特徴、そしてまたその担ぎ手たちが見せる、恐怖と憎悪という特徴である。だが、『死神』は単に植物の死にゆく神であるのみならず、同時に、過去一年の間に人々を苦しめた一切の害悪が負わせられる、公共のスケープゴートでもある、と考えれば、これらの特徴は即座に理解可能なものとなる。このような機会に歓喜が伴うのはもっともなことである。そして、死にゆく神が恐怖と憎悪の対象であるように見えたとしても、それは正確には神に対するものではなく、神が負わされている罪と不幸に対するものであって、その恐怖と憎悪は単に、荷を追う者とその荷を区別することが難しい、あるいは少なくとも、両者の違いをはっきりと目にすることが難しい、という原因によるものである。重荷が不吉な性格のものであれば、その担ぎ手は、それら危険物の特性をわが身に染み込ませているぶんだけ、恐れられ、また遠ざけられる。彼はたまたまその媒体となったに過ぎない。ーーーまた、これらの風習において、『死神』が聖なる植物霊を表すのみならずスケープゴートでもあるという見解は、この追放がつねに春に行われ、それもおもにスラヴ民族によって行われるという事実からも裏付けられる。スラヴの一年は春に始まるからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.261~262」ちくま学芸文庫)

全住民の放埒三昧の期間を含むギリシアの祭祀は中世に入ってもなおしばらくは開催されていたようだ。スラヴ地域もその色合いが濃かったわけだが、同時に信仰生活は日常生活の環境要因に根付いたものであり、そのぶん近代合理性と土着的で非合理的な要素の衝突は起こるべくして起こってきた。スケープゴートの風習は文明化後もギリシアでは長く続いた。

「ギリシアの植民地の中でもっとも賑やかで華やかな町マッサリア(マルセイユ)が疫病に襲われたときは、つねに貧民階級の男がひとり、スケープゴートとしてわが身を捧げた。彼はまる一年間公費で養われ、選り抜きの清い食事を与えられた。そして期限が来ると、神聖な衣装を着せられ、聖なる枝葉で飾られ、人民のすべての害悪がこの男の上に下るようにと祈りが唱えられるなか、町中を連れ回された。そしてこの町から追い出されたのである。アテナイ人はつねに大量の堕落した無用な人間たちを公費で養っていた。そして疫病や旱魃や飢饉といったなんらかの災難が町を襲うと、これらの浮浪者の中から二人をスケープゴートとして生贄に捧げた。ひとりは男たちのため、ひとりは女たちのために捧げられた。前者は首に黒いイチジクを通した紐を、後者は白いイチジクを通した紐を巻いた。ときには女たちのために殺される生贄が、女となることもあったらしい。生贄は町を連れ回された後に殺されるが、町の外で、石で殺されたように思われる」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.264~265」ちくま学芸文庫)

しかし一人の人間を神格化するために一年間も養うのは費用がかさんでくる。それを考えると古代の未開集落で行われていたシャーマニズムはもっと手っ取り早い方法だったかもしれない。孤立、苦行、追放、神格化といった一連の流れは歴史以前的社会から存在していた。

「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ「世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫)

こうした方法が世界各地に残っていたことは、すでに古代ギリシア神話の中に登場する最初期の神々が演じている様々な行為が実際にあったのであって、それに事後的な修正が加えられつつ、こんにちの祭祀の形で今なお反復されているということなのだろう。

とはいえ、エリアーデにしてもフレイザーにしてもその採集・報告の多様性にもかかわらず、取り扱われている資料はどれも皆あっさりしている。古代ギリシア=ローマ時代の「ディオニュソス祭=サトゥルヌナリア祭」は熱狂的祝祭の理想的モデルとして取り上げられているにせよ、十九世紀後半に突如発生しマゾッホが文学作品化した近代スラヴ地域異端信仰におけるドラゴミラの場合のような狂信的情念の躍動ではない。では一体それはいつどこで世界史の中へ入ってきたのか。第一にキリスト教の世界化が前提にある。第二に近代社会の成立=資本主義の世界化に伴って出現した点が上げられる。とりわけスラヴ地域で大量発生し絶え間ない宗教殺人が続出した。さらにマゾッホがモデルとしたガリーシャ地方(ウクライナからハンガリー東端部)の神秘主義教団の惨劇などは、第一と第二の条件にスラヴ地域古来の「森の聖霊信仰」という土着の宗教観が混交しつつもしかし、結果的に相容れることなく当事者たちはダブルバインド状況に叩き込まれたまま狂信化せざるを得ず、また国家自身がそのような状況を軍事的=警察的圧殺を用いてしか乗り越えることができなかった近代という痛ましい社会的過程の挫折の一つだったと考えることができるだろう。

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