シャルリュスは「無」について語るわけではなく「無とは何か」について語る。ずいぶん前に「ヴィルパリジ夫人の地位」について<暴露>するという悪趣味で応じた。しかし次の箇所でプルーストが述べるのは「ヴィルパリジ夫人の地位」はなぜ「後世には偉大なものに見える」のかという時間への問いである。
「そこで私は、ヴィルパリジ夫人の地位なるものは、後世には偉大なものに見えるが、いや無知な庶民にとっては公爵夫人の生前でさえ偉大なものに見えていたが、じつは対極の社交界にとっても、つまりヴィルパリジ夫人の関係するゲルマント家にとっても、やはり偉大なものであったことを悟った」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.236~237」岩波文庫 二〇一七年)
そのようなケースの<暴露>に当たってシャルリュスは得意の欺瞞を用いない。二種類の欺瞞について。
(1)「第一の理由は、ジュピアンよりもすぐへそを曲げがちなシャルリュス氏が、周囲の者にはなぜかわからないものの、友人として最もふさわしい人たちと仲違いすることだった。そんな人たちに科すことのできる最初の懲罰は、もちろんシャルリュス氏がヴェルデュラン家で催すパーティーにその人たちを招待させないことである。ところが往々にしてこの除外者は、最も高い地位を占めるとされる人たちで、とはいえシャルリュス氏からすれば仲違いした日からそうとはみなされなくなった連中なのだ。というのも氏の想像力は、仲違いをするためにその人たちの欠点を巧みに探したときと同様、友人でなくなっったとたんその連中からいっさいの重要性を巧みにはぎ取ってしまうからである。けしからん相手が極めつきの旧家の出身ではあるが、その公爵位はたとえばモンテスキウ家のように十九世紀からのものにすぎないとなると、たちまちシャルリュス氏にとって重要なのは公爵位の古さになり、家系それ自体は問題ではなくなる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.99~100」岩波文庫 二〇一七年)
(2)「これとは逆にシャルリュス氏の仲違いの相手が、古い公爵位をもつ貴族のひとりで、類を見ない立派な姻戚関係があり、さまざまな王家とも血のつながりがあっても、そのような栄華がとんとん拍子に転がりこんできたもので家系はさほど古くない場合、たとえば相手がリュイーヌ家の一員だった場合、すべては一変して、こんどは家系のみが重要となる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.100」岩波文庫 二〇一七年)
だからといって、シャルリュスが<猿芝居>の名人であることには何一つ影響しない。ニーチェのいう意味での「猿」を大勢の前で今なお演じて見せている人々のことだが。
「人間にとって猿(さる)とは何か。哄笑(こうしょう)の種(たね)、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量の虫がうごめいている。またかつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・P.16」中公文庫 一九七三年)
この種の「猿」は当時の比喩でいう「俳優」に通じる。
「俳優も精神のはたらきをもっている。しかしそれに伴う良心は、ほとんどもっていない。かれがつねに信ずるものは、人をして最も強く信じさせることに役立つものーーー《かれ自身》を信じさせることに役立つものである。明日、その俳優は新しい信仰をもつだろう。そして明後日は、いっそう新しい信仰を。かれがすばやい感覚をもっていることは、民衆と同じだ。そして変わりやすい天気のような気分をもっていることも。ショックを与えて驚かすことーーーかれにとっては、それが証明である。熱狂させることーーーかれにとっては、これが説得である。そしてかれにとって、血はあらゆる論拠のうちの最上のものである」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・市場の蠅・P.80」中公文庫 一九七三年)
読み違えた人々がいた。ファシズムを作り上げた人間たちとその系譜。
「進歩派の綱領が、その額面どおりのものは期していないのに対し、ファシストの綱領の中身はまったく空虚で、わずかに、もっといいものの代用品として、欺かれた者たちの絶望的努力をつうじて、辛うじて保持されうるにすぎない。ファシズムのスローガンの怖さは、まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞の怖さである」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・P.422~423」岩波文庫 二〇〇七年)
ホルクハイマー=アドルノのいう「まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞」。この事情は第二次世界大戦後へも受け継がれた。<現代の神話>という形で。
「今日において、神話とは何か?直ちに極めて簡単な答えを出そう。それは語源と完全に一致している。すなわち、《神話とは、ことばである》(『神話』という単語について千もの違う意味を挙げての反論があるに違いない。だがわたしは単語ではなく事柄を定義しようとしたのだ)。
もちろん、それはどんなことばでもいいというのではない。言語にとって神話になるためには特殊な条件が必要だ。そのことはすぐあとにわかる。だが最初から強く提示する必要があるのは、神話が伝達の体系であることだ。それは話しかけなのである。そのことによって、神話が、客体、概念または観念ではありえないのがわかる。それは意味作用の様式だ。一つの形式なのである。あとで、この形式に、歴史的限界、使用条件を課し、また、その中に、社会を再現することになろう。それだからといって、まず初めに、神話を形式として記述しなければならないのには、変わりがない。
神話の様々な対象のあいだに内容上の区別を立てようとするのが間違いであるのは明らかだ。というのは、神話はことばであり、話すことに属するものならすべてが神話でありうるからだ。神話は、その話しかけの対象によってではなく、それを表現するやり方によって、定義されるのだ。神話には形式的な限界があるが、内容的な限界はない。では、すべてが神話でありうるのか?そうだとわたしは思う。宇宙は無限に暗示的だからだ。世界のどの物体も閉ざされた沈黙の存在から、社会的馴化に開かれた言語的状態に移りうるのだ。というのは、いかなる法則も、自然のであれ人間のであれ、物事について話すのを禁じていないからだ。木は木である。たしかにそうだ。だがミヌウ・ドゥルエによっていわれた木はすでにもう完全な木ではない。それは飾られた木であり、或る種の消費に適応し、文学的楽しみ、反抗、映像を付与され、つまり、純粋な材質につけくわわる社会的《用途》を与えられているのだ」(バルト「神話作用・P.139~140」現代思潮社 一九六七年)
全体主義とも違いファシズムともまた違う政治形態が出現したこともあった。フーコーはいう。
「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・第五章・P.188~189」新潮社 一九八六年)
さらにこうも言える。
「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫 二〇一〇年)
そうなることが兆候として予告されていた時代はまだよかった。一旦停止することができた。「エポケー」と言っていい。一旦停止(エポケー)した人々はした。ところが、しない人々の側が多数派を占めた瞬間、何かが生じた。
(1)「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上・八二五・P.470」ちくま学芸文庫 一九九四年)
(2)「神は神学で窒息した。そして道徳は道徳性で窒息した」(ニーチェ「生成の無垢・下・九四八」ちくま学芸文庫 一九九四年)
あるいはもっと前。ヘーゲルは啓蒙の逆説について述べたが、一方、常に運動状態にある<啓蒙活動>を否定しているわけではまるでない。
「両者が本質的には同じものであり、純粋透見の信仰に対する関係も同じ場〔境位〕によって、同じ場〔境位〕において起る、というこの側面から言えば、透見の伝達は《直接的》なものであり、透見が与えたり受けとったりすることも、邪魔されずに流入し合うことになる。さらにそのほか、意識のなかにどんな杙(くい)が打ちこまれようとも、意識は《自体的》には単一なものであり、ここではすべてのものが解体され、忘れられ、拘束されないので、概念が端的に受けとられうるわけである。それゆえ純粋透見の伝達は、抵抗のない雰囲気のなかで、靄が静かに拡がり《流れて行く》のと比較できよう。この伝達は、伝染が侵入して行くようなもので、この無関心な場〔境位〕にこっそりと伝染して行っても、これまでは、反対のものだとは気づかれなかったので、防ぐこともできなかったのである。伝染が拡まったときになって初めて、それを気にも止めないで放っておいた《意識》は、それと《気がつく》ようになる。というのは、意識が自分に受けいれたものは、なるほどそれ自身でも意識にとっても、同一な単一なものであったけれども、同時に、自己に帰った《否定性》のもつ単一態であった。これは、後になると、その本性から言って、自分の反対としても展開し、そのため意識に、以前の姿を想い起させる。この単一態は、単一な知であるような概念であるが、この知は自己自身と自分の反対とを、同時に、知っている、けれどもこの反対が、自分のなかで廃棄されたものであることも、知っている。それゆえ、意識が純粋透見に気づいたときには、もう透見はひろまってしまっている。だから、透見と戦うことは、伝染がすでに起ってしまっていることを、もらしていることになる。戦いは遅すぎるのだ。どんな薬もこの病気を悪くするだけである。というのも、この病気は、精神的生命の骨の髄を、つまりその概念における意識を、その純粋本質そのものを、犯してしまっているからである。だからまた意識には、病気に打ち克つ力が何もないわけである。病気は、本質自身のなかに在るのだから、病気が一つ一つばらばらに現われてくるのは、圧えられるし、表に出た徴候はぼかされもする。これは、純粋透見から見れば一番都合のいいことである。なぜならば、そのとき透見は、必要もないのに力を浪費するわけでもないし、自分の本質にふさわしくない態度を、とることもないからである。つまりそれは、透見が徴候の形で、個々の発疹の形で、信仰の内容にさからい、信仰の外面的現実の連関にさからって、噴き出てくる場合のことである。ところが、透見は、眼には見えないし、気もつかれない精神であるから、意識されていない偶像の急所、急所をことごとくそっと通りぬけ、やがて内蔵や四肢のどれもこれもを、すっかり占領してしまう。そして『《ある晴れた朝》、透見はその仲間を肱でおしのける、するとがらがらと音をたてて、偶像は地に倒れてしまう』。ーーー《よく晴れた朝》というのは、昼になれば、伝染が精神的生命の全器官にしみ通ってしまうので、血は流れないからである。そのときには、思い出だけが、どういうふうにしてかはわからないが、消え去った歴史として、精神のかつての形態の、死んでしまった姿を、記憶に止めるわけである。こういうふうに、皺のよった皮を、痛みを感じもしないでぬぎ捨てて、知恵の蛇が新しい崇拝の対象に昇せられることになる。
だがこうして精神は、その実体の単一な内面において、その活動を隠したままで、沈黙のうちに機(はた)を織り続けるが、これは、純粋透見を実現する一つの側面にすぎないのである。透見の普及は、等しいものが等しいものと一緒になる点にだけ、在るのではない。それを実現することは、ただ単に対立もなしに拡げて行くことだけではない。そうではなく、否定的存在の行為も、やはり本質的には、自らのなかで自分を区別する運動が、展開したものであり、この運動は、意識的な行為であるから、そのいくつかの契機を、あらわれた一定の定在の形で掲げ、かしましい音をたて、対立したものそのものと、暴力的な戦いを挑まざるをえないのである。
それゆえ、《純粋透見》と《意図》とが、自分の前にあって自分に対立する他者に対し、どういう《否定的な》態度をとるかを、見なければならない。ーーーだが純粋透見と意図は、その概念が全実在であり、その外には何もないのであるから、否定的な態度をとるにしても、自己自身を否定するものでしかありえない。だからそれは透見として、純粋透見を否定するものとなる。純粋透見は非真理となり非理性となる。透見が意図となるときには、純粋意図を否定することになり、いつわりとなり、不純な目的となるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.133~136」平凡社ライブラリー 一九九七年)
回り道を経てきた。再び、なぜ「後世には偉大なものに見える」のか。シャルリュスは自分で言っている。
「『おわかりですか』と氏はことばをついだ、『あの手合いがまず手をつけたのは、ル・ノートルの庭園の破壊です。プッサンの画をひき裂くにも等しい犯罪行為じゃありませんか。これだけでも、あのイスラエル一族は監獄にぶちこまれて然るべきでしょう』。シャルリュス氏は、しばし口をつぐむと、にやりとしてつけ加えた、『じつのところ、連中が牢屋入りとなるべき原因はほかにいくらでもあるんです!いずれにしてもあの建物の前にイギリス式庭園をつくったりすればどんな結果になるかは皆さんにもおわかりでしょう』。『でもあのお屋敷はプチ・トリアノンと同じ様式ですよ』とヴィルパリジ夫人は言った、『マリー・アントワネットだってそこにイギリス式庭園をつくらせましたわ』。『それがガブリエル設計のファサードの美観をそこねているのです』とシャルリュス氏は答えた、『もちろん今じゃル・アモーを壊そうとすれば野蛮な行為とみなされるでしょう。しかしこんにちの風潮がどうであれ、こんなイスラエル夫人の気まぐれが<王妃>の想い出の庭園と同じ威光をまとうとは思えません』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.273~275」岩波文庫 二〇一二年)
ヘーゲルをドゥルーズ=ガタリたちと一緒に述べるのは乱暴なのだろうか。そんなことは全然ない。<リゾーム=世界>と化し、いつも現在進行形としてしか語ることが許されない窮屈な世界。意味不明な情報が飛び交い呼び合い呼び集め合わずにはいられない過剰接続の世界。混み入りすぎていて困り果てさせる。エウリピデスのギリシア悲劇「メデイア」のように今や「自称-メディア」はどこの誰を指し示しているのかさっぱりなのだが、ともかく、かたくなに挑発的な<大文字言語>をこれでもかと連発することでますます暴力的になり、なおかつ殺人的言葉遣いの乱用によって、とてもではないが「マス-コミ」とはまるで無関係な市民を自殺へ自殺へ追い込み過ぎではないかという不穏な憂いを感じる。というのにまだ血に飢えているらしい。大多数の人々にとってみれば「巻き込まれるのはごめんだ」と思っているに違いない。外出してみると大変多くの人々が自分の時間の大切さに気づいている手ごたえを感じる。
何がなんだかもう「マス-コミ」内部の人間については余りにも気の毒で仕方がない。憐憫さえ感じさせる。だから何年も前から新聞へ回帰して久しい。そもそも八十歳を越えた高齢者のために購読し出したのだが、とりわけ文化面とか地域情報とかは落ち着いて読むことができるし切り抜きもできるので体のためにも遥かにいい。