白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて221

2023年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。風はとても穏やかでした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“月”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

 

午後四時を回りました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

午後四時五十分頃。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

日の入のようです。

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

 

何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“日の入”」(2023.1.31)

 

「名称:“荻”」(2023.1.31)

 

二〇二三年一月三十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・<私>にとっての<未知の地帯>/逆説災害で溺死しないために

2023年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

ソドム(男性同性愛)の住人として社交界に知れ渡っているシャルリュス。しかし知られていない身振りをどこまでも貫き通す。しかしその言葉はいつもシャルリュス特有の嘘として、発言されるやすぐさま逆方向へ作用する。次もそうだ。

 

「『とんでもない!それが目的で友だちになってるわけじゃありませんぞ!そのうちのふたりの男は完全に女相手、もうひとりはまあその口だが、その男もリーダー格の友人については確信が持てないんです、いずれにせよふたりの男はたがいに隠しあっていますから。こう言うと驚かれるでしょうが、そうした不当な評判にかぎって、一般の人の目にはいちばん確かなものに見えるんです。ねえ、ブリショ、あなた自身が、このサロンに出入りするだれかれを悪癖とは無縁の男だと天地神明にかけて誓ったとしても、事情通にはその男は間違いなくそれと知られている場合もあれば、また大衆のあいだではその趣味の持主として通っているさる有名人についての悪評を、あなたもきっと世間の人と同じように信用なさるだろうが、あにはからんや二スーごときでそんなことなどありえない。私が二スーごときでと言うのは、もし二十五ルイも出せば、かわいい聖人の数はほとんど減ってゼロになりかねんからだ。そんな事情でなければ聖人の割合は、そんなことで聖人と言えるとしての話だが、まあ一般的に十人に三人か四人というのが相場でしょう』。ブリショは話題になった悪評を男性に当てはめたのであるが、私のほうはアルベルチーヌを想いうかべながら、このシャルリュス氏のことばを逆に女性に当てはめた。私は氏の挙げた統計に唖然とした」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.245~246」岩波文庫 二〇一七年)

 

この種の「悪評」は限度を知らない。といっても、<私>はアルベルチーヌを念頭に置いている。ゆえに一度、ソドムに関する言葉の連結を、ゴモラ(女性同性愛)の世界、<私>にとっては<未知の地帯>へ置き換えてみて始めて戦慄する。記号論的コノテーションはたちまち<私>を高速記録機械へ変える。その記録はすべて読者へ提供される。読者は提供された種々の情報をゆっくり味わうための時間へ取り組む。シャルシュスが懇切丁寧に犯してしまう言説の逆説についてはもう与えられている。

 

「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

 

前回、「ことばのひとつひとつ」が<力>として作用しないわけにはいかない、と述べたのもそういうことだ。極めて繊細慎重な手つきで取り扱わないと、ともすれば発作的に<現代の神話>が捏造される。「ユリイカ」二月号で赤坂憲雄は書いている。「食べない女の神話学よ、さらば」『ユリイカ・2023・02・P.31』(青土社 二〇二三年)。

 

特集は「エゴン・シーレ」。プルーストが絵画や音楽の言語への<翻訳>を試みたように、ここではシーレの絵画について批評という形態を取りつつ言語への様々な<翻訳>が置かれている。例えば村山悟朗の場合、何げなくベイトソンを引きつつ、というふうに。

 

「二匹の犬が近寄って、『闘わない』というメッセージを交換する必要にせまられたとする。ところが、イコンによって『闘い』に言及するには、牙を見せるほかない。このとき彼らは、提示された『闘い』が単に《模索》段階のものであることを了解する必要がある。そこで彼らは、牙を見せられたことの意味を探っていくことを始める。一応けんかを始めてみて、その上でどちらも相手を殺傷する意志のないことを知り、その後に、親しくなるのであれば親しくなるというやり方である」(ベイトソン「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」『精神の生態学・・P.215』新思索社 二〇〇〇年)

 

逆に動植物の知恵一つ持とうとしないような人間。ニーチェのいう「猿」。人間自身を映し出す鏡として機能する「猿」とその<猿芝居>。<現代の神話>をばんばん捏造しまくって恥一つ感じていないその種の人間。赤坂憲雄は「神話学」の中でバルトを引用しているが、引用するだけして、いらなくなればもう捨てる。それはそれでいい。だがニーチェのいう「猿-人間」という皮肉に満ちた問いはすっかり残ったままだ。バルトはこうもいう。

 

「砂糖は単に一個の、それも普及した食品というだけではない。それは、いわば一つの《態度》であって、もはや食品だけに関するのでない種々の慣用や《儀礼》と結びついているーーー。アルコールがない代わりに甘い飲み物がふんだんにある《ミルク・バー》へ規則的に通うことは、砂糖を消費するというだけでなく、砂糖を通じて一日を、休息を、旅を、余暇を、おそらく多くのアメリカ人が従っているあるやり方で生きることでもあるのだ。フランスでは、ぶどう酒はぶどう酒にすぎない、などと誰が主張できよう?砂糖にしろ、ぶどう酒にしろ、こうした過剰な物質は、また、制度でもあるのだ」(バルト「現代における食品摂取の社会心理学のために」『物語の構造分析・P.108』みすず書房 一九七九年)

 

<制度の力>を暴力的に流通させる。意図的にリークし垂れ流し流用し転用し借用し二重三重に<制度化>させてしまう。「それは、いわば一つの《態度》であって、もはや食品だけに関するのでない種々の慣用や《儀礼》と結びついている」。

 

なかでも「種々の慣用や《儀礼》と結びつ」くことの危険性。「カルト」同様、周辺に与える暴力的作用は余りにも巨大である。<日本語を用いるとはどういうことか>という困難な問いに取り組んだ作家の名を思い出さずにはいられない。単行本出版から今年の七月で十一年を迎える。

 

「電話の向こうの人が、なんと言ったか、今の私は知っている。おそらくは“People”とくり返したと。教えてくれたのは、こんな電話があったことを告げたときの、母だった。その自分、母はたしか、結婚前に勤めていたアメリカ大使館の仕事の手伝いをしていた。受話器の向こうで外国語を話した女性が誰だったか知らない。彼女がなぜ、どういう脈略で『人びと』などと繰り返したのかは知らない。母にもわからない。だけれどそのとき、昔の体の中にいた私の意識に、知らない響きが実体を持った。響きには意味がある。言葉が私の中に受肉された。『ピーポゥ』は、たくさんの『小さな人びと』となって、私の中に住み着いた」(赤坂真理「東京プリズン・第一章・P.12〜13」河出文庫 二〇一四年)

 

昨今「東京裁判」とか「戦争責任」とかいう言葉ばかりが濫用されてしまって内容の空虚さがますます増していく世相の中で、それでもなお赤坂真理「東京プリズン」は東日本大震災をも含め、改めて言葉と信仰とについて向き合う大切さが一体どれほど実り多いものをもたらすか、繰り返し問い直せるような形へ、小説の可能性を大いに拡張してみせた。例えば「明治維新」の「維新」という漢字がもたらす言語トリックあるいはブラックボックスにすっかり惑わされはめられた日本人という立場。だからといって英語は優れているといえるのか。まるでそうではない。そう言ってしまえば問いをますます混乱させるだけ。そうではなく<他者>という場所の重要性へ読者の力を向け換える。それは差し当たり、或る言語体系と別の言語体系との間に置かれて始めて可視化される。

 

「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)

 

もっとも、読んでみると「本格ミステリ」という形式を借りてなら、カント経由で、誰か書くことができる内容ではあるのかも知れない。だがあえてそうしないという態度はたいしたものだと刊行当時すぐ感じた。かつて批評される側だった赤坂は今や批評する側を兼ねてもいるーーー。

 


Blog21・プルーストの十八番/瞬発的場所移動とともに新たに切り開かれる新空間

2023年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

ヴァントゥイユ嬢とその女友だちとに関する「評判」がシャルリュスの口から漏れる。シャルリュスはソドム(男性同性愛)一点張りの単純な人間。「評判」という言葉を武器に置き換えて大いになおかつ華々しく皮肉りまわし語り上げる。その「ことば」が<私>を不意打ち起動させる。記号論的日常風景が開かれる。

 

「『あのとんでもない評判のふたりが来るかどうかを教えてもらえるというわけですかな?あなたもご存でしょう、あれが周知の事実であることぐらい。あんなふたりを出入りさせているのは、ヴェルデュラン夫人の心得違いですな。なにしろいかがわしい場所にふさわしい手合いですからね。ふたりが親しくつき合ってるのはなんとも恐ろしい一味ですよ、身の毛もよだつ場所にたむろしている』。こうしたことばのひとつひとつに、私の苦しみは新たな苦痛をかき立てられて増大し、形を変えた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.241」岩波文庫 二〇一七年)

 

プルーストの十八番。「こうしたことばのひとつひとつに、私の苦しみは新たな苦痛をかき立てられて増大し、形を変えた」。瞬発的場所移動とともに新たに切り開かれる新空間。作品はずっと前からこのような<接続・解体>を繰り返してきた。これからも繰り返していく。もっとも始めは<諸断片>の残骸ばかりだったがゆえ、ようやく可能になった作業ではあるのだろう。

 

問題は「ことばのひとつひとつ」が<力>として作用しないわけにはいかない点。「言葉の暴力」へ着目するプルーストの態度は目を見張らせるものがある。だからといって、どんな言葉もなしにでは、人間社会は何一つやって行けない。貨幣にしても、それが貨幣言語として流通している限りで、三百円なら三百円の諸商品と交換可能であると保証されていてなおかつ実際に買われた瞬間、始めて価値を持つ。<契約>がものを言うのだ。

 

これまでにも現金「ばらまき」という言葉が流通してきた。特に選挙とか五輪とかを筆頭にビッグ・イベントを巡る汚職事件はどこの国でも数限りなくある。五輪の場合、胃もたれするほどあったし、閉幕の余韻鳴り止まぬ東京五輪に関する洗い直しは今なお続行中らしい。

 

選挙でも五輪でも<貨幣/言語>のレベルへ棚おろししてみれば、両者ともに共通して言えることがある。<貨幣/言語>というものは、それを受け取った人々を脅迫する機能を兼ね備えている点で共通している。「受け取っただろう。では<黙秘せよ>」というふうに。あるいは使い込んだ人々の場合。指摘されるや仕方なく慌てて自腹で「返した」としても、その使い込み先はすでに受け取った後なのであって、それがどこかわからないが、例えばその人物が関係する土地への箱物誘致へどっさり手渡された可能性は十分考えられる。むしろ核爆並みの破壊力で一気に浸透するだろう。「口封じ」とかいうレベルでは到底考えられない巨大な地平と射程とを手に入れ、それこそ「恫喝」としか言いようのない泥沼へ手を突っ込んでぐちゃぐちゃ掻き回しても平気な人間。人間的な、余りに人間的な。そこで「猿」とは何かという問いに行き当たる。

 

「人間にとって猿(さる)とは何か。哄笑(こうしょう)の種(たね)、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量の虫がうごめいている。またかつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・P.16」中公文庫 一九七三年)

 

人数にすればなるほど少ない。けれども逆に、高性能動画放送を通して、どこからどう見てもお笑い顔負けの<猿芝居>を演じ続けていかなければもう退路がなくなったのだろうとしか見えない人々。俳優顔負けの<猿芝居>が可能な、或る種の正社員のそのまたほんの一部。<見ざる・聞かざる・言わざる・逃げざる>という態度を貫徹できるに違いないと世界中から見なされ、口約束ばかりであっても、ともかく、保証さえされている人々。<置き換え>という作業はもっとかなり難儀なものだろうと思われるわけだが。もっとも、フーコー、ドゥルーズ、ジジェク辺りの世界的著名人もどこかで躓いていて、その躓きは不可避的躓きでありなおかつ彼ら自身承知の上で語っているため、読者はいつも許しを与える態度でのぞむ。単純な話、その分野は一定程度「フィクション」で成り立っているので。

 

「それで私は、ときにアルベルチーヌがもう我慢できないとばかりにいらいらした仕草をして、ただしそれをすぐに押し殺してしまうことを不意に想い出し、さては私と別れる計画を立てているのではないかと考え背筋が凍りついた。そんな疑念が残るからには、私が平静をとり戻すまではなおのことアルベルチーヌとの同居をつづける必要があると感じられた」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.241」岩波文庫 二〇一七年)

 

報告者<私>。文字通り<幽閉>はますます強固に引き延ばされていくらしい。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて220

2023年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は曇り。湿度は6時で85パーセントの予想。湖東方面も曇り。鈴鹿峠は雪のようです。

 

午前六時三十分頃に湖畔へ出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2023.1.31)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2023.1.31)

 

二〇二三年一月三十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。また、散歩中に出会う方々には大変感謝している次第です。ありがとうございます。

 


Blog21・シャルリュスは知っていた時間トリック/並走するギリシア悲劇「メデイア」

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

シャルリュスは「無」について語るわけではなく「無とは何か」について語る。ずいぶん前に「ヴィルパリジ夫人の地位」について<暴露>するという悪趣味で応じた。しかし次の箇所でプルーストが述べるのは「ヴィルパリジ夫人の地位」はなぜ「後世には偉大なものに見える」のかという時間への問いである。

 

「そこで私は、ヴィルパリジ夫人の地位なるものは、後世には偉大なものに見えるが、いや無知な庶民にとっては公爵夫人の生前でさえ偉大なものに見えていたが、じつは対極の社交界にとっても、つまりヴィルパリジ夫人の関係するゲルマント家にとっても、やはり偉大なものであったことを悟った」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.236~237」岩波文庫 二〇一七年)

 

そのようなケースの<暴露>に当たってシャルリュスは得意の欺瞞を用いない。二種類の欺瞞について。

 

(1)「第一の理由は、ジュピアンよりもすぐへそを曲げがちなシャルリュス氏が、周囲の者にはなぜかわからないものの、友人として最もふさわしい人たちと仲違いすることだった。そんな人たちに科すことのできる最初の懲罰は、もちろんシャルリュス氏がヴェルデュラン家で催すパーティーにその人たちを招待させないことである。ところが往々にしてこの除外者は、最も高い地位を占めるとされる人たちで、とはいえシャルリュス氏からすれば仲違いした日からそうとはみなされなくなった連中なのだ。というのも氏の想像力は、仲違いをするためにその人たちの欠点を巧みに探したときと同様、友人でなくなっったとたんその連中からいっさいの重要性を巧みにはぎ取ってしまうからである。けしからん相手が極めつきの旧家の出身ではあるが、その公爵位はたとえばモンテスキウ家のように十九世紀からのものにすぎないとなると、たちまちシャルリュス氏にとって重要なのは公爵位の古さになり、家系それ自体は問題ではなくなる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.99~100」岩波文庫 二〇一七年)

 

(2)「これとは逆にシャルリュス氏の仲違いの相手が、古い公爵位をもつ貴族のひとりで、類を見ない立派な姻戚関係があり、さまざまな王家とも血のつながりがあっても、そのような栄華がとんとん拍子に転がりこんできたもので家系はさほど古くない場合、たとえば相手がリュイーヌ家の一員だった場合、すべては一変して、こんどは家系のみが重要となる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.100」岩波文庫 二〇一七年)

 

だからといって、シャルリュスが<猿芝居>の名人であることには何一つ影響しない。ニーチェのいう意味での「猿」を大勢の前で今なお演じて見せている人々のことだが。

 

「人間にとって猿(さる)とは何か。哄笑(こうしょう)の種(たね)、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。あなたがたは虫から人間への道をたどってきた。だがあなたがたの内部にはまだ多量の虫がうごめいている。またかつてあなたがたは猿であった。しかも、いまも人間は、どんな猿にくらべてもそれ以上に猿である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・P.16」中公文庫 一九七三年)

 

この種の「猿」は当時の比喩でいう「俳優」に通じる。

 

「俳優も精神のはたらきをもっている。しかしそれに伴う良心は、ほとんどもっていない。かれがつねに信ずるものは、人をして最も強く信じさせることに役立つものーーー《かれ自身》を信じさせることに役立つものである。明日、その俳優は新しい信仰をもつだろう。そして明後日は、いっそう新しい信仰を。かれがすばやい感覚をもっていることは、民衆と同じだ。そして変わりやすい天気のような気分をもっていることも。ショックを与えて驚かすことーーーかれにとっては、それが証明である。熱狂させることーーーかれにとっては、これが説得である。そしてかれにとって、血はあらゆる論拠のうちの最上のものである」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・市場の蠅・P.80」中公文庫 一九七三年)

 

読み違えた人々がいた。ファシズムを作り上げた人間たちとその系譜。

 

「進歩派の綱領が、その額面どおりのものは期していないのに対し、ファシストの綱領の中身はまったく空虚で、わずかに、もっといいものの代用品として、欺かれた者たちの絶望的努力をつうじて、辛うじて保持されうるにすぎない。ファシズムのスローガンの怖さは、まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞の怖さである」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・P.422~423」岩波文庫 二〇〇七年)

 

ホルクハイマー=アドルノのいう「まやかしであることが歴然としているのに、なおかつ存続し続ける欺瞞」。この事情は第二次世界大戦後へも受け継がれた。<現代の神話>という形で。

 

「今日において、神話とは何か?直ちに極めて簡単な答えを出そう。それは語源と完全に一致している。すなわち、《神話とは、ことばである》(『神話』という単語について千もの違う意味を挙げての反論があるに違いない。だがわたしは単語ではなく事柄を定義しようとしたのだ)。

 

もちろん、それはどんなことばでもいいというのではない。言語にとって神話になるためには特殊な条件が必要だ。そのことはすぐあとにわかる。だが最初から強く提示する必要があるのは、神話が伝達の体系であることだ。それは話しかけなのである。そのことによって、神話が、客体、概念または観念ではありえないのがわかる。それは意味作用の様式だ。一つの形式なのである。あとで、この形式に、歴史的限界、使用条件を課し、また、その中に、社会を再現することになろう。それだからといって、まず初めに、神話を形式として記述しなければならないのには、変わりがない。

 

神話の様々な対象のあいだに内容上の区別を立てようとするのが間違いであるのは明らかだ。というのは、神話はことばであり、話すことに属するものならすべてが神話でありうるからだ。神話は、その話しかけの対象によってではなく、それを表現するやり方によって、定義されるのだ。神話には形式的な限界があるが、内容的な限界はない。では、すべてが神話でありうるのか?そうだとわたしは思う。宇宙は無限に暗示的だからだ。世界のどの物体も閉ざされた沈黙の存在から、社会的馴化に開かれた言語的状態に移りうるのだ。というのは、いかなる法則も、自然のであれ人間のであれ、物事について話すのを禁じていないからだ。木は木である。たしかにそうだ。だがミヌウ・ドゥルエによっていわれた木はすでにもう完全な木ではない。それは飾られた木であり、或る種の消費に適応し、文学的楽しみ、反抗、映像を付与され、つまり、純粋な材質につけくわわる社会的《用途》を与えられているのだ」(バルト「神話作用・P.139~140」現代思潮社 一九六七年)

 

全体主義とも違いファシズムともまた違う政治形態が出現したこともあった。フーコーはいう。

 

「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・第五章・P.188~189」新潮社 一九八六年)

 

さらにこうも言える。

 

「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫 二〇一〇年)

 

そうなることが兆候として予告されていた時代はまだよかった。一旦停止することができた。「エポケー」と言っていい。一旦停止(エポケー)した人々はした。ところが、しない人々の側が多数派を占めた瞬間、何かが生じた。

 

(1)「百人がいっしょにいると、各人はおのれの悟性を失って、或る別の悟性を手に入れる」(ニーチェ「生成の無垢・上・八二五・P.470」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「神は神学で窒息した。そして道徳は道徳性で窒息した」(ニーチェ「生成の無垢・下・九四八」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

あるいはもっと前。ヘーゲルは啓蒙の逆説について述べたが、一方、常に運動状態にある<啓蒙活動>を否定しているわけではまるでない。

 

「両者が本質的には同じものであり、純粋透見の信仰に対する関係も同じ場〔境位〕によって、同じ場〔境位〕において起る、というこの側面から言えば、透見の伝達は《直接的》なものであり、透見が与えたり受けとったりすることも、邪魔されずに流入し合うことになる。さらにそのほか、意識のなかにどんな杙(くい)が打ちこまれようとも、意識は《自体的》には単一なものであり、ここではすべてのものが解体され、忘れられ、拘束されないので、概念が端的に受けとられうるわけである。それゆえ純粋透見の伝達は、抵抗のない雰囲気のなかで、靄が静かに拡がり《流れて行く》のと比較できよう。この伝達は、伝染が侵入して行くようなもので、この無関心な場〔境位〕にこっそりと伝染して行っても、これまでは、反対のものだとは気づかれなかったので、防ぐこともできなかったのである。伝染が拡まったときになって初めて、それを気にも止めないで放っておいた《意識》は、それと《気がつく》ようになる。というのは、意識が自分に受けいれたものは、なるほどそれ自身でも意識にとっても、同一な単一なものであったけれども、同時に、自己に帰った《否定性》のもつ単一態であった。これは、後になると、その本性から言って、自分の反対としても展開し、そのため意識に、以前の姿を想い起させる。この単一態は、単一な知であるような概念であるが、この知は自己自身と自分の反対とを、同時に、知っている、けれどもこの反対が、自分のなかで廃棄されたものであることも、知っている。それゆえ、意識が純粋透見に気づいたときには、もう透見はひろまってしまっている。だから、透見と戦うことは、伝染がすでに起ってしまっていることを、もらしていることになる。戦いは遅すぎるのだ。どんな薬もこの病気を悪くするだけである。というのも、この病気は、精神的生命の骨の髄を、つまりその概念における意識を、その純粋本質そのものを、犯してしまっているからである。だからまた意識には、病気に打ち克つ力が何もないわけである。病気は、本質自身のなかに在るのだから、病気が一つ一つばらばらに現われてくるのは、圧えられるし、表に出た徴候はぼかされもする。これは、純粋透見から見れば一番都合のいいことである。なぜならば、そのとき透見は、必要もないのに力を浪費するわけでもないし、自分の本質にふさわしくない態度を、とることもないからである。つまりそれは、透見が徴候の形で、個々の発疹の形で、信仰の内容にさからい、信仰の外面的現実の連関にさからって、噴き出てくる場合のことである。ところが、透見は、眼には見えないし、気もつかれない精神であるから、意識されていない偶像の急所、急所をことごとくそっと通りぬけ、やがて内蔵や四肢のどれもこれもを、すっかり占領してしまう。そして『《ある晴れた朝》、透見はその仲間を肱でおしのける、するとがらがらと音をたてて、偶像は地に倒れてしまう』。ーーー《よく晴れた朝》というのは、昼になれば、伝染が精神的生命の全器官にしみ通ってしまうので、血は流れないからである。そのときには、思い出だけが、どういうふうにしてかはわからないが、消え去った歴史として、精神のかつての形態の、死んでしまった姿を、記憶に止めるわけである。こういうふうに、皺のよった皮を、痛みを感じもしないでぬぎ捨てて、知恵の蛇が新しい崇拝の対象に昇せられることになる。

 

だがこうして精神は、その実体の単一な内面において、その活動を隠したままで、沈黙のうちに機(はた)を織り続けるが、これは、純粋透見を実現する一つの側面にすぎないのである。透見の普及は、等しいものが等しいものと一緒になる点にだけ、在るのではない。それを実現することは、ただ単に対立もなしに拡げて行くことだけではない。そうではなく、否定的存在の行為も、やはり本質的には、自らのなかで自分を区別する運動が、展開したものであり、この運動は、意識的な行為であるから、そのいくつかの契機を、あらわれた一定の定在の形で掲げ、かしましい音をたて、対立したものそのものと、暴力的な戦いを挑まざるをえないのである。

 

それゆえ、《純粋透見》と《意図》とが、自分の前にあって自分に対立する他者に対し、どういう《否定的な》態度をとるかを、見なければならない。ーーーだが純粋透見と意図は、その概念が全実在であり、その外には何もないのであるから、否定的な態度をとるにしても、自己自身を否定するものでしかありえない。だからそれは透見として、純粋透見を否定するものとなる。純粋透見は非真理となり非理性となる。透見が意図となるときには、純粋意図を否定することになり、いつわりとなり、不純な目的となるわけである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.133~136」平凡社ライブラリー 一九九七年)

 

回り道を経てきた。再び、なぜ「後世には偉大なものに見える」のか。シャルリュスは自分で言っている。

 

「『おわかりですか』と氏はことばをついだ、『あの手合いがまず手をつけたのは、ル・ノートルの庭園の破壊です。プッサンの画をひき裂くにも等しい犯罪行為じゃありませんか。これだけでも、あのイスラエル一族は監獄にぶちこまれて然るべきでしょう』。シャルリュス氏は、しばし口をつぐむと、にやりとしてつけ加えた、『じつのところ、連中が牢屋入りとなるべき原因はほかにいくらでもあるんです!いずれにしてもあの建物の前にイギリス式庭園をつくったりすればどんな結果になるかは皆さんにもおわかりでしょう』。『でもあのお屋敷はプチ・トリアノンと同じ様式ですよ』とヴィルパリジ夫人は言った、『マリー・アントワネットだってそこにイギリス式庭園をつくらせましたわ』。『それがガブリエル設計のファサードの美観をそこねているのです』とシャルリュス氏は答えた、『もちろん今じゃル・アモーを壊そうとすれば野蛮な行為とみなされるでしょう。しかしこんにちの風潮がどうであれ、こんなイスラエル夫人の気まぐれが<王妃>の想い出の庭園と同じ威光をまとうとは思えません』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.273~275」岩波文庫 二〇一二年)

 

ヘーゲルをドゥルーズ=ガタリたちと一緒に述べるのは乱暴なのだろうか。そんなことは全然ない。<リゾーム=世界>と化し、いつも現在進行形としてしか語ることが許されない窮屈な世界。意味不明な情報が飛び交い呼び合い呼び集め合わずにはいられない過剰接続の世界。混み入りすぎていて困り果てさせる。エウリピデスのギリシア悲劇「メデイア」のように今や「自称-メディア」はどこの誰を指し示しているのかさっぱりなのだが、ともかく、かたくなに挑発的な<大文字言語>をこれでもかと連発することでますます暴力的になり、なおかつ殺人的言葉遣いの乱用によって、とてもではないが「マス-コミ」とはまるで無関係な市民を自殺へ自殺へ追い込み過ぎではないかという不穏な憂いを感じる。というのにまだ血に飢えているらしい。大多数の人々にとってみれば「巻き込まれるのはごめんだ」と思っているに違いない。外出してみると大変多くの人々が自分の時間の大切さに気づいている手ごたえを感じる。

 

何がなんだかもう「マス-コミ」内部の人間については余りにも気の毒で仕方がない。憐憫さえ感じさせる。だから何年も前から新聞へ回帰して久しい。そもそも八十歳を越えた高齢者のために購読し出したのだが、とりわけ文化面とか地域情報とかは落ち着いて読むことができるし切り抜きもできるので体のためにも遥かにいい。