白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「波」/融合する身体7

2019年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ルイスはおもう。「霊魂」すなわち「欲望する種々の流れ」を「肉体から離し、休むところもなく野原の上を走っている」わけだがそのとき周囲の風景は「夢のようでぼんやりしている」と。

「『こうして霊魂を肉体から離し、休むところもなく野原の上を走っているとーーー(川がある、男が魚を釣っている。尖塔がある、村道があって弓形の窓をした宿屋がある)みんな僕には夢のようでぼんやりしている。こうした苦々しい数々の思い、この羨み、この辛酸、こうしたものが僕の心に休みどころを与えない。僕はルイスの幽霊、果敢ない命の路傍の人だ。その心の中では数々の夢が力を持っている。ーーーだが、鎖に繋がれた獣が海岸でずしんと足を踏んでいる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.64~65」角川文庫)

ルイスはルイス自身が「ルイスの幽霊」に思えてきて「夢が力を持」つ。ウルフ作品に独特の「ぼんやり性」。この、「夢が力を持」つとはどのような状態をいうのか。

「私たちの過去が、じぶんにはほとんどまったく隠されたままであるのは、過去が現在の行動の必要によって抑止されているからであるとすれば、過去は意識の閾を踏みこえる力を、私たちが有効な行動に対する関心を離脱して、いわば夢の生へと身を置くたびごとに、ふたたび獲得することになるだろう」(ベルクソン「物質と記憶・P.305~306」岩波文庫)

そして人間の認識はP.321図5にあるように、逆円錐の点SからABの間を常に行ったり来たりしている。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

さらに「心の中では数々の夢が力を持」つとルイスがいうときの、夢の多層的複数性ならびにその奇妙な形態〔内的融合〕について。

「もし私たちが自我と外的事物との接触面の下を掘り進んで、有機化された生きた知性の奥底まで侵入していけば、私たちはきっと、一度分離されたために、論理的に矛盾する諸項というかたちで相互に排除し合っているように見える多くの観念の重なり合い、あるいはむしろ内的融合を目撃することになるだろう。世にも奇妙な夢ではある。けれども、二つのイメージが重なり合って、異なる二人の人間を同時に示すが、それでも一人でしかないという、この夢は、目覚めた状態における私たちの概念の相互浸透について、わずかながら或る観念を与えてくれるであろう。夢見る人の想像力は、外的世界から隔離されてはいるが、知的生活のいっそう深い領域で絶えず観念の上で続けられている作業を単純なイメージに基づいて再現し、それなりの流儀でつくり変えているのである」(ベルクソン「時間と自由・P.163~164」岩波文庫)

また、ルイスの特性なのだが、「鎖に繋がれた獣が海岸でずしんと足を踏んでいる」イメージを反復している。どこか悲しげな様子は人間が本来持っている野生的生という概念に関係がある。「海岸」で、まさに「波打ち際」で足止めされ、そのため完全な波になって大海へ帰っていき一つの宇宙として融合し合うこともできず、かといって海から上陸して完全な確固たる固形物として山脈をなす大地の生を永遠の事業として担うこともできず、どちらでもなければどちらでもありうるような、常にその《あいだ》をさまようほかない人間として束縛されている苦悶のうちにある。夢と現実との《あいだ》ということ。しかし人間はいつも両者の《あいだ》をさまようことしか許されていない認識機械としては、常に既に持続の前か後かを知るばかりでしかないのかもしれない。それでもなお中心に位置しようとするためには実際にウルフがやったように自殺してしまうほかないのかも知れない。だからそれを避けるために、ニーチェのいうように、人間はあえて芸術を持つのに違いない。

バーナードもまた車中の人となっている。旅行客が乗り込んでくる。それを見てこうおもう。

「『僕はお互いが別れ別れに分離していることを信じない。われわれは単一じゃあないんだ。それに又僕は、人生の真の性質に関する僕の貴重な観察の蒐集をふやしたいのだ。僕の書物は、知り得る限りの種類の男女を包含して、きっと大部な巻数になることだろう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.65」角川文庫)

バーナードは「われわれは単一じゃあない」と強くおもう。なるほど姿形こそそれぞれ「分離」して見えてはいても、それはそう映って見えているに過ぎず、むしろ「知り得る限りの種類の男女を包含し」得ると考える。単一性についてはもう少し後でまとめて述べたい。

さて、ネヴィル。子どもの頃のバーナードの行為を思い出してこう考える。

「『彼はその話を子供の折、パンを小さな球に丸めた時に始めたのだ。一つの球は男で、一つは女だった。僕たちはみんな小さな球なんだ。僕たちはすっかりバーナードの物語の文句だし、<あ>や<い>の下の欄で、その雑記帖に書き下された色々な事柄なのだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.67~68」角川文庫)

子ども時代、みんなはよく一緒に遊んだものだった。なかでもバーナードは言語化の学習に優れていた。他の仲間たちをパンから作った「球」にしてみたり、少し成長してからは巧みに言語を操り仲間たちをバーナード語録とでも呼べそうなストーリーの中へと言語化して仲間たちの人生を目録化してしまった。バーナードの「雑記帖」の一部分はバーナードとその仲間たちのストーリーで満たされている。今や逆に「雑記帖」の側が上位に立ってバーナードとその仲間たちの人生を支配する記述に《なる》。そして「雑記帖」は各々の目録でもある限り、それはバーナードとその仲間たちの人生をまさしく支配する「履歴書」に《なる》。バーナードとその仲間たちの人生は、ほかでもない「履歴書」として社会へ出ていく。ネヴィルの淡々とした様子は自分たちの人生が実は言語化されてしまうという形態を取らないわけにはいかないという必然性の前で打ちひしがれた諦観から到来するべく送り届けられている。

波の描写。その一部分。鏡の効果。

「鏡は壁の上で面を白く輝かせた。窓閾のうつつの花は幻の花を伴ってもいた。でもその幻は花の一部でもあったのだ。蕾の一つがのびのびと花開いた時、鏡の中の色淡い花もまた、蕾の一つを開いたのだから」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)

しかしただ単なる鏡の効果だけを述べたわけではないというべきだ。鏡に反映する映像をも含めてこの風景全体を「或る一刻」として内包する一つの宇宙と捉えねばならないだろう。なるほど単なる風景が描かれているに過ぎない。けれどもそれを構成する鳥、花、風、波などはどれも併せて全体で一つの「或る一刻」をなす。

ところで再びバーナード。単一性について。

「『僕は一つの単一ではなくて、複合した多数であることがはっきりする。バーナードは、公然としては泡だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.73」角川文庫)

個人は「単一ではな」いし「単一では」ありえない。バーナードのいう通りだ。ニーチェはこういっていた。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361」ちくま学芸文庫)

「『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

ちなみに、ニーチェが批判している「持続」はベルクソンのいう「持続」ではない。社会的文法によって強制的にでっち上げられ固定化された「因果関係」のことだ。さらにニーチェを激怒させるのは、いったん固定化された因果関係であっても、それは国家装置の都合次第でまったく別の因果関係へ加工=変造され、その時その時の支配的権力(教会、国家、科学、資本など)の思うがままにさんざん濫用されてきたという動かしようのない歴史である。このように因果関係を偽造=変造する権力装置のやりたい放題の歴史を歴史的事実として目の当たりにしてきた哲学者として、ニーチェの目には、因果関係の絶対性など本気にするほうがどうかしていると映って見えるほかない。しかしそれはどのようにして遂行されたか。

まず主人と奴隷との差異が抹消された。それは最初期あるいは台頭期の資本主義によって達成された。さらに理性と狂気との差異も抹消された。そのことで以前は或る種の神秘性を獲得していた狂気からその独自性が剥がされ、ただ単なる人間へと解消された。そのように、すべての人間をいったん「同等」な人間として、「数えられるもの、算定できるもの」すなわち「約束をなしうる動物」へと統一した。この過程は長い習慣化を通してなされた。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

その後に、改めて目に見えない境界線を引いた。たとえば、人間としては同等であるが同等であるとしたさらにその上で人間を健常者と狂人とに分割した。また経済的次元では債権者と債務者とに分割した。資本主義市場のグローバル化にしたがって主人は人格化された資本になり奴隷はいつでも交換可能(あるいは廃棄可能)な労働力になった。とりわけ労働者は奴隷から解放されはしたけれども、奴隷から解放されたことで逆に主人による保護を失った。命の保証を失くした。そのような仕方で更新された差異の導入が行われたのだが、あらゆる人間をいったん「同等」な人間として認める必要があったのは「約束・契約」を実行できる人間という概念を捏造するための方便が必要とされたからである。そして改めて両者の間に目に見えない途方もない厚みと深みのある境界線を設けて分割したのだ。こうして、人間としては同じであるとされる以上、どのような立場であっても、「約束・契約」を果たすことができ、また果たされねばならないという掟が創設されるに至った。たとえば、経済的諸関係の場では次のように。

「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫)

単一に見えるものであっても、それはその時点ですでにおそろしく「複合化」されているとニーチェはいう。統一は「見せかけ」だと。

「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四八九・P.33」ちくま学芸文庫)

ところでバーナードは自分のことを「複合した多数」だと考えてはいるが、世間の間で、「公然としては泡だ」と考える。作品「船出」でヒューウェットは友人ハーストにこういっていた。

「『事実は、人は決してひとりではないし、誰かの仲間でもないんだ』『意味するところは?』とハースト。『意味するところ?そう、泡みたいなものーーーオーラかなーーーきみだったら何ていう?きみにはぼくの泡が見えないし、ぼくにはきみの泡が見えない。互いに見ることができるのは点、炎の真ん中の芯みたいなものだけだ。炎はどこにでもついて回る。炎はぼくら自身ではなく、ぼくらの感じるもの、つまりまわりの世界、主に人間たち、いろいろな人間たちだ』『きみはさぞ頼りない泡に違いない!』ハーストが言い返す。『で、ぼくの泡が誰かの泡にぶつかるとーーー』『両方ともはじけるのか?』ハーストが口を挟んだ。『そうするとーーーそうするとーーーそうするとヒューウェットは独りじっくり考え込み『それは、それは、でっかーい世界になるだろう』と思いきり両腕を伸ばし、それでも渦巻く宇宙は捕らえられぬとでも言いたげだった。ハーストといるときはいつでも、異常に、あてどもなく旺盛になるのだ。『前はまったくきみはばかだと思っていたが、今はそうは思わない』ハーストが言った。『自分が何を言いたいのか、わかっていないが、とにかく何か言おうとしている』」(ヴァージニア・ウルフ「船出・上・P.186~187」岩波文庫)

バーナードの思想はウルフのデビュー作「船出」の中ですでにヒューウェットによって述べらている。「『で、ぼくの泡が誰かの泡にぶつかるとーーー』『両方ともはじけるのか?』ハーストが口を挟んだ。『そうするとーーーそうするとーーーそうするとヒューウェットは独りじっくり考え込み『それは、それは、でっかーい世界になるだろう』と思いきり両腕を伸ばし、それでも渦巻く宇宙は捕らえられぬ」というほど大規模な、というより、規模という概念を超えた、想像もつかないような宇宙的融合が目指されている。しかし「泡」は遂に「泡」なのかもしれない。小説後半、自分たちのことを指して「泡沫」とさえ誰かがいう。だがそれはそのときに触れよう。

バーナードは自分が種々の仮面を次々と付け換え演じていかねばならないことをよく意識している。そして、苦労して手に入れた人生だけれども、その実状は仮面の付け換えこそが人生最大の仕事だと言わんばかりなのだ。ちなみに村上春樹用語でいえば「やれやれ」といったところだろう。

「『彼等は、僕が種々雑多な推移転換を行わねばならないこと、バーナードとして夫々の役割を交互に演ずる異なった人間たちの色々な出入口をふたがねばならないことなどがわかってはいない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)

バーナードのいうように、バーナードが仮面Aを付けているとき、バーナードは同時に同じ仮面Aを使用することは「ふたがねばならない」し、事実上そのようなことはできない。言い換えれば、商品Aは同時に別のところで同一の商品Aであることは不可能である。或る人間が仮面Aを演じているとき、同時に或る人間も他の人間も同じ仮面Aを使用することはできない。何より危険なことは素顔の露呈である。作品「モナリザ」のように。あのような素顔の露呈は、それを果たしたのは資本主義なのだが、しかし様々な意味を増殖させてしまう。無数の意味の出現は逆に無意味を告げに来る。本当のモナリザなど実はないということを逆に暴露してしまう。素顔を与えることによって逆に素顔を覆い隠してしまう。ほんの瞬間的な裂け目を露出させるのみ。その裂け目から無限の意味が増殖する。だが意味は余りにも多数化していくほかないため、意味はまたもや無意味化される。意味と無意味との自動的反復が永遠に起こり続けることになる。古代神話が告げているように「多頭は無頭」なのだ。したがって仮面しかないことに気づく。あるいは言語しか。だが仮面を付け換えるとき、不意に素顔が露呈することは本当にないのだろうか。しかしこの問いは無意味だ。なぜなら素顔というものについて本当は誰も知ってなどいないからだ。

この辺りでいったんバーナードによる総括がなされる。

「『キャノン、リセット、ピータス、ホーキンンズ、ラーベント、ネヴィルーーーこんな連中がみんな中流の魚だ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.74」角川文庫)

バーナードを取り巻く登場人物らの名。複数である。したがって「群れ」といってもいい。そしてバーナードにとってそれらは「みんな中流の魚」でしかなく《なる》。「魚類」への生成変化を確認しておこう。プルーストではアルベルチーヌの「両棲類」への生成変化があったのだが覚えているだろうか。

「そんな彼女は、あるときは、あの海の環境から出てしまって、私の占有物となり大きな価値をもたなくなったアルベルチーヌであり、またあるときは、ふたたび元の環境にとびこみ、私からのがれて私の知りえないようなある過去のなかにはいってしまい、女の友であるあの婦人にくっついて、波しぶきかくるめく日ざしのように私の気分をわるくするアルベルチーヌであって、浜辺にもどされたり、私の部屋に帰ったりの、いわば水陸両棲の愛に生きるアルベルチーヌなのであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.300」ちくま文庫)

なお、アルベルチーヌは「女の友であるあの婦人にくっついて」いることがある同性愛者でもあることを見落としてはいけない。それを確実なものにするのはほかでもない語り手の嫉妬である。「くるめく日ざしのように私の気分をわるくする」とある。そういえば思い出した。芸術に携わる或る種の人間は「薔薇」から、薔薇そのものが持つ芸術性を生産することができる。芸術性を生産するという行為によって、登場してくる一つの「家系」を、薔薇が与える高貴性の次元へ移し変えることができる。次のように。

「というのもエルスチールは、一つの花をながめるにしても、その花をまずわれわれの内心の庭、われわれがつねにそこにとどまらざるをえない内心の庭に移しながらでなくては、それをながめることができなかったからである。彼はこの水彩画のなかで、彼が見た薔薇、そして彼がいなければ人がけっして知ることのなかった薔薇、そんな薔薇の幻をわれわれの目に見せてくれたのであった、したがってその薔薇は、この画家が、天才的な園芸家とおなじように、《薔薇》という家系をゆたかにして出現させた、新しい一つの変種だということができるだろう」(プルースト「失われた時を求めて7・P.166」ちくま文庫)

そのとき始めて「薔薇」という冠を付与された「或る家系」が発生するのであって、この発生は事後的であり、それ以前ではありえない。知覚にまつわる潜在的あるいは可能的という逆説性について。

「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)

たとえば、犯人が鴨川を渡るとしよう。犯人が鴨川を渡ったがゆえに、逆に犯人が鴨川を渡らなかった可能的様態について始めてなおかつ一挙にその行動の素描を下描きする〔想定する〕ことが可能となる、という意味で事後的なのだ。

ちなみにこの両日にまたがる日本での大騒動。新天皇の即位に当たって日程を決定したのは今の内閣である。日本のテレビ・マスコミは大騒ぎを演出することに大いに貢献した。とりわけ沖縄新基地建設、原発問題、天皇制そのものの持つ問題までがそれによって隠蔽された。安倍首相を中心とする内閣は新天皇の即位を知覚してから(見てから)沖縄、原発、天皇制といった諸問題の検討に入ったのではない。逆に沖縄新基地建設、原発問題、天皇制そのものの持つ問題など諸々の諸問題の進捗具合を知覚してから(見てから)新天皇の即位に当たって日程を決定したのだ。その意味で日本全土にわだかまる諸々の諸問題の「輪郭」を内閣は先に知覚する。知覚した(把握した)その時点で即位の日程についての可能的潜在的な行動の素描を一挙に下描きした。事態は次のように推移した。

「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)

さらに内閣は新天皇の即位という出来事を流通貨幣として機能させた。諸問題を隠蔽する方便として濫用した。こんなふうに。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

あるいは次のようにも。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

金融関係者のあいだではこうも映ったに違いない。もしそんなふうには映っていないというのならその人物は金融関係者でないか少なくともその資格を有していない。

「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)

BGM

「波」/融合する身体6

2019年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
欲望の一元論。懐かしい言葉だ。人間は「いたるところで諸機械なのである」。そして作品「波」から「そして」と続けてみよう。

「『そして僕も、信じ難いことだが、他人の生涯に入りこみもする』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.57」角川文庫)

どういう理解ができるだろうか。ただ単に他人の記憶の中に保存されるということだけをいっているわけではないだろう。たとえば、ドゥルーズ&ガタリではこう続けることができる。

「いたるところで、これらは種々の諸機械なのである。しかも、決して隠喩的に機械であるというのではない。これらは、互いに連結し、接続して、(他の機械を動かし、他の機械に動かされる)機械の機械なのである。<源泉機械>には、<器官機械>がつながれている。一方の機械は流れを発する機械であるが、他方の機械は、この発せられた流れを切断する機械である。乳房は母乳を生産する機械であり、口はこの機械に連結されている機械である。食思欠損症の口は、いくつかの機械を前にしてためらっている機械である。すなわち、食べる機械であるのか、呼吸する機械であるのか(この場合には喘息の発作が起る)を決めかねているのだ。だから、ひとはすべて何でも器用にこなす存在なのである。各人はそれぞれ自分の小さい種々の機械を具えている。<エネルギー機械>に対して、<器官機械>があることは、常に流れと切断とがあることである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.13」河出書房新社)

何か間違っているだろうか。だからといってこれが正解だといいたいわけではない。こういうことも考えることができるだろうというほんのわずかな示唆に過ぎない。さてしかし、ここで言えようことは、「波」を読むという動きは、読者もまた、欲望する諸機械の部分として機能するほかないということである。少なくとも資本主義社会の中ではそうだといえるし言うべきでもあろう。そしてつい先ほどハイデッガーから長い引用を施しておいたが、それはもちろん作品「波」が次のセンテンスへ導くべく導かれている読者のため以外の何ものでもない。余計なおせっかいなどではまったくない。レーヴィットはこういっている。

「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは、あまりにはっきりしすぎていて、もはや語りにおいては適切に表現されないような存在にほかならない。不安が名状しがたい、あるいは喜びのあまりことばも出ないーーーこういったひとの情態性はあらゆる概念を超えており、ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される。明瞭な表現にひどく積極的なしかたで事実そのようにあらわれるものは、言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされるにしても、人間の感受、気分、情緒、感情、感覚の、特権的な表現なのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.282」岩波文庫)

こうある。「なまえのない、いいがたい、言表しがたく、つかみがたい、聞いたことも書かれたこともなく存在するものが意味するのは」、ハイデッガーから「不安」を感受するとはどのような様態なのかという引用を踏まえた上で、「ほんらいはつかみがたいとはいえ、完全に明瞭なものであることが理解される場合にのみ、把握される」けれども、それは「言語的には欠如的なかたちでだけ概念にもたらされる」ことになる「特権的な表現なのである」。さらに、このような差し当たり言語化できない「不安」あるいは「喜び」は、いわば「地下道」を利用することで理解へといたることができる。

「一者が他者の気分を直接に『理解する』のは、理解しがたいが、なお明瞭に感得されうる、『影響をうける』という、いわば地下道においてである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.283」岩波文庫)

登場人物らは今後、彼とも彼女とも特定できない多様体としてどんどん変容していく。しかし登場人物らはともに理解し合うことができる。それは理解のための「地下道」を共有することで可能になる。こんなふうに。

「或るひとびとは、その者たちの意図のいっさいに反して、たえず互いに語りあうだけでおわってしまう。他方、べつのひとびとは、『造作もなく』互いに理解しあっている。しかも、後者が前者のひとびとよりも明瞭にみずからを表現していたからではない。後者のひとびとが互いに諒解しあう方法は、かれらを共感的にむすびあわせる、地下道によるものだからである。かれらが相互に諒解しあうこの源泉によって、ひとつの語りかたが可能になる。第三者の目には、この語りかたは飛躍に充ち、論理をまったく欠くものと見えるにちがいない。だが、その語りかたは、飛躍し、論理的でなく見えるのとおなじ程度に、その者たち自身にとっては、明瞭で判明なものなのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.287」岩波文庫)

いわゆる「忖度」(そんたく)もまたこの中に含まれることは以前に述べた通りである。事例も前に上げた。誰でも知っているわかりやすいものを、という意味を込めてトルストイから引用したわけだが。

「ナターシャも夫とさし向かいになると、ただ夫婦の間にのみ見られる方法で話を始めた。つまり、推理や演繹(えんえき)や結論を無視して、あらゆる論理の法則にそむきながら、とくべつ明瞭迅速に、互いの思想を理解したり、伝えあったりしはじめたのである。ナターシャはこの方法で夫と語ることに慣れてしまったので、ピエールが論理的な考え方をする時は、かえってそれが二人の間の円満でないことを証明する、もっとも確かな徴候と考えるほどになった。ピエールが理屈っぽい調子で諄々(じゅんじゅん)と話しだす時や、また彼女までが夫の調子につりこまれて、同じようなことをはじめた時などは、それが必ず諍(いさか)いのもとになるということを、彼女はよく知っていた。

二人さしむかいになって、ナターシャがうれしそうに眼を大きく見はりながら、そっと夫のそばへより、だしぬけにすばやくその頭へ手をかけて、自分の胸へぎゅっと締めつけながら、『さあ、今こそあなたはすっかり、すっかりあたしのものよ、あたしのものよ。もう逃がしやしないから』と言った瞬間から、この論理の法則に反した会話がはじまった。実際、一時にさまざまな問題を語るということだけでも、すでに非論理的であった。そういうふうに一時にさまざまな事柄を話しても、相互の明晰な理解を妨げないのみか、かえってそれが完全な理解の確実な表徴となるのであった。

夢の中では、その夢を支配する感情のほか、すべてが不確実で、無意味で、矛盾だらけであるが、それと同様に、あらゆる理性の法則に反したこの思想交換においても、はっきり秩序だっているのは言葉ではなくして、言葉を指導する感情であった」(トルストイ「戦争と平和4・P.455~456」岩波文庫)

そしてこのように一度できた「地下道」は二度も三度も利用されるたびに蘇る。その点についてはスピノザを推奨しておいた。

「もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。ーーーもし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう。ところが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感情を《より》多く示している。ゆえにもし身体、したがってまた精神はかつて二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激されるであろう」(スピノザ「エチカ・第三部・定理一四・P.183~184」岩波文庫)

以前述べたことと同じ展開になってしまったが、相似はここまでのことだ。むしろ忖度(そんたく)を含め、忖度(そんたく)を蹂躙しつつ、忖度(そんたく)を超越していかなければならない。むずかしいのは、もっとデリケートで、なおかつもっと差異的=微分的要素の取り扱いにかかわる部分になるだろうからである。たとえば、利用しがいがあるのであえて「忖度」(そんたく)という言語を用いるとしても、しかし、それは或る特定のグループなりサークルなりの内部で、「どこ」あるいは「誰」にイニシアティヴがあるかと問われたとすれば答えることができるだろうか。答えは「できない」である。少なくともたった一人だけにイニシアティヴがあったと特定することはできないのだ。もし特定するとすれば、本当に限られた少人数だけを一挙に拘束するほかない。事情はこうだ。

「ふたりあるいはそれ以上の人格の、完全にそれ自身にもとづき、いわば自由に浮動するような圏が可能となる条件は、一者の他者に対する関係にふくまれる両義性が回帰することである。関係はたいていの場合、各人のふるまいが他者に向かい、他者にしたがっているときに回帰する。そのさいしかしながら、《第一義的には》他者から規定されているのであって、したがってたんに共に-規定されているのではない。これに対して回帰が絶対化するのは、両者それぞれの《固有な》ふるまいをみちびくイニシアティヴが、その《根源》を《他者》のうちに有し、そのつどの他者が、じぶんのなすことすべての『原理』である場合である。両者のそれぞれが『ペルソナ』であり個人でないのは、ただたんに、じぶんが関係している当の者によって、各人がじぶん自身を相互回帰的に共-規定するという、《その》意味においてばかりではない。両者のおのおのは第一義的に、《他者のペルソナとして》回帰的に規定されている。このように自立化した関係にあっては、だれにイニシアティヴがあるのかという二者択一はもはや決定不能である。一者が第一義的に他者にしたがうところでは、他者もまたすでに第一義的に、一者にしたがっているからだ。

『相互性』のこうした自立化は、原理的に可能である。それはたしかに人間の関係を徹底して支配するものではないとはいえ、関係において日常的には、現実的なものとしてあらわれる可能性がある。つまり、そのつどの一者のふるまいが第一義的に他者に方向づけられている場合には、いたるところでその可能性があるのである。なるほどそれ自体としては《一者》の願望は他者の願望であるとはいえ、その他者の願望がそれ自身また他方の者の願望に方向づけられている。両者の《おのおの》が第一義的には他方の者に方向づけられている場合、各人のなすことすべてについて、そのイニシアティヴはほんらい一者からも他者からも生じない。両者の《関係そのもの》から生じるのだ。だが事実、或るふるまいをみちびくイニシアティヴは、それが他方の者の『名のもとに』であろうと、それでも一方の側からとらえられるのである」(レーヴィット「共同存在の現象学・P.202~203」岩波文庫)

共犯性は「《関係そのもの》から生じる」。だから読者はいつも作品「波」と共演することが大事になってくるだろう。

さて、ジニーは列車の中にいる。列車の窓枠に囲まれた映像を眺める。

「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)

映画的認識のメカニズムの一部分としてのジニーがいる。むしろジニーはそういう目に《なる》。

「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)

さらにジニー。鏡の効果を「社交」として楽しむ身体。わざと鏡の側に主導権を与えている。そしてこれは一種の技術でもある。技術だという意味で大変な巧みさを要するに違いない。

「『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)

ローダも車中の人となる。が、ローダはジニーのように身軽に振る舞うわけではない。何か考えている。

「『間をおいてつぎつぎに衝撃を与えながら、まるで虎の跳躍のように突然、人生が、その黒い顔を海からもち上げて出現してくるわ。私たちが結びつけられているのは、これに、なの。これに私たちは縛られているんだわ、身体を野育ちの馬に縛られているように。それでも私たちは多くのさけ目を埋めたり、それらの割れ目を包みかくす、色々な工夫を作り出して来たんだわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.62」角川文庫)

「人生」は「黒い顔を海からもち上げて出現してくる」とローダは考える。そして「海」に「結びつけられている」とも。ここで「海」とは何か。そこから「人生という名の各瞬間」が湧き起こってくる欲望の宇宙である。そこで描かれる波の一つ一つが震動あるいは波動としての「人生という名の各瞬間」に当たる。しかし誰しもそこに「さけ目」や「割れ目」が現われるのを目撃しないわけにはいかない。ローダのいうように人々は各自それぞれに趣向をこらしつつそれら「さけ目」や「割れ目」を「包みかくす、色々な工夫を作り出して来た」し今もしている。しかしハイデッガーの場合、「包みかくす、色々な工夫」について、それらの多くは世間話を中心とした「頽落」に過ぎないと恫喝する。もっと緊張感を持てと叱る。それはそれで構わない。しかし借金まみれになって行き場を失っていた当時の一部のドイツ人の耳には、根拠を持て、すなわち根拠地も持てというふうに、それが実践されると奇妙な解釈を巻き起こすという現象が生じた。当時というのはまさに第二次世界大戦前夜である。ドイツは再び膨張し始める。ハイデッガーがナチス党にその根拠を与えることになる哲学の危うい両義性をここに垣間見ることができる。しかしナチズムといっても、見ようによってはどうにでも映ることがある。たとえば、次の文章などはどうだろう。プルーストから。

「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)

「仲間意識と自負心とに気負いたった彼女ら」「『独自の一団』をつくって」「その等質な全体」。これらたった三箇所を抜き出してみただけでただちにファシズムを想起する読者はいないだろうか。もしファシズムを想起するというのであれば、それは間違ってはいないといえる。「少女」とは、たぶん、頭で考えているようには本人にもよくつかめない人間の「或る時期」であり同時に「或る態度」のことをいうのだ。それは「つかめない」という言葉を使用することによって逆光的に出現する何ものかなのである。だから人が流通貨幣のように身軽に次々と姿を変容させていくことができるのは、その瞬間に一度は誰でも、いま述べたような意味で「少女」になってから事後的に、でなくては変容するにも変容しようがないのでは、とおもわれる。そしてすべての子どもは子どもであると同時に「少女」の面影を重ねさせてはいないだろうか。具体的部分を取り上げて述べるとすれば、理想的に勃起しようのない男性器、などがそうだ。欲望する多様体としては大いに勃起的かもしれないが、現実の身体は非勃起的でしかない必至性。そこから生成が始まる、歴史以前的な霧の中。年齢性別職業以前的な繭に覆われていてよく見通せない全世界。

しかし大人になればファシズムから逃れることができるというのだろうか。たとえば音楽。

「芸術家は、そのようにして、その一人一人が、ある未知の祖国に生まれついた人間であるように思われる。彼は自分でその祖国を忘れてしまった、しかもその祖国は、今後べつの一人の大芸術家がそこから出てきて、大陸を求めて出帆する、ということもまったくない祖国なのだ。あえていえば、ヴァントゥイユは、その晩年の諸作品のなかで、そのような祖国に近づいていたように思われた、晩年の雰囲気はもはや《ソナタ》におけるそれとおなじではなかった、楽節の問いかけは、晩年になると、いっそう切迫し、いっそう不安げで、それを受ける答はいっそう神秘的だった、朝夕の水気をおびた空気が、楽器の弦にまで影響しているように思われるのであった。モレルは絶妙に弾きこなしていたがまだ十分ではかった、彼のヴァイオリンが発している音は私には異様に鋭く、ほとんどさけび声のように思われた。そのきつい音も耳ざわりではなく、人はそこに、たとえば声楽でのように、一種の精神的な長所、知的な才能を感じたであろう。しかしそれは人を不快にするものでもあった。宇宙への視野が改変され、純化され、内面の祖国への回想に一段と精妙に適合するようになるとき、音楽家にあっては音響の、おなじくまた画家にあっては色彩の、全般的変質となってそれがあらわれてくるのは至極当然である。それにまた、きわめて聡明な聴衆が、それを見あやまるころはない、その証拠に、のちになって人々はヴァントゥイユでは晩年の作品が一番深いと言明することになったからである。ところで、はじめはどんなプログラムも、どんな主題も、判断の知的材料を提供してはいなかった。だから、人々が推察していたのは、何か深いものが、音(おん)の世界に転置されていたのだろうという程度だったのである。この失われた祖国、それを音楽家たちは自分に思いださない、しかし彼らの各自がつねに無意識のうちにこの祖国とはある種の斉唱(ユニゾン)をなしてつながっているのである、その各自が自分の祖国にあわせてうたうとき、彼は歓喜で熱狂し、ときには、栄光への愛に駆られて祖国をうらぎる、しかしそんなとき、彼は栄光を求めることによって栄光からのがれる、そして栄光を軽蔑することによってのみ彼は栄光を見出すのである、そのとき彼はあの特異な歌をうたいだすのであり、その歌の同一調(モノトニー)はーーーというのも、とりあつかわれる主題がなんであろうと、彼は自己と同一のものにとどまるからでーーーその音楽家にあって彼の魂を構成する諸要素が確固不変であることを証明しているのである。しかしそんなとき、その諸要素にあたるもの、すなわちわれわれが自分自身のためにたいせつに残さなくてはならない現実の残留物、われわれが友人から友人へ、師から弟子へ、恋する男から女への会話では、とうていつたえることができないあの残留物、自分の感じたものから質的に選別されながらも各人が章句の入口で置きさらなくてはならない、あの言葉には言いあらわしがたいものというのも万人に共通したなんの興味もない外部の地点に自分を限定してでなくては各人は章句のなかで他人とコミュニケーションを保つことはできないからでーーーしかしそんなとき、そういう現実の残留物のすべて、そういう言葉には言いあらわしがたいものを、芸術は、エルスチールの芸術と同様にヴァントゥイユの芸術は、われわれが個人の世界と呼んでも芸術なくしてはけっしてわれわれに知られないであろうあの世界の、内的構造を、スペクトルの色のなかに顕在化することで、出現させるのではないだろうか?つばさ、ーーーそれもまた一種の呼吸器であり、それでわれわれは広大な空間を横切ることができるかもしれないが、だからといってわれわれにはなんの役にも立たないだろう、なぜなら、たとえわれわれが火星や金星に行ったとしても、おなじ感覚をもちつづけているならば、そこでわれわれが見るであろうすべてのものにわれわれの感覚は地球の事物とおなじ外観をまとわせるであろうからである。唯一の真の旅、唯一の《若がえりの泉》の水浴行は、新しい風景へのいでたちではなくて、多くの他の目をもつことであるだろう、他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ることであるだろう、そしてそのことは、一人のエルスチール、一人のヴァントゥイユ、またそのたぐいの人たちをもつことで、われわれに可能なのである、われわれはほんとうに星から星へと飛行するのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・P.448~451」ちくま文庫)

まったく別の世界が出現する。音楽によって「われわれはほんとうに星から星へと飛行する」のであり、要するに陶酔のうちにあり、国家あるいは国家装置をいとも容易に忘れ去ってしまう。「他者の目、百の他者の目をもって宇宙を見る」という或る種の融合状態が発生する。

ところで、ローダは「しじま」の効果を体感している。

「『しじまが私たちの通ったあとを塞いでいくのよ。禿げた頭ごしにふり返ったら、もう塞いでいっているしじまや、虚ろな荒野の上を、お互いに追いつ追われつしている雲の影を見ることができるわ。しじまが私たちの過ぎ去って行く路をすっかり塞いでいるわ。ほら、これが今の瞬間なの。今日は夏休みの最初の日なの。これが、わたしたちの結びつけられている現われ出た怪物の一部なの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.63」角川文庫)

各瞬間は過ぎ去るや否や「しじま」によってどんどん塞がれていかなければならない。しかし事情は「とらえがたい進行」としてしかとらえがたい。

「ほんとうのところ、あらゆる知覚はすでに記憶なのである。《私たちはじっさいには、過去しか知覚することができない》。いっぽう純粋な現在は、過去が未来へと食いこんでゆくとらえがたい進行なのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.298」岩波文庫)

リゾーム的社会の偶然性についてはまたの機会になおかつ随時述べていかなくてはならないだろう。

BGM

「波」/融合する身体5

2019年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
スーザンは嫌な思い出のすべてを記憶の奥底に埋めてしまおうと考える。ネヴィルは幼い頃、バーナードとスーザンの二人を捉えて「あいつらはふらふら垂れている針金ーーーいつもからまってばかり」、と評した(固定した)。「ふらふら垂れている針金」の一方=スーザン。なかなか横着な発想の持ち主でもある。

「『一番嫌いなものをすっかり想い浮べて、それらを土の中へ埋めてしまおう。このぴかぴかする小石はマダム・カーロだわ。うんと深く埋めてしまってやるの。へつらってみたり人に取り入ったりする様子が嫌だし、音階の練習をしていると指を真っすぐするようにって六ペンス銀貨をくれたりするんだから。その銀貨は埋めてしまったわ。学校全部を埋めてしまいたいわ、体操場も、教室も、いつも肉の匂いのする食堂も、それにチャペルも。赤っ茶けたお古い方々ーーー恩人の方々、学校設立者の方々ーーーの肖像など、埋めてしまいたい。好きな木がいくつかあるわ。樹皮にきれいな樹脂のかたまりをつけている桜の木。それに屋根裏から向うのどこか遠くの丘が見える景色も好き。こんなのだけは別として、桟橋があり、散歩の人が歩いているこの海岸のあたりにいつも散らばっている醜い石コロを埋めるように、一切合切埋めてしまいたいわ。おうちでは波が長く長くつづいているわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.41~42」角川文庫)

嫌いなものを列挙しだすときりがなくなる。「一切合切埋めてしまいた」くなる。一人の人間の意識をじっと追っていると思わず笑いの一つも溢れてきそうになってくる。ところで、この一連の連想の終わりで「おうちでは波が長く長く」と、唐突に「波」のイメージが現われる。その「波」は「冬の夜に響きが聞こえてくる」ものであり「去年のクリスマス」などは「一人の男が溺死」したところまで続く。溺死という言葉が出てくるからといって、すぐさま死のイメージあるいは死への憧れのイメージを読み取ることは必ずしも正しいとはいえないだろう。むしろ「溺死」というところで文章が止まっている点に注意すべきかとおもわれる。ちなみに「ダロウェイ夫人」の分身=セプティマスの死因も「池」=「水」への投身による「溺死」である。そこが終着駅だとウルフが考えていたと思われるにしてもなお、作者ウルフが小説のこの時点で死んだわけでも何でもない。言い換えれば、人間は、小さな死(性行為における絶頂、芸術におけるエクスタシーなど)であれば何度でも死ねるということも念頭に置いておく必要性があるだろう。実際、ダロウェイ夫人が自殺するのではなく逆に社交界へ戻っていくに当たって、その《代補》として、セプティマスの自殺が両者の行為〔一方の生と他方の死〕の等価関係を保障していることを忘れるべきではないだろう。単独の生というものはない。単独の死というものもない。生は常に死によって支えられており、同時に死は常に生によって支えられている。生死は常に既に相互依存関係においてしか表象し得ない。しかし作品の中で問われているのは生か死かの二者択一ではまったくない。むしろその《あいだ》、常に両者の間で《宙吊り》にされている諸様態を様々に死につつ同時に生きていく欲望の流れの一つ一つなのだ。それら各々の登場人物は「欲望する身体」としては個別的に分割可能でありまた同時に「有機体からの脱コード化」としては欲望する融合的多様体でもある。そして「有機体からの脱コード化」は資本主義の諸運動として常に既にその役割を果たしてはいるのだ。また、作品「波」を欲望の一元論として読むとすれば、それぞれの個別的な「波」は小説中のどこにでもいつでも姿を現わしてくる。ウルフが小説家として生きた第一次世界大戦と第二次世界大戦との《あいだ》のイギリスという見地からいうとすれば、個別的なもの(個人性、年齢、性別、幾つかの記憶など)は画一化され、画一化されたものを受理することだけが許され、したがって普遍的なもの(人類共存、国際的連帯、芸術的なものへの傾倒など)は蹂躙された。しかし人間は戦時中にあってもなお、「個別的なもの」《と》「普遍的なもの」との《あいだ》を行ったり来たりする「揺らぎ」としてしか生きていくことはできなかった。その意味で人間は可憐であると同時に図々しい。

ローダはいう。

「『肉を切って分配する時にはあらゆるものが火の閃きのように走るわ。ひと月ひと月ずついろいろなものがその固さを失くしていっているの。わたしの身体でさえ今では光が通り抜けるわ。脊椎だって蠟燭の炎のそばで溶けている蠟のように柔らかいわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.43」角川文庫)

まるで粘土のようだ。さらに「光が通り抜ける」身体でもある。だんだん柔らかさを増していく。「蠟燭」の「蠟」に《なる》わけだが、「ひと月ひと月ずつ」とある。「或る季節」として、たまたまそこに集合した情動全体が個体化された「此性」として考えよう。ローダの身体だけで構成された「季節」が「ある」のではない。ローダの身体を含む「或る季節」が「此性」をなす。

ジニーは生成変化を謳歌する。

「『この宇宙には、固定しているものやじっとしているものは何もないんだわ。みんな波打っていて、みんな踊っているの、なんでもかんでも敏捷に動いて勝利を狂喜しているわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.43」角川文庫)

全身を鏡に映し出し、その前で「頭を動か」してみて「細い身体を下の方へ、ずっと漣が立っていく」エロティックな映像に自分で陶酔していたのもジニーだったが。ともかく彼女はいつも生の悦びに溢れていたいという一つの波動でもある。「合目的性」などどこにも見あたらない。ただひたすら肉体の塊として躍動感を求める。

「生命全体は、創造的進化として思い描かれるとき、自由な行為や芸術作品に類似した何かである。もし合目的性を、前もって考えられた、あるいは考えられうる観念の実現と解するならば、生命は合目的性を超えている」(ベルクソン「創造的進化・P.285」ちくま学芸文庫)

バーナードは考える。「一つのものを他のものにそっと結びあわせている一本のふらふらの糸」についてバーナードはよく知っている。それは見逃している限り見えないものでもある。見えている時は「ばらばらになっている」ものだ。

「『こんなつながった文句をうっちゃらなくちゃ。そうすればばらばらになっているのに、一つのものを他のものにそっと結びあわせている一本のふらふらの糸がよくわかるんだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.47」角川文庫)

ところが世間はこのような「ふらふらの糸」を実にしばしば見逃す。ほとんどいつも見逃す。まるでわざとのように見逃す。バーナードは自分が詩人に《なる》とおもっている。だがバーナードを本当の詩人にするのは「ふらふらの糸」を常に見逃して生き延びている世間である。

夏休みが近い。スーザンはおもう。

「『皺くちゃの、いじけた、こんな拘束なんてものーーー時間、秩序、紀律、きまった時間に正確にあちこちへちゃんといなくてはならないことなんかはーーーばらばらに砕けてしまうわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.50~51」角川文庫)

しかし本当に「ばらばらに砕けてしま」ったら、どういうことが起こるだろうか。スーザンはどのように感じるだろうか。といっても、何も「拘束なんてものーーー時間、秩序、紀律、きまった時間」の側に立っていうのではない。彼らは十八歳。その夏休みがもうそこまで来ている。「拘束」はゆるゆるとゆるむほかない。切断される箇所も幾らかは出てくるだろう。だがそれはたとえば「檻の中の遠足」に過ぎない。

「だから生き残るのは、どこかで脱出を果たした人たちだとぼくは考えるようになった。脱出とは大変なことであって、新しい刑務所行きか古巣に戻るかにきまっている脱獄と同一視するわけにはいかない。よく言う『脱出』とか『すべてをあとにする』にしても、檻の中の遠足だ。たとえその中に南の海があり、絵に描いたり帆走に適していたとしても檻であることに変りはない。完全な脱出とは、二度と帰れないものを意味している。過去が存在しないのだから、取返しのつかぬものでなければならない」(フィッツジェラルド「貼り合せ」『フィッツジェラルド作品集3・P.197』荒地出版社)

フィッツジェラルドの自己認識過程は精妙だ。ところで、奔放なジニーはいう。

「『区別なんかなくなって一週間が同じ一日になるといいのに』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.52」角川文庫)

ふだんは慎重なローダも生を謳歌する意志を隠さない。欲望する多様体として「白熱している」ばかりか、その欲望の流れは「思いのままに氾濫する」。

「『私が生きていこうとするところには何か邪魔があるんだわ。一筋の深い流れが何か障碍にぶつかるの。ぐいぐいと引いて、中心にある何かのふしが抵抗するわ。ああ、これが苦しくって。これが悩みだわ!私は弱って、衰えていく。もう私の身体が融けて行くわ。私はむきだしのまま。わたしは白熱しているわ。流れが満々たる深い潮流となって流れこみ、閉塞を開き、幾重にも重なり合ったものを押し破り、思いのままに氾濫するの。私の温い、孔の一杯ある身体から出て。身体中を流れているものをすっかりーーー』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.54」角川文庫)

しかしルイスには繰り返される一抹の不安がある。このページが初出だ。

「『でも僕にはいつでも重々しい波の音が聞えるんだ。縛られた野獣が海岸を歩いている。ずしり、ずしり』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.56」角川文庫)

不安ということ。長くなるがハイデッガーから引用したい。

「実存的にみれば、頽落において自己存在の本来性が閉塞され抑圧されていることはたしかである。けれども、この閉塞性は開示態の欠如にすぎないのであって、このことは、現存在の逃亡がおのれ自身に《臨んでの》逃亡であるということのうちに現象的に現われている。逃亡が《それ》に臨んで逃れていく《それ》のなかで、現存在は、逃亡する現存在の『あとから』かえって追いかけてくる。現存在が、存在論的にみて本質的に、おのれにそなわる開示態によってなんからのありさまで現存在自身の前へ連れだされているからこそ、現存在がおのれに臨んで《そこから》逃亡するということが可能なのである。もちろん、この頽落的背離においては、自分が何に臨んで逃亡するのかということが主題的に《とらえられて》いるわけではない。それどころか、そこへ就向する行き方のなかでそれが経験されているわけでさえない。しかし、そのものは、それからの背離のただなかでも、開示されてそこに(『現に』)あるのである。してみれば、実存的=存在的な背離も、それに固有の開示性格にもとづいて、逃亡が《それ》に臨んで逃れていく当のものを実存論的=存在論的にとらえる可能性を現象的に与えているわけである。背離のなかに含まれている存在的な《~からの離脱》の内部でも、それへ『向かって』現象学的解釈を加えれば、逃亡が何からの逃亡であるのかを理解し、概念的にこれを表明することができる。

したがって、分析の手がかりを頽落の現象に求めても、そのなかで開示される現存在についてなんらかの存在論的知見を得る見込みが原理的にないと決まったわけではない。むしろその反対に、われわれの解釈はここでこそ、現存在の作為的な自己把握のとりこになる怖れがもっとも少ないのである。解釈がなすべきことは、現存在自身が存在的に開示している事柄を明示的に展開することだけである。ある心境的了解の範囲内で、解釈的態度で現存在とともに歩み、そのあとをつけて歩みつつ、現存在の存在に迫っていくという可能性は、開示的な心境としての方法的機能をはたす現象が根源的なものであればあるほど、それだけ高まってくる。不安がそのような機能をはたすということは、さしあたりたんなる主張にすぎない。

われわれは、不安の分析にまったく不用意であるわけではない。もちろん、不安が怖れと存在論的にどう連関しているのかは、いまのところ明瞭ではない。しかし、明らかに、現象的な類似はある。その徴候は、このふたつの現象がたいていは分けられずにいて、怖れであるものが不安と呼ばれ、不安の性格をもつものが怖れとなづけられているという事実である。われわれは、不安の現象に一歩一歩迫っていこうと試みる。

現存在が世間と配慮される『世界』とへ頽落することを、われわれは、現存在自身からの『逃亡』となづけておいた。けれども、なにかに臨んでたじろぐこと、なにかから背離することが、みな必ず逃亡であるわけではない。怖れにもとづき、怖れが開示するものーーーおびやかすものーーーに臨んでたじろぐことが、すなわち逃亡という性格を帯びるのである。心境としての怖れについての解釈が示したところによれば、怖れが《それに》臨んで怖れるところの《もの》は、そのつど内世界的な、特定の方面から近くで近づいてくる、有害な、しかしそれてしまうかも知れない存在者である。これに反して、頽落においては、現存在はおのれ自身から背離する。この背離が《それに》臨んでたじろぐところのものも、一般に、おびやかすという性格をそなえていなくてはならないが、しかしそれは、たじろぐ存在者とおなじ存在様相をもつ存在者であり、それは現存在自身なのである。そのものは、『怖ろしいもの』という形でとらえられることはできない。なぜなら、『怖ろしいもの』というようなものは、いつも内世界的存在者として遭遇するものだからである。『怖ろしい』といわれうるただひとつのものは、怖れのなかで発見されるのであって、それはいつも世界の内部にある存在者の側からやってくるのである。

そしてこの逃亡は内世界的存在者に対する怖れにもとづいているのであるから、頽落の背離は、このような性格の逃亡ではない。そのような基礎をもつ逃亡の性格が頽落の背離にそなわっていないことは、この背離がかえって内世界的存在者に融けこむというありさまでこれらの存在者へ《就向する》ことからも明らかである。《頽落の背離は、むしろ不安にもとづくものであり、そしてこの不安がまた、怖れをもはじめて可能にするのである》。

現存在がおのれ自身から頽落的に逃亡するという言い方を理解するためには、この存在者の根本的構成としての世界=内=存在のことを想起しなくてはならない。《不安がそれに臨んで不安を覚えるところのものは、世界=内=存在そのものなのである》。不安がそれに臨んで不安になるところのものは、怖れがそれに臨んで怖れを抱くところのものと、現象的にみてどのようにことなっているであろうか。不安が臨んでいるところのものは、いかなる内世界的存在者でもない。そのさいかような存在者には、本質上いかなる趣向もなくなるのは、このためである。不安に含まれる脅威は、おびやかされた者に、なにか特定の事実的存在可能に関して襲ってくるような、特定の有害性をもっていない。不安の『対象』は、まったく無規定である。それが無規定であるために、世界の内部のどの存在者から危険が迫ってくるのかが事実上決定できないだけでなく、そもそもかような存在者は『問題にならなく』なっている。世界の内部で用具的にまた客体的に存在しているいかなるものの、不安が《それに》臨んで不安を覚えているものではない。用具的なものと客体的なものとの、内世界的に発見された趣向全体性は、そもそも全体として重要さを失う。それらはひとりでに崩壊する。世界はまったくの無意義という性格を帯びる。不安のなかでは、物騒なものとして特別の趣向をもつような特定のものは、なにひとつ出会わないのである。

したがってまた、あぶないものがどこそこから近づいてくるというような、特定の《ここ》や《あそこ》は、不安の眼には入らない。おびやかすものが《どこにもない》ということが、不安が《それに》臨んでおびえているところのものの特徴がある。不安は、自分が何に臨んで不安を覚えているのかを『知り』はしない。しかし、『どこにもない』ということは、なにもないということではなく、そのなかには、方面全般がーーー本質上空間的な内=存在にとっての世界全般の開示態がーーー含まれている。それゆえにまた、おびやかすものは近さの範囲内で特定の方向から近づいてくるものではありえない。それはすでに『そこに』現存しておりーーーしかも、どこにもない。それはひとの胸をしめつけて息もつけなくするほど切迫していて、しかも、どこにもない。

不安が臨んでいるところのもののうちに、『それは無であり、どこにもない』ということがあらわになる。内世界的にみれば無であり無処であるものが不安のなかでかくも煩わしく居坐っているということは、現象的に、《不安が臨んでいるものは世界そのものである》ということを告げているのである。無と無処において打ち明けられているまったくの無意義さは、世界の不在を意味するものではなく、内世界的存在者がそれ自体としてまったく意味を失い、そのため、内世界的なものごとのこの《無意義性》を背景にして、ただひとつ世界がその世界性においてなおも身に迫ってくる、ということなのである。

重苦しく迫ってくるものは、あれやこれやの客体的存在者ではなく、またそれらすべてを取り集めた合計でもなく、用具的存在者全般の《可能性》、すなわち世界そのものである。不安がひいたとき、日常的な話は《実はなんでもなかったのだ》と言うものである。この言い方は、じっさい、それが何であったかを言い当てている。日常的な話は、用具的なものごとの配慮と用談に打ちこんでいる。ところが、不安がそれに臨んで不安を覚えているところのものは、内世界的な用にそなわるなにものでもない。しかし、日常的な配視的な話が了解できるただひとつのもの、用具的存在者からみれば無であるにしても、それがただちに全面的な無であるわけではない。用具性の見地からみて無であるものは、もっとも根源的な『あるもの』、すなわち《世界》にもとづいているのである。しかるにこの世界は、存在論的にみれば、世界=内=存在としての現存在の存在に本質的にぞくしている。してみれば、不安が臨むところが無として、すなわち世界そのものとして明らかになるということは、実は、《不安がそれに臨んで不安を覚えているものは、世界=内=存在そのものである》、ということを意味するのである。

不安を覚えることが、根源的にかつ端的に世界を世界として開示する。まず反省的考慮によって内世界的存在者を度外視し、そのあとに残された世界だけを考えてみると、それを前にして不安が発生するというような次第ではない。不安こそ、心境の様態として、はじめて世界としての世界を開示するものなのである。けれどもこのことは、不安のなかで世界の世界性が理解されるということではない。

不安は~に臨んでの不安であるだけではなく、それは心境であるから、同時に、~《を案じて》の不安である。不安が何を案じての不安になるのかというと、それは現存在の《特定の》ありかたや可能性ではない。じっさい、不安の脅威そのものは、無規定なのであるから、それはあれこれの事実的に具体的な存在可能のなかへおびやかしつつ侵入してくることはできないのである。不安が《それを》案じて不安を覚える《ところの》ものは、世界=内=存在そのものである。不安のなかでは、環境的な用に具わっているものごと、一般に内世界的存在者は、崩れ落ちてしまう。『世界』も、またほかの人びとの共同現存在も、もはやなにものも提供することができなくなる。こうして不安は、頽落しつつ『世界』と公開的な既成解釈からおのれを了解する可能性を、現存在から奪い去る。不安は現存在を、現存在が《それを》案じて不安を抱いているところのものへーーーすなわち、おのれの本来的な世界=内=存在=可能へーーー投げかえす。不安は現存在をおのれのひとごとでない世界=内=存在へ孤独化し、そしてこの世界=内=存在は、了解的なるがゆえに、本質的にさまざまな可能性へむかって自己を投企するのである。したがって不安は、自分が何を案じて不安を抱くのかを開示するとともに、現存在を《可能存在として》ーーーしかも孤独化において孤独化されたものとしての現存在がひとえにおのれ自身によってのみ存在することのできる可能存在としてーーー開示するのである。

不安は現存在のうちに、ひとごとでない自己の存在可能へ《むかう存在》を、すなわち、自己自身をえらびこれを掌握する自由へ《むかって開かれている》という意味での《自由存在》を、あらわにする。不安は現存在を、現存在がはじめから存在してきた可能性としてのおのれの存在の本来性へむかって開かれているという、おのれの自由存在に直面させる。しかしこの存在は、とりもなおさず、現存在が世界=内=存在としてそれに引き渡されているところの存在なのである。

不安が《それを案じて》不安を覚えているところのものは、実は、不安が《それに臨んで》不安を覚えているところのものーーーすなわち世界=内=存在であることがあらわになった。不安が臨んでいるところのものと不安が案じているところのものとのこの自同性は、それにとどまらず、不安を抱くこと自身にも及ぶのである。なぜなら、このように不安を抱くことも、心境として、世界=内=存在の根本的様相のひとつだからである。このように、《開示することと開示されるものとが実存論的に同一であって、この開示されたものにおいて世界としての世界と孤独化された純粋な被投的存在可能としての内=存在とが開示されているということは》、われわれがとらえた《不安の現象によって、ひとつの際立った心境が解釈の主題となってきたということを明瞭に示すものである》。不安はひとを孤独化し、こうして現存在を《ただわれひとり》として開示する。けれどもこの実存論的『独我論』は、遊離した物的主観を無世界的な出現というたあいない空処に移転させるものではない。それはむしろ現存在を、極端な意味で世界としてのおのれの世界の前へ連れだし、こうして現存在自身を、世界=内=存在としてのおのれ自身に直面させるのである。

不安が根本的心境としてこのようなありさまで開示するということについては、日常的な現存在解意と話とが、ここでもやはりたくまざる証拠になっている。前に述べたように、心境は《(われともなく)どういう気がするか》ということをあらわにするものである。不安においては《(われともなく)『不気味』である》。そこにはまず、現存在が不安のなかで身をおいているところが、異様な無規定性をそなえていることが表現されている。すなわち、不安は、無と無処とをあらわにするのである。しかし不気味さという言葉は、それと同時に、落ち着いた家郷をもたぬ居心地のわるさをも意味している。われわれが現存在の根本的構成をはじめて現象的に告示して、内=存在の実存論的意味を『内部性』というカテゴリー的意義から区別して明示したときに、内=存在は~のもとに住まうこと、~と親しんでいること、として規定された。内=存在のこの性格は、その後、世間の日常的公開性によっていっそう具体的な姿で見られるようになった。すなわち、世間は現存在の平均的日常性のなかへ、くつろいだ安心感や当り前のような在宅感を取り入れてくるのである。これに反して、不安は現存在を、『世界』のなかへ頽落的に融けこんでいるありさまから、連れもどす。日常的な気安さは、崩れおちる。現存在は孤独化されるーーーとはいえ、あくまでも世界=内=存在《として》孤独化されるのである。こうして、内=存在は《居心地わるさ》という実存論的様態におちいる。『不気味さ』という言い方は、まさにこのことを指しているのである。

こうしてみると、逃亡としての頽落が何から逃亡するのかが、現象的に見えるようになる。それは内世界的存在者《から》逃亡するのではなく、かえってこのような存在者へーーーすなわち、配慮が世間のなかでわれを失って心安くくつろぐことのできるところへーーー逃亡するのである。公開性の居心地のよさへの頽落的な逃亡は、居心地のわるい不気味さ《からの》逃亡である。そしてその不気味さは、実は、その存在においておのれ自身に引き渡されている被投的な世界=内=存在としての現存在のうちに伏在しているのである。この不気味さはたえず現存在の隙をうかがっていて、それが世間のなかへ自己を日常的に喪失しているありさまを、それとなしにではあるが脅かしつづけている。この脅威は、事実的には、日常的配慮の完全な安心感や充足感と相携えていることがある。不安は、ごくありふれた状況のなかでも俄かにわき上ってくることがある。普通には暗やみのなかに居る方が不気味になりがちであるが、不安は必ずしも暗やみをまたなくとも起こる。とりわけ暗がりでは『何も』みえない、ーーーが、それだけに、世界はなおも、そしていよいよおしつけがましく『現存』するのである」(ハイデッガー「存在と時間・上・P.390~399」ちくま学芸文庫)

バーナードたちはこれから社会へ出る。不安な社会へ出る。しかし残された時間があともう少しだけある。

BGM

「波」/融合する身体4

2019年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
絵画ならもっと一挙に述べることができたに違いない。しかしウルフは小説を選んだ。音楽なら絵画よりより一層一挙に語ることができただろう。しかしウルフは小説を選んだ。しかもウルフは小説の中で絵画や音楽のほうを小説よりも有利な表現形式だと述べてもいる。ではなぜあえて小説なのか。たとえば絵画の場合、次のフレーズに込められたとおもわれる意図を考えてみよう。

「『まるで全世界が流れていたり曲っていたりしているようだーーー地上では木々が、大空では雲が』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.35」角川文庫)

この文章はどう考えてみてもゴッホの言葉を思い出さないわけにはいかない。ゴッホの言葉は両義的だ。画家であるにもかかわらず。

「多くの人間、ことに仲間の連中は、言葉が意味を持たないと思っているんだが、あべこべだね、そうだろう。何かをうまく語ることは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものだ。線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない」(「ゴッホの手紙・上・P.98」岩波文庫)

さらに小説あるいは小説家について述べるとともに画家はどうあるべきか、ゴッホは彼ならでは思想で巧く述べている。

「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ。ーーードミエも同じようにたいした天才だった。ミレーも彼が所属していた階級を代表する画家だ。これらの天才が気狂いじみていたとも考えられないことはない。彼等を手離しで感心して好きになるためには、こちらも少し狂う必要がある」(「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)

そして「灯台へ」読解でも引用した部分だが。

「いつも糸杉に心をひかれる。ひまわりを扱ったように描いてみたいのだ。まだ僕が感じているように描いたものを見たことがないのだ。線が美事で、ちょうどエジプトのオベリスクのような均衡を備えている。それにその緑の質が非常に上品なのだ。陽の照った景色のなかでは黒い斑点になるが、その黒い調子は最も興味のあるもので、正確に捕えるのがとてもむつかしいと思う。しかし、ここでは『青に対して』、もっと具体的に言えば『青の中』において見なければならない」(「ゴッホの手紙・下・P.188」岩波文庫)

この、「具体的に言えば『青の中』において見」る、ということ。「星月夜 一八八九年 油彩 73×92センチ(ニューヨーク近代美術館)」を眺めてみよう。多くの場合、その壮大さに圧倒されないわけにはいかない。しかしゴッホはこの壮大な夜景を「写生」したわけではない。「想像」で描いた。想像力の産物の場合、多くはそれ以上かそれ以下かで終わってしまうのが常だ。ところがゴッホはその壮大な「流れ」を「流れそのまま」に一挙にキャンバス上へ絵画化することに成功している。それができたのはなぜか。そしてその作業は何を意味しているといえるだろうか。或る動きを「動きそのもの」として描き出そうとしてゴッホは成功し、そして彼だけに成功することを可能にさせたもの。しかしその理由を、何もゴッホを実例として上げているわけではないが、実際に文章化した哲学者もいた。ベルクソンから。

「私が点Aから手を上げて点Bへと動かす場合、この運動は私に対して同時に二つの様相を呈する。内側から感じられるものとして、それは単純で、不可分な行為である。外側から見られるものとして、それはある曲線ABの経路である。この線に、私は好きなだけ多くの位置を見分けることができるだろうし、この線自体を位置同士が連携したものとして定義することもできるだろう。しかし、無限個の位置も、点同士を結びつける秩序も、私の手がAからBへと向かった不可分な行為から自動的に生じたものである。この場合、機械論は諸々の位置しか見ないし、目的論はそれらの秩序しか考慮しないだろう。しかしそのため、機械論も目的論も、実在そのものである運動の方をやりすごすだろう。ある意味で、運動は、諸々の位置やそれらの秩序よりも、《多いもの》である。なぜなら、運動をその不可分な単純さにおいて与えるだけで、継起する無限個の位置とそれらの秩序が同時に与えられ、その上、位置でも秩序でもない本質的な何か、つまり動性が与えられるからだ。しかし、別の意味で、運動は、一連の位置とそれらを結びつける秩序よりも、《少ないもの》である。なぜなら、諸々の点にある秩序で配置するためには、まず秩序を表象し、次にその秩序を点によって実現しなければならず、また、寄せ集めの仕事と知性が必要だからだ。それに対して手の単純な運動はこのようなものを何も含んでいない」(ベルクソン「創造的進化・P.123~124」ちくま学芸文庫)

極端に単純化していえば次のようになる。ところがこの単純な作業を、作業としては、人間はいつもふつうにやっている。特に意識していないだけで。

「榴散弾が、地面に触れる前に破裂して、爆発地帯を不可分の危険で覆うように、AからBへ進む矢は、ある長さの持続においてではあるが、一挙にその不可分な運動性を展開する。ゴムひもを想定して、AからBへ引き伸ばしてみよう。ゴムが広がるのを分割できるだろうか。矢の飛行はこの広がりそのもので、それと同じく単純で、分割不可能である。それはたった一度の跳躍なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.392」ちくま学芸文庫)

とすれば、意識するとは一体どういうことなのか。意識するや否や不可能になってしまう行為、ゴッホの言葉では「『青の中』において見」る、ということ。何がそれを不可能にしているのか。「流動」を「流動そのまま」ではなく逆に「一瞬の切断面」しか捉えることができないのはなぜか。

「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)

人間は「一瞬の切断面」しか捉えることしかできない。それは人間に与えられた知性の要求に素直にしたがっているということでもある。それは各々の個人的な視線における限りでの「見え」あるいは「眺め」でしかないが、それはそれで各々の個人的な「見え」あるいは「眺め」としては正しいし、否定できない事情でもある。だから、「『青の中』において見」る=「流動そのものに《なる》、そしてそのような《生成》を維持したまま見る」、ということは、まさしくその行為自体が「狂気」だと推定せざるをえない。事実、ゴッホは精神病院に入院したわけだが。とはいうものの、では、現在の精神医療の中にゴッホが入ってきたとしよう。あるいはゴッホ的人物が。するとこういうことが起きるに違いない。すなわちゴッホは、ほかでもないウルフあるいはウルフ的人物と《出会う》ということが。

「世界のなかには、思考せよと強制する何ものかが存在する。この何ものかは、基本的な《出会い》の対象であって、再認の対象ではない。ーーー出会いの対象は、所与ではなく、所与がそれによって与えられる当のものである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.372~373」河出文庫)

もし「思考せよと強制する何ものかが」やって来なければ、ゴッホあるいはゴッホ的人物もウルフあるいはウルフ的人物もともに、「受動的総合という至福」のうちに安らっている〔快感する〕ことができたに違いない。

「快感とは、〔おのれのイマージュで〕満たすひとつの観照によってもたらされる感動であり、この観照それ自身のうちに、弛緩《と》縮約の事例が縮約されているのである。受動的総合という至福が存在するのだ」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.209」河出文庫)

しかし世界はどんな人間に対しても、人間である限り、「受動的総合という至福」のうちに安らう〔快感する〕という態度を許してはくれないようにできている。むしろ世界の「真理」は「醜い」。ニーチェはいう。

「『善と美とは一つである』と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。さらにそのうえ『真もまた』と付け加えるなら、その哲学者を殴(なぐ)り飛ばすべきである。真理は醜い。私たちが《芸術》をもっているのは、私たちが《真理で台なしにならない》ためである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二二・P.338」ちくま学芸文庫)

ところで、ドゥルーズのいう「所与がそれによって与えられる当のもの」とは何のことだろうか。端的にいって、それは暴力的なものだ。自分に対しても他者に対しても。そしてそれはいつも外部から来る。それは常に既に人間を社会的文法という「鋳型」の中に流し込んで加工=変造するために人間のもとを訪れる。もう来ている。このことに関してはラカンに触れつつ前回述べた。また、狂気の画家について述べたが、音楽家について述べられてはいないのでは、という問いに対して、それはベルリオーズの名を上げるだけで十分だといっておこう。もし彼が現在の日本に生きていたとすればいわゆる「ストーカー」の罪で実刑判決を受けていたに違いないからだ。そして彼の場合、判決の内容がどうであれ、ストーカー行為を止めるということはおそらくできない。この反復についてはまたの機会に述べたい。次へいこう。

ルイスの特権的意識の発露。

「『草や木、やがては元の姿に立ち返る碧空のうつろな空間を吹きぬけ、吹かれては揺れかえす木の葉をゆさぶって、流れゆく風、膝をかかえて坐っている、ここの我々の環、これらは或る他の秩序、しかもよりよきものを暗示し、それが永遠に原理となるんだ。これを瞬間に見とり、今宵言葉に留め、鋼鉄の指輪に造り変えてやることにしよう』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.37」角川文庫)

すべてを愛しつつすべてを言語化して保存しておこうという二律背反的態度。言語化という作業は、愛する対象を流れの中から引きずり出し、言語という秩序の中で固定させ、対象から対象独自の生命を引き去ってしまうことにほかならない。しかしそもそも対象を個体として愛するためにはすでに対象を「一箇のもの」として言語的に構造化して画鋲で打ち付けておかねばならない。そして言語化とは、一般化の、記号化の、凡庸化の、群畜化の作業、或る種の一元的理念型へ加工=変造する作業なのだ。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)

ジニーは鏡の前に立つ。全身が映り込む。するとなぜだかわからないが、途端に踊り出したくなる。実際に躍ってしまう。

「『わたしは二人を追い抜いて階段を跳び上り、次の踊りの場へ行くの。そこには長い鏡が掛かっていて、すっかり全身が見えるわ。今こそ、身体も頭を一つに見えるの。こんなサージのフロックを着ていても、一つに見えるわ。身体と頭が。ほら、頭を動かすと細い身体を下の方へ、ずっと漣が立っていくわ。細っぽい足でさえ風に吹かれている茎のように波立つわ。わたしがスーザンの固い顔とローダのぼんやりしている顔との間で見えかくれするわ。土地の裂け目と裂け目の間を走る焔の中の一つのようにわたしは飛び跳ねるの。動いて、踊るの』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.39」角川文庫)

ここで「間で見えかくれ」という言葉には注意を要する。「スーザンの固い顔」《と》「ローダのぼんやりしている顔との間」で「見えかくれ」するということ。「確固たる固形物」《と》「曖昧でやわやわしたぼんやり性」との間で盛んに「見えかくれ」する運動体。性交時の勃起的男性器、パンチラ、襟元、手首、裾、眼差し、など様々な様態が考えられよう。とはいえ、エロティックな妄想を空想ばかりしていては時として完全な間違いに陥る。「裂け目と裂け目の間を走る焔」のようだと書かれているが。さらにウルフは夫=レナードとともにホガース・プレス社から「フロイト著作集」を出版してもいるが。だからといって、いつもフロイトを持ち出してくるのが正しいことなのか。しかしフロイトを持ち出さないことが正しいことなのか。どちらでもない。むしろこのような鏡を介したシーンの解釈にはまったく別の分野の専門家の思考を通して見るほうが的を得た解釈を手にすることができることがある。こう考えよう。「裂け目と裂け目の間を走る焔」。「焔」は瞬発力を有している。そしてまたこの瞬発力ゆえに「裂け目と裂け目の間」を埋めることができるものでなくてはならない。たとえば商品Aと商品Bとが交換不可能になって絶望に陥っているときを想像しよう。こんなふうに。

「それから強情が現われてくるが、これは本来永遠者の力による絶望である、換言すれば人間が絶望的に自己自身であろうとして自己のうちなる永遠者を絶望的に濫用するのである。強情が永遠者の力による絶望であるというちょうどそのために、彼は或る意味では非常に真理の近くにある、ーーーだが彼が真理の側に非常に近くあるというちょうどそのために、彼は無限に真理から遠く隔たっている」(キルケゴール「死に至る病・P.111」岩波文庫)

だから絶望は商品Aが商品Aのままであり、商品Bが商品Bのままで放置されるとすれば、両者ともに必ず廃棄処分されないわけにはいかないという「あいだ」を生きるものに特有の絶望である。要するに「救世主」が必要だというわけだ。資本主義社会の中でダブルバインド(板ばさみ)されて絶望している両者のために「救世主」の機能を果たすことができるのは唯一、貨幣のみだ。ということは、「裂け目と裂け目の間」を埋めることができるものは貨幣であり、また「裂け目と裂け目の間を走る《焔》」は、貨幣を介した商品交換によって実現される「労働力」ならびに「剰余価値」という「動いて、踊る」ものでなければならない。しかしそのためには、信用がいつも信用として機能しているかどうかが重要になってくる。グローバル資本主義では貨幣ではなくすでに信用の有無が貨幣価値を決めるのであり、さらに信用は手形流通が国際的な規模で確実な限りで信用されるのであり、間違っても個別的貨幣(あるいは個々の商品形態)が、ではない。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)

さて、先に「ぼんやり性」と呼んだローダ。ローダは鏡を嫌う。ローダは鏡が先取り的に自分へ自分自身を与える機能を持っていることに気づいている。「ぼんやり性」としてのローダは「ぼんやり性」ゆえに「しょっちゅう何も考えない無の中へ沈んでいく」というけれども「わたし自身をこの肉体に呼び戻す」ためには逆に鏡の機能が必要なのだ。ローダは矛盾へ陥っている。

「『ひとりで、わたしはしょっちゅう何も考えない無の中へ沈んでいくの。世界の端から無の中へおっこちないように、そっと足を突き出してなきゃいけないわ。何か固い扉を手で打って、わたし自身をこの肉体に呼び戻すようにしなくてはいけないわ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.41」角川文庫)

というふうなのだが、この少し前、ローダは重大なことを告白している。

「わたしったら、こっちやあっちへ移ってみたり、姿を変えてみたり、それにすぐに見抜かれるの。ーーーわたしったら、先ず見て、お二人がしてしまった時に他の人たちがすることをしなくてはならないの」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.40」角川文庫)

急速な変態をどんどん遂げていくという意味では流通貨幣に似ているが、「先ず見て」、事後的に「他の人たちがすることをしなくてはならない」と述べている点はヘーゲル弁証法をおもわせる。だがヘーゲル弁証法は流通貨幣の運動に似ていないだろうか。

「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.219~222」平凡社ライブラリー)

ローダは、ヘーゲルを通して見る限り、鏡の承認機能を必要としており、同時に鏡の承認機能を排除したい、少なくとも遠ざけておきたいという矛盾の中にいる。そしてこのことはローダの「ぼんやり性」と無縁ではない。むしろローダは「ぼんやり性」に《なる》とき、ふだんは目に見えない「幻覚的な夢の生」を夢見ている(生きている)。後のセンテンスでも出てくるのでそのときにもう少し詳しく触れたい。今は次の文章を引用するに留める。

「自らの生活を生きるかわりに《夢みる》ような人間は、おそらくはそのようにしてありとあらゆる瞬間に、過ぎ去ったじぶんの物語にぞくする無限な細部のひとつひとつをその視界のうちに留めておくことだろう。たほうその反対にこうした記憶を、そこから生まれてくるいっさいのものとともに撥(は)ねつけようとするひとであれば、じぶんの生活をたえず《演じて》、それを真に表象することはないはずである。そのひとは意識をもつ自動人形のように、有用な習慣の坂をくだるのであって、その習慣とは刺戟を適切な反応へと繰りのべる〔だけの〕ものなのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.307~308」岩波文庫)

だから、貨幣もまた或る種の「夢」なのだ。というのは、その価値は常に変動しているからである。むしろ変動しないわけにはいかない。ゆえに貨幣は貨幣価値を持つといえる。しかしその余りにも危うい浮動性によってもまた貨幣は貨幣価値としての適性を有するわけだが。ところがこの柔軟性は貨幣に唯一のものではない。柔軟性でありなおかつ一般性でもあるという意味では言語もまたそうだ。そして性もまたそうだということを常に頭の中で表象しておかないことには、作品「波」を読み進めるに当たって困難が続出すること間違いない。ローダはベルクソンのいう「逆円錐」におけるSからABのあいだを間断なく移動する「夢見る流通貨幣」として登場しているというべきだろう。

BGM

「波」/融合する身体3

2019年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
作品「波」では各章の冒頭部分にそれぞれ「波」の描写がある。それは「波」についての描写だろうか。それとも「波」とそれを取り巻く周囲の描写を含めた描写だろうか。もし描写を文字通り受け止めるとすればそれは「波」とそれを取り巻く周囲、と考えることになるだろう。するとそれは、「波」《と》それを取り巻く周囲、ということになる。《と》という接続詞が介入する。切断が可能だということだ。同時に接続もまた可能だ。しかし各章の冒頭部分に置かれた「波」の描写は、おそらく、切断を求めるタイプの描写ではないに違いない。むしろ接続された「ひとかたまり」のものとして一気に読み下ろされなくてはならない描写だろう。たとえばこうある。

「陽射しが強くなると、蕾はここかしこでそれぞれに開いて、花々を拡げた。緑の縞をつけてふるえているのは、開花しようとする努力が花々を揺り動かしたようでもあり、白い花弁を蕊の繊弱い鳴子が打つ時には、仄かな鐘楽器を鳴りひびかせた。あらゆるものが和やかに形を失い、磁器のお皿が流れ、銅のナイフは液体でもあるようだった」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.26」角川文庫)

「波」ということ。「波」とは何か、ではなく、「波」ということ。あるいは波動としての「波」に《なる》とはどういうことか。このことについてここではまだ何も語っていない。参考としてベルクソンから引用しておきたい。

「われわれの視点からすると、生命は全体としてある巨大な波として現れる。その波はある中心から広がり、その円周のほぼすべての点で止まり、その場の振動に変わる。ただ一点で、障害はこじ開けられ、推進力が自由に通過した。人間の形態が記憶しているのはこの自由である。人間以外のところではすべて、意識は袋小路に追い込まれる。人間においてのみ、意識は立ち止まらずに進んだ。それゆえ人間は、生命が携えていたものすべてを引き連れていくわけではないが、生命の運動を無際限に続ける。生命の他の線の上では、生命が含んでいた別の傾向が進展していた。すべては補い合っているので、これらの傾向のいくらかを人間は保存していただろうが、保存していたのはそのうちのわずかなものだけである。《お好みに応じて、人間とも超人とも呼べるような、はっきりしないぼんやりとした存在が自己を実在化しようとしたが、自己のある部分を道の途中で捨てることで初めてそうするに至ったかのように、すべては進行している》」(ベルクソン「創造的進化・P.338」ちくま学芸文庫)

なるほど「波」は生命の全体であるとしても、しかし「波動」あるいは「振動」はスピノザの言葉によればその瞬間的な「変状」でありなおかつ「様態」に過ぎないということになるだろう。なお、ベルクソンの記述に「超人とも呼べるような」とあるが、それについてはもっと後で、またの機会に述べる。

「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)

寄せては返す「波」の一つ一つは一回限りで二度と戻らない「単独性」である。したがって、寄せては返す「波」の一つ一つは、個別(個物)的な「波動」あるいは「振動」として考えられる。するとどういうことがいえるだろうか。

「個物は神の属性の変状である。あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態、にほかならぬ」(スピノザ「エチカ・第一部・定理二五・系・P.70」岩波文庫)

スピノザのいう「神」は汎神論的な意味でいう「神」だ。それは「全自然」あるいは始まりもなく終わりもない「宇宙」であると解される。その宇宙の中で波の一つ一つは瞬間的な唯一の「波動」あるいは「振動」をなす。というより、そうとしか考えようがない。人間の知性は「ひとかたまり」のものをそれ自体「ひとかたまり」として受け取ることができない。人間の知性はなるほど他の動植物と比較すれば比較にならないほどの次元にあるといえるかもしれない。しかしそれを高低の違いとして捉えることは本当に正しいことだろうか。ニーチェの場合、人間を動物より「高い」ものとして考えてはいない。むしろ人間に比べれば動物のほうをこそずっと自然な生命体として捉えている。ニーチェでは人間と動物の《あいだ》に程度の高低は設けられていない。むしろ両者は何か根本的に違った生き物として区別されている。実にしばしば人間は動物から嘲笑われる珍妙な動物として描かれている。ニーチェのユーモアもそこにある。そこでニーチェから離れてみたとしても、人間の知性は「ひとかたまり」のものをそれ自体「ひとかたまり」として受け取ることは到底できない。人間が認識するとき、それは常に「映画的」な過程を経る、その限りでの認識であるほかない。各瞬間ごとの差異的=微分的で一回限りの非連続的な諸映像を、わざわざ連続的な運動に置き換えて見ているに過ぎない。事情はこうだ。

「すべての人物に固有なすべての運動から、非人称的、抽象的で単純な運動、いわば《運動一般》を抽出してそれを映写機の中に置く。そして各々の特殊な運動の個別性を、この匿名の運動を人称的な態度と組み合わせることによって再構成するのである。以上が、映画のやり口であり、われわれの認識のやり口でもある。諸事物の内的な生成に貼りつく代わりに、われわれは諸事物の外に身を置いて、それらの生成を人工的に再構成する。われわれは、過ぎゆく持続のほぼ瞬間的な眺めを獲得するのだが、それらの眺めはこの実在を特徴づけるものなので、われわれは、認識の装置の底に位置する、抽象的で単調な眼に見えないある生成に沿ってそれらの眺めを繋いでやれば、この生成そのものの特徴的な点を模倣することになるだろう。知覚、知性による理解、言語は、一般にこのように進行する。生成を考えるにせよ、表現するにせよ、もしくはそれを知覚する場合でさえ、われわれは、ある種の内的な映画の装置を作動させること以外ほとんど何もしていない。それゆえ次のように言って以上を要約しよう。《われわれの通常の認識のメカニズムの本性は、映画的である》」(ベルクソン「創造的進化・P.387~388」ちくま学芸文庫)

なぜなら、同じことだが。

「《知性が明晰に表象できるのは、不連続なものだけなのである》」(ベルクソン「創造的進化・P.198」ちくま学芸文庫)

「事物や状態は、われわれの精神が取った生成の瞬間写真でしかない。事物など存在しない。あるのは作用だけだ」(ベルクソン「創造的進化・P.316」ちくま学芸文庫)

「実在するものとは、形態の絶え間ない変化である。《形態は推移の瞬間写真でしかない》」(ベルクソン「創造的進化・P.383」ちくま学芸文庫)

「持続は、《そのうちでじぶんが行動するのを観察するさいには》、さらにみずからを観察することが有用である場合ならば、要素がたがいに切りはなされ、並置されている持続である。たほう持続は、《そのなかでみずからが行動するかぎりでは》、私たちの状態がたがいに融合しあっている持続となる」(ベルクソン「物質と記憶・P.364」岩波文庫)

また「P.321・図5」を参照しつつ。

「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)

そしてまた「P.321・図5」を頭の中で常に表象しながら。

「行動の平面ーーー私たちの身体が、その過去を運動的な習慣へと凝縮している平面ーーーと、私たちの精神が流れさったじぶんの生の情景を、そのあらゆる細部にいたるまで保存している純粋記憶の平面のあいだには、これとは反対に、ことなった意識の無数の平面、私たちの生きられた経験の全体にかかわる、統合され、にもかかわらず多様な無数の反復がみとめられると私たちには思われた。記憶をより個人的な細部によって補完するとは、記憶群をこの記憶と機械的に並置することではまったくない。よりひろがりのある意識の平面へ身を置きうつすこと、行動をはなれ、夢の方向へむかうことである。なんらかの記憶を局在化することであるなら、それはまして、その記憶を他の記憶群のあいだに機械的に挿入することではない。記憶をその統合されたありかたにおいていっそう拡大することにより、じゅうぶんな大きさをもった円を描きだして、過去のその細部がその円内でかたどられるようにすることなのである。こういった平面はまた、かんぜんに出来あがった事物ならそうであるように、たがいに積みかさなって与えられているわけではない。これらの平面はむしろ潜在的に存在する。つまり、その存在は精神の事象に固有なものなのだ。知性はあらゆる瞬間に、それらの平面をへだてる間隔にそって運動しながら、それらの平面を不断に再発見する。あるいはむしろ、そういった平面をたえずあらたに創造する。知性の生は、この運動そのもののうちにある」(ベルクソン「物質と記憶・P.469~470」岩波文庫)

というべきだろう。

差し当たり、「各瞬間の唯一性」ということについてはこれくらいでよいのでは、とおもわれる。各瞬間ごとに生きられる現実の差異的な「生」は実際に表象される過程で削ぎ落とされてしまい、すでに理念体として単純化され一般化され記号化されている「範型」という形でしか残されないということ。そして再認されるものはいつも「逆円錐」のSからABまでのあいだを各瞬間ごとに行ったり来たりしている記憶の諸平面だけだということがわかればいいのだから。ところで、あらゆる生命体の中で人間だけを特別視しようとする人々がいるのも事実だ。しかしそのような特権化には何らの根拠も実はない。さらにいえば、もし実際に生物の世界に「進化」の過程があったとしてもなお、人間がその頂点に位置するとは間違っても言えない。なぜだろうか。

「生命は本質的に、物質を横切って放たれ、そこからできる限りのものを描き出す流れなのである。したがって、厳密に言えば、計画も設計図も存在していなかった。他方で、あまりにも明白なことだが、自然の残余のものが、人間に関係づけられていたわけではない。われわれは、他の種と同様、闘っているし、他の種とも闘ってきた。最後に、生命が道の途中で別の偶然事にぶつかっていたら、それによって、生命の流れが別の仕方で分割されていたら、物理的にも精神的にも、われわれは今とはかなり異なるあり方をしていただろう。このように様々な理由で、われわれが見ているような人類が進化の運動の中で前もって形成されていたと考えるのは誤りだろう。人類が進化全体の到達点であるとさえ言えない。なぜなら、進化は複数の分岐する線の上で遂行されてきたし、人間種がそれらの線の一つの最後にあるとしても、他の諸々の線は、その末端にいる別の種と共に辿られてきたからだ」(ベルクソン「創造的進化・P.337~338」ちくま学芸文庫)

もっといえば、あらゆる生命は「合目的性」などという思い上がった人間の安易な創作による浮薄極まりないイデオロギーとは一切無縁である。あるいは「合目的性」などという矮小この上ないイデオロギーを遥かに超え出ていく何ものかだ。

「生命全体は、創造的進化として思い描かれるとき、自由な行為や芸術作品に類似した何かである。もし合目的性を、前もって考えられた、あるいは考えられうる観念の実現と解するならば、生命は合目的性を超えている」(ベルクソン「創造的進化・P.285」ちくま学芸文庫)

さて、作品「波」に戻ろう。ルイスはいう。

「『ロンドンが粉々に乱れ飛ぶ。ロンドンがうねり波立つ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.28」角川文庫)

この場合、ロンドンが比喩として描かれていると考えてしまいがちかもしれない。ところが比喩ではないのである。ロンドンが比喩として描かれているわけではなく、文字通りに描かれているとおりの、そういう「ロンドン」の実在性の中を一挙に生きるということでなくてはならない。読むということはそれが行為でもある以上、その実践は常に可能である。だから「ロンドン」とは何かと問うのは止めよう。むしろ、「粉々に乱れ飛」び、なおかつ「うねり波立」っている一箇の《様態》としての「ロンドン」が無数の震動あるいは波動と化して、生産的な力の流れの中を縦横無尽に横切る、という理解でなければおそらくわけがわからなくなるだろう。そしてこの理解はルイスにとっては平凡な、しかし紛れもない事実だ。

制服問題を提起するのはローダである。イギリスであるにもかかわらず、それでもなぜ女性からの問題提起なのか。ともかく、「顔が、個性が、ない」、という。

「『でもここじゃあ、わたしは誰でもないの。顔が、個性が、ないの。みんな褐色のサージ服を着ているこのお仲間が、わたしからわたしの正体を奪ってしまったんだわ。わたしたち、みんなつれなくてよそよそしい』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.30」角川文庫)

もっとも今の日本では、制服は、いっときに比べてそうとう洒落たデザインのものが採用されるようになった。それには特に私学の場合、制服がお洒落でなければ誰も受験してくれないし通ってくれないし卒業してもくれないし、したがって金にならないという財政事情がある。ゆえに生徒らは或る程度の学力を有する場合、基準のあいまいな私服よりお洒落度が高く見える制服を採用している学校を選択するようになった。ところが制服の拘束性は変わらない。むしろ強化されたという事実について生徒らはほとんど意識していない。この、「意識していない」ということ、「無意識的」だということにこそ、長い時間をかけて管理社会が目指してきたデータバンク的メカニズムの重大ポイントがある。このポイントをはずしてしまうと教育行政自体が脱線してしまう。だから制服はあえて「お洒落でなくてはならない」。というのは今の新自由主義的グローバル社会が「規律・監禁」を無効化した無政府主義的資本主義社会である以上、制服はただ単なる「鋳型」としての機能をはみ出し、あらかじめ先に準備された「鋳型」として、生まれてくる子どもたちをそっくり制服化することを目指しているからである。ラカンの「鏡像段階論」に明記されているように、人間にとって人間自身は人間の内部から自然に湧き上がってくるものではなく、逆に外部から与えられるばかりかその内容をもどんどん盛り込みにくる整形外科手術的なものだ。制服はかつてより遥かに万能性を発揮している。あるいはより一層激しく生徒の単独性(個性)を廃棄し去って一元的に加工するための政治的装置として機能している。とりわけ女子学生の場合はそうだ。ニーチェはいう。

「《ギムナジウムの生徒としての少女たち》。ーーーどんなことがあろうとも、われわれのギムナジウム教育まで少女たちにもちこむのはよせ!才気に富んだ、知識欲のさかんな、火のような若者どもをしばしばーーーその教師たちの生写しにしてしまうようなあの教育を!」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四〇九・P.359」ちくま学芸文庫)

多くの女子学生はおもう。大学に入学してからようやく思い当たる。あるいは就職してから。中学高校で経てきた制服教育とは一体何だったかと。しかしそれは何も私服がよいということを意味しない。そうではなく、或る特定の制服を欠かさず着用することによって自分自身の内容が「女性という鋳型」の中へ流し込まれ加工されたということに気づく、という意味で。ただ「単なる女性という記号」に加工=変造された、という意味で。しかしこの加工作業は人間の内容がまだ未熟であり、埋め立てる余地が存分にあるために幾らでも鋳型へ流し込むことができるわけであって、逆に早熟な女性の場合、この加工=変造作業は時として困難である。早熟さという点でいえばヨーロッパはそうだった。資本主義成立以降、世界史の中で最も早熟な生徒の一人だったといえる。後にアメリカがそこに加わってきた。またアジアや南米あるいはアフリカなど発展途上地域では、学校教育という分野に限ってみても、後になればなるほどより一層高度に発展したテクノロジーが先進国からもたらされるため、それらを検証することで様々なテクノロジーをますます急速かつ反省的に用いることができるという相対的に有利な条件が生じる。なので今や様子見できるほどの余裕を持つに至っている。タイミングの悪かったのは日本だ。日本は近代化に失敗した。戦争にも敗北した。そして何が残されたか。今や日本は日本の女子中高生やOLの隠し撮り映像を通して、「透けブラ=国宝説」の震源地として、違法ポルノ映像の素材提供大国として世界に華々しく君臨している。そしていわねばならないが、「違法ポルノ映像の素材提供大国」の「象徴」とは何か、ということだ。今なおそれは天皇であり天皇をおいてほかにない。にもかかわらず、日本の警察ならびに国家公安委員会は「違法ポルノ映像の素材提供大国」の「象徴」=「天皇」という単純この上ない論理について見て見ぬふりを決め込んでいるようにしか見えない。まったく謎めいた態度だ。

だからといって、女性のお洒落がいけないなどとは一言もいっていないし、そもそもお洒落がいけないとはまったくおもいもしない。年齢性別国籍宗教に囚われず、それぞれが思い思いの衣装を実現できればよいのではといいたいだけだ。ただ、女性を女性という名の「鋳型」にはめ込んで世界中から軽蔑されているだけでなく国際社会の中でも稀に見る違法ポルノ製造のためのまたとない素材提供という陰質で不愉快で不名誉な連動装置が創設されるのを、日本国家はぼうっとしたまま担っていることを間違いなく放置していることに、違和を感じないわけにはいかないと強力に主張しておきたい。同時に問われねばならないが、女性の社会進出に関連して、別に何も会社や公共機関で働いていなくても、専業主婦はそれだけで立派な社会人である。会社や公共機関で働いていないと胸を張って社会人だとはいえない珍妙な空気がもう何年も前から、少なくとも明治維新から日本中に蔓延している。これもまた日本独特の暴力的空気であり、世界の中でのガラパゴス化への意志と無関係ではない。そしてその根底には男社会という強情が根を張っているだけでなく、男社会は上位百社を支え、上位百社は男社会を支えてきた相互依存的習俗の一つの結果だろう。ネット化が進みリゾーム化した時代にいつまでこのような時代錯誤に依存していくつもりなのだろうか。

さて、「男社会は上位百社を支え、上位百社は男社会を支えて」いるという実状と切っても切れない、常に接続されたパラダイム(社会的枠組みを規定する諸条件が一致する時期)において、その中で教育行政も繰り返し考察されなければならない。教育行政という次元でいえば制服問題のみならず、教科書問題こそ、避けて通ることのできない問題であるに違いない。教科書は教育課程を通して教育課程の中で外部から与えられるほかない。なお、日本は間違っても旧ソ連ではない。スターリン独裁体制時代のような絶対的なトップダウンは通用しない。地方自治体には地方自治体の権利があるしそれを行使することは大変重要なことだ。だが、この種の権利はしばしば積極的に行使していないと、たとえば教科書問題でいえば、いとも簡単に上位機関である文部科学省の指導に服従するほかなくなるという政治的ダメージをこうむることになる。沖縄に行けば、あるいは北方領土に行けば、日本の情けなさがどれほど深甚なまで情けないか、逆に地方自治体に対してのみどれほど強硬な態度に出るか、よくわかるだろう。このような議員同士によるあるいは同一議会階級同士による蓄積したエネルギーの流動は、それが外部へ向けて放出する方法を持たない場合、どのような事態を出現させるか、少し前に中井久夫から引用したばかりなのだが。

「江戸期を通じて武士階級にはつねに薄氷感があり、去勢感情とその否認が存在したとみてよいであろう。その証拠の一つは、黒船襲来後の尊攘運動である。地獄の釜が開いたごとき殺し合いは、西南戦争(一八七八年)まで四半世紀にわたって続いた。この間、殺害された外国人は数えるほど少数である。否認された去勢感情の反動としての奇妙な特徴として、階級の自己破壊ともいうべく、主目標は自己階級内部に指向された」(中井久夫「分裂病と人類・P.77」東京大学出版会)

そして一般市民はこの不毛な闘争に巻き込まれて疲弊するのだ。それにしても、制服にせよ教科書にせよ「与える」ということに付随する普遍的なまでの重大さについて、諸外国からみて日本は余りにも幼稚な認識しか持ち得ていないと半ば軽蔑を含まざるをえない同情の念を込めて映っているに違いない。「与える」ということ。公教育では「贈与」ということになるわけだが。この「贈与」には重大この上ない問題が今なお存する。デリダはいう。

「贈与があるためには、贈与を忘却せねばなりませんが、しかしそれと同時にそういった忘却それ自体は保持されねばならないのです。贈与が生起するためには、それはどんな忘却であってもかまわないというわけではありません。消去されねばならぬと同時に、消去の痕跡を保持せねばならないのです。そして、こういった二重の命令は、明らかに狂気を引き起こすダブル・バインドであります。私は与えようと欲し、他者が受け取ってくれることを欲します。したがって、この贈与が生起するためには、他者は私が彼に与えるということを知っていなければなりません。そうでなければこういったことは意味をもちませんし、贈与は、生起しません。しかしながら、私が与えるということを他者が知っていたり、私のほうもまた知っているならば、贈与はこの象徴的な認知(感謝)によって廃棄されてしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。とはいえ、贈与はあらねばなりませんし、贈与はよいのです。ですから、贈与の想定それ自体、つまり贈与のこの狂気、これはダブルバインドの状況なのです。そして、あらゆる掟、あらゆる掟についての経験がこうしたタイプのものである、と私は言いたい。一つの掟、それは必ずしも悪いものではありません。われわれはもろもろの掟は必要としますし、掟を与えること、それはまた贈り物でもあります。というのも掟は第一に安心させ、不安を避けさせてくれるからです。ところが、掟の贈与は同時に悪いものでもあります。それはパルマコンであり、毒であります。贈与はどれも毒なのです。こういった観点からすると、記憶、時間ならびに歴史との関連において、贈与と掟の贈与とは、実際、何らかの類似したものである、と言うことができます。人が与えるときーーーこれが恐ろしい点であり、贈与をただちに毒に変えてしまい、したがって贈与をエコノミー的円環のうちへ引きずり込んでしまうのですがーーー人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕のです。こういったわけですから、偉大な支配者たち、ないしは偉大な女支配者たち、すなわち最も象徴的に自己固有化をおこなう人々が、最も気前のいい人々である、といった事実を前にしても、それを見て驚くなどということは少しもないのです。贈与と掟の贈与のなかに読み取るのがむずかしいのは、まさにこういったことなのです。

与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうるのです。想像していただけるでしょうが、真の贈与、すなわち暴力をふるわないような、そして与えられた物やそれが与えられた相手を自己固有化しないような贈与、そういった贈与は、贈与の諸標識までも消去せねばならないでしょう。それは現われない贈与であり、したがって他者にとってのみならず、自分にとってさえも贈与の諸標識を消去するでしょう。真の贈与は、与えているということを知りさえせずに与えることのうちに、その本領をもっているのです」(デリダ「時間をーーー与える」『他者の言語・P.110~112』法政大学出版局)

「与えるとは、たいへんに暴力的な挙措でありうる」=「人が与えるとき、人はなんらかの掟を与えるのであり、掟をつくる〔命じる〕」。ここでデリダは「教師と生徒との関係」が「債権者と債務者との関係」に置き換えられてしまう危険性があるといっているわけだ。ニーチェ参照。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)

八十年代後半の現代思想ではデリダのような指摘は当たり前のものとして、日本のごくふつうの大学の中でも大いに発言権を持っていた。ヨーロッパでは欧州全域において。あれから四十年近くが過ぎた。すると今度は、あれほど進歩していた思想に対する反動的勢力が復讐感情・劣等感(ルサンチマン)を剥き出しにして歴史修正主義者として出現してきた。逆説的にいえば、歴史は前へ向かって退行しているように見える。

ところで、デリダのこの論考にヒントを与えたのはこれまたニーチェである。

「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫)

子どもたちに何かを「与える」ということが本当はどれほど至難で困難な態度を必要とするか。与える側に立つ大人(あるいは大人子供)たちはもっとじっくり考えたほうがよいようにおもう。かつてのように子どもたちが制服になるのではない。それとなく誘惑する制服が瞬時に子どもたちに《なる》ばかりか子どもたちの内容までをも占拠する。どこを見回してみてももはや子どもたちはおらず、逆に制服が登下校するのだ。そしてそれは管理社会の資本増殖のためのただ単なるデータベースと化して堆積されていく。データベースは更新され新しい資本増殖のための具体例を教育行政に与える。教科書の内容もまた同じように子どもたちに働きかける。この点にはよく注意しておかないといけない。後から世界史的大問題へ発展したとしても、その責任を取るのはそのとき大人になっているはずの、今の子どもたちだから。もし仮に子ども世代に責任を押し付けることにならない場合を想定できるとすれば、それは全世界に対して日本という国家が、そして日本だけが、日米同盟すら反古にして単独で勝利し全世界を支配下におさめ完全に圧倒した瞬間のみに限られる。なるほど今のアメリカは日本を従属させているけれども日本と心中するつもりなどまったくない。日本が牙を向けばアメリカはそれ相応の対応を取るに過ぎない。小型原爆の一つでも軽く落として済ませるだろう。それでも、ありうるだろうか。あらゆる他者を無視した空想的な国家の生き延び方というものが。もっとも、日本は日本の頭の中だけの幻想的な光景として想像することはありうるわけだが。想像するだけなら。しかしそのような想像もまた或る種の「理念型」にはめ込まれた上で、事後的にのみ出現することが許されている一般化された記号的なシーンの一つに過ぎない。それでもなお一般化と記号化を越えたいというのなら、そのためには資本主義そのものを越え出ていくほかないだろう。ほとんど不可能な試みだ。資本主義を越えるためには今の社会的文法の枠組みを破壊しつつ越え出ていくほかない。できるだろうか、そのようなことが。今の日本政府に。しかも現行の社会的文法は、個人的想像の範囲を遥かに越えた力を、暴力を、滔々とたたえているというのに。

BGM