白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<幽閉・覗き見・監視>としての<私>はあらゆるものの<多様性>を謳歌する

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二度目のバルベック滞在はローカル鉄道を舞台として変化に富む様々な体験を<私>に与えた。アルベルチーヌがトランス(横断的)両性愛者だと知ったのもその時だ。と同時に<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>することに決めた。アルベルチーヌのゴモラ(女性同性愛)の欲望を阻止するためだ。そして差し当たり<幽閉・覗き見・監視>は成功している。「いまや私はどれほど思う存分にアルベルチーヌをわがものにしていることだう!」と。愛人を所有するため厳重な監視下に置くことで怠惰な夢に耽って満足している<私>。例えば朝の陽光にまどろみながら「鐘の音」を聞く。「鐘の音」は一つである。しかし「その響きの聞こえる範囲に、あたりが湿っているか光っているかを示す最新の表示板をじつに力強く提示してくれるので、まるで雨の魅力なり太陽の魅力なりを目の見えない人のために翻訳してくれている、というと語弊があるなら、音楽的に翻訳してくれているようであった」。或る方法で得られる悦びを別の方法へ置き換えて伝えることは可能だと知る。「すべては置き換えが可能で、聴覚だけの世界もやはり目に見える世界と同じように多様なものでありうると考えたのである」。<私>はあらゆるものの<多様性>を謳歌している。

 

「そのころと比べれば、いまや私はどれほど思う存分にアルベルチーヌをわがものにしていることだう!日によっては時を告げる鐘の音が、その響きの聞こえる範囲に、あたりが湿っているか光っているかを示す最新の表示板をじつに力強く提示してくれるので、まるで雨の魅力なり太陽の魅力なりを目の見えない人のために翻訳してくれている、というと語弊があるなら、音楽的に翻訳してくれているようであった。それゆえ私はそのとき、ベッドのなかで目を閉じたまま、すべては置き換えが可能で、聴覚だけの世界もやはり目に見える世界と同じように多様なものでありうると考えたのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.181~182」岩波文庫 二〇一六年)

 

それがわかっているにもかかわらず、というより、もはや否定の余地なくわかっているがゆえに、なおのことアルベルチーヌの性的多様性について、ますます我慢のならないものに変容して見える。いつだったか、バルベックのグランドホテルの従業員がアルベルチーヌについて述べたほんの一言、「行儀の悪い女」、というたった一言。それはどういう意味で語られたものなのか。次の疑惑へただちに接続される。

 

「アルベルチーヌはきっと女友だちといっしょだったのだ、ことによるとふたりして腰に手をまわしあい、ほかの女たちをじっと見つめ、実際こっちの面前ではついぞアルベルチーヌに見かけたことのない『振る舞い』をしていたのかもしれない。その女友だちとは誰なのか?」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.183」岩波文庫 二〇一六年)

 

読者は思う。また始まったかと。何度繰り返せば気が済むのかと。<私>の嫉妬という厄介な病気は。

 

次の箇所では二つのことが同時に述べられている。(1)「新たな疑念から生じたものだから、私が見舞われた嫉妬の発作も新しいものだった」こと。(2)「この発作はくだんの疑念の延長、拡張にほかならないと言うべきかもしれない」。

 

「私はもはやヴァントゥイユ嬢のことなど考えていなかった。新たな疑念から生じたものだから、私が見舞われた嫉妬の発作も新しいものだった、というよりも、この発作はくだんの疑念の延長、拡張にほかならないと言うべきかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.184」岩波文庫 二〇一六年)

 

二分割して考えることは十分可能である。しかし二分割できるということ自体が、プルーストのいう通り、そもそも<接続・切断・再接続>を前提としている。

 

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

 

しかしなぜ「絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」ということが起こるのか。ニーチェはいう。

 

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

錯覚なしに生きられない。とすればニーチェ流にいえば、人間は<錯覚への意志>でもある。常に勘違いを目指してばかりいる<誤謬への意志>、<私>という大いなる狂気を徹底的に味わい尽くすためならどこまでも貪欲に生きていくことを選ぶ<末人>にほかならないと言うこともまた十分可能なのだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて108

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。大津市の気象予報は日の出前から日の出後にかけて曇り。湿度は6時で84パーセント。9時で65パーセントの予定。5時台にはまだ雨がぽつぽつしていました。さてどんな風景を見ることができるのでしょう。ともかく歩いてみました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.30)

 

二〇二二年十一月三十日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<私>とアルベルチーヌとの恋愛が常に新しい理由/私にとっては毎日がそれこそ異国であった

2022年11月30日 | 日記・エッセイ・コラム

<私>とアルベルチーヌとの恋愛関係は、もうこれで終わりかと思われたその瞬間、新しく始まる。

 

しかし<私>とアルベルチーヌとのような恋愛でない関係の場合、だから逆の場合、世界の至るところで何百万何千万という人々が日夜経験している恋愛ならもっとわかりやすい経過をたどる。或る程度の期間を共に過ごしていると互いに互いの許しがたい人格が見えてくるだけでなく、一つの身体の中に無数の人格がひしめき合っていることにも気づくほかない。すると次第に互いが互いに対して嫌でも順応し合ったり譲り合ったりしないわけにはいかなくなる。最初は至高のものに思われた恋愛が条件付きの恋愛に変わる。我慢が必要になるわけだが、どんな我慢にも限界というものがやって来る。そうこうしているうちに一刻も早く別れてしまわないと自分が死ぬか相手が死ぬか、あるいは子供がいる場合子供を道連れに心中してしまうか、いずれかという深淵のすぐそばまで達してしまっていることはしばしばあるし見かけもする。

 

ところが<私>とアルベルチーヌとの恋愛はそのような経過を経ない。もうこれで終わりかと思われたその瞬間、新しく始まる。なぜだろう。プルーストは書いている。「私にとっては毎日がそれこそ異国であった」。

 

「私はアルベルチーヌに、いっしょに出かけなければ仕事にとりかかる、と約束していた。ところが翌日になると、ふたりが眠っているのに乗じて家がまるで魔法の旅にでも出たかのように、私はべつの天気、異なる気候のもとで目を覚ました。新しい国に上陸したときには仕事など手につかない。そこの環境に順応しなければならないからだ。ところが私にとっては毎日がそれこそ異国であった」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.177」岩波文庫 二〇一六年)

 

アルベルチーヌとの関係が不穏になる時は一日のうちに何度もある。ところが<私>は翌日になると<或る生活様式>から<別の生活様式>へ変動している。アルベルチーヌが変わらなくても<私>は変わり、<私>が変わらなくてもアルベルチーヌは変わる。だが往々にして両者ともに変わっている。アルベルチーヌの無限の変容だけでなく「私の変動指数」をも考えに入れなければならないとプルーストが書いている通りだ。

 

次の箇所でプルーストは「私の怠け癖」を前提とし、その都度新しく鮮度を更新した精神状態がどのように出現するかについて列挙している。(1)「あるときは回復の見込みなしと言われるような悪天候の日々でも、しとしと振りつづく雨に家のなかに閉じこめられているだけで、船旅さながらの興趣をそそられ、滑るような心地よさ、心安らぐ静寂が味わえる」。(2)「べつのときはよく晴れた日で、ベッドにじっと寝ていると、気の幹がするように自分の周囲にぐるりと影をめぐらした気分になる」。(3)「さらにべつのときは、近隣の修道院から最初の鐘の音が聞こえてくると、そのまばらな音は早起きの信心ぶかい女たちを想わせ、暗い空をかすかに白く染めて降りそそぐ不安定なあられのようなその音が、なま温かい風に溶けて吹き散らされると、すでに荒れ模様で、波乱含みの、心地よい一日のはじまりが感じられ、そんな日の屋根は、ときおり驟雨(しゅうう)に濡れても、ひと吹きの風やひと筋の光がそれを乾かしてくれるあいだ、雨の滴(しずく)をハトの声のようにくうくうとしたたらせ、風向きがふたたび変わるまで、虹色をもたらす束の間の陽光をあびて、ハトの胸のごとく玉虫色に映えるスレートを羽繕いしたように輝かせる」。

 

「私の怠け癖にしても、そのつど新たな様相をまとってあらわれると、どうして私にそれが怠け癖だと認められるだろう?あるときは回復の見込みなしと言われるような悪天候の日々でも、しとしと振りつづく雨に家のなかに閉じこめられているだけで、船旅さながらの興趣をそそられ、滑るような心地よさ、心安らぐ静寂が味わえる。べつのときはよく晴れた日で、ベッドにじっと寝ていると、気の幹がするように自分の周囲にぐるりと影をめぐらした気分になる。さらにべつのときは、近隣の修道院から最初の鐘の音が聞こえてくると、そのまばらな音は早起きの信心ぶかい女たちを想わせ、暗い空をかすかに白く染めて降りそそぐ不安定なあられのようなその音が、なま温かい風に溶けて吹き散らされると、すでに荒れ模様で、波乱含みの、心地よい一日のはじまりが感じられ、そんな日の屋根は、ときおり驟雨(しゅうう)に濡れても、ひと吹きの風やひと筋の光がそれを乾かしてくれるあいだ、雨の滴(しずく)をハトの声のようにくうくうとしたたらせ、風向きがふたたび変わるまで、虹色をもたらす束の間の陽光をあびて、ハトの胸のごとく玉虫色に映えるスレートを羽繕いしたように輝かせる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.177~178」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>は眠っている間に変容したわけではない。逆に目覚めた時に感性が瞬時に受け止める状況、(1)「回復の見込みなしと言われるような悪天候」が「船旅さながらの興趣をそそられ、滑るような心地よさ、心安らぐ静寂」へ変換される場合。(2)「よく晴れた日で、ベッドにじっと寝ている」ことが「気の幹がするように自分の周囲にぐるりと影をめぐらした気分」へ変換される場合。(3)「近隣の修道院から最初の鐘の音が聞こえてくると、そのまばらな音は早起きの信心ぶかい女たちを想わせ、暗い空をかすかに白く染めて降りそそぐ不安定なあられのようなその音が、なま温かい風に溶けて吹き散らされる」ことで「すでに荒れ模様で、波乱含みの、心地よい一日のはじまりが感じられ」て「そんな日の屋根は」、そんな「波乱含み」ゆえに、「風向きがふたたび変わるまで、虹色をもたらす束の間の陽光をあびて、ハトの胸のごとく玉虫色に映えるスレートを羽繕いしたように輝かせる」よう次々変換されていく場合。<私>はそれらのいずれもを生きる。ただ単に生きているだけでなく<変換という生成変化>を遂げている。<常に生成変化して止まない私>ということが、<私>とアルベルチーヌとの終わりかけた恋愛関係を、まったく新しい恋愛関係の出現へ価値移動させるのだ。

 

プルーストは怠惰のうちにひそむパラドックスを上げる。「このような日には天気がめまぐるしく変わり、大気にもささやかな異変が生じて雷雨にも見舞われるおかげで、怠け者といえどもその日を無駄にしたと思わないですむ」。しかし「その日を無駄にしたと思わないですむ」のはなぜか。「大気が、自分を抜きに、いわば自分に代わってくり広げてくれた活動に興味をそそられたからである」。また、「このような日に似ているのは暴動や戦争のときで、そんな時間は学校を休んだ小中学生にとっても空疎なものとは思われない」。なぜそう思えるのか。「裁判所の周囲を見たり新聞を読んだりすれば、やるべき勉強をしなかったかわりに、発生した事件のなかに知性も豊かになり怠けた言い訳にもなるものが見出せる気がするからである」。

 

「このような日には天気がめまぐるしく変わり、大気にもささやかな異変が生じて雷雨にも見舞われるおかげで、怠け者といえどもその日を無駄にしたと思わないですむ。というのも大気が、自分を抜きに、いわば自分に代わってくり広げてくれた活動に興味をそそられたからである。このような日に似ているのは暴動や戦争のときで、そんな時間は学校を休んだ小中学生にとっても空疎なものとは思われない。というのも、裁判所の周囲を見たり新聞を読んだりすれば、やるべき勉強をしなかったかわりに、発生した事件のなかに知性も豊かになり怠けた言い訳にもなるものが見出せる気がするからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.178~179」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>はアルベルチーヌを他の女性と置き換えるのではなく、<私>とアルベルチーヌとを取り巻くあらゆる環境変化に対して、感性の次元で機敏に反応することによって、価値変動を起こした新しい恋愛関係を見出すことに成功していたのだ。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて107

2022年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。大津市の気象予報は日の出前から日の出後にかけて曇りのち雨。湿度96パーセント。それなら琵琶湖はきっと多彩な表情を見せてくれるだろうと思って歩いてきました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.11.29)

 

二〇二二年十一月二十九日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<果実・修道院・女スパイ>としてのアルベルチーヌ/<私>のさらなる暴力的措置

2022年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌは眠りながら変身する。(1)乳房は熟した果実になり、(2)女性器は修道院になる。引いておこう。(1)「ふたつの小さな乳房は、つんと上にもちあがって真ん丸で、身体の不可欠な一部というよりも、そこにふたつの果実が熟したように見えた」。(2)「その腹は(男なら壁からとり外された彫像になおも残る鉤釘のように醜くなった場所が隠されて)、腿のつけ根で二枚貝のように閉じて、その曲線は太陽が沈んだあとの地平線のアーチのようにまどろみ、心身を憩わせてくれる修道院を想わせた」。

 

「アルベルチーヌが私の言うことを聞いて靴を脱ぐ前に、私はそのシュミーズをそっと開いてみる。ふたつの小さな乳房は、つんと上にもちあがって真ん丸で、身体の不可欠な一部というよりも、そこにふたつの果実が熟したように見えた。その腹は(男なら壁からとり外された彫像になおも残る鉤釘のように醜くなった場所が隠されて)、腿のつけ根で二枚貝のように閉じて、その曲線は太陽が沈んだあとの地平線のアーチのようにまどろみ、心身を憩わせてくれる修道院を想わせた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.171~173」岩波文庫 二〇一六年)

 

<私>はアルベルチーヌとの性行為を前にして、その偉大さを神々しいまでに賛嘆する。

 

「合体しようとする『男』と『女』の姿態は、なんと偉大なことだろう。それこそ、『天地創造』によって引き離された者が、汚れなき原初の日々の粘土のごとく謙虚に合体しようとする姿態であり、そばで目覚めたイヴが『男』を前に驚いて服従し、また『男』がいまだひとりでいたとき、自分をつくりだした神を前にやはり驚いて服従する、そんな姿態である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.173」岩波文庫 二〇一六年)

 

とはいえこの一節は誰もが知るように「創世記」から引用された余りにも有名なエピソードの繰り返しである。

 

(1)「ただ地下水が地の下からわきあがって、土地の全面を潤(うるお)していたーーー。その日ヤハウェ神は土くれから人を造り、彼の鼻に生命の息を吹きこまれた。そこで人は生きた者となった」(「創世記・第二章・P.12」岩波文庫 一九五六年)

 

(2)「そこでヤハウェ神は深い眠りをその人に下した。彼が眠りに落ちた時、ヤハウェ神はその肋骨(あばらぼね)の一つを取って、その場所を肉でふさいだ。ヤハウェ神は人から取った肋骨を一人の女に造り上げ、彼女をその人の所へ連れてこられた」(「創世記・第二章・P.13」岩波文庫 一九五六年)

 

アルベルチーヌの多様な変身の場面に伴ってプルーストはわざわざ旧約聖書を繰り返すことで読者の関心を改めてユダヤ的なものへぐっと引き寄せている。なぜだろう。アルベルチーヌの中の無限の多様性と関係があるわけだが、ここでは戯画化されたユダヤ人の特徴である風貌(ひん曲がった鷲っ鼻)に注目している。レオナルドはレオナルド・ダ・ヴィンチのこと。「アルベルチーヌが完全に横向きになると、その顔(正面から見ればじつに善良で美しい顔)の私には我慢できない一面だけが見えて、レオナルドが描いたある種のカリカチュアのようにひん曲がったその風貌は、女スパイのような意地の悪さや金銭への貪欲さや狡猾さをあらわにするように感じられ、わが家にいたらぞっとするそんな女スパイの正体がこの横顔に暴露されている気がした」。

 

「アルベルチーヌは、黒髪のうしろで両腕を組み、腰をそらせて盛りあげ、長く伸びた白鳥の首が途中で折りたたまれたように脚を曲げて垂らしている。アルベルチーヌが完全に横向きになると、その顔(正面から見ればじつに善良で美しい顔)の私には我慢できない一面だけが見えて、レオナルドが描いたある種のカリカチュアのようにひん曲がったその風貌は、女スパイのような意地の悪さや金銭への貪欲さや狡猾さをあらわにするように感じられ、わが家にいたらぞっとするそんな女スパイの正体がこの横顔に暴露されている気がした。すぐさま私はアルベルチーヌの顔を両手にはさんで、それを正面に向けなおした」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.173~174」岩波文庫 二〇一六年)

 

アルベルチーヌは<現在のアルベルチーヌ>であって第一のアルベルチーヌではもはやない。諸商品の無限の系列のように中心を持たない<力として>、次々変容していく第二のアルベルチーヌである。そんなアルベルチーヌへ変化したことを承認した<私>は、アルベルチーヌがユダヤ人の特徴とされていた風貌(ひん曲がった鷲っ鼻)を見せるたび、「アルベルチーヌの顔を両手にはさんで、それを正面に向けなおした」。固定化不可能だと承認するほかないところまで追い詰められた<私>はアルベルチーヌを<幽閉・覗き見・監視>するという条件付きでアルベルチーヌの多様な変幻自在性を耐えている。我慢してやっているという思い上がりなのだが、それ一つ取って見ても婚約中の同棲生活に名を借りた暴力的措置以外の何ものでもないことは明らかである。さらに<私>はアルベルチーヌの顔の上に<私>の気にくわないユダヤ的風貌が現れるや無理矢理「アルベルチーヌの顔を両手にはさんで、それを正面に向けなお」すというますます暴力的な所作の連鎖へ突き進んでいく。

 

もっとも、アルベルチーヌはこれまで何度か公言しているようにユダヤ嫌いである。仲間たちの前で「ユダ公」と言って憚らない。そして反ユダヤ側の新興ブルジョワ階級の系列に属している。ところが世界は親ユダヤであろうと反ユダヤであろうと資本主義の世界化とともに非常に興味深い弧を描いていく。

 

「競争戦は商品を安くすることによって戦われる。商品の安さは、他の事情が同じならば、労働の生産性によって定まり、この生産性はまた生産規模によって定まる。したがって、より大きい資本はより小さい資本を打ち倒す。さらに思い出されるのは、資本主義的生産様式の発展につれて、ある一つの事業をその正常な条件のもとで営むために必要な個別資本の最少量も大きくなるということである。そこで、より小さい資本は、大工業がまだまばらにしか、または不完全にしか征服していない生産部面に押し寄せる。ここでは競争の激しさは、敵対し合う諸資本の数に正比例し、それらの資本の大きさに反比例する。競争は多数の小資本家の没落で終わるのが常であり、彼らの資本は一部は勝利者の手にはいり、一部は破滅する。このようなことは別としても、資本主義的生産の発展につれて、一つのまったく新しい力である信用制度が形成されるのであって、それは当初は蓄積の控えめな助手としてこっそりはいってきて、社会の表面に大小さまざまな量でちらばっている貨幣手段を目に見えない糸で個別資本家や結合資本家の手に引き入れるのであるが、やがて競争戦での新しい恐ろしい武器になり、そしてついには諸資本の集中のための一つの巨大な社会的機構に転化するのである。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、それと同じ度合いで競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(てこ)が、発展する。それと並んで、蓄積の進展は集中されうる素材すなわち個別資本を増加させ、他方、資本主義的生産の拡大は、一方では社会的欲望をつくりだし、他方では過去の資本集中がなければ実現されないような巨大な産業企業の技術的な手段をつくりだす。だから、こんにちでは、個別資本の相互吸引力や集中への傾向は、以前のいつよりも強いのである。しかし、集中運動の相対的な広さと強さとは、ある程度まで、資本主義的な富の既成の大きさと経済的機構の優越とによって規定されているとはいえ、集中の発展はけっして社会的資本の大きさの絶対的増大には依存しないのである。そして、このことは特に集中を、ただ拡大された規模での再生産の別の表現でしかない集積から区別するのである。集中は、既存の諸資本の単なる配分の変化によって、社会的資本の諸成分の単なる量的編成の変化によって、起きることができる。一方で資本が一つの手のなかで巨大なかたまりに膨張することができるのは、他方で資本が多数の個々の手から取り上げられるからである。かりにある一つの事業部門で集中が極限に達することがあるとすれば、それは、その部門に投ぜられているすべての資本が単一の資本に融合してしまう場合であろう。与えられた一つの社会では、この限界は、社会的総資本が単一の資本家なり単一の資本家会社なりの手に合一された瞬間に、はじめて到達されるであろう。

 

集中は蓄積の仕事を補う。というのは、それによって産業資本家たちは自分の活動の規模を広げることができるからである。この規模拡大が蓄積の結果であろうと、集中の結果であろうと、集中が合併という手荒なやり方で行なわれようとーーーこの場合にはいくつかの資本が他の諸資本にたいして優勢な引力中心となり、他の諸資本の個別的凝集をこわして、次にばらばらになった破片を自分のほうに引き寄せるーーー、または多くの既成または形成中の資本の融合が株式会社の設立という比較的円滑な方法によって行なわれようと、経済的な結果はいつでも同じである。産業施設の規模の拡大は、どの場合にも、多数人の総労働をいっそう包括的に組織するための、この物質的推進力をいっそう広く発展させるための、すなわち、個々ばらばらに習慣に従って営まれる生産過程を、社会的に結合され科学的に処理される生産過程にますます転化させて行くための、出発点になるのである。

 

しかし、蓄積、すなわち再生産が円形から螺旋形に移って行くことによる資本の漸時的増加は、ただ社会的資本を構成する諸部分の量的編成を変えさえすればよい集中に比べて、まったく緩慢なやり方だということは、明らかである。もしも蓄積によって少数の個別資本が鉄道を敷設できるほどに大きくなるまで待たなければならなかったとすれば、世界はまだ鉄道なしでいたであろう。ところが、集中は、株式会社を媒介として、たちまちそれをやってしまったのである。また、集中は、このように蓄積の作用を強くし速くすると同時に、資本の技術的構成の変革を、すなわちその可変部分の犠牲においてその不変部分を大きくし、したがって労働にたいする相対的な需要を減らすような変革を、拡大し促進するのである。

 

集中によって一夜で溶接される資本塊も、他の資本塊と同様に、といってもいっそう速く、再生産され増殖され、こうして社会的蓄積の新しい強力な槓杆(てこ)になる。だから、社会的蓄積の進展という場合には、そこにはーーー今日ではーーー集中の作用が暗黙のうちに含まれているのである。

 

正常な蓄積の進行中に形成される追加資本は、特に、新しい発明や発見、一般に産業上の諸改良を利用するための媒体として役立つ。しかし、古い資本も、いつかはその全身を新しくする時期に達するのであって、その時には古い皮を脱ぎ捨てると同時に技術的に改良された姿で生き返るのであり、その姿では前よりも多くの機械や原料を動かすのに前よりも少ない労働量で足りるようになるのである。このことから必然的に起きてくる労働需要の絶対的な減少は、言うまでもないことながら、この更新過程を通る資本が集中運動によってすでに大量に集積されていればいるほど、ますます大きくなるのである。

 

要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる。他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.210~214」国民文庫 一九七二年)

 

アルベルチーヌと<私>との恋愛関係がどちらか一方だけの変容に依存しては決して成り立たず、逆に相互依存している限りで始めて新しい関係へ変容していくという事情は、資本の新しい形態が古い形態を破滅させることから出現するのと同様の転回をくるくる転がっていくのと余りにも似通っているのである。