白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ372

2024年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年九月六日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

留守番が苦手なタマ。

 

というより強気なわりには甘えん坊で、飼い主の帰りが遅いとへそを曲げて本棚の裏でいじけて待っていることが多い。今日もそうだった。

 

淹れたコーヒーを置いておくコースターが痛んできたので探しに出かけ思いのほか手間取った。帰宅するとすねていて盛っておいたフードにも手をつけていない。

 

だめだよタマ、ご飯はちゃんと食べなきゃ。

 

と言いつつ他の買い物を二階へ運んでリビングへ降りてくるまでに十分はかかっていない。

 

見ればフードをがつがつ口にしながら飼い主の言葉を聞いている様子がない。

 

痩せ我慢はよくないぞタマ。

 

返事をしないで振り向きもせずひたすらご飯をがつがつ。タマなりの抗議の意味がこもっている様子。この調子ではお金があっても旅行ひとつ行けやしない。

 

行かんでいいとタマの背中は語る。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。クリエイション・レベル。レゲエ-ダブはジャマイカで生まれた。それはそれとして移民の国イギリスではUKレゲエの歴史というものが確実に定着しつつあるようだ。パンク、UKジャズ、ヒップホップ、アンビエントなど音楽の多産性とイギリス流の階級社会とは切り離せないのだが、そのことが過剰にジャマイカ=オリジナルという事情に観念上さほど拘束されない土壌になっているのかもしれない。


Blog21・「チョウセイ」可能な空虚な器

2024年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

しかし辻褄は、当たり前のことだが、決して合うことがない。それどころか<虚しい他者>とでもいうべきものが必要不可欠なものとしてすでに自己内在化されていることに気づく。忘れたら忘れたでその都度繰り返し何度も気づく。

 

「どれもこれも『チョウセイ』する必要がある。けれども、あっちを『チョウセイ』すると、いったん『チョウセイ』し終わった別のところを、もう一度『チョウセイ』しなければならない。辻褄が合わなくなるからです。そうすると、その次には、とっくに『チョウセイ』済みのところを、またもや『チョウセイ』し直すはめになる」(高橋源一郎「オオカミの(5)」『群像・8・P.172』講談社 二〇二四年)

 

気づかされるよう要請されているとすればもちろん話は違ってくる。だからといって、ああこれは大日本帝国やソ連でかつてあった史実の隠喩だと、簡単にいえるだろうか。そう単純でない。大日本帝国やソ連で起こったことなら他のどんな国家の中でも、それが「国家」を名乗っている以上、隠喩という指摘だけでなんだか片付けてしまえたと思ったら、ひょっとしてもしなくても、とんでもない勘違いに待ち伏せられていることになるだろう。個としてのヒトからして問われない限り乱暴にまとめてしまっては身も蓋もない。

 

だから「チョウセイ」してはいけない。と同時に「チョウセイ」しないわけにもいかない。そんな矛盾が生じる。ところが矛盾を乗り越えたわけではなく、矛盾が消去されたわけでもなく、矛盾の内在化と同時に矛盾を矛盾と感じなくても大いに結構な位置へ移動することで第三の場所が魔法のように開かれる。

 

この魔法はなるほどいささか誘惑的な、どこか意図的な印象がないではない。しかし場所移動への要請には容赦がない。「チョウセイ」の無限悪循環に満ちた価値体系の外へ出るには、とりあえず第三の選択肢を生み出すこと。別の価値体系への場所移動が、有効か無効かを問わない形で、ここでもすでに用意されている。それゆえまたしても付きまとう違和感と並走することになる。違和感は消えないのだがほどよく刺激的な作用としても働く。

 

もっとも<他者>が外部からやって来るのなら「オトナ/コドモ」に関わりなく難なくわかるに違いない。では今回のように、「哀しい」、はどうだろう。外部からやって来たと言えるだろうか。

 

「目が覚めたときにも、その『哀しい』は残っています。だから、わたしは、そのままベッドの中で目を閉じています。『哀しい』がどこかへ行ってしまうように。けれども、同時に、その『哀しい』を、留めておきたい気もするのです。その『哀しい』が、どこかに行ってしまうと、『女のヒト』もどこかに行ってしまうような気がするからです」(高橋源一郎「オオカミの(6)」『群像・10・P.37』講談社 二〇二四年)

 

形になったと思えばたちまち崩れ去る。ひとつひとつの章の終わりはいつもそうだ。連載第六回にもなれば慣れてくる。読者は慣れてくるけれども小説は章の終わりごとに、終わりにもかかわらず、前にも見たことのある印象を含む違和感を必ず残していく。

 

複数の読みができるということとは別に、「オオカミの」とともに言葉化されていないもうひとつの連載小説を読んでいるような、ある種の酔いとか目まいに襲われるこの感覚はしかし何なのだろう。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて906

2024年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

今年中に済ませてしまいたい事務手続きがあるのだが

 

それが終われば元に戻るか

 

そんなことはあり得ないわけで

 

さらに次から次へと新しい制度が襲いかかる

 

世界とその歴史の中でもおそらくたいそう珍しい

 

後になればなるほど誰にも説明できなくなっていくような不可解な制度

 

息抜きひとつするにしても工夫が必要になる

 

これはこれで大変大事

 

その工夫を有権者の側があれこれ考えないといけない

 

今年中には幾つか用意しておきたいメニューとして

 

しかし考えてもなおそれがお金になるわけではない

 

というのもお金は必要だがこれまでのように貨幣交換できるものでは慢性的病的な社会的ストレスをかえって増やしてしまうばかり

 

単純な話

 

でも恐ろしく深い話

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。