ジュネのいう「聖性」。それはあらじめ人間に備わっているものではない。獲得しようとして獲得できるものではない。「聖性」は、「聖性《への》意志」としてしか存在しない。それはどこかから、あるいは誰かから、或る種の資格として与えられる類のものではまったくない。むしろジュネのようにそれへと向かう比類なき強度としての流動性に《なる》こと。この生成変化の過程から始まり、そして、終わりというものを知らない。そのような聖性だ。聖性は、資格ではない。持って生まれた資質でもない。あらかじめ定まったものではない。ただ、ジュネは次のようにいうことができるだけだ。すなわち、「それが得られなければわたしの生涯が空(むな)しいだろうという以外、何も知らない」と。
「聖性がわたしの目標であるが、わたしにはそれがいかなるものであるかを言い表わすことができない。わたしの出発点は、この、倫理的完全に最も近い状態を指す、聖性という言葉それ自身なのである。それについては、わたしは、ただそれが得られなければわたしの生涯が空(むな)しいだろうという以外、何も知らないのである」(ジュネ「泥棒日記・P.303」新潮文庫)
だからジュネは、「聖性《への》意志」として放浪する、放浪の線に《なる》。放浪の線を移動しつづけるジュネは、「各瞬間ごとに」知り得ない「聖性」を「創造したい」と意志する。さらなる放浪の線を延長させていく。
「聖性をーーー美と同様ーーー定義することができない状態のまま、わたしは各瞬間ごとにそれを創造したいと思う、すなわち、わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい、と」(ジュネ「泥棒日記・P.303~304」新潮文庫)
ジュネが目指す聖性は、「各瞬間ごと」に「創造」されるようなものとして、常に既に「流動性」である。その都度「各瞬間ごとに」生成されるような聖性は、したがって「定義することができない状態のまま」移動する。ただ、流れとしてジュネは放浪する。試しに、どこでもいいのだが、或る瞬間、その流れをすっぱり切り取ってみるとそれがその瞬間の、いつも生成途中にある「聖性《への》意志」の切断面であり、「この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ」。ベルクソンはいう。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
ジュネはしきりに「創造」することを意識している。ジュネにとって、聖性とはまた、「創造《への》意志」であり、ジュネ自身「創造《への》意志」として放浪への線を生きる。あるいは移動しつづける。
「われわれの状態はそれぞれ、われわれがみずからにちょうど与えたばかりの新しい形式であって、われわれから生じると同時に、われわれの人格を変える。それゆえ、われわれがすることは、われわれが何であるのかに依存している、と言うのは正しい。しかし、われわれとはある程度われわれが為していることなのであって、われわれは連続的にみずからを創造しているのだ、と付け加えなければならない」(ベルクソン「創造的進化・P.24~25」ちくま学芸文庫)
ジュネの生きる世界での「光輝性」。それは俗世間でいう「汚辱」を「積極的に」引き受ける作業からとぼとぼと漏れ落ちるようなものでしかない。ほとんど誰も気づかない。仲間たちのほか、たぶん、誰にも気づかれることはない。それでも未来へ歩みつづけるジュネはよりいっそう汚辱にまみれながら、その「長い模索がわたしをその境地へ連れてゆく」と信じる。
「わたしは、各瞬間ごとに聖性への意志がわたしを導くことを願うのだーーーいつの日かわたしの光輝性が、それを見て、人々が『あれは聖者だ』と言うほどに、あるいはより可能なことは『あれは聖者だった』と言うほどになる日までーーー。長い模索がわたしをその境地へ連れてゆく」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
ジュネにおける「聖性《への》意志」は「創造《への》意志」でもある以上、それは同時にいつも「無際限に自分を創造することである」。
「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)
いまだかつて誰一人として歩んだことのない冒険に満ちているであろう汚辱への放浪。いかなる方式(メソッド)もあろうはずがない。「聖性《への》生成」は絶えざる変化だ。この行為の遂行は、ただ、固有の茫漠たる砂漠の連続であろう。そしてそのことがすでに「聖なることをなしている」ことだと確信している。
「方式などというものはない。わたしは何もわからずに、そしてただ聖なることをなしているという確信以外何の確証もなしに、わたしをそれへと連れてゆく行為を遂行するだけだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
「人がある数学的規律に従うことによって聖性を獲得する、ということはありうることである、が、わたしはその場合人が獲得するのは、容易な、礼節に適(かな)った試験済みの形体を備えた聖性、ひと言で言えば、アカデミックな聖性ではないかとおそれる。それならばそれは、見せかけを獲得することにすぎない。倫理や宗教上のいろいろな初歩的原理から出発したとしても、聖者は、それらから自由になった後においてのみその目標に到達するのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
すでに到達されて確固たるものとなっており、また社会的にも承認を受けているような聖性もあるにちがいないが、けれどもジュネはそのような「出来合いの聖性」には関心がない。むしろ社会的に認知された聖性から解き放たれて始めてジュネの「聖性《への》意志」は生きいきと飛び立つ。にもかかわらず、聖性を成就することは不可能だろうと薄々わかっている。「諦念(ていねん)をその唯一の基礎として持つもののようにわたしには思われる」。ジュネの思考はここでさらに転回を示す。到達不可能であるということはどのような歩みであってもよいということを意味してもいるということだ。だからジュネはいつ終わるともわからない、たぶん終わりのない放浪の線を少しづつ創造していく地道な行為を、けっして派手ではないものの、軽やかな歩行の態度として捉え、あえて「自由」と呼ぶ。ジュネのいう「聖性」。その「自由さ」。それは単なる個体としてのジュネを越える。ジュネにとって「聖性」は常に「定義することができない状態のまま」なされる生成変化の過程なのであり、さらに「わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい」と書くとき、ジュネの世界観は途轍もなく広く深くどこまでも拡張される。ジュネは何十年にもおよぶ放浪生活の中で「自然と人間との絶えざる新陳代謝」あるいは「全宇宙と共演している人間」という現実を生きた、生き証人として語っている。
「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)
そして「自由になった」さらなる「聖性《への》意志」は、よりいっそうの高みを目指して全宇宙と共演しつつ、ただ単なる一個体として「聖性へ向けて生きる」というだけではない。むしろ全宇宙と共演する実在として、無限の「多様性《への》解体」をも意志し、そのすべての行程を「悦楽《として》引き受ける」のでなければならない。
「聖性は、わたしがそれと混同視する美ーーーそして詩(ポエジー)ーーーと同様、唯一独自のものなのだ。それは独創的な表現をとる。しかしそれと同時に、それは諦念(ていねん)をその唯一の基礎として持つもののようにわたしには思われる。それゆえ、わたしはそれをさらに自由とも混同視するだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
「放浪の線」、「汚辱《への》意志」、それを遂行するにあたって「自恃(じじ)の念を用い、そしてこれを犠牲にする」という。プライドを賭ける。賭けるけれども、おそらくジュネは、俗世間からの途轍もない報復に遭うだろう。そのときジュネのプライドは砕け散るだろう。しかしジュネは砕け散るプライドを砕け散るがままに任せておくにちがいない。
「わたしは何よりも、この語が人間の最も高い精神的態度を指しているからこそ、聖者となることを願うのであり、それに到達するためには、わたしは何事をも辞さないだろう。わたしはそのためにわたしの自恃(じじ)の念を用い、そしてこれを犠牲にするだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
よりいっそうの高み、俗世間の価値観からみれば「低み」なのだが、今なお誰一人として成し遂げたもののいない、「ジュネ固有の聖性」目指して淡々と歩み続けるほかはない。理解してもらおうとは考えない。ただ人々の中で、ふと過去を振り返ったとき、「あれは聖者だった」、「あれは完璧な裏切り者、泥棒、倒錯者だった」と首をかしげながらも懐かしく思い起こしてくれるようなことがもしあれば、それで十分なのだ。それでもなお、間違っても「殉教者」などとは呼ばれたくないのである。そこにジュネ固有の、俗世間に媚びない「自恃(じじ)の念」がある。俗世間は自分たちがふだん隠している自分たちの「恥部」(怠惰、裏切り、盗み見、媚び、性倒錯、犯罪)が目の前をうろうろと歩いていく光景に我慢がならないのだ。だからジュネの「自恃(じじ)の念」といえども、それが俗世間の価値観に媚びるものではない以上、いつも不意打ち的に粉砕される恐れがある。粉砕されたら粉砕されたで、そのときの状況次第だ。また始めればよい。それだけのことだ。ところが、聖性の逆説は、必ずしも「粉砕する意志」に限ってではなく、むしろ「粉砕されることを《受け入れようとする》積極的意志」の中においてよりいっそう光り輝く。
さて、ブレストに移ろう。セブロン中尉の言動はきわめて現代的である。しばしば滑稽に見える。現代的なものの滑稽さは、現代的であることの裡(うち)にあるのかもしれない。悲劇でもなく、かといって喜劇だとも言いきれない、悲喜劇としか言いようのない事態が多すぎる点に特徴がある。
セブロンの傲慢さはどこから来るのか。人間社会が構造的なものであるところから来る。セブロンは、たとえば部下でしかないクレルを心底から愛している。クレルの前に立つと自然と浮き足立っておもわずじりじり後ずさりしてしまっている自分の卑劣な精神的態度を見ないわけにはいかない。見た目の姿勢は上官と部下であって、そのかぎりでは何もセブロンは部下の前でじりじりと後ずさりするわけではないが、心の中では急速に、甲板の最も端っこまで退いてしまっている自分の卑劣さを意識しないわけにはいかない。軍人として許しがたい自分の卑劣さは、同じく自分の傲慢な態度によって「埋め合わされなければならなかった」。
「傲慢な態度は、わたしたちの精神、わたしたちの言語に対する、わたしたちの信頼である。セブロン少尉の卑劣さは、強い男に面と向った時の彼の物理的後退、彼の敗北の確信でしかなかったので、この卑劣さは、一種の傲慢な態度によって埋め合わされなければならなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.297」河出文庫)
この事情については何度もニーチェを引いてきた。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)
なぜかはよくわからないが、場面展開上、ジュネはややこしい構造をとっている。必要性は認められるものの、なぜここでこのシーンなのだろうか。ともかく、見ていこう。セブロン中尉はジュネの分身だと前に述べた。「ブレスト」の登場文物の中で、セブロン中尉だけは本物の男性同性愛者だとジュネは名言している。他の作品、とりわけ「泥棒日記」において見ることができるように、なるほどセブロンの傲慢さや滑稽さや移り気や茶目っ気はジュネに通じるところが多い。そんな性格をわざわざ軍人であり艦船の上官にあたるセブロンの中へ導入したところ、場末の倒錯者ではあまりはっきり見えないことのある行動が、より生きいきと面白く読めるようになっている。もっとも、セブロン中尉をからかうわけではない。政治的にではなく社会批判でもなく、ただ率直に面白いと思わせるのである。
セブロン中尉は傲慢さとか尊大さとかのうちにこっそり隠れている取引の面白味に目覚める。この覚醒。それを可能にしたのはセブロンが悩殺されて止まない下級部下クレルの態度にならってからだ。クレルはなぜセブロンより上に位置するのか。そしていつもセブロンに対し不敵な薄ら笑いを浮かべているのか。侮辱ではないのか。軍規違反ではないのか。しかしセブロンは何ら反撃できない。もし万が一クレルから完全に突き放されてしまうようなことになれば、などとは考えることすらできない。次のシーンでセブロンは、リビドー備給としての愛がしばしば用いる手段を身につけている。いつどこで気付いたのかはわからないが、しかしその態度のうちに垣間見える或る種の余裕は、愛する人の姿をじっと見つめているうちにだんだん言動がその人に似てくるというありがちな鏡の効果、主に思春期の生徒たちのように初々しいのだ。クレルに似るセブロン。セブロンはクレルに《なる》。
「警察署でジルと対面するという、決定的な場面(習慣的な論理に従うためには、作者はこの場面を本の末尾に置かねばなるまいが)が生じたとき、少尉は警部に対して、まず尊大な態度を示し、次に傲慢な態度を示した。少尉が自分を襲った男として、ジルをおぼえていたことは、あまりにも明らかであった。彼がそのことを否定したのは、クレルを知って以来、彼を支配していた《自由奔放な》思考の運動に忠実に従ったからであった。この運動が発生するためには、まずしばらくの時日が必要であったが、現在、少尉は目くるめくような、見る見る広がる速さで進歩を遂げていた。少尉は海軍のすべてのクレルよりももっと奔放であり、純粋中の純粋であった。この厳密さは、彼の肉体が参与せず、ただ彼の精神のみが参与している限り、彼に許されていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.297~298」河出文庫)
思春期の生徒たちのような純情な性的リビドー備給に持てるすべてのエネルギーを費やしてしまっていたセブロン中尉。しかしここで、安易にも、元のセブロンに戻りかけそうになる。
「スチームの放熱器に背中をもたせかけて、腰掛にすわっているジルを見たとき、セブロンは、ひとびとが自分に期待していることをすぐに読み取った。それは少年を徹底的に痛めつけてやることだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.298」河出文庫)
そうではないのだ。事情はそこまで単純ではない。セブロンはクレルへの著しい性的リビドー備給によって新しく身につけた《クレルらしい》思考に思い当たらねばならない。それは「そよ風」であり「微風」のようなものとしてしか感じることができない繊細微妙をきわめる至高の戦略である。
「しかしそのとき、彼自身のなかに、草の葉をそよがすきわめて微弱な風のようなものが起っていた。(《そよ風、あるかなきかの微風》と彼が内心の手帖に書いている)その風は、だんだんと大きくなり、彼をふくれあがらせ、震動する口ーーーあるいは声ーーーから、騒がしい言葉となって、どっと溢れ出るのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.298」河出文庫)
取引とは、そこに「そよ風」であり「微風」のようなものとしてしか感じることができない繊細微妙」さがなければ、ただ単なるごろつきどものやりとりと何ら変わらない品のなさを露呈してしまう。その意味では、以前の堕落したセブロンへ舞い戻る直前、ふと「《そよ風、あるかなきかの微風》」によって下品な取引を思いとどまり、言語による駆け引きに出たセブロンの成長を見ることができる。だがこの取引は、下品さを覆い隠してしまいはするものの、覆い隠すというまさにその意味で、よりいっそう巧妙に暴力性は残されるのである。
BGM
「聖性がわたしの目標であるが、わたしにはそれがいかなるものであるかを言い表わすことができない。わたしの出発点は、この、倫理的完全に最も近い状態を指す、聖性という言葉それ自身なのである。それについては、わたしは、ただそれが得られなければわたしの生涯が空(むな)しいだろうという以外、何も知らないのである」(ジュネ「泥棒日記・P.303」新潮文庫)
だからジュネは、「聖性《への》意志」として放浪する、放浪の線に《なる》。放浪の線を移動しつづけるジュネは、「各瞬間ごとに」知り得ない「聖性」を「創造したい」と意志する。さらなる放浪の線を延長させていく。
「聖性をーーー美と同様ーーー定義することができない状態のまま、わたしは各瞬間ごとにそれを創造したいと思う、すなわち、わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい、と」(ジュネ「泥棒日記・P.303~304」新潮文庫)
ジュネが目指す聖性は、「各瞬間ごと」に「創造」されるようなものとして、常に既に「流動性」である。その都度「各瞬間ごとに」生成されるような聖性は、したがって「定義することができない状態のまま」移動する。ただ、流れとしてジュネは放浪する。試しに、どこでもいいのだが、或る瞬間、その流れをすっぱり切り取ってみるとそれがその瞬間の、いつも生成途中にある「聖性《への》意志」の切断面であり、「この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ」。ベルクソンはいう。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
ジュネはしきりに「創造」することを意識している。ジュネにとって、聖性とはまた、「創造《への》意志」であり、ジュネ自身「創造《への》意志」として放浪への線を生きる。あるいは移動しつづける。
「われわれの状態はそれぞれ、われわれがみずからにちょうど与えたばかりの新しい形式であって、われわれから生じると同時に、われわれの人格を変える。それゆえ、われわれがすることは、われわれが何であるのかに依存している、と言うのは正しい。しかし、われわれとはある程度われわれが為していることなのであって、われわれは連続的にみずからを創造しているのだ、と付け加えなければならない」(ベルクソン「創造的進化・P.24~25」ちくま学芸文庫)
ジュネの生きる世界での「光輝性」。それは俗世間でいう「汚辱」を「積極的に」引き受ける作業からとぼとぼと漏れ落ちるようなものでしかない。ほとんど誰も気づかない。仲間たちのほか、たぶん、誰にも気づかれることはない。それでも未来へ歩みつづけるジュネはよりいっそう汚辱にまみれながら、その「長い模索がわたしをその境地へ連れてゆく」と信じる。
「わたしは、各瞬間ごとに聖性への意志がわたしを導くことを願うのだーーーいつの日かわたしの光輝性が、それを見て、人々が『あれは聖者だ』と言うほどに、あるいはより可能なことは『あれは聖者だった』と言うほどになる日までーーー。長い模索がわたしをその境地へ連れてゆく」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
ジュネにおける「聖性《への》意志」は「創造《への》意志」でもある以上、それは同時にいつも「無際限に自分を創造することである」。
「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)
いまだかつて誰一人として歩んだことのない冒険に満ちているであろう汚辱への放浪。いかなる方式(メソッド)もあろうはずがない。「聖性《への》生成」は絶えざる変化だ。この行為の遂行は、ただ、固有の茫漠たる砂漠の連続であろう。そしてそのことがすでに「聖なることをなしている」ことだと確信している。
「方式などというものはない。わたしは何もわからずに、そしてただ聖なることをなしているという確信以外何の確証もなしに、わたしをそれへと連れてゆく行為を遂行するだけだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
「人がある数学的規律に従うことによって聖性を獲得する、ということはありうることである、が、わたしはその場合人が獲得するのは、容易な、礼節に適(かな)った試験済みの形体を備えた聖性、ひと言で言えば、アカデミックな聖性ではないかとおそれる。それならばそれは、見せかけを獲得することにすぎない。倫理や宗教上のいろいろな初歩的原理から出発したとしても、聖者は、それらから自由になった後においてのみその目標に到達するのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
すでに到達されて確固たるものとなっており、また社会的にも承認を受けているような聖性もあるにちがいないが、けれどもジュネはそのような「出来合いの聖性」には関心がない。むしろ社会的に認知された聖性から解き放たれて始めてジュネの「聖性《への》意志」は生きいきと飛び立つ。にもかかわらず、聖性を成就することは不可能だろうと薄々わかっている。「諦念(ていねん)をその唯一の基礎として持つもののようにわたしには思われる」。ジュネの思考はここでさらに転回を示す。到達不可能であるということはどのような歩みであってもよいということを意味してもいるということだ。だからジュネはいつ終わるともわからない、たぶん終わりのない放浪の線を少しづつ創造していく地道な行為を、けっして派手ではないものの、軽やかな歩行の態度として捉え、あえて「自由」と呼ぶ。ジュネのいう「聖性」。その「自由さ」。それは単なる個体としてのジュネを越える。ジュネにとって「聖性」は常に「定義することができない状態のまま」なされる生成変化の過程なのであり、さらに「わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい」と書くとき、ジュネの世界観は途轍もなく広く深くどこまでも拡張される。ジュネは何十年にもおよぶ放浪生活の中で「自然と人間との絶えざる新陳代謝」あるいは「全宇宙と共演している人間」という現実を生きた、生き証人として語っている。
「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)
そして「自由になった」さらなる「聖性《への》意志」は、よりいっそうの高みを目指して全宇宙と共演しつつ、ただ単なる一個体として「聖性へ向けて生きる」というだけではない。むしろ全宇宙と共演する実在として、無限の「多様性《への》解体」をも意志し、そのすべての行程を「悦楽《として》引き受ける」のでなければならない。
「聖性は、わたしがそれと混同視する美ーーーそして詩(ポエジー)ーーーと同様、唯一独自のものなのだ。それは独創的な表現をとる。しかしそれと同時に、それは諦念(ていねん)をその唯一の基礎として持つもののようにわたしには思われる。それゆえ、わたしはそれをさらに自由とも混同視するだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
「放浪の線」、「汚辱《への》意志」、それを遂行するにあたって「自恃(じじ)の念を用い、そしてこれを犠牲にする」という。プライドを賭ける。賭けるけれども、おそらくジュネは、俗世間からの途轍もない報復に遭うだろう。そのときジュネのプライドは砕け散るだろう。しかしジュネは砕け散るプライドを砕け散るがままに任せておくにちがいない。
「わたしは何よりも、この語が人間の最も高い精神的態度を指しているからこそ、聖者となることを願うのであり、それに到達するためには、わたしは何事をも辞さないだろう。わたしはそのためにわたしの自恃(じじ)の念を用い、そしてこれを犠牲にするだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)
よりいっそうの高み、俗世間の価値観からみれば「低み」なのだが、今なお誰一人として成し遂げたもののいない、「ジュネ固有の聖性」目指して淡々と歩み続けるほかはない。理解してもらおうとは考えない。ただ人々の中で、ふと過去を振り返ったとき、「あれは聖者だった」、「あれは完璧な裏切り者、泥棒、倒錯者だった」と首をかしげながらも懐かしく思い起こしてくれるようなことがもしあれば、それで十分なのだ。それでもなお、間違っても「殉教者」などとは呼ばれたくないのである。そこにジュネ固有の、俗世間に媚びない「自恃(じじ)の念」がある。俗世間は自分たちがふだん隠している自分たちの「恥部」(怠惰、裏切り、盗み見、媚び、性倒錯、犯罪)が目の前をうろうろと歩いていく光景に我慢がならないのだ。だからジュネの「自恃(じじ)の念」といえども、それが俗世間の価値観に媚びるものではない以上、いつも不意打ち的に粉砕される恐れがある。粉砕されたら粉砕されたで、そのときの状況次第だ。また始めればよい。それだけのことだ。ところが、聖性の逆説は、必ずしも「粉砕する意志」に限ってではなく、むしろ「粉砕されることを《受け入れようとする》積極的意志」の中においてよりいっそう光り輝く。
さて、ブレストに移ろう。セブロン中尉の言動はきわめて現代的である。しばしば滑稽に見える。現代的なものの滑稽さは、現代的であることの裡(うち)にあるのかもしれない。悲劇でもなく、かといって喜劇だとも言いきれない、悲喜劇としか言いようのない事態が多すぎる点に特徴がある。
セブロンの傲慢さはどこから来るのか。人間社会が構造的なものであるところから来る。セブロンは、たとえば部下でしかないクレルを心底から愛している。クレルの前に立つと自然と浮き足立っておもわずじりじり後ずさりしてしまっている自分の卑劣な精神的態度を見ないわけにはいかない。見た目の姿勢は上官と部下であって、そのかぎりでは何もセブロンは部下の前でじりじりと後ずさりするわけではないが、心の中では急速に、甲板の最も端っこまで退いてしまっている自分の卑劣さを意識しないわけにはいかない。軍人として許しがたい自分の卑劣さは、同じく自分の傲慢な態度によって「埋め合わされなければならなかった」。
「傲慢な態度は、わたしたちの精神、わたしたちの言語に対する、わたしたちの信頼である。セブロン少尉の卑劣さは、強い男に面と向った時の彼の物理的後退、彼の敗北の確信でしかなかったので、この卑劣さは、一種の傲慢な態度によって埋め合わされなければならなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.297」河出文庫)
この事情については何度もニーチェを引いてきた。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)
なぜかはよくわからないが、場面展開上、ジュネはややこしい構造をとっている。必要性は認められるものの、なぜここでこのシーンなのだろうか。ともかく、見ていこう。セブロン中尉はジュネの分身だと前に述べた。「ブレスト」の登場文物の中で、セブロン中尉だけは本物の男性同性愛者だとジュネは名言している。他の作品、とりわけ「泥棒日記」において見ることができるように、なるほどセブロンの傲慢さや滑稽さや移り気や茶目っ気はジュネに通じるところが多い。そんな性格をわざわざ軍人であり艦船の上官にあたるセブロンの中へ導入したところ、場末の倒錯者ではあまりはっきり見えないことのある行動が、より生きいきと面白く読めるようになっている。もっとも、セブロン中尉をからかうわけではない。政治的にではなく社会批判でもなく、ただ率直に面白いと思わせるのである。
セブロン中尉は傲慢さとか尊大さとかのうちにこっそり隠れている取引の面白味に目覚める。この覚醒。それを可能にしたのはセブロンが悩殺されて止まない下級部下クレルの態度にならってからだ。クレルはなぜセブロンより上に位置するのか。そしていつもセブロンに対し不敵な薄ら笑いを浮かべているのか。侮辱ではないのか。軍規違反ではないのか。しかしセブロンは何ら反撃できない。もし万が一クレルから完全に突き放されてしまうようなことになれば、などとは考えることすらできない。次のシーンでセブロンは、リビドー備給としての愛がしばしば用いる手段を身につけている。いつどこで気付いたのかはわからないが、しかしその態度のうちに垣間見える或る種の余裕は、愛する人の姿をじっと見つめているうちにだんだん言動がその人に似てくるというありがちな鏡の効果、主に思春期の生徒たちのように初々しいのだ。クレルに似るセブロン。セブロンはクレルに《なる》。
「警察署でジルと対面するという、決定的な場面(習慣的な論理に従うためには、作者はこの場面を本の末尾に置かねばなるまいが)が生じたとき、少尉は警部に対して、まず尊大な態度を示し、次に傲慢な態度を示した。少尉が自分を襲った男として、ジルをおぼえていたことは、あまりにも明らかであった。彼がそのことを否定したのは、クレルを知って以来、彼を支配していた《自由奔放な》思考の運動に忠実に従ったからであった。この運動が発生するためには、まずしばらくの時日が必要であったが、現在、少尉は目くるめくような、見る見る広がる速さで進歩を遂げていた。少尉は海軍のすべてのクレルよりももっと奔放であり、純粋中の純粋であった。この厳密さは、彼の肉体が参与せず、ただ彼の精神のみが参与している限り、彼に許されていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.297~298」河出文庫)
思春期の生徒たちのような純情な性的リビドー備給に持てるすべてのエネルギーを費やしてしまっていたセブロン中尉。しかしここで、安易にも、元のセブロンに戻りかけそうになる。
「スチームの放熱器に背中をもたせかけて、腰掛にすわっているジルを見たとき、セブロンは、ひとびとが自分に期待していることをすぐに読み取った。それは少年を徹底的に痛めつけてやることだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.298」河出文庫)
そうではないのだ。事情はそこまで単純ではない。セブロンはクレルへの著しい性的リビドー備給によって新しく身につけた《クレルらしい》思考に思い当たらねばならない。それは「そよ風」であり「微風」のようなものとしてしか感じることができない繊細微妙をきわめる至高の戦略である。
「しかしそのとき、彼自身のなかに、草の葉をそよがすきわめて微弱な風のようなものが起っていた。(《そよ風、あるかなきかの微風》と彼が内心の手帖に書いている)その風は、だんだんと大きくなり、彼をふくれあがらせ、震動する口ーーーあるいは声ーーーから、騒がしい言葉となって、どっと溢れ出るのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.298」河出文庫)
取引とは、そこに「そよ風」であり「微風」のようなものとしてしか感じることができない繊細微妙」さがなければ、ただ単なるごろつきどものやりとりと何ら変わらない品のなさを露呈してしまう。その意味では、以前の堕落したセブロンへ舞い戻る直前、ふと「《そよ風、あるかなきかの微風》」によって下品な取引を思いとどまり、言語による駆け引きに出たセブロンの成長を見ることができる。だがこの取引は、下品さを覆い隠してしまいはするものの、覆い隠すというまさにその意味で、よりいっそう巧妙に暴力性は残されるのである。
BGM