白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

「汚辱《への》意志」として流動する強度ジュネ/セブロンの《そよ風》

2019年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネのいう「聖性」。それはあらじめ人間に備わっているものではない。獲得しようとして獲得できるものではない。「聖性」は、「聖性《への》意志」としてしか存在しない。それはどこかから、あるいは誰かから、或る種の資格として与えられる類のものではまったくない。むしろジュネのようにそれへと向かう比類なき強度としての流動性に《なる》こと。この生成変化の過程から始まり、そして、終わりというものを知らない。そのような聖性だ。聖性は、資格ではない。持って生まれた資質でもない。あらかじめ定まったものではない。ただ、ジュネは次のようにいうことができるだけだ。すなわち、「それが得られなければわたしの生涯が空(むな)しいだろうという以外、何も知らない」と。

「聖性がわたしの目標であるが、わたしにはそれがいかなるものであるかを言い表わすことができない。わたしの出発点は、この、倫理的完全に最も近い状態を指す、聖性という言葉それ自身なのである。それについては、わたしは、ただそれが得られなければわたしの生涯が空(むな)しいだろうという以外、何も知らないのである」(ジュネ「泥棒日記・P.303」新潮文庫)

だからジュネは、「聖性《への》意志」として放浪する、放浪の線に《なる》。放浪の線を移動しつづけるジュネは、「各瞬間ごとに」知り得ない「聖性」を「創造したい」と意志する。さらなる放浪の線を延長させていく。

「聖性をーーー美と同様ーーー定義することができない状態のまま、わたしは各瞬間ごとにそれを創造したいと思う、すなわち、わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい、と」(ジュネ「泥棒日記・P.303~304」新潮文庫)

ジュネが目指す聖性は、「各瞬間ごと」に「創造」されるようなものとして、常に既に「流動性」である。その都度「各瞬間ごとに」生成されるような聖性は、したがって「定義することができない状態のまま」移動する。ただ、流れとしてジュネは放浪する。試しに、どこでもいいのだが、或る瞬間、その流れをすっぱり切り取ってみるとそれがその瞬間の、いつも生成途中にある「聖性《への》意志」の切断面であり、「この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ」。ベルクソンはいう。

「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)

ジュネはしきりに「創造」することを意識している。ジュネにとって、聖性とはまた、「創造《への》意志」であり、ジュネ自身「創造《への》意志」として放浪への線を生きる。あるいは移動しつづける。

「われわれの状態はそれぞれ、われわれがみずからにちょうど与えたばかりの新しい形式であって、われわれから生じると同時に、われわれの人格を変える。それゆえ、われわれがすることは、われわれが何であるのかに依存している、と言うのは正しい。しかし、われわれとはある程度われわれが為していることなのであって、われわれは連続的にみずからを創造しているのだ、と付け加えなければならない」(ベルクソン「創造的進化・P.24~25」ちくま学芸文庫)

ジュネの生きる世界での「光輝性」。それは俗世間でいう「汚辱」を「積極的に」引き受ける作業からとぼとぼと漏れ落ちるようなものでしかない。ほとんど誰も気づかない。仲間たちのほか、たぶん、誰にも気づかれることはない。それでも未来へ歩みつづけるジュネはよりいっそう汚辱にまみれながら、その「長い模索がわたしをその境地へ連れてゆく」と信じる。

「わたしは、各瞬間ごとに聖性への意志がわたしを導くことを願うのだーーーいつの日かわたしの光輝性が、それを見て、人々が『あれは聖者だ』と言うほどに、あるいはより可能なことは『あれは聖者だった』と言うほどになる日までーーー。長い模索がわたしをその境地へ連れてゆく」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)

ジュネにおける「聖性《への》意志」は「創造《への》意志」でもある以上、それは同時にいつも「無際限に自分を創造することである」。

「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」(ベルクソン「創造的進化・P.25」ちくま学芸文庫)

いまだかつて誰一人として歩んだことのない冒険に満ちているであろう汚辱への放浪。いかなる方式(メソッド)もあろうはずがない。「聖性《への》生成」は絶えざる変化だ。この行為の遂行は、ただ、固有の茫漠たる砂漠の連続であろう。そしてそのことがすでに「聖なることをなしている」ことだと確信している。

「方式などというものはない。わたしは何もわからずに、そしてただ聖なることをなしているという確信以外何の確証もなしに、わたしをそれへと連れてゆく行為を遂行するだけだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)

「人がある数学的規律に従うことによって聖性を獲得する、ということはありうることである、が、わたしはその場合人が獲得するのは、容易な、礼節に適(かな)った試験済みの形体を備えた聖性、ひと言で言えば、アカデミックな聖性ではないかとおそれる。それならばそれは、見せかけを獲得することにすぎない。倫理や宗教上のいろいろな初歩的原理から出発したとしても、聖者は、それらから自由になった後においてのみその目標に到達するのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)

すでに到達されて確固たるものとなっており、また社会的にも承認を受けているような聖性もあるにちがいないが、けれどもジュネはそのような「出来合いの聖性」には関心がない。むしろ社会的に認知された聖性から解き放たれて始めてジュネの「聖性《への》意志」は生きいきと飛び立つ。にもかかわらず、聖性を成就することは不可能だろうと薄々わかっている。「諦念(ていねん)をその唯一の基礎として持つもののようにわたしには思われる」。ジュネの思考はここでさらに転回を示す。到達不可能であるということはどのような歩みであってもよいということを意味してもいるということだ。だからジュネはいつ終わるともわからない、たぶん終わりのない放浪の線を少しづつ創造していく地道な行為を、けっして派手ではないものの、軽やかな歩行の態度として捉え、あえて「自由」と呼ぶ。ジュネのいう「聖性」。その「自由さ」。それは単なる個体としてのジュネを越える。ジュネにとって「聖性」は常に「定義することができない状態のまま」なされる生成変化の過程なのであり、さらに「わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい」と書くとき、ジュネの世界観は途轍もなく広く深くどこまでも拡張される。ジュネは何十年にもおよぶ放浪生活の中で「自然と人間との絶えざる新陳代謝」あるいは「全宇宙と共演している人間」という現実を生きた、生き証人として語っている。

「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)

そして「自由になった」さらなる「聖性《への》意志」は、よりいっそうの高みを目指して全宇宙と共演しつつ、ただ単なる一個体として「聖性へ向けて生きる」というだけではない。むしろ全宇宙と共演する実在として、無限の「多様性《への》解体」をも意志し、そのすべての行程を「悦楽《として》引き受ける」のでなければならない。

「聖性は、わたしがそれと混同視する美ーーーそして詩(ポエジー)ーーーと同様、唯一独自のものなのだ。それは独創的な表現をとる。しかしそれと同時に、それは諦念(ていねん)をその唯一の基礎として持つもののようにわたしには思われる。それゆえ、わたしはそれをさらに自由とも混同視するだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)

「放浪の線」、「汚辱《への》意志」、それを遂行するにあたって「自恃(じじ)の念を用い、そしてこれを犠牲にする」という。プライドを賭ける。賭けるけれども、おそらくジュネは、俗世間からの途轍もない報復に遭うだろう。そのときジュネのプライドは砕け散るだろう。しかしジュネは砕け散るプライドを砕け散るがままに任せておくにちがいない。

「わたしは何よりも、この語が人間の最も高い精神的態度を指しているからこそ、聖者となることを願うのであり、それに到達するためには、わたしは何事をも辞さないだろう。わたしはそのためにわたしの自恃(じじ)の念を用い、そしてこれを犠牲にするだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)

よりいっそうの高み、俗世間の価値観からみれば「低み」なのだが、今なお誰一人として成し遂げたもののいない、「ジュネ固有の聖性」目指して淡々と歩み続けるほかはない。理解してもらおうとは考えない。ただ人々の中で、ふと過去を振り返ったとき、「あれは聖者だった」、「あれは完璧な裏切り者、泥棒、倒錯者だった」と首をかしげながらも懐かしく思い起こしてくれるようなことがもしあれば、それで十分なのだ。それでもなお、間違っても「殉教者」などとは呼ばれたくないのである。そこにジュネ固有の、俗世間に媚びない「自恃(じじ)の念」がある。俗世間は自分たちがふだん隠している自分たちの「恥部」(怠惰、裏切り、盗み見、媚び、性倒錯、犯罪)が目の前をうろうろと歩いていく光景に我慢がならないのだ。だからジュネの「自恃(じじ)の念」といえども、それが俗世間の価値観に媚びるものではない以上、いつも不意打ち的に粉砕される恐れがある。粉砕されたら粉砕されたで、そのときの状況次第だ。また始めればよい。それだけのことだ。ところが、聖性の逆説は、必ずしも「粉砕する意志」に限ってではなく、むしろ「粉砕されることを《受け入れようとする》積極的意志」の中においてよりいっそう光り輝く。

さて、ブレストに移ろう。セブロン中尉の言動はきわめて現代的である。しばしば滑稽に見える。現代的なものの滑稽さは、現代的であることの裡(うち)にあるのかもしれない。悲劇でもなく、かといって喜劇だとも言いきれない、悲喜劇としか言いようのない事態が多すぎる点に特徴がある。

セブロンの傲慢さはどこから来るのか。人間社会が構造的なものであるところから来る。セブロンは、たとえば部下でしかないクレルを心底から愛している。クレルの前に立つと自然と浮き足立っておもわずじりじり後ずさりしてしまっている自分の卑劣な精神的態度を見ないわけにはいかない。見た目の姿勢は上官と部下であって、そのかぎりでは何もセブロンは部下の前でじりじりと後ずさりするわけではないが、心の中では急速に、甲板の最も端っこまで退いてしまっている自分の卑劣さを意識しないわけにはいかない。軍人として許しがたい自分の卑劣さは、同じく自分の傲慢な態度によって「埋め合わされなければならなかった」。

「傲慢な態度は、わたしたちの精神、わたしたちの言語に対する、わたしたちの信頼である。セブロン少尉の卑劣さは、強い男に面と向った時の彼の物理的後退、彼の敗北の確信でしかなかったので、この卑劣さは、一種の傲慢な態度によって埋め合わされなければならなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.297」河出文庫)

この事情については何度もニーチェを引いてきた。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)

なぜかはよくわからないが、場面展開上、ジュネはややこしい構造をとっている。必要性は認められるものの、なぜここでこのシーンなのだろうか。ともかく、見ていこう。セブロン中尉はジュネの分身だと前に述べた。「ブレスト」の登場文物の中で、セブロン中尉だけは本物の男性同性愛者だとジュネは名言している。他の作品、とりわけ「泥棒日記」において見ることができるように、なるほどセブロンの傲慢さや滑稽さや移り気や茶目っ気はジュネに通じるところが多い。そんな性格をわざわざ軍人であり艦船の上官にあたるセブロンの中へ導入したところ、場末の倒錯者ではあまりはっきり見えないことのある行動が、より生きいきと面白く読めるようになっている。もっとも、セブロン中尉をからかうわけではない。政治的にではなく社会批判でもなく、ただ率直に面白いと思わせるのである。

セブロン中尉は傲慢さとか尊大さとかのうちにこっそり隠れている取引の面白味に目覚める。この覚醒。それを可能にしたのはセブロンが悩殺されて止まない下級部下クレルの態度にならってからだ。クレルはなぜセブロンより上に位置するのか。そしていつもセブロンに対し不敵な薄ら笑いを浮かべているのか。侮辱ではないのか。軍規違反ではないのか。しかしセブロンは何ら反撃できない。もし万が一クレルから完全に突き放されてしまうようなことになれば、などとは考えることすらできない。次のシーンでセブロンは、リビドー備給としての愛がしばしば用いる手段を身につけている。いつどこで気付いたのかはわからないが、しかしその態度のうちに垣間見える或る種の余裕は、愛する人の姿をじっと見つめているうちにだんだん言動がその人に似てくるというありがちな鏡の効果、主に思春期の生徒たちのように初々しいのだ。クレルに似るセブロン。セブロンはクレルに《なる》。

「警察署でジルと対面するという、決定的な場面(習慣的な論理に従うためには、作者はこの場面を本の末尾に置かねばなるまいが)が生じたとき、少尉は警部に対して、まず尊大な態度を示し、次に傲慢な態度を示した。少尉が自分を襲った男として、ジルをおぼえていたことは、あまりにも明らかであった。彼がそのことを否定したのは、クレルを知って以来、彼を支配していた《自由奔放な》思考の運動に忠実に従ったからであった。この運動が発生するためには、まずしばらくの時日が必要であったが、現在、少尉は目くるめくような、見る見る広がる速さで進歩を遂げていた。少尉は海軍のすべてのクレルよりももっと奔放であり、純粋中の純粋であった。この厳密さは、彼の肉体が参与せず、ただ彼の精神のみが参与している限り、彼に許されていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.297~298」河出文庫)

思春期の生徒たちのような純情な性的リビドー備給に持てるすべてのエネルギーを費やしてしまっていたセブロン中尉。しかしここで、安易にも、元のセブロンに戻りかけそうになる。

「スチームの放熱器に背中をもたせかけて、腰掛にすわっているジルを見たとき、セブロンは、ひとびとが自分に期待していることをすぐに読み取った。それは少年を徹底的に痛めつけてやることだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.298」河出文庫)

そうではないのだ。事情はそこまで単純ではない。セブロンはクレルへの著しい性的リビドー備給によって新しく身につけた《クレルらしい》思考に思い当たらねばならない。それは「そよ風」であり「微風」のようなものとしてしか感じることができない繊細微妙をきわめる至高の戦略である。

「しかしそのとき、彼自身のなかに、草の葉をそよがすきわめて微弱な風のようなものが起っていた。(《そよ風、あるかなきかの微風》と彼が内心の手帖に書いている)その風は、だんだんと大きくなり、彼をふくれあがらせ、震動する口ーーーあるいは声ーーーから、騒がしい言葉となって、どっと溢れ出るのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.298」河出文庫)

取引とは、そこに「そよ風」であり「微風」のようなものとしてしか感じることができない繊細微妙」さがなければ、ただ単なるごろつきどものやりとりと何ら変わらない品のなさを露呈してしまう。その意味では、以前の堕落したセブロンへ舞い戻る直前、ふと「《そよ風、あるかなきかの微風》」によって下品な取引を思いとどまり、言語による駆け引きに出たセブロンの成長を見ることができる。だがこの取引は、下品さを覆い隠してしまいはするものの、覆い隠すというまさにその意味で、よりいっそう巧妙に暴力性は残されるのである。

BGM

ジュネ固有の聖性/「ナイフ」=「理想的に勃起した男性器」=「専制君主」=「精液」としてのマリオ

2019年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
詩人というものは一般的に俗世間の人間たちと隔絶されていることが多い。が、実際の詩人はあまりにも少ない、というべきだろうか。一般的に詩人は言語とその使用方法に対して過剰なほどの鋭さを有している。言語に対する過剰なほどの鋭さ。だからといって、そのような人間はすべて詩人であるとしても、職業詩人として生活しているかどうかは全然別々の問題だ。むしろ過剰なほど鋭敏な言語感覚を持っている人間が、ただ単なる専業主婦あるいは専業主夫だったり、ただ単なる会社員あるいは学生だったりすることのほうが圧倒的に多いのが実状だろう。ジュネもまたその一人に過ぎない。むしろ泥棒稼業が長かったことはジュネを文学の世界から長いあいだ遠ざけていただけでなく、同時にその詩人としての資質を発揮する機会からもずっと長いあいだ遠ざけるよう作用した。しかしジュネにとっての幸運は、長期間にわたって続けられた泥棒稼業の成果でもある。たまたまの一致に過ぎない。どれほど長く泥棒稼業に専心したとしてもそのすべての人間が詩人になれるわけではない。逆にどれほど泥棒と縁のない日常生活を送ってきたとしても簡単に詩人になってしまえる人間もいる。ところが、犯罪者か犯罪者でないかどうか、あるいはどのような生涯を送ってきたかにはまったく関係なく、むしろ言えるだろうことは、詩人というものは言語としてしか存在しないということであるだろう。そしてまた、言語について過剰なほど鋭敏であるという体質は、その人間にとって或る種の「生きにくさ」を生じさせずにはおかない。そのため、ともすれば詩人は、自分で自分自身を俗世間からかけ離れたところへ、どんどん追いやってしまうという逆説にいつもつきまとわれていなければならない。この種の探究心は、それが熱心であればあるほど、ジュネにいわせれば「汚醜の深さ」となり「徒刑囚の苦役のごとき仕事」ともなる。

「わたしは、その手段の厳粛さによって、彼が人間たちに近づくために用いた材料の壮麗さによって、詩人がそれだけ人間たちから遠く離れていたかを測る。わたしに汚醜の深さが、わたしの裡(うち)なる詩人に、この徒刑囚の苦役のごとき仕事をば強制したのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.300」新潮文庫)

ジュネは「人間たちがある深い作品から遠ざかることはよいことである」という。俗世間の人間は誰でも多少は俗世間の価値観を共有して生きている。ところが俗世間の中で俗世間の価値観にしたがって生きていると息苦しさが昂じてくる。だから気晴らしにでも構わないという条件がごろごろ転がっている俗世間の隙を突いて、しばしば言語を操ることでーーー単なる言葉遊びの範囲を越えないにせよーーーいつもの自分を脱構築(言い換えれば「変身」)して、自分を楽しむことができる。そのときその人間はすでに詩人である。そしてさらにそこから発した言語の系列がまさしく詩に近づけば近づくほど、詩人と化した人間は俗世間からかけ離れたところに自分を移動させているという事情でなくてはならない。俗世間から自分を隔離しようとして詩人になるのではなく、逆に、詩作していたらいつの間にか詩人になり、同時に俗世間とはまったくかけ離れた場所へ移動していたという事情でなくてはならない。詩人であるということは、すでに世俗とは隔たった場所と化した強度のことをいうのだ。だから、世俗とは隔たった場所と化した強度としての自分を自分で見るとき、自分はまぎれもなく詩人になっており、なおかつ同時に俗世間とかけ離れた場所の「中に醜怪にも埋没した人間の叫び」としての自分を発見するのである。もしそのときにできた作品が余りにも「醜怪」なものに映って見えたとすれば、その事実こそ、自分で自分に嘘はついていないという証拠となる。人間への愛というものは、様々な形を取って出現するのが常だ。そしてそれは実にしばしば「醜怪」なものでもある。だからこそ美しいのであり、また人間に対する全身全霊を賭けた愛というものも、一瞬の光芒でしかないにせよ、その「醜怪さ」において始めて目に見えるものとなるのである。

「ところで、わたしの汚醜はわたしの絶望であった。そしてこの絶望は、まさにそれを打破るために必要な力それ自身ーーーであると同時に、そのための材料であったのだ。しかし、もし作品が、最も深い絶望の激しい力を必要とする、最も美しいものであるならば、詩人は、このような努力に着手するには、人間たちを愛していなければならなかったはずだ。そして、彼は成功しなければならなかったのだ。人間たちがある深い作品から遠ざかることはよいことである、ーーーその作品が自己の中に醜怪にも埋没した人間の叫びであるならば」(ジュネ「泥棒日記・P.300~301」新潮文庫)

ニーチェは性愛を例にとって、なおかつユーモアを交えつつ、愛とはどういうものかをこう述べる。

「《愛》。ーーー愛は恋人に欲情さえもゆるす」(ニーチェ「悦ばしき知識・六二・P.137」ちくま学芸文庫)

「あなた方をわたしから遠ざけるためにわたしが必要とする手段の厳粛さによって、わたしのあなた方に寄せる愛情を測っていただきたい。あなた方の吐く息がわたしを腐敗させないようにするために(わたしは極度の腐蝕されやすいのだ)、わたしがわたしの生活とわたしの作品の中に築く障壁によって、わたしがどれほどあなたを愛しているかを推定していただきたい(芸術作品がわたしの聖性の証明以外のものであってはならない以上、この聖性が現実のものであることは、単に作品を生み出すために大切であるだけでなく、それはまた、わたしが未知の目的地へ向ってのさらにいっそう大きな努力をするために、すでに聖性によって強固なこの作品の上に身を支えるためにも、大切なことである)」(ジュネ「泥棒日記・P.301」新潮文庫)

ジュネは「聖性」という。ジュネは「聖性《への》意志」に《なる》。そうすればするほど俗世間からさらに、急速に、こっぴどくかけ離れ、よりいっそう引き裂かれる力を獲得する。ジュネは汚醜を意志している。ジュネにとってはよりいっそう深く暗く救いようのない「汚醜《への》意志」こそまさしく「聖性《への》意志」にほかならない。これまで何度も繰り返し述べられてきたことだ。にもかかわらず、そのような行為がなぜ人間への愛からなされる行為なのか。そこに愛の不思議さがある。ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」にあるように、愛が演じる行為というのは、ときとして不可解に見える。しかし不可解に見えるのは周囲の眼が転倒しているからに過ぎない。ジュネの場合では、「聖性《への》意志」=よりいっそう深く暗く救いようのない「汚醜《への》意志」=「人間への愛」、という形を取って現われた。それだけのことに過ぎない。とはいえ、ジュネは、何もことさら好んで人間の一般的な言動からかけ離れようとしているわけではない。むしろ人間の内部へ没入しようとする。すると当然、「汚醜《への》意志」の中には「悪の天真爛漫(らんまん)な映像」が混在しているという隠しようのない事実もまた暴露されてこざるをえない。

「わたしの愛情はきわめて脆(もろ)い質料でできているのだ。そして人間たちの息吹(いぶ)きは、新しい天国を求める方式を惑乱させるだろう。わたしは、悪の天真爛漫(らんまん)な映像を人々に否応なく認めさせるだろう、たとえわたしが、わたしの生命を、わたしの名誉と栄光を、その探求の途上に失おうとも」(ジュネ「泥棒日記・P.301~302」新潮文庫)

創造するということ。それは「多少にかかわらず浮薄な遊びではない」。ジュネはジュネが言語化して登場させた様々な人物に対して、その無数の犯罪的言動を「とことんまで自分自身に引受ける」。この「引き受け」。それこそジュネがジュネの言語化によって登場してきた様々な登場人物への愛でありまた責任であり、本来的に「引き受ける」とはどういう態度を指すのかという世間一般の問いに対する明確な答えである。

「創造するということは、決して多少にかかわらず浮薄な遊びではない。創造者は、彼の創造したものたちが冒す危険をとことんまで自分自身に引受けるという恐ろしい冒険に身を投げ入れたのだ。その起源に愛が存在しないような創造は想像することができない。人はいかにして自己の面前に、自己と同じほど強いものとして、軽蔑(けいべつ)あるいは憎悪(ぞうお)すべき者を置くことができるだろうか」(ジュネ「泥棒日記・P.302」新潮文庫)

ジュネ独特の言語的操作のために、キリスト教の聖書が、たいへん重要な役割を果たしたことは以前にも述べた。ジュネはほかでもない「新訳聖書」にとって、実に良き読者であるということができる。ジュネは世間一般の凡庸な聖書解釈の範囲内で満足して凡庸な解釈のうちに引きこもるだけで十分に「浄化された」と思い込んでしまえるほど短絡的にエネルギーを枯渇させていない。どこにでもごろごろ転がっていそうな「神学者の言うことなどかまうまい」と書く。

「しかしそのとき、創造者は彼の人物たちの罪の重みをみずから背負うであろう。イエスは人間と化(な)った。彼は贖罪(しょくざい)する。神と同じく、彼は人間たちを創(つく)った後、彼らをその罪から解放するのである、ーーー彼は鞭(むち)打たれ、顔に唾(つばき)され、嘲弄(ちょうろう)され、釘(くぎ)づけにされる。これが、『彼(主)はその肉身において苦しみたもう』という表現の意味なのだ。神学者たちの言うことなどかまうまい」(ジュネ「泥棒日記・P.302」新潮文庫)

聖書参照。

「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、まず己(おの)れをすてて、自分の十字架(じゅうじか)を負(お)い、それからわたしに従(したが)え」(「新約聖書・マルコ福音書・第八章・P.34」岩波文庫)

「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、まず己(おの)れをすてて、毎日(まいにち)自分の十字架(じゅうじか)を負(お)い、それからわたしに従(したが)え」(「新約聖書・ルカ福音書・第九章・P.208」岩波文庫)

おそらく今あげた部分を意識しての解釈だろうとおもわれる。

「『この世の罪の重みを担(にな)う』とは正確に次のことを意味するのだ、ーーーすなわち、あらゆる罪を、潜勢としてまた顕勢として、その身に感じること、すなわち、悪を身に引受けたこと、である。すべて創造者は、このように、彼によって与えられ、彼の創造した者たちが自由に選びとるところの悪を背負うーーーこの語は弱すぎるだろうーーーそれを自己のものとする、それが彼を構成する質料であり、彼の血管の中に流れていることを意識するまでにそれを自己のものとすべきである」(ジュネ「泥棒日記・P.302」新潮文庫)

ジュネは、キリストの「創造した者たちが自由に選びとるところの悪を背負う」だけでは表現として「弱すぎる」と考え、こう続ける。「悪を背負う」というよりも「それを自己のものとする」ばかりか、「あらゆる罪」が自分の「血管の中に流れていることを意識するまでにそれを自己のものとすべきである」と。そこまで達して始めて、ジュネのいう「引き受ける」という態度は成就を得るということでなくてはならない。だからそのような態度こそ、ジュネが自分で自分自身に課した倫理である。ジュネのいう「聖性」はイエスの「聖性」とはちがっている。イエスの、あるいはキリスト教の教義にある「聖性」には、経済的富裕ではなく経済的貧困こそ純粋な宗教者であることの証明であるという、何かルサンチマン(復讐感情、劣等感)による逆襲意志が垣間見えるのである。さらにまた、経済的貧困さは信仰の純粋さの現われでありなおかつ「善」であるという教義に従ってしまうと、貧困者層の増大は経済的で社会的な構造的問題であるという世界的規模の現実からあっけなく目をそらせてしまうことになる。同時にいとも安易に経済的富裕層を、とりわけ資本主義の欲望を無際限に認め、資本に対して限度を忘れて無批判的に奉仕する側に回るといった転倒に陥ってしまうのがキリスト教の逆説でもある。一方、ジュネのいう「聖性」は聖書から学んだ一つの方法であって、方法でしかないといえばいえるかもしれないが、キリスト教の教義における「聖性《への》意志」とは比較にならない冷淡さに至ろうとする自分に対する限りないサディズムがある。「聖性《への》意志」が容赦なく与えるであろう過酷なサディズムをいとも淡々と「引き受ける」だけでなく、その過程から自分にとってのありとあらゆる利得を引き出してくる底知れぬマゾヒストとしても生きるジュネがいる。

「この点に、わたしは『創造』と『贖罪』というあの慈愛に満ちた神話の数多い活用の一つを見たいのである。あらゆる創造者は、その人物たちに自由意志を、自己を自由に処理する権能を付与するとしても、心の中ではひそかに、彼らが『善』を選びとることを願っているのである。あらゆる恋人が、相手から、他の顧慮からではなしにただ自分自身として愛されることを願うのは、これと同じことなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.302~303」新潮文庫)

ジュネは、自分の作品の登場人物の創造者として、「『創造』、『贖罪』、『善』を選びとること」を希求している。世間一般の価値観における「『創造』、『贖罪』、『善』」では《ない》。だからといって、俗世間の価値観を馬鹿にするつもりはいっこうにないのだ。むしろ自分の作品の登場人物それぞれが、それぞれの倫理において倫理をまっとうすること、それが「裏切り行為」であるとすれば「裏切り行為」においてつきまとって離れない倫理観について誠実かつ忠実であることを願うのだ。たとえばここで述べられているように、その倫理は、「あらゆる恋人が、相手から、他の顧慮からではなしにただ自分自身として愛されることを願う」ことと等価であることを意味する。一般的な人間関係につきまとっている困難は、ジュネのいうこの困難を抜きにしたところでは何一つ考えることができない。或る人を愛するとき、相手を社会的に位置づけているあらゆる条件から解き放ってなお愛することができるか、それとも何らかの躊躇を感じないではいられないか。たとえば、或る人を愛するとき、その人がたいへんな貧困者である場合。逆にたいへんな上流階級に属している場合。さらには地区出身者である場合。身体的精神的障害者である場合。あるいは同性愛者である場合。そしてまた前科者である場合。また過去に「捨て子」であり親が誰だかさっぱりわからないような場合。外国ならインドなどで「アンタッチャブル(不可触民)階級」に属している場合。等々。それらの人々を「力」においても「美」においてもまったく対等の存在として愛し、受け入れ、引き受けるということを実践において証明すること。それがジュネのいう「聖性」であり、貧困者であればあるほど精神的には尊いというようなキリスト教精神とは決定的に異なる部分である。

ちなみに、個人的な知人の中に、ジュネに近い人間がいる。複数いる。さらにそのような人々は、何も特別に珍しいというわけでもない。むしろアルコール依存症や薬物依存症の治療現場ではしばしば見かけることができる。ふだん、ふつうにそこらへんの街路を散歩していたりする。だからといって、あえてこちらから声をかけたりはしない。むやみに声をかけたりしないのは、人間関係の基本として、現在互いが置かれている立場への尊重だと考えるからである。実在するそのような人々は、いまのところ、職業でいえばキリスト教の牧師が多い。だがそのような人々の過去は極悪無残というほかない薬物依存症者だった点に顕著な特徴がある。彼ら彼女らの体験談に注意深く耳を傾けていると、それはもう救いようのない事件簿の頁で埋め尽くされていることが少なくない。家族などとうの昔に失っている。何度か繰り返し体験談を聞いていると、何度目かにふと気づくことがある。「薬物《への》意志」とでもいっておこう。薬物を欲する意志の強固さは言語に絶する。何もかも失っている。あるのは借金ばかりだ。それでもなお増殖する「薬物《への》意志」。その行動力は限りなくエネルギッシュだ。しかし今はとても精力的なキリスト者として全国の刑務所で様々な慈善活動に励んでいる。そのエネルギッシュな姿から目に見える姿形を消去してみることにしよう。すると、全国の刑務所での様々な慈善活動において、これ以上ないほどエネルギッシュに流動する強度だけが残るだろう。それはほぼまちがいなく「薬物《への》意志」としてこの上なくエネルギッシュに行動していた流動する強度としての同一人物の動きとちがわない。もちろん、礼儀作法や日常生活の過ごし方はまるで違う。にもかかわらず、この上なくエネルギッシュに行動する流動する強度としては、異なって見えないのだ。両者はまちがいなく同一人物である。だからここで言いたいのは「見た目」だけではほとんど何も《わからない》という人間本来の創造性、もっといえば人間は「生成変化」するという事実である。

さて、淫売屋の主人と付き合っている警察官マリオ。ひょんなことからクレルと喧嘩することになる。もっとも、喧嘩という言葉は個人的に好きでないのだが、翻訳がそうなっていることと、このシーンで展開される事態がそうとしか言えないので仕方なく喧嘩という語彙を用いることにしよう。マリオはクレルに対して複雑な感情を持っている。とはいえ、マリオが水兵殺人事件に絡んでいるということは直接的な問題ではない。この喧嘩には警察官マリオとしての、勃起する専制君主としての、男性器それ自身であろうとすることへの、自信のなさがあるのだ。クレルは察しのいい若年者ゆえ、苦悶するマリオの警察官としてのプライドが瓦解しかかっていることを素早く見て取る。わざとクレルはマリオをからかって喧嘩に持ち込む。ところが怒ったマリオは警察官の特権的武器であるナイフを取り出してきた。

「マリオはピストルを取出し、職権を利用してクレルを殺してやろうかと思った。できれば彼を逮捕したかった。水兵が自分を脅迫していたのだから。ところで、唇を引きつらせ、胸をはずませ、息を切らせ、ぎこちない鈍重な身ぶりで、みすぼらしっく情けなく、ぶざまに身体を縮めていたマリオの心に、黄金の蜜蜂の舞う天上の香気にみちみちた、すばらしい妙案が生れた。すなわち、彼はナイフを取出したのである。クレルはナイフを眼にしたというよりも、むしろナイフの存在を予感した」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.280」河出文庫)

注目したいのは「ナイフの存在を予感した」とある箇所。「ナイフ」=「理想的に勃起した男性器」=「専制君主」という象徴化の過程はすでに始まっている。なのでこの箇所ではまだ「予感した」だけで十分なのだ。次の文章はジュネのこだわりである細かな描写。単なる遊戯あるいは楽しみとしての喧嘩はたちまち消え去り「地獄の狂暴性」という裂け目が顔をのぞかせる。

「今まで以上に抜け目なく陰険になった、刑事の急に変った身ぶりと、型通りの凄味と険悪さを加えたその態度によって、クレルはマリオの心に、もう取消すべからざる、大きな犠牲をはらって手に入れた一つの決意、殺人の意志ともいうべきものが生じたのを見抜いたのである。クレルには、ここで殺人の必然性をーーー殺人の重大性すらもーーー理解することはできなかったが、その刑事の殺人の意志ともいうべきものがだんだん大きくなると、ーーー刑事がジャックナイフを持っていれば、もちろん六.三五口径のピストルも身につけているにちがいないーーー敵が狂暴な、人間的な存在になりつつあるのを感じ(地獄の狂暴性は、もはや彼ら二人を戦わせていた喧嘩の趣味、復讐や侮辱の趣味とは何の関係もなかった)、にわかに恐怖にとらわれた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.281」河出文庫)

警察官マリオの輪郭が変容する。「朦朧」と《なる》。クレルがマリオの中に「金属の刃の鋭い死の存在を見抜いたのは、この時」だ。

「マリオのもやもや動くような、やや朦朧とした輪郭のなかに、クレルが金属の刃の鋭い死の存在を見抜いたのは、この時であった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.280~281」河出文庫)

とっさに態度を変化させるのはクレルである。慣れたものだ。生死がかかっているにもかかわらず、ではなく、生死がかかっていると感じるやいなや持ち直さなければならない態度については、年上の警察官マリオよりずっと若年のクレルのほうが遥かに上手をいっている。現実の見極め方に誤りがない。この違いは大きい。次の認識のように大きい。

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71(岩波文庫)

ところでナイフだが、ジュネの描写のすぐれた点はこういうところで発揮される。要するに、スローモーション的描写である。次の文章にあるようにナイフを秘めたマリオの動きについて、「軽やかな身ごなしにし、身体をアコーディオンのような、決定的な合図とともに不動のまま伸びるーーー縮むのではないーーー圧縮されたものにし、眼を取返しがつかないほど絶望的な、落着いた重要な影響を及ぼす(二人の死者を出すであろう)という意味で怖ろしいものに」していたのは、ほかでもない「ナイフ」だと感じる。ナイフという鋭利な刃物を所持した警察官マリオは、自分で自分自身の動きに「アコーディオン」のようにふらふらとした余裕を与えてしまう。そのため逆効果的に、マリオがナイフを所持しているとクレルは察することができる。

「目には見えないながら、この金属の刃のみが、撓(たわ)んだ手と曲げた手首を、ほとんど安心してこの刃に頼り切った、軽やかな身ごなしにし、身体をアコーディオンのような、決定的な合図とともに不動のまま伸びるーーー縮むのではないーーー圧縮されたものにし、眼を取返しがつかないほど絶望的な、落着いた重要な影響を及ぼす(二人の死者を出すであろう)という意味で怖ろしいものになっていたナイフのみを、はっきり感じていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.281」河出文庫)

さて、ナイフの「刃」について。「切れるという事実によって危険なのではなく、むしろ夜のなかの死の象徴だった」とある。象徴のほうが有効だという事態はこのような時に起こる。「死の象徴」としてのナイフは、象徴と化していて、実態が何なのかわからないからこそますます「恐怖の原因」として感じられるわけだが、しかし注目すべきことに「その刃は牛乳のように白く、やや流動性の物質でできていた」とある。性愛に人一倍関心を寄せるジュネの文章ゆえに、こう書き加えなければならない。「ナイフ」=「理想的に勃起した男性器」=「専制君主」、そして「精液」と。

「その刃は牛乳のように白く、やや流動性の物質でできていた。というのは、ナイフは切れるという事実によって危険なのではなく、むしろ夜のなかの死の象徴だったのである。この象徴であるということによって、象徴であるという単なる事実から人を殺すナイフは、クレルをおびやかしていた。恐怖の原因となっていたのはナイフの観念である」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.281」河出文庫)

この少し先でクレルは結果的にマリオに降参する。だがこの無益な喧嘩をわざわざ起こすために警察官マリオをそそのかしたのはほかでもないクレルなのだ。この喧嘩の前にクレルはマリオ相手にこんな行為でからかっている。

「警官を相手に戦っているのがクレルには嬉しかった。その若さと柔軟な身のこなしのため、クレルによって有利に運ばれているこの戦いは、相手を誘いながらも容易に身を許さず、ますます相手の渇望の気持を起させる、あの若い娘のコケットリーにも似た行為にほかならないことを、すでにクレル自身が感じていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.279」河出文庫)

「コケットリー」。遊びあるいは冗談で済めばそれにこしたことはない。だが実際はどうであろうか。クレルのコケットリーな態度はマリオを怒らせナイフを持ち出させてしまうところまで行ってしまった。

“coquetry”=「なまめかしさ、媚態、色っぽい、男にこびるような行為」。動詞で“coquet”=「気をひく、いちゃつく」。特に動詞の場合、ただ単に遊んでいるのかそれとも本当にその気があるのか、よりいっそう不明瞭になってしまう。性別に関係なく、もし相手の態度がコケットリーに見えた場合、ただ単なる遊戯で済ませるのがふつうである。ところが単なる戯れとしてあしらわれた場合、相手を無用に傷つけることにもなりかねない。しかしここでの問題はそのような場面に遭遇したときどうすればよいのかということではない。どちらが悪いとか悪くないという低次元の問題ではない。そうではなく、“coquet”=「気をひく、いちゃつく」という言語の両義性である。この種の言語あるいは態度は「パルマコン」(医薬あるいは毒薬)として、常に二重性を帯びてしか出現しないという事情に配慮すべきであるだろう。要するに、おとなはもちろん、少なくとも思春期に達した人々にとって社会的な態度とは何かについて問うたつもりである。

なお、コケットリーに関して、真っ先に述べた詩人との関係に触れておきたい。わかりやすい例として上げるわけだが、たとえば大手と呼ばれる銀行を舞台として。一方に三〇歳の男性行員がいる。まったく詩を理解しないタイプである。他方、まだ入行二年目の女性行員がいる。二十四歳。つねは窓口業務。ある日、たまたま二人が一緒に飲食する機会ができた。女性行員は男性行員の部下にあたる。ところで女性は、自分では意識していないが、詩や文学について実は理解力がある。上司にあたる男性行員はそれが全然ない。しかしそのようなケースは特に珍しいケースではない。逆の場合も多いにあるからだが。さて、酒の席で偶然小説の話題が出た。それがきっかけになったのかもしれない。翌日の昼休み、女性は男性の仕事部屋におもむいて、昨日の続きのつもりで詩を印字したレポート用紙を男性に見せる。男性はなるほど文学を話題にはしたけれども、詩のことなどとんと理解できない。男性は少々いらつく。女性はとっさに男性の気分を害してしまったかもしれないと警戒する。部屋は周囲と仕切られている。詩が理解できないことで何となく憂鬱な気分におちいってしまった男性はいきなり女性を羽交い締めにしてレイプしてしまう。というのも、一片の詩によって、男性の粗雑な知性は女性の繊細な知性によって地面に叩きつけられたからだ。このレイプ。その犯罪的光景。しかしこの光景は、見る側の人間によってはとてつもなく詩的なシーンに映って見えることがある。見る側の人間が男性でなく、もし長く行員をつとめてきた女性行員の場合、そこで行われているレイプはどのように見えるだろうか。侮辱するつもりなどまったくなかった若い女性行員と、侮辱されたと思い込んだ男性中堅行員。しかし行われているのは明らかに犯罪以外の何ものでもない。ところが、あるいはベテラン女性行員から見て、そこに或る種の詩を見てしまいはしないだろうか。そこに詩がある。そう思わないだろうか。もちろん、必ずしもそうとはまったく限らないし、ほとんどの場合、そうとは限らないわけだが。さらに、始めから女性の側にコケットリーな態度があったわけでは何らない。それでもなお発生する犯罪。犯罪とは何なのだろうか。さらにもし、屈辱のあまりこれ以上生きていけないと考えた男性が女性を殺害するに至るような場合。殺されつつある女性の苦悶に歪んだ姿を偶然目撃した人間が、その凄絶さをぎらぎらと照りつける太陽のようで思わず逃げ場がないと感じ、不可能な直視に陥ってしまい、そのまま恍惚となってしまったとしたら、その光景はむしろ壮麗な詩情の発露であり、なおかつ美というものではないだろうか。男女の立場が逆転する場合ももちろんあるにちがいない。だからといって、いずれにせよ、何も殺人を美化したいわけでも何でもない。ただ、俗世間にはそう感じる人々が少なからずいるということを指摘したいだけだ。というのも、特に日本には伝統的芸術として明治近代化以前から「耽美」という芸術様式を愛好する傾向が濃厚に残っているからである。耽美的な芸術はただ単に残酷であればよいというわけではさらさらない。それだけではただ単なる「猟奇趣味」に過ぎない。耽美的なものはそうではない。或る光景に出会う。そしてそこにまぎれもない詩を見るとき、人々はそれを耽美と呼び芸術と呼ぶのではないだろうか。たとえば「英名二十八衆句」が今なお非常に高い芸術的価値を有して、見る人々の足を瞬時に止めさせるほど魅了してやまないのはなぜだろうか。

BGM

夜陰的性愛の宇宙的膨張〔ジュネ〕/言語による三次元的構造転化〔クレルのケース〕

2019年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ベルナルディーニ刑事とジュネの付き合いについては前に述べた。ベルナルディーニは刑事であると同時に女衒でもある。言い換えれば「警察」であると同時に「罪」でもある。ベルナルディーニの身体はその精神とともに警察と罪との類稀なる融合だった。ジュネはベルナルディーニの容貌について詳しく述べている。その逞(たくま)しさ。その顔の粗剛(そごう)で花崗岩(かこうがん)質のようなごつごつした感じ。そしてそれら諸特徴が現わす警察という組織の悪魔的で帝王の栄光ほどにも眩惑(げんわく)的な傲岸不遜な儀式性あるいは嘔気(はきけ)を催させる装飾性。さらに何より誘惑的だったのは警察という宇宙的イメージである。

「形の定まらない、動きつづける、ガス状の、絶えず己(おの)れを創造する、原動的、神話的な宇宙、その力の諸属性と共に制服を着たオートバイの乗り手たちがその我々の世界への派遣団であるところの、この宇宙」(ジュネ「泥棒日記・P.273」新潮文庫)

一九三〇年代のヨーローパの話なのだが、むしろ現代的な警察組織のありようを現わす巧みな記述であるといえよう。

さらにジュネはベルナルディーニに期待する。「彼が粗暴で残酷な心を持っていることを」(ジュネ「泥棒日記・P.274」新潮文庫)。ところが残念ながらというべきか、ベルナルディーニが持っている心はただ単純に「粗暴で残酷な」ものではないのだった。ベルナルディーニの心に宿っていたのはむしろ二重スパイのような最下級の卑劣ぶりである。そのことに気づいたジュネは強烈な感動に身を震わせる。前に引用したが、悪党ジュネと警察ベルナルディーニの関係は「その出会いが比類ない火山を現出させる陰陽二種の電気の性質に比較しうる、一種の手段でしかないこと」によって、なおさら、よりいっそう強度を増し互いに互いを根拠づけ合い励まし合う、生成する弁証法的運動を展開する点に特徴がある。両者は、社会的立場としては矛盾した両極である。しかしこの矛盾によって互いに互いを排除し合い、両極へと対立する傾向を持ち、互いに排除し合いながら闘争、発展、運動しつつよりいっそう高い段階へと両者をのぼらせていく歴史的過程を歩んでいくほかない。このとき警察と悪党は歴史じたいを演じるのだ。ところでジュネはベルナルディーニの堂々たる肉体にもかかわらず、最も関心を惹かれたのはそういう部分ではない。むしろ堂々たる肉体の持主が興味津々、後ろ暗い好奇心をあらわにして打ち込む或る種の行為に、である。

「わたしはベルナルディーニ刑事が羨(うらや)ましかった。彼は自由に犯罪人名簿から殺人事件なり、強姦(ごうかん)事件なりを取出し、それで自分をふくらせ、それをあきるほど食い、それから自宅(うち)へ帰ることができたのだ。わたしの言うのは、彼が探偵小説を読むような工合に、それらで気晴らしをすることができたという意味ではない。気晴らしではない。その反対だ。それは、最も意想外の、最も不幸な状況を自己に引寄せること、最も屈辱的な告白ーーーそれらこそ最も豊饒(ほうじょう)な告白であるーーーを自己のものとして担(にな)うことなのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.287」新潮文庫)

ジュネはジュネ自身が形容するのように、犯罪者による恥辱にまみれた無数の告白、それも「最も屈辱的な告白ーーーそれらこそ最も豊饒(ほうじょう)な告白」を、無言の裡(うち)に手当たり次第に漁り尽くし、じっくりと眺めまわし、舌なめずりしつつ美酒に酔うことができるベルナルディーニを羨(うらや)んだのだ。そしてこの行為の中には常に、そして確実に、「夜陰的と形容する細部(もの)」が充満している。さらに「夜陰的と形容する細部(もの)」はベルナルディーニの精神の中にただ単に充満しているというだけでなく、ジュネの内部で「わたしが戦慄(せんりつ)する暗闇(くらやみ)をわたしの裡に創(つく)りだすゆえに」、言語的想像力を借りて「増大」し、「増大」を「強制」し、「陰影(かげ)をいっそう濃化し、その領分を殖(ふ)やし、それを暗黒で満たす」よう導いていく力に満ちている。それは「その人間のもろもろの性愛的性質の延長部分」であり、様々な冒険を可能ならしめ、実際に行われた冒険によって「それら陰の地帯のすべてから」愛人たちがそこへと没し去っていく切実な夕焼けにも似た「夜陰的宇宙を引出」す。さらに同性愛者同士が共有する「強大な性愛力」はありとあらゆる冒険的行動をあちこちで同時多発的に誘発しつつ、ジュネの身体において、すべての同性愛者はすべての警察機構と同様の燦然たる宇宙として、宇宙の果てまで「延長」していく。要するに彼ら彼女らはけっして滅びない。

「ある男を愛するということは、単に、わたしが夜陰的と形容するさまざまな細部(もの)ーーーそれらが、その中でわたしが戦慄(せんりつ)する暗闇(くらやみ)をわたしの裡に創(つく)りだすゆえに、わたしが夜陰的と形容する細部(もの)ーーー(髪の毛とか、眼、微笑、親指、腿、体毛、等々)の魅惑に自分を任せるということだけでなく、それはそうした細部(もの)をして、可能な限りのものを陰影(かげ)に化さしめるようにすること、陰影(かげ)はさらに増大せしむること、すなわち、陰影(かげ)をいっそう濃化し、その領分を殖(ふ)やし、それを暗黒で満たすように強制することなのである。わたしを興奮惑乱させるものは、単に肉体とそれを飾るそのさまざまな付属物だけではなく、またさまざまな性愛の演技だけでもなく、その人間のもろもろの性愛的性質の延長部分なのだ。ところで、それら性愛的性質とは、それらの表徴を身につけている人間の遂行したさまざまな冒険によって形成されたもの以外のものではありえないのだーーーそしてわたしは、その人間が備えているそうした細部(もの)にさまざまな冒険の萌芽(ほうが)をも見だすのである。このように、一人一人の若者の一つ一つの陰の地帯から、わたしは、わたしの心のあやしい乱れを増大させるために、最も不安を起させるイメージを引出したのであり、そしてそれら陰の地帯のすべてから、わたしの恋男(こいびと)がその中に姿を没していった一つの夜陰的宇宙を引出したのであった。こうした細部をより多く備えている者のほうが他の者よりわたしを強く惹(ひ)きつけることは言うまでもない。そしてわたしは、彼らから彼らが与えうるものを引出しつつ、彼らの強大な性愛力の証拠であるさまざまな大胆不敵な冒険によって彼らを延長させる」(ジュネ「泥棒日記・P.288~289」新潮文庫)

説明が長くなってしまった。ともかくベルナルディーニは警察の風上にもおけない裏切り者だ。悪党にとっても警察にとっても。ところがそれこそがベルナルディーニをこの上なく光り輝かせる根本的条件をなしている。とはいえ、しょせんジュネはちっぽけな泥棒に過ぎない。どれほどベルナルディーニを讃仰したところで裏切られるのはいつもジュネの側であるに決まっている。また実際、ジュネは、このシーンでは特に泥棒として指名手配されていた。どれほど憧れていたにせよ、ベルナルディーニとの濃厚すぎる接触は危険である。

「ベルナルディーニはそうした夜陰的細部を数多く備えていたのであり、それらの開花がやがて彼の警察官としての驚くべき成功をもたらしたのであるが、一方、警察は、彼のそうした諸特質に意味を与え、それらを正当化したわけである。わたしは数週間の後マルセイユを立ち去った。わたしの多くの被害者たちがわたしの所業を言いふらし、わたしを脅かしていたのだ。わたしの身に危険が迫っていた」(ジュネ「泥棒日記・P.289~290」新潮文庫)

次の対話を見てみよう。ジュネのお人好しなところが上手く描かれていて微笑ましい。

「わたしはベルナールに訊(き)いてみた。

『もしおれを逮捕しろという命令を受けたら、あんたおれを捕(つか)まえる?』

彼は六秒より長くは困った様子を見せなかった。片方の眉(まゆ)をしかめながら彼はこう答えた。

『そうしたらおれは自分で直接手を下さないですむようにするよ。誰か仲間に頼んでやってもらうよ』

このひどい卑劣さは、わたしを激昂(げっこう)させるよりはむしろわたしの愛をいっそう深くするものであった」(ジュネ「泥棒日記・P.290」新潮文庫)

この「卑劣」という言葉。俗世間はわかったような態度でしょっちゅう口にしてはばかるところを知らない観すら呈している。ところがしかし「卑劣さ」とは一体なんなのだろう。マスコミもそうだ。資本主義のグローバル化によって政財界全体に及んでいる巨大な汚染について、しかしマスコミは「卑劣」と指摘するだろうか。むしろ逆に日本を崩壊させかねない危険なマネーゲームの実況中継を熱心かつ限度を知らず演じて見せてばかりいるようにしか思えない。リクスに満ちた世界。そこに蔓延している「卑劣さ」。にもかかわらず「卑劣」の「卑」の字一つ出てこない。ところが、ふだんから全国各地で多発しているどこにでもある犯罪事件報道ではやたらと「卑劣」「許せない」「怒りを感じる」と口にして平然としている。考え込んでしまう。実際に「卑劣」なのは「誰」なのかと。それはそうと。結局、ジュネはベルナルディーニのいるパリを離れる。

「しかしわたしは結局彼のもとを去ってパリに行った。わたしは前よりも平静になっていた。この、一人の警察官との短い交情、わたしが彼に寄せた愛、彼から受けた愛、我々二人の相反する運命行路の性愛的交わり、それがわたしを浄化したのだ。欲望が後(あと)に残すあらゆる種類の残滓(ざんし)から少なくとも一時のあいだは自由になって、身心ともに休まり、わたしは自分がさっぱりと洗い清められて、より軽やかな飛躍をなしうる状態にあるのを感じた」(ジュネ「泥棒日記・P.290」新潮文庫)

ジュネは掛けがえのない愛人ベルナルディーニと別れることになった。にもかかわらず、なぜ「浄化」を感じ、「自由」を感じ、「自分がさっぱりと洗い清められて、より軽やかな飛躍をなしうる状態にあるのを感じた」のだろう。互いが互いを高め合うことに貢献した場合、その性愛関係は「《別れるときに》」、次のような形で感じられることがたいへん多い。

「《別れるときに》。ーーー在る心が他の心に近寄ってゆく様子のなかにではなく、それから離れてゆく様子のなかに、私は、それと他の心との親近性や同質性を見てとる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二五一・P.185」ちくま学芸文庫)

さらにまた、ジュネとベルナルディーニとの関係をおもうと、ニーチェによる有名な言葉、「《星の友情》」の成立を思い起こさせるものがある。とりわけ昨今の先進諸国の国民の間では急速に忘れられつつある、もはや取り返しのつかない貴重な友情の形なのでは、と思われるのだが。

「《星の友情》。ーーーわれわれは友だちであったが、互いに疎遠になってしまった。けれど、そうなるべきが当然だったのであり、それを互いに恥じるかのように隠し合ったり晦(くら)まし合ったりしようとは思わない。われわれは、それぞれその目的地と航路とをもっている二艘の船である。もしかしたらわれわれは、すれ違うことがあるかもしれないし、かつてそうだったように相共に祝祭を寿ぐことがありもしよう、ーーーあのときは、この勇ましい船どもは一つの港のうちに一つの太陽の下に安らかに横たわっていて、すでにもうその目的地に着いたように、そして同一の目的地をめざしていたもののように見えたかもしれない。しかしやがて、われわれの使命の全能の力が、ふたたびわれわれを分かれ分かれに異なった海洋と地帯へと駆り立てた。そして、おそらくわれわれは、またと相逢うことがないであろうーーー万が一、相逢うことがあるとしても、もう互いを見知ってはいないであろう。さまざまの海洋と太陽が、われわれを別な者に変えてしまっているのだ!われわれが互いに疎遠となるしかなかったということ、それはわれわれの《上に臨む》法則なのだ!まさにこのことによって、われわれはまた、互いにいっそう尊敬し合える者となるべきである!まさにこのことによって、われわれの過ぎし日の友情の思い出が、いっそう聖なるものとなるべきである!おそらくは、われわれのまことにさまざまな道筋や目標が、ささやかな道程として《包みこまれる》ような、巨大な目に見えぬ曲線と星辰軌道といったものが存在するのだ、ーーーこういう思想にまで、われわれは自分を高めようではないか!だが、あの崇高な可能性の意味での友人以上のものでありうるには、われわれの人生はあまりにも短く、われわれの視力はあまりにも乏しい。ーーーされば、われわれは、互いに地上での敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を《信じ》よう」(ニーチェ「悦ばしき知識・二七九・P.293~294」ちくま学芸文庫)

さて、クレルの訪問を受けるやいなや愕然とするジル。といってもジルを愕然とさせたのはクレルの訪問それじたいではない。クレルの口から出た、一瞬、理解に苦しむ言葉である。

「ジルは返事をするのを躊躇していた。といっても、返答の可否を冷静に吟味することから生じた躊躇ではなくて、否定しても無駄だという感情によって打ちのめされた。無気力に近い一種の怠惰から生じた躊躇である。それが彼に口をひらくことを妨げていたのであった。この告発は、答えるにはあまりに重大で、いっそ彼は、それを自分の口から出たものと考えたいくらいであった。だから彼は頑なに口をつぐみ、自分の視線のなかに、自分自身を没入させてしまおうと努めていた。眼と眼瞼の筋肉がぴくぴく動くのを感じるほど、彼は視線の重さを意識していた。彼の視線は、じっと固定したままだった。彼の唇は、だんだんゆがんできた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.241」河出文庫)

クレルの言葉はジルにとって「この告発」へと転化している。事実を伝えていないというわけではない。そもそも言語というものはその使用方法次第によって、まだ曖昧な部分を残していることがらを一挙に「この告発」へと転化させる力があるという《技術的》側面に注目しなければならない。クレルの詰問に対してジルを擁護する側のロジェはジルの無実を主張する。まずクレルは、水兵殺人をジルの犯行として、もはや既成事実と化したものとして持ち出す。

「『え?水兵を、お前、どうして殺(ば)らしたんだい?』

『彼がやったんじゃないんだよ』

半睡の状態で聞くように、ジルはクレルの質問とロジェの答えとをぼんやり聞いていた。彼らの声も、その半睡状態を中断させはしなかった。固定した視線のなかに、彼の全存在が凝集していた。そしてその視線の固定を、彼は意識していた。

『彼でなけりゃ、誰がやったんだ?』」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.241~242」河出文庫)

そう問われてしまうと、なるほどロジェはその現場に居合わせたわけではない。口をつぐむほかない。代わって、答えるべきクレルが答えなければならない。

「クレルの顔に、ジルがその視線を向けた。

『誓って言うが、おれじゃないんだ。それが誰だか言うことはできない。おれはぜんぜん知らないんだ。けど、おれの両親の首にかけて誓ってもいいが、おれじゃない』

『新聞には間違いなくお前だという風に出ていたぜ。おれはお前の言葉を信じるけど、刑事(でか)にそれを説明するとなると、これは大変なことだな。屍体のそばには、お前のライターも見つかってることだしな。やっぱり何としてでも、ここにかくれていた方がいいと思うな、おれの意見としては』」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.242」河出文庫)

クレルは卑怯者であろうか。クレルにしても、なぜ現場にライターを落としていったのかはさっぱりわからないのである。ただ、無意識の裡(うち)にそうしており、しかもなお、それに気づいたのは犯行を後になって省察していたとき始めて気づいたという始末なのだ。ところで、実をいうと、似たようなこと、まるでそっくりそのままの行為を、人間は昔からやっていたことを思い出そう。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

マルクスがいえようところの限界まで言及した「それを知ってはいないが、しかし、それを行う」ということ。もちろん、慎重なマルクスはこれ以上のことは述べていない。わからないことはわからないとしか言えないからだ。あらかじめ等価だから等値するのではなく、逆に、等値されることで等価に《なる》。この不可解さは今なお魅力的だ。

それはさておき。ジルの思考にはまだ甘さがある。もし警察に自首すれば事態は変わってくるだろうと見当をつけた。しかし警察ーーーといっても当時のフランス警察はーーーそれほど甘くはない。

「ジルは結局、このもう一つの犯罪をも甘受しなければならなかった。異常な行為によって彼の視覚は狂っていたので、最初のうち、彼は警察に自首して出ることを考えていた。第二の犯罪に関する自分の無実が認められさえすれば、警察は自分を釈放してくれるだろうと彼は考えた。彼がかくれていたのは、最初の犯罪のためだったからである。警察はゲームの規則を尊重してくれるだろう、と彼は信じていた。こんな考えが狂気の沙汰であることは、やがて彼にも分った」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.242」河出文庫)

クレルの言葉がジルの身体に徐々に浸透していく過程を見ることができる。「ジルは徐々に水兵殺しの罪を背負いこ」みつつある。このあたりの描写の妙は、ここ数頁を要して描かれた、ジュネが得意とするスローモーション的記述の効果だろう。

「ところで、ジルは徐々に水兵殺しの罪を背負いこんでいた。自分のために、その犯罪の動機を探していた。ときどき、真犯人はどんな男だろうかと考えることがあった。犯行現場に自分のライターを落しておくことに、いったいどうして自分は成功したものだろうかと、自分自身で不思議に思うことさえあった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.242~243」河出文庫)

だからといって勘違いしてはならないことがある。ジルがこのような混乱した精神状態に陥ってしまったのは、いわゆるマインドコントロールとか洗脳とかいった低級下等な次元の問題ではないということだ。そうではなく、クレルの用いた言語の《仕組み》に着目しなければならない。こうだった。

「何気ない無関心な様子で、クレルは言った。

『それにしても、どうしてまた水兵なんか殺(ば)らしたんだ、お前は?そこんところが、どうしてもよく分らないんだがね』

《それにしても》で始まるこの彼の言葉、こんな唐突なやり方」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.241」河出文庫)

この「《それにしても》」という言葉の一撃。セブロン中尉がしばしば用いる方法でもある。事実にせよ事実でないにせよ、有無をいわせず「既成事実化」してしまう方法。言語を用いて事実を操作することができるという言語的《仕組み》をあえて活用するという実践なのだ。言うまでもなく言語は構造的に体系化されている。たとえば、次のようなことが可能なのはなぜだろうか。とことん言語にこだわったニーチェにはその構造的体系のトリックが手に取るように見えていたにちがいない。

「《開戦理由とそのたぐい》。ーーー隣国と戦争をやろうとすっかり決心して、これになにか《開戦理由》をみつけだす君主は、自分の子どもの母親をすりかえて、それをそのさきは母親と思わせようとする父親のようなものである。そしてわれわれの行為の公に披露された動機はほとんどすべてそのようなすりかえられた母親ではないのか?」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五九六・P.460」ちくま学芸文庫)

このような行為はすぐれて《三次元的》な日常世界でしばしば行われる操作であることをニーチェはじっくり見据えて述べたものと考えられる。ジルがはまったのは、この種の言葉のやりとりの中で発生するべくして発生してくる「すりかえ」という罠に、である。しかし問題は、用いられるべき或る語彙と他の語彙とをクレルが適切妥当に使用しなかったから、というだけでは決して解決できない。そうではなく、クレル自身にとってもおぼろげでしかないが、クレルが用いた「すりかえ」という言語的技術は、ただ単なる単語の移動だけでは不可能だということにある。むしろクレルが言語を用いて行使した技術は、個々別々の単語を移動させる《二次元的》な操作ではなく、シミュラクル(見せかけ)としてすでに設定されている模倣品への、言語的《構造》による「すりかえ」という《三次元的》操作なのだ。そしてこの三次元的な構造的言語操作は、それが社会的構造の条件でもあるかぎり、次のような事態をも可能にする。

「《告白》された多少の悪は、かくされた多くの悪を認めることを免除する」(バルト「神話作用・P.43」現代思潮社)

人間にとって言語はまだまだ未知の領域に満ちている。というより、探求すればするほど未知の領域が拡張していくような課題なのかもしれない。

BGM

高速思考=肛門としてのジュネ/ボーダー化するクレル

2019年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
泥棒として有名になってくるとどの国へ行っても手配書がまわっている。だからといってまったく外に出ないわけにもいかない。同性愛者としての行動が極端に妨害されてしまう。ジュネにとっては何ものにも変えられない苦痛でしかない。それを思うと今のネット社会はあまりに不健康ではなかろうかと逆に心配になってしまいそうではあるのだが。それはともかく、街路でばったり警察官と出くわしたときジュネは警察官に気づかれないよう、「わたしはわたし自身の中に身を隠す」。

「街を歩いているとき、警察官にわたしだと気づかれることを恐れるあまり、わたしはわたし自身の中に身を隠す術(すべ)を心得ている」(ジュネ「泥棒日記・P.299」新潮文庫)

ジュネは不自然に見えないよう周囲に溶け込む方法を身に付けている。それは文章にすると珍妙に見えるかもしれない。しかしそれが周囲からどれほど珍妙に思えようともこの実践はジュネの身を守る。このとき周囲の人々はふだんは軽蔑しているジュネを無意識のうちに支援することとなる。ジュネの避難場所。それは「わたしの最も本質的な部分」(人格)が「わたしの肉体のいちばん奥まった場所であり、そこでわたしは絶えず気を配り、小さな炎という姿の下にあたりを窺(うかが)っている)」ところである「最も奥深い隠れ家」(肛門)に《なる》、という次第でなくてはならない。そうすることでジュネは周囲に溶け込み、「固有の特徴が消え失(う)せてしまい、その結果それが空虚に見え、誰にもわたしだということが識別できない」までに至る。「刑事たちでさえも、彼らと触れ合わんばかりにして歩道の上を歩いているものは、中身が抜け出てしまった人間のもぬけの殻(から)だと思う」ほどに。

「わたしの最も本質的な部分が最も秘密な、最も奥深い隠れ家(すなわち、わたしの肉体のいちばん奥まった場所であり、そこでわたしは絶えず気を配り、小さな炎という姿の下にあたりを窺(うかが)っている)に避難しているので、わたしはもう何も恐れない。わたしは向う見ずに思いこむのだ、わたしの肉体からあらゆる固有の特徴が消え失(う)せてしまい、その結果それが空虚に見え、誰にもわたしだということが識別できないだろう、と、それほど、わたしたる者の肖像、わたしの眼つきやわたしの指先を構成するあらゆるものが無くなり、それらの固有の癖が霧散しているので、刑事たちでさえも、彼らと触れ合わんばかりにして歩道の上を歩いているものは、中身が抜け出てしまった人間のもぬけの殻(から)だと思うにちがいない」(ジュネ「泥棒日記・P.299」新潮文庫)

ジュネは思考停止するわけではない。むしろ瞬時に考える。どこで考えるのか。「最も奥深い隠れ家」(肛門)でである。人間は危機を察するとほとんど本能的といっていいくらいの速度で思考する。何も考えていないように見えてしまう。本能のままに行動しているようにしか見えない。ところがそういうときこそ人間は全身でなおかつ全力で思考しているのであり、思考の中心を占めている場所がその人にとって最も重要な器官なのだ。ジュネが本能的に行動しているように見えるとき、それはジュネがジュネ自身の身体にとって最も重要な器官において全力で思考を巡らせていることを意味する。さらにジュネにはものごとを思考するにあたってほとんど例外的ともいえる瞬発力がある。危機を察したジュネは思考する瞬発力としての肛門に《なる》。ジュネは考える肛門だ。一挙に考える肛門と化したジュネは他のどんな意味も意味しない。だから周囲から見れば「中身が抜け出てしまった人間のもぬけの殻(から)」にしか映らないのである。しかしこの事情は俗世間の一般的事情にも十分あてはまる。自分の存在感を誇示するのでなく逆に存在感を消してしまいたいとき、自分が自分であることの意味をできうるかぎり消してしまう。そのときどのような行動をとるかは各自次第だが、迫ってくる危機を前にして思考しているのは人間の身体のすべての細胞なのであって、まちがっても脳だけということはありえない。ベルクソンにならえば、こうだ。

「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫)

ジュネの場合、その身体の中の最も基本的器官は自分にとって掛けがえのない肛門であるというだけのことで、他の人々には他の人々にとってその身体の中の最も基本的器官はそれぞれ異なるだろう。そしてそこにおいてこそ人間は最も高速で思考するのである。ところがいったん危機を脱するとジュネはやおらおおらかさを取り戻す。

「しかし、静かな通りにわたしが差しかかるやいなや、たちまち炎は増大し、わたしの四肢(しし)に満ちわたり、やがてわたしの顔にまで昇ってきて、それを《わたしらしさ》で色どる」(ジュネ「泥棒日記・P.299」新潮文庫)

ジュネのいう「《わたしらしさ》」は俗世間から見てそう見える「《わたしらしさ》」である。むしろ事実上の《ジュネらしさ》は、いきなり出現した危機を察するやいなや思考する瞬発力としての肛門に《なる》ときにたちまち流動変容するジュネであり、そのためらいのなさゆえによりいっそう美しくあるほかないジュネこそ、ジュネ《らしい》というべきだろう。だから危機が通り過ぎた後、舞い戻ってくる「《わたしらしさ》」はかえって悪趣味におもえる。さらに一見、無邪気におもえる。しかしこの無邪気さはジュネの人格が分裂しているということを意味しない。「承知している」とある。

「わたしは不用人な振舞いを次々と行う、ーーー盗んだ自動車に乗ったり、盗みを働いた直後にその店先の前を歩いたり、偽造であることが一目瞭然(りょうぜん)であるような身分証明書を差出したりする。わたしは、まもなくすべてが壊滅するだろうという気持を味わう。わたしの不用人な行動は重大な結果を招きうるものであり、そしてわたしは、光明の翼を持った大破綻(だいはたん)はごく小さな過失から生じるだろうということを承知している」(ジュネ「泥棒日記・P.299~300」新潮文庫)

人間の人格はそもそも分裂しているという事情について、ニーチェはこう述べている。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含むのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)

わがまま放題の自己愛においてさえ、「一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」と。では人格の多元性をあえて一つに総合しようという意志はどこからやって来るのだろうか。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)

そもそも人間というものは「一つの多元性」というほかないほど様々に変化する可変的な無数の要素の流動体でしかない。にもかかわらず、人間による人格の「一元的総合《への》意志」は止まない。ところが人間の持つ知性は人格をありのままの多元性では《なく》、逆に《一つ》にまとめ上げようとする。そこからありとあらゆる馬鹿馬鹿しい事態が次々と生じてくる。たとえば次のような。

「《視覚の二重性》。ーーー君の足もとの水面に突然震動が生じて鱗(うろこ)状の波が走るのと同じように、人間の眼にもそういう不確実さや曖昧さが突然生じることがある。そういうときわれわれは自問する、これは戦慄だろうか?微笑だろうか?それともその両方だろうか?と」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二四八・P.447」ちくま学芸文庫)

さらにまた、「これは戦慄だろうか?微笑だろうか?それともその両方だろうか?」と、わかりもせず理解もおよばないうちからもうすでに展開の速いテクノロジーの世界へ逃げ込むことを考えている。ところがテクノロジーの進化はさらなる悲劇の兆候を早くも垣間見せつつ人間社会に迫りながら人間社会を追い抜き人間社会を手前勝手に創設していく。人間が機械を改造するのではなく、逆に機械が人間を改造するという社会の常態化が進行する。

「『機械文化への反作用』。ーーーそれ自体は最高の思索力の所産であるにもかかわらず、機械は、それを操作する人たちに対しては、ほとんど彼らの低級な、無思想な力しか活動せしめない。その際に機械は、そうでなければ眠ったままであったはずのおよそ大量の力を解放せしめる。そしてこれは確かに真実である。しかし機械は、向上や改善への、また芸術家となることへの刺戟を与えることは《しない》。機械は、《活動的》にし、また《画一的》にする、ーーーしかしこれは長いあいだには、ひとつの反作用を、つまり魂の絶望的な退屈を生む。魂は、機械を通して、変化の多い怠惰を渇望することを学ぶのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二二〇・P.434」ちくま学芸文庫)

ジュネの放浪時代。第一次世界大戦から第二次世界大戦の前後。ジュネは戦乱のヨーロッパを縦断しながら放浪の線そのものに《なる》。すなわちジュネは「美に《なる》」ことを意志する。しかしジュネが祈念するこの「美」は、危険のないところではけっして現われることのない「美」でもある。形容詞に包み込まれてでしか言語化できないような美を欲する。「それに作用し、それを震駭(しんがい)させ、それを侵蝕する危険ゆえに美しいものであること」。ジュネはただそのような危険な世界からもたらされるほかない「美のみであるものとなることを」わざわざ欲する。「断じて行う」。

「しかし、わたしが禍(わざわ)いをあたかも恩寵(おんちょう)であるかのように待ち望んでいる一方、この世の慣例的な活動に精励することはいいことなのだ。わたしは最も類(たぐ)い稀(まれ)な運命に自分を成就(じょうじゅ)したいのだ。わたしにはこの運命がどのようなものであるかよくわからないが、わたしはそれが、かすかに夕方の方に向って傾いている優美な曲線を描くものとしてではなく、それがかつて見たことのない美しさを持つもの、それに作用し、それを震駭(しんがい)させ、それを侵蝕する危険ゆえに美しいものであることを望むのである。ああ、願わくは、わたしがただ美のみであるものとなることをーーー。わたしは、速く、あるいはゆっくりと進んでゆくだろう、しかしあえてなさねばならぬことは、断じてこれを行うだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.300」新潮文庫)

そしていう。

「わたしは外見をすべてぶち壊(こわ)すだろう、幌(ほろ)は燃え落ちるだろう、そしてわたしはある夕方、そこに、あなたの掌の上に、現われるだろう、小さな硝子(クリスタル)の彫像のように静かで純粋な姿となって。あなたはわたしを見るだろう。そしてわたしの周囲(まわり)にはもはや何も存在しないだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.300」新潮文庫)

ジュネにおいて、「汚辱《への》意志」と「美《への》意志」とは二つのことではない。そしてこの事情は、もし読者の中に、かつて裏切った経験、泥棒した経験、性倒錯した経験、があれば、その汚辱によってジュネの「美《への》意志」もまた等価物として理解可能であろう。たとえば裏切り。広く当てはまるのは「自分で自分に嘘をついた」というケースだろう。ある日ある時、或る欲望を抱いたとしよう。しかしそれが何らかの理由で禁じられている行為に相当するような場合、欲望を自制することで本来の欲望に関して譲歩してしまった経験はないだろうか。社会体としての資本主義は譲歩ということを何ら知らないし何一つ譲歩しないにもかかわらず。次に泥棒。他人が無防備でいるとき、たとえば職場や通勤途中、異性が無防備な姿勢を見せているとき、動いている異性の姿勢を視線で盗んだことはないだろうか。一瞬であれ横目を使って盗み見した経験はないだろうか。社会体としての資本主義は盗み見ということを何ら知らないし何一つ盗み見しないにもかかわらず。むしろ資本は合法的に直視し合法的にデータ化するというのに。第三に性倒錯。外交に詳しい人々なら一目瞭然だろう。戦後日米同盟において日本はいつも国家ぐるみでマゾヒストを生きてきた。逆にアメリカはいつも国家ぐるみでサディストあるいは専制君主としてのアナーキストを生きてきた。まちがいなくそうだった。だが三点目の性倒錯は他の二点と異なり、資本にとって寄生虫と化す脅威にもなりうる。性倒錯はそれ自体では何ら問題はない。しかしサディストがいつも例外なくサディストを演じ、マゾヒストがいつも例外なくマゾヒストを演じるほかないような、まったく変化の見られない環境は完全に凝固してしまい運動しなくなる。死物と化す。資本にとって死物はもはや単なる寄生虫でしかない。資本は寄生虫を養うことなどまったく知らない。ただちに消去される。ただし例外もある。しばしばある。そしてこの例外は資本主義じしんにあらかじめ備わった独自の特徴でもある。たとえば人間の目から見た場合にのみ寄生虫に見えるというような場合。しかし資本にとって、たとえばそれが歴史的あるいは芸術的な意味でオブジェとして機能している以上、単純に消去してしまうわけにはいかないだけでなく単純に消去させないという機能が働く。歴史的あるいは芸術的な意味でオブジェとして機能しているという疑えない事実は、資本にとって議論の余地なく利得になるからだ。この種の寄生性は資本にとって「パルマコン」(医薬/毒薬)として常に両義的な意味を持つ。だから資本は「パルマコン」(医薬/毒薬)として常に両義的な意味を持つ特定のオブジェの取り扱いについては極めて慎重な態度を取ることにしている。そしてそのような注意深さにこそ、資本主義が持つ独特の性質、「美」と「醜」との切り離せない「合体性」(モンタージュ性)を見て取ることができる。すなわち、人間の目から見た「美醜」とか「善悪」とかいった価値基準は、資本主義の自己目的としての増殖意志にとっては何の関係もないのである。たとえばジュネ「泥棒日記」が今なお世界中で売れ続けているのはなぜだろう。これ以上の汚辱とその言語的転回論は考えられもしないほどであるというのに。にもかかわらずジュネ作品に飢えている消費者はいつもどこかに絶えずおり、流通過程においては絶えず商品交換過程をのびのびと延長させていく余地を有する貴重で確実な商品だからである。作品内容はなるほど倒錯している。だからといって出版(展示)中止にしてしまうのは、資本の論理からすれば、たかがごく一部の人間の独断的感情による余りにも愚劣この上ない反資本主義的身ぶりにしか見えないのだ。

さて、旧徒刑場に身をひそめて隠れているジルに会いに来たクレル。そんなクレルに向かってジルは、たとえクレルであってもそのすべてを信用するわけにはいかないと言う。クレルはこう返す。

「『おれのことを言ってるんだったら、そいつは間違いだぜ。密告者(いぬ)と一緒にされちゃ迷惑だな。ただ、おれはお前さんがどんな計画を立てるつもりなのか、一向に知らんがね。とにかく、ここを出て行かにゃならねえんだろう?まあ無理だね』」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.237」河出文庫)

ずいぶんと余裕を見せるジル。「まあ無理だね」と、どこ吹く風だ。このときクレルはクレル自身を次のように意識している。

「クレルは、自分の顔が急に残酷な表情をおびるのを意識していた。ちょうど艦上武装閲兵式で、自分の前に《しんばり》棒のように突き立てた、小銃の先に装着した三角形に尖った鋼鉄の銃剣によって、自分が監視されている時のような按配であった。そういうとき、彼の顔は、いわば鋼(はがね)のように鋭くなっていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.237」河出文庫)

描かれている「残酷な表情」という言葉。クレル自身が残酷な性格だというだけのことなら特にいまさら言うまでもないことだろう。しかし問題は、「残酷さ」とは一体なにか、ということでなければならない。

「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)

クレルは必ずしも残酷でなくても構わない。殺人者でなくても構わない。問題は、自分が積極的に行う行為からどれだけ豊富な「官能」を得られるかだからである。

「この銃剣こそ、そのうしろに立って、それを提示していたところの、肉と布地で出来たクレルという人間の魂なのであった。甲板に立って水兵たちを閲兵していた士官の眼から見ると、クレルの視線は、クレルの眼のなかに一つの兵器工場のあることを明かしているように思われた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.237」河出文庫)

印象的な言葉だ。「クレルの眼のなかに一つの兵器工場のある」。この場合、クレルの眼を覗き込んでそれを発見するのは誰だろうか。ほかでもない上官、セブロン中尉だ。数頁ほどさかのぼらなければならないが、セブロンの日記にこうある。

「その胸廓の震える仕切壁に耳押しあてて、クレルは自分ひとりのために、死者たちの太鼓や奏楽の音を聞いている。天使の打撃を受けようとして、彼は準備おさおさ怠りない。まむし草や羊歯(しだ)などといった、黒い草のビロードのなかにうずくまり、心の内部の大洋(オセアニア)の、生けるがごとき夜のさなかで、彼は眼を大きく見開いたままでいる。気前よくさらけ出された、その無防備な繊細な顔を、殺人の欲望が舌を出してぺろりと舐めたのだったが、クレルは身慄い一つするわけでもない、ただ彼の金髪が揺れたにすぎない。ときどき、彼の脚のあいだで目を光らせている番犬がむっくり立ちあがり、主人の身体にぴったり寄り添い、主人の肩の筋肉と見分けがつかなくなる。番犬は身をかくし、目を光らせ、唸り声をあげる。クレルは、自分が死の危険のなかにいることを知っている。ーーー《頸動脈を噛み切ってやるぞーーー》」などと彼は言うが、番犬の頸動脈を言っているつもりなのか、それとも小便をしている一人の子供の白い首のことを言っているつもりなのか、彼自身、正確には知らない」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.229~230」河出文庫)

この日記の正確さは「セブロン中尉だけは創作人物ではない」というジュネ自身による断り書きから明らかだろう。他の登場人物とちがい、セブロン中尉だけは作品の外の人物、そして本物の男性同性愛者であるとも述べている。ということは、この日記の正確さを保証するのは、ただ、セブロンはジュネ自身の分身だということ以外ではない。そこでいま引いた日記の言葉を考えてみる。すると見えてくるのは、軍人を目指してそこそこ昇進も果たしているセブロン中尉の眼に映って見えているものは、ほかでもない、クレルの「情動」の動きのほかの何ものでもないという事情である。そしてこの場合の「情動」とは何か。それはクレルの《眼において》何を指し示しているといえるだろうか。

「情動において露見するのは当の人間ではなくて、当の人間の情動である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七三七・P.449」ちくま学芸文庫)

クレルは一九三〇年代のヨーローパで発生してきた新しいタイプの「ニヒリスト」にほかならない。戦後、クレルのような人間であろうとなかろうと一般人はごくふつうの社会人に戻ることになった。けれども、こんどは第二次大戦のときのように国家が戦争-機械を所有するのではなく、逆に戦争機械と化したクレルのような戦争-機械の側が国家を自分の一部分として再編成させていくことになる。そしてそれは今現在進行中の過程でもある。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)

あまり先を急いでも仕方がない。というより面白くない。現代社会はあまりにも面白くなさ過ぎるのだ。ところで、とんだ事態の渦中へ自分で自分自身を押しやってしまったジル。しかしジルの思考は「泥棒日記」におけるジュネの思考とはまたちがっている。

「殺人を犯したことによって、当然アウト・ローの人間になってしまったと信じたジルは、女衒や淫売婦たち、つまり法律の埒外に生きているーーーと彼は信じたーーーひとたちのあいだに、自分の安住の地を見つけようと考えたのだった。分別盛りの労働者なら、このような殺人を犯せば、すっかり意気沮喪していたかもしれなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.238」河出文庫)

テオの悪質ないじめが原因で周囲からの徹底的な侮辱にさらされた被害者意識。大量摂取したアルコールの酔いと幻覚。精神的混濁。そのような状況のうちに、或る酒場で飲んでいたテオを見つけて切りつけ殺してしまったジル。しかしジルは殺人を犯したことで一皮剥ける。迷路を脱する。

「しかし逆にジルは、このような行為によって自分が強くなり、内部から照らされ、こんな行為を犯さなければ到底手に入れがたいであろう精神的な威信、手に入れられずに悩まねばならなかったであろう一つの威信を、授けられたと信じたのである。ジルは若い左官であったが、左官というものになり切るまで、その職業を愛する余裕をもたなかった。彼にはまだ、ぼんやりした多くの夢がありすぎた。その夢が突然、実現されてしまったのである(わたしたちは、ある種の身ぶりにおける奇蹟的な美しさを示す、あの種々雑多な気障っぽい事柄を夢と呼ぶだろう。たとえば、腰や肩の筋肉をむくむくと動かすこと、手の指をぼきりと鳴らせて質問すること、唇の端から煙草のふっと吐き出すこと、手の平〔ひら〕でベルトをずり上げること──ちょっとした言葉の言い廻し、隠語の選択、特別な服装、たとえば編んだ革のベルト、細い靴の踵、いわゆる《腹が痛い》式のポケットなどである。要するに、これらすべてのものは、犯罪世界のあらゆる標識を誇らしげに成立せしめる、人間の多かれ少なかれ精密な奇癖の数々に対して、若者たちがきわめて敏感であるということを証明しているのだ)。しかし、このような形で実現された夢の華々しさは、かえって子供をおびえさせるよりほかなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.239」河出文庫)

そして殺人者となったことで、主観的には迷路を脱することはできたが、実際どうなるかは定かでない。別の世界への参加。なるほどそれも考えられないことではないけれども。

「ある日眼がさめてみたら泥棒になっていたとか、淫売婦の情夫(ひも)になっていたとかいうのであったら、まだしも容易にその状態を受入れられたかもしれない。子供は誰でも、そんな職業の人間にあこがれているものである。けれども人殺しとなると、十八歳の少年の肉体や魂では、あまりに強烈すぎるのだ。少なくとも彼は、自分に結びつけられた威信を有益に利用しなければならなかった。そしてやくざ者たちが喜んで自分を仲間に加えてくれるだろうと、素朴に信じたのである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.239~240」河出文庫)

ジルが考えている「やくざ者」と実際の「やくざ者」とはまた別々のものだ。その点であまりにも「素朴」過ぎるジル。反対に俗世間の事情に通じているクレルは冷静に計算する。殺人はときとして殺人者を英雄にする。クレルやジルの世界はあくまでも「放蕩生活の卑しさ」に満ち溢れていて、どのような意味においても「英雄」とは関係がない。「英雄の世界」と「やくざ者の世界」ともまた別々だ。ジルはどちらからも排除される宙吊り状態をさまようしかない。もっとも、この宙吊り状態に置かれた人間のことをジルはすでに巧みに言いあらわしているのだが。「アウト・ロー」と。変則者、局外者、ボーダー(境界)といった意味で。ここで人間は変身する。ふつうはそうだ。人間は変身するにあたって一度は必ず変則者、局外者、ボーダー(境界)を生きなければならない。そのために何も辺境地帯まで行く必要はない。大事なのは、このような或る種の壁を乗り越えるということだからだ。アマゾンの奥地まで出かける必要はない。ドラッグカルチャーに親しむ必要性もない。わざわざ人を殺す必要性もない。アウトローあるいはアウトサイダーという立場は人間が生成変化しようと意志するときに必然的に通過することになる或る地帯なのだ。だからそれは世界の辺境にもあるかもしれないが、他方、東京都の真ん中にもある。そしてそれはしばしば歴史的に中心化されることもある。日本では皇居がそれに相当してきた。皇居の場合は内外から様々な研究成果が発表されてきたが、中心化されているとき、それはいつも空虚であるということができる。ところがジルが陥っている宙吊り状態は、変則者、局外者、ボーダー(境界)でありなおかつ変容可能性の渦中であるにせよ、まだまだそう簡単に単純化できない諸事情の中に押し込まれている。

「クレルは、そんなことは絶対にあり得ないと思っていた。要するに、人殺しを規定する行為はきわめて異常なので、この行為を実現する者は一種の英雄となるのである。放蕩生活の卑しさとは縁のない英雄である。やくざ者たちもそれを感じているので、人殺しは滅多に彼らの仲間にはなり得ないのだ」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.240」河出文庫)

とはいえ、第一の殺人者は何を隠そうクレル自身である。殺人現場にジルのライターを放置したのもまたクレルだ。ただ、ライターの放置はクレルにとって無意識的行為なのだが。そのことでジルが犯人だと思われるかもしれないとは思ってもいない。ただ何となく体がそう動いたというに過ぎない。ところがジルにとってクレルの無意識的行為はのっぴきならない新たな事態を生じさせてしまった。もし読者ならどうするだろうか。それはそれとして、この対話の中でクレルはジルとの格の違いを見せつけることになる。

「何気ない無関心な様子で、クレルは言った。

『それにしても、どうしてまた水兵なんか殺(ば)らしたんだ、お前は?そこんところが、どうしてもよく分らないんだがね』

《それにしても》で始まるこの彼の言葉は、こんな唐突なやり方を常套手段としているセブロン少尉の、あの陰険な語り口、あの接近作業をただちに思い浮ばせるほど、じつに偽善的な調子の猫撫で声であった。ジルは自分の顔が蒼くなるのを感じた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.241」河出文庫)

二人のあいだに横たわる格の違い。それは社会経験の豊富さとはまた別のものだ。身ぶり手ぶりを含めた言語に対する極めて鋭敏な意識。ジルよりも遥かに鋭く言語とその作用とについて思考してきたクレルの、ちょっとした言語的トリックによって出現した断層なのだ。

BGM

闖入する現実界アルマン/流通貨幣としてのロジェ

2019年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
スティリターノを凌駕して屹立するアルマン。しかし別れの日はやってくる。別れは必然であろうか。その前にジュネは但書を添えている。

「こうした話の目的は、わたしの過ぎ去った数々の冒険を美しくすること、言いかえれば、それらの冒険から美を獲得すること、それらの中に、この美の唯一の証拠である歌を今日湧(わ)き起させるところのものを発見すること、である」(ジュネ「泥棒日記・P.295」新潮文庫)

何度も述べたが、「泥棒日記」はただ単なるジュネの作り話なのではない。そうではなく、第一に、当時は上手く言語化できなかった様々な経験をいまなら言語化することができるということである。そして第二に、言語化の作業の過程で、自然と歌が湧き起こってくるような部分、すなわち美と呼ぶに値する部分を発見する、ということでなくてはならないとジュネは力説しているわけだが。

「アルマンは最後まで『冷淡さ』の像として立っていた」(ジュネ「泥棒日記・P.295」新潮文庫)

アルマンを冷淡さの象徴として屹立させている条件は、前に述べたようにアルマンをアルマンたらしめている「楯形(たてがた)」であり「紋章」でもあり、堂々と盛り上がった胸の前で不遜にも組み合わされた筋肉隆々の「組紐(くみひも)飾り」と化している「両腕」である。「一つの強大な武器の表徴でもあった彼の両腕」。それはジュネに甘美な夜を思い起こさせる。そのため、主として夜になされる行為、あるいは現代では主にラブホテルの中で思う存分展開される行為、愛人の全身を隈(くま)なく愛撫せずにはいられなくなる。いつも不遜な態度を崩さない筋肉の塊であるアルマンが、劣情の塊である愛撫によって引き起こされる快楽のあまり、あられもない苦悶の喘ぎ声のうちに沈みこませずにはいられなくなるジュネ。アルマンの身体の場合、特徴的部分として「その青い刺青」は、ジュネにとって「一番星」の地位を獲得する。「一番星」というと何か俗っぽい馬鹿げた響きがあるのだが、要するにそれは「金星」である。幾多の恋人たちが貪欲に性生活を謳歌しているまさにそのとき、沈黙の裡(うち)に真っ先に夜空に輝く「金星」のことだ。

「一つの強大な武器の表徴でもあった彼の両腕は、わたしに夜を思い起させていた、ーーーそれらの琥珀(こはく)のような色によって、それらに密生した毛によって、それらの色情的な量感(マッス)によって(ある晩、そのとき彼は終(しま)いまで怒らなかったが、彼が横になっていたとき、わたしは盲人が指先で人の顔を認知するように、わたしのある器官で彼の腕組みをした両腕に隈(くま)なく触れたことがある)ーーーしかし、わけてもその青い刺青が、そのとき、一番星を空に出現させたのだった」(ジュネ「泥棒日記・P.295」新潮文庫)

アルマンとの情交に耽っていたジュネはしばしば他の外人部隊兵士との情交にも身を委ねていた。ところが、こちらの方の情交はアルマンとの情交について割かれている頁に比べて余りにも少ない。淡白過ぎるようにおもう。しかしそれにはそれなりのわけがある。前回、キリスト教との関連で「棕櫚」について述べた。次のシーンにも棕櫚が登場する。ジュネにとってキリスト教ならびに聖書はそれほどにも活用しがいのあるエピソードの宝庫だった。もっとも、まだ幼少時だった頃のジュネにとって始めはジュネの側がキリスト教の教義に奉仕するのであってキリスト教の教義がジュネに奉仕するわけではない。ところが、ジュネが一般的な社会秩序から排除されるやいなや事態は転倒する。こんどはキリスト教の教義がジュネの諸活動を奉仕する側にまわるのである。いずれにしても、一般的な社会秩序から排除された後もなお、キリスト教の教義とその豊富な語彙がジュネとその言語活動を支えていくことに変わりはない。その意味ではジュネは多くをキリスト教に負っている。ジュネを社会秩序から一方的に排除したのはキリスト教国家である。フランスはジュネを国外追放したに等しい。フランスはジュネを排除した。ジュネは祖国から断ち切られた。この断絶。取り返しのつかない決定的切断。だがその瞬間、ジュネはフランス語を話しフランス語で考えフランス人から財産を奪いフランス人を裏切る異邦人に《なる》。

さて、アルマンとはまた別の一人の外人部隊の男。男は「回教寺院の壁のそばで、その傾いた棕櫚の樹に寄りかかって」、アルマンと同じような冷淡な態度で、ときどきジュネを待っていた。ジュネはそういう無口な同性愛者を見つける技術に長けている。異性愛者にとっては姿形による隔たりあるいは服装とか振る舞いによる違いが両性の区別を容易にしている。だが、同性愛者の場合はそうではない。俗世間で信じられているように同性愛者は同性愛者を見分ける技術に長けていると実に長いあいだ言われてきた。が、昨今のLGBT問題の巨大化によって事実はそんな単純なものではないということがようやく知られるようになってはきたけれども。

「その回教寺院の壁のそばで、その傾いた棕櫚の樹に寄りかかって、一人の外人部隊の兵士がよく黄昏(たそがれ)どき、これと同じ冷淡で支配的な態度でわたしを待っていた。その男はある眼に見えない宝を守っているような感じを与えたが、今になってわたしは、彼が我々の情交にもかかわらず、彼の無瑕(むきず)の童貞を守っていたにちがいないと気がついた。彼はわたしより年上だった。我々はメクネスの公園で会うことにしていたが、彼はいつでもわたしより先に来て待っていた。彼は眼を虚(うつ)ろにして、ーーーあるいはそれはある明確な幻像に注がれていたのかもしれないーーーシガレットを吸っていた。そして彼が少しも体を動かさずにいるままで(彼は挨拶の言葉もろくに言わず、決して手は差出さなかった)わたしは彼の望む快楽を彼に与え、それからわたしの衣服をもとどおりに直して、彼のもとを立ち去るのだった。彼は美しい男だった。彼の名前は忘れてしまったが、わたしは彼が自ら『貪婪女』(あばずれ)の子だと主張していたことを憶えている」(ジュネ「泥棒日記・P.295~296」新潮文庫)

ジュネはその無口な外人部隊の男について「我々の情交にもかかわらず、彼の無瑕(むきず)の童貞を守っていた」と感じる。この場合、「情交」は男性と男性との情交を意味する。まちがいなく性愛的交合である。にもかかわらず、「無瑕(むきず)の童貞」とはどういうことだろうか。男が自分だけで自分勝手な主観的見地から「無瑕(むきず)の童貞」だと思い込んでいるのだろうか。そうではない。間違いようのない男性同性愛者として、これまで女性と情交した経験は一度もない、という意味だろう。さらにこのことは男性同性愛者として、あえて「女性という性」を軽蔑しているという意味ではない。逆に、男性同性愛を貫き通してきたという自尊心の現われと見るべきだろう。ところがいまでも、女性と性行為におよんだことは一切ない、ということを逆に自慢の種にしたがる男性同性愛者はいる。もちろん日本にもいる。むしろ日本のほうが他国より多いかもしれない。日本では武士道の一環として男性同性愛に重きが置かれてきた歴史がある。女性はただ単に子孫を残すための手段としてしか見なされていなかった。とりわけ江戸時代を通して二百五十年間、さらに第二次大戦敗北までの近代帝国主義時代、日本では武士道と男性同性愛は特権的地位の証明だったのだから。

なお、ジュネは「彼が自ら『貪婪女』(あばずれ)の子だと主張していたことを憶えている」が、それゆえに「彼は美しい男だった」といっているのであって、逆に「美しい男」は常に「『貪婪女』(あばずれ)の子」だとは限らない。しかし「『貪婪女』(あばずれ)の子」がいわゆる「美男子」であることはまったく取るに足りないほど少ないとも限らない。いまの社会的構造では主に思春期のうちに美少女だとか美女だとか言われちやほやされ、周囲から甘やかされて育つ傾向がある。結局、そのなかの一部の女性が悪質な仲間に惹かれまた悪質な仲間を呼び寄せ、金のかかる遊びを日夜繰り返すようになる。そのうち「『貪婪女』(あばずれ)化」してしまうわけだが、もともとの容姿は美少女あるいは美女に類別される女性だったという過去がある。だから生まれた子どもが途方もない美男子あるいは美少女に育つという傾向は今なおあるわけだ。しかしこの傾向が悪循環を反復させてしまうことは言うまでもない。そしてこの悪循環を断ち切ろうとしてキリスト教が全力を上げて取り組んだとしてもなお、事態はそう簡単に変わるわけではない。奇跡はないのだ。ただ、言えるのは、「『貪婪女』(あばずれ)の子」=「美男子あるいは美少女」という奇妙な循環を維持するとともに、異性に対して差別的意識を持つ同性愛者すら拡大再生産してしまっているのは、けっして女性の側ではないということだ。むしろこの奇妙な循環を悪循環たらしめているのは、今なお形式的にのみ改革されたことにして、現実には何らの変化も起こさない「男根ロゴス〔真理〕中心主義」的な社会構造なのだというほかない。しかし注意したいのは男性ばかりがそんなに悪いのかというもっともな疑問である。構造的観点からいえば、悪いのは男性か女性かという二者択一にはあまり意味がない。そうではなく、「男根ロゴス〔真理〕中心主義」的な社会構造を何度も反復させることでそこから莫大な利益を得ることに愉悦を感じている人々が後を絶たないことにある。では、莫大な利益を得ることに愉悦を感じることはそんなにもいけないことなのか。ところが愉悦を感じること自体は何一ついけないことではない。誰もそれ自体が駄目だとは考えてもいないだろう。しかし莫大な利益を集中させるためには、その過程で莫大な犠牲者をわざわざ続出させる必要性がある。それは果たしてよいことなのだろうかと問うことはできる。とすれば、よくないことなのだろうか。言ってしまえば問題はさらにそういうことでもまたない。むしろ今の日本の社会構造は良い悪いという二者択一的基準すら自分自身でどんどん破滅させていることに気づいていないことにあると言わねばならないだろう。資本主義に特有のこの不可避的事情には、年齢性別国籍のちがいなどほとんど関係がない。あるのは、もはや和解しきれなくなるまでにかけ離れた上層階級と下層階級との格差の、さらなる再生産ならびに拡大再生産という資本の自己目的があるだけだ。そしてこのような資本の自己目的をよりいっそう強化しているのは「男根ロゴス〔真理〕中心主義」的な社会構造を支持しなおかつ積極的に加担しているすべての人々であるというべきだろう。しかし今やそんな資本主義の「いろは」すら口にしなくなった、かび臭く古臭く腐臭を放つ既成政党にはもはやほとんど未来がないと言わねばならない。だから日本の与党はもっと精力的かつ暴力的に振る舞っていたとしても何ら不思議ではない状態だ。にもかかわらずそうしないのは、あるいはできないのには何か理由があると考えられるわけだが。では一体その理由とは何か。他の先進諸国のようにもっと精力的かつ暴力的に振る舞わないのはなぜか。振る舞えない理由がどこかから唐突に明らかにされるその前に、まだ何か言っておくべきことが何かとあるのでは、と考え込まずにはいられない。

さて、堂々たる胸の前で、あたかも胸を締め付けるように重々しく組まれた光り輝くアルマンの両腕。それは「色情的な量感(マッス)」としてジュネを圧倒する。とりわけ「夜」に。この事情はただちに「夜」という言葉の意味を「色情的な量感(マッス)」という意味と等価関係に置いてしまう。筋肉繊維のために微妙な陰影を帯びたアルマンの両腕は、特に「夜」を、「色情的な量感(マッス)」を、「楯形(たてがた)」を、「紋章」を、堂々と盛り上がった胸の前で不遜にも組み合わされた筋肉隆々の「組紐(くみひも)飾り」を、象徴する。観念的なものは消滅する。アルマンの身体の象徴化によって観念的な説明は一切必要なくなる。幾つかの代理表象へと象徴化されたアルマンの両腕はすでに「あらゆる形而上(けいじじょう)的不安への唯一無二の答」に《なる》。だからときどき笑えることが起こってくる。驚異的なアルマンの両腕を持つアルマン自身が自分で組み合わせた両腕をあっけなく解いてしまってごくふつうのアルマンに戻るとき、諸々の象徴も消えてしまう。するとそれまでアルマンを唯一無二たらしめていたアルマンそのものも「破壊され、消え去って」しまうという事態である。ところが、アルマンの掛けがえのない両腕を脈々と流動させていたのはほかでもないアルマンの身体なのだと思い至ることでジュネは気持ちを持ち直すことができる。

「アルマンの両腕の観照は、その晩、あらゆる形而上(けいじじょう)的不安への唯一無二の答だったのだとわたしは固く信じている。これらの両腕の背後に、アルマンは、破壊され、消え去っていた、と同時に一方で、彼は彼の体がそうありうるよりももっと確乎(かっこ)と現存し、そして、そして、より大きな効力を発揮していた、なぜなら彼は紋章に生命を与える者だったのだから」(ジュネ「泥棒日記・P.296」新潮文庫)

ジュネはちっぽけな身体しか持ち合わせていない。けれども自然界への回帰ということにかけては並々ならぬ意欲を示す。ゆえに、意識的にであれ、無意識的にであれ、自然界あるいはその顕著な特徴である獣性をみなぎらせている人間に出会うと慌てふためいて我を忘れ、ジュネは自分の性愛の全力を傾けて愛そうとする。しかし、人間はいつも一体化しているわけでは全然ない。一方の人間に力を見いだす。もう一方の人間に美を見いだす。両者はいつも二つに分裂していて一体化させることができない。どこからどう見ても両者は一人ではなく確実に二人の人間だからだ。ジュネにとって力の象徴はアルマンであり、美の象徴はロベールである。この時点ではまだ両者を融合させる力量を持たないジュネ。自分の至らなさに思い及んだジュネは遂にスペインを離れようと決意する。

「モーブージュ地方の森林地帯を通っていたとき、わたしは初めて理解したのだった、わたしがあれほど去りがたく思った国、この最後の国境を越えたときに突然それへのノスタルジーを感じた、わたしを囲繞(いにょう)していた地帯、それはアルマンの光り輝く優しさにほかならなかったことを、そして、この彼の優しさは、彼の残酷さを構成していたすべての要素の逆から見られたもの、から成り立っていることを理解した」(ジュネ「泥棒日記・P.297」新潮文庫)

ここで「森林地帯」とあるのは重要だろう。アルマンの「残酷さを構成していたすべての要素の逆から見られたもの」。それがアルマンの「光り輝く優しさ」の条件をなしているということ。「自然の優しさ」が「アルマンの残酷さ」を浮き上がらせる条件になっていたわけではない。それは早とちりというものだ。一方の極にあるものが他方の極にあるものをよりいっそう際立たせるというのは人間社会の中でのみ起こりうる出来事に過ぎない。そもそも自然は優しいであろうか。むしろ残酷この上ない循環を形成していないだろうか。動物や植物はそれを知っている。人間のようにではないが知っている。人間の場合、言語が認識を可能にする。だから人間にとっての自然とは言語を通して見た場合の自然でしかない。本当の自然は言語という形式的ヴェールに覆われた形でしか出現しないし見ることもできない。ところがアルマンの残酷さは自然界の優しさの対極に位置するものとして見えるというジュネの見解は誤解を招く恐れがある。事情はそうではない。アルマンの残酷さは、自然界の優しさを逆転させてみると同時に自然界の優しさに支えられて、始めて現われるといった「力」ではない。アルマンの残酷さは、自然界に本来的に備わっている残酷さが、一九三〇年代のヨーロッパの場末に、突如として出現し闖入してきた《現実界》なのだ。そしてまた、ジュネを「囲繞(いにょう)していた地帯」《としての》「アルマンの光り輝く優しさ」もまた自然界からの恩恵であり自然界から突如闖入してきた《現実界》だったと見るべきだろう。ジュネの精神をふと横切るノスタルジーは、だからこそ、自然の「森林地帯」を通過するとき湧き上がってくる。ちなみにプルーストにもそっくりな描写がある。

「私は木々が必死のいきおいでその腕を振りながら遠ざかってゆくのを見た、それはこういっているようだった、ーーーきみがきょう私たちから読みとらなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力してきみのところまでのびあがろうとしたのに、そのままここに私たちを振りすてて行くなら、きみにもってきてやったきみ自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。いましがた、この場所でまたしても感じた快感と不安、なるほど私はそのような種類の感情を、のちになってふたたび見出したが、そしてある晩、その感情にーーーあまりにもおそく、しかしこんどは永久にーーー私はむすびついたが、それはもっと先の話で、ともかくいまは、それらの木からは、それらが何を私にもたらそうとしたのか、どこでそれらを見たことがあったのか、それを私はどうしても知ることができなかった。そして馬車がわかれ道にはいってから、私はそれらの木に背を向け、それらを見るのをやめた、一方、ヴィルパリジ夫人から、なぜそんなぼんやり夢にふけった顔をしているのかとたずねられた私は、いましがた友人を失ったか、私自身を永久に見すてたかのように、または死んだ誰かに会いながら知らないふりをしたり、ある神の化身をそれと見わけられなかったりした直後のように悲しかった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.53」ちくま文庫)

ジュネは認める。「力」の象徴としてのアルマン。「美」の象徴としてのロベール。両者を一つにする力量がいまの自分にないことを。そして、おそらく二度とその機会がやってくることはないと思うけれども、もし仮にそんな機会に恵まれるとすれば、「この両者、力と美がわたしの裡(うち)で結合しうるためには、わたしの慈愛が、自ら進んで、わたしの外で、完全の結び玉ーーー愛の結び玉を作ることに成功する以外に途(みち)がない」、と認める。

「今ではわたしにとって親しいものであり、可能でもある、慈愛の心が、この二人の男の幸福ではなく、彼らがさし示しているところのより完全な二つの存在、すなわち、力と美、の幸福を成就させようと努力しただろう。もし、この両者、力と美がわたしの裡(うち)で結合しうるためには、わたしの慈愛が、自ら進んで、わたしの外で、完全の結び玉ーーー愛の結び玉を作ることに成功する以外に途(みち)がないのだとすれば」(ジュネ「泥棒日記・P.297」新潮文庫)

さて、クレルはジルが隠れ家にしている昔の徒刑場跡地へ向かう。そこはブレストの辺境に位置する。或る共同体が他の共同体と接触する点に位置している。犯罪者同士が接触し合うにふさわしい場。それはいつも両者にとって辺境の地帯でなければならない。もっとも、「辺境」とはいえ、それは都会の真ん中であっても何ら構わない。ただ、そこは社会的なグレーゾーンに位置していることが条件である。

「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・交換過程・P.161」国民文庫)

ロジェは「まるで外交使節のよう」だ。クレルとジルとを繋ぐ外交のためになくてはならない流通する物質でなければならない。

「少年はまるで外交使節のように、彼の主人である一人の皇帝のそばに、大急ぎで帰って行った。外国の君主を引見するための準備がすっかり整っているかどうか、確かめに行く必要があるらしいのだった。クレルの内部で、また何か新しい変化が起っていた。こんな厳重な警戒を彼は期待してはいなかった。悪人の巣窟へ入って行くというような考えは、まったく抱いていなかった。道はただそこで曲って、わずかな斜面のうしろに消えているにすぎなかった。べつに他の場所と変らず、とりわけ樹々が茂っているのでもなかった。それでもロジェの姿が見えなくなると、ロジェはクレルにとって、これまで思っても見なかったような何か大事な役割の存在、一個の《神秘な絆》となっていた。この子供に、これほど並はずれた役割、これほど思いがけない重要性をあたえていたのは、彼の不在であった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.233」河出文庫)

外交使節たるロジェがそばからいなくなると急に不安に襲われるクレル。このときロジェは社会的特権的物質として貨幣に《なる》。「貨幣《としての》ロジェ」にクレルは自分の大事な言葉を託した。したがって「貨幣《としての》ロジェ」の姿が見えなくなるとクレルは大金をなくした単なる一人の人間のような不安に襲われる。「彼の不在」は「貨幣《としての》ロジェ」の「不在」である。不安にならないほうがどうかしている。貨幣化したロジェはクレルにとってもジルにとっても優位な立場に立つ。貨幣形態をとったロジェはクレルをもジルをも曖昧な存在へと「おおい隠す」力を得る。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

ロジェは単なる外交使節でしかない。その意味だけでいえばロジェはなるほど、ただ単に「二人の殺人者のあいだの動く連結線」でしかないかのように映って見える。しかし「連結線」でしかないのであれば、クレルが「不安の念をおぼえずにはいられない」という意識のゆらぎは生じてこないはずだ。ところがなぜかクレルは不安をおぼえる。

「クレルは微笑した。しかし彼は、この子供が二人の殺人者のあいだの動く連結線、あの生き生きしたすばやい連結線であるという事実によって、不安の念をおぼえずにはいられなかった。この道を行ったりもどったりする子供は、思いのままに、この道を長くしたり短くしたりすることができる、この道の精神そのものであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.233~234」河出文庫)

クレルの不安は貨幣が貨幣として与えられた運動を着実にこなすことができるかどうか「わからない」ことから来る。なぜ「わからない」のか。

「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)

マルクスのいうように「痕跡」は残らない。商品交換されたにちがいない。にもかかわらず貨幣が「媒介する運動は、運動そのものでは消えてしま」っている。商品交換にはつきものの現象なのだが、かといっていつもそれだけで安心している人間などどこにもいない。だから問題は、貨幣が再び貨幣になって回帰してくるまで気が気でないのはなぜなのか、ということでなければならない。しかしこの不安はふつうは単純に克服される。では一体どのようにして克服されうるのだろう。

「この困難、商品の《命がけの飛躍》は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際におこなわれるならば克服される」(マルクス「経済学批判・P.156」岩波文庫)

或るものと他のものとのあいだに横たわる差異を抹消して両者の価値を暴力的に押し貫くためにはこの「《命がけの飛躍》」が必要なのである。要するに、両者は始めから何の媒介もなしに単純に交換可能なのではない。むしろ両者のあいだで行われる「飛躍」が成功するかぎりでようやく始めて成立する裂け目あるいは断絶が存在するのだ。商品流通はこの「《命がけの飛躍》」に失敗するわけにはいかない。ところがしばしば失敗する。立場のちがいによって、この失敗を悔しがる人々がいる一方、この失敗をチャンスと捉えて生きいきしてくる人々もいる。それはそれとして。

「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)

という事情でなくてはならない。クレルの不安はこのような事情から不可避的に出現する不安なのだ。ところで。

「ロジェの歩き方はだんだん速くなっていた。クレルから離れていると、ロジェは自分がもっと重くなったような気がするのだった。というのは、彼はクレルのなかの本質的なもの、つまり、クレルのなかにあって、ジルに近づくことを求めていたもの(ロジェは漠然とこんな風に理解していた)を、短い半ズボンをはいた少年にすぎなかったけれども、彼は自分のなかに、あらゆる儀式の礼法が包含されていることを知っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234」河出文庫)

外交使節あるいは「流通貨幣《としての》ロジェ」。クレルの意味内容〔価値〕とジルの意味内容〔価値〕とを接続するロジェという流通貨幣。その役割は広域にまたがって可能でなくてはならない。貿易がそうだ。

「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。

もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。

ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。

このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)

「使者というのは、この儀式の受託者なのであった。ーーー主人よりもその使節の方がもっときらびやかな服装をしている理由を、ひとはこの子供の重要性から理解することができる。何千という装飾で重たくなった、繊細な子供の身体に、洞窟のなかにうずくまったジルの凶暴なまでの注意力と、国境でじっと動かずに待っているクレルの注意力とが、さらに重みを加えていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234」河出文庫)

ジュネはロジェという「使者」を「儀式の受託者」として「主人よりもその使節の方がもっときらびやかな服装をしている理由を、ひとはこの子供の重要性から理解することができる」と述べる。それもそのはず。このときロジェはあたかも光り輝く「金それ自体」だからである。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

さらに。この貨幣協定は全世界共通のものとして破棄不可能な約束事と化している。

「金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.196」国民文庫)

そしてまた、クレルとジルとのあいだにある両者の差異について。流通貨幣は両者を等価関係に置くことで、両者に固有な差異を「消し去る」。

「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫)

「クレルは煙草に火をつけ、次いで両手を外套のポケットに入れた。彼は何も考えず、何も想像していなかった。彼の意識は、ただぐにゃぐにゃした形を成さない期待であり、不在の少年の突然の重要性によって、それが幾らか混乱させられているだけだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234」河出文庫)

なぜクレルの「意識は、ただぐにゃぐにゃした形を成さない期待で」しかなくなっているのだろう。もし交換が成立しない場合も考えられなくはないからだ。交換に失敗した場合、これまでのクレルの意図的言動の一切は「むだになる」ほかない。

「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)

商品ジルと貨幣ロジェとが対話したとしたらどうだろう。こんな感じではないだろうか。

「『おれだよ。ロジェだ』ロジェのすぐそばで、ジルの声がささやいた。『来てるのか、彼は?』『うん。待ってろって言ってきた。連れてきてもいいかい?』やや苛立たしげに、ジルは答えた。『いいさ、もちろん。はやく連れてくりゃよかったのに。行ってこいよ』ジルの住んでいる洞窟の前にクレルがやってくると、ロジェは大きな、はっきりした声で、『ほら、彼が来たよ、ジル。そこにいるよ』と言った」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234~235」河出文庫)

伝達を果たしたことで「貨幣《としての》ロジェ」の役割は終わりを告げる。「雲散霧消」する。ロジェはもはや貨幣ではない。ロジェは貨幣でなくなった自分をかえりみて「人間の空しさというものを、人間がすぐに熔けてしまう鑞でできていることを、知った」のだ。ロジェが貨幣でありえた条件は、ロジェが貨幣に《なる》前のロジェ自身にある。それはロジェが労働力商品として強度を発揮するかぎりでの人間でなくてはならないという条件である。このいっときの貨幣化とその役割を終えたことでロジェはふたたびただ単なる労働力商品からやり直さなくてはならない。

「この言葉とともに、彼のすべての役割が終ってしまったことを、少年は悲痛な思いで感じるのだった。自分の身体が空っぽになり、自分の存在理由が失われてしまったことを彼は感じていた。数分のあいだ彼が身に負っていたすべての宝は、たちまちのうちに雲散霧消してしまった。彼は、人間の空しさというものを、人間がすぐに熔けてしまう鑞でできていることを、知った」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.235」河出文庫)

そして再び労働力商品ロジェからやり直すにしても、ふたたび貨幣として活動できるとしてもなお、資本家にはなれない。貨幣として暴れまわるのはロジェの自由だ。としてもしかし貨幣を自由に支配する側に位置することはできない。労働力商品ロジェは資本に従属するかぎりで自由に《なる》のであり、資本家として自由に《なる》ことはあらかじめ堰き止められている。二種類の「生成変化=《なる》こと」。ロジェは、そしてクレルやジルもまた、一方の「自由」ならいつでも許されている。ただ、けっして許されていないのは、資本家として「自由に《なる》自由」である。この関係は決して複雑でない。けれども次のような事情があることと、この事情は常に既に再生産されつづけていて途中で止めることができないという事実が壁になっている。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

そして壁はニーチェのいうように、すべてのエネルギーを内側に向かって逆流させる。とめどない自己破壊衝動を発生させる。実際のところ、この現象はアメリカで顕著なように、自殺、他殺、無理心中、鬱病、統合失調症などの形をとって出現する場合が多い。フクシマの原発排水をアメリカに引き受けさせるのではなく、逆に大阪湾に流し込むという逆流的発想はその好例というべきだろう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

ロジェは自分の役割の終わりを知ると同時に役割を担っていたあいだ、「彼を《ふくらまして》いた誇りにみちた喜び」が確実に存在していたことに気づく。

「二人の人間を近づけるために、彼は盲目的にはたらいていたのだったが、その二人が近づいたと同時に、彼の役割は終ってしまったのである。彼の全生命は、この十分間続いた巨大な職務のなかに含まれていたわけである。そして彼の輝かしさは、たちまち光が薄れ、それまで彼を《ふくらまして》いた誇りにみちた喜びとともに、どこかへ消え去ってしまった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.235」河出文庫)

しかしロジェが貨幣の役割を担っていたときに「彼を《ふくらまして》いた」り、もはや貨幣の役割を終えて「どこかへ消え去ってしまった」りする「彼の輝かしさ」とは一体なんなのか。ところが「その間に起きたこと」もまた「すべて消えてしまっている」という事態を呈するほかない。

「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)

ジルは直接的にクレルを見ることはできない。クレルもまた直接的にジルを見ることはできない。両者のあいだには両者を媒介するものが必要なのだ。媒介するものとは何か。それは人々がどこにいても、どのような生活様式をとっていても、ほぼ確実に「貨幣、言語、性」に還元できる。流通貨幣として移動したロジェ。ジルからみればロジェの中にクレルが見え、クレルからみればロジェの中にジルが見える。ジュネは次のように書く。

「ジルの眼から見れば、以前は、この少年のなかにクレルが含まれていたのだった。クレルについて語るのも、クレルの言葉を伝えるのも、すべて少年の役目だったのである。逆にクレルの眼から見れば、この少年のなかにジルが含まれていたのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.235」河出文庫)

マルクスはこのような関係を次のような文章で述べている。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

そして貨幣循環は流通過程を介して回帰するし回帰しないわけにはいかない。

「価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始める」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.272」国民文庫)

人間関係もまたそうである。言語を媒介しつつ新たな人間関係を生産し再生産する。たとえそのうちの幾つかが破綻したとしてもなお「また新しく始める」。

BGM