白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・第二のバルベック滞在の想い出/底知れぬ歴史の埋蔵所と化すローカル鉄道の各駅名/衝撃として作用する記号

2022年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

第二のバルベック滞在の想い出。多くの出来事があった。あり過ぎて有り余るほどだ。なかでも最も衝撃的な不意打ちとして刻印されたのはアルベルチーヌに関する二つの<まなざし>である。第一に見知らぬ女性たちからアルベルチーヌに注ぎ込まれる欲望のまなざし。第二にアルベルチーヌから見知らぬ女性たちに注ぎ込まれるそれ。前者はアルベルチーヌに官能的歓びを味わう機会を与えるが、後者は逆にアルベルチーヌに深刻な苦しみを舐めさせずにはおかない。いずれにせよゴモラ(女性同士の同性愛)のテーマを<私>自身がどのように引き受けるか引き受けないかという避けられない問いとして浮上させた。

 

舞台は各駅停車のローカル鉄道。それぞれの出来事は各駅ごとに違った駅名が代表している。<土地の名>とは何なのか。駅名が代表し駅名に代表されるという意味で、<土地の名>としての駅名は底知れぬ歴史の埋蔵所を指し示している。<私>はそんなローカル鉄道の各駅ごとで様々な不意打ちに出会ってきた。連発される不意打ちのそれぞれが一つの方向に向かって次のことを告げ知らしめていた。

 

「この想い出は、アルベルチーヌの嗜好を完全にあばきたて、その不実を余すことなく告げるもので、それにたいしては、私が信じたいと願ったアルベルチーヌの個々の誓いや、私の完全とはいえぬ調査の否定的な見解や、アルベルチーヌと示し合わせたうえでなされたアンドレの保証などは、とうてい太刀打ちできない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.336」岩波文庫 二〇一六年)

 

総合してみなければと懸命に試行錯誤する<私>。文章はこう続く。

 

「アルベルチーヌが私にたいして個々の裏切りをいかに否定しようと、否定の宣言よりも雄弁なふと漏らすことばや先のようなまなざしだけが、個々の事実以上に、むしろ自分が隠したいと願っていること、それを認めるぐらいなら殺されたほうがいいと思っていること、つまりおのが性癖を白状していたのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.336」岩波文庫 二〇一六年)

 

にもかかわらずアルベルチーヌのトランス(横断的)性愛にまつわる<私>の苦痛を反復させるに立ち至ったのは、他でもない、<私>が熱心に勧めた「トロカデロのマチネのプログラム」である。だからといって<私>は知らず知らず<未知の土地>としてのアルベルチーヌを復活させようとしたわけではない。「トロカデロのマチネのプログラム」を勧めたのは無意識的提案ではない。無意識が問題になってはいない。そうではなくて「トロカデロのマチネのプログラム」という言葉がそもそも衝撃として作用する記号なのだ。

 

衝撃は<私>から出発して<私>へ回帰し<私>を打ちのめした。そう考えるのが妥当だろう。そこで繰り返されるのは嫉妬の苦痛をかき立てるアルベルチーヌと、その同じ苦痛の鎮痛剤として機能するアルベルチーヌとである。アルベルチーヌは一人で軽々と二役をこなす。そしてまた、そうであるようなアルベルチーヌを希求しているのは<私>なのだ。

 

「このような想い出に苦痛をかき立てられながらも、私のうちにアルベルチーヌを必要とする気持がふたたび目醒めたのは、トロカデロのマチネのプログラムだったことを私はどうして否定できたであろう?アルベルチーヌのような女の場合、その過ちはいざとなれば魅力の代わりとなりうるばかりか、過ちのあとに見せる心遣いがわれわれに安らぎをもたらしてくれる点もまたその過ちに劣らぬ魅力になるから、二日と元気でいられない病人のように、われわれはその女のそばでたえずその安らぎをとり戻そうとせざるをえない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.336~337」岩波文庫 二〇一六年)

 

何度も繰り返し反復される交代運動。プルーストが愛と嫉妬について語っているように見えるその瞬間、その実、自分自身の持病だった喘息発作を語っているかのように見えてくるのはそのためだ。そしてこう述べる。

 

「ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.337」岩波文庫 二〇一六年)

 

同じことばかり書いているように思えるに違いない。ただ、用いられている言葉はなるほど同じでも、第二のバルベック滞在以前と以後との比較において両者の意味はまるで異なっている。「十二月三十一日」という文字はまったく同一であっても、去年の十二月三十一日と今年の十二月三十一日とでは全然違っているのに似ている。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて159

2022年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。午後の部。昼間は午後三時過ぎから。晴時々曇でした。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“比良山”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“北国街道”」(2022.12.31)

 

古墳群へのぼってみます。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

西風に乗って雲が通り過ぎていくようです。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

湖畔近くへ降りてきました。

 

「名称:“日の入”」(2022.12.31)

 

湖畔へ出ました。何事もなかったかのような夕暮れです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

二〇二二年十二月三十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・脱中心化の無限の系列<アルベルチーヌ>

2022年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

フィガロ紙を読んでいる身振りとしての<私>。その身振りの側から<私>の目に飛び込んできた「レア」の文字。するとたちまち「私は、もはや晴れわたる一日のなかに生きていたのではなく、激しい不安によってその一日の内部につくり出されたべつの一日のなかに生きていた」。あらかじめ決定された一日というものはただ単なる想像の産物でしかない。その内部には幾つもの裂開がぽっかり口を開けていて、何かとあれこれ割り込んできては次々詰め込まれるのが常だ。債権は回収されなくてはならない。ところがそんな債権に目をやってみると、いつどこでどんな仕方で発生したか、まるきり位置決定不可能なのである。前もって予想していた一日はまるで異なる一日へ瞬時に変貌するとしか言えない。

 

「アルベルチーヌはなんら悪いことをしないだろうという想いこみは、その朝、私こそ気づかなかったが『フィガロ』紙を開くまでの私を陽気に包んでいたが、その想いこみもいまや消え失せていた。私は、もはや晴れわたる一日のなかに生きていたのではなく、激しい不安によってその一日の内部につくり出されたべつの一日のなかに生きていたのだ。その不安とは、私にはいかにもありそうなことに思われたが、例のふたりの娘が、女優レアに喝采を送るべくトロカデロへ行ったとすると、幕間にアルベルチーヌと再会するのは造作もないことだから、アルベルチーヌがレアと、またそれよりも容易にふたりの娘とよりを戻すのではないかという不安である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.333~334」岩波文庫 二〇一六年)

 

位置決定不可能性についてはエルスチールがこう指摘していた。「どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかない」と。

 

「『なにしろその画家たちが制作をした町が町だけに、描かれた祝宴も一部は海上でくり広げられましたからね。ただし当時の帆船の美しさは、多くの場合、その重々しく複雑な造りにありました。こちらで見られるような水上槍競技もありましたが、ふつうはカルパッチョが<聖女ウルスラ伝>で描いたようになんらかの使節団の歓迎行事として開催されたものでした。どの船もどっしりと巨大な御殿を想わせる建造物で、深紅のサテンとペルシャの絨毯とにおおわれた仮説橋で岸につながれていて、船のうえでは婦人たちがサクランボ色のブロケード織りや緑色のダマスク織りの衣装を身にまとい、すぐそばの極彩色の大理石を嵌めこんだバルコニーから身を乗り出して眺めているべつの婦人たちが真珠やギピュールレースを縫いつけ白のスリットを入れた黒い袖のドレスを着ているときには、船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさまです』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.544~545」岩波文庫 二〇一二年)

 

絶対的体系というものはもはやどこにもない。ヴァントゥイユ嬢のイメージから「カジノでふたりの娘のそばにいたアルベルチーヌのイメージ」がいきなり出現する。しかしなぜ、そういうことが可能なのか。プルーストはいう。「私が記憶のなかに所有していたのは、たがいになんの脈略も持たない何組かのアルベルチーヌ像で、どれも不完全な横顔やスナップだったからである」。

 

「私がもはやヴァントゥイユ嬢のことを考えていなかったのは、レアの名前のせいで私の脳裏に、私がそれに嫉妬するほどに、カジノでふたりの娘のそばにいたアルベルチーヌのイメージが想い浮かんだからである。というのも私が記憶のなかに所有していたのは、たがいになんの脈略も持たない何組かのアルベルチーヌ像で、どれも不完全な横顔やスナップだったからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.334」岩波文庫 二〇一六年)

 

レア嬢というのは単なる記号に過ぎない。にもかかわらず、瞬時に滅ぶわけでは全然なく、むしろ記号ゆえ「たがいになんの脈略も持たない何組かのアルベルチーヌ像」へ接続され置き換えられ世界を駆け巡るが一周してきたときにはもうまったく別の価値体系へ<私>もろとも投げ込まれる。その価値体系にしても一体幾つあるのかさっぱりなのだ。けれども<私>は何一つ学んでいないかといえば逆であって、その都度学んでいる。ただ、学習様式が異なる。二箇所。

 

(1)「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)

 

(2)「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

 

だからプルーストはこういう。

 

「したがって私の嫉妬も、もっぱらすぐに消え去るようでいて執拗なきれぎれの表情と、そんな表情をアルベルチーヌの顔にもたらした人たちに向けられた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.334」岩波文庫 二〇一六年)

 

そして読者としてはそろそろこの辺りで改行があってもよさそうに思う。「牛乳屋の娘がまだそこにいることに気づいた」とある箇所からずっと続いているわけだから。ところがプルーストは改行しない。どうしてだろう。ジョイスのように「意識の流れ」を意識したのだろうか。全然違う。改行するのではなく改行しないことが極めて重要だからである。習慣に従うのではなく従わないことが重要な場面だからだ。例えば妙な問い方になるけれども「アルベルチーヌは改行する」だろうか。しない。アルベルチーヌは改行なしに変化するし今後も変化していく。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて158

2022年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。今日の大津市の日の出前と日の出後の気象予報は晴れ。湿度は6時で83パーセント、9時で67パーセントの予想。湖東方面も晴れ。鈴鹿峠も晴れのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

北方向を見てみましょう。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

今度は南方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

西方向。

 

「名称:“山並み”」(2022.12.31)

 

再び湖東方向。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

そろそろのようです。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

日が出ました。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

横雲に遮られながらどんどん昇っていきます。

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

「名称:“琵琶湖”」(2022.12.31)

 

二〇二二年十二月三十一日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・パターン化にもかかわらず<私>の推論体系を崩壊させるアルベルチーヌの非連続性

2022年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの嘘はパターン化されていて実にわかりやすい。こうある。

 

「たしかにバルベックでは、レアの名前を聞くとアルベルチーヌは、特別にまじめくさった口調になって、あんな身持ちのいい女性を疑うのはけしからんと言わんばかりに、私にこう言っていた、『あら!とんでもない、全然そんな人じゃなくて、とても立派な女性よ』。残念ながら私にとってアルベルチーヌのこの種の断言は、そのあとに必ずくるくると変わる断言がつづく第一段階にすぎなかった。最初の断言のあとには、こんな第二の断言が出てくる、『そんな人、あたし知らないわ』。当初は『そんな疑いなどかけようもない』人だと言い、つぎに(第二段階では)『そんな人、知らないわ』と言っていたのに、第三段階では知らない人だったことをまずは少しずつ忘れ、つぎにうっかり『馬脚をあらわして』その人を知っていると言いだす。この最初の忘却が完成して新たな断言を口にすると、こんどは第二の忘却がはじまり、疑いなどかけようもない人だということを忘れてしまう。『ところでそれはあの手の素行の人じゃないの?』と私が訊ねると、こう答える、『いまさらなんて呑気なことを、もちろん周知の事実よ!』やがて例のまじめくさった口調が戻ってきて、最初の断言のきわめて弱々しい漠としたこだまが口をついて出てくる、『でも言っとくけど、あたしにはいつだって申し分のない態度だったのよ。当然あの人も、へんなことをしたら、あたあしから叱られることぐらい、それもこっぴどく叱られることぐらい知っていたのね。そんなこと結局どうだっていいの。あの人がいつもあたしを本当に尊重してくれたことには感謝しなくちゃいけないわ。相手がどんな人間か、ちゃんとわきまえていたのね』。真実というものは、歴とした名前が付いていて古い根源を有するがゆえに人の記憶に残るが、一時しのぎの嘘はすぐに忘れ去られる。アルベルチーヌはこの最後の嘘、つまり四度目の嘘を忘れてしまい、ある日、秘密を打ち明けて私の信頼を得ようと考えたのか、当初は申し分のない人だとか知らない人だとか言っていた同じ人物について、こんなことを口走った、『あの人ね、一時あたしに気があったのよ。三度か四度、家まで送ってほしい、部屋にあがってほしい、なんて頼まれたの。送ってゆくだけなら、べつに悪いことだとは思わなかったわ、みなも見ているし、真っ昼間だし。でも、あの人の家の門まで来ると、いつも口実を設けて上にはあがらなかったの』」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.324~326」岩波文庫 二〇一六年)

 

このパターンを何度も繰り返す。だから<私>が推論によってアルベルチーヌ特有の嘘の体系を打ち立てて追い詰めるのはとても容易い。その体系をアルベルチーヌに突きつければたちどころにアルベルチーヌは逃げ場を失うに違いない。けれどもアルベルチーヌの嘘は一つのパターンの繰り返しであるにもかかわらず、<私>が打ち立てた体系をまるで手品のように消滅させてしまう。「アルベルチーヌは、自分が最初から語ったことはつくり話の連続にすぎないとは認め」ない。そして「ある断言をしたあとでそれは嘘だったと言う」。すると「私のつくる体系がそっくり崩れて崩れてしまう」。

 

「ところがアルベルチーヌは、自分が最初から語ったことはつくり話の連続にすぎないとは認めず、ある断言をしたあとでそれは嘘だったと言うほうを好んだ。そのように前言を撤回すれば私のつくる体系がそっくり崩れて崩れてしまうからだ。これに似たつくり話は『千夜一夜物語』にもあって、それが物語の魅力になっている」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.327」岩波文庫 二〇一六年)

 

なぜそうなるのか。これまでのアルベルチーヌの言動から導き出される推論によって<私>が打ち立てる体系は、「つくり話」であろうとなかろうと、あくまで「連続」したものに違いないと前提されているからである。一方、アルベルチーヌは連続性の中を生きているのではまるでない。逆に、非連続性、差異性、諸商品の無限の系列を生きている。固定しようがないのだ。常に流動・変化している。現行犯で捉えることなどできるわけがない。ニーチェから二箇所。

 

(1)「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

(2)「私たちは、私たちが《よく知っている》ものしか見てとらない。私たちの目は無数の形式の取り扱い方を絶えず練習している、ーーー形象の構成要素の大部分は感官印象ではなくて、《空想の所産》なのだ。感官から得られるのは小さな誘因や動機にすぎず、これが次いで空想によって仕上げられる。『《無意識のもの》』に代えるに《空想》をもってすべきである。空想が与えるものは無意識の推論というよりは、むしろ《たまたま思い浮べられた可能性》である(たとえば沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合)」(ニーチェ「生成の無垢・下・八四・P.60~61」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

ニーチェとはまた別の場所でプルーストはいう。

 

「真相はわれわれにはわからないし、今後もけっしてわかることはないだろう。われわれは躍起になって夢のあやふやな残骸を探し求めるだけで、そのあいだも恋人との生活はつづいてゆく。その生活とは、われわれにとって重要なことには気づかず迂闊にその前を通りすぎる一方、重要ではないかもしれないことに注意を払い、われわれとは実際には関係のない人たちに悪夢のように苦しめられる生活であり、忘却と欠落と空しい不安に充ちた生活であり、一場の夢にも似た生活なのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.330」岩波文庫 二〇一六年)

 

ところで二〇二二年ももう僅かで終わろうとしているらしい。「今年の言葉」というものを流行させたのは誰だったか、まるきり忘れてしまっているが、差し当たり「戦」だという。そこであえて「戦争」について触れておきたいと思う。マスコミ世論では前線の悲惨さばかりが目立っているわけだが、それこそ不思議で仕方がない、むしろ逆に気にかかると言いたい。前線というのはーーーこれまでのどの戦争もそうだったようにーーー戦争のほんの僅かな先端部分に過ぎない。遥かに悲惨な事情はマスコミ世論によって覆い隠されている。少なくともこれまで世界が経験してきたどの戦争もそうだった。とりわけ第二次世界大戦時の日本がそうだ。現在はといえば、テレビは問題外として、稀に新聞記事の中で僅かに、年に二、三度ばかり、戦争の目に見える先端部分と後方支援の底知れぬ莫大さとについての指摘を拾うことができる。しかし最速で理解しようとすればニーチェの言葉が最も妥当であるに違いない。

 

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

戦争の先端部分というのはニーチェのいう「意識にのぼってくるすべてのもの」に過ぎない。一方、意識にのぼって<こない>ものの側がどれほど莫大かつ壮大か。容易に想像も付かない。けれども、差し当たり今の日本の食糧自給率が実際はどの程度か振り返ってみるだけでいい。カロリーベースで三割台。他の六割は外国からの輸入に依存しきっている。この六割依存という実態の深層ではなく表層自体にもっと注目する必要がある。同盟諸国からの輸入だけではまるで賄いきれていないという目の前の表層に。そしてなぜそういうことになってしまっているのかを、じっくり考え直さないともう取り返しがつかないところまで来ているように見える。にもかかわらずなぜ今、という案件が多すぎる。なおさら危険この上ない暗雲が東アジアの島国を覆い尽くし始めている気がしてならない。