第二のバルベック滞在の想い出。多くの出来事があった。あり過ぎて有り余るほどだ。なかでも最も衝撃的な不意打ちとして刻印されたのはアルベルチーヌに関する二つの<まなざし>である。第一に見知らぬ女性たちからアルベルチーヌに注ぎ込まれる欲望のまなざし。第二にアルベルチーヌから見知らぬ女性たちに注ぎ込まれるそれ。前者はアルベルチーヌに官能的歓びを味わう機会を与えるが、後者は逆にアルベルチーヌに深刻な苦しみを舐めさせずにはおかない。いずれにせよゴモラ(女性同士の同性愛)のテーマを<私>自身がどのように引き受けるか引き受けないかという避けられない問いとして浮上させた。
舞台は各駅停車のローカル鉄道。それぞれの出来事は各駅ごとに違った駅名が代表している。<土地の名>とは何なのか。駅名が代表し駅名に代表されるという意味で、<土地の名>としての駅名は底知れぬ歴史の埋蔵所を指し示している。<私>はそんなローカル鉄道の各駅ごとで様々な不意打ちに出会ってきた。連発される不意打ちのそれぞれが一つの方向に向かって次のことを告げ知らしめていた。
「この想い出は、アルベルチーヌの嗜好を完全にあばきたて、その不実を余すことなく告げるもので、それにたいしては、私が信じたいと願ったアルベルチーヌの個々の誓いや、私の完全とはいえぬ調査の否定的な見解や、アルベルチーヌと示し合わせたうえでなされたアンドレの保証などは、とうてい太刀打ちできない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.336」岩波文庫 二〇一六年)
総合してみなければと懸命に試行錯誤する<私>。文章はこう続く。
「アルベルチーヌが私にたいして個々の裏切りをいかに否定しようと、否定の宣言よりも雄弁なふと漏らすことばや先のようなまなざしだけが、個々の事実以上に、むしろ自分が隠したいと願っていること、それを認めるぐらいなら殺されたほうがいいと思っていること、つまりおのが性癖を白状していたのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.336」岩波文庫 二〇一六年)
にもかかわらずアルベルチーヌのトランス(横断的)性愛にまつわる<私>の苦痛を反復させるに立ち至ったのは、他でもない、<私>が熱心に勧めた「トロカデロのマチネのプログラム」である。だからといって<私>は知らず知らず<未知の土地>としてのアルベルチーヌを復活させようとしたわけではない。「トロカデロのマチネのプログラム」を勧めたのは無意識的提案ではない。無意識が問題になってはいない。そうではなくて「トロカデロのマチネのプログラム」という言葉がそもそも衝撃として作用する記号なのだ。
衝撃は<私>から出発して<私>へ回帰し<私>を打ちのめした。そう考えるのが妥当だろう。そこで繰り返されるのは嫉妬の苦痛をかき立てるアルベルチーヌと、その同じ苦痛の鎮痛剤として機能するアルベルチーヌとである。アルベルチーヌは一人で軽々と二役をこなす。そしてまた、そうであるようなアルベルチーヌを希求しているのは<私>なのだ。
「このような想い出に苦痛をかき立てられながらも、私のうちにアルベルチーヌを必要とする気持がふたたび目醒めたのは、トロカデロのマチネのプログラムだったことを私はどうして否定できたであろう?アルベルチーヌのような女の場合、その過ちはいざとなれば魅力の代わりとなりうるばかりか、過ちのあとに見せる心遣いがわれわれに安らぎをもたらしてくれる点もまたその過ちに劣らぬ魅力になるから、二日と元気でいられない病人のように、われわれはその女のそばでたえずその安らぎをとり戻そうとせざるをえない」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.336~337」岩波文庫 二〇一六年)
何度も繰り返し反復される交代運動。プルーストが愛と嫉妬について語っているように見えるその瞬間、その実、自分自身の持病だった喘息発作を語っているかのように見えてくるのはそのためだ。そしてこう述べる。
「ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.337」岩波文庫 二〇一六年)
同じことばかり書いているように思えるに違いない。ただ、用いられている言葉はなるほど同じでも、第二のバルベック滞在以前と以後との比較において両者の意味はまるで異なっている。「十二月三十一日」という文字はまったく同一であっても、去年の十二月三十一日と今年の十二月三十一日とでは全然違っているのに似ている。