小説ではそういうことがしょっちゅう問題にされる。
例えば「ご都合主義」関連法。小川哲はいう。
「『途中で離脱した作中人物が、主人公のピンチに駆けつける』ような、およそ現実世界で起こり得ない偶然によって作品が利益を得る」
エンタメの読者と純文学の読者(この二分の仕方には大いに不満があるのだけれど、その話はひとまず傍に置いて)との間ではこのような「ご都合主義」について態度が異なることが多い。エンタメ読者は比較的寛容、純文学読者はかなり厳しい。
「すごく大雑把に言えば、エンタメの読者と純文学の読者(この二分の仕方には大いに不満があるのだけれど、その話はひとまず傍に置いて)には小説法上の違いがある。もっとも異なるのは、『ご都合主義』関連法だろう。エンタメの読者は作中で発生する『偶然』が作品の(あるいは著者の)利益になることに対して比較的寛容だ。もちろん、度が過ぎた『ご都合主義』は違反になるのだけれど、たとえば『途中で離脱した作中人物が、主人公のピンチに駆けつける』ような、およそ現実世界で起こり得ない偶然によって作品が利益を得ることは合法である(場合によっては推奨されたりもする)。純文学の読者にとって、『ご都合主義』は非常に深刻な罪で、程度にもよるが一度違反しただけでも『もう二度と読まない』と言われてしまうこともある。作中で発生する『偶然』が作品の利益になってはならない。なんの必然性もなく語り手が美しい異性から好意をよせられたり、物語上重要な部分だけ記憶を喪失した人物を出したりしてはならない」(小川哲「小説を探しにいく」『群像・7・P.236〜237』講談社 二〇二四年)
小説の読者に限っていうとエンタメ系と純文系とでなるほどその程度の違いはあるかもしれない。しかし、ことによると、政治の世界では逆に横行しているように思えて仕方がない。
「『途中で離脱した作中人物が、主人公のピンチに駆けつける』ような、およそ現実世界で起こり得ない偶然によって作品が利益を得る」
選挙の街頭演説や立候補者の周辺をうろちょろしたがるコメンテーターの中には「途中で離脱した」にもかかわらず「主人公のピンチに駆けつける」ような、「およそ現実世界で起こり得ない偶然」が頻繁に起こっている。
さらに「クリシェ使用罪」。安易安直なステレオタイプの繰り返し。小説の場合なら「『私の目の前には、抜けるような青空が広がっていた』というような気の抜けた表現」。
「『ご都合主義』関連法以外にも、エンタメの読者は『クリシェ使用罪』には寛容で、純文学の読者は厳格だと思う。『私の目の前には、抜けるような青空が広がっていた』というような気の抜けた表現をすると、たった一度でその作家を見限ってしまう読者もいる」(小川哲「小説を探しにいく」『群像・7・P.237』講談社 二〇二四年)
これが議場に持ち込まれて国会審議が始まるやとんでもない話になってくる。
ここ数年でぐっと増えた台詞がある。
「ただいま調査中でございまして回答は控えさせて頂きます」
昔はこういうのが流行った。
「記憶にございません」
文学だろうと学術発表だろうと緊急地震速報であろうとこんな珍回答はどこへ行っても通用しない。小学生でも叱られる。ところが日本の最高意思決定機関では堂々とまかり通っている。
また面白いものに「起承転結逃亡罪」と名づけられた方法がある。読者が納得できるような形で最後にちゃんとまとめることから「逃亡」しているという指摘だが、エンタメ読者ならもちろん「違法」とするに違いない。純文学なら作者も読者もともにそもそも「起承転結」という形について問いかける場合が少なくない。
しかしおそらく最も問題なのは「メタフィクション使用罪」だろう。
「逆に『起承転結逃亡罪』などはエンタメの読者にとって重罪だけれど、純文学の読者は寛容だ。エンタメ小説できちんとしたオチをつけなければ小説法違反だと糾弾される。一方で、純文学の読者はかならずしも物語上のオチを要求しない。『メタフィクション使用罪』などもエンタメの読者と純文学の読者で見解が分かれるような気がする」(小川哲「小説を探しにいく」『群像・7・P.237』講談社 二〇二四年)
文学ではエンタメ・純文問わず、ある程度であれば意外な変化をもたらす効果ゆえ、限度を忘れない上でなら使用されても罪には問われないようにおもえる。だがある種の無自覚な「慣れ」は世間一般に向けて伝染する強い力があるため危険が潜んでいる。
例えば国会審議。議場へ場所が移るとメタフィクションは極めて陰湿な(いじめ自殺を引き起こす)空気を充満させる政治的誘導装置になり得る。
小峰ひずみ「議会戦術論」で取り上げられていたけれども、安倍晋三元首相が野党からの質問を「タウンミーティング」に喩えて揶揄しからかい嘲笑の渦に叩き込んでいた事例がある。議会での「質疑応答」のどこが一体「タウンミーティング」なのか。両者は別々の話である。
議場でのやり取りを「タウンミーティング」に喩えることで議場ではあり得ない「フィクション」を野党サイドが実際に設定しようとでもしているかのようにわざと演じて国会審議のパースペクティヴ(見え方)をずらしてしまい、嘲笑を呼び込む。安倍元首相ひとりがメタの位置に立ち「国会審議」と「タウンミーティング」とをオーバーラップさせることでフィクションと化して見える国会審議を嘲笑って憚るところを知らない。
単なる文芸の世界でさえ「メタフィクション使用罪」は作者にとっても読者にとってもかなり劣悪なモラルハザードになり得るというのに。一体どういう神経をしていればあのような事態を出現させることができたのか今なお不思議で仕方がない。
小説の世界でさえ問題になるようなことが逆にすべての国民の日常生活には無関係とみなして問題ない、などということはどう考えてもあり得ないだろうとおもうのだが。