白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて810

2024年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

昨夜はいつもより早く寝ることができた

 

そのぶん節電にはなる

 

なぜ早く寝ることができたのだろう

 

疲れていたからに違いない

 

家族の中でこれまた大そうな病気が発覚した

 

お金がもつかどうか、、、。

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。


Blog21・決定的敗戦をもたらした日本全体主義の「社会的担い手」とは誰か2

2024年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

さて次に「東京裁判」について丸山眞男が注目した場面。「軍国主義者の精神形態」としてまとめられた部分から。

 

(1)「日独ファシズムが世界に対してほぼ同様な破壊と混乱と窮乏の足跡を残したにも拘らず、かしこにおける観念と行動の全き一貫性に対してここにおける両者の驚くべき《乖離》がまず顕著な対照を示している。ヒットラーは一九三九年八月二十二日、まさにポーランド侵入決行を前にして軍司令官に対して次のように述べた。『余はここに戦端開始の理由を宣伝家のために与えよう──それが尤もらしい議論であろうがなかろうが構わない。勝者は後になって我々が真実を語ったか否かについて問われはしないであろう。戦争を開始し、戦争を遂行するに当っては正義などは問題ではなく、要は勝利にあるのである』。何と仮借のない断定だろう。そこにはカール・レーヴィットのいう『能動的ニヒリズム』が無気味なまでに浮き出ている。こうしたつきつめた言葉はこの国のどんなミリタリストも敢えて口にしなかった。『勝てば官軍』という考え方がどんなに内心を占めていても、それを《公然と》自己の決断の《原則》として表白する勇気はない。却ってそれをどうにかして隠蔽し道徳化しようとする。だから、日本の武力による他民族抑圧はつねに皇道の宣布であり、他民族に対する《慈恵行為》と考えられる。それが遂には戯画化されると、『言うまでもなく皇軍の精神は皇道を宣揚し国徳を布昭するにある。すなわち一つの弾丸にも皇道がこもっており、銃剣の先にも国徳が焼き付けられておらねばならぬ。皇道、国徳に反するものあらば、この弾丸、この銃剣で注射をする』(荒木貞夫の一九三三年における演説・No.270)というように、個々の具体的な殺《りく》行為のすみずみまで『皇道』を浸透させないと気がすまない。ところが他方、ナチ親衛隊長ヒムラーによると、『一ロシア人、一チェッコ人にどういう事態が起ったかということに就いては余は寸毫の関心も持たない。──諸民族が繁栄しようと、餓死しようと、それが余の関心を惹くのは単にわれわれがその民族を、われわれの文化に対する奴隷として必要とする限りにおいてであり、それ以外にはない』と。これはまた《はっきり》しすぎていて挨拶の仕方もない次第だ。むろん国内、国外に向って色々と美しいスローガンをまきちらす点ではナチもひけをとらない。しかしナチの指導者はそれがどこまでが単なるスローガンであり、どこまでが現実であるかという《けじめ》を結構心得て用いているようである。これに反してわが軍国支配者たちは、自分でまきちらしたスローガンにいつしか引きこまれて、現実認識を曇らせてしまうのである。元朝鮮総督南次郎大将の次の答弁を見よ(No.1935)。

 

裁判長 どうしてあなたはそれを聖戦と呼ばれたのですか。

南証人 《その当時の言葉が一般に『聖戦』といっておりましたので》その言葉を申したのです。

コミンズ・カー検察官 その『聖』ということ、対中国戦争のどこにその『聖』という字を使うようなことがあるのでしょう。(後略)

南証人 そう詳しく考えておったのではなくして当時これを『聖戦』と一般に云っておったものですから、《ついそういう言葉を使ったのです。侵略的なというような戦ではなくして、状況上余儀なき戦争であったと思っておったのでありました》」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.96~97」未来社 一九六四年)

 

(2)「さらに元上海派遣軍総司令官松井石根大将の場合を見よう。彼は口供書で日華事変の本質を次のように規定している。

 

#抑も日華両国の闘争は所謂『亜細亜の一家』内に於ける兄弟喧嘩にして──《恰も一家内の兄が忍びに忍び抜いても猶且つ乱暴を止めざる弟を打擲するに均しく》其の之を悪むが為にあらず《可愛さ余っての反省を促す手段》たるべきことは余の年来の信念にして──。#

 

これは必ずしも後でくっつけた理屈ではないらしい。上海に派遣される際、大アジア協会有志送別会の席上でも『自分は戦に行くというよりも兄弟をなだめるつもりで行くのだ』とあいさつしている(下中弥三郎氏の証言)。可愛さ余っての打擲の結果は周知のような目を蔽わせる南京事件となって現われた。支配権力はこうした道徳化によって国民を欺瞞し世界を欺瞞したのみでなく、なにより《自分自身》を欺瞞したのであった。我国で上層部に広い交際を持ったグルー元駐日大使もこうした自己欺瞞とリアリズムの欠如に驚かされた一人である。いわく、

 

#私は百人中にたった一人の日本人ですら、日本が事実上ケロッグ条約や九ヶ国条約や連盟規約を破ったことを本当に信じているかどうか疑わしく思う。比較的少数の思考する人々だけが率直に事実を認めることが出来、一人の日本人は私にこういった──『そうです、日本はこれらの条約をことごとく破りました。日本は公然たる戦争をやりました。満州の自衛とか民族自決とかいう議論はでたらめです。しかし日本は満州を必要とし、話は要するにそれにつきるのです』。《しかしこのような人は少数に属する》。日本人の大多数は、本当に彼ら自身をだますことについて驚くべき能力を持っている。──日本人は必ずしも不真面目なのではない。このような義務(国際的な)が、日本人が自分の利益にそむくと認めることになると、彼は自分に都合のいいようにそれを解釈し、彼の見解と心理状態からすれば彼は全く正直にこんな解釈をするだけのことである#

 

そうして大使はこう結論する。『このような心的状態は、如何に図々しくも自分が不当であることを知っているのよりもよほど扱い難い』。つまりこれが自己の行動の意味と結果をどこまでも自覚しつつ遂行するナチ指導者と、自己の現実の行動が絶えず主観的意図を裏切って行く我が軍国指導者との対比にほかならない。どちらにも罪の意識はない。しかし一方は罪の意識に真向から挑戦することによってそれに打ち克とうとするのに対して、他方は自己の行動に絶えず倫理の霧吹きを吹きかけることによってそれを回避しようとする。メフィストフェレスとまさに逆に『善を欲してしかもつねに悪を為』したのが日本の支配権力であった。どちらが一層始末に悪いかは容易に断じられない。ただ間違いなくいいうることは一方はより強い精神であり、他方はより弱い精神だということである。弱い精神が強い精神に感染するのは思えば当然であった」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.97~99」未来社 一九六四年)

 

(3)「指導者におけるこうした『弱い精神』の集中的表現として誰しもすぐ思い浮べるのは近衛であろう。事実、第一次近衛内閣における日華事変の拡大や、大政翼賛運動の変質の経過、乃至は第三次近衛内閣総辞職の経緯など、いずれをとってもそこには彼の性格の弱さが致命的に作用している。彼は木戸の証言によると、『何か起るとよくやめるということを言った男』(No.298)であり、一九四一年十月初旬、まさに日米交渉が重大な関頭に達し、九月六日の御前会議で決定された期日が迫ったときも鈴木貞一に対し『政界を隠退して僧侶になりたい』などと洩らしていた(鈴木口供書)。彼が井上日召のような、これこそ典型的な精神異常の無法者を荻外荘にかくまって日夜接していたのもまさしく心理的な補完にほかならない。近衛の弱さは或は単なる個人的性格の問題でもあり又いわゆる公卿の弱さの問題でもあろう。しかし弱かったのはひとり近衛のみであろうか。私がここでいう『弱い精神』とは決して近衛の場合のような《いわゆる》性格の弱さだけを指すのではない。別の例として東条内閣と鈴木内閣の外務大臣を勤めた東郷を挙げよう。彼は終戦時ポツダム宣言の無条件受諾を主張して軍部と抗争した立役者の一人であり、その際の態度などでは決して近衛のような弱い性格の所有者とは見られない。ところが開戦の日の十二月八日の朝、彼は外務大臣としてグルー大使を呼んで例の帝国政府の対米交渉打切りの覚え書を手渡したのだが、その際単に会談期間を通じての大使の協力を感謝すると述べたのみで、宣戦のことも真珠湾のことも一言もいわなかった。グルー大使は大使館に帰ってはじめて開戦の事実を知らされたのである。法廷で、何故会見の際に、戦争状態の存在について一言もいわなかったかということをブレークニー弁護士から訊ねられた時、彼のあげた理由がまさに問題である。第一に、グルー大使が既にその朝の放送によって開戦を知っていたと予測したこと──これはまあいいとして、第二に、内地では宣戦の詔勅はまだ出ていなかったから、これを《必要のない場合に》話すのは不適当と思ったこと──これは既に少々おかしい。しかし法廷をいたく驚かせたのは第三の理由だった。曰く、

 

#私はグルー大使とは長年の知合いでありますから、《この際あまり戦争ということを口にするのを控えたいという気持がありました》。すなわち戦争ということを云う代りにすなわち両国の関係がこういうことになってお別れするのを非常に遺憾とするということを申したわけであります#(No.342)

 

これはどういうことか。間が悪い、ばつが悪いといった私人の間の気がねが、それぞれの国を代表する外相と大使との公式の、しかも最も重大(クリティカル)な時期における会見の際に東郷を支配して、眼前に既に勃発している明白な事態を直截邇に表現することを憚らせたということだ。更にこの東郷の態度の裏には真珠湾の不意打ちに対する内心の《やましさ》の感情も入り交じっていたかもしれない。いずれにせよ相手の気持の思いやりもここまで来ると相手に対する最大の侮辱と等しくなる。これを野村・来栖大使との最後の会見の際のハル国務長官の態度と比較せよ、まことに好箇の対照である」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.99~101」未来社 一九六四年)

 

(4)「ちょうどこれと似た状況が国内政治の場合にもある。米内内閣が三国同盟締結問題で陸軍と衝突して総辞職した時のことである。あの時最も微妙な立場に立ったのはいうまでもなく畑陸相である。彼が首相に突きつけた覚書が内閣崩壊の契機となったのであるが、この行動がどこまで彼自身のイニシアティヴに出たものか、それとも弁護側が法廷で主張したように、もっぱら閑院宮参謀総長や阿南次官以下軍務局内の意向に強要されたものかということは容易につきとめられない。それはともかく米内は次のような一場のエピソードを語っている(No.391)。

 

#内閣総辞職の後、畑を私の室に呼び、私の記憶では次のように言いました、『貴下の立場はよく分る、苦しかったろう、《然し俺は何とも思っておらぬよ。分ってる》、気を楽にして心配するな』私は彼の手を握りました。《畑は淋しく笑いました》。此の笑は日本人に特有のあきらめの笑でありました。彼の立場は全く気の毒なものでありました#

 

まるで『リンゴの歌』のような問答であるが、ここでも支配的なのは公の原則ではなくて、プライヴェットな相互の気持の推測である。畑の陸相としての行動が上述のいずれの場合に属するにせよ、恐らく米内との会見で彼のとった態度はここに語られているものからさして距離はないであろう。それにしても、中国派遣軍総司令官、第二総軍司令官として三軍を叱陀し、元帥府に列せられた将軍もここでは何と哀れにちっぽけな姿に映し出されていることか」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.101~102」未来社 一九六四年)

 

(5)「日本支配層を特色づけるこのような《矮小性》を最も露骨に世界に示したのは戦犯者たちの異口同音の戦争責任否定であった。これは被告の態度を一々引用するまでもなく周知のことだから、キーナン検察官の最終論告によって総括して置こう(No.371)。

 

#元首相、閣僚、高位の外交官、宣伝家、陸軍の将軍、元帥、海軍の提督及内大臣等より成る現存の二十五名の被告の全ての者から我々は一つの共通した答弁を聴きました。それは即ち彼等の中の唯一人としてこの戦争を惹起することを欲しなかったというのであります。これは十四ヶ年の期間に亘る熄む間もない一連の侵略行動たる満州侵略、続いて起った中国戦争及び太平洋戦争の何れにも右の事情は同様なのであります。──彼等が自己の就いていた地位の権威、権力及責任を否定出来ず、又これがため全世界が震撼する程にこれら侵略戦争を継続し拡大した政策に同意したことを否定出来なくなると、彼等は他に択ぶべき途は開かれていなかったと、平然と主張致します#

 

この点ほど東西の戦犯者の法廷における態度の相違がクッキリと現われたことはなかった。例えばゲーリングはオーストリー併合についていった。『余は百パーセント責任をとらねばならぬ──余は総統の反対さえも却下して万事を最後の発展段階にまで導いた』。彼はノルウェー侵略に対しては『激怒』したが、それは前もって予告を受けなかったためで、結局攻撃に同意するに当っては『余の態度は完全に積極的であった』と自認する。ソ連に対する攻撃にも彼は反対であったが、それも結局時期の問題、即ち英国が征服される迄対ソ作戦は延期した方がいいという見地からであるとし、『余の観点は政治的及び軍事的理由によってのみ決定せられた』と確言する。何たる明快さか。これこそヨーロッパの伝統的精神に自覚的に挑戦するニヒリストの明快さであり、『悪』に敢えて居坐ろうとする無法者の啖呵である。これに比べれば東京裁判の被告や多くの証人の答弁は一様にうなぎのように《ぬらくら》し、霞のように曖昧である。検察官や裁判長の問いに真正面から答えずにこれをそらし、或は神経質に問の真意を予測して《先まわりした》返答をする。米内光政証人のいつまで経っても空とぼけた返事に裁判長が業を煮やして『自分の聴いた証人のうちではこの総理大臣は一番愚鈍だ』ときめつけたことは当然新聞種になった。『それでは答にならない。妥当なる答はイエス或はノーです』という言葉が一体幾度全公判過程を通じて繰返されたろう。職業柄最も明快な答弁をしそうな軍人が実は最も曖昧組に属する。大島中将・元駐独大使のごときはその顕著なものである。例えば一九三八年、三国同盟交渉の経緯に関するタヴナー検察官との問答の一節を挙げよう(No.322)。

 

検察官 私の質問に答えて下さい。私の今言ったような同盟(独英戦争勃発の場合、日本の参加を義務づけるような軍事同盟を指す──丸山)を主張いたしましたか、いたしませんか。

大島 いたしません(この前の問答で既にしばしばしかり或は否で答えるよう注意されている──丸山)──(中略)

検察官 こういうふうな同盟を結ぶというリッペントロップの提案に対して《あなたは反対したのですか》。

大島 《日本から反対してきております》。

検察官 私の質問に答えて下さい。

大島 《私は質問を避けませんけれども、かかる複雑なことはしかりとか否とかではなかなか答えられない》。

 

ここから更に検察官は、『防共協定を締結することによって日本がうる諸利益として若杉中佐の語ったことはつまり大島自身の意見ではないか』と訊き、防共協定の狙いを追及するのに対して、大島は協定の利益を数えれば種々あるが協定の目的は口供書にある通りだと逃げるので、

 

検察官 私のあなたに聴いておりましたことは、──先ほどの質問にありましたように若杉の見解というものはとりもなおさずまたあなたの見解であったのではないかというのであります。もしその見解にあなたが同意であるならば、そうであると言いなさい。そうでないならばそうでないと言いなさい。

大島 《附帯しての利益としてはそういうことが浮んで参りましょう》。

 

まだ他にも特徴的な答弁の例はあるが長くなるから省く。ともあれこうした曖昧な複雑なポーズが日本語──といっても特に漢語──のもつ特有のニュアンスによって一層拍車がかけられて法廷を当惑させたことは看過してならない事であろう。言霊のさきわう国だけあって『陛下を《擁する》』『皇室の《御安泰》』『内奏』『常時輔弼』『積極論者』こういった模糊とした内容をもった内容をもった言葉──とくに皇室関係に多いことに注意──がどれほど判事や検察官の理解を困難にしたか分らない。こうしいた言葉の魔術によって主体的な責任意識はいよいよボカされてしまう。『大アジア主義』の語義が論争になったとき判事側が『われわれは行動というものに対して関心をもっているのであって、言葉には関心を持っていない』(No.176)といったのは尤もな次第である。まったく弁護側のいうように八紘一宇がUniversal Brotherhoodを意味し、皇道が『デモクラシーの本質的概念と一致する』という風に変転自在の理念ではたまったものではないからである。しかしこうした戦犯者たちは単に言葉で誤摩かしてその場を言い逃れていたとばかりはいえない。被告を含めた支配層一般が今度の戦争において主体的責任意識に稀薄だということは、恥知らずの狡猾とか浅ましい保身術とかいった個人道徳に帰すべくあまりに根深い原因をもっている。それはいわば個人の堕落の問題ではなくて後に見るように『体制』そのもののデカダンスの象徴なのである。それを探るためには、まず被告らが過去の自己の行動を総じていかなる根拠からジャスティファイしようとしたかということを見ることがなにより手がかりになる。そこに被告らが生きていた生活環境に内在するエトスが最もよく反映しているからである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.102~105」未来社 一九六四年)

 

(6)「被告の千差万別の自己弁解をえり分けて行くとそこに二つの大きな論理的鉱脈に行きつくのである。それは何かといえば、一つは、《既成事実への屈服》であり他の一つは《権限への逃避》である。以下まず第一のものから論を進めることにしよう。既成事実への屈服とは何か。《既に現実が形成せられた》ということがそれを結局において《是認》する根拠となることである。殆どすべての被告の答弁に共通していることは、既にきまった政策には従わざるをえなかった、或は既に開始された戦争は支持せざるをえなかった云々という論拠である。例えば白鳥は巣鴨で訊問のあった際『あなたは一九三一年から終戦に至るまで満州及び支那において侵略的であったところの軍閥に対して好感を持ち、その友達となっていたのではないか』という問に対して、『私は彼らの友達ではない。──彼らに左袒するというわけではないが、しかしながら《彼らのすでにしたことに対して》は表面上もっともらしくし──なければならなかったのであります』といい、また、『あなたはいわゆる中日事変に賛成でありましたか反対でありましたか』というサダンスキー検察官の問に対して『私はその事変を早く《解決したい》という考えでありまして、《反対とか賛成とかいうことは起ってしまったことでありますから》、適切にあてはまる表現ではないように思いますが──』と答えている(No.332)。大島も三国同盟に賛成していたかと問われて、『それが国策としてきまりましたし大衆も支持しておりますから私ももちろんそれを支持しておりました』と弁明する(No.297)。大事なことはこの弁明が実質的に成り立つかどうかということではない。周知のように大島のごときは三国同盟でも最もイニシアティヴをとった一人である。ここで問題なのは、自ら現実を作り出すのに寄与しながら、現実が作り出されると、今度は逆に周囲や大衆の世論によりかかろうとする態度自体なのである。次に木戸を取ろう。これも三国同盟である(No.297)。

 

検察官 次の問題に対しては、しかりか否かで簡単に答えることが出来ると思います。私の質問は平沼内閣の存続中あなたはずっとドイツの軍事同盟に反対するところの立場を取続けていったかどうかということであります。

木戸 《私個人としては、この同盟には反対でありました》。しかしながら五相会談で非常に問題の研究が続けられまして、私がこの問題を総理から聴いたのは三月ごろでありました。そこで《現実の問題としては》これを絶対に拒否することは困難だと思います。

 

同じように東郷も三国同盟について東条内閣外相に就任したとき賛成だったか反対だったかを問われて、(彼も口供書ではドイツとの関係強化に反対するため全力を傾倒したと述べている)『《私の個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります》。──すなわち前にきまった政策が一旦既成事実になった以上は、これを変えることは甚だ簡単ではありません、云々』と答え、また第八十一議会で三国同盟礼賛の演説をした事を突っ込まれると、『この際《個人的な感情を公の演説に含ませ得る余地》はなかったわけであります──私は当時の日本の外務大臣としてこういうことを言うべく、《言わなくちゃならぬ地位にあった》ということを申し上げた方が最も正確だと思います』といっている(No.340)。ここでも果たして木戸や東郷がどの程度にまで真剣に三国同盟に反対であり又反対行動をとったかという疑問はしばらく別として、重大国策に関して自己の信ずるオピニオンに忠実であることではなくして、むしろそれを『私情』として殺して周囲に従う方を選び又それをモラルとするような『精神』こそが問題なのである。満州事変以来引続いて起った政治的事件や国際協定に殆ど反対であった旨を述べている被告らの口供書を読むとまるでこの一連の歴史的過程は人間の能力を超えた天災地変のような感を与える。フィクセル検察官が小磯被告の口供書についてのべた次のような言葉はこうした弁明のカリカチュアを痛烈に衝いてあますところがない(No.37)。

 

#──あなたは一九三一年昭和六年の三月事件に《反対し》、あなたはまた満州事件の勃発を《阻止しようとし》、またさらにあなたは中国における日本の冒険に《反対》し、さらにあなたは三国同盟にも《反対し》、またあなたは米国に対する戦争に突入することに《反対を表し》、さらにあなたが首相であったときにシナ事件の解決に努めた。けれども──すべてにおいてあなたの《努力は見事に粉砕されて》、かつあなたの思想及びあなたの希望が実現されることをはばまれてしまったということを述べておりますけれども、もしもあなたがほんとうに良心的にこれらの事件、これらの政策というものに不同意であり、そして実際にこれらに対して反対をしておったならば、なぜにあなたは次から次へと政府部内において重要な地位を占めることをあなた自身が受け入れ、そうして──自分では一生懸命に反対したと言っておられるところの、これらの非常に重要な事項の指導者の一人とみずからなってしまったのでしょうか#

 

そうしてこれに対する小磯の答はこれまた例のごとく『われわれ日本人の行き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定せられました以上、われわれはその国策に従って努力するというのがわれわれに課せられた従来の慣習であり、《また尊重せらるる行き方であります》』というのであった」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.106~109」未来社 一九六四年)

 

(7)「右のような事例を通じて結論されることは、ここで『現実』というものは常に作り出されつつあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されて《しまったこと》、いな、さらにはっきりいえば《どこからか起って来たもの》と考えられていることである。『現実的』に行動するということは、だから、過去への緊縛のなかに生きているということになる。従ってまた現実はつねに未来への主体的形成としてではなく過去から流れて来た盲目的な必然性として捉えられる。この意味で、一九四〇年七月二十六日、グルー大使と松岡外相との最初の会談の際、両者の間に交された会話はきわめて暗示に富んでいる。

 

#松岡氏はそこで、歴史は急激に動く世界にあっては必ずしも制御することが出来ない盲目的な勢力の作用に基づくことが大きいといった。私(グルー)はこの盲力が歴史上作用したことは認めるが、外交と政治の主な義務の一つはかかる力を健全な水路に《導き入れる》ことであり、近い将来、彼と私が日米関係の現状を、二人が正しい精神でそれに接近するという確信をもって探究するならば、彼が考えている盲力に有用な指揮を与えることに大いに貢献出来うると思うといった#

 

ここに主体性を喪失して盲目的な外力にひきまわされる日本軍国主義の『精神』と、目的-手段のバランスを不断に考慮するプラグマティックな『精神』とが見事な対照を以て語られていないだろうか。ではこの点ナチズムではどうだろう。ヒットラーは一九三九年五月二十三日に既にポーランド問題に関して次のように言っていた。

 

#本問題の解決は勇気を必要とする。既成の《情勢に自己を適応せしむることによって問題の解決を避けようとする如き原則は許されない。寧ろ情勢をして自己に適応せしむるべきである》。この事は外国に侵入するか又は外国の領地を攻撃する以外には可能ではない#

 

これはまたグルーのいうのとはちがった意味での、いわばマキャベリズム的な主体性であり、ここにも政治的指導性の明確な表現が窺われる。ポーランド進攻は、こうしてナチ指導者の十分な戦略的検討とイニシアティヴの下に進んで選んだところの方法であった。もとよりこのときのナチの情勢判断は必ずしも正しくなかったし、とくに欧州戦の後半期になればなる程、冷徹な打算はデスペレートな決断に席を譲って行った事は事実である。しかし、それにしても、終始『客観的情勢』にひきずられ、行きがかりに捉われてずるずるべったりに深みにはまって行った軍国日本の指導者とは到底同一に論じられない。この点では後にも触れるように、むしろ第一次大戦におけるドイツ帝国やツァール露西亜が比較さるべきであろう。前にのべたように、日本の最高権力の掌握者たちが実は彼等の下僚のロボットであり、その下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキにひきまわされて、こうした匿名の勢力の作った『既成事実』に喘ぎ喘ぎ追随して行かざるをえなかったゆえんの心理的根拠もかくて自から明らかであろう。戦前戦中を通じて、御前会議、大本営政府連絡会議、最高戦争指導者会議、と名前ばかりは厳めしい会議が国策の最高方針を決定するために幾度か開かれたが、その記録を読む者は、討議の空疎さに今更のように驚かされる。実はといえば、そこでの討議内容は、あらかじめこうした会議の《幹事》──単に書記ないし連絡員にすぎないと武藤らによって主張されているところの──幹事たる陸海両軍務局や参謀本部・軍令部次長によって用意されており、更にいえば幹事の下には軍務局員や参謀本部課員が幹事《補佐》として付いて実質的な案を出していたことである。そうして軍務局には右翼のそれこそシューマンのいう狂熱主義者や誇大妄想患者が出入りして、半身は官僚であり半身は無法者である佐官級課員と共に気焔を上げていた。しかも彼らでさえ関東軍や中国派遣軍を必ずしもコントロール出来なかった。況んや内閣や重臣はあれよあれよと事態の発展を見送り、ブツブツこぼしながらもその『必然性』に随順するだけである。こうして柳条溝や盧溝橋の一発はとめどなく拡大して行き、『無法者』の陰謀は次々とヒエラルキーの上級者によって既成事実として追認されて最高国策にまで上昇して行ったのである。

 

<補注>。といっても、そうした『下部』あるいは『出先』でつくられた既成事実が上部の支配層の価値感情や利害、ないしは日本帝国主義発展の基本的方法と《背反》していたら、それは決して『国策』にまで上昇しないであろう。その意味では国内政治の『翼賛化』と対外的な戦争突入とを独占資本の《プロットの着々たる実現》とみる見方が非歴史的であると同様に、『昭和の精神史』を軍部や右翼などの全体主義が重臣やブルジョアジーの『自由主義』を《排除》して行った過程とみることは裏返えしの公式主義であり、むしろその『自由主義』なるものの内実と歴史的コンテクストが問題なのである。ここでその問題を詳論する暇はないが、一つの参考として、財界の重鎮で後に枢密顧問官となり、上層部の最も信頼に値する『リベラリスト』とされた深井英五が、『平生立国の原則として把持し来れる所』と自ら称する三ヶ条を挙げておこう。(1)個人は其の属する国家を至上の存在として之に奉仕すべきこと。(2)政治上、社会上の機構及び之に対する個人の心構へは時によりて変遷すべく、一定の形態を墨守すべきにあらざること。(3)対外的には我が国運の伸張を目標として不断に画策し、機に乗じて勇往邁進すべく、場合により武力を以て我が主張を貫徹すべきこと(『枢密院重要議事覚書』十三頁)。とくに(1)と(3)を見れば、その国家観が本来のリベラリズムの信条と《いかに遠く》、他方国体主義者のそれとはいかに根本的なへだたりがないかが知られる。

 

軍部を中核とする反民主主義的権威主義的イデオロギーの総進軍がはじまるのとまさに平行して軍内部に『下克上』と呼ばれる逆説的な現象が激化して行ったことは周知の通りである。三月事件と十月事件が殆ど処罰らしい処罰なしに終ったということがその後のテロリズムの続発を促進した事実は到底否定出来ない。十月事件のごときは近歩一、近歩三の兵を動員し、霞ヶ浦から海軍爆撃機を出動させ、首相官邸閣議の席を襲って、閣僚を全部斃し、参謀本部と陸軍省を包囲して上司を強要して軍命令を出させるという大規模なテロによるクーデター計画であるが、このときもはや南陸相、杉山次官らは暴徒を統制する力なく、この計画で首相に擬せられていた荒木に鎮撫をたのむ有様であった。だから首謀者を保護検束しても到底厳罰など出来ず、結局うやむやになってしまった。翌年三月、永田軍部局長が木戸・近衛らから事件の始末を聞かれて、『本来ハ陸軍刑法ニヨリ処断セラレルモノナルモ其ノ動機精神ニ鑑ミ且ツ国軍ノ威信等ヲ考慮シ行政処分ニテ済セタルモノナリ』と答えている(木戸日記)。ギャングの処罰によってではなく、逆にこれとの妥協によって不法な既成事実を承認せざるを得ない迄に『威信』を失っている軍の事情がここに暴露されている。

 

<補注>。同時に、木戸が三月事件後に近衛・原田・白鳥などと情報を交換した際、『昭和二年頃ヨリノ計画ニシテ、政党ヲ打破シ一種ノ〘ディクテーターシップ〙ニヨリ国政ヲ処理セムトノ計画ナルガ如ク実ニ容易ナラサル問題ナリ──兎モ角モ《此計画モ出来得ルコトナラバ国ノ根幹ヲ害スルコトナク、且ツ余計ナ無駄ナキ様、善導スル要アリト思フ》、真ニ困難ナリ』(木戸日記、傍点丸山)と誌しているのは、こうした軍部内の革新的動向に対する後の重臣層の対処の仕方をほぼ標準的に示している点で重要である。一方で、こうした急進ファシズムを既成の天皇制秩序のワクに『善導』するという方向と、他方での、第二論文で述べたような『急進性』の限界──つまり『善導』される素地──とが相俟って、木戸が予測したような『困難』な道程を経ながらも、漸次日本ファシズム体制の基本型が打ち出されて行ったのである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.109~112」未来社 一九六四年)

 

(8)「このような軍の縦の指導性の喪失が逆に《横の関係において》は自己の主張を貫く手段として利用された。陸軍大臣が閣議や御前会議などである処置に反対し、あるいはある処置の採用を迫る根拠はいつもきまって『それでは部内がおさまらないから』とか『それでは軍の統制を保証しえないから』ということであった。例えば、一九四〇(昭和十五)年はじめ阿部内閣が辞職したとき、軍部は近衛を押して、宇垣(一成)も池田(成彬)も不可なりと強く主張した。近衛は『宇垣は不可んということはこれまでの経緯もあり一応肯かれるが池田までもいかんというのではどうかと思われる。陸相が押えられたらどうか』と畑にいうと、畑は『微力で到底押えられぬ。強いて出したら二.二六のようなことでも起りはせぬかと憂慮している』と答えて近衛を驚かせている。このエピソードは二.二六後の『粛軍』なるものの実体を示している意味でも興味がある。そうしてこのような論理は前述のヒエラルキーに漸次《転嫁》されて下降する。軍務局長がおさまらないから──軍務課員がおさまらないから──出先軍部がおさまらないから、という風に、そうして最後は国民がおさまらないからということになる。『国民』というのは先に触れたような、軍務課あたりに出入りする右翼の連中であり、更に背景となっている在郷軍人その他の地方的指導層である。軍部はしばしば右翼や報道機関を使ってこうした層に排外主義や狂熱的天皇主義をあおりながら、かくして燃えひろがった『世論』によって逆に拘束され、事態をずるずると危機にまで押し進めて行かざるをえなかった。三国同盟から日米交渉の決裂に至る過程にはとくにそれが甚だしい。一九四一(昭和十六)年の十月頃にはもはや軍部自体が『国民』に対してひっこみのつかぬ境地に追い込まれていたのである。日米交渉において最も難関だった問題が《中国からの》撤兵問題であったということは既成事実の重圧がいかに大であったかを語っている。東条は来栖大使の米国派遣の際にも、この条項だけは絶対譲歩出来ぬことを繰返し強調し、もしこの点譲歩するならば『靖国神社の方を向いて寝られない』と述べた(来栖三郎『泡沫の三十五年』七十二頁)。松井石根もまた『大亜細亜主義』誌上で、『今にして英米と妥協しアングロサクソンとの協力によって事後処理に当ろうなどという考えを起して、どうして十万の英霊に顔向けを出来ようか。《蓋し十万の英霊の名に於て吾人は絶対に対米妥協に反対である》』(『事後処理と対米問題』同誌、昭和十六年七月号)と気勢を挙げている。国民がおさまらないという論理はさらに飛躍して『英霊』がおさまらぬというところまで来てしまった。《過去への繋縛》はここに至って極まったわけである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.112~113」未来社 一九六四年)

 

(9)「ところでここに一つの問題がある。筆者はかつて日本の社会体制に内在する精神構造の一つとして『抑圧委譲の原理』ということを指摘した。それは日常生活における上位者からの抑圧を下位者に順次委譲して行くことによって全体の精神的なバランスが保持されているような体系を意味する。この原理は一体、上にのべたような日本ファシズムの体制の『下克上』的現象とどう関連するのだろうか。両者は矛盾するのだろうか。そうではない。『下克上』は抑圧委譲の楯の半面であり、抑圧委譲の《病理現象》である。下克上とは単に畢竟《匿名の無責任な力の非合理的爆発》であり、それは下からの力が公然と組織化されない社会においてのみ起る。それはいわば《倒錯的》なデモクラシーである。本当にデモクラチックな権力は公然と《制度的》に下から選出されているというプライドを持ちうる限りにおいて、かえって強力な政治的《指導性》を発揮する。これに対してもっぱら上からの権威によって統治されている社会は統治者が《矮小化》した場合には、むしろ兢々として部下の、あるいはその他被治層の動向に神経をつかい、下位者のうちの無法者あるいは無責任な街頭人の意向に《実質的に》ひきづられる結果となるのである。抑圧委譲原理の行われている世界ではヒエラルキーの最下位に位置する民衆の不満はもはや委譲すべき場所がないから必然に《外に》向けられる。非民主主義国の民衆が狂熱的な排外主義のとりこになり易いゆえんである。日常の生活的な不満までが挙げて排外主義と戦争待望の気分のなかに注ぎ込まれる。かくして支配層は不満の逆流を防止するために自らそうした傾向を煽りながら、却って危機的段階において、そうした無責任な『世論』に屈従して政策決定の自主性を失ってしまうのである。日本において軍内部の『下克上』的傾向、これと結びついた無法者の跳梁が軍縮問題と満州問題という国際的な契機から激化して行ったことは偶然ではないのである。F.マイネッケはかつて、機械文明の生み出した大衆の登場と軍事技術の発達によって、本来政治の手段であるべき軍備機構がデモーニッシュな力として《自己運動》を開始するようになったこと、他方大衆の動向を政治家がコントロール出来なくなったこと、を指摘し、十九世紀後半から明晰な『国家の必要』が模糊とした『国民の必要』に取って代られた旨を論じて、これを国家理性の『危機』と呼んだ。ここでは彼は第一次大戦におけるドイツの例を念頭においているのであるが、果して彼の断定はそのように一般化出来るだろうか。少くも軍事機構のそうした政治をはなれての自己運動、乃至は国民の間の無責任な強硬論など、第一次戦争直前のドイツと今度の日本との間に見出される著しい類似性は、両帝国が国家および社会体制においてともに権威的=階層的な構成を持ち、しかもそこでの政治的指導者が揃って矮小であったという事実と切り離しえないように思われるのである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.113~115」未来社 一九六四年)

 

(10)「さて、東京裁判の戦犯たちがほぼ共通に自己の無責任を主張する《第二の》論拠は、訴追されている事項が官制上の形式的権限の範囲に属さないということであった。弁護側の申し立てはこの点で実に見事に歩調を揃えていた。《賀屋》や《星野》のような官僚中の官僚が『単に行政官たりし事実』『生涯一個の官吏』たることを根拠としたのはもとよりその他例えば《大島》の弁護人は『被告大島に関し告訴せられている行為は独立国の代表として《彼の合法的な職務の行使に》関して為されたものであること』『単に外交事務機構を通じて伝達及び暗号翻訳の任に当ったのみ』(カニンガム弁護人の公訴却下申立No.161)といい、《岡》(元海軍省軍務局長)の弁護人も『被告に関し提出されている一切の証拠は、《彼の地位が常に秘書又は連絡官的のものであって》彼が未だ嘗て政策決定線上に坐するに至らなかった事を呈しております。彼に依って伝達され、又は彼又は彼の下僚に依って立案されたる諸通牒には彼の上官の色々の決定が含まれていました』(ローレン弁護人No.161)と申し立て、《武藤》(元陸軍省軍務局長)についても、『彼は軍人としての経歴の大部分を通じて、《隷属的地位に在った》ということが明白に立証されています。──即ち政策を決定するのは彼の上官であり彼の任務は世界の如何なる所にも承認された軍の概念が示すごとく、上官の命令を実践に移すことであった』(No.161)と弁護されている。これらの弁護はそれぞれ被告《自身》のイデオロギーの反映にほかならない。例えば武藤章の訊問調書から引いて見るならば、彼はそこで日本軍の南京・マニラにおける残虐事件について訊ねられて、そのような不祥行為の発生がシベリア出兵頃からはじまったこと、軍の素質を高めるための教育方法が将校の間で討議されたこと、自分が永く教育総監部にいたので、真の軍隊教育に深い関心を持っていたこと、などを述べた後に、訊問に対して次のように答える(No.159)。

 

問 一九一八年シベリア出兵後現われて来たのを貴方が気付かれたというこれらの欠陥を匡正するために、これから陸軍に入ろうとしていた青年の訓育及教育にどのような改革を加えましたか。

答 日本軍がシベリアに派遣された当時は《私が単なる一少尉》でしたから、たといそのことを知ったとしても何ともする事が出来ませんでした。

問 しかし貴方が軍の訓練を担当する高級副官の役に伴う力を持った際、ずっと昔の一九一八年に気付かれたあの弱点を改善するためにどのようなことをなさったのですか。

答 《陸軍中将になった後といえども、私は師団長でなかったから何ともすることが出来ませんでした》。如何なることを実行するにしましても師団長とならなければなりません。

問 軍務局長となった時は如何でしたか。

答 《軍務局長は単に陸軍大臣の一下僚に過ぎません》。そしてかかる問題に付て命令を発する機能はありません。

問 もしも貴方が師団長であったと仮定しあるいは学校における教育なりを担当したとすれば、貴方は一九一五年以降承知しておられたこの弱点を改善強化するために学校に対し命令を発せられたことでしょう。

答 《はい》。(《証人笑う》)

 

最後の問を肯定しつつ武藤が笑ったのは恐らく照れ臭かったのだろう。しかし被告らの単に中央の役所における行動だけでなく、第一線の司令官としての行動についてもまた『法規』とか『機能』が防塞とされるのである。これまた南京虐殺事件についてのノーラン検察官と松井石根元大将との問答を、やや長いが掲げて見よう(No.320)。

 

検察官 ちょっと前に、あなたは軍紀、風紀はあなたの部下の司令官の責任であるというようなことを言いましたね。

松井 師団長の責任です。

検察官 あなたは中支方面軍の司令官であったのではありませんか。

松井 方面軍の司令官でありました。

検察官 そういたしますと、あなたはそれではその中支方面軍司令官の職というものは、あなたの靡下の部隊の軍紀、風紀の維持に対するところの権限をも含んでいなかったということを言わんとしているのですか。

松井 私は方面軍司令官として部下の各軍の作戦指揮権を与えられておりますけれども、その各軍の内部は軍隊の軍紀、風紀を直接監督する責任はもっておりませんでした。

検察官 しかしあなたの靡下の部隊において、軍紀、風紀が維持されるように監督するという権限はあったのですね。

松井 権限というよりも、むしろ義務というた方が正しいと思います。──(中略)

検察官 というのは、あなたの指揮する軍隊の中に軍司令官もあったからというのですね。そうしてあなたはこれらの軍司令官を通じて軍紀、風紀に関するところの諸施策を行ったのですね。懲罰を行ったわけですね。

松井 私自身に、これを懲罰もしくは裁判する権利はないのであります。それは、軍司令官、師団長にあるのであります。

検察官 しかしあなたは、軍あるいは師団において軍法会議を開催することを命令することは、できたのですね。

松井 《命令すべき法規上の権利はありません》。

検察官 それでは、あなたが南京において行われた暴行に対して厳罰をもって報ゆるということを欲した、このために非常に努力したということを、どういうふうに説明しますか。(後略)

松井 全般の指揮官として、《部下の軍司令官、師団長にそれを希望するよりほかに、権限はありません》(!)

検察官 しかし軍を指揮するところの将官が、部下にその希望を表明する場合には、命令の形式をもって行うものと私は考えますが──

証人 《その点は法規上かなり困難な問題であります》。

 

この問答をよく読むと、まるで検察官の属する国よりも、松井の祖国の方がより近代的な『法の支配』が行われていたかのような錯覚が起って来る。あの『上官の命は即ち朕が命なりと心得よ』という勅諭をultima ratioとした『皇軍』の現地総司令官が、ここでは苟も法規を犯さざらんと兢々とし、《直接》権限外のことは部下に対しても希望を表明するにとどまる小心な属吏に変貌しているのである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.116~120」未来社 一九六四年)

 

(11)「これらの被告の態度も決して《単に》その場の思い付きの責任逃れではない。被告の大部分は実際帝国官吏なのであり、彼等がどんなに政治的に振舞っても、その魂の底にはいつもM.ウェーバーのいう『官僚精神』が潜んでいる。だから自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏になりすますことが出来るのである。なかんずくこの『からくり』のために百パーセントに利用されたのが、旧憲法の規定する統帥大権と編成大権の区別であり、更には国務大臣の単独輔弼制度及び国務・行政大臣の重複制であった。軍の政治関与が軍務局という統帥と国務の触れ合う窓口を通して広汎に行われたことは更めて述べるまでもなかろう。その意味で武藤が軍務局の役割を述べた次の言葉は実に含蓄に富んでいる。『陸軍大臣は閣議で決定した事項を実行せねばなりません。これがためには政治的事務機関が必要であります。軍務局は正しく此の政治的事務を担当する機関であります。《軍務局の為すのは、この政治的事務でありまして政治自体ではないのです》』(口供書No.313)。これが武藤の軍務局長としてのめざましい政治的活躍の正当化の根拠である。彼の仕事は《政治的》事務なるが故に政治に容喙しうるのであり、政治的《事務》なるが故に政治的《責任》を解除されたのであった。軍政系統の陸(海)軍大臣──次官──軍務局という系列と、作戦用兵を司る参謀総長(軍令部総長)──次長──参謀本部(軍令部)各課という系列との間にも所管事項について当然幾多交錯する面があったが、東京裁判では両者が互に他に責任をなすり合う場面がしばしば見られた(例えば俘虜待遇規定のごとき)。とくに国防計画の決定や現地での戦争拡大に関する責任が時の陸(海)軍大臣に対して追及されると、きまって統帥大権に容喙しえないという理由がもち出された。ところが統帥部側にいわせれば、『一国の作戦計画というものはその国の国策に基づいて作られるものである。しかし陸軍省に於てこの国防政策ということを担当していることになっております。また国防の大綱に関することも陸軍省の主管する所であります。しかして参謀総長の担任する所は国防用兵に関することである──作戦計画なるものが国策や国防政策から全然不覊独立に決定されるということは理論上ありうべからざることであるのみならず、事実においてそういうことはないのです』(田中新一証人の証言No.159)ということで、結局責任主体が宙に浮いてしまうのである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.120~121」未来社 一九六四年)

 

(12)「我が旧内閣制がいかに政治力の一元化を妨げたか、戦争遂行の必要上それを克服し合理化しようという企てがいかに試みられいかに成功しなかったかということは、この共同研究の中の辻教授の論稿によって明らかにされる筈である。ここにはただそうした政治力の強化の目的で作られたインナー・キャビネット的な組織も、ついに国務大臣の『精神』を変革しなかった事をタヴナー検察官の論告に総括された被告の主張によって示すにとどめよう(No.416)。

 

#広田、平沼、板垣、賀屋等のごとき有力な四相会議及び五相会議のメンバーの主張する所では、彼等は他の閣僚の諒承ないし承認なくしては無力であった。しかも他の閣僚の承認を得られなければ何一つとして重要な事はなし得られなかったというのであります。他方、荒木及木戸のごとき右会議のメンバーでなかった閣僚はこれらの事項がその実施に当り彼等に報告されなかったという理由で、あるいは又仮りに報告されたとしても、彼等は単に右会議出席者の専門的見解に基づいてこれを承認した迄だという理由で、自分等は責を問わるべきでないと主張しているのであります。《かくしてこの共同計画の実施中に執られた最重要な行動のあるものに対して、内閣の中に誰一人として責任をもつものがないということになる》#

 

要するにこのような『官僚精神』をいくら積み重ねてもそこからは言葉の本来の意味での《政治的統合》は出て来ない。それに代わって文書や通牒の山が築かれ、法令が頻発され、官制が新設される。この点において一九四〇年、勅令第六四八号の官制で出来た総力戦研究所の創設に関して法廷で行われた論争はきわめて興味がある。この研究所は、『総力戦研究所ハ内閣総理大臣ノ管轄ニ属シ国家総力戦ニ関スル基本的調査研究及官吏其ノ他ノ者ノ国家総力戦ニ関スル教育訓練ヲ掌ル』(第一条)という堂々たる目的を掲げて陸大や各省ないしは実業界からの代表者を学生として華々しく開校した。そこでは日米戦勃発の想定の下に、純軍事的な作戦から国内の政治・経済・教育・文化の総動員体制に至るまでの計画樹立が研究され学生に課せられたりしたのだから、検察側がこれを重視したのは当然である。ところがその実態はどうだったろう。当時の学生であった堀場証人によれば、(No.100)

 

#この研究所の官制は成程総理の管轄ということになっておりますが、大体顔を出されるのは入校式と卒業式という程度であり、何等の指示も指導もありませぬ。私等は現に一年間研究所にいたのでありますが、もう少し面倒を見て貰いたいという希望は持っておりましたが、大体この研究所の性質は生み放しの状態が事実でございます。そこで研究所としましては《先ず店は開いたが何をするのだろう、何とか恰好を付けねばならぬだろうというので》その職員に命ぜられた者が先ずその場限りの事柄から始めたのが発足であります。──職員は集ったものの──何を一体教えたらよろしいかということに没頭して到底調査研究の方には手が延びなかったのであります。この間政府からは何等の指示も指導もありませぬ#

 

この表現にはあるいは誇張があるかもしれない。しかしいわゆる『お役所仕事』という言葉を知っているわれわれ日本人には直観的にそこに含まれている真実性を感得しないだろうか。これに対して、ランバート検察官が『一九四〇年九月、日本は単なる学究的討論学校に於て、時間と精力を浪費したと信ぜられるでありましょうか──あの時期に於てかかる重要な人物(関東軍参謀長から研究所所長に任ぜられた飯村中将のこと──丸山)を、何等実際上の目的を持たぬ重要ならざる仕事に、その時間を空費せしめるため、東京に招致したと真面目に考え得られるでしょうか』(No.379)と反駁しているのは、無理もない疑問であるが、民主主義国家の物差では到底理解出来ないような非合理性がこの世界では立派に通用するのである。なおこれに関して、星野や鈴木・木村等がこの研究所の『参与』となった責任を問われているのに対して、清瀬弁護人が行った反対訊問の結びの言葉とこれにたいする堀場証人の答も注目されてよいであろう(No.100)。

 

清瀬 最後に一つだけ、あなたは二十五年間も官吏生活をしておられますが、我が国では参与とか顧問とかいったような有名無実のものが時々現われる経験をお持ちですか。

堀場 特別な例外を除けば、大体顧問とか参与というものは有名無実のお飾り物の代名詞になっております。──有名無実の存在の方が私は多いと思っております」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.121~124」未来社 一九六四年)

 

(13)「さてまた、『権限への逃避』はそれぞれ縦に天皇の権威と連なることによって、各自の『権限』の絶対化に転化し、ここに権限相互の間に果しのない葛藤が繰り広げられる。官僚には一貫した立場やイデオロギーはないし、また専門官吏として持つことを許されない。迫水久常氏はあるとき、『官僚は計画的ポオチュニストでなければならぬ』という名言を吐いた。一見あるイデオロギーを持っているようでもそれは彼の『人格』と結びついたものではなくてむしろ彼の『地位』と結びついたものである。軍部ファシズムの勃興がロンドン軍縮条約の兵力量決定をめぐる海軍内部の軍政派と軍令派の相剋から口火を切られたことは周知の通りだが、あの対立について水野広徳が次のように言っているのは問題の核心を衝いている。『軍政系と言い軍令系と言うもそれは人の問題ではなくして《椅子の問題である》。末次が海軍次官で山梨が軍令部次長であったなら、売国の非難は或は末次が負わされたかも知れない』(『新台湾総督意林躋造』中央公論、昭和十一年、十号)。これは多かれ少なかれ、軍部官僚内部の種々の『イデオロギー的』対立に妥当する。しかしそのことは内部的な抗争対立が激しくないということを少しも意味しない。むしろ逆である。挙国一致と一億一心が狂熱的に怒号されるに比例して、舞台裏での支配権力間の横の分裂は激化して行った。しかもそれが事務官意識に発する限りにおいてそれは無限にアトム化する。文官と武官が対立するかと思うとその下で陸海軍が対立し、陸軍は陸軍でまた、陸軍省と参謀本部で軍務局と兵務局というごとく。──企画院官僚、満州官僚、内務省官僚相互の抗争もよく知られている。そうしてこのような政治力の多元性を最後的に統合すべき地位に立っている天皇は、《擬似》立憲制が末期的様相を呈するほど立憲君主の『権限』を固くまもって、終戦の土壇場まで殆ど主体的に『聖断』を下さなかった。かくして日本帝国は崩壊のその日まで《内部的》暗闇に悩み抜く運命をもった。それにはむろん一つには天皇の弱い性格の故もあるし、また敗戦よりも革命を恐れ、階級闘争よりも対外戦争を選んだ側近重臣の輔弼も与って力があろう。だがむしろそこには絶対君主制とくに頽廃期のそれに共通した運動法則があることを看逃してはならない。M.ウェーバーは官僚制の政治的機能を述べつつこういっている。

 

#職務上の秘密という概念は官僚制の特殊の発明であり、まさにこの態度ほど官僚制によって狂熱的に擁護されるものはない。それは特にそれが許されている領域以外では決して純粋に即物的な動機から出た態度ではないのである。官僚制が議会に対立する場合には、官僚制は議会が自己特有の手段(例えばいわゆる調査権)で当時者から専門知識を得ようとする一切の企画に対して確実な権力本能でもってたたかう。だからあまりに事情に通ぜず従って無力な議会は、官僚制にとって自からより望ましいものとなる──《絶対君主制でさえも、いな、ある意味ではまさに絶対君主こそ官僚の優越せる専門知識に対し最も無力なのである》──立憲君主は社会的に重要な一部の被治層と意見を同じくしている限り──インフォーメーションを全く官僚制のみに頼っている絶対君主に比してより重大な影響を行政面に及ぼしうる場合が極めて多いのである。帝政ロシアの皇帝(ツァール)は彼の官僚の賛成しないこと、官僚の権力利害と衝突することを引続き実現することはまず殆ど出来なかった。絶対支配者としてのツァールに直属した大臣たちは──相互にあらゆる個人的陰謀の網を張りめぐらせて暗闘し、特に山なす『奏議』を次々と提出して攻撃し合ったが、これに対して皇帝は素人(ディレッタント)として全くなすすべを知らなかったのである#

 

<補注>。岡田啓介は戦後の回想でこういっている。『それを(二.二六事件以後日本が一路戦争に突入したコースを指す──丸山)止めることができなかったことは、重臣とかいわれていたわたしどもとして恥入る次第であるけれども、これは簡単には出来ないのです。──止めるのは力でもってするほかない。《そうなれば内乱です》。もし内乱となれば、《国家の基礎少くとも維新以来の日本をつくり上げた根本のところにひびが入る》ことになる。わたしだけではなく、当時の責任の地位にある人たちが一番心配したのは恐らくこの点だったと思います。──同じ敗戦にしても、日本が二つに割れることなしに、やはり一つの日本として、この不幸と艱苦を共にしえていることはせめてもの幸せではないかと考えられる。わたしはそれを思うと、《やはり内乱に至らなかった、又そうはさせなかったことをよかった》と思うのです』(『二.二六のその日』中央公論・昭和二十四年二月、傍点丸山)。たとえ戦争による破滅を賭しても、『内乱』の危険(=国体損傷の危険)だけは回避するというこの考え方こそ、上述した既成事実への《次々の》追随を内面的に支えた有力なモラルであり、それは国体護持をポツダム宣言受諾のギリギリの条件として連合国に提出したその時まで一本の赤い糸のように日本の支配層の道程を貫いている」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.124~126」未来社 一九六四年)

 

(14)「一般に君主制の下で政治的統合を確立し、上述したような君主に直属する官僚の責任なき支配とそこから生れる統治の原子的分裂を防遏する可能性は二つ、或はせいぜい三つしかない。一つは君主が真にいわゆるカリスマ的資質をもった巨大な人格である場合、(或は、君主に直属する官僚がそうである場合、つまり彼がもはや《単なる》官僚でない場合)であり、もう一つの場合は民主主義国におけると変らないような《実質的に強力》な議会が存在していること、このいずれかである。ところが前の場合はいうまでもなくきわめて稀薄であるし、後の場合も、よほど特殊な歴史的条件(例えばイギリス)がない限り、君主の周囲に結集した貴族層がそうした民主的立法府の勃興を本能的な権力利害から抑制するために、近代の君主制は表面の荘厳な統一の裏に無責任な匿名の力の乱舞を許すいわば内在的な傾向をもっているのである。帝政ロシアの場合は既に右に見た如くである。ドイツ帝国においても、ヴィルヘルム一世とビスマルクのコンビが失われた後はやはり相似た経過を辿った。『外交の巨匠としてのビスマルクが内治の遺産として残したものは、いかなる政治的教養もいかなる政治的意思もなく、ひたすら、偉大な政治家が己のために万事配慮してくれる期待によりかかっているような国民であった。彼は強力な諸政党を打壊した。彼は自主的な政治的性格の持主を許容しなかった。彼の強大な威容の消極的な産物は恐ろしく水準の低い卑屈で無力な議会だった。そうしてその結果はどうなったか──官僚制の無制限な支配すなわちこれである』(Marianne Weber,Max Weber.Ein Lebensbild,1926)。絶対主義的国家としての日本帝国の行程も畢竟こうした法則に支配されていたのである。明治藩閥政府が自由民権運動をあらゆる手段によって抑圧し、絶対主義の《いちじく》の葉としての明治憲法をプロシアに倣って作り上げた時に既に今日の破《たん》の素因は築かれてはいた。『官員様』の支配とその内部的腐敗、文武官僚の暗闘、軍部の策動による内閣の倒壊等々は決して昭和時代に忽然と現われた現象ではなかった(例えば明治二十五年、第一次松方内閣改造に際しての大山・仁礼・川上ら軍首脳部のボイコット、或は大正元年の二個師団増設問題における上原陸相の単独帷迫幄上奏などは、後年の軍部の政治的常套手段の見事なモデルを示している)。他方、帝国議会は周知の通り一貫して政治的統合が最終的に行われる《場》ではありえなかった。それどころか議会開設後の政党はそもそも『打壊す』のにビスマルク的鉄腕を必要とするほどの闘志と実力を持たなかったのである。政治力の多元的併存はかくて近代日本の『原罪』として運命づけられていた。にも拘らずそこで破《たん》が危機的な状況を現出せず、むしろ最近の時代とは比較にならぬほどの政治的指導と統合が行われていたのは、明治天皇の持つカリスマとこれを輔佐する藩閥官僚の特殊な人的結合と比較的豊かな『政治家』的資質に負うところが少なくない。伊藤博文がビスマルクを気取ったのは滑稽ではあるが、しかし彼にしても其他の藩閥権力にしても、一応は革命のしぶきを浴びつつ己れの力で権力を確立した経験を持っていた。彼らは官僚である《以前》に『政治家』であった。彼らは凡そ民主主義的というカテゴリーから遠かったが、それなりに寡頭権力としての自信と責任意識を持っていた。樺山資紀の第二議会での『我が国の今日あるは薩長の力ではないか』云々という有名な放言はこの内心の自負の爆発にほかならない。そうした矜持が失われるや、権力は一路《矮小化》の道をたどる。《政治家上り》の官僚はやがて《官僚上り》の政治家となり、ついに官僚のままの政治家(実は政治家ではない)が氾濫する。独裁的責任意識が後退するのに、民主主義的責任意識は興らない。尾崎咢堂は『三代目』という表現で戦時中不敬罪に問われたが、三代目なのは天皇だけではなかった。そうして絶対君主と立憲君主とのヤヌスの頭をもった天皇は《矮小化》と併行して《神格化》されて行ったので、ますますもってその下には小心翼々たる『臣下』意識が蔓延した。イソップ物語のなかにこういう話がある。──《ごましお》頭の男が二人の愛人を持っていたが、一人の愛人は男より若く一人は年寄りだった。若い女は年寄りの恋人を持つことを嫌って、通うごとに男の白髪をだんだん抜いて行き、年増の方は年下の男を持っていることを匿そうとして逆に男の黒い毛を抜きとって行った。それでとうとう男は禿頭になってしまった──というのである。日本の『重臣』其他上層部の『自由主義者』たちは天皇及び彼ら自身に政治的責任が帰するのを恐れて、つとめて天皇の絶対主義的側面を抜きとり、反対に軍部や右翼勢力は天皇の権威を『擁し』て自己の恣意を貫こうとして、盛に神権説をふりまわした。こうして天皇は一方で絶対君主としてのカリスマを喪失するとともに、他方立憲君主としての国民的親近性をも稀薄にして行った。天皇制を禿頭にしたのはほかならぬその忠臣たちであった」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.126~128」未来社 一九六四年)

 

有名な「東京裁判」とはまた別に、あるいは先に、「戦時体制」を作り上げたばかりか戦争遂行の積極的な「社会的担い手」に注目したのは、現在の日本におけるマス-コミとネットとの限度を知らぬ共犯者性抜きに語ることはできないと考えるからにほかならない。

 

日本の近い将来。いたずらに明るいものとして描き上げることは無責任のそしりを免れない。批評家や思想家ならもはや了解済みの事態にちがいない。ゆえにかどうかはわからないながらも千葉雅也はすでにこう書いている。

 

「考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない。考えすぎるというのは、無限の多義性に溺れることだ。ものごとを多面的に考えるほど、我々は行為に躊躇するだろう。多義性は、行為をストップさせる。反対に、行為は、身体によって実現される。無限に降り続く意味の雨を、身体が撥ね返すのである」(千葉雅也「意味がない無意味ーーーあるいは自明性の過剰」『意味がない無意味・P.35~36』河出書房新社 二〇一八年)

 

ベルグソン「物質と記憶」に登場する「逆円錐」モデルを援用しつつ述べられたもの。どこまで行ってもうやむやな無限の多義性から「身体」による「行為」へ。そう宣言した世界でも注目されている批評家が近い将来、日本の中で日本の政財界とマス-コミとから見せしめの袋叩きに合うかどうか。あり得ない。世界は二極化しつつあるばかりではてんでなく、ネグリ=ハートが言っているように全速力で「多極化」しつつもある。いろいろな立場からいろいろな人々が見ている。見せしめも袋叩きも許されない。そしてまた「身体」による「行為」への動きも様々なグラデーションを描きながら短絡的な予断を許さない多様性を日々生産してやまない。


Blog21・決定的敗戦をもたらした日本全体主義の「社会的担い手」とは誰か1

2024年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

松浦寿輝はこう評している。

 

「本書のタイトルとなった高名な論文が書かれたのは一九四六年。以後、これに想を得、これに注を付し、これを補完し、これを応用し、これを批判するあまたの仕事を誘発することになった決定的なテクストだ。敗戦直後というクリティカルな状況と著者の学知の成熟が化学反応を起こし、この鋭利な論考が産まれた。『軍国支配者の精神形態』など本書収載のどの論考についても言えるのは、何よりもまず、読んで面白いということ。一九四〇~五〇年代の丸山の文章群には、どれもこれも手に汗握らずにいられない知的サスペンスが漲っている」(松浦寿輝「『二〇世紀の夢』を読む30冊」『群像・2024・4・P.97』講談社 二〇二四年)

 

なんという著作なのか。

 

丸山眞男「超国家主義の論理と真理 他八篇」古谷旬編、岩波文庫、2015(1946)

 

松浦寿輝は「読んで面白い」といっているが、ひとまず通読して、ずば抜けて「面白い」のは「東京裁判」についての論考。軍部、官僚、文化人、大学教員、地方自治体有力者などなど戦争組織化に際して重要な地位を占める人々は多岐にわたるものの、一体誰にどんな責任があったのか具体的な輪郭が見えてくるわけではなく、「東京裁判」での被告論述を追えば追うほど逆にぼやけてくるばかりでまるでわからなくなるという逆説があぶり出される。そこは確かに「面白い」。

 

もうひとつは日本全体主義の「社会的担い手」として大きな役割を果たしたのは誰かあるいはどのような社会層に属するどんな人々だったか。「東京裁判」の場で出現したわけのわからない不可解さを引く前に、未来社版「現代政治の思想と行動」から何年か前にかつて引用した箇所をもう一度引いてみたい。

 

(1)「さてそれでは日本のファシズム運動の社会的な担い手という点においてどういう特質が見られるかということが次の問題になります。──軍部官僚がファシズムの推進力であったのはいうまでもないことですが、ここではそういうせまい意味ではなく、もっと広い国民的な面でいかなる社会層がファシズムの進展に積極的に共感を示したかという問題です。ファシズムというものはどこにおいても《運動としては》小ブルジョア層を基盤としております。ドイツやイタリーにおいては典型的な中間層の運動でありまして、──インテリゲンチャの大部分も、むろん例外はありますが、積極的なナチズム、ファシズムの支持者でありました。日本におけるファシズム運動も大ざっぱにいえば、中間層が社会的な担い手になっているということがいえます。しかしその場合に更に立ち入った分析が必要ではないかと思います。わが国の中間階級或は小市民階級という場合に、次の二つの類型を区別しなければならないのであります。第一は、たとえば、小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層、第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、その他自由知識業者(教授とか弁護士とか)及び学生層──学生は非常に複雑でありまして第一と第二と両方に分れますが、まず皆さん方は第二類型に入るでしょう。こういったこの二つの類型をわれわれはファシズム運動をみる場合に区別しなければならない」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.63~64」未来社 一九六四年)

 

(2)「わが国の場合ファシズムの社会的基盤となっているのはまさに前者であります。第二のグループを本来のインテリゲンチャというならば、第一のグループは擬似インテリゲンチャ、乃至は《亜》インテリゲンチャとでも呼ばるべきもので、《いわゆる》国民の声を作るのはこの《亜》インテリ階級です。第二のグループは、われわれがみんなそれに属するのですが、インテリは日本においてはむろん明確に反ファッショ的態度を最後まで貫徹し、積極的に表明した者は比較的少く、多くはファシズムに適応し追随しはしましたが、他方においては決して《積極的な》ファシズム運動の主張者乃至推進者ではなかった。むしろ気分的には全体としてファシズム運動に対して嫌悪の感情をもち、《消極的》抵抗をさえ行っていたのではないかと思います。これは日本のファシズムにみられる非常に顕著な特質であります。翼壮の組織もサラリーマン層をつかまえることには、ついに成功しなかった。戦時中における文化主義の流行は第二のグループのインテリ層のファシズムに対する消極的抵抗と見られます。ドイツやイタリーにおいては知識階級が積極的にファシズムの旗を掲げて立った。とくに大学生が非常に大きな役割をしたことは御承知の通りでありますが、日本には果してそういうことが見られたかどうか。もちろん右翼の運動にも学生が参加しておりますが、その学生は教養意識の点で、むしろ第一のグループに属しているものが多い(御承知のように、日本ほど、大学生と呼ばれるものの実質がピンからキリまであるところは一寸まれでしょう)。そういう意味で、《インテリ的》学生層は終始ファシズム運動の担い手とはならなかった。これは彼等が大正末期から昭和初頭にかけての社会運動、マルクス主義の旋風にまき込まれた程度とも比較にならない差異があります。東大にも一時学生協会というような、運動形態においてナチス学生運動と酷似したものが出来ましたが、あれほど客観情勢に助けられながら殆ど発展せず、大部分の学生は無関心乃至冷淡な態度でこれを迎えたのであります。

 

<補注>。以上インテリ層の果した役割についての叙述はファッショ《運動》に対する精神的姿勢に捉われすぎて、いわゆる『消極的抵抗』の過大評価に導きかねない。むしろ今日の課題としては、当時のインテリの行動様式がさまざまの類型をもちながら等しく《体制への黙従》に流れこんで行った過程をより微視的に追究する事が必要であろう。ただ《ナチ型のファシズムと対比する限りにおいて》は、本文の分析は必ずしも誤っていないと信ずる。二.二六事件の被告安田優の獄中日記に、日本の現状分析をのべた個所で、『中間階級の思想的退敗を論ず』として、『知識階級は徒に卑屈なる功利主義にかくれ進んで自己の信念を徹するの勇なく、しかも只是れマルクスの福音に終始し、又所謂プチブルは享楽的桃色的に終始す、国を誤るの大思ふべし』とあるのは、急進ファシズムに多かれ少かれ共通したインテリ観と見られる。昭和十八年に『東京都思想対策研究会』によって行われたアンケート〘東京都ニ於ケル教員及ビ中等学生思想調査概況〙によると、決戦下の学校教育体制に対して教員の態度は大体において現状を肯定する態度と、現状に対して批判的な態度とに大別され、後者はまた、教育者の時局認識が不徹底であるとか、戦時教育体制をもっと積極的に押進めよ、といった考え方(該調査はこれを《急進的態度》と呼んでいる)と、他方《逆に》現在の訓練が統制過剰であるとか、形式主義に陥っているとか、雑務が多すぎて研究ができないといった全体としての『行きすぎ』に反撥する態度(該調査はこれは《保守的態度》と呼んでいる)とに二分されるが、その際、一応現状肯定派つまり大勢順応派(調査人員の約半数)を除くと、《批判的態度のうちの》『急進派』が比較的に多いのは師範学校教師しかもその若い層であり(五十五パーセント以上)、『保守派』は中学校教師しかもやはり若い層に最も多く(三十七パーセント以上)青年学校教師に最も少い。そうして調査の結果は一般的に『急進派』は批判の事項を具体的に挙げることが少く、たとえば『自由主義を抹殺せよ』とか『決戦気風が不徹底である』とかいった観念的、一般的な事項を挙げているものが多く、これに対して『保守派』の批判は、経験的具体的な観察に基く行きすぎや欠陥を指摘しているものが比較的に多いのは注目されよう。これは大体において本文に指摘した第一と第二の中間層グループの行動様式にそれぞれ照応していると考えられる。同じ教師でも青年学校や師範学校教師は急進ファシズムないし『翼壮』イデオロギーへの《収れん》性が強く、旧制中学校教師はむしろインテリ・サラリーマン的な意識への収れん性が強いわけである」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.64~65」未来社 一九六四年)

 

(3)「これには一つには、日本のインテリゲンチャが教養において本来ヨーロッパ育ちであり、ドイツの場合のように、自国の伝統的文化のなかにインテリを吸収するに足るようなものを見出しえないということに原因があります。ドイツの場合には国粋主義を唱えることは、つまりバッハ、ベートーベン、ゲーテ、シルレルの伝統を誇ることです。それは《同時に》インテリゲンチャの教養内容をなしていた。日本にはそういう事情がなかった。しかし日本のインテリのヨーロッパ的教養は、頭から来た知識、いわばお化粧的な教養ですから、肉体なり生活感情なりにまで根を下していない。そこでこういうインテリはファシズムに対して、敢然として内面的個性を守り抜くといった知性の勇気には欠けている。しかしながらともかくヨーロッパ的教養をもっているからファシズム運動の低調さ、文化性の低さには到底同調できない。こういう肉体と精神の分裂が本来のインテリのもつ分散性・孤立性とあいまって日本のインテリをどっちつかずの無力な存在に追いやった。それに対して、さきにあげた第一の範疇は実質的に国民の中堅層を形成し、はるかに実践的行動的であります。しかも彼らはそれぞれ自分の属する仕事場、或は商店、或は役場、農業会、学校等、地方的な小集団において指導的地位を占めている。日本の社会の家父長的な構成によって、こういう人達こそは、そのグループのメンバー──店員、番頭、労働者、職人、土方、傭人、小作人等一般の下僚に対して家長的な権威をもって臨み、彼ら本来の『大衆』の思想と人格とを統制している。こういう人達は全体の日本の政治=社会機構からいえば明かに被支配層に属している、生活程度もそんなに高くなく生活様式においては自分の『配下』と殆ど違わない。にもかかわらず彼らの『小宇宙』においてはまぎれもなく、小天皇的権威をもった一個の支配者である。いとも小さく可愛らしい抑圧者であります。従って一切の進歩的動向に対する──大衆が社会的政治的に発言権をもち、そのために自らを組織化する方向に対する、最も頑強な抵抗者は、こういう層に見出されるわけであります。しかも尚重要なことは生活様式からいって彼らの隷属者と距離的に接近しておりますし、生活内容も非常に近いということから、大衆を直接に掌握しているのはこういう人達であり、従って一切の国家的統制乃至は支配層からのイデオロギー的教化は一度この層を通過し、彼らによって《いわば翻訳された形態において》最下部の大衆に伝達されるのであって、決して直接に民衆に及ばない。必ず第一の範疇層を媒介しなければならないのであります。他方またこれらの『親方』『主人』は町会、村会、農業会、或はもろもろの講、青年団、在郷軍人分会などの幹部をもつとめ、そういった場合において醗酵する地方的世論の取次人であります。ヒュームという哲学者が、『どんな専制政治でもその基礎は人の意見である』ということをいっておりますが、たしかにどんな専制政治でも、被治者の最小限度の自発的協力がなくては存在することは出来ない。そうして軍国日本において、この被治者のミニマムの自発的協力を保証する役割を果したのはまさにこの第一の意味での中間層であるということが出来ます。実際に社会を動かすところの世論はまさにこういう所にあるのであって、決して新聞の《社説》や雑誌《論文》にあるのではないのであります。ジャーナリズムの論調が日本ではともすれば国民から遊離するのは何故であるかといえば、それがもっぱら第二範疇の中間層によって編輯され、従ってその動向を過大視するからであります。たとえば昭和十年初めの天皇機関説問題についてみても、──これは日本のファシズムの進展において非常に重要な意味をもち、又岡田内閣の命取りにまでなりかけたものなのですが、──あの事件があれほど大きな政治社会問題になったのは、それが第一の範疇の世論になったからであります。貴族院でこれが問題となった後、大きな社会的波紋を呼んだのは、在郷軍人会が全国的にこれをとりあげて運動を起したからであります。政府はもとより、軍部でも上層部は最初はこれを単なる学説上の一見解と看做す態度をとっていた。その証拠としてこれが貴族院本会議において問題となった時、陸海相のなした答弁をみてみますと、大角海相は、『我国体の尊厳無比なるは議論するさへ畏れ多い事だと思っている。しかしこれは憲法の学説に関する答弁ではなく信念として申上げるのであるから御諒承願ひたい』といい、林陸相も、『美濃部博士の学説は数年に亘って説かれている所で、この学説が軍に悪影響を与へたといふ事実はない』と断言しております。軍部も首脳部はあまり問題にしていなかったのです。あれが大きな政治問題になったのは、政友会が倒閣運動としてあの問題を利用し、簑田胸喜などの民間ファッショと一緒に国体明徴を騒ぎ立てたからであり、社会的に波及したのは、全国の在郷軍人会の活動があずかって力があります。専門の学者や文化人の間ではもとより、官吏や司法官の間でさえ、多年怪しまれもせずに常識化していた学説が《社会的》には全く《非》常識な、ありうべからざる考え方として受け取られたこと、──この事件ほど、インテリ層と国民一般との知識的乖離を鋭く露呈したものはないと思います」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.65~67」未来社 一九六四年)

 

(4)「要するに第一の範疇の中間層の演ずる役割は、丁度軍隊における下士官の演ずる役割と似ていると思います。下士官は実質的には兵に属しながら、意識としては将校的意識をもっております。この意識を利用して兵を統制したところが日本の軍隊の巧妙な点です。兵と起居をともにし兵を実際に把握しているのは彼らであって、将校は『内務』からは浮いてしまっています。だから中隊長は兵を掌握するには、どうしてもこの下士官を掌握しなければならないのであります。これと同様な現象なのでありまして、この第一の範疇の中間層を掌握するのでなければ大衆を掌握し得ない。こういった地方の『小宇宙』の主人公を誰が、いかなる政治力が捉えるかによって、日本の政治の方向はきまります。それは過去でも現在でも同じことです。しかも注意すべきは第一範疇の中間層の知識、文化水準と、第二範疇の本来のインテリの水準との甚しい隔絶であります。私は外国のことはよく知りませんが、こんなに大きな隔絶があることは日本の大きな特色ではないかと思います。イギリスでも、アメリカでも、ドイツでさえも、もっと連続しているのではないかと思われるのでありますが、──この両層の教養の違いが甚しいこと、他方第一の範疇の中間層は教養においては彼らの配下の勤労大衆との間に著しい連続性をもっていること、大衆の言葉と、感情と、倫理とを自らの肉体をもって知っていること、これがいわゆるインテリに比して彼らが心理的によりよく大衆をキャッチ出来るゆえんです。しかもなお彼らを私が擬似インテリとか、亜インテリとか呼ぶのは、彼ら自身ではいっぱしインテリのつもりでいること、断片的ではあるが、耳学問などによって地方の物知りであり、とくに、政治社会経済百般のことについて一応オピニオンを持っていることが単なる大衆から彼らを区別しているからです。床屋とか湯屋とか或は列車の車中で、われわれは必ず、周囲の人々にインフレについて、或は米ソ問題について一席高説を聞かせている人に出会うでしょう。あれがつまり擬似インテリで、職業をきいて見ると大抵前述した第一範疇の中間層に属しています」(丸山眞男「増補版・現代政治の思想と行動・P.67~68」未来社 一九六四年)


Blog21・二代目タマ’s ライフ385

2024年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月一日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

今日のタマはひさしぶりに昼間によく遊ぶ。

 

途中でぬいぐるみを咥えてどこかへ持って行ってしまった。

 

一階はもちろん二階を二回も探したが見あたらない。

 

よくあることだ。

 

夕食後テーブルの近くでのびのび横たわるタマ。

 

見ればテーブルの脚のそばにぬいぐるみがころんと転がしてある。

 

ちなみにタマは家猫なので一度も外に出ていない。

 

その間、ぬいぐるみは一体どこにあったのか。

 

密室だ!

 

と騒ぎ立てるほどのこともないか、、、

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。スクールボーイQ。ヒップホップはそれをやるアーティストの側が今どこで何にどんなふうに向き合っているかという態度を試行錯誤状態のままリスナーに提出してみせる。単純な悪乗りとは縁を切ってみてなおかつあえてヒップホップアルバム。


Blog21・わたしたちはほとんど知らない5

2024年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

すでに何度か引用・検討されているマルセル・モースの研究から。

 

狩猟採集民はじぶんたちがじぶんたちであるということをどのようなやり方で決めているのか。

 

(1)「モースは自論を誇張して表現していたものの、にもかかわらずその誇張によって『文化圏』という問題全体を意義深い方法で捉え直すことが可能になった。というのも、もしだれもが近隣の人びとがどんな風かをおおまかに知っていて、よそものの習慣や芸術、技術にかんする知識が普及しているとき、あるいは、すくなくとも容易に入手可能であるようなとき、ある文化特性がなぜ広まったのかではなく、ある文化特性はなぜ広まらなかったのかが問われることになるからだ。その問いへの回答としてモースは、まさに文化がみずからを隣人に対抗して定義する方法がこれなのだと考えた。文化とは、事実上、拒絶の機構なのだ、と。中国人とは箸を使うがナイフやフォークは使わない人びとのことである。タイ人とはスプーンを使うが箸は使わない人びとのことである、といった具合に。これが美的感覚ーーー芸術様式、音楽、テーブルマナーーーーにもあてはまることは容易に想像できるが、おどろくべきことに、応用すれば役に立つことがあきらかな技術にすらあてはまることをモースは発見した。たとえば、アラスカのアサバスカン族は、イヌイットのカヤック[ひとり乗りのカヌー]がじぶんたちのボートよりも環境に適していることがあきらかであるにもかかわらず、それを採用することを断固として拒絶した。この事実に、モースは関心を寄せている。また、イヌイットもアサバスカン族のスノーシュー[かんじき]を採り入れることを拒んでいた」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.197~198」光文社 二〇二三年)

 

(2)「特定の文化にあてはまることは、等しく文化圏ーーーあるいはモースが好んだいいかたをすれば『諸文明』ーーーにもあてはまる。既存の様式、形式、技術のほとんどは、つねにほとんどだれもが潜在的に利用できる可能性がある。だから、これらもまたつねに借用《と》拒絶の組み合わせによって生まれてきたはずである。重要なことに、モースの指摘によれば、この過程は多くのばあい、きわめて自覚的なものであった。モースは事例として、他国の様式や習慣を取り入れることについての中国の宮廷における議論を好んでとりあげている。たとえば、周王朝のある王による議論がある。この王は、フン族(満州族)の装束の着用を拒み、戦車を好んで乗馬を拒んでいた廷臣や封臣に対して、儀式と慣習、芸術と流行のちがいをていねいに教え込もうと骨を折った。『社会はたがいに借用しあって生きているが、借用を受け入れるよりも拒絶することでみずからを定義している』とモースは述べている」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.198」光文社 二〇二三年)

 

(3)「また、このような反省意識は、歴史家が『高度の』(つまり読み書き能力のある)文明と考えているものに限定されるものではない。イヌイットは、スノーシューを履いている人間にはじめて遭遇したとき、本能的に反発し、それゆえ考えを改めようとしなかったわけではない。スノーシューを採り入れるか採り入れないか、じぶんたちが考えるじぶんたちのありようをどう表現するのか、イヌイットは熟考したのである」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.198」光文社 二〇二三年)

 

この中の(2)「借用《と》拒絶の組み合わせによって」、とりわけ際立つのは「拒絶」である。

 

さらに(3)「スノーシューを採り入れるか採り入れないか、じぶんたちが考えるじぶんたちのありようをどう表現するのか、イヌイットは熟考した」とある。

 

一般的に歴史家の間で「高度でない」とされているイヌイット。にもかかわらず、ある生活習慣について「採り入れるか採り入れないか」にあたって「熟考した」。少なくともモースはそう提起した。

 

思い起こされる。

 

「(レヴィ=ストロースが主張したように)わたしたちの初期の祖先が、わたしたちと知的に対等であるのみならず、知的な同胞であることを認めよう。おそらく、まさにわたしたちがそうしているのと同様に、かれらも社会秩序の創造性の逆説(パラドクス)に取り組み、ーーーすくなくともかれらのなかで最も思慮深い人たちはーーーそれらを理解した(わたしたちとおなじぐらい、ということは、要するにちょっとだけ理解した)」(グレーバー+ウェングロウ「万物の黎明・P.135」光文社 二〇二三年)

 

これからも何度かこの箇所を反復することになりそうだ。そしてその反復はただ単に退屈な繰り返しでは決してなく、なるほど有意義な確認作業になっていけば面白い事態が待ち受けているかもしれない。