白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ364

2024年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月三十日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

広く分厚い雲が垂れ込める雨模様の午後。

 

少しだけ網戸を開けてやるとタマはそそくさとやって来て霧がかる外の景色に飽きもせず眺め入る。

 

黒い後ろ姿がすっきり畏まって見える。

 

タマさん、雨だけど何見てるの?

 

、、、

 

何か見える?

 

、、、

 

晴れの日も網戸から外を眺めるのが好きだなあ。

 

そうじゃなくて。ええ~っと、今日お外を見ているのは、好きとか嫌いとかじゃなく思っていたほど蒸し暑くないと思ってね。

 

そうなんだ。

 

明日はどうかな。

 

ちょっとわからないな。今日の空も天気予報通りってわけじゃなかったし。それはそうとキャットフード買い足してきたよ。

 

自転車で?

 

自転車で。

 

いつものご飯?

 

いつものご飯。

 

わるいなあ、でもまあ飼い主なんだから仕方ないよね。

 

そういうこと。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジョン・ケイル。とても長いキャリアだがずっと周縁音楽的な取り扱われ方をしていた。わかるようでわからないような音楽。いわゆるアート・ロックにカテゴライズされているようだ。しかし個人的にアート・ロックのことを知ったのはジョン・ケイルからではなく中学生の頃に聴いたロキシー・ミュージック。なかでも一九七〇年代初期にブランアン・イーノがブライアン・フェリーと組んでいた頃の音がなんとも言えない新空間を広げて見せていたようにおもえる。ただ世評はイーノとフェリーとが繰り広げる音についてとにかく暗いとか退廃的だとか平気で言い放っていた。かなり迷惑な誹謗中傷であり世間というのはいつも無駄に騒々しいなあと鬱々していた。


Blog21・「メタフィクション使用罪」と「死に至る嘲笑」

2024年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

小説ではそういうことがしょっちゅう問題にされる。

 

例えば「ご都合主義」関連法。小川哲はいう。

 

「『途中で離脱した作中人物が、主人公のピンチに駆けつける』ような、およそ現実世界で起こり得ない偶然によって作品が利益を得る」

 

エンタメの読者と純文学の読者(この二分の仕方には大いに不満があるのだけれど、その話はひとまず傍に置いて)との間ではこのような「ご都合主義」について態度が異なることが多い。エンタメ読者は比較的寛容、純文学読者はかなり厳しい。

 

「すごく大雑把に言えば、エンタメの読者と純文学の読者(この二分の仕方には大いに不満があるのだけれど、その話はひとまず傍に置いて)には小説法上の違いがある。もっとも異なるのは、『ご都合主義』関連法だろう。エンタメの読者は作中で発生する『偶然』が作品の(あるいは著者の)利益になることに対して比較的寛容だ。もちろん、度が過ぎた『ご都合主義』は違反になるのだけれど、たとえば『途中で離脱した作中人物が、主人公のピンチに駆けつける』ような、およそ現実世界で起こり得ない偶然によって作品が利益を得ることは合法である(場合によっては推奨されたりもする)。純文学の読者にとって、『ご都合主義』は非常に深刻な罪で、程度にもよるが一度違反しただけでも『もう二度と読まない』と言われてしまうこともある。作中で発生する『偶然』が作品の利益になってはならない。なんの必然性もなく語り手が美しい異性から好意をよせられたり、物語上重要な部分だけ記憶を喪失した人物を出したりしてはならない」(小川哲「小説を探しにいく」『群像・7・P.236〜237』講談社 二〇二四年)

 

小説の読者に限っていうとエンタメ系と純文系とでなるほどその程度の違いはあるかもしれない。しかし、ことによると、政治の世界では逆に横行しているように思えて仕方がない。

 

「『途中で離脱した作中人物が、主人公のピンチに駆けつける』ような、およそ現実世界で起こり得ない偶然によって作品が利益を得る」

 

選挙の街頭演説や立候補者の周辺をうろちょろしたがるコメンテーターの中には「途中で離脱した」にもかかわらず「主人公のピンチに駆けつける」ような、「およそ現実世界で起こり得ない偶然」が頻繁に起こっている。

 

さらに「クリシェ使用罪」。安易安直なステレオタイプの繰り返し。小説の場合なら「『私の目の前には、抜けるような青空が広がっていた』というような気の抜けた表現」。

 

「『ご都合主義』関連法以外にも、エンタメの読者は『クリシェ使用罪』には寛容で、純文学の読者は厳格だと思う。『私の目の前には、抜けるような青空が広がっていた』というような気の抜けた表現をすると、たった一度でその作家を見限ってしまう読者もいる」(小川哲「小説を探しにいく」『群像・7・P.237』講談社 二〇二四年)

 

これが議場に持ち込まれて国会審議が始まるやとんでもない話になってくる。

 

ここ数年でぐっと増えた台詞がある。

 

「ただいま調査中でございまして回答は控えさせて頂きます」

 

昔はこういうのが流行った。

 

「記憶にございません」

 

文学だろうと学術発表だろうと緊急地震速報であろうとこんな珍回答はどこへ行っても通用しない。小学生でも叱られる。ところが日本の最高意思決定機関では堂々とまかり通っている。

 

また面白いものに「起承転結逃亡罪」と名づけられた方法がある。読者が納得できるような形で最後にちゃんとまとめることから「逃亡」しているという指摘だが、エンタメ読者ならもちろん「違法」とするに違いない。純文学なら作者も読者もともにそもそも「起承転結」という形について問いかける場合が少なくない。

 

しかしおそらく最も問題なのは「メタフィクション使用罪」だろう。

 

「逆に『起承転結逃亡罪』などはエンタメの読者にとって重罪だけれど、純文学の読者は寛容だ。エンタメ小説できちんとしたオチをつけなければ小説法違反だと糾弾される。一方で、純文学の読者はかならずしも物語上のオチを要求しない。『メタフィクション使用罪』などもエンタメの読者と純文学の読者で見解が分かれるような気がする」(小川哲「小説を探しにいく」『群像・7・P.237』講談社 二〇二四年)

 

文学ではエンタメ・純文問わず、ある程度であれば意外な変化をもたらす効果ゆえ、限度を忘れない上でなら使用されても罪には問われないようにおもえる。だがある種の無自覚な「慣れ」は世間一般に向けて伝染する強い力があるため危険が潜んでいる。

 

例えば国会審議。議場へ場所が移るとメタフィクションは極めて陰湿な(いじめ自殺を引き起こす)空気を充満させる政治的誘導装置になり得る。

 

小峰ひずみ「議会戦術論」で取り上げられていたけれども、安倍晋三元首相が野党からの質問を「タウンミーティング」に喩えて揶揄しからかい嘲笑の渦に叩き込んでいた事例がある。議会での「質疑応答」のどこが一体「タウンミーティング」なのか。両者は別々の話である。

 

議場でのやり取りを「タウンミーティング」に喩えることで議場ではあり得ない「フィクション」を野党サイドが実際に設定しようとでもしているかのようにわざと演じて国会審議のパースペクティヴ(見え方)をずらしてしまい、嘲笑を呼び込む。安倍元首相ひとりがメタの位置に立ち「国会審議」と「タウンミーティング」とをオーバーラップさせることでフィクションと化して見える国会審議を嘲笑って憚るところを知らない。

 

単なる文芸の世界でさえ「メタフィクション使用罪」は作者にとっても読者にとってもかなり劣悪なモラルハザードになり得るというのに。一体どういう神経をしていればあのような事態を出現させることができたのか今なお不思議で仕方がない。

 

小説の世界でさえ問題になるようなことが逆にすべての国民の日常生活には無関係とみなして問題ない、などということはどう考えてもあり得ないだろうとおもうのだが。


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて838

2024年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

薬物療法は現状維持。体重減量中。

 

節約生活。

 

それにしても

 

日本政府要人による使途不明金

 

呆れ返ったわけだがマス-コミがさほどでもなさそうなのはなぜだろう

 

同じ輪の中にいると自分たちのやっていることが見えなくなる

 

バブルに限った話じゃないというのに

 

ますます寒くなっていくのはマス-コミの懐も同じだというのに

 

よくわからないけれども同じ輪の中にいるともっとよくわからないのだろう

 

音楽を楽しむ時間(電気料金)も削減中。


Blog21・二代目タマ’s ライフ363

2024年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二四年六月二十九日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)その他の混合適量。

 

日陰で風通しがいいからか午後は玄関の上がり框付近でのびのびすやすや。

 

季節柄仕方ないでしょう、タマはうっすら目を開けてそういう。

 

明日はもっと暑くなるらしいよタマ。

 

むむ、そのときはうんと涼しいところを探すしかないなあ、タマとしては。

 

今日はそこでいいの?

 

我慢できそう。

 

二階はどう?

 

午後の日差しによりけりってとこかな。

 

雨らしいよ。

 

蒸し暑いというわけですか、お腹がすくかもしれません。

 

お腹の減り具合と何か関係あるの、タマ?。

 

猫に限らないとおもいますよ、蒸し暑い時って人間もなんだかんだって食べるじゃないですか。

 

、、、だね、、。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ジョン・ケイル。とても長いキャリアだがずっと周縁音楽的な取り扱われ方をしていた。わかるようでわからないような音楽。いわゆるアート・ロックにカテゴライズされているようだ。しかし個人的にアート・ロックのことを知ったのはジョン・ケイルからではなく中学生の頃に聴いたロキシー・ミュージック。なかでも一九七〇年代初期にブランアン・イーノがブライアン・フェリーと組んでいた頃の音がなんとも言えない新空間を広げて見せていたようにおもえる。ただ世評はイーノとフェリーとが繰り広げる音についてとにかく暗いとか退廃的だとか平気で言い放っていた。かなり迷惑な誹謗中傷であり世間というのはいつも無駄に騒々しいなあと鬱々していた。