白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー134

2020年02月29日 | 日記・エッセイ・コラム
吐け口を求めて集結した労働者の群れ。ジュネはその「増大する力の感じ」に圧倒される。フランス労働運動の中に明確な「うねり」があった頃のエピソードだ。それは既成の秩序に根底から揺さぶりをかける。もっともその動きは、政府当局から見れば「犯罪」に映って見える。そのことが犯罪者ジュネにとってはたまらなくうれしく美しいものに感じられる。歌が生まれるからである。さてしかし、歌が生まれるといえるのはなぜなのか。群れ集った肉体のうねりはいつどこでどのように歌へと変化するのか。それを見極める方法はどこにあるのか。ジュネはいう。

「その抑揚は、街の流行歌において生じるのがわかるときには私はそう思っているが、いまにも気づかれないままそれらの表現から移行しようとしている。だが彼らの肉体が波打ち、あるいは引き攣るのを見ると、これらの表現がちゃんとその抑揚を捉えたことを、そして彼らの存在全体がその関係の刻印を残していることを私は識別する」(ジュネ「花のノートルダム・P.237」河出文庫)

ところでディヴィーヌは少年時代に始めて味わった獄中の思い出に浸っている。他の不良少年らとはやや違い、比較的裕福な家庭で育った軟弱なキュラフロワにしてみれば辛い思いなしには回想できない、幾らかは苦い思い出でもある。問題になるのは更生院あるいは感化院でもまた身振り仕ぐさだ。

「刑余更生院では、他の小さなチンピラたちがお里の知れたいたずら小僧の役割をとても巧みに受け持った。彼らの言葉遣いは呪いの文句を含んで暗かったし、彼らの身振りは、裏通りや、暗がりや、城壁や、攀じ登った塀を思い起こさせると同時に、半獣神めいて、山男のようだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.242」河出文庫)

ちなみにフランス国内にはこれといった山岳地帯はない。登山といえば他国の山岳地帯が冒険の場だ。たとえばアルプス山脈が代表的だが、他にも「泥棒日記」にあるようにジュネの場合、東はスペインとモロッコにまたがるジブラルタル海峡から西はドイツを抜けていく。旧ユーゴのセルビア人もうろちょろしている。セルビアの隣国ルーマニアにはトランシルバニア山脈がさらに冒険を用意している。アルプス山脈は山男の産地だったが、トランシルバニア山脈は吸血鬼伝説の聖地だった。それらのエピソードが錯綜して少年たちの身振り仕ぐさを「半獣神」めいたものにまで上昇させるのである。百頁ほど前に描かれたキュラフロワの想像の世界の中の描写にこうある。

「革のズボンもはじけさせんばかりの腫れた短い腿をした大人の山の住人たち」(ジュネ「花のノートルダム・P.143」河出文庫)

この「大人の山の住人たち」に少しばかり注意しておこう。ヨーロッパはアジア大陸のほんの一部に過ぎないが、その社会的階層をなしている諸要素は実に幅広かった。「山の住人たち」は登山者のことではない。文字通り「山の住人」であり、日本でいう「マタギ」に相当する。さらにヨーロッパ各地を回遊しながら時に「山の住人」であり時に平野部に降りてきて或る種の職業を営む移動民もいた。ロマ(ジプシー)と混同されているけれども、おそらく彼らは戦後日本にもまだ少数ながら残っていた「サンカ」に分類可能な人々であろう。しかしサンカはどこへ行ったか。回遊民としてのサンカは消えた。高度成長期の資本主義とともに回遊を止めて平野部へ降りてきた。そして消えた。どこへ消えたかというより、都市部へ溶け込んだと考えるのが妥当だろう。山岳地帯をフィールドワークしても伝説ばかりが残っており肝心のサンカが見あたらないのは当然のことである。蓑や竹の技術者としてのサンカ伝説や芸能者としてのサンカ伝説はなるほど各地に残っている。だが毎年台風に見舞われる日本でいつまでも河川敷に小屋掛けして暮らしていくわけにはいかない。産業構造も大きく変化した。今は夏のキャンプ場やバーベキューの場として人気のある山中の河川敷だが、かつては移動民サンカが小屋掛けして暮らしていたところだということを知っている人々もほとんどいないのではないだろうか。ところで感化院でのキュラフロワは周囲の不良少年らが繰り広げる「半獣神」めいたエネルギッシュな行為を思わせる身振り仕ぐさの一つ一つからたちまち「グロテスクなバレエの台本」を創作してしまわずにはいられない。

「この小さな世界の間では、そしてその世界のうちには淫らな冷笑しかないようにちょうどうまい具合にそれを調整しながら、膨れ上がったスカートの上のバレリーナのように支えられた格好で、修道女たちが通り過ぎるのだった。すぐさまキュラフロワは彼女たちのためのグロテスクなバレエの台本を書いた」(ジュネ「花のノートルダム・P.242」河出文庫)

キュラフロワによるバレエ創作にあたって、そのシナリオにはジュネ特有の叙述が見られる。というのはいつものように少年時代にキリスト教会で見習い覚えた種々の舞台装置を動員するだけでたちどころに展開される眩暈(めまい)のような壮麗な光景だからだ。

「シナリオにょれば、彼女たち全員が隔離された中庭に出てくると、極北の夜を守護する『灰色の尼僧』である彼女たちは、あたかもシャンペンで酔っ払ったかのようにうずくまると、腕を上げ、首を振るのだった。黙ったまま。それから彼女たちは輪になると、ロンドを踊る小学生たちのようにくるくると回り、最後には、死ぬほど笑い転げて、くるくる回るイスラムの修道僧のように倒れるまでつま先だって回転していた、その間、施設付きの司祭は聖体顕示台を持って、彼女たちのまんなかを通り過ぎるのだった」(ジュネ「花のノートルダム・P.242~243」河出文庫)

要約して言えば、夜を徹して行われる「ダンス」である。しかしそれは「冒瀆」なのだ。正式な日曜礼拝の場ではなく感化院に収容された不良たちによって行われたという理由だけで。

「ダンスによる冒瀆ーーーそれを想像したことによる冒瀆ーーーはキュラフロワを動揺させていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.243」河出文庫)

歴史的な時系列でいえばルネサンスを境にキリスト教は近代的なダンスを許可する。社交界が誕生したからだ。それがどこほど高慢ちきこの上ない性質のものであっても。キリスト教はただ単なる貨幣によってだけでは動かされないが、製造業や外国貿易によって生じる資本へ転化する貨幣には太刀打ちできないのだ。むしろ資本を支援するし支援してきた。教会へ募金を与える人々の層に変化が生じた。それまでの王室や帝室を遥かに超えて多額の募金額を教会へもたらす人々の層が資本家へ置き換わったからである。なお、中世以降、近代資本主義勃興期に発生したこの種のダンスは、古代の諸民族間で行われていた巫女や踊り子によるダンスとは別物である。
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さて、アルトー。ヨーロッパ人の頑固さと迷妄と思い上がりが弾劾される。差し当たりアルトーはヨーロッパとアジアとに区別して述べているわけだが、アジアもまた欧米の後を追ったという事実においては似たようなものだ。だから次の文章は近代世界と原始的共同体との対立として読まれるべきではない。そうではなく、原始的共同体などもはやとっくの昔に博物館入りしてしまっている今、現代社会の人間の感じ方は心身ともに転倒しているものだという指摘として読まれるべきが妥当だろう。

「決してヨーロッパ人は、次のようなことを考えようとはしないだろう。彼が自分の身体において感じたこと、知覚したこと、彼を揺さぶった感動、彼が経験したばかりの、彼をその美しさによってうっとりさせた新奇な観念、これらが自分のものではないということ、ある他者が彼自身の身体においてこうしたことすべてを感じ生きたということを。もしそんなことを認めれば彼は自分を狂っていると思うだろうし、人は彼のことを狂人になったと言いたくなるだろう」(アルトー『タラウマラ・P.18』河出文庫)

ペヨトルの抽出物の作用を用いた少数民族タラウマラ族の儀式は、時のメキシコ政府によって取り締まり対象とされた。時のメキシコ政府というのはフランス政府の傀儡政権だった。アルトーがメキシコでタラウマラの儀式に参加したのは一九三〇年代。メキシコだけでなく中南米全土がアメリカを始めとする欧米列強によって植民地化された後のことだ。メキシコはフランスによって植民地化された。もっとも、傀儡とはいえメキシコの山岳地帯はまだまだ少数民族の土地であって、白人よりインディアンのほうが多いため、メキシコ政府内部には「親インディアン」の感情が残されていた。アルトーは「混血政府」と述べているが。だからといって、タラウマラ族もまたフランスの傀儡政権となっていたメキシコ政府の許可がなければ年に一度のタラウマラ族の祝祭を開催する許可を得ることができないほど追い詰められていたことは事実である。メキシコ政府軍は山岳地帯でのペヨトル栽培を禁止しペヨトル畑を破壊していた。前回引用したベイトソンの報告にあるようにLSDは意識変容を促す。ペヨトル抽出物は何を促すのだろうか。

「反対にタラウマラ族は一貫して、自分が考え感じ、そして生み出すことすべてにおいて、自分から発生するものと<他者>から発生するものを一貫して区別する。しかし狂人と彼との違いは、要するに彼の個人的意識がこの分割の、そして内的配分の作業において増大したということ、ペヨトルが彼をこの作業に導き、そして彼の意志を強化するということである」(アルトー『タラウマラ・P.18』河出文庫)

欧米列強は少数民族が儀式に用いる独自の薬物を取り上げて代わりにアルコールを与えた。アメリカの植民地では原住民にウイスキーが与えられたように。そうして少数民族を徹底的に堕落させていくことになる。ところが今やアメリカは、そしてフランスもまた、マリファナの主成分であるテトラヒドロカンナビノールの濃縮物や濃縮液を闇ルートで販売するネットワークを世界的規模で作り上げた。さらに無数の労働現場の実際の惨状が上げられる。大企業であれ中小であれ、下請けではなおさら、コカインやエナジードリンクや大量のビタミン剤なしに日々の仕事をこなしていくことができないような職業が圧倒的に増えた。たとえばアメリカのニューヨークを中心とする大都市では、コカインだけを取って見ても、一九九〇年代すでに「サラリーマンドラッグ」として大量の需要があったことが判明している。アメリカ政府の法律やフランス政府の法律は犯罪者を裁くけれどもただ単に裁くだけのことであって、元の社会へ復帰させることにはほとんど一向に関心がない。放置同然である。その意味でもはや国境を超えた闇ルートの出現は必然的現象であり、そもそもアメリカやフランスが自分で作り上げたと十分に言えるのである。資本主義の公理系を無視して暴走する新自由主義の場合、経営戦略を民間に丸投げしてしまうと自然にそうなるのだ。さらにデザイナードラッグの蔓延は東欧やロシア、南米各地を含め世界化している。ドラッグの世界においてもヴァレリーの言葉はなぜか正しい。

「長い間ヨーロッパに有利に傾いているようにみられていたバランスが、《ヨーロッパ自らが招いた結果として》、徐々に反対側へ傾き始めたことを、私は指摘した」(ヴァレリー「精神の危機」『精神の危機・P.25』岩波文庫)

ところで今の世界では自由という言葉が大流行していると同時に疑惑の目でじろじろ見られている。自由という言葉の濫用はとりわけアメリカでその価値をとことん下落させている。だがこのような現象は何も今が始めてでは何らない。かつても何度かあった。だから特に注意したいのはアメリカではなく、なぜ「価値」という言葉が妥当なのかということを知ることでなければならない。ヴァレリーはフランス国家の側に立って述べているにもかかわらず、マルクス「資本論」について高く評価しているのは周知の通りだ。その上で「価値」という言葉を「経済学から借りてきた」と断った上で次のように述べている。

「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。

今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。

《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。

一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。

こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。

大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。

かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫)

さらに今の日本のように、日本政府の政治的責任者である首相の言葉があてにならない今回のケースのような場合、次の文章を改めて読み直してみなくてはならない。

「言語なくして、市場も交換もない。あらゆる交易の第一の道具は言語である。ここでは、かの有名な言葉をあらためて引用することも可能である(ただしその言葉にかなり違った意味付けをすることになるが)。すなわち『はじめに《言葉》ありき』である。『言葉』が交易に先立たなければならなかったのである。

しかし言葉とは私が《精神》と呼んだものを表す厳密な名前の一つに過ぎない。精神と言葉は多くの用例においてはほぼ同義語である。ラテン語訳聖書で『ヴェルブ』と訳されている語は、ギリシア語の《ロゴス》であり、それは同時に《計算》、《推論》、《言葉》、《言説》、《知識》などを意味する語であり、表現という意味もある。

したがって、言葉(ヴェルブ)が精神と同一だと言っても、特段おかしいことを言ったことにはならないと思われる、ーーー言語学的に言っても。

それに、少しでも考えてみれば、あらゆる交流において、まずは会話を始める何かが存在し、交換したい物を指し示し、欲しいものを明示できることが必要である。したがって、感覚と同時に知的理解にも訴える力を持った何かが必要なのだ。そして、その何かこそ、私が一般的な形で《言葉》と呼んだものである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.231~232』岩波文庫)

マスコミに出没する御用学者では対応のしようもないに違いない。
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なお、新型ウイルス問題についてさらに。日本政府、とりわけ首相のリーダーシップを疑問視する声が上がっているけれども、問題はリーダーシップではまったくない。前回述べたように戦後長いあいだ常にパンデミックの危機は指摘されてきた。にもかかわらずこの種の危機対応について有効で柔軟な対応策を作ってこなかったのは戦後すべての歴代首相に当てはまる事情であり今さら首相のリーダーシップを疑問視しても何らの解決にならないのは自明である。とはいえ、首相は首相としての責任を回避することはできないこともまた自明である。パンデミックの危機に対する国際的対応の必要性について見て見ぬふりで放置してきた事実は動かないからである。さらにアメリカでは銃による死者数が年間三万人を下回っていない状態が続いている。現状の新型ウイルスは目に見えない危機であるとしても、目に見える危機である銃による死者の減少さえ実現できていない。アメリカ国家の価値は新型ウイルス問題だけでなく、銃による死者数が一向に現象しないという、そのような傾向に従っても信用下落している点が忘れ去られてはならない。だからドルの価値が脅かされつつあるのはアメリカがアメリカ自身で作り上げた「銃社会」が行き着く理論的帰結の一つに過ぎないといえる。そしてまた日米ともに高級官僚や社会的に重要な地位にある人物の発言が列をなして支離滅裂になっている点にも注目すべきだろう。ところがそれはもう五〇年ほど前から指摘されてきた事実の反復でしかない。次のように。

「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)

ところがネット社会実現以降の新自由主義は資本主義が東西冷戦という苦悶と葛藤の末に生み出した「公理系」を甘く考えるようになった。資本主義は「ロシア革命」を「消化する」ことによって延命することができたにもかかわらず、開き直り居直り、かつての成果を自分で廃棄する傾向を露骨に行使するようになった。「ロシア革命」を「消化する」ことができたのは社会主義的福祉政策を充実させることで一般大衆が持っており常に下から湧き起こる可能性のある革命運動のエネルギーを分散させることに成功したからである。ところが新自由主義の果てしない欲望は逆に、経営コンサルタントと化した企業経営者の思うがままに社会福祉部門の切り捨てならびに主に中小企業での低賃金重労働化を加速させてしまった。新しい機械の導入は人員整理を促すけれども残された従業員にはそのぶん新しい機械が要請する過酷な労働の器用な実践を制限時間いっぱいまで強いるからである。露骨な欲望は露骨な格差社会を欲望するようになった。すると当然、社会全体が創成期の資本主義社会に舞い戻ってしまい自己破壊的に作用することになる。さらにネット社会の実現によって資本による目に見える暴力は消えていくが、そのぶん、目に見えない暴力的作用は狡猾に残り社会全体に蔓延するのである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー133

2020年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
増大する力の感じ。ジュネは追求する。汚辱への転落を。しかしそれはジュネたちにとって上昇なのだ。肉体労働者たちが大量に集結するシーンを見たジュネ。その「地下的」な暗黒の力が躍動するのを目の当たりにして興奮を隠せない。

「彼らが美しいかどうか見るがいい!機械によって弓形に曲げられた彼らのすべての肉体は、同じくそこら辺にいる十万のごろつきの丈夫な肉体が感動的な表現で飾り立てられるように、試運転の機関車のように飾り立てられる」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)

所有ということについて。ジュネは考察する。次のように描かれるわけだが。

「その美はあまりに強いので、一挙にわれわれをそれ自身のうちに浸透させるほどであり、そしてあまりに自然に生じるので、われわれはそれを『所有している』(二つの意味において。すなわち、それに満たされていて、外部のヴィジョンにおいてそれを凌駕するという意味で)という感情を抱くほどである」(ジュネ「花のノートルダム・P.236」河出文庫)

ジュネは見る。そして「見ること」がすわなち「所有するということ」に相当している。この論理はおそらくサルトルの影響かとおもわれる。

「あまりにも絶対的にそれを所有しているので、この絶対的所有のなかには、もはやほんのわずかな問いかけに対する場所もない」(ジュネ「花のノートルダム・P.236」河出文庫)

ジュネは「ある種の動物たち」の「眼差」を例に上げる。

「ある種の動物たちは、彼らの眼差によって、こんな風に彼らの絶対的存在を一挙にわれわれに所有させる。蛇や犬がそうである」(ジュネ「花のノートルダム・P.236」河出文庫)

サルトルが論じたことで有名になった「見る見られる関係」が参考になるだろう。とはいえ、サルトルが論じた「見る見られる関係」において相手となる「他者」はただ単なる見知らぬ他人といった程度の意味であり「動物たち」ではない。

「ちらっと見ただけで、われわれは『彼らを知る』のだし、しかも知っているのは彼らのほうだとわれわれが信じてしまうほどであり、われわれがそれに対して恐怖の入り混じった何らかの不安を覚えてしまう」(ジュネ「花のノートルダム・P.236」河出文庫)

ジュネのいう「動物たち」は「絶対的な他者」である。だから「絶対的な他者としての動物たち」と出会ったとき、というふうに置き換えて考え直さなくてはならない。「ちらっと見ただけで、われわれは『彼らを知る』」どころか逆に自分の側はどのようにして「知っているのは彼らのほうだとわれわれが信じてしまうほどであり、われわれがそれに対して恐怖の入り混じった何らかの不安を覚えてしまう」のかと。サルトルはそこまで意識していない。ところが「他者」の意味をジュネのように「蛇や犬」だけでなく「狼」、「猫」、「象」たちによる不意打ち的な《眼差》として捉えるとすれば、理論上、まったく適切に妥当するのである。次のように。

「いかなる瞬間にも、他者は、《私にまなざしを向けている》」(サルトル「存在と無・上・P.454」人文書院)

「他者のまなざしは、他者の眼をおおいかくしている。他者のまなざしは、あたかも他者の《眼の前方を》行くように思われる。この錯覚はどこから来るかというに、私の知覚対象としての相手の眼は、私からその眼にまでくりひろげられている一定の距離のところにとどまっているーーー要するに、私の方では、距離なしに相手の眼に現前しているのであるが、相手の眼は、私の《居る》場所から隔たっているーーーのに反して、相手のまなざしは、距離なしに私のうえにあると同時に、距離をおいて私を保っているからである」(サルトル「存在と無・上・P.456」人文書院)

「私の背後で枝のざわめきが聞えるとき、私が直接的にとらえるのは、『《そこに誰かがいる》』ということではなくて、『私は傷つきやすい者である』ということ、『私は傷つけられるおそれのある一つの身体をもっている』ということ、『私は或る場所を占めている』ということ、『そこでは私は無防備であって、私は何としてもその場所から逃げだすことができない』ということ、要するに、『私は《見られている》』ということである。それゆえ、まなざしは、まず、私から私自身へ指し向ける一つの仲介者である。この仲介者はいかなる本性をもつものであろうか?『見られている』ということは、私にとって、何を意味するであろうか?」(サルトル「存在と無・上・P.456~457」人文書院)

差し当たり三箇所上げた。ちなみに「存在と無」はサルトルが「現象学的存在論」に打ち込んでいた頃の著書に当たる。
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さて、アルトー。タラウマラ族の儀式に参加しようと試みる。まず観察から取り掛かる。

「それを理解するためにはかなりの時間が、多くのダンスの身振り、姿勢や形象が必要であった」(アルトー『タラウマラ・P.11』河出文庫)

シグリは前に述べたようにメキシコの少数民族であるタラウマラ族がペヨトルを用いて行う儀式である。

「シグリの司祭たちはまるでそれらを闇に対して強制し、あるいは夜の洞窟から引っ張り出すようにして、宙を描くのである。彼ら自身、もはやこうした姿勢から形象を理解することはできず、こんなふうにふるまいながら一方では一種の肉体的伝統に従い、他方ではペヨトルが彼らに下す秘密の命令に従っているだけである」(アルトー『タラウマラ・P.11』河出文庫)

儀式はトランス状態への変化を通して始まる。しかし重要なのは、タラウマラ族が儀式を通して行っていることは「植物が彼らに命じることを為す」という点だ。

「彼らは踊りはじめる前にペヨトルの抽出物を吸引し、計算された方法で失神状態に入ろうとする。ーーー私が言いたいのは、彼らは植物が彼らに命じることを為すのであるが、彼らはそれを一種の訓練のように繰り返すということである」(アルトー『タラウマラ・P.11~12』河出文庫)

古代を取り扱った民俗学的資料に共通しているように世界がまだ無数の少数民族に分散して暮らしていた頃、どこへ行っても似たような儀式が風習としてあった。アルトーはバリ島演劇にその名残を発見して「バリ島の演劇について」という小論文を書いた。それについては以前述べた通りだ。鋭角的な身振り仕ぐさの多いダンスが何度も繰り返し反復される点もまた似ている。或る種の植物の抽出物はもちろんそれなりの効果を与える。ペヨトルの場合、植物なので、アルトーもかなり当たり前に「植物が彼らに命じる」と記述しているわけである。ドゥルーズとガタリはそのことを「植物たちについていく」といっている。

「植物たちの智慧ーーーたとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともにーーー風や、動物や、人間とともにリゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。『われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔』。そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方法の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生みだすに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.31~32」河出文庫)

ところがドラッグカルチャーと化した「植物たちの智慧」は、もはやすでに堕落してしまった。社会的規模で流通に乗りカルチャー化されてしまうと植物たちまで商品化され堕落するほかない。とともになぜ世界でも最も早くアメリカの若年層の間で多くのドラッグカルチャーが発生したのか。ベイトソンは研究者なので研究室内でLSDも試しているが全然依存していない。むしろ冷静沈着な報告を残している。とりわけLSDと音楽との関係について。

「わたしも多くの人と同じように、LSDのもとで、自分と自分の聴いている音楽の境界が消え去るという体験をしました。知覚するものとされるものとが一つになる。この状態の方が、『わたしが音楽を聴く』と感じられる状態より正しいことは間違いありません。『音そのもの』は結局のところ例の『ものそれ自体』であって、それが聴覚像になったときには、すでにわたしの精神の一部になっているのですから」(ベイトソン「精神の生態学・P.613」新思索社)

ペヨトルを用いた儀式でもタラウマラ族の間では、服用量に注意しなくてはいけないとされている。数千年の昔から、おそらく無数の少数民族がいたであろうが、彼らは皆、儀式で用いる植物の種類は地域別に違っていても、今でいう「オーバードーズ」の危険性についてよく知っていたのである。薬物乱用の歴史は商品化の歴史とともに、すなわち近代資本主義社会の成立とともに始まる。
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なお、新型ウイルス問題についてさらに。情報とは何か。極めて基本的な部分から。

「『観念』の単位は、一個の差異<ちがい>を生む差異<ちがい>である。1ビットの情報というのは、まさにそれである」(ベイトソン「精神の生態学・P.373」新思索社)

人間は差異が差異を生む世界に生きている。すでに「土地と地図」の関係で述べたが、人間が情報を受け取るとき、情報というものはその性質上、土地を土地そのものとして受け取ることは不可能であり、地図へ変換されたものを情報《として》受け取る。たとえば「或る一つの差異」についてそれを受け取るとき「1ビット」として受け取るほかない。すでに変換されたものを受け取っているのだ。実物の土地が何であるか。それを人間は知ることができない。

「情報の1ビットというのは、とにかくひとつの差異を言うわけで、どんなに複雑でまた抽象的な問いに対しても、『イエス』『ノー』の答えはすべて1ビットなのである」(ベイトソン「精神の生態学・P.375」新思索社)

さらにメンタルヘルス関連でいえば、メンタルな世界というのは何も身体の内部にのみ存在するわけではけっしてない、ということがわかっていなければならない。人間の皮膚は身体を内部と外部とへ遮断して分割するものではない。事情は逆であって、人間の皮膚は、人間の身体と外界との繋がりを保ちつつ絶え間なく新陳代謝するためにある。だから人間の身体はいつもすでに外界と接続されている。したがってメンタルヘルスというのは一人の人間の個体だけを取り出して述べることはできない。一人の人間の個体を取り巻く一定範囲の自然環境すべてに渡って新陳代謝が行われている現在進行形で「情報が加工されて進んでいく精神の世界」のことをメンタルな世界と呼ぶのである。

「われわれはふつう、外側に『フィジカルな世界』があり、内なる『メンタルな世界』があって、両者は何らかのかたちで切り離されていると考えますが、そうした分離の印象は、身体の外側と内側とでの差異のコード化と伝達法の違いに由来するのでないかとわたしは考えております。メンタルな世界ーーー情報が加工されて進んでいく精神の世界ーーーは、皮膚で区切られるものではありません」(ベイトソン「精神の生態学・P.603」新思索社)

だから環境問題について根本的に見直す必要性はもう戦後間もなくから提言されていたのだが、世界はいつもその肝心の部分を先送りしてきた。だが暴力的に掘り崩され改変されてきた生態系は暴力的に掘り崩され改変されてきたことへの答えとして今の環境を人間社会の側へ送り返しているに過ぎない。その意味で生態系は人間によって「あざむかれない」と言える。

「環境汚染や資源搾取の罪について、それがささいなものだとか、悪意はなかったとか、善を為そうとしたゆえのことであったとか、『自分がやらなくても、きっと誰かがやったことだ』とか申し開きをきても無駄である。生態系のプロセスは、あざむかれない」(ベイトソン「精神の生態学・P.666~667」新思索社)

もはや言うまでもないことだが、人間はエコロジーの外部にいるわけではない。むしろ逆に人間とそのすべての発明品は戦争機械に至るまでエコロジーの一部分を構成している。

「われわれはエコロジーの外側に立っているわけではない。つねに、避けようもなく、それについてプランを練るエコロジーの一部に自ら収まっているのである」(ベイトソン「精神の生態学・P.667」新思索社)

新型ウイルスの動きについても次のように言える。

「古代ギリシア人が限界も分割もしらない《ノモス》の開いた空間、都市以前の田園、山の中腹、高原、草原について語るとき、それらの空間は耕作に対立させられているのではない。それどころか耕作はノモスの一部となりうるのであり、彼らがノモスを対立させるのは、《ポリス》に対し、都市に対し、町に対してである。イブン・ハルドゥンが《バディヤ》、つまりベドゥイン性について語るときも、バディヤは放浪牧畜民とともに耕作民をも含むものとされる。ベドゥイン性は《ハダラ》に、つまり『市民性』に対立させられているのだ。この区別が大切なのは確かだが、これが決定的な区別をもたらすわけではない。なぜなら、最古の時代、新石器時代やさらには旧石器時代でさえ、《農業を発明したのは都市なのだ》。都市の作用によってこそ、農業とその条理空間は、いまだ平滑空間にある耕作民(半定住またはすでに定住した季節移動耕作民)の上に覆い被さるのだ。だからこの点で、一度退けられた農業民と遊牧民、条理化された土地と平滑な大地のあいだの単純な対立が、再び見出されることになる。だが、これは条理化の力としての都市を迂回してのことである。こうしてみると、平滑なものと条理化されたものが目指す場所は、もはや海、砂漠、草原、空だけでなく、大地そのものであって、ノモス-空間による耕作か、都市-空間による農業かということが問題となる。そしてさらには同じことを都市についても言うべきではないだろうか。海とは反対に、都市はとりわけ条理空間である。しかし、海が根本的に条理化されるがままになる平滑空間であるように、都市の条理化の力は、大地においてさらには他の要素において、ーーー都市の外でも都市そのものの中でも、いたるところに平滑空間を再び与え実現するだろう。今や平滑空間は都市を出るのであり、もはや単に世界的組織の平滑空間にとどまることなく、平滑なものと穴のあいたものを組み合わせ、都市に矛先を向けて反撃する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.261~262」河出文庫)

実際、そうなってきた。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー132

2020年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネにとって美しく見えるものは多くの場合、世間一般の美的感覚と異なる。そこにジュネ固有の唯一性がある。ディヴィーヌとジュネはともに美しいマルチェッティたちをあちこちに作り上げ解き放った。しかしマルチェッティたちが美しいのはジュネたちの考える「冒険」をくぐり抜けてきた場合に限ってである。ところがマルチェッティたちでないにもかかわらず詩(ポエジー)を出現させる点で次の場合もまた「驚異にくるまれ」つつ美しい現象としてジュネを当惑させる。

「最も奇妙な詩的現象についてはどう言えばいいのか、つまり世界中がーーーそしてそれ自身のうちで最も陰鬱な世界、最も不吉な、黒焦げになった、厳格主義にいたるまで乾ききった世界、工場労働者たちの厳しくむき出しの世界がーーー根本的に豊かで、金ぴかで、ダイヤのように輝き、スパンコールを施され、あるいは絹のように光沢のある声によって歌われた、風のなかに失われた民衆の歌という驚異にくるまれているという現象である」(ジュネ「花のノートルダム・P.234~235」河出文庫)

そこでは或る種の「歌」が歌われる。ジュネは「最も陰鬱な世界、最も不吉な、黒焦げになった、厳格主義にいたるまで乾ききった世界、工場労働者たちの厳しくむき出しの世界」で、それは歌われる。ジュネの耳にはこう聴こえる。

「これらの歌は、もし私がそれらの歌が労働者たちの重々しい口によって歌われるということを知っているならば、恥ずかしさを覚えずには考えることのできない文章をもっているのだが、そこには、身を任せるーーー、優しさーーー、恍惚ーーー、薔薇の園ーーー、別荘ーーー、大理石の階段席ーーー、愛人ーーー、美しき愛ーーー、宝石ーーー、王冠ーーー、おお、わが女王ーーー、名も知らぬ愛しき人ーーー、金ぴかのサロンーーー、美しき上流婦人ーーー、花籠ーーー、肉の宝庫ーーー、金色の入り日ーーー、わが心はおまえを崇拝するーーー、花で一杯のーーー、夕暮れの色調ーーー、上品で薔薇色をした乙女ーーー、などといった言葉、最後には残酷なまでに贅沢なあれらの言葉が、ルビーを嵌め込まれた短刀ならばそうであるように、それらの肉に切り傷をつけるにちがいない言葉が見出される」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)

当時のフランスで歌われる労働歌といえば「インターナショナル」か「ワルシャワ労働歌」かどちらかしかなかっただろうと思われるわけだが、その歌詞がジュネの耳にはこうも違って聴こえること自体、それが美しいからにほかならない。とはいえジュネは個々の労働者を褒め称えているわけではない。彼らの労働運動がフランス国家の秩序に向けて根底から揺さぶりをかけていることを見せつけられ、その暴力的なまでに黒々と渦巻く力が実際にうねりくねりながら動き回る様相を目の当たりにして、そこに倫理的美を発見し動揺してしまう自分自身を感じるからである。「泥棒日記」にこうある。

「すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それですでにそれが美しい行為となることが決る。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起こさせるならば、その行為は美しいのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.24」新潮文庫)

あるいは作品「ブレストの乱暴者」に出てくる、船底で埃まみれになって働くクレルの黒々とした肉体美がそれに相当する。クレルは白人なのだが船底で石炭を扱う肉体労働によって鍛え抜かれている。石炭の灰で黒々として、光の加減で微妙な変化を見せつけつつ様々な陰影を描き出す肉体美は上官であるセブロン少尉の同性愛的嗜好性を刺激して止まない。

「耳の上とうしろの髪の毛を掌で撫でつけようとして、クレルは腕を上げた。虹鱒(にじます)の腹のように青白く張りつめた脇の下を露わに見せる、この彼の動作があまりに美しかったので、士官はもう堪えられないほどの苦悩の色を、その眼にありありと現わした。士官の眼は、もう勘弁してくれと叫んでいた。その眼ざしは、拝跪の姿勢よりもっと卑下していた。クレルは自分の力を意識していた。少尉を軽蔑していたが、以前のように、彼を頭から馬鹿にしたいという気は起らなかった。自分の力が今までとは別の種類のものではないかという気がしていたので、自分の魅力と軽々しくたわむれることは、無駄なような気がしていたのだ。彼の力は地獄に属する力であり、肉体と顔の美しさによって成立する、地獄の領分に属する力だった。女たちが腕や腰の上に襞のある織物をまとって女王然とするように、クレルは身体の上に石炭の粉の存在を感じていた。彼の裸身を触れるべからざるものにする、この一種の化粧品が、彼を神にしていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.124~125」河出文庫)

「豊かで、金ぴかで、ダイヤのように輝く声の間で開花する金木犀と薔薇の花でできたこれらの花飾りのあれこれを昼の間ずっと頭にかぶっているのを知って、哀れな恥ずべき男である私は戦慄を覚える」(ジュネ「花のノートルダム・P.235」河出文庫)

しかしなぜジュネは「哀れな恥ずべき男である私は戦慄を覚える」というだろうか。ともかく当時の劣悪な環境に置かれた労働者は群れをなしている。彼らはジュネたちのように夜に限らず「昼の間ずっと」、終始一貫して「花飾りのあれこれ」に包み込まれているように見える。実際、鍛え抜かれた労働者の身体はその微細な筋肉繊維のことごとくに至るまで陰影深く激しく躍動する。ジュネ的感性にとってはたまらない動作を夜陰にまぎれてではなく、あろうことか真っ昼間に休むことなくリズリカルに律動させている。ジュネは「戦慄を覚える」。ジュネたちの場合はほとんど夜間に限られた淫猥この上ない肉体美の躍動が、まだ陽の高い時間帯であるにもかかわらず、この世にあっていいものかと。

ちなみに日本近代文学でも暗い部分が持つ力について述べた文章は色々とある。それは社会的な意味で「地下的」な部分に自分の領域を持つ労働者であることがほとんどだ。船や鉱山の労働者の場合を上げておこう。第一に有島武郎から。

「突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きできないようん抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のようなassaultに出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、そのassaultを、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥(しゅうち)から起こる貞操の防衛に駆られて、熟しきったような冷えきったような血を一時の体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑(ぶべつ)をきわめて表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初(かりそ)めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気(いき)がかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引(けんいん)の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気(いき)せわしく吐く男のため息は霰(あられ)のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからはdesireの焔(ほむら)がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた」(有島武郎「或る女・前編・P.149~150」岩波文庫)

次に夏目漱石から。

「たださえ暗い抗の中だから、思い切った喩(たとえ)を云えば、頭から暗闇に濡れてると形容しても差支ない。その上本当の水、しかも坑と同じ色の水に濡れるんだから、心持の悪い所が、倍悪くなる。その上水は踝(くるぶし)から段々競(せ)り上がって来る。今では腰まで漬かっている。しかも動くたんびに、波が立つから、実際の水際以上までが濡れてくる。そうして、濡れた所は乾かないのに、波はことによると、濡れた所よりも高く上がるから、つまりは一寸二寸と身体が腹まで冷えてくる。坑で頭から冷えて、水で腹まで冷えて、二重に冷え切って、不知(ふち)案内の所を海鼠(なまこ)の様に附いて行った。すると、右の方に穴があって、洞(ほら)の様に深く開いてるから、水が流れてくる。そうしてその中でかあんかあんと云う音がする。作事場に違いない。初さんは、穴の前に立ったまま、『そうら、こんな底でも働いてるものがあるぜ。真似が出来るか』と聞いた。自分は、胸が水に浸るまで、屈(こご)んで洞の中を覗き込んだ。すると奥の方が一面に薄明るくーーー明るくと云うが、締りのない、取り留めのつかない、微(かすか)な灯を無理に広い間(ま)へ使って、引っ張り足りないから、折角の光が暗闇(くらやみ)に圧倒されて、茫然と濁っている体(てい)であった。その中に一段と黒いものが、斜めに岩へ吸い附いている辺(あたり)から、かあんかあんと云う音が出た。洞の四面へ響いて、行(ゆ)き所のない苦しまぎれに、水に跳ね返ったものが、纏(まと)まって穴の口から出て来る。水も出てくる。天井の暗い割には水の方に光がある」(夏目漱石「坑夫・P.269~230」新潮文庫)

これらはいずれも、時系列を知らない「増大する力の感じ」というものが、ほとんどの場合非日常的な「暗闇」で生産されていることについて述べられたものだ。ただ単に女性の性欲の表現だとか過酷な鉱山労働の現場のルポに過ぎないわけではまったくない。近代日本の資本主義創成期において、ニーチェ=フロイトのいう「エス」はそのような場で顕著に見ることができたということが一点。さらに重要なのは、「或る女」の葉子にしても「坑夫」の主人公にしても、どちらもこの「暗闇」を通過することでその後の人生ががらりと変わるという点で共通していることを見極めることができるだろう。そして近代日本はこのような「暗闇」を通過し保存することなしに増殖することは不可能だったことに留意すべきである。力は常に「地下的なもの」として存在したのだ。
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さて、アルトー。人間存在の平面はただ一つではなくまた「別の平面」が存在すると述べる。しかしそれは疑似的なルアーのようなものに過ぎない。引っかかってはいけないとアルトーはいう。

「しかし人間存在には別の平面が存在し、それは薄暗く形を成さず、そこに意識は侵入せず、この平面は無明の広がりや、場合によっては、脅威のような何かで意識を取り囲む。そしてこれもまた冒険的な感覚や知覚を出現させる」(アルトー『タラウマラ・P.42~43』河出文庫)

意識はいつも想像力を行使する。アルトーが警戒すべき「別の平面」というのは「病んだ意識を犯すあつかましい幻想」であって、ともすれば人間はついそちら側へ吸い込まれそうになる。そこでもしペヨトルの正当な取り扱い方を用いることができるのであれば、その場合に限り、「病んだ意識」のおもむくまま「数々の偽の感情や知覚」の側へどんどんはまり込んでいくことを阻止することができる。

「それは病んだ意識を犯すあつかましい幻想なのだ。意識は、もし何も自分を引き止めるものが見つからなければ、それに身を委ね、まるごとそこに溶けてしまう。そしてペヨトルはこの恐ろしい方面で、<悪>に対する唯一の防壁となるのだ。私もまた数々の偽の感情や知覚を経験し、それを信じ込んだことがある」(アルトー『タラウマラ・P.43』河出文庫)

ところでしかし「病んだ意識」とは一体どんな意識を指して言われているのだろうか。アルトーの場合、数千年に渡って成し遂げられたステレオタイプな意識、盲目的に凝り固まった固着的意識、端的にいえば「国家装置」である。たとえばドゥルーズとガタリのいう「国家(パラノイア=病的固着)」からの《逃走線としての》「分裂症(スキゾフレニー)」的態度といった戦略はアルトーを大いに参照している。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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言語化するジュネ/流動するアルトー131

2020年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネはディヴィーヌの態度について「軽々しく」と述べる。

「ディヴィーヌは軽々しくこの夜の蛾の暮らしを受け入れている」(ジュネ「花のノートルダム・P.233」河出文庫)

なぜ「軽々しく」なのか。「軽やかに」でないのか。当時(一九三〇年代〜一九四〇年代)も今(二〇二〇年代)も変わる必要性のない表現や変わっているべき表現であるにもかかわらずなぜか変わっていない表現は大量にある。そしてディヴィーヌやジュネたちを取り扱うに際して、文学という制度は実はそれほど変わっていない。ジュネは大衆文学の中で用いられる言語表現について言及している。けれども、純文学という制度の枠内でもディヴィーヌやジュネたちを取り巻く状況は世界的規模の変化をこうむったにもかかわらず、「軽やかに」ではなく、相変わらず事情は「軽々しく」といったレベルの認識でしかないのだ。その意味でジュネは正当にも大衆文学の表現の側に親しみを示している。ジュネたちを言語の用い方次第でいとも容易に変容させて見せる力は純文学ではなくむしろ大衆文学の表現の中にあることを知っている。とはいえ、それはあくまでフランスを始めとするヨーロッパでの話。逆にアジア、とりわけ日本ではつい最近に至ってなお、LGBT差別を扇動する態度を擁護する態度を示したとして有名出版社が指弾され言論の自由を標榜する月刊誌が廃刊に追い込まれたことは記憶に新しい。それがジュネ作品の中でも最高傑作と評される「泥棒日記」を出版し続けてきたのと同じ出版社だったことは日本文学界といったものが今なおどれほど脆弱で、言論の自由を目指しながら逆に言論の不自由を実現してしまったかの好例をまた一つ重ねて証明することになった。その意味で今なおニーチェは正しい。

「自然は何も欲しないが、しかし自然はつねに何かを達成する。ーーー《私たちは》何かを欲して、《つねに何か別のものを達成する》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七二五・P.356」ちくま学芸文庫)

さらに。

「人のもたなくてはならぬものが一つある、生まれつき軽やかな心か、芸術や知識によって《軽やかにされた心》かである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・四八六・P.424」ちくま学芸文庫)

残念ながらそのような風土はまだまだ日本には根付いていない。身振り仕ぐさの効果に戻ろう。

「彼女は、まずは少しばかりアルコールで、それからネオンの光で、だがとりわけオカマたち全員の身振りの妖艶さと華々しい言葉でほろ酔い気分になっている」(ジュネ「花のノートルダム・P.233」河出文庫)

ディヴィーヌはジュネほど完成された同性愛者でない。仲間たちが自分の周囲で鏡像のように目くるめく変化していきその無限に燦爛する身振り仕ぐさがディヴィーヌの身振り仕ぐさと一致するときディヴィーヌもまた彼らを通過し彼らはディヴィーヌを通過する。互いが互いに成り合い姿形を取り換え合う。瞬間ごとに彼らは生成を駆け抜ける。だからといってディヴィーヌたちは「狂気」におちいっているわけでは何らない。日本でも一九七〇年代移行、統合失調症の研究で判明してきたことがある。たとえば路上でも職場でもトイレでもどこでも構わないが、友人知人と姿形が「似ている」人間とふいに出会った場合、患者でない人々は友人知人《として》「認識する」がゆえに「人違い」といった失敗を演じて恥をかく。けれども患者の場合、「似ている」がゆえに「ますます怪しい」と「認識する」がゆえに間違いなく友人知人であるにもかかわらず「人違い」するという事態がしばしば起こる。なぜそうなるのか。この逆説的傾向は人間の脳細胞を幾らほじくり返してみても解答が得られない問題でもある。問題は脳細胞にあるのではなく、人間が事物を認識するとはどういうことか、に関わる根本的問題であり、人間による事物の認識はいつも「原因と結果の取り違え」を通してしか得られないという事情による。

「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四七九・P.24~25」ちくま学芸文庫)

もっとも、問題《としての》「数字」に関しては後で述べる。ディヴィーヌはジュネと共同でマルチェッティをあちこちに想像して世界中にばらまいた。しかしどのようなマルチェッティであっても、それらが美しくあるためには条件がある。

「ディヴィーヌと私にとって、美しいマルチェッティたちの運命がいったい何だというのか、もしそれが、私を偉大にしたわが冒険から舞い戻って、私が何を耐え忍んだのかを思い出させないならば」(ジュネ「花のノートルダム・P.234」河出文庫)

美しいマルチェッティとは要するにジュネたちが考える「冒険」からの帰還者でなくてはならない。ところがそのような人間は大抵の場合、市民社会が持っていてその都度変化していく「道徳」によって「犯罪者」として取り扱われてしまうことが少なくない。かつて裁かれた人々は今では裁かれず、かつて裁かれなかった人々が今では裁かれている。この珍妙極まりない「道徳」という発明品。その効果は今でも有効活用されている。主に裁判所によって。

「社会、私たちの飼い馴らされた凡庸な去勢された社会、それは、山のなかから、ないしは海の冒険からやってくる野生の人間が必然的に犯罪者へと変質するところである」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・四五・P.138』ちくま学芸文庫)

年少の殺人者花のノートルダムはフランス人だが「ドル」という名称にこだわる。「ドル」($)が世界で最も有力な力を持っていた過去のエピソードなのだが。

「まず第一に花のノートルダムの話は現在という時をまどろませる、というのも殺人者が使う言葉さえもが、同じだけの星のように、本物のアクセントでもって『ドル』という言葉を発するあれらの異様なごろつきたちと同じように、あれほど美しいごろつきたちが吐き出していたあれらの魔術的な言葉であるからだ」(ジュネ「花のノートルダム・P.234」河出文庫)

ごろつきどもはいまでも「ドル」($)にこだわっているだろうか。そうではない。もはや「人民元」に追いつかれそうになって苦悶している。しかしこうなるであろうことはとっくの昔にヴァレリーがいっている。

「長い間ヨーロッパに有利に傾いているようにみられていたバランスが、《ヨーロッパ自らが招いた結果として》、徐々に反対側へ傾き始めたことを、私は指摘した」(ヴァレリー「精神の危機」『精神の危機・P.25』岩波文庫)

そして次の項目はすでに実現された。

「大国の仲間入りをする国、より古く、より完全な大国がすでに存在する時代にその仲間入りを果たす国はーーー古くからの大国が何世紀もかけて築いたものを駆け足で模倣し、よく考えられた方法にしたがって、自らを組織しようとするーーーそれは人工的に作られた都市がつねに幾何学的な構造の上に建てられるのと似た理屈である。ドイツ、イタリア、日本はそのようにして、隣国の繁栄や現代の進歩の分析がもたらした科学的概念の上に作られた、後発の国家である。もし国土の広大さが全体計画の迅速な実施の障害とならなかったら、ロシアも同様の一例を示すものとなったであろう」(ヴァレリー「方法的制覇」『精神の危機・P.73~74』岩波文庫)

さらにネット社会の実現はもはや桁違いのより一層深刻な問題を生み出した。新型ウイルス問題を受けて日本中のマスコミは挙げて資本主義的生産様式をグローバル体制に合わせて整えるよう呼びかけている。今の日本政府が強引に押し進めるキャッシュレス化のためのスマートフォン購入の勧め。どのマスコミも時間を割いて一斉に呼びかけるので視聴者にすればまるで一揆のようで失笑してしまいそうだ。スマートフォンへの買い替え勧誘なら家族が持っている携帯電話に毎日のように入ってくるし、さらにマスコミ報道による執拗な追い討ちのため消費者の側ははっきり言ってノイローゼ気味なのだ。しかも日本政府のいうようには、そう簡単に「働き方」を変えることができない職業や部署は膨大にある。そんなことも知らないのだろうか。個人的な使用環境をいえば、パソコンは今のところ必須である。その上さらにスマートフォン購入ならびに月々の使用料金が重なるとうちのような低所得者層は餓死するほかない。そして低所得者ではないものの子どもの養育費や自動車の維持費でローンまみれになって似たような状況に置かれている世帯は無数である。なぜこれほど日本のマスコミは日本国内の個々の世帯の実状について余りにも知らなさ過ぎるのだろうか。経済を回復させるためにスマートフォンを買わせたいというのだろうが、その前に経済の側が先に回復してくれないとスマートフォンを購入したいと考えている消費者の動きも鈍るのは当然の帰結である。何が何でも買わないと決めているわけではないのだから。ヴァレリーからもう一節引いておこう。

「我々が生きる現代世界は、自然エネルギーをより有効に、より広範囲に利用することに鎬(しのぎ)を削っています。絶えざる生活の必要を満足させるために、自然エネルギーを探索し、消費するばかりでなく、浪費するのです。浪費することに夢中になって、新たな使い道(これまでに夢想だにしなかった用途まで)を創造し、かつて存在しなかった新しい欲求を満足させる手段を考え出すのです。我々の工業文明においては、すべてが、何か新しい物質を発明すると、その物質の特性を念頭に、その物質で治療できる新しい病気、その物質でいやすことのできる渇き、その物質で鎮静できる痛みを発明するような具合に事が進行するのです。したがって、我々は、産業の繁栄のために、我々の内面から湧き起こってくる生理的な欲求とは無関係な、意図的に外側から圧しつけられる心的・感覚的刺激に由来する様々な趣味や欲望を吹き込まれるのです。現代人は浪費に酔う人々です。過剰な速度、過剰な照明、強壮剤・麻薬・興奮剤の濫用ーーー、印象における頻度の濫用ーーー多様性の濫用、共鳴の濫用、安易さや驚異の濫用、そして、驚くべきスウィッチの濫用は、子供の指一本で途方もない事が引き起こされるという状況を生んでいます。現代の生活はすべて以上に列挙した濫用と不可分です。我々の感官は、力学的・物理学的・化学的な種々の実験にますます曝されるようになり、そうした外から圧しつけられる力や律動に対して、《陰険な中毒症状》に対するような反応をします。毒に適応し、やがて毒を要求するようになるのです。そして服用量が日々不足に思われてくるのです」(ヴァレリー「知性の決算書」『精神の危機・P.188~189』岩波文庫)

スマートフォンは次々と新しい機種を出して古い機種を使い物にならなくすることで消費者からどんどん金を吸い上げていくわけだが、テレビ報道を見ていると、便利になればなるほどヴァレリーのいう「スウィッチの濫用は、子供の指一本で途方もない事が引き起こされるという状況を生」む、というテロに対する危機管理意識がまったく隠されてしまっていると言わざるをえない。さらに「外から圧しつけられる力や律動に対して、《陰険な中毒症状》に対するような反応をします。毒に適応し、やがて毒を要求するようになるのです。そして服用量が日々不足に思われてくる」とあるのは、日本政府が推奨する「IR誘致」とそれに絡んで発生した「IR収賄疑惑」と密接に接続された問題なのである。
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さて、アルトー。人間の意識は安全な範囲がどこまでか知っている。けれども無限に与えられた想像力によってどこまでも危険な領域へはまり込む危険性をあわせ持つ。

「意識はとりわけ自分という存在がどこまで行くか、どこまでまだ《達していない》か、《どこまでは行く権利を持たないか知っている。さもなければ非現実、幻覚的なもの、成就されていないもの、準備されていないものに陥ってしまう》」(アルトー『タラウマラ・P.41』河出文庫)

ペヨトルの持つ「良い」効能は、人間がしばしば犯しがちな非現実的で危険な創造物を与えない、という効果が期待できることだ。

「通常の意識によって到達できず《シグリ》によってのみわれわれが到達できる一つの平面の上にある。これはあらゆる詩の神秘そのものである」(アルトー『タラウマラ・P.42』河出文庫)

シグリというのはペヨトルを用いた祭儀のことを指す。また、「一つの平面の上」とある。この場合の「一つの平面」は「一つの次元」に置き換えて読むことができる。たとえばラヴクラフト作品の記述では次のようにも言える。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

当時はドラッグを用いてその経験上何かものを書くという小説家が少なくなかった。ところがボードレールが実際に様々なドラッグを試してみて述べているが、ボードレール自身、その結果はあまりかんばしくないと結論づけている。アルトーがペヨトルにこだわるのはニーチェのいう「別様の感じ方」を実感するためというより、世界は「別様の感じ方」で捉えることができて「こうにも見える」と言いたいがためだけではけっしてなく、遥かに広い意味で、むしろゴッホの絵画がそうであるように、見えているものの形が自分には受け入れることができないため「意識的にぐにゃぐにゃにひん曲げて描く」という態度の大切さを論じているのである。ゴッホの描く部屋はぐんにゃりとひん曲がって描かれている。それでいいではないか。ゴッホはぐにゃぐにゃにひん曲げて見せたかったわけだからだ。そこにゴッホの絵画が他の画家の絵を凌駕して余りある切迫感と迫力と奇妙な現実味すらもが与えられている。
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なお、「数字」について述べると言っておいたので述べよう。数字は必要だ。ニーチェに言わせれば「必要な粗雑物」の一つだ。

「数は、世界を私たちの扱いやすいものとするための、私たちの大きな恒常手段である。私たちは、私たちが数えうるかぎりにおいて、言いかえれば、なんらかの恒常性が知覚されうるかぎりにおいて、〔世界を〕把握する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一八八・P.114」ちくま学芸文庫)

そうして数字を信用することで世界が転倒しているにもかかわらず、信用に耐えうる限りで世界中の人々は転倒しないで済んでいるのである。世界は数字に対する盲目的信用によって計測されまたそれに依存する限りで成立しているたいへん不安定な可能的世界でしかない。法則は不在なのだ。メイヤスーはいう。

「いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものではあれ、それを滅びないように護ってくれる高次の法則が不在であるからなのである」(メイヤスー「有限性の後で・P.94」人文書院)

しかしメイヤスーは、ヒュームが述べたようなあらゆる有機的結合の偶然性にもかかわらず、なぜ世界が崩壊しないのかという問題圏に踏み込んでこう述べる。

「『カントの問題』とでも呼びうるような問題、すなわち自然の数理科学は可能かという問題を《思弁的に》定式化しなおすことの意義」(メイヤスー「有限性の後で・P.211」人文書院)

簡略化していえば、メイヤスーは「数学」ということだけは特権的に保存している。カント的次元にしたがって議論を進めるとすれば命題は次の二つに区別される。第一に。

「カントの問題の思弁的解決は、祖先以前性をめぐる(あるいは隔時制をめぐる)問題の事実的解決を前提とする。言い換えればそれは、あらゆる数学的言明はーーーそれが数学的である限りにおいてーーー必然的に真であることはなく、絶対的に可能的なものにとどまるということを立証せねばならない、ということだ。つまりそれは、数学的に思考可能なものは絶対的に可能である、という先にも述べたテーゼを、事実論性の原理から導き出しつつ立証せねばならないということである」(メイヤスー「有限性の後で・P.211」人文書院)

第二に。

「私たちは因果的連結の問題をめぐる考察に立ち戻るのだがーーーカントの問題は思弁的な解決を前提とするものの、もはやそれはヒュームの問題においてそうであったような、《たんに仮説的な解決ではない》。というのも、ここではーーーあらゆる自然科学の条件であるーーー自然法則の《安定性が絶対化可能である》と想定することの正当性を、等しく確立しなければならないからだ。すでに述べたように、経験科学が現に可能であるとすれば、それは自然法則からもたらされる事実が安定したものであるからだ。だが、ここでの私たちの理解によれば、もしも現代のプトレマイオス主義から断固として手を切ろうと欲するなら、このような安定性は思考から独立した事実として立証されなければならない。よってここで立証せねばならないのは、自然法則がみずからの事実的な安定性を、時間性がもつそれ自体絶対的な固有性、私たちの存在とは無関係な時間の固有性からーーー引き出しているということである。ここであらためて、数学の思弁的な射程を、しかし先ほどとは異なったしかたで立証することが問題となる。ここではもはや、絶対的《ではあるが》仮説的な射程を何らかの数学的言明から導出することが問題なのではない。そうではなく、絶対的で《なおかつ条件なしに必然的な》射程を、ある《特定の》定理から導出することが問題なのであり、そのことによって、超限数による非全体化を主張できるようになる」(メイヤスー「有限性の後で・P.211~212」人文書院)

だからといって「偶然性の必然性」というテーゼが崩壊するわけではまったくない。むしろカント的問題をやり直すことで「新しい唯物論」=「思弁的実在論」の地平を思考することが可能になると述べているのである。

ところで、アメリカ大統領選挙の年だが、以前述べたようにトランプ大統領とオバマ大統領との「対立」があるわけではない。多くの人々はまたしても見当違いを犯している。その意味で日本のマスコミの無責任報道は限度を逸している。

「《さまざまな対立を見る習慣》。ーーーふつうの不精確な観察は、対立が存在するのではなくて程度の差があるにすぎない自然の至るところに対立(例えば『温暖と寒冷』といった)を見る。この悪習は更にわれわれを誘いこんで、こんどは内的自然、つまり精神的、道徳的世界をもこうした対立にしたがって理解し、分析させるに至った。こうして、段階的推移のかわりに対立を見ると思いこむことによって、言い知れぬ多くの苦悩、傲慢、苛酷、疎隔、冷却が人間の感情のなかに入りこんできたのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・六七・P.325」ちくま学芸文庫)

アメリカ共和党とアメリカ民主党との違いは「程度」の違いでしかない。だから以前述べたように「トランプのアメリカ」と「オバマのアメリカ」があるだけなのだ。共和党政権から民主党政権へ移行したからといって「沖縄基地問題」、「北方領土」、「拉致問題」、「老後資金二〇〇〇万円問題」、「IR収賄疑惑」等々が消えてなくなるとでも言うのだろうか。もし仮に民主党へ政権交代したとしても日米地位協定はびくともしない。むしろトランプ政権が継続してより一層アメリカの強硬姿勢が発揮されればされるほどグローバル資本主義は加速主義的な意味で自爆に近づくことは確かだ。なるほどそのとき日本はアメリカと心中しなくてはならなくなるが。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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BGM増加について。京都生まれ京都育ちの立場から言わせてもらえば、こちらから行かないのに向こうから来てもらえるなどと考えるのは思い上がり以外の何ものでもない。他の地方都市に比べれば京都はなるほど恵まれているかもしれない。とはいえ、京都に来てくれる外国人観光客は東京都にも行くことが多い。一方、「商都大阪」といったキャッチフレーズが流行しただけでなく実際に機能したのは戦前のエピソードに過ぎない。今や首都も商都もどちらも東京都の独占状態にある。にもかかわらず大阪の人々の様子を見ていると危機感がほとんど感じられないのはどうしてなのか。在阪マスコミ各社に問題があるのかどうかよくわからない。取りあえず先日から選曲を随分変えてみた。旧ユーゴ空爆はアメリカ主導だが空爆実行に当たって財政面で支援した先進国は日本だからである。さらにその想定外の破壊力はバルカンだけに留まるものではけっしてなかったからだ。

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言語化するジュネ/流動するアルトー130

2020年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
花のノートルダムとけちなミニョンは得意分野がそれぞれ違う。後でばったり出会い、お互いの「戦利品あるいは戦果」について大いに語り合う。その動作はたちどころに恋人同士の二重奏を奏でつつ進行するほか知らない。といってもノートルダムとミニョンは性交するわけではない。

「ノートルダムとミニョンは彼らの二つの想像力を互いにくるみ合うのだった、二つのヴァイオリンがメロディーをつま繰るように、ディヴィーヌが自分の客たちの嘘に自分の嘘を巻きつかせるように、花飾りで互いを飾り合った」(ジュネ「花のノートルダム・P.228」河出文庫)

口数が多いとか少ないとかはどうでもいいことだ。二人はほぼ半日をかけて街頭で見極め漁ってきた獲物を手に入れる方法について身振り仕ぐさで示し合う。それだけでも二人が織りなす冒険的生活は途方もない想像力を得て爆発的に拡張され二人をさらなる別世界へと誘惑する。

「あげくの果てにはブラジルの原生林のつる草の茂みよりもっと濃密なガラクタの山を形づくるほどだったが、二人とも自分自身のテーマを追い求めているのか、相手のテーマなのか、確信がもてなくなっていた」(ジュネ「花のノートルダム・P.228~229」河出文庫)

人間の対話というものは変化する。最初は明確なテーマがある。たとえばミニョンの場合、金になりそうな新しい女を見つけて上手く誘導して、ミニョン自身が新しい女のヒモとして生まれ変わるというテーマが。一方、ノートルダムの側は女のヒモになることなど眼中にない。場所はフランスだが、もっぱらドルに換金できる物品の窃盗が当面のテーマである。ところが人間同士のコミュニケーションはいつも必ず不完全にしか行うことができない。言語を介在させるしかない。すると対話を重ねるごとにテーマ自身が変化していくという「魔法のような」現象が出現して混同されるといった事態が生じる。

「これらのゲームは意識的に行われていたが、欺くためではなく、魔法にかけるためだった。それは土手の日陰や、生温くなったクリーム入りコーヒーを前にして始められたが、売春宿の帳場にいたるまで続行された」(ジュネ「花のノートルダム・P.229」河出文庫)

なぜ「売春宿の帳場」なのか。ミニョンは金になる女のヒモとして生計を立てていたので、その頭一つ秀でた計画的頭脳を買われたからだろう、ヒモたちの集まる一箇所の「売春宿の帳場」で人間たちの出入りを監視する役目も持っていた。そこへ話のつきないノートルダムも付いていったに過ぎない。「売春宿の帳場」には私服の警察官もときどきやって来る。作品「ブレストの乱暴者」の中で淫売屋「ラ・ファリア」に警察官マリオがしばしば出入りして情報交換し合っていたように。「ラ・ファリア」を切り盛りしている女将リジアーヌは亭主から店を任させた形になっていた。亭主は店を買うことはできたが経営者としては失格者だった。ではなぜリジアーヌの亭主は「ラ・ファリア」を買うことができたのか。一九一八年のことだ。

「フランス戦線へやってきたアメリカ兵たちに、隠匿物資を横流ししたり、女を取持ったりして、彼は財をなし、《ラ・ファリア》の店を買うことができた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.42」河出文庫)

第一次世界大戦終結直前のどさくさに紛れて買い取ったわけである。ちなみに翌一九一九年(大正八年)に戦争は終結するが、ヴェルサイユ条約で日本が得た権益は中国山東省の一部に限られることを確認するに終わった。さらに一九二二年(大正十一年)ワシントン会議では米英中の思惑通り議事進行し、日本は山東省でいったん獲得した利権もほとんど剥奪される(「山東懸案解決に関する条約」)。すべては欧米中といった列強間で進められたというべきだろう。とはいえ、どさくさ紛れに中国へ軍事侵攻したのは日本軍なのだが。このときの中国側の代表は国民党(蒋介石率いる中華民国、今の台湾政府)であり、日本がいったん手に入れた権益をほとんどまったく無視したのもまた当時の国民党(蒋介石率いる中華民国、今の台湾政府)である。アメリカと中国との「いちゃつき」という隠語が今なお人々の口にのぼるのはこうした歴史があったからであり、今ではもう動かしようのない歴史的事実を無視したところで語ることは決してできないからだ。

しかし問題はこのような外交の進展が一般に「大正デモクラシー」と呼ばれる時期に当たっている点である。時の日本政府は実質的に薩長閥で占拠されていた。それに抗議して発生してきた印象の強いデモクラシー運動だが、民主主義を求めるというより、実際は薩長閥によって組織され朝鮮半島から中国大陸まで軍事進出し多数の死者を出したにもかかわらず、第一次大戦の「土産」がほとんどごく僅かでしかないのは余りにも粗末過ぎるのではないかという政府の無能力に対する一般大衆の激怒と薩長閥内閣の打倒を目指す反薩長勢力による対抗運動だったという内容を重視すべきだろう。なぜ民主主義が必要とされたか。薩長閥で占められた無能な日本政府を選挙制度によって叩き潰すことが目指されていたということであり、実際に戦場へ赴き多数の死者を出した一般大衆からすれば、戦争の果実をいともたやすく欧米中に持っていかれたルサンチマン(復讐感情、劣等感)を結集し選挙制度によって薩長政府を正当に葬り去るという目標が立ったからである。ところが翌一九二三年(大正十二年)、関東大震災発生。薩長政府はこれまたどさくさ紛れに大杉栄虐殺事件を起こす。しかし大杉事件の影に隠れる形でもっと多数の武力弾圧が実行された。たとえば「亀戸事件」。当時の世相ではただ単に一個の労働組合に過ぎない南葛飾労働会所属の組合員数人が惨殺されて荒川河川敷に放置された。日本の官憲は拳銃のある時代にあえて刃物による刺殺だけでなく、組合員を素っ裸にした上で首を切り落として斬首するという日本のお家芸を見せつける。当時はすでに写真撮影が取り入れられており、被害者数人の胴体と首とが切断されて河川敷の離れたところにばらばらに放置された写真が保存されている。それはそれとして、そもそも日本の官憲の猟奇趣味はいつ頃から始まったか。猟奇的な嗜好性なら原始時代からどこの世界にでもあったわけだが、日本の公的機関による猟奇趣味的見せしめの乱用という点に絞っていえば、それは明治維新の少し前から尊王攘夷を掲げて徳川幕府を打倒した薩長土肥とその地下革命軍ともいうべきテロリスト諸党派による天誅の横行が有名。逆に幕府の側の断末魔の悲鳴ともいえる猟奇趣味的措置に水戸天狗党の大量処刑が代表的な事例として上げられる。

さらに現在。日本政府は新型ウイルス対応に苦慮している。だが新型ウイルスに関してはマスコミが時間を大幅に取って大々的に報道しているので政府の言動は国民の目から死角に入りがちだ。しかし問題は金銭や基本的人権に関わることであって、マスコミが幾ら頑張ってもどうすることもできない。「老後資金二〇〇〇万円問題」、「北方領土問題」、「沖縄基地問題」、「拉致問題」等々。今の日本政府がかつての薩長閥のように「お友達内閣」であることは隠そうにも隠せない。新型ウイルス報道が終息に向かえば東京五輪が始まる。というのは逆であって、今の日本政府は東京五輪開催まで新型ウイルス報道で隠蔽しておかなくてはならない諸問題を抱えているからである。五輪が始まってしまえばマスコミは一斉に五輪報道に重心を移動させる。日本政府が抱える多数の疑惑は消えるわけではない。それは今の日本の金融機関の信用制度において「決済」が無限に先送りされるシステムを構築させたように、日本政府が抱え込んだ多数の疑惑もまた無限に先送りされるように宿命づけられた事情に似ている。もっとも、金融機関の場合は契約というものがあり、個々別々には「決済」の時期がやって来る。すべての企業は金融機関を含め信用維持のために契約を果たさねばならない。ところが政治の世界では、「決済」の《ない》先送りという珍妙な態度を取ろうとあがく。政治の言語と資本の価値関係とは異なるので当然のことなのだが、資本が無限の利子を生む過程に似てはいるものの、政治の言語は逆に疑惑のコネクションを暴露していく方向へ傾斜する。金融機関が発表する数字は世界中の経済活動に対する信用維持にとって欠かせない。しかし日本政府が発表する言語はどれほど「ずれ」を生じてきても国内では権力者が用いる暴力やいやがらせによって貫くことができる。だが数字そのものを動かすわけにはいかない。書類の破棄など考えられもしない。政権としてはその時点でアウトである。自浄作用がない。外国ならとっくの昔に弾劾され終わっているような低次元を徘徊している。日本人有権者はなんとやさしいのだろうか。というより、今の政権に逆らうと突然起訴されたりするので誰も口をつぐんでいる。地上の監獄といわれた旧ソ連とどこがどう違うのか境い目が曖昧になってきた。

さらになお、今の日本政府は天皇制を乱用している。裁判で犯罪が裁かれずに犯罪者が裁かれる奇妙さを告発したのはニーチェだが、日本政府が必要としているのは天皇制であって逆に天皇をまるで災害派遣ボランティアのように取り扱ってはばかるところを知らない。天皇は首相の下僕ではない。にもかかわらず許されているのはなぜか。その意味で日本から本格的右翼は消えたと言うべきだろう。
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さて、アルトー。本来なら最初に触れておくべき箇所だったのかもしれない。しかし最後に回すことにした。その理由は自分でもよくわからない。自分で自分自身のことが隅々まで明確に認識できているとすればそれはあたかも「狂人の言葉」として受け取られてしまいかねないという危機感がそうさせたと、部分的にはいえるかもしれない。

「ペヨトルは自我を、その真の源泉に回帰させる。ーーーこのような幻視状態から出てきたなら、人はもはや以前のように嘘と真実を混同することはできない」(アルトー『タラウマラ・P.40~41』河出文庫)

要するにLSDはペヨトルの模造品である。失敗の多いCIAが容疑者を自白させるためにLSDを用いた。容疑者は大いに語った。すべてを語った。時系列を喪失した世界ですべてが語られるとき、嫌疑はその中のどこかにあるはずかまったくないかどちらかなのだが、まず第一にわかることは、あるとしてもどこにあるのかさっぱりわからなくなるということだった。たとえば川の流れの中に一滴の無色の毒薬を落としたとしよう。それはたちまち流れの中へ流れの一部分として溶け込む。そして同じ流れとなってただちに消え去る。CIAが容疑者に自白させようとした嫌疑はLSDのもたらす大いなる「別様の感じ方」によって目的を阻止された。しかしペヨトルはLSD発見の遥か以前からメキシコの少数民族のあいだで主として儀式に用いられていた。なぜメキシコなのか。ペヨトルの自生地がたまたまメキシコの気候に適していたからに過ぎない。

「意識は自分にとって何が良いか、何が無価値か知っている。それゆえ自分が危険を犯さず《有益》なものとして集めることができる思考と感情が何であるか、そして自分の自由の表現にとって有害なものとは何か知っている」(アルトー『タラウマラ・P.41』河出文庫)

ペヨトルはその助けをすることがあっても邪魔をするわけではない。むしろ有益か有益でないかをより一層綿密に見分ける力を与える、とアルトーは述べる。

なるほど一般的な社会ではペヨトル摂取はただ単なるドラッグカルチャー化してしまって堕落した。堕落した社会の中に摂取されたため、ペヨトルによって与えられる「別種の感じ方」までが何かまったく異様で犯罪的なものでもあるかのように取り扱われるようになった。近代社会の到来によってまたしても「別様の感じ方」は排除され破滅されられたのだ。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

とニーチェは声を上げ続ける。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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