白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー13

2019年10月31日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネはただ単なる「オナニスト」だとよく言われる。とすれば他の人間もまたすべて多少なりともオナニストでしかないと言わねばならない。ジュネは想像のうちに勲章授与式のシーンを思い描く。その「理想の勲章」を与えられるのはエリックである。

「自分のうちに私は自分がその授与者であり、発起人であり、たった一人の受勲者でもある騎士(ナイト)の勲章を設けている。自分のうちに浮かび上がるエリックに、私はその理想の勲章(クラシア)を、十字勲章を、爵位を、辞令書を交付する。つまり私の唾(クラシア)を」(ジュネ「葬儀・P.86」河出文庫)

得意なアナロジー(類似、類推)が用いられている。「勲章(クラシア)」=「唾(クラシア)」というふうに。ところでこのアナロジーは「勲章(クラシア)」を貶めるために用いられているわけではない。むしろ等価性を得ている。男性同性愛者として「唾(クラシア)」は「勲章(クラシア)」に等しいからである。とはいえ、ジュネがいるのはどこにでもごろころ転がっている「下宿部屋」の一つに過ぎない。壁には「ヒットラー総統の肖像」が架けられている。それを見てジュネは思う。ジュネの創造への意志は「お尻(いど)の軍団」を出現させる。

「私の身体のなかでいちばん大切な部分は、尻だ。この事実を私は忘れ去ることができない、それほど私のズボンはそのことを意識させる、だってズボンはうちに収めた尻をぴっしりしめつけているからだ。私たちはお尻(いど)の軍団を編成している」(ジュネ「葬儀・P.86」河出文庫)

ジュネのいう「お尻(いど)の軍団」はただちにプルーストのいう「独自の一団」を思わせる。あの、少女たちの力の融合状態を。

「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)

ジュネは静かな興奮に歓喜しつつヒットラーの陰部に想像力を集中させる。ヒットラーの陰部を愛撫し勃起させ、その背後からジュネの男性器をごりごり押し込んでかき回してみたいものだと意志する。「勲章(クラシア)」=「唾(クラシア)」のアナロジーから生じてきた空想なのだが妙に生々しい。

「『ところで総統の陰茎(しろもの)は、どんなぐあいだろう、それをお前さんはどんなぐあいに握りたいのか、横からか、前からか?』」(ジュネ「葬儀・P.87」河出文庫)

このような生々しい想像はドイツでは「失敬」だとされていた。しかし人間は空想の中で何を考えているか、どんな光景を思い描いているかなど他人には全然わからない。ともかく、「失敬」という考えが頭の中に浮かぶ。と同時にジャンのことを忘れて「総統の陰茎(しろもの)」へ意識を集中させていたことに気づく。ジュネはふいにジャンに対する「うしろめたさ」に《なる》。

「失敬な考えが私のなかでこんなふうに問いかける、返答に窮して私は彼の竿から視線をそらし、置き去りにしたことでうしろめたさを覚えているジャンのほうにそれを移す」(ジュネ「葬儀・P.87」河出文庫)

ジュネの情動は変容する。変容する力の移動はジュネの情動の移動そのものだ。といってしまえばジュネは世間一般には理解しがたい何か難解な過程を生きているかのように聞こえる。けれどもジュネの情動とその変容について言えば、世間一般が思い込んでいるような難解さは微塵もない。むしろ一般市民はこのようなことをふだんからごく当たり前にこなしている。無意識の裡(うち)にどんどん進行していく、ということではけっしてない。そうではなく、一般的な人間の意識は余りにも粗雑にできてしまっている上に凝固し固定しステレオタイプ化されてしまっているため、信じて疑わなくなっているだけのことだ。ステレオタイプ化された一切のものをただひたすら盲目的に信じ込んでしまっているために、けっしてジュネのように感じとることができないというに過ぎない。ジュネのように「別様に感じる」ということを自分みずから不可能にしてしまっているのである。それにしても「別様に感じる」力能の持主はなぜこのように迫害されなくてはならなかったのだろうか。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

そして今のところ差し当たりジュネの力能はジャンの死を経て、ジャンの死から獲得した「苦痛」という形態を取っている。

「今や棺のなかに横たわり、黒ずみ、鼻孔はたぶん鉛色に変り、次第に腐敗し、死臭を花の香にまじえているジャンの亡骸(なきがら)を思い浮かべるとき、私の苦痛は折にふれて呼び醒まされ、その都度かき立てられる」(ジュネ「葬儀・P.95」河出文庫)

「苦痛」はいつどこにでも出現する。その都度ジュネはジャンの死から到来して今は自分の裡(うち)に保存されている「苦痛」を通し他の何ものにでも生成変化することができる、という条件を得ている。さらにジュネの裡(うち)に保存されている「苦痛」は、ただ単に保存されるだけでない。キリスト教の教義に従えばそれはこれからもより一層「発酵する」ことを義務づけられていると言わねばならない。キリストのいう「酒」は「発酵する」ものだからだ。なので「皮袋」は新しいものが幾つも準備されていなくてはならない。

「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる」(「新約聖書・マルコ福音書・第二章・P.13」岩波文庫)

「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方(りょうほう)とも安全である」(「新約聖書・マタイ福音書・第九章・P.93」岩波文庫)

「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない」(「新約聖書・ルカ福音書・第五章・P.191」岩波文庫)

したがってジュネの場合、「力への意志」は「苦痛」としての形態を得ているが、苦痛の観念に伴って一挙に出現する残酷さや冷淡さの観念もまた、ジュネが苦痛を呼び醒まされるあらゆる場面でその都度ますます増殖されるほかない。

さて、アルトー。欲望は流動する強度とその絶え間ない生産にほかならず、固定した存在などどこにもないと反復する。

「こうもいわれるし またこういうことができる、つまり意識とは ひとつの欲望、生きる欲望であるというものもあるのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.30~31」河出文庫)

だがアルトーはすでに、「生きる」ということは「糞への意志」を選んだ結果だと述べてしまっている。糞を蓄積し領土化し貨幣化し資本化し戦争機械化することが人間であることの証明であると。そしてそれは日々の報道に接するたびに確信へと打ち固められるもはや疑えない事実でもある。実際、人間は生きている以上、何らかの形で資本主義を支援している。資本主義の脱領土化と再領土化の運動にいつも加担している。資本主義の加担者でない人間などどこをどう探してみても見つけることはできない。たとえば、誰かがコード化されることから逃走しようと脱コード化を計画するとしよう。ところが資本主義は脱コード化した流れをすぐさま公理系化してしまう。資本主義が一方の手で脱コード化するものを他方の手で公理系化するのは同時なのだ。

「言いかえるなら、資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成されるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)

公理系化するということは資本主義の特徴である脱コード化する流れを捉え、資本主義にとって自己破壊的でない安全弁として常に作動する一つの制度へ整理整頓することであって、それは世間一般でいつもふつうに行われている作業の一つに過ぎない。資本主義はそれほどまでに多種多彩な整流器を兼ね備えるに至っている、というより、今や資本主義は脱コード化することと公理系化することとを同じ作業へと還元したのである。

日本での事例として日常生活の中に溶け込んできた公理系の一つを取り上げてみよう。たとえば「デイケア」や「在宅介護」といった制度がそうだ。それは少子高齢化に伴う社会的構造変化に対応した新しい自由な生き方を提示する形式として登場してきた。ところがそれらもまたまたたく間に監視カメラの大量投入によって常に見張られている「管理社会」の試作品の様相を如実に呈してきた。監視カメラの大量投入は高齢者や障害者の生活を守るためというより、逆に高齢者や障害者の生活を常に見張る新しい「管理社会」の実現を徹底させる方向へ貢献することになった。その機能はさらに医療面での数値化を含め、様々な高齢者や障害者をデータバンク化しマーケティングし資本化して種々雑多な生産分野へアイデアを提供し、貨幣交換を通して実際の諸商品と置き換えることにほかならない。

さらに技術面で急速に更新されたスマートフォンは、介護現場や高齢者福祉施設の内部の様子を映し出すことができる機能を備えている。共働きの女性はスマートフォンを持つことで破格のスピードで社会進出を果たしたが、同時にスマートフォンを持つことで家族の動向を一挙に把握しつつ労働も同時にこなしていかねばならないという労苦をもあわせ担うことになった。男社会全盛期の日本では考えられもしなかったスケジュールに忙殺される事態に立ち至った。さらに資本主義的競争戦は加速の一途をたどっている。性別に関係なく「仕事で使える」人材だけが有利な立場を獲得するという状況が次々と新しく改変され創設される。格差はみるみる増大する。ゆえにアルトーは資本主義の公理系にいとも安易に回収されることのない「器官なき身体」を意志し提唱する。

しかしかつての男社会(昭和から平成半ばにかけて)では男性は育児もやらず、家事労働も主婦に任せきりであり、職場の労働といっても多層的要因の蓄積による過労死を招いてしまう今のような重労働ではまったくなかった。むしろ低賃金重労働のほとんどは日雇い労働者任せであって、しかも低賃金重労働に従事する日雇い労働者を差別し嘲笑し、高額の給料を当たり前のように受け取り、住宅地も日雇い労働者の街とは別のところをわざと選んでのうのうと休日を謳歌していた。それが日本の男社会の姿である。ジュネたちの汚辱にまみれた世界は襤褸(ぼろ)をまとっているのでわかりやすい。けれどもスーツを着て歩いているというだけでなぜ日本人はジュネたちと違うなどということができたのか。スーツを着ているという違いはあるにせよ、だからといって、日本の社会人はジュネたちの卑劣さ、裏切り、性倒錯的指向性を持っていないとはまったく言えない。むしろ同じように持っていたし今なお持っている。そしてさらに高度テクノロジーの発展は日本人だけを例外扱いすることを始めから知らない。

「空間についても、可能性についても、私はそれが何だかよく知らなかった、それを考える必要も私は覚えなかった、それらは 一つの欲求の 切迫した必要に直面して 実在し あるいは実在しない 事物を定義するために発明された言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.32~33」河出文庫)

言語について、「空間」という言葉もまた使用価値として有効だ。アルトーは「無限」だけでなく「空間」という言葉の使用にも差し当たり必要性を認める。言葉にしか過ぎないとはいえ、「事物を定義するために発明された言葉」として有効活用するにこしたことはない。アルトーは言語を巧みに用いて逆に身体のありようを創造し直そうと試みるのである。

「この欲求とは観念を、観念とその神話を打ち消し、そのかわりにあの爆発的な必要性の 雷鳴のような表出を 君臨させようとする欲求である、私の内部の夜の身体を拡張すること」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.33」河出文庫)

ステレオタイプ化され神話と化しているあらゆる既成概念をぶち壊しにかかるアルトー。そのためには器官なき身体に《なる》ことが必要だ。しかしそれは具体的には何をどのように行為することをいうのか。たとえばフロイトのいう「死の本能」についてだが、すべての人間はいつも自殺を目指しているということを意味しているのではない。自殺を意志しているということではない。そうではなく、「死の本能」という概念は、死もまた「欲望の主体」として絶え間なく「欲望を生産している」という事実を認識することが重要なのだ。だからドゥルーズとガタリは、器官なき身体のことを<強度=ゼロ>というのであって、死ぬことだとは言わないしそもそも自殺することではないのである。むしろ前回触れたように「カタトニー的な分裂症」(無動性、拒絶性、無言性)といってみたり、<強度=ゼロ>としての「自閉症」といってみたりして、器官なき身体の具体的な様相を強調している。器官なき身体を主張するアルトーは、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神を告発せざるを得ない。アルトーにとって神は無理やり有機体化を迫る強姦加害者でしかない。

「器官なき身体は叫ぶ。おれは有機体を強いられた。不当にもおれは折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。神の裁きは、器官なき身体をその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。まさに器官なき身体が地層化される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.326」河出文庫)

いま、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神、と述べた。けれども宗教はどんな宗教であれ、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神、を持たない宗教はないと言わねばならない。その意味で今の世界は「神々」に満ちていると告発されねばならないだろう。そして宗教戦争は今なお「道徳戦争」でもある。日本を忘れアジアを忘れアフリカを忘れ中南米を忘れることに忙しい日本人の中で、アメリカにばかり媚びる人々がいつも口にする「国際社会」とかいう馬鹿げた道徳共同体が、さらなる流血を、さらなる殺戮を、さらなるホロコーストを、準備するのだ。「道徳」の名において。信仰の証として《貨幣》を要求する諸宗教。諸宗教はもうとっくの昔から「資本の神」《として》「資本を守護」していたのである。

「もろもろの宗教戦争と並んで絶えず《道徳戦争》が行なわれている。これは、一つの衝動が人類を《おのれの支配下に置こう》と欲しているということにほかならない。そして諸宗教が死滅すればするほど、この格闘はそれだけますます《血なまぐさく》なり《目に見えるように》なるであろう」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七一七・P.350」ちくま学芸文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー12

2019年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネの美少年愛には或る特徴が見出される。ジュネ自身もそれをよく自覚している。

「私は十三歳から十五歳くらいの若造に惹かれる。彼らのやさしさに惹かれるのだ。彼らと正反対の死刑執行人にたいする憎しみを通じて彼らに惹かれるのだ。彼らのうちにある自分がかつてそうであったところのものに惹かれるのだ、すなわち明るい眼と、真面目な口もとをした、金髪の少年」(ジュネ「葬儀・P.85」河出文庫)

このプロフィールは「泥棒日記」の中で幾らか詳細に書かれている。まだ思春期だった頃のジュネは憐れだっだ。

「司法記録のためのわたしの写真が二葉見つかった。その一つでは、わたしは十六歳か十七歳ぐらいである。人民救助局支給の上着の下に、破れたジャケットを着ている。わたしの顔容はきわめて純正な楕円形(だえんけい)であり、今では記憶にない喧嘩(けんか)の際に拳骨(げんこつ)でなぐられたために鼻は潰(つぶ)れている。眼はすべてに倦(う)み疲れたような、悲しげでいて熱烈な、非常にまじめな表情をしている。髪の毛は濃くて、乱れている。この年齢の自分の顔を見たとき、わたしはほとんど大声でわたしの気持を吐露した。『かわいそうに、まだ若いのに、ずいぶん辛い思いをしたんだなあ』わたしは同情をこめて、自分とは別のジャンという子についてそう呟(つぶや)いた」(ジュネ「泥棒日記・P.118」新潮文庫)

しかし大人になってからのジュネにすれば「十三歳から十五歳くらいの若造」は「たいそう異質である」。ただ単に《異質におもえる》というだけでなく、実際、《異質である》。もし同じであったとすればかえっておかしいだろう。人間は変化するものだからだ。

「彼らはまた私にとってたいそう異質である。こちらは大人だ。長靴をはいた大人。私の視線は彼らの視線と別の高さにある。彼らを見るときは下へ向かう。彼らにたいして私は愛情をおぼえる」(ジュネ「葬儀・P.85」河出文庫)

ジュネは「十三歳から十五歳くらいの若造」に「愛情をおぼえる」。そのあいだには年齢を基準とした落差あるいは差異が横たわっている。

「もう一つの写真では、わたしは三〇歳である。わたしの顔は厳(いか)つくなっている。顎骨(あごぼね)が強く張り出ている。口には苦い、意地悪な表情がある。眼は依然として非常に優しいが、わたしは無頼漢の顔つきをしている。それにこの眼の優しさも、官衙(かんが)の写真師に凝視することを命じられたために、よほど注意して見ないと気がつかないだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.120」新潮文庫)

もはや三〇歳となったジュネが「十三歳から十五歳くらいの若造」(美少年にかぎる)を眺め下ろすとき、そこにあるのは途方もない深淵であり、両者がもはや「和解しえない諸対立に分裂したことの告白である」。

「国家はけっして外部から社会におしつけられた権力ではない。同様にそれは、ヘーゲルの主張するような、『人倫的理念が現実化したもの』でも『理性が形象化し現実化したもの』でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決しえない矛盾にまきこまれ、自分ではらいのける力のない、和解しえない諸対立に分裂したことの告白である。ところで、これらの諸対立が、すなわち相対抗する経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会をほろぼさないためには、外見上社会のうえに立ってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわくのなかにたもつべき権力が必要となった。そして、社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしてますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である」(エンゲルス「家族・私有財産および国家の起源・P.221」国民文庫)

けっして取り消すことのできない断層がすでに出来上がってしまっている。けれどもジュネは生成変化することで両者のあいだに横たわる断層の中をすり抜け「痛み」を通して「痛みのさ中に」自由の感覚を獲得する。ジュネはまず「徹底した悪人に《なる》」。それは同時に「愛する相手を、美しい若者を殺めてしまいたいと思う」人間に《なる》ことでもある。

「死刑執行人を見るときは振り仰がねばならない。いっそう大きい痛みをとおして彼らにたいする己れのいっそう深い愛を味わうために、こちらは徹底した悪人になって愛する相手を、美しい若者を殺めてしまいたいと思うことがある。その痛みのさ中に自由の眩しい実感を見出したいのだ」(ジュネ「葬儀・P.85」河出文庫)

ところで両者のあいだを媒介しているのは「痛み」である。もっとも、「痛み」には種々雑多な系列がある。それはどれも特権化されることのない等価的な諸商品の無限の系列と同様の状況に置かれている。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

だがしかし、ジュネはジャンの死という決定的な契機をすでに通過している。その意味でジュネは他の「痛み」を排除し他の「痛み」から排除される特権的な「痛み」を手に入れる資格を有しているといえる。それは「痛み」という名の諸商品の無限の系列の中から唯一の特権的「痛み」だけを出現させ実現する「力への意志」へジュネ自身が《なる》ことを意味している。特権的な「痛み」とは、諸商品の無限の系列でいえば、「貨幣」にほかならない。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.130~131」国民文庫)

また次のセンテンスにあるようにジュネは差し当たり「同一化」といっている。「わたしは英雄的な冒険を捜し求めていたのではなく、最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの自分の同一化ということをわたしは間断なく求めていた」と。けれども「わたしは、恋する男についてシベリヤへ行く若い淫売婦のようでありたい」と願う「淫売婦」の特権化は、すでに貨幣化した「痛み」という「或る強度」が生成変化した表象(姿形)にほかならない。

「この二つの肖像によって、わたしはその頃わたしを駆りたてていた暴々しさをはっきりと思い出すことができる、ーーー十六歳から三十歳にいたる期間、感化院や刑務所や酒場で、わたしは英雄的な冒険を捜し求めていたのではなく、最も美しい、また最も不幸な犯罪者たちとの自分の同一化ということをわたしは間断なく求めていたのである。わたしは、恋する男についてシベリヤへ行く若い淫売婦、あるいは、彼の復讐(ふくしゅう)をするためではなく、彼を悼(いた)んで泣き、そして彼の名を顕揚するために、恋する男の死後も生きつづける淫売婦のようでありたいと思っていたのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.120」新潮文庫)

ジュネは死刑執行人だろうか。それとも思春期のひ弱な少年なのだろうか。あるいはすでに三〇歳になった大人の同性愛者なのだろうか。こういうときほどあえて思考することが重要になる。「これは戦慄だろうか?微笑だろうか?それともその両方だろうか?」と。

「《視覚の二重性》。ーーー君の足もとの水面に突然震動が生じて鱗(うろこ)状の波が走るのと同じように、人間の眼にもそういう不確実さや曖昧さが突然生じることがある。そういうときわれわれは自問する、これは戦慄だろうか?微笑だろうか?それともその両方だろうか?と」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二四八・P.447」ちくま学芸文庫)

ニーチェは「震動」という現象を持ち出して面白いことを述べている。

「君たちはこうしたものが思想だと知ってはいるが、しかし君たちの思想は君たちの体験ではなくて、他の人々の体験の反響なのである。一台の車が通りすぎるとき、君たちの部屋が震動するようなものだ。だが私はその車のなかに坐っているのであり、そしてしばしば私はその車自身なのである」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一〇六九・P.555」ちくま学芸文庫)

ニーチェだけでなく他のどんな思想家や小説家や芸術家の創造的思想信条でも構わないのだが、人間は自分が手に入れたそれら思想信条について所詮は「他者の体験の反響」に過ぎないということをしばしば忘れている。ニーチェは自分の思想が他者に与える震動についていう。震動を起こしたのはなるほどニーチェが乗っている車かもしれない。ところがしばしばニーチェ自身がその車なのだ、と。もしそうなら震動を巻き起こしたのはニーチェが乗っている車なのかそれとも車と化したニーチェなのかどちらなのかわからなくなるかのような錯覚に陥る。しかし震動はまちがいなくニーチェの言葉それ自体である。ニーチェは震動であり今なおしばしば激震である。

さらにジュネはこうも述べている。

「わたしは自分がすばらしい名門の出であると思っていたわけではないが、両親が不詳であったので、自分の生れについていろいろと想像することができた。わたしはそれにさらにわたしのさまざまな惨めさの独異性ということを加えた。両親に棄てられたということだけですでに、わたしには、この境涯を少年たちへの愛によっていっそう悪化させ、それからこの愛を盗みによって、さらに盗みを罪悪または罪悪への狎昵(こうじつ)によってますます悪化させることが自然であるように思えたのだった。こうして、わたしはわたしを拒否した世界をはっきりと拒否したのだった」(ジュネ「泥棒日記・P.120~121」新潮文庫)

この箇所でジュネは「わたしはわたしを拒否した世界をはっきりと拒否した」というジュネ的倫理が、一体どのような過程を経て獲得されたかをありありと描き出している。ジュネにはジュネ固有の「徳」を得る機会があったのだ。それはどこにあったのか。ニーチェはいう。

「私たちは私たちの徳のために最も苛酷に罰せられる。されば、どこに君の徳があるかを推測するすべを、学べ。それは、君が最も苛酷に罰せられたところなのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・六〇三・P.309」ちくま学芸文庫)

したがって今なお人間は意識だけで考えるのではなく、むしろ意識がそのほんの一部でしかない身体全体で考えているのだという事実がより一層明確にわかるだろう。

「私たちは肉体に問いたずねる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.36」ちくま学芸文庫)

「今日でも私たちは、いまだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえする」(ニーチェ「権力への意志・下巻・八〇九・P.325」ちくま学芸文庫)

さて、アルトー。無限について述べる箇所。しかし無限とは「一つの言葉」に過ぎない。

「無限とは何か われわれはそれをよく知らない!それは われわれの意識が 法外な、果てしない、法外な 可能性にむけて 《開かれる》のを 示すため われわれが使う 一つの言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.28」河出文庫)

わからないもの。よく知らないもの。それらを現わす言語記号は様々ある。としても「法外な、果てしない、法外な 可能性にむけて 《開かれる》のを 示すため」に用いられる言葉は一つしかないとアルトーはいう。それが「無限」だ。とはいえ、ただ単に無限だというだけでは何らの具体性もない。だからアルトーは言語に過ぎないと述べるわけだが、このとき、アルトーは言語について部分的には解体を目指していないということに注意したい。糞であり地層であり領土であり法であり貨幣であり資本である「神」という名のステレオタイプ。言語もまた凝固し固定し制度化しステレオタイプ化されたものの一つである。にしても言語ばかりは特権的に保留しておく。アルトーは言語の使用価値を認めている。

「意識とは一体何だろうか。われわれはそれをよく知らない われわれに何か理解できないことがあるとき どの側面において これを理解できないか 示すために 一つの無を われわれは使用する」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.28~29」河出文庫)

「無」もまた無限と同様によくわからないものを指し示すときに濫用されがちな言語の一つだ。無限にしても無にしても濫用されればされるほど、それが実際に《ある》かのようにおもわれてくるのが慣習の持つ不可解な力なのだが、慣習は《強迫神経症的に》何度も繰り返され反復されることなくしてステレオタイプ化は不可能である。ところで強迫神経症的反復はなぜ発生するのか。

「神経症的儀式は、日常生活の一定行為のさい、つねに同じか、あるいは規則的に変更される方法で実行されている細かい仕種、付加行為、制限、規定から成り立っている。これらの行動は、われわれには単なる『形式』という印象をあたえ、いわば、まったく無意味に思われる。これは、患者自身もそう思っていないわけではないが、彼らはこれをやめることができない。というのは、この儀式に違反すればかならず耐えがたい不安という罰を受け、この不安がすぐに、中止したことの埋めあわせを強要するからである。儀式行為自体と同じように、その外見や行動もまた細かく、これらは儀式によって飾り立てられ、難しくされ、それだけにどうしても遅滞しがちになる。たとえば、衣服の着脱、就床、身体的諸欲求の充足などがこれである。ある儀式のやり方を記述するには、これをいわば一連の不文律のようなものにあてはめていけばできる、たとえば、寝床儀式ではつぎのようになる。椅子はベッドの前のこうこうきめられた位置になければならず、その椅子の上には、衣服が一定の順序でたたんでおかれていなければいけない。掛布団は足もとでさしこみ、シーツは平らに伸ばしていなければならない。クッションはかくかくに配置し、体まである正確にきめられた姿勢になっていなければいけない。こうして初めて、眠ってよいことになる。軽い症例では、儀式は、習慣上の当り前なやり方が過度になったものと同じように見える。だが、これを行なうにあたっての特殊な小心さと等閑に付したさいの不安とが、この儀式をとくに『聖なる行為』にさせている、たいていの場合、これを邪魔されることは耐えられない」(フロイト「強迫行為と宗教的礼拝」『フロイト著作集5・P.377~378』人文書院)

すでに儀式化されている。なぜ儀式化なのか。

「儀式は《防衛》ないし《保証行為》、すなわち《保護手段》として始まる」(フロイト「強迫行為と宗教的礼拝」『フロイト著作集5・P.381』人文書院)

人間はありもしない罪責意識(良心の疾(やま)しさ)を感じている。それを自己懲罰によって解消してしまう方法が儀式的行為の反復として出現し定着するに至る。しかし実をいえば、「罰」を与えられることで始めて「罪」が発生するのだ。その逆ではない。「懲罰」以前に「罪」は存在しない。ところで罪責意識(良心の疾(やま)しさ)はいつどのように発生したか。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

で、「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》」としても、そのためには国家が先行して成立していなければならない。国家はどのようにして成立したか。

「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)

要するに、国家の成立は問答無用の圧倒的暴力を起源としている。

「そのとき われわれは 意識といい、意識の側面というのである、しかし他にも、無数の側面が存在する」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.29」河出文庫)

アルトーは意識の多様性について「無数の側面」という。しかしそれは無数の「次元」の出現を目の当たりにすることでもある。ラブクラフトの記述を参照しよう。

「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)

ところでどの宗教にしてもそうなのだが、とりわけ性欲に関する教義はなぜあれほどまでに厳しいのか。不可解におもえてこないだろうか。アルトーはそれを敏感に感じ取っている。人間はいつも性欲の妄想にばかり浸りきっているわけではないしむしろ性欲に身悶えしているような暇な時間は一日のうちでも非常に少ない。なのになぜ宗教はあれほどまで性欲のことばかり気にかけているのか。宗教の教えによって逆に性的妄想がかき立てられるようにできているかのようだ。

「意識は われわれの内部で 性欲に 飢餓に 縛りつけられているようだ。しかし意識が こういったものに まったく 縛られないこともありうるであろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.30」河出文庫)

そして性的衝動を罪として規定した宗教は「罪と罰の意識」を人間に植え付けることに成功した。それ以来人間は性欲に関していつも「《苦しんでいる者》」であるとされただけでなく、人間は性欲に関する「罪と罰の意識」に《常に》苛まれていると信じ込むように誘導された。そして「性欲に関する罪と罰の意識」を通して宗教家は人間を支配しようとする「権力への意志」/「支配への意志」をおもむろに堪能できるように仕向けた。

「《苦しんでいる者に対する支配》が彼の王国である。この支配は彼の本能が彼に命ずるところであり、この支配のうちに彼の最も独自な技倆、彼の卓絶した手並み、彼一流の幸福が示されている。彼自らがまず病気にならなければならず、病人や廃人とすっかり縁者にならなければならない。それで初めて病人や廃人を理解することーーー彼らと理解し合うことができるのだ。しかも一方、彼はまた強くもなければならず、他人に対してより以上に自分に対して支配者でなければならず、わけても不死身の権力意志をもっていなければならない。それで初めて病人どもから信頼され畏怖されることができ、病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.159」岩波文庫)

「彼が医者となるためには、まず傷つけてかからなくてはならない。そこで彼は傷の痛みを鎮めながら、《同時に傷口に毒を塗るのだ》ーーーこの魔法使い、この猛獣使い、彼はわけてもこのことに熟達しているのだ。彼の傍にいると、すべての健康者は必ず病気になり、すべての病人は必ず温順になる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.160」岩波文庫)

人間の温順化、社会への馴致は、こうした慣習の継続を通して徐々に形成されてきたのである。

「キリスト教は《猛獣》を支配しようとねがうが、その手段は、それを《病弱》ならしめることである。ーーー弱化せしめるというのが、《馴致》のための、『文明化』のためのキリスト教的処方である」(ニーチェ「反キリスト者・二二」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.192』」ちくま学芸文庫)

「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)

こうして慣習化されたものを愛するようになった人間は今や資本主義を「神聖化」しそれに隷属することに安心さえ感じるようになった。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

アルトーが社会に対して問い続ける「器官なき身体」。ドゥルーズとガタリはこう述べる。

「器官なき身体は死のモデルである。恐怖の物語の著者たちがいみじくも理解しているように、死がカタトニーにモデルとして役立つのではない。カタトニー的な分裂症が死にモデルを与えるのである。<強度=ゼロ>がこれである。死のモデルが現われるのは、器官なき身体が種々の器官を拒絶し廃棄するときである。ーーー口もなく、舌もなく、歯もなくーーー、みずから手足を切断し、自殺にまで至るときである。ところが、器官なき身体と、部分対象としての諸器官との間には、じっさいには対立は存在しない。唯一のじっさいの対立は、この両者の共通の敵であるモル的有機体とこの両者との間にあるだけである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)

カタトニーについて。統合失調症の一つのタイプ。緊張型に分類される。極度の無動性。極度の拒絶性、極度の無言性、などが顕著なタイプ。ドゥルーズとガタリはそのような状態を「<強度=ゼロ>」と呼ぶ。しかしこの極端な拒絶性や無動性は「自殺への意志」を意味しない。そうではなく、「モル的有機体」としての人間はこうでなければならないというステレオタイプに対する抵抗として考えられるべきである。また「モル的」とは「数えられる集合的」であるということを意味する。またドゥルーズとガタリはこうも述べている。

「分裂症者が苦しむのは、自我が分裂することでも、オイディプスが爆破されることでもない。そうではなくて、逆にまさしく自分が棄て去ってきたものに連れもどされるということなのである。強度がゼロである器官なき身体にまで堕落すれば、これが自閉症である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.155」河出書房新社)

ここでも「強度がゼロである器官なき身体」にまで至れば、それは「自閉症である」といえる。自閉症者は「自分が棄て去ってきたものに連れもどされる」ことを恐れている。「自分が棄て去ってきたもの」とは「モル的有機体《としての》身体」である。人間はこういうものでなければならないというステレオタイプ化されたカルト的信仰からの逃走。その意味でいえば器官なき身体という態度は正しいと言わねばならない。そもそも人間は流動する多様性だからだ。暴力的に凝固し固定しステレオタイプ化してしまおうと仕向けるほうがどうかしているというべきだろう。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー11

2019年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネは人間の身体の様々な諸器官を列挙しつつ「魂」とはそれらが織り成す「妙なる展開にほかならない」と述べる。停止するということがない。流れがあるだけなのだ。

「(魂を返すとき〔息絶えること〕、その肉体の息吹は言葉もともに運び去るように思われる)ーーー魂とは波にきらめく海草のようなもの、その深い夜のなかで奇妙な生活をいとなんでいる諸器官、肝臓や、脾臓や、緑色の胃壁や、胆汁や、血液や、乳糜(にゅうび)や、珊瑚状毛細管や、朱色の海や、青い腸などの密やかな作業が、いやそれらの内蔵器官そのものが、陰影に富んだほのかな渦柱となって立ち昇る、妙なる展開にほかならないように思われる」(ジュネ「葬儀・P.78」河出文庫)

しかしジャンだけは特権化されている。「ヴェネチア・ガラスのフラスコ」にしてしまう。ジャンの身体は「一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が訪れる」ことを疑わない。

「ジャンの身体は、いうなればヴェネチア・ガラスのフラスコであった。ジャンから抽き出される素晴らしい言語が、まるで糸毬の糸がそれを痩せ細らせるように、彼の身体を透明にまで、一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が訪れることを私は疑わなかった。その言語はそれを発した天体を構成している物質の秘密を私に教え、ジャンの内蔵にたまった糞も、彼の澱んだにぶい血液も、精液も、涙も、膿汁も、わたしたちの糞や、血液や、精液と同じものではないことを思い知らせるのだった」(ジュネ「葬儀・P.78」河出文庫)

ジュネ的感性にすれば、このとき、ほとんど確実に或る種の音楽が聞こえるにちがいない。それは「美しい」からだ。しかし「一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間」とは一体どのような瞬間をいうのか。「泥棒日記」ではジャヴァについてこう述べられている。

「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす。

わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである。

ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ。

わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)

それら諸要素のジャヴァ《における》出会いがジャヴァという「合金」を成立せしめるのであって、その逆ではない。ふだんそれらの諸要素はばらばらに解体されていて、何らの魅力もない。ジュネは或る瞬間、諸要素のジャヴァ《における》出会いの瞬間にのみ光り輝く「一個の結晶体」であり「独異の功力(ちから)」となるときにかぎり、仮にジャヴァと名づけられた「力あるいは美」の出現を見る。このときジャヴァは諸商品の無限の系列から排除され諸商品を排除しつつ出現する貨幣に似ている。

同じ論理がジャンの場合にも応用されている。ジュネにとってはジャンの言語だけが貨幣化される。他のすべてのただ単なる言語の系列から独立し他の言語を排除してただ一つの言語(ジャンの言語)だけが特権化されることでその言語のみにかぎり始めて貨幣的特権を得る。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.130~131」国民文庫)

したがってジャンは、力への意志としては、他の何にでも変態可能だ。ジュネは力がその猛威を振るうあらゆる場面で、特権的言語と化したジャンの力を他の何ものにでも転移させ全力で活用する。ポーロにもエリックにもリトンにも。人間本来の獣性。それは兵士たちが互いに敵同士であってもなくても作動している。ジュネはそれを「アフリカの心臓」に喩える。

「対独協力義勇兵のズボンの紺の綿地と、兵士の黒色のそれとは、八月の日々と夜々と、疲労と不安とが彼らの汗とともに蓄積した匂いを収めていた、ところで二人の重なり合った動作はそれを解き放ち、まぜ合わせ、そして髪の毛で飾られた帯をまとい、身体をテカテカに光らせた裸の黒人戦士が、槍をたずさえ、竹藪の中から出現するのだった。リトンの握りしめた手のなかで、アフリカの心臓が鼓動していた」(ジュネ「葬儀・P.80~81」河出文庫)

エリックはナチス隊員であるにもかかわらず油断がある。エリックは男同士の友情というものに弱い。冷淡で残酷でありながらなぜか仲間にはふと心を許してしまう面を持っていた。

「パリの反抗は彼には裏切り行為のように思われた。四年間の眠りを装って一杯くわせたのだ。スタンドで飲み交わしたグラス、親しげにたたき合った肩、握手とともに与えられたあれほど親切な説明、遠慮なく、手軽に、後ろからものにできた女や若者、それらの背後で夥しい底意が復讐を準備していたのだ。友情が罠でありうることをエリックはさとりだしていた」(ジュネ「葬儀・P.82」河出文庫)

友情というものは永遠でないということを言いたいわけではない。そうではなく友情にしても愛情にしても、いずれにしても「罠」を含まないわけにはいかないということを意味している。とりわけ愛情の場合はどうか。愛情は変化することがあるが、そのとき愛情はいったい何を思いつくだろうか。

「《愛の残忍な思いつき》。ーーー激しい愛はすべて、愛の対象を殺して、それをけがらわしい心変わりの戯れから決然引き離してしまおうという残忍な考えを伴う。なぜなら、愛する心にとっては、破滅よりも変化のほうが恐ろしいからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二八〇・P.196~197」ちくま学芸文庫)

次の一節はエリックがなぜヒットラー・ユーゲントに入ったかという説明だが、注目すべき部分がある。「暮らしぶり」というものは何をどのように成し遂げるかということに言及している。

「だが結局のところドイツは彼にとってどれほどの意味があるというのか?彼は武器を手に入れるためにヒットラー・ユーゲントに入っただけのことだ。見せびらかすための短剣と、強奪用の拳銃。上衣の下に装填した拳銃を感じて胸をおどらせるフランスの若い対独協力義勇兵と彼はそれほどえらぶところはなかった。生れつきたくましい筋骨を彼はいやがうえにも培うのだった。暮らしぶりがその肉体のかたち、内在する微妙な性格を身につけぬわけはない」(ジュネ「葬儀・P.82~83」河出文庫)

要するにジュネが述べていることは、社会的物質的生活環境が人間の意識を規定するというマルクスの言葉そのままに状況は進展していく、という現実にほかならない。

「むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で発展していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.31」岩波文庫)

さて、アルトー。理解されることはおそらくないだろうという絶望的な確信の裡(うち)にこう述べる。

「人は私を信じまい みんなが肩をすくめるのがここから見える」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)

糞、肉、地層、領土、貨幣、資本、戦争、等々。それらへ置き換えられた暴力的過程を人間たちに開いてやってから、事後的にキリストは溶けてなくなってしまったかのように事態は推移している。

「しかしキリストという名の男は 神という毛虱を前にして 身体なしで生きることに同意したものにほかならない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)

神とは何か。それは古代からすでに自然に対する恐れとともに発生した「国家への意志/支配への意志」だった。極めて宗教色の強い国家共同体として君臨すること。神を名乗るあらゆる人々の共同体は、それじたい流動する「君臨への意志」でありなおかつ「支配への意志」として国家を形成した。国家こそが神を僭称したのだ。しかし凝固し固定しステレオタイプ化することでしか存在し得ない国家形態はさらなる新しい形態を準備していかなくてはならない。権力への意志はいたるところから生じるからである。そしてそれらはすべて敵として認知されるほかないからである。神としての国家はなるほど人間が糞であることを選択したときから始まった。そしてまた神は、糞としての神を欲した人間によってそれ以降たいへん長い過程を経つつ、しかし確実に地層の堆積として資本化される軌道を描いていくことになる。人間は凝固し固定しステレオタイプ化した身体というものの内部に拘束された。拘束されつつ資本化される。キリスト教は種々様々に異なる差異的人間に対して整形手術的な人為的暴圧を慣習的に加えつづけ、個々別々の人間であっても人間である以上はどの人間も均質で等価で一般的な人間を造り出した。いわば「数えられる集合化」(モル化)できる存在へと加工=変造した。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

しかし世界は必然的偶然性に満ちてもいる。

「ところが十字架から降りてきた 人々の一団がある」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)

この「一団」は何を意志しているのだろうか。

「神は久しい以前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、彼らは反乱し、鉄、血、炎と骨で武装し、<不可視のもの>を罵倒しながら進んでいく 《神の裁き》を終えるためである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.26」河出文庫)

要するに「《神の裁き》」とは人間のステレオタイプ化にほかならない。だからアルトーはこの詩の終わりで述べられるように「器官なき身体」を意志する。ステレオタイプとしての身体を解体して流動するに任せてしまうということだ。ドゥルーズとガタリはその点についてこう述べている。

「器官なき身体。それは身体が器官にうんざりし、器官を放棄したがっているか、それとも失ってしまうときに、もう始動している」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.308」河出文庫)

さらに詳細な分析が加えられる。

「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)

もっとも、器官なき身体という用語は「アンチ・オイディプス」ですでに採用されていた。そして「器官なき身体」の実現へ向けて資本主義をより一層加速化することが目指されていた。資本主義特有の均質化作用が極限まで達するとすれば、どの人間ももはや原型を留めず、より一層高速で回転しつづける諸力の運動の中で溶解してしまい、端から端まで均質化されたどろどろのバターのようなものになったしまうだろうという読みは十分に考えられた。もっとも、一方でそれは非難されもした。けれども他方、資本主義分析としては何ら間違っていないと言い得る。一九七二年に発表された著作である。むしろ事態がそのまま推移するとすれば当然そうなるのは目に見えていたと言わねばならない。事実、日本でも八〇年代後半のバブルの時期、プルースト化していないどんな金融機関があったというのか。あらゆる金融機関は《進行中の》「失われた時を求めて」《未知の国、未知の大地》へ全力で欲望していなかっただろうか。

「分裂者分析の偉大なる試みとして、『失われた時を求めて』を取りあげることにしたい。すべての局面は、分子的な逃走〔洩出〕線⦅つまり、分裂症的な突破口⦆にまで通じている。だから、接吻においてもそうだ。そこでは、アルベルチーヌの顔は、ひとつの構成局面から別の構成局面に飛躍して、ついには、種々の分子の星雲の中に解体してゆくのだ。読者自身は、ある局面に立ち止り、そこで、<そうだ、プルーストが自分の立場を説明しているのは、ここなのだ>と語る危険にたえずさらされているわけなのだ。ところが、蜘蛛である話者は、自分の形成した蜘蛛の巣や局面をみずから解体しては再び旅行に立ち帰って、種々の機械として働く記号や指標をさぐり求めることをやめないのである。こうした記号や指標は、この蜘蛛である話者をさらに遠くへと進ませるものにほかならない。この運動そのものは、ユーモアである。ブラック・ユーモアである。オイディプスの神経症的な家庭の大地。ここは、全体として人間の姿態をとった人物の種々の接続が確立されている場所である。ああ、だが話者はここには定着しない。ここには立ち止らないのだ。ここを横断し、ここを冒瀆し、ここを突破して、靴の紐を締める機械で自分の祖母をさえ片づけて始末してしまうのだ。同性愛の倒錯した大地。ここは、女性と女性、男性と男性との排他択一的離接が確立されている場所である。この大地も同様に、この大地に坑道を掘る種々の機械的指標の働きに応じて瓦解してゆく。自分自身の連接の働きをその場に具えている精神病的な大地。(だから、シャルリュスは確実に気が狂っている。だから、恐らく、アルベルチーヌもそうだったのだ。)この大地は、こんどは、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦅つまり、そのままの事態で、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦆道が真直ぐに通じている。話者は、《未知の国、未知の大地》に至るまで、かれ自身の仕事をなし続けるというわけなのだ。この未知の大地は、進行中のかれ自身の作品⦅つまり『《進行中の》』『《失われた時を求めて》』⦆によってのみ創造されるものなのである。進行中のかれ自身の作品は、一切の指標を採集して処理することのできる欲望する機械として作用するからである。話者は、こうした新しい領域に進んでゆくのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.378」河出書房新社)

バブル期の高速流通経済は、言語も貨幣も労働力も性行為も、いずれにしても「死《を》欲望する」というより、「死《が》欲望している」としか見えなかった。学生時代にあちこちふらふらしていたおかげというべきか、大企業密集地(北浜など)も日雇い労働者の街(釜ヶ崎など)も見る機会が多々あった。さらに東京の新宿や神田などはとても元気で面白かった。日本中で「死《を》欲望する」のではなく「死《が》欲望している」現場を見た。

アルトーのいう「器官なき身体」《と》「死」との関係について。

「器官なき身体は死のモデルである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)

さらに。

「死は欲望されているのではない〔欲望の対象であるのではない〕。欲望の主体である。<欲望している死>が存在しているだけなのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)

バブル期の高速流通経済のうちに見えたのは後者で書かれている「主体」《として》「欲望する死」であり、それもまた欲望する生産の一方をなしている。というのは「欲望する生」もまた同時に生産されているからにほかならない。

ところが「千のプラトー」では「アンチ・オイディプス」で提起された諸問題について、《別の仕方で》繊細かつ慎重な配慮が払われている。叙述が異なっている。というのは、「《神の裁き》、神の裁きの体系」に対して自己の身体〔次々と地層化され領土化され資本化されていく身体〕を徹底的に解体するといってみたところで、どんどん生じてくる欲望は限度を知らないということはわかりきったことだからだ。したがって欲望する生産に向かって「ハンマーでめった打ちにするような仕方では」、神と化した資本主義に抵抗する側ばかりがただ単に力を消耗させてしまうのみならず、欲望という多義的な力の流動性に対してきりのない暴力的死を夢見ることと同義になってしまいかねないのである。ややもすればただ単なる抽象的な観念に堕してしまう。逆に欲望は種々様々な形態へ変容しうる。次のように。

「器官なき身体は欲望である。人が欲望するのは器官なき身体であり、これによってこそ人は欲望するのだ。器官なき身体は存立平面であり、欲望の内在野であるばかりではなく、たとえ粗暴な地層化によって空虚におちいり、また癌的な地層の増殖におちいっても、まだ欲望であり続ける。欲望は、自分自身の消滅を願ったり、破壊的な力をもつものを欲したりするところまで行く。貨幣の欲望、軍隊の欲望、警察や国家の欲望、ファシストの欲望。ファシズムさえも欲望なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.338」河出文庫)

そういうものに対するとき、そして人間もまたそのように変容する欲望の部分として生きているかぎり、「有機体であることをやめる」ためには、もっと繊細で注意深くなければならない。こんなふうに。

「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー10

2019年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
スクリーンにはジャンとリトンとの死闘が映し出されている。

「二人の若者を私は自分の愛情の二重の光の下にとどめていた。彼らがこれから耽ろうとしている殺人遊戯は、むしろ戦士の舞踏であり、そのなかではいずれか一方の死は偶発的な、ほとんど過失にひとしいものといえるだろう。それはいうなれば血を見るまでに至る情事だ」(ジュネ「葬儀・P.65~66」河出文庫)

しかし「殺人遊戯」はなぜ「情事」でもあるのか。それを知るためには人間の快楽はどのように発生するかを知っていなくてはならない。

「『快』の本質が適切にも権力の《増大感》として(だから比較を前提とする差異の感情として)特徴づけられたとしても、このことではまだ『不快』の本質は定義づけられてはいない。民衆が、《したがって》言語が信じこんでいる誤った対立こそ、つねに、真理の歩みをさまたげる危険な足枷(あしかせ)であった。そのうえ、小さな不快の刺激の或る《律動的連続》が一種の快の条件となっているという、いくつかの場合があり、このことで、権力感情の、快の感情のきわめて急速な増大が達成されるのである。これは、たとえば痒痛(ようつう)において、交接作用のさいの性的痒痛においてもまたみられる場合であり、私たちは、このように不快が快の要素としてはたらいているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服されるーーー抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺激すると思われる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六九九・P.222~223」ちくま学芸文庫)

さらに。

「人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁(はんばく)しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である。ーーー人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とするーーーそれゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。ーーー不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、ーーー阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・七〇二・P.226~227」ちくま学芸文庫)

生前のジャンから受け取った詩を思い出すジュネ。

「その詩、それは美しかったかどうか問われても、美とはいかなるものかわからない以上その質問に私は正直に答えられない。この本の中では(またこれ以外の作品の中でも)<美しい>という言葉と<美>という言葉はその素材自体にまつわるちからをそなえている。これらの言葉はもはや頭では理解しえないものだ。どこでもいいドレスの一部にダイヤの飾りを縫いつけるような調子で私はこれらの言葉を用いるのであり、ボタンの役目を果させるためではない」(ジュネ「葬儀・P.77」河出文庫)

ジュネ的倫理における「美しさ」について。「泥棒日記」参照。

「すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それですでにそれが美しい行為となることが決る。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起こさせるならば、その行為は美しいのだ。ときとして、下劣とされている行為を我々が思い描くときの意識が、やがてそれを表示するときの表現の強烈さが、我々を否応なく歌に駆りたてることがある。もし、裏切りが我々を歌わせるとすれば、それは、それが美しいからにほかならない」(ジュネ「泥棒日記・P.24」新潮文庫)

音楽がもたらされるとき、その行為は「美しい」。それがジュネの倫理である。間違っても社会的通俗的規則に則った「ボタンの役目を果させるためではない」。

ところで、ジャンの詩は一般的な詩とは「別物」だとジュネは主張する。

「この詩はそれとは別物だった。これら四聯の詩句を、私は別な十二聯の詩句と混ぜ合わせるつもりだった(彼の血が私の血と混ざり合うように。大人げない遊びであることはわかっているが、そんなふうに言いだせば、列強国間の条約の署名儀式だってそうだし、ルトンド十字路の清めの儀式だって、樹皮のなかに頭文字を絡み合わせる遊びだって、またーーー)」(ジュネ「葬儀・P.77」河出文庫)

取り扱い方を変更するつもりでいる。このような取り扱い方の変更は、特にジュネでなくても構わない。むしろ世間一般であっても言語に敏感な人々は思いのほかたくさんいる。ジュネに限らず言語に敏感な人々あるいは言葉が好きな人々はこのような言葉遊びに実にしばしば快感を覚える。そして暇さえあれば言葉遊びに興じる。職場でも授業中でもトイレの中でも。

世界中の人々の間で行われる愛の行為。その数々の奇妙さをおもえば何ら不思議でない。「樹皮のなかに頭文字を絡み合わせる遊び」は余りにも稚拙におもえてしまうわけだが、しかしそれが稚拙だというのなら、「列強国間の条約の署名」もまたその「儀式性」を踏襲しているかぎりで、余りにも稚拙だと言わねばならない。むしろ原始的ではなかろうか。しかし「列強国間の条約の署名」も同様に稚拙に見えてしまうのはなぜだろう。「署名じたい」より、「署名」という行為が持つ「儀式性」に、余りにも幼稚な強迫神経症的宗教的反復性を見てしまうからである。

「神経症的儀式は、日常生活の一定行為のさい、つねに同じか、あるいは規則的に変更される方法で実行されている細かい仕種、付加行為、制限、規定から成り立っている。これらの行動は、われわれには単なる『形式』という印象をあたえ、いわば、まったく無意味に思われる。これは、患者自身もそう思っていないわけではないが、彼らはこれをやめることができない。というのは、この儀式に違反すればかならず耐えがたい不安という罰を受け、この不安がすぐに、中止したことの埋めあわせを強要するからである。儀式行為自体と同じように、その外見や行動もまた細かく、これらは儀式によって飾り立てられ、難しくされ、それだけにどうしても遅滞しがちになる。たとえば、衣服の着脱、就床、身体的諸欲求の充足などがこれである。ある儀式のやり方を記述するには、これをいわば一連の不文律のようなものにあてはめていけばできる、たとえば、寝床儀式ではつぎのようになる。椅子はベッドの前のこうこうきめられた位置になければならず、その椅子の上には、衣服が一定の順序でたたんでおかれていなければいけない。掛布団は足もとでさしこみ、シーツは平らに伸ばしていなければならない。クッションはかくかくに配置し、体まである正確にきめられた姿勢になっていなければいけない。こうして初めて、眠ってよいことになる。軽い症例では、儀式は、習慣上の当り前なやり方が過度になったものと同じように見える。だが、これを行なうにあたっての特殊な小心さと等閑に付したさいの不安とが、この儀式をとくに『聖なる行為』にさせている、たいていの場合、これを邪魔されることは耐えられない」(フロイト「強迫行為と宗教的礼拝」『フロイト著作集5・P.377~378』人文書院)

まるで子どもだ。ところが大人もしばしばこのような「反復強迫」に陥る。フロイトによれば何らかの無意識的「罪責意識」(ニーチェのいう「良心の疚(やま)しさ」)に対する形式的否認の繰り返しによって強迫神経症的な反復が生じてくるとされる。さらにこの無意識的罪責意識にもとづく宗教的反復強迫的行為は「新たな動機の生ずるたびに更新される《欲望》のなかで、つねに新たに作りなおされる」と述べる。だから新たな欲望が生ずるたびにどんどん「反復強迫」的儀式も追加されてくる。終わりなき《自己懲罰》という形式を取る。しかし人間は絶え間なく欲望を生産している。そして欲望の生産は常に無意識的罪責意識(良心の疾(やま)しさ)として感じられざるを得なくさせられている。しかしそれは儀式性を取った《自己懲罰》という形式の反復によってのみ一時的に解消することができると信じ込まれている。だから人間は欲望を感じるたびに《自己懲罰》の反復によって《自己防衛》していなければ、増殖する不安のあまり気が済まない状況に追い込まれるほかない。宗教や軍隊はそのような人間特有の性質を最大限利用しようとするわけだが。

「儀式は《防衛》ないし《保証行為》、すなわち《保護手段》として始まる」(フロイト「強迫行為と宗教的礼拝」『フロイト著作集5・P.381』人文書院)

何度も繰り返し反復される特定の儀式的行為。それは周囲の眼にも自分自身としても余りにも異様なので次第に「無気味」におもえてくる。

「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)

しかし条約調印とまではいかずとも、芸術の領域、たとえば文学ではどうだろう。とりわけ古典的文学の中では独特の「無気味さ」が逆に消え去ってしまってはいないだろうか。あるいは、あるはずのない「無気味さ」を意図的に出現させたりしないだろうか。

「《多くの、もしそれが実生活で起こったならば無気味に思われるようなことも、文学の中ではかならずしも無気味ではないし、また文学には、実生活には存在しないような無気味な効果を生む多くの可能性がある》」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.354』人文書院)

だからといって「列強国間の条約の署名」からさえ「無気味さ」が消え去ってしまうわけではない。逆に将来不安を増大させることがよくある。「列強国間の条約の署名」の場合、むしろ血の臭いが漂ってこないだろうか。ニーチェはいう。

「もろもろの宗教戦争と並んで絶えず《道徳戦争》が行なわれている。これは、一つの衝動が人類を《おのれの支配下に置こう》と欲しているということにほかならない。そして諸宗教が死滅すればするほど、この格闘はそれだけますます《血なまぐさく》なり《目に見えるように》なるであろう」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七一七・P.350」ちくま学芸文庫)

「これら四聯の詩句はジャンの口をとおして(私は言葉にこだわる)一つの(一つの肉体か、それとも魂か?)を取り出すことによって、虹色に輝く、ただし暗闇の、もしくはすごく鮮明な色調をおびた、きらめく仕ぐさの役者たちが登場するさまざまな風景に富んだ魂を啓示するのだった。言語は、とりわけこのような言語は、魂(だからこそ私はこの語を選ぶのだ)と言葉とを表現するものだ」(ジュネ「葬儀・P.77~78」河出文庫)

ジュネが言語にこだわるのは、「こだわり」という点にかぎっていえば、一般市民が言語にこだわるのと何ら異ならない。しかしジュネが世間一般から遠ざけられ自分からも遠ざかったのにはまた別の理由がある。いずれ述べたい。なお、「ルトンド十字路」はパリのモンパルナスにあるロトンド交差点のことかもしれない。ジュネを見出したコクトーらの溜まり場だったカフェなどがある。

さて、アルトー。神がもし固定的な存在だとすれば、それはただちに「糞」でしかない。

「神とは存在なのだろうか。神が存在なのだとすれば神は糞である。神が存在でないとすれば 神は存在しない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

そして「糞」とは地層であり領土であり商品であり貨幣であり資本であり戦争機械でもある。

「ところで神は存在しないのである、けれども神はあらゆる形をまとって前進する空虚のようだ その最も完璧な表象とは 毛虱の大群の行進である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)

アルトーは「神」というものを表象するとすれば「毛虱の大群の行進」に等しいと述べる。ところでこの見立ては勘違いでもなければ妄想でもない。メキシコでフィールドワークを行ったカスタネダはいう。

「コヨーテは流動体で、液状で、輝く存在だった」(カスタネダ「呪師に成る・P.338」二見書房)

カスタネダの「呪師に成る」は他の一連の著作の一つである。けれども他の著作ではペヨーテを含む催幻覚性植物が用いられている。が、「呪師に成る」ではペヨーテを含む催幻覚性植物を一切用いていない。用いられているのは身体とその運動とである。そこで織りなされる種々の実験があるだけだ。要するに、人間の身体は使い方次第で、LSDやペヨーテや他の催幻覚性物質を用いた時と同様の或る別種の状態を作りだすことができるということがわかればよい。そしてそれはどのような状態かというと、人間はただ、ニーチェのいう「多様な流動性」としてしか存在しないということである。人間の眼は粗雑過ぎるのでその流動状態を上手く捉えることができないのだ。さらにそもそも眼自体が身体の一部であるかぎり、眼もまた絶え間なく自然の中で自然の部分として新陳代謝を繰り返しつつ流動している。全宇宙と共演している。

ところが人間は、数千年にわたる慣習によって凝固し固定し記号化しステレオタイプ化した諸条件に拘束されてしまっているため、《別の仕方で》ものを見たり考えたりすることが極めて困難になってしまった。人間は人間自身の身体を用いて《別の仕方で》ものを見たり考えたりすることを拒絶した。そして「『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきた」。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

人間はすでに取り返しのつかないことをやってしまった。その後の世界を生きているばかりだ。

「『アルトーさん、あなたは狂人だ。ミサはどうなるのです』。私は洗礼もミサも否定する。内面的性欲的次元にあって、いわゆるイエス・キリストの 祭壇への降臨ほどに いまわしい人間の行為は ほかにない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)

イエスは人間の悪を引き受けると宣言した。その行為はだから、他の人間が肉食し糞を蓄積し地層化し領土化し商品化し貨幣化し資本化し戦争機械化する許可を与えたに等しい。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM

言語化するジュネ/流動するアルトー9

2019年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム
映像じたいと化しているジュネ。ジュネの情動は時として過剰過ぎるかのように見える。しかし過剰にしてしまうのは映像の側から受け取らざるを得ない衝撃によってである。

「自分の身体が引き裂かれるような思いだった。自分の苦しみがさらにはげしくなり、至高の歌声にまで、死にまで高まるのが望ましかった。悲惨だった。私はリトンを愛してはおらず、私の愛はすべてまだジャンにそそがれていた。スクリーンの中の対独協力義勇兵はあきらめていた。逮捕されたところだった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)

しかし情動の奔出を過剰にしてしまうのは映像の側から受け取らざるを得ない衝撃によってである。どれほど微細なものであってもジュネは或る種のショックを与えられているのだ。そうでなければ情動あるいは感情はまったく動かないし、ましてやジュネのように思考することもない。

「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本姓〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)

ジュネは桁違いの「美貌」に対する世間一般のルサンチマン(劣等感、嫉妬、復讐感情)をよく知っている。世間一般の人々は、桁違いに美しい「薔薇」の首をギロチンで吹っ飛ばしたがる、血を見たがる、ということを。

「目の醒めるような美貌にたいしていったいなにができるというのか?首を刎ねるくらいのことだ。そんなふうにして薔薇をつみとる愚か者は薔薇にたいして復讐する。引っ捕えて連行する若い盗人のことを話すとき、刑事(デカ)はこう言ってのける。『こいつを摘んできたよ!』」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)

自意識過剰な刑事(デカ)の自慢話にだけ当てはまることではない。もっと巨大な機構であるマスコミからしてすでにそうだ。たとえば、桁違いの「美」の所有者が何かの犯罪に引っかかって逮捕されるとき、その映像を汚辱にまみれた映像商品として全世界に流通させるという顕著な特権に酔いしれる。そしてそこから可能なかぎりの利益を引き出す。

美とは何か。世間一般の人間がどれほど苦労してもけっして手に入らないものに等しい。それは隔絶された孤独でもある。ただ単なる「美貌」だけをいうのではない。巨万の富。ほとんど到達不可能な社会的地位。限度を知らない脅威的暴力。それらが力を失い崩壊の様相を見せ始めるとき、世間一般は興奮のあまり性的リビドー備給のほとんど全力を傾けて見入る。それまで偉容を誇っていた美がついに溶け壊れ醜く崩壊するシーンに向けてすべての強度を注ぎ込み、逆に自分の内部でたちまちこみ上げてくる「権力への意志」を抑えきれず、精神を高揚させ、残酷さに酔いしれ、その官能を味わう。自分でもわからないまますでに無意識の裡(うち)にそうしてしまっているかのように見えはするが、どちらかといえば、あらかじめ気持ちの準備を打ち固め待ち構えていた性犯罪加害者の心境に近い。そのとき視聴者はほとんど眼に《なる》。

「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)

立場が転倒し、美の所有者は逆に債務者となり世間一般は債権者へと置き換えられる。債権者となった世間一般は何をどのように考え実行に移すのだろう。

「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」(ニーチェ「道徳の系譜・P.72」岩波文庫)

さらに。美の崩壊に際して表面化するのは、世間一般の意識の中に、どれほど愚劣な差別意識が沈潜していたか、今なお沈潜しているかという事実である。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)

「したがってリトンが私にとって山頂の花、可憐な深山薄雪草(エーデルワイス)であったとしても驚くにはあたらないわけだ。腕が動いたはずみに彼が腕時計をしているのが目に入った、がその動作はどちらかといえば元気がなく、ジャンの動作とは似ても似つかなかった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)

リトンの脱力を見るジュネ。生前のジャンは日常生活においてももっと自分自身を厳しく律するタイプの美少年でありレジスタンスの闘志だった。両者を比較すると今度はリトンの側が貧相に映って見える。それはジュネ自身が自分の身体を通して感じる力の貧困さだ。とっさに思いついたのは、ジャンの兄であり冷淡かつ残酷な性格を持つポーロの力を援用することだった。

「にもかかわらずそれは、たしかにもう一方はもっと力にみなぎってはいたが、ポーロのものと考えることもできただろう。その想像から私は出発しようとしていた、そして私はますますリトンがポーロと一対であるように思えてくるのだった、だけどその魔術を仕遂げるには、完璧な精神集中が、すべてをその成就の目的に充てることが必要だった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)

たいへん器用なジュネ。このあたりの叙述に見るジュネの必死さは、しかし、映画館の観衆の必死さの皮肉な反映でもある。観衆のほとんどすべてはフランス軍の勝利とドイツ軍の敗北が決定した後で、事後的に、安心して映画を見ているフランスの一般市民である。だからこれまでは黙って隠れていたくせに勝利するやいなや大声を上げてフランスレジスタンスの闘志として死んだジャンに向けて惜しみない声援を送る。以前は家族友人知人の中にレジスタンス運動家がいるというだけで恐怖に駆られ家庭内では露骨に嫌悪の表情を浮かべさえした世間一般の人々。そのような卑劣なフランス人に対する大いなる軽蔑がフランス人としてフランス語でものを考えるジュネにはある。

さて、アルトー。

「それではこの卑劣な汚猥はどこからくるのか。世界がまだ構成されていないから、あるいは人間が世界についてまだちっぽけな観念しかもっていないから そしてこの観念を人間がいつまでも保存しようとするからか。それは人間が、ある日、世界の観念を 《停止》させたからである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.23」河出文庫)

選択の時。水路のあちこちには関所が設けられているものだが、ここでの一旦《停止》は、人間にとってその後数千年の命運を左右することになる。

「二つの道が彼に与えられていた、無限の外部への道と、細々とした内部への道である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.23」河出文庫)

どうしたか。

「そして彼は細々とした内部を選んだ。そこでは鼠や、舌や 肛門や、亀頭を しめつけるだけでいいのだ。そして神が、神みずからが運動をおさえつけたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)

人間は神の法によって裁かれることを選択した。外部へ流出することを妨げられる過程を選択した。そして外部への流出を妨げられた強度の全奔流は内部へ逆行し、人間の内部を浸食する。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

アルトーのいう「神」とは「国家」であり「キリスト教の神」であり「社会的規範」である。それらは人間を凝固し固定し記号化する(ステレオタイプ化する)ための全体的装置をなす。もっと自然に生きつつ死ぬこともできた人間。ところが人間は、驚くべきことに、人間という鋳型(いがた)は嵌め込まれることをみずから欲し、これらによって暴力的に加工=変造されることをみずから意志した。さらになお、これらの条件が揃うためには極めて宗教色の強い国家が先行して成立していなくてはならない。宗教色の強い国家はいかにして成立したか。

「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)

ちなみに聖書にこうある。

「世の始(はじ)めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった」(「新約聖書・ヨハネ福音書・第一章・P.275」岩波文庫)

それを参照すると、だから、始めに暴力的排除があった、ということも可能だろう。一つの言語しか許さないということ。他のどんな宗教の言語も民族の言語も、生活習慣を含めて他のものはすべて、一切認めることはできず頭から否定するということ。したがって、始めに神は暴力であった、とも言いうる。あるいはニーチェの言葉を借りるとすべての神は悪魔から生まれたということになる。

「すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としている」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四六九・P.277」ちくま学芸文庫)

「理想を形成するとは、おのれの悪魔をおのれの神へと《改造する》ことだ。そして、そのためには人々はまずおのれの悪魔を創造し終えていなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四七〇・P.277」ちくま学芸文庫)

ところで今の神とその道徳とは何のことを指していうのか。言うまでもない。資本主義とその精神である。神は不平等を、利子の生産を、増大する格差社会を、欲する。マルクスはいう。

「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへと解消した。キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的な態度をとるユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的〔実際的〕なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となった」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.65』岩波文庫)

というのは、聖書の言葉は資本主義を祝福するばかりか、よりいっそう利潤を増大させることを奨励するからである。「新しい酒は新しい皮袋へ」という意味。もっとも、「酒」が何を現わしているかはそれぞれの宗派によって解釈が異なる。使命感、信仰、権力意志、忠誠心、目的達成への精神力、等々である。しかし共通するのは「酒」は「発酵するもの」だという点である。現実の金融機関に当てはめて考えれば、資本増殖への合理的な方法が積極的に肯定されていると取れるのである。該当する箇所。

「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる」(「新約聖書・マルコ福音書・第二章・P.13」岩波文庫)

「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方(りょうほう)とも安全である」(「新約聖書・マタイ福音書・第九章・P.93」岩波文庫)

「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない」(「新約聖書・ルカ福音書・第五章・P.191」岩波文庫)

上流階級に属する投資家にしてみれば、リスクの高い集中的投資を避けて分散投資を推奨する言葉にも見えるのである。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM