ジュネはただ単なる「オナニスト」だとよく言われる。とすれば他の人間もまたすべて多少なりともオナニストでしかないと言わねばならない。ジュネは想像のうちに勲章授与式のシーンを思い描く。その「理想の勲章」を与えられるのはエリックである。
「自分のうちに私は自分がその授与者であり、発起人であり、たった一人の受勲者でもある騎士(ナイト)の勲章を設けている。自分のうちに浮かび上がるエリックに、私はその理想の勲章(クラシア)を、十字勲章を、爵位を、辞令書を交付する。つまり私の唾(クラシア)を」(ジュネ「葬儀・P.86」河出文庫)
得意なアナロジー(類似、類推)が用いられている。「勲章(クラシア)」=「唾(クラシア)」というふうに。ところでこのアナロジーは「勲章(クラシア)」を貶めるために用いられているわけではない。むしろ等価性を得ている。男性同性愛者として「唾(クラシア)」は「勲章(クラシア)」に等しいからである。とはいえ、ジュネがいるのはどこにでもごろころ転がっている「下宿部屋」の一つに過ぎない。壁には「ヒットラー総統の肖像」が架けられている。それを見てジュネは思う。ジュネの創造への意志は「お尻(いど)の軍団」を出現させる。
「私の身体のなかでいちばん大切な部分は、尻だ。この事実を私は忘れ去ることができない、それほど私のズボンはそのことを意識させる、だってズボンはうちに収めた尻をぴっしりしめつけているからだ。私たちはお尻(いど)の軍団を編成している」(ジュネ「葬儀・P.86」河出文庫)
ジュネのいう「お尻(いど)の軍団」はただちにプルーストのいう「独自の一団」を思わせる。あの、少女たちの力の融合状態を。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
ジュネは静かな興奮に歓喜しつつヒットラーの陰部に想像力を集中させる。ヒットラーの陰部を愛撫し勃起させ、その背後からジュネの男性器をごりごり押し込んでかき回してみたいものだと意志する。「勲章(クラシア)」=「唾(クラシア)」のアナロジーから生じてきた空想なのだが妙に生々しい。
「『ところで総統の陰茎(しろもの)は、どんなぐあいだろう、それをお前さんはどんなぐあいに握りたいのか、横からか、前からか?』」(ジュネ「葬儀・P.87」河出文庫)
このような生々しい想像はドイツでは「失敬」だとされていた。しかし人間は空想の中で何を考えているか、どんな光景を思い描いているかなど他人には全然わからない。ともかく、「失敬」という考えが頭の中に浮かぶ。と同時にジャンのことを忘れて「総統の陰茎(しろもの)」へ意識を集中させていたことに気づく。ジュネはふいにジャンに対する「うしろめたさ」に《なる》。
「失敬な考えが私のなかでこんなふうに問いかける、返答に窮して私は彼の竿から視線をそらし、置き去りにしたことでうしろめたさを覚えているジャンのほうにそれを移す」(ジュネ「葬儀・P.87」河出文庫)
ジュネの情動は変容する。変容する力の移動はジュネの情動の移動そのものだ。といってしまえばジュネは世間一般には理解しがたい何か難解な過程を生きているかのように聞こえる。けれどもジュネの情動とその変容について言えば、世間一般が思い込んでいるような難解さは微塵もない。むしろ一般市民はこのようなことをふだんからごく当たり前にこなしている。無意識の裡(うち)にどんどん進行していく、ということではけっしてない。そうではなく、一般的な人間の意識は余りにも粗雑にできてしまっている上に凝固し固定しステレオタイプ化されてしまっているため、信じて疑わなくなっているだけのことだ。ステレオタイプ化された一切のものをただひたすら盲目的に信じ込んでしまっているために、けっしてジュネのように感じとることができないというに過ぎない。ジュネのように「別様に感じる」ということを自分みずから不可能にしてしまっているのである。それにしても「別様に感じる」力能の持主はなぜこのように迫害されなくてはならなかったのだろうか。
「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)
そして今のところ差し当たりジュネの力能はジャンの死を経て、ジャンの死から獲得した「苦痛」という形態を取っている。
「今や棺のなかに横たわり、黒ずみ、鼻孔はたぶん鉛色に変り、次第に腐敗し、死臭を花の香にまじえているジャンの亡骸(なきがら)を思い浮かべるとき、私の苦痛は折にふれて呼び醒まされ、その都度かき立てられる」(ジュネ「葬儀・P.95」河出文庫)
「苦痛」はいつどこにでも出現する。その都度ジュネはジャンの死から到来して今は自分の裡(うち)に保存されている「苦痛」を通し他の何ものにでも生成変化することができる、という条件を得ている。さらにジュネの裡(うち)に保存されている「苦痛」は、ただ単に保存されるだけでない。キリスト教の教義に従えばそれはこれからもより一層「発酵する」ことを義務づけられていると言わねばならない。キリストのいう「酒」は「発酵する」ものだからだ。なので「皮袋」は新しいものが幾つも準備されていなくてはならない。
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる」(「新約聖書・マルコ福音書・第二章・P.13」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方(りょうほう)とも安全である」(「新約聖書・マタイ福音書・第九章・P.93」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない」(「新約聖書・ルカ福音書・第五章・P.191」岩波文庫)
したがってジュネの場合、「力への意志」は「苦痛」としての形態を得ているが、苦痛の観念に伴って一挙に出現する残酷さや冷淡さの観念もまた、ジュネが苦痛を呼び醒まされるあらゆる場面でその都度ますます増殖されるほかない。
さて、アルトー。欲望は流動する強度とその絶え間ない生産にほかならず、固定した存在などどこにもないと反復する。
「こうもいわれるし またこういうことができる、つまり意識とは ひとつの欲望、生きる欲望であるというものもあるのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.30~31」河出文庫)
だがアルトーはすでに、「生きる」ということは「糞への意志」を選んだ結果だと述べてしまっている。糞を蓄積し領土化し貨幣化し資本化し戦争機械化することが人間であることの証明であると。そしてそれは日々の報道に接するたびに確信へと打ち固められるもはや疑えない事実でもある。実際、人間は生きている以上、何らかの形で資本主義を支援している。資本主義の脱領土化と再領土化の運動にいつも加担している。資本主義の加担者でない人間などどこをどう探してみても見つけることはできない。たとえば、誰かがコード化されることから逃走しようと脱コード化を計画するとしよう。ところが資本主義は脱コード化した流れをすぐさま公理系化してしまう。資本主義が一方の手で脱コード化するものを他方の手で公理系化するのは同時なのだ。
「言いかえるなら、資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成されるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)
公理系化するということは資本主義の特徴である脱コード化する流れを捉え、資本主義にとって自己破壊的でない安全弁として常に作動する一つの制度へ整理整頓することであって、それは世間一般でいつもふつうに行われている作業の一つに過ぎない。資本主義はそれほどまでに多種多彩な整流器を兼ね備えるに至っている、というより、今や資本主義は脱コード化することと公理系化することとを同じ作業へと還元したのである。
日本での事例として日常生活の中に溶け込んできた公理系の一つを取り上げてみよう。たとえば「デイケア」や「在宅介護」といった制度がそうだ。それは少子高齢化に伴う社会的構造変化に対応した新しい自由な生き方を提示する形式として登場してきた。ところがそれらもまたまたたく間に監視カメラの大量投入によって常に見張られている「管理社会」の試作品の様相を如実に呈してきた。監視カメラの大量投入は高齢者や障害者の生活を守るためというより、逆に高齢者や障害者の生活を常に見張る新しい「管理社会」の実現を徹底させる方向へ貢献することになった。その機能はさらに医療面での数値化を含め、様々な高齢者や障害者をデータバンク化しマーケティングし資本化して種々雑多な生産分野へアイデアを提供し、貨幣交換を通して実際の諸商品と置き換えることにほかならない。
さらに技術面で急速に更新されたスマートフォンは、介護現場や高齢者福祉施設の内部の様子を映し出すことができる機能を備えている。共働きの女性はスマートフォンを持つことで破格のスピードで社会進出を果たしたが、同時にスマートフォンを持つことで家族の動向を一挙に把握しつつ労働も同時にこなしていかねばならないという労苦をもあわせ担うことになった。男社会全盛期の日本では考えられもしなかったスケジュールに忙殺される事態に立ち至った。さらに資本主義的競争戦は加速の一途をたどっている。性別に関係なく「仕事で使える」人材だけが有利な立場を獲得するという状況が次々と新しく改変され創設される。格差はみるみる増大する。ゆえにアルトーは資本主義の公理系にいとも安易に回収されることのない「器官なき身体」を意志し提唱する。
しかしかつての男社会(昭和から平成半ばにかけて)では男性は育児もやらず、家事労働も主婦に任せきりであり、職場の労働といっても多層的要因の蓄積による過労死を招いてしまう今のような重労働ではまったくなかった。むしろ低賃金重労働のほとんどは日雇い労働者任せであって、しかも低賃金重労働に従事する日雇い労働者を差別し嘲笑し、高額の給料を当たり前のように受け取り、住宅地も日雇い労働者の街とは別のところをわざと選んでのうのうと休日を謳歌していた。それが日本の男社会の姿である。ジュネたちの汚辱にまみれた世界は襤褸(ぼろ)をまとっているのでわかりやすい。けれどもスーツを着て歩いているというだけでなぜ日本人はジュネたちと違うなどということができたのか。スーツを着ているという違いはあるにせよ、だからといって、日本の社会人はジュネたちの卑劣さ、裏切り、性倒錯的指向性を持っていないとはまったく言えない。むしろ同じように持っていたし今なお持っている。そしてさらに高度テクノロジーの発展は日本人だけを例外扱いすることを始めから知らない。
「空間についても、可能性についても、私はそれが何だかよく知らなかった、それを考える必要も私は覚えなかった、それらは 一つの欲求の 切迫した必要に直面して 実在し あるいは実在しない 事物を定義するために発明された言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.32~33」河出文庫)
言語について、「空間」という言葉もまた使用価値として有効だ。アルトーは「無限」だけでなく「空間」という言葉の使用にも差し当たり必要性を認める。言葉にしか過ぎないとはいえ、「事物を定義するために発明された言葉」として有効活用するにこしたことはない。アルトーは言語を巧みに用いて逆に身体のありようを創造し直そうと試みるのである。
「この欲求とは観念を、観念とその神話を打ち消し、そのかわりにあの爆発的な必要性の 雷鳴のような表出を 君臨させようとする欲求である、私の内部の夜の身体を拡張すること」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.33」河出文庫)
ステレオタイプ化され神話と化しているあらゆる既成概念をぶち壊しにかかるアルトー。そのためには器官なき身体に《なる》ことが必要だ。しかしそれは具体的には何をどのように行為することをいうのか。たとえばフロイトのいう「死の本能」についてだが、すべての人間はいつも自殺を目指しているということを意味しているのではない。自殺を意志しているということではない。そうではなく、「死の本能」という概念は、死もまた「欲望の主体」として絶え間なく「欲望を生産している」という事実を認識することが重要なのだ。だからドゥルーズとガタリは、器官なき身体のことを<強度=ゼロ>というのであって、死ぬことだとは言わないしそもそも自殺することではないのである。むしろ前回触れたように「カタトニー的な分裂症」(無動性、拒絶性、無言性)といってみたり、<強度=ゼロ>としての「自閉症」といってみたりして、器官なき身体の具体的な様相を強調している。器官なき身体を主張するアルトーは、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神を告発せざるを得ない。アルトーにとって神は無理やり有機体化を迫る強姦加害者でしかない。
「器官なき身体は叫ぶ。おれは有機体を強いられた。不当にもおれは折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。神の裁きは、器官なき身体をその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。まさに器官なき身体が地層化される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.326」河出文庫)
いま、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神、と述べた。けれども宗教はどんな宗教であれ、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神、を持たない宗教はないと言わねばならない。その意味で今の世界は「神々」に満ちていると告発されねばならないだろう。そして宗教戦争は今なお「道徳戦争」でもある。日本を忘れアジアを忘れアフリカを忘れ中南米を忘れることに忙しい日本人の中で、アメリカにばかり媚びる人々がいつも口にする「国際社会」とかいう馬鹿げた道徳共同体が、さらなる流血を、さらなる殺戮を、さらなるホロコーストを、準備するのだ。「道徳」の名において。信仰の証として《貨幣》を要求する諸宗教。諸宗教はもうとっくの昔から「資本の神」《として》「資本を守護」していたのである。
「もろもろの宗教戦争と並んで絶えず《道徳戦争》が行なわれている。これは、一つの衝動が人類を《おのれの支配下に置こう》と欲しているということにほかならない。そして諸宗教が死滅すればするほど、この格闘はそれだけますます《血なまぐさく》なり《目に見えるように》なるであろう」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七一七・P.350」ちくま学芸文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「自分のうちに私は自分がその授与者であり、発起人であり、たった一人の受勲者でもある騎士(ナイト)の勲章を設けている。自分のうちに浮かび上がるエリックに、私はその理想の勲章(クラシア)を、十字勲章を、爵位を、辞令書を交付する。つまり私の唾(クラシア)を」(ジュネ「葬儀・P.86」河出文庫)
得意なアナロジー(類似、類推)が用いられている。「勲章(クラシア)」=「唾(クラシア)」というふうに。ところでこのアナロジーは「勲章(クラシア)」を貶めるために用いられているわけではない。むしろ等価性を得ている。男性同性愛者として「唾(クラシア)」は「勲章(クラシア)」に等しいからである。とはいえ、ジュネがいるのはどこにでもごろころ転がっている「下宿部屋」の一つに過ぎない。壁には「ヒットラー総統の肖像」が架けられている。それを見てジュネは思う。ジュネの創造への意志は「お尻(いど)の軍団」を出現させる。
「私の身体のなかでいちばん大切な部分は、尻だ。この事実を私は忘れ去ることができない、それほど私のズボンはそのことを意識させる、だってズボンはうちに収めた尻をぴっしりしめつけているからだ。私たちはお尻(いど)の軍団を編成している」(ジュネ「葬儀・P.86」河出文庫)
ジュネのいう「お尻(いど)の軍団」はただちにプルーストのいう「独自の一団」を思わせる。あの、少女たちの力の融合状態を。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
ジュネは静かな興奮に歓喜しつつヒットラーの陰部に想像力を集中させる。ヒットラーの陰部を愛撫し勃起させ、その背後からジュネの男性器をごりごり押し込んでかき回してみたいものだと意志する。「勲章(クラシア)」=「唾(クラシア)」のアナロジーから生じてきた空想なのだが妙に生々しい。
「『ところで総統の陰茎(しろもの)は、どんなぐあいだろう、それをお前さんはどんなぐあいに握りたいのか、横からか、前からか?』」(ジュネ「葬儀・P.87」河出文庫)
このような生々しい想像はドイツでは「失敬」だとされていた。しかし人間は空想の中で何を考えているか、どんな光景を思い描いているかなど他人には全然わからない。ともかく、「失敬」という考えが頭の中に浮かぶ。と同時にジャンのことを忘れて「総統の陰茎(しろもの)」へ意識を集中させていたことに気づく。ジュネはふいにジャンに対する「うしろめたさ」に《なる》。
「失敬な考えが私のなかでこんなふうに問いかける、返答に窮して私は彼の竿から視線をそらし、置き去りにしたことでうしろめたさを覚えているジャンのほうにそれを移す」(ジュネ「葬儀・P.87」河出文庫)
ジュネの情動は変容する。変容する力の移動はジュネの情動の移動そのものだ。といってしまえばジュネは世間一般には理解しがたい何か難解な過程を生きているかのように聞こえる。けれどもジュネの情動とその変容について言えば、世間一般が思い込んでいるような難解さは微塵もない。むしろ一般市民はこのようなことをふだんからごく当たり前にこなしている。無意識の裡(うち)にどんどん進行していく、ということではけっしてない。そうではなく、一般的な人間の意識は余りにも粗雑にできてしまっている上に凝固し固定しステレオタイプ化されてしまっているため、信じて疑わなくなっているだけのことだ。ステレオタイプ化された一切のものをただひたすら盲目的に信じ込んでしまっているために、けっしてジュネのように感じとることができないというに過ぎない。ジュネのように「別様に感じる」ということを自分みずから不可能にしてしまっているのである。それにしても「別様に感じる」力能の持主はなぜこのように迫害されなくてはならなかったのだろうか。
「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)
そして今のところ差し当たりジュネの力能はジャンの死を経て、ジャンの死から獲得した「苦痛」という形態を取っている。
「今や棺のなかに横たわり、黒ずみ、鼻孔はたぶん鉛色に変り、次第に腐敗し、死臭を花の香にまじえているジャンの亡骸(なきがら)を思い浮かべるとき、私の苦痛は折にふれて呼び醒まされ、その都度かき立てられる」(ジュネ「葬儀・P.95」河出文庫)
「苦痛」はいつどこにでも出現する。その都度ジュネはジャンの死から到来して今は自分の裡(うち)に保存されている「苦痛」を通し他の何ものにでも生成変化することができる、という条件を得ている。さらにジュネの裡(うち)に保存されている「苦痛」は、ただ単に保存されるだけでない。キリスト教の教義に従えばそれはこれからもより一層「発酵する」ことを義務づけられていると言わねばならない。キリストのいう「酒」は「発酵する」ものだからだ。なので「皮袋」は新しいものが幾つも準備されていなくてはならない。
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる」(「新約聖書・マルコ福音書・第二章・P.13」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方(りょうほう)とも安全である」(「新約聖書・マタイ福音書・第九章・P.93」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない」(「新約聖書・ルカ福音書・第五章・P.191」岩波文庫)
したがってジュネの場合、「力への意志」は「苦痛」としての形態を得ているが、苦痛の観念に伴って一挙に出現する残酷さや冷淡さの観念もまた、ジュネが苦痛を呼び醒まされるあらゆる場面でその都度ますます増殖されるほかない。
さて、アルトー。欲望は流動する強度とその絶え間ない生産にほかならず、固定した存在などどこにもないと反復する。
「こうもいわれるし またこういうことができる、つまり意識とは ひとつの欲望、生きる欲望であるというものもあるのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.30~31」河出文庫)
だがアルトーはすでに、「生きる」ということは「糞への意志」を選んだ結果だと述べてしまっている。糞を蓄積し領土化し貨幣化し資本化し戦争機械化することが人間であることの証明であると。そしてそれは日々の報道に接するたびに確信へと打ち固められるもはや疑えない事実でもある。実際、人間は生きている以上、何らかの形で資本主義を支援している。資本主義の脱領土化と再領土化の運動にいつも加担している。資本主義の加担者でない人間などどこをどう探してみても見つけることはできない。たとえば、誰かがコード化されることから逃走しようと脱コード化を計画するとしよう。ところが資本主義は脱コード化した流れをすぐさま公理系化してしまう。資本主義が一方の手で脱コード化するものを他方の手で公理系化するのは同時なのだ。
「言いかえるなら、資本主義は《脱コード化した流れのための一般公理系》とともに形成されるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.208」河出文庫)
公理系化するということは資本主義の特徴である脱コード化する流れを捉え、資本主義にとって自己破壊的でない安全弁として常に作動する一つの制度へ整理整頓することであって、それは世間一般でいつもふつうに行われている作業の一つに過ぎない。資本主義はそれほどまでに多種多彩な整流器を兼ね備えるに至っている、というより、今や資本主義は脱コード化することと公理系化することとを同じ作業へと還元したのである。
日本での事例として日常生活の中に溶け込んできた公理系の一つを取り上げてみよう。たとえば「デイケア」や「在宅介護」といった制度がそうだ。それは少子高齢化に伴う社会的構造変化に対応した新しい自由な生き方を提示する形式として登場してきた。ところがそれらもまたまたたく間に監視カメラの大量投入によって常に見張られている「管理社会」の試作品の様相を如実に呈してきた。監視カメラの大量投入は高齢者や障害者の生活を守るためというより、逆に高齢者や障害者の生活を常に見張る新しい「管理社会」の実現を徹底させる方向へ貢献することになった。その機能はさらに医療面での数値化を含め、様々な高齢者や障害者をデータバンク化しマーケティングし資本化して種々雑多な生産分野へアイデアを提供し、貨幣交換を通して実際の諸商品と置き換えることにほかならない。
さらに技術面で急速に更新されたスマートフォンは、介護現場や高齢者福祉施設の内部の様子を映し出すことができる機能を備えている。共働きの女性はスマートフォンを持つことで破格のスピードで社会進出を果たしたが、同時にスマートフォンを持つことで家族の動向を一挙に把握しつつ労働も同時にこなしていかねばならないという労苦をもあわせ担うことになった。男社会全盛期の日本では考えられもしなかったスケジュールに忙殺される事態に立ち至った。さらに資本主義的競争戦は加速の一途をたどっている。性別に関係なく「仕事で使える」人材だけが有利な立場を獲得するという状況が次々と新しく改変され創設される。格差はみるみる増大する。ゆえにアルトーは資本主義の公理系にいとも安易に回収されることのない「器官なき身体」を意志し提唱する。
しかしかつての男社会(昭和から平成半ばにかけて)では男性は育児もやらず、家事労働も主婦に任せきりであり、職場の労働といっても多層的要因の蓄積による過労死を招いてしまう今のような重労働ではまったくなかった。むしろ低賃金重労働のほとんどは日雇い労働者任せであって、しかも低賃金重労働に従事する日雇い労働者を差別し嘲笑し、高額の給料を当たり前のように受け取り、住宅地も日雇い労働者の街とは別のところをわざと選んでのうのうと休日を謳歌していた。それが日本の男社会の姿である。ジュネたちの汚辱にまみれた世界は襤褸(ぼろ)をまとっているのでわかりやすい。けれどもスーツを着て歩いているというだけでなぜ日本人はジュネたちと違うなどということができたのか。スーツを着ているという違いはあるにせよ、だからといって、日本の社会人はジュネたちの卑劣さ、裏切り、性倒錯的指向性を持っていないとはまったく言えない。むしろ同じように持っていたし今なお持っている。そしてさらに高度テクノロジーの発展は日本人だけを例外扱いすることを始めから知らない。
「空間についても、可能性についても、私はそれが何だかよく知らなかった、それを考える必要も私は覚えなかった、それらは 一つの欲求の 切迫した必要に直面して 実在し あるいは実在しない 事物を定義するために発明された言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.32~33」河出文庫)
言語について、「空間」という言葉もまた使用価値として有効だ。アルトーは「無限」だけでなく「空間」という言葉の使用にも差し当たり必要性を認める。言葉にしか過ぎないとはいえ、「事物を定義するために発明された言葉」として有効活用するにこしたことはない。アルトーは言語を巧みに用いて逆に身体のありようを創造し直そうと試みるのである。
「この欲求とは観念を、観念とその神話を打ち消し、そのかわりにあの爆発的な必要性の 雷鳴のような表出を 君臨させようとする欲求である、私の内部の夜の身体を拡張すること」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.33」河出文庫)
ステレオタイプ化され神話と化しているあらゆる既成概念をぶち壊しにかかるアルトー。そのためには器官なき身体に《なる》ことが必要だ。しかしそれは具体的には何をどのように行為することをいうのか。たとえばフロイトのいう「死の本能」についてだが、すべての人間はいつも自殺を目指しているということを意味しているのではない。自殺を意志しているということではない。そうではなく、「死の本能」という概念は、死もまた「欲望の主体」として絶え間なく「欲望を生産している」という事実を認識することが重要なのだ。だからドゥルーズとガタリは、器官なき身体のことを<強度=ゼロ>というのであって、死ぬことだとは言わないしそもそも自殺することではないのである。むしろ前回触れたように「カタトニー的な分裂症」(無動性、拒絶性、無言性)といってみたり、<強度=ゼロ>としての「自閉症」といってみたりして、器官なき身体の具体的な様相を強調している。器官なき身体を主張するアルトーは、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神を告発せざるを得ない。アルトーにとって神は無理やり有機体化を迫る強姦加害者でしかない。
「器官なき身体は叫ぶ。おれは有機体を強いられた。不当にもおれは折り畳まれてしまった。おれの体は盗まれた。神の裁きは、器官なき身体をその内在性からはぎとり、これに有機体、意味作用、主体をでっちあげる。まさに器官なき身体が地層化される」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.326」河出文庫)
いま、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神、と述べた。けれども宗教はどんな宗教であれ、無理やり「理想的に勃起した男性器《としての》有機体」化を迫る神、を持たない宗教はないと言わねばならない。その意味で今の世界は「神々」に満ちていると告発されねばならないだろう。そして宗教戦争は今なお「道徳戦争」でもある。日本を忘れアジアを忘れアフリカを忘れ中南米を忘れることに忙しい日本人の中で、アメリカにばかり媚びる人々がいつも口にする「国際社会」とかいう馬鹿げた道徳共同体が、さらなる流血を、さらなる殺戮を、さらなるホロコーストを、準備するのだ。「道徳」の名において。信仰の証として《貨幣》を要求する諸宗教。諸宗教はもうとっくの昔から「資本の神」《として》「資本を守護」していたのである。
「もろもろの宗教戦争と並んで絶えず《道徳戦争》が行なわれている。これは、一つの衝動が人類を《おのれの支配下に置こう》と欲しているということにほかならない。そして諸宗教が死滅すればするほど、この格闘はそれだけますます《血なまぐさく》なり《目に見えるように》なるであろう」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七一七・P.350」ちくま学芸文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM