成熟せよ、と言われても、成熟とは果たして一体どういうことか。アメリカにはそのことがよくわかっていない。あるいはとうの昔に忘れてしまった。そしてただ自分一人だけで荒れ狂い、さまよい続けて、場合によってはところどころ崩壊して腐臭を放っている。端的に言ってアメリカというケースは想像的幻想的(=妄想的)な、さらなる「成熟」を目指して結局のところ未熟へ転倒しているように見える。その「成長」戦略の基本となっているのはヘーゲル哲学であり、そのさらなる精神医学的分枝が(教育現場へも応用された)エリクソンによる精神分析ではなかろうか。この方向を新自由主義経済路線に合致させると、いま現在のアメリカが、とりわけその若年層/青年層の思想と行動とが出来上がって見えてくるように思える。デリダはいう。
「ここでは『テクスト』のいくつかの指標に表面上話を限ることにするが、それは、『テクスト』ーーー古典的な狭い意味での『テクスト』ーーーと『実在』との関係が賭けられている地点に今われわれがいるからであり、テクストや<テクスト-外>といった概念が、また両者の関係の変容が、そしてこの変容の実践的かつ理論的問題に関わる序文(われわれはこの序文のなかにいる)が問題だからである。われわれを引きとめ、そしてわれわれを制限するようにも見える新たなテクストは、テクストの古典的表象を無限にはみ出すものでもある。このはみ出し、この<境界-画定=境界-除去>は、ヘーゲル論理学との、そしてそこに集約されるすべてのものとのわれわれの関係の形について読みなおしを迫る。(哲学的概念ーーーすなわち概念そのものーーーから見た)徹底的な他性へ向けた不法侵入〔こじ開け〕は、《哲学では》、つねにア・ポステリオリと経験主義という《形式》をとる。しかしそれは、自己の外を記載(理解)するためには、その否定的な像を同化するしかない哲学の、その鏡面反射〔思弁的反省〕の一効果である。散種が書かれるのはこの鏡の裏ーーー裏箔ーーーにであって、自己の転倒した幽霊のうえにではない。また自己の昇華作用の三位一体的で象徴的な秩序のなかにでもない。経験主義の仮面を被ってみずからを書きながら、思弁をひっくり返すことによって《他のことをも為す》もの、ヘーゲルによる序文の止揚を実行不可能にするもの、これを知ることが肝心なのだ。この問いは、慎重な、差異ある、ゆっくりとした、重層的な読解を課さずにはおかない。この問いは、たとえば、マルクスのテクストにおける『始まり』のモチーフに関わるに違いない。マルクスも大『論理学』でのヘーゲルと同じように、『あらゆる学において始めが難しい』(『資本論』第一版の序文、一八六七年)と認めているが、彼は自分の書く導入部のエクリチュールに対して、ヘーゲルとはまったく違った関係をもつ。彼がまず避けようとするのは形式的な《先取り》である。もちろんヘーゲルも同じだった。しかしマルクスの場合、期待される『結果』、すなわち導入部に先立ちそれを条件づける『結論』は、概念の純粋規定ではないし、ましてや『基礎づけ』などではない」(デリダ「書物外」『散種・P.47~48』法政大学出版局)
大「論理学」。二種類ある。一つはヘーゲルの「大論理学」。もう一つはマルクスにとっての「大論理学」=「資本論」だ。両者はそっくり似ているようで実際にも似ているのだが、決定的な違いがある。そしてこの違いがヘーゲル=エリクソンを経由した「帝国主義的アメリカ」という病を発症させるか発症させないかの大いなる違いとして作用したと見ることができる。しかしまず、マルクスによる二つの「序文」を参照しなければならない。あらかじめ「期待される『結果』」に始めから狙いを定めた合目的的「先取り・先廻り」を回避するために。
「そのはじめの二章が本書の内容をなしている。すべての材料は独立論文のかたちでわたくしの手もとにあるが、それらは、出版するためにではなく、自分自身にはっきりさせるために、それぞれかなりの期間をおいて書きおろされたものである、そしてそれらを右の計画にしたがってまとまったものにしあげられるかどうかは、外部の事情によるであろう。ざっと書きおえた一般的序説を、わたくしはさしひかえることにする。というのは、よく考えてみると、これから証明していこうとする結論を先廻りして述べるようなことは何でも邪魔になるように思われるし、それに、いやしくもわたくしについてこようとする読者は、個別的なものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである。これに反して、ここでわたくし自身の経済学研究の経過について二三のことを簡単に述べておくことは、おそらく当をえたことではなかろうかと思う。ーーーこのように研究のあるものは、しぜんと、一見まったく関係のないような諸学科に手をつけさせ、わたくしはその勉強に多かれ少なかれ時間をついやさなければならなかった。だがとりわけ、わたくしの自由になる時間は、生計の資をえるというやむをえない必要のためにけずられた。一流の英米新聞である『ニューヨーク・トリビューン』への、これまで八年にもなるわたくしの寄稿は、本格的な新聞通信を、ただ余分な仕事としてやるわけだから、わたくしの研究をはなはだしく分裂させずにはおかなかった。けれどもイギリスや大陸での顕著な経済上の出来事についての論説が、わたくしの寄稿のかなり重要な部分を占めていたので、わたくしは本来の経済学の学問的領域外にある実際上の詳細にも精通しないわけにはいかないことになった」(マルクス「序文」『経済学批判・P.11~17』岩波文庫)
「ここにその第一巻を読者におくるこの著作は、一八五九年に刊行された私の著書『経済学批判』の続きとなるものである。ーーーまえのほうの著書の内容は、この第一巻の第一章に要約してある。そうしたのは、ただ関連をつけ完全にするためだけではない。叙述が改善されている。以前にはただ暗示されただけの多くの点が、ここでは、事情の許すかぎり、さらに進んで展開されており、また反対に、あちらでは詳しく展開されていることが、こちらではただ暗示されるにとどまっている。価値理論および貨幣理論の歴史に関する諸節は、今度は、当然のこととして、全部なくなっている。とはいえ、以前の著書の読者は、第一章の注のなかにこの理論の歴史のための新たな資料が示されているのを見いだすであろう。なにごとも初めが困難だということは、どの科学にも言えることである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.21」国民文庫)
デリダはこう続ける。
「かくして、大<論理学>への追伸の非対称的空間が浮かび上がる。無限に差異づけられた一般的空間。なるほど、この空間は、どの追伸もそうであるように、表面上従属的で派性的であるが、しかし、それは歴史の非-回帰の力であって、みずからの充溢した発話(パロール)において真理を回復し宣言するロゴスの、その想起的家内性におけるいかなる円環的再-理解〔再-包含〕にも抵抗する」(デリダ「書物外」『散種・P.50』法政大学出版局)
マルクスによる大「論理学」=「資本論」への「追伸」は「いかなる円環的再-理解〔再-包含〕にも抵抗する」。逆にヘーゲルの場合、序文と本文との関係は基本的に同一(「円環的再-理解〔再-包含〕」)でしかない。つまりヘーゲル「大論理学」(「精神現象学」=「精神現象学・序文」=「小論理学」=「小論理学・序文」というふうに同一回帰的な)序文は、ヘーゲル自身があらかじめ設定〔概念規定〕しておいた本文の「結果/目的」に要領良く着地させるため、本文へ手際良く導けるよう本文を要約〔反復的先取り〕して纏めたものに過ぎない。序文と本文は実質的に作為的同一物であり、結局、同じところを何度も繰り返し円を描いて自己回転=自己満足するほかない強引に整序化された配置作業でしかない。その一方、マルクスでは序文において既に様々な「読み」を許す重層性=自然発生的外部の肯定=無限の差異的空間が生じている。あらかじめ「期待」され「設定」された「結末」(=「結果/目的」)が準備万端用意されて待っているに過ぎない「閉じた歴史-物語」ではなく、逆に「外へ」無限に開かれた差異的空間性を開始〔Come on 外部〕する序文になっていることを序文自身において「宣言」している。ゆえに本文はいつでも「開閉可能」なのだ。
従ってデリダはいう。
「序文はひとつの虚構である。ーーーしかし、前者{ヘーゲル}では、虚構は意味に奉仕しており、真理が虚構の(真理)となっており、虚構の関係物はある位階秩序へと整序され、概念の付属品として自分自身を運び去り、自己を否定する。他方{マルクス}の場合は、あらゆる模倣論の外で、虚構はみずからを見せかけ(シミュラークル)として肯定し、さらにこのテクスト上のふりの作業にもとづいて、書物の目的論が暴力的に虚構を従属させなければならなかったときに用いていた対立のすべてを解体するのである」(デリダ「書物外」『散種・P.52』法政大学出版局)
ヘーゲル弁証法は物事を手前勝手に設定した後で終わりから振り返り眺める。振り返ることに問題はない。むしろ振り返ることは歴史検証の上で必要な反省という手続きの出発点である。けれども、問題としてその作業過程の中でヘーゲルは恣意的に対立点や矛盾点を見出し、唯一絶対的な歴史を創作・捏造する。多元的ヒストリーではなく「物語」(ストーリー)だ。従って、物凄く「体系化」されて「見えて」しまう。しかしマルクスはヘーゲルの方法にならいながらもヘーゲルのようにあらかじめ「先取り・先廻り」したりは決してしない。逆に自然発生的な叙述方法を取っており、その分、あらかじめ「先取り・先廻り」などできないしできるわけもない。してはならないと言わねばならない。だからマルクスの場合、「先取り・先廻り」を回避しつつ「外」に対して常に「自動開閉的」な態度を取ることで、あらかじめ作られた一本調子(単線)の「物語」(ストーリー)を否定・解体してしまう。従ってマルクスのテクストは決して「単線」ではない「多元的・多層的・多重的」構造を持つこととなった。
要するに、ヘーゲルでは「原因」と「結果」が逆倒している。従って、ものごとを正しく把握するためにはこの逆倒を正立させねばならない。ニーチェはいう。
「『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実であるーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。
全『内的経験』は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということーーーまた、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因はほんとうの原因に対応するということは絶対にない、ーーーそれは、以前の『内的経験』を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのでありーーーそのため『内的経験』は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの『外界』は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは『事物』その他の図式でもって外界を解釈するのである。
私たちが『内的体験』を意識するにいたるのは、ようやく、個人が《理解する》ことのできる言葉をそれがみいだしたのちーーー言いかえれば、或る状態が個人にとって《いっそう熟知の》諸状態へと翻訳されたのちにおいてであるーーー。『理解する』とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四七九・P.24〜25」ちくま学芸文庫)
さて、アメリカで実際に病人を常時続出させて止まない、ヘーゲル=エリクソンのラインはどうだろう。エリクソンはこう述べている。
「かれらが、時々は病的に、そしてしばしば奇妙なくらいに心を奪われているのは、自分が感じる自分の姿よりは、他人の眼に映った自分の姿であり、また、かつて習得した役割や技能と、その時代の理想像とをいかにして結びつけるかという問題である。かれらは、新たな連続性感や同一性感を探求するが、それはいまや、性的成熟をそのなかに包摂しているものでなければならない。また、それらを探求する際に、何人かの青年は、恒久的な偶像や理想像を最終的なアイデンティティの保護者として設定する前に、かつてのもろもろの危険をもう一度しっかりと支配しなければならない。かれらが、なかんずく必要とするものは、アイデンティティのさまざまな構成要因ーーー今までの論述では児童期にその原因を求めていたのだがーーーを統合するための猶予期間(モラトリアム)である」(エリクソン「アイデンティティ・P.167」金沢文庫)
「猶予期間(モラトリアム)」がキーワードになる。ところがしかし、アメリカでは、「猶予期間(モラトリアム)」とは実質的に何のことをいうのだろうか。
「発展する技術に関して才能があり、しかもよく訓練された青年の場合には、またしたがって、創造的能力を要求する新たな役割と一体化し、より潜在的なイデオロギー的見解を受け入れることのできる青年の場合には、青年期はほとんど『荒れ模様』ではない」(エリクソン「アイデンティティ・P.169」金沢文庫)
しかしそのような青年はまずいない。なのでーーー、
「これが与えられないときには、青年の心は、より顕在的に、イデオロギー的になる」(エリクソン「アイデンティティ・P.169」金沢文庫)
さらにアイデンティティを考える場合、アメリカでは「職業」というものが大変な重荷になってのしかかってくる。
「一般的にいえば、青年の心を最も強く動揺させるものは、職業的アイデンティティに安住できないという無力感である。青年は、かれらの集団を維持させるためには、派閥や仲間の英雄と自分とを、一時的にではあれ過剰なほどに同一視するのである。それは、明らかな個性をまったく喪失してしまうのではないかと思われるほどである」(エリクソン「アイデンティティ・P.172」金沢文庫)
また、ただ単に「資本主義社会」と言ってもアメリカは今や「新自由主義」の最前線でありその最高司令部でもある。いついかなる時にでも「自由」に職業選択(離職含む)でき、同時に、「自由」に合理化(解雇)されうる労働環境が全土をおおい尽くしている。そればかりか、様々な困難な諸事情を受け持った同盟国をも同一のイデオロギーで侵食〔自己固有化〕し、他国特有の重層的文化的社会がそれに相入れようとなかろうと、ほとんど有無を言わせず極めて尖鋭的な同一価値観を輸出・感染・蔓延させつつある。そしてそこから新しい「世界文学」もまた生まれ出てくるのだろうがーーー。ともあれ、「職業的アイデンティティに安住できないという無力感」。もっともかも知れない。常にそのような払拭できない不安の中で、心身のバランスを壊さないで生きていける青年がどれほどいるというのだろうか。次のような次第だ。
「すなわち、肉体の各部分が急激に変化するときや、生殖的思春期に肉体や想像力がさまざまな衝動によって満ちあふれるときや、異性の人と親しく接する機会が近づいたり、強制されたりするときや、あまりにも数多くの相対立する可能性や選択肢のなかからどれかを選ばねばならぬという形で、直接的に将来の選択に直面するとき、などである。青年は、そのような不安を感じる間は、派閥を作ったり、自分たち自身や自分たちの理想や敵をステレオタイプ化することによって、一時的に互いに助け合うだけではない。かれらは、避けることのできないさまざまな価値の対立のまっただなかで、互いが忠誠心を保ち続ける能力をもっているかどうか、いつも試験し合っているのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.173」金沢文庫)
アメリカ式の「成熟」あるいは「成長」過程。「自分たち自身や自分たちの理想や敵をステレオタイプ化する」。何と過酷で自分勝手なことだろう。また一本調子(単線)の激しさだろう。選択肢は様々だがそれを見て本当に価値ある「自由」な国家のイメージが湧くだろうか。むしろ相反してはいないだろうか。逆に「不自由」ではなかろうか。選択肢が多過ぎて心身ともに疲弊してしまう上流階級の青年層。選択肢がなさ過ぎて心身ともに荒廃してしまう下層階級の青年層。消えゆく中間層。計り知れないアンバランスが支配している。余りといえば余りにも急加速度的な競争(狂騒)状態と呼ぶほかない。さらにまた「ちょっと休憩」することも許されない。もし仮に休憩が許される場合もあるがそれは労働者の心身を雇主が気遣うからではまったくなく、労働者の権利上の問題でもない。むしろ身体を休めてインターバルを取らせることで、労働者の「休憩」が雇主にとって「労働力の合理的休止」へと置き換えられて、結果的に中央集権的⇔多国籍的大資本だけが持つ特権的生産性に資する場合にのみ限られた「休憩」となるのである。そこでは「休憩」もまた「労働」なのだ。しかも労賃が支払われない不払い労働である。「休憩」だからだ。それは「休憩」さえも「労働」と化したが決して賃金が支払われることのない何か珍妙な未来社会である。ゆえに大いに問題含みである点で括弧入れされた「休憩」と明確に表記されなくてはならないだろう。しかしこれでは何だか旧ソ連の収容所社会を再び覗き込んでいるような奇妙な既視感に襲われそうにならないだろうか。ここに、ヘーゲル的な同一の「成長」神話が湧き出し続け、同一の「成長」神話が押し付けがましく常に既に回帰してくる条件の再-出現を見ないだろうか。かつてあった実質的高度経済成長期が再び訪れることでもある「かのような」幻想をほのめかしつつーーー。
「《アイデンティティの混乱》ーーー『お母さん、ぼくは何か人生って奴を、しっかりとつかんでおくことができないんだよ。全然できないんだよ』。そのような板ばさみ状態が、自分の人種的・性的なアイデンティティにたいするかつての強力な疑惑に基礎づけられている場合には、または、役割混乱が長期にわたる絶望状態につけ加わる場合には、非行的で『境界線的な』精神病的問題が生れるのは、まれではない。アメリカ的青年期という冷酷なる規格製品によって強制される役割を取得するほどの能力のない自分に気づいて、まったくうろたえてしまう青年ならだれでも、何らかの方法で、つまり、学校を中退したり、離職したり、一晩中家に帰らなかったり、奇怪で近寄り難いような瞑想(めいそう)の世界に引きこもったりして、そこから逃げ出すのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.171~172」金沢文庫)
事実、精神病者がうじゃうじゃ発生してきたのもうなずけてしまえそうだ。しかし一九七〇〜八〇年代には有効な対処法があった。逆説的だがエリクソン理論自身が有効に機能したのだ。次のことがしっかり踏まえられていた。
その一つ。
「青年期に特有の動態的な状況を無視するような診断や社会的判断を下したり、かれをその上さらに型にはめこんだりしないということ、これこそかつては『非行少年』であったとはいえ、現在のかれが最も強く望むものであり、またそれこそかれの唯一の救いである場合がしばしばあるのである。ーーーアイデンティティの混乱という概念が実際に臨床的な価値をもってくるのは、まさにこの点においてなのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.172」金沢文庫)
青年期には誰しも迷走しがちなものだ。「非行少年」「不登校」「引きこもり」など「症候」としては様々だが、まさにそれこそが、とりわけ「青年期/思春期」にその個人が「最も強く望むものであり、またそれこそかれの唯一の救いである場合がしばしばある」という共通認識が社会的な規模で許容されていたということ。「非行少年」「不登校」「引きこもり」などといった態度を頭から否定するのではなく、まず冷静に受け止め「承認する」という余裕が大人社会の中にあり、そのような大人社会の余裕ある対応が、「非行少年」「不登校」「引きこもり」などといった態度を示しがちな迷える青年層の自己肯定感を少しづつ養っていったのだ。
ひるがえって、現今のアメリカの大人社会はどうか。表面上問われているのは青年期の言動・内面の動きではあるけれども、その実、本当に問われるべきは例えば「ベトナム戦争」の敗北に対して大人たちが示した「否認」の態度であり、さらにアメリカの子供たちの青年期を荒廃と混乱の極致に導いたのは、敗北などなかったとするばかりか、事実を無視して「否認」するのではなく、もっと根の深い深刻な倒錯=「記憶からの《排除》」という症候である。フロイトによれば、「否認」は事実を認めていながらもそれを感情的レベルで抑圧・否定しているに過ぎないのだが、一方の《排除》は事実を完全に忘れ去るという極めて特殊な《症候》である。実際にあったことをなかったことにしてしまう。しかしそれは極めて単純に考えてみたとしても決定的に不可能な作業だ。従って《排除》された記憶は、或る迂路を経て外部から再び舞い戻ってくるという形式を取る。そしてこの外部からの舞い戻りは、往々にして、《幻覚・幻聴》という形で何度も執拗に繰り返され、思いもよらない時に突如として出現する《精神錯乱》の一種として精神病に罹患した者を果てしない苦悩・矛盾・逆説・絶望の淵にまで追いやる。苦悶に満ちた体験が何度も繰り返し現れるということが顕著な点でそれは「死の本能」と呼ばれる。
二点目。「児童期と青年期の中間に位置する学校時代」という生活環境への対応。
「生徒は、規律を自分のものにするだけではなく、自分が規律そのものになってしまうのを放任しさえする。つまり、役に立つもののみを善だと考え、ものごとがうまくいっている場合にのみ自分は人に受け入れられているのだと感じ、人を操作し、人に操作されることを正しいと思うーーーそういうことが、かれにとって支配的な喜びと価値になってしまうのだ。そして、技術的専門化というのは、人間の群、部族、文化の体系や世界像の本質的な一部分である以上、労働の道具にたいする人間の誇りは、他の人間や他の種に対抗するための武器にたいする誇りにまで拡大するのだ。この誇りは、動物の世界においてすら珍しいような冷酷な狡猾性や無限の残忍性を含んでいる」(エリクソン「アイデンティティ・P.328」金沢文庫)
その「未熟さ」をただ単に未熟として切り捨ててしまうのではなく、逆に、そこに宿っている成長へのエネルギーを《個人の特性に即して》無理なく方向付けてやるということ。その点に関し、アメリカの「かつての」教育はまったくすべてが間違っていたとは決して思わないのだ。ヘーゲルを肯定的に読むことができるのもこうしたところだ。
差し当たり注意しておくべきことは、このエピソードはなるほど「児童期と青年期の中間に位置する学校時代」のこととされている点である。「児童期と青年期の中間」という概念は、むしろ、「青年期」(モラトリアムとその必要性)という概念を打ち立てることで「大人と子供」を分割した時、さらなる分割として始めて出現可能になった概念ではなかったか(フーコー「狂気の歴史」新潮社、等々参照)。
まだある。
「発達の過程を通して、人間は、学習する動物であるとともに、教授する動物にもなってきた。なぜなら、依存と成熟というのは互恵的なものだからである。つまり、成熟した人間は、自分が必要とされることを欲するものであり、また成熟というものは、世話をしてあげねばならぬものの天性によって導かれるものだからだ。したがって、《創出性》というのは、基本的には次の世代を作り上げ、指導するための関心事なのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.181」金沢文庫)
課題に次ぐ課題、ではなく、課題そのものがもはや過積載であり、しかも永遠に終わりのないものでもある。そのような社会の中で「成長/成熟」した人間とは一体どんな人間なのだろうか。何をどう考えて自らに課せられた倫理を実践に移していけるのだろうか。まずもって、これは実際のところ、本当に実現可能な「成長/成熟」のプランだと言えるだろうか。ともあれ、そこから生まれた民主主義の結果がトランプ大統領になるのは果たしてなぜなのか。自然の成り行きと言えるだろうか。不可解この上ない。いつ頃から一本調子(線的)で何ら面白味のない帝国主義大国へ舞い戻ったのか。むしろ多元的・多層的・多重的な多様な国家なのではなかったろうか。頭がどうかしてしまったのかも知れない。違ってしまったのだろうか。だが、その謎にはずっと昔に、ニーチェが大変まっとうな答えを与えている。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)
アメリカ国民のことが逆に気の毒に思えてくる今日この頃ではある。
BGM