白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

マスコミ理性批判

2018年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
裏切るのは感性あるいは身体ではない。理性のほうこそ裏切るのだ。なぜか。

「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。人間の理性が、かかる窮境に陥るのは、理性に責めがあるわけではない。理性は原則から出発する、そしてこれらの原則は、経験の経過においては必ず使用せられねばならないものであると同時に、この使用は経験によって十分に実証せられているのである。かかる原則をもって理性は(その自然的本性上、必然的にそうせざるを得ないので)条件からそのまた条件へと条件の系列を遡ってますます高く昇っていく。しかし問題はいつになっても尽きるところを知らないので、理性はこのような仕方では自分の本務がいつまでも不完全な域にとどまっていなければならないということに気づくのである。そこで理性は、一切の可能的な経験的使用を越えるにも拘らず常識とすら一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるを得なくなる。ところがそのために理性は、昏迷と矛盾とに陥いる、そしてなるほどこれらの昏迷と矛盾とから、どこかに隠れた謬見が根底に潜んでいるに違いないことを推量しはするものの、しかしこれを発見することができないのである。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超出しているので、経験による吟味をもはや承認しないからである」(カント「純粋理性批判・上・P.13~14」岩波文庫)

理性はただ単に「理性」と呼ばれているだけでなく実際にそうであるように取り扱われている。「モラル」あるものとして信じられ何らの疑いも立てられずにいる。しかしカントは何と言っているだろうか。理性は難問の解決に当たって、ともすればいとも安易に経験の限界を超出していく、と述べてはいなかったか。そうして理性は超越論的な「越権」によって「神」「自由」「不死」といった難問を「理論的」(思弁的)に、要するに「一方的」に「解決」してしまい、自分だけで満足する。だがこのような理性による天上への自己満足は明らかな転倒に過ぎない。さて、どうすればよいのか。「要するに」とカントはいう。

「要するに、思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を《奪い去らぬ》限り、私は《神》、《自由》および《不死》〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために《想定》することすらできない」(カント「純粋理性批判・上・P.43」岩波文庫)

理性からその「越権」を剥奪すること。ともすれば理性がしばしば侵してしまいがちな「空論的」(理論的)なだけの自己満足的解決あるいは自己満足的解釈を廃棄すること。なぜなら、「理論的に《認識》し得る一切のもの」とカントは言い、ただ単に「理論的」にであれば、それこそありとあらゆる事象を「現実」として認識してしまうことも可能となってしまうため、そのような転倒した事態の発生を退けようとしたからだ。ところで、そんな転倒に陥ってしまわないためには感性ではなく理性をこそ疑惑の対象としなければならない。と同時に、理性を、あくまで「実践的」(現実的)な吟味の内に据え直さなければならなくなってくる。

しかしカントを思い出したのにはわけがある。単純にそう思い返さずにはいられない事態が二〇一八年の日本を通して発生したと思うからだ。再認識させられた一年だったと感じる。なぜだろうか。沖縄の米軍基地問題を始めとした安倍政権の暴挙を上げればそれで済まされるような問題だからか。違うだろうと思う。マスコミ(主にテレビ)報道は沖縄の基地問題を、特に「土砂投入」を、どのように取り扱ったか。ただ単に報じたというだけか、または局によっては平然と問題のすり替えまでやっていた。時間の無駄。無駄に電気代をかけてしまった。テレビ報道の世界の「理性」とはまったくもってそういうものでしかなのかも知れないが。

そのようなわけで何かとお騒がせな日米安保条約だが、日米安保条約は日米首脳陣同士の間での、そしてその限りでの条約だ。しかし日米首脳陣とは何か。民主主義的選挙によって選ばれた人々のことだ。ならば人格が条約化したものだと言える。昨今は逆に条約の人格化としても定着してきた感すらある。仮にだが、もしこの条約が人間だとしたら、この条約に向かって、どのような評価を与えればいいのだろう。などと考えていると、頭がどうかしてしまいそうになる。精神的身体的な苦痛を伴わずにはいられない。事実、アレルギー症状が出るのだ。皮膚の痒みや喘息などーーー。そこで、本来なら自分の言葉で述べるべきなのだが、不本意ながらもここはあえてニーチェに代弁してもらうことにしたい。こうだ。

「わたしはおまえの軽蔑(けいべつ)を軽蔑する。そしておまえがわたしに警告するならーーーなぜおまえはおまえ自身に警告しないのか。

わたしはわたしの軽蔑とわたしの警告の鳥とを、ただ愛のなかから飛び立たせることにしている。沼のなかから飛び立たせるのではない。

泡を吹き立てる阿呆よ、世人はおまえをわたしの猿と呼んでいる。しかしわたしはおまえを不平豚(ふへいぶた)と呼ぶ。ーーー不平をうなり散らすことによって、おまえはわたしの物狂い礼賛の意志をも台なしにしてしまう。

いったいおまえを不平の豚にしたそもそもの原因は何か。それはだれもおまえの気に入るようにおまえに《媚び》てくれないということだ。ーーーそれでおまえはこの汚穢所(おわいじょ)にすわりこんだのだ。たえず不平をうなり散らす種(たね)に不自由しないために。ーーーたえず《復讐》をする種に不自由しないために。虚栄心にかられている阿呆よ。つまりおまえが吹き立てている泡のすべては、復讐なのだ。わたしはおまえを見抜いている。

だが、おまえの阿呆のことばは、それに理がある場合でも、《わたしに》損害を与える」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・通過・P.283~284」中公文庫)

BGM

アレントその可能性の内乱

2018年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
26日/朝日新聞夕刊/4面/テーブルトーク。

「生活に占める労働の割合 考えたい」とのタイトルで百木漠(立命館大専門研究員)の著書に関し、百木へのインタビューを通して記者が次のようにまとめている。ハンナ・アレントに関する。前回のブログでアレントを読み返すと述べたが、面倒なのが本音だったこともあり、ここでその代弁を務めてもらうことにしたいと思う。以下、引用。

「ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントとマルクスを中心に労働について研究し、著書『アーレントのマルクス』(人文書院)で労働と全体主義についてまとめた。

アーレントは『マルクスは労働を人間の営みとして賛美した』と批判し、肥大化した労働が人びとをを私的利益の追及へと走らせ、公共的なものの衰退を招き、全体主義へとつながると説いた。だが、百木さんは『アーレントはマルクスを誤読していたが、そこにアーレントの労働思想があり、両者は近代資本主義への批判意識では共通していた』とみる。

大学卒業後、3年間会社勤めを経験した。『残業も多く、日本人の働き方に疑問を持った』。非正規雇用や格差社会、長時間労働、過労死などが社会問題化されつつあった。隣人との対話や政治的議論、ボランティアなど社会的活動の余裕さえない。そこに全体主義への道が開かれているのではと考える。『生活の中で労働の占める割合が大きくなり過ぎている。アーレントの思想を手がかりに働き方を考えていきたい』」

以上。

次にアレントから何ヶ所か引用してみよう。

「近代における労働の解放は、万人に自由を与える時代をもたらさないだけでなく、反対に、全人類をはじめて必然の軛(くびき)のもとに強制するという危険は、すでにマルクスによってはっきりと感じられていた。彼は、革命の目的は、すでに完成された労働階級の解放ではありえず、労働から人間を解放することにあるのでなければならないと主張していたのである。最初一見すると、この目的はユートピア的に見え、マルクスの教義における唯一の、厳密な意味でユートピア的な要素であるように思われる。マルクス自身の用語でいえば、労働からの解放とは、必然〔必要〕からの解放である。これは究極的には、消費からの解放であり、したがって、ほかならぬ人間生活の条件である自然との新陳代謝からの解放を意味する。しかし、ここ十年ばかりの発展を眼にし、とくにオートメーションがますます発達したために開かれた可能性を眼にすると、昨日のユートピアが明日のリアリティになるのではないかと疑っても当然であろう。もし、そうなれば最終的に人間の生命を拘束している生物学的サイクルに固有の『労苦と困難』として残るのは消費の努力だけであろう」(アレント「人間の条件・P.192」ちくま学芸文庫)

「ユートピア」。なるほど。マルクス主義を恣意的に擁護するつもりは全然ない。しかしマルクス主義ではなくマルクスに限って言えば、マルクスはところどころでユートピア思想に言及しつつ事実上のユートピア批判を行っているのではなかったか。第一に共産主義の定義にしてからが、ともすればあちこちで発生しがちなユートピア思想に対する批判だ。

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71(岩波文庫)

さらに。

「われわれは世人に対して教条主義的に新しい原理をふりかざして、ここに真理がある、ここに跪け!というように立ち向かうのではありません。ーーーわれわれは世人に対して、君の闘争から手を引け、そんな闘争は愚かなことだ、われわれが君に闘争の真のスローガンを呼びかけてあげよう、などと言いはしません。われわれは世人に対して、ただなにゆえに彼らが本来たたかっているのかという理由を示すだけであって、そして意識とは、世人がそれを獲得しようと思わない場合でも、獲得《しないではいられない》ものなのです」(マルクス「マルクスからルーゲへ」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.145』岩波文庫)

こうも。

「労働者階級は、コミューンから奇蹟を期待しはしなかった。彼らは《人民の命令》〔布告〕によって、はじめられるべき、何らでき合いのユートピアをももたない」(マルクス「フランスの内乱・P.103」岩波文庫)

またこうも。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

「それを知ってはいないが、しかし、それを行う」という叙述に至っては、フロイトを思わせる点はさておき、ユートピアどころか逆にディストピア化を覚悟の上での真っ暗闇での賭けでしかないことの強調であり、有名な言葉で言えば「命懸けの飛躍」なのではないだろうか。

次のような、いわば「奥ゆかしい」受動的態度にも注目すべき点がある。

「すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)

アレントの文章に戻ろう。

「将来のオートメーションの危険は、大いに嘆き悲しまれているような、自然的生命の機械化や人工化にあるのではない。むしろ、その人工性にもかかわらず、すべての人間的生産力が、著しく強度を増した生命過程の中に吸収され、その絶えず循環する自然的サイクルに、苦痛や努力もなく、自動的に従う点にこそ、オートメーションの危険が存在するのである。機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、強めるであろう。しかし、それは、世界にかんして生命がもつ主要な性格ーーー耐久性を食い尽すことーーーを変えるのではなく、逆にそれをもっと恐ろしいほど拡張するだろう」(アレント「人間の条件・P.193~194」ちくま学芸文庫)

例えばインターネットを始めとする諸機械の全世界的普及はそれに従事するすべての労働者の働き方を人間の側にではなく諸機械の側の操作手法に適応させる。

「『教師としての機械』。ーーー機械は、群集的人間のーーー各人がただひとつのことだけをすればよいような動作がなされるときのーーー歯車の噛み合い(一致協力)を身をもって教える。つまり機械は党派の組織や作戦用兵の模範となる。他方機械は、個人的な自主性を教えない。かえって機械は多数の人間から《一つの》機械を作り、個々の人間からは《一つ》目的への道具を作る。機械の最も一般的な効果は、集中の利益を教えることである」(「人間的、あまりに人間的2・二一八・P.433」ちくま学芸文庫)

しかしそれと共にかつては五人で三ヶ月間かかった仕事が今ではたった一人で三時間でできるようになった。一日八時間労働として必要労働が三時間で済むのなら、残りの五時間は労働から解放されて「余暇」や「休暇」に廻すことが可能になるはずだ。ところがそう単純にことがはかどるわけではない。一日八時間で契約している限り、残りの五時間もまた同様に労働しなくてはならない。「契約」=「約束」は死守されねばならない。それこそ社会の掟である。むしろ、残された五時間分は始めの三時間分と同様に有効活用されなくてはならず、必要労働が三時間で済んだからといって残りの五時間も同様に働くことを何ら妨げはしない。逆にもし「余暇」や「休暇」に廻すことが時間的に可能になったのなら、その「余暇」や「休暇」を率先して「消費」に当てさせようとする社会的強制力の暴力性によって「消費行動」さえも「労働」として感じ取られるようになる。「消費」は自動的に、なおかつ無意識的に「仕事の続き」である「かのように」感じ取られる転倒が起こる。そしてこの転倒した傾向は転倒したまま次第に速度を増し、暗黙のうちに強制的暴力性を増大させていく生活態度を常態化させる。何らの契約変更もなしに「延長された労働」とでもいうべきか。とはいえ勿論、この場合に顕在化するだろう「労働」と化した「消費」だが、それは名目上どこまでいっても「余暇・休暇」の規定範囲を出ない。法的契約でもあるからだ。従って、テクノロジーのグローバルな発展に伴って時間的にも空間的にも可能となり拡大もされた「余暇・休暇」が、その実、逆説的に暴力的強制性を持つ「延長された労働」としてしか考えられなくなるにしても、あくまで「余暇・休暇」として規定され「余暇・休暇」として取り扱われる限り、その「消費行動」の内実は、賃金が一切支払われない延長された不払い労働でしかない。こうして、テクノロジーの爆発的発展に伴ってこのような「余暇・休暇」の実質的「不払い労働の延長化」が加速度的に拡張されていく。

また仮に極めて単純な意味で「余暇・休暇」が実現したとしよう。だがそれは直ちに消費に当てられなくてはならない。消費することが社会の至上命題となる。日本では既にそうなってきた。マスコミは大声で言う。日本人の消費行動はバブル崩壊を経て「モノ消費からコト消費へ」変わってきたと。見た目は確かにそうかもしれない。そうだとしよう。しかし「モノ」から「コト」への消費対象の変遷は次の消費対象への過渡的現象に過ぎない。資本主義の真髄はそんな甘ったるいロマン主義的搾取過程などとうの昔に経験・学習し終わっている。さて、「モノ」・「コト」の次は何だろうか。「ココロ」だ。常に不安定な世情の中を生きること、しかも科学的な操作を伴ってより一層高齢化(長期化)した「生命・時間」の「資本化」および「税収獲得」がその狙いだという動かし難い世の動向がある。新自由主義の欲望は「モノ」から「コト」、「コト」から「ココロ」の消費へと対象を次々に置き換えていく。そしてそこからさらなる資本増殖をわがものとして次の投資へといささかの迷いもなく回転させることしか知らない。少子高齢化の先進国=日本は今、世界中の中央集権的多国籍企業ならびに国家政府諸機関から注目を集めている。高齢者の寿命の科学的操作による長期化とともに、社会はいかにして高齢者を守っていくのか、ではなく、長期化した寿命によって生じた資本価値としての高齢者から、世論はいかにして資本を実現するのか。そのベストな方法はどのようなシステムなのかと。

「同一性というのは、労働と消費に依存する社会に一般的に見られ、そのような社会の画一性に表現されている。というのもこの同一性は、共同労働の肉体的経験と密接に結びついているからである。共同労働においては、労働者の集団は、労働の生物学的リズムによって統合され、各人はもはや個人ではなく実際に他のすべての人たちと一つになっていると感じるようになる。このおかげで、たしかに、労働の労苦と困難は和らげられる。それは、行進で足並みをそろえると一人一人の兵士の歩く努力が和らげられるのとまったく同じである。したがって<労働する動物>にとって、『労働の意味と価値は完全に社会条件にかかっている』というのはまったく本当である。すなわち、労働の意味と価値は、『適切にいえば職業的態度』にかかわりなく、労働と消費の過程がどの程度円滑に、また容易に、機能できるかにかかっているのである。困るのはただ、労働によって最良の『社会条件』というのは、ひるがえって人間がアイデンティティを失うような条件であるということだけである。多数者を一つのものにするこの統合性は、基本的に反政治的なものである。この統合性は、政治共同体や商業共同体に一般的な共同性のまさに対極に立つ。これらの共同体の共同性はーーーアリストテレスの例をとればーーー二人の医者の間の団体から成るものではなく、医者と農夫の間、『そして一般的には異なっていて等しくない人びとの間』で成りたつものだからである」(アレント「人間の条件・P.341~342」ちくま学芸文庫)

アレントが引用しているアリストテレスから。

「詳言すれば、かような共同関係の生ずるのは二人の医者の間においてではなくして、医者と農夫との間においてであり、総じて異なったひとびとの間においてであって、均等なひとびとの間においてではない。かえってこれらのひとびとは均等化されることを要するのである」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・上・P.187」岩波文庫)

アレントはこう続ける。

「公的領域につきものの平等というのは、必ず、等しくない者の平等のことであり、等しくないからこそ、これらの人びとは、ある点で、また特定の目的のために、『平等化される』必要があるのである。そう考えると平等化要因は人間『本性』から生じるのではなく、外部から生じるのである。それはちょうどーーーアリストテレスの例を続けるとーーー医者と農夫の等しくない活動力を等しくする外部要因として、貨幣が必要とされるのと同じである」(アレント「人間の条件・P.342」ちくま学芸文庫)

ここで言われている人間「本性」とは何か。ただ単なる人間「存在」のことではないだろうか。そしてそれに価値を与え、さらに与えられた価値を高くもし低くもする要因は「外部から生じる」。もし仮に、二人の人間に対して同一の価値を持つ「貨幣」が一度に与えられた場合、両者はその時始めて同一価値を有する「平等」な人間だと認められる。と同時についさっきまであった両者の間の差異はおおい隠されてしまって跡形もない。外部=貨幣は到着するや否や、或る存在と他の存在との間にあった差異の歴史性を隠蔽してしまう。そういうことだ。アリストテレスとはまた違った意味でマルクスは「貨幣」の「均等化」作用を次のように述べる。

「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にするのである」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)

無数の「共同体」がある。それと同じだけの「生産様式」=価値体系がある。それらの接触から諸商品の「社会的総依存」が生じる。次第により一層巨大な価値体系ができ上がる。「交換」されるのは常に貨幣とでなければならない。さらに共同体がだんだん大きくなるに連れて流通する貨幣の広さも広大になって行く。近代も後期になると世界を制覇した「世界貨幣」の流通によって世界自身が「均等化」される。あるいは均質空間が出現する。

だが均質空間の出現は常にその「同一的価値体系」にまとめ込まれたまま推移してしまうところに問題がある。ソ連の失敗は、労働者の運動がもし仮に政治的な色彩を帯びたものであった限り、いつも既に宿命的に失敗ないし制圧される構造になっていたことだ。というのは、ソ連は名目上は「労働者国家」(労働社会)であり、実際に働いている労働者に何らかの異議があったとしても、ソ連国家(労働者のための政治権力体制)に圧力をかけるということは形式的体系的な矛盾だからだ。従ってソ連における労働運動はただ単なる矛盾と断定され都合良く〔首尾よく〕処理されるほかなくなる。

「今日、労働者はもはや社会の外部にはいない。彼らは社会の一員であり、他のすべての人たちと同じように賃仕事人である。労働運動の政治的重要性は、今では、他の圧力集団の重要性と同じものになっている。もし、人民という言葉を、住民とも社会とも違う真の政治団体と理解するなら、労働者が百年近くもその人民全体を代表しえた時代は去っている。(ハンガリー革命で労働者たちは他の人びととまったく区別がなかった。一八四八年から一九一九年まで、政党ではなく評議会にもとづく議会制度という観念は、ほとんど労働者階級の独占物であった。しかし、ハンガリー革命では、この観念は、すでに人民全体の一致した要求になっていたのである)。労働運動は、そもそも最初からその内容と目的が多義的であった。その上、最も発達した経済をもつ西側世界では、労働者階級は社会の枢要部分となり、独自の社会的・経済的権力となった。またロシアやその他の非全体主義的条件のもとでも、住民全体が『首尾よく』労働社会に組み込まれた。このような事態が起こったところではどこでも、労働運動は、ただちに人民を代表する性格を失い、したがってその政治的役割を失ったのである」(アレント「人間の条件・P.347~348」ちくま学芸文庫)

またこうも。

「私たちは以前は、権力は、人びとが共に集合し『協力して活動する』とき生まれ、人びとが分散する途端に消滅すると述べた。人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる権力と異なり、人びとを一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティをもつ。この場合の主権は、結果的に、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれる。その程度というのは、人びと全員をなぜか魔法のように鼓舞する単一の意志によって結びつけられた人びとの団体の意味ではない。そうではなく、それは、同意された目的によって結ばれ、一緒になっている人びとの団体の主権であり、そこで交わされた約束は、この同意された目的にたいしてのみ有効であり、拘束力をもつのである。完全に自由で、いかなる約束によっても拘束されず、いかなる目的によってもしばられていない人びとにたいし、この種の主権は文句のない優位を極めてはっきりと示している。この優位は、未来を現在であるかのように扱う能力にある。いいかえると、権力が効果を発揮する次元そのものが、まったく奇蹟と思われるほど大きく拡大されるのである。ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたところでは『意志の記憶』)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた」(アレント「人間の条件・P.382~383」ちくま学芸文庫)

要するに「約束をなしうる動物の育成」。全体主義分析の急所がここにある。しかしいかにしてそれが可能だったか。アレントにならってニーチェに触れておこう。

「意識の扉や窓を一時的に閉鎖すること、意識下における隷属的な諸器官が相互に恊働したり対抗したりするための喧噪や闘争に煩わされないこと、新しいものに、わけてもより高級の機能や器官に、統制や予測や予定に(われわれの有機体の組織は寡頭政体だから)再び地位が与えられるようになるための僅かばかりの静穏、僅かばかりの意識の《白紙状態》ーーーこれが、前述のように、心的秩序・安静・礼儀のいわば門番であり執事であるあの能動的な健忘の効用である。このことからして直ちに看取されることは、健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の《現在》もありえないだろうということだ。この阻止装置が破損したり停止したりした人間は、消化不良患者にも比せらるべきものだ(そして単に比せらるべきものより以上のものだ)。ーーー彼は何事にも『決着をつける』ことができないーーーこの必然的な健忘な動物にあっては、健忘は一つの力、《強い》健康の一形式を示すものであるが、しかもこの同じ動物が、今やそれと反対の能力を、すなわちある場合に健忘を取りはずすことを助けるあの記憶という能力を習得した、ーーーここにある場合とは、約束をしなくてはならない場合のことだ。従ってそれは、単にいったん刻み込まれた印象から再び脱却することができないというような受動的な状態では決してなく、また単にいったん質入れして再び請(う)け出すことができなくなった言質の惹き起こす消化不良でもない。むしろ、再び脱却したくないという能動的な《意欲》であり、いったん意欲したことをいつまでも継続しようとする意欲であり、本来の《意志の記憶》である。そこで、本来の『私はしたい』・『私はするであろう』と、意志の真の放出である意志の《活動》との間には、一群の新奇な事物や事情、新奇な意志活動すらもが躊躇なく挿入されうることになり、しかもその際この長い意志の連鎖が断ち切られてしまうというようなことはない。しかし、これらすべての事柄の前提となるものは何か!そういう風に未来を予め処理することができるようになるためには、人間はまず、必然的な生起を偶然的な生起から区別して、それを因果的に考察する能力、遥かな未来の事柄を現在の事柄のように観察し予見する能力、何が目的であり何がそれの手段であるかを確実に決定する能力、要するに、計算し算定する能力を習得してかかることを、いかに必要としたことか!ーーー一個の約束者として《未来としての》自己を保証しうるようになるためには、人間は自らまずもって、自己自身の観念に対してもまた《算定し得べき》、《規則的な》、《必然的な》ものになることをいかに必要としたことか!」(ニーチェ「道徳の系譜・P.62~64」岩波文庫)

「算定し得べき」とある。「計算し算定する能力を習得してかかることを、いかに必要としたことか!」とニーチェはいう。つまりここでは「数学」もまた「体系」の内部で「体系」とともに告発されている。

「『自称学問としての言語』。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)

ニーチェは「数学」を「言語」と共に問題視している。アレントはいう。

「労働社会の最終段階である賃仕事人の社会は、そのメンバーに純粋に自動的な機能の働きを要求する。それはあたかも、個体の生命が本当に種の総合的な生命過程の中に浸されたかのようであり、個体が自分から積極的に決定しなければならないのは、ただその個別性ーーーまだ個体として感じる生きることの苦痛や困難ーーーをいわば放棄するということだけであり、行動の幻惑され『鎮静された』機能的タイプに黙従することだけであるかのようである。近代の行動主義的理論で厄介なのは、それが誤っているということではなく、それが正しいものになったということであり、それが実際に近代社会のある明白な傾向を概念化するのに最も可能性のある方法であるということである。たしかに近代は人間の活動力の先例のない、将来を約束するような爆発力を持って始まった。しかしその近代は、歴史上最も不活発で、最も不毛な受身の状態のままで終わるかもしれない」(アレント「人間の条件・P.500」ちくま学芸文庫)

個別性を喪失した人間、自動人間と化した人間はまだ人間と呼べるだろうか。だからといって、何もここでいわゆる人間主義(ヒューマニズム)の危機を論じたいわけではない。むしろ安易なヒューマニズムの謳歌が一体どのような過程を経ていかに簡単にファシズムへ転倒するかが問題なのだ。容赦しないのは反人間主義でもない。そうではなくて、容赦しないのは民主主義と共に何食わぬ顔で民主主義と共存していて常にそこにある人間社会なのであり、そのような人間社会を人間社会たらしめている「体系」こそ問われるべきなのだ。ところでこの「体系」は何を起源として世界の「体系化」を果たしたのだろうか。インターネット出現の遥か以前にそれは整っていた。貨幣だけでもなく、労働だけでもない。無論、人間だけでもないが、人間が人間として生きていくには最低限必要なものだ。それも観念的理念的(イデアル)なものでは決してなく根本的に物質的(マテリアル)なものだ。さらにそれは他の何よりも「体系」を「体系たらしめ」ている。言語とその「文法」だ。ちなみにニーチェは「特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛」だとする一方、同時に、異なった複数の言語体系の差異(複数の同一的価値共同体の間の差異)が接触する地点で生じる歴史性を見出している。

「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である。ーーー以上は、観念の由来に関するロックの浅薄さを斥けるためである」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.38~39」岩波文庫)

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猫さまざま

2018年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ラカン派精神科医としてと同時に思想家としても知られる斎藤環は実は猫を飼っているらしい。猫の年齢は2015年当時で6才。生きていれば9才になるはずだ。「猫はなぜ二次元に対抗できる唯一の三次元なのか」(青土社)の巻頭を飾る部分で「なぜ猫を飼うことにしたのか」という理由について斎藤が述べている文章が面白い。

簡単に言えば「猫は自立心・自尊心ともに大変高い」と言われているから、らしい。ところが実際に飼ってみるとその甘えっぷりに辟易しているという。隙あらば斎藤のそばに寄って来てはベタベタとカラダを擦り付けてスリスリしたがる。これで「ニャア」と鳴かずに「ワン」と鳴けばそれこそ犬だ、と書いている。読んで思わず微笑してしまった。

ちなみにうちの飼猫タマはまったく逆だ。「自立心・自尊心の高さ」は言語に絶する。まずもって「抱っこ」させてくれない。家族の誰かが下手に「抱っこ」しようものならその人間の甘えに対してひねりを効かせた蹴りを腹部へ的確にねじ込みすぐに跳躍して離れ距離を置く。家族の中で唯一、貰ってきた上に育ててもきた飼主による「抱っこ」だけは少しの間だが許してくれるという始末だ。けれどもタマの気性を知っているのですぐに解放してやることにしている。

もともとタマはノラ猫でさらに生まれて数日も経たないうちに迷子になっていたところを心ある人に拾われてこちらへ貰われてきたという経緯がある。血統書もなければ値段もない。あるとすれば「猫自身」のプライドとその野生的感覚のみであろう。

一、二度ビニール製の「首輪」を付けてやろうとしたことがあった。が、タマはその日のうちに荒れ狂い始め、翌日には「首輪」を噛みちぎってそこらへんにポイと捨ててしまった。人の手による「首輪」はよほどタマの自尊心を傷つけてしまったのか、ストレスのために両目の上を搔きむしり見事な「10円ハゲ」をつくっていた。

年に一度のワクチン接種の際などはもっとひどい。診察台の上に載せられるや否やここぞとばかりに「うんち」を三〜四個連続発射して主治医やスタッフを困らせてしまう。もっとも、恥ずかしい思いをするのは飼主なのだが。そしてこのエピソードは、斎藤環なら直ちにメラニー・クライン「分裂的機制についての覚書」の中で述べられているような「迫害的不安・欲求不満」による「破壊衝動」概念を想起することだろう。つまり猫を人間と比較すると、人間の0歳〜4歳児レベルの行動様式を、猫は1才になるかならないうちに身に付けてしまうということがわかる。

斎藤環は知っているだろうか。愛犬家・愛猫家のあいだではこんな名言がある。

「周囲から愛されて育てられた犬は、自分の周りの人間という存在は何ていい人ばかりなんだろう」と考える。逆に猫は、「周囲からこんなにも愛されて育てられる自分は何て素晴らしく尊く偉い存在なんだろう」と考える、と。

ところで話題は変わるが、昨今アメリカ第一主義と新自由主義の装いを新たにした複合的〔軍事=政治=産業=大学中心の〕多層的な社会形態の大々的変容が民主主義の劣化を踏み台として急激に進行している。わけてもインターネットをはじめとするテクノロジーのグローバル化は僅か数年のうちを見ただけでもまったく様変わりした。大都市ばかりか地方都市の風景/内面/イデオロギーを激変させつつ両者の間に大きな格差を再生産している。

個人的に思うのは、声高に「民主主義を守れ」などと叫ぶだけでは限界があるということだ。かつて柄谷行人が提唱したように、「民主主義プラス𝛂」がいま痛切に必要なのだと思われる。二十世紀のあの全体主義はナチス・ドイツのみによって発生したのではない。むしろナチス党の求心力は当時のドイツを取り巻くヨーロッパ諸国およびソ連がドイツよりも早く全体主義化を成し遂げていたがゆえに、ドイツ国民、とりわけ労働者大衆を不安の渦に巻き込み、その不安と不満をナチスがうまうまと利用したという歴史的事実にじっくりと着目せねばならない。

そんなわけで、しばらくはアレントでも読み返してみようと思っている。彼女はナチス・ドイツだけでなくソ連における全体主義をも経験している。そこから生まれた思想の到達過程にはまだまだ汲むべき部分が少なくないと考えるからだ。

ハンナ・アレント「人間の条件」(ちくま学芸文庫)

BGM

言語としての「人妻」考

2018年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ネット検索してみたところ次のような数値が出た。

「不倫エロ」=5500万件。
「人妻エロ」=1億4200万件。

「不倫エロ」より「人妻エロ」の方が8700万件も多い。圧倒的な差だ。しかし、不倫はいかにして人妻に負けたのか。あるいは人妻はいかにして不倫を制圧したのか。それが問題だ。

「たしかに芝居見物は姦淫が罪であるようには罪でないのかもしれません」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.52」岩波文庫)

内村鑑三は「芝居」と「姦淫」とを別々に分けて考えている。そして「姦淫」に比べれば「芝居見物」は「罪」のレベルが異なる。「罪」は軽いと言う。いずれにしても内村鑑三の信仰には身体に対する激烈な蔑視と抑圧がある。けれども、ネット検索された数値は、限定的とはいえ、「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」へ向けられた人類の関心の高さの一端を如実に反映させている点で容赦がない。複合施設的商品経済の世界では両者(姦淫および芝居)は決して別々ではありえない。「姦淫」も「芝居」も人間の行為である。もし仮に「姦淫」と「芝居」とを無理に分割しようとすると、その分割が分割自身を通して逆に繋がり合ってしまうという逆説が生じる。この逆説は、分割されるものどうしが、あらかじめ「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されているがゆえに可能となる。両者の「均質化」が分割を逆に連続性へと置き換えてしまう契機なのだ。つまり問題は「理性的人間」と「非-理性的人間」との分割が、分割にもかかわらず、結果的に連続性へと転倒する点にある。

ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

ニーチェのこの一節を踏まえてフーコーが言うように、狂人がなぜ分割されたかという理由は、狂人が「人間」としては「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されたことが上げられる。狂人はなるほど非-理性の存在ではあるけれども、「人間」としては「同等・一様・均質」であるがゆえに始めて「狂った人間」という概念が発生し、従って「狂った人間」はあくまで「狂った人間」して監禁・排除される対象と化した。こうして人間としては「均質的存在」だと認められた以上、狂人は鉄格子の内部へ場を移すべき存在へと変貌する。このことのうちに、理性と非-理性(狂気)との分割が、その実、人間としては「同等」だとして理性との連続性が保証される一方、にもかかわらず「狂った人間」としては体良く世間から隔離される対象となった経緯がある。この歴史性を忘れてはいけない。

そして「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は、その意味内容が理性的であるにせよそうでないにせよ、「同等」な人間どうしの行為の製作物だと認定され他のものと交換可能なものとして認められうる以上、政治的宗教的官僚的御都合主義によって、いついかなる時にでもその現実的存在を左右・処罰できる単なる物的対象=商品となった。「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は今や新自由主義的貨幣経済システムの一部を見事に構成するのだ。管理権力の側から見て理性の範囲内として認められる場合、社会は、一方で「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」を商品として奔放に売買して多額の利益を上げる。その一方でその同じ社会は、同じ「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」が「狂った人間」の所業として認められる場合、再び鉄格子の内部へ監禁・排除して売買を中止させるがそのコピー商品は出回り続けてさらなる利益を生む。だがしかし、「狂って」いるかどうか判断する権利は一般市民の側には既になく、民主主義的選挙を通して選ばれた管理権力の側に移っている。いずれにしても「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は「自然」で「一様」で「同等」で「均質的」な人間の行為としては確かに認められているため、それを「狂った人間」の所業として社会から分割-排除するのも逆に単なる「人間」の所業として社会の表面に復帰させてやるのも、「人間/狂人」の連続性が成立しているがゆえであり、にもかかわらずその時その時の権力装置の都合次第なのだ。ともあれしかし、これらの売買から税収(議員報酬含む)を得ている国家は理性的だろうか、それとも非-理性的だろうか。なお多くの要素が多元的・多層的に問われねばなるまい。

ところで、両者(姦淫および芝居)は決して別々ではない、両者は同じ国家の共同性のうちにあると知っても、「姦淫」の中に「芝居」的行為が混じり込んでいることをわざわざ示唆したいわけではなく、検閲のように「芝居」の中に「姦淫」的要素が見受けられうると指摘したいわけではさらにない。むしろそれではまるで戦前戦中の治安維持法だ。歴史的逆戻りでしかない。ところが極めて安易な方法で現実的な快楽を享受するばかりの一群(金利生活者、大株主、大土地所有者など)やこれもまた現実的な痛苦に喘いでばかりいる人々(低所得者層、生活保護世帯、日雇い労働者など)が流通貨幣を介して存在する以上、また同時に流通貨幣を介する限りにおいてしか存在できない以上、国家という「共同体」は、吉本隆明のいうような単なる「共同幻想」とは違っている。そうではなくて、重要なのは、両者(姦淫および芝居)はどの瞬間も「貨幣を介して」同時にグローバルな社会的連関のもとにあるということだ。この謎を解くためには、両者はーーーこう言ってよければ両者だけでなく検閲当局もまたーーーいつもすでに熱狂的な社会的-共犯関係の中に没入しているということが前提として表象に浮かべられていなくてはならない。さらにこれらの「質」と「量」の中にはたった一人のキリスト教徒も決して入っていないという根拠はどこにも見当たらない。だが逆にすべてがキリスト教徒であるなどと言いたいわけではまったくない。

フロイトはこう述べている。

「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)

少し補足説明がいるだろう。フロイトは「発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられてい」ると言っている。この「外界から押しよせる刺激」とは何だろうか。一言で言ってしまえば、それは、人間にとっての脅威だ。自然の脅威、異民族の侵入、戦争、共同体の内と外とを問わず発生する様々な暴力的事象などだ。こういう事態に直面して人間はどういう態度で臨み、そして何を獲得したか。

ニーチェはこう述べる。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

と同時にフロイトのいう「抽象的思考言語ができあがっ」った。もしくは獲得した。言語獲得の過程はまた「内面化」の過程であり、すなわち「思考」や「反省」といった行為はここに発生の起源を持っている。

マルクス=エンゲルスも同じく次のように言っている。

「『精神』には物質が『憑(つ)きもの』だという呪(のろ)いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.59」国民文庫)

「精神」(内面)は「言語」と同い年だ、と。両者は同時に発生し同時に成長した。さらに「言語」は「物質」だという点が起源にはある。そして内面の発達=言語の質的量的獲得の増大に連れて、言葉で何かを「語る・書く・表現する」という行為が常態化して来る。しばらくすると世界中で当たり前のこととされるようになる。そうして言語表現がどこでも当たり前の常識として流通するようになった時、内面の発生は言語の起源と同時であるにもかかわらず、どういうわけか「抽象的・観念的(イデアル)」なものではなくて元来「物質的(マテリアル)」なものであるという「起源」が忘れ去られる。そして逆に、物質的なものよりも観念的なもののほうが先に「自然」に発生したという遠近法的倒錯/転倒が瞬時に起こり蔓延し常識化する。

内村鑑三に戻ろう。彼の弟子格だった志賀直哉。やがてキリスト教を離れていわゆる自然主義へ移行するわけだがーーー、一九二四年(大正十三年)十二月、「人妻」という言語がその「魔性的」な意味の「競り上げ」に関して極めて重要な役割を果たしている、ということを早くも感覚的に知っていた節がある。勿論当時はインターネットもないしネット検索など知るよしもなかったわけだが。ちなみにこの年はロシアでレーニンが死に、中国で第一次国共合作が成立、日本では築地小劇場開場、孫文が神戸に立ち寄ったりもしている。

志賀は次のように書く。

「この話は僕には全く意外だった。この話で僕は僕の頭にある薫さんという人間を全く作り変えねばならなかった。何処にそういう熱情をあの人は隠しているのだろう?そういう熱情が今も尚あの人の何処かに隠されてあるのだろうか、そう思った。が、僕がそう思ったのも実は束の間だった。僕はそれでこそ、あの人があの人らしくなった、それでこそあの人が丸彫りになったのだ、と、直ぐこんなに思うようになった。僕は今まであの人を余りに平面的に見ていた。それは岸本があの人の妊娠に幻滅を感じた事が余りに平面的な見方からであったと同様であると考えた。

それから年月(としつき)が経つにつれ段々に薫さんという人が僕には明瞭(はっきり)して来た。同時に平凡にもなって来たが、薫さんに対する知らず知らずの好意は少しも変らなかった。姉の家(うち)で落ち合ったりすると、その日一日、或いは翌日(よくじつ)までも私は云いしれぬ淡い幸福を感ずる事がある。然しそれが薫さんを自分が恋しているからだとは僕は少しも考えなかった。臆病者の僕にはそれは考えられない。人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する、若(も)しこうなって来ると、それは尚考えてはならぬ事だった。が、事実は僕はやはり薫さんを恋していた。只それを意識に上らせる事が出来なかった。これは臆病といえば臆病だが、人間はそれでいいのだと思う。時には人妻を好きにならぬとはかぎらない」(志賀直哉「冬の往来」『小僧の神様・城の崎にて・P.205~206』新潮文庫)

こうある。

「人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する」

大胆と言えばいいのか。率直と言えば率直すぎる文章だ。その相手の名は「薫さん」とある。最初に夫がいた。妊娠も経験する。夫の生存中に「岸本」という男性と不倫してしまい岸本を愛するようになる。が、岸本はアメリカへ渡り、その後に満州へ出かけたきり消息不明。夫はまだ生きている。そんな時、話者「僕」が「薫=人妻」に欲情の「競り上げ」を覚えるという展開だ。次のことに気を付けたい。

始めのうちは「淡い幸福を感ずる事がある」程度でしかなかった。「僕」は「臆病者」だった。「臆病者」の「僕」が、「薫」=夫のいる「人妻」という「言葉」を突きつけられた時、始めて「恋する」=欲情を「競り上げ」=「意識に上らせる」。一見、ただ単なる三角関係に見える。三角関係の成立と同時に欲情が始まっている「かのように」見えはする。フロイト経由のエディプス・コンプレクスのように。しかしそれだけでは、いつの時代でもどこにでもありそうなーーー例えば近松門左衛門の作品に出てくるようなーーーただ単なる男女の三角関係でしかない。なるほど目に映るのは三人の男女が繰り広げる単なる痴情沙汰に過ぎない。だがこれはそうではないのだ。近松作品と近代文学の違いもそこにある。「臆病者」の「僕」が途端に大胆な思いに駆られ開き直ってしまう瞬間は、まさしく「人妻」という言葉とばったり出会った瞬間と一致する。そしてこの欲情は想像的幻想的な奇怪奇抜この上ないあらゆる性的技法を脳内全域を駆使し思い切り描き尽くし舐め尽くそうとする。妄執的観念の渦巻きに深く溺れ劣情の隅々までを堪能し合い耽溺し合う。この欲情の「競り上げ」は、一方でその発火点・起源となった「人妻」という言葉が実はただ単なる物質的言語(エクリチュール)に過ぎないという足元の現実をすっかり忘れさせてしまう効果を持つ。

小林秀雄は志賀直哉を評してこう言っている。

「志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.36』岩波文庫)

そしてエドガー・アラン・ポーの制作態度と対比して、志賀の「手足」といった身体性を強調している。この身体性の強調はどこかニーチェに似ている。

「私は気分で書くとか理屈で書くとかいう程度の問題を云々しているのじゃない。制作の全過程を明らかに意識する事が如何に絶望的に精密な心を要するものと知りつつこれを敢行せざるを得なかったポオの如き資質と、制作する事は、手足を動かすという事のように、一眦(いっし)をもって体得すべき行動であると観ぜざるを得ない志賀氏の如き資質とを問題としているのだ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.44』岩波文庫)

ところでもし志賀直哉作品の身体性に対して、あるいは「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」とその視聴者が要求する身体性に対して、世の中のキリスト教徒が拒絶的態度を取るとすればそれは明らかに甚だしい自己欺瞞だというほかない。事実はこうだ。キリスト教はAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延にもかかわらず生き延びたのではなく、逆にAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延ゆえにその《別種》の対処療法の一つとして生き延びた。そして現在も生き延びている。

※ただし「児童ポルノ」に関してはなお精神医学的領域・社会学的ないし法哲学的領域での問題が未解決のまま数多く残されており、より一層専門的かつ多層的横断的な取り組みの必要性が要求されている事実を社会自身が明確に自覚しておかなければならないことは言うまでもない。世界中の紛争地帯で発生している幼児・児童に対するレイプもその一つだ。けれども、犯罪に問われた者をただ単なる刑事犯として取り扱い「暴力的装置」(武器・武力・監禁)をもって処刑・処罰するだけでは何ら根本的解決に繋がらないことをはっきりさせておきたい。マルクスは言っている。

「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが《人間に即して》論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル〔根本的〕になるやいなや、それは《人間に即して》の論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫)

「人間にとっての根本は、人間自身である」。キリスト教徒だけでなくキリスト教徒と共に、さらには仏教徒やイスラム教徒らと共に考え取り組んでいかねばならない問題であることは間違いない。なお、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む際に、それぞれのイデオロギーや教義をそれぞれが譲り合い弛め合う必要性があると考えられがちだ。そうしないと各人は連帯しにくくなるのではないかというのである。なるほどそういう面はあるだろう。日常生活の食事や作法といった様式的分野に限っては。しかし実のところ、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む時にこそ、逆にそれぞれのイデオロギーや教義はますます厳密に硬直性を増しつつ、同時にその有効性を本質的に試される。とりわけ世界中の紛争地帯で幼児・児童らが受ける性暴力・レイプの多発に対して、どこまで《現実的》に有効であるか有効でないか、各々の思想・信条の実質的可能性の射程がまったくの丸裸にされて世界中に晒されるのだ。こうした連帯の危うさについて、各々の厳格さにもかかわらず同盟関係を崩壊させないためにまず言えることは、マルクスに限って述べるとすれば次のような「アソシエーション」(association)の可能性の探求ということになるだろう。「アソシエーション」とは何か。その概念の一端についてマルクスはこう述べる。

「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)

BGM

病としてのアメリカ〔改訂版〕

2018年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム
成熟せよ、と言われても、成熟とは果たして一体どういうことか。アメリカにはそのことがよくわかっていない。あるいはとうの昔に忘れてしまった。そしてただ自分一人だけで荒れ狂い、さまよい続けて、場合によってはところどころ崩壊して腐臭を放っている。端的に言ってアメリカというケースは想像的幻想的(=妄想的)な、さらなる「成熟」を目指して結局のところ未熟へ転倒しているように見える。その「成長」戦略の基本となっているのはヘーゲル哲学であり、そのさらなる精神医学的分枝が(教育現場へも応用された)エリクソンによる精神分析ではなかろうか。この方向を新自由主義経済路線に合致させると、いま現在のアメリカが、とりわけその若年層/青年層の思想と行動とが出来上がって見えてくるように思える。デリダはいう。

「ここでは『テクスト』のいくつかの指標に表面上話を限ることにするが、それは、『テクスト』ーーー古典的な狭い意味での『テクスト』ーーーと『実在』との関係が賭けられている地点に今われわれがいるからであり、テクストや<テクスト-外>といった概念が、また両者の関係の変容が、そしてこの変容の実践的かつ理論的問題に関わる序文(われわれはこの序文のなかにいる)が問題だからである。われわれを引きとめ、そしてわれわれを制限するようにも見える新たなテクストは、テクストの古典的表象を無限にはみ出すものでもある。このはみ出し、この<境界-画定=境界-除去>は、ヘーゲル論理学との、そしてそこに集約されるすべてのものとのわれわれの関係の形について読みなおしを迫る。(哲学的概念ーーーすなわち概念そのものーーーから見た)徹底的な他性へ向けた不法侵入〔こじ開け〕は、《哲学では》、つねにア・ポステリオリと経験主義という《形式》をとる。しかしそれは、自己の外を記載(理解)するためには、その否定的な像を同化するしかない哲学の、その鏡面反射〔思弁的反省〕の一効果である。散種が書かれるのはこの鏡の裏ーーー裏箔ーーーにであって、自己の転倒した幽霊のうえにではない。また自己の昇華作用の三位一体的で象徴的な秩序のなかにでもない。経験主義の仮面を被ってみずからを書きながら、思弁をひっくり返すことによって《他のことをも為す》もの、ヘーゲルによる序文の止揚を実行不可能にするもの、これを知ることが肝心なのだ。この問いは、慎重な、差異ある、ゆっくりとした、重層的な読解を課さずにはおかない。この問いは、たとえば、マルクスのテクストにおける『始まり』のモチーフに関わるに違いない。マルクスも大『論理学』でのヘーゲルと同じように、『あらゆる学において始めが難しい』(『資本論』第一版の序文、一八六七年)と認めているが、彼は自分の書く導入部のエクリチュールに対して、ヘーゲルとはまったく違った関係をもつ。彼がまず避けようとするのは形式的な《先取り》である。もちろんヘーゲルも同じだった。しかしマルクスの場合、期待される『結果』、すなわち導入部に先立ちそれを条件づける『結論』は、概念の純粋規定ではないし、ましてや『基礎づけ』などではない」(デリダ「書物外」『散種・P.47~48』法政大学出版局)

大「論理学」。二種類ある。一つはヘーゲルの「大論理学」。もう一つはマルクスにとっての「大論理学」=「資本論」だ。両者はそっくり似ているようで実際にも似ているのだが、決定的な違いがある。そしてこの違いがヘーゲル=エリクソンを経由した「帝国主義的アメリカ」という病を発症させるか発症させないかの大いなる違いとして作用したと見ることができる。しかしまず、マルクスによる二つの「序文」を参照しなければならない。あらかじめ「期待される『結果』」に始めから狙いを定めた合目的的「先取り・先廻り」を回避するために。

「そのはじめの二章が本書の内容をなしている。すべての材料は独立論文のかたちでわたくしの手もとにあるが、それらは、出版するためにではなく、自分自身にはっきりさせるために、それぞれかなりの期間をおいて書きおろされたものである、そしてそれらを右の計画にしたがってまとまったものにしあげられるかどうかは、外部の事情によるであろう。ざっと書きおえた一般的序説を、わたくしはさしひかえることにする。というのは、よく考えてみると、これから証明していこうとする結論を先廻りして述べるようなことは何でも邪魔になるように思われるし、それに、いやしくもわたくしについてこようとする読者は、個別的なものから一般的なものへとよじのぼってゆく覚悟をきめなければならないからである。これに反して、ここでわたくし自身の経済学研究の経過について二三のことを簡単に述べておくことは、おそらく当をえたことではなかろうかと思う。ーーーこのように研究のあるものは、しぜんと、一見まったく関係のないような諸学科に手をつけさせ、わたくしはその勉強に多かれ少なかれ時間をついやさなければならなかった。だがとりわけ、わたくしの自由になる時間は、生計の資をえるというやむをえない必要のためにけずられた。一流の英米新聞である『ニューヨーク・トリビューン』への、これまで八年にもなるわたくしの寄稿は、本格的な新聞通信を、ただ余分な仕事としてやるわけだから、わたくしの研究をはなはだしく分裂させずにはおかなかった。けれどもイギリスや大陸での顕著な経済上の出来事についての論説が、わたくしの寄稿のかなり重要な部分を占めていたので、わたくしは本来の経済学の学問的領域外にある実際上の詳細にも精通しないわけにはいかないことになった」(マルクス「序文」『経済学批判・P.11~17』岩波文庫)

「ここにその第一巻を読者におくるこの著作は、一八五九年に刊行された私の著書『経済学批判』の続きとなるものである。ーーーまえのほうの著書の内容は、この第一巻の第一章に要約してある。そうしたのは、ただ関連をつけ完全にするためだけではない。叙述が改善されている。以前にはただ暗示されただけの多くの点が、ここでは、事情の許すかぎり、さらに進んで展開されており、また反対に、あちらでは詳しく展開されていることが、こちらではただ暗示されるにとどまっている。価値理論および貨幣理論の歴史に関する諸節は、今度は、当然のこととして、全部なくなっている。とはいえ、以前の著書の読者は、第一章の注のなかにこの理論の歴史のための新たな資料が示されているのを見いだすであろう。なにごとも初めが困難だということは、どの科学にも言えることである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.21」国民文庫)

デリダはこう続ける。

「かくして、大<論理学>への追伸の非対称的空間が浮かび上がる。無限に差異づけられた一般的空間。なるほど、この空間は、どの追伸もそうであるように、表面上従属的で派性的であるが、しかし、それは歴史の非-回帰の力であって、みずからの充溢した発話(パロール)において真理を回復し宣言するロゴスの、その想起的家内性におけるいかなる円環的再-理解〔再-包含〕にも抵抗する」(デリダ「書物外」『散種・P.50』法政大学出版局)

マルクスによる大「論理学」=「資本論」への「追伸」は「いかなる円環的再-理解〔再-包含〕にも抵抗する」。逆にヘーゲルの場合、序文と本文との関係は基本的に同一(「円環的再-理解〔再-包含〕」)でしかない。つまりヘーゲル「大論理学」(「精神現象学」=「精神現象学・序文」=「小論理学」=「小論理学・序文」というふうに同一回帰的な)序文は、ヘーゲル自身があらかじめ設定〔概念規定〕しておいた本文の「結果/目的」に要領良く着地させるため、本文へ手際良く導けるよう本文を要約〔反復的先取り〕して纏めたものに過ぎない。序文と本文は実質的に作為的同一物であり、結局、同じところを何度も繰り返し円を描いて自己回転=自己満足するほかない強引に整序化された配置作業でしかない。その一方、マルクスでは序文において既に様々な「読み」を許す重層性=自然発生的外部の肯定=無限の差異的空間が生じている。あらかじめ「期待」され「設定」された「結末」(=「結果/目的」)が準備万端用意されて待っているに過ぎない「閉じた歴史-物語」ではなく、逆に「外へ」無限に開かれた差異的空間性を開始〔Come on 外部〕する序文になっていることを序文自身において「宣言」している。ゆえに本文はいつでも「開閉可能」なのだ。

従ってデリダはいう。

「序文はひとつの虚構である。ーーーしかし、前者{ヘーゲル}では、虚構は意味に奉仕しており、真理が虚構の(真理)となっており、虚構の関係物はある位階秩序へと整序され、概念の付属品として自分自身を運び去り、自己を否定する。他方{マルクス}の場合は、あらゆる模倣論の外で、虚構はみずからを見せかけ(シミュラークル)として肯定し、さらにこのテクスト上のふりの作業にもとづいて、書物の目的論が暴力的に虚構を従属させなければならなかったときに用いていた対立のすべてを解体するのである」(デリダ「書物外」『散種・P.52』法政大学出版局)

ヘーゲル弁証法は物事を手前勝手に設定した後で終わりから振り返り眺める。振り返ることに問題はない。むしろ振り返ることは歴史検証の上で必要な反省という手続きの出発点である。けれども、問題としてその作業過程の中でヘーゲルは恣意的に対立点や矛盾点を見出し、唯一絶対的な歴史を創作・捏造する。多元的ヒストリーではなく「物語」(ストーリー)だ。従って、物凄く「体系化」されて「見えて」しまう。しかしマルクスはヘーゲルの方法にならいながらもヘーゲルのようにあらかじめ「先取り・先廻り」したりは決してしない。逆に自然発生的な叙述方法を取っており、その分、あらかじめ「先取り・先廻り」などできないしできるわけもない。してはならないと言わねばならない。だからマルクスの場合、「先取り・先廻り」を回避しつつ「外」に対して常に「自動開閉的」な態度を取ることで、あらかじめ作られた一本調子(単線)の「物語」(ストーリー)を否定・解体してしまう。従ってマルクスのテクストは決して「単線」ではない「多元的・多層的・多重的」構造を持つこととなった。

要するに、ヘーゲルでは「原因」と「結果」が逆倒している。従って、ものごとを正しく把握するためにはこの逆倒を正立させねばならない。ニーチェはいう。

「『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実であるーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。

全『内的経験』は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということーーーまた、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因はほんとうの原因に対応するということは絶対にない、ーーーそれは、以前の『内的経験』を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った原因性の習慣をも保存しているのでありーーーそのため『内的経験』は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの『外界』は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは『事物』その他の図式でもって外界を解釈するのである。

私たちが『内的体験』を意識するにいたるのは、ようやく、個人が《理解する》ことのできる言葉をそれがみいだしたのちーーー言いかえれば、或る状態が個人にとって《いっそう熟知の》諸状態へと翻訳されたのちにおいてであるーーー。『理解する』とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない」(ニーチェ「権力への意志・第三書・四七九・P.24〜25」ちくま学芸文庫)

さて、アメリカで実際に病人を常時続出させて止まない、ヘーゲル=エリクソンのラインはどうだろう。エリクソンはこう述べている。

「かれらが、時々は病的に、そしてしばしば奇妙なくらいに心を奪われているのは、自分が感じる自分の姿よりは、他人の眼に映った自分の姿であり、また、かつて習得した役割や技能と、その時代の理想像とをいかにして結びつけるかという問題である。かれらは、新たな連続性感や同一性感を探求するが、それはいまや、性的成熟をそのなかに包摂しているものでなければならない。また、それらを探求する際に、何人かの青年は、恒久的な偶像や理想像を最終的なアイデンティティの保護者として設定する前に、かつてのもろもろの危険をもう一度しっかりと支配しなければならない。かれらが、なかんずく必要とするものは、アイデンティティのさまざまな構成要因ーーー今までの論述では児童期にその原因を求めていたのだがーーーを統合するための猶予期間(モラトリアム)である」(エリクソン「アイデンティティ・P.167」金沢文庫)

「猶予期間(モラトリアム)」がキーワードになる。ところがしかし、アメリカでは、「猶予期間(モラトリアム)」とは実質的に何のことをいうのだろうか。

「発展する技術に関して才能があり、しかもよく訓練された青年の場合には、またしたがって、創造的能力を要求する新たな役割と一体化し、より潜在的なイデオロギー的見解を受け入れることのできる青年の場合には、青年期はほとんど『荒れ模様』ではない」(エリクソン「アイデンティティ・P.169」金沢文庫)

しかしそのような青年はまずいない。なのでーーー、

「これが与えられないときには、青年の心は、より顕在的に、イデオロギー的になる」(エリクソン「アイデンティティ・P.169」金沢文庫)

さらにアイデンティティを考える場合、アメリカでは「職業」というものが大変な重荷になってのしかかってくる。

「一般的にいえば、青年の心を最も強く動揺させるものは、職業的アイデンティティに安住できないという無力感である。青年は、かれらの集団を維持させるためには、派閥や仲間の英雄と自分とを、一時的にではあれ過剰なほどに同一視するのである。それは、明らかな個性をまったく喪失してしまうのではないかと思われるほどである」(エリクソン「アイデンティティ・P.172」金沢文庫)

また、ただ単に「資本主義社会」と言ってもアメリカは今や「新自由主義」の最前線でありその最高司令部でもある。いついかなる時にでも「自由」に職業選択(離職含む)でき、同時に、「自由」に合理化(解雇)されうる労働環境が全土をおおい尽くしている。そればかりか、様々な困難な諸事情を受け持った同盟国をも同一のイデオロギーで侵食〔自己固有化〕し、他国特有の重層的文化的社会がそれに相入れようとなかろうと、ほとんど有無を言わせず極めて尖鋭的な同一価値観を輸出・感染・蔓延させつつある。そしてそこから新しい「世界文学」もまた生まれ出てくるのだろうがーーー。ともあれ、「職業的アイデンティティに安住できないという無力感」。もっともかも知れない。常にそのような払拭できない不安の中で、心身のバランスを壊さないで生きていける青年がどれほどいるというのだろうか。次のような次第だ。

「すなわち、肉体の各部分が急激に変化するときや、生殖的思春期に肉体や想像力がさまざまな衝動によって満ちあふれるときや、異性の人と親しく接する機会が近づいたり、強制されたりするときや、あまりにも数多くの相対立する可能性や選択肢のなかからどれかを選ばねばならぬという形で、直接的に将来の選択に直面するとき、などである。青年は、そのような不安を感じる間は、派閥を作ったり、自分たち自身や自分たちの理想や敵をステレオタイプ化することによって、一時的に互いに助け合うだけではない。かれらは、避けることのできないさまざまな価値の対立のまっただなかで、互いが忠誠心を保ち続ける能力をもっているかどうか、いつも試験し合っているのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.173」金沢文庫)

アメリカ式の「成熟」あるいは「成長」過程。「自分たち自身や自分たちの理想や敵をステレオタイプ化する」。何と過酷で自分勝手なことだろう。また一本調子(単線)の激しさだろう。選択肢は様々だがそれを見て本当に価値ある「自由」な国家のイメージが湧くだろうか。むしろ相反してはいないだろうか。逆に「不自由」ではなかろうか。選択肢が多過ぎて心身ともに疲弊してしまう上流階級の青年層。選択肢がなさ過ぎて心身ともに荒廃してしまう下層階級の青年層。消えゆく中間層。計り知れないアンバランスが支配している。余りといえば余りにも急加速度的な競争(狂騒)状態と呼ぶほかない。さらにまた「ちょっと休憩」することも許されない。もし仮に休憩が許される場合もあるがそれは労働者の心身を雇主が気遣うからではまったくなく、労働者の権利上の問題でもない。むしろ身体を休めてインターバルを取らせることで、労働者の「休憩」が雇主にとって「労働力の合理的休止」へと置き換えられて、結果的に中央集権的⇔多国籍的大資本だけが持つ特権的生産性に資する場合にのみ限られた「休憩」となるのである。そこでは「休憩」もまた「労働」なのだ。しかも労賃が支払われない不払い労働である。「休憩」だからだ。それは「休憩」さえも「労働」と化したが決して賃金が支払われることのない何か珍妙な未来社会である。ゆえに大いに問題含みである点で括弧入れされた「休憩」と明確に表記されなくてはならないだろう。しかしこれでは何だか旧ソ連の収容所社会を再び覗き込んでいるような奇妙な既視感に襲われそうにならないだろうか。ここに、ヘーゲル的な同一の「成長」神話が湧き出し続け、同一の「成長」神話が押し付けがましく常に既に回帰してくる条件の再-出現を見ないだろうか。かつてあった実質的高度経済成長期が再び訪れることでもある「かのような」幻想をほのめかしつつーーー。

「《アイデンティティの混乱》ーーー『お母さん、ぼくは何か人生って奴を、しっかりとつかんでおくことができないんだよ。全然できないんだよ』。そのような板ばさみ状態が、自分の人種的・性的なアイデンティティにたいするかつての強力な疑惑に基礎づけられている場合には、または、役割混乱が長期にわたる絶望状態につけ加わる場合には、非行的で『境界線的な』精神病的問題が生れるのは、まれではない。アメリカ的青年期という冷酷なる規格製品によって強制される役割を取得するほどの能力のない自分に気づいて、まったくうろたえてしまう青年ならだれでも、何らかの方法で、つまり、学校を中退したり、離職したり、一晩中家に帰らなかったり、奇怪で近寄り難いような瞑想(めいそう)の世界に引きこもったりして、そこから逃げ出すのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.171~172」金沢文庫)

事実、精神病者がうじゃうじゃ発生してきたのもうなずけてしまえそうだ。しかし一九七〇〜八〇年代には有効な対処法があった。逆説的だがエリクソン理論自身が有効に機能したのだ。次のことがしっかり踏まえられていた。

その一つ。

「青年期に特有の動態的な状況を無視するような診断や社会的判断を下したり、かれをその上さらに型にはめこんだりしないということ、これこそかつては『非行少年』であったとはいえ、現在のかれが最も強く望むものであり、またそれこそかれの唯一の救いである場合がしばしばあるのである。ーーーアイデンティティの混乱という概念が実際に臨床的な価値をもってくるのは、まさにこの点においてなのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.172」金沢文庫)

青年期には誰しも迷走しがちなものだ。「非行少年」「不登校」「引きこもり」など「症候」としては様々だが、まさにそれこそが、とりわけ「青年期/思春期」にその個人が「最も強く望むものであり、またそれこそかれの唯一の救いである場合がしばしばある」という共通認識が社会的な規模で許容されていたということ。「非行少年」「不登校」「引きこもり」などといった態度を頭から否定するのではなく、まず冷静に受け止め「承認する」という余裕が大人社会の中にあり、そのような大人社会の余裕ある対応が、「非行少年」「不登校」「引きこもり」などといった態度を示しがちな迷える青年層の自己肯定感を少しづつ養っていったのだ。

ひるがえって、現今のアメリカの大人社会はどうか。表面上問われているのは青年期の言動・内面の動きではあるけれども、その実、本当に問われるべきは例えば「ベトナム戦争」の敗北に対して大人たちが示した「否認」の態度であり、さらにアメリカの子供たちの青年期を荒廃と混乱の極致に導いたのは、敗北などなかったとするばかりか、事実を無視して「否認」するのではなく、もっと根の深い深刻な倒錯=「記憶からの《排除》」という症候である。フロイトによれば、「否認」は事実を認めていながらもそれを感情的レベルで抑圧・否定しているに過ぎないのだが、一方の《排除》は事実を完全に忘れ去るという極めて特殊な《症候》である。実際にあったことをなかったことにしてしまう。しかしそれは極めて単純に考えてみたとしても決定的に不可能な作業だ。従って《排除》された記憶は、或る迂路を経て外部から再び舞い戻ってくるという形式を取る。そしてこの外部からの舞い戻りは、往々にして、《幻覚・幻聴》という形で何度も執拗に繰り返され、思いもよらない時に突如として出現する《精神錯乱》の一種として精神病に罹患した者を果てしない苦悩・矛盾・逆説・絶望の淵にまで追いやる。苦悶に満ちた体験が何度も繰り返し現れるということが顕著な点でそれは「死の本能」と呼ばれる。

二点目。「児童期と青年期の中間に位置する学校時代」という生活環境への対応。

「生徒は、規律を自分のものにするだけではなく、自分が規律そのものになってしまうのを放任しさえする。つまり、役に立つもののみを善だと考え、ものごとがうまくいっている場合にのみ自分は人に受け入れられているのだと感じ、人を操作し、人に操作されることを正しいと思うーーーそういうことが、かれにとって支配的な喜びと価値になってしまうのだ。そして、技術的専門化というのは、人間の群、部族、文化の体系や世界像の本質的な一部分である以上、労働の道具にたいする人間の誇りは、他の人間や他の種に対抗するための武器にたいする誇りにまで拡大するのだ。この誇りは、動物の世界においてすら珍しいような冷酷な狡猾性や無限の残忍性を含んでいる」(エリクソン「アイデンティティ・P.328」金沢文庫)

その「未熟さ」をただ単に未熟として切り捨ててしまうのではなく、逆に、そこに宿っている成長へのエネルギーを《個人の特性に即して》無理なく方向付けてやるということ。その点に関し、アメリカの「かつての」教育はまったくすべてが間違っていたとは決して思わないのだ。ヘーゲルを肯定的に読むことができるのもこうしたところだ。

差し当たり注意しておくべきことは、このエピソードはなるほど「児童期と青年期の中間に位置する学校時代」のこととされている点である。「児童期と青年期の中間」という概念は、むしろ、「青年期」(モラトリアムとその必要性)という概念を打ち立てることで「大人と子供」を分割した時、さらなる分割として始めて出現可能になった概念ではなかったか(フーコー「狂気の歴史」新潮社、等々参照)。

まだある。

「発達の過程を通して、人間は、学習する動物であるとともに、教授する動物にもなってきた。なぜなら、依存と成熟というのは互恵的なものだからである。つまり、成熟した人間は、自分が必要とされることを欲するものであり、また成熟というものは、世話をしてあげねばならぬものの天性によって導かれるものだからだ。したがって、《創出性》というのは、基本的には次の世代を作り上げ、指導するための関心事なのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.181」金沢文庫)

課題に次ぐ課題、ではなく、課題そのものがもはや過積載であり、しかも永遠に終わりのないものでもある。そのような社会の中で「成長/成熟」した人間とは一体どんな人間なのだろうか。何をどう考えて自らに課せられた倫理を実践に移していけるのだろうか。まずもって、これは実際のところ、本当に実現可能な「成長/成熟」のプランだと言えるだろうか。ともあれ、そこから生まれた民主主義の結果がトランプ大統領になるのは果たしてなぜなのか。自然の成り行きと言えるだろうか。不可解この上ない。いつ頃から一本調子(線的)で何ら面白味のない帝国主義大国へ舞い戻ったのか。むしろ多元的・多層的・多重的な多様な国家なのではなかったろうか。頭がどうかしてしまったのかも知れない。違ってしまったのだろうか。だが、その謎にはずっと昔に、ニーチェが大変まっとうな答えを与えている。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)

アメリカ国民のことが逆に気の毒に思えてくる今日この頃ではある。

BGM