観応二年(一三五一年)、足利義詮(よしあきら)は桃井直常(ももいただつね)が越中から上洛したと知り一時退却するのが良策だと考える。
「義は宜(よろ)しきに順(したが)ふに如(し)かず」(「太平記4・第二十九巻・二・P.386」岩波文庫 二〇一五年)
「日本書紀」に出てくる言葉。
「夫(そ)れ大人制(ひじりのり)を立(た)てて、義(ことわり)必(かなら)ず時(とき)に随(したが)ふ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀・P.238」岩波文庫 一九九四年)
将軍方が引いたため入れ替わるかのようにすぐさま桃井軍が入京する。その慌ただしさを「太平記」は皮肉まじりにこう喩える。
「治承(じしょう)の古(いにし)へ、平家都を落ちはてたりしかども、木曾(きそ)は、なほ天台山(てんだいさん)に陣を把(と)つて、十一日まで都へ入(い)らざりき。これ全く入洛(じゅらく)を急がざるにはあらず。敵を欺(あざむ)かざるゆゑ、または軍勢の狼藉を静めんがためなりき」(「太平記4・第二十九巻・二・P.387」岩波文庫 二〇一五年)
ただし「治承(じしょう)」は誤りで正しくは「寿永(じゅえい)」。「平家物語」から。
「凡(ヲヨソ)京中(キャウぢゆう)には源氏(ゲンジ)みちみちて、在々所々(ザイザイシヨシヨ)に入(い)りどりおほし。賀茂(カモ)・八幡(はちマン)の御領(リヤウ)とも言(い)はず、青田(アヲタ)を刈(カリ)てま草(クサ)にす。人の倉(クラ)をうちあけて物をとり、持ッて通(とを)る物をうばひとり、衣裳(イシヤウ)をはぎとる。『平家の都(ミヤコ)におはせし時は、六波羅殿(ろくハラどの)とて、ただおほかたおそろしかりしばかり也。衣裳(イシヤウ)をはぐまではなかりし物(もの)を。平家(ケ)に源氏かへおとりしたり』とぞ人申(まうし)ける。木曾(キソ)の左馬頭(サマノカミ)のもとへ、法皇(ホウワウ)より御使(ツカイ)あり。『狼藉(ラウゼキ)しずめよ』と仰(ヲオセ)下さる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第八・鼓判官・P.101~102」岩波書店 一九九三年)
退却途中の義詮軍。桂川を渡って西へ落ちていこうとしていると西国から上ってきた尊氏・師直軍と合流できた。こう描かれる。
「窮子(ぐうじ)の他国より返つて、父の長者に逢へるが如く、悦(よろこ)び合(あ)へる事限りなし」(「太平記4・第二十九巻・二・P.388」岩波文庫 二〇一五年)
「法華経・巻第二・信解品・第四」に載るエピソードを指す。窮子(ぐうじ)は貧乏な子。
或る親子がいた。子はまだ幼い年齢で家出してしまった。父は商売で成功しこれ以上ないほど豪勢な財産家になるが後継者がおらず無念の思いを抱いていた。五十年が過ぎた。子は日雇い労働を求めて様々な地方を遍歴し、貧民窟にいれば低賃金ながらも何らかの仕事があるのでずっと遊行の旅を続けていた。子は或る時、知らない間に父が引っ越して住んでいる国を通った。そこで父の豪邸の前を通り過ぎようとした時、父の側が子に気づいた。子は父の顔を覚えていない。逆に、とんでもなく傲慢な金持ちに見つかって強制労働にでも従事させられては大変だと考えとっとと逃げようとしたが、家の召使らに追われて逃げきれず捕まってしまった。かといって父の側はすぐに身元を明かしてしまうようなことはしない。もしそうすれば、おそらく子は栄耀栄華を誇る父を煙たがって再び失踪してしまうだろう。そこで父は子とともに同じ服装に着替え、家の便所掃除をしながらコミュニケーションをはかることにした。糞まみれの汲み取りに従事すること二十年。子には贅沢したいという思考がもともとなく、家の財産すべてを託しても問題ないと考えた父はようやく家族親類一同だけでなく国王・大臣・町人らの前で親子の関係を明かし遺産相続の遺言を宣言した。
次に桃井軍の秋山九郎(あきやまくろう)と幕府軍の阿保肥前守忠実(あぶびぜんのかみただざね)との「婆娑羅(ばさら)対決」のシーン。阿保忠実の名乗りの中にこうある。
「張良(ちょうりょう)が一巻の書」(「太平記4・第二十九巻・二・P.392」岩波文庫 二〇一五年)
「和漢朗詠集」からの引用。
「漢高三尺之剣 坐制諸侯 張良一巻之書 立登師傅
(書き下し)漢高三尺(かんこうさんじやう)の剣 坐(ゐ)ながら諸侯(しょこう)を制(せい)し 張良(ちやうりやう)一巻(いつくゑん)の書(しよ) 立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六五三・後漢書・P.245」新潮社 一九八三年)
この「立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」というのは、張良がのちに「師傅(しふ)」=「帝王の補佐役」になったことを指す。「史記・留候世家」にこうある。
「『これを読めば、王者の師となれる。十年後に興起し、十三年後におまえはわしに会うだろう。済北の穀城山(こくじょうさん)下(山東・東阿)の黄石(黄色の石)はわしなのだ』と。ついに去って、ほかにことばがなく、ふたたび姿を見せなかった。夜が明けてから、その書をみると、太公望の兵法であった。良は不思議におもって、ひまさえあればそれを誦読した。良は下邳に住んで任侠(おとこだて)をはった。項伯(こうはく=項羽の末の叔父)も、かつては人を殺し、良に頼って身をかくしたことがあった。十年後、陳渉(ちんしょう)らが兵を起こした。良もまた若者百人を集めた。景駒(けいく)が自立し、楚の仮王となって留(りゅう=江蘇・沛<はい>県の東南)にいた。良は景駒に従おうと出かけたが、途中で沛(はい)公(漢の高祖)に会った。沛公は数千人の衆を率い、下邳の西方で土地を攻略していた。良はついにこれに従った。沛公は良を厩将(きゅうしょう=楚の武官名)に任じた。良は太公望の兵法を、しばしば沛公に説いた。沛公はそれを上策とし、いつも採用した。良は今までにも、他の人のためこの説を述べたが、誰もかえりみる者がなかったので、『沛公はほとんど天授の英傑である』と言い、そのために沛公に従い、景駒を離れてかえりみなかった」(「留候世家・第二十五」『史記4・世家・下・P.203~204』ちくま学芸文庫 一九九五年)
学ぶ意欲が出てきても生活費が追いつかない今日この頃ではあるが。
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「義は宜(よろ)しきに順(したが)ふに如(し)かず」(「太平記4・第二十九巻・二・P.386」岩波文庫 二〇一五年)
「日本書紀」に出てくる言葉。
「夫(そ)れ大人制(ひじりのり)を立(た)てて、義(ことわり)必(かなら)ず時(とき)に随(したが)ふ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀・P.238」岩波文庫 一九九四年)
将軍方が引いたため入れ替わるかのようにすぐさま桃井軍が入京する。その慌ただしさを「太平記」は皮肉まじりにこう喩える。
「治承(じしょう)の古(いにし)へ、平家都を落ちはてたりしかども、木曾(きそ)は、なほ天台山(てんだいさん)に陣を把(と)つて、十一日まで都へ入(い)らざりき。これ全く入洛(じゅらく)を急がざるにはあらず。敵を欺(あざむ)かざるゆゑ、または軍勢の狼藉を静めんがためなりき」(「太平記4・第二十九巻・二・P.387」岩波文庫 二〇一五年)
ただし「治承(じしょう)」は誤りで正しくは「寿永(じゅえい)」。「平家物語」から。
「凡(ヲヨソ)京中(キャウぢゆう)には源氏(ゲンジ)みちみちて、在々所々(ザイザイシヨシヨ)に入(い)りどりおほし。賀茂(カモ)・八幡(はちマン)の御領(リヤウ)とも言(い)はず、青田(アヲタ)を刈(カリ)てま草(クサ)にす。人の倉(クラ)をうちあけて物をとり、持ッて通(とを)る物をうばひとり、衣裳(イシヤウ)をはぎとる。『平家の都(ミヤコ)におはせし時は、六波羅殿(ろくハラどの)とて、ただおほかたおそろしかりしばかり也。衣裳(イシヤウ)をはぐまではなかりし物(もの)を。平家(ケ)に源氏かへおとりしたり』とぞ人申(まうし)ける。木曾(キソ)の左馬頭(サマノカミ)のもとへ、法皇(ホウワウ)より御使(ツカイ)あり。『狼藉(ラウゼキ)しずめよ』と仰(ヲオセ)下さる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第八・鼓判官・P.101~102」岩波書店 一九九三年)
退却途中の義詮軍。桂川を渡って西へ落ちていこうとしていると西国から上ってきた尊氏・師直軍と合流できた。こう描かれる。
「窮子(ぐうじ)の他国より返つて、父の長者に逢へるが如く、悦(よろこ)び合(あ)へる事限りなし」(「太平記4・第二十九巻・二・P.388」岩波文庫 二〇一五年)
「法華経・巻第二・信解品・第四」に載るエピソードを指す。窮子(ぐうじ)は貧乏な子。
或る親子がいた。子はまだ幼い年齢で家出してしまった。父は商売で成功しこれ以上ないほど豪勢な財産家になるが後継者がおらず無念の思いを抱いていた。五十年が過ぎた。子は日雇い労働を求めて様々な地方を遍歴し、貧民窟にいれば低賃金ながらも何らかの仕事があるのでずっと遊行の旅を続けていた。子は或る時、知らない間に父が引っ越して住んでいる国を通った。そこで父の豪邸の前を通り過ぎようとした時、父の側が子に気づいた。子は父の顔を覚えていない。逆に、とんでもなく傲慢な金持ちに見つかって強制労働にでも従事させられては大変だと考えとっとと逃げようとしたが、家の召使らに追われて逃げきれず捕まってしまった。かといって父の側はすぐに身元を明かしてしまうようなことはしない。もしそうすれば、おそらく子は栄耀栄華を誇る父を煙たがって再び失踪してしまうだろう。そこで父は子とともに同じ服装に着替え、家の便所掃除をしながらコミュニケーションをはかることにした。糞まみれの汲み取りに従事すること二十年。子には贅沢したいという思考がもともとなく、家の財産すべてを託しても問題ないと考えた父はようやく家族親類一同だけでなく国王・大臣・町人らの前で親子の関係を明かし遺産相続の遺言を宣言した。
次に桃井軍の秋山九郎(あきやまくろう)と幕府軍の阿保肥前守忠実(あぶびぜんのかみただざね)との「婆娑羅(ばさら)対決」のシーン。阿保忠実の名乗りの中にこうある。
「張良(ちょうりょう)が一巻の書」(「太平記4・第二十九巻・二・P.392」岩波文庫 二〇一五年)
「和漢朗詠集」からの引用。
「漢高三尺之剣 坐制諸侯 張良一巻之書 立登師傅
(書き下し)漢高三尺(かんこうさんじやう)の剣 坐(ゐ)ながら諸侯(しょこう)を制(せい)し 張良(ちやうりやう)一巻(いつくゑん)の書(しよ) 立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六五三・後漢書・P.245」新潮社 一九八三年)
この「立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」というのは、張良がのちに「師傅(しふ)」=「帝王の補佐役」になったことを指す。「史記・留候世家」にこうある。
「『これを読めば、王者の師となれる。十年後に興起し、十三年後におまえはわしに会うだろう。済北の穀城山(こくじょうさん)下(山東・東阿)の黄石(黄色の石)はわしなのだ』と。ついに去って、ほかにことばがなく、ふたたび姿を見せなかった。夜が明けてから、その書をみると、太公望の兵法であった。良は不思議におもって、ひまさえあればそれを誦読した。良は下邳に住んで任侠(おとこだて)をはった。項伯(こうはく=項羽の末の叔父)も、かつては人を殺し、良に頼って身をかくしたことがあった。十年後、陳渉(ちんしょう)らが兵を起こした。良もまた若者百人を集めた。景駒(けいく)が自立し、楚の仮王となって留(りゅう=江蘇・沛<はい>県の東南)にいた。良は景駒に従おうと出かけたが、途中で沛(はい)公(漢の高祖)に会った。沛公は数千人の衆を率い、下邳の西方で土地を攻略していた。良はついにこれに従った。沛公は良を厩将(きゅうしょう=楚の武官名)に任じた。良は太公望の兵法を、しばしば沛公に説いた。沛公はそれを上策とし、いつも採用した。良は今までにも、他の人のためこの説を述べたが、誰もかえりみる者がなかったので、『沛公はほとんど天授の英傑である』と言い、そのために沛公に従い、景駒を離れてかえりみなかった」(「留候世家・第二十五」『史記4・世家・下・P.203~204』ちくま学芸文庫 一九九五年)
学ぶ意欲が出てきても生活費が追いつかない今日この頃ではあるが。
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