白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・婆娑羅的一騎討ちの中の漢籍

2021年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
観応二年(一三五一年)、足利義詮(よしあきら)は桃井直常(ももいただつね)が越中から上洛したと知り一時退却するのが良策だと考える。

「義は宜(よろ)しきに順(したが)ふに如(し)かず」(「太平記4・第二十九巻・二・P.386」岩波文庫 二〇一五年)

「日本書紀」に出てくる言葉。

「夫(そ)れ大人制(ひじりのり)を立(た)てて、義(ことわり)必(かなら)ず時(とき)に随(したが)ふ」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀・P.238」岩波文庫 一九九四年)

将軍方が引いたため入れ替わるかのようにすぐさま桃井軍が入京する。その慌ただしさを「太平記」は皮肉まじりにこう喩える。

「治承(じしょう)の古(いにし)へ、平家都を落ちはてたりしかども、木曾(きそ)は、なほ天台山(てんだいさん)に陣を把(と)つて、十一日まで都へ入(い)らざりき。これ全く入洛(じゅらく)を急がざるにはあらず。敵を欺(あざむ)かざるゆゑ、または軍勢の狼藉を静めんがためなりき」(「太平記4・第二十九巻・二・P.387」岩波文庫 二〇一五年)

ただし「治承(じしょう)」は誤りで正しくは「寿永(じゅえい)」。「平家物語」から。

「凡(ヲヨソ)京中(キャウぢゆう)には源氏(ゲンジ)みちみちて、在々所々(ザイザイシヨシヨ)に入(い)りどりおほし。賀茂(カモ)・八幡(はちマン)の御領(リヤウ)とも言(い)はず、青田(アヲタ)を刈(カリ)てま草(クサ)にす。人の倉(クラ)をうちあけて物をとり、持ッて通(とを)る物をうばひとり、衣裳(イシヤウ)をはぎとる。『平家の都(ミヤコ)におはせし時は、六波羅殿(ろくハラどの)とて、ただおほかたおそろしかりしばかり也。衣裳(イシヤウ)をはぐまではなかりし物(もの)を。平家(ケ)に源氏かへおとりしたり』とぞ人申(まうし)ける。木曾(キソ)の左馬頭(サマノカミ)のもとへ、法皇(ホウワウ)より御使(ツカイ)あり。『狼藉(ラウゼキ)しずめよ』と仰(ヲオセ)下さる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第八・鼓判官・P.101~102」岩波書店 一九九三年)

退却途中の義詮軍。桂川を渡って西へ落ちていこうとしていると西国から上ってきた尊氏・師直軍と合流できた。こう描かれる。

「窮子(ぐうじ)の他国より返つて、父の長者に逢へるが如く、悦(よろこ)び合(あ)へる事限りなし」(「太平記4・第二十九巻・二・P.388」岩波文庫 二〇一五年)

「法華経・巻第二・信解品・第四」に載るエピソードを指す。窮子(ぐうじ)は貧乏な子。

或る親子がいた。子はまだ幼い年齢で家出してしまった。父は商売で成功しこれ以上ないほど豪勢な財産家になるが後継者がおらず無念の思いを抱いていた。五十年が過ぎた。子は日雇い労働を求めて様々な地方を遍歴し、貧民窟にいれば低賃金ながらも何らかの仕事があるのでずっと遊行の旅を続けていた。子は或る時、知らない間に父が引っ越して住んでいる国を通った。そこで父の豪邸の前を通り過ぎようとした時、父の側が子に気づいた。子は父の顔を覚えていない。逆に、とんでもなく傲慢な金持ちに見つかって強制労働にでも従事させられては大変だと考えとっとと逃げようとしたが、家の召使らに追われて逃げきれず捕まってしまった。かといって父の側はすぐに身元を明かしてしまうようなことはしない。もしそうすれば、おそらく子は栄耀栄華を誇る父を煙たがって再び失踪してしまうだろう。そこで父は子とともに同じ服装に着替え、家の便所掃除をしながらコミュニケーションをはかることにした。糞まみれの汲み取りに従事すること二十年。子には贅沢したいという思考がもともとなく、家の財産すべてを託しても問題ないと考えた父はようやく家族親類一同だけでなく国王・大臣・町人らの前で親子の関係を明かし遺産相続の遺言を宣言した。

次に桃井軍の秋山九郎(あきやまくろう)と幕府軍の阿保肥前守忠実(あぶびぜんのかみただざね)との「婆娑羅(ばさら)対決」のシーン。阿保忠実の名乗りの中にこうある。

「張良(ちょうりょう)が一巻の書」(「太平記4・第二十九巻・二・P.392」岩波文庫 二〇一五年)

「和漢朗詠集」からの引用。

「漢高三尺之剣 坐制諸侯 張良一巻之書 立登師傅

(書き下し)漢高三尺(かんこうさんじやう)の剣 坐(ゐ)ながら諸侯(しょこう)を制(せい)し 張良(ちやうりやう)一巻(いつくゑん)の書(しよ) 立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六五三・後漢書・P.245」新潮社 一九八三年)

この「立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」というのは、張良がのちに「師傅(しふ)」=「帝王の補佐役」になったことを指す。「史記・留候世家」にこうある。

「『これを読めば、王者の師となれる。十年後に興起し、十三年後におまえはわしに会うだろう。済北の穀城山(こくじょうさん)下(山東・東阿)の黄石(黄色の石)はわしなのだ』と。ついに去って、ほかにことばがなく、ふたたび姿を見せなかった。夜が明けてから、その書をみると、太公望の兵法であった。良は不思議におもって、ひまさえあればそれを誦読した。良は下邳に住んで任侠(おとこだて)をはった。項伯(こうはく=項羽の末の叔父)も、かつては人を殺し、良に頼って身をかくしたことがあった。十年後、陳渉(ちんしょう)らが兵を起こした。良もまた若者百人を集めた。景駒(けいく)が自立し、楚の仮王となって留(りゅう=江蘇・沛<はい>県の東南)にいた。良は景駒に従おうと出かけたが、途中で沛(はい)公(漢の高祖)に会った。沛公は数千人の衆を率い、下邳の西方で土地を攻略していた。良はついにこれに従った。沛公は良を厩将(きゅうしょう=楚の武官名)に任じた。良は太公望の兵法を、しばしば沛公に説いた。沛公はそれを上策とし、いつも採用した。良は今までにも、他の人のためこの説を述べたが、誰もかえりみる者がなかったので、『沛公はほとんど天授の英傑である』と言い、そのために沛公に従い、景駒を離れてかえりみなかった」(「留候世家・第二十五」『史記4・世家・下・P.203~204』ちくま学芸文庫 一九九五年)

学ぶ意欲が出てきても生活費が追いつかない今日この頃ではあるが。

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Blog21・南朝=直義同盟成立

2021年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
北畠親房は項羽と劉邦とによる漢楚合戦について縷々反復しつつ述べていく。こうある。

「項王(こうおう)、自ら義なくして天の罰を招く事、その罪一つにあらず」(「太平記4・第二十八巻・九・P.368」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・高祖本紀」からの引用。

「項王は漢王と二人、単身で決戦しようと言った。漢王は項王の罪を責め、『わしは初めおまえと共に命(めい)を懐王に受けた時、懐王はさきに関を入って関中を定める者を王にしようと言ったのに、おまえは約束にそむいてわしを蜀漢(漢中)の王にした。これが罪悪の一つ。おまえは卿子冠軍(けいしかんぐん)を矯殺(きょうさつ=王命をいつわって殺す)し、自ら大将軍になった。これが罪悪の二つ。おまえは趙を援け、事が終わったなら還って懐王に報告すべきに、勝手に諸侯の兵を強制して函谷関に入った。これが罪悪の三。懐王は秦に入ったら暴掠(ぼうりゃく)するなと言ったのに、おまえは秦の宮室を焼き、始皇帝の冢(つか)を堀り財物を私した。これが罪悪の四。また秦の降王嬰(えい)を殺した。これが罪悪の五。いつわって秦の子弟二十万を新安(河南・新安)で穴埋めにし、その将を王とした。これが罪悪の六。おまえは自分の部下の諸将を上地の王とし、もとの主君をうつして臣下に叛逆を起こさせた。これが罪悪の七。おまえは義帝を逐い出して、自ら彭城を都とし、韓王の地を奪い、梁・楚の地をあわせて王となり、自ら広大な領地を取った。これが罪悪の八。おまえは人に命じてひそかに義帝を江南に殺させた。これが罪悪の九。また人臣として主君を殺し、降った者を殺し、政(まつりごと)をおこなって不公平、誓いを破って不信義なことは天下の容れない大逆無道。これが罪悪の十である。わしは義兵を率いて諸侯を従え、残賊を誅し、刑余の罪人におまえを撃たせているのであって、何を好んで自らおまえと決戦などしよう』と言った」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.263~264』ちくま学芸文庫 一九九五年)

次の箇所も何気なく語って聞かせている。

「漢、今天下の太平を有(たも)つて、諸侯皆付き随ふ。楚は、兵罷(つか)れて食尽(つ)くせり。これ天の楚を亡ぼさん時なり。その餓(う)ゑたるに因(よ)つて撃たずは、ただ虎を養うて、自ら患(うれ)へを遺(この)すものなるべし」(「太平記4・第二十八巻・九・P.373」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・項羽本紀」から。

「漢は天下の大半を保有し、諸侯もみな漢に味方していますのに、楚は兵がつかれ糧食が尽き果てています。これは天が楚を滅ぼそうとするのです。この飢えに乗じて天下を取るのが上策と思います。いま放置して撃たないのは、いわゆる虎を養って自ら禍根をのこすものでしょう」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.229』ちくま学芸文庫 一九九五年)

北畠親房が語り終えると同時に周囲の臣下らは足利直義と同盟しておくのが良策に違いないと衆議一決する。そこでこうある。

「故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」(「太平記4・第二十八巻・九・P.379」岩波文庫 二〇一五年)

「論語」から。もっとも、「太平記」ではなるほど「故(ふる)きを温(たず)ね」とあるが、それは南北朝期から遥かのちの江戸時代になって定着した読みであり、そもそもは「故(ふる)きを温(あたた)め」と採るのが妥当だろうと思われる。

「子曰、温故而知新、可以師矣

(書き下し)子曰わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、以て師と為すべし。

(現代語訳)先生がいわれた。『煮つめてとっておいたスープを、もう一度あたためて飲むように、伝統を、もう一度考えなおして新しい意味を知る、そんなことができる人にしてはじめて他人の師となることができるのだ』」(「論語・第一巻・第二・為政篇・十一・P.42」中公文庫 一九七三年)

直義との同盟に当たって吉野の宮方は次の言葉を引いている。

「乱を撥(おさ)めて、正に復する」(「太平記4・第二十八巻・九・P.379」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・高祖本紀」から。

「高祖の遺体を入棺すると、太子は群臣とともに太上皇の廟に行った。群臣はみな、『高祖は微賤から身を起こし、乱世を治めて正しきにかえし、天下を平定して漢の太祖となられたのである。その功労はもっとも高く、尊号をたてまつって高皇帝としよう』と言った。太子が号を継いで皇帝となった。これが恵帝である」(高祖本紀・第八」『史記1・本紀・P.278』ちくま学芸文庫 一九九五年)

とすれば、「虎を養うて、自ら患(うれ)へを遺(この)す」ことのないよう、武家のためではなくましてや民衆のためなどではまったくなく、何より公家第一のために武家が公家に奉じる世の中に「復す」べし、と読める。直義がその意味をどう受け取ったかまでは語られていないが、ともかく尊氏に対する恐怖心が尋常でない南朝の公家方は直義との同盟に応じた。

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Blog21・項羽と劉邦の弁証法

2021年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
足利直義が吉野の後村上帝に上げた書状をめぐり二分した意見をまとめなければいけない立場にある北畠親房。漢と楚との長年に渡る合戦の故事が改めて反復される。

「沛公、項羽相共(あいとも)に、古(いにし)への楚王(そおう)の末に孫心(しん)と云ひし人の、民となりて羊を飼ひしを取り立てて、義帝(ぎてい)と号し、その御前(おんまえ)にして、先に咸陽(かんよう)に入りて、秦を滅(ほろ)ぼしたらん者、必ず天下に王たるべしと約諾(やくだく)して、東西に別れて攻(せ)め上(のぼ)る」(「太平記4・第二十八巻・九・P.349」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・項羽本紀」にこうある。

(1)「楚の懐王の孫の心(しん)というものが、民間で人に雇われ、羊を飼っているのを探し出し、立てて楚の懐王とした」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.199』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「項羽が人をやって懐王のために忠誠を尽すむねを伝えると、懐王は『はじめの約束のようにせよ』と言ったので、懐王を尊んで義帝とした」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.215』ちくま学芸文庫 一九九五年)

さらに「太平記」は「史記」が書かれた時代すでに常套句となっている語句を含む箇所をそのまま引いている。

「大行(たいこう)は細謹(さいきん)を顧みず。大礼(たいれい)は必ずしも辞譲(じじょう)せず。今の如くんば、人は方(まさ)に刀俎(とうそ)たり。われは魚宍(ぎょにく)とならん。何ぞ辞する事をせんや」(「太平記4・第二十八巻・九・P.361~362」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・項羽本紀」から樊噲(はんかい)の言葉。

「『大行は細謹を顧みず、大礼は小譲を辞せず』とか申します。いま相手は刀や俎(まないた)で、われらを魚肉にして食べようというのです。何の挨拶などいりましょうか」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.213』ちくま学芸文庫 一九九五年)

「鴻門の会見」で項羽と劉邦とが会った時、范増(はんぞう)は項荘(こうそう)に命じ、剣舞を披露する場面にまぎれて劉邦を刺し殺せと言っていた。が、劉邦の臣下・張良は項羽の叔父の項伯と親しかったため、項荘の剣から劉邦を守るため項伯もまた剣舞を披露して劉邦をかばった。

「荘が入って長寿を祝し、祝酒がおわると、『わが君と沛公とが酒宴せられるのに、陣中のこととて何の座興もないので、一さし剣舞をご覧に入れましょう』と言った。項羽が、『それがよい』と言ったので、項荘が剣を抜いて起って舞うと、項伯もまた剣を抜いて舞い、常に身をもって沛公をおおいかばい、荘は撃つ機会がなかった。その時、張良は起って軍門に行くと、樊噲(はんかい)に出会い、樊噲が、『今日の首尾はどうです』と聞くので、『非常に危急だ。いま項荘が剣を抜いて舞うているが、沛公を殺そうというのだ』と言った。噲は、『そりゃ大変、わたしが入って沛公と生死をともにしましょう』と言って剣を帯び盾をひっさげて軍門に入った。戟(げき)をたがえた衛士が、止めて入れさせないようにするので、樊噲は盾をそばだてて衛士を地につきたおし、中に入って帷(まく)を引き開け、西向きに突っ立って目をいからし項王をにらんだ。頭の髪の毛は直立し、まなじりは裂けているようであった」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.211~212』ちくま学芸文庫 一九九五年)

そういうわけで樊噲(はんかい)は、なぜ場を辞するための挨拶などわざわざする必要があるのか、と劉邦に言ったわけである。劉邦殺害の絶好の機会をみすみす逃したことで范増(はんぞう)は項羽にほとんど愛想を尽かす。

「豎子(じゅし)ともに謀(はか)るに足らず。項王の天下を奪はん者は、必ず沛公なるべし」(「太平記4・第二十八巻・九・P.363」岩波文庫 二〇一五年)

范増のこの予言的な言葉も「史記・項羽本紀」に見える。

「豎子(じゅし=荘を軽蔑して言い、暗に項羽をも指すのである)はともにはかるに足らない。項羽の天下を奪う者はかならず沛公だ」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.214』ちくま学芸文庫 一九九五年)

それにしても両者の戦いはただ単に長かったばかりでなく、そもそも大規模な軍事行動はどれほど互いが互いともに傷つき合い疲弊させられ合うかが語られる。

「楚漢久しく相支えて、未だ勝負を決せず。丁壮(ていそう)は軍旅(ぐんりょ)に苦しみ、老弱(ろうじゃく)は転漕(てんそう)に罷(つか)る」(「太平記4・第二十八巻・九・P.367」岩波文庫 二〇一五年)

「史記・項羽本紀」からの引用。

「楚・漢両軍は長らく対峙したままで決戦せず、丁壮(わかもの)は軍陣にあって苦しみ、老弱は軍糧の運漕(うんそう)につかれた」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.227』ちくま学芸文庫 一九九五年)

ところが漢籍や「平家物語」から引っ張ってきた有名なエピソードが繰り返し語られれば語られるほど、なお一層「太平記」の登場人物らはますますそれらを実践の場で華々しくコピーするとともにいよいよ増殖させてもいくのである。

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Blog21・引用と反復から剰余が生じる「太平記」

2021年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
引用される箇所はまた反復されることが大変多い。

「足利又太郎(あしかがまたたろう)が治承(じしょう)に宇治川(うじがわ)を渡り」(「太平記4・第二十八巻・三・P.332」岩波文庫 二〇一五年)

「平家物語」から。

「下野(しもつけ)国の住人(ぢうにん)足利(あしかがの)又太郎忠綱(ただつな)、すすみいでて申けるは、『淀(よど)・いもあらひ・河内路(かはちぢ)をば、天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)の武士(ぶし)を召(め)して向(む)けられ候はんずるか。それも我等こそ向(むか)ひ候はんずれ。目にかけたるかたきを討(う)たずして、南都へいれまゐらせ候なば、吉野・十津川(とつかは)の勢ども馳集(はせあつまつ)て、いよいよ御大事でこそ候はんずらめ。武蔵と上野(かうづけ)のさかひに、利根(とね)河と申候大河候。秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)なかをたがひ、常(つね)は合戦(かつせん)をし候しに、大手は長井渡(わたり)搦手(からめて)は故我(こが)・杉(すぎ)の渡(わたり)より寄(よ)せ候ひしに、上野国の住人新田(につたの)入道、足利(あしかが)にかたらはれて、杉の渡(わたり)より寄(よ)せんとて、まうけたる舟どもを、秩父(ちちぶ)が方よりみなわられて、申候しは、<ただいまここをわたさずは、ながき弓矢の疵(きず)なるべし。水におぼれて死(し)なば死(し)ね。いざわたさん>とて、馬筏(うまいかだ)をつくッてわたせばこそわたしけめ。坂東武者(ばんどうむしや)の習(ならひ)として、かたきを目にかけ、河をへだつるいくさに、淵瀬(つちせ)きらふ様やある。此河のふかさはやさ、利根(とね)河のいくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづけや殿原(とのばら)』とて、まッさきにこそうち入れたれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第四・橋合戦・P.242~243」岩波書店 一九九一年)

さらに鼓崎城(つづみがさきのじょう)落城。この理由は或る意味有名。意図せず刺激してしまった熊の群れが山の斜面をどっと落ちてきた。熊の数だが何と二、三十頭もいる。敵も味方も熊も一斉に驚いて挙句の果てに落城する。こうある。

「探竿影草(たんかんようそう)に身を隠し」(「太平記4・第二十八巻・四・P.336」岩波文庫 二〇一五年)

周囲を刺激しないよう極めて慎重にこっそり兵士を配置させていた矢先の出来事。ちなみに「探竿影草(たんかんようぞう)」はそもそも禅語であり「臨済録」からの引用。

「師問僧、有時一喝、如金剛王寳剣。有時一喝、如踞地金毛獅子。有時一喝、如探竿影草。有時一喝、不作一喝用。汝作作麼生會。僧擬議。師便喝。

(書き下し)師、僧に問う、有る時の一喝は、金剛王宝剣(こんごうおうほうけん)の如く、有る時の一喝は、踞地金毛(こじきんもう)の獅子の如く、有る時の一喝は、探竿影草(たんかんようぞう)の如く、有る時の一喝は、一喝の用を作(な)さず。汝作麼生(そもさん)か会(え)す。僧擬議す。師便(ち)喝す。

(現代語訳)師が僧に問うた、『ある時の一喝は金剛王宝剣のような凄味があり、ある時の一喝は獲物をねらう獅子のような威力があり、ある時の一喝はおびき寄せるはたらきをし、ある時の一喝は一喝のはたらきさえしない。お前それが分かるか』と。僧はもたついた。師はすかさず一喝した」(「臨済録・勘弁・二一・P.171~172」岩波文庫 一九八九年)

この種の失敗は一瀉千里であって、話を聞いた人々の口から口へと瞬く間に伝わる。石見国(いわみのくに)の城は雪崩を打って三十二箇所が落城。熊にびっくりした様子は次の用語に置き換えられて伝わった。

「兵(へい)野に臥す則(とき)は、飛鴈(ひがん)行(つら)を乱る」(「太平記4・第二十八巻・四・P.338」岩波文庫 二〇一五年)

兵法書「孫子」からの引用。

「鳥の起(た)つ者は伏(ふく)なり。獣の駭(おどろ)く者は覆(ふう)なり。

(現代語訳)鳥が飛び立つのは、伏兵がいるのである。獣が驚いて走るのは、奇襲をかけてくるのである」(「孫子・第九・行軍篇・六・P.66」中公文庫 一九七四年)

しかし九州で足利直冬(ただふゆ)が蜂起したため、尊氏自ら西国討伐に出向くことになった。その隙に出家したはずの足利直義(ただよし)が錦小路の邸宅をこっそり抜け出し奈良方面へ向かう。そして吉野の後村上帝に宛てて南朝と同盟したいという主旨の書状を上げる。

「負荊(ふけい)の下(もと)にその科(とが)を許されば」(「太平記4・第二十八巻・八・P.346」岩波文庫 二〇一五年)

「刎頸(ふんけい)の交わり」のエピソードに出てくる。藺相如(りんしょうじょ)の活躍に嫉妬した廉頗(れんぱ)が自分を責めるため鞭を持参して謝罪の意を表する場面。「史記・廉頗・藺相如列伝」から。

「廉頗は『わしは趙の大将として、攻城夜戦に大功をたてた。しかるに藺相如は口先ばかりのはたらきで、わしの上の位におる。それに相如はもともといやしい出じゃ。わしははずかしい。あれの下には立っておれぬ』とて、言いふらした、『わしが相如の顔を見たら、恥辱をあたえるぞ』。相如はうわさを聞き、顔をあわせぬようにし、朝見の日も、いつも病気と言いたて、廉頗と席を争うことをのぞまなかった。そのうちに相如は外へ出たが、遠くから廉頗を見ると、車をひきめぐらし、すがたをかくした。そうなると相如の近侍たちは、いっしょにいさめた、『わたくしどもが親戚をはなれお側につかえておりますのは、殿さまのご高義をしとうたためでございます。殿さまは今は廉頗と同列でいらせられますのに、廉さまが悪口せられたとて、おそれて逃げかくれられまして、ことにお気づかいのようでございます。なみの者さえはずかしく思いますのに、まして大臣大将でございますものを。わたくしどもおろかでございますから、お暇をいただきとう存じます』。藺相如はかたく制止した、『諸君、廉将軍と秦王はどちらが上とおもうか』。『それはかないませぬ』。相如『あの秦王の威勢でさえ、それがしは宮廷のまんなかでしかりつけ、群臣に辱めを与えた。それがしは駄馬のごとくではあろうが、廉将軍ごときをおそれようか。ただ考えてみるに、強大なる秦が趙へ兵力を用いんとせぬわけは、われら両人があるため、それだけである。もし両虎ともに闘えば、どちらかは生きてはいぬ。わしがかようにしておるのは、国家の急をさきとし、私のあだをのちにするとてである』。それを聞いた廉頗は肌ぬぎとなって荊(いばら)のむちを背におい、客をかいぞえに、藺相如のやしきの門へ行って謝罪した、『性根(しょうね)のいやしいそれがしを、将軍がこれほどまでお心ひろく扱ってくださろうとは存じもかけずにおりました』。そのあげく、心おきなく歓談して、刎頸(ふんけい)の交わりをむすんだのであった」(「廉頗・藺相如列伝・第二十一」『史記列伝2・P.60~61』岩波文庫 一九七五年)

直義の書状は詮議にかけられた。宮方としてどう受け止めるべきか。戦況だけを見れば今のところ宮方・足利尊氏方・足利直冬方に三等分されている。そこで二条師基(にじょうもろもと)はこのさい直義を味方に引き込むのが良策だと主張。漢籍を例に上げる。

「章邯(しょうかん)楚(そ)に降つて、秦(しん)忽(たちま)ちに破れ、管仲(かんちゅう)罪を許されて、斉(せい)則ち治まりし事、尤(もっと)も今の世に指南たるべし」(「太平記4・第二十八巻・八・P.348」岩波文庫 二〇一五年)

(1)「章邯(しょうかん)楚(そ)に降つて、秦(しん)忽(たちま)ちに破れ」は「史記・項羽本紀」から。

「章邯は疑い迷うたが、ひそかに軍候の始成(しせい)を項羽のもとにやり、寝返りを約しようとしたが、盟約がまだできなかった。項羽は蒲(ほ)将軍に兵を率い、昼夜兼行で三戸(地名。漳水に沿うた津の名とも狭の名ともいう)を渡り、漳水の南に陣して秦と戦わせ、また秦軍を破った。ついで項羽は全軍を率いて秦軍を撃ち、汙水(うすい=もと漳水の支流であったが今はない)のほとりに陣して大いに破った。章邯は使いを出して項羽に会い、盟約しようとした。項羽は軍吏らを呼んで相談し、『軍糧が少ないから、盟約を聴き入れようと思う』と言うと、軍吏らはみな、『そのほうがよろしゅうございます』と言ったので、項羽は章邯と洹水(えんすい=河南・安南の北を流れる川)の南、殷墟(いんきょ=もとの殷の都のあったところ)の上で約束した。盟約が終わると章邯は項羽を見て涙を流し、趙高のことを話した」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.206』ちくま学芸文庫 一九九五年)

(2)「管仲(かんちゅう)罪を許されて、斉(せい)則ち治まりし」は「史記・斉太公世家」から。

「桓公は即位すると、直ちに出兵して魯を攻め、管仲を殺そうと考えていた。すると鮑叔牙(ほうしゅくが)が言った。『わたくしは幸いにもわが君に従うことができ、わが君はついに位にお即(つ)きになりました。しかし、わが君の尊さは、これ以上わたくしらによって増すことはできませぬ。わが君がただ斉一国を統治なさるなら、高傒とわたくしとだけで足りましょうが、もし天下の覇者になろうと思し召すなら、何としても管夷吾(かんいご=管仲、名は夷吾)を手に入れなくてはなりませぬ。夷吾のいる国は、国として重きをなします。彼を失ってはなりませぬ』。桓公はそのことばに従った。そこでいつわって管仲を呼びだし、ぞんぶんに処置するふうをよそおいながら、実は彼を登用しようとした。管仲にはそれがわかっていたので、自らゆくことを願ったのである。鮑叔牙が迎えに行って管仲を引き取った。堂阜(どうふ=斉の国都に近い地)に到着すると手足の桎梏(かせ)をはずし、身を清め祓(はろ)うて桓公に謁見した。桓公は礼を厚くして大夫に取り立て、国政にあずからせた。桓公は管仲を得てから、鮑叔・隰朋(しゅうほう)・高傒らとともに斉の国政を整え、五家の兵制(五家を軌、十軌を里、四里を連、十連を郷とする)を定め、物価調節の法や漁撈(ぎょろう)製塩の利を設けて貧乏人をにぎわし、賢能の士に禄を与えた。斉の人々はみな喜んだ。桓公の二年、郯(たん=国名。山東・歴城の東)を攻め滅ぼした。郯の君は莒(きょ)に出奔した。かつて桓公が逃げて郯を通過した際、郯は無礼だったので征伐したのである。桓公の五年、魯を伐って魯軍を敗北させた。魯の荘公は遂邑(すいゆう)を献じて、和睦(わぼく)を請うた。桓公はこれを許し、魯と柯(か=山東・陽穀の東北)で会盟することになった。魯がまさに誓おうとしたとき、魯の将軍曹カイが匕首(あいくち)を手にとり、桓公を壇上で脅迫して、『魯から奪った土地を還(かえ)せ』と言った。桓公がこれを承諾した。すると曹カイは匕首を捨て、北面して臣下の席についた。桓公は後悔して、魯に土地を還さず曹カイを殺そうとすると、管仲が言った。『脅迫されて承諾し、信義にそむいて殺すのは、かりそめの快事をぬすむにすぎません。そのうえ諸侯に信用をおとし、天下の支援を失うようになりましょうから、それはいけませぬ』。かくてついに曹カイが三戦三敗して失った土地を魯に還した。諸侯はこのことを聞き、みな斉を信用し、斉につこうとした。桓公の七年、諸侯は桓公に甄(けん=衛の地。山東・濮県)で会同した。こうして桓公は、はじめて覇者となった」(「斉太公世家・第二」『史記3・世家・上・P.38~40』ちくま学芸文庫 一九九五年)

というふうに、引用される箇所が前とは異なっている場合でも、なお内容の類似性ははなはだしいのである。

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Blog21・「太平記」後半の流行語「下剋上」

2021年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
京都では合戦が盛んだが同時に歌舞音曲など芸能もまた盛んに行われていた。新座(しんざ)は南都・奈良の田楽、本座(ほんざ)は京・白川の田楽、という区別があった。その新座に「閑屋(しずや)」という名の田楽師の芸風の面白さが上げられている。

「新座(しんざ)の閑屋(しずや)、猿の面(おもて)を着て五幣(ごへい)を差し上げ、渡橋(わたりばし)の高欄(こうらん)を一飛(ひとと)び飛びては拍子を踏み、踏みては五幣を打ち振つて、真(まこと)に軽(かろ)げに跳(おど)り出(い)でたり」(「太平記4・第二十七巻・九・P.288」岩波文庫 二〇一五年)

実在人物らしい。「申楽談義」にその名が見える。

「しづや、入(いり)かはりたる風體(ふうてい)をす」(日本古典文学大系「申楽談義」『歌論集/能楽論集・P.487」岩波書店 一六六一年)

ところで高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言は足利直義を動かすところまできていた。上杉重能・畠山直宗の側が高兄弟を追い落とすチャンスである。しかし机上の空論は遂に空論でしかない。政権の中枢に最も近い高兄弟は大軍を率いてたちまちのうちに足利尊氏(たかうじ)の屋敷まで詰め寄りあっけなく弟・直義(ただよし)を出家に追い込む。実力の違いを見せつけられた上杉・畠山は逃げようとするが一度に逮捕され越前国(えちぜんのくに)へ流罪と決まった。別れのシーン。

「都にまたも帰るべき、事は堅田(かただ)に引く網の、目にもたまらぬわが涙」(「太平記4・第二十七巻・十二・P.304」岩波文庫 二〇一五年)

散文化されているがもともとは源氏に敗北し北國へ流罪となった平時忠(たいらのときただ)が詠んだ別れの歌。「平家物語」からの引用。

「かへりこむことはかた田にひくあみのめにもたまらぬわがなみだかな」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十二・平大納言被流・P.347」岩波書店 一九九三年)

もはや源頼朝による鎌倉政権樹立が決まったも同然で平家方の残党は続々と処分されている時期に、ここまでセンチメンタルで少なく見積もっても未練がましい歌を残すものかと思いはする。一方、ほぼ同時期に自らの仏教思想を打ち立てていた道元はこういっている。

「花は愛惜(あいじやく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり」(「正法眼蔵1・第一・現成公案・P.53~54」岩波文庫 一九九〇年)

現代語訳に翻訳してみても意味は何ら変わらない。

「散る花を惜しみ、生い茂る草を嫌うのも人の心の在りようである」(「正法眼蔵1・第一・現成公按・P.22」河出文庫 二〇〇四年)

一読すると、花が散るのを惜しいと思い、また手入れされなくなった庭に茫々たる雑草が覆い茂り始めるのを見るのはなるほど悲しいものだ、と論じているかのようだ。だが道元の言葉はそのようなセンチメンタルなレベルで語られているわけではまったくない。そうではなく、そもそも花は散るものである、そしてまた、主人を失い手入れされなくなった庭では雑草がいきいきと生い繁る。それを嘆くのは人間の心模様としては自然な動きかもしれないが、しかし世界というものは、揺れ動いてばかりの人間の心など無視して花は散り庭は亡ぶ。それこそ本来的な無常というものであり、嘆くのではなく逆に積極的に受け入れて対象化しなければならない。そう道元はいう。

上杉・畠山ら散り散りばらばらになっていく人々は次のように思う。かたつむりの角(つの)のような小さな世界で争い事ばかり、さらに人間の生涯は瞬時に過ぎていくと。

「蝸牛(かぎゅう)の角(つの)の(上の)三千界(さんぜんかい)、石火(せっか)の光の中の一刹那(いちせつな)」(「太平記4・第二十七巻・十二・P.304」岩波文庫 二〇一五年)

「和漢朗詠集」所収、白居易「対酒」からの引用。

「蝸牛角上争何事 石火光中寄此身

(書き下し)蝸牛(くわぎう)の角(つの)の上に何の事をか争(あらそ)ふ 石火(せきくわ)の光の中(うち)にこの身を寄(よ)せたり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・無常・七九一・白居易・P.295」新潮社 一九八三年)

ただ単なる流刑であり、あばら家で粗末な暮らしだが、しばらく我慢すれば京へ戻れるに違いないと思い込んでいた上杉・畠山の両人。しかし高兄弟はそれほど甘くない。上杉・畠山とも越前で死ぬ。畠山は家来の勧めで自害。上杉はおろおろと女房の顔を見て無駄に時間を稼いでいるうちに八木光勝(やぎみつかつ)の手下の者に生捕りにされ斬り殺された。このすぐ後に「雲景未来記(うんけいみらいき)」の条が続いており、「太平記」で始めて「下克上(げこくじょう)」という言葉が登場する。

「臣君を殺し、子父を殺し、力を以て争ふべき時至るゆゑに、下克上(げこくじょう)の一端により、高貴清花(こうきせいが)も君主一人(いちじん)も、ともに力を得ずして、下輩下賤(げはいげせん)の士四海(しかい)を呑む」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.316」岩波文庫 二〇一五年)

「『今度は、地口天心(ちこうてんしん)を呑むと云ふ事あれば、いかにも下克上(げこくじょう)の時分にて、下(しも)勝ちぬべし』と申しければ、雲景(うんけい)、重ねて申すやう、『さては、下(しも)の道理にて、僻事(ひがごと)上(かみ)に逆(さか)うて、天下をわがままに治むべきか』と問へば、『いや、さはまたあるまじ。末世乱悪の儀にて、先(ま)づ下勝ちて、上を犯すべし。されども、上を犯す科(とが)も遁(のが)れ難(がた)ければ、重ねて下科(とが)に伏(ふく)すべし。これより当代、公家武家忽(たちま)ちに変化して、大逆(たいぎゃく)あるべし』と申せば、『さては、武家の代尽(つ)き、君、天下を治めさせ給ふべきか』と問へば、『それは、いさ知らず。今日明日(きょうあす)、武運も尽くべき時分ならねば、南朝の御治世は何(なに)とかあらんずらん。天変(てんぺん)はいかにもこの中(うち)にあるべし』」(「太平記4・第二十七巻・十三・P.322~323」岩波文庫 二〇一五年)

次の一節は「下克上」の事例として「太平記」が上げている。

「魯(ろ)の哀公(あいこう)に季桓子(きかんし)が威を振るひ」(「太平記4・第二十八巻・一・P.329」岩波文庫 二〇一五年)

「春秋左氏伝」や「史記・魯周公世家」に載る記事。

(1)「哀公は三桓の倨傲ぶりを嫌って、諸侯を利用してこれを排除しようとした。三桓の方も公の《でたらめ》さを嫌い、ために君臣間に摩擦が多かった。公は陵阪(りょうはん)に出遊する途中、孟氏(もうし)之衢(く)=孟氏大街で孟武伯(仲孫彘)に出逢い、『子(あなた)にひとつおたずねするが、余(わし)は無事に死ねるだろうか』とたずねると、『臣(わたくし)にわかるわけはございません』と答え、三度同じ質問をしても、とうとうそれ以上答えなかった。公は越とともに〔自国の〕魯を攻めて三桓を排除しようと考えた。秋八月甲戌の日、公は公孫有陘(こうそんゆうけい)の邸に赴き、それに乗じて邾に逃れ、ついで越に赴いた。国人は公孫有山(有陘)氏に〔哀公を出国させた〕罪を押しつけた」(「春秋左氏伝・下・哀公二十七年・P.501」岩波文庫 一九八九年)

(2)「二十三年、越王句践(こうせん)が呉王夫差を滅ぼした。二十七年の春、季康子が没した。その年の夏、哀公は三桓の専横を憂慮し、諸侯の力をかりて牽制(けんせい)しようとした。三桓のほうでも、哀公が事をおこすのを心配した。そのため君臣の間には隙が多かった。哀公が陵阪(りょうはん=都の近郊)に遊んだとき、街で孟武伯(もうぶはく)に出会った。『わしは天寿を全うして死ねるだろうか』と哀公が問うと、孟武伯は、『わかりません』と答えた。哀公は越にたよって三桓を伐とうと思った。その年の八月、哀公が有陘氏(ゆうけいし)のもとに行ったとき、三桓は共同して哀公を攻めた。哀公は衛に出奔し、さらに衛を去って鄒に行き、ついに越に行った」(「魯周公世家・第三」『史記3・世家・上・P.92~93』ちくま学芸文庫 一九九五年)

軍事力で上回っていれば下の者が上の者を転倒させることはできる。だがただそれだけで民衆もまた一致して付いてくるとはまったく限らない世界が出現する。

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