白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/死んだ僧に負わされた永遠の債務

2021年03月31日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、奈良の東大寺に住んでいる僧が仏に供える花を摘みに東方向の山間部へ入った。途中、「道を踏み違(たがえ)て、山に迷(まどい)にけり」=「道を間違えて見知らぬ山中に迷い込んでしまった」。というわけだが、道を間違えたとわかるのは迷子になって始めて気付くのであり、この場合、「道を踏み違(たがえ)」ることと既に異境へ入ってしまっていることとは別々の事情ではなく逆に同一の動きとして考えられる。異境訪問譚は大抵いつも決まってこのような経過を辿る。

そして「谷迫(たにのはさま)を夢の様に思(おぼ)えて歩(あゆ)み被行(ゆかれ)ければ」と本文は続く。僧は夢うつつの精神状態で《なければならない》。異境訪問譚の条件として「夢うつつ」でなおかつ「黄昏時(たそがれどき)」というケースが上げられる。柳田國男はいう。

「黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)という所の民家にて、若き娘梨(なし)の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音(ちいん)の人々その家に集りてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆(ばば)が帰って来そうな日なりという」(柳田國男「遠野物語・八」『柳田國男全集4・P.18~19』ちくま文庫)

また、「歩(あゆ)み被行(ゆかれ)ければ」というのは自分の足が自分の意志とは無関係にどんどん進んでいく状態を示す。僧は思う。

「我は何(いか)に成ぬるにか。迷(まど)ひ神に値(あい)たる者こそ此(か)くは有(あん)なれ。何(いず)ちに行にか有らむ。怪(あやし)くも有(ある)かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)

僧の考えでは「迷(まど)ひ神」に取り憑かれてしまったということになる。そしてしばらくすると僧坊が立ち並ぶ場所へ出た。この説話では立ち並ぶ僧坊。この種の系列は無数に延長可能であり、例えば、広々とした人郷(ひとざと)にせよ小さな鄙びた奄(いほり)にせよ、谷間・谷底を迷い歩いているうちに不意に出現するのが通例。

「巻二十六・第八話・飛騨国猿神(ひだのくのさるがみ)、止生贄語(いけにへをとどむること)」では山中に迷い込んだ狗山(猟師)が見知らぬ大きな人郷(ひとざと)に出る。

「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店)

また「巻第三十一・第十五話・北山狗(きたやまのいぬ)、人為妻語(ひとをめとなすこと)」では京の北山へ遊びに出かけた男性が谷間の小さな奄(いほり)を見つける。

「谷ノ迫(はさま)ニ、小キ奄(いほり)ノ髴(ほのか)ニ見ユレバ、男、『此(ここ)ニ人ノ住ムニコソ有ケレ』ト喜(うれしく)テ、其(こそ)ヘ掻行(かきゆき)テ見ケレバ、小キ柴(しば)ノ奄有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十五・P.475」岩波書店)

そして東大寺の僧が山間部で不意に見つけたのは瓦葺(かわらぶき)の細長い建築物。部屋が幾つも仕切られている僧坊かと思われる。近づいて内部を覗いてみるとそこには、かつて東大寺で死んだ僧がいた。

「恐々(おずお)づ内に入て見れば、東大寺に死(しに)し僧有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)

花を摘みに来た僧は仰天して、これはもしや悪霊では、と怖気付いてしまった。ところが死んだはずの僧は花摘みの僧に話しかけてきた。「どのようにしてここに来たのか。ここは人間が簡単に入って来られるような場所ではない。めったにないというのに」。

「汝(なんじ)は何(いか)にして此の所には来たるぞ。此(ここ)は人の輒(たやす)く可来(くべ)き所にも非ず。希有(けう)の事かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)

花摘みの僧は事情を説明した。仏前に供える花を探しに山中へ入ったのだが、いつもと異なり道に迷ってしまったようだ。なんだか我を見失ってぼうっとしているうちにここへ出たというわけ」。

「我れ花を擿まむが為に山に行たりつるに、例にも非(あら)ず道に迷(まどい)て、我れにも非ず怳(ほれ)たる心地して此(か)く歩(あゆ)み来たる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)

そう聞かされた死んだ僧。とはいえ東大寺で修行していた頃は二人とも同僚であり、お互い顔見知りの旧知の間柄。死んだ僧は懐かしさがつのり思わず涙を浮かべ、「こうしてまた会えるのはとても嬉しいことだ」と言って泣き出してしまう。それを聞いた花摘みの僧も、懐かしい同僚が涙する姿を見て共に泣き出してしまった。

しかしなぜ死んだはずの僧はこんな山中の見知らぬ僧坊のようなところに住んでいるのだろう。死んだ僧は事情を説明する。「そなた、見つからないところへ隠れて壁の穴からこっそり見ていてほしい。これから私が受ける罰の苦しみを。私は寺にいた頃、僧侶に供えられる食べ物を退屈しのぎに食べて時間を無駄に過ごしてばかりいた。気持ちが億劫な日はお堂に赴くこともせず、さらに学業に専念するということもなくなった。それが罪となったのだろう。ここで日に一度、堪え難い苦しみを受けることになった。もうその時間だ」。

「汝(なん)ぢ深く隠(かくれ)居て、壁の穴より蜜(ひそか)に臨(のぞ)き見よ、我が受くる所の苦(くるしび)を。我れ寺に有し時、徒(いたずら)に僧供(そうぐ)を請(う)け食(くい)てのみ過ぎき。倦(ものう)かりし日は、入堂をも不為(せ)ず、亦(また)学問をも不為(せ)ずして有き。其の罪に依(より)て、毎日(ひごと)に一度(ひとたび)、無限(かぎりなく)難堪(たえがた)き苦患(くげん)を受くる也。漸(ようや)く其の期(ご)に至(いたり)にたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.99」岩波文庫)

死んだ僧は花摘みの僧を土造りの建物である壺屋(つぼや)へ案内し、ここにじっと隠れてこれから起こることを壁の穴から覗いて見ておいてほしい、と言った。するとたちまち、「唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる」者たちが四、五十人、額に鉢巻のようなものを付け、天空を飛ぶがごとき速度で到来し降り立った。

「忽(たちまち)に、唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる、額(ひたい)に絈額(まこう)をしたる、四、五十人許(ばかり)空より飛ぶが如くにして下(お)り来(きたり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.99」岩波文庫)

地獄での拷問の様子を描いた「往生要集」の描写に近い場面が目に映る。しかし地獄ではない。気迫に満ちた「唐人(とうにん)」たちと思われる姿はまさしく唐由来の仏教絵画に描かれている装束姿である。そこへ召し出された者らは東大寺で死んだ僧を含めて十人ほどだろうか。緋色の縄で一人々縛り付けられる。そこへ「鉄(くろがね)の壺(つぼ)」に注ぎ口の付いた容器が用意された。その中には火で溶かした銅(あかがね)がゆらゆらと煮えたぎっている。僧たちは一人ずつ呼び出され、高熱で溶かされた「銅(あかがね)の湯」を口から注ぎ入れられる。僧たちは目・耳・鼻から焔(ほのお)を垂れ流し始めた。関節からは煙がぶすぶすと立ち上り、尻からはどろどろに溶けた「銅(あかがね)の湯」が垂れ流しになっている。体中の穴という穴から火で溶かされた「銅(あかがね)の湯」が吹きこぼれ出している。呼び出された十人ほどの僧がすべてこの拷問を受け終わった時、縛り付けられていた縄がようやく解かれこの日の拷問は終了し、同時に天空から出現した「唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる」者たちは再び天空へ消え失せた。

「暫(しばし)許(ばかり)有て、尻より流れ出(い)づ。目・耳・鼻より焔(ほのお)ほめめき出(い)づ。身の節毎(ふしごと)に煙(けぶり)出(いで)て、くゆり合たり。各(おのおの)涙を流して叫ぶ音(こえ)悲し。僧毎(ごと)に皆次第に飲まれ畢(はて)つれば、皆解免(ときゆる)して、本(もと)の房々(ぼうぼう)に返し送(おくり)つ。其の後、此の人共、空に飛び畢(はて)て失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.100」岩波文庫)

一旦見ておきたい。東大寺にいた僧であろうと他の名もない寺にいた僧であろうと、ここに集められた十人ばかりの者はすべて同等の拷問を受けている。十人ほどのうち誰の拷問にも違いがない。諸商品の無限の系列でいえば、どの商品にも何らの違いも認められない。しかし諸商品の無限の系列の場合、その中から一つの商品が排除され「貨幣」へと転化する。ところがこの場面ではどの僧も特権的排除を与えられることなく、上へも下へも排除されることなく、引き続き「宙ぶらりんのままに留まる」。ラカンはいう。

「私達はこれまで、ヒステリー者の置かれている位置の特徴は、まさに男と女というシニフィアンの二つの極に関わる問いであるということを見てきました。ヒステリー者は全存在を賭けてこの問いを問うのです。つまりいかにして男であり得るか、あるいはいかにして女であり得るか、と。しかし自ら問いを立て得るということは、ヒステリー者はそれでもそのことの拠り所を持っているということをも意味しています。この問いにおいてこそ、ヒステリー者自身の性が疑問に付されていることを示す異性の人物への基本的な同一化によって、ヒステリー者の構造のすべてが導入され、宙づりにされ、保たれているのです。ヒステリー者のこの『あれか、これか』という問いに対して、強迫症者の解答、つまり『あれでもない、これでもない、男でもない、女でもない』という否定が対置されます。この否定は、死すべき運命にあるという経験に関わるものですが、そのような存在を問わないように隠すこと、つまり宙ぶらりんのままに留まる一つの仕方です。強迫症者は確かにあれでもないこれでもないのですが、彼は同時にあれでもあり、これでもあるのだと言うこともできます」(ラカン「精神病・下・20・呼びかけ、暗示・P.157」岩波書店)

そのような条件の内部に留め置かれたまま毎日同じことが何度も繰り返し反復される。フロイトはいう。

「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)

なるほど「無気味」ではある。しかし強迫的に何度も繰り返される反復行為の中には、フロイトが「魔力的な性格」と言って上手く示唆しているように、ただ単なる「苦痛」ばかりで占められているわけではまるでない。ニーチェに言わせればこうなる。

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)

壺屋の壁の隙間からその場面を目撃した花摘みの僧は生きた心地がせず、ただただ恐怖心で一杯になり、壺屋の中でうつ伏せになったまま倒れ込んでしまった。そのうち、死んだ僧が壺屋へやって来て倒れ臥している花摘みの僧を起こしてくれた。そしていう。「ご覧になられたか。私は東大寺で死ぬとすぐこの僧坊にやって来て、その後ずっとここに住んでいるのだ。寺にいた頃、寺院へのお布施を請い受けて食物にするわけだが、ただ寺から与えられるまま食べるだけ食べる一方、本来の修行をさぼり、お布施を納めてくれた人々への償いはしない。修行に励まなかった。その罰なのだ、この苦(くるしび)は。だが厳密に定められている罪を犯したわけではないので地獄に落ちず、代わりにこのような形で連日耐えがたい苦痛にのたうち回ることになったというわけだ。さあ、もうお返りになって下さい」。

「死(しに)て即ち、此の所に来たて、此の僧坊に住む也。寺にして徒(いたずら)に信施(しんせ)を受て、償(つくの)ふ方無かりしに寄(より)て、此の苦(くるしび)を受る也。犯(おかし)し罪無かりしかば、地獄には不堕(おち)ず。速(すみやか)に返り給ひね」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.101」岩波文庫)

説話のこの時点で、実は、死んだ僧にもさっぱり理解できていない点が見られる。それは何か。この場へ集められた十人ばかりの僧は東大寺に限らず、いずれもばらばらの場所から寄せ集められている。だから元いた仏教施設でどんな罪を犯したかはわからないだけでなくそれぞれ違う罪を犯している可能性が十分に考えられる。規則としては同じ種類に属する罪だとしても、個々のケースで見ればそれぞれ少しずつ違った行為であったろうし、別々の僧たちである以上、それぞれが犯した罪はそもそも違った行為であるほかない。その意味ではいずれの罪にしても個別的である。ところが十人が十人ともまったく同一の刑罰を与えられるや否やそれぞれ少しずつ違っていただろう罪の個別性はたちまち消え去り、同一の刑罰の付与とともにあらゆる個別性は忘れ去られてしまう、という事情である。

さて。異境訪問譚の形式を借りつつ、この説話が語っていることは一体何か。第一に、寺院へ寄進された価値相当のものが、約束されたはずの等価性を得て寄進者のもとへ還流してきていないという事情がある。第二にお布施が、金額換算してどれほどになるかという、寄進された物品の大小にはまったく関わらないはずの条件がややもすれば反故化される危機的状況を改めて思い起こさせる機能を受け持たされている点。むしろ大小が勘案されるとすれば仏教思想の根本にある「一切の衆生の平等原則」に反する。もし寄進物の価値の大小によってその見返りが計算されるとすれば、信仰の深さ・厚みはもはや関係なく実は金銭的コネクション優先の擬似的宗教(カルト)教団へ転化し、仏教寺院はその名称にもかかわらず仏教とは何らの関係もないただ単なる金融機関の投資窓口へ転化してしまう。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

説話にあるように、この債権・債務関係が実際に履行されない場合、どのような経過を辿るだろうか。

「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.72」岩波文庫)

そしてまたこの種の罪と罰との応酬が習慣化されると、始めはただ単なる習慣から始まったものが遂に「神聖な法律」として自動的に機能するようになる。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

というふうに。

だから、東大寺で死んだ僧が陥った永劫の債務者という立場から抜け出す余地は、説話に従う限り、寸毫も残されていない。貨幣に置き換えた場合、転化したのは東大寺の「僧」であり、その転化過程は「僧」から「死んだ僧」への転化、さらに異境へ場所移動した限りにおいて「生きている死んだ僧」へ再転化している。「僧」は「僧’」へ転化し、さらに「僧’’」へと再転化した。しかし「僧’’」は異境へ追放され、「僧’’」になったまま取り残されており、従って変化過程で生じた「’’」に相当する価値部分が現実社会へ還流してくることはもはやない。死んでなお永遠のミゾギばかりが延長、再延長されていく。ニーチェのいうように「絶対的基準」というものはもう消え失せたからである。

なお述べておきたいが、「生きている死んだ僧」は、実を言えば、現実社会へ還流することへの躊躇(ためら)いをも同時に語っていないだろうか。確実に訪れる毎日一度の拷問。「生きている死んだ僧」は花摘みの僧に向かって「早くお返り下さい」と言ったきり花摘みの僧を見送る。花摘みの僧は地獄めいた場面を見せつけられて教訓を受け取る。だが「生きている死んだ僧」の側からは教訓一つ語ってはいない。むしろこれまでの経緯をこまごまと語り、その後に花摘みの僧を送り出すばかりだ。教訓どころか逆にこのような地獄めいた毎日を送るに当たって自分が経た過程を説明するために登場したかのようでさえある。とすればもう一つ考えられるのは、ドゥルーズが東欧を舞台とした作品について述べたマゾヒズムの逆説だろう。

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)

であれば、かつて東大寺にいた「生きている死んだ僧」が此方(こなた)の世界へ舞い戻ってくることは金輪際考えられない。「生きている死んだ僧」は「あらぬ世界」=「ユートピア」の住人になったからだ。そしてそこは「極楽」でもなく「地獄」でもない。それらとはまったく違った「宙ぶらりんのままに留まる」ほかない世界である。

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熊楠による熊野案内/猟師の自覚・聖人の不覚

2021年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

舞台は「愛宕護(あたご)の山(やま)」。今の京都市右京区愛宕山(あたごやま)。山岳仏教の聖地として知られる。

或る時、愛宕護山に数年間も籠り続けてひたすら修行に専念する持経者(じきようじや)の聖人(しようにん)がいた。一方、愛宕護山の西側に一人の猟師がおり、もっぱら鹿・猪(いのしし)を射殺すことを生業としていた。猟師は常から、数年来愛宕護山に籠って修行している聖人を尊敬しており、その気持ちにと時折何らかの物を持って行って寄進していた。

しばらくの間、猟師は聖人のもとを訪れる機会がなかったが、久しぶりに餌袋(えぶくろ)に果物や木の実などを入れて持ち、聖人が修行しているところへ参詣することにした。間が空いてしまっていたためか聖人はいたく喜び、二人とも近況報告し合って時を過ごした。互いにそれぞれの話に興じているうち、聖人がこんなことを言い始めた。「最近のことなのだが、大変尊い出来事が起こるようになりました。ここ数年間わたしは他の思いへ気持ちを逸らすことなくひたすら法花経を読み続けてきたご利益なのでしょうか、毎晩のように普賢菩薩が出現なさるのです。なのでそなたも今夜はここに留まって礼拝差し上げなさって下さい」。

「近来(このごろ)極(きわめ)て貴き事なむ侍(はべ)る。我れ年来(としごろ)他の念(おもい)無く、法花経を持(たも)ち奉(たてまつり)て有る験(しるし)にや有らむ、近来(このごろ)夜々(よなよな)普賢(ふげん)なむ現(げ)むじ給ふ。然(しか)れば今夜(こよ)ひ留(とどまり)て礼(おが)み奉(たてまつ)り給へ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十三・P.177~178」岩波文庫)

猟師はそれを聞いて、それならと今夜は聖人のところで泊まらせてもらうことにした。また、聖人の弟子に一人の幼い童(わらわ)がいた。猟師はその童に尋ねてみた。「聖人は普賢菩薩が姿を現わされると仰っているが、あなたもまた普賢菩薩を見なさることがおありだろうか」。童は答えた。「はい。もう五、六度は拝見させて頂きました」。そう聞いた猟師は「それなら私も拝見できることもあるだろう」と思い、その夜は聖人の後ろに場所を取って寝ずにその奇跡的事態の到来を待つことにした。

「聖人の弟子に幼き童(わらわ)有り。此の猟師、童に問(とい)て云、『聖人の、<普賢の現(げ)むじ給ふ>と宣(のたま)ふは。汝(なんじ)もや其(その)普賢をば見奉(みたてまつ)る』と。童、『然(し)か。五、六度許(ばかり)は見奉(いたてまつり)たり』と答ふれば、猟師の思はく、『然を我も見奉る様も有なむ』と思て、猟師、聖人の後(しりえ)に不寝ずして居たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十三・P.178」岩波文庫)

まだだろうかと思っているうちに真夜中を過ぎた。その頃、やおら聖人の坊内が煌々たる白光に照らし出された。よく見ると「白き色の菩薩、白像(びやくぞう)に乗て」出現しており、僧坊の正面近くにお立ちになられた。その姿は「法華経・普賢菩薩勧発品」にある通り。

「我爾時乗 六牙白象王

(書き下し)われ(普賢菩薩)はその時、六牙(ろくげ)の白象王(びやくぞうおう)に乗り」(「法華経・下・巻第八・普賢菩薩勧発品・第二十八・P.320」岩波文庫)

聖人は感激の余り溢れ出る涙にむせび泣きつつ篤く礼拝され、後ろにいる猟師に言った。「どうですか。そなたはご覧になって礼拝されましたか」。猟師は極めて篤く礼拝して差し上げましたと答えた。だが一方、猟師は矛盾している点に気づいた。「なるほど聖人は何年もの間、ずっと法花経を読み続けてこられた修行者であり、菩薩の出現が目にもあらわにお見えになるのは最もなことと言うべきだ。とはいえ、そばに付き従って日も浅い童(わらわ)にも見え、ましてやお経の意味さえよくわかり申さぬ猟師の身の私にまで同じように見えるというのは明らかにおかしな話だと思われる。本当なのかそれともただ単なる偽物なのか、一つ、試して差し上げさせて頂きたい。信仰をより一層はっきりしたものにするための行為なのでけっして罪を受けることではあるまい」。

「聖人の、年来(としごろ)法花経(ほけきよう)を持(たも)ち給はむ目に見え給はむは、尤(もとも)可然(しかるべ)し。此童(わらわ)我が身などは、経も知り不奉(たてまつら)ぬ目(めに)、此(か)く見え給ふは、極(きわめ)て怪き事也。此を試(こころ)み奉(たてまつ)らむに、信を発(おこ)さむが為なれば、更に罪可得(うべき)事にも非(あらじ)」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十三・P.179」岩波文庫)

そこで猟師は生業のために持っている鋭雁矢(とがりや)を取って弓を構え、聖人が平身低頭して拝み倒している頭越しに精一杯矢を射てみた。矢は目の前に出現している菩薩の胸の辺りに命中したような手応えを伝え、とともにそれまで光に満ちていた房内の火がいっぺんに消え失せた。同時に山中の谷間に向かって何物かが地響きを立てて逃げていくような音が聞こえた。

「鋭雁矢(とがりや)を弓に番(つがい)て、聖人の礼み入て低(うつふ)したる上より差し越して、弓を強く引て射たれば、菩薩の御胸ん当る様にして、火を打消(うちけ)つ様に光も失(うせ)ぬ。谷さまに動(どよみ)て逃ぬる音す」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十三・P.179」岩波文庫)

聖人は慌てふためいて「何をなさったのです。これは一体?」と、どうしてよいものやら泣き迷うばかり。猟師はいう。「穴鎌(あなかま)給へ(=お静かになさって下さい)。お経の何たるかもまだまだ理解の及ばない私のようなものでも不審に思わずにはおれないような出来事です。今後の信仰のためと考え、試しに射てみたまでのこと。けっして罪になることなどありますまい」。

「穴鎌(あなかま)給へ。心も不得(え)ず怪(あやしく)思(おぼ)ゑつれば、試むと思て射つる也。更に罪不得給(えたま)はじ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十三・P.179」岩波文庫)

そう言って猟師は泣きじゃくっている聖人を精一杯宥(なだ)めてみた。しかし聖人の悲しみは止まなかった。しばらく経って夜が明けた。真夜中過ぎに出現した菩薩がいらっしゃった場所へ近づいてみると、大量の血溜まりが残っている。そこでその血の流れていく筋を追って100メートルばかり下方へ降りただろうか。谷底に巨大な野猪(くさいなぎ)が胸から背中にかけて鋭雁矢(とがりや)で貫かれて死に臥せっていた。聖人はそれを見るやたちまち悲哀の気持ちが醒めてしまった。

「夜明て後、菩薩の立給へる所を行て見れば、血多(おおく)流(ながれ)たり。其血を尋(たずね)て行て見(みれ)ば、一町許(ばかり)下(くだり)て、谷底に大なる野猪(くさいなぎ)の、胸より鋭雁矢(とがりや)を背に射通(いとお)して死に臥せりけり。聖人此を見て、悲びの心醒(さめ)にけり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第二十・第十三・P.179~180」岩波文庫)

ところで、明らかな変容を見せたのは「野猪(くさいなぎ)」のみ。これまで見てきたように狐や野猪・狸は妖怪〔鬼・ものの怪〕の中でも下級に編入されており、逆に、大内裏の中に突如出現してあっと言う間もなく人間の頸(あたま)だけを血塗れのまま残して胴体部分を斬り取り去っていく鬼とは区別されている。さらに鬼の場合、その姿を容易に人々の目に見せたりしない。姿を見せる時でも、今後の成り行きが楽しみだな、というような不気味な呪詛の言葉をほんの一言だけ残して消え失せたりする。ところが狐や野猪・狸の場合、何とも言えない形で正体が曝露されてしまう点で大いに異なる。また鬼の出現はなぜか、朝廷の政治権力闘争の激化と時期が一致していることが少なくない。動物の場合は人間同士の権力闘争とは関係なくひょっこり出てきて、大抵は失敗する。だが、失敗してもしばらくすればまたのこのこと出て来て人々を化かそうとする。悪戯(いたずら)程度のものだが、それはとりもなおさず、動物の本来の生息領域を不適切に侵害し、動物たちが営んでいる生態系に何かの衝撃を与えることになった場合に限られると言えよう。その意味では動物の妖怪化はどこか滑稽に見えてはいても決して侮ってはいけない自然界からの警告として受け取ることができる。だが鬼の場合はそうではない。

さてしかし、なぜ数年間も山岳修行に打ち込んでいる聖人には偽物が本物に見え、逆に仏教経典一つ理解しているとは思ってもいない猟師には偽物を見破ることができたのか。貨幣に置き換えれて言えば、偽札を摑まされずに済んだのか。またなぜ逆に聖人は、擬似的好景気=空前のバブル景気に陥ったのか。聖人に落ち度はほとんどない。あるとすれば愛宕護山は知らぬ者のない山岳信仰の聖地であり、そこでの長年に渡る孤独な修行の末にいつか菩薩の出現があり得る、という思い込みだけだろう。その他の理由は落ち度のうちに入らない。それより遥かに注目すべきは猟師の側が、日々自分の立場をしっかり自覚・認識していたがゆえ、その違いがあらわに出たという点。猟師は仏教修行に励んだことなどない。聖人のそばに仕えている童(わらわ)もまだまだ小僧さんに過ぎない。だから、もっとも、聖人の前に限ってのみ普賢菩薩が出現する可能性は認められよう。にもかかわらず聖人と同じ時刻・同じ場所で、普通なら到底見えるはずのない普賢菩薩が聖人以外の童とか、ましてや聖人が長年修行する姿を尊敬して時折何か差し入れを持ってやって来るに過ぎない自分ごとき名もない猟師の目にもあらわに見えようはずがあるだろうか。このような明確な区別が自覚的に認識できている限りで、猟師は本物と偽物とを見分け、偽物の姿を見破ることができ、また聖人を我に帰らせることもできたと考えられる。大事なのは社会的立場の違いを自らの《身体》で知っているかどうかに掛かっている。

「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三四三・P.192」ちくま学芸文庫)

そうして始めて猟師には聖人には見えないものが見えたのであり、地域は異なっていても、例えばヨーロッパでは「労働」と「労働力」との違いが見えたのである。

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熊楠による熊野案内/十三年目の秋穫

2021年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

寛平五年(八九三年)から寛平八年(八九六年)。三善清行(みよしのきよゆき)が「備中介(びつちうのかみ)」(備中国長官)を務めていた頃。舞台は「賀陽(かや)の郡(こおり)、葦守(あしもり)の郷(さと)」。今の岡山県岡山市北区足守(あしもり)。「賀陽(かや)の良藤(よしふじ)」という男性がいた。商売を成功させ富裕層の仲間入りを果たしたと同時に女遊びが止められない点で家族の中では困りものだった。

寛平八年、妻が用事で京へ上ることになった。その間、良藤は独り身になるため他の女性を漁ってふらふら出歩く毎日が始まる。或る秋の日の夕方、家の外へ出てみるとすぐ、若い美女が一人で佇んでいる場面に出くわした。

「寛平(かんぺい)八年と言ふ年の秋、其の妻(め)京に上(のぼ)れる間、良藤寡(やもめ)にして独(ひと)り家に有るに、夕暮方(がた)に、外に出(い)でて彳(たたず)みて行(あり)くに、忽(たちまち)に美麗なる女の年若きを見る」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.360」岩波文庫)

良藤はその女性に声を掛ける。近寄って誘ってみた。女性の体にそっと手を触れて反応を試すと特に嫌ではないらしい。そのうち良藤は誘った側であるにもかかわらず逆に誘われた側へ転倒した格好になり、若い女性の腰を腕で引き寄せ二人連れ立って女性の家へ案内される経過を辿った。その家は良藤の家の場所から考えて、思っていたよりもずっと近所にあった。家の中の様子を見ると、あるべきものがあるべき場所に設られたという感じのまずまず理想的な造りで、上中下に区分された多数の使用人が立ち働いている。良藤が、「さて、こんな近所にこんな家があったかな」、と思っているうちに「君(きみ)がいらっしゃいました」と家の者らが盛大に出迎えてくれる。この若い女性はこの家の娘だったのかとわかるやたちまち良藤はうれしさが湧き出し、その日のうちに二人はもう性交して夜を過ごした。

「糸(いと)近き所に清気(きよげ)に造(つくり)たる家に、又内(うち)を見れば、可有(あるべ)かしくしつらひたり。良藤、『何(いか)で、此(かか)る所有(あり)つらむ』と思(おもう)に、家の内に上中下の男女(なんによ)様々(さまざま)に有て、『君御坐(おわしま)しにたり』と騒ぎ合(あい)たり。『此の女は此の家の娘也けり』と思ふに、喜(うれ)しくて、其の夜通(つう)じぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.360~361」岩波文庫)

そして夜明け。家の主人が登場した。そしていう。「こうなる御縁があってこそこうしてここにいらっしゃったに違いないのでしょう。もはやこのままここにいらっしゃって下さい」。主人は感じよく持てなしてくれた。良藤の気持ちはすっかり若い女性の側へ移ってしまい、永遠の契(ちぎり)を誓って結婚した。起きては寝て、寝ては起きる日々を過ごしている間に良藤はもう「本家のことや子供らはどうしているだろう」と思うこともすっかりなくなった。

「『可然(さるべ)きにてこそ此(か)くて御(おわ)しつらめ。今は此(か)くて御(おわ)せ』と云て、目安く持成(もてな)して有るに、良藤此の女に心移り畢(は)てて、永く契(ちぎり)を成して、起き臥し過(すぐ)すに、『我が家・子共(こども)何(いか)ならむ』と不思(おぼ)えず」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.361」岩波文庫)

一方、良藤の本家(もとのいえ)では急に姿をくらました良藤捜索に乗り出す。近くでは見当たらず、かといって遠出したにしてはそれに適した装束は家に残したまま、おそらく「白衣(びやくえ)=白小袖に指貫を付けただけの普段着」ですぐそこまで出かけただけ、といった風情。夜が明けても帰ってこない。行きそうな箇所に見当を付けて探したけれどもまったく何の情報も得られない。「あれこれ考え迷う若者だというのなら、あるいは出家とか身投げとかなされよう。そうではないのになぜ」と家族らは腑に落ちない。

「遠く行(ゆき)にけるかと思へば、装束も皆有り。白衣(びやくえ)ぶて失(うせ)にけり。如此(かくのごと)く騒ぐ程に、夜も明(あけ)ぬ。可行(ゆくべ)き所々(ところどころ)尋ぬるに、更に無し。『若き程の心不定(さだまら)ぬならばこそ、出家もし身をも投け給(たまわ)め。糸(いと)奇異なる態(わざ)かな』」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.361」岩波文庫)

他方、良藤の暮らしは大変順調で数日・数ヶ月が過ぎた。しばらくして妻は妊娠し子どもも生まれた。すると二人の仲はますます厚みを増し、どんどん子作りに励み始めた。数年が過ぎた。只ひたすら滑るように月日ばかりが過ぎ去っていく。良藤はいろいろと感慨に耽るようになった。

「彼(か)の良藤が有る所には、年月を経て、其の妻(め)既に懐妊しぬ。月満(みち)て平(たいらか)に子を産(うみ)つ。然れば、弥(いよい)よ契(ちぎ)り深くして過(すぐ)る程に、年月只行きに行く心地して、様々(さまざま)思ふ様(やう)也と思ふ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.361~362」岩波文庫)

さて本家。良藤の兄の名は豊仲(とよなか)。「賀陽(かや)の郡(こおり)の大領(だいりよう)」=「賀陽郡長官」を務めていた。さらに良藤の弟の名は豊蔭(とよかげ)。「賀陽(かや)の郡(こおり)の統領(とうりよう)」=「賀陽郡次官」。さらに弟がおり名は豊恒(とよつね)。吉備津彦神宮寺(きびつひこじんぐうじ)の禰宜(ねぎ)の職に就いている。良藤の息子の名は忠貞(たださだ)。当地では一流の名家であり富裕層の代表格として通っていた。捜索の甲斐なく良藤の姿はもとより情報一つ得ることができなかった。家族らは嘆き悲しんだ。しかしもはや葬いの法要しかないだろうと彫刻に向いている「栢(かへ)」=「榧(かや)」の木を用意し、生前の良藤の身丈そっくりに合わせて十一面観音像を作らせた。そして観音像の前で「一目だけでも亡骸(なきがら)を見せて下さい」と祈り願った。また、良藤が消え失せた日から念仏・読経を行い、良藤の極楽往生を祈念した。

「良藤が兄大領(だいりよう)豊仲(とよなか)・良藤が弟統領(とうりよう)豊蔭(とよかげ)・吉備津彦神宮寺(きびつひこじんぐうじ)の禰宜(ねぎ)豊恒(とよつね)・良藤が子忠貞(たださだ)等(ら)、皆家富(とめ)る者共(ども)也、此等(これら)皆歎き悲(かなし)むで、『良藤が屍(しにかばね)をも求め得(えむ)』と思て、共(とも)に願を発(おこ)して、十一面観音の像を造らむとして、栢(かへ)の木を伐(きり)て、良藤が長(たけ)等(ひと)しく造(つくり)て、此れに向(むかい)て礼拝して、『屍(しにかばね)をだに見む』と祈り請(こう)。亦(また)、彼の失(うせ)にし日より始めて、念仏・読経(どきよう)を始めて、良藤が後世(ごせ)を訪(とぶら)ふ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.362」岩波文庫)

この法要の間、一人の俗人が杖を手に持ち出現している。しかしそんなことは良藤の家族らの誰一人として知らない。十一面観音の化身とされているが、注目すべきはむしろ手にしている「杖」であり、またなぜ「俗」姿で現われたのかという点だろう。「梁塵秘抄」参照。

「聖(ひじり)の好むもの 木の節(ふし) わさづの 鹿の皮 蓑笠(みのかさ) 錫杖(しやくぢやう) 木欒子(もくれんじ) 火打笥(ひうちけ) 岩屋の苔の衣(ころも)」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇六・P.130」新潮社)

弔いの期間中、良藤が暮らしている家に一人の俗人が杖を突きながらいきなり入り込んできた。それを見た家の者らは恐怖の余り震え上がり、みんなどこかへ散り散りばらばらに逃げ去ってしまった。俗人は残された良藤の背中を杖で突いてここから外に出るよう命じた。

一方、良藤の家では良藤失踪から十三日になっていた。今頃どうしているのだろうと、家族らは不可解でならない。その時、家の蔵の下から猿に似た黒い何物かが尻を高めに上げて突然這い出てきた。「なんだあれは」と一家騒然となった。猿に似た黒い何物かは言う。「私だ」。良藤の声でそう言う。良藤の息子の忠貞は何と奇怪なことかと思ったが、間違いなく父の声である。そこで地面に下りて黒い何物かを部屋に上げてやった。

「前(まえ)なる蔵(くら)の下より、怪(あやし)く黒き者の猿の様(よう)なるが、高這(たかばい)をして這出(はいい)でて来(きた)れば、『何ぞ、此れは』と、有る限り見ののしるに、『我也』と云ふ音(こゑ)、良藤にて有り。子の忠貞(たださだ)奇異に思ふと云へども、現(あらわ)に祖(おや)の音(こえ)にて有れば、『此(こ)は何(いか)に』と云て、土(つち)に下(おり)て引き上(あげ)つ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.363」岩波文庫)

黒い何物かはいう。「私は妻が上京している間、独り者の身。だから誰かほかの女性のもとへ通うことにしようと思っていたところ、或る夕方、家の外へ出たときすぐそばに若くて素晴らしい美女が佇んでいて、成り行きのままに結婚することになった。数年も経つうちに男子を得た。麗しい子で朝夕もずっと手元の置いて大切に育てていた。私はその子を太郎(たろう=嫡子)にし、忠貞を次男にしたいと考えている。なぜなら、私がその子の母を尊重するがゆえにである」。

「我れ寡(やもめ)にして独(ひと)り有りし間、常に女に通(つう)ぜむと思ひしに、忽(たちまち)に止事無(やんごとな)き人の聟(むこ)と成(なり)て、年来(としごろ)有つる間、一(ひとり)の男子(おのこご)を儲(もうけ)たり。其の(かた)ち美麗にして、我れ朝夕に抱き、手を放つ事無かりつ。我れ此れを太郎とす。忠貞をば次の子とせむ。其の児(ちご)の母、我れ貴(とうと)ぶが故(ゆえ)也」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.363」岩波文庫)

忠貞は父に聞く。「そのお子さんはどこに?」。返事がある。「あそこだ」。黒い何物かは蔵を指さした。それにしても良藤の姿は余りにも痩せ細っており重病人としか思えない。ところが着物をよく見ると、消え失せた時に着ていたと思われる白衣である。家族らは使用人を呼んで蔵の下を検査させてみた。するとそこでは大量の狐が繁殖しているのが発見され、狐たちは散り散りばらばらに逃げ去ってしまった。「なるほど、良藤は狐に化かされてその夫になり正気を失っていたというわけか」、と家族は一応納得がいった。

「良藤が形(かたち)を見れば、痩(やせ)たる事病(やまい)に煩へる人の如し。着物(きもの)を見れば、着て失(うせ)にし衣(きぬ)也。即(すなわ)ち人を以て蔵の下を令見(みしむ)れば、多(おおく)の狐(きつね)有て、逃(にげ)て走り散(ちり)にけり。其の所に良藤が臥す所有けり。此(これ)を見て、『良藤狐に被謀(はかられ)て、夫(そ)の夫と成て、移(うつ)し心(ごころ)無くして此(か)く云ふ也けり』」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.363~364」岩波文庫)

そこで本家に名高い僧や陰陽師を招いて祈祷・祓いなどを行わせた。さらにたびたび湯を使わせた。蔵の下にいる間に染み付いたと思われる黒々とした塵・埃は少しずつ落ちてきた。ところが以前の良藤とはどこか違っている。しばらくするとようやく正気に戻ったようだ。良藤が蔵の下にいたのは、世間では、十三日間。しかし良藤の感覚では十三年間。さらに、世間では蔵の下の寸法は僅かに15センチほど。しかし良藤には高い天井と広い敷地を持つ立派な建物に思えていた。

「良藤倉の下に居(い)て十三日也。而(しか)るに、良藤十三年と思(おぼ)えけり。亦(また)、倉の桁(けた)の下纔(わずか)に四、五寸許(ばかり)也。而(しか)るに、良藤高く広く思えて、出入(いでいり)して大(おおき)なる屋などと思えけり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十七・P.364」岩波文庫)

さて、この説話について単なる「異境訪問譚」として分類してしまえば短絡的に過ぎる点が多々出てくる。なので改めて整理してみよう。まず狐の変化。第一に狐。第二に若い女性。第三に元の狐。次に良藤の変化。第一に人間。第二に若い女性に化けた狐の夫。子どもももうける。第三に元の人間。さらに杖を持った俗人。観音の化身だとすれば観音姿のまま登場すればたちまちその威厳の前に妖怪〔鬼・ものの怪〕はひれ伏しただろう。だがそうではなく杖を手にした半俗姿で登場している。その点で「梁塵秘抄」に見える「聖(ひじり)」として出現する必要性があった。もし十一面観音のままだったなら、間違っても杖で荒々しい行為に及ぶことはできない。

この説話では、転化・再転化を遂げているのは(1)狐、(2)良藤、(3)杖を持った俗人、といった三つの系列を認めることができる。どれも貨幣と交換される諸商品のように変化する。また良藤は妻が上京していてそばに女性がおらず、他の女性を探している時期に狐の側からの不意打ちが当てられている。だから良藤は独り身という例外的状況に置かれている限りで始めて狐の側の求める条件に当てはまるのであり、もし妻の上京がなけければ良藤に白羽の矢が立つことはけっしてなかったと言える。そしてまた狐の繁殖は、同一条件のもとでできる限り一度に大量になされるのが好適でもある。説話の最初の箇所を見てみよう。はっきり「秋」とされている。収穫の時期に当たっており、鼠に喰い尽くされる前にその駆除のため、早急に狐を繁殖させておく必要性があった。稲作農耕を中心として年貢も米だった時代、滞りなく年貢=租税を流通させるためには未然に大量の狐を流通させておくことが最も重要。そこで妖怪〔鬼・ものの怪〕が上手く利用したのが、良藤の妻が上京し独り身になる一定期間、「妻はいるが妻はいない」、という《例外的・境界領域的》条件だったのだろう。

余談だが、この年をもって三善清行(みよしのきよゆき)は備中介(びつちうのかみ)の任期を無事務め上げ、京へ帰還することになった。しかし京へ戻ってからの清行はもともと政治戦略に長けていたがゆえ、菅原道真周辺を巡る中央政権の政治権力闘争に巻き込まれることになる。が、それはまた別の話である。

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熊楠による熊野案内/鷲と排除とシンデレラ

2021年03月28日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「但馬国(たじまのくに)七美郡(しづみのこほり)」は今の兵庫県美方郡(みかたぐん)。説話は「日本霊異記」を出典にしていると考えられるため参照すると、奈良時代の皇極二年(六四三年)に当たる。

兵庫県美方郡(みかたぐん)がまだ但馬国(たじまのくに)七美郡(しづみのこほり)と呼ばれていた頃、その山里の里人の家に一人の女児が生まれた。「若子(みづこ)」とあり、従って「わかご・みどりこ」とも読む。嬰児から二、三歳の幼児を指す。その子が家の庭を這いながら一人で遊んでいた時、空から一羽の鷲が急降下し、この若子を摑み取ると再び急上昇し、一挙に東方向へ飛び去った。それを見ていた父母は嘆き悲しみつつ追いかけたが鷲は余りにも速く、父母たちは力及ばず、遥か遠くへ消え去ってしまった。その後十数年が経った。若子の父は用事のため「丹後国(たんごのくに)加佐ノ郡(かさのこほり)」へしばらく赴くことになった。

「丹後国(たんごのくに)加佐ノ郡(かさのこほり)」は大宝一年(七〇一年)に成立。明治十二年(一八九七年)の郡制改革で改めて加佐郡の名称を経て、今の京都府舞鶴市・福知山市の一部・宮津市の一部に該当する。和銅六年(七一三年)丹後国成立とともに丹波国(たんばのくに)から丹後国へ編入された。「今昔物語」編纂期には既に丹後国が成立しているため、この説話では丹後国となっている。

加佐郡に至るとその父は或る家を宿舎にし、宿人(やどりびと)として世話になることになった。そこには一人の女子(をむなご)がいた。年は十二、三歳くらい。或る日、女子(をむなご)は水を汲みに里の共同井戸へ出かけた。宿人も足を洗いに井戸へ向かった。

「其ノ郷(さと)ニ有ル人ノ家ニ宿(やどり)ヌ。其ノ家ニ、幼キ女子(をむなご)一人有リ。年十二、三歳許(ばかり)也。其ノ女子、大路(おほち)ニ有ル井戸ニ行(ゆき)テ水ヲ汲(くま)ムト為(す)ルニ、此ノ宿(やどり)タル但馬国ノ者モ、足ヲ洗ハンガ為ニ其ノ井ニ行(ゆき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第一・P.4」岩波書店)

里の井戸は共同所有が原則であり、時間帯によって多くの人々で賑わう。女子が水を汲みに行った時もほかに多くの人々が水を汲みに来ており、また、おしゃべりに打ち興じていた。しかしこの女子が水を汲もうとすると他の童女が邪魔をして井戸の鑵(つるべ)を取り上げた。女子は口惜しくて鑵の奪い合いになった。すると里の女児たちが一斉にこの女子一人だけを標的にして罵倒し始めた。口々にいう。「あんた、鷲にむさぼり喰われるはずの残りもののくせに!」。さんざん罵り殴られ、女子は泣きながら家に帰った。但馬から来ていた宿人はそれを目撃したけれども、何がなんだかわけがわからないまま宿に帰った。

「家ノ女子、此レヲ惜(をしみ)テ、不被奪(うばはれじ)ト諍(あらそ)フ程ニ、郷ノ女ノ童部共(ども)、同心(どうじん)ニシテ、此ノ家ノ女子ヲ罵(のり)テ云ク、『己(おのれ)ハ鷲ノ噉(くら)ヒ残(のこ)シゾカシ』ト云(いひ)テ、詈(の)リ打ツ。家ノ女子被打(うたれ)テ、泣(なき)テ家ニ返(かへ)ル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第一・P.4」岩波書店)

家主は女子が家に帰ってきて泣いているので理由を聞く。だが女子は何も言わずただひたすら泣いてばかり。そこで、現場を目撃していた宿人は井戸の周辺で見たことを女子の父母に詳細に説明した。そしてなぜ女子が「鷲ノ噉(くら)ヒ残(のこ)シ」と罵倒されていたのか、わけを尋ねてみた。家主は答えて言った。「そう、あれは、いつ頃のことだったか。私が木に登って鳩を捕ろうとしていたところ、鳩の巣に何か落ちた音がしたんです。するとそこから幼児の鳴き声が聞こえました。鳩の巣を覗き込むと人間の子どもが泣いている。そこで子を巣から取り下ろしてきて家で育てることにしました。里の女児たちはその話を聞き及んで、こんな悪口をいうようになったのです」。

「其(それ)ノ年ノ其ノ月ノ其ノ日ノ、己(おの)レ、鳩ノ樔ニ者ヲ落シタリシニ、若子ノ泣ク音(こゑ)ノ聞(きこえ)シカバ、其ノ音ヲ聞(きき)テ、樔ニ寄テ見侍(みはべり)シニ、若子ノ有テ泣(なき)シヲ取リ下(おろ)シテ、其レヲ養ヒ立(たて)テ侍ル女子ナレバ、郷女童部(さとのめのわらはべ)モ、其(それ)ヲ聞キ伝(つたへ)テ、此(か)ク詈立(のりた)テ申ス也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第一・P.5」岩波書店)

但馬からやって来た宿人は思った。何年か前、私の家の幼児が鷲に摑み取られ去ったきり、行方不明なのだがーーー。思い切って詳しく尋ねてみることにした。「其ノ年、其ノ月、其ノ日とは?」。宿の主人は年月日を答えてくれた。それはほかでもない幼児が鷲に摑み去られたその日にぴたりと一致した。さらに尋ねてみる。「ところでその子の親について何か情報は聞こえてこなかったでしょうか」。主人は「いや、ないですね」と答えた。宿人は「実はまさしくそのことでございます」と、十年前に但馬の家の庭で起こった事態を詳しく話し、「その子こそ我が子に違いありません」、と述べた。余りにもとっびな話なので家の主人は女子を呼んで来させ、実の親だと名乗る宿人と見比べてみた。するとまったく異なるところがない。どう見ても親子である。

「『其ノ年、其ノ月、其ノ日』ト云(いふ)ヲ聞クニ、彼レ但馬ノ国ニシテ鷲ニ被取(とられ)シ年月日ニヅブト当(あたり)タレバ、我ガ子ニヤ有ラムト思(おも)ヒ出(いで)テ云(いは)ク、『然(さ)テ、其ノ子ノ祖(おや)ト云フ者ヤ、若(も)シ聞ユレ』ト問ヘバ、家主、『其ノ後(のち)、更(さら)ニ然(し)カ聞ユル事不侍(はべらず)』ト答フレバ、宿人ノ云(いはく)、『其ノ事ニ侍リ。此(か)ク宣(のたま)フ時ニ思出(おもひいで)侍ル也』トテ、鷲ニ子ヲ被取(とられ)シ事ヲ語(かたり)テ、『此レハ我ガ子ニコソ侍(はべる)ナレ』ト云(いふ)ニ、家主、糸奇異(いとあさまし)クテ、女子ヲ見合(みあは)スルニ、此ノ女子、此ノ宿人ニ形(かた)チ露違(つゆたがひ)タル所無ク似タリケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第一・P.5」岩波書店)

家主も宿人もともに、そうだったのかと深い感慨に打たれ、涙が溢れ落ちた。家主はいう。「ただ、私どもも数年間、この子を養い続けてきました。実の親と変わるところはないに等しいでしょう。だからお互いにこの子の親としてこれから育てることにするのが適切だろうと」。

「但シ、我モ亦年来(としごろ)養ヒ立(たて)ツレバ、実(まこと)ノ祖(おや)ニ不異(ことならず)。然レバ、共ニ祖トシテ可養(やしなふべ)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第一・P.5~6」岩波書店)

そしてこの女子は両親を二つ持つことになり、但馬と丹後とを行き来しながら両方の親に可愛がられ大切に育てられることとなった。

さてそこで、はっきりしている点。この説話は熊楠も研究したシンデレラ系説話に属する。なかでも一時的消滅といじめのテーマは顕著。「排除の構造」はものの見事に再現されている。次の過程を踏む。

始めはごくありふれた、どこにでもいる幼児の一人に過ぎない。無限の系列をなすうちの一つ。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

無限に存在する諸商品の系列から或る一つの商品が排除される。この排除は上に向けて排除される場合と下に向けて排除される場合とがある。「いじめ」の場合は下へ向けての排除。しかしいずれにしても排除はその特定の商品のみに与えられる特権的試練である。次のような過程を経る。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

さらに丹後国の村落共同体はその大小にかかわらず既に一つの社会を形成している。共同井戸の存在がそれを物語っている。従って次のように言える。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

ところで、鷲によって養育されていたとされる「十余年」。但馬国の庭から消え失せたのが二、三歳の幼児だったことを考えればちょうど十二、三歳になっているはずであり、この点では「今昔物語」に記されている数字がぴたりと妥当する。そしてこの女子は二箇所の親から愛でたく育てられるという稀な好条件に恵まれる結果を得た。しかしその間、とても口では言い現せない誹謗中傷を受け続けていた。その意味では間違いなくシンデレラにほかならない。

女子が移動した転移の形跡を追ってみよう。第一に「どこにでもいるありふれた幼児」。第二に「いじめられっ子」。第三に「シンデレラ」。貨幣に置き換えるとGはG’となって還流してきたと言える。女児は人間の姿のままGからG’へ転化した。そしてその間、鷲の手元に置かれた空白がある。しかし空白はいつも薄暗い。女児が貨幣の位置を取ったその瞬間、実際に何があったかというそれまでの経緯は覆い隠され忘れ去られてしまう。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

人間の子どもが動物に育てられる説話は無数にある。とりわけ熊楠が愛した「御伽草子」所収「熊野の本地の草子」はその母の無惨極まりない血まみれの最後とその御子の順調な生育とを比較した場合、奇妙な均衡が成立している点で鮮やかというほかない。ニーチェから引こう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

その点で、説話「於但馬国鷲(たぢまのくににしてわし)、爴取若子語(みづこをつかみとること)」に描き出された債権・債務関係は、GがG’となって還流してきた限りで、微妙な均衡の上に成り立つ等価性を得ていると十分に言える。

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熊楠による熊野案内/双六博打殺人事件

2021年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

九州がまだ「鎮西(ちんぜい)」と呼ばれていた時代。さらに平安時代半ば頃。「合聟(あひむこ)」同士で双六(くぐろく)を打っていた。「合聟(あひむこ)」は或る姉妹をそれぞれ別々の男性が妻としている義理の兄弟同士のこと。二人のうち一方は常に弓箭(ゆみや)を「身ノ荘(かざり)トシテ過(すぎ)ケル」武者。もう一方はごくありふれた普通の男性。

双六に打ち興じているうちに二人は賽の目に関して言い争い始めた。双六は賽子(さいころ)を振って出た目の分だけ進めることができるルールを持つ。だからどのような目が出るかわからない点でしばしば博打(ばくち)に用いられた。そのうち二人は口だけの論争から肉体をぶつけ合う喧嘩に発展した。ただ単なる遊びではなく何らかの物品を賭けた博打として双六に打ち込んでいたようだ。

「賽論(さいろん)ヲシケルニ戦(たたかひ)ニ成ケリ」(「今昔物語集5・巻第二十六・第二十三・P.88」岩波書店)

論争では収まりがつかず肉弾戦に立ち至った時、武者めいた男性の側がもう一方の合聟(あひむこ)の髻(もとどり)をぐいと握り締め、床にねじ臥せ、腰に差している一振りの短刀を引き抜こうとした。その短刀は目貫(めぬき)の金具部分と鞘(さや)に付いている紐とを結び付けた仕立てのもの。武者めいた男性は早くもその紐を解き放とうとしている。ねじ臥せられた合聟は刀を抜かせまいと必死で相手の刀の柄(つか)にしがみついて刀身が抜けないように握りしめた。苛立つ武者は紐を解こうと手元の辺りをねじくり廻しているうちに、すぐそばの「遣戸(やりど)」=「引き戸」に料理用の包丁が挟み置かれてあるのを見つけた。すると合聟の髻を掴んだままぐいぐい引き戸の包丁の近くへ引きずって行く。髻を掴まれて自由に動けない合聟は引きずられながら思う。「引き戸に引きずっていかれるや否や私はあの包丁で突き殺されてしまうに違いない。もう終わりだ」。

「喬(そば)ナル遣戸(やりど)ニ包丁刀(はうちやうがたな)ノ被指(さされ)タリケルヲ見付テ、髻ヲ取乍(とりなが)ラ、其(そこ)ヘ引持行(ひきもてゆき)ケルヲ、髻被取(とられ)タル者、『遣戸ノ許(もと)ヘダニ行(ゆき)ナバ、我ハ被突殺(つきころされ)ナントス。今ハ限(かぎり)也ケリ』」(「今昔物語集5・巻第二十六・第二十三・P.88」岩波書店)

一方、この家は包丁で刺し殺されようとしている合聟の側の家。台所では大勢の女性が使用人として立ち働いていた。女性らは口々におしゃべりしながら米をこなごなに砕いて酒を造っている。もとより居場所が異なるため、よもや合聟同士が双六の賽子(さいころ)の目を巡って殺し合いに発展していることなどまるで知らない。そこでもはやこれまでと恐怖を覚えた合聟は張り裂けんばかりに絶叫した。「助けてくれっ!」。その声は女性らが立ち働いている台所まで届いた。

ところがしかし、この家には殺し合いに及んでいる義理の兄弟同士のほか、男性は誰一人としていない。今や人質と化している主人を助けようにも女性らはどうすればいいのかわからない。そこで米をこまかく砕くための杵(きね)をそれぞれ手に持って全員で主人の部屋へ踊り込んだ。主人は髻を掴まれてもはや髪の毛ほどの猶予もない。女性らはいう。「げっ、何これ。殿を殺してしまいなさると」。すかさず女性らは武者の頭に向けて思い切り杵で強打した。武者はのけぞり転倒。倒れたところへたちまち女性ら皆で襲いかぶさって打ちに打った。すると武者は死んだ。

「『我ヲ助ケヨ』ト云ケレバ、其時ニ、家ニ男ハ一人モ無(なか)リケレバ、此(この)粉舂(こつき)ノ女共此ノ音(こゑ)ヲ聞テ、杵(きね)ト云(いふ)物ヲ提(ひさげ)テ、有(ある)限リ走リ上(あがり)テ見ケレバ、主ノ髻ヲ被取(とられ)テ、殺サント為(する)ヲ見テ、女共、『穴悲(あなかなし)ヤ、早(はや)ウ殿ヲ殺奉(ころしたてまつ)ル也ケリ』ト云テ、杵ヲ以テ、其(その)髻取(とり)タル敵(かたき)ヲ集(あつまり)テ打(うち)ケレバ、先(まづ)頭(かしら)ヲ被打(うたれ)テ仰様(のけざま)ニ倒(たふれ)ケルヲ、ヤガテ圧(おそひ)テ打ケレバ、被打殺(うちころされ)ニケリ」(「今昔物語集5・巻第二十六・第二十三・P.88」岩波書店)

殺されそうになっていた合聟はその間に人だかりから脱出して無事に起き上がることができた。後日談として管轄する役所が何らかの処置を講じたらしいが、その詳細はわからないと書かれている。

さて。この説話では二重の変容が見られる。一方の武者めいた合聟の死人への変容。もう一方に家の使用人である女性たちの変容。女性たちは第一に「使用人としての女性」から「杵の力としての女性」への転化、第二に「杵の力としての女性」から「使用人としての女性」への再転化という経過を辿った。女性たちが或る種の集合体=「杵の力」へ変貌している時間の範囲内で、武者は生きている人間からただ単なる死人へ変貌した。その間、一体何が起きたのか。一人一人の動きはそれぞれ異なっていて当然だが、そのようなこまごまとした個別的動きは「杵の力」が貨幣に等しい位置を占めている限りで覆い隠される。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

というふうに。

そしてまた、殺傷沙汰の原因がそもそも「双六博打」から始まったものだという起源など、もはや跡形もなく忘れ去られてしまうのである。

言い換えてみよう。

(1)合聟同士という意味では武者めいた者と家の主人とは等価性を保っている。

(2)武者が主人を脅迫するに及んだ瞬間、武者の地位の上昇とともに主人の地位は下降する。時間の経過とともにますます武者の地位は上昇し、ますます主人の地位は可能する。

(3)ところが両者の力の移動に関し、すべての力は家の中で生じており家の外へ出ることはない。従って主人の地位が下降した分、なおかつ主人が家の主人である限りで、これまで主人が保存していた力の全量は主人の家の使用人らへ移動する。

(4)主人が保存していた力の全量は下降し、その使用人女性らへすべて備給される。備給されたすべての力はその力自身によって上昇し始め合聟同士がいる部屋へ上がり込むことができるし実際に上がり込んだ。

(5)武者は女性たちに備給された力の全量の圧力を受けて死者へと移り、武者に与えられていたすべての力は虚空へばらばらに解放された。

(6)女性たちに備給された力の全量は再び主人の身体へ還流し、主人の地位と使用人女性たちの地位は元の状態へ復帰した。

ということができる。

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