前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、奈良の東大寺に住んでいる僧が仏に供える花を摘みに東方向の山間部へ入った。途中、「道を踏み違(たがえ)て、山に迷(まどい)にけり」=「道を間違えて見知らぬ山中に迷い込んでしまった」。というわけだが、道を間違えたとわかるのは迷子になって始めて気付くのであり、この場合、「道を踏み違(たがえ)」ることと既に異境へ入ってしまっていることとは別々の事情ではなく逆に同一の動きとして考えられる。異境訪問譚は大抵いつも決まってこのような経過を辿る。
そして「谷迫(たにのはさま)を夢の様に思(おぼ)えて歩(あゆ)み被行(ゆかれ)ければ」と本文は続く。僧は夢うつつの精神状態で《なければならない》。異境訪問譚の条件として「夢うつつ」でなおかつ「黄昏時(たそがれどき)」というケースが上げられる。柳田國男はいう。
「黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)という所の民家にて、若き娘梨(なし)の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音(ちいん)の人々その家に集りてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆(ばば)が帰って来そうな日なりという」(柳田國男「遠野物語・八」『柳田國男全集4・P.18~19』ちくま文庫)
また、「歩(あゆ)み被行(ゆかれ)ければ」というのは自分の足が自分の意志とは無関係にどんどん進んでいく状態を示す。僧は思う。
「我は何(いか)に成ぬるにか。迷(まど)ひ神に値(あい)たる者こそ此(か)くは有(あん)なれ。何(いず)ちに行にか有らむ。怪(あやし)くも有(ある)かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
僧の考えでは「迷(まど)ひ神」に取り憑かれてしまったということになる。そしてしばらくすると僧坊が立ち並ぶ場所へ出た。この説話では立ち並ぶ僧坊。この種の系列は無数に延長可能であり、例えば、広々とした人郷(ひとざと)にせよ小さな鄙びた奄(いほり)にせよ、谷間・谷底を迷い歩いているうちに不意に出現するのが通例。
「巻二十六・第八話・飛騨国猿神(ひだのくのさるがみ)、止生贄語(いけにへをとどむること)」では山中に迷い込んだ狗山(猟師)が見知らぬ大きな人郷(ひとざと)に出る。
「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店)
また「巻第三十一・第十五話・北山狗(きたやまのいぬ)、人為妻語(ひとをめとなすこと)」では京の北山へ遊びに出かけた男性が谷間の小さな奄(いほり)を見つける。
「谷ノ迫(はさま)ニ、小キ奄(いほり)ノ髴(ほのか)ニ見ユレバ、男、『此(ここ)ニ人ノ住ムニコソ有ケレ』ト喜(うれしく)テ、其(こそ)ヘ掻行(かきゆき)テ見ケレバ、小キ柴(しば)ノ奄有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十五・P.475」岩波書店)
そして東大寺の僧が山間部で不意に見つけたのは瓦葺(かわらぶき)の細長い建築物。部屋が幾つも仕切られている僧坊かと思われる。近づいて内部を覗いてみるとそこには、かつて東大寺で死んだ僧がいた。
「恐々(おずお)づ内に入て見れば、東大寺に死(しに)し僧有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
花を摘みに来た僧は仰天して、これはもしや悪霊では、と怖気付いてしまった。ところが死んだはずの僧は花摘みの僧に話しかけてきた。「どのようにしてここに来たのか。ここは人間が簡単に入って来られるような場所ではない。めったにないというのに」。
「汝(なんじ)は何(いか)にして此の所には来たるぞ。此(ここ)は人の輒(たやす)く可来(くべ)き所にも非ず。希有(けう)の事かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
花摘みの僧は事情を説明した。仏前に供える花を探しに山中へ入ったのだが、いつもと異なり道に迷ってしまったようだ。なんだか我を見失ってぼうっとしているうちにここへ出たというわけ」。
「我れ花を擿まむが為に山に行たりつるに、例にも非(あら)ず道に迷(まどい)て、我れにも非ず怳(ほれ)たる心地して此(か)く歩(あゆ)み来たる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
そう聞かされた死んだ僧。とはいえ東大寺で修行していた頃は二人とも同僚であり、お互い顔見知りの旧知の間柄。死んだ僧は懐かしさがつのり思わず涙を浮かべ、「こうしてまた会えるのはとても嬉しいことだ」と言って泣き出してしまう。それを聞いた花摘みの僧も、懐かしい同僚が涙する姿を見て共に泣き出してしまった。
しかしなぜ死んだはずの僧はこんな山中の見知らぬ僧坊のようなところに住んでいるのだろう。死んだ僧は事情を説明する。「そなた、見つからないところへ隠れて壁の穴からこっそり見ていてほしい。これから私が受ける罰の苦しみを。私は寺にいた頃、僧侶に供えられる食べ物を退屈しのぎに食べて時間を無駄に過ごしてばかりいた。気持ちが億劫な日はお堂に赴くこともせず、さらに学業に専念するということもなくなった。それが罪となったのだろう。ここで日に一度、堪え難い苦しみを受けることになった。もうその時間だ」。
「汝(なん)ぢ深く隠(かくれ)居て、壁の穴より蜜(ひそか)に臨(のぞ)き見よ、我が受くる所の苦(くるしび)を。我れ寺に有し時、徒(いたずら)に僧供(そうぐ)を請(う)け食(くい)てのみ過ぎき。倦(ものう)かりし日は、入堂をも不為(せ)ず、亦(また)学問をも不為(せ)ずして有き。其の罪に依(より)て、毎日(ひごと)に一度(ひとたび)、無限(かぎりなく)難堪(たえがた)き苦患(くげん)を受くる也。漸(ようや)く其の期(ご)に至(いたり)にたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.99」岩波文庫)
死んだ僧は花摘みの僧を土造りの建物である壺屋(つぼや)へ案内し、ここにじっと隠れてこれから起こることを壁の穴から覗いて見ておいてほしい、と言った。するとたちまち、「唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる」者たちが四、五十人、額に鉢巻のようなものを付け、天空を飛ぶがごとき速度で到来し降り立った。
「忽(たちまち)に、唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる、額(ひたい)に絈額(まこう)をしたる、四、五十人許(ばかり)空より飛ぶが如くにして下(お)り来(きたり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.99」岩波文庫)
地獄での拷問の様子を描いた「往生要集」の描写に近い場面が目に映る。しかし地獄ではない。気迫に満ちた「唐人(とうにん)」たちと思われる姿はまさしく唐由来の仏教絵画に描かれている装束姿である。そこへ召し出された者らは東大寺で死んだ僧を含めて十人ほどだろうか。緋色の縄で一人々縛り付けられる。そこへ「鉄(くろがね)の壺(つぼ)」に注ぎ口の付いた容器が用意された。その中には火で溶かした銅(あかがね)がゆらゆらと煮えたぎっている。僧たちは一人ずつ呼び出され、高熱で溶かされた「銅(あかがね)の湯」を口から注ぎ入れられる。僧たちは目・耳・鼻から焔(ほのお)を垂れ流し始めた。関節からは煙がぶすぶすと立ち上り、尻からはどろどろに溶けた「銅(あかがね)の湯」が垂れ流しになっている。体中の穴という穴から火で溶かされた「銅(あかがね)の湯」が吹きこぼれ出している。呼び出された十人ほどの僧がすべてこの拷問を受け終わった時、縛り付けられていた縄がようやく解かれこの日の拷問は終了し、同時に天空から出現した「唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる」者たちは再び天空へ消え失せた。
「暫(しばし)許(ばかり)有て、尻より流れ出(い)づ。目・耳・鼻より焔(ほのお)ほめめき出(い)づ。身の節毎(ふしごと)に煙(けぶり)出(いで)て、くゆり合たり。各(おのおの)涙を流して叫ぶ音(こえ)悲し。僧毎(ごと)に皆次第に飲まれ畢(はて)つれば、皆解免(ときゆる)して、本(もと)の房々(ぼうぼう)に返し送(おくり)つ。其の後、此の人共、空に飛び畢(はて)て失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.100」岩波文庫)
一旦見ておきたい。東大寺にいた僧であろうと他の名もない寺にいた僧であろうと、ここに集められた十人ばかりの者はすべて同等の拷問を受けている。十人ほどのうち誰の拷問にも違いがない。諸商品の無限の系列でいえば、どの商品にも何らの違いも認められない。しかし諸商品の無限の系列の場合、その中から一つの商品が排除され「貨幣」へと転化する。ところがこの場面ではどの僧も特権的排除を与えられることなく、上へも下へも排除されることなく、引き続き「宙ぶらりんのままに留まる」。ラカンはいう。
「私達はこれまで、ヒステリー者の置かれている位置の特徴は、まさに男と女というシニフィアンの二つの極に関わる問いであるということを見てきました。ヒステリー者は全存在を賭けてこの問いを問うのです。つまりいかにして男であり得るか、あるいはいかにして女であり得るか、と。しかし自ら問いを立て得るということは、ヒステリー者はそれでもそのことの拠り所を持っているということをも意味しています。この問いにおいてこそ、ヒステリー者自身の性が疑問に付されていることを示す異性の人物への基本的な同一化によって、ヒステリー者の構造のすべてが導入され、宙づりにされ、保たれているのです。ヒステリー者のこの『あれか、これか』という問いに対して、強迫症者の解答、つまり『あれでもない、これでもない、男でもない、女でもない』という否定が対置されます。この否定は、死すべき運命にあるという経験に関わるものですが、そのような存在を問わないように隠すこと、つまり宙ぶらりんのままに留まる一つの仕方です。強迫症者は確かにあれでもないこれでもないのですが、彼は同時にあれでもあり、これでもあるのだと言うこともできます」(ラカン「精神病・下・20・呼びかけ、暗示・P.157」岩波書店)
そのような条件の内部に留め置かれたまま毎日同じことが何度も繰り返し反復される。フロイトはいう。
「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)
なるほど「無気味」ではある。しかし強迫的に何度も繰り返される反復行為の中には、フロイトが「魔力的な性格」と言って上手く示唆しているように、ただ単なる「苦痛」ばかりで占められているわけではまるでない。ニーチェに言わせればこうなる。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)
壺屋の壁の隙間からその場面を目撃した花摘みの僧は生きた心地がせず、ただただ恐怖心で一杯になり、壺屋の中でうつ伏せになったまま倒れ込んでしまった。そのうち、死んだ僧が壺屋へやって来て倒れ臥している花摘みの僧を起こしてくれた。そしていう。「ご覧になられたか。私は東大寺で死ぬとすぐこの僧坊にやって来て、その後ずっとここに住んでいるのだ。寺にいた頃、寺院へのお布施を請い受けて食物にするわけだが、ただ寺から与えられるまま食べるだけ食べる一方、本来の修行をさぼり、お布施を納めてくれた人々への償いはしない。修行に励まなかった。その罰なのだ、この苦(くるしび)は。だが厳密に定められている罪を犯したわけではないので地獄に落ちず、代わりにこのような形で連日耐えがたい苦痛にのたうち回ることになったというわけだ。さあ、もうお返りになって下さい」。
「死(しに)て即ち、此の所に来たて、此の僧坊に住む也。寺にして徒(いたずら)に信施(しんせ)を受て、償(つくの)ふ方無かりしに寄(より)て、此の苦(くるしび)を受る也。犯(おかし)し罪無かりしかば、地獄には不堕(おち)ず。速(すみやか)に返り給ひね」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.101」岩波文庫)
説話のこの時点で、実は、死んだ僧にもさっぱり理解できていない点が見られる。それは何か。この場へ集められた十人ばかりの僧は東大寺に限らず、いずれもばらばらの場所から寄せ集められている。だから元いた仏教施設でどんな罪を犯したかはわからないだけでなくそれぞれ違う罪を犯している可能性が十分に考えられる。規則としては同じ種類に属する罪だとしても、個々のケースで見ればそれぞれ少しずつ違った行為であったろうし、別々の僧たちである以上、それぞれが犯した罪はそもそも違った行為であるほかない。その意味ではいずれの罪にしても個別的である。ところが十人が十人ともまったく同一の刑罰を与えられるや否やそれぞれ少しずつ違っていただろう罪の個別性はたちまち消え去り、同一の刑罰の付与とともにあらゆる個別性は忘れ去られてしまう、という事情である。
さて。異境訪問譚の形式を借りつつ、この説話が語っていることは一体何か。第一に、寺院へ寄進された価値相当のものが、約束されたはずの等価性を得て寄進者のもとへ還流してきていないという事情がある。第二にお布施が、金額換算してどれほどになるかという、寄進された物品の大小にはまったく関わらないはずの条件がややもすれば反故化される危機的状況を改めて思い起こさせる機能を受け持たされている点。むしろ大小が勘案されるとすれば仏教思想の根本にある「一切の衆生の平等原則」に反する。もし寄進物の価値の大小によってその見返りが計算されるとすれば、信仰の深さ・厚みはもはや関係なく実は金銭的コネクション優先の擬似的宗教(カルト)教団へ転化し、仏教寺院はその名称にもかかわらず仏教とは何らの関係もないただ単なる金融機関の投資窓口へ転化してしまう。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
説話にあるように、この債権・債務関係が実際に履行されない場合、どのような経過を辿るだろうか。
「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.72」岩波文庫)
そしてまたこの種の罪と罰との応酬が習慣化されると、始めはただ単なる習慣から始まったものが遂に「神聖な法律」として自動的に機能するようになる。
「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)
というふうに。
だから、東大寺で死んだ僧が陥った永劫の債務者という立場から抜け出す余地は、説話に従う限り、寸毫も残されていない。貨幣に置き換えた場合、転化したのは東大寺の「僧」であり、その転化過程は「僧」から「死んだ僧」への転化、さらに異境へ場所移動した限りにおいて「生きている死んだ僧」へ再転化している。「僧」は「僧’」へ転化し、さらに「僧’’」へと再転化した。しかし「僧’’」は異境へ追放され、「僧’’」になったまま取り残されており、従って変化過程で生じた「’’」に相当する価値部分が現実社会へ還流してくることはもはやない。死んでなお永遠のミゾギばかりが延長、再延長されていく。ニーチェのいうように「絶対的基準」というものはもう消え失せたからである。
なお述べておきたいが、「生きている死んだ僧」は、実を言えば、現実社会へ還流することへの躊躇(ためら)いをも同時に語っていないだろうか。確実に訪れる毎日一度の拷問。「生きている死んだ僧」は花摘みの僧に向かって「早くお返り下さい」と言ったきり花摘みの僧を見送る。花摘みの僧は地獄めいた場面を見せつけられて教訓を受け取る。だが「生きている死んだ僧」の側からは教訓一つ語ってはいない。むしろこれまでの経緯をこまごまと語り、その後に花摘みの僧を送り出すばかりだ。教訓どころか逆にこのような地獄めいた毎日を送るに当たって自分が経た過程を説明するために登場したかのようでさえある。とすればもう一つ考えられるのは、ドゥルーズが東欧を舞台とした作品について述べたマゾヒズムの逆説だろう。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)
であれば、かつて東大寺にいた「生きている死んだ僧」が此方(こなた)の世界へ舞い戻ってくることは金輪際考えられない。「生きている死んだ僧」は「あらぬ世界」=「ユートピア」の住人になったからだ。そしてそこは「極楽」でもなく「地獄」でもない。それらとはまったく違った「宙ぶらりんのままに留まる」ほかない世界である。
BGM1
BGM2
BGM3
或る時、奈良の東大寺に住んでいる僧が仏に供える花を摘みに東方向の山間部へ入った。途中、「道を踏み違(たがえ)て、山に迷(まどい)にけり」=「道を間違えて見知らぬ山中に迷い込んでしまった」。というわけだが、道を間違えたとわかるのは迷子になって始めて気付くのであり、この場合、「道を踏み違(たがえ)」ることと既に異境へ入ってしまっていることとは別々の事情ではなく逆に同一の動きとして考えられる。異境訪問譚は大抵いつも決まってこのような経過を辿る。
そして「谷迫(たにのはさま)を夢の様に思(おぼ)えて歩(あゆ)み被行(ゆかれ)ければ」と本文は続く。僧は夢うつつの精神状態で《なければならない》。異境訪問譚の条件として「夢うつつ」でなおかつ「黄昏時(たそがれどき)」というケースが上げられる。柳田國男はいう。
「黄昏(たそがれ)に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他(よそ)の国々と同じ。松崎村の寒戸(さむと)という所の民家にて、若き娘梨(なし)の樹の下に草履(ぞうり)を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音(ちいん)の人々その家に集りてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりしゆえ帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留(とど)めず行き失(う)せたり。その日は風の烈(はげ)しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆(ばば)が帰って来そうな日なりという」(柳田國男「遠野物語・八」『柳田國男全集4・P.18~19』ちくま文庫)
また、「歩(あゆ)み被行(ゆかれ)ければ」というのは自分の足が自分の意志とは無関係にどんどん進んでいく状態を示す。僧は思う。
「我は何(いか)に成ぬるにか。迷(まど)ひ神に値(あい)たる者こそ此(か)くは有(あん)なれ。何(いず)ちに行にか有らむ。怪(あやし)くも有(ある)かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
僧の考えでは「迷(まど)ひ神」に取り憑かれてしまったということになる。そしてしばらくすると僧坊が立ち並ぶ場所へ出た。この説話では立ち並ぶ僧坊。この種の系列は無数に延長可能であり、例えば、広々とした人郷(ひとざと)にせよ小さな鄙びた奄(いほり)にせよ、谷間・谷底を迷い歩いているうちに不意に出現するのが通例。
「巻二十六・第八話・飛騨国猿神(ひだのくのさるがみ)、止生贄語(いけにへをとどむること)」では山中に迷い込んだ狗山(猟師)が見知らぬ大きな人郷(ひとざと)に出る。
「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店)
また「巻第三十一・第十五話・北山狗(きたやまのいぬ)、人為妻語(ひとをめとなすこと)」では京の北山へ遊びに出かけた男性が谷間の小さな奄(いほり)を見つける。
「谷ノ迫(はさま)ニ、小キ奄(いほり)ノ髴(ほのか)ニ見ユレバ、男、『此(ここ)ニ人ノ住ムニコソ有ケレ』ト喜(うれしく)テ、其(こそ)ヘ掻行(かきゆき)テ見ケレバ、小キ柴(しば)ノ奄有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十五・P.475」岩波書店)
そして東大寺の僧が山間部で不意に見つけたのは瓦葺(かわらぶき)の細長い建築物。部屋が幾つも仕切られている僧坊かと思われる。近づいて内部を覗いてみるとそこには、かつて東大寺で死んだ僧がいた。
「恐々(おずお)づ内に入て見れば、東大寺に死(しに)し僧有り」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
花を摘みに来た僧は仰天して、これはもしや悪霊では、と怖気付いてしまった。ところが死んだはずの僧は花摘みの僧に話しかけてきた。「どのようにしてここに来たのか。ここは人間が簡単に入って来られるような場所ではない。めったにないというのに」。
「汝(なんじ)は何(いか)にして此の所には来たるぞ。此(ここ)は人の輒(たやす)く可来(くべ)き所にも非ず。希有(けう)の事かな」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
花摘みの僧は事情を説明した。仏前に供える花を探しに山中へ入ったのだが、いつもと異なり道に迷ってしまったようだ。なんだか我を見失ってぼうっとしているうちにここへ出たというわけ」。
「我れ花を擿まむが為に山に行たりつるに、例にも非(あら)ず道に迷(まどい)て、我れにも非ず怳(ほれ)たる心地して此(か)く歩(あゆ)み来たる也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.98」岩波文庫)
そう聞かされた死んだ僧。とはいえ東大寺で修行していた頃は二人とも同僚であり、お互い顔見知りの旧知の間柄。死んだ僧は懐かしさがつのり思わず涙を浮かべ、「こうしてまた会えるのはとても嬉しいことだ」と言って泣き出してしまう。それを聞いた花摘みの僧も、懐かしい同僚が涙する姿を見て共に泣き出してしまった。
しかしなぜ死んだはずの僧はこんな山中の見知らぬ僧坊のようなところに住んでいるのだろう。死んだ僧は事情を説明する。「そなた、見つからないところへ隠れて壁の穴からこっそり見ていてほしい。これから私が受ける罰の苦しみを。私は寺にいた頃、僧侶に供えられる食べ物を退屈しのぎに食べて時間を無駄に過ごしてばかりいた。気持ちが億劫な日はお堂に赴くこともせず、さらに学業に専念するということもなくなった。それが罪となったのだろう。ここで日に一度、堪え難い苦しみを受けることになった。もうその時間だ」。
「汝(なん)ぢ深く隠(かくれ)居て、壁の穴より蜜(ひそか)に臨(のぞ)き見よ、我が受くる所の苦(くるしび)を。我れ寺に有し時、徒(いたずら)に僧供(そうぐ)を請(う)け食(くい)てのみ過ぎき。倦(ものう)かりし日は、入堂をも不為(せ)ず、亦(また)学問をも不為(せ)ずして有き。其の罪に依(より)て、毎日(ひごと)に一度(ひとたび)、無限(かぎりなく)難堪(たえがた)き苦患(くげん)を受くる也。漸(ようや)く其の期(ご)に至(いたり)にたり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.99」岩波文庫)
死んだ僧は花摘みの僧を土造りの建物である壺屋(つぼや)へ案内し、ここにじっと隠れてこれから起こることを壁の穴から覗いて見ておいてほしい、と言った。するとたちまち、「唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる」者たちが四、五十人、額に鉢巻のようなものを付け、天空を飛ぶがごとき速度で到来し降り立った。
「忽(たちまち)に、唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる、額(ひたい)に絈額(まこう)をしたる、四、五十人許(ばかり)空より飛ぶが如くにして下(お)り来(きたり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.99」岩波文庫)
地獄での拷問の様子を描いた「往生要集」の描写に近い場面が目に映る。しかし地獄ではない。気迫に満ちた「唐人(とうにん)」たちと思われる姿はまさしく唐由来の仏教絵画に描かれている装束姿である。そこへ召し出された者らは東大寺で死んだ僧を含めて十人ほどだろうか。緋色の縄で一人々縛り付けられる。そこへ「鉄(くろがね)の壺(つぼ)」に注ぎ口の付いた容器が用意された。その中には火で溶かした銅(あかがね)がゆらゆらと煮えたぎっている。僧たちは一人ずつ呼び出され、高熱で溶かされた「銅(あかがね)の湯」を口から注ぎ入れられる。僧たちは目・耳・鼻から焔(ほのお)を垂れ流し始めた。関節からは煙がぶすぶすと立ち上り、尻からはどろどろに溶けた「銅(あかがね)の湯」が垂れ流しになっている。体中の穴という穴から火で溶かされた「銅(あかがね)の湯」が吹きこぼれ出している。呼び出された十人ほどの僧がすべてこの拷問を受け終わった時、縛り付けられていた縄がようやく解かれこの日の拷問は終了し、同時に天空から出現した「唐人(とうにん)の姿の如くなる者の極(きわめ)て恐(おそろ)し気(げ)なる」者たちは再び天空へ消え失せた。
「暫(しばし)許(ばかり)有て、尻より流れ出(い)づ。目・耳・鼻より焔(ほのお)ほめめき出(い)づ。身の節毎(ふしごと)に煙(けぶり)出(いで)て、くゆり合たり。各(おのおの)涙を流して叫ぶ音(こえ)悲し。僧毎(ごと)に皆次第に飲まれ畢(はて)つれば、皆解免(ときゆる)して、本(もと)の房々(ぼうぼう)に返し送(おくり)つ。其の後、此の人共、空に飛び畢(はて)て失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.100」岩波文庫)
一旦見ておきたい。東大寺にいた僧であろうと他の名もない寺にいた僧であろうと、ここに集められた十人ばかりの者はすべて同等の拷問を受けている。十人ほどのうち誰の拷問にも違いがない。諸商品の無限の系列でいえば、どの商品にも何らの違いも認められない。しかし諸商品の無限の系列の場合、その中から一つの商品が排除され「貨幣」へと転化する。ところがこの場面ではどの僧も特権的排除を与えられることなく、上へも下へも排除されることなく、引き続き「宙ぶらりんのままに留まる」。ラカンはいう。
「私達はこれまで、ヒステリー者の置かれている位置の特徴は、まさに男と女というシニフィアンの二つの極に関わる問いであるということを見てきました。ヒステリー者は全存在を賭けてこの問いを問うのです。つまりいかにして男であり得るか、あるいはいかにして女であり得るか、と。しかし自ら問いを立て得るということは、ヒステリー者はそれでもそのことの拠り所を持っているということをも意味しています。この問いにおいてこそ、ヒステリー者自身の性が疑問に付されていることを示す異性の人物への基本的な同一化によって、ヒステリー者の構造のすべてが導入され、宙づりにされ、保たれているのです。ヒステリー者のこの『あれか、これか』という問いに対して、強迫症者の解答、つまり『あれでもない、これでもない、男でもない、女でもない』という否定が対置されます。この否定は、死すべき運命にあるという経験に関わるものですが、そのような存在を問わないように隠すこと、つまり宙ぶらりんのままに留まる一つの仕方です。強迫症者は確かにあれでもないこれでもないのですが、彼は同時にあれでもあり、これでもあるのだと言うこともできます」(ラカン「精神病・下・20・呼びかけ、暗示・P.157」岩波書店)
そのような条件の内部に留め置かれたまま毎日同じことが何度も繰り返し反復される。フロイトはいう。
「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)
なるほど「無気味」ではある。しかし強迫的に何度も繰り返される反復行為の中には、フロイトが「魔力的な性格」と言って上手く示唆しているように、ただ単なる「苦痛」ばかりで占められているわけではまるでない。ニーチェに言わせればこうなる。
「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)
壺屋の壁の隙間からその場面を目撃した花摘みの僧は生きた心地がせず、ただただ恐怖心で一杯になり、壺屋の中でうつ伏せになったまま倒れ込んでしまった。そのうち、死んだ僧が壺屋へやって来て倒れ臥している花摘みの僧を起こしてくれた。そしていう。「ご覧になられたか。私は東大寺で死ぬとすぐこの僧坊にやって来て、その後ずっとここに住んでいるのだ。寺にいた頃、寺院へのお布施を請い受けて食物にするわけだが、ただ寺から与えられるまま食べるだけ食べる一方、本来の修行をさぼり、お布施を納めてくれた人々への償いはしない。修行に励まなかった。その罰なのだ、この苦(くるしび)は。だが厳密に定められている罪を犯したわけではないので地獄に落ちず、代わりにこのような形で連日耐えがたい苦痛にのたうち回ることになったというわけだ。さあ、もうお返りになって下さい」。
「死(しに)て即ち、此の所に来たて、此の僧坊に住む也。寺にして徒(いたずら)に信施(しんせ)を受て、償(つくの)ふ方無かりしに寄(より)て、此の苦(くるしび)を受る也。犯(おかし)し罪無かりしかば、地獄には不堕(おち)ず。速(すみやか)に返り給ひね」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第十九・P.101」岩波文庫)
説話のこの時点で、実は、死んだ僧にもさっぱり理解できていない点が見られる。それは何か。この場へ集められた十人ばかりの僧は東大寺に限らず、いずれもばらばらの場所から寄せ集められている。だから元いた仏教施設でどんな罪を犯したかはわからないだけでなくそれぞれ違う罪を犯している可能性が十分に考えられる。規則としては同じ種類に属する罪だとしても、個々のケースで見ればそれぞれ少しずつ違った行為であったろうし、別々の僧たちである以上、それぞれが犯した罪はそもそも違った行為であるほかない。その意味ではいずれの罪にしても個別的である。ところが十人が十人ともまったく同一の刑罰を与えられるや否やそれぞれ少しずつ違っていただろう罪の個別性はたちまち消え去り、同一の刑罰の付与とともにあらゆる個別性は忘れ去られてしまう、という事情である。
さて。異境訪問譚の形式を借りつつ、この説話が語っていることは一体何か。第一に、寺院へ寄進された価値相当のものが、約束されたはずの等価性を得て寄進者のもとへ還流してきていないという事情がある。第二にお布施が、金額換算してどれほどになるかという、寄進された物品の大小にはまったく関わらないはずの条件がややもすれば反故化される危機的状況を改めて思い起こさせる機能を受け持たされている点。むしろ大小が勘案されるとすれば仏教思想の根本にある「一切の衆生の平等原則」に反する。もし寄進物の価値の大小によってその見返りが計算されるとすれば、信仰の深さ・厚みはもはや関係なく実は金銭的コネクション優先の擬似的宗教(カルト)教団へ転化し、仏教寺院はその名称にもかかわらず仏教とは何らの関係もないただ単なる金融機関の投資窓口へ転化してしまう。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
説話にあるように、この債権・債務関係が実際に履行されない場合、どのような経過を辿るだろうか。
「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.72」岩波文庫)
そしてまたこの種の罪と罰との応酬が習慣化されると、始めはただ単なる習慣から始まったものが遂に「神聖な法律」として自動的に機能するようになる。
「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)
というふうに。
だから、東大寺で死んだ僧が陥った永劫の債務者という立場から抜け出す余地は、説話に従う限り、寸毫も残されていない。貨幣に置き換えた場合、転化したのは東大寺の「僧」であり、その転化過程は「僧」から「死んだ僧」への転化、さらに異境へ場所移動した限りにおいて「生きている死んだ僧」へ再転化している。「僧」は「僧’」へ転化し、さらに「僧’’」へと再転化した。しかし「僧’’」は異境へ追放され、「僧’’」になったまま取り残されており、従って変化過程で生じた「’’」に相当する価値部分が現実社会へ還流してくることはもはやない。死んでなお永遠のミゾギばかりが延長、再延長されていく。ニーチェのいうように「絶対的基準」というものはもう消え失せたからである。
なお述べておきたいが、「生きている死んだ僧」は、実を言えば、現実社会へ還流することへの躊躇(ためら)いをも同時に語っていないだろうか。確実に訪れる毎日一度の拷問。「生きている死んだ僧」は花摘みの僧に向かって「早くお返り下さい」と言ったきり花摘みの僧を見送る。花摘みの僧は地獄めいた場面を見せつけられて教訓を受け取る。だが「生きている死んだ僧」の側からは教訓一つ語ってはいない。むしろこれまでの経緯をこまごまと語り、その後に花摘みの僧を送り出すばかりだ。教訓どころか逆にこのような地獄めいた毎日を送るに当たって自分が経た過程を説明するために登場したかのようでさえある。とすればもう一つ考えられるのは、ドゥルーズが東欧を舞台とした作品について述べたマゾヒズムの逆説だろう。
「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)
であれば、かつて東大寺にいた「生きている死んだ僧」が此方(こなた)の世界へ舞い戻ってくることは金輪際考えられない。「生きている死んだ僧」は「あらぬ世界」=「ユートピア」の住人になったからだ。そしてそこは「極楽」でもなく「地獄」でもない。それらとはまったく違った「宙ぶらりんのままに留まる」ほかない世界である。
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