白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<トランスフォーマー>としての画家そして音楽家

2022年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=ルーの機転によって互いの呼び方をようやく「あなた」から「きみ」へ変換することに成功する。こうある。

「そんな会食の一夜、私はブランデ夫人にまつわる滑稽な話をみなに聞かせたくなったが、話し出したとたんに口をつぐんだ。すでにサン=ルーがその話を知っていて、ここに着いた翌日、私がその話をしようとしたところそれをさえぎって『その話はすでにバルベックで聞かされたよ』と言ったことを想い出したからである。そんなわけで私は、サン=ルーが今度は話をつづけるよう促したうえ、その話は知らない、きっと気に入るだろう、と言ったことに仰天した。『ど忘れだよ、すぐにあの話だってわかるから』と言っても、『とんでもない、絶対にきみの勘違いだ。きみからそんな話は一度も聞いたことがない。さあ、つづけたまえ』と答える。そして私の話のあいだじゅう、サン=ルーは熱心に、うっとりしたまなざしをかわるがわる私と友人たちに注ぐのだ。みなが笑い転げるなかで話し終えた私は、ようやくそのとき、サン=ルーはこの話を聞けば友人たちが私の機知を高く評価するだろうと考えて知らないふりをしたことを悟った。友情とは、そのようなものである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.222~223」岩波文庫 二〇一三年)

謎めいているのはその技術だろうか。そうではなくプルーストのいう「友情」ではないだろうか。次の文章を見よう。

「三度目の夜、私は、サン=ルーの友人のなかで最初の二度の会食のときには話す機会のなかったひとりが、私と長々と語り合ったあと、小声でサン=ルーに楽しかったと打ち明けるのを小耳に挟んだ。実際、その男と私は、ほとんど会食の初めから終わりまで、目の前にあるソーテルヌ・ワインのグラスを空にするのも忘れるほど夢中で語り合い、そのあいだ、肉体的魅力に基づかないかぎり真に神秘的となる男同士の共感というすばらしいベールで他の会食者から隔てられ、保護されていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.223~224」岩波文庫 二〇一三年)

ここで「肉体的魅力に基づかないかぎり真に神秘的となる男同士の共感」とある。さらに二人はその「すばらしいベールで他の会食者から隔てられ、保護されていた」。だからといって単純にプラトン的な「愛」へ還元してしまわないようにしよう。或る時、モンテーニュはこう書いた。

「アリストレテスも、すぐれた立法者たちは正義よりも友情にいっそう気をつかった、と言っている」(モンテーニュ「エセー1・第一巻・第二十八章・P.358」岩波文庫 一九六五年)

「正義よりも友情」とある。「友情」を優先せよという意味なのだろうか。それならもうロシアによるウクライナ侵攻が始まった時すでに破られている。世界もまた親ロシア派と親ウクライナ派との両陣営に分裂してしまっている。ところでモンテーニュが持ち出しているアリストテレスの言葉はこの箇所。ただ単なる「愛」とはまた違っていて「親愛・友愛・友情」と呼ばれるものだ。

「国外をあるいてみると、あらゆる人間がいかにお互いに対して家族的で親愛的なものであるかが見られるであろう。また、愛(フィリア)というものは国内をむすぶ紐帯の役割をはたすもののごとくであり、立法者たちの関心も、正義によりもむしろこうした愛に依存しているように思われる。すなわち協和(ホモノイア)ということは、愛(フィリア)に似た或るもののように思われるが、立法者たちの希求するところは何よりもこの協和であり、駆除しようとするところのものは何よりも協和の敵たる内部分裂(スタシス)にほかならない。事実、もしひとびとがお互いに親密でさえあれば何ら正義なるものを要しないのではあるまいか、逆に、しかし、彼らが正しきひとびとであるとしても、そこにやはり、なお愛というものを必要とする。まことに、『正』の最高のものは『《愛》というい性質を持った』それ(フィリコン)にほかならないと考えられる」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第八巻・第一章・P.66~67」岩波文庫)

基本的に「親愛・友情」としての「愛」というものが考えられなければならない。アリストテレスは「多数のひとびとに対して親友たることは不可能である」という。「友たちよ、友というものは一人もいない」と訳されたりする。

「事実、多数のひとびとに対して親友たることは不可能であると考えられなくてはならない」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第九巻・第十章・P.143」岩波文庫 一九七三年)

この「親友関係・友情関係」を道徳的な問いとして見出したのがニーチェ。こう転倒させた。

「『友らよ、友というものはないのだ!』、そう死んでいく賢者は叫んだ。『友らよ、敵というものはないのだ!』ーーー生きている愚者のわたしは叫ぶ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・三七六・P.345」ちくま学芸文庫 一九九四年)

この箇所で言われている「愚者」とはどのような人間なのか。また「賢者」とはどのような人間かが併記されている。

「《愚者のふりする賢者》。ーーー賢者はその博愛心から、時々、興奮したり、怒ったり、喜んだりする《様子を見せる》が、これは、彼の《真の》性質である冷たさや思慮深さが周囲の人たちを傷つけないようにするためである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四六・P.183」ちくま学芸文庫 一九九四年)

道徳というものはたった一つだけしかないのか。そんなことはない。「目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろう」。ニーチェは道徳の複数性・多様性・無意識性に着目する。

「《無意識の徳性》。ーーーある人間が自分で意識しているあらゆる性質はーーーそれも特に、その性質が自分の周囲の人々の目にも目立って明らかなものと本人が前提してかかっている場合にはーーー、彼に熟知されてないか不充分にしか知られていないところの、しかもその繊細さのゆえに鋭い観察者の眼にもつかず全く何も無いかのようにうまくかくされてしまうところの諸性質とは、全然ちがった発展の法則に支配されている。爬虫類(はちゅうるい)の鱗にみられる精妙な彫刻がそうしたものである。それらのものを装飾とか武器とかいったものかのように想像するのは間違いであろう。ーーーなぜといってそれらは顕微鏡を使ってはじめて見られるもの、つまり、似よりの動物たちーーーこれら動物たちに《とっては》それが装飾なり武器なりを意味するかもしれぬーーーには備わっていないほどの人為的に精巧に鋭くされた眼によってはじめて見られるものだからだ!われわれの眼に見える道徳的な諸性質、とくに眼に見えると《信じられた》われわれの諸性質は、それ自体の行路を辿る。ーーー他方、われわれにとって他人目当ての装飾でも武器でもないところの、目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろうし、またおそらくは神妙不可思議な顕微鏡を手にした神を楽しますようなさまざまの条線や繊細性や彫刻などをかねそなえた行路であるだろう。たとえばわれわれは、われわれの精励、われわれの名誉心、われわれの炯眼をもっている。世間がみなそれについて知っているーーー、そのほかにさらにわれわれは恐らく、もう一種の《われわれの》精励、《われわれの》名誉心、《われわれの》炯眼をもっているのだ。だがわれわれのこういう爬虫類的鱗に対しては、いまだに顕微鏡が発明されていない!ーーーさてこそここで本能的徳性の愛好者たちは言うであろう、『ブラボー!彼は少なくとも無意識の徳性が可能であると思っている、それがわれわれを満足させる!』。ーーーおお満足屋の諸氏よ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・八・P.70」ちくま学芸文庫 一九九三年)

次の文章は親友とは何かというより「親友関係が成り立つ」ためには非常に高度な技術を要するという、ニーチェの立場的条件を述べたものだ。

「《親友関係》。ーーー親友関係が成り立つのは、相手を非常に、しかも自分自身よりも敬重する場合、また同様に相手を愛しはするが、しかし自分自身を愛するほどにではない場合、そして最後に、お互いつき合いしやすくするために、親密さを装う、ものやわらかな《うわべ》と柔毛(にこげ)を添えていることを心得ていて、しかも同時に、ほんとうの親密さには陥らぬようまた私と君の混同に陥らぬよう、賢明な用心がなされる場合である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四一・P.181」ちくま学芸文庫)

その事例として「マケドニアの王様の物語」を上げている。古代には社会的規模で「友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされた」という前提条件が強調されている。目を通してみると、「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度はなるほど立派であるけれども、それ以上に立派な精神的態度として認められている「友情」に関して、その哲学者は王の側からの贈与を送り返した。王がその哲学者と結びたかったのは「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度」を知ったからで、それなら是非「友情」面で親交を深めたいと考えたがゆえの贈与だった。ところが哲学者の側は理由一つ聞くことなく贈り物を送り返してきた。王の側は誤解をおそれず贈り物したわけだが、贈り物の意味も問われないまま送り返されたため、その真意を伝えることができなかった。そうなると王としては最も高い精神的態度とされている「友情」を結ぶことを理由を尋ねられることなしにいきなり切り捨てられたと思うのは仕方のない成り行きだった。

「《友情を讃えて》。ーーー古代にあっては、友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされたこと、ーーーこの事実を実によく言いあらわしているのは、例のマケドニアの王様の物語であるが、この王は、世を白眼視するアテナイのある哲学者に一タレントを贈ったのに、それを送り返されたそうだ。『どうしたことだ?ーーーと王は言ったーーー彼は友人なんか要(い)らんとでもいうのか?』。王の言わんとする主旨はこうだ。『予は、賢にして独行する者のこの自尊自恃に敬意を表する、だが彼の心内の友人が、彼の自尊自恃に打ち勝ったのだったら、予はさらに高く彼の人間性に敬意を表するであろう。この哲学者は、二つの最高の感情の一つをーーーしかもより高い方のものを知らないということを示したことにより、予の軽蔑をかう羽目になったのだ!』」(ニーチェ「悦ばしき知識・六一・第二書・P.137」ちくま学芸文庫 一九九三年)

恋愛関係の構築・維持でさえ困難を伴うというのに、よりいっそう困難な「友情・親愛・友愛」に至ってはまるで必要ないという態度を見せつけられれば逆に、贈与した側が王であれ名もなき市民であれ、軽蔑されたと思うのは偽らざる心情だろう。なので理由一つ聞かず告げられもせず一方的に贈り物を贈り返された王の側が今度はその哲学者とその精神的態度とをいっぺんに軽蔑する経過をたどった。古代ギリシア時代の精神的ありかたとしては自然の成り行きに違いない。だがただ単に偏屈な哲学者の態度を揶揄しようとしてこんな小話のような逸話をニーチェがわざわざ出してくるわけがない。ニーチェが言おうとしているのは第一に「友情・親愛・友愛」という人間関係の構築・維持がどれほど困難を極める至上の技術を要するかということ、第二にこのような史上の技術の実現のためには「新しい哲学者」の出現に賭ける精神的態度の必要性である。「悦ばしき知識」に出てくる有名な一節。

「《船に乗れ!》。ーーーその人流儀の生き方や考え方に関する哲学的な全般的是認が、それぞれの人にどういう影響を及ぼすか(ーーーすなわち温め祝福し実らせつつ特別にその人を照らす太陽のように)、また、そうした是認は、どんなに人を毀誉褒貶(きよほうへん)から自由にし、自足させ、豊かにし、幸福や好意を恵む上で気前よくさせるか、また、それはどんなに絶えまなく悪を改造し、あらゆる力を開花・成熟させ、大小とりまぜての怨恨や不機嫌の雑草を皆目生ぜしめないようにするか、ーーーそうしたことを考えると、とうとうわれわれは待ちきれなくなって叫びを上げるのだ、ーーーおお、もっと多くのそういう新しい太陽が創造されたらいいのに!悪人も、不幸者も、例外人も、自分の哲学、自分の正当な権利、自分の太陽の光を持つべきだ!彼らに同情する必要などはない!ーーーこれまで永いこと人類は同情というやつを覚えこみ、それの稽古をつんできたけれども、そうした高慢不遜の思い付きをわれわれは忘れ去らねばならぬ、ーーー彼らのために聴罪師も調伏師も赦罪師(しゃざいし)も設けてやる必要はない!彼らに必要なのは、むしろ、一つの新しい《正義》なのだ!また、一つの新しい解決なのだ!さらには、新しい哲学者たちなのだ!道徳的地球だって円い!道徳的地球だってその対蹠人をもっている!対蹠人にだって生存の権利がある!さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が!船に乗れ、君ら哲学者たちよ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第四書・二八九・P.310」ちくま学芸文庫 一九九三年)

「一つの新しい《正義》」、「一つの新しい解決」、「新しい哲学者たち」、「さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が」見出されなくてはならない、出現しなくてはいけない、もはや「神は死んだ」からである。そういう主旨を汲み取る必要性を感じさせずにはおかない。唯一絶対的な「神」ではなくより多くの、無数の、どんどん更新されていくだけでなく同時にたくさんの世界を発見しようではないかとニーチェはいう。そこで差し当たり求められるべきは「友情・親愛・友愛」と呼ばれているものがそれに相当するだろうと。なぜなら、やや長い文章なのだがニーチェは「愛」という行為は実のところなんなのかという問いに深い疑いを抱いていたからである。それは多少なりとも強制的かつ暴力的でエレガンス一つない「所有欲」の別名にほかならないのではないかと。

「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者──この衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者──の立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)

としてニーチェは「かなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承」を呼びかける。「この愛の本当の名は《友情》である」と。

ところでサン=ルーは<私>を褒めたたえようとする余り、エルスチール、バルザック、スタンダールたちの名を並べ立てる。

「おそらく友人たちを前にして私を褒めたたえるのが嬉しくて有頂天になり、いっそう欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのか、極端に饒舌になったサン=ルーは、まるで一着でゴールした馬でも讃えるように、くり返し私を褒めちぎった。『きみは、ぼくの知るかぎり、いちばん頭のいい男だ』。そう言って、さらにこうつけ加える、『エルスチールと並んでね。そう言われたって、どうだい、悪い気はしないだろ?きみにはわかるはずだから、厳密に言うんだ。きみにそう言うのは、たとえれみればバルザックに、あなたは今世紀でもっとも偉大な小説家です、スタンダールと並んで、と言うようなものだ。できるだけ厳密に言うとそうなるわけで、きみにはわかるだろ、要するに絶賛してるんだよ。違うかい?スタンダールじゃ、気に入らないかい?』と訊ねるが、私の評価を素朴に信頼しているにちがいなく、そんな信頼は、緑色の目にうかぶ子供っぽく、にこやかで、魅力的な問いかけにあらわれていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.228~229」岩波文庫 二〇一三年)

思いも寄らぬ展開に<私>はうろたえる。スタンダール?再評価の機運に乗っていた時期に当たり知らない者のない「名」だ。<私>は何か言わなければならない。窮地に追い込まれたも同然だ。だが興奮状態の部屋の中では文学論のみならず音楽論の一つも続く可能性さえ十分考えられる。読者はおそらくそう思いながら活字を追うに違いない。しかしよく知られているように音楽はもっと後に、絵画だけでは間に合わず途切れてしまいそうなところから飛翔するのだ。今は二十世紀の経験を予備的に思い出しておこう。ドゥルーズ=ガタリから。

「冶金術が音楽と本質的な関係にあるのは、ただ単に鍛冶屋のたてる騒音のためではなく、両者を貫く傾向、つまりたがいに分離された形相を超えて形相の連続展開を際立たせ、変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させるという傾向のためである。拡大された半音階法が音楽と冶金術を同時に突き動かしている。音楽家としての鍛冶屋は最初の『変形者』である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・12・遊牧論/戦争機械・P.128」河出文庫 二〇一〇年)

この「変形者」は英語でいう“transformer”(トランスフォーマー)。生成変化させるもののこと。変化の様相は「変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させる」点にあり、「拡大された半音階法」というのは例えば電子音楽(実験的テクノ音楽など)を用いて教科書的な諸コードの連続性から逸脱し、電子音楽による意味の不在のうちに常に変形途上を生きることだ。スタンリー・キューブリックによるアントニイ・バージェス原作「時計じかけのオレンジ」映画化に伴いウォルター・カーロスがベートーベン「交響曲第九番・歓喜の歌」を編曲挿入し、原曲の持つ重々しい息苦しさから解き放つとともに無邪気かつ不気味なキューブリック流ユーモアによって長いあいだ「歓喜の歌」が持たされてきた余りにも危険な全体主義的統一性を脱臼させることに成功した。

映画「時計じかけのオレンジ」からウォルター・カーロス編曲「歓喜の歌」

次にシューマン「クライスレリアーナ」。この場合のトランスフォーマーは誰なのか。シューマン自身がすでに分裂的(スキゾフレニック)。またシューマン初期作品群に技術的困難はない。ところがそんなシューマン初期作品群に顕著な分裂的(スキゾフレニック)な要素を何一つけれん味なしで弾き切っているのは意外かもしれないがホロヴィッツではないかと思われる。

シューマン「クライスレリアーナ」(ピアノ:ホロヴィッツ)

またモーツァルトを弾くグレン・グールドはどうだろう。ドゥルーズ=ガタリはいう。

「グレン・グールドがある曲の演奏速度を早めるとき、彼は単にヴィルトゥオーソとしてそうしているのではなく、音楽上の点を線に変容させ、集合を増殖させているのである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.26」河出文庫 二〇一〇年)

グールドもまた速度における<速さ><遅さ>によって歴然たるトランスフォーマーというべきだ。

モーツァルト「ピアノ・ソナタ集」(ピアノ:グレン・グールド)

「音楽はみずからの逃走線の数々を、そのまま『変形する多様体』としてたえず成立させてきた。たとえ音楽というものを構造化し樹木化している諸コードをくつがえすことになっても。だからこそ音楽の形式は、その切断や繁殖にいたるまで、雑草に、またリゾームに比べることのできるものである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.32~33」河出文庫 二〇一〇年)

画家エルスチール、音楽家ヴァントゥイユ、作家プルースト。だがしかし<私>とは何なのか。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・「あなた」から「きみ」への変換/「支離滅裂」の効用

2022年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ロベール(サン=ルー)と<私>との関係は「きみ」と「ぼく」と呼び合える関係である。にもかかわらずロベール(サン=ルー)の友人たちも同席する場面であるため、一旦両者は互いに相手を「あなた」と呼び合うぎくしゃくした気まずそうな関係に陥ってしまっている。もっとも、サン=ルーはそれがどれほどぎくしゃくした空気を充満させているのか、その気まずさに気づいていないという致命的お人好しぶりを発揮しているわけだが。そこで<私>はサン=ルーを介してゲルマント夫人へ接近するに当たって奇妙にもったいぶった回りくどい説明を試みる。そしてその意味は通じる。だがなぜ通じたのか。「他人が目の前にいるからこそ、それを口実に私の話を短くて支離滅裂なものにできた」からにほかならない。「支離滅裂」の効用というべきか、というより、いったん「支離滅裂」にならなくてはかえって成立しない理解と共感とがあるのだ。

「『でもゲルマント夫人には、いくぶん誇張がまじることになっても、あなたがぼくをどう評価しているかを伝えてくれるなら、これほど嬉しいことはないんだ』。『もちろん喜んで引き受けるよ、頼みってのがそれだけのことなら、そうむずかしいことじゃないし、でもあの人があなたのことをどう思うかなんて、そんなことがどうして重要なんだい?あなたには問題にもならないことだと思うけど。いずれにしてもそんなことなら、みんなの前でも、ふたりきりになれるときでも話せるだろう。ふたりきりになる機会がいくらでもあるというのに、こうして突っ立ったまま不便な思いをしながら話して、疲れが出ないかと心配だよ』。ほかでもない、そんな不便な状況であったからこそ、私はロベールにこの話をする勇気が出たのである。他人が目の前にいるからこそ、それを口実に私の話を短くて支離滅裂なものにできたのだし、そんな話しかたのおかげで、ロベールと公爵夫人との親戚関係を忘れていたなんて嘘をついたのを容易に隠しおおすこともできたのだし、それはまた、私がロベールと知り合いで頭もいいなどといったことをなぜゲルマント夫人に知ってもらいたいのか、その動機についてロベールにあれこれ質問させる余裕を与えないためでもあって、そんなことを訊かれでもしたら私は返答に窮したにちがいない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.216~217」岩波文庫 二〇一三年)

<私>は差し当たりゲルマント夫人への接近方法について語る。大変まどろっこしい会話に思える。しかし言葉遣いには段階というものがあり、いきなり生(なま)の言葉遣いを用いると人間関係は逆に崩壊の淵に立たされる場合が少なくないことは誰しも知っているに違いない。次の箇所は読者にとって面倒な会話に思える。だがそれなしに次はない。

「『ロベール、あなたのような聡明な人が理解できないのは驚くほかないけれど、友人が喜ぶことには理屈をこねてはいけないんで、それを実行すべきなんだ。ぼくなら、あなたがなにを頼まれようと、もとよりぼくになにか頼んでもらいたいと願っているけど、けっして説明を求めたりはしないよ。ぼくは自分の望みをやたらに言いすぎているかもしれないけれど、どうしてもゲルマント夫人と知り合いになりたいわけじゃないんだ。でも、あなたを試すつもりなら、ゲルマント夫人と夕食をともにしたいと言うべきだっただろうね、あなたがそんなことをしてくれるはずがないのは承知のうえだけど』。『そう言われていたらやったはずだし、これからもやるよ』。『いつになるだろう?』。『パリに帰ったらすぐやるよ、三週間後になるだろう、たぶん』。『どうなるだろうね、そもそもあの人はやりたがらないだろうし。でもあなたにはなんて御礼を言ったらいいのか』。『いや、なんでもないことだよ』。『そんなことはない、大へんなことだよ、いまやぼくにはあなたがどんな友人かがわかったわけだから。お願いするのが重要なことでもそうでないことでも、不愉快なことでもそうでもないことでも、本気で望んでいることでもあなたを試そうとしているだけのことでも、どうでもいいんだ。あなたはやると言ってくれて、それであなたの頭と心がいかに繊細かを示してくれたんだから。愚かな友人なら理屈をこねていたところだけれど』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.217~218」岩波文庫 二〇一三年)

いい加減に「あなた」を「きみ」へ変換しないといけない。<私>は「重要」だという断り付きでこう述べる。サン=ルーは喜んで引き受けてくれる。

「『さあ、もうみんなのところに行かねばならないけど、さっき頼んだのは考えていたふたつのうちのひとつで、重要でないほうなんだ。もうひとつのほうがぼくには重要でね、断られるんじゃないかと心配だけど、おたがい、きみって呼び合うことにしたら迷惑だろうか?』。『どうして迷惑なんだい、とんでもない!《歓喜!》、《歓喜の涙!》、《かつてない至福!》ってもんだよ』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.219」岩波文庫 二〇一三年)

それにしてもゲルマント夫人への橋渡し役としてもサン=ルーの友人たちへ向けて<私>が紹介されなければならないシーンでも、いずれの場合もサン=ルーが適役なのはなぜなのか。「ふだんはことさらに言い立てず味わっていただけの私の同じ発言が、予告に見合う期待どおりの効果を友人たちにひきおこすかどうかを、そっと横目で見張っていた。初舞台に立つ女優の母親でさえ、娘のせりふや観客の反応にこれ以上の注意を払うことはあるまい」、というくらい気が利くのだ。

「これまで以上に愛想のいいことを言ってくれたからといって、それが意図的なものに思えたなら、私としてもなんら心を動かされなかっただろう。ところがサン=ルーの愛想のよさは、無意識のもので、差し向かいのときには口にしないけれど私が不在のときに私について語ってくれるはずのことばだけで成り立っている気がした。差し向かいのときでも、たしかに私と話すのが楽しいようではあったが、その喜びはたいてい表明されないままであった。ところが今やサン=ルーは、ふだんはことさらに言い立てず味わっていただけの私の同じ発言が、予告に見合う期待どおりの効果を友人たちにひきおこすかどうかを、そっと横目で見張っていた。初舞台に立つ女優の母親でさえ、娘のせりふや観客の反応にこれ以上の注意を払うことはあるまい。サン=ルーは、私がひとこと言うと、私と差し向かいのときなら小馬鹿にしたにちがいない発言でも、みながよく理解できなかったのではないかと心配して、私に『なになに、なんだって?』と問いかけ、同じことばをくり返させてみなの注意を喚起すると、すぐさま友人たちのほうをふり向き、いかにも人の好さそうな笑顔でみなを見つめるので、意識せずともおのずと友人たちの笑いを誘うことになり、そこではじめて私をどう思っているのか、しばしば友人たちに開陳してきたはずの考えを私に向けて提示するのだ。かくして私は、新聞で自分の名前に目をとめる人や、鏡で自分のすがたに見入る人のように、いきなり自分自身を外部から見つめることになった」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.221~222」岩波文庫 二〇一三年)

このような破格の気の効かせ方は「そこではじめて私をどう思っているのか、しばしば友人たちに開陳してきたはずの考えを私に向けて提示するのだ。かくして私は、新聞で自分の名前に目をとめる人や、鏡で自分のすがたに見入る人のように、いきなり自分自身を外部から見つめることになった」。鏡像の効果についてはマルクス参照。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

なお個人的な話になるが、この五月半ば頃からひどい鬱状態に苦悶していた。言葉にできないがゆえに鬱症状なのだが、そしてまたなぜなのかわからないが絵画へ変換すると可視化できることがある。見た目は次のようなイメージ。

「Xアルバム7裏ーーーファン・ゴッホ・シリーズ」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.69』(求龍堂 二〇二一年)

ところが今回の鬱症状悪化の要因は複合的な要素が複雑に絡み合って錯綜したもので、もともとただ単なる意欲低下だけが顕著な鬱病でないこともあり、自分でも驚くほど異様な力のいらいらに襲われた。次のように。

「自画像の写真上のドローイング 1970年代~1980年代頃」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.104』(求龍堂 二〇二一年)

後者でフランシス・ベーコンは紫を多用しているけれども今回の鬱症状は紫というより次の作品に近い。

「Xアルバム2裏」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.59』(求龍堂 二〇二一年)

さらに頭の中はまた違っている。

「2人のボクサーの写真上のドローイング 1970年代〜1980年代頃」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.126~127』(求龍堂 二〇二一年)

この精神的複雑骨折。といってもベーコンにとってはこの状態が正定立であり転倒ではない。その意味でベーコンの絵画は鑑賞するものではなく鏡の前に立つことであるだろう。

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Blog21・置き換えられるゲルマント夫人/「あの人」とは誰か

2022年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=ルーたちと夕食をとるため<私>は街路をホテルへ向かう。通り過ぎる家々の前で立ち止まって中を眺めたり再び歩き出したりする。「暗い路地に入りこむ」時など「突き上げる欲望がしばしば私の足を止めた。いきなり女があらわれて、その欲望を充たしてくれる気がする」。「暗い路地」が大聖堂の前を通っているためなのか、「この中世を想わせる古い路地は私にはひときわ現実味を帯びていて、かりにそんな路地で女をひっかけてものにできたとしたら、私は古代以来の官能がふたりを結びつけるのだと信じないわけにゆかなかったであろう」と述べ、そして「たとえ女が毎晩そこに立つただの売春婦であったとしても、その女には冬と異郷と暗闇と中世とによって醸し出される神秘が授けられたはずだからである」ともいう。

「ふたたび歩きだして大聖堂の前を通りすぎる暗い路地に入りこむと、かつてメゼグリーズに向かう小道を歩いていたときのように、突き上げる欲望がしばしば私の足を止めた。いきなり女があらわれて、その欲望を充たしてくれる気がする。そんな暗闇のなかで突然ドレスがわが身をかすめるのを感じようものなら、身をふるわす強烈な快感のせいでそんな接触が偶然のものとは思えず、通りすがりの女を両腕に抱きしめようとして相手を怯えさせる。この中世を想わせる古い路地は私にはひときわ現実味を帯びていて、かりにそんな路地で女をひっかけてものにできたとしたら、私は古代以来の官能がふたりを結びつけるのだと信じないわけにゆかなかったであろう。たとえ女が毎晩そこに立つただの売春婦であったとしても、その女には冬と異郷と暗闇と中世とによって醸し出される神秘が授けられたはずだからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.207~208」岩波文庫 二〇一三年)

ゲルマント夫人に近づこうとしてサン=ルーとの関係を一層深めておきたい<私>はそのような空想で一杯になるのだが、街路を歩いているあいだに<私>の関心は別のものへと置き換えられる。「街路に面した家々、通りすがりの女、ただの売春婦」など想像力によって付け加えられ加工される状況次第で、諸商品の無限の系列のようにどんどん置き換えられていく。するとだゲルマント夫人への接近という当初の目的が急速に失速し、逆にゲルマント夫人を忘れることが「もしかすると容易なことかもしれないと感じられた」。

「ゲルマント夫人を忘れようとするのは、おぞましいことだが理に適(かな)ったことに思われ、またこのときはじめて可能なこと、いや、もしかすると容易なことかもしれないと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.207~208」岩波文庫 二〇一三年)

忘却なしに「新たな恋をはじめること」はとても困難なわけだが逆に忘却が確実であればあるほど容易に「新たな恋をはじめることができる」とプルーストは述べる。

「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)

サン=ルーたちのいるホテルに到着するとそろそろ会食が始まろうとするところだった。<私>はサン=ルーを部屋の隅につれていき、ゲルマント夫人のことを訊ねる。<私>の部屋に置いてある写真が確かにゲルマント夫人なのかどうか。ロベール(サン=ルー)はそのとおりゲルマント夫人(オリヤーヌ)であり、ほかでもないロベール(サン=ルー)の叔母だと答える。ここでロベール(サン=ルー)はゲルマント夫人(オリヤーヌ)のことを「あの人のいいオリヤーヌ」という。この場合「人のいい」という形容詞が「親切な」に置き換えられても意味は変わらない。しかし「親切な夫人」へ置き換えられたとしても「サン=ルーがとりわけゲルマント夫人を親切だと考えていることを意味しない」。なぜなら「この場合の、親切な、すばらしい、人のいい、という言いまわしは、たんに『あの』を強めるだけで、ふたりに共通の知り合いではあるが、さほど親しいわけではない相手にその人のことをどう言うべきか判然としないときに使われる」に過ぎないからだ。この目的は猶予を設けることであって、「その一刻の猶予のあいだに『よくお会いになるんですか?』とか、『もう何ヶ月も会ってませんが』とか、『火曜に会うんです』とか、『ういういしい若さはもうありませんね』とか、つぎの台詞を見つけ出す」ために機能すればいいだけの無意味な形容詞である。とはいえ猶予を出現させる役割を与えられているという点では無意味どころか逆に是非とも必要な形容詞として機能してくれなくてはならない。

「『ロベール、こんなときにこんな場所で言うのはそぐわないけれど、すぐ済むことなんだ。兵営ではいつも訊くのを忘れてしまうんだけど、部屋のテーブルのうえに置いてある写真はゲルマント夫人じゃないの?』。『そうだよ、ぼくの親切な叔母さんだ』。『そうか、やっぱりね、ぼくもどうかしてるんだ、前にも聞いていたはずなんだけど、それから一度も考えたことがなかったものでね。こりゃ、まずい、お友だちがお待ちかねのようだから、手短に話そう、でもみんなこっちを見てるからべつのときでもいいんだ、大したことじゃないんで』。『そんなことはない、いいから言いたまえ、待たしとけばいいんだから』。『とんでもない、失礼にならないようにしなくては、いい人ばかりなんだから。それに、どうしても言っておきたいわけでもないんだ』。『知り合いなのかい?あの人のいいオリヤーヌと』。『あの人のいいオリヤーヌ』という言いかたは、『あの親切なオリヤーヌ』と言ったとしても同じだが、サン=ルーがとりわけゲルマント夫人を親切だと考えていることを意味しない。この場合の、親切な、すばらしい、人のいい、という言いまわしは、たんに『あの』を強めるだけで、ふたりに共通の知り合いではあるが、さほど親しいわけではない相手にその人のことをどう言うべきか判然としないときに使われる。『人のいい』というのは前置きの役目を果たすだけで、その一刻の猶予のあいだに『よくお会いになるんですか?』とか、『もう何ヶ月も会ってませんが』とか、『火曜に会うんです』とか、『ういういしい若さはもうありませんね』とか、つぎの台詞を見つけ出すのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.214~215」岩波文庫 二〇一三年)

だから「あの人」というときの「あの」は、おそろしく大量の意味が延々接木(つぎき)されていく増殖機能をあらかじめ備えている。プルーストが作品の中で、それも登場人物の会話の最中に、いきなり文法講義を差し挟むのはそういう意味があるからだろう。それにしてもなぜ誰もが承知しているような言葉遣いについてこのような文法講義をわざわざ挿入するのだろうか。

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Blog21・シニフィアンとしてのサン=ルー、ガス灯による空疎から充実への転化、水陸両棲/横断性

2022年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=ルーは<私>の友人だが同時にドンシエール駐屯地の人気者でもある。ドンシエール駐屯地の兵営は軍隊の兵営であり男性しかいない。だからサン=ルーは年齢性別を問わない社交界の人気者だっただけでなく男ばかりのドンシエール連隊の中の人気者でもあった。その人気度は上官から一兵卒まで含めドンシエールNo.1。しかしその理由はサン=ルーが貴族にふわさしい振る舞いをいつも忘れずにいるからなのか。そうではない。何度か触れているようにサン=ルーは自分が貴族の家柄に属しているというだけのことで他の人々より優れた人間だとあらかじめ無条件で決定されていることに「良心の疚(やま)しさ・負い目」を感じており、逆に貴族にふわさしい一切の振る舞いを自分自ら消し去っていたので「そこになんら貴族らしい点は認められなかった」。ところが周囲にすれば「サン=ルーの歩きかたや片メガネや軍帽(ケピ)は、そこになんら貴族らしい点は認められなかった」がゆえに古参兵たちにするとそれがかえって「特徴」に見え、また「そんな特徴こそ連隊の将校から下士官までで一番人気のサン=ルーの性格であり流儀」に違いないと思われてくる。

「古参兵たちにとっても(とはいえジョッキーの存在など知りもしないこの庶民出の兵士たちは、サン=ルーを非常に裕福な下士官という範疇に入れていたにすぎず、そもそも家が没落していようがいまいがまずまずの暮らし向きで、相当の収入なり借金なりがあり、一兵卒に気前のいい者をすべてこの下士官という範疇に入れていた)、サン=ルーの歩きかたや片メガネや軍帽(ケピ)は、そこになんら貴族らしい点は認められなかったが、それでもやはり関心をおぼえ意味づけをしたくなる対象だった。古参兵たちは、そんな特徴こそ連隊の将校から下士官までで一番人気のサン=ルーの性格であり流儀であると認め、そんなだれにも真似のできない振る舞いや、上官たちにどう思われようと意に介さない態度が、一兵卒への親切な振る舞いの当然の帰結に思えたのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.199」岩波文庫 二〇一三年)

そんなわけでサン=ルーに関するシニフィエ(意味されるもの・内容)=「無数の意味付け」が逆に、サン=ルーの身体を周囲から見て「意味づけをしたくなる対象」=シニフィアン(意味するもの)へのし上げていた。

ところで<私>が兵営を出て自分の泊まっているホテルへ帰る途中に「ガス灯」がある。たいへん印象的なものだ。「そのガス灯は、暮れなずむ外の光のなかで見ると、夕日の最後の残照がいまだ消え去らぬ十八世紀の大きな高窓とみごとに調和して、赤味のさす顔にブロンド色の鼈甲(べっこう)飾りがよく似合うさまを想わせた」。「ガス灯」は「かつて国の機関として使われていた巨大な建物」や「ルイ十六世のオランジュリー(オレンジ栽培用温室)」を内部から照らし上げている。その「ガス灯」を見るたびに自分の「暖炉とランプのもとに早く戻りたくなる」。すると<私>は「自分の部屋に入っても、私は外にいたときと同様の生命力みなぎる充実感をおぼえ」る。「ふだんはたいてい平板で空疎に見える」部屋中の調度、さまざまな事物のほんの表面までが「私には充実して膨らんで見えた」。

「空疎」なものを「充実」したものへ変換する「ガス灯」。それは「かつての権威」とか「ルイ十六世」とかいった言葉とは直接なんの関係もない。そうではなく「ガス灯」が「闘ってい」るからである。ランプもまた「私が泊まっているホテルの正面玄関のなかの窓辺でひとり夕暮れと闘っていたから」だ。フランス革命を境に往年の大貴族たちがばたばた倒れ、代わって新興ブルジョワ階級が加速的に世界を支配し出したことによるルイ王朝時代へのノスタルジーとはまるで関係がない。重要なのは「空疎」の「充実」への変換であり、その衝撃をきっかけとして「かりにそんな事物をふたたび見出す機会を与えられたなら、私は自分の内部からそんな特殊な存在をとり出すことができる気がしたほどである」、という形で<私>をステレオタイプ(常套句的)な習慣的思考から転倒させ新しく思考させたことだ。このような不意の衝撃が「自分の内部からそんな特殊な存在をとり出すこと」を可能にする。新しい切断と接続とをもたらす。

「そのガス灯は、暮れなずむ外の光のなかで見ると、夕日の最後の残照がいまだ消え去らぬ十八世紀の大きな高窓とみごとに調和して、赤味のさす顔にブロンド色の鼈甲(べっこう)飾りがよく似合うさまを想わせた。そんなガス灯を目(ま)の当たりにした私は、自分の暖炉とランプのもとに早く戻りたくなる。そのランプは、私が泊まっているホテルの正面玄関のなかの窓辺でひとり夕暮れと闘っていたから、私はそのランプを見るのが楽しみで、すっかり暗くなってしまわないうちにおやつに帰る子供のようにいそいそと家路につく。自分の部屋に入っても、私は外にいたときと同様の生命力みなぎる充実感をおぼえていた。暖炉の火の黄色い炎といい、中学生がピンクの色鉛筆でぐるぐる螺旋(らせん)をなぐり描ききたように見える夕日のうかぶ空を想わせる鮮やかな濃紺の壁紙といい、ひと束の罫入り用紙とインク壺とがベルゴットの小説とともに置かれて私を待っている丸テーブルに掛けられた奇妙な柄のクロスといい、ふだんはたいてい平板で空疎に見えるさまざまな事物の表面までが、私には充実して膨らんで見えた。ひきつづきその後もこうした事物の内部にはありとあらゆる特殊な存在が充満しているように思えたから、かりにそんな事物をふたたび見出す機会を与えられたなら、私は自分の内部からそんな特殊な存在をとり出すことができる気がしたほどである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.202~203」岩波文庫 二〇一三年)

午後七時になると<私>はサン=ルーたちと夕食をとるため彼らのいるホテルへ出かける。十一月頃。日が暮れると外はとても冷える。歩いているあいだ、<私>はふと思う。ドンシエール駐屯地を訪れることにしたのはサン=ルーを介してゲルマント夫人へ接近するためだったではないか。それなのに「想い出も悲しみも移動するものだ」。今や差し当たり「それがかなたに遠ざかり、ほとんど見えなくなる日々があると、もう消えうせたのだと思う。そうなるとわれわれが注意を向けるのは、ほかのものになる」。欲望は移動する。欲望の対象は置き換えられる、とプルーストは告げる。町の街路から見える家々、とりわけ「窓ガラスに明かりのともる住まい」は「未知の世界」にほかならない。すっかり闇の中に溶け込んで匿名化した<私>はそんな「未知の世界」を<覗く>。

「そうして歩いてゆくあいだ、私はゲルマント夫人のことを考えるのをいっときたりともやめなかったはずだと思えるかもしれない。私がロベールの駐屯地にやって来たのは、たしかに夫人と近づきになろうとする目的しかなかった。しかし想い出も悲しみも移動するものだ。それがかなたに遠ざかり、ほとんど見えなくなる日々があると、もう消えうせたのだと思う。そうなるとわれわれが注意を向けるのは、ほかのものになる。そもそも私にとってこの町の街路は、住み慣れた場所とは違って、ある場所からべつの場所へと移動するための単なる手段にはまだなっていなかった。こんな未知の世界に住む人たちの暮らしはきっとすばらしいものにちがいないと思われ、窓ガラスに明かりのともる住まいがあると、私は闇のなかに長いこと立ちつくし、入りこめない神秘的な暮らしのくり広げられる真性なる情景を見つめた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.205~206」岩波文庫 二〇一三年)

通り過ぎていく家々は様々だ。例えば次のように。

「ときに目を上げると広壮な古めかしいアパルトマンがあり、どの部屋の鎧戸も開いたままで、なかには大ぜいの水陸両棲の男女が、日が暮れるたびに昼間とはべつの元素環境へと順応しなおすのか、ねっとりした液体のなかをゆっくり泳いでいるのが見てとれ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.206」岩波文庫 二〇一三年)

ベルベックでは逆に<私>はグランドホテルの中のメインダイニングルームにいて、地域住民(外部)から<覗かれる>側だった。「巨大な魔法の水槽」の中の生物に映っていた。今度は<私>が「大ぜいの水陸両棲の男女」を次々<覗く>側を演じる。ところでこの「水陸両棲」という言葉は歴然たる存在様式であり普段は区別され分け隔てられている世界が、様々に交通し合い反復する横断性によって古い制度を解体・新しい変容を準備する。また、アルベルチーヌの性的横断性について、形容詞として「水陸両棲」が用いられている。

「こんなふうにアルベルチーヌのそばで感じるいささか重苦しい倦怠と、輝かしいイメージと哀惜の念にみちた身震いするほどの欲望とが交互にあらわれたのは、アルベルチーヌが私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防のうえで例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの楽奏に合わせて振る舞うからで、あるときはそうした環境から抜け出し、私のものとなって、さしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへ逃れて、恋人である例の婦人のそばで、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、浜辺に戻されるかと思えば私の部屋に入れられ、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.389」岩波文庫 二〇一六年)

しかし後者の「水陸両棲」、アルベルチーヌの性的横断性、トランス・ジェンダーであるということを動かせない事実として認めるほかなくなった時、<私>は<私>の限界を思い知らされるとともにアルベルチーヌを<監禁>し厳重な監視下に置くことになる。

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Blog21・<力の移動><移動の力>、前提としての<諸断片>

2022年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>は永遠に眠っているわけではない。その日その日で不眠の夜を差し挟むようなことがあったにせよなかったにせよ、多くの場合、朝になると「眠りが終焉を迎える」。目覚める。といっても、いつもてきぱき起き上がると限ったわけではなく布団から出ようかどうしようかぐずぐず迷っていることがある。例えば、とても冷え込んだ朝など。「私はチョウになる変態の途次にあるサナギのように二重の人間で、そのさまざまな部分は同一の環境に適応しない」。<私>の身体は「そのさまざまな部分」へ分裂する。

プルーストは次の箇所で一つの身体が二つの部分へ分裂するありさまを取り上げている。「私のまなざし」と「私の胸」への分裂。「私のまなざし」は周囲の「色彩だけで充足して暖かさを必要としない」けれども「私の胸はその反対に暖かさを気にかけるが色彩は意に介さない」。

「私はチョウになる変態の途次にあるサナギのように二重の人間で、そのさまざまな部分は同一の環境に適応しないのだ。私のまなざしが色彩だけで充足して暖かさを必要としないのにたいして、私の胸はその反対に暖かさを気にかけるが色彩は意に介さない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.189」岩波文庫 二〇一三年)

プルーストが問題にしているのは「統一」ではなく「分裂」である。諸器官の集合体としての身体は「統一」された形で映って見えてはいてもそれぞれの断片はそもそもばらばらに「分裂」したものだ。ニーチェはいう。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

この事情は言語にも当てはまる。

「言語はもろもろの大きな先入見を含んでおり、また維持している、たとえば、《一つの》語でもって表わされるものは当然また《一つの》出来事であるという先入見がそうである。意欲、欲求、衝動ーーーこれらは複雑なものなのだ!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三三・P.28」ちくま学芸文庫 一九九四年)

また<私>はあれこれ心配事を考え出すとしばしば不眠に陥りがちでもあった。どんな方法で眠りにつけばいいのか途方に暮れてしまう。「そんなときはホテルから兵営に使いをやってサン=ルーへの手紙を持たせ、その手紙に私は、もし実際に可能ならばーーーそれが非常に難しいことはわかっているがーーーちょっと寄ってくれると嬉しい、と書いた」。理由がある。しばらくしてサン=ルーが部屋に到来する。そして「その呼び鈴の音を聞くと、私は自分が心配ごとから解放されるのを感じた」。

「そんな心配ごとのあれやこれやで眠れなくなると、一瞬のうちに私の全存在を満たしてしまう悲しみに、なすすべもなくなる。そんなときはホテルから兵営に使いをやってサン=ルーへの手紙を持たせ、その手紙に私は、もし実際に可能ならばーーーそれが非常に難しいことはわかっているがーーーちょっと寄ってくれると嬉しい、と書いた。一時間もすると、サン=ルーがやって来る。その呼び鈴の音を聞くと、私は自分が心配ごとから解放されるのを感じた。心配ごとが私より強力でも、サン=ルーはそんな心配ごとよりさらに強力であるとわかっているから、私の注意は心配ごとから離れ、ものごとを決めてくれるサン=ルーへと向かうのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.190~191」岩波文庫 二〇一三年)

三つの<強度>とその効果の違いに注目しよう。(1)<私の心配事>。(2)<私の力>。(3)<サン=ルーの強度>。

この三つの<強度>の関係はどうか。<私の心配事>は<私の力>より強力である。しかし<サン=ルーの強度>は<私の心配事>よりさらに強力である。だから<私>の欲望は<私の心配事>を追放する<力>を持つ<サン=ルーの強度>に救援を求める。実際にサン=ルーがやって来ると<私>の気分はそれまでの鬱状態から新しく爽快な気分へ転化する。様々な心配事が合体しドグマ(思い込み・独断)化した<私の心配事>は<力の移動>と<移動の力>とによって駆逐される。またしかし<私の心配事>と<サン=ルーの強度>との間で通用する強度の差異的関係は、この時に限り<私の心配事>と<サン=ルーの強度>との間で《のみ》通用する関係である。<私の心配事>が別種のものの場合、「うわべだけのほとんど無きに等しい要素」のほか何一つもたらさない「ほとんど無力」でしかない場合もある。

「しかしサン=ルーほどの芸術家ではない私にとって、すてきな住まいがもたらしてくれる歓びなど、うわべだけのほとんど無きに等しい要素で、きざしはじめた不安を鎮めてはくれない。この不安は、かつてコンブレーで母がお寝みを言いに来てくれなかったときにいだいた不安や、バルベックに着いた日に防虫剤の臭(にお)いのする天井の高い部屋で感じた不安と同じように辛いものだった。そのことをサン=ルーは、私のじっと見つめるまなざしで理解した」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.155」岩波文庫 二〇一三年)

とはいえ<私>はすでに何度かバルベックでこの種の変容を経験している。もうこれで行き詰まりかとしか思えない絶望的状況に追い込まれた<私>へ向けて不意にまったくの別次元を開かせてみせるエルスチールの絵画の方法がそうだ。次のような場合、エルスチールの絵画は間違いなく<別種の力>として機能している。

「なるほどそれはバラ色の巨大なアーチの連なりに見えた。とはいえ猛暑の日に描かれたからか、熱気のせいで岩壁は粉々になって蒸発したように感じられ、海の水も熱気に吸い取られたみたいにガス状に画面の端から端まで広がっている。光のせいで現実が破壊されるかと思えるこんな日には、現実はほの暗く透明な女体を想わせる生きものに凝集され、光とは対照的にその生きものがいっそう身近ななまなましい生命感を醸し出す。それがさまざまな影である。大部分の影はかんかん照りの沖をのがれ、冷気に飢えて陽の当たらない岩のすそに避難している。ほかの影たちも、イルカのように水上をゆっくり泳ぎながら遊覧中の小舟の脇にとりつき、淡い色の水面に艶(つや)のある青い肢体をうかべて舟体の幅を広げているように見える。ことによるとそんな影から伝わる冷気への渇望ゆえにこの日の熱気がきわめて強く感じられ、レ・クルーニエを知らないのはなんて残念でしょう、と私は大声を挙げたのかもしれない。アルベルチーヌとアンドレは、私もそこに何度も行ったはずだと請け合った。いずれにしても私は、そうとは知らず、いつの日かその光景にこれほどの美への渇望をそそられるとは想いも寄らずに出かけていたのであり、その美は私がこれまでバルベックの断崖で求めてきたほかでもない自然の美しさではなく、むしろ建築のような美しさだった。とりわけ私は、そもそも嵐の王国を見るためにやって来たのに、ヴィルパリジ夫人との散歩でもたいてい木々のあいだから遠くの絵のような海をかいま見るだけで、水をたたえる生命が大量の水を投げ出す現実の大海原はけっして見たことがなく、かりに不動の大海原を見るのなら冬の埋葬衣のような霧に覆われるすがたを見たいと考えていたから、今やこんな実在の重みも色彩も喪失して白っぽい蒸気にすぎなくなった海を夢みるとは想いも寄らなかった。しかしエルスチールは、暑さにぐったりしたような小舟に乗って夢みる人たちと同様にこの海の魔法のごとき魅惑をきわめて深く賞味した結果、感じとれないほどのかすかな引き潮とか幸せな一刻の鼓動とかまで画布の上に引き寄せて定着することができたのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.552~553」岩波文庫 二〇一二年)

またプルーストは「われわれが幼少だったときの庭」を見出させてくれるのは様々な詩人たちがいうように幼少期を過ごした場所へ行ってみるより、人間が今いるその場に居ながらにして熟睡するとき、より一層確実に「われわれが幼少だったときの庭」を見出させてくれると述べる。「庭」というのは「さまざまな歳月と時代を同じくするもろもろの一定の場所」を指す。かつて暮らした場所へわざわざ物理的に移動するのではなく熟睡に伴う自分の内部への下降。それは断層を成している。プルーストは、「地上」、「死んだ町」、「発掘」といった言葉を用いる。同時に「ある種のはかない偶然の印象のほうがずっと巧みに、はるかに鋭敏な正確さで」ともいう。なぜなら同一性というものは逆に「はかない偶然の印象」といった些細で取るに足らない差異に支えられ差異に依存している限りで始めて生じる実に頼りないはったりでしかないからである。

「そんな庭に再会するときには、旅をする必要はなく、深く降りてゆかなければならない。地上を覆ったものは、もはや地上にはなく、その下にある。死んだ町を訪れるには、遠出だけでは充分ではなく、発掘が必要なのだ。しかしいずれ明らかになるが、そのような生体組織の分解にもまして、ある種のはかない偶然の印象のほうがずっと巧みに、はるかに鋭敏な正確さで、いっそう軽やかで、非物質的な、目のくらむ、成功確実な、不滅のひと飛びで、われわれを過去に連れ戻してくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.194~195」岩波文庫 二〇一三年)

プルーストは「われわれを過去に連れ戻してくれる」と書く。より正確にいうと、かつて現在でありもはや過去のものが事実上の現在において現在とともに同時出現するということであり、あたかもタイムマシンのように現在の人間の身体が過去の或る時点へ忽然と出現するわけではない。「われわれを過去に連れ戻してくれる」というのはあくまでステレオタイプ(慣用表現)でしかない。だがプルーストのいうこの一節で遥かに重要なのは、もはや現在ではなく諸断片のモザイクでしかない或る過去が、諸断片のモザイクのまま現在において再現される仕組みについてだ。それが可能なのは過去の或る時点の風景を、「それだけを切り離し」てくることがいつでも可能な限りで可能だという事情にあり、本来的にばらばらな<諸断片>でなければ「それだけを切り離し」てくることは不可能だということが前提として横たわっていなくてはならないということが事実である限りにおいてである。

「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)

同一性は逆に差異性に依存しており、統一性も逆に断片性に依存している。ヘーゲルとは真逆の論理なのだがプルーストはまさしくそう述べることでヘーゲルの転倒性を<暴露>する。

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