サン=ルーの機転によって互いの呼び方をようやく「あなた」から「きみ」へ変換することに成功する。こうある。
「そんな会食の一夜、私はブランデ夫人にまつわる滑稽な話をみなに聞かせたくなったが、話し出したとたんに口をつぐんだ。すでにサン=ルーがその話を知っていて、ここに着いた翌日、私がその話をしようとしたところそれをさえぎって『その話はすでにバルベックで聞かされたよ』と言ったことを想い出したからである。そんなわけで私は、サン=ルーが今度は話をつづけるよう促したうえ、その話は知らない、きっと気に入るだろう、と言ったことに仰天した。『ど忘れだよ、すぐにあの話だってわかるから』と言っても、『とんでもない、絶対にきみの勘違いだ。きみからそんな話は一度も聞いたことがない。さあ、つづけたまえ』と答える。そして私の話のあいだじゅう、サン=ルーは熱心に、うっとりしたまなざしをかわるがわる私と友人たちに注ぐのだ。みなが笑い転げるなかで話し終えた私は、ようやくそのとき、サン=ルーはこの話を聞けば友人たちが私の機知を高く評価するだろうと考えて知らないふりをしたことを悟った。友情とは、そのようなものである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.222~223」岩波文庫 二〇一三年)
謎めいているのはその技術だろうか。そうではなくプルーストのいう「友情」ではないだろうか。次の文章を見よう。
「三度目の夜、私は、サン=ルーの友人のなかで最初の二度の会食のときには話す機会のなかったひとりが、私と長々と語り合ったあと、小声でサン=ルーに楽しかったと打ち明けるのを小耳に挟んだ。実際、その男と私は、ほとんど会食の初めから終わりまで、目の前にあるソーテルヌ・ワインのグラスを空にするのも忘れるほど夢中で語り合い、そのあいだ、肉体的魅力に基づかないかぎり真に神秘的となる男同士の共感というすばらしいベールで他の会食者から隔てられ、保護されていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.223~224」岩波文庫 二〇一三年)
ここで「肉体的魅力に基づかないかぎり真に神秘的となる男同士の共感」とある。さらに二人はその「すばらしいベールで他の会食者から隔てられ、保護されていた」。だからといって単純にプラトン的な「愛」へ還元してしまわないようにしよう。或る時、モンテーニュはこう書いた。
「アリストレテスも、すぐれた立法者たちは正義よりも友情にいっそう気をつかった、と言っている」(モンテーニュ「エセー1・第一巻・第二十八章・P.358」岩波文庫 一九六五年)
「正義よりも友情」とある。「友情」を優先せよという意味なのだろうか。それならもうロシアによるウクライナ侵攻が始まった時すでに破られている。世界もまた親ロシア派と親ウクライナ派との両陣営に分裂してしまっている。ところでモンテーニュが持ち出しているアリストテレスの言葉はこの箇所。ただ単なる「愛」とはまた違っていて「親愛・友愛・友情」と呼ばれるものだ。
「国外をあるいてみると、あらゆる人間がいかにお互いに対して家族的で親愛的なものであるかが見られるであろう。また、愛(フィリア)というものは国内をむすぶ紐帯の役割をはたすもののごとくであり、立法者たちの関心も、正義によりもむしろこうした愛に依存しているように思われる。すなわち協和(ホモノイア)ということは、愛(フィリア)に似た或るもののように思われるが、立法者たちの希求するところは何よりもこの協和であり、駆除しようとするところのものは何よりも協和の敵たる内部分裂(スタシス)にほかならない。事実、もしひとびとがお互いに親密でさえあれば何ら正義なるものを要しないのではあるまいか、逆に、しかし、彼らが正しきひとびとであるとしても、そこにやはり、なお愛というものを必要とする。まことに、『正』の最高のものは『《愛》というい性質を持った』それ(フィリコン)にほかならないと考えられる」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第八巻・第一章・P.66~67」岩波文庫)
基本的に「親愛・友情」としての「愛」というものが考えられなければならない。アリストテレスは「多数のひとびとに対して親友たることは不可能である」という。「友たちよ、友というものは一人もいない」と訳されたりする。
「事実、多数のひとびとに対して親友たることは不可能であると考えられなくてはならない」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第九巻・第十章・P.143」岩波文庫 一九七三年)
この「親友関係・友情関係」を道徳的な問いとして見出したのがニーチェ。こう転倒させた。
「『友らよ、友というものはないのだ!』、そう死んでいく賢者は叫んだ。『友らよ、敵というものはないのだ!』ーーー生きている愚者のわたしは叫ぶ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・三七六・P.345」ちくま学芸文庫 一九九四年)
この箇所で言われている「愚者」とはどのような人間なのか。また「賢者」とはどのような人間かが併記されている。
「《愚者のふりする賢者》。ーーー賢者はその博愛心から、時々、興奮したり、怒ったり、喜んだりする《様子を見せる》が、これは、彼の《真の》性質である冷たさや思慮深さが周囲の人たちを傷つけないようにするためである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四六・P.183」ちくま学芸文庫 一九九四年)
道徳というものはたった一つだけしかないのか。そんなことはない。「目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろう」。ニーチェは道徳の複数性・多様性・無意識性に着目する。
「《無意識の徳性》。ーーーある人間が自分で意識しているあらゆる性質はーーーそれも特に、その性質が自分の周囲の人々の目にも目立って明らかなものと本人が前提してかかっている場合にはーーー、彼に熟知されてないか不充分にしか知られていないところの、しかもその繊細さのゆえに鋭い観察者の眼にもつかず全く何も無いかのようにうまくかくされてしまうところの諸性質とは、全然ちがった発展の法則に支配されている。爬虫類(はちゅうるい)の鱗にみられる精妙な彫刻がそうしたものである。それらのものを装飾とか武器とかいったものかのように想像するのは間違いであろう。ーーーなぜといってそれらは顕微鏡を使ってはじめて見られるもの、つまり、似よりの動物たちーーーこれら動物たちに《とっては》それが装飾なり武器なりを意味するかもしれぬーーーには備わっていないほどの人為的に精巧に鋭くされた眼によってはじめて見られるものだからだ!われわれの眼に見える道徳的な諸性質、とくに眼に見えると《信じられた》われわれの諸性質は、それ自体の行路を辿る。ーーー他方、われわれにとって他人目当ての装飾でも武器でもないところの、目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろうし、またおそらくは神妙不可思議な顕微鏡を手にした神を楽しますようなさまざまの条線や繊細性や彫刻などをかねそなえた行路であるだろう。たとえばわれわれは、われわれの精励、われわれの名誉心、われわれの炯眼をもっている。世間がみなそれについて知っているーーー、そのほかにさらにわれわれは恐らく、もう一種の《われわれの》精励、《われわれの》名誉心、《われわれの》炯眼をもっているのだ。だがわれわれのこういう爬虫類的鱗に対しては、いまだに顕微鏡が発明されていない!ーーーさてこそここで本能的徳性の愛好者たちは言うであろう、『ブラボー!彼は少なくとも無意識の徳性が可能であると思っている、それがわれわれを満足させる!』。ーーーおお満足屋の諸氏よ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・八・P.70」ちくま学芸文庫 一九九三年)
次の文章は親友とは何かというより「親友関係が成り立つ」ためには非常に高度な技術を要するという、ニーチェの立場的条件を述べたものだ。
「《親友関係》。ーーー親友関係が成り立つのは、相手を非常に、しかも自分自身よりも敬重する場合、また同様に相手を愛しはするが、しかし自分自身を愛するほどにではない場合、そして最後に、お互いつき合いしやすくするために、親密さを装う、ものやわらかな《うわべ》と柔毛(にこげ)を添えていることを心得ていて、しかも同時に、ほんとうの親密さには陥らぬようまた私と君の混同に陥らぬよう、賢明な用心がなされる場合である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四一・P.181」ちくま学芸文庫)
その事例として「マケドニアの王様の物語」を上げている。古代には社会的規模で「友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされた」という前提条件が強調されている。目を通してみると、「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度はなるほど立派であるけれども、それ以上に立派な精神的態度として認められている「友情」に関して、その哲学者は王の側からの贈与を送り返した。王がその哲学者と結びたかったのは「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度」を知ったからで、それなら是非「友情」面で親交を深めたいと考えたがゆえの贈与だった。ところが哲学者の側は理由一つ聞くことなく贈り物を送り返してきた。王の側は誤解をおそれず贈り物したわけだが、贈り物の意味も問われないまま送り返されたため、その真意を伝えることができなかった。そうなると王としては最も高い精神的態度とされている「友情」を結ぶことを理由を尋ねられることなしにいきなり切り捨てられたと思うのは仕方のない成り行きだった。
「《友情を讃えて》。ーーー古代にあっては、友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされたこと、ーーーこの事実を実によく言いあらわしているのは、例のマケドニアの王様の物語であるが、この王は、世を白眼視するアテナイのある哲学者に一タレントを贈ったのに、それを送り返されたそうだ。『どうしたことだ?ーーーと王は言ったーーー彼は友人なんか要(い)らんとでもいうのか?』。王の言わんとする主旨はこうだ。『予は、賢にして独行する者のこの自尊自恃に敬意を表する、だが彼の心内の友人が、彼の自尊自恃に打ち勝ったのだったら、予はさらに高く彼の人間性に敬意を表するであろう。この哲学者は、二つの最高の感情の一つをーーーしかもより高い方のものを知らないということを示したことにより、予の軽蔑をかう羽目になったのだ!』」(ニーチェ「悦ばしき知識・六一・第二書・P.137」ちくま学芸文庫 一九九三年)
恋愛関係の構築・維持でさえ困難を伴うというのに、よりいっそう困難な「友情・親愛・友愛」に至ってはまるで必要ないという態度を見せつけられれば逆に、贈与した側が王であれ名もなき市民であれ、軽蔑されたと思うのは偽らざる心情だろう。なので理由一つ聞かず告げられもせず一方的に贈り物を贈り返された王の側が今度はその哲学者とその精神的態度とをいっぺんに軽蔑する経過をたどった。古代ギリシア時代の精神的ありかたとしては自然の成り行きに違いない。だがただ単に偏屈な哲学者の態度を揶揄しようとしてこんな小話のような逸話をニーチェがわざわざ出してくるわけがない。ニーチェが言おうとしているのは第一に「友情・親愛・友愛」という人間関係の構築・維持がどれほど困難を極める至上の技術を要するかということ、第二にこのような史上の技術の実現のためには「新しい哲学者」の出現に賭ける精神的態度の必要性である。「悦ばしき知識」に出てくる有名な一節。
「《船に乗れ!》。ーーーその人流儀の生き方や考え方に関する哲学的な全般的是認が、それぞれの人にどういう影響を及ぼすか(ーーーすなわち温め祝福し実らせつつ特別にその人を照らす太陽のように)、また、そうした是認は、どんなに人を毀誉褒貶(きよほうへん)から自由にし、自足させ、豊かにし、幸福や好意を恵む上で気前よくさせるか、また、それはどんなに絶えまなく悪を改造し、あらゆる力を開花・成熟させ、大小とりまぜての怨恨や不機嫌の雑草を皆目生ぜしめないようにするか、ーーーそうしたことを考えると、とうとうわれわれは待ちきれなくなって叫びを上げるのだ、ーーーおお、もっと多くのそういう新しい太陽が創造されたらいいのに!悪人も、不幸者も、例外人も、自分の哲学、自分の正当な権利、自分の太陽の光を持つべきだ!彼らに同情する必要などはない!ーーーこれまで永いこと人類は同情というやつを覚えこみ、それの稽古をつんできたけれども、そうした高慢不遜の思い付きをわれわれは忘れ去らねばならぬ、ーーー彼らのために聴罪師も調伏師も赦罪師(しゃざいし)も設けてやる必要はない!彼らに必要なのは、むしろ、一つの新しい《正義》なのだ!また、一つの新しい解決なのだ!さらには、新しい哲学者たちなのだ!道徳的地球だって円い!道徳的地球だってその対蹠人をもっている!対蹠人にだって生存の権利がある!さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が!船に乗れ、君ら哲学者たちよ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第四書・二八九・P.310」ちくま学芸文庫 一九九三年)
「一つの新しい《正義》」、「一つの新しい解決」、「新しい哲学者たち」、「さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が」見出されなくてはならない、出現しなくてはいけない、もはや「神は死んだ」からである。そういう主旨を汲み取る必要性を感じさせずにはおかない。唯一絶対的な「神」ではなくより多くの、無数の、どんどん更新されていくだけでなく同時にたくさんの世界を発見しようではないかとニーチェはいう。そこで差し当たり求められるべきは「友情・親愛・友愛」と呼ばれているものがそれに相当するだろうと。なぜなら、やや長い文章なのだがニーチェは「愛」という行為は実のところなんなのかという問いに深い疑いを抱いていたからである。それは多少なりとも強制的かつ暴力的でエレガンス一つない「所有欲」の別名にほかならないのではないかと。
「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者──この衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者──の立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)
としてニーチェは「かなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承」を呼びかける。「この愛の本当の名は《友情》である」と。
ところでサン=ルーは<私>を褒めたたえようとする余り、エルスチール、バルザック、スタンダールたちの名を並べ立てる。
「おそらく友人たちを前にして私を褒めたたえるのが嬉しくて有頂天になり、いっそう欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのか、極端に饒舌になったサン=ルーは、まるで一着でゴールした馬でも讃えるように、くり返し私を褒めちぎった。『きみは、ぼくの知るかぎり、いちばん頭のいい男だ』。そう言って、さらにこうつけ加える、『エルスチールと並んでね。そう言われたって、どうだい、悪い気はしないだろ?きみにはわかるはずだから、厳密に言うんだ。きみにそう言うのは、たとえれみればバルザックに、あなたは今世紀でもっとも偉大な小説家です、スタンダールと並んで、と言うようなものだ。できるだけ厳密に言うとそうなるわけで、きみにはわかるだろ、要するに絶賛してるんだよ。違うかい?スタンダールじゃ、気に入らないかい?』と訊ねるが、私の評価を素朴に信頼しているにちがいなく、そんな信頼は、緑色の目にうかぶ子供っぽく、にこやかで、魅力的な問いかけにあらわれていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.228~229」岩波文庫 二〇一三年)
思いも寄らぬ展開に<私>はうろたえる。スタンダール?再評価の機運に乗っていた時期に当たり知らない者のない「名」だ。<私>は何か言わなければならない。窮地に追い込まれたも同然だ。だが興奮状態の部屋の中では文学論のみならず音楽論の一つも続く可能性さえ十分考えられる。読者はおそらくそう思いながら活字を追うに違いない。しかしよく知られているように音楽はもっと後に、絵画だけでは間に合わず途切れてしまいそうなところから飛翔するのだ。今は二十世紀の経験を予備的に思い出しておこう。ドゥルーズ=ガタリから。
「冶金術が音楽と本質的な関係にあるのは、ただ単に鍛冶屋のたてる騒音のためではなく、両者を貫く傾向、つまりたがいに分離された形相を超えて形相の連続展開を際立たせ、変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させるという傾向のためである。拡大された半音階法が音楽と冶金術を同時に突き動かしている。音楽家としての鍛冶屋は最初の『変形者』である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・12・遊牧論/戦争機械・P.128」河出文庫 二〇一〇年)
この「変形者」は英語でいう“transformer”(トランスフォーマー)。生成変化させるもののこと。変化の様相は「変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させる」点にあり、「拡大された半音階法」というのは例えば電子音楽(実験的テクノ音楽など)を用いて教科書的な諸コードの連続性から逸脱し、電子音楽による意味の不在のうちに常に変形途上を生きることだ。スタンリー・キューブリックによるアントニイ・バージェス原作「時計じかけのオレンジ」映画化に伴いウォルター・カーロスがベートーベン「交響曲第九番・歓喜の歌」を編曲挿入し、原曲の持つ重々しい息苦しさから解き放つとともに無邪気かつ不気味なキューブリック流ユーモアによって長いあいだ「歓喜の歌」が持たされてきた余りにも危険な全体主義的統一性を脱臼させることに成功した。
映画「時計じかけのオレンジ」からウォルター・カーロス編曲「歓喜の歌」
次にシューマン「クライスレリアーナ」。この場合のトランスフォーマーは誰なのか。シューマン自身がすでに分裂的(スキゾフレニック)。またシューマン初期作品群に技術的困難はない。ところがそんなシューマン初期作品群に顕著な分裂的(スキゾフレニック)な要素を何一つけれん味なしで弾き切っているのは意外かもしれないがホロヴィッツではないかと思われる。
シューマン「クライスレリアーナ」(ピアノ:ホロヴィッツ)
またモーツァルトを弾くグレン・グールドはどうだろう。ドゥルーズ=ガタリはいう。
「グレン・グールドがある曲の演奏速度を早めるとき、彼は単にヴィルトゥオーソとしてそうしているのではなく、音楽上の点を線に変容させ、集合を増殖させているのである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.26」河出文庫 二〇一〇年)
グールドもまた速度における<速さ><遅さ>によって歴然たるトランスフォーマーというべきだ。
モーツァルト「ピアノ・ソナタ集」(ピアノ:グレン・グールド)
「音楽はみずからの逃走線の数々を、そのまま『変形する多様体』としてたえず成立させてきた。たとえ音楽というものを構造化し樹木化している諸コードをくつがえすことになっても。だからこそ音楽の形式は、その切断や繁殖にいたるまで、雑草に、またリゾームに比べることのできるものである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.32~33」河出文庫 二〇一〇年)
画家エルスチール、音楽家ヴァントゥイユ、作家プルースト。だがしかし<私>とは何なのか。
BGM1
BGM2
BGM3
「そんな会食の一夜、私はブランデ夫人にまつわる滑稽な話をみなに聞かせたくなったが、話し出したとたんに口をつぐんだ。すでにサン=ルーがその話を知っていて、ここに着いた翌日、私がその話をしようとしたところそれをさえぎって『その話はすでにバルベックで聞かされたよ』と言ったことを想い出したからである。そんなわけで私は、サン=ルーが今度は話をつづけるよう促したうえ、その話は知らない、きっと気に入るだろう、と言ったことに仰天した。『ど忘れだよ、すぐにあの話だってわかるから』と言っても、『とんでもない、絶対にきみの勘違いだ。きみからそんな話は一度も聞いたことがない。さあ、つづけたまえ』と答える。そして私の話のあいだじゅう、サン=ルーは熱心に、うっとりしたまなざしをかわるがわる私と友人たちに注ぐのだ。みなが笑い転げるなかで話し終えた私は、ようやくそのとき、サン=ルーはこの話を聞けば友人たちが私の機知を高く評価するだろうと考えて知らないふりをしたことを悟った。友情とは、そのようなものである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.222~223」岩波文庫 二〇一三年)
謎めいているのはその技術だろうか。そうではなくプルーストのいう「友情」ではないだろうか。次の文章を見よう。
「三度目の夜、私は、サン=ルーの友人のなかで最初の二度の会食のときには話す機会のなかったひとりが、私と長々と語り合ったあと、小声でサン=ルーに楽しかったと打ち明けるのを小耳に挟んだ。実際、その男と私は、ほとんど会食の初めから終わりまで、目の前にあるソーテルヌ・ワインのグラスを空にするのも忘れるほど夢中で語り合い、そのあいだ、肉体的魅力に基づかないかぎり真に神秘的となる男同士の共感というすばらしいベールで他の会食者から隔てられ、保護されていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.223~224」岩波文庫 二〇一三年)
ここで「肉体的魅力に基づかないかぎり真に神秘的となる男同士の共感」とある。さらに二人はその「すばらしいベールで他の会食者から隔てられ、保護されていた」。だからといって単純にプラトン的な「愛」へ還元してしまわないようにしよう。或る時、モンテーニュはこう書いた。
「アリストレテスも、すぐれた立法者たちは正義よりも友情にいっそう気をつかった、と言っている」(モンテーニュ「エセー1・第一巻・第二十八章・P.358」岩波文庫 一九六五年)
「正義よりも友情」とある。「友情」を優先せよという意味なのだろうか。それならもうロシアによるウクライナ侵攻が始まった時すでに破られている。世界もまた親ロシア派と親ウクライナ派との両陣営に分裂してしまっている。ところでモンテーニュが持ち出しているアリストテレスの言葉はこの箇所。ただ単なる「愛」とはまた違っていて「親愛・友愛・友情」と呼ばれるものだ。
「国外をあるいてみると、あらゆる人間がいかにお互いに対して家族的で親愛的なものであるかが見られるであろう。また、愛(フィリア)というものは国内をむすぶ紐帯の役割をはたすもののごとくであり、立法者たちの関心も、正義によりもむしろこうした愛に依存しているように思われる。すなわち協和(ホモノイア)ということは、愛(フィリア)に似た或るもののように思われるが、立法者たちの希求するところは何よりもこの協和であり、駆除しようとするところのものは何よりも協和の敵たる内部分裂(スタシス)にほかならない。事実、もしひとびとがお互いに親密でさえあれば何ら正義なるものを要しないのではあるまいか、逆に、しかし、彼らが正しきひとびとであるとしても、そこにやはり、なお愛というものを必要とする。まことに、『正』の最高のものは『《愛》というい性質を持った』それ(フィリコン)にほかならないと考えられる」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第八巻・第一章・P.66~67」岩波文庫)
基本的に「親愛・友情」としての「愛」というものが考えられなければならない。アリストテレスは「多数のひとびとに対して親友たることは不可能である」という。「友たちよ、友というものは一人もいない」と訳されたりする。
「事実、多数のひとびとに対して親友たることは不可能であると考えられなくてはならない」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第九巻・第十章・P.143」岩波文庫 一九七三年)
この「親友関係・友情関係」を道徳的な問いとして見出したのがニーチェ。こう転倒させた。
「『友らよ、友というものはないのだ!』、そう死んでいく賢者は叫んだ。『友らよ、敵というものはないのだ!』ーーー生きている愚者のわたしは叫ぶ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・三七六・P.345」ちくま学芸文庫 一九九四年)
この箇所で言われている「愚者」とはどのような人間なのか。また「賢者」とはどのような人間かが併記されている。
「《愚者のふりする賢者》。ーーー賢者はその博愛心から、時々、興奮したり、怒ったり、喜んだりする《様子を見せる》が、これは、彼の《真の》性質である冷たさや思慮深さが周囲の人たちを傷つけないようにするためである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四六・P.183」ちくま学芸文庫 一九九四年)
道徳というものはたった一つだけしかないのか。そんなことはない。「目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろう」。ニーチェは道徳の複数性・多様性・無意識性に着目する。
「《無意識の徳性》。ーーーある人間が自分で意識しているあらゆる性質はーーーそれも特に、その性質が自分の周囲の人々の目にも目立って明らかなものと本人が前提してかかっている場合にはーーー、彼に熟知されてないか不充分にしか知られていないところの、しかもその繊細さのゆえに鋭い観察者の眼にもつかず全く何も無いかのようにうまくかくされてしまうところの諸性質とは、全然ちがった発展の法則に支配されている。爬虫類(はちゅうるい)の鱗にみられる精妙な彫刻がそうしたものである。それらのものを装飾とか武器とかいったものかのように想像するのは間違いであろう。ーーーなぜといってそれらは顕微鏡を使ってはじめて見られるもの、つまり、似よりの動物たちーーーこれら動物たちに《とっては》それが装飾なり武器なりを意味するかもしれぬーーーには備わっていないほどの人為的に精巧に鋭くされた眼によってはじめて見られるものだからだ!われわれの眼に見える道徳的な諸性質、とくに眼に見えると《信じられた》われわれの諸性質は、それ自体の行路を辿る。ーーー他方、われわれにとって他人目当ての装飾でも武器でもないところの、目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろうし、またおそらくは神妙不可思議な顕微鏡を手にした神を楽しますようなさまざまの条線や繊細性や彫刻などをかねそなえた行路であるだろう。たとえばわれわれは、われわれの精励、われわれの名誉心、われわれの炯眼をもっている。世間がみなそれについて知っているーーー、そのほかにさらにわれわれは恐らく、もう一種の《われわれの》精励、《われわれの》名誉心、《われわれの》炯眼をもっているのだ。だがわれわれのこういう爬虫類的鱗に対しては、いまだに顕微鏡が発明されていない!ーーーさてこそここで本能的徳性の愛好者たちは言うであろう、『ブラボー!彼は少なくとも無意識の徳性が可能であると思っている、それがわれわれを満足させる!』。ーーーおお満足屋の諸氏よ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・八・P.70」ちくま学芸文庫 一九九三年)
次の文章は親友とは何かというより「親友関係が成り立つ」ためには非常に高度な技術を要するという、ニーチェの立場的条件を述べたものだ。
「《親友関係》。ーーー親友関係が成り立つのは、相手を非常に、しかも自分自身よりも敬重する場合、また同様に相手を愛しはするが、しかし自分自身を愛するほどにではない場合、そして最後に、お互いつき合いしやすくするために、親密さを装う、ものやわらかな《うわべ》と柔毛(にこげ)を添えていることを心得ていて、しかも同時に、ほんとうの親密さには陥らぬようまた私と君の混同に陥らぬよう、賢明な用心がなされる場合である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四一・P.181」ちくま学芸文庫)
その事例として「マケドニアの王様の物語」を上げている。古代には社会的規模で「友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされた」という前提条件が強調されている。目を通してみると、「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度はなるほど立派であるけれども、それ以上に立派な精神的態度として認められている「友情」に関して、その哲学者は王の側からの贈与を送り返した。王がその哲学者と結びたかったのは「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度」を知ったからで、それなら是非「友情」面で親交を深めたいと考えたがゆえの贈与だった。ところが哲学者の側は理由一つ聞くことなく贈り物を送り返してきた。王の側は誤解をおそれず贈り物したわけだが、贈り物の意味も問われないまま送り返されたため、その真意を伝えることができなかった。そうなると王としては最も高い精神的態度とされている「友情」を結ぶことを理由を尋ねられることなしにいきなり切り捨てられたと思うのは仕方のない成り行きだった。
「《友情を讃えて》。ーーー古代にあっては、友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされたこと、ーーーこの事実を実によく言いあらわしているのは、例のマケドニアの王様の物語であるが、この王は、世を白眼視するアテナイのある哲学者に一タレントを贈ったのに、それを送り返されたそうだ。『どうしたことだ?ーーーと王は言ったーーー彼は友人なんか要(い)らんとでもいうのか?』。王の言わんとする主旨はこうだ。『予は、賢にして独行する者のこの自尊自恃に敬意を表する、だが彼の心内の友人が、彼の自尊自恃に打ち勝ったのだったら、予はさらに高く彼の人間性に敬意を表するであろう。この哲学者は、二つの最高の感情の一つをーーーしかもより高い方のものを知らないということを示したことにより、予の軽蔑をかう羽目になったのだ!』」(ニーチェ「悦ばしき知識・六一・第二書・P.137」ちくま学芸文庫 一九九三年)
恋愛関係の構築・維持でさえ困難を伴うというのに、よりいっそう困難な「友情・親愛・友愛」に至ってはまるで必要ないという態度を見せつけられれば逆に、贈与した側が王であれ名もなき市民であれ、軽蔑されたと思うのは偽らざる心情だろう。なので理由一つ聞かず告げられもせず一方的に贈り物を贈り返された王の側が今度はその哲学者とその精神的態度とをいっぺんに軽蔑する経過をたどった。古代ギリシア時代の精神的ありかたとしては自然の成り行きに違いない。だがただ単に偏屈な哲学者の態度を揶揄しようとしてこんな小話のような逸話をニーチェがわざわざ出してくるわけがない。ニーチェが言おうとしているのは第一に「友情・親愛・友愛」という人間関係の構築・維持がどれほど困難を極める至上の技術を要するかということ、第二にこのような史上の技術の実現のためには「新しい哲学者」の出現に賭ける精神的態度の必要性である。「悦ばしき知識」に出てくる有名な一節。
「《船に乗れ!》。ーーーその人流儀の生き方や考え方に関する哲学的な全般的是認が、それぞれの人にどういう影響を及ぼすか(ーーーすなわち温め祝福し実らせつつ特別にその人を照らす太陽のように)、また、そうした是認は、どんなに人を毀誉褒貶(きよほうへん)から自由にし、自足させ、豊かにし、幸福や好意を恵む上で気前よくさせるか、また、それはどんなに絶えまなく悪を改造し、あらゆる力を開花・成熟させ、大小とりまぜての怨恨や不機嫌の雑草を皆目生ぜしめないようにするか、ーーーそうしたことを考えると、とうとうわれわれは待ちきれなくなって叫びを上げるのだ、ーーーおお、もっと多くのそういう新しい太陽が創造されたらいいのに!悪人も、不幸者も、例外人も、自分の哲学、自分の正当な権利、自分の太陽の光を持つべきだ!彼らに同情する必要などはない!ーーーこれまで永いこと人類は同情というやつを覚えこみ、それの稽古をつんできたけれども、そうした高慢不遜の思い付きをわれわれは忘れ去らねばならぬ、ーーー彼らのために聴罪師も調伏師も赦罪師(しゃざいし)も設けてやる必要はない!彼らに必要なのは、むしろ、一つの新しい《正義》なのだ!また、一つの新しい解決なのだ!さらには、新しい哲学者たちなのだ!道徳的地球だって円い!道徳的地球だってその対蹠人をもっている!対蹠人にだって生存の権利がある!さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が!船に乗れ、君ら哲学者たちよ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第四書・二八九・P.310」ちくま学芸文庫 一九九三年)
「一つの新しい《正義》」、「一つの新しい解決」、「新しい哲学者たち」、「さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が」見出されなくてはならない、出現しなくてはいけない、もはや「神は死んだ」からである。そういう主旨を汲み取る必要性を感じさせずにはおかない。唯一絶対的な「神」ではなくより多くの、無数の、どんどん更新されていくだけでなく同時にたくさんの世界を発見しようではないかとニーチェはいう。そこで差し当たり求められるべきは「友情・親愛・友愛」と呼ばれているものがそれに相当するだろうと。なぜなら、やや長い文章なのだがニーチェは「愛」という行為は実のところなんなのかという問いに深い疑いを抱いていたからである。それは多少なりとも強制的かつ暴力的でエレガンス一つない「所有欲」の別名にほかならないのではないかと。
「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者──この衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者──の立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)
としてニーチェは「かなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承」を呼びかける。「この愛の本当の名は《友情》である」と。
ところでサン=ルーは<私>を褒めたたえようとする余り、エルスチール、バルザック、スタンダールたちの名を並べ立てる。
「おそらく友人たちを前にして私を褒めたたえるのが嬉しくて有頂天になり、いっそう欣喜雀躍(きんきじゃくやく)したのか、極端に饒舌になったサン=ルーは、まるで一着でゴールした馬でも讃えるように、くり返し私を褒めちぎった。『きみは、ぼくの知るかぎり、いちばん頭のいい男だ』。そう言って、さらにこうつけ加える、『エルスチールと並んでね。そう言われたって、どうだい、悪い気はしないだろ?きみにはわかるはずだから、厳密に言うんだ。きみにそう言うのは、たとえれみればバルザックに、あなたは今世紀でもっとも偉大な小説家です、スタンダールと並んで、と言うようなものだ。できるだけ厳密に言うとそうなるわけで、きみにはわかるだろ、要するに絶賛してるんだよ。違うかい?スタンダールじゃ、気に入らないかい?』と訊ねるが、私の評価を素朴に信頼しているにちがいなく、そんな信頼は、緑色の目にうかぶ子供っぽく、にこやかで、魅力的な問いかけにあらわれていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.228~229」岩波文庫 二〇一三年)
思いも寄らぬ展開に<私>はうろたえる。スタンダール?再評価の機運に乗っていた時期に当たり知らない者のない「名」だ。<私>は何か言わなければならない。窮地に追い込まれたも同然だ。だが興奮状態の部屋の中では文学論のみならず音楽論の一つも続く可能性さえ十分考えられる。読者はおそらくそう思いながら活字を追うに違いない。しかしよく知られているように音楽はもっと後に、絵画だけでは間に合わず途切れてしまいそうなところから飛翔するのだ。今は二十世紀の経験を予備的に思い出しておこう。ドゥルーズ=ガタリから。
「冶金術が音楽と本質的な関係にあるのは、ただ単に鍛冶屋のたてる騒音のためではなく、両者を貫く傾向、つまりたがいに分離された形相を超えて形相の連続展開を際立たせ、変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させるという傾向のためである。拡大された半音階法が音楽と冶金術を同時に突き動かしている。音楽家としての鍛冶屋は最初の『変形者』である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・12・遊牧論/戦争機械・P.128」河出文庫 二〇一〇年)
この「変形者」は英語でいう“transformer”(トランスフォーマー)。生成変化させるもののこと。変化の様相は「変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させる」点にあり、「拡大された半音階法」というのは例えば電子音楽(実験的テクノ音楽など)を用いて教科書的な諸コードの連続性から逸脱し、電子音楽による意味の不在のうちに常に変形途上を生きることだ。スタンリー・キューブリックによるアントニイ・バージェス原作「時計じかけのオレンジ」映画化に伴いウォルター・カーロスがベートーベン「交響曲第九番・歓喜の歌」を編曲挿入し、原曲の持つ重々しい息苦しさから解き放つとともに無邪気かつ不気味なキューブリック流ユーモアによって長いあいだ「歓喜の歌」が持たされてきた余りにも危険な全体主義的統一性を脱臼させることに成功した。
映画「時計じかけのオレンジ」からウォルター・カーロス編曲「歓喜の歌」
次にシューマン「クライスレリアーナ」。この場合のトランスフォーマーは誰なのか。シューマン自身がすでに分裂的(スキゾフレニック)。またシューマン初期作品群に技術的困難はない。ところがそんなシューマン初期作品群に顕著な分裂的(スキゾフレニック)な要素を何一つけれん味なしで弾き切っているのは意外かもしれないがホロヴィッツではないかと思われる。
シューマン「クライスレリアーナ」(ピアノ:ホロヴィッツ)
またモーツァルトを弾くグレン・グールドはどうだろう。ドゥルーズ=ガタリはいう。
「グレン・グールドがある曲の演奏速度を早めるとき、彼は単にヴィルトゥオーソとしてそうしているのではなく、音楽上の点を線に変容させ、集合を増殖させているのである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.26」河出文庫 二〇一〇年)
グールドもまた速度における<速さ><遅さ>によって歴然たるトランスフォーマーというべきだ。
モーツァルト「ピアノ・ソナタ集」(ピアノ:グレン・グールド)
「音楽はみずからの逃走線の数々を、そのまま『変形する多様体』としてたえず成立させてきた。たとえ音楽というものを構造化し樹木化している諸コードをくつがえすことになっても。だからこそ音楽の形式は、その切断や繁殖にいたるまで、雑草に、またリゾームに比べることのできるものである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.32~33」河出文庫 二〇一〇年)
画家エルスチール、音楽家ヴァントゥイユ、作家プルースト。だがしかし<私>とは何なのか。
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