白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・トランス(横断的)<交通=性交>の場所としてのヴェネツィア1

2023年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

こうある。

 

「私の乗ったゴンドラは、小運河をつぎつぎとたどって進んだ」

 

そしてヴェネツィアは運河だらけの資本主義都市である。どういうことか。

 

「私は小運河だ」ということでなくてはならない。<私>は<交通する>のだ。次のように。

 

「私の乗ったゴンドラは、小運河をつぎつぎとたどって進んだ。小運河は、私が進むにつれて、このオリエントの町の曲がりくねった迷路のなかを案内してくれる妖精の不思議な手のように界隈の真ん中に小さな通路をうがち、勝手につけた細い溝のようなその水路で、ムーアふうの小さな窓をもつ高い建物をかろうじて左右に押しわけ、私のために道を設けてくれるように思われた。まるで魔法使いの案内人がロウソクを手に私の行く手を照らしだしてくれるように、小運河は光の射しこむ道をつけて前方にひと筋の陽光を輝かせる。小運河によって切り離されたばかりの密集する哀れな住居は、さもなければぎっしり詰まったひとかたまりを成していたはずで、そこにはいかなる隙間も残されていないように感じられる。その結果、教会の鐘楼や庭のブドウ棚などは、洪水に襲われた町のなかのように、リオのうえに垂直に立っている。しかし、教会といい庭といい、大運河の場合と同様、海がみごとに交通路の役割を果たす転換のおかげで、教会はどれもカナレットの両側に水辺からそびえ立ち、つつましい参拝者の多い教区らしく人口が多くて貧しいこの界隈では、多くの庶民が参拝するその地区になくてはならない特徴をみずから体現しているし、庭にしても、そのなかを運河が横断しているから、水中にまで垂れた木々の葉や果物はびっくり仰天する。建物のへりでは、乱暴に切り離された砂岩は今しがたいきなりノコギリで挽(ひ)かれたかのようにざらざらしていて、そこに腰かけた少年たちがあわてて平衡を失うまいと、両脚を垂直に垂らしてうまくバランスをとるさまは、海の水を導き入れるべく中央でいまや両脚に開いた可動橋のうえに座っている水夫たちを想わせた。ときには行く手に、開けてみると思いがけない贈りものが出てくる箱のように、もっとすばらしい歴史的建造物があらわれる。それは切妻壁に寓意像を掲げたコリント様式の象牙色の小さな神殿で、まわりの日用品事物のあいだに放りだされて、いくぶん居心地が悪そうだ。というのも、われわれがその神殿にどれほどスペースを空けてやろうとしても、運河が神殿のために確保した柱廊は、まるで野菜業者のための荷揚げ用桟橋にしか見えないからである。私は自分が戸外にいる気がせず、なにやら秘密の場所の奥底へしだいに潜入するような印象をいだき、その印象は私の欲望によってなおも募った」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.463~465」岩波文庫 二〇一七年)

 

例えば、「小運河は光の射しこむ道をつけて前方にひと筋の陽光を輝かせる。小運河によって切り離されたばかりの密集する哀れな住居は、さもなければぎっしり詰まったひとかたまりを成していたはずで、そこにはいかなる隙間も残されていないように感じられる」。

 

それこそ一九八〇年代後半の日本の「釜ヶ崎」を中心とする「水の都=大阪」の原型でないと一体誰にいえようか。

 

さらに、「教会といい庭といい、大運河の場合と同様、海がみごとに交通路の役割を果たす転換のおかげで、教会はどれもカナレットの両側に水辺からそびえ立ち、つつましい参拝者の多い教区らしく人口が多くて貧しいこの界隈では、多くの庶民が参拝するその地区になくてはならない特徴をみずから体現しているし、庭にしても、そのなかを運河が横断しているから、水中にまで垂れた木々の葉や果物はびっくり仰天する」。

 

現在の大阪湾のことだろうか。それとも横浜港のことだろうか。あるいは東京湾ならもっとわかりやすいに違いない。

 

エルスチールはいう。

 

「『なにしろその画家たちが制作をした町が町だけに、描かれた祝宴も一部は海上でくり広げられましたからね。ただし当時の帆船の美しさは、多くの場合、その重々しく複雑な造りにありました。こちらで見られるような水上槍競技もありましたが、ふつうはカルパッチョが<聖女ウルスラ伝>で描いたようになんらかの使節団の歓迎行事として開催されたものでした。どの船もどっしりと巨大な御殿を想わせる建造物で、深紅のサテンとペルシャの絨毯とにおおわれた仮説橋で岸につながれていて、船のうえでは婦人たちがサクランボ色のブロケード織りや緑色のダマスク織りの衣装を身にまとい、すぐそばの極彩色の大理石を嵌めこんだバルコニーから身を乗り出して眺めているべつの婦人たちが真珠やギピュールレースを縫いつけ白のスリットを入れた黒い袖のドレスを着ているときには、船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさまです』」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.544~545」岩波文庫 二〇一二年)

 

「船はほとんど水陸両用かと思えて、ヴェネツィアのなかにいくつもの小さなヴェネツィアが出現した観があります。どこで陸が終わり、どこから水面が始まるのか、どこがまだ宮殿なのか、それともすでに船で、キャラベル船や、ガレアス船や、ブチントロ船にいるのか、見当もつかないありさまです」

 

位置決定不可能性。ドゥルーズ=ガタリはいう。

 

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)

 

また今の日本のマス-コミ(ほぼすべての新聞・テレビ番組)が、日本の加速的全体主義化を隠蔽するために用いている技術について。単純素朴な二元論では語りきれなくなっているのはなぜか。

 

「現代の権力の作用は、『抑圧あるいはイデオロギー』という古典的な二者択一にはとうてい還元されず、言語、知覚、欲望などを対象にし、ミクロのアレンジメントを通過する規格化、変調、モデル化、情報といった手続きを内包していることは最近強調されたばかりだ。それは服従化と隷属化を同時に含む集合であり、両者はたがいに強化しあい補給しあうのをやめない二つの共時的部分として極端に突き進められる。たとえば人々はテレビに服従している。言表の主体を言表行為の主体と取り違えるという特殊な状況の中でテレビを使用したり消費しているからである(『視聴者のみなさん、番組を作るのはあなたですーーー』)。技術機械はここで、言表の主体と言表行為の主体という二つの主体のあいだの媒介となっている。しかし人々は人間機械としてテレビに隷属するのである。テレビ視聴者がもはや使用者や消費者ではなく、機械に属する『入口』や『出口』、《フィードバック》または循環として、内在的な部品となるからである。機械状隷属においては変形と情報交換しかなく、これらの作用の一項が機械であり、他項が人間であるだけである」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・P.218」河出文庫 二〇一〇年)

 

諸外国の軍事的破滅とそのスペクタクルについての報道は日夜どこでも行われている。にもかかわらず、日本にいながら、日本の軍事要塞化についてほとんど報道されないのはなぜか。

 

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成したのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・13・P.234」河出文庫 二〇一〇年)

 

ヴェネツィアで<私>は縦横無尽に張り巡らされた<水路>となってあらゆる場所へトランス(横断的)<交通=性交>の流れへ生成変化するのである。そうして始めてアルベルチーヌのトランス(横断的)<交通=性交>の流れを思わず知らずに肯定しており、その限りで、アルベルチーヌがそうであったように、<私>も一つの<欲望>なのだ。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ46

2023年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月三十日(金)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午後二時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後七時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

食事の食べ残しを見かけることはほぼない。とともに食べる速度も早くなった。元気よく遊ぶ時間帯は朝食後か午後遅く。

 

基本的に飼い主があれこれかまってやるわけだが、飼い主が隣室で休憩しているときなどはけなげに一人遊びしている。遊びたりない時はリビングで「きゃあ」と鳴き声を上げて飼い主の足をとめようとする。初代タマの場合「きゃあ」と言った記憶はほとんどないし、そもそも「きゃあ、きゃあ」鳴かなかった。

 

二代目タマは何をする前にもまず「きゃあ」、ご飯が出てくると「きゃあ」、シリンジで薬を飲ませようとすると「きゃあ」。一つ一つの行動にわざわざリズムを持たせたがってでもいるようだ。でもなぜか水を飲むときばかりはこっそり。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて466

2023年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

昨日と同じく午前五時のキッチンに母はいません。すでに書いた通り六月十四日午後、大津日赤に緊急入院しました。

 

したがって朝のリハビリはまた姿を変えます。当面のあいだ本を開いて、いつ飛び込んでくるかわからない母からか病院からの連絡を待ちつつ、さらに妻の病状に目を配りつつ(特に睡眠が十分に取れているか)、二代目タマの世話をして時間を過ごすことになります。

 

ここまでは同じです。

 

母と電話。

 

今日三十日(金)。血管ポート埋め込み手術成功。午後三時頃の点検ではほぼ痛みはないとのこと。

 

週明けすぐ退院予定。週末は病院自体が休み。だが面会は可能なのでその間に病室に運んだ荷物を今度は搬出する段取りになるだろう。

 

一方、当たり前かもしれないが家族としては読書の時間がほとんど取れない。慢性うつ病者にとって読書はリハビリであり、日々移り変わるうつ状態の度合いを測るバロメーターなので無理はせずとも少しはやりたい。

 

午前五時。抗うつ剤単体ではまったく効かないロングロングロングうつ病者としては、ひとまずレキソタン(抗不安薬)をまとめて4錠、口に放り込む。時間帯によりけりでエバミール(睡眠薬)を1錠追加。前日の眠前に飲んだ抗うつ剤(トリンテリックス)の効きがやや残っている状態。

 

次に猫の食事。しばらく猫と遊んでやる。体が動き始める頃、おもむろに朝のコーヒーをいただく。小青竜湯を抗アレルギー剤として服用。読書はその次。

 

今日は「ユリイカ臨時増刊・大江健三郎」から。

 

(1)雑賀恵子「菊の花弁は増殖しーーー」(『ユリイカ・大江健三郎・P.229~244』青土社 二〇二三年)

 

(2)栗田英彦「『宙返り』する戦後民主主義」(『ユリイカ・大江健三郎・P.245~259』青土社 二〇二三年)

 

(3)成田龍一「大江健三郎の『戦後』をめぐる、いくつかのこと」(『ユリイカ・大江健三郎・P.260~276』青土社 二〇二三年)

 

(4)石川義正「引用と救済」(『ユリイカ・大江健三郎・P.309~316』青土社 二〇二三年)

 

(5)渡邉英理「大江健三郎と中上健次」(『ユリイカ・大江健三郎・P.418~431』青土社 二〇二三年)

 

とりあえず五個。目を通す。

 

参考になれば幸いです。


Blog21・アルベルチーヌからヴェネツィアへ・ハイブリッド=トランス(横断的)性と資本主義

2023年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

日本のマス-コミは自分で自分自身のやっていることがもはや見えていないようだ。<見ない><見せない>の徹底化の危険性が内部に身を置いていてはさっぱり理解できないのとほとんど違わないことを熟知している立場であるにもかかわらず何か言って見せている。かといってマス-コミとまったく接点のないところで生きていくことは誰にもできない。

 

かつて西部邁は「いかなる理由があろうともはや左翼を擁護することはできない」と発言したことがあった。今や市民は「いかなる理由があろうともはやマス-コミを擁護することはできない」と頭を切り換えるべきであろう。

 

そんなわけで、ともかく一般市民として身の安全についてできうる限り有益な情報の収集作業を怠らず、戦争経済依存から抜けられそうにないマス-コミのことなど今はとっとと放って置いて先へ進もうとおもう。

 

アルベルチーヌ<忘却への第三段階としてのヴェネツィア訪問>。

 

忘却あるいは「喪の作業」。ヴェネツィアとコンブレーとが対照的に描かれているとしても、コンブレーの想い出がヴェネツィアまで延びてきたわけではなく、逆にヴェネツィアの風景がコンブレーを想い出させたわけでもまたない。絶え間ない自由連想のように分割不可能で連続的な具合に調子よく出現する記憶など一つもないのである。

 

自由連想から浮かび上がってくる<深層>という観念こそ、フロイト学説最大の<神話(捏造されたストーリー)>であり失敗である。フロイトの発見は<表層/深層>という二元論ではない。そうではなく「夢判断」で明かされている「夢の作業」のように、<表象化>される前の状態というのは支離滅裂な無数の諸断片が圧縮、転移、解体を繰り返し反復するものであり、ニーチェ=プルーストのいう「習慣」の圧力によって無理やり因果関係付けられて始めて意識にのぼってくることしかできないような世界だ。文学愛好家ならダンテ「神曲(地獄篇)」を思い浮かべるかもしれないが。

 

したがってヴェネツィアとコンブレーとの関係も、むしろ両者の間は切断されていて、これまで実際に接続されたことは一度もなかった。二分割された別々の風景が共鳴共振し合うというのが妥当だろう。

 

(1)「サン・マルコ広場のカンパニーレの黄金の天使が光り輝くさま」(ヴェネツィア)

 

(2)「朝の十時に人がやって来て部屋の鎧戸を開けると、私の目にはいるのは、サン=チレール教会のスレート屋根が黒大理石のように輝くさま」(コンブレー)

 

「母に連れられてやって来たそのヴェネツィアでーーー美はどれほど慎ましいものにもどれほど貴重なものにも同様に存在しうるからーーー私はかつてコンブレーでしばしば感じたのとよく似た印象を味わったが、といってもそれは、まるで異なる、はるかに豪華な様式に則って置き換えられた印象である。朝の十時に人がやって来て部屋の鎧戸を開けると、私の目にはいるのは、サン=チレール教会のスレート屋根が黒大理石のように輝くさまではなく、サン・マルコ広場のカンパニーレの黄金の天使が光り輝くさまである。太陽にきらめいて直視できぬほどまぶしく輝くこの天使は、両腕を大きく広げて、私が三十分後にピアツェッタへ出るときのために、かつて善男善女に告げるのを託されていたかもしれない歓びよりもずっと確実な歓びを私に約束してくれた。ベッドに横になっているかぎり私にはその天使しか見えなかったが、世界は大きな日時計にほかならず、陽光を浴びた一断片を見るだけでその時刻がわかるので、私が最初の朝から想いうかべたのは、コンブレーの教会前の広場に面したさまざまな店である。日曜日、私がミサに駆けつけるころ、それらは店を閉めようとしていて、一方で、市場の麦わらは、すでに暑くなった太陽に照らされて強い匂いを放っていた。しかし早くも二日目から、目を覚ました私が想いうかべたもの、私をベッドから起きあがらせたものは(私の記憶と欲望のなかでそれがコンブレーの想い出にとって替わったからだ)、ヴェネツィアではじめて外出したときの印象になった」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.451~455」岩波文庫 二〇一七年)

 

コンブレーで「サン=チレール教会のスレート屋根が黒大理石のように輝くさま」は次の箇所。

 

「サン=チレールの鐘塔こそ、町のあらゆる活動に、あらゆる時刻と視点に、しかるべき形を授け、仕上げの冠を戴かせ、それを神聖なものにしていた。私の寝室から見えるのは塔の基盤部だけで、そこはスレートに覆われている。しかし日曜の夏の暑い朝など、鐘塔のスレート屋根が黒い太陽のように輝くのが見えると、私は『たいへんだ、九時だ!荘厳ミサに行く支度をしなくては。その前にレオニ叔母さんにキスする時間も必要だしーーー』と思うのだが、教会前の広場にさす陽の光がどんな色合いなのか、そこに立つ市(いち)がどれほど暑くてほこりっぽいか、店の日除けがそこにどんな影を落としているか、すべて正確にわかる」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.152」岩波文庫 二〇一〇年)

 

(1)が先か(2)が先かという問いははなはだしく無意味である。今や<私>にとって(1)と(2)とは互いに呼び寄せ呼び合う共鳴共振の関係にある。それが例えば「顔」だとするなら、前回「オデットの顔」を取り上げた際に述べたように、<顔/音楽/絵画>が同時に共鳴共振し合う重層性を出現させるだろう。

 

ところがヴェネツィアは、ただ単なる<制度としての顔とその崩壊>では到底済まされない新しい切断の場所として出現するのである。アルベルチーヌがいつもハイブリッド=トランス(横断的)性/生を生きていたように、アルベルチーヌの忘却は<私>にとってヴェネツィアがハイブリッド=トランス(横断的)資本主義的大都市であることを条件として、それとの避けられない遭遇を引き換えに成就されるほかない。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ45

2023年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年六月二十九日(木)。

 

朝食(午前五時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

昼食(午前十一時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

夕食(午後八時)。ヒルズの流動食(回復期ケア・チキン・a/d)3グラムにニュートロの室内猫用キトンチキン(生後12ヶ月まで)五十粒とヒルズのカリカリ(キトン12ヶ月まで まぐろ)五十粒を混ぜたものを餌皿で摂取。

 

快調に走り回る。昼寝の場所を確保するのも早くなった。とてものびのびしている。ただ、走り回る時の足音がだんだんしっかりしてきていて、子猫は子猫だが、最初の手乗り子猫とでもいうような幼い面影の時期は去った。

 

Of what in other worlds shall be―and given

In beauty by our God,to those alone

Who otherwise would fall from life and Heaven

Drawn by their heart’s passion,and that tone,

That high tone of the spirit which hath striven,

Tho’not with Faith―with godliness―whose throne

With desperate energy ‘t hath beaten down,

Wearing its own deep feeling as a crown. 

 

「それはおそらく他の世界に属しーーーわれらの神が 美を通して

孤独な人々に与えるものの 象徴であり暗号なのだ。

それがなければ その人々は人生からも天国からも落伍したはずだ。

内にひそむ熱情にひきずられ 心の高揚のまにまに

信仰はさておいても 神聖なものにあらがってきた彼らは

その王座を 絶望的な力をふるって

すでに打ち倒してしまったのだ、

おのれん深い感覚を王冠としていただいて」(ポオ「スタンザ」『詩と詩論・P.40』創元推理文庫 一九七九年)