女性の中へ内在化され起動し働く「男目線」。
映画「ブレインウォッシュ」が問いかけるもの。
「紹介された作品の中に、職場での悪質なセクハラを訴える映画があった。その中で主人公の女性は勤め先の男性会長と2人きりの場で、スカートを捲し上げるように圧をかけられる。カメラは彼の視点に切り替わり、その女性が怯える様、観念してスカートを恥ずかしがりつつたくしあげ、しまいにはパンツまで見せるところをしっかりと捉えている。悪徳会長を喜ばせた、その視界の再現である。これは一体、何のためのシーンなのか?と『ブレインウォッシュ』は問う。
これを目にして私は途端に頭を抱えた。自分はこれまでに、男女の非対称からくる不条理、多くは女性が被ってきたそれを何度も描いてきた。レイプ犯罪の卑劣さを訴える漫画も描いた。しかしその中で、少しでも男性を喜ばせる(つまり男性視線を内在させた女性をも性的に喜ばせる)ような演出をしなかった、と言えるだろうか?
私は身体を犯される人を描く時、無自覚に女の体のセクシーさを表現しようとはしなかったか?または無力からくる表情に、性的な魅力を湛えさせなかったか?」(鳥飼茜「わたしたちは愛とロマンから逃げ切れるか?」『群像・9・P.209~210』講談社 二〇二四年)
鳥飼茜は「男女の非対称からくる不条理」と言う。ところが逆説的に「不条理の条理化」も現在進行中である。これまでの鳥飼茜自身、不条理を告発しようとする漫画自体が「不条理の条理化」に一役買ってきた自覚がある。自覚のあるなしは途方もなく大きい。
気づくとはどういうことか。ただ単に心の中でぼんやり思っているだけでも随分違うわけだが、ともすれば日常生活のせわしなさや場の勢いに紛れ込んでしまい、せっかくの気づきが無効化される場合の側が極端に幅を利かせているのが実情だ。そこでひとつの選択肢に「断絶」がある。
「私たちは女でありながら、愛とロマンの名の下、映像によって女を消費する目線をとてつもなく自然に受け入れてきた。気付かないうちに飲み込んだ無数の無理がたたって心に負荷を感じるようになるのは、そのずっと後なのである。
父もまた熱心な映画少年であった。そしてその娘である私は父の目線を素直に受け継いだ。そして大人になったのち、目線と自我の間で起きた葛藤は大変なものであったし、未だ人間関係を侵害すらしている。そして父親とは、私の意思で断絶している」(鳥飼茜「わたしたちは愛とロマンから逃げ切れるか?」『群像・9・P.210』講談社 二〇二四年)
自己批判から新しい出発への不可避性についてこう述べる。
「女性にも、内面化された男性の眼差しに沿ってエンターテイメントを享受し、自らも見られる性として振る舞うこと、またそれにより、価値ある男性の力強さと権力(これもまた、映画により植え付けられてきた男性の眼差しの一側面である)に守られることを喜びとしてきた部分がある。
しかし社会がそれなりに成熟した今、そんなごっこ遊びも破綻しつつあるのだろう。
『ブレインウォッシュ』のような作品が作られたこともその現れであり、その他にも作品によっては無自覚的短絡的に女性を消費、支配する眼差しを排除しようとしている作家も出てきているようである」(鳥飼茜「わたしたちは愛とロマンから逃げ切れるか?」『群像・9・P.210~211』講談社 二〇二四年)
そもそも他者の眼差しの「内在化・内面化」を大々的に告発したフーコー「監獄の誕生」日本語訳出版は一九七七年。要点を絞って並べてみる。
(1)「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能ーーー閉じ込める、光を絶つ、隠すーーーのうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.202」新潮社 一九七七年)
(2)「その結果としてまず第一にーーー消極的な効果としてだがーーー幽閉の施設のなか、ゴヤによって描かれハワードによって記述された、そうした場所のなかにかつて見出された、あの多数の人々が密集し、うごめき、騒がしかった状態は回避できる。今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉じ込められ、しかもそこでは監視者に正面から見られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接触をもつわけにはいかない。見られてはいても、こちらには見えないのであり、ある情報のための客体ではあっても、ある情報伝達をおこなう主体にはけっしてなれないのだ。中央の塔に向きあう自分の個室の配置によって、各人は中心部からの可視性を押しつけられるが、しかし円環状の建物の内部区分たる、きちんと分離された例の独房は側面での不可視性を予想させる。しかもその不可視性は秩序によって保証されるのである。で、閉じ込められる者が受刑者であっても、陰謀や集団脱獄の企てや将来の新しい犯罪計画や相互の悪い感化などが生じる懸念はない。病者を閉じ込めても感染の心配はなく、狂人の場合でも相互に狂暴になる危険はないし、子供の閉じ込めであっても、他人の宿題などをひき写す不正行為も、騒ぎも、おしゃべりも、盗みも、共同謀議も、仕事の遅れや不完全な仕上がりや偶発事故をまねく不注意も起こらない。密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群衆が解消されて、そのかわりに、区分された個々人の集まり〔という新しい施設〕の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調整が可能で取締りやすい多様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われる」(フーコー「監獄の誕生・P.202~203」新潮社 一九七七年)
(3)「権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。監視が、よしんばその働きの中断があれ効果の面では永続的であるように、また、権力が完璧になったためその行使の現実性が無用になる傾向が生じるように、さらにまた、この建築装置が、権力の行使者とは独立した或る権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たる或る権力的状況のなかに組み込まれるように、そういう措置をとろう、というのである。そうであるためには、囚人が監視者にたえず見張られるだけでは充分すぎるか、それだけではまったく不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.203」新潮社 一九七七年)
(4)「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)
他者の眼差しを内在化した人間はもはや「現実には監視される必要がない」。
「充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」
年齢性別人種国籍に関係なく放っておいても「男目線」が内在化されている。その限りで厳重に「監視」しておくための収容所などというものはもう必要ない。短期間で内在化された「男目線」から逸脱してしまわないか、自分で自分自身を見張りながら日常生活を送るほど骨の髄まで侵食されているのが常だ。
「それは権力を自動的なものにし、権力を没人格化する」
日本で話題の総裁選。与党も野党も変わり映えしない面々ばかり。候補者の姿形はテレビ画面に映し出されているけれどもその「人格」はおそらくどの候補者もほとんど空虚に等しい。
人格否定という行為は厳しく責め立てられる。ところが今や否定するしないにかかわらず、あまりに空虚な人間、ほとんど自動機械と化した人格ばかりがうろつくようになった。さらに打ち出される言葉は打ち出されれば打ち出されるほどかえって空転の度を増すばかり。
ところで昨今急速に増えたのがいわゆる左派の論客たちによるトランス・ジェンダー差別である。しかもそこそこ名のある論客たち。共通するのは気づきのなさ、自覚のなさ。「トランス男性はこういうもの(犯罪者予備軍)だ」という眼差しを内在化してこれっぽっちも疑っていない。呆れる。
もっともその中には、実は事情をわかっていてあえてトランス差別発言を繰り返している論客もいると思われる。関西圏では問題視されているけれどもなぜか首都圏では逆に左派によるトランス差別が肯定的に受け止められるというおかしな現象が露呈してきた。
女性作家の笙野頼子は以前から大々的にトランス差別発言を繰り返していて有名だが、このところ見かける名前は「おやっ」と意外なものが少なくない。しかもフーコーやドゥルーズを読んできた専門的な人々までその輪の中に入っているのには驚く。
たとえ大きな政治政党ではなくても例えば革共同系中核派の中で一般的に大きな組織力のある中央派に属する東京都の女性区議会議員は、女性にも男性にも人気のようだが何より議員の位置を占めたことでこれまでの中核派とは異なるいわゆる大衆迎合路線に転換した可能性を排除できない。こういう戦略はマイナーであれ地道な対抗軸を維持継続していく方針とは真逆の自殺行為にほかならない。ともすれば「華青闘の告発」を思い起こさせる。