対談に目を通していてそういうことは珍しくないのではと思うことはよくある。しょっちゅうある。
「行動力の話ともかかわるんですが、『世界の適切な保存』の途中までは、自分とすごくシンクロしているなという仲間意識で読むんだけど、そのシンクロが終わったのが、ブローティガンの『西瓜糖の日々』が出てくる場面です。僕も『西瓜糖の日々』が好きだから、うれしいなと思ったら、その後、『西瓜糖の日々』の中に出てくる場所から釜ヶ崎の現場の話に飛ぶ。本から現実へ。そこで自分と決定的に違う永井さんを感じました」(穂村弘✖️永井玲衣「この世界のポテンシャル」『群像・10・P.224』講談社 二〇二四年)
穂村弘と永井玲衣とが最後まで「シンクロ」し合ったとしたら、むしろそっちのほうが怖い。おぞましい。というのもどちらが良い悪いといった善悪の問題ではまるでないということが前提だろうと思うからだ。
もし両者ともまったく同一だとしたらまず対談の意味が失われるだろう。それだけなら読者にとっては読書の中だけで完結できてしまう出来事で済むけれども、読者の側の日常生活のリアルは少しも完結しないどころか、このところ日に日に増えてきた現実問題がまたしても瞬時に襲いかかってくるほかないという点でスリリング過ぎる。
例えば何かの打ち合わせで十人のうち九人が笑い残る一人は笑わなかったとしよう。メタレベルでそれを見ている管理者の位置に立つと、笑った九人は同一の感受性でひとまとめにしえしまえるから一人だけ残せばいいし、笑わなかった一人はまた違った感受性の持ち主だろうから同時に消去してしまうわけにはいかないわけで、一方のひとりともう一方のひとりとの二人だけを残して後の八人は解雇なり排除なりするのが合理的だと考えるに違いない。
ところが対談で両者の感性の違いが行動様式の違いをも示す地点へ達しているため、話の脈略は前後するが、そうして始めて「対談」するに値する価値が生じてくる。少なくとも読者としてはそう感じる。そして最後まで読んだところでその「価値」を受け取る。それでいいじゃないかと思うわけである。
永井玲衣はいう。
「私は放っておくと布団の中にずっといるから、自分をある程度突き飛ばしていかないと、辛抱ならないみたいなところもあって。でも、穂村さんも、表現をするというのは自分をそっちに突き飛ばしていくことじゃないんですか」(穂村弘✖️永井玲衣「この世界のポテンシャル」『群像・10・P.226』講談社 二〇二四年)
だと思う。穂村弘の返事が面白い。
「いや、部屋の中でキーボードを打つぐらいは誰でもできるんじゃない?」(穂村弘✖️永井玲衣「この世界のポテンシャル」『群像・10・P.227』講談社 二〇二四年)
この「緩さ」。読者は穂村弘の返事の「緩さ」にずっこけつつ「そうだよなあ、うんうん」としみじみ頷きもする。
ところで言葉の暴力性について。
どんな言葉もまるきり「ちから」を帯びていない言葉というものはない。身体の言葉はしばしばごつごつした「こわもて」なものがあるのでわかりやすいけれども、言葉の身体は時に身体の言葉を上回り黙り込ませてしまう「ちから」を持つ。
ヒロシマもベトナムもパレスチナも大きく注目されるのは身体の言葉、特に被害者の悲惨な身体(居住地含む)だろうと思われる。けれどもその悲惨さがどれほど悲惨かわかっているだけでなく中止に追い込む巨大なネットワークさえ持っているいわゆる政財界の要人と呼ばれる人々がなぜ言葉の身体を駆使しないのだろうか。中止しようとおもえばいつでもできる人々が、にもかかわらずなぜ痛くも痒くもない言葉しか語ろうとしないのだろう。
そこらへんをうろうろしている世界的に有名な要人にしてみればなるほど戦争は儲かるのでやめられないのかもしれない。そのような態度はほかでもない身体の言葉であるが、としても、では一体そういう態度を大々的に見せつけることで何を「適切」に「保存」したいと思っているのかさっぱりわからなくなってくる。
最新軍事兵器の見本市に注目する人々はいくらでもいるわけだが、そうすることで「適切」に「保存」されるのはますます巨大化する地球規模の荒廃ばかり。
世界的要人の言動の共通点。
自分自身がこの世界に生まれてきたことで何をどう知ったのか、どうしてやりたいと思っているか、日々の報道の断片に接している読者視聴者の側にいるとそこそこ察しはつくにせよ。ーーー地球丸ごとじわじわ破滅させてしまわない限り到底承知できないと、無意識的にでしかほぼ感じ取れない彼らは、自身のルサンチマン(復讐心)をどこまで最大化できるか本気で競い合えるほどのちっぽけさ丸出しで、見ている側をますます悲しくさせることがどうしてそこまで快感なのか、その点にはほとんど察しが及ばないのである。日記を裏側からあるいは逆に読み返してみることもたまには悪くないと思うが。