白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・増殖する「城」の系列/官僚主義的倒錯の被害者

2022年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
長い廊下にいるKの目には整然と二列に並んだそれぞれの部屋のドアがしきりに開閉している様子が見える。書類がどの部屋のどの役人に宛てられたものか。自分に宛てられたものなら当面の間は安心できる。しかしそうでない場合、落胆とともに次の書類の到来とそれが自分宛の書類であることに全力を上げて希望を繋ぎ止めておかなければ今にも窒息しそうな空気が辺りいっぱいに澱んでいる。

「ほかの連中は、不可解なことにこうしてドアのまえに積みあげられたままになっている書類の束をものほしげな眼でのぞいているのかもしれない。ドアをあけさえすれば書類を受けとれるのに、どうしてそうしないのか、解しかねているらしい。書類がいつまでも積んだままにしてあると、あとでほかの連中に分配されるというようなこともあるのではなかろうか。それで、いまからしきりに様子をのぞいては、書類がまだドアのまえにあるかどうか、したがって、まだ自分にも希望があるかどうかを、確かめようというわけなのだろう。おまけに、置いたままになっている書類は、たいてい特別に大きな束だった。これは、ある種の自慢か悪意から、あるいは、同僚を鼓舞しようという正当な自負もあって、しばらくのあいだ置きっぱなしにしているのだろう、とKは考えた。Kにこの仮定をさらに確信させたのは、ときおり(それは、きまってKが見ていないときなのだが)もうたっぷりと見せびらかしたこの書類が突然、しかも、すばやく部屋のなかに引入れられ、それっきりドアはもとのように微動だにしなくなってしまうことであった。すると、周囲のドアも、静かになるのであった。絶えざる魅惑の的であったものがついに片づけられたことにがっかりしたのであろう。それとも、満足したのかもしれない。しかし、ドアは、やがてまた徐々に活動をはじめた」(カフカ「城・P.447~448」新潮文庫 一九七一年)

自分に宛てられた書類が届くか届かないか。自分の署名がまだ必要とされているかどうか。気が気でない不安に怒りおののいている役人たちの気持ちも知らぬげに書類を載せた車は廊下を通過していく。書類は役人たちの関心を一身に集めている。書類は姿形を変えない。けれども役人たちが見せる書類への憧れは嫌が上にも盛り上がりもはや限度を知らない。カフカは書いている。「彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ」。言い換えれば、「一つ一つの書類」は「欲望する<諸断片>」であり、いつもすでにありったけの魅力を発散しながらあちこち移動しているわけである。

「書類を要求する権利があると思いこんでいる役人は、短気を起してぷりぷりし、部屋のなかで大きな物音を立て、手をたたいたり、足を踏み鳴らしては、ドアの隙間から何度も一定の書類番号を廊下にむかってがなりまくる。こうなると、車のほうは、しばしばほったらかしになる。ひとりの従僕は、短気を起してぷりぷりしている役人をなだめにかかり、もうひとりは、あけてもらえないドアのまえで書類を返してもらおうと孤軍奮闘である。ふたりとも、てこずっていた。短気を起している役人は、なだめようとすると、しばしばよけいにぷりぷりしてしまって、もう従僕のお世辞など耳に入れようともしない。彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ」(カフカ「城・P.449」新潮文庫 一九七一年)

断片化された書類について、あえて「欲望する〔リビドーで充満した〕<諸断片>」と述べた。しかしその最高責任者は誰なのか。城はあるし城に出入りする人々もいる。クラムが最高責任者なのか。とすればなぜバルナバスはクラムがほんとうのクラムかどうか疑わざるを得なくなっているのか。バルナバスだけでなく他の役人たちも盛大にクラムについて語って見せはするもののその説明はいたずらに長いばかりでまるで説明になっていない。要するに誰一人クラムについて知らないのではないか。知っていると仮定しても知らないと仮定しても、どちらから入ってみても遂に明確化できないのではないか。クラムの容貌はたちまち溶けて消え失せてしまう。名前だけがモザイクの欠片(かけら)のように宙ぶらりんになって残っている。そしてまた城の機能は城だけで独立しているわけではまるでなく、逆にすべての村民によっても受けもたれている。その限りで責任性の<諸断片>が人間の姿形をとって村中を往来していると言える。

Kの前に不意に現れた責任者らしき人物が次の瞬間にはもう雑踏の中へ消えていったりする。Kがそれを止めようとすると、止めようとするKをさらに止めようとして実際に止めてしまう人物が現れる。その人物の語りを聞いてみると一方でKの関心〔欲望〕を掻き立てておくものでありつつ、もう一方では最後まで聞くに値しないものであることがわかってくる。さらに書類について述べると、書類が欲望するものである以上、その文面上の規則とはまた違った独創性や創作性を書類自身が発揮する。書類に関する<掟>の出現が見られる。しかもなお<掟>の側はその時その時でころころ内容が入れ換わる。だから或る書類を文面上の規則に従って処理した側が孤立し〔Kのケース〕、逆に文面上の規則に従わず無言の<掟>に従って処理した側〔村長たちの系列〕が安楽だったりという官僚主義的倒錯が発生する。

バルバナスの証言によると、城で働く役人たちの部屋を仕切る柵(さく)は<可動的>であるという。柵と柵との境界線はもはや明確性を失っている。境界線の消滅あるいは溶解。そこで短編「隣人」を参照しよう。<私>の事務所の隣の部屋に「ハラス」という人物が入ってきた。同業他社のようだ。電気通信網はリゾーム化された今のネット社会のようにいつの間にか共同使用可能になっている。カフカはこう書いた。

「仕事部屋の壁ときたら、涙が出るほど薄っぺらで、この手の壁はまっとうな人間の仕事は筒抜けにするのに、うしろ暗いやつらには格好の衝立(ついたて)になるものだ。電話は隣りとの境の壁につけている。わざわざそれをいうのも皮肉な事実をいうためであって、かりに反対側の壁にとりつけていても隣りには筒抜けだろう。電話中には顧客の名前をあげるのは控えているが、話のぐあいでやむをえず具体的なことをいわねばならず、そこから話し相手を推察するのは、さして厄介なことではないのである。ときおり私は不安に駆られ、受話器を耳にそえたまま爪先立ちして電話のまわりを踊りまわる。だからといって商売の秘密をさらさないでいられるものでもないだろう。それに気がかりがあると、電話をしていても決断が鈍るものだ。私が電話中、ハラスは何をしているのだろう?誇大妄想といわれるかもしれないが、ものごとをはっきりさせるためにいわなくてはならない。ハラスは電話を必要としないのだ。やつは私の電話を使っている。壁ぎわのソファーに寝そべって、耳をすませている。私のほうは電話が鳴やいなや、とびついて、顧客の注文を聞き、身の細るような決断を下したり、ことばをつくして説得したりしなくてはならない。その間、こころならずも壁ごしに一切をハラスに報告している。きっと彼は電話の終わりまで待ったりしないだろう。ここぞのところを聞きとると、すばやく立ち上がり、いつものように通りを風のように走って、私が受話器を置いたころ、すでにあらかた商談をまとめている」(カフカ「隣人」『カフカ寓話集・P.100~101』岩波文庫 一九九八年)

文面に「仕事部屋の壁ときたら、涙が出るほど薄っぺら」とある。物理的に「薄っぺら」であっても情報が隣室に漏れない仕様になっていれば問題ない。しかしカフカが言っているのは、どんなに注意していてもすべては「筒抜け」になっていて、情報漏れを防ぐためのありとあらゆる工夫にもかかわらず所詮は徒労に終わってしまうということだ。今目の前にある課題を三点ほど上げておこう。

(1)スマートフォンの大々的普及に伴ってネット関連機器は今や社会的インフラと化した点。消費者は自分がいつどこで何をしているか、肯定的であれ多少なりとも否定的ではあれ、いずれにせよ位置情報を特定される。とりわけ職業上必要なテレワークや学業上必要なインターネットを使った授業の場合、位置情報の特定を拒否することはできない。もはや壁は限りなく透明に近く「涙が出るほど薄っぺら」でしかない。カフカ「隣人」は今やカフカの予想を超えて予言の書となった。

(2)ネット環境をめぐる貧困格差について。すぐさまネット環境を整えられる世帯とそうでない世帯とのあいだに横たわる貧困格差はこの二年ほどで急激に加速する教育格差・就職格差となって出現してきた。未来に希望の持てない若年層の増大。

(3)ネット機能の拡充による身体同士の出会いやコミュニケーションの阻害。この点はネット社会の功罪というテーマの罪の側で語られる場合が多い。しかし遥かに重要なのは資本主義にとって致命的であるということだ。資本主義は労働力や貨幣にのみ関心を向けているわけではなく、その前に必要不可欠な作業として労働力や貨幣への数値化を見落とすわけにはいかない。計測され数値化されるのは常に人間の身体であり、資本主義は身体にこそ狙いをつけているのであって、それなくして資本主義の世界化は反復され得ない。当初は資本主義が推し進める「雑婚」を通して特定の人種の血縁関係を溶解させ人種間対立を消滅させてすべての人種的ナショナリズムを撤廃してより効率的な資本主義的生産様式を打ち立てていく方向を目指していた。ところがネット機能の拡充による身体同士の出会いやコミュニケーションの阻害という不意打ちが生じてきた。<性>による出会いと融合のないところでは新しい異種交配や開かれるべき他者とのコミュニケーションから生じる新しい<価値創造>という目的は切断されたままになってしまう。これでは資本主義にとって本末転倒というべき由々しき事態であるというほかない。赤松啓介がいっていたが。

「下北半島尻屋岬の周辺は、ごく後まで若衆連中の独占的支配が残っていた地域で、十五歳以上の娘や出戻り女、後家は、若衆たちの性的要求に絶対に服従しなければならなかった。娘や女たちが外泊するにも許可が要るし、自村の若衆以外は肌を接する能わずというのだから徹底した封鎖型である。摂丹播の山村でも封鎖型は珍しくないが、さすがに外泊の許可まではいわないし、それだけ封鎖が弱いことも事実であった。親や兄弟などでも娘をかまうことができず、一切を若者たちの自由にまかせ、夜間の屋内立入りも自由にさせねば罰金をとったり、村八分にするというのだから、これほど絶対的権限をもったのは珍らしいだろう。ただ私が興味をもつのは、若衆連中の運用である。ムラの経済状況、人口構成などがわからないのでなんともいえないが、こうした完全封鎖型は男も他のムラから排撃されるから、完全に自村内部だけで性的消費を循環しなければならない。女房も加えてはならまだしも、娘や後家に限るのなら、まず一年もたてば内部から崩壊する。人口比率などの諸元の設定で違うが、総人口二~三百ぐらいなら大差なく、どんなに計算しても夜這いの順廻しは破綻するだろう。尻屋岬の岩屋、尻屋、尻労などのムラは、古くは孤立的でおそらく村内婚に限られたと思われるが、そうして自己完結的儀式でないと困難である。ただし、それではいずれ血族結婚ということになって、これも内部的に破綻するほかあるまい。つまり完全な封鎖型村落は存続できないということで、こうした若衆連中の規約がいつまで守られ、どのようにして崩壊したかが問題である。おそらく、そうした厳しい規約はタテマエで、ウラでは抜け道があったと推定するのが事実に近い。摂丹播地方の封鎖型村落にしても、盆とか祭り、行事などに開放する限定型が多いのはそのためである。平素でも絶対的封鎖というタテマエだが、ムラの娘や女をとったの、とられたのという紛争が多い。それによって村落生活に活気が生じ、一定の役割を果たしていることを見逃してはならぬ」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.291~292」河出文庫 二〇一七年)

欲望するネットへ依拠すればするほど実際の<性>がこれまで果たしてきた機能は逆に減少していく。さらに<ネットへの意志>で十分満足できるばかりか、よりいっそう欲望するネット社会へヴァージョン・アップされていけばいくほど、肉体同士の<性への意志>は備給を撤収されてもう誰一人として<性>としての融合に欲望しなくなるに違いない。とすると「城」の機構の<分子状>の人間は残るが、<全体的>な「城」の機構は崩壊する。同時進行的に<性>としての人間はますます必要なくなる。比較的先進国では差し当たり少子化としてその兆候が見えてはいたが二十一世紀になって爆発的に加速した。すると消費を生産するために必要不可欠な前提の崩壊がもう始まっていると考えるのは誰にでもわかる理屈である。そしてこの崩壊が部分的限定的でなく、大規模な崩壊として世界中のどこからいつ起こってきたとしても一つも不思議でない。

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Blog21・「城」という事件/失敗した<動物への意志>

2022年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
Kが気づくともう役人たちは仕事を始めていた。朝のようだ。細かな職務をずいぶんせっかちそうにこなしている様子が見て取れる。

「廊下そのものには、まだだれの姿も見えなかったが、各部屋のドアは、すでに動きはじめていて、何度もすこしあけられたかとおもうと、すぐまた急いでしめられるのだった。こうしてドアを開閉する音が、廊下じゅうにかまびすしかった。天井(てんじょう)にまで達していない壁の切れ目のところに、ときどき寝起きするらしく髪を乱した顔があらわれてはすぐ消えるのが見えた。遠くのほうからひとりの従僕が、書類を積んだ小さな車をゆっくりと押してきた。もうひとりの従僕が、そばについていて、手に一枚の表をもっていた。あきらかにドアの番号と書類の番号とを突き合わせているらしかった。書類車は、たいていのドアのまえでとまった。すると、たいていのドアがひとりでに開かれて、しかるべき書類が室内に手渡されるのだった。書類は、紙きれ一枚のこともあったが、こういうときは、室内と廊下とのあいだにちょっとしたやりとりがあった。それは、従僕のほうが文句をつけられているのであるらしかった。こういう場合、近所の部屋は、すでに書類が配達されているのに、ドアの動きがすくなくなるどころか、かえってはげしくなるようにおもわれた」(カフカ「城・P.447」新潮文庫 一九七一年)

役人たちの動きは急速に<強度>を増していく。それとともに行き交う書類の量も増大する。グローバル資本主義的ネット社会の職場で行き交う電子情報の量が増大するのと少しも違わない。書類の減少につれて逆に顔認証などの簡略化された管理装置へ置き換えられる。だが基本的に本人の自筆認証がベースになっている点はまるで違っていない。民間でも同じ傾向が加速する。カード認証は便利だがその一方で本人の資産状況は丸見えであってプライバシーなどあってないに等しくなる。カードから機械が読み取る情報は多岐に渡る。貧困世帯なら間もなく「家を売りませんか」という案内が届く。逆に富裕層なら間もなく「投資」に関するバラエティー豊かな案内がどんどん送られてくる。ともあれ、朝の役所のせわしなさを「鶏小屋」と書き換えたカフカは紛れもなく「万里の長城」を書いたカフカだったに違いない。

「部屋のなかでざわめくこれらの声は、非常にたのしげなものであった。それは、遠足の用意をしている子供たちの歓声のようにきこえるところもあれば、鶏小屋の朝の目ざめのように、これからはじまる一日と完全に一致していることを喜んでいるようにきこえることもあった。それどころか、どこかの部屋で鶏の鳴き声をまねてみせる役人もあった」(カフカ「城・P.446~447」新潮文庫 一九七一年)

第一次世界大戦が終結し、民間の官僚化と官僚の民間化が加速していた頃、役人たちの動きは「これからはじまる一日と完全に一致している」ばかりか、それを「喜んでいる」ことを隠そうともしない。さらに「どこかの部屋で鶏の鳴き声をまねてみせる役人もあった」。逃げ場を失いもはや鶏になることが避けられない場合、拒否するよりむしろ喜んで鶏になるという<動物への意志>は荘子がすでに述べており、若くから中国の古典に親しんでいたカフカにすれば一つも不思議な話ではない。

「子祀・子輿・子犁・子來、四人相與語曰、孰能以无爲首、以生爲脊、以死爲尻、孰知死生存亡之一體者、吾與之友矣、四人相視而笑、莫逆於心、遂相與爲友、俄而子輿有病、子祀往問之、曰、偉哉、夫造物者、將以予爲此拘拘也、曲僂發背、上有五管、頣隠於齊、肩高於頂、句贅指天、陰陽之気有乱、其心間而无事、偏遷而鑑于井曰、嗟乎、夫造物者、又將以予爲此拘拘也、子祀曰、女惡之乎、亡、予何惡、浸假而化予之左臂以爲雞、予因以求時夜、浸假而化予之右臂以爲彈、予因以求鴞炙、浸假而化予之尻以爲輪、以神爲馬、予因而乗之、豈更駕哉、且夫得者時也、失者順也、安時而處順、哀樂不能入也、此古之所謂縣解也、而不能自解者、物有結之、且夫物不勝天久矣、吾又何惡焉

(書き下し)子祀(しし)・子輿(しよ)・子犁(しり)・子来(しらい)、四人相(あ)い与(とも)に語りて曰わく、孰(たれ)か能く無(む)を以て首(こうべ)と為し、生を以て脊(せ)と為し、死を以て尻(しり)と為すや。孰か死生存亡の一体なるを知る者ぞ。吾れこれと友たらんと。四人相い視(み)て笑い、心に逆らう莫(な)く、遂(つい)に相い与に友と為(な)る。俄(にわ)かにして子輿に病あり、子祀往(ゆ)きてこれを問う。曰わく、偉なるかな、夫(か)の造物者(ぞうぶつしゃ)。将(まさ)に予れを以て此の拘拘(こうこう)を為さんとすと。曲僂(きょくる)背に発し、上に五管あり、頣(あご)は斉(へそ=臍)に隠れ、肩は頂(あたま)より高く、句贅(こうぜい)は天を指(さ)す。陰陽の気に乱(みだ)るることあるも、其の心間(しずか=閑)にして無事(むじ)なり。偏遷(へんせん)して井(せい)に鑑(かがみ)して曰わく、嗟手(ああ)、夫の造物者、又た将に予れを以て此の拘拘を為さんとするなりと。子祀曰わく、女(なんじ)これを悪(にく)むかと。曰わく、亡(いな)、予れ何ぞ悪まん。浸(ようや)くに仮(いた)りて予れの左臂(さひ)を化して雞(けい)と為(な)さば、予れは因(よ)りて時夜(じや)を求めん。浸くに仮りて予れの右臂を化して弾(だん)と為さば、予れは因りて鴞炙(きょうしゃ)を求めん。浸くに仮りて予れの尻を化して輪と為し、神(しん)を以て馬と為さば、予れは因りてこれに乗らん。豈(あ)に更(さら)に駕(が)せんや。且(か)つ夫れ得る者は時なり、失う者は順なり。時に安んじて順に処(お)れば、哀楽も入(い)ること能(あた)わず、此れ古(いにし)えの謂わゆる県解(けんかい)なり。而も自ら解くこと能わざる者は、物これを結ぶあればなり。且つ夫れ物の天に勝たざるや久し。吾れ又た何ぞ悪(にく)まんと。

(現代語訳)子祀(しし)と子輿(しよ)と子犁(しり)と子来(しらい)とが、四人でいっしょに語りあった。『無を頭とし、生を背(せなか)とし、死を尻とすることのできる者が、、だれかいるだろうか。死と生と。存と亡とが一体であることをわきまえた者が、だれかいるだろうか。われわれはそういう者と友だちになりたい』。四人はこういうと、顔を見あわせてにっこり笑い、心からうちとけて、そのまま互いに友だちとなった。〔その後〕、突然、子輿が病気になった。子祀が見舞いに訪ねていくと、子輿はこういった、『偉大だね、あの造物者(ぞうぶつしゃ)は。わしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』。背中はひどい背むしでもりあがり、内臓は頭の上にきて頣(あご)は臍(へそ)のあたりにかくれ、両肩は頭のてっぺんよりも高く、頭髪のもとどりは天をさしている。体内の陰陽の気が乱れているのだが、その心は平静で格別の事もない。よろめきながら井戸の〔そばに行くと〕、水に姿をうつして、『ああ、あの造物者はまたわしの体をこんな曲がりくねったものにしようとしているのだ』といった子祀はいう、『君はそれがいやかね』。『いや、わしがどうしていやがろう。〔造化のはたらきが〕だんだん進んでわしの左の臂(かいな)を鶏に変えるというなら、ついでにわしはその鶏が時を告げるのを聞こうと思う。だんだん進んでわしの右の臂(かいな)をはじき弓に変えるというなら、ついでにわしは射(い)落した鳥の焼き肉をほしいと思う。だんだん進んでわしの尻(しり)を車の輪に変え、わしの心を馬にするというなら、ついでにわしはそれに乗るだろう。別の馬車を用意しなくてすむよ。それに、いったいこの世に生を受けたのは生まれるべき時にめぐりあっただけのことだし、生を失って死んでゆくのも死すべき道理に従うまでのことだ。めぐりあわせた時のままに身をまかせて、自然の道理に従っていくということなら、〔生死のために感情を動かすこともなく〕、喜びや悲しみの感情が入りこむ余地はない。こういう境地が、むかしの人のいう県解(けんかい)ーーーすなわち束縛からの解放ということだ。しかもなお自分で解放することができない〔で生死のためにくよくよする〕というのは、外界の事物がその心の中で固まっているからだ。それに、そもそも外界の事物が自然の道理に勝てないのは、むかしからのことだ。わしは〔ただ自然の道理に従うばかり〕、またどうしてこの病をいやがったりしようか』」(「荘子(第一冊)・内篇・大宗師篇・第六・五・P.194~197」岩波文庫 一九七一年)

この論理はそれだけで終わりだろうか。そんなことはあり得ない。では、鶏になれるのなら機械にでもなれるはずだというべきだろうか。しかし二十世紀のうちに進行したのは人間の機械化と機械の人間化の側である。ただし鶏になって「縣解」〔束縛からの解放〕を実現するにはまだまだ幾つもの過程が必要だというわけではない。すでに「縣解」〔束縛からの解放〕は可能である。いつでも開かれている。にもかかわらず自らの機械化を選択した人間はなぜ機械化を選択したのだろうか。機械化にともない徐々に職場を失うのがわかっていながら。カフカが描いたのは<動物への意志>としての役人の姿だった。けれどもしかし戦後実現されたのは人間の<動物への転化>ではなく<ロボットへの加工>だった。カフカが全力を上げて正確に逃走線のありかを示していたにもかかわらず。また同時に進行していた世界的実験がある。人間身体はどこまで変容可能かという命題。スピノザが提出したテーマなのだが。

「人間身体はきわめて多くのことに有能である。ーーー人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまたその本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に変化させるよう努める」(スピノザ「エチカ・第五部・定理三九・備考・P.133」岩波文庫 一九五一年)

世界的ネット社会の中で溢れ返り氾濫し押し寄せる様々な情報に来る日も来る日も翻弄される人間。「城」のKもそんなふうに振り回される人間の一人だ。しかしKはなぜこうも現代人と似ているのか。まるで瓜二つなのか。「城」が途方もない長編であることと関係している。「城」の作中で起きている<事件>はどのようなものか。というよりそもそも<事件>とはどんなことを指しているのか。ドゥルーズはいう。

「一般にメディアが最初と最後を見せるのにたいして、<事件>のほうは、たとえ短時間のものでも、あるいは瞬間的なものでも、かならず持続を示すという違いがあります。そしてメディアが派手なスペクタクルをもとめるのにたいして、<事件>のほうは動きのない時間と不可分の関係にある。しかもそれは<事件>の前後に動きのない時間があるということではなくて、動きのない時間は<事件>そのものに含まれているのです。たとえば不意の事故がおこる瞬間は、いまだ現実には存在しない何かを見る目撃者の目に、あまりにも長い宙づりの状態でその事故がせまってくるときの、がらんとした無辺の時間と一体になっているのです。どんなありふれた<事件>でも、それが<事件>であるかぎり、かならず私たちを見者にしてくれるのにたいして、メディアのほうは私たちを受動的なただの見物人に、そして、最悪の場合は覗き魔に変えてしまいます」(ドゥルーズ「記号と事件・4・政治・P.323~324」河出文庫 二〇〇七年)

長編「城」が長編なのはなぜか。その理由は「<事件>の前後に動きのない時間があるということではなくて、動きのない時間は<事件>そのものに含まれている」からに違いない。

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Blog21・カフカの教え/高級官僚の殺人的おしゃべり

2022年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
Kはフリーダとの対話を通して二人の関係はすでに破綻したということを確認したに過ぎない。廊下を見渡すと請願者でごった返していた部屋はもう静まりかえっているようだ。ともかく廊下は遠くまで長く続いているらしい。縉紳館はそんなにも巨大な建築物だっただろうか。しかしカフカは書く。

「Kは、そのときやっと、廊下がすっかり静かになっていることに気づいた。Kがさっきまでフリーダといっしょにいた廊下のこの部分(このあたりは、店を経営している一家の部屋になっているらしかったが)だけでなく、さきほどは部屋からいろんな物音がしていた長い廊下全体が、しずまり返っていた。じゃ、お役人がたも、とうとうお眠りになったのだな」(カフカ「城・P.420」新潮文庫 一九七一年)

しんと静まった廊下のドアを見るとどのドアもみな同じ仕様になっていてどの役人がどの部屋にいるのか、Kにはまるで見分けが付かない。エルランガーが来ているからここに来るようにと告げられてきたKは試しに一つの部屋をのぞいてみる。するとエルランガーではないがビュルゲルという役人がいた。文庫本で約二十一頁ほど対話が続く。ほとんどビュルゲルの演説というに等しい。その長大さにもかかわらずエルランガーに会うためにこれからどうするのが最もベターか、Kには何一つわからなった。ビュルゲルの部屋を出てどれくらい歩いたかわからない。余りにも眠くて眠くて仕方なくなっていたKはしばらくのあいだ、本当に眠っていたかもしれない。そして目を覚ますとそこにエルランガーが立っており、Kに話しかけてきた。ビュルゲルの部屋とエルランガーの部屋との間には確かに廊下がある。しかし二人の部屋が離れているのかそれとも実は隣同士なのか、さっぱりはっきりしない。ところがそんなことはまるで関係ないこととしてエルランガーはしゃべり始めた。長い話だが聞いておかなくては後でまた聞き直さなければならなくなるかも知れないような内容。しかし一方、息をつめて注意深く神妙に聞いておいたとしても後で価値を持つどころか逆にまったく何らの価値も持ってこないような話である。

「『どうしてもっと早く来なかったのですか』と、エルランガーは言った。Kは、言いわけをしようとした。が、エルランガーは、疲れたように眼をとじて、言いわけは結構という合図をした。『あなたにお伝えしておかなくてはならんことは、つぎのことです。この家の酒場に、もとフリーダとかいう女が務めていた。わたしは、名前しか知らず、本人に会ったことはありません。わたしに関係ないことですからね。このフリーダは、ときおりクラムにビールの給仕などをしておったようです。いまは、別の娘が酒場にいるようです。もちろん、こんな異動なんか、どうだってよいことです。おそらくだれにとってもそうでしょうが、クラムにとっては、確かに問題にもならんことにちがいありません。しかしですね、仕事が大きくなればなるほど(もちろん、クラムの仕事は、いちばん大きいのですが)、外部にたいして身を守る力が、それだけすくなくなる道理です。その結果、どんなに些細(ささい)な事柄の、どんなに些細な変更にでもこころを乱されることになります。たとえば、机の上の様子がちょっと変ったとか、まえからそこにあった汚点(しみ)が消されたとか、そういうことにでも気持が乱されます。給仕女が交替したということでもそうです。もちろん、ほかの人やほかの仕事の場合ならいざしらず、クラムは、こんなことぐらいでは気持を乱されません。そういうことは、問題にもなりません。にもかかわらず、わたしたちは、クラムができるだけ気持よく仕事に専念できるように見張っていなくてはならない義務があるのでして、クラムにとってはなんの障害にもならないようなことであってもーーーおそらくクラムにとっては、この世に障害なんて存在しないでしょうがーーー障害になるかもしれないとおもえば、これを除去するのです。わたしたちがこのような障害をとりのぞくのは、クラムやクラムの仕事のためではなく、わたしたち自身のため、わたしたちの良心の安らぎのためです。ですから、フリーダという女は、即刻酒場に戻らなくてはならないのです。酒場に戻ったら戻ったでまた障害になるかもしれませんが、そのときはまた出ていってもらうまでです。しかし、いまさしあたっては、どうしても戻る必要があります。わたしが聞いたところでは、あなたは、この女と同棲(どうせい)しているそうですね。だったら、この女がすぐに戻れるようにしてください。この際、個人的な感情なんかは、斟酌(しんしゃく)するわけにはいきません。あたりまえの話ですよ。だから、この件についてこれ以上すこしでも議論をすることはお断りします。これはもうよけいなお節介になるかもしれませんが、念のために申しあげておきますと、こういう小さなことででもあなたが見あげた人だということになれば、ときとしてあなたの今後の生活にも役だつことがあるかもしれませんよ。あなたにお伝えしなくてはならないことは、これだけです』。エルランガーは、別れの挨拶(あいさつ)がわりにKにうなづいてみせ、従僕から渡された帽子をかぶると、急いで、といっても、すこしびっこを引きながら、廊下を遠ざかっていった」(カフカ「城・P.444~445」新潮文庫 一九七一年)

聞けば聞くほど「クラムとは誰か?」という問いが増殖していく。カフカはそういう官僚機構のことを書こうとしたのだろうか。一つは確かにそうだろう。読者の側の反応はどうだったか。特に官僚機構に限らず民間企業に勤める人々にも同様の衝撃を与えた。少年少女たちはともかく、少なくとも何らかの職業に就いたことのある人々にとっては誰しも一度ならず経験のあるわずらわしいばかりの文章が延々と続いていたからである。「クラムとは誰か?」という問いがぶら下がっている限り、その説明はどのようにでも長文化することができ、また逆にほぼひとことで済ませることもできる。長文のケースが圧倒的に多いためついつい錯覚しそうになりがちだけれども、そのぶん逆に短縮された形式が目立つ。例えば登場人物たちが怒った時にしばしば発する台詞(せりふ)、「クラムはクラムだ」というふうに。さらにここでもまた「廊下」を挟んで整然と二列に向き合う形で各部屋の配列が見られる。そしてKが重要だと思っていた部屋がついさっきまでいた部屋の隣かと思われる位置に忽然と出現するのは「審判」の画家ティトレリとKとのやりとりでも見られる。

「『全部つつんでください!』、と彼は叫んで画家のおしゃべりを遮(さえぎ)った、『あした小使にとりに来させます』。『その必要はありません』、と画家は言った、『いますぐあなたと行ける運び手を見つけられるでしょう』。そしてようやく彼はベッドの上にかがみこみ、ドアの鍵を開けた。『遠慮なくベッドに上ってください』と画家は言った、『ここに来る人はみんなそうするんですから』。そうすすめてくれなくてもKは遠慮なぞしなかっただろう。それどころか彼はすでに片足を羽根ぶとんにのせてさえいたのだが、開いたドアから外を見て、またその足をひっこめてしまった。『あれはなんです?』、と彼は画家にきいた。『何を驚いてるんです?』、と画家のほうでも驚いてきき返した、『裁判所事務局ですよ。裁判所事務局がここにあるのをご存じなかったんですか?ほとんどこの屋根裏にだって裁判所事務局があるのに、ここにあっていけないわけがないでしょう?わたしのアトリエも本来裁判所事務局の一部なんですが、裁判所がわたしに使わしてくれてるんですよ』。Kはこんなところにまで裁判所事務局を見出(みいだ)したことにそれほど驚いたのではなかった。それより彼は自分にたいし、自分の裁判所に関する無知にぞっとしたのだった」(カフカ「審判・P.220~229」新潮文庫 一九九二年)

極めて今日的でリアルでショッキングでさえある場面。だからといってカフカのような小説形式を用いて何か書いたとしても誰一人として読んでくれないに違いない。カフカは無用になったのか。そういうわけではまるでない。むしろますます重要性を増した。けれどもカフカは知ってか知らずかもはや誰にもわからないが、或る種の一度限り許される「文体」を発明したとはいえる。なまなまし過ぎるリアルさはその「文体」からもたらされたものだ。カフカについてではないが、インタヴューに答えてドゥルーズがこんなことを言っている。

「文体とは、国語を変異させることであり、転調することであり、言語全体がひとつの<外>をめざして張りつめた状態を指します。哲学でも、基本は小説と同じで、『これから何がおこるのか』、『何がおこったのか』と自分に問わなければならないのです。ただ、登場人物のかわりに概念があり、境遇や風景のかわりに時空間があるところが、違いといえば違いでしょうか。文章を書く目的は生を与えること、そして生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放つこと、あるいは逃走線を引くことなのです。そのためには、言語が等質の体系であることをやめ、不均衡と、恒常的な非等質の状態に置かれなければならない。文体は言語のなかに潜在性の差異を刻むわけですが、そうなれば差異と差異のあいだを何かが流れ、何かがおこるようになるばかりか、言語そのものから閃光が走り、語の周囲を満たす暗闇に沈んでいるため、それまでは存在することすらほとんど知られていなかったさまざまな実体を、私たちに見させたり、考えさせたりするのです。文体の成立をさまたげるものがふたつあります。体系言語の等質性がひとつ、そしてもうひとつは、逆に非等質性が大きすぎるため、せっかくの非等質性も差異の不在や無償性にすがたを変えてしまい、極と極のあいだをはっきりしたものが何ひとつ流れなくなる場合。主節と従属節とのあいだには、文が完全な直線に見えるときですら、いやそう見えるときこそ、緊張と、ある種のジグザグ運動がなければならないのです。語と語がたがいに遠く離れていても、ある語から別の語へと波及する閃光を語そのものが産み出すとき、文体はあらわれるのです」(ドゥルーズ「記号と事件・4・哲学・P.283~284」河出文庫 二〇〇七年)

この言葉でドゥルーズは大きく分けて二つの要素を語っているように思われる。いずれもニーチェから。

(1)「私は怖れる、私たちが神を捨てきれないのは、私たちがまだ文法を信じているからであるということを」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.44』ちくま学芸文庫 一九九四年)

(2)「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である」(ニーチェ「善悪の彼岸・二〇・P.38~39」岩波文庫 一九七〇年)

言葉にならないものを言葉で伝達しようとするとき、人々はどうするだろうか。延々と説明し続けるかそれとも単純なひとことで済ませてしまうか。両者を組み合わせてみるか。しかしそのいずれにしても、例えばカフカが描いたKのような場合、いたずらにKを過労死へ追いやってしまうことにならないだろうか。実際に過労死は多発しておりもはや多くの人々は慣れて習慣化してしまい、すぐ近くにいる瀕死の家族や同僚や級友たちを半殺しの状態に吊り上げてしまってはいないだろうか。少なくともフーコーやドゥルーズはその種の堂々巡りから脱出するための突破口を見出した。画家ティトレリの部屋の隣に裁判所事務局がある。行こうと思えばその場にいながらにして到達してしまう。考えられもしなかった隣部屋がすでに裁判所事務局である。ネット社会のようにまさかという間もなく出現する。しかし手続上必要な「柵」を越えていこうとすると「柵」はどこまでも遠のいたり逆に不意打ちをかけてきたり常に<可動的>である。ますますネット社会に似てくる。

今の世間ではネット投稿の「匿名性」が問題にされることが多い。問題にしている専門家もまた多い。多すぎるくらいだ。多すぎると専門家もまた「専門家<という名の>匿名性」の罠に自らはまり込むばかりである。さてそこで、ドゥルーズが例文として上げている文章がある。「太陽が昇る」。こういう時の「太陽」とは一体なんなのか。あるいは「そよぐ風」という時の「風」など。

探せばもっとあるに違いない。例えばマスコミで流れる「事件」、「社交界」という時の「界」、「生きている」という時の「生」。「地域紛争」という時の「紛争」。それらはどれも非-人格的な<固有名>でしかあり得ない。多くの政治家が「個人的には」という時の驚くべき無責任性に包み込まれた「個人」とは全然次元の違う事態である。そもそも非-人格的な<固有名>が非-人格的とか非-人称的とか呼ぶしかないのはそれがまったくの個人では決して成り立たない時空間だからだ。人間はたった一人で「自分は人間である」ということはできても鏡になり得る<他者>がいなくては誰一人それを「承認することは不可能」なのとまるっきり同じ事情である。<外><他者>というものとの出会いを常に求め開いていく作業とともにでしかあり得ない。人間は生まれるやただちに<他者>の汚染を被る限りで始めて人間であると承認されるわけであって、生存の流れは生まれてくる前すでに「個人的」ではあり得ないという事情がその根拠にいつもある。一人でいる時も様々な物質(酸素、土、机、電信機器、などなど)と接続=交換している以上、地球上の誰一人として「個人」でいることはできない。ミクロ単位では精一杯新陳代謝している。ましてや「個人的には」という言葉を口にできる権利はあっても空想でしかなく、事実上存在しない内容と繋がれた言葉をあたかも実在する状態であるかのように資格として用いることは誰にもできない。

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Blog21・イェレミーアスの病人化/延々と引き延ばされる薄暗い「廊下」

2022年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
Kとフリーダとが言い争っているところにイェレミーアスが現れる。つい昨日までの助手の面影はまるで無くもはや別人の様相だ。

「そのとき、脇(わき)廊下のほうでわめき声がした。イェレミーアスだった。彼は、脇廊下へ降りていく階段のいちばん下に立っていた。シャツを着ただけだが、その上にフリーダの肩掛けを羽織っていた。髪はくしゃくしゃで、薄いひげはぬれ、哀願と非難をこめて眼をかろうじて大きく見ひらき、黒い頬(ほお)は、赤らんでいたが、ぶよぶよの肉でできているみたいだった。寒さのあまりむきだしの脚をがたがたふるわせるので、それにつれて肩掛けの長いふさも、いっしょにふるえた。そんな格好で立っているところは、まるで病院を脱けだしてきた患者そっくりだった」(カフカ「城・P.418」新潮文庫 一九七一年)

しかしイェレミーアスは一体どこから現れたか。カフカはしっかり書いている。「脇廊下へ降りていく階段のいちばん下」。或る部屋と別の部屋との<あいだ>にある「廊下」。この事情はすぐさま「審判」の次の箇所を思い起こさずにはいない。

「『ぜんぜん気にしちゃいないさ』、と廷吏は言った、『まあこの待合室を見てごらんなさい』。それは長い廊下なのだった、そこに荒っぽいつくりのドアがいくつもついていて、屋根裏の各部屋に通じているのだ。直接光の入りこむ口はないけれどもそこはまっくらではなかった。というのはいくつかの部屋が、廊下に面して、均一の板壁のかわりにむきだしのしかも天井までとどく格子(こうし)になっていて、そこからいくらか光が洩(も)れてきたからだ。そこからはまた中の役人を見ることもできた。机にむかって物を書いたり、ぴったり格子にへばりついて、隙間から廊下の人びとをじろじろ眺めたりしている。日曜日だったせいか、廊下には少数の人がいるだけだった。かれらはみな非常に慎しみ深い人びとという印象を与えた。たがいにほとんど規則正しい間隔をおきあって、廊下の両側に置かれた二列の長い木のベンチに腰かけている。かれらはみなだらしのない服装をしていたけれども、そのくせほとんどの者は、顔の表情とか、態度、ひげの恰好(かっこう)、その他しかと言うことのできぬ多くのこまかな点から、上流階級の連中だとわかった。帽子掛けがなかったのでかれらは帽子を、たぶんだれかがだれかの真似(まね)をして、みなベンチの下においていた。ドアのそばにいた者たちがKと廷吏の姿を認めて挨拶(あいさつ)のために立上ると、それを見て次の者たちは自分らも挨拶しなければならぬと思いこみ、全員が二人の通りすぎるときに立上った。かれらは決して完全に直立したわけではなくて、背中はかがみ、膝(ひざ)は折れ、まるで往来の乞食のようだった」(カフカ「審判・P.92~94」新潮文庫 一九九二年)

「城」では「まるで病院を脱けだしてきた患者そっくりだった」とあり「審判」では「まるで往来の乞食のようだった」とある。イェレミーアスの姿ががらりと変わっているのを見たKは、しかしなぜ見ることができたのか。イェレミーアスが現れた廊下は廊下であるにもかかわらずまったくの暗闇ではなく、かといって煌々と電灯に照らし出されているわけでもない。<薄暗がり>だったからである。「審判」で描かれた「廊下」はそれをやや細かく描写した形になっている。「直接光の入りこむ口はないけれどもそこはまっくらではなかった。というのはいくつかの部屋が、廊下に面して、均一の板壁のかわりにむきだしのしかも天井までとどく格子(こうし)になっていて、そこからいくらか光が洩(も)れてきた」と。

またイェレミーアスが現れた場所はただ単なる廊下ではなく「階段のいちばん下」となっていることから、かつては階級闘争の暗喩を読み取る読者が少なからずいた。そう読むことは可能である。しかしその種の<読み>は「審判」で描かれている廊下の様相ですでに無効化されている。「ほとんどの者は、顔の表情とか、態度、ひげの恰好(かっこう)、その他しかと言うことのできぬ多くのこまかな点から、上流階級の連中」であり、そういう人々自身がもはやすでに「まるで往来の乞食のよう」でしかないからだ。もし階級闘争がまだ可能だったならカフカはこのような記述方法を取らなかっただろう。カフカは極めて今日的世界について書いている。階級闘争がなくなった世界というわけではない。事情はもっと絶望的だ。階級闘争というものはいつまで待ってももう二度とやってこなくなった世界のありさまを描いている。

ますます増大する貧困からの脱却不可能性は競争への意志をあらかじめくじいてしまう方向を強靭化する。従って次々と現れてくる現象はこうなる。希望の消滅。競争の消滅。歴史の消滅。融資も投資も意味がなくなる。そして資本主義的ダイナミズムの消滅。銀行はただ単なる貯金箱へと解消され、金融取引機関としては無意味化する。また資本主義が生き残った理由についてはドゥルーズ=ガタリから何度も引いてきた。どのようにしてロシア革命を消化したか。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・第十節・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)

ロシア革命の衝撃から学んだ資本主義は労働組合活動を認めることで誰にでも社会進出のためのチャンスを与える基礎を築いた。だが労働運動はともすればアナーキーな爆発を起こしがちな傾向を持っている。そこでどの国の政府も警察権力を用いて注意深い監視を行いながら、資本主義自身は傷一つ付かないようわざわざ「労働組合のための<公理>」を与え、いつどこからでも湧き起こってくる欲望の流れを<公理系>という整流器に流し込んですんなり処理してしまう方法を案出した。今の日本でこの「労働組合のための<公理>」に乗ったのが「連合」であり、一度手を結んだ以上、日本政府の御用組合と化するのにそれほど年月はかからなかった。国鉄が解体されてJRとなり「国労」から「連合」へ転向した瞬間、今に至る成り行きはすでに決定されていたと十分に言える。

選挙権の拡充や男女雇用機会均等法もまたそうだ。とりわけ男女雇用機会均等法は当初懸念されていたように劣悪な結果をもたらしつつある。言うまでもなくその恩恵を受けることができたのは均等法施行以前からの富裕層の子女がほとんどであり、以前からの貧困層は均等法施行以後もなお驚くべき賃金格差に晒されている。さらにパンデミック禍で不意に加速しつつ顕在化してきたテレワークの功罪のように、とっととネット環境を整えることができる比較的裕福な家庭の子供たちと、整えるどころか子どもたちの面倒を見る時間すらまともに取れない低賃金重労働に喘ぐ貧困世帯の子供たちとの教育格差は日に日に開いていくばかり。

荒れ果てた貧困家庭の子どもたちはしばしば不必要にマッチョ化する傾向が見られる。それはかつてのドイツでナチスに忠誠を誓う暴力団員や殺人請負人となって出現した。ユダヤ系最下層階級の人々や同性愛者、無防備に政治的中立性を訴える中間層や富裕層の若い男女たちを捕まえてリンチに処し肉体をずたずたにして強制収容所へ送り込んだ。しかしなぜそうなるのか。貧困家庭の子どもと富裕層の子どもとはいつも比較対照される状態に置かれている。ただ単に学力に限った話ではなく、特に身体において計測され数値化される。一度計測され数値化された人間の身体は生き生きとした生身の肉体ではあり得ず、すでに数値化され登録された「物」=「死物」でしかない。なかでも貧困層の子どもたちは周囲から受ける仰天するほど過酷な差別によって自分の身体はすでに「死物」でしかなく、ゆえにどこまでも差別視されていくほかないことに底なしの絶望感と異様に鋭くなった敏感さとを受け取らざるを得ない。するとその中からよりいっそうマッチョになって自分を差別した中間層や富裕層に属する男女の<生>=<性>をずたずたにしたあげく、「ガス室に送り込め」というナチスの呼び声がとても身近に感じられる子どもたちが出現するようになってくる。実際そうなった。下層労働者階級の子どもたちはナチス党のヒットラー総統の呼び声が自分たち虐げられた者たちの心の叫びを代弁してくれているかのような錯覚にすんなり陥る。一方、中間層や富裕層に属する男女たちは相変わらず、もはや計測され数値化されて「死物」でしかなくなってはいても、貧困層の子どもたちとはまるで違う自由が保証され<生>=<性>を堪能し遊び回っている。中間層や富裕層に属する男女たちの<生>は生き生きしており彼らは好き放題に<性>を堪能し合って人生を謳歌している。憎悪が憎悪を呼ぶ装置ができあがるのにそれほど時間はかからなかった。

なかでも中間層がリンチの標的にされたのは特徴の一つである。政治的中立などというものは始めからあり得ないからだ。貧困層の子どもたちが幼少期から身をもって知らされたのは、政治的中立という立場はただ単に多数派の政治的横暴を見て見ぬふりに過ぎないものだからである。さらに同性愛者迫害について。同性愛者は何も特別な存在ではなくヨーロッパにはそれこそギリシャの昔から一定数いる。だが同性愛者は富裕層の異性愛者と同じように<性>を堪能することができる。決して「死物」化されることなく自分たちの<性>を生き生きと快楽することができる。それがナチスに忠誠を誓う暴力団員や殺人請負人にとっては許し難い生活様式に写って見える。ナチス党は労働者階級にわだかまるそのような事情のすべてを動員してアウシュヴィッツに代表される強制収容所をどんどん成立させていった。その教訓から戦後世界は国連の名において「教育の平等」や「貧困撤廃」を掲げたわけだが今や風前の灯でしかない。

「『やめて、もうたくさんよ』と、フリーダは言って、イェレミーアスの腕を引っぱった。『この人は、熱にうなされて、自分の言っていることもわからないんですわ。でも、K、あなたはいらっしゃらないで。お願いします。あれは、わたしとイェレミーアスとの部屋ですのよ。というよりか、むしろわたしだけの部屋です。あなたがおいでになることを、わたしがお断りします。あら、K、ついていらっしゃるわね。どういう理由があってついていらっしゃるの。わたしは、もうけっしてあなたのところになんか帰りませんよ。そんなことを考えただけでも、身ぶるいしますわ。さあ、あなたの娘さんたちのところへ行ってらっしゃい。あのズベ公たちは、ストーヴのそばの長椅子にシャツを着たきりであなたとならんで腰をかけているって聞きましたわ。それに、あなたを迎えにいくと、猫のようなうなり声を吹っかけるんですってね。あの娘たちに惹(ひ)かれていらっしゃるんですから、あそこなら居心地がいいでしょう。わたしは、あそこへ行かないようにいつもあなたを引きとめました。あまり成功はしませんでしたが、何度も引きとめました。それも、もう過ぎたことです。あなたは、自由の身です。すてきな生活があなたを待っていますわ』」(カフカ「城・P.419」新潮文庫 一九七一年)

そうフリーダはいう。フリーダの言葉はもう二度とKに会うことはないし会う気持ちもないと告げている。そんなフリーダの恋愛感情にもかかわらずフリーダはそう宣言することでKに場所移動する絶好の機会を与えている。思い出そう。<娼婦・女中・姉妹>の系列はどのような機能を演じるか。作品「アメリカ」でカールをアメリカへ移動させたのはほかでもない「女中」である。

「そこらあたりの女中に誘惑されたあげく、あまつさえ二人の間に子供までできてしまった因果に、十六歳の若い身空ではるばるアメリカ三界へ貧乏な両親の手で厄介ばらいされることになったカール・ロスマンは、いましも汽船が速力を落としてゆるゆるとニューヨークの港へ入って行ったとき、ずっと前から目をそそいでいた自由の女神の像がとつぜん一段とつよくなった日光にまぶしく照らし出されたような気がしたものだ」(カフカ「アメリカ・P.5」角川文庫 一九七二年)

カールの冒険は場所をアメリカへ移動させたところから始まる。だがアメリカはカールをあちこち場所移動させるばかりで決して定住させることはない。

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Blog21・資本主義的流通過程としての<娼婦・女中・姉妹>の系列

2022年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
Kはフリーダと結婚の約束をしたが二人はまだ正式に結婚したわけではない。そこでフリーダは自分のことを「あなたの未来の妻」と呼んでいる箇所がある。Kがバルナバスの家でオルガと会っているあいだ、フリーダは助手の一人イェレミーアスに体を奪われた。イェレミーアスとアルトゥールの二人は城から派遣された助手である限りでフリーダに手を出すことは決してできない。だがKにとって余りにも迷惑をかけるのでKは小学校で助手たちをぶん殴って一方的に解雇した。しかし助手たちは城から派遣されている以上、城からKの解雇通告を認めるという通達がない限りいつまで経ってもKに対する<監視人>であるほかない。しかしアルトゥールは城に駆け込んでKから受けた暴行と一方的解雇通告を報告する。城の機構は間もなくアルトゥールの報告を受理するだろう。すると助手たちはKのもとにいる限りもはや解雇された立場にあり、助手の立場は罷免され、解雇された以上はKとフリーダとのあいだに割り込んでフリーダの体を奪ってしまってもどこの誰からも咎められることはない。そこでイェレミーアスは幼馴染みでもあるフリーダに襲いかかった。

フリーダはKの妻ではなく「未来の妻」のまま放置されており、Kの助手ではなくなりもはや<監視人>の立場から解かれたに等しいイェレミーアスがフリーダの誘惑に接続したとしても不思議ではない。イェレミーアスの行為は乱暴に思える。だがフリーダは<娼婦・女中・姉妹>の系列として常に<非定住民>として振る舞う。そしてまた<非定住民>はいつも<誘惑するもの>でなくてはならない。「変身」のグレーテは父母の<代理>ではなく父母から派遣される<非定住民>である限りで父母と兄グレーゴルとの間を往来できる。ただそれだけではグレーゴルは反応しない。妹グレーテは<非定住民>として父母やグレーゴルとの間を往来するが、グレーゴルがグレーテの話に注意深く耳を傾けるのは<非定住民>としてグレーテが<誘惑するもの>だからである。グレーテは兄グレーゴルにとっても父母にとっても言語を往来させることのできる特権的唯一性を帯びている。どんな言葉が送られてくるだろうか。どんな言葉が返されてくるだろうか。父母の側もグレーゴルの側も興味津々であり、<誘惑するもの>としてのグレーテはほとんどグレーゴル一家の家長にもまさる位置を占めている。

よりいっそう身近な例にあてはめて言えば、<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちはすべて資本主義的流通過程を演じる。生産過程から流通過程へ入った諸商品は別の場所へ移動するわけだが、そのあいだに商品価値の異なる場所、賃金格差のある場所へ移動する。諸商品の移動前の場所と移動後の場所とで賃金格差が大きければ大きいほど流通過程に入った諸商品の価値も大きく変動する。生産拠点は安価な労働力が速やかに集められる場所であり、諸商品が変われる場所はできるだけ高い価値が実現できる場所でなくては約束された利子を実現することはできないからである。流通過程での場所移動がどれくらいの価値変動を伴うかによって諸商品の魅力は上昇したり下降したりする。資本主義は諸商品の見た目の違いなどまるで問題にしない。重要なのは生産過程から最終消費者によって貨幣交換され利子が実現されるまでのあいだにどれくらい利子率を達成することができたかに賭かっている。ゆえに流通過程はいつも<誘惑するもの>として目が離せないのである。

「『そうね、彼が部屋にいますもの』と、彼女は言った。『そうじゃないと考えていらっしたの。彼は、わたしのベッドに寝ています。戸外にいて風邪(かぜ)をひいたのです。寒気がして、ろくすっぽ食事もとりませんでしたわ。結局、みんなあなたの罪ですのよ。あなたが助手たちを追いださず、あの娘どものところへも走っていかなかったならば、いまごろは学校でむつまじくしておれるところですわ。あなたひとりでわたしたちの幸福をぶちこわしてしまったのよ。イェレミーアスが助手として働いているあいだでもわたしをかどわかすようなまねをしただろうと、お考えになっていらっしゃるの。もしそうだとしたら、あなたは、この土地の規則をまったく見そこなっていらっしゃるのよ。彼は、わたしのそばへ来たがっていました。そのためにひどく苦しみもし、わたしの様子もうかがっていました。けれども、それは、遊戯にすぎなかったのです。お腹(なか)のすいた犬がどんなにじゃれついても、食卓の上にとびあがろうとまではしないのとおなじことです。わたしだって、おなじでした。わたしは、彼に惹(ひ)かれていました。彼は、子供のころの遊び仲間なのです。わたしたちは、いっしょに城山の坂道で遊んだものでした。あのころは、たのしかったわ。あなたは、わたしの過去を一度も訊(き)いてくださいませんでしたね。しかし、これらのことも、イェレミーアスが勤めに引きとめられているあいだは、ちっとも決定的なことではなかったのです。だって、わたしだって、あなたの未来の妻としての自分の義務ぐらいは心得ていましたもの。しかし、あなたは、まもなく助手たちを追っぱらって、わたしのために尽してくださったかのように、そのことを自慢なさいました。ある意味では、それは事実かもしれませんが。アルトゥールの場合は、あなたの思惑は、成功しました。といっても、ほんの束(つか)の間(ま)の成功ですけれども。アルトゥールは、とても感じやすくて、イェレミーアスのような、どんな困難にもたじろがないだけの情熱がないのです。それに、あなたは、あの夜このアルトゥールをなぐって、ほとんど半殺しになさいました。あの一撃は、わたしたちの幸福をもこわしてしまったのです。アルトゥールはお城へ逃げていって、このことを訴えています。いずれはこちらへ帰ってくるでしょうが、とにかく、いまはいません。しかし、イェレミーアスは、こちらに残りました。彼は、助手であるあいだは、主人の眼の動きひとつにも気をくばっていますが、いったんお勤めをやめると、もうなにも怖れません。彼は、やってきて、わたしを奪いました。わたしとしては、あなたに見すてられ、幼友だちに首ねっこをおさえられ、どうにも防ぎようがありませんでした。わたしが教室の入口をあけてやったのではありません。彼が窓をこわして、わたしを連れだしたのです。ふたりは、ここへ逃げてきました。ここの主人は、彼を高く買っていますし、お客さまにとっても、こういう有能なボーイがいてくれるほどありがたいことはありません。こうして、ここに雇ってもらうことになりました。彼は、わたしの部屋に同居しているのではありません。あれは、ふたりの共同の部屋なのです』」(カフカ「城・P.410~412」新潮文庫 一九七一年)

フリーダもオルガも<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する。しかしフリーダは自分で承知しているようにまだKの「未来の妻」でしかない。さらにフリーダはこのあと、結婚どころかますます小説の中から消えていってしまう。同時にイェレミーアスは治癒の見込みのない重病人と化していく。フリーダはほとんどイェレミーアスのための介護者としてしか存在しなくなる。だがしかしフリーダがKと結婚することができたとしたらどうなっていたか。フリーダはKの妻、オルガはKの娼婦として、互いに互いを補い合う次のような関係へ推移していたに違いない。いずれにしても絶対主義的家父長制のもとではそうなるほかない。

「娼婦と妻とは互いに家父長制の世界における女性の自己疎外の両極をなし合うものである。妻には、生活と所有との確固たる秩序に対する喜びが窺われ、他方、娼婦は、妻の所有権から取りのこされたものを妻の隠れた同盟者として改めて所有関係に取り込み、快楽を売る」(ホルクハイマー=アドルノ「啓蒙の弁証法・2・オデュッセウスあるいは神話と啓蒙・P.150」岩波文庫 二〇〇七年)

ところでフリーダの話を聞かされたけKは、二人の助手のことを「二匹の猛獣」と呼んでいる。そして多くのカフカ作品に出てくるようにそれは「つがい・双子」のように似ており、Kを左右両方から挟み込む。

「『それにもかかわらず』と、Kは言った。『ぼくは、助手どもを首にしたことを残念におもっていないね。きみがいま話してくれたような事情だったのなら、つまりだね、きみの貞操が助手どもがまだお勤めの身だったということだけを条件にしているものだったのなら、なにもかも終りになってしまったのは、よいことだったと言えるよ。鞭(むち)がなくてはおとなしくしていないような二匹の猛獣どもにはさまれた結婚生活の幸福なんて、どうせたいしたものではなかったことだろう。そう考えると、やはりあの一家にお礼を言わなくてはならないようだ。そのつもりはなかったにせよ、ぼくたちを引きはなすのに一役買ってくれたわけだからな』」(カフカ「城・P.412」新潮文庫 一九七一年)

<動物>の系列が出現している。「猛獣」といっても名高い二つの短編「ジャッカルとアラビア人」の「ジャッカル」ではなく、このケースでは「父の気がかり」の「オドラデク」の側が妥当するに違いない。むしろ「オドラデク」から逆に二人の助手が出現したかのようだ。

「一説によるとオドラデクはスラヴ語だそうだ。ことばのかたちが証拠だという。別の説によるとドイツ語から派生したものであって、スラヴ語の影響を受けただけだという。どちらの説も頼りなさそうなのは、どちらが正しいというのでもないからだろう。だいいち、どちらの説に従っても意味がさっぱりわからない。もしオドラデクなどがこの世にいなければ、誰もこんなことに頭を痛めたりしないはずだ。ちょっとみると平べたい星形の糸巻きのようなやつだ。実際、糸が巻きついてえいるようである。もっとも、古い糸くずで、色も種類もちがうのを、めったやたらにつなぎ合わせたらしい。いま糸巻きといったが、ただの糸巻きではなく、星状の真中から小さな棒が突き出ている。これと直角に棒がもう一本ついていて、オドラデクはこの棒と星形のとんがりの一つを二本足にしてつっ立っている。いまはこんな役立たずだが、先(せん)には何かちゃんとした道具の体をなしていたと思いたくなるのだが、別にそうでもないらしい。少なくとも、これがそうだといった手がかりがない。以前は役に立ったらしい何かがとれて落ちたのでも、どこが壊れたのでもなさそうだ。いかにも全体は無意味だが、それはそれなりにまとまっている。とはいえ、はっきりと断言はできない。オドラデクときたら、おそろしくちょこまかしていて、どうにもならない。屋根裏にいたかと思うと階段にいる。廊下にいたかと思うと玄関にいる。おりおり何ヶ月も姿をみせない。よそに越していたくせに、そのうちきっと舞いもどってくる。ドアをあけると階段の手すりによっかかっていたりする。そんなとき、声をかけてやりたくなる。むろん、むずかしいことを訊(き)いたりしない。チビ助なのでついそうなるのだが、子どもにいうように言ってしまう。『なんて名前かね』。『オドラデク』。『どこに住んでいるの』。『わからない』。そう言うと、オドラデクは笑う。肺のない人のような声で笑う。落葉がかさこそ鳴るような笑い声だ。たいてい、そんな笑いで会話は終わる。どうかすると、こんなやりとりすら始まらない。黙りこくったままのことがある。木のようにものをいわない。そういえば木でできているようにもみえる。この先、いったい、どうなることやら。かいのないことながら、ついつい思案にふけるのだ。あやつは、はたして、死ぬことができるのだろうか?死ぬものはみな、生きているあいだに目的をもち、だからこそあくせくして、いのちをすりへらす。オドラデクはそうではない。いつの日か私の孫子の代に、糸くずをひきずりながら階段をころげたりしているのではなかろうか?誰の害になるわけでもなさそうだが、しかし、自分が死んだあともあいつが生きていると思うと、胸をしめつけられるここちがする」(カフカ「父の気がかり」『カフカ短編集・P.103~105』岩波文庫 一九八七年)

しかしなぜ「ジャッカル」でないのか。獣性という点で助手たちは<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちに遥かに及ばないというべきだろうか。そうではなくむしろ<娼婦・女中・姉妹>の系列に属する女性たちは、Kにとって「ジャッカル」の位置を取っていないだろうか。絶対主義的家父長制のもとで、絶体絶命の窮地に追い込まれたKを、彼女たちはいつも、KとともにKをそっと逃してやってはいないだろうか。

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