長い廊下にいるKの目には整然と二列に並んだそれぞれの部屋のドアがしきりに開閉している様子が見える。書類がどの部屋のどの役人に宛てられたものか。自分に宛てられたものなら当面の間は安心できる。しかしそうでない場合、落胆とともに次の書類の到来とそれが自分宛の書類であることに全力を上げて希望を繋ぎ止めておかなければ今にも窒息しそうな空気が辺りいっぱいに澱んでいる。
「ほかの連中は、不可解なことにこうしてドアのまえに積みあげられたままになっている書類の束をものほしげな眼でのぞいているのかもしれない。ドアをあけさえすれば書類を受けとれるのに、どうしてそうしないのか、解しかねているらしい。書類がいつまでも積んだままにしてあると、あとでほかの連中に分配されるというようなこともあるのではなかろうか。それで、いまからしきりに様子をのぞいては、書類がまだドアのまえにあるかどうか、したがって、まだ自分にも希望があるかどうかを、確かめようというわけなのだろう。おまけに、置いたままになっている書類は、たいてい特別に大きな束だった。これは、ある種の自慢か悪意から、あるいは、同僚を鼓舞しようという正当な自負もあって、しばらくのあいだ置きっぱなしにしているのだろう、とKは考えた。Kにこの仮定をさらに確信させたのは、ときおり(それは、きまってKが見ていないときなのだが)もうたっぷりと見せびらかしたこの書類が突然、しかも、すばやく部屋のなかに引入れられ、それっきりドアはもとのように微動だにしなくなってしまうことであった。すると、周囲のドアも、静かになるのであった。絶えざる魅惑の的であったものがついに片づけられたことにがっかりしたのであろう。それとも、満足したのかもしれない。しかし、ドアは、やがてまた徐々に活動をはじめた」(カフカ「城・P.447~448」新潮文庫 一九七一年)
自分に宛てられた書類が届くか届かないか。自分の署名がまだ必要とされているかどうか。気が気でない不安に怒りおののいている役人たちの気持ちも知らぬげに書類を載せた車は廊下を通過していく。書類は役人たちの関心を一身に集めている。書類は姿形を変えない。けれども役人たちが見せる書類への憧れは嫌が上にも盛り上がりもはや限度を知らない。カフカは書いている。「彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ」。言い換えれば、「一つ一つの書類」は「欲望する<諸断片>」であり、いつもすでにありったけの魅力を発散しながらあちこち移動しているわけである。
「書類を要求する権利があると思いこんでいる役人は、短気を起してぷりぷりし、部屋のなかで大きな物音を立て、手をたたいたり、足を踏み鳴らしては、ドアの隙間から何度も一定の書類番号を廊下にむかってがなりまくる。こうなると、車のほうは、しばしばほったらかしになる。ひとりの従僕は、短気を起してぷりぷりしている役人をなだめにかかり、もうひとりは、あけてもらえないドアのまえで書類を返してもらおうと孤軍奮闘である。ふたりとも、てこずっていた。短気を起している役人は、なだめようとすると、しばしばよけいにぷりぷりしてしまって、もう従僕のお世辞など耳に入れようともしない。彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ」(カフカ「城・P.449」新潮文庫 一九七一年)
断片化された書類について、あえて「欲望する〔リビドーで充満した〕<諸断片>」と述べた。しかしその最高責任者は誰なのか。城はあるし城に出入りする人々もいる。クラムが最高責任者なのか。とすればなぜバルナバスはクラムがほんとうのクラムかどうか疑わざるを得なくなっているのか。バルナバスだけでなく他の役人たちも盛大にクラムについて語って見せはするもののその説明はいたずらに長いばかりでまるで説明になっていない。要するに誰一人クラムについて知らないのではないか。知っていると仮定しても知らないと仮定しても、どちらから入ってみても遂に明確化できないのではないか。クラムの容貌はたちまち溶けて消え失せてしまう。名前だけがモザイクの欠片(かけら)のように宙ぶらりんになって残っている。そしてまた城の機能は城だけで独立しているわけではまるでなく、逆にすべての村民によっても受けもたれている。その限りで責任性の<諸断片>が人間の姿形をとって村中を往来していると言える。
Kの前に不意に現れた責任者らしき人物が次の瞬間にはもう雑踏の中へ消えていったりする。Kがそれを止めようとすると、止めようとするKをさらに止めようとして実際に止めてしまう人物が現れる。その人物の語りを聞いてみると一方でKの関心〔欲望〕を掻き立てておくものでありつつ、もう一方では最後まで聞くに値しないものであることがわかってくる。さらに書類について述べると、書類が欲望するものである以上、その文面上の規則とはまた違った独創性や創作性を書類自身が発揮する。書類に関する<掟>の出現が見られる。しかもなお<掟>の側はその時その時でころころ内容が入れ換わる。だから或る書類を文面上の規則に従って処理した側が孤立し〔Kのケース〕、逆に文面上の規則に従わず無言の<掟>に従って処理した側〔村長たちの系列〕が安楽だったりという官僚主義的倒錯が発生する。
バルバナスの証言によると、城で働く役人たちの部屋を仕切る柵(さく)は<可動的>であるという。柵と柵との境界線はもはや明確性を失っている。境界線の消滅あるいは溶解。そこで短編「隣人」を参照しよう。<私>の事務所の隣の部屋に「ハラス」という人物が入ってきた。同業他社のようだ。電気通信網はリゾーム化された今のネット社会のようにいつの間にか共同使用可能になっている。カフカはこう書いた。
「仕事部屋の壁ときたら、涙が出るほど薄っぺらで、この手の壁はまっとうな人間の仕事は筒抜けにするのに、うしろ暗いやつらには格好の衝立(ついたて)になるものだ。電話は隣りとの境の壁につけている。わざわざそれをいうのも皮肉な事実をいうためであって、かりに反対側の壁にとりつけていても隣りには筒抜けだろう。電話中には顧客の名前をあげるのは控えているが、話のぐあいでやむをえず具体的なことをいわねばならず、そこから話し相手を推察するのは、さして厄介なことではないのである。ときおり私は不安に駆られ、受話器を耳にそえたまま爪先立ちして電話のまわりを踊りまわる。だからといって商売の秘密をさらさないでいられるものでもないだろう。それに気がかりがあると、電話をしていても決断が鈍るものだ。私が電話中、ハラスは何をしているのだろう?誇大妄想といわれるかもしれないが、ものごとをはっきりさせるためにいわなくてはならない。ハラスは電話を必要としないのだ。やつは私の電話を使っている。壁ぎわのソファーに寝そべって、耳をすませている。私のほうは電話が鳴やいなや、とびついて、顧客の注文を聞き、身の細るような決断を下したり、ことばをつくして説得したりしなくてはならない。その間、こころならずも壁ごしに一切をハラスに報告している。きっと彼は電話の終わりまで待ったりしないだろう。ここぞのところを聞きとると、すばやく立ち上がり、いつものように通りを風のように走って、私が受話器を置いたころ、すでにあらかた商談をまとめている」(カフカ「隣人」『カフカ寓話集・P.100~101』岩波文庫 一九九八年)
文面に「仕事部屋の壁ときたら、涙が出るほど薄っぺら」とある。物理的に「薄っぺら」であっても情報が隣室に漏れない仕様になっていれば問題ない。しかしカフカが言っているのは、どんなに注意していてもすべては「筒抜け」になっていて、情報漏れを防ぐためのありとあらゆる工夫にもかかわらず所詮は徒労に終わってしまうということだ。今目の前にある課題を三点ほど上げておこう。
(1)スマートフォンの大々的普及に伴ってネット関連機器は今や社会的インフラと化した点。消費者は自分がいつどこで何をしているか、肯定的であれ多少なりとも否定的ではあれ、いずれにせよ位置情報を特定される。とりわけ職業上必要なテレワークや学業上必要なインターネットを使った授業の場合、位置情報の特定を拒否することはできない。もはや壁は限りなく透明に近く「涙が出るほど薄っぺら」でしかない。カフカ「隣人」は今やカフカの予想を超えて予言の書となった。
(2)ネット環境をめぐる貧困格差について。すぐさまネット環境を整えられる世帯とそうでない世帯とのあいだに横たわる貧困格差はこの二年ほどで急激に加速する教育格差・就職格差となって出現してきた。未来に希望の持てない若年層の増大。
(3)ネット機能の拡充による身体同士の出会いやコミュニケーションの阻害。この点はネット社会の功罪というテーマの罪の側で語られる場合が多い。しかし遥かに重要なのは資本主義にとって致命的であるということだ。資本主義は労働力や貨幣にのみ関心を向けているわけではなく、その前に必要不可欠な作業として労働力や貨幣への数値化を見落とすわけにはいかない。計測され数値化されるのは常に人間の身体であり、資本主義は身体にこそ狙いをつけているのであって、それなくして資本主義の世界化は反復され得ない。当初は資本主義が推し進める「雑婚」を通して特定の人種の血縁関係を溶解させ人種間対立を消滅させてすべての人種的ナショナリズムを撤廃してより効率的な資本主義的生産様式を打ち立てていく方向を目指していた。ところがネット機能の拡充による身体同士の出会いやコミュニケーションの阻害という不意打ちが生じてきた。<性>による出会いと融合のないところでは新しい異種交配や開かれるべき他者とのコミュニケーションから生じる新しい<価値創造>という目的は切断されたままになってしまう。これでは資本主義にとって本末転倒というべき由々しき事態であるというほかない。赤松啓介がいっていたが。
「下北半島尻屋岬の周辺は、ごく後まで若衆連中の独占的支配が残っていた地域で、十五歳以上の娘や出戻り女、後家は、若衆たちの性的要求に絶対に服従しなければならなかった。娘や女たちが外泊するにも許可が要るし、自村の若衆以外は肌を接する能わずというのだから徹底した封鎖型である。摂丹播の山村でも封鎖型は珍しくないが、さすがに外泊の許可まではいわないし、それだけ封鎖が弱いことも事実であった。親や兄弟などでも娘をかまうことができず、一切を若者たちの自由にまかせ、夜間の屋内立入りも自由にさせねば罰金をとったり、村八分にするというのだから、これほど絶対的権限をもったのは珍らしいだろう。ただ私が興味をもつのは、若衆連中の運用である。ムラの経済状況、人口構成などがわからないのでなんともいえないが、こうした完全封鎖型は男も他のムラから排撃されるから、完全に自村内部だけで性的消費を循環しなければならない。女房も加えてはならまだしも、娘や後家に限るのなら、まず一年もたてば内部から崩壊する。人口比率などの諸元の設定で違うが、総人口二~三百ぐらいなら大差なく、どんなに計算しても夜這いの順廻しは破綻するだろう。尻屋岬の岩屋、尻屋、尻労などのムラは、古くは孤立的でおそらく村内婚に限られたと思われるが、そうして自己完結的儀式でないと困難である。ただし、それではいずれ血族結婚ということになって、これも内部的に破綻するほかあるまい。つまり完全な封鎖型村落は存続できないということで、こうした若衆連中の規約がいつまで守られ、どのようにして崩壊したかが問題である。おそらく、そうした厳しい規約はタテマエで、ウラでは抜け道があったと推定するのが事実に近い。摂丹播地方の封鎖型村落にしても、盆とか祭り、行事などに開放する限定型が多いのはそのためである。平素でも絶対的封鎖というタテマエだが、ムラの娘や女をとったの、とられたのという紛争が多い。それによって村落生活に活気が生じ、一定の役割を果たしていることを見逃してはならぬ」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.291~292」河出文庫 二〇一七年)
欲望するネットへ依拠すればするほど実際の<性>がこれまで果たしてきた機能は逆に減少していく。さらに<ネットへの意志>で十分満足できるばかりか、よりいっそう欲望するネット社会へヴァージョン・アップされていけばいくほど、肉体同士の<性への意志>は備給を撤収されてもう誰一人として<性>としての融合に欲望しなくなるに違いない。とすると「城」の機構の<分子状>の人間は残るが、<全体的>な「城」の機構は崩壊する。同時進行的に<性>としての人間はますます必要なくなる。比較的先進国では差し当たり少子化としてその兆候が見えてはいたが二十一世紀になって爆発的に加速した。すると消費を生産するために必要不可欠な前提の崩壊がもう始まっていると考えるのは誰にでもわかる理屈である。そしてこの崩壊が部分的限定的でなく、大規模な崩壊として世界中のどこからいつ起こってきたとしても一つも不思議でない。
BGM1
BGM2
BGM3
「ほかの連中は、不可解なことにこうしてドアのまえに積みあげられたままになっている書類の束をものほしげな眼でのぞいているのかもしれない。ドアをあけさえすれば書類を受けとれるのに、どうしてそうしないのか、解しかねているらしい。書類がいつまでも積んだままにしてあると、あとでほかの連中に分配されるというようなこともあるのではなかろうか。それで、いまからしきりに様子をのぞいては、書類がまだドアのまえにあるかどうか、したがって、まだ自分にも希望があるかどうかを、確かめようというわけなのだろう。おまけに、置いたままになっている書類は、たいてい特別に大きな束だった。これは、ある種の自慢か悪意から、あるいは、同僚を鼓舞しようという正当な自負もあって、しばらくのあいだ置きっぱなしにしているのだろう、とKは考えた。Kにこの仮定をさらに確信させたのは、ときおり(それは、きまってKが見ていないときなのだが)もうたっぷりと見せびらかしたこの書類が突然、しかも、すばやく部屋のなかに引入れられ、それっきりドアはもとのように微動だにしなくなってしまうことであった。すると、周囲のドアも、静かになるのであった。絶えざる魅惑の的であったものがついに片づけられたことにがっかりしたのであろう。それとも、満足したのかもしれない。しかし、ドアは、やがてまた徐々に活動をはじめた」(カフカ「城・P.447~448」新潮文庫 一九七一年)
自分に宛てられた書類が届くか届かないか。自分の署名がまだ必要とされているかどうか。気が気でない不安に怒りおののいている役人たちの気持ちも知らぬげに書類を載せた車は廊下を通過していく。書類は役人たちの関心を一身に集めている。書類は姿形を変えない。けれども役人たちが見せる書類への憧れは嫌が上にも盛り上がりもはや限度を知らない。カフカは書いている。「彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ」。言い換えれば、「一つ一つの書類」は「欲望する<諸断片>」であり、いつもすでにありったけの魅力を発散しながらあちこち移動しているわけである。
「書類を要求する権利があると思いこんでいる役人は、短気を起してぷりぷりし、部屋のなかで大きな物音を立て、手をたたいたり、足を踏み鳴らしては、ドアの隙間から何度も一定の書類番号を廊下にむかってがなりまくる。こうなると、車のほうは、しばしばほったらかしになる。ひとりの従僕は、短気を起してぷりぷりしている役人をなだめにかかり、もうひとりは、あけてもらえないドアのまえで書類を返してもらおうと孤軍奮闘である。ふたりとも、てこずっていた。短気を起している役人は、なだめようとすると、しばしばよけいにぷりぷりしてしまって、もう従僕のお世辞など耳に入れようともしない。彼が求めているのは、慰めではなく、書類なのだ」(カフカ「城・P.449」新潮文庫 一九七一年)
断片化された書類について、あえて「欲望する〔リビドーで充満した〕<諸断片>」と述べた。しかしその最高責任者は誰なのか。城はあるし城に出入りする人々もいる。クラムが最高責任者なのか。とすればなぜバルナバスはクラムがほんとうのクラムかどうか疑わざるを得なくなっているのか。バルナバスだけでなく他の役人たちも盛大にクラムについて語って見せはするもののその説明はいたずらに長いばかりでまるで説明になっていない。要するに誰一人クラムについて知らないのではないか。知っていると仮定しても知らないと仮定しても、どちらから入ってみても遂に明確化できないのではないか。クラムの容貌はたちまち溶けて消え失せてしまう。名前だけがモザイクの欠片(かけら)のように宙ぶらりんになって残っている。そしてまた城の機能は城だけで独立しているわけではまるでなく、逆にすべての村民によっても受けもたれている。その限りで責任性の<諸断片>が人間の姿形をとって村中を往来していると言える。
Kの前に不意に現れた責任者らしき人物が次の瞬間にはもう雑踏の中へ消えていったりする。Kがそれを止めようとすると、止めようとするKをさらに止めようとして実際に止めてしまう人物が現れる。その人物の語りを聞いてみると一方でKの関心〔欲望〕を掻き立てておくものでありつつ、もう一方では最後まで聞くに値しないものであることがわかってくる。さらに書類について述べると、書類が欲望するものである以上、その文面上の規則とはまた違った独創性や創作性を書類自身が発揮する。書類に関する<掟>の出現が見られる。しかもなお<掟>の側はその時その時でころころ内容が入れ換わる。だから或る書類を文面上の規則に従って処理した側が孤立し〔Kのケース〕、逆に文面上の規則に従わず無言の<掟>に従って処理した側〔村長たちの系列〕が安楽だったりという官僚主義的倒錯が発生する。
バルバナスの証言によると、城で働く役人たちの部屋を仕切る柵(さく)は<可動的>であるという。柵と柵との境界線はもはや明確性を失っている。境界線の消滅あるいは溶解。そこで短編「隣人」を参照しよう。<私>の事務所の隣の部屋に「ハラス」という人物が入ってきた。同業他社のようだ。電気通信網はリゾーム化された今のネット社会のようにいつの間にか共同使用可能になっている。カフカはこう書いた。
「仕事部屋の壁ときたら、涙が出るほど薄っぺらで、この手の壁はまっとうな人間の仕事は筒抜けにするのに、うしろ暗いやつらには格好の衝立(ついたて)になるものだ。電話は隣りとの境の壁につけている。わざわざそれをいうのも皮肉な事実をいうためであって、かりに反対側の壁にとりつけていても隣りには筒抜けだろう。電話中には顧客の名前をあげるのは控えているが、話のぐあいでやむをえず具体的なことをいわねばならず、そこから話し相手を推察するのは、さして厄介なことではないのである。ときおり私は不安に駆られ、受話器を耳にそえたまま爪先立ちして電話のまわりを踊りまわる。だからといって商売の秘密をさらさないでいられるものでもないだろう。それに気がかりがあると、電話をしていても決断が鈍るものだ。私が電話中、ハラスは何をしているのだろう?誇大妄想といわれるかもしれないが、ものごとをはっきりさせるためにいわなくてはならない。ハラスは電話を必要としないのだ。やつは私の電話を使っている。壁ぎわのソファーに寝そべって、耳をすませている。私のほうは電話が鳴やいなや、とびついて、顧客の注文を聞き、身の細るような決断を下したり、ことばをつくして説得したりしなくてはならない。その間、こころならずも壁ごしに一切をハラスに報告している。きっと彼は電話の終わりまで待ったりしないだろう。ここぞのところを聞きとると、すばやく立ち上がり、いつものように通りを風のように走って、私が受話器を置いたころ、すでにあらかた商談をまとめている」(カフカ「隣人」『カフカ寓話集・P.100~101』岩波文庫 一九九八年)
文面に「仕事部屋の壁ときたら、涙が出るほど薄っぺら」とある。物理的に「薄っぺら」であっても情報が隣室に漏れない仕様になっていれば問題ない。しかしカフカが言っているのは、どんなに注意していてもすべては「筒抜け」になっていて、情報漏れを防ぐためのありとあらゆる工夫にもかかわらず所詮は徒労に終わってしまうということだ。今目の前にある課題を三点ほど上げておこう。
(1)スマートフォンの大々的普及に伴ってネット関連機器は今や社会的インフラと化した点。消費者は自分がいつどこで何をしているか、肯定的であれ多少なりとも否定的ではあれ、いずれにせよ位置情報を特定される。とりわけ職業上必要なテレワークや学業上必要なインターネットを使った授業の場合、位置情報の特定を拒否することはできない。もはや壁は限りなく透明に近く「涙が出るほど薄っぺら」でしかない。カフカ「隣人」は今やカフカの予想を超えて予言の書となった。
(2)ネット環境をめぐる貧困格差について。すぐさまネット環境を整えられる世帯とそうでない世帯とのあいだに横たわる貧困格差はこの二年ほどで急激に加速する教育格差・就職格差となって出現してきた。未来に希望の持てない若年層の増大。
(3)ネット機能の拡充による身体同士の出会いやコミュニケーションの阻害。この点はネット社会の功罪というテーマの罪の側で語られる場合が多い。しかし遥かに重要なのは資本主義にとって致命的であるということだ。資本主義は労働力や貨幣にのみ関心を向けているわけではなく、その前に必要不可欠な作業として労働力や貨幣への数値化を見落とすわけにはいかない。計測され数値化されるのは常に人間の身体であり、資本主義は身体にこそ狙いをつけているのであって、それなくして資本主義の世界化は反復され得ない。当初は資本主義が推し進める「雑婚」を通して特定の人種の血縁関係を溶解させ人種間対立を消滅させてすべての人種的ナショナリズムを撤廃してより効率的な資本主義的生産様式を打ち立てていく方向を目指していた。ところがネット機能の拡充による身体同士の出会いやコミュニケーションの阻害という不意打ちが生じてきた。<性>による出会いと融合のないところでは新しい異種交配や開かれるべき他者とのコミュニケーションから生じる新しい<価値創造>という目的は切断されたままになってしまう。これでは資本主義にとって本末転倒というべき由々しき事態であるというほかない。赤松啓介がいっていたが。
「下北半島尻屋岬の周辺は、ごく後まで若衆連中の独占的支配が残っていた地域で、十五歳以上の娘や出戻り女、後家は、若衆たちの性的要求に絶対に服従しなければならなかった。娘や女たちが外泊するにも許可が要るし、自村の若衆以外は肌を接する能わずというのだから徹底した封鎖型である。摂丹播の山村でも封鎖型は珍しくないが、さすがに外泊の許可まではいわないし、それだけ封鎖が弱いことも事実であった。親や兄弟などでも娘をかまうことができず、一切を若者たちの自由にまかせ、夜間の屋内立入りも自由にさせねば罰金をとったり、村八分にするというのだから、これほど絶対的権限をもったのは珍らしいだろう。ただ私が興味をもつのは、若衆連中の運用である。ムラの経済状況、人口構成などがわからないのでなんともいえないが、こうした完全封鎖型は男も他のムラから排撃されるから、完全に自村内部だけで性的消費を循環しなければならない。女房も加えてはならまだしも、娘や後家に限るのなら、まず一年もたてば内部から崩壊する。人口比率などの諸元の設定で違うが、総人口二~三百ぐらいなら大差なく、どんなに計算しても夜這いの順廻しは破綻するだろう。尻屋岬の岩屋、尻屋、尻労などのムラは、古くは孤立的でおそらく村内婚に限られたと思われるが、そうして自己完結的儀式でないと困難である。ただし、それではいずれ血族結婚ということになって、これも内部的に破綻するほかあるまい。つまり完全な封鎖型村落は存続できないということで、こうした若衆連中の規約がいつまで守られ、どのようにして崩壊したかが問題である。おそらく、そうした厳しい規約はタテマエで、ウラでは抜け道があったと推定するのが事実に近い。摂丹播地方の封鎖型村落にしても、盆とか祭り、行事などに開放する限定型が多いのはそのためである。平素でも絶対的封鎖というタテマエだが、ムラの娘や女をとったの、とられたのという紛争が多い。それによって村落生活に活気が生じ、一定の役割を果たしていることを見逃してはならぬ」(赤松啓介「性・差別・民俗・三・土俗信仰と性民俗・三・共同体と<性>の伝承・P.291~292」河出文庫 二〇一七年)
欲望するネットへ依拠すればするほど実際の<性>がこれまで果たしてきた機能は逆に減少していく。さらに<ネットへの意志>で十分満足できるばかりか、よりいっそう欲望するネット社会へヴァージョン・アップされていけばいくほど、肉体同士の<性への意志>は備給を撤収されてもう誰一人として<性>としての融合に欲望しなくなるに違いない。とすると「城」の機構の<分子状>の人間は残るが、<全体的>な「城」の機構は崩壊する。同時進行的に<性>としての人間はますます必要なくなる。比較的先進国では差し当たり少子化としてその兆候が見えてはいたが二十一世紀になって爆発的に加速した。すると消費を生産するために必要不可欠な前提の崩壊がもう始まっていると考えるのは誰にでもわかる理屈である。そしてこの崩壊が部分的限定的でなく、大規模な崩壊として世界中のどこからいつ起こってきたとしても一つも不思議でない。
BGM1
BGM2
BGM3