前回はスペースの都合上途中までしか触れることができなかった。後半に入ろう。「プチ・ブルジョア的エクリチュール」と「共産主義作家」のエクリチュールが途方もなく似てくる、ということが起こってきた。
「プチ・ブルジョア的エクリチュールは、共産主義作家によってふたたび取り入れられることになった」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.86』みすず書房)
「小中学生のエクリチュール」あるいは「もはや作文」でしかないとバルトはいうわけだが、プチ・ブルジョア的エクリチュールは発生した時点ですでにそうだった。一八四八年「六月蜂起」が世界に向けて与えた衝撃。それはほとんど全ヨーロッパにたいする不意打ちでもあったという意味で、全ヨーロッパの文学は、そのとき生じたプチ・ブルジョア階級の出現と同時にプチ・ブルジョア的エクリチュールを用いることになったからだ。全ヨーロッパ規模で発生したプチ・ブルジョア階級。それは奇妙な合成物〔モンタージュ〕に見えた。ブルジョア階級から転落した人々。労働者階級から成り上がった人々。あるいは農民なら、たまたま一定の土地を持っていたというだけでそれを資本へ転化できた人々などから構成されていた。だから彼ら彼女らの「サロン」といっても出来合いのものでしかなく、旧時代にあった「本物のサロン」の模造品を越えることはできなかった。アメリカを見れば一目瞭然のように、言語〔エクリチュール〕もまた模造品が用いられた。奇妙な合成物〔モンタージュ〕としての「近代的エクリチュール」。たとえばそれはモリエールから見れば「笑うべき」調子をもっていて、余りにも似ているがゆえにかえって「田舎者まる出し」におもわれるのである。「田舎者」といっても何も地理的遠方を意味しない。むしろ首都パリ近郊の「成り上がり」だからこそ、その複製ぶり、模造品ぶりが、余りにも笑わせてしまうというわけだ。ところで、縷々述べてきたように一八四八年「六月蜂起」を歴史的断層として「文学」というものは「近代文学」を意味することになった。そして「近代文学」はプチ・ブルジョア的エクリチュールと同級生であるということができる。さらに近代文学以前に「文学」はなく、「文学」の生産者も消費者もともにプチ・ブルジョア階級が担っており、したがって「文学」の出現は不可避的にプチ・ブルジョア的エクリチュール〔言語体系〕の蔓延を意味せざるを得ない。奇妙な合成物〔モンタージュ〕として生まれた近代文学。それには或る「責務」が与えられていた。
「自分の身元を確認する形式がなければ自分を認めさせられないような内容をはっきりと見えるように示す、という責務をもっているエクリチュール」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.86』みすず書房)
読者の「身元確認」装置としての機能である。一例としてモーパッサン「女の一生」を取り上げてみよう。
「彼女はけっして場所を取ることはなかった。世には、人跡未踏の地のように近親の者にも全然知られていないでいる人たちがあるものだが、彼女もそういう人たちの一人だった。その死もけっして家庭のなかに穴も空虚も生じないような人々の仲間だった。自分たちのそばに住んでいる人々の生活のなかにも、習慣のなかにも、また愛のなかにもはいるすべを知らない人々の一人だった。『リゾン叔母』と発音しても、この二語は、だれの心にも、いわばどんな愛情も、目ざめさせはしなかった。まるで『コーヒー沸し』とか『砂糖壷(つぼ)』とか言われるとおなじだった」(モーパッサン「女の一生・P.64」新潮文庫)
この場合、「リゾン叔母」は「コーヒー沸し」や「砂糖壷(つぼ)」と置き換え可能な等価物として書かれている。置き換え可能であるということはいつでも商品化可能であるということと等価である。「コーヒー沸し」や「砂糖壷(つぼ)」という単語を持ってきて「あだ名」として流通させることが可能なのはなぜか。それをおもえば容易に理解できよう。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との《あいだ》には決定的な亀裂が入っている。この亀裂は何もしないが、この亀裂があるために、シニフィアン(意味するもの)はシニフィエ(意味されるもの)をどんどん交換させていくことができる。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とを入れ換えることもとうぜん可能になった。そのようなことは古典主義時代には不可能だったのだが。しかし資本主義は後戻りを許さないシステムでもある。近代文学に顕著な「隠喩の濫用」が始まった。そこで用いられる隠喩は、濫用にもかかわらず、けっして独自の個別性を意味しない。むしろ一般性の指示記号として用いられる「たんなる符丁にすぎない」ということになる。
「感覚の特異性を伝えようとする『気質』による意図からではまったくなく、言葉の位置づけをするためのたんなる文学的な符丁にすぎない。ラベルをみると値段がわかるようなものである」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.87』みすず書房)
文学の言葉は、バルトのいうように「ラベルをみると値段がわかるようなもの」になるのだが、しかし起こるべくして起こってくる言語的「インフレ」にまで対応するわけでもまたない。日本でいえば、一九七〇年代「オイルショック」。ひとかかえのティッシュペーパーが一万円にもなると、そこで取引は停止させられざるをえない。資本主義は自動機械でもある。資本主義は自分の危機を察するやいなや自分で自分自身の動きを保留させる機能を持つ。停止はなるほど資本主義の死を意味する。だが死ぬのは投下された資本を下手にいじっている人間だけであって、資本主義そのものが死ぬわけではない。資本主義の死は労働力商品としてのあらゆる労働者がすべて死に絶えたときだ。ところが労働力は国内での供給が途絶えてしまいそうになってくればいつでも外国から移動させることができ実際に補充される。国境はますます消滅していくが、国境の蒸発は資本の要求でもある。蒸発というより可動的というべきか。資本は資本自身で境界線〔柵〕を移動させる。
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)
事情がそうなっている以上、資本主義は自分で自分自身を更新していくことができる。自分で自分自身の紋切型〔ステレオタイプ〕を自動更新するのである。また逆に、近代文学において顕著だが、隠喩の濫用は、濫用にもかかわらずというより、濫用すればするほど、もはや「紋切型以上のものであろうと」しない。次のように。
「隠喩は現実の言葉のなかにほぼ完全に溶け込んで、『文学』をたいした苦労もなく知らせる紋切型以上のものであろうとはしていない。たとえば『岩清水のように澄んでいる』とか『寒さで羊皮紙のようになった手』などがそうである」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.88』みすず書房)
この種のエクリチュールを乗り越えるにはどうすればよいのか。比喩表現を比喩表現たらしめている部分「のように」を抹消してしまえばいいのだ。「羊皮紙のようになった手」=「手は羊皮紙と化した」=「手は羊皮紙だ」、と。「道を走っている犬がいる」=「犬が道のように走っている」=「犬は道だ」、等々。このようなエクリチュールが可能なのは言語をめぐる諸問題が解決されていないという事情による。自分で自分自身の紋切型〔ステレオタイプ〕を自動更新する資本主義社会では言語をめぐる諸問題はいつも発生してくるだけでなく解決は一層遠のく。もっとも、問題解決以前にエクリチュールしてしまうという方法もないではない。いわゆる「言った者勝ち」「やった者勝ち」という方法。周囲から嫌われ続けること間違いなし。百年単位で。しかしとりわけ政治家はしばしばその方法を用いる。政治家として体力的な低下が著しい時期は特にそうだ。ところがそれでは反則なのだ。むしろ規則に則って論じていくべきが妥当だろうとおもわれる。ヘーゲルはいう。
「真の反駁というものは相手の手許に飛び込み、相手の勢力圏内で立ち廻るのでなければならない。相手を彼自身の外部で攻め立て、また相手の居ない所で勝利をおさめる〔権利を獲得する〕というのは本当ではない」(ヘーゲル「大論理学・下巻」『ヘーゲル全集8・P.11』岩波書店)
「相手の非真理を示そうと思えば、なにかべつのものをもってくるのではなく、《相手に即して》示さなければならない。わたしがわたしの体系や命題を証明した上で、だからそれに対立する体系や命題は偽だ、と結論してもなんにもならない。べつの命題にとって、わたしの命題はつねに異質なもの、外的なものなのですから。命題が偽であることを示すには、それと対立する命題が真であることを示すのではなく、その命題そのものに即して偽なることを示さねばなりません」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.354」河出文庫)
なかでも、そもそも「主語とはなんぞや?」という問いがある。研究者の立場によって見解が分かれる。いずれ述べたいとおもう。
さて、とうとう避けて通れない地点までやってきた。次の文章に関する限り、ほとんど、以上でもなければ以下でもない。
「スターリン主義のイデオロギーが、なんであれーーー革命的なことでさえ、いや、とりわけ革命的なことにかんしてーーー問題提起することへの恐怖感を起こさせているのは疑いがない。ブルジョア的エクリチュールをもちいるほうが、スターリン主義イデオロギー自体を告発することよりは危険でないと考えられているのである」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.89』みすず書房)
補足しておこう。スターリンは反スターリン的エクリチュールを怖れない。正面に現われる敵ほどよく見えるからだ。あたかも鏡像のように。むしろ、似てはいるけれどもけっして違うもの、たとえば、トロツキー的エクリチュールを最も怖れる。あるいは、レーニンではなくレーニン没後に残された、まだ生き残っていたレーニン夫人の言葉による不意打ちを。
さて、写真の話。人々は実にしばしば「雰囲気」と口にする。神秘主義者は「オーラ」とか言って一般大衆を煙に巻く。しかし「雰囲気」という言葉は同じでも、写真で見る「雰囲気」とはなんだろうか。
「『写真』はある人間が存在したということを《証明する》(それが『写真』のノエマである)から、私は単なる戸籍上、遺伝上の類似を超えて、その人間を全体的に、ということはつまり、本質的に、《あるがままの姿で》ふたたび見出したいと思う。ここにおいて、『写真』の平明さは、なおいっそう苦痛に満ちたものとなる。なぜなら『写真』は、私の気違いじみた欲求に対して、ただ何とも言い表わしようのないあるものによってしか応えることしかできないからである。そのあるものとは明白なものである(それが『写真』のおきてである)。が、しかし、不確かなものでもある(私はそれを証明することができない)。そのあるもの、それが《雰囲気》である」(バルト「明るい部屋・P.133」みすず書房)
雰囲気が似ているからといっても他人は他人である、という場合を指していっているわけではない。まぎれもなく《ある》のだが「不確かなもの」だとしか言いようがないもの。半透明だ〔見えない〕けれども《ある》といえるもの。固有の或るもの。余り長く見つめていると、見つめている側を「狂気へと」追い込んでしまいそうになるもの。しばらく考えてみないといけない。すると、「明るい部屋」の冒頭部分へ回帰してしまうことにもなるのだが。
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「プチ・ブルジョア的エクリチュールは、共産主義作家によってふたたび取り入れられることになった」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.86』みすず書房)
「小中学生のエクリチュール」あるいは「もはや作文」でしかないとバルトはいうわけだが、プチ・ブルジョア的エクリチュールは発生した時点ですでにそうだった。一八四八年「六月蜂起」が世界に向けて与えた衝撃。それはほとんど全ヨーロッパにたいする不意打ちでもあったという意味で、全ヨーロッパの文学は、そのとき生じたプチ・ブルジョア階級の出現と同時にプチ・ブルジョア的エクリチュールを用いることになったからだ。全ヨーロッパ規模で発生したプチ・ブルジョア階級。それは奇妙な合成物〔モンタージュ〕に見えた。ブルジョア階級から転落した人々。労働者階級から成り上がった人々。あるいは農民なら、たまたま一定の土地を持っていたというだけでそれを資本へ転化できた人々などから構成されていた。だから彼ら彼女らの「サロン」といっても出来合いのものでしかなく、旧時代にあった「本物のサロン」の模造品を越えることはできなかった。アメリカを見れば一目瞭然のように、言語〔エクリチュール〕もまた模造品が用いられた。奇妙な合成物〔モンタージュ〕としての「近代的エクリチュール」。たとえばそれはモリエールから見れば「笑うべき」調子をもっていて、余りにも似ているがゆえにかえって「田舎者まる出し」におもわれるのである。「田舎者」といっても何も地理的遠方を意味しない。むしろ首都パリ近郊の「成り上がり」だからこそ、その複製ぶり、模造品ぶりが、余りにも笑わせてしまうというわけだ。ところで、縷々述べてきたように一八四八年「六月蜂起」を歴史的断層として「文学」というものは「近代文学」を意味することになった。そして「近代文学」はプチ・ブルジョア的エクリチュールと同級生であるということができる。さらに近代文学以前に「文学」はなく、「文学」の生産者も消費者もともにプチ・ブルジョア階級が担っており、したがって「文学」の出現は不可避的にプチ・ブルジョア的エクリチュール〔言語体系〕の蔓延を意味せざるを得ない。奇妙な合成物〔モンタージュ〕として生まれた近代文学。それには或る「責務」が与えられていた。
「自分の身元を確認する形式がなければ自分を認めさせられないような内容をはっきりと見えるように示す、という責務をもっているエクリチュール」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.86』みすず書房)
読者の「身元確認」装置としての機能である。一例としてモーパッサン「女の一生」を取り上げてみよう。
「彼女はけっして場所を取ることはなかった。世には、人跡未踏の地のように近親の者にも全然知られていないでいる人たちがあるものだが、彼女もそういう人たちの一人だった。その死もけっして家庭のなかに穴も空虚も生じないような人々の仲間だった。自分たちのそばに住んでいる人々の生活のなかにも、習慣のなかにも、また愛のなかにもはいるすべを知らない人々の一人だった。『リゾン叔母』と発音しても、この二語は、だれの心にも、いわばどんな愛情も、目ざめさせはしなかった。まるで『コーヒー沸し』とか『砂糖壷(つぼ)』とか言われるとおなじだった」(モーパッサン「女の一生・P.64」新潮文庫)
この場合、「リゾン叔母」は「コーヒー沸し」や「砂糖壷(つぼ)」と置き換え可能な等価物として書かれている。置き換え可能であるということはいつでも商品化可能であるということと等価である。「コーヒー沸し」や「砂糖壷(つぼ)」という単語を持ってきて「あだ名」として流通させることが可能なのはなぜか。それをおもえば容易に理解できよう。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との《あいだ》には決定的な亀裂が入っている。この亀裂は何もしないが、この亀裂があるために、シニフィアン(意味するもの)はシニフィエ(意味されるもの)をどんどん交換させていくことができる。シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とを入れ換えることもとうぜん可能になった。そのようなことは古典主義時代には不可能だったのだが。しかし資本主義は後戻りを許さないシステムでもある。近代文学に顕著な「隠喩の濫用」が始まった。そこで用いられる隠喩は、濫用にもかかわらず、けっして独自の個別性を意味しない。むしろ一般性の指示記号として用いられる「たんなる符丁にすぎない」ということになる。
「感覚の特異性を伝えようとする『気質』による意図からではまったくなく、言葉の位置づけをするためのたんなる文学的な符丁にすぎない。ラベルをみると値段がわかるようなものである」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.87』みすず書房)
文学の言葉は、バルトのいうように「ラベルをみると値段がわかるようなもの」になるのだが、しかし起こるべくして起こってくる言語的「インフレ」にまで対応するわけでもまたない。日本でいえば、一九七〇年代「オイルショック」。ひとかかえのティッシュペーパーが一万円にもなると、そこで取引は停止させられざるをえない。資本主義は自動機械でもある。資本主義は自分の危機を察するやいなや自分で自分自身の動きを保留させる機能を持つ。停止はなるほど資本主義の死を意味する。だが死ぬのは投下された資本を下手にいじっている人間だけであって、資本主義そのものが死ぬわけではない。資本主義の死は労働力商品としてのあらゆる労働者がすべて死に絶えたときだ。ところが労働力は国内での供給が途絶えてしまいそうになってくればいつでも外国から移動させることができ実際に補充される。国境はますます消滅していくが、国境の蒸発は資本の要求でもある。蒸発というより可動的というべきか。資本は資本自身で境界線〔柵〕を移動させる。
「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫)
事情がそうなっている以上、資本主義は自分で自分自身を更新していくことができる。自分で自分自身の紋切型〔ステレオタイプ〕を自動更新するのである。また逆に、近代文学において顕著だが、隠喩の濫用は、濫用にもかかわらずというより、濫用すればするほど、もはや「紋切型以上のものであろうと」しない。次のように。
「隠喩は現実の言葉のなかにほぼ完全に溶け込んで、『文学』をたいした苦労もなく知らせる紋切型以上のものであろうとはしていない。たとえば『岩清水のように澄んでいる』とか『寒さで羊皮紙のようになった手』などがそうである」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.88』みすず書房)
この種のエクリチュールを乗り越えるにはどうすればよいのか。比喩表現を比喩表現たらしめている部分「のように」を抹消してしまえばいいのだ。「羊皮紙のようになった手」=「手は羊皮紙と化した」=「手は羊皮紙だ」、と。「道を走っている犬がいる」=「犬が道のように走っている」=「犬は道だ」、等々。このようなエクリチュールが可能なのは言語をめぐる諸問題が解決されていないという事情による。自分で自分自身の紋切型〔ステレオタイプ〕を自動更新する資本主義社会では言語をめぐる諸問題はいつも発生してくるだけでなく解決は一層遠のく。もっとも、問題解決以前にエクリチュールしてしまうという方法もないではない。いわゆる「言った者勝ち」「やった者勝ち」という方法。周囲から嫌われ続けること間違いなし。百年単位で。しかしとりわけ政治家はしばしばその方法を用いる。政治家として体力的な低下が著しい時期は特にそうだ。ところがそれでは反則なのだ。むしろ規則に則って論じていくべきが妥当だろうとおもわれる。ヘーゲルはいう。
「真の反駁というものは相手の手許に飛び込み、相手の勢力圏内で立ち廻るのでなければならない。相手を彼自身の外部で攻め立て、また相手の居ない所で勝利をおさめる〔権利を獲得する〕というのは本当ではない」(ヘーゲル「大論理学・下巻」『ヘーゲル全集8・P.11』岩波書店)
「相手の非真理を示そうと思えば、なにかべつのものをもってくるのではなく、《相手に即して》示さなければならない。わたしがわたしの体系や命題を証明した上で、だからそれに対立する体系や命題は偽だ、と結論してもなんにもならない。べつの命題にとって、わたしの命題はつねに異質なもの、外的なものなのですから。命題が偽であることを示すには、それと対立する命題が真であることを示すのではなく、その命題そのものに即して偽なることを示さねばなりません」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.354」河出文庫)
なかでも、そもそも「主語とはなんぞや?」という問いがある。研究者の立場によって見解が分かれる。いずれ述べたいとおもう。
さて、とうとう避けて通れない地点までやってきた。次の文章に関する限り、ほとんど、以上でもなければ以下でもない。
「スターリン主義のイデオロギーが、なんであれーーー革命的なことでさえ、いや、とりわけ革命的なことにかんしてーーー問題提起することへの恐怖感を起こさせているのは疑いがない。ブルジョア的エクリチュールをもちいるほうが、スターリン主義イデオロギー自体を告発することよりは危険でないと考えられているのである」(バルト「エクリチュールと革命」『零度のエクリチュール・P.89』みすず書房)
補足しておこう。スターリンは反スターリン的エクリチュールを怖れない。正面に現われる敵ほどよく見えるからだ。あたかも鏡像のように。むしろ、似てはいるけれどもけっして違うもの、たとえば、トロツキー的エクリチュールを最も怖れる。あるいは、レーニンではなくレーニン没後に残された、まだ生き残っていたレーニン夫人の言葉による不意打ちを。
さて、写真の話。人々は実にしばしば「雰囲気」と口にする。神秘主義者は「オーラ」とか言って一般大衆を煙に巻く。しかし「雰囲気」という言葉は同じでも、写真で見る「雰囲気」とはなんだろうか。
「『写真』はある人間が存在したということを《証明する》(それが『写真』のノエマである)から、私は単なる戸籍上、遺伝上の類似を超えて、その人間を全体的に、ということはつまり、本質的に、《あるがままの姿で》ふたたび見出したいと思う。ここにおいて、『写真』の平明さは、なおいっそう苦痛に満ちたものとなる。なぜなら『写真』は、私の気違いじみた欲求に対して、ただ何とも言い表わしようのないあるものによってしか応えることしかできないからである。そのあるものとは明白なものである(それが『写真』のおきてである)。が、しかし、不確かなものでもある(私はそれを証明することができない)。そのあるもの、それが《雰囲気》である」(バルト「明るい部屋・P.133」みすず書房)
雰囲気が似ているからといっても他人は他人である、という場合を指していっているわけではない。まぎれもなく《ある》のだが「不確かなもの」だとしか言いようがないもの。半透明だ〔見えない〕けれども《ある》といえるもの。固有の或るもの。余り長く見つめていると、見つめている側を「狂気へと」追い込んでしまいそうになるもの。しばらく考えてみないといけない。すると、「明るい部屋」の冒頭部分へ回帰してしまうことにもなるのだが。
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