白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/鬼の一殺・応天門放火事件

2021年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

平安時代の中ば頃まで早朝の政務は大内裏の「官(くわん)ノ司(つかさ)」で行われていた。「官(くわん)ノ司(つかさ)」の「官」は「太政官(だじやうくわん)」の「政庁」。今の京都市上京区浄福寺通丸太町通下ル主税町付近がその南東部に当たるとされている。「太政官(だじやうくわん)」は「内閣」のこと。従ってそこでの政務は「閣議」を指す。早朝に行われるのが慣例。

とはいえ近現代の感覚でいう早朝とは異なり、「未(いま)ダ暁(あかつき)ニゾ火灯(とも)シテ」とあるように、夜明け前の、まだ仄暗い時間帯すでに各自灯火を灯して集合する。

「今昔(いまはむかし)、官(くわん)ノ司(つかさ)ニ朝庁(あさまつりごと)ト云フ事行ヒケリ。其(そ)レハ、未(いま)ダ暁(あかつき)ニゾ火灯(とも)シテゾ、人ハ参(まゐり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.103」岩波書店)

本文に忠実に従うと太政官の庁舎は東の庁舎と西の庁舎との二箇所があったようだ。しかし東西を仕切る箇所がどの辺りなのかは今なおはっきりわかっていない。が、ともかくこの事件の舞台はすでに著しく荒廃し出していた庁舎の東側部分に当たる。

次に描かれる異様な事態を発見したのは「弁(べん)」の下僚に当たり公文書を司る「史(さくわん)」という四等官。「弁(べん)」は諸省・諸官・諸司に渡る膨大な文書の受付・処理・上申を司る。「史(さくわん)」はそのすぐ下の官名で、それら公文書を司る。公文書取扱に関する役職で「弁(べん)」と「史(さくわん)」とは上下関係になるが、用例として、例えば次のように「殿上人」から「弁」までが取り上げられ「史」は省かれていることでその差は歴然。

「おのづから、わざともなきに、おぼえ高(たか)くやむごとなき殿上人、蔵人(くらひと)の頭(とう)、五位の蔵(くら)人、近衛の中少将、弁官など、人がらはなやかにあるべかしき十余(よ)人つどひたまへれば、いかめしう、次(つぎ)々のただ人も多(おほ)くて、土器(かはらけ)あまたたび流(なが)れ、みな酔(ゑ)ひになりて、おのおのかう幸(さいは)ひ人にすぐれ給へる御ありさまを物語(がた)りにしけり」(新日本古典文学大系「行幸」『源氏物語3・P.70~71』」岩波書店)

或る日、朝庁(あさまつりごと)に遅刻した一人の史がいた。閣議への遅刻などもとよりとんでもない態度である。慌てた史は遅刻したことに怯えながら怖わ怖わ太政官へ駆けつけた。また、原文に「中(なか)ノ御門(みかど)」から入ったとある。「中(なか)ノ御門(みかど)」は「東(ひむがし)ノ中(なか)ノ御門(みかど)」を指す。「東(ひむがし)ノ中(なか)ノ御門(みかど)」=「待賢門(たいけんもん)」。今の京都市上京区大宮通と椹木町通との交差点西側付近。石碑は上京区猪熊通下立売通下ル大黒町にある。

待賢門から大内裏へ入って太政官庁舎の方向を見ると既に弁の従者・小舎人(ことねり)などが集っている。弁はもう庁舎の中へ入って待機しているようだ。上司に当たる弁が先に参っているというのに部下の史が後から遅刻してくるなど考えられもしない。恐れた史は庁舎の傍に寄りかかって中の様子を覗き込んでみた。すると中は火が消えている。人がいる気配一つない。

「史、弁ノ被早参(そうさんせられ)にけるに、我(わ)レニ史ニテ遅参シタル事ヲ怖(おそ)レ思(おもひ)テ、忽ギテ東(ひむがし)ノ庁(ちやう)ノ東ノ戸ノ許(もと)ニ寄テ、庁ノ内ヲ臨(のぞ)ケバ、火モ消(きえ)ニケリ。人ノ気色(けしき)モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.103~104」岩波書店)

どうしたことかと史は極めて不審に思い、宮中で灯火・薪油・清掃などを司る「主殿寮(とのもれう)」の役人を呼び出し、灯火を灯させて庁舎内に入った。見ると、血塗れになった弁の頭部が弁の席に晒し置かれており、髪の毛がべっとりとへばり付いている。たまげた史は怯えながらもその周囲を検する。弁が身に付けていた「笏(しやく)・沓(くつ)」といった身の周りのものもまた血みどろになって置き捨てられている。さらに弁の扇があった。扇には弁の筆跡で殺害された時の方法が書き付けられ残されていた〔もっとも、鬼は何にでも変容するのであえて弁の筆跡を真似たのかもしれない〕。畳には大量の血溜まり。しかしその他のものは何一つ残されていない。さらに弁の胴体自体はどこにも見当たらない。

「史、主殿寮(とのもれう)ノ下部(しもべ)ヲ召シテ、火ヲ燃(とも)サセテ、庁ノ内ニ入(いり)テ見レバ、弁ノ座ニ赤ク血肉(ちじし)ナル頭(かしら)ノ髪所々(ところどころ)付(つき)タル有リ。史、此(こ)ハ何(いか)ニト驚キ怖レテ、傍(かたはら)ヲ見レバ、笏(しやく)・沓(くつ)モ血付テ有リ。亦(また)扇有リ。弁ノ手ヲ以(もつて)、其ノ扇ニ事ノ次第共被書付(かきつけられ)タリ。畳ニ血多ク泛(こぼれ)タリ。他(ほか)ノ物ハ露(つゆ)不見(み)エズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.104」岩波書店)

何度か述べているようにこの種の殺害方法は、鬼による殺しの手法として最もポピュラーなケース。触れればすぱりと斬れる札束のようだ。そのうち夜が明けた。次々と登庁してくる職員らで辺りは騒然となった。ともかく、そのままにしておくわけにはいかず、弁の従者らは現場に残された弁の頸(くび)だけを持ち帰った。

しかし、だからといって、「朝庁(あさまつりごと)」=「早朝の政務」が早急に廃止されるわけでは何らない。事件が発生した現場はあくまで東庁舎内部に過ぎない。東庁舎は使用不可となりはしたが西庁舎が空いている。だからその後は西庁舎で公務が続行された。

しかしこの記事の中で注目したいのは事件発生についてわざわざ「水尾(みのを)ノ天皇ノ御時」とある点。「水尾(みのを)ノ天皇」は清和天皇のこと。在位は貞観一年(八五九年)〜貞観十六年(八七四年)。富士山噴火。播磨国地震発生。貞観地震・津波発生。鳥海山噴火。開聞岳噴火。など様々な災害に見舞われているが、一方、「応天門放火事件」(八六六年)を見逃すわけにはいかない。宮廷内の政治権力闘争。だがここでは政争自体に絞って詳細に語るのが目的ではなく妖怪〔鬼・ものの怪〕とそれら政争との関係を示唆することに主眼を置いてきた。「今昔物語」はその意味でこそ遥かに重要な資料になるのである。「応天門」で起きた「狐の恩返し」については下をクリック↓

熊楠による熊野案内/変容する狐3

さて。「女性初」というキャッチフレーズが世間を賑わせているようだが、そんなことは欧米ではとっくの昔に達成されていて、もはや何らの驚きも感じない。内閣広報官続投だとか。民間の大企業はもちろんのこと、小規模な市民運動団体、アルコール・薬物依存症者のための自助グループの中でさえ、あの程度の女性は幾らでもいる。さらに民間の様々な企業あるいは社会活動に携わるグループでは、医療用語でいう「共依存」を避けるため様々な工夫がなされている。ところが肝心の今の日本政府内にはそのような重要極まりない工夫が毫も見られない。組織維持のために最低限必要とされる危機管理の初歩すら知らない。「共依存」のわかりやすい事例は江戸時代すでにあった。まだ十代の熊野比丘尼が歌を歌い舞いを舞い時には体を売る。それを三十歳代の「御寮(おりやう)」(年配女性)が仕切ることで両者の相互依存関係が出来上がる。そして「御寮(おりやう)」なしには若年の比丘尼らは路頭に迷ってしまう。従って「御寮(おりやう)」は大変頼り甲斐のある女性として、また周囲から頼りにされることで始めて生きている充実感を堪能することができるとともに快感を感じることができるようになる。そのうち、常にそのような「共依存」関係が出来上がっていないと逆に居ても立ってもいられない不快感を催すようになる。

「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)

柳田國男はいう。

「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)

さらに西鶴に戻ってみる。

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

また熊楠にしてみれば論じるまでもない世相だったのであり、なおかつこういった形式は地方都市へ行けば一九四五年の敗戦までずっと続いた。

もう一点。東京五輪について。このような状態のもとで、もし無事に開催終了できたとすれば、主導する側は何も自民公明連立与党でなくても何ら構わなかったのではと十分に言える。逆に今の野党が主導した場合、もし途中で開催終了できない事態に陥ったとすれば、その時はなるほど自民公明連立与党でなくては無事成し遂げることはできなかったと言えるだろうけれども。

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熊楠による熊野案内/三年目の亡霊

2021年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、大和国(やまとのくに)に一人の女子がいた。「形美麗(かたちびれい)ニシテ、心労(らう)タカリケレバ」=「美少女でとても気立てがよく」、両親は大切に育てていた。一方、河内国(かはちのくに)に一人の男子がいた。「年若クシテ、美(うるはし)カリケレバ」=「若くから端正な顔立ちで」、京の都へ宮仕えに出ており、笛が巧み、性格は折目正しく魅力的だったため、両親は心から大切に思っていた。

そのうち、大和国の女性の評判が河内国の男性の耳に入ってきた。男性は心のこもった丁寧な恋文をしたため贈ったが、しばらくの間は聞き入れてもらえなかった。男性は根気よく自分の気持ち伝えることにした。するとやがて女性の両親も話を聞き入れてくれ、女性に会わせてくれると承知した。

二人は夫婦になる。相思相愛の間柄でたちまちのうちに深く愛し合うようになった。たいへん順調な結婚生活を続けるうちに三年が経った。するとその頃、思いも寄らぬことに夫が病を患った。月日を経ても治ることなく、とうとう死んでしまった。

「其ノ後、無限(かぎりな)ク相思(あひおもひ)テ棲(すみ)ケル程ニ、三年許(ばかり)有テ、此ノ夫(をうと)、不思懸(おもひかけ)ズ身ニ病(やまひ)ヲ受テ、日来(ひごろ)煩(わづらひ)ケル程ニ、遂ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.138」岩波書店)

妻は夫を精一杯愛していたから、ふいのことに嘆き悲しんで戸惑うばかり。しかし夫の訃報を聞きつけた他の男性らからどんどん求婚の申し込みが舞い込んできた。それでも妻は夫のことが忘れられず恋慕ったまま既に三年を経るに至った。

ところで、死後三年経てばそれは一つの区切りとされる。しかし残された妻は亡き夫のことを忘れられようはずもなく、悲嘆に暮れ泣き悲しむばかりの日々を送っていた。そんな或る日の真夜中。遠くから笛の音色が聞こえる。妻は思う。「しみじみと趣深い笛の音色、まるで亡くなった夫のよう」。ますます愛しさが募ってきた。涙に暮れて聴いていると、笛の音はだんだん家のそばまで近づいていた。そして妻の部屋の蔀(しとみ=板で出来た窓)の前までやって来ると立ち止まった。「この蔀を開けてくれ」と声がする。ほかでもない亡き夫の声だ。しみじみと情は動くものの、あまりの怪異に恐る恐る起き上がって蔀の隙間からそっと外を窺ってみると、まぎれもない亡き夫が突っ立っている。

「女、常ヨリモ涙ニ溺(おほほ)レテ泣キ臥(ふし)タリケルニ、夜半許(よなかばかり)ニ、笛ヲ吹ク音(ね)ノ遠ク聞エケレバ、『哀レ、昔人(むかしびと)ニ似タル物カナ』ト、弥(いよい)ヲ哀(あは)レニ、思(おぼえ)ケルニ、漸(やうや)ク近ク来(き)テ、其ノ女ノ居タリケル蔀(しとみ)ノ許(もと)ニ寄来(よりき)テ、『此レ開ケヨ』ト云フ音(こゑ)、只昔ノ夫ノ音(こゑ)ナレバ、奇異(あさまし)ク哀レナル物カラ怖(おそろ)シクテ、和(やは)ラ起(おき)テ蔀ノ迫(はさま)ヨリ臨(のぞき)ケレバ、男現(あらは)ニ有テ立(た)テリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.138」岩波書店)

夫は装束の紐を解いていて、はらりとぶら下がっている。さらにその体から煙が立ち上っている。「身ヨリ煙(けぶり)ノ立(たち)」は「身を焦がす恋情・萌ゆる恋心」を表わすとともに、地獄で受けている拷問の凄まじい名残りゆえに熱を帯びて湧き立つもの。妻は怖ろしさを覚え言葉を失ってしまう。それを見た亡き夫はいう。「そなたが絶句するのも道理だ。この激しい愛情を抑えきれず、許されるはずのない時間を頂いて会いに来たわけだが、これほど怖がっておられる。ではもう帰ることにしよう。地獄では日に三度の拷問を受けているよ」。そう言うやふと消え失せてしまった。

「紐(ひも)をぞ解(とき)テ有(あり)ケル。亦、身ヨリ煙(けぶり)ノ立(たち)ケレバ、女怖シクテ物モ不云(いは)ザリケレバ、男、『理也(ことわりなり)ヤ。極(いみじ)ク恋(こひ)給フガ哀レニアレバ、破無(わりな)キ暇(いとま)ヲ申シテ参リ来(き)タルニ、此(か)ク恐(お)ヂ給ヘバ、罷(まか)リ返(かへり)ナム。日ニ三度(みたび)燃(もゆ)ル苦(く)ヲナム受(うけ)タル』ト云(いひ)テ、掻消(かきけ)ツ様(やう)ニ失(うせ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第二十五・P.139」岩波書店)

残された妻は夢かと思ったがそんなはずはなく、笛の音も姿形も確かにありし日の夫のもの。奇妙なことだなあと思っていたが、いずれにせよ考えても仕方ないことなのだろう。

さて、経済的取引で「引き合う」という。互いに等価な取引の場合を指していうが、本当に「引き合う」ことなど実に稀なケースだ。また恋愛において相思相愛の場合、互いに「呼び合う」。それがいつからかなまって「夜這い」になったと柳田國男はいっている。そこでこの説話を通して見えるものはなんだろうか。第一に「亡き夫=亡霊」としての再登場。第二に相思相愛関係における「呼び合い=夜這い」。第三にまぎれもない「性」について。変換してみよう。「貨幣循環・反復される言語・三年という風習的区切りに関係なく連綿と打ち続いていく性の力」。ということになる。

なお、差異性と反復について。繰り返しニーチェが参照されなくてはならないだろう。

「私たちを取り巻く世界における《なんらかの》差異性や不完全な循環形式性の現存は、それだけでもう、すべての存立しているものの或る一様の循環形式に対する一つの《充分な反証》ではないのか?循環の内部での差異性はどこから由来するのか?この経過する差異性の存続期間はどこから由来するのか?すべてのものは、《一つのもの》から発生したにしては、《あまりにも多様すぎる》のではないか?そして多くの《化学的な》諸法則や、他方また《有機的な》諸種類や諸形態も、一つのものからは説明不可能ではないか?あるいは二つのものからは?ーーーもし或る一様の『収縮エネルギー』が宇宙のすべての力の中心のうちにあると仮定すれば、たとえ最小の差異性であれ、それがどこから発生しうるのだろうか?が疑問となる。そのときには万有は解体して、無数の《完全に同一の》輪や現存在の球とならざるをえないことだろうし、かくて私たちは無数の《完全に同一の諸世界を並存的に》もつことだろう。このことを想定することが、私にとっては必要なのか?同一の諸世界の永遠の継起のために、或る永遠の並存を?だが《これまで私たちに周知の世界》のうちなる《数多性や無秩序》が異議を唱えるのであり、発展の《そのような》同種性が存在したということはあり《え》ないことであり、さもなければ私たちとても或る一様の球形存在者になるという分け前に与ったにちがいないことだろう!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一三二五・P.690~691」ちくま学芸文庫)

一度ならず二度三度と困難もまた繰り返されるほかない。

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熊楠による熊野案内/鬼の領有権

2021年02月26日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

皇族の名簿作成、季禄、衣服の支給などを職務とする部署を正親司(おほきみのつかさ)といった。その五位の者を「正親(おほきみ)ノ大夫(たいふ)」という。或る「正親(おほきみ)ノ大夫(たいふ)」がまだ若年だった頃のエピソード。

いつ頃からか、宮仕えしている女性と付き合い始め、夜になるとしばしば女性のもとに通うようになった。とはいえ連日連夜欠かさずというほど熱心ではなく気まぐれなもので、或る日、久しぶりに夜を共にしたいと思い、いつも二人の仲立ちをしている連絡役の女性に「今夜は彼女に会いたいから準備しておいてほしい」と言ってみた。すると仲立ちの女性はいう。「はい、それは簡単です。でも今夜は数年来の知人が地方から我が家に訪問してきて泊まっていくので、殿においでいただいたとしても、しかるべき部屋が空いておりません。困りました」。

「呼(よび)奉ラム事ハ安ケレドモ、今夜、此ノ宿ニ年来(としごろ)知(しり)タル田舎人(ゐなかびと)ノ詣来(まうでき)テ宿(やどり)テ候(さぶら)ヘバ、可御(おはすべ)キ所ノ不候(さぶらは)ヌガ侘(わび)シキ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・118」岩波書店)

正親大夫は「本当か?」と思いつつ仲立ちの女性の家を覗き込んでみる。なるほど馬や下人らが沢山入っている様子。男女が身を隠して逢い引きする所など見当たらない。女性は考え込んでいたが、いい方法を思いついた、という。「ここから西へ行くと無人のお堂があります。今夜はそこへおいで下さいませ」。

「此ノ西ノ方ニ、人モ無キ堂候フ。今夜許(こよひばかり)、其ノ堂ニ御(おはし)マセ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・118」岩波書店)

言うと仲立ちの女性は近くの家まで走って正親大夫の愛人の手を引いて連れてきた。一行は西方向へ100メートルあまり、連れ立って歩くと古いお堂がある。仲立ちの女性はお堂の扉を開けて自分の家から持ってきた畳一畳を敷き、明け方にはまた参りますといい、二人を残して帰っていった。正親大夫とその愛人は畳の上に横になり、愛の囁き合いに耽っているとそのうち夜も更けてきた。一人の従者も連れてきておらず、無人の古寂れたお堂なので何となく薄気味悪い。

夜中になった。もはや真っ暗。すると堂内の本尊の背後から灯火の灯りが仄と揺らめき出てきた。誰か人がいるのかと思って見ていると、一人の童女が灯火を持って現われ、本尊の仏像に奉げて置いた。

「夜中許(よなかばかり)ニモ成(なり)ヤシヌラムト思フ程ニ、堂ノ後(うしろ)ノ方(かた)ニ火ノ光リ出来(いでき)タリ。人ノ有(あり)ケルニコソト思フ程ニ、女(め)ノ童(わらは)一人、火ヲ灯(とも)シテ持来(もてき)テ、仏ノ御前(まへ)ト思(おぼ)シキ所ニ居(すゑ)ツ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)

正親大夫は何たる異例の事態か、えらいことになったと、ぞっとしていると本尊の背後から独りの女房が出現した。女房はしばらく脇を向いて考え込むような風情で正親大夫を見ていたかと思うと、こういう。ここに入ってきておられるのは一体どのようなお方であろうか。けしからぬことと言わねばならない。私はこの堂の主(あるじ)である。主(あるじ)に向けて何の断わりもなく、そなた、なぜここに居るわけなのか。この堂はこれまで誰一人、宿に使ったことなど一度としてない。

「此(ここ)ニハ何(いか)ナル人ノ入御(いりおは)シタルゾ。糸奇怪(いときくわい)ナル事也。丸(まろ)ハ此(ここ)ノ主(あるじ)也。何(いか)デカ主モ不云(いは)ズシテ、此(かく)ハ来(きた)レル。此(ここ)ニハ、古(いにしへ)ヨリ人来(きた)リ宿ル事無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)

この場合の、「糸奇怪(いときくわい)ナル事」は「けしからぬぬしの心ぎはかな」(「宇治拾遺物語・巻第十四・二・P.325」角川文庫)、というに近い。「けしからぬことよのう、おぬしの心構えは」。

突然出現した妖怪〔鬼・ものの怪〕と思われる女房の凄まじい気迫に、正親大夫は押し潰されそうな恐怖で一杯になる。そしていう。そういうこととは露知らずとんだ失礼を致しました。女房は命じる。ただちに出て行かれよ。でないと、必ず、そなたの為にならぬと思え。

「速(すみやか)ニ疾(と)ク出給(いでたま)ヒネ。不出給(いでたまは)ズハ悪(あし)カリナム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)

慌てた正親大夫は愛人の手を引っ張り上げ外へ出ようとする。が、愛人は既に汗びっしょりで起き上がることができない。正親大夫は無理にでも起き上がらせようと自分の肩に寄り掛からせて脱出を試みる。立ち上がれなくなっている愛人を、それでも何とか家まで連れ運び門を叩いて開けさせ帰宅させた。正親大夫は自邸へ帰った。

「女、汗水(あせみづ)ニ成(なり)テ否不立(えたて)ヌヲ、強(あながち)ニ引立(ひきたて)テ出(いで)ヌ。男ノ肩ニ引懸(ひきかけ)テ行(ゆき)ケレドモ、否不歩(えあゆま)ヌヲ構(かまへ)テ主(あるじ)ノ家ノ門(かど)ニ将行(ゐてゆき)テ、門ヲ叩(たたき)て、女ヲバ入レツ。正親ノ大夫ハ家ニ返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・119」岩波書店)

自邸へ帰った正親大夫は髪の毛が逆立つような恐怖を拭いきれず、体調も崩れてきたようで、翌日はほぼ一日臥せっていた。夕方頃、昨夜の愛人の衰弱し切った姿が気がかりになってきた。そこで様子を聞きに仲立ちの女性の家を訪ねた。女性はいう。あのお方は帰宅されてからまるで魂が抜けたかように、ただ死んでいくばかりの様相で衰弱が激しく、どんなことがあったのかと人に問われても何一つお答えになられません。皆びっくりしてしまって。彼女は身寄りも知人もない方で、さらに回復の見込みもない様子。ともかく死穢を避けようと外に仮小屋を作ってそこへ連れ出したところ、しばらくするとすうっと息を引き取られました。

「其ノ人ハ、返リ給(たまひ)ケルヨリ物モ不思(おぼ)エズ、只死(しに)ニ死(し)ヌル様(やう)ニ見(みえ)ケレバ、『何(いか)ナル事ノ有(あり)ツルゾ』ナド人々被問(とはれ)ケレドモ、物ヲダニ否不宣(のたまは)ザリケレバ、主(あるじ)モ驚(おどろ)キ騒(さわぎ)て、知ル人モ無キ人ニテ有レバ、仮屋(かりや)ヲ造(つくり)テ被出(いだされ)タリケレバ、程モ無ク死(しに)給ヒニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十六・120」岩波書店)

そう聞かされた正親大夫はいう。実はあのお堂に鬼が出た。ひどい話だ。しかし仲立ちの女性は自分もそんな話はついぞ知らなかったと驚くばかりだった。ところで妖怪〔鬼・ものの怪〕はなぜ「女房姿」で出現したのか。というより、そもそも妖怪〔鬼・ものの怪〕は他の何物にでも変容可能であり、その点で貨幣と異なるところはまるでない。この説話でもそれを立証しにわざわざ登場してきたかのように見えるのはどうしてだろう。

ちなみに後日譚が書かれている。「其ノ堂ハ、于今有(いまにあり)トカヤ。七条大宮(おおみや)ノ辺(わたり)ニ有(あり)トゾ聞ク」。今の京都市下京区七条大宮交差点に立ってみる。すぐそばには西本願寺の広大な敷地が見える。古寂れた堂はもはやどこにも見当たらない。

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熊楠による熊野案内/主殿寮長官の過去

2021年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

宮中で湯沐・灯火・薪油・庭の清掃などを司る「主殿寮(とのもりづかさ・とのもれう)」。「源氏物語」成立から約百年後、「源章家(みなもとのあきいへ)」という人物が主殿寮(とのもりづかさ・とのもれう)長官になった。主殿寮は大内裏の東北角に設置された「茶園」の西側に位置した。今の京都市上京区一条通(いちじょうとおり)と大宮通(おおみやとおり)との交差点から西へ向かい智恵光院通(ちえのこういんとおり)までの間の南側、鏡石町(かがみいしちょう)付近にあったと考えられる。

源章家(みなもとのあきいへ)が「肥後(ひご)ノ守(かみ)」を務めていた頃のエピソード。肥後(ひご)は今の熊本県。章家(あきいえ)にはまだ幼い男の子がいたが重病を患っており家族ら周囲はたいへん気遣っていた。そんな折、章家は秋の名物である木鷹狩(こだかがり)に出かけた。近い身内の者が重病に陥っている時には慎むべきとされている殺生行為にわざわざ出かけるなど、付き従う警護の武士や同行する親族にすれば、なんと忌まわしいことかと不吉な感情を覚えた。そう思っている間もなく男の子は死んでしまった。母は胸の潰れる思いでもはや消えいってしまわんばかり。男の子の死体から片時も離れず、気持ちは折れてしまいただただ泣き臥せっていた。数年来仕えている女官や武士らも男の子が生きていた頃から見馴れた、無邪気にはしゃいで可愛らしく思われた様子が脳裏をよぎり、堪えきれずに嗚咽さえ漏らしていた。ところが父の章家は幼児の死を見届けただけで、もうその日一日すら置くことなくさっさと狩りに出かけた。その姿を見ていた家中の者は、何を言っても仕方のない、恥一つ知らぬ無慈悲な人だと諦めていた。

「肥後(ひご)ノ守(かみ)ニテ有ケル時、其ノ国ニ有ケルニ、極(いみじ)ク愛シケル男子有(あり)ケルガ、日来(ひごろ)重ク煩(わずらひ)ケレバ、此レヲ歎キ繚(あつかひ)ケル程ニ、小鷹狩(こだかがり)シニ出(いで)ケルヲダニ、郎等(らうどう)・眷属(くゑんぞく)、世ニ不知(しら)ヌ疎(う)キ事ニ思ヒ云ケルニ、其ノ子遂ニ失(うせ)ニケレバ、其ノ母死入(しにいり)タル如クニテ、其ノ死(しに)タル児(ちご)ノ傍(かたはら)ヲ不離(はなれ)ズシテ、泣沈(なきしづ)ミテ臥(ふし)タリケリ。女房・侍(さぶらひ)ナドモ、年来(としごろ)其ノ児ヲ見馴(みなれ)テ、心バヘノ厳(いつくし)カリケルヲ思ヒ出(いで)ツツ、難忍(しのびがた)ク泣キ迷(まど)ヒ合ヘリケルニ、章家ハ、児死(しに)ヌト見置テ、其ノ日ヲダニ不過(すぐ)サズ、狩ニ出テ行ニケレバ、此レヲ見(み)ト見ケル者ハ、云フ甲斐(かひ)無ク慙(はぢ)無キ事ニナム思ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.354」岩波書店)

高名な僧侶もそれを見て、肥後守の機嫌をそこねないよう慎重な言葉遣いで何か進言しようと思うものの、かといって急に妙案が思い浮かぶわけもない。ただ、尋常一様の心ばえではない、妖怪〔鬼・ものの怪〕に取り憑かれてらっしゃるのでしょうと言えば言えるに過ぎなかった。

ところで正月十八日は観世音菩薩に詣る縁日。観音が衆生の前に姿を現わす日とされ、人々はこの日に願を掛けて祈った。章家も従者を引き連れて寺院に詣でる。その途中、章家は、野焼きの後に少しばかり残っている草原を見つけた。きっと菟が隠れているはずだと言い、従者に命じて狩らせてみたところ、菟の子を六匹捕獲できた。それを見た従者らはいう。今日は年始の十八日。観音詣の日でございましょう。せめて帰途ならましとはいうものの、今はならぬものです。

「年ノ始メノ十八日ニ御物詣(ものまうで)セサセ給フニ、此レ不候(さぶらふ)マジキ事也。責(せめ)テハ還向(ぐゑんかう)ニモ非(あら)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.355」岩波書店)

だが章家は聞かない。自ら野に火を放ち、菟が飛び出してくるのを待った。しかし見つかったのはついさっき捕らえた子菟の親と思われる菟一匹。従者に打ち殺させた。生捕りにした六匹の子菟はそれぞれ従者らに持たせて置き、参詣を終えて官舎へ帰った。さて、官舎に設けてある武士の詰所の入り口に「平(たいら)ナル石ノ大(おほき)ナル」=「沓(くつ)脱ぎの石」が置いてある。章家はその石の上に立ち、観音参詣の際に捕獲した六匹の子菟を持って来させると両手でひと抱えにして「いい子だ、いい子だ」とあやしている。見ていると、年頭の「走リ者」=「鹿、猪、菟など」をこのまま生かしておいて喰ってしまわないのは縁起がよくない、と言い出すやいなや詰所入口の大きな石に六匹の子菟を打ちつけ殺し潰してしまった。

「『年ノ始メノ走リ者ヲ生(いけ)テ、不食(くは)ざらむは忌々(いまいま)シキ事也』ト云フママニ、其ノ平ナル石ニ、六ツノ菟ノ子ヲ一度ニ打(うち)ヒシゲテケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.355~356」岩波書店)

従者らは常日頃から主人の狩りを面白がって囃し立てたりしていたが、この時ばかりはひどい痛々しさを覚え、みんなとっとと立ち去ってしまった。肥後守はひと抱えにした六匹の子菟をその日のうちに焼き鳥にして残さずたいらげた。

さらに。肥後国に「飽田(あきた)」という狩猟場が設けてあった。「飽田(あきた)」は今の熊本県熊本市の一部に編入され消滅。かつて「飽託郡(ほうたぐん)」といった。狩猟場としては良好なのだが元々は倒木が多く、大小取り混ぜて石がごろごろ転がっていた。そのままでは馬を上手く走らせることができない。十頭の鹿が出てきたとしても必ず六、七頭は逃げられてしまう。そこで肥後国から三千人の人員を集めて倒木を撤去し石を拾い高低差を滑らかに整備し直した。また、他の山々から鹿を大量に追わせて整備した狩猟場へ駆り立てた。すると十頭の鹿が出てきた場合、今度は十頭すべてを狩り獲ることができるようになった。章家はたまらず悦び溢れ、狩れる限りの鹿を無数に狩り獲った。

「此ノ守、国ノ人ヲ発(おこ)シテ三千人許(ばかり)ヲ以テ、其ノ石ヲ皆拾(ひろ)ヒ去(のけ)サセテ、窪(くぼ)ミタル所ニハ其ノ石ヲイ掘(ほ)リ埋(うづみ)テ、上ニ土ヲ直(うるは)シク置(おか)セ、高キ所ヲバ、馬ノ走リ不当(あたる)マジキ程ニ引(ひか)セナドシテ、其ノ後、異山々(ことやまやま)ノ鹿ヲ、多(おほく)ノ人ヲ集メテ其ノ山ニ追ヒ懸(かけ)ケレバ、十出来(いでく)ル鹿ノ、一ツ遁(のがる)ル事無カリケリ。然レバ、守極(いみじ)ク喜ビテ、員不知(かずしら)ヌ鹿ヲ取ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.356」岩波書店)

肥後国の人々には捕らえた鹿の皮をなめして献上するよう命じ、一方章家は鹿の肉ばかりを肥後国庁公舎の南の庭一面に隙間なくぎゅうぎゅう詰めに並べ置かせた。肉はまだまだ集まったのでさらに東の庭にも隈なく並べ置かせた。この作業は休日なく続けられた。人々はそれを「罪」と見た。

「其ノ鹿ノ皮共ヲバ、国ノ物共ニ、『出(いだ)シ奉レ』トテ預ケテ、鹿ノ身ノ限(かぎり)ヲ国府ニ運バセテ、館(たち)ノ南面(みなみおもて)ノ遥々(はるばる)ト広クテ木モ無キ庭ニ、隙(ひま)モ無ク並ベ置(おか)セタリケレバ、其レニモ置キ余リテ、東面ノ庭ニゾ置タリケル。此様(かやう)ニ昼夜朝暮(ちうやてうぼ)ニ緩(たゆ)ム月日モ無ク、罪ヲナム造ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十七・P.356」岩波書店)

ところで、章家の行為は警護の武士や家族らからも忌まわしく思われるほど「罪」なものだったのだろうか。なるほど当時の価値観を妥当させて考えてみれば確かにそう見えはしたろう。だが章家は自分自身に向けて集中される「罪」について、その「罪」が重ければ重いほど「罪」ゆえにますます「快感」に感じていることは明らかと言わねばならない。宮廷から狩猟専属の人員として指定されたわけでもない。また、その種の特異な嗜好性の持ち主として突出していたわけでもおそらくない。例えばニーチェの場合、古代ギリシアから近代にかけて哲学者としてだけでなく歴史家として膨大な知識を持っていた。ニーチェから見れば苦しんで考え込むまでもない凡庸な人間の特徴の一つに分類される。

「残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ。ーーー人間は密(ひそ)かに自己の残忍さによって誘われているのであり、《自己自身に対して》向けられた残忍のあの危険な戦慄によって突き進められている」(ニーチェ「善悪の彼岸・二二九・P.212~213」岩波文庫)

次のようにも述べる。「狂気」と述べているがニーチェにすれば何ら「狂気」ではない。ただ、世間では広く知られていないため、そう書いているに過ぎない。

「そのほかにも狂気がある。それは行為の《まえ》の狂気である。ああ、君たちはそのような狂気をもった魂の奥に十分深く穿(うが)ち入ることがなかったのだ」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・青白い犯罪者・P.57」中公文庫)

とはいえ、わかりにくい文章なのも確か。それについてフロイトはこう論じている。

「ひどく逆説的に聞こえるかもしれないが、私はこう主張せざるをえない、つまり、罪の意識のほうが犯行よりも前に存在していたのである。罪の意識が犯行から生じたのではなく、逆に、犯行が罪の意識から生じたのだ、と。だから、これらの犯罪者たちを、罪の意識からの犯罪者と名づけることは、きわめて正しいことだと思う」(フロイト「精神分析的研究からみた二、三の性格類型」『フロイト著作集6・P.134』人文書院)

事実上の罪など何一つ犯されてはいない。だが「罪の意識」はただ単なる観念に過ぎないにもかかわらず、いったん頭の中へ潜り込んでくるといつまで経ってもまとわりついて離れなくなる。どうすべきか。意識に上ってきた「罪の観念」を実行に移し現実化することで気持ちがすっきりと落ち着く。人間にはもともとそういう傾向がある。それを「マゾヒズム」と呼ぶことにしよう。ドゥルーズはこの種の「マゾヒズム」に「ユーモア」を、「服従のうちにひそむ嘲弄」を、「逆説的なしかたで発見」された快感を思う存分舐め尽くし身に沁みて味わい尽くす態度を、抽出している。

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)

というふうに実際、なおかつ徹底的に馬鹿にされているのは誰だろうか。考えてもみよう。著しく釣り合いが取れていない《かのように》見えて、実を言うと、極めて妥当な等価性が秘められてはいないだろうか。とすれば、この上ない嘲弄を込めて今の日本政府を眺め下ろすこともできない相談ではない。

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熊楠による熊野案内/上司交代・呼び出された書記官

2021年02月24日 | 日記・エッセイ・コラム
前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、日向(ひうが)ノ守(かみ)が人事異動で都へ上京することになった。日向国には「新司(しんし)」=「新しい国司」がやって来る。その際、事務書類一式の引き継ぎが行われる。事務処理等文書作成には日向国在庁書記官が当たる。京(みやこ)へ上京することになった日向守は事務処理能力に最も優れた一人の書記官を呼び出して一室に缶詰にし、文書改竄を命じた。この書記官は思う。文書改竄に当たっている私が引き継ぎの際、新任の国司に何か余計なことをしゃべりはしないかと日向守は疑っているに違いない。きっと不吉な事態が起こるだろう。

「此(かか)ル構ヘタル事共ヲ書(かか)セテハ、新司ニヤ語リヤ為(せ)ムズラムト、守ハ疑ハシカルラムカシ。気(け)シカラヌ心バヘ有(あん)メレバ、定メテ悪(あし)キ事モコソ有(あ)レ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.351」岩波書店)

とはいえ、書記官が缶詰にされた部屋のそばには昼夜を問わず常に四、五人の警護の者が見張りに付いている。ほんの僅かの外出さえままならない。気味悪さを感じながらも二十日ほどで事務書類作成を終えた。書類一式がしたため整えられると日向守は「絹(きぬ)四疋(しひき)ヲナム禄(ろく)ニ取(とら)セタリケル」。禄(ろく)は褒美のこと。また反物(着物)の場合、鯨尺(くじらしゃく)で測るため、「絹(きぬ)四疋(しひき)」=「長さ約92メートル・幅約38センチ」。通例は「一疋」で成人用の着物と羽織とを「対(つい)」=「二つ揃って一組」に仕立てる。「一疋」=「一対の着物」。当時の規格上、性別や体格によって異なるものの、一応それが平均的とされた。だからこの場合、平均的成人向け「四対の着物」に費やす分量の絹が「褒美名目」で書記官に与えられたことになる。

書記官がようやく部屋から退出しようとしていると日向守が郎等(警護の従者)を呼んで密談している場面が目に入った。しばらくして、この書記官は郎等に呼び出された。「そなた一人でこちらへ」という。行ってみるといきなり二人の郎等が両脇から近づき捕らえられた。覚悟はあったものの書記官は尋ねる。「日向守の仰せでしょう。で、処分はどこで?」。郎等は答える。「人目に付きそうにない物陰で、ひそかに」。

「可然(さるべ)カラム隠レニ将行(ゐてゆき)テ、忍(しのび)ヤカニコソハ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.352」岩波書店)

書記官はいう。日向守のご命令でそうされるということであれば、私からは何も申し上げようがありません。ただ、在任中のここ数年間、ともにお付き合いいただいたことでもあるし、少し私の願いを聞いてはくれませんか。郎等は何のことかと尋ねる。書記官は続ける。私には八十歳になる母がいます。家に置いてずっと養ってきました。さらに十歳ほどの子どもがおります。家族です。一度きりでよい、顔を見たいと思います。私の家まで立ち寄ることはできないでしょうか。

「年八十ナル女ナム、家ニ置テ年来養ヒ候(さぶらひ)ツル。亦(また)、十歳許(ばかり)ナル小童(こわらは)一人候フ。彼等(かれら)ガ顔ヲナム、今一度見ムト思給(おもひたま)フルヲ、彼(か)ノ家ノ前ヲバ将(ゐて)渡シ給(たまひ)テムヤ。然ラバ、彼等ヲ呼出(よびいで)テ顔ヲ見候ハム」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.352」岩波書店)

それだけのことならと郎等らは許しを与え、書記官の家まで廻り道することにした。書記官を馬に乗せ、二人の郎等が馬の手綱を両側から握りしめて書記官が馬を突然走らせないようにし、その後ろにはさらに武具を背負った郎等らが馬に乗って付いてくる。

家に着いた。書記官は家の中に郎等らを入れた上で、母の名を呼んだ。母は家族に寄りかかりながらよろよろと玄関まで歩いて出てきた。郎等らが見ると何と本当に八十歳にはなるだろう、不気味なほどはなはだしい老婆。髪の毛はあたかも「灯心(とうしみ)ヲ戴(いただき)タル様」。

「灯心(とうしみ)」は「灯心草・燈心草(とうしんそう)」ともいう。藺草(いぐさ)の茎の髄の白い部分。江戸時代になると灯火を灯すための生活必需品として用いられた。もっとも、藺草自体は畳表としての利用が最もポピュラー。独特の香りが茶室などに好まれる。また、採取される部位は異なるが漢方薬として用いられ、利尿剤・尿道炎治療薬・淋病治療薬としても知られる。今でも田んぼの畦や湿地帯などに生える。薄緑色の細い花茎が何本も真っ直ぐ1メートルほど伸びており、塊になって見える。例えると、忌野清志郎の髪型を緑色に染めたような様相なのですぐそれとわかる。

老婆に続いて書記官の妻が十歳ばかりの子を連れて姿を見せた。

「母、人ニ懸(かか)リテ門(かど)ノ前ニ出来(いでき)タリ。実(まこと)ニ見レバ、髪ハ灯心(とうしみ)ヲ戴(いただき)タル様ニテ、ユユシ気(げ)ニ老タル嫗(おうな)也ケリ。子ノ童ハ十歳許(ばかり)ナルヲ、妻(め)ナム抱(いだき)テ出来タリケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.353」岩波書店)

書記官は老母を近くに呼び寄せて事情を告げる。私はいささかも間違ったことをしていません。しかしこれも宿命なのでしょう、もう日向守から処刑の命が下りました。何とぞ、ひどく嘆かないで下さい。それにこの子は自ずと誰か人の子として生きてゆくでしょう。ただ、お母さんがこれからどのように生きていかれるのか、それを思うと私は処刑される堪え難さより悲しい気持ちで一杯です。さあ、最後に一度お顔を拝見したいと思って参りました。もう家の中へお入りになって下さい。

「露(つゆ)錯(あやまち)タル事モ無ケレドモ、前(さき)ノ世ノ宿世(しくせ)ニテ、既ニ命ヲ召シツ。痛ク不歎給(なげきたま)ハデ御(おはし)マセ。此ノ童ニ至(いたり)テハ、自然(おのづか)ラ人ノ子ニ成(なり)テモ有(あり)ナム。嫗共(おうなども)、何(い)カニシ給ハムズラムト思フナム、被殺(ころさる)ル難堪(たへがた)サヨリモ増(まさり)テ悲(かなし)キ。今ハ、早ウ入(いり)給ヒネ。今一度御顔(かほ)ヲ見奉ラムトテ参ツル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.353」岩波書店)

書記官の母は戸惑うばかりで遂に気を失って倒れた。その場で話を聞いていた郎等らも泣き出してしまった。やがて、こんなことをしにやって来たのではなかった、と郎等は思い出して言った。「長いぞ、おしゃべりが」。

「永事(ながごと)ナ不云(いひ)ソ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.353」岩波書店)

書記官は再び馬に乗った。郎等らが周囲を固める。しばらくすると栗の林が見えてきた。一行はその中へ入り、書記官を射殺して斬首し、その首を持って庁舎へ引き上げた。

「栗林ノ有ケル中ニ将入(ゐていり)テ、射殺シテ頸(くび)取テ返(かへり)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十九・第二十六・P.353」岩波書店)

さて、「褒美名目」の「絹(きぬ)四疋(しひき)」。それは公文書改竄の口封じのために実行された書記官処刑並びに書記官の一家離散と等価性を得ていると言えるだろうか。もしこの等価性が成立するとすればどのような条件のもとでか。人々は誰一人としてその十分条件を知らない。しかし成立するのである。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

ちなみに一九八〇年代バブルの時期、「言った者勝ち・やった者勝ち」というおぞましいフレーズがギャグとして、主に大学構内で流行っていた。言い換えれば、明らかに性暴力加害者(性別問わず)の側の論理である。その頃、学生だった人々の中で中央のエリート官僚を目指した一群の人々が今の議員秘書・事務局長・補佐官といった地位に付いている。この事情に関し、誰一人として忘れようにも忘れてくれないに違いない。

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