前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
平安時代の中ば頃まで早朝の政務は大内裏の「官(くわん)ノ司(つかさ)」で行われていた。「官(くわん)ノ司(つかさ)」の「官」は「太政官(だじやうくわん)」の「政庁」。今の京都市上京区浄福寺通丸太町通下ル主税町付近がその南東部に当たるとされている。「太政官(だじやうくわん)」は「内閣」のこと。従ってそこでの政務は「閣議」を指す。早朝に行われるのが慣例。
とはいえ近現代の感覚でいう早朝とは異なり、「未(いま)ダ暁(あかつき)ニゾ火灯(とも)シテ」とあるように、夜明け前の、まだ仄暗い時間帯すでに各自灯火を灯して集合する。
「今昔(いまはむかし)、官(くわん)ノ司(つかさ)ニ朝庁(あさまつりごと)ト云フ事行ヒケリ。其(そ)レハ、未(いま)ダ暁(あかつき)ニゾ火灯(とも)シテゾ、人ハ参(まゐり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.103」岩波書店)
本文に忠実に従うと太政官の庁舎は東の庁舎と西の庁舎との二箇所があったようだ。しかし東西を仕切る箇所がどの辺りなのかは今なおはっきりわかっていない。が、ともかくこの事件の舞台はすでに著しく荒廃し出していた庁舎の東側部分に当たる。
次に描かれる異様な事態を発見したのは「弁(べん)」の下僚に当たり公文書を司る「史(さくわん)」という四等官。「弁(べん)」は諸省・諸官・諸司に渡る膨大な文書の受付・処理・上申を司る。「史(さくわん)」はそのすぐ下の官名で、それら公文書を司る。公文書取扱に関する役職で「弁(べん)」と「史(さくわん)」とは上下関係になるが、用例として、例えば次のように「殿上人」から「弁」までが取り上げられ「史」は省かれていることでその差は歴然。
「おのづから、わざともなきに、おぼえ高(たか)くやむごとなき殿上人、蔵人(くらひと)の頭(とう)、五位の蔵(くら)人、近衛の中少将、弁官など、人がらはなやかにあるべかしき十余(よ)人つどひたまへれば、いかめしう、次(つぎ)々のただ人も多(おほ)くて、土器(かはらけ)あまたたび流(なが)れ、みな酔(ゑ)ひになりて、おのおのかう幸(さいは)ひ人にすぐれ給へる御ありさまを物語(がた)りにしけり」(新日本古典文学大系「行幸」『源氏物語3・P.70~71』」岩波書店)
或る日、朝庁(あさまつりごと)に遅刻した一人の史がいた。閣議への遅刻などもとよりとんでもない態度である。慌てた史は遅刻したことに怯えながら怖わ怖わ太政官へ駆けつけた。また、原文に「中(なか)ノ御門(みかど)」から入ったとある。「中(なか)ノ御門(みかど)」は「東(ひむがし)ノ中(なか)ノ御門(みかど)」を指す。「東(ひむがし)ノ中(なか)ノ御門(みかど)」=「待賢門(たいけんもん)」。今の京都市上京区大宮通と椹木町通との交差点西側付近。石碑は上京区猪熊通下立売通下ル大黒町にある。
待賢門から大内裏へ入って太政官庁舎の方向を見ると既に弁の従者・小舎人(ことねり)などが集っている。弁はもう庁舎の中へ入って待機しているようだ。上司に当たる弁が先に参っているというのに部下の史が後から遅刻してくるなど考えられもしない。恐れた史は庁舎の傍に寄りかかって中の様子を覗き込んでみた。すると中は火が消えている。人がいる気配一つない。
「史、弁ノ被早参(そうさんせられ)にけるに、我(わ)レニ史ニテ遅参シタル事ヲ怖(おそ)レ思(おもひ)テ、忽ギテ東(ひむがし)ノ庁(ちやう)ノ東ノ戸ノ許(もと)ニ寄テ、庁ノ内ヲ臨(のぞ)ケバ、火モ消(きえ)ニケリ。人ノ気色(けしき)モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.103~104」岩波書店)
どうしたことかと史は極めて不審に思い、宮中で灯火・薪油・清掃などを司る「主殿寮(とのもれう)」の役人を呼び出し、灯火を灯させて庁舎内に入った。見ると、血塗れになった弁の頭部が弁の席に晒し置かれており、髪の毛がべっとりとへばり付いている。たまげた史は怯えながらもその周囲を検する。弁が身に付けていた「笏(しやく)・沓(くつ)」といった身の周りのものもまた血みどろになって置き捨てられている。さらに弁の扇があった。扇には弁の筆跡で殺害された時の方法が書き付けられ残されていた〔もっとも、鬼は何にでも変容するのであえて弁の筆跡を真似たのかもしれない〕。畳には大量の血溜まり。しかしその他のものは何一つ残されていない。さらに弁の胴体自体はどこにも見当たらない。
「史、主殿寮(とのもれう)ノ下部(しもべ)ヲ召シテ、火ヲ燃(とも)サセテ、庁ノ内ニ入(いり)テ見レバ、弁ノ座ニ赤ク血肉(ちじし)ナル頭(かしら)ノ髪所々(ところどころ)付(つき)タル有リ。史、此(こ)ハ何(いか)ニト驚キ怖レテ、傍(かたはら)ヲ見レバ、笏(しやく)・沓(くつ)モ血付テ有リ。亦(また)扇有リ。弁ノ手ヲ以(もつて)、其ノ扇ニ事ノ次第共被書付(かきつけられ)タリ。畳ニ血多ク泛(こぼれ)タリ。他(ほか)ノ物ハ露(つゆ)不見(み)エズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.104」岩波書店)
何度か述べているようにこの種の殺害方法は、鬼による殺しの手法として最もポピュラーなケース。触れればすぱりと斬れる札束のようだ。そのうち夜が明けた。次々と登庁してくる職員らで辺りは騒然となった。ともかく、そのままにしておくわけにはいかず、弁の従者らは現場に残された弁の頸(くび)だけを持ち帰った。
しかし、だからといって、「朝庁(あさまつりごと)」=「早朝の政務」が早急に廃止されるわけでは何らない。事件が発生した現場はあくまで東庁舎内部に過ぎない。東庁舎は使用不可となりはしたが西庁舎が空いている。だからその後は西庁舎で公務が続行された。
しかしこの記事の中で注目したいのは事件発生についてわざわざ「水尾(みのを)ノ天皇ノ御時」とある点。「水尾(みのを)ノ天皇」は清和天皇のこと。在位は貞観一年(八五九年)〜貞観十六年(八七四年)。富士山噴火。播磨国地震発生。貞観地震・津波発生。鳥海山噴火。開聞岳噴火。など様々な災害に見舞われているが、一方、「応天門放火事件」(八六六年)を見逃すわけにはいかない。宮廷内の政治権力闘争。だがここでは政争自体に絞って詳細に語るのが目的ではなく妖怪〔鬼・ものの怪〕とそれら政争との関係を示唆することに主眼を置いてきた。「今昔物語」はその意味でこそ遥かに重要な資料になるのである。「応天門」で起きた「狐の恩返し」については下をクリック↓
熊楠による熊野案内/変容する狐3
さて。「女性初」というキャッチフレーズが世間を賑わせているようだが、そんなことは欧米ではとっくの昔に達成されていて、もはや何らの驚きも感じない。内閣広報官続投だとか。民間の大企業はもちろんのこと、小規模な市民運動団体、アルコール・薬物依存症者のための自助グループの中でさえ、あの程度の女性は幾らでもいる。さらに民間の様々な企業あるいは社会活動に携わるグループでは、医療用語でいう「共依存」を避けるため様々な工夫がなされている。ところが肝心の今の日本政府内にはそのような重要極まりない工夫が毫も見られない。組織維持のために最低限必要とされる危機管理の初歩すら知らない。「共依存」のわかりやすい事例は江戸時代すでにあった。まだ十代の熊野比丘尼が歌を歌い舞いを舞い時には体を売る。それを三十歳代の「御寮(おりやう)」(年配女性)が仕切ることで両者の相互依存関係が出来上がる。そして「御寮(おりやう)」なしには若年の比丘尼らは路頭に迷ってしまう。従って「御寮(おりやう)」は大変頼り甲斐のある女性として、また周囲から頼りにされることで始めて生きている充実感を堪能することができるとともに快感を感じることができるようになる。そのうち、常にそのような「共依存」関係が出来上がっていないと逆に居ても立ってもいられない不快感を催すようになる。
「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)
柳田國男はいう。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
さらに西鶴に戻ってみる。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
また熊楠にしてみれば論じるまでもない世相だったのであり、なおかつこういった形式は地方都市へ行けば一九四五年の敗戦までずっと続いた。
もう一点。東京五輪について。このような状態のもとで、もし無事に開催終了できたとすれば、主導する側は何も自民公明連立与党でなくても何ら構わなかったのではと十分に言える。逆に今の野党が主導した場合、もし途中で開催終了できない事態に陥ったとすれば、その時はなるほど自民公明連立与党でなくては無事成し遂げることはできなかったと言えるだろうけれども。
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平安時代の中ば頃まで早朝の政務は大内裏の「官(くわん)ノ司(つかさ)」で行われていた。「官(くわん)ノ司(つかさ)」の「官」は「太政官(だじやうくわん)」の「政庁」。今の京都市上京区浄福寺通丸太町通下ル主税町付近がその南東部に当たるとされている。「太政官(だじやうくわん)」は「内閣」のこと。従ってそこでの政務は「閣議」を指す。早朝に行われるのが慣例。
とはいえ近現代の感覚でいう早朝とは異なり、「未(いま)ダ暁(あかつき)ニゾ火灯(とも)シテ」とあるように、夜明け前の、まだ仄暗い時間帯すでに各自灯火を灯して集合する。
「今昔(いまはむかし)、官(くわん)ノ司(つかさ)ニ朝庁(あさまつりごと)ト云フ事行ヒケリ。其(そ)レハ、未(いま)ダ暁(あかつき)ニゾ火灯(とも)シテゾ、人ハ参(まゐり)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.103」岩波書店)
本文に忠実に従うと太政官の庁舎は東の庁舎と西の庁舎との二箇所があったようだ。しかし東西を仕切る箇所がどの辺りなのかは今なおはっきりわかっていない。が、ともかくこの事件の舞台はすでに著しく荒廃し出していた庁舎の東側部分に当たる。
次に描かれる異様な事態を発見したのは「弁(べん)」の下僚に当たり公文書を司る「史(さくわん)」という四等官。「弁(べん)」は諸省・諸官・諸司に渡る膨大な文書の受付・処理・上申を司る。「史(さくわん)」はそのすぐ下の官名で、それら公文書を司る。公文書取扱に関する役職で「弁(べん)」と「史(さくわん)」とは上下関係になるが、用例として、例えば次のように「殿上人」から「弁」までが取り上げられ「史」は省かれていることでその差は歴然。
「おのづから、わざともなきに、おぼえ高(たか)くやむごとなき殿上人、蔵人(くらひと)の頭(とう)、五位の蔵(くら)人、近衛の中少将、弁官など、人がらはなやかにあるべかしき十余(よ)人つどひたまへれば、いかめしう、次(つぎ)々のただ人も多(おほ)くて、土器(かはらけ)あまたたび流(なが)れ、みな酔(ゑ)ひになりて、おのおのかう幸(さいは)ひ人にすぐれ給へる御ありさまを物語(がた)りにしけり」(新日本古典文学大系「行幸」『源氏物語3・P.70~71』」岩波書店)
或る日、朝庁(あさまつりごと)に遅刻した一人の史がいた。閣議への遅刻などもとよりとんでもない態度である。慌てた史は遅刻したことに怯えながら怖わ怖わ太政官へ駆けつけた。また、原文に「中(なか)ノ御門(みかど)」から入ったとある。「中(なか)ノ御門(みかど)」は「東(ひむがし)ノ中(なか)ノ御門(みかど)」を指す。「東(ひむがし)ノ中(なか)ノ御門(みかど)」=「待賢門(たいけんもん)」。今の京都市上京区大宮通と椹木町通との交差点西側付近。石碑は上京区猪熊通下立売通下ル大黒町にある。
待賢門から大内裏へ入って太政官庁舎の方向を見ると既に弁の従者・小舎人(ことねり)などが集っている。弁はもう庁舎の中へ入って待機しているようだ。上司に当たる弁が先に参っているというのに部下の史が後から遅刻してくるなど考えられもしない。恐れた史は庁舎の傍に寄りかかって中の様子を覗き込んでみた。すると中は火が消えている。人がいる気配一つない。
「史、弁ノ被早参(そうさんせられ)にけるに、我(わ)レニ史ニテ遅参シタル事ヲ怖(おそ)レ思(おもひ)テ、忽ギテ東(ひむがし)ノ庁(ちやう)ノ東ノ戸ノ許(もと)ニ寄テ、庁ノ内ヲ臨(のぞ)ケバ、火モ消(きえ)ニケリ。人ノ気色(けしき)モ無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.103~104」岩波書店)
どうしたことかと史は極めて不審に思い、宮中で灯火・薪油・清掃などを司る「主殿寮(とのもれう)」の役人を呼び出し、灯火を灯させて庁舎内に入った。見ると、血塗れになった弁の頭部が弁の席に晒し置かれており、髪の毛がべっとりとへばり付いている。たまげた史は怯えながらもその周囲を検する。弁が身に付けていた「笏(しやく)・沓(くつ)」といった身の周りのものもまた血みどろになって置き捨てられている。さらに弁の扇があった。扇には弁の筆跡で殺害された時の方法が書き付けられ残されていた〔もっとも、鬼は何にでも変容するのであえて弁の筆跡を真似たのかもしれない〕。畳には大量の血溜まり。しかしその他のものは何一つ残されていない。さらに弁の胴体自体はどこにも見当たらない。
「史、主殿寮(とのもれう)ノ下部(しもべ)ヲ召シテ、火ヲ燃(とも)サセテ、庁ノ内ニ入(いり)テ見レバ、弁ノ座ニ赤ク血肉(ちじし)ナル頭(かしら)ノ髪所々(ところどころ)付(つき)タル有リ。史、此(こ)ハ何(いか)ニト驚キ怖レテ、傍(かたはら)ヲ見レバ、笏(しやく)・沓(くつ)モ血付テ有リ。亦(また)扇有リ。弁ノ手ヲ以(もつて)、其ノ扇ニ事ノ次第共被書付(かきつけられ)タリ。畳ニ血多ク泛(こぼれ)タリ。他(ほか)ノ物ハ露(つゆ)不見(み)エズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第九・P.104」岩波書店)
何度か述べているようにこの種の殺害方法は、鬼による殺しの手法として最もポピュラーなケース。触れればすぱりと斬れる札束のようだ。そのうち夜が明けた。次々と登庁してくる職員らで辺りは騒然となった。ともかく、そのままにしておくわけにはいかず、弁の従者らは現場に残された弁の頸(くび)だけを持ち帰った。
しかし、だからといって、「朝庁(あさまつりごと)」=「早朝の政務」が早急に廃止されるわけでは何らない。事件が発生した現場はあくまで東庁舎内部に過ぎない。東庁舎は使用不可となりはしたが西庁舎が空いている。だからその後は西庁舎で公務が続行された。
しかしこの記事の中で注目したいのは事件発生についてわざわざ「水尾(みのを)ノ天皇ノ御時」とある点。「水尾(みのを)ノ天皇」は清和天皇のこと。在位は貞観一年(八五九年)〜貞観十六年(八七四年)。富士山噴火。播磨国地震発生。貞観地震・津波発生。鳥海山噴火。開聞岳噴火。など様々な災害に見舞われているが、一方、「応天門放火事件」(八六六年)を見逃すわけにはいかない。宮廷内の政治権力闘争。だがここでは政争自体に絞って詳細に語るのが目的ではなく妖怪〔鬼・ものの怪〕とそれら政争との関係を示唆することに主眼を置いてきた。「今昔物語」はその意味でこそ遥かに重要な資料になるのである。「応天門」で起きた「狐の恩返し」については下をクリック↓
熊楠による熊野案内/変容する狐3
さて。「女性初」というキャッチフレーズが世間を賑わせているようだが、そんなことは欧米ではとっくの昔に達成されていて、もはや何らの驚きも感じない。内閣広報官続投だとか。民間の大企業はもちろんのこと、小規模な市民運動団体、アルコール・薬物依存症者のための自助グループの中でさえ、あの程度の女性は幾らでもいる。さらに民間の様々な企業あるいは社会活動に携わるグループでは、医療用語でいう「共依存」を避けるため様々な工夫がなされている。ところが肝心の今の日本政府内にはそのような重要極まりない工夫が毫も見られない。組織維持のために最低限必要とされる危機管理の初歩すら知らない。「共依存」のわかりやすい事例は江戸時代すでにあった。まだ十代の熊野比丘尼が歌を歌い舞いを舞い時には体を売る。それを三十歳代の「御寮(おりやう)」(年配女性)が仕切ることで両者の相互依存関係が出来上がる。そして「御寮(おりやう)」なしには若年の比丘尼らは路頭に迷ってしまう。従って「御寮(おりやう)」は大変頼り甲斐のある女性として、また周囲から頼りにされることで始めて生きている充実感を堪能することができるとともに快感を感じることができるようになる。そのうち、常にそのような「共依存」関係が出来上がっていないと逆に居ても立ってもいられない不快感を催すようになる。
「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)
柳田國男はいう。
「後世の熊野比丘尼はいわゆる美目(びもく)盼(へん)たる者であった。しかしこの徒が口寄せの業務から次第に遠ざかったのは、眼の明盲とはまったく無関係であるらしく、やはり髪を剃り頭巾(ずきん)などを被(かぶ)ったことが、自然に託宣の値打ちを減じたためかと思う。京の縄手通三条下ル猿寺という寺で、尼が幣を持って託宣をした近世の例は、『兎園(とえん)小説拾遺』に見えているが、ほかにはあまり聞かない。比丘尼と称しつつ舞を舞ったことは、古くは『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも記事があれど、これも頭を丸めては似合わなかったとみえて、後はただ簓(ささら)を扣(たた)いて流行歌(はやりうた)などを歌った。ゆえにこの徒が札配りや勧進の外に逸出して変な一種の職業に従事したのも、間接には剃髪強制の結果ではないかと思う。『人倫訓蒙図彙』(じんりんきんもうずい)に曰く、歌比丘尼は元は清浄の立派にて、熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯を磨き、頭を仔細に包みて小歌を便にして売るなり。巧齢過ぎたるを御寮と号し、夫に山伏を持ち女童(めのわらわ)の弟子あまたとりしたつるなり。この者都鄙(とひ)にあり都は建仁寺町薬師の図子(ずし)に侍(はべ)る云々とあり。名古屋九十軒町に住する熊野比丘尼は、元祖は慶長三年に伊勢の山田から来た。簓を摺(す)りうたう遊興を勧めたと『尾張志』に見えている。『和訓栞』には何に拠ったものか、歌比丘尼の郷里は紀州の那智で、山伏を夫としつつ一方には遊女に同じき生活をする。その歳悔(さいく)を受けて一山富めりとあり。『東海道名所記』の沼津の条には、歌比丘尼の由来を詳しく述べてその退化を説き、今の比丘尼は熊野・伊勢には詣れども行もせず、戒を破り絵解をも知らず、歌を肝要とするのは嘆かわしいと、すごぶる彼等が不道徳を責めている。しかし比丘尼が色を売るのはともかくも、男のあるということまでは決して違犯ではない。比丘尼は単に彼等の名称であって実質ではなかった。これを仏法の尼と同視してその生活の自由なるに驚くのは驚く人が無理だ。東京では商家の丁稚(でっち)の髪をいつまでも剃りこかしておいて、形が似ているからこれを小僧と呼んだ。今もし小僧はすなわち僧だからとの理由で魚を食わせなかったら彼等はどんなに嘆くか分らぬ。それとまったく同じき不道理である」(柳田國男「巫女考・神子の夫、修験の妻」『柳田國男全集11・P.396~397』ちくま文庫)
さらに西鶴に戻ってみる。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
また熊楠にしてみれば論じるまでもない世相だったのであり、なおかつこういった形式は地方都市へ行けば一九四五年の敗戦までずっと続いた。
もう一点。東京五輪について。このような状態のもとで、もし無事に開催終了できたとすれば、主導する側は何も自民公明連立与党でなくても何ら構わなかったのではと十分に言える。逆に今の野党が主導した場合、もし途中で開催終了できない事態に陥ったとすれば、その時はなるほど自民公明連立与党でなくては無事成し遂げることはできなかったと言えるだろうけれども。
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