白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

近代/文学/共同体5

2018年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
「周知のように、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』(明治三十一~三十三年)は、結核で死んで行く浪子をヒロインとする。彼女は母をやはり結核でなくし、気の強い継母にいじめられて育つ。その点で、これは日本古来の『継子(ままこ)いじめ』の物語を踏襲している。また、彼女は姑(しゅうとめ)にいびられるのだが、これも型通りである。柳田國男が指摘したように、継子いじめの物語は、継子いじめが現にあるから書かれるのではない。現になくてもそれは好まれる」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.133」講談社文芸文庫)

ここでは「継子いじめ」については措かれている。「継子いじめ」の物語がなぜ近代日本で大受けするのか、それは類似の物語の大ヒットの理由をも明らかにしうるだろう。だがーーー。

「注目すべきことは、浪子を死なせてしまうのが継母や姑や悪玉たちではなく、結核だということである。ーーーこの作品では、結核は一種のメタフォアなのだ。そして、この作品の眼目は、浪子が結核によって《美しく》病み衰えていくところにある」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.133~134」講談社文芸文庫)

差し当たって二つの問題がある。一つは今上げたこと。つまり「結核によって《美しく》病み衰えていくところ」。「結核神話」というべき「病」がすでに日本近代文学とそれを取り巻く社会全体に恐ろしく《深く》取り憑き食い込んでいる点。もう一つは、結核はなるほど病気の一種だが、病原菌の発見によって「結核神話」を解体したはずの近代医学もまた、ある種の「形而上学=政治的思想」に感染していた、という点だ。まず一点目から。

「結核神話が広がったとき、俗物や成り上がり者にとって、結核こそ上品で、繊細で、感受性の豊かなことの指標となった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.135」講談社文芸文庫)

「ルネ・デュポスは、『当時は病気のムードがとても広まっていたため、健康はほとんど野蛮な趣味の徴候(ちょうこう)であるかのように考えられた』(『健康という幻想』)といっている。感受性があると思いたい者は、むしろ結核になりたがった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.135」講談社文芸文庫)

徳富蘆花による作品の描写を見てみよう。

「色白の細面(ほそおもて)、眉(まゆ)の間(あわい)やや蹙(せま)りて、頰(ほお)のあたりの肉寒げなるが、疵(きず)といわば疵なれど、瘠形(やさがた)のすらりと静淑(しお)らしき人品(ひとがら)。これや北風(ほくふう)に一輪勁(つよ)きを誇る梅花にあらず、また霞(かすみ)の春に蝴蝶(こちょう)と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕闇にほのかに匂う月見草、と品定めもしつべき婦人」(徳富蘆花「不如帰・P.11」岩波文庫)

「逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さ遣(や)る方(せ)なく思うほどいよいよ長き日(ひ)一日(またひ)のさすがに暮せば暮らされて、早や一月あまり経(たち)たれば、麦刈済みて山百合(やまゆり)咲く頃となりぬ。過ぐる日の喀血(かっけつ)に、一たびは気落ちしが、幸(さいわい)にして医師(いしゃ)の言えるが如くその後に著しき衰弱もなく、先日函館よりの良人(おっと)の書信(てがみ)にも帰来(かえり)の近(ちか)かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどには到らぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自(みず)から気を励まし、浪子は薬用に運動に細かに医師の戒(いましめ)を守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ」(徳富蘆花「不如帰・P.173」岩波文庫)

「されど解きても融(と)け難き一塊の恨(うらみ)は深く深く胸底(きょうてい)に残りて、彼が夜々吊床の上に、北洋艦隊の殲滅(せんめつ)とわが討死(うちじに)の夢に伴うものは、雪白(せっぱく)の肩掛(ショール)を纏(まと)える病める或(ある)人の面影(おもかげ)なりき。

消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきが如く、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。

武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、朧々(ろうろう)としたる逗子の夕(ゆうべ)、われを送りて門(かど)に立出(たちい)で、『早く帰って頂戴』と呼びし人はいずこぞ。思い入りて眺むれば、白き肩掛を纏える姿の、今しも月光の中(うち)より歩み出で来らん心地すなり」(徳富蘆花「不如帰・P.192~193」岩波文庫)

という感じだ。「美人・結核・別れ」という三位一体からなる「文学という病」=「物語」が、恥ずかしげもなく、むしろもろに出現している。柄谷はいう。

「実際に社会的に蔓延(まんえん)している結核は悲惨なものである。しかし、ここでは結核はそれとかけはなれ、またそれを転倒させる『意味』としてある」
(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.136」講談社文芸文庫)

「いずれにしても、結核は現実に病人が多かったからではなく、『文学』によって神話化されたのである。事実としての結核の蔓延とはべつに、蔓延したのは結核という『意味』にほかならなかった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.137」講談社文芸文庫)

さらに柄谷は、「窮極の原因」を問う「思想」こそが問題なのだと指摘する。

「結核菌は、結核の『原因』ではない。ほとんどすべての人間が、結核菌やその他の微生物の感染をうける。われわれは微生物とともに生きているのであって、むしろそれがなければ消化もできないし、生きていけない。体内に病原体がいることと、発病することとはまったくべつである。西洋の十六世紀から十九世紀にかけて結核が蔓延したことは、けっして結核菌の『せい』ではないのだし、それが減少したのは必ずしも医学の発達のおかげではない。それでは何が窮極的な原因なのかと問うてはならない。もともと一つの『原因』を確定しようとする思想こそが、神学・形而上的なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.142~143」講談社文芸文庫)

「唯一絶対的」な「原因」を特定してそれを「罪悪」と捉えて考えたがる「神学的・形而上学的」態度。しかしなぜそれが問題なのか。無論、そのような「一つの原因」のみを「有罪」とする思想的態度は、ありがちなように、他の無数の諸関係の網目から目をそらす、あるいは他の無数の諸関係の網目をおおいかくしてしまうばかりか、その起源を忘れさせてしまうからにほかならない。「原因と結果の混同」並びにその「取り違え」を可能にして他の諸関係の網目をじっくり見ようとする者の目をとことん倒錯させてしまう。それこそが問題であるにもかかわらず、逆にそれこそを問題とはさせずに、意識に上ってもこないようにさせており、従って肝心の問題を見えなくさせてしまう。いわゆる遠近法的倒錯であり、というより、遠近法もまた倒錯なのだが。

「たとえば、ニーチェは、西欧の精神史は病気の歴史だといっている。つまり、彼は病気をメタフォアとして濫用(らんよう)したのだが、しかし、彼は『健康という幻想』から程遠かった。彼が攻撃したのはいわば『病原体』という思想にほかならない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.146」講談社文芸文庫)

「ある量の力とは、それと同量の衝動・意志・活動の謂いである──というよりはむしろ、まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほかならない。それがそうでなく見えるのは、ただ、すべての作用を作用者によって、すなわち『主体』によって制約されたものと理解し、かつ誤解するあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)に引きずられるからにすぎない。あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎない──作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。──あらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない(例えば、原子がそういう取り換え児であり、カントの「物自体」も同様である)。内攻して蔭で微かに燃え続けている復讐と憎悪の感情が、《強者は自由に》なれるし、猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し、その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても、それは別に異とすべきことではない。──実に、この信仰によってこそ彼らは、猛禽に対して猛禽であることの《責めを負わせる》権利を獲得するのだ──抑圧された者、蹂躙された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、『われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そして善人とは、暴圧を加えない者、何人をも傷つけない者、攻撃しない者、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求めるところ少ない者の謂いであって、われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ』──と言って自ら宥(なだ)めるとき、この言葉が冷静に、かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、『われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれは《われわれの力に余る》ことは何一つしないから善人なのだ』というより以上の意味はもっていない。ところが、この苦々しい事態、昆虫類(大きな危険に際して「大それた」真似をしないために死を装うことを厭わないあの昆虫類)でさえもっているこの最も低劣な怜悧さは、無力のあの偽金造りと自己欺瞞とのお蔭で、諦めて黙って待つという徳の派手な衣裳を着けたのだ。あたかも弱者の弱さそのものが──すなわち彼の《本質》が、彼の行為が、彼の避けがたく解き離しがたい唯一の現実性の全体が──一つの自由意志的な行為、何らかの意欲されたもの、何らかの選択されたもの、一つの《事蹟》、一つの《功績》ででもあるかのように。この種の人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、同時にまたこの本能からして、あの無記な、選択の自由をもつ『主体』に対する信仰を《必要》とする。主体(通俗的に言えば《魂》)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を《功績》と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからであった」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~49」岩波文庫)

長々しい引用だが、ニーチェはここで、唯一単独で自由に存在する「主体=原因」などというものはまったくない、と言っているわけだ。ところで、徳富蘆花はキリスト教徒だったが、「キリスト教は病気を必要とする」、ともニーチェは言う。

「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)

しかし「不如帰」に顕著な第二の問題点とは何か。先に述べたように、それは医学の逆説である。医学的科学的な技術の開発はなるほど世の中から「迷信」を追っ払った。けれども、医学的科学的態度もまた「神学的・形而上学的」な態度であるばかりか、むしろその最先端に現れた一つの真理信仰なのではないか、とニーチェは追求する。

「ところで今の場合はどうであろうか。ーーー現今におけるこれらの否定者や反対者たち、知的潔白に対する要求というただ一つの事に血道を上げているこれらの人々、峻烈な、厳格な、節欲的な、英雄的なこれらの精神、すべてこれらの蒼白い無神論者や、反キリスト者、不道徳者や、ニヒリストたち、これらの懐疑論者や精神の《結核患者》(ある意味において彼らは一人残らずこの結核患者なのだ)、今日では知的良心の唯一の生息所となっているこれら最後の認識の理想主義者たち、ーーー実際のところ彼らは、これらの『自由な、《極めて》自由な精神』は、禁欲主義的理想から離れうるかぎり離れている、と信じている。しかし、彼ら自身には見ることのできないーーー彼らは余り近くにいるからーーーものを彼らに見せてやるとすれば、この理想こそはまさしく《彼らの》理想であり、今日この理想の代現者は彼ら自身であって、恐らく彼ら以外の何者でもない。彼ら自身がそれの最も精神化された所産であり、それの最前線の哨兵隊であり、それの最も危険な、最も精妙な、最も捉えがたい誘惑形式である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.191~192」岩波文庫)

ここで「反キリスト者」とある。その点では、ニーチェは自分自身もまた「彼ら」の内の一人であって、その外へ逃れることができているかどうかは問題だとして、自分自身の特権化を避けようとつとめている。「反キリスト者」を含む限りで、要するにニーチェには自覚がある。自分自身も批判される側にまわる用意がいつでもある。もともとニーチェを生んだのはほかでもないキリスト教だという動かしがたい事実もあるわけだからだ。いずれにしろ、ニーチェが口酸っぱく、やかましく、繰り返し、もうわかったからやめろと言いたくなるほど、がなり立てていることは、唯一の原因=主体が存在する、という妄想あるいは思想は、「唯一の真理」を求めるという絶対主義的理想主義から全然隔たっていないばかりか、むしろ巧妙に近づいてしまう思考のパラドックスについてである。

「唯一の主体=原因」という思想とその流布は、「不如帰」の中で、武男の母にこう言わせることになる。

「病気の中でもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。おまえも知っとるはずじゃが、あの知事の東郷、な、おまえがよく喧嘩(けんか)をしたあの児(こ)の母御(かさま)な、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子さんーーーどこかの技師をしとったそうじゃがのーーーもやっぱい肺病で先頃(このあいだ)亡くなった、な。皆(みいな)母御のが伝染(うつ)ッたのじゃ。まだこんな話がいくつもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」(徳富蘆花「不如帰・P.144~145」岩波文庫)

昨今におけるHIVを巡る数々の言説を思わせないだろうか。そのような現象について、「不如帰」に戻って見ると、「唯一の原因」という迷妄に関して、柄谷はこう批判している。病気・文学・政治・医学、などなど、それらは相互に「連関」していると。

「この社会は病んでおり、根本的に治療せねばならぬという『政治』思想もまた、そこからおこっている。『政治と文学』は、古来から対立する普遍的な問題であるどころか、互いに連関しあう《医学的》思想なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.151」講談社文芸文庫)

結核菌は発見された。ところがそれが事実として蔓延するための条件として、感染が蔓延するために必要な社会的な諸関係が先に既に成立していなければならない。それはいつ、どこで、どのような社会環境においてだったか。

「くりかえしていうように、結核の蔓延という事実があったから、結核の神話化がおこったのではない。結核は、イギリスと同様に、日本でも産業革命による生活形態の急激な変容とともにひろがっている。結核は、昔からある結核菌によってではなく、複雑な諸関係の網目におけるアンバランスから生じている。事実としての結核そのものが、解読されるべき社会的・文化的徴候なのだ。しかし、結核を、物理的(医学的)であれ、神学的であれ、一つの『原因』に還元してしまうとき、それは諸関係のシステムをみうしなわせる」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.152」講談社文芸文庫)

正岡子規について触れておかねばならない。徳富蘆花「不如帰」が刊行された翌年、子規は結核で死の床を這いずりまわっていた。が、そこには蘆花のようなロマン派とはほど遠い、冷静沈着でなおかつ時として軽妙な「写生」という態度が貫かれていた。

「午前二時頃目さめ腹いたし 家人を呼び起して便通あり 腹痛いよいよ烈(はげ)しく苦痛堪(た)ヘがたし この間下痢水射(すいしゃ)三度ばかりあり 絶叫号泣」(正岡子規「仰臥漫録・P.44」岩波文庫)

「一両日来左下横腹(腸骨か)のところいつもより痛み強くなりし故ほーたい取替のときちょっと見るに真黒になりて腐り居るやうなり 定めてまた穴のあくことならんと思はる 捨てはてたからだどーならうとは構はぬことなれどもまた穴があくかと思へば余りいい心持はせず」(正岡子規「仰臥漫録・P.92」岩波文庫)

「前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず この日繃帯とりかへのとき号泣多時、いふ腐敗したる部分の皮がガーゼに附着したるなりと 背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず」(正岡子規「仰臥漫録・P.98」岩波文庫)

「この日宮本医来診のとき繃帯(ほうたい)を除いて新しき口及び背中尻の様子を示す 暫(しばら)くぶりのことなり 医の驚きと話とを余所(よそ)ながら聞いて余も驚く」(正岡子規「仰臥漫録・P.101」岩波文庫)

「兆民居士(ちょうみんこじ)の『一年有半(いちねんゆうはん)』といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由われらは腹(はら)背中(せなか)臀(しり)ともいはず蜂(はち)の巣の如く穴あき申候」(正岡子規「仰臥漫録・P.113」岩波文庫)

「この夜頭脳不穏頻(しき)りに泣いて已(や)まず 三人に帰つてもらひ糞して眠り薬を呑んで眠る(下痢やまず毎日三、四度便通あり)」(正岡子規「仰臥漫録・P.115」岩波文庫)

「膿(うみ)の出る口は次第にふえる、寝返りは次第にむつかしくなる、衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寝て居るやうなことが多い。腸骨(ちょうこつ)の側に新に膿の口が出来てその近辺が痛む、これが寝返りを困難にする大原因になつて居る。右へ向くも左へ向くも仰向(あおむけ)になるもいずれにしてもこの痛所を刺激する、咳(せき)をしてもここにひびき泣いてもここにひびく。繃帯は毎日一度取換へる。これは律(りつ)の役なり。尻のさき最(もっとも)痛く僅(わずか)に綿を以て拭(ぬぐ)ふすらなほ疼痛(とうつう)を感ずる。背部にも痛き箇所がある。それ故繃帯取換は余に取つても律に取つても毎日の一大難事である。この際に便通ある例で、都合(つごう)四十分乃至(ないし)一時間を要する。肛門の開閉が尻の痛所を刺戟するのと腸の運動が左腸骨辺の痛所を刺戟するのとで便通が催された時これを猶予(ゆうよ)するの力もなければ奥の方にある屎(くそ)をりきみ出す力もない」(正岡子規「仰臥漫録・P.124」岩波文庫)

「食事は相変らず唯一の楽(たのしみ)であるがもう思ふやうには食はれぬ。食ふとすぐ腸胃が変な運動を起して少しは痛む。食ふた者は少しも消化せずに肛門へ出る」(正岡子規「仰臥漫録・P.125」岩波文庫)

なお、ここでいう「写生」的態度については漱石を参照しよう。

「社会は人間の塊(かた)まりである。その人間を区別すれば色々出来る。貴とも賤(せん)ともなる。賢とも不肖ともなる。正とも邪ともなる。男とも女ともなる。貧とも富ともなる。老とも若、長と幼ともなる。その他色々に区別が出来る。区別が出来る以上は、区別された一のものが他を視(み)る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生観というと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎(せん)じつめればこの態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自(おのず)から違う。大袈裟(おおげさ)な言葉でいうと彼此(ひし)の人生観が、ある点において一様でない。というに過ぎん。

人事に関する文章はこの視察の表現である。従って人事に関する文章の差異はこの視察の差異に帰着する。この視察の差異は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差異を生ずる源になる。今の世にいう写生作家というものの文章は如何(いか)なる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別の出来るような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えているというてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗けばどんなに見えるかという事を説明するのが余の義務である。

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者(せんじゃ)を視(み)るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子(くんし)が小人(しょうじん)を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。

子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違(きちがい)である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做(みな)して、擦(す)ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉(も)んだりして、あくまで、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.165~167』岩波文庫)

「それでは人間に同情がない作物を称して写生文家というように思われる。しかしそう思うのは誤謬(ごびゅう)である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻(れいこく)でもない。無論同情がある。同情があるけれども駄菓子を落した子供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是(がんぜ)なく煩悶(はんもん)し、無体(むてい)に号泣し、直角に跳躍(ちょうやく)し、一散に狂奔(きょうほん)する底(てい)の同情ではない。傍(はた)から見て気の毒の念に堪(た)えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

従って写生文家の描く所は多く深刻なものではない。否(いな)如何に深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視(み)るから大抵の場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.167~168』岩波文庫)

BGM

近代/文学/共同体4

2018年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム
内村鑑三があれほどキリスト教という言葉を乱発させながら、しかし、彼が目指していたものは本当は何だったのだろうか。内村自身、こう書いている。

「全力をあげて入信に抵抗していたころから、《すでに》私はそれを感じはじめていました。宇宙には《ただ一つの》カミしかなく、私がそれまで信じていたような多くのーーー八百万を越すーーー神はないことを教えられたのであります。キリスト教の唯一神信仰が、私の迷信の根を、すっかり断ち切ることになりました。私のなしたすべての誓いと、怒りっぽい神々をなだめるために試みたさまざまな礼拝形式とは、この《ただ一つ》のカミを認めた結果、いまや無用になりました。私の理性と良心はともに、これに『しかり』と賛意を表したのであります。カミは一つであり多数ではないことは、私の小さな魂にとり文字どおり喜ばしきおとずれでありました。もはや東西南北の方位にいる四方の神々に、毎朝長い祈りを捧げる必要はなくなりました。道を通り過ぎるたびに出あう神社に長い祈りをくり返すことも、もう要らなくなりました。今日はこの神の日、明日はあの神の日として、それぞれ特別の誓いと断ち物とを守らなくてもよくなりました。頭をまっすぐに立て晴れやかな心で、私はどんなに昂然と次々と神社の前を通り過ぎて行ったことでしょう。私を支え見守る神々のなかのカミを見出したのですから、もはや祈りを唱えなくても罰のあたることはないのだ、との確信に充ちていたのでありました。友人たちは、たちまち、私の気分の変化に気づきました。それまでの私は、神社が見えるとすぐに心の中で祈りを唱えるために、おしゃべりをやめていたのです。ところが、登校の途中もずっと楽しそうに私がおしゃべりを続けているのが、友人たちにはわかったのでした。私は『イエスを信ずる者の契約』に署名させられたことを後悔しませんでした。唯一神信仰は私を新しい人間にしました。《私はふたたび豆と卵とを食べはじめました》。私はキリスト教の全部がわかったと思いました。それほどカミが一つという考えは私に元気を与えてくれました。新しい信仰による新しい精神の自由は、私の心身に健全な影響を及ぼしました。勉強には前よりも集中できました。新しく与えられた肉体の活動力を喜び、私は野山を歩きまわり、谷の百合、空の鳥を眺め、《天然》を通して《天然》を創造したカミとの交わりを求めました」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.34~36」岩波文庫)

さらに。

「これほど人間的な、これほどわかりやすく、これほど未来の話が少なく、これほど現在への警告に富んだ書であるとは!全巻、一片の奇跡の業も行われずに、人間エレミアは人間の強さも弱さもことごとく私にあらわに示しているのでした。『偉人はみな預言者と呼ばれてはいけないであろうか』。私はつぶやきました。私は私の異教国の偉人を全部心に数えて、その現行をはかってみました。そして、エレミアに語りかけた同じカミが、エレミアに対するほど定かではないにせよ、我が国の何人カニは同じように語ったこと、カミは私たちをまったくその光と導きとから除外しておいたのではなく、世界のなかで最もキリスト教的な国民と同じように、何世紀にもわたって私たちを愛し見守ってきたのである、との結論に達したのでした」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.200~201」岩波文庫)

内村鑑三はキリスト教に完全に没入している。没入しつつ、しかし、キリスト教というより、もっぱら「一神教」、この場合は「旧約的」な信仰態度に大いに魅かれ、また実際に「一神教的=旧約的」に振舞おうとしている点が明白であるように思える。内村の目には「八百万を越す神々への信仰」=「多神教」であり、その意味では(多神論は)「不実」な態度の表明に見えるほかない。従って、そうであればあるほど、その一方で、「旧約的態度」=「唯一神への服従・神のもとでの主体化」=「真理」であると一層強く感じられていたことは間違いない。そして「肉体の発見」は時間を追って「性欲の抑圧」へと問題圏を広げていくかのように見える。このことは事態をただ単にぼうっと眺めているだけではなるほど自然的《天然》的な問題の推移にしか見えないかも知れないが、果たしてそれは本当に自然的《天然》的に進行するほかない推移なのだろうか。あるいはもしかしたら、そう「映って見えて」いるだけに過ぎないと考えることはできないだろうか。実を言うと、「肉体の発見」が先にあって、その後に「性欲」が発見される、という時間的経緯があったのではまったくない。それこそ自己欺瞞というべきだ。事態はおそらく逆である。もっと正確に言えば、「性欲の抑圧」もしくは「自虐的告白」においてと《同時に》、絶対的一神教の教義に則って「発見」されるべき「肉体」が「発見されるべく」して、キリスト教の「想定通り」に「発見」されたと考えるべきなのだ。しかも驚くべきことに肉体の発見の次元は、単純この上ない「善悪二元論」の次元においてだった。そしてそれは言うまでもなく、唯一神によって裁かれるにふさわしい「罪悪の発見」としても機能することとなる。ニーチェ流に言えば、おのれ自身の身体・性欲に対する倒錯した暴力・残忍・欺瞞・反感・断罪・自己抹殺として、常に既に、いつでもどこでも精神的刑罰をもって裁かれる命運を負わされる誓約を定着させたと言える。柄谷行人は次のようにいう。

「主観(主体)/客観(客体)という近代的な認識論はいまや自明にみえるが、この自明さにこそ転倒がおおいかくされている。主体(主観)は、内村鑑三が示すように、多神論的な多様性の抑圧において成立する。いいかえれば、それは『肉体』の抑圧にほかならない。注意すべきことは、それが《ただの》肉体の発見でもあったことである。明治二十年代から三十年代初めにかけてキリスト教的だった人たちが、やがて自然主義に向かっていったのは不思議ではない。彼らがみいだした肉体あるいは欲望は、『肉体の抑圧』において存在するものだったからだ」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.117」講談社文芸文庫)

さて、内村鑑三の弟子でなおかつ作家でもあるといえば、志賀直哉。ところが志賀は内村鑑三の絶対主義的/専制主義的キリスト教信仰に対して、密かな疑問を持っていた。志賀はこう書いている。

「基督教に接するまでは私は精神的にも肉体的にも延び延びとした子供でした。運動事が好きで、ベイスボール、テニス、ボート、機械体操、ラックロース、何でも仕ました。水泳では鎌倉と江の島の間を泳いだ事もあります。学校の放課後も雨さえ降らなければ夕方まではきっと運動場で何かしていました。

この時分は誰でも延びる盛りですから年々夏になると単衣(ひとえ)は皆あげを下さねば着られないので、母が笑いながらよく愚痴をこぼしたものです。然し学問の方はそれだけに怠けていました。夕方帰って来ると腹が空(す)ききっていますから、六杯でも七杯でも食う。で、部屋に入ればもう何をする元気もない、型ばかりに机には向っても直ぐ眠って了(しま)うと云う有様です。これが当時の日々(にちにち)の生活でした。

それが基督教に接して以来、全(まる)で変って了いました。

基督教を信ずるようになった動機と云えば、極く簡単です。自家(うち)の書生の一人が大挙伝道という運動のあった時に洗礼を受けたからで、これが動機の総べてでしたろう。

然しそれからの私の日常生活は変って来ました、運動事は総てやめて了いました。大した理由もありませんが、そういう事が如何(いか)にも無意味に思われて来たのと、一方には《みんな》と云うものと、自分を区別したいような気分も起って来たからです。

私の往(い)っていた学校は一体に暢気な気風の所でしたが、それでも本郷通りを歩いている高等学校生徒の汚い風姿(みなり)を羨(うらや)む一団があって、興風会というものを起した事がありました。私も入れられる事になって最初の会へ出て見ましたが、その時の決議がこうです。髪の毛を分けてはならぬ。何分以上、カラーを出してはならぬ。学校の往復にはなるべく俥(くるま)に乗らぬ事。こう云った事です。私はその晩幹事という男に会って退会させて貰うといったのです。校風改良というような事も、今日の決議のような、総て外側から改革して行く求心的の改良法で出来る筈のものではなく、中心に何ものかを注(そそ)ぎ込んでそれから自然遠心的に改革されるべきものだ。これは或人の社会改良策の演説中にあった句ですが私はそれをいって、遂に脱会して了ったのです。得意でした。これは今までに味(あじわ)った事のない誇でした。当時宗教によって慰安されなければならぬような《いたで》も何もない私にはこれが宗教から与えられる唯一のありがたい物だったのです。皆(みんな)の仕ている事が益々(ますます)馬鹿気て見える。私は学校が済むと直ぐ帰って、色々な本を見るようになりました。伝記、説教集、詩集、こんなものをかなり読みました。以前も読書癖のないと云う方ではなかったのですが、それは皆(みんな)小説類で、真面目(まじめ)な本は嫌いだったのです。

暫くはそれでよかったのです。然し間もなく苦痛が起って来ました。性慾の圧迫です」(志賀直哉「濁った頭」『清兵衛と瓢箪・網走まで・P.83~85』新潮文庫)

日本文学界における「病」の誕生。何と華々しいことか。むしろ日本近代文学は「病」とともに出現したのかも知れない。「病」とともにでなければ出現できなかったのかも知れない。しかもそれは身体の病気ではなく精神の病気でなければならなかった。このことに、西洋近代文学輸入が単なる学問の習得というより、習得そのものがむしろ、転倒した、ある種の「感染」ではなかったかという重大な疑問が転がり出てくるのだ。ところが志賀直哉はその「苦痛」を端的に「苦痛」だと「告白」した。キリスト教の教義によるあからさまな「性的抑圧」に対して、「苦しい」と述べた。そのことは同時に志賀直哉の師・内村鑑三に対する公然たる「抵抗」をうかがわせる態度でもあった。

さて柄谷だが、次のように少しばかり付け加えて述べている。事実ゆえ、なかなか興味深い指摘ではあるだろう。

「志賀にとって、キリスト教のなかで《姦淫》ということだけが真剣な問題となっている。しかし、彼にとって《姦淫》はたんなる性的放縦(ほうじゅう)ではなく、実はこの当時ありふれていた同性愛を意味していた。そして同性愛はキリスト教のなかではじめて性倒錯となる」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.119」講談社文芸文庫)

それにしても、内村鑑三の中であれほど専制主義的と化した旧約的=絶対主義的一神教とは、しかしなぜそのような構造を取ってしまうほかないのだろう。どこがどう転倒していると言えるのだろうか。フーコーを参照したい。

「クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)

志賀の精神に「苦痛」を与えた「病」。しかしなぜ「病」なのか。柄谷はニーチェの有名な語句を引いている。

「キリスト教は《猛獣》を支配しようとねがうが、その手段は、それを《病弱》ならしめることである。ーーー弱化せしめるというのが、《馴致》のための、『文明化』のためのキリスト教的処方である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.192』」ちくま学芸文庫)

そして同時に志賀は、「主体(主観)」の唯一絶対性よりも、「多様な主観」という観点もあるのでは、ということに、それとなく気付いていた節がある。

「その内疲労から自分は不知(いつか)吸い込まれるように何か考えながら眠りに落ちて行った。自分はそれを夢と現(うつつ)の間で感じながら眠りに落ちて行った。そして未だ全く落ちきらない内に不図妙な声で自分は気がはっとした。眼を開(あ)くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘(うな)されているのだなと心附いた。いやに凄(すご)い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうかと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽(のど)を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。ーーー残忍な様子だ。残忍な事をしたーーーもう仕て了ったと思うと殆ど気違いのようになって益々(ますます)烈しく絞めてかかる、その自身の様子がはっきりと考えられるのである。

兄は吠(ほ)えるようなうめきを続けている。自分はどうしていいか解らなかった。

ーーー自分は枕(まくら)に顔を伏せて暫く息を凝らした。自分は何か他(ほか)の感覚でその調子を転じなければならなかった。自分は強く自身の腕を噛(か)んで見たりした。その内兄もすやすやと眠って了った。

翌朝が何となく気づかわれたが、兄は魘(うな)された事も知らぬ様子でその日の狩の計画などを自分に話していた。自分もそれで安心はした。然しその想像はその後もどうかすると不図憶いだされた。その度自分は一種の苦痛を感ぜしめられる」(志賀直哉「クローディアスの日記」『清兵衛と瓢箪・網走まで・P.184~185』新潮文庫)

ここで志賀直哉は、主体(主観)の唯一絶対性という「制度」に疑義を呈している。この疑義はニーチェ独特の「多様性の哲学」から来たものかも知れない。ともかく、柄谷はニーチェを引用している。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・490・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?──私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・492・P.35~36」ちくま学芸文庫)

さらに柄谷の考察を引こう。

「今日の文学史家が、明治の文学者らの闘いを、あるいは『近代的自我の確立』を評価するとき、もはやそれはわれわれを侵しているイデオロギーを追認することにしかならない。たとえば、国家・政治の権力に対して、自己・内面への誠実さを対置するという発想は、『内面』こそ政治であり専制権力なのだということを見ないのだ。『国家』に就く者と『内面』に就く者は互いに補完(ほかん)しあうものでしかない。明治二十年代における『国家』および『内面』の成立は、西洋世界の圧倒的な支配下において不可避であった。われわれはそれを批判することはできない。批判すべきなのは、そのような転倒の所産を自明とする今日の思考である。それは各々明治にさかのぼって、自らの根拠を確立しようとする。それらのイメージは互いに対立しているが、『対立』そのものが互いに補完しあいながら、互いの起源をおおいかくすのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.126」講談社文芸文庫)

近代文学の出現は近代国家の出現と同時である。そしてそれは巧妙にも、「イメージは互いに対立しているが、『対立』そのものが互いに補完しあいながら、互いの起源をおおいかくす」、という転倒でもあった。フーコーから。

「権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで縷々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、おのれの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.122」新潮社)

BGM

近代/文学/共同体3

2018年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
さて、「内面」を問題にするという転倒行為。ここで代表的に取り上げられているそれは言うまでもなくキリスト教である。明治の日本「文学」の中で、キリスト教はいかに機能しただろうか。例えば、田山花袋。「田山花袋という症例」あるいは「症例としての田山花袋」。西洋近代文学はキリスト教から生まれた。少なくともキリスト教なしには生じてこなかった。それを模倣した日本近代文学の命運はいかなるものと化して「出現」したか。

「時雄のその夜の煩悶(はんもん)は非常であった。欺かれたと思うと、業(ごう)が煮えて仕方がない。いや、芳子の霊と肉──その全部を一書生に奪われながら、とにかくその恋についてまじめに尽くしたかと思うと腹が立つ。そのくらいなら、──あの男に身を任せていたくらいなら、何もその処女の節操(みさお)を尊(とうと)ぶには当たらなかった。自分も大胆に手を出して、性欲の満足を買えばよかった。こう思うと、今まで上天の境(さかい)に置いた美しい芳子は、売女(ばいじょ)か何ぞのように思われて、その体(からだ)は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜はもだえもだえてほとんど眠られなかった。さまざまの感情が黒雲のように胸を通った。その胸に手を当てて時雄は考えた。いっそこうしてくれようかと思った。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、いろいろなことが頭脳(あたま)に浮かぶ。芳子がその二階に泊まって寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、やるせなき恋を語ったらどうであろう。危座して自分を諌(いさ)めるかもしれぬ。声を立てて人を呼ぶかもしれぬ。それともまたせつない自分の情をくんで犠牲になってくれるかもしれぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明らかな日光を見ては、さすがに顔を合わせるにも忍びぬに相違ない。日長(た)けるまで、朝飯(あさめし)をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モーパッサンの『父』という短編を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後はげしく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それをまた思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛んにそれと争った。で、煩悶(はんもん)また煩悶、懊悩(おうのう)また懊悩、寝返りを幾度(たび)となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた」(田山花袋「蒲団・P.73」岩波文庫)

この、長々しく、ねちっこい「告白」。いや、逆にそれがいいのだという読者も当然いる。しかしこの種の告白は「制度」として登場してきた以上、制度の上を越え出ていくことは絶対的に許されていない。制度は、ある種の「枠組み」として、「見るもの」と「見られるもの」との諸関係を、端から端まで、あらかじめ設定している。

「問題は何をいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは『内面』を作り出すのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.98」講談社文芸文庫)

また同時に、この種の制度の特徴。

「いったん成立した告白という制度のなかで、はじめて隠すべきことが生じるのであり、しかもそれが制度であることが意識されないのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.99」講談社文芸文庫)

断わっておきたいが、決してキリスト教批判などしたいわけではまったくない。問題は「文学」という「形式」だ。「制度としての近代文学」だ。このような場合、キリスト教は信仰として日本に輸入されたというより、日本近代文学という「形式」で、あらかじめ「物語」という「形式」をとって、堂々と明治日本を刺し貫き駆け巡り打ち広がったと考えるべきだろう。形式を丸ごと、そのまま模範として輸入しようとしたわけだから、その形式を成立せしめている諸条件はすべてキリスト教的「文明-構造」から土台ごと持ち込まれたと見て差し支えないと言わねばならない。日本は「日本近代文学」という「病」に「感染」したというべきだ。しかし、注意したいのは、西洋では西洋(ヨーロッパ)という土壌の上ですべてが展開しており、従って転倒はあってもそれを「ねじくれた」倒錯とまでは考えられないことに対して、日本では、この転倒はむしろ倒錯と呼ぶにふさわしい点である。さらに、例えばニーチェはそのような転倒を見抜くために古代ギリシアにまでさかのぼらなければならなかったことに対し、日本では明治維新からわずか二十年ばかりのうちにこの倒錯が凝縮されてしまっており、その「起源」が見えない「形式」といった空間性を取っているために、ともすれば、あたかも日本に始めからあった「文学」であるかのように、もしくは「文学」が日本には始めから存在していたかのように受け止められてしまう危険がある。「近代」という、そのような意味を持って読まれる「文学」など、それまでの日本には影も形も全然なかったにもかかわらず。実際、読者の側からみて、花袋なら「花袋」、独歩なら「独歩」、というふうに、ほとんど実際の友人か知人と共に語り合いでもするかのように「読んでしまえる」という奇妙な倒錯を帯びた独自の事情が念頭に置かれねばらない。さて次は監視・権力に関する問いである。

「花袋は『心』を書いて『事』を書かなかったと島村抱月はいう。しかし、そのような『心』ははじめから在るわけではなく、存在させられたのである。<『姦淫するなかれ』と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり>(『マタイ伝』)。ここには恐るべき転倒がある。姦淫するなというのはユダヤ教ばかりでなくどの宗教にもある戒律であるが、姦淫という『事』ではなく『心』を問題にしたところに、キリスト教の比類ない倒錯性がある。もしこのような意識をもてば、たえず色情を看視しているようなものである。彼らはいつも『内面』を注視していなくてはならない。『内面』にどこからか湧(わ)いてくる色情を見つづけねばならない。しかし、『内面』こそそのような注視によって存在させられたのである。さらに重要なことは、それによって『肉体』が、あるいは『性』が見出されたということである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.100~101」講談社文芸文庫)

フーコー参照。

「ところで、キリスト教の改悛・告解から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであったとしたら?それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら?(告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものとなればなるほど、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の完璧な支配体制のもとに置かれているものであるとしたなら?すでに述べた性の言説化と、多様な性的異形性の分散と強化とは、恐らく同じ一つの装置=仕組みの二つの部品なのである。それらは、人々に性的な異形性のーーーそれがどれほど極端なものであってもーーー真実なる言表を強要する告白という中心的な要素のお蔭でこの装置のなかに有機的に連結されているのである。ギリシャにおいて、真理と性とが結ばれていたのは、教育という形で、貴重な知を身体(からだ)から身体(からだ)へと伝承することによってであった。性は知識の伝授を支える役割を果たしていたのである。我々にとっては、真理と性とが結ばれているのは、告白においてであり、個人の秘密の義務的かつ徹底的な表現によってである。しかし今度は、真理の方が、性と性の発現とを支える役を果たしている」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.79~80」新潮社)

明治はまたそれまでは一般的だった武士階級が全面的に否定され、武士が没落階級として居場所を失った時期でもあった。そんな境遇に甘んじるほかなかった没落階級を救ったのはほかでもないキリスト教だった。生活のための物質的な支えを失った武士はキリスト教の「精神」によって、武士ではなく「武士道」を見出す。しかし柄谷行人は単純な「武士道への意志」ではなく、内村鑑三のケースをその転倒したものとして例に取っている。

「長く続いた恐ろしい苦闘のあとで、最後に私はみずからに言い聞かせて神学生になる決意をしました。前述したように私は武士の家に生まれました。武士はどの実際家とも同じように、およそ衒学的でセンチメンタルなことはすべて軽蔑します。いろいろある人間の階層のなかで常に坊主ほど非実際的なものはありません。この忙しい社会に対し坊主の頒(わか)つ商品は、彼らが情操(sentiments)と名づけているものですーーーそれはこの世でいちばん怠け者でも作られるような、あいまいなわけの解らないものですーーー彼らはそれとひきかえに衣食をはじめとする現実的、実質的な価値のあるものを手に入れます。ですから、私たちは坊主は施し物で生活していると言い、剣は施し物にまさって名誉ある生活手段であると信じていました」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.246」岩波文庫)

柄谷の批判はこうだ。

「実際は、江戸時代の平和な時期に、武士はもはや『剣にたよって』生きていたのではない。武士もまた『あやふやな、有って無きがごとき』存在にほかならなかったのであり、その存在理由を確立するためにこそ『武士道』の理念が必要とされたのである。そして、それが通用しえたのは、封建制度が存在するかぎりにおいてである。彼らの『名誉』は実は物質的基盤に支えられていた。封建制度が崩壊するやいなや、武士が『あやふやな、有って無きがごとき』存在であることが露呈する。『名誉』を支えるものはどこにもない。彼らは彼ら自身で立っていると信じていたが、その根拠などありはしないのである。武士道の倫理は、あくまで『主人』の倫理である。現実的に『主人』でありえないとき、『主人』たらんとするにはどうすればよいか。ーーーキリスト教がもたらしたのは、『主人』たることを放棄することによって『主人』(主体)たらんとする逆転である。彼らは主人たることを放棄し、神に完全に服従(サブジェクト)することによって、『主体(サブジェクト)』を獲得したのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.110~111」講談社文芸文庫)

再びフーコーを参照しておこう。

「権力についての全く転倒したイメージを抱かない限りは、我々の文明においてあれほど久しい以前から、自分が何者であるのか、自分が何をしたのか、自分が何を覚えているのか、何を忘れたのか、隠しているもの、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、こういうすべてが何かを語れという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な工事でありーーーその間に、他の形の作業が資本の蓄積を保証していたわけだがーーーそこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.78~79」新潮社)

そして柄谷は、国木田独歩、田山花袋、内村鑑三らのことを指し、複数形で「彼ら」と書く。

「彼らは『告白』をはじめた。しかし、キリスト教徒であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう一つの権力意志だからである。告白はけっして悔悛ではない。告白は弱々しい構えのなかで、『主体』たること、つまり支配することを狙(ねら)っている」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.112」講談社文芸文庫)

内村鑑三の文章。

「私は、自分の日記を『航海日記(log-book)』と呼んでいます。それは、このみすぼらしい小舟が、罪と涙と多くの苦悩とを通り抜けて、天上の港に向かう日々の進み具合を記したノートであるからです。それと同じく『生物学者のスケッチブック』と名づけてよいかもしれません。そこには一粒の種子からたわわな実りの穂に至るまでの、発生学的展開からみた魂のあらゆる形態学的、生理学的変化の全容が記されているからであります。その記録の一部がここに公表されていて、読者がそこからどんな結論を引き出されるのも自由であります」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.15~16」岩波文庫)

柄谷はいう。

「これを謙虚な態度とみてはならない。私は何も隠していない、ここには『真実』があるーーー告白とはこのようなものだ。それは、君たちは真実を隠している。私はとるに足らない人間だが『真理』を語った、ということを主張している。キリスト教が真理だと主張するのは神学者の理屈である。しかし、ここでいわれている『真理』は有無をいわさぬ権力である。告白という制度を支えるのは、このような権力意志である」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.113」講談社文芸文庫)

柄谷の批判は確かに鋭い。けれども、ニーチェの言葉はもっと鋭い。没落階級がまだ内に秘めている「権力への快感」について。

「病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・P.85~86」ちくま学芸文庫)

没落階級がまだ内に持っているに違いない「反感(ルサンチマン)」と「病」と「権力への意志」について。

「ここには一つの比類なき《反感》が支配している。生のあの部分にではなく、むしろ生そのものの上に、生の最も深く、最も強く、最も基礎的な諸条件の上に君臨しようとする一つの飽くことなき本能と権力意志の《反感》が支配している。ここには力の源泉を塞ぐために力を使用しようとする一つの試みがなされている。ここには嫉妬深い陰険な眼が生理的繁殖そのものに対して、殊にその表現に対して、苦痛に対して、不幸に対して、醜悪に対して、自発的な損傷に対して、自己棄却・自己懲罰・自己犠牲に対して一種の愉悦が感じられ、かつ《求め》られる。これらすべてのことは極度に逆説的である。われわれはこの場合、自己自身を分裂させようと《欲する》一つの分裂の前に立っている。しかもその分裂は、こうした苦しみにおいて自己自身を《享楽》し、のみならず自己自身の前提たる生理的生活力の《減衰》とともにいよいよ自信をえ、ますます勝ち誇るようになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.148」岩波文庫)

「自己侮蔑の地床に、いわば本当の沼地に、あらゆる雑草、あらゆる毒草は成長する。しかもそれらはすべて、あれほど小さく、あれほど隠れて、あれほど卑しくあれほど甘ったるいのだ。そこには怨念(おんねん)や執念(しゅうねん)の蛆虫どもがうようよしている。そこでは空気が秘密と内密の悪臭を放っている。そこでは絶えず最も悪性の陰謀──上出来の者や勝ち誇った者に対する受苦者の陰謀の網が張られている。そこでは勝ち誇った者の姿が《憎悪》される。そしてこの憎悪を憎悪として自ら認めまいとする何という欺瞞だ!大仰(おおぎょう)な言葉や態度の何という浪費だ!『正しい』誹謗の何という芸当だ!これらの出来損いども、奴らの唇から何と高貴な雄弁が迸(ほとばし)り出ることか!奴らの眼には何と多くの甘ったるい、粘々した、謙虚な忍従が浮かんでいることか?奴らは一体何を欲しているのか。正義を、愛を、知恵を、優越を少なくとも《見せびらかす》こと──それがこれらの『最下等者ども』の、これらの病人どもの野心なのだ!しかもそうした野心が奴らを何と巧者にすることか!諸君はわけても、ここで徳の刻印を、徳の音色、その黄金の音色をさえも真似る贋金作りの手並みに舌を巻かなければなるまい。これらの弱者や不治の病人は、疑いもなく、徳を今や自分たち自身のために全く借り切っている。『われわれだけが善人であり、正しい人間である。われわれだけが《善き意志の人間》である』と奴らは言う。奴らはわれわれの間を生身の非難として、警告として歩き廻っている、──あたかも健康や上出来や強さや誇りや権力感情がそれ自体においてすでに背徳的な事柄であり、従っていつかは購(あがな)われなければならないもの、しかも苦しい目をして購われなければならないものででもあるかのようにだ。おお、何と奴らは実際購(あがな)いを《させる》準備をしていることか!何と奴らは《刑吏》になることを渇望していることか!奴らのうちには審判者に変装した復讐者が一杯いて、『正義』という言葉を有毒な唾のように絶えず口中に貯えており、そしていつも口を尖(とが)らせて、不満げな顔もせず上機嫌で街路を歩いて行くすべてのものに唾を吐きかけようと待ち構えている。奴らのうちには更に、虚栄の強い人間のうちの最も厭うべきあの《種属》、あの嘘つきの出来損いどももいて、『美しい魂』を見せびらかそうと企(たくら)み、詩句やその他の襁褓(むつき)にくるまれて台なしになった者らの官能を『心情の純潔』と銘うって市場へ持ち出そうと狙っている。道徳的自慰者・『自己満足者』の《種属》がそれだ。《何らかの》形で優越を示そうとする病人どもの意志、健康者に対する暴虐への間道を求める奴らの本能、──ほかならぬ最弱者どものこの権力意志がどこに見出されないというのか!」(ニーチェ「道徳の系譜・P.155~156」岩波文庫)

BGM

近代/文学/共同体2

2018年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
「町外(はず)れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えて言えば、田舎(いなか)の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその点を言えば、大都会の生活の名残(なごり)と田舎の生活の余波とがここで落ち合って、緩(ゆる)やかに《うず》を巻いているようにも思われる」(国木田独歩「武蔵野・P.27」岩波文庫)

国木田独歩は、「感興を起こさしむるような物語」、「小さな物語」、「哀れの深い物語」、「抱腹するような物語」、などなど「物語」という「言葉」あるいはむしろ「概念」を連発している。確かに言えることは、日本ではじめて、この時期に集中して、「制度としての物語」が出現したということだろう。そして「物語」は出現すると同時にその起源をおおい隠してしまった。西洋文学の影響というよりも、明治日本文学は、「頭」はなるほど前を向きつつ、しかし「身体」はなお一層後ろ向きに転倒したというべきか。その時に身体をひねるつもりは勿論なかったわけだが無防備にも全身をねじりつつ転倒した。要するに倒錯した。柄谷行人は「なにか根本的な倒錯」といっている。

「『忘れえぬ人々』という作品から感じられるのは、たんなる風景ではなく、なにか根本的な倒錯なのである。さらにいえば、『風景』こそこのような倒錯において見出されるのだということである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.27~28」講談社文芸文庫)

「『親とか子とかまたは朋友(ほうゆう)知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう』」(国木田独歩「忘れえぬ人々」『武蔵野・P.139』岩波文庫)

独歩はそう述べた後でその「事例」を続々と列挙し始める。

「『僕が十九の歳(とし)の半(中)ごろと記憶しているが、少し体軀(からだ)の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退(ひ)いて国へ帰る、その帰途(かえりみち)のことであた。大阪から例の瀬戸内(せとうち)通(がよ)いの汽船に乗って春海(しゅんかい)波平らかな内海を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶(おぼ)えていない。多分僕に茶を注(つ)いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出で将来(ゆくすえ)の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融(と)けほとんど漣(さざなみ)も立たぬ中を船の船首(へさき)が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞(かすみ)たなびく島々を迎えては送り、右舷左舷(うげんさげん)の景色(けしき)をながめていた。菜の花と麦の青葉とで錦(にしき)を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯(いそ)から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心(なにげ)なくその島をながめていた。山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜(こもり)を作っているばかりで、見たいところ畑(はた)もなく、家らしいものも見えない。しんとしてさびしい磯の退潮(ひきしお)の痕(あと)が日に輝(ひか)って、小さな波が水際(みぎわ)をもてあそんでいるらしく長い線(すじ)が白刃(しらは)のように光っては消えている。無人島(むにんとう)でない事はその山よりも高い空で雲雀(ひばり)が啼(な)いているのが微(かす)かに聞こえるのでわかる。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父(おやじ)の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮(ひきしお)の痕(あと)の日に輝(ひか)っているところに一人の人がいるのが目についた。確かに男である、また子供(こども)でもない。何かしきりに拾っては籠(かご)か桶(おけ)かに入れているらしい。二三歩(ふたあしみあし)あるいてはしゃがみ、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島影の小さな磯を漁(あさ)っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞のかなたに消えてしまった。その後、今日(きょう)が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶(おも)い起こしたろう。これが僕の『忘れ得ぬ人々』の一人である』」(国木田独歩「忘れえぬ人々」『武蔵野・P.139~141』岩波文庫)

「『四国の三津が浜に一泊して汽船便を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿(やど)を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛(はんじょう)は格別で、分けても朝は魚市(うおいち)が立つので魚市場の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残(なご)りなく晴れて朝日麗(うらら)かに輝き、光る物には反射を与え、色ある者には光を添えて雑踏の光景をさらに殷々(にぎにぎ)しくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声嬉々(きき)としてここに起これば、歓呼怒罵(どば)乱れてかしこにわくというありさまで、売るもの買うもの、老若男女(ろうにゃくなんにょ)、いずれも忙しそうにおもしろそうにうれしそうに、駆けたり追ったりしている。露店(ろてん)が並んで立ち食いの客を待っている。売っている品(もの)は言わずもがなで、食ってる人は大概船頭船方(せんどうふながた)の類(たぐい)にきまっている。鯛(たい)や比良目(ひらめ)や海鰻(あなご)や章魚(たこ)が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭(にお)いが人々の立ち騒ぐ袖(そで)や裾(すそ)にあおられて鼻を打つ。僕は全くの旅客でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿(は)げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段鮮(あざ)やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己(おのれ)をわすれてこの雑踏の中(うち)をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街(ちまた)の一端(はし)に出た。するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶(びわ)の音(ね)であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳(とし)のころ四十を五ツも六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈(たけ)の低い肥えた漢子(おとこ)であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽(むせ)ぶような糸の音につれて謡(うた)う声が沈んで濁って淀(よど)んでいた。巷(ちまた)の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端(のきば)のそろわない、しかもせわしそうな巷(ちまた)の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽(おえつ)する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい金砧(かなしき)の音と雑(ま)ざって、別に一道(どう)の清泉が濁波(だくは)の間を潜(くぐ)って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな、顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた、『忘れえぬ人々』の一人はすなわちこの琵琶僧である』」(国木田独歩「忘れえぬ人々」『武蔵野・P.144~145』岩波文庫)

さらに独歩は主人公に、「自然主義」とも「ロマン派」ともつかぬ、言い換えれば、どちらにも取れる想念を「告白」させている。

「『要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望(たいもう)に圧せられて自分で苦しんでいる不幸(ふしあわせ)な男である。そこで僕は今夜(こよい)のような晩に独(ひと)り夜ふけて燈(ともしび)に向かっているとこの生の孤立を感じて堪(た)え難位ほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角(つの)がぼきり折れてしまって、なんだか人懐(なつ)かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時油然(ゆぜん)として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡(うち)に立つこれらの人々である。われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享(う)けて悠々(ゆうゆう)たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬(ほお)をつたうことがある。その時は実に我(われ)もなければ他(ひと)もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る』」(国木田独歩「忘れえぬ人々」『武蔵野・P.147』岩波文庫)

そこには、「内面」に打ち沈み「観念」に浸り切っていく「精神」の「風景」、がある。だがそれだけを取り上げて「弱々しい」とか「独りよがり」だと批判するのは見当違いである。そして「人間を描いている」とか「名もない人々に光を当てた」というのもまたもう一つの見当外れというべきだ。問題はそういう次元にはない。柄谷によればこういう次元だ。

「風景はむしろ『外』をみない人間によってみいだされた」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.29」講談社文芸文庫)

さらに恐ろしいのは「起源」が「忘れさられる」という点。そして「主観/客観」、従って「二元論」という問題。

「風景がいったん成立すると、その起源は忘れさられる。それは、はじめから外的に存在する客観物のようにみえる。ところが、客観物(オブジュクト)なるものは、むしろ風景のなかで成立したのである。主観あるいは自己(セルフ)もまた同様である。主観(主体)・客観(客体)という認識論的な場は、『風景』において成立したのである。つまりはじめからあるのではなく、『風景』のなかで派生してきたのだ」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.42」講談社文芸文庫)

絵画を例にとって柄谷はこうもいう。

「モナリザという人物の微笑はなにを表現しているのかと問うてはならない。そこに『内面性』の表現をみてはならない。おそらく事態はその逆なのだ。『モナリザ』には概念としての顔ではなく、素顔がはじめてあらわれた。だからこそ、その素顔は『意味するもの』として内面的な何かを指示してやまないのである。『内面』がそこに表現されたのではなく、突然露出した素顔が『内面』を意味しはじめたのだ」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.77」講談社文芸文庫)

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近代/文学/共同体1

2018年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
「これはツルゲーネフが書きたるものを二葉亭が訳して『あいびき』と題した短編の冒頭にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣を解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い」(国木田独歩「武蔵野・P.11」岩波文庫)

「叙景の筆の力」とある。「日本近代文学」という倒錯的転倒を決定づけた作業。それは柄谷行人がニーチェ的言い回しを用いて「大切なのは『頭』より『手』である」と述べたこの「叙述法」にある。「武蔵野」から。

「武蔵野には決して禿山(はげやま)はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台(たかだい)のところどころが低く窪(くぼ)んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさまざまの区画をなしている。畑はすなわち野である。されば林とても数里にわたるもののなく否(いな)、恐らく一里にわたるものもあるまい、畑とても一望数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一傾の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野やら林やら、ただ乱雑に入り組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというようなふうである。それがまた実に武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なって、その趣も特異である」(国木田独歩「武蔵野・P.15」岩波文庫)

叙述法としてはごく当たり前のように思える。違和感を感じない。そして違和感を感じない理由は読者が「日本近代文学」という「転倒」した世界の中にどっぷり浸かり切って何の驚きも、また同時に根本的な疑問も、持たないで済ましているからに過ぎない。

「武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことによって始めて獲(え)られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨(しぐれ)にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左しすれば随処にわれらを満足さするものがある。これが実にまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのようなところがどこにあるか。北海道の原野には無論の事、那須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接しているところがどこにあるか。実に武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこの故である」(国木田独歩「武蔵野・P.17」岩波文庫)

ここで、「林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接しているところ」、というフレーズに注目しておこう。次に柳田國男から。

「今では記憶している者が、私のほかには一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。ーーー。

また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身社で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう。

我々が空想で描いてみる世界よりも、隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる」(柳田國男「山の人生」『柳田國男全集4・P.81~83』ちくま文庫)

柳田が描写する「風景」は既に転倒している。明治維新以前あるいはそれ以降も、時と場所により「子殺し」は人々の日々の暮らしの内部にあった。決して外部にあったのではなかった。当たり前の事柄としてあちこちに存在した。それがなぜ「隠れた現実」とされ、「物深く」、「考えしめる」ものへと転化したのか。柄谷はいう。

「このような転倒こそ私が『風景の発見』とよんだものである。ついでにいえば、柳田は『浮雲』を読んで、才子佳人でなく平凡な人物が主人公であることに驚いたという。『平凡人』(国木田独歩)とは無意味な人物である。が、このとき、どこにもある、ありふれた素顔が意味を帯びはじめたのだ」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.69」講談社文芸文庫)

独歩は書いていた。「林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接しているところ」と。
柄谷はいう。

「このような『生活』は、柳田のいう『隠れた現実』であり、『常民』の生活にほかならない。柳田の民俗学は、西洋の民俗学の輸入としてではなく、そのような『風景の発見』によって見出されたのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.85」講談社文芸文庫)

独歩の「新しさ」について。

「僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれは無論省かなくてはならぬ、なぜなればわれわれは農商務省の官衙(かんが)が巍峨(ぎが)としてそびえていたり、鉄管事件の裁判があったりする八百八街によって昔の面影を想像することができない。それに僕が近ごろ知り合いになったドイツ婦人の評に、東京は『新しい都』ということがあって、今日の光景ではたとえ徳川の江戸であったにしろ、この標語を適当と考えられる筋もある。かようなわけで東京は必ず武蔵野から抹殺(まっさつ)せねばならぬ」(国木田独歩「武蔵野・P.23」岩波文庫)

それに対する柄谷の「読み」。

「それが意味するのは、東京という政治的歴史は、武蔵野という『人間と自然の関係』としての歴史の一部にすぎないという認識である。いいかえれば、『風景の発見』は、そのまま『歴史の発見』なのである。国木田独歩の新しさはそのような《切断》にある」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.85」講談社文芸文庫)

とはいえ、独歩だけが最初から突出していたわけではない。

「喫驚(びっくり)したいというのが僕の願なんですーーー宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!ーーー死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!ーーー必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安(やすん)ずる能(あた)わざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」(国木田独歩「牛肉と馬鈴薯」『牛肉と馬鈴薯・P.45~46』新潮文庫)

さらに。

「習慣の力です。ーーー即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩(たた)き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣の圧力から脱(の)がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立(ふぎょうかいりつ)したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯(じゃがいも)主義となろうが、将(は)た厭世(えんせい)の徒となってこの生命を呪(のろお)うが、決して頓着(とんじゃく)しない!結果は頓着しません、源因(げんいん)を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。ーーーヤレ月の光が美だとか花の夕(ゆうべ)が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々(とうとう)たる詩人の文字(もんじ)は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、《まぼろし》を見ているのです。習慣の眼が作るところの《まぼろし》を見ているに過ぎません」(国木田独歩「牛肉と馬鈴薯」『牛肉と馬鈴薯・P.47~48』新潮文庫)

次の一節では、「自分が一種の膜の中(うち)に閉じ込められているよう」、とある部分が重要。

「医師は極(きわ)めて『死』に対して冷淡である、しかし諸友としても五十歩百歩の相違に過ぎない、吾等は生から死に移る物質的手続を知ればもう『死』の不思議はないのである。自殺の源因が知れた時はもうそれだけで何の不思議もないのである。自分は以上の如く考えて来たらまるで自分が一種の膜の中(うち)に閉じ込められているように感じてきた、天地凡(すべ)てのものに対する自分の感覚が何んだか一皮隔てているように思われて来てたまらなくなった。そして今も悶(もが)いている自分は固く信ずる、面と面(フェースツーフェース)、直ちに事実と万有とに対する能(あた)わずんば『神』も『美』も『真』も遂に幻影を追う一種の遊戯に過ぎないと、しかしてただかく信ずるばかりである」(国木田独歩「死」『牛肉と馬鈴薯・P.22』新潮文庫)

似ている。鷗外の「告白」と非常に似ている。

「西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云っている。自分は西洋人の謂(い)う野蛮人というものかも知れないと思う。そう思うと同時に、小さい時二親が、侍(さむらい)の家に生れたのだから、切腹ということが出来なくてはならないと度々(たびたび)諭(さと)したことを思い出す。その時も肉体の痛みがあるだろうと思って、その痛みを忍ばなくてはなるまいと思ったことを思い出す。そしていよいよ所謂(いわゆる)野蛮人かも知れないと思う。しかしその西洋人の見解が尤(もっと)もだと承服することは出来ない。

そんなら自我が無くなるということに就いて、平気でいるかというに、そうではない。その自我というものが有る間に、それをどんな物だとはっきり考えても見ずに、知らずに、それを無くしてしまうのが口惜(くちお)しい。残念である。漢学者の謂う酔生夢死というような生涯を送ってしまうのが残念である。それを口惜しい、残念だと思うと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言われない寂しさを覚える。

それが煩悶(はんもん)になる。それが苦痛になる」(森鷗外「妄想」『山椒大夫・高瀬舟・P.50~51』新潮文庫)

両者の類似について柄谷はこう述べている。

「これは一見すると、『驚きたい』という独歩の作品と似ているようにみえる。しかし、独歩において、あの不透明な『膜』がいわば内側にあったとすれば、鷗外においては外側にある。ーーー鷗外は『自己』を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に『苦痛』にしていたのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.93」講談社文芸文庫)

ところがしかし、柄谷の出現を待つまでもなく、ニーチェの場合、あっけなくこう言ってのけている。

「彼らは驚愕(きょうがく)させない。彼らは蝶番(ちょうつがい)をはずすような変化をもたらさない」(ニーチェ「反時代的考察・P.349」ちくま学芸文庫)

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