「周知のように、徳富蘆花の『不如帰(ほととぎす)』(明治三十一~三十三年)は、結核で死んで行く浪子をヒロインとする。彼女は母をやはり結核でなくし、気の強い継母にいじめられて育つ。その点で、これは日本古来の『継子(ままこ)いじめ』の物語を踏襲している。また、彼女は姑(しゅうとめ)にいびられるのだが、これも型通りである。柳田國男が指摘したように、継子いじめの物語は、継子いじめが現にあるから書かれるのではない。現になくてもそれは好まれる」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.133」講談社文芸文庫)
ここでは「継子いじめ」については措かれている。「継子いじめ」の物語がなぜ近代日本で大受けするのか、それは類似の物語の大ヒットの理由をも明らかにしうるだろう。だがーーー。
「注目すべきことは、浪子を死なせてしまうのが継母や姑や悪玉たちではなく、結核だということである。ーーーこの作品では、結核は一種のメタフォアなのだ。そして、この作品の眼目は、浪子が結核によって《美しく》病み衰えていくところにある」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.133~134」講談社文芸文庫)
差し当たって二つの問題がある。一つは今上げたこと。つまり「結核によって《美しく》病み衰えていくところ」。「結核神話」というべき「病」がすでに日本近代文学とそれを取り巻く社会全体に恐ろしく《深く》取り憑き食い込んでいる点。もう一つは、結核はなるほど病気の一種だが、病原菌の発見によって「結核神話」を解体したはずの近代医学もまた、ある種の「形而上学=政治的思想」に感染していた、という点だ。まず一点目から。
「結核神話が広がったとき、俗物や成り上がり者にとって、結核こそ上品で、繊細で、感受性の豊かなことの指標となった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.135」講談社文芸文庫)
「ルネ・デュポスは、『当時は病気のムードがとても広まっていたため、健康はほとんど野蛮な趣味の徴候(ちょうこう)であるかのように考えられた』(『健康という幻想』)といっている。感受性があると思いたい者は、むしろ結核になりたがった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.135」講談社文芸文庫)
徳富蘆花による作品の描写を見てみよう。
「色白の細面(ほそおもて)、眉(まゆ)の間(あわい)やや蹙(せま)りて、頰(ほお)のあたりの肉寒げなるが、疵(きず)といわば疵なれど、瘠形(やさがた)のすらりと静淑(しお)らしき人品(ひとがら)。これや北風(ほくふう)に一輪勁(つよ)きを誇る梅花にあらず、また霞(かすみ)の春に蝴蝶(こちょう)と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕闇にほのかに匂う月見草、と品定めもしつべき婦人」(徳富蘆花「不如帰・P.11」岩波文庫)
「逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さ遣(や)る方(せ)なく思うほどいよいよ長き日(ひ)一日(またひ)のさすがに暮せば暮らされて、早や一月あまり経(たち)たれば、麦刈済みて山百合(やまゆり)咲く頃となりぬ。過ぐる日の喀血(かっけつ)に、一たびは気落ちしが、幸(さいわい)にして医師(いしゃ)の言えるが如くその後に著しき衰弱もなく、先日函館よりの良人(おっと)の書信(てがみ)にも帰来(かえり)の近(ちか)かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどには到らぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自(みず)から気を励まし、浪子は薬用に運動に細かに医師の戒(いましめ)を守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ」(徳富蘆花「不如帰・P.173」岩波文庫)
「されど解きても融(と)け難き一塊の恨(うらみ)は深く深く胸底(きょうてい)に残りて、彼が夜々吊床の上に、北洋艦隊の殲滅(せんめつ)とわが討死(うちじに)の夢に伴うものは、雪白(せっぱく)の肩掛(ショール)を纏(まと)える病める或(ある)人の面影(おもかげ)なりき。
消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきが如く、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。
武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、朧々(ろうろう)としたる逗子の夕(ゆうべ)、われを送りて門(かど)に立出(たちい)で、『早く帰って頂戴』と呼びし人はいずこぞ。思い入りて眺むれば、白き肩掛を纏える姿の、今しも月光の中(うち)より歩み出で来らん心地すなり」(徳富蘆花「不如帰・P.192~193」岩波文庫)
という感じだ。「美人・結核・別れ」という三位一体からなる「文学という病」=「物語」が、恥ずかしげもなく、むしろもろに出現している。柄谷はいう。
「実際に社会的に蔓延(まんえん)している結核は悲惨なものである。しかし、ここでは結核はそれとかけはなれ、またそれを転倒させる『意味』としてある」
(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.136」講談社文芸文庫)
「いずれにしても、結核は現実に病人が多かったからではなく、『文学』によって神話化されたのである。事実としての結核の蔓延とはべつに、蔓延したのは結核という『意味』にほかならなかった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.137」講談社文芸文庫)
さらに柄谷は、「窮極の原因」を問う「思想」こそが問題なのだと指摘する。
「結核菌は、結核の『原因』ではない。ほとんどすべての人間が、結核菌やその他の微生物の感染をうける。われわれは微生物とともに生きているのであって、むしろそれがなければ消化もできないし、生きていけない。体内に病原体がいることと、発病することとはまったくべつである。西洋の十六世紀から十九世紀にかけて結核が蔓延したことは、けっして結核菌の『せい』ではないのだし、それが減少したのは必ずしも医学の発達のおかげではない。それでは何が窮極的な原因なのかと問うてはならない。もともと一つの『原因』を確定しようとする思想こそが、神学・形而上的なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.142~143」講談社文芸文庫)
「唯一絶対的」な「原因」を特定してそれを「罪悪」と捉えて考えたがる「神学的・形而上学的」態度。しかしなぜそれが問題なのか。無論、そのような「一つの原因」のみを「有罪」とする思想的態度は、ありがちなように、他の無数の諸関係の網目から目をそらす、あるいは他の無数の諸関係の網目をおおいかくしてしまうばかりか、その起源を忘れさせてしまうからにほかならない。「原因と結果の混同」並びにその「取り違え」を可能にして他の諸関係の網目をじっくり見ようとする者の目をとことん倒錯させてしまう。それこそが問題であるにもかかわらず、逆にそれこそを問題とはさせずに、意識に上ってもこないようにさせており、従って肝心の問題を見えなくさせてしまう。いわゆる遠近法的倒錯であり、というより、遠近法もまた倒錯なのだが。
「たとえば、ニーチェは、西欧の精神史は病気の歴史だといっている。つまり、彼は病気をメタフォアとして濫用(らんよう)したのだが、しかし、彼は『健康という幻想』から程遠かった。彼が攻撃したのはいわば『病原体』という思想にほかならない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.146」講談社文芸文庫)
「ある量の力とは、それと同量の衝動・意志・活動の謂いである──というよりはむしろ、まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほかならない。それがそうでなく見えるのは、ただ、すべての作用を作用者によって、すなわち『主体』によって制約されたものと理解し、かつ誤解するあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)に引きずられるからにすぎない。あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎない──作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。──あらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない(例えば、原子がそういう取り換え児であり、カントの「物自体」も同様である)。内攻して蔭で微かに燃え続けている復讐と憎悪の感情が、《強者は自由に》なれるし、猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し、その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても、それは別に異とすべきことではない。──実に、この信仰によってこそ彼らは、猛禽に対して猛禽であることの《責めを負わせる》権利を獲得するのだ──抑圧された者、蹂躙された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、『われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そして善人とは、暴圧を加えない者、何人をも傷つけない者、攻撃しない者、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求めるところ少ない者の謂いであって、われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ』──と言って自ら宥(なだ)めるとき、この言葉が冷静に、かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、『われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれは《われわれの力に余る》ことは何一つしないから善人なのだ』というより以上の意味はもっていない。ところが、この苦々しい事態、昆虫類(大きな危険に際して「大それた」真似をしないために死を装うことを厭わないあの昆虫類)でさえもっているこの最も低劣な怜悧さは、無力のあの偽金造りと自己欺瞞とのお蔭で、諦めて黙って待つという徳の派手な衣裳を着けたのだ。あたかも弱者の弱さそのものが──すなわち彼の《本質》が、彼の行為が、彼の避けがたく解き離しがたい唯一の現実性の全体が──一つの自由意志的な行為、何らかの意欲されたもの、何らかの選択されたもの、一つの《事蹟》、一つの《功績》ででもあるかのように。この種の人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、同時にまたこの本能からして、あの無記な、選択の自由をもつ『主体』に対する信仰を《必要》とする。主体(通俗的に言えば《魂》)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を《功績》と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからであった」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~49」岩波文庫)
長々しい引用だが、ニーチェはここで、唯一単独で自由に存在する「主体=原因」などというものはまったくない、と言っているわけだ。ところで、徳富蘆花はキリスト教徒だったが、「キリスト教は病気を必要とする」、ともニーチェは言う。
「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)
しかし「不如帰」に顕著な第二の問題点とは何か。先に述べたように、それは医学の逆説である。医学的科学的な技術の開発はなるほど世の中から「迷信」を追っ払った。けれども、医学的科学的態度もまた「神学的・形而上学的」な態度であるばかりか、むしろその最先端に現れた一つの真理信仰なのではないか、とニーチェは追求する。
「ところで今の場合はどうであろうか。ーーー現今におけるこれらの否定者や反対者たち、知的潔白に対する要求というただ一つの事に血道を上げているこれらの人々、峻烈な、厳格な、節欲的な、英雄的なこれらの精神、すべてこれらの蒼白い無神論者や、反キリスト者、不道徳者や、ニヒリストたち、これらの懐疑論者や精神の《結核患者》(ある意味において彼らは一人残らずこの結核患者なのだ)、今日では知的良心の唯一の生息所となっているこれら最後の認識の理想主義者たち、ーーー実際のところ彼らは、これらの『自由な、《極めて》自由な精神』は、禁欲主義的理想から離れうるかぎり離れている、と信じている。しかし、彼ら自身には見ることのできないーーー彼らは余り近くにいるからーーーものを彼らに見せてやるとすれば、この理想こそはまさしく《彼らの》理想であり、今日この理想の代現者は彼ら自身であって、恐らく彼ら以外の何者でもない。彼ら自身がそれの最も精神化された所産であり、それの最前線の哨兵隊であり、それの最も危険な、最も精妙な、最も捉えがたい誘惑形式である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.191~192」岩波文庫)
ここで「反キリスト者」とある。その点では、ニーチェは自分自身もまた「彼ら」の内の一人であって、その外へ逃れることができているかどうかは問題だとして、自分自身の特権化を避けようとつとめている。「反キリスト者」を含む限りで、要するにニーチェには自覚がある。自分自身も批判される側にまわる用意がいつでもある。もともとニーチェを生んだのはほかでもないキリスト教だという動かしがたい事実もあるわけだからだ。いずれにしろ、ニーチェが口酸っぱく、やかましく、繰り返し、もうわかったからやめろと言いたくなるほど、がなり立てていることは、唯一の原因=主体が存在する、という妄想あるいは思想は、「唯一の真理」を求めるという絶対主義的理想主義から全然隔たっていないばかりか、むしろ巧妙に近づいてしまう思考のパラドックスについてである。
「唯一の主体=原因」という思想とその流布は、「不如帰」の中で、武男の母にこう言わせることになる。
「病気の中でもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。おまえも知っとるはずじゃが、あの知事の東郷、な、おまえがよく喧嘩(けんか)をしたあの児(こ)の母御(かさま)な、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子さんーーーどこかの技師をしとったそうじゃがのーーーもやっぱい肺病で先頃(このあいだ)亡くなった、な。皆(みいな)母御のが伝染(うつ)ッたのじゃ。まだこんな話がいくつもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」(徳富蘆花「不如帰・P.144~145」岩波文庫)
昨今におけるHIVを巡る数々の言説を思わせないだろうか。そのような現象について、「不如帰」に戻って見ると、「唯一の原因」という迷妄に関して、柄谷はこう批判している。病気・文学・政治・医学、などなど、それらは相互に「連関」していると。
「この社会は病んでおり、根本的に治療せねばならぬという『政治』思想もまた、そこからおこっている。『政治と文学』は、古来から対立する普遍的な問題であるどころか、互いに連関しあう《医学的》思想なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.151」講談社文芸文庫)
結核菌は発見された。ところがそれが事実として蔓延するための条件として、感染が蔓延するために必要な社会的な諸関係が先に既に成立していなければならない。それはいつ、どこで、どのような社会環境においてだったか。
「くりかえしていうように、結核の蔓延という事実があったから、結核の神話化がおこったのではない。結核は、イギリスと同様に、日本でも産業革命による生活形態の急激な変容とともにひろがっている。結核は、昔からある結核菌によってではなく、複雑な諸関係の網目におけるアンバランスから生じている。事実としての結核そのものが、解読されるべき社会的・文化的徴候なのだ。しかし、結核を、物理的(医学的)であれ、神学的であれ、一つの『原因』に還元してしまうとき、それは諸関係のシステムをみうしなわせる」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.152」講談社文芸文庫)
正岡子規について触れておかねばならない。徳富蘆花「不如帰」が刊行された翌年、子規は結核で死の床を這いずりまわっていた。が、そこには蘆花のようなロマン派とはほど遠い、冷静沈着でなおかつ時として軽妙な「写生」という態度が貫かれていた。
「午前二時頃目さめ腹いたし 家人を呼び起して便通あり 腹痛いよいよ烈(はげ)しく苦痛堪(た)ヘがたし この間下痢水射(すいしゃ)三度ばかりあり 絶叫号泣」(正岡子規「仰臥漫録・P.44」岩波文庫)
「一両日来左下横腹(腸骨か)のところいつもより痛み強くなりし故ほーたい取替のときちょっと見るに真黒になりて腐り居るやうなり 定めてまた穴のあくことならんと思はる 捨てはてたからだどーならうとは構はぬことなれどもまた穴があくかと思へば余りいい心持はせず」(正岡子規「仰臥漫録・P.92」岩波文庫)
「前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず この日繃帯とりかへのとき号泣多時、いふ腐敗したる部分の皮がガーゼに附着したるなりと 背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず」(正岡子規「仰臥漫録・P.98」岩波文庫)
「この日宮本医来診のとき繃帯(ほうたい)を除いて新しき口及び背中尻の様子を示す 暫(しばら)くぶりのことなり 医の驚きと話とを余所(よそ)ながら聞いて余も驚く」(正岡子規「仰臥漫録・P.101」岩波文庫)
「兆民居士(ちょうみんこじ)の『一年有半(いちねんゆうはん)』といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由われらは腹(はら)背中(せなか)臀(しり)ともいはず蜂(はち)の巣の如く穴あき申候」(正岡子規「仰臥漫録・P.113」岩波文庫)
「この夜頭脳不穏頻(しき)りに泣いて已(や)まず 三人に帰つてもらひ糞して眠り薬を呑んで眠る(下痢やまず毎日三、四度便通あり)」(正岡子規「仰臥漫録・P.115」岩波文庫)
「膿(うみ)の出る口は次第にふえる、寝返りは次第にむつかしくなる、衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寝て居るやうなことが多い。腸骨(ちょうこつ)の側に新に膿の口が出来てその近辺が痛む、これが寝返りを困難にする大原因になつて居る。右へ向くも左へ向くも仰向(あおむけ)になるもいずれにしてもこの痛所を刺激する、咳(せき)をしてもここにひびき泣いてもここにひびく。繃帯は毎日一度取換へる。これは律(りつ)の役なり。尻のさき最(もっとも)痛く僅(わずか)に綿を以て拭(ぬぐ)ふすらなほ疼痛(とうつう)を感ずる。背部にも痛き箇所がある。それ故繃帯取換は余に取つても律に取つても毎日の一大難事である。この際に便通ある例で、都合(つごう)四十分乃至(ないし)一時間を要する。肛門の開閉が尻の痛所を刺戟するのと腸の運動が左腸骨辺の痛所を刺戟するのとで便通が催された時これを猶予(ゆうよ)するの力もなければ奥の方にある屎(くそ)をりきみ出す力もない」(正岡子規「仰臥漫録・P.124」岩波文庫)
「食事は相変らず唯一の楽(たのしみ)であるがもう思ふやうには食はれぬ。食ふとすぐ腸胃が変な運動を起して少しは痛む。食ふた者は少しも消化せずに肛門へ出る」(正岡子規「仰臥漫録・P.125」岩波文庫)
なお、ここでいう「写生」的態度については漱石を参照しよう。
「社会は人間の塊(かた)まりである。その人間を区別すれば色々出来る。貴とも賤(せん)ともなる。賢とも不肖ともなる。正とも邪ともなる。男とも女ともなる。貧とも富ともなる。老とも若、長と幼ともなる。その他色々に区別が出来る。区別が出来る以上は、区別された一のものが他を視(み)る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生観というと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎(せん)じつめればこの態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自(おのず)から違う。大袈裟(おおげさ)な言葉でいうと彼此(ひし)の人生観が、ある点において一様でない。というに過ぎん。
人事に関する文章はこの視察の表現である。従って人事に関する文章の差異はこの視察の差異に帰着する。この視察の差異は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差異を生ずる源になる。今の世にいう写生作家というものの文章は如何(いか)なる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別の出来るような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えているというてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗けばどんなに見えるかという事を説明するのが余の義務である。
写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者(せんじゃ)を視(み)るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子(くんし)が小人(しょうじん)を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。
子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違(きちがい)である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做(みな)して、擦(す)ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉(も)んだりして、あくまで、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.165~167』岩波文庫)
「それでは人間に同情がない作物を称して写生文家というように思われる。しかしそう思うのは誤謬(ごびゅう)である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻(れいこく)でもない。無論同情がある。同情があるけれども駄菓子を落した子供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是(がんぜ)なく煩悶(はんもん)し、無体(むてい)に号泣し、直角に跳躍(ちょうやく)し、一散に狂奔(きょうほん)する底(てい)の同情ではない。傍(はた)から見て気の毒の念に堪(た)えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。
従って写生文家の描く所は多く深刻なものではない。否(いな)如何に深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視(み)るから大抵の場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.167~168』岩波文庫)
BGM
ここでは「継子いじめ」については措かれている。「継子いじめ」の物語がなぜ近代日本で大受けするのか、それは類似の物語の大ヒットの理由をも明らかにしうるだろう。だがーーー。
「注目すべきことは、浪子を死なせてしまうのが継母や姑や悪玉たちではなく、結核だということである。ーーーこの作品では、結核は一種のメタフォアなのだ。そして、この作品の眼目は、浪子が結核によって《美しく》病み衰えていくところにある」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.133~134」講談社文芸文庫)
差し当たって二つの問題がある。一つは今上げたこと。つまり「結核によって《美しく》病み衰えていくところ」。「結核神話」というべき「病」がすでに日本近代文学とそれを取り巻く社会全体に恐ろしく《深く》取り憑き食い込んでいる点。もう一つは、結核はなるほど病気の一種だが、病原菌の発見によって「結核神話」を解体したはずの近代医学もまた、ある種の「形而上学=政治的思想」に感染していた、という点だ。まず一点目から。
「結核神話が広がったとき、俗物や成り上がり者にとって、結核こそ上品で、繊細で、感受性の豊かなことの指標となった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.135」講談社文芸文庫)
「ルネ・デュポスは、『当時は病気のムードがとても広まっていたため、健康はほとんど野蛮な趣味の徴候(ちょうこう)であるかのように考えられた』(『健康という幻想』)といっている。感受性があると思いたい者は、むしろ結核になりたがった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.135」講談社文芸文庫)
徳富蘆花による作品の描写を見てみよう。
「色白の細面(ほそおもて)、眉(まゆ)の間(あわい)やや蹙(せま)りて、頰(ほお)のあたりの肉寒げなるが、疵(きず)といわば疵なれど、瘠形(やさがた)のすらりと静淑(しお)らしき人品(ひとがら)。これや北風(ほくふう)に一輪勁(つよ)きを誇る梅花にあらず、また霞(かすみ)の春に蝴蝶(こちょう)と化けて飛ぶ桜の花にもあらで、夏の夕闇にほのかに匂う月見草、と品定めもしつべき婦人」(徳富蘆花「不如帰・P.11」岩波文庫)
「逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さ遣(や)る方(せ)なく思うほどいよいよ長き日(ひ)一日(またひ)のさすがに暮せば暮らされて、早や一月あまり経(たち)たれば、麦刈済みて山百合(やまゆり)咲く頃となりぬ。過ぐる日の喀血(かっけつ)に、一たびは気落ちしが、幸(さいわい)にして医師(いしゃ)の言えるが如くその後に著しき衰弱もなく、先日函館よりの良人(おっと)の書信(てがみ)にも帰来(かえり)の近(ちか)かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどには到らぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自(みず)から気を励まし、浪子は薬用に運動に細かに医師の戒(いましめ)を守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ」(徳富蘆花「不如帰・P.173」岩波文庫)
「されど解きても融(と)け難き一塊の恨(うらみ)は深く深く胸底(きょうてい)に残りて、彼が夜々吊床の上に、北洋艦隊の殲滅(せんめつ)とわが討死(うちじに)の夢に伴うものは、雪白(せっぱく)の肩掛(ショール)を纏(まと)える病める或(ある)人の面影(おもかげ)なりき。
消息絶えて、月は三たび移りぬ。彼女なお生きてありや、なしや。生きてあらん。わが忘るる日なきが如く、彼も思わざるの日はなからん。共に生き共に死なんと誓いしならずや。
武男はかく思いぬ。さらに最後に相見し時を思いぬ。五日の月松にかかりて、朧々(ろうろう)としたる逗子の夕(ゆうべ)、われを送りて門(かど)に立出(たちい)で、『早く帰って頂戴』と呼びし人はいずこぞ。思い入りて眺むれば、白き肩掛を纏える姿の、今しも月光の中(うち)より歩み出で来らん心地すなり」(徳富蘆花「不如帰・P.192~193」岩波文庫)
という感じだ。「美人・結核・別れ」という三位一体からなる「文学という病」=「物語」が、恥ずかしげもなく、むしろもろに出現している。柄谷はいう。
「実際に社会的に蔓延(まんえん)している結核は悲惨なものである。しかし、ここでは結核はそれとかけはなれ、またそれを転倒させる『意味』としてある」
(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.136」講談社文芸文庫)
「いずれにしても、結核は現実に病人が多かったからではなく、『文学』によって神話化されたのである。事実としての結核の蔓延とはべつに、蔓延したのは結核という『意味』にほかならなかった」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.137」講談社文芸文庫)
さらに柄谷は、「窮極の原因」を問う「思想」こそが問題なのだと指摘する。
「結核菌は、結核の『原因』ではない。ほとんどすべての人間が、結核菌やその他の微生物の感染をうける。われわれは微生物とともに生きているのであって、むしろそれがなければ消化もできないし、生きていけない。体内に病原体がいることと、発病することとはまったくべつである。西洋の十六世紀から十九世紀にかけて結核が蔓延したことは、けっして結核菌の『せい』ではないのだし、それが減少したのは必ずしも医学の発達のおかげではない。それでは何が窮極的な原因なのかと問うてはならない。もともと一つの『原因』を確定しようとする思想こそが、神学・形而上的なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.142~143」講談社文芸文庫)
「唯一絶対的」な「原因」を特定してそれを「罪悪」と捉えて考えたがる「神学的・形而上学的」態度。しかしなぜそれが問題なのか。無論、そのような「一つの原因」のみを「有罪」とする思想的態度は、ありがちなように、他の無数の諸関係の網目から目をそらす、あるいは他の無数の諸関係の網目をおおいかくしてしまうばかりか、その起源を忘れさせてしまうからにほかならない。「原因と結果の混同」並びにその「取り違え」を可能にして他の諸関係の網目をじっくり見ようとする者の目をとことん倒錯させてしまう。それこそが問題であるにもかかわらず、逆にそれこそを問題とはさせずに、意識に上ってもこないようにさせており、従って肝心の問題を見えなくさせてしまう。いわゆる遠近法的倒錯であり、というより、遠近法もまた倒錯なのだが。
「たとえば、ニーチェは、西欧の精神史は病気の歴史だといっている。つまり、彼は病気をメタフォアとして濫用(らんよう)したのだが、しかし、彼は『健康という幻想』から程遠かった。彼が攻撃したのはいわば『病原体』という思想にほかならない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.146」講談社文芸文庫)
「ある量の力とは、それと同量の衝動・意志・活動の謂いである──というよりはむしろ、まさにその衝動作用・意志作用・活動作用そのものにほかならない。それがそうでなく見えるのは、ただ、すべての作用を作用者によって、すなわち『主体』によって制約されたものと理解し、かつ誤解するあの言語の誘惑(および言語のうちで化石となった理性の根本的誤謬)に引きずられるからにすぎない。あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎない──作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。──あらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない(例えば、原子がそういう取り換え児であり、カントの「物自体」も同様である)。内攻して蔭で微かに燃え続けている復讐と憎悪の感情が、《強者は自由に》なれるし、猛禽は自由に仔羊になれるというこの信仰を自分のために利用し、その上この信仰を他のあらゆる信仰にもまして熱心に保持するとしても、それは別に異とすべきことではない。──実に、この信仰によってこそ彼らは、猛禽に対して猛禽であることの《責めを負わせる》権利を獲得するのだ──抑圧された者、蹂躙された者、圧服された者が、無力の執念深い奸計から、『われわれは悪人とは別なものに、すなわち善人になろうではないか。そして善人とは、暴圧を加えない者、何人をも傷つけない者、攻撃しない者、返報しない者、復讐を神に委ねる者、われわれのように隠遁している者、あらゆる邪悪を避け、およそ人生に求めるところ少ない者の謂いであって、われわれと同じく、辛抱強い者、謙遜な者、公正な者のことだ』──と言って自ら宥(なだ)めるとき、この言葉が冷静に、かつ先入見に囚われることなしに聴かれたとしても、それは本当は、『われわれ弱者は何といっても弱いのだ。われわれは《われわれの力に余る》ことは何一つしないから善人なのだ』というより以上の意味はもっていない。ところが、この苦々しい事態、昆虫類(大きな危険に際して「大それた」真似をしないために死を装うことを厭わないあの昆虫類)でさえもっているこの最も低劣な怜悧さは、無力のあの偽金造りと自己欺瞞とのお蔭で、諦めて黙って待つという徳の派手な衣裳を着けたのだ。あたかも弱者の弱さそのものが──すなわち彼の《本質》が、彼の行為が、彼の避けがたく解き離しがたい唯一の現実性の全体が──一つの自由意志的な行為、何らかの意欲されたもの、何らかの選択されたもの、一つの《事蹟》、一つの《功績》ででもあるかのように。この種の人間は、自己保存・自己肯定の本能からあらゆる虚偽を神聖化するのを常とするが、同時にまたこの本能からして、あの無記な、選択の自由をもつ『主体』に対する信仰を《必要》とする。主体(通俗的に言えば《魂》)が今日まで地上において最善の信条であったのは、恐らくこの概念によって、死すべき者の多数に、あらゆる種類の弱者や被圧迫者に、弱さそのものを自由と解釈し、彼ら自身の云為を《功績》と解釈するあの崇高な自己欺瞞を可能にしたからであった」(ニーチェ「道徳の系譜・P.47~49」岩波文庫)
長々しい引用だが、ニーチェはここで、唯一単独で自由に存在する「主体=原因」などというものはまったくない、と言っているわけだ。ところで、徳富蘆花はキリスト教徒だったが、「キリスト教は病気を必要とする」、ともニーチェは言う。
「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)
しかし「不如帰」に顕著な第二の問題点とは何か。先に述べたように、それは医学の逆説である。医学的科学的な技術の開発はなるほど世の中から「迷信」を追っ払った。けれども、医学的科学的態度もまた「神学的・形而上学的」な態度であるばかりか、むしろその最先端に現れた一つの真理信仰なのではないか、とニーチェは追求する。
「ところで今の場合はどうであろうか。ーーー現今におけるこれらの否定者や反対者たち、知的潔白に対する要求というただ一つの事に血道を上げているこれらの人々、峻烈な、厳格な、節欲的な、英雄的なこれらの精神、すべてこれらの蒼白い無神論者や、反キリスト者、不道徳者や、ニヒリストたち、これらの懐疑論者や精神の《結核患者》(ある意味において彼らは一人残らずこの結核患者なのだ)、今日では知的良心の唯一の生息所となっているこれら最後の認識の理想主義者たち、ーーー実際のところ彼らは、これらの『自由な、《極めて》自由な精神』は、禁欲主義的理想から離れうるかぎり離れている、と信じている。しかし、彼ら自身には見ることのできないーーー彼らは余り近くにいるからーーーものを彼らに見せてやるとすれば、この理想こそはまさしく《彼らの》理想であり、今日この理想の代現者は彼ら自身であって、恐らく彼ら以外の何者でもない。彼ら自身がそれの最も精神化された所産であり、それの最前線の哨兵隊であり、それの最も危険な、最も精妙な、最も捉えがたい誘惑形式である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.191~192」岩波文庫)
ここで「反キリスト者」とある。その点では、ニーチェは自分自身もまた「彼ら」の内の一人であって、その外へ逃れることができているかどうかは問題だとして、自分自身の特権化を避けようとつとめている。「反キリスト者」を含む限りで、要するにニーチェには自覚がある。自分自身も批判される側にまわる用意がいつでもある。もともとニーチェを生んだのはほかでもないキリスト教だという動かしがたい事実もあるわけだからだ。いずれにしろ、ニーチェが口酸っぱく、やかましく、繰り返し、もうわかったからやめろと言いたくなるほど、がなり立てていることは、唯一の原因=主体が存在する、という妄想あるいは思想は、「唯一の真理」を求めるという絶対主義的理想主義から全然隔たっていないばかりか、むしろ巧妙に近づいてしまう思考のパラドックスについてである。
「唯一の主体=原因」という思想とその流布は、「不如帰」の中で、武男の母にこう言わせることになる。
「病気の中でもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。おまえも知っとるはずじゃが、あの知事の東郷、な、おまえがよく喧嘩(けんか)をしたあの児(こ)の母御(かさま)な、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの息子さんーーーどこかの技師をしとったそうじゃがのーーーもやっぱい肺病で先頃(このあいだ)亡くなった、な。皆(みいな)母御のが伝染(うつ)ッたのじゃ。まだこんな話がいくつもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」(徳富蘆花「不如帰・P.144~145」岩波文庫)
昨今におけるHIVを巡る数々の言説を思わせないだろうか。そのような現象について、「不如帰」に戻って見ると、「唯一の原因」という迷妄に関して、柄谷はこう批判している。病気・文学・政治・医学、などなど、それらは相互に「連関」していると。
「この社会は病んでおり、根本的に治療せねばならぬという『政治』思想もまた、そこからおこっている。『政治と文学』は、古来から対立する普遍的な問題であるどころか、互いに連関しあう《医学的》思想なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.151」講談社文芸文庫)
結核菌は発見された。ところがそれが事実として蔓延するための条件として、感染が蔓延するために必要な社会的な諸関係が先に既に成立していなければならない。それはいつ、どこで、どのような社会環境においてだったか。
「くりかえしていうように、結核の蔓延という事実があったから、結核の神話化がおこったのではない。結核は、イギリスと同様に、日本でも産業革命による生活形態の急激な変容とともにひろがっている。結核は、昔からある結核菌によってではなく、複雑な諸関係の網目におけるアンバランスから生じている。事実としての結核そのものが、解読されるべき社会的・文化的徴候なのだ。しかし、結核を、物理的(医学的)であれ、神学的であれ、一つの『原因』に還元してしまうとき、それは諸関係のシステムをみうしなわせる」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.152」講談社文芸文庫)
正岡子規について触れておかねばならない。徳富蘆花「不如帰」が刊行された翌年、子規は結核で死の床を這いずりまわっていた。が、そこには蘆花のようなロマン派とはほど遠い、冷静沈着でなおかつ時として軽妙な「写生」という態度が貫かれていた。
「午前二時頃目さめ腹いたし 家人を呼び起して便通あり 腹痛いよいよ烈(はげ)しく苦痛堪(た)ヘがたし この間下痢水射(すいしゃ)三度ばかりあり 絶叫号泣」(正岡子規「仰臥漫録・P.44」岩波文庫)
「一両日来左下横腹(腸骨か)のところいつもより痛み強くなりし故ほーたい取替のときちょっと見るに真黒になりて腐り居るやうなり 定めてまた穴のあくことならんと思はる 捨てはてたからだどーならうとは構はぬことなれどもまた穴があくかと思へば余りいい心持はせず」(正岡子規「仰臥漫録・P.92」岩波文庫)
「前日来痛かりし腸骨下の痛みいよいよ烈しく堪られず この日繃帯とりかへのとき号泣多時、いふ腐敗したる部分の皮がガーゼに附着したるなりと 背の下の穴も痛みあり 体をどちらへ向けても痛くてたまらず」(正岡子規「仰臥漫録・P.98」岩波文庫)
「この日宮本医来診のとき繃帯(ほうたい)を除いて新しき口及び背中尻の様子を示す 暫(しばら)くぶりのことなり 医の驚きと話とを余所(よそ)ながら聞いて余も驚く」(正岡子規「仰臥漫録・P.101」岩波文庫)
「兆民居士(ちょうみんこじ)の『一年有半(いちねんゆうはん)』といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候 居士は咽喉(のど)に穴一ツあき候由われらは腹(はら)背中(せなか)臀(しり)ともいはず蜂(はち)の巣の如く穴あき申候」(正岡子規「仰臥漫録・P.113」岩波文庫)
「この夜頭脳不穏頻(しき)りに泣いて已(や)まず 三人に帰つてもらひ糞して眠り薬を呑んで眠る(下痢やまず毎日三、四度便通あり)」(正岡子規「仰臥漫録・P.115」岩波文庫)
「膿(うみ)の出る口は次第にふえる、寝返りは次第にむつかしくなる、衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寝て居るやうなことが多い。腸骨(ちょうこつ)の側に新に膿の口が出来てその近辺が痛む、これが寝返りを困難にする大原因になつて居る。右へ向くも左へ向くも仰向(あおむけ)になるもいずれにしてもこの痛所を刺激する、咳(せき)をしてもここにひびき泣いてもここにひびく。繃帯は毎日一度取換へる。これは律(りつ)の役なり。尻のさき最(もっとも)痛く僅(わずか)に綿を以て拭(ぬぐ)ふすらなほ疼痛(とうつう)を感ずる。背部にも痛き箇所がある。それ故繃帯取換は余に取つても律に取つても毎日の一大難事である。この際に便通ある例で、都合(つごう)四十分乃至(ないし)一時間を要する。肛門の開閉が尻の痛所を刺戟するのと腸の運動が左腸骨辺の痛所を刺戟するのとで便通が催された時これを猶予(ゆうよ)するの力もなければ奥の方にある屎(くそ)をりきみ出す力もない」(正岡子規「仰臥漫録・P.124」岩波文庫)
「食事は相変らず唯一の楽(たのしみ)であるがもう思ふやうには食はれぬ。食ふとすぐ腸胃が変な運動を起して少しは痛む。食ふた者は少しも消化せずに肛門へ出る」(正岡子規「仰臥漫録・P.125」岩波文庫)
なお、ここでいう「写生」的態度については漱石を参照しよう。
「社会は人間の塊(かた)まりである。その人間を区別すれば色々出来る。貴とも賤(せん)ともなる。賢とも不肖ともなる。正とも邪ともなる。男とも女ともなる。貧とも富ともなる。老とも若、長と幼ともなる。その他色々に区別が出来る。区別が出来る以上は、区別された一のものが他を視(み)る態度は、一のうちにある甲が、同じく一のうちにある乙を視る態度とは異ならなければならぬ。人生観というと堅苦しく聞える。何だか恐ろしくて近寄りにくい。しかし煎(せん)じつめればこの態度である。隣りの法律家が余を視る立脚地は、余が隣りの法律家を視る立脚地とは自(おのず)から違う。大袈裟(おおげさ)な言葉でいうと彼此(ひし)の人生観が、ある点において一様でない。というに過ぎん。
人事に関する文章はこの視察の表現である。従って人事に関する文章の差異はこの視察の差異に帰着する。この視察の差異は視察の立場によって岐(わか)れてくる。するとこの立場が文章の差異を生ずる源になる。今の世にいう写生作家というものの文章は如何(いか)なる事をかいても皆共有の点を有して、他人のそれとは截然(せつぜん)と区別の出来るような特色を帯びている。するとこれらの団体はその特色の共有なる点において、同じ立場に根拠地を構えているというてよろしい。もう一遍大袈裟な言葉を借用すると、同じ人生観を有して同じ穴から隣りの御嬢さんや、向うの御爺さんを覗(のぞ)いているに相違ない。この穴を紹介するのが余の責任である。否この穴から浮世を覗けばどんなに見えるかという事を説明するのが余の義務である。
写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者(せんじゃ)を視(み)るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子(くんし)が小人(しょうじん)を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人はそう思うておるまい。写生文家自身もそう思うておるまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着してしまう。
子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違(きちがい)である。親と子供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。彼らは隣り近所の人間を自己と同程度のものと見做(みな)して、擦(す)ったもんだの社会にわれ自身も擦ったり揉(も)んだりして、あくまで、その社会の一員であるという態度で筆を執る。従って隣りの御嬢さんが泣く事をかく時は、当人自身も泣いている。自分が泣きながら、泣く人の事を叙述するのとわれは泣かずして、泣く人を覗いているのとは記叙の題目その物は同じでもその精神は大変違う。写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.165~167』岩波文庫)
「それでは人間に同情がない作物を称して写生文家というように思われる。しかしそう思うのは誤謬(ごびゅう)である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻(れいこく)でもない。無論同情がある。同情があるけれども駄菓子を落した子供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是(がんぜ)なく煩悶(はんもん)し、無体(むてい)に号泣し、直角に跳躍(ちょうやく)し、一散に狂奔(きょうほん)する底(てい)の同情ではない。傍(はた)から見て気の毒の念に堪(た)えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。
従って写生文家の描く所は多く深刻なものではない。否(いな)如何に深刻な事をかいてもこの態度で押して行くから、ちょっと見ると底まで行かぬような心持ちがするのである。しかのみならずこの態度で世間人情の交渉を視(み)るから大抵の場合には滑稽(こっけい)の分子を含んだ表現となって文章の上にあらわれて来る」(夏目漱石「写生文」『漱石文芸論集・P.167~168』岩波文庫)
BGM