<或る価値体系>から<別の価値体系>へ移動する際、<その間>で生じる人間の精神的危機の時期、社会的規模の恐慌状態、について述べた。どんな人間も、<その間>、社会的文法(構造的掟)が解体している、という宙吊り状態に耐えられない。身近な例はいつどこにでも転がっている。
例えば、通常の会話。一方が話し始める。もう一方が応じる。それが何度か繰り返される。と、どこで何を間違えたのだろう、主題の喪失という事態を生じさせることがしばしばある。そういうとき、コミュニケーションはどうなっているか。コミュニケーションは「怖れ」という状況下で、ぶらりと止まっている。何に対する「怖れ」なのか。社会的文法(構造的掟)が解体している宙吊り状態へいきなり投げ込まれてしまったことへの未知なる世界に対してである。そんな時期、長く続くわけではないが、どれほど手足をばたばたさせてもなお、じたばたするしか仕方がない。もうすでに宙に浮いているからだ。通常の会話なら何かほかの主題を無理にでもひねりだして、次のコミュニケーションへ入っていくことができる。その瞬間、人々は「我に帰る」思いがする。
ところがここ十五年ばかりの間で世界が加速的に実現したのは、まさしくこの宙吊り状態の世界化にほかならない。非日常の日常化の世界化に成功した。人間は高度テクノロジーを押し進めることで地上からだんだん離れていき、今や離陸状態が常態化している。降りることはもはや誰にもできない。
いつも宙吊り、「いつも冬」。しかしこういうことは、一九八〇年代ポストモダンの流行中すでに予言されていたことが現実化したというに過ぎない。今になって驚いて見せる側がどうかしている。
さて。プルーストはより緻密に認識するための「力」として、知性とは「べつの力」を強調する。
「しかしーーー多くの挿話がすでに示唆してきたうえに物語のつづきも一段とそのことを示すようにーーー知性が『真実』を捉える最も緻密にして強力な最良の道具とはいえないからこそ、なおのことまずは知性に頼ってことをはじめるべきであって、無意識の直感に頼って見境いなく虫の知らせを信じることからはじめるべきではないことが証明されたのである。われわれの心や精神にとって最も大切なことを教えてくれるのは、理屈ではなくべつの力であることを、ほかでもない人生はすこしずつ事例によって気づかせてくれるのだ。そうなると知性自身は、それらべつの力の優位を悟り、そうした力に理詰めで屈服し、その協力者、奉仕者になることを受け入れる」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.32」岩波文庫 二〇一七年)
「べつの力」。ひとまずそれを「感性」と呼んでおこう。この貴重な「感性」をおめおめと麻痺させてしまってはいけない。そこで問題になってくるのはその用い方だ。
話は変わるが内容はまるで変わらない。
人々はこれから絶え間ない更新再更新を繰り返す高度テクノロジーと協働しながら、暴力的衝撃の不意打ちの予兆に満ちた世界をーーーもっとも、常にいささかの戸惑いを隠しきれないにしてもーーー<未知なる歩み>を押し進めていく。高度テクノロジーはよいことずくめではない。かといってよくないことずくめでもまたない。そこで、持っておいてわるくはないと思われる<マルチチュード>概念について。長い引用だがネグリ=ハートから。
「<左翼をいかに再生するか>。左翼が危機に陥ってからすでに数十年がたつ。世界の大半の国の国政選挙で右派政党が勝利を収め、右寄りの政策が新しいグローバル秩序の形成を方向づけているだけでなく、生き残った主要な左派政党のなかには、福祉の削減や労働組合への攻撃、海外での戦争の支持や遂行など、中道を通り越して右派と見分けがつかないほど右寄りにシフトしているものも少なくない。労働組合や産業労働者階級における社会基盤はもはや左派政党を支持するだけの力を失ってしまった。それどころかかつて『左翼の人びと』を形成していた社会体はことごとく消滅してしまったかに見える。
だが私たちの見るところ、もっとも深刻なのは、左翼とは何であり、何になりうるかについての《概念的欠如》である。ソヴィエト式の国家社会主義と社会民主主義による福祉国家という主要な旧いモデルはともに完膚なきまでに信用を失ったが、それには正当な理由がある。旧い時代を懐かしむ一部の人びとは、急進的な学者たちが左翼を乗っ取り、理にかなった改革提言を行う実践的作業を放棄して、学者仲間でなければお手上げの複雑で訳のわからない政治的議論に終始していると非難する。また、多文化主義やアイデンティティの政治を奉じる勢力が左翼の担うべき公共的役割を骨抜きにし、文化的な問題ばかりに明け暮れて本来の政治的・経済的問題を置き去りにしているとの非難もある。こうした非難は敗北の大きな徴候であり、危機に適正に対処するための新しいアイディアが一切生まれていないことを物語っている。もし今後左翼が再生し、改革されることがあるなら、それは新しい実践、新しい組織形態、新しい概念にもとづくものでしかありえないだろう。
今日《新しい》左翼について語るには、一方で、過去のイデオロギーとの物質的・概念的な断絶にもとづくポスト社会主義的・ポスト自由主義的プログラムという視点が必要である。すなわち、産業労働者のイデオロギー的伝統、その組織、それが手本とした生産管理のモデルといったものと存在論的に訣別(けつべつ)しなければならないということだ。また他方では、新しい人間学的リアリティーーーあくまで特異性を保つ生産の新たな行為体(エージェント)と搾取される主体ーーーに対応することも必要である。特異的なエージェントの活動を、各人全員の自由と多数多様性のマトリックスだとみなすことが必要なのだ。
ここでは民主主義が直接的な目的となる。民主主義はもはや自由主義的視点から平等の制限という形で評価されることも、社会主義的視点から自由の制限という形で評価されることもできない。民主主義は、自由と平等をともに一切の留保なくラディカルに押し進めるものでなければならないのだ。そう遠くない将来、自由を手に入れるために自らの兄弟姉妹を奴隷にし、平等を手にいれるために自由を非人間的なまでに犠牲にすることを人に強いた野蛮な過去を、皮肉な思いでふり返る日がくるかもしれない。自由と平等は私たちの見方によれば、民主主義を革命的な形で再創出するための原動力たりうるのだ。
私たちはマルチチュードを、左翼を生き返らせ、改革し、あるいは政治的組織形態と政治的プロジェクトを具体的に提示しつつ左翼を再創出するという任務に貢献しうる概念だと考える。とはいえ、それを政治的スローガンの形で『マルチチュードを形成せよ!』と提起するのではなく、すでに進行している事態に名前を与え、現に存する社会的・政治的傾向を理解するための方法として提起する。そうした傾向に名前を与えることは政治理論の第一の任務であり、姿を現しつつある政治形態をさらに発展させるための強力な道具ともなる。
ここでマルチチュードの概念を明確にするため、『共産党宣言』第二章で共産主義者に対する非難を列挙したマルクスとエンゲルスのひそみに倣(なら)って、この時点ですでに読者の脳裏に浮かんだと予想されるマルチチュードに対する批判のうちのいくつかを取り上げ、それらに応えることにしたい。これによって読者の誤った印象を正し、さらに力を入れて対応すべき問題を浮き彫りにすることも可能になると思われる。
<マルチチュードは二つの概念を生きる>
マルチチュードに対する批判に入る前に、本書およびその他の場所で私たちはマルチチュードという概念を、異なる時間性を指し示すために二つの違った仕方で使ってきたことを指摘しておかなければならない。その第一は、永遠という視点から見たマルチチュードだ。これはスピノザの言葉を借りれば、理性と情念を通じて、さまざまな歴史的力の複雑な相互作用のなかで自由を創出するマルチチュードであり、スピノザはこの自由を絶対的なものと呼ぶ。つまり人間は歴史を通じて権威と命令を拒否し、それ以上縮減することのできない差異としての特異性を表明し、無数の反乱や革命によって自由を追求してきたというのである。
この自由は人間に生まれつき与えられているのでないことは言うまでもなく、障害や制限を不断に克服し続けることによってのみもたらされるものだ。人間の<肉>には生来、なんら永遠の能力は書き込まれていないのと同様、歴史にもなんら最終的な目的(終わり)も、目的論によって定められた目標も書き込まれていない。人間の能力も歴史的目的論も、それらが存在するのは人間の情念と理性との闘いの結果であるからにすぎない。自由を求める能力や権威を拒否する傾向は、もっとも健全で気高い本能となり、永遠性の現実的なしるしとなったといえるかもしれない。いや、永遠性というより、このマルチチュードは常に現在ーーー永続的な現在ーーーにおいて行動するといったほうが正確だろうか。このひとつ目のマルチチュードは《存在論的》なものであり、私たちはそれなしには自らの社会的存在を考えることはできない。
一方、第二のマルチチュードは歴史的マルチチュード、あるいはいまだ存在せざるマルチチュードというべきものである。このマルチチュードはまだ実際に姿を現してはいない。私たちは第二部を通じて、今日マルチチュードを可能にする文化的・法的・経済的および政治的条件が現れつつあることを見てきた。このマルチチュードは《政治的》なものであり、現れつつある諸条件を基盤にしてそれを現実の存在にするための政治的プロジェクトを必要とする。
しかしこれら二つのマルチチュードは、概念的には区別されるものであるとはいえ、現実的には別々に分けることのできないものだ。もしマルチチュードが社会的存在としての私たちのなかにすでに潜伏していなければ、マルチチュードを政治的プロジェクトとして想像することさえ不可能だろう。同様に、今日私たちが政治的プロジェクトとしてのマルチチュードを実現できるという希望をもてるとすれば、それはとりもなおさず、すでにマルチチュードが現実的な潜勢力として存在しているからだ。してみればこの二つを合体させたとき、マルチチュードは『常に-すでに』と『いまだ-ない』という奇妙な二重の時間を帯びることになる。
<マルチチュードはアナーキズムか、あるいは前衛主義か>
まず最初に取り上げる二つの(一対の)批判ーーーおそらくはもっとも重要なものーーーは、マルチチュードを自然発生的な政治組織概念あるいは新手の前衛思想だとみなすものだ。最初の批判は私たちに向かって『おまえたちは本当はただのアナーキストではないか!』と言う。こうした批判を浴びせるのはとりわけ政治組織を、党とそのヘゲモニーそして中央集権的指導体制という形でしかとらえられない人たちである。
だがマルチチュードの概念は、私たちの政治的な選択肢は中央集権的指導体制かアナーキーかという二者択一に限られないという事実に立脚している。私たちは本章2~3を通じてマルチチュードの発展過程がアナーキーなものでも自然発生的なものでもなく、マルチチュードの組織化は特異な社会的主体たちの共同作業を通じて現れ出ることを述べようとしてきた。習慣の形成や行為遂行性、あるいは言語の発達と同じく、<共>の生産は指令や情報を発する何らかの中心によって導かれるものではないし、個人間の自然発生的調和の結果として生み出されるものでもない。それは《間の》空間、コミュニケーションからなる社会的空間において姿を現す。マルチチュードは共同的な社会的相互作用のなかで創られるのである。
これとは反対の側から、マルチチュードの概念を前衛主義として批判する人びともいる。彼らはマルチチュードを他のアイデンティティを統御することをもくろむ新しいアイデンティティだとみなし、『おまえは本当はただのレーニン主義者ではないか!』と言う。私たちが『マルチチュード』について語るさいに、複数形(multitude)を執拗(しつよう)に強調するのがその何よりの証拠だというのだ。また私たちがマルチチュードを論じるさいにグローバルな抵抗運動を好意的に扱うのは、新しい前衛主義の提起だと見る者もいるかもしれない。
こうした批判の背後には、さまざまな差異の自由な表明への懸念があるが、それこそまさに私たちが強固に守り通そうとする重要な原則であることは明らかだ。私たちは概念的な見地から、<共>において特異性は少しも減じられないことを論じ、より実践的な見地からは<共>になること(たとえば労働が<共>になること)が、現実の局所的差異を否定するものではないことを示そうとしてきた。だからこそ私たちの提起するマルチチュードの概念は、単数か複数かという数的な二者択一を崩そうとするのだ。ゲラサ人に取りついた悪霊レギオンのように、《単数形のマルチチュード》も《複数形のマルチチュード》も、どちらも用語としては正しい。それこそがマルチチュードの悪魔的な顔にほかならないのだ。
だが政治的な考察においては、私たちは『複数形のマルチチュード』ではなく『単数形のマルチチュード』について思考することを強く主張する。構成的な政治的役割を担い社会を形成するためには、マルチチュードは<共>にもとづいて決定し、行動する必要があるからだ(マルチチュードの意思決定能力については、3-3で考察する)。『マルチチュード(multitude)』は文法的には単数形だが、私たちにとってそれは何らかの統一体を強調するものではまったくなく、マルチチュードのもつ<共>にもとづいた社会的・政治的能力を強調するものなのである。
<マルチチュードは労働者の敵か、あるいは政治性を欠いているか>
次の二つの(一対の)批判は最初の二つとも密接に関係しているが、経済的概念としてのマルチチュードに向けられたものだ。一方では、マルチチュードは産業労働者階級に対する攻撃だとーーー私たちはその反対を主張しているにもかかわらずーーー信じて疑わない人びとがいる。『おまえたちは本当は労働者の敵ではないか!』と彼らは言う。もちろん私たちは産業労働者階級がもはや存在しないなどとは主張していないし、世界的に見てその数が減少しているとすら言っていない。第二部で述べたことを繰り返せば、私たちが言いたいのは、産業労働は他の労働形態に対する主導的立場を非物質的労働に取って代わられたということであり、今や非物質的労働があらゆる生産部門と社会そのものを、自らの特性に即して変容させつつあるということである。したがって産業労働者の重要性は失われていないが、それはあくまでこの新しいパラダイムの文脈においてのことなのだ。
そこでここに二番目の批判が登場する。非物質的労働が主導権を掌握するにいたったという私たちの議論は、産業労働者という旧い前衛を非物質的労働者という新しい前衛とすげ替えるーーーマイクロソフトのプログラマーが輝ける前途を拓(ひら)く!ーーーだけのものだという批判である。『おまえたちは羊の皮をかぶったオオカミ、ポストモダンのレーニン主義者ではないか!』と彼らは叫ぶ。否。経済において生産形態が主導的立場を占めることは、それが同時に何らかの政治的主導権をもつことを意味するものではない。非物質的労働が主導権を握り、あらゆる労働形態が<共>になるという私たちの議論は、現代の状況が労働全般にわたるコミュニケーション協働を形成しつつあり、それがマルチチュードにとっての基盤となりうることを論証するためのものなのである。言いかえればマルチチュードの概念は、産業労働者階級とその代表者および党がすべての進歩的政治を主導する立場を占めなければならないといまだに主張する立場と相いれないばかりか、何かひとつの労働階級がそうした指導的立場を占めるという考え方を一切否定する。したがってこれらの経済的視点からの批判が、自然成長主義と前衛主義という政治的視点からの二つの批判へと返されることは明らかだろう。
この経済的視点からの批判はまた、それよりはるかに実質的な批判を浮き彫りにする。マルチチュードの概念は、人種、ジェンダー、セクシャリティといった他の社会的差異やヒエラルキーの軸のダイナミクスを考慮しておらず、単なる経済主義にすぎないという批判だ。『おまえたちは労働と労働者のことしか気にかけていないではないか!』と彼らは言う。
まず一方では、生政治的生産の下では経済的なものと社会的なもの、文化的なものの境界は曖昧になる傾向があるということをいま一度強調しておかなければならない。生政治的パースペクティブはいかなる厳密な意味においても、常に経済的パースペクティブを必然的に超えた、より幅広いものである。他方、労働に議論を集中させることは、本書の分析にとって大きな意味のある限定だということも認識しておくべきである。前述したとおり(繰り返す価値のあることだが)、労働と社会経済的階級に焦点を合わせてマルチチュードについて論じることは、階級に関する研究が近年、相対的に欠如しているという状況を是正するのに役立つ。
さらにこれも前述したことだが、人種とジェンダーの政治という強力な伝統はすでにマルチチュードへの欲望を内包している。たとえばフェミニストはジェンダーによる差異のない世界を目指すのではなく、ジェンダーが問題にならない(それがヒエラルキーの基盤を形づくらないという意味で)世界を目指しているし、同様に反人種差別活動家は人種のない世界ではなく、人種が問題にならない世界を実現するために闘っている。ひと言でいえば、それらは差異の自由な表明にもとづく解放のプロセスなのだ。これこそマルチチュードの核心にある特異性と<共>性という考え方にほかならない。いずれにせよ、もしマルチチュードの概念が重要な政治的役割を担うとすれば、これらのさまざまな視点から検証し発展させることが必要になってこよう。
<マルチチュードは悪しき弁証法の産物か>
マルチチュードにはさらに二つの(一対の)批判、すなわちマルチチュードの概念の哲学的妥当性を問う批判がある。一方のヘーゲル的立場からの批判によれば、マルチチュードとは<一>と<多>の間の伝統的な弁証法的関係の単なる焼き直しにすぎないという。これはとりわけ、現代のグローバル政治の主要なダイナミクスは<帝国>とマルチチュードの間の闘いだという私たちの主張に向けられたものだ。『おまえたちは本当はできそこないの、不完全な弁証法論者ではないか!』と彼らは言う。仮にそうであれば、マルチチュードはその弁証法的支えである<帝国>なしには存在できなくなり、その自律性は著しく限定されてしまうことになる。
私たちはこれまで哲学的な見地から、マルチチュードを規定する特異性と多数多様性のダイナミクスは、<一>か<多>かのいずれかを選ばせる弁証法的二者択一を否定することを説明してきたつもりだ。すなわちそれは<一>と<多>の両方であり、どちらか一方ではないということである。さらに第三部では政治的な見地から、<帝国>とマルチチュードは対称的な関係をなすものではないことを論証する。<帝国>が恒常的にマルチチュードとその社会的生産性に依存しているのに対し、マルチチュードは自律的な潜勢力をもち、自らの社会を創造する能力をもっているのだ。
哲学的見地からのもう一方の批判は脱構築主義の立場からのもので、弁証法そのものをヘーゲル的立場からの批判とは別に置き、すなわちマルチチュードの拡張的な本性を弁証法的だとみなしたうえで、マルチチュードはすべてを包括するという主張に異議を申し立てる。『おまえたちは従属的な人びと(サバルタン)のことを忘れているではないか!』と彼らは言う。言いかえれば、ここではマルチチュードとそこから排除された者とが弁証法的な関係に置かれるのだ。彼らによれば、あらゆる同一性はマルチチュードも含め、その残余、その外部にある者ーーー排除された者と呼ぶのであれ、見捨てられた者あるいはサバルタンと呼ぶのであれーーーによって規定されなければならないという。
ここでふたたび、マルチチュードは同一性/差異性の排他的で限定的な論理を、<共>性/特異性のオープンで拡張的な論理へと転換させるという哲学的論点に戻ることもできるのだが、それより有益なのは限界も制限もない分散型ネットワークの性質を例証として取り上げることだろう。ネットワークにはたしかにその外部に点や節点(ノード)が存在しうるが、それらは《必ずしも》外部になければならないわけではない。ネットワークの境界は不確定でオープンなのだ。
さらに忘れてならないのは、マルチチュードは政治的組織化のプロジェクトであり、したがって政治実践をとおしてしか達成できないということである。そこから必然的に排除される者は誰一人いないが、すべての人間が包含されることが保証されているわけでもない。<共>の拡大はすぐれて実践的・政治的な事柄なのだ。
<マルチチュードは『北』の代弁者か、あるいは非現実的か>
マルチチュードが潜勢的にすべてを包含する性質をもっていることに対するこの哲学的な異議申し立ては、次の重要な政治的批判に直結している。マルチチュードは大雑把にグローバルな北とくくられる世界の支配的地域とその社会状況にのみ適用できる概念であり、グローバルな南の従属的地域にはあてはまらないという批判である。『おまえたちは本当は全世界を代弁するふりをした、ただのグローバルな北出身のエリート哲学者ではないか!』と彼らは言う。私たちは第二部のほうで、農民や貧者、移民などの分析を通じて労働と生産が条件へと向かいつつあることを示し、こうした批判に応えようとした。
とはいえ私たちはーーーこれはグローバルな政治体と搾取の地勢学(トポグラフィー)の分析の要点でもあったのだがーーー世界の状況が地域によってまったく異なり、またそれらの状況が権力と富のすさまじいまでの階層秩序によって分断されていることを痛いほど認識している。私たちの主張は、<共>にもとづく政治的プロジェクトが《可能》だということだ。いうまでもなくこの可能性は、実地に検証され現実化されなければならない。
いずれにせよ私たちは、政治的組織化が直線的な発展段階をたどるという見方には一切くみしない。それはすなわち、支配的地域にいる者は民主的な組織形態(たとえばマルチチュードのような)を受け入れる準備があるが、従属的地域にいる者は十分に成熟するまで旧い形態に甘んじざるをえないという見方である。私たちは皆、民主主義を創出する能力をもっているのだ。私たちが取り組むべき課題は民主主義を政治的に組織することなのである。
最後に、私たちの提起するマルチチュードの概念は非現実的だと受け取る向きも少なくない。つまり、『おまえたちは本当はだたのユートピア主義者ではないか!』というわけである。私たちはこれまで、マルチチュードが現在の世界の現実からかけ離れた、単なる抽象的で実現不可能な夢物語ではなく、マルチチュードが生まれる具体的な条件が現在の社会的世界において形成されつつあること、そしてそうした傾向のなかからマルチチュードの可能性が現れ出つつあることを説こうと腐心してきた。今とは違う、より良い、より民主的な世界が可能であることを常に忘れず、そうした世界を待ち望む自らの欲望を育(はぐく)んでいくことが何よりも重要である。マルチチュードとはその欲望の表徴なのだ」(ネグリ=ハート「マルチチュード・下・第二部・P.61~73」NHKブックス 二〇〇五年)
だからマルチチュード概念はネグリ=ハートの発見というより、ずっと前にスピノザが述べていた国家論を新しくイノベーションした<共>(コモン)のあり方だと言える。高度テクノロジーの飛躍的拡張とともに登場すべくして登場してきた<来るべき>民主主義への大きな進捗であり、しかしまた民主主義の危機の時代、危機をチャンスへ転化させるいいきっかけをいつも提供する場所の拡張でもある。
国連加盟国(百九十カ国以上)の中でも日本のようなジェンダーギャップ百五十位以下という、非常に珍しい、基本的人権すら守られていない辺境地域の場合。多くの選挙民が自由主義(リベラリズム)を守ろうとして自由主義者(リベラリスト)に投票してきた結果、ますます居心地のよくない、ずいぶん偏った、<ひとりよがり>の社会を出現させてきた歴史を今日の世界は知っている。最も多く知ろうとしない人々、現実を<見ない>のは誰だろう。それこそ日本の有権者だということも「国際社会」の側はよく知っている。左翼の消滅は次に自由主義(リベラル)を底なしのパニックへ陥れる。「国際社会」はこみ上げてくる笑いをこらえることができない。
とはいえ資本主義は「国際社会」の名において、多くの消費者がまだまだうごめく地域を、みすみす戦場化するという馬鹿げたことはしないしさせない。ウクライナが戦場化したのはそもそもウクライナが破産寸前国家でしかなかったからであり今の日本とは色々な面で事情が異なっていたからだ。日本は経済的な事情(生産、流通、金融、いずれの面でも)がまるで違う。
ちなみに今、愛用している帽子のブランド名は「Dickies」。
本社はアメリカ合衆国、テキサス州、フォートワース。日本の販売代理店は株式会社ギャレット。中国製。ベトナム工場はソックスが主流。シューズでは「CONVERSE」を取り扱う。近くの大手スーパーに入る「Right-on」で買った。「阪神阪急ホールディングス」や「しまむら」でも購入できる。低収入層の増大とともに低価格帯諸商品の需要拡大が見込まれる日本を、いくら世界の辺境、G20の滑稽な落ちこぼれ、とはいえ、すぐさま戦場化することは、とてもではないが資本主義が、「国際社会」の名において、決して認めないのである。
プルーストが強調する「感性」との関係について。知性は刺激に対して敏感に応じることのできるしなやかで柔軟性に富んだ「感性」をともなって始めて、高度テクノロジーとの協働がもたらす恩恵にあずかることができる。逆に、しなやかで柔軟性に富んだ「感性」をともなわない粗雑な人間と高度テクノロジーとの協働は計り知れない速度でディストピアへ直行するしかない。