中学二年の夏の自由研究。原武史は鉄道について。それも大変身近な路線、いつも通学に利用している路線について論文をまとめ提出した。
学校での評価は思いも寄らないほど散々な低評価。
鉄道を研究課題として取り上げた理由。そもそも(1)松本清張から引用している。
(1)「私はふと自分の時計を見る。午後一時三十六分である。私は時刻表を繰り、十三時三十六分の数字のついた駅名を探す。すると越後(えちご)線の関屋(せきや)という駅に122列車が到着しているのである。鹿児島本線の阿久根(あくね)にも139列車が乗客を降ろしている。飛騨宮田(ひだみやた)では815列車が着いている。山陽線の藤生(ふじう)、信州の飯田(いいだ)、常磐(じょうばん)線の草野(くさの)、奥羽本線の北能代(きたのしろ)、関西本線の王寺(おうじ)、みんな、それぞれ列車がホームに静止している。私がこうして床の上に自分の細い指を見ている一瞬の間に、全国のさまざまな土地で、汽車がいっせいに停っている。そこにはたいそうな人が、それぞれの人生を追って降りたり乗ったりしている。私は目を閉じて、その情景を想像する。そのようなことから、この時刻には、各線のどの駅で汽車がすれ違っているかということまで発見するのだ。たいへんに愉しい。記者の交差は時間的に必然だが、乗っている人びとの空間の行動の交差は偶然である。私は、今の瞬間に展(ひろ)がっているさまざまな土地の、行きずりの人生をはてしなく空想することができる」(松本清張「点と線・P.130」新潮文庫 一九七一年)
現在はもうひとつ、(2)村上春樹から引用。
(2)「到着した列車に清掃作業員のチームが素早く乗り込んでゴミを回収し、座席をきれいになおしていく。帽子をかぶり制服を着た乗務員たちが、勤務の引き継ぎをてきぱきと行い、次の列車運行のための準備が整えられていく。車両についた行き先の表示が変わり、列車に新しい番号が与えられる。すべてが秒単位で順序よく、無駄なく、滞(とごこお)りなく進行する。それが多崎つくるの属している世界だった」(村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年・P.400」文春文庫 二〇一五年)
村上春樹の文章自体はただ単なる鉄道趣味とは意味が異なるけれども、ともかく原武史の中学二年の夏を思い起こさせるには十分な意味合いがある。自由研究の対象としてどんな生徒がなぜ関心を持ったのか。わかってくれる<大人>というのがほとんどいなかった時代の話で、ある種の苦労話にさえ見えてしまいそうだ。父からの評価もこれまた価値観の違いを明らかにさせる。
「この日は深い挫折を感じながら帰宅した。私の落ち込んだ様子を察したのか、父からはまともに評価してもらえない鉄道の研究なんて、もうやめたほうがいい、どうしても続けたいなら、来年の労作展には鉄道に関する英語の本でも買ってきて、それを和訳したほうが学校の勉強にも役立つだろうと言われた。
学業に結び付かないことに熱中しすぎて、成績に悪影響を与えることを心配したのだろう。実際に私の成績は、二年の一学期をピークとして下降傾向をたどっていった。普通部の教育に対する、いや慶應の一貫教育に対する疑問が、私のなかに芽生えはじめた」(原武史「日吉アカデミア一九七六(9)」『群像・9・P.384』講談社 二〇二四年)
たかが中学生の夏の自由研究のために熱心に「(当時の)国鉄」の現場についてさまざまなアドバイスに応じてくれたのはもちろん国鉄職員。原武史にとって当時はもの凄くローカル、今でいう「オタク」でへんてこな課題を自身に課したわけだがその熱心さに真面目に応えてくれる<大人>もまたいたのである。
「後年のことだが、東京大学大学院法学政治学研究科に修士論文を提出したとき、副指導教員に当たる渡辺浩先生の研究室で、二日間にわたって徹底的に論文全体に対するコメントをいただいたことがあった。そのときに思い出したのが、この電車課職員とのやりとりだった。あれこそが、私にとってのアカデミアの原点だったのではないか。真のアカデミアは日吉にはなく、丸の内にあったのではないかーーー。本論を読み終わると、職員はこう言った。
『非常に面白かった。一部不正確なところもあったけれど、全体的には中学生とは思えない出来栄えだと思うよ。しかしこの作品の価値を本当に理解できる人は、一体どれだけいるかなあ』
的を得た感想に頬が緩んだ。
『おっしゃる通りで、学校での評価もいま一つでした。でも今日はこちらにうかがうことができて、本当によかったです。少なくとも一人は、ちゃんと理解してくれる人がいるとわかったですから』
『やっぱりそうだったのか。これは私の考えだがーーー』
職員は神妙な顔つきになった。
『国鉄の赤字は膨らみ続けている。やむなく五〇%の値上げをしようとしているけど、この法案が通っても小手先の対策ではどうしようもないところまで来ている。次に来るのは、ローカル線の思い切った廃止と、採算を重視した民営化だろう。そうなると、経営努力しだいで黒字が見込める横浜線のダイヤも大きく変わってゆくに違いない。君の作品は、国鉄時代の横浜線がどういう線だったかを多角的に検証した研究として、むしろこれから価値が増すと思うよ』
『ありがとうございます』
最後の言葉がとりわけ胸に響いた。この言葉を忘れないようにしようと思った。丸の内をあとにしたときには、すっかり夜になっていた。制服姿だったせいか、まるでもう一つの学校の授業が終わり、家路につくような錯覚に陥った。国鉄本社を訪れたのは、これが最後となった。
もう一つ、訪れるべき場所があった。翌十月一日金曜日。授業が終わるや、前日と同じように作品を持ち、こんごは東神奈川電車区を訪れた。『車両運用検査清掃予定表』をくださったあの職員に作品を見せ、お礼を言うためだった。しかし職員はいなかった。前日は夏の略装だったが、この日からは学校も衣替えのため、黒い詰襟の制服を着ていた。一目で慶應の中学生とわかる制服姿の私に対して、代わりに対応した職員の態度はそっけなかった。結局、作品を見せることもなく、そそくさと東神奈川電車区をあとにした。同電車区を訪れたのも、これが最後となった。
九月三十日と十月一日の違いをまざまざと感じた。衣替えとともに、鉄道に情熱を傾けた一九七六年の夏が終わった」(原武史「日吉アカデミア一九七六(9)」『群像・9・P.386~387』講談社 二〇二四年)
衣替え。そういえばたった一日で何かがすっかり変わった感じがする。そんな気持ちは今なおひとりの読者にとってとても懐かしい。