白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

仮面等価性18・驢馬と人間の婦人との性交/研究者の態度

2020年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
ルキウスは驢馬の姿のまま或る「地位財産ともにすぐれて有名な一人の貴婦人」の寵愛を受ける。婦人はルキウスの飼育係にこっそり「多額の謝礼」を与え、驢馬と一夜を共にする権利を買った。価格は表示されていないが、「驢馬と一夜を共にする権利」=「多額の謝礼」という等価性が成立している。そこで夜になるとルキウスに当てがわれている部屋のベッドのしつらえのため、四人の閹人(=男性器去勢者)が登場する。

「四人の閹人(えんじん)が柔らかくふくらんだ華奢(きゃしゃ)な羽蒲団(はねぶとん)をたくさん使って、私たちのために地上に即製のベッドをこしらえ、その上に金糸(きんし)と紅紫染めの糸で刺繍した蔽いを丁寧にかぶせ、さらに美しい婦人たちが休むときいつでも顎(あご)や頭を支える小さな可愛(かわい)い枕をたくさんばらまいてくれました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.410」岩波文庫)

ルキウスは驢馬の姿のまま滞りなく婦人との一夜を終える。婦人がルキウスを指し示す言葉は「私の恋人」、「私の小鳩」、「私の小雀(こすずめ)」、である。ルキウスは驢馬の姿を取っている限りで、なおかつ婦人にとってのみ「驢馬ルキウス」=「私の恋人」=「私の小鳩」=「私の小雀(こすずめ)」という等価性を実現させている。

「彼女はしっかりと私の全体を、そうです、本当にすっかり私のからだを抱き締めました。私が遠慮して尻を後ろに引こうとすると、そのたびに彼女はますます興奮して接近しようとあせり、私の背骨に手を回して強く抱き締め、ぴったりとしがみついて離れないのでした」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.412」岩波文庫)

この場合、両者のあいだで性行為はあったのだろうか。あったと見るのが正しいように思われる。始めのうちルキウスは、驢馬の身体の粗雑で巨大な男性器が婦人の女性器を破壊してしまいはしないか、と心配している。だがその心配は無用である。というのもこの場面では、作品の中で始めて「四人の閹人(えんじん)」が登場しているからだ。閹人(えんじん)は男性器去勢者である。その役割は上流階級の主人に仕える宦官と同様だが、主な目的は主人が何か遠方での用事あるいは戦争のため長期間家を留守にする際、その妻が他の男性を呼び込んで遊んだりしないかどうか見張らせるための監視者として置かれる場合が多い。しかし閹人(えんじん)とはいえ去勢の形態に関係なく、すべての性欲がなくなってしまうかといえば必ずしもそうではない。歴史的資料を見ると、むしろ逆に女性を嬲(なぶ)りものにして飽き果てなくなるといったケースも随分たくさん報告されている。そして驢馬の姿のままのルキウスの陰部は閹人(えんじん)がかつて持っていた男性器四人分の質量を持っていなければならない。一人の男性の平均的陰部を順番に四度、というわけにはいかないのだ。それならわざわざ驢馬でなくても構わない。なぜ驢馬でなくてはならないのかさっぱりわからなくなってしまう。そこでルキウスは、ギリシア神話に登場する動物性愛者女性パーシパエーのことを思う。パーシパエーは牡牛に性愛を抱き性交して半人半獣のミーノータウロスを生んだとされる。

「ポセイドーンは彼が例の牡牛を犠牲に供しなかったので、憤(いきどお)り、この牡牛を猛悪にし、パーシパエーがこれに対して欲情を抱くように企んだ。彼女は牡牛に恋し、殺人の罪でアテーナイより追放せられた工匠ダイダロスを共謀者とした。彼は車のついた木製の牝牛を製作し、これを取って内部を空洞にし、牝牛を剥いでその皮を縫いつけ、かの牡牛が常に草をはんでいる牧場におき、パーシパエーをその中に入れた。牝牛がやって来て、真の牝牛と思って交わった。そこで彼女はアステリオス、一名ミーノータウロスを生んだ。彼は顔は牡牛であったが、他の部分は人間であった」(アポロドーロス「ギリシア神話・第三巻・P.121」岩波文庫)

ルキウスは驢馬の姿のままその身体丸ごと、婦人から愛されているという思いにしみじみと浸る。パーシパエーの神話について根も葉もない話ではないと考える。その意味で古代ギリシア神話は少なくともそのような人間が実在することを物語っている。

「牛頭人身の怪物ミーノータウロスの母パーシパエーが牡牛を情夫として楽しんでいたのも、根も葉もない話として一笑に付すわけにはいかないと思ったことでした」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.412」岩波文庫)

ちなみに作者アープレーイユスが生きていた頃のローマでは動物との性愛関係が流行していたようだ。しかしここでの記述は、動物性愛者は当時の流行でしかなかったと言おうとしているのではなく、流行以前から存在していたことを証明しているのだろう。二十一世紀の今なお、というより、二十世紀後半になってようやく古代ギリシアがそうであったように、人間に対する性欲を感じずむしろ動物性愛を公言する人々が世間に向けて声を上げられるような社会的システムが整いつつある。とはいえ、この種の性的嗜好を持つ人々は社会の監視・差別の目を恐れるあまり、自分から名乗り出ることはまずないけれども、例えばドイツでは動物性愛者らのグループがおおやけに名乗り出て活動している。彼らの性愛の相手は動物なのでなるほど目立つ。だが、そうでない人々はもはや相手が人間でも動物でもないにもかかわらずごく普通に性生活を満喫している。そしてそのような人々の側が世界では圧倒的に多い。フェティシスト(呪物崇拝者)がそうだ。

「呪物崇拝者は、後々の生活においても、まだ他の点で性器代理物が非常に役立っていると考えている。呪物は、その意味を他人から知られることはなく、したがってまた拒否されることもない、それは容易に意のままになるし、それに結びついた性的満足は快適である。他の男たちが得ようとしているものや、苦労して手に入れねばならぬものなどは、呪物崇拝者にとってはぜんぜん気にならない」(フロイト「呪物崇拝」『フロイト著作集5・P.393』人文書院)

制服フェチ、眼鏡フェチ、靴フェチ、刀剣フェチ、殺害フェチ、など様々ある。ちなみに動物や他人を殺害することに桁違いの興奮を覚えて離れられない人々は犯罪に問われることがあるが、逆に自傷行為の場合、三島由紀夫が描いているように切腹フェチと思われるものもある。

「突然嘔吐(おうと)に襲われた中尉は、かすれた叫びをあげた。嘔吐が激痛をさらに攪拌(かくはん)して、今まで固く締まっていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口がせい一ぱい吐瀉(としゃ)するように、腸が弾(はじ)け出て来たのである。腸は主(あるじ)の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、喜々として辷り出て股間(こかん)にあふれた。中尉はうつむいて、肩で息をして目を薄目にあき、口から涎(よだれ)を垂らしていた」(三島由紀夫「憂国」『花ざかりの森・憂国・P.230』新潮文庫)

活字フェチや声フェチ、匂いフェチ、廃墟フェチなどは、ごくありふれた欲望であり、かえって交響曲フェチなどはそれが容易にフェチとは見なされていないだけにむしろ安心して耽溺できるという利得がある。そこでこれら無数の性愛を区別しようとする場合、ただ単に似ているというだけの理由で、あっけなく間違って混同してしまうこともしばしば生じる。例えば、戦国武将で男性同性愛者だった直江兼続は上杉景勝と上杉謙信との両方から寵愛されたというエピソード。南方熊楠は岩田準一宛て書簡で岩田の思い込みを正している。直江を寵愛したのは謙信と景勝との両方ではなく景勝であると。

「貴状に直江は謙信に寵せられたるごとく見ゆるも、直江は景勝に寵幸されたるに候。謙信存生のころは直江は子児たりしことと存じ候。『藩翰譜』の上杉譜など見れば明らかに知れ申し候。謙信の寵愛で大用されたるは、たしか岩井某(丹波守?)と申し候。これも勇将なりしが、後に敗死せしと記臆致し候」(南方熊楠「直江兼続と上杉景勝、大若衆のこと、その他」『浄のセクソロジー・P.366』河出文庫)

また熊楠は一見奇妙に見えるものでも国内外で厳密に研究されており食物になり得るものなら平気で口にして飄々たる一面があった。

「古来肉を忌んだ山僧が種々の菌(きのこ)を食ったことは、『今昔物語』等に出で、支那の道士仙人が、種々芝(し)と名づけて、菌や菌に似た物を珍重服餌した由は『枹朴子』等で知れる。紀州の柯(しい)樹林に多く生ずる牛肉蕈(たん)は、学名フィスチュリナ・ヘパチカで、形色芳味まるで上等の牛肉だから、予はしばしばこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.311~312』河出文庫)

牛肉蕈(たん)の学名「フィスチュリナ・ヘパチカ」とあるのは“Fistulina hepatica”(カンゾウタケ=肝臓茸)のこと。フランスで“Langue de boeuf”(牛の舌)と呼ばれる菌類。アメリカでは身の蓋もなく“Beefsteak Fungus”(貧者のビーフステーキ)と呼ばれる。だから研究者として重要なのは、世間や学術界の一般的通説あるいは思い込みに捉われず流されもしない、自分に厳しい研究態度の必要性である。

「粘菌が原形体として朽木枯葉を食いまわること(イ)やや久しくして、日光、日熱、湿気、風等の諸因縁に左右されて、今は原形体で止まり得ず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子どもが、あるいはまずイ’なる茎(くき)となり、他の分子どもが茎をよじ登りてロ’なる胞子となり、それと同時にある分子どもが(ハ)なる胞壁となりて胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子どもが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風等のために胞子が乾き、糸状体が乾きて折れるときはたちまち胞壁破れて胞子散飛し、もって他日また原形体と化成して他所に蕃殖するの備えをなす。かく出来そろうたを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかるに、まだ乾かぬうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけたる諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れおり、天気が恢復すればまたその原形体が再びわき上がりて胞囊を作るなり。原形体は活動して物を食いありく。茎、胞囊、胞子、糸状体と化しそろうた上は少しも活動せず。ただ後日の蕃殖のために胞子を擁護して、好機会をまちて飛散せしめんとかまうるのみなり。故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰(たん)様の半流動体と蔑視さるるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。すなわち人が鏡下にながめて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと悦ぶは、実は活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まらんとしかけた原形体が、またお流れになって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えて実は原形体となって活動を始めたのだ。今もニューギニア等の土蕃は死を哀れむべきこととせず、人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生するの一段階に過ぎずとするも、むやみに笑うべきでない」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.335~337』河出文庫)

ニーチェはいう。

「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫)

ニーチェが認識論的錯誤はなぜ起こるのかとして批判している錯誤の構造と、熊楠が実例を上げて批判的に述べている誤認の構造とは間違いなく同じである。

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仮面等価性17・稚児の滝壺叩き込み

2020年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
後妻裁判のエピソードが披露されているあいだ、驢馬のルキウスの飼主は変っている。ルキウスは場所を移動するしばらくの間にそのエピソードを披露して時間を稼いでいる。或る時間から別の時間のあいだに後妻裁判のエピソードが差し挟み込まれ、作品に厚みを付け加えている。時間を稼ぐと同時に時間が厚みを稼いだ。「或る時間の経過」=「作品へのさらなる厚み」という等価性が、今度は小説作品そのものにおいて出現した。この場合、作品の厚みは後妻裁判の顛末という事実上の意味内容=価値の増殖という形態において明確化されている。さて、そのエピソードが終わるやルキウスは再び売られる。

「彼は隣人であった二人兄弟の奴隷に私を十一デーナーリウスで売りつけました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.400」岩波文庫)

置き換えられた飼主(二人兄弟の奴隷)のもとでルキウスは驢馬の姿のまま人間と同じ食事を取って見せる。二人兄弟の奴隷は自分たちの仲間にもその光景を見せる。奴隷たちは面白がって騒ぐ。それを見た奴隷たちの主人は彼らが一体何を騒いでいるのかと覗き込み、ありえない光景に目を見張る。驚いた主人はルキウスを邸の中へ招き入れ、多くの人間を集め、皆の目の前で驢馬が人間と同じように演じる食事風景を公開する。試しに出された葡萄酒をもルキウスは飲み干して見せる。予想外の盛大な受けを得た。主人は兄弟の奴隷から四倍の値段でルキウスを買い取る。

「彼らが払った金額の四倍を与えて買いとりました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.406」岩波文庫)

ここで「人間と同様の食事作法を身につけた驢馬」=「四十四デーナーリウス」という等価性が貨幣交換によって成立した。だから驢馬の価値はアプリオリに一定しているものではないし、むしろ逆に一定なものでは全然ないということがわかる。ルキウスは驢馬の姿のままでその価値を増殖させる。驢馬という言葉は同じでもその価値は様々に変動する。まったく別のケースでも、例えば「稚児(ちご)」という言葉は同じでもその実質はたいへん多様であることと似ている。

南方熊楠は、男性同性愛の幅広さ、多様な形態、その厚み、について、男道と男色関係とに類別して考えていることは前に述べた。熊楠のいう男道は、男性同士の間で時として育まれる特別な友愛関係を意味する。この友愛は実に多様だ。例えば児塚(ちごづか)に関し、次のように、僧侶と稚児との関係は必ずしも性的関係が伴うとは限らないことについて触れている。

「児塚などを寺僧と稚児との色情上の悲話より生ぜしものとのみいうも不徹底ならん。大抵稚児同宿は後に剃髪受戒して僧となるものなれども、中には僧とならぬうちに死せしものも多く、それらは寺内に葬ることがならぬから、寺外の松蔭や道傍に埋めし。それがすなわち児塚、そのしるしの石が児石と存じ候。心ある人は行くさ帰るさにそれに向かって回向したることと存じ候。されば稚児の遺跡には相違なきも、必ずしもことごとく色情上の悲話に連なるものならずと存じ候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.446』河出文庫)

とはいうものの、女性の場合は遊女、少年の場合は稚児。彼らは死んだとき陰惨な葬られ方をする。陰惨であればあるほど、各々の遊女や稚児が生きていたとき一体どのような行為を演じていたかが判明する。

「寛永より元禄ごろまで全盛を極めし遊君が死んだのち葬られし様子を日本人も欧州人も記したるを見るに、実に牛馬犬猫を葬るごとき無惨なものなりしようなり。貧民の子などにて寺にチゴに出でおりしものなどの死んだものは、ずいぶんあわれな扱いを受け、ほんの土饅頭に埋められ、はなはだしきは滝の壺に沈められなどせしことと察し候。それが児塚、児の滝等なるべし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.446』河出文庫)

死後に滝壺へ叩き込むという習慣などは、日本で「穢れ」という観念がどのように考えられていたかを意味慎重に教えてくれる。遊女や稚児は生きていた頃、これ以上ないというほど「穢らわしい」性的行為の道具としてさんざん弄ばれた。すると「穢れ」は弄んだ側と弄ばれた側との両方の身に深々と根を張っていることになる。ところが、なぜかはわからないが弄ばれた側(遊女あるいは稚児)の死をきっかけとしてすべての「穢れ」をただ一方の人格の側においてのみ一度に背負わせ、あの世へ持って行かせることで弄んだ側の浄化をも同時に図ろうとする優劣の観念がともに定着していたことを物語る。アジア的信仰風土において、すべての人間はそれがどのような人間であるにせよ、生きている限りは幾らかの「穢れ」を併せ持っているとされる。人間がけっして神でないのはその獣性においてである。だから貪欲でない人間はいない。ところが遊女や稚児の死の際、それは上にではなく、下へ向けて一挙かつ一方的に行われる排除過程を実現させる。次のように。

「ただ社会的行為だけが、ある一定の商品を一般的等価物にすることができる。それだから、他のすべての商品の社会的行動が、ある一定の商品を除外して、この除外された商品で他の全商品が自分たちの価値を全面的に表わすのである。このことによって、この商品の現物形態は、社会的に認められた等価形態になる。一般的等価物であることは、社会的過程によって、この除外された商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品はーーー貨幣になるのである(「彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権力とを獣に与える。この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである」『ヨハネの黙示録』)」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・・P.159」国民文庫)

一八八六年(明治十九年)、熊楠が高野山を訪れた時のエピソード。川瀬氏というのは、後に東京帝大農学部長を歴任した河瀬善太郎のこと。

「小生、川瀬氏にオイと注意すると、そのちご頭を上げてこちらを見やりたるが、そのころ玄々堂と申す銀座の石坂屋より出たる、何とかいいし柳橋の名妓像そのままにて、東京でいえば意気極まる顔にて、その紅顔の美しさ名妓などの及ぶべきにあらざりし。これは便りにせし寺房衰廃して往き所なく、あの坊この坊とさまよいありき、飲代に代えて淫を呈せしものと察し候(かかる中には素行宜しからず、女で申さば浮気多くて追い出されしもあるべし)。かかる者が餓死などせば、むろん林下や道傍に仮埋葬され、そのしるしに石を立てたるがすなわち児塚で、最初はその者の名も知りおりしも、久しき間にはその者どころかその者のおりし寺房も全廃となるから、名も由緒もしれず、ただ児塚で通ることと存じ候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.447』河出文庫)

高野山は比叡山と並ぶ日本仏教の聖地である。にもかかわらずその山林の頽廃ぶりが如実に伝えられている。経済的に疲弊し廃寺となった寺坊は数多く、所属していた生活場所を失った稚児は広大な山中をさまよい歩きながら食事代の代わりに体(アナルセックス)を売って歩くのが常だった。その拭っても拭っても拭いきれない遺産(かたみ)が「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等である。今では大型道路整備が進みほとんど見られなくなった。しかしかつて「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等があったところで事故が多発する傾向が多いのは、呪いでもなければ祟りでもなく、無念のうちに死んでいった遊女や稚児らを少しでも拝んでおくべきなのではという精神的配慮がまとわりついて離れないため、目印となるように山道からちょっとばかり顔を覗かせるような場所へちょうど児塚(ちごづか)が作られ、車のハンドルを握る手を忘れるほど絶景とも見えるようなところへちょうど児の滝(ちごのたき)が見えるからである。ほんの少しばかり覗き込めば見える場所に「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等はあった。同時にそれは風光明美な山道・海道沿いにあった。近代になるとその上やすぐ傍に国道や県道が次々と建設されていく。ちょっとしたものだが奇妙な目立ち方をする地点に「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等の名残りがある。運転中にふと気を取られる。だからといって「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等には何らの落ち度もない。熊楠のいう男道(男性同性愛者同士の特別な友愛精神)を乱用した権力者らの債務感情(負い目)が風光明美とか観光客誘致とかの目的へ置き換えられて現代社会の国道や県道の設計段階へ紛れ込んだ結果に過ぎない。「児塚(ちごづか)、児の滝(ちごのたき)」等の名残りが現代社会になってなお事故多発地帯と重なっているのはそのためである。明治時代、当時の首相は伊藤博文。足元の日本国内で荒れ果てていく森林を整備し直す重要性よりも日本国外への軍事侵攻が政府の戦略的優先順位に位置付けられていたことが、熊楠の文章からわかる。自然界のエコロジーをないがしろにするとどういうことが起こってくるか。ベイトソンはいう。

「自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の《外側》に切り落とされることになります。人間生活が生み出す副産物は、どこか《外》に捨てればいいとする心がそこから生まれ、エリー湖がその格好の場所に見えてくるわけです。このとき忘れられているのは、エリー湖という『精神生態的』“eco-mental”なシステムが、われわれを含むより大きな精神生態系の一部だということ、そして、エリー湖の精神衛生が失われるとき、その狂気が、より大きなわれわれの思考と経験をも病的なものに変えていくということです」(ベイトソン「エピステモロジーの正気と狂気」『精神の生態学・P.640』新思索社)

ベイトソンのいうエコロジー概念は、ただ単なるナチュラリスト的エコロジーだけでなく、人間精神のエコロジー(人間関係のエコロジー)、さらには社会的エコロジーという三種のエコロジーが常に同時に連鎖し合っており、これら三種のエコロジーの永遠回帰について人間は常に意識的でなくてはならないという意味が含まれている。

また日本では明治時代から始まった帝国主義戦争の結末が、結果的にヒロシマの原爆投下という形を取るほかなかったとしても、ただ単に伊藤博文首相誕生にのみその原因を押し付けてしまうことは早計に過ぎる。そのような短絡的思考は侵略主義戦争へと組織していった他の諸要素をむしろ大いなる戦略の外に逃れさせてあっけなく免責してしまう恐れがある。

「これまで私は、複雑な燕石伝説のさまざまな入り組んだ原因を追求してきた。さて、原因は複数のものであり、それらが人類の制度の発展に、いかに些細であろうとも、本質的な影響を及ぼしてきたということが充分に認識されている今日でさえ、自分たちが取扱うすべての伝説について、孤立した事実や空想を、その全く唯一の起原とすることに固執する伝説研究者が、少なくないように私には思われるのである。しかし全くのところ、伝説はその原因があまりにも多様で複雑な点で、またそのために、先行するものを後になって追加されたものから解きほぐしにくいという点で、まさに夢に匹敵するものである。ところで原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう。そして原因の他のものは、組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さないのである」(南方熊楠「燕石考」『南方民俗学・P.389』河出文庫)

熊楠の文章から二点。第一に「原因のあるものは、くり返し果となり因となって、相互に作用しあう」ということ。第二に「組み合わされた結果のなかにとけこんで、目に見えるような痕跡を全く遺さない」ということ。第一点についてニーチェから。「原因と結果の取り違え」はなぜ起こるのか。

「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四七九・P.24~25」ちくま学芸文庫)

第二点についてマルクスから。複数の原因について「目に見えるような痕跡を全く遺さない」状況はどのような条件のもとで出現するのか。

「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)

さらに労働は十分二種類に分割して考えられるにもかかわらず、現場では融合しているため目に見えなくなってしまうのはなぜか。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

貨幣がというより、もはや全世界に行き渡った制度としての貨幣関係とその反復とが、どこまでも延長される同一制度の再生産が、そうさせて止まないからである。

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仮面等価性16・貨幣と劇薬/そそり立つ軍事的摩羅

2020年08月27日 | 日記・エッセイ・コラム
愛欲の焔を消滅させるため義理の長男を殺害しようとしたところ、誤って実の子を死なせてしまった後妻の裁判。法廷に出廷した医師が証言する。或る日、ある家の奴隷がやってきて劇薬を調合して売ってほしいと頼まれたと。

「つい先日私のところにやってきて、即効性のある劇薬を作ってくれと熱心に頼み、その謝礼として百枚の金貨を差し出した」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.395」岩波文庫)

ここで「即効性のある劇薬」=「百枚の金貨」という等価性が成立している。

「お前さんのくれた金貨の中に、万一、贋金(にせがね)や悪質の貨幣が混って見つかると困るので、一応これらのお金を皮袋に入れとくから、それにお前さんの指輪で判を捺(お)してくれ、そうすれば明日、両替屋が来たとき、検証してもらえる」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.396」岩波文庫)

医師はいう。劇薬調合に用いた薬草は実は「曼荼羅花」(まんだらげ)だと。なのでいったん麻酔にかかって死んだように見えるけれども、数時間もすれば元に戻るはずだ。埋めたばかりの棺桶をもう一度開けてみてはどうかと促す。どよめきながら一同は指輪の判を照合するよう素早く動く。

曼荼羅花。今でいう「チョウセンアサガオ」、「ダチュラ」、「エンジェルズ・トランペット」のこと。繁殖力旺盛で古代から日本中ほとんどどこにでも自生していた。上を向いて開く大輪の白い花で有名。開花の季節を過ぎて実になると刺が生え、その中を開いてみるとたくさんの種が詰まっている。種や根の部分は特に毒性が強いとされるが葉や茎、花、芽などにも毒性の成分は含まれているので取り扱いには注意が必要とされる。ちなみに日本では華岡青洲とその妻の名とともに馴染深い。江戸時代。一八〇四年(文化一年)。華岡青洲は世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌摘出)に成功。その主成分は「ヒヨスチアミン」、「スコポラミン」、などチョウセンアサガオから抽出したもの。

チョウセンアサガオの実も、その細い刺を陰毛に見立てると男性器そっくりである。「『摩羅考』について」で南方熊楠は、男性器を指す「摩羅(まら)」の文字をめぐって、それが文献に登場してくる当初の時期と、さらに年代を経て平安後期以降に編纂された文献に出てくる摩羅の意味の横滑りを浮き彫りにさせている。

まず古代「記紀」の時代。この頃の記述では、神性を帯びた「鍛人(かぬち)、鍛部(かぬち)」=「鍛冶職人」に摩羅(まら)の字が当てられている。

「常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、天(あめ)の安(やす)の河(かわ)の河上(かはかみ)の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鐵(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて」(「古事記・上つ巻・天の石屋戸・P.36」岩波文庫)

「倭鍛部(やまとのかぬち)天津真浦(まら)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ」(「日本書紀1・巻第四・綏靖天皇即位前紀・P.248」岩波文庫」)

しかし同じ摩羅(まら)ではあっても次に登場するのは、「源氏物語」成立以降約五十年後に編纂された「本朝文粋」やさらにその六十年以降から編纂が始まる「今昔物語」からである。熊楠にしてみればあえて書いて説明するほどのことではなく当然の歴史的背景として、平安末期から鎌倉時代にかけて見られる軍事的勢力の台頭がある。

例えば、本朝文粋「鉄槌伝」の著者「羅泰」の「羅」(ら)は次のように、登場人物に関する事柄、「磨裸」(まら)、「摩良」(まら)、から取られたとする。

「鉄槌字藺笠、袴下毛中人也。一名磨裸」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第十二・鉄槌伝・前雁門太守羅泰撰・P.338」岩波書店)

「論曰、鉄子、木強能剛、老而不死。屈而更長、巳施陰徳。誠号摩良」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第十二・鉄槌伝・前雁門太守羅泰撰・P.338」岩波書店)

作者が自分自身の名の中にわざわざ摩羅を取り入れるようになったのはなぜだろう。平安末期はすでに古代の神話時代ではない。今昔物語では古く古代中国に関するエピソードの中で摩羅の字に「まら」とルビを打って読ませている。

「仏此(こ)レヲ哀(あはれ)テ、昼ハ鳩摩羅焔(くまらえん)、仏ヲ負ヒ奉リ、夜ハ仏、鳩摩羅焔ヲ負(おひ)給テ行キ給フ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第五・P.18」岩波書店)

「其ノ男子、漸(ようや)ク勢長(せいちゃう)ジテ、名ヲバ、鳩摩羅什(くまらじふ)ト云(いふ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第六・第五・P.20」岩波書店)

熊楠が上げている本朝文粋は康平年間(一〇五八年~一〇六五年)に成立した。その間、一〇六二年(康平五年)、ようやく「前九年の役」(奥州十二年合戦)が終結。東北地方の土着の有力豪族・安倍氏と京都朝廷との戦争で安倍氏が滅亡する。安倍頼時の側は、源頼義・義家親子と清原氏ら連合軍によって駆逐された。しかし当時の東北の勢力図を考えると、いとも容易に朝廷軍が必ず勝利するというほど単純なものではけっしてない。今昔物語では源頼義に脅された安倍頼時の側が船で北海道へ渡り、「胡人」に遭遇する場面や、北海道の大地を行けども行けどもどうなっているのかさっぱり理解できず、今でいう鬱状態に陥って空しく東北へ返ってきた後、しばらくして死んだという記事が見られる。

「怪シク地ノ響ク様(やう)ニ思(おぼ)エケレバ、船ノ人皆、『何(いか)ナル人ノ有ルニカ有ラム』ト怖シク思(おぼ)エテ、葦原ノ遥(はるか)ニ高キニ船ヲ差隠(さしかく)シテ、響ク様(やう)ニ為(す)ル方(かた)ヲ葦ノ迫(はさま)ヨリ見ケレバ、胡国(ここく)ノ人ヲ絵ニ書タル姿シタル物ノ様(やう)ニ、赤キ物ニテ頭(かしら)ヲ結(ゆひ)タル一騎、打出(うちいづ)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十一・P.463」岩波書店)

この場面で登場する「胡人」がどの民族に相当するのか確実なところはわからない。が、当時は中国から北方に居住する異民族を一般的に「胡人」(こじん)と総称している。「赤キ物ニテ頭(かしら)ヲ結(ゆひ)タル一騎」とあるように、中国由来の絵から得た知識をもとにして、衣装の特徴が記録されているのがわかる。どこをどう移動しているのかわからないまま、結局、安倍頼時一行は地元の東北へ戻ることにする。この巻では源頼義軍と安倍氏との戦闘シーンはまったく出てこない。

「然(さ)テ、船ノ者共、頼時ヨリ始メテ、云合(いひあは)セテ、『極(いみじ)ク此(か)く上ルトモ、量(はかり)モ無キ所ニコソ有ケレ。亦、然(しか)ラム程ニ自然(おのづか)ラ事ニ値(あひ)ナバ、極(きはめ)テ益(やく)無シ。然レバ、食物(くひもの)ノ不尽(つき)ヌ前(さき)ニ、去来(いざ)返(かへり)ナム』ト云テ、其(そこ)ヨリ差下(さしくだり)テ、海ヲ渡テ本国(ほんごく)ニ返ニケル。其ノ後、幾(いくばく)ノ程モ不経(へず)シテ、頼時ハ死(し)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十一・P.463」岩波書店)

有力豪族といっても安倍氏はもはや朝廷に帰順している。しかし東北地方では最大勢力だった。戦争が長引いた理由の一つは安倍氏側の軍事力が意外に強力だったこと。もう一つは源頼義・義家率いる朝廷軍が、安倍氏以外に東北で大勢力を誇っていた清原氏と連合軍を成立させてようやく安倍氏を滅亡させるまで、思いのほか時間がかかっったことを意味しているように思われる。とはいえ、源頼義・義家は京都朝廷軍の最前線で勝利することはした。にしても、源頼義・義家軍が始めから圧倒していたわけではないのだ。

安倍氏滅亡から百年以上経た頃、「梁塵秘抄」を編纂した後白河院はこのような歌を取り上げている。「八幡太郎」は源頼義の息子義家のこと。

「鷲(わし)の棲(す)む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎(はちまんたろう)は恐ろしや」(「梁塵秘抄・巻第二・四四四・P.184」新潮日本古典集成)

後白河院の政治的振る舞いは広く知られているように、一方で源氏を褒め讃えておいて、もう一方で院政の権威において懐柔するという方法である。自ら編纂した梁塵秘抄の中で取り上げ、芸能民らに各方面で歌わせて廻るという伝達様式。それはただ単に芸能・音曲の政治利用というより、芸能・音曲の庇護者が権力者であればあるほど芸能・音曲というものはますます濃厚な政治色を帯びるからだ。二十世紀になってなお、ナチスのドイツがベートーベンとヴァーグナーとを精一杯政治利用したのは、そもそも音楽が政治的なものだからである。ニーチェに言わせれば音楽は人間の情動に働きかけ、人間の情動を揺さぶり動かす、ということになる。例えば、今なお行進曲(マーチ)とは何だろうかという問いかけがあることを忘れてはならない。ニーチェが示唆するように、国家と音楽・行進曲(マーチ)との粗雑な関係にはただならぬ危険性がひそんでいる。

白河院もまた、源義家を怖れつつ重用したことが「宇治拾遺物語」に見える。寝ていると物の気にうなされる日々が続いた。そこで源義家を指名して物の気に対抗できるような武具を持ってきてはくれまいかと頼む。源義家があつらえた武具一式を寝室に置いてからは物の気にうなされることがなくなった、というエピソード。

「白河院、御とのごもりてのち、物におそはれさせ給(たまひ)ける。『しかるべき武具(ぶぐ)を、御枕のうへにおくべし』。とさてありて、義家(ぎか)朝臣(あそん)にめされければ、まゆみのくろぬりなるを一張まゐらせたりけるを、御枕にたてられてのち、おそはれさせおはしまさざりければ、御ありて」(「宇治拾遺物語・巻第四・十四・P.125」角川文庫)

しかし「檀(まゆみ)の黒塗りの弓」というのは特に珍しいものではない。普通にあった。さらに睡眠中に物の気(もののけ・鬼)にうなされるというパターンは平安時代前半の漢和辞典ですでに成句化しているのが見られる。「眼(眠)中見㒵(鬼)、於曾波留(ヲソハル)」『新撰字鏡』。それが三百年後の宇治拾遺物語に「御とのごもりてのち、物におそはれさせ」となって出てくる。源義家の神格化が加速する。またこのエピソードを見ると、天皇あるいは法皇・院に直属し、天皇あるいは法皇・院を警護しつつ、常に天皇あるいは法皇・院の動きに目を光らせ監視する軍事的勢力が独立してきた点に注目する必要性があるだろう。院が源義家に始まる警護役を採用したのと、院の動向を監視する源氏という形式が出来上がりつつあった。

さらに宇治拾遺物語と同じ頃に成立した「平治物語」の中で、源義家が生け捕りにした千人の者の首を斬り、さらにその鬚をも同時に斬り払ったという怪異な太刀=鬚切(ひげきり)のエピソードが登場する。

「鬚切(ひげきり)といふ重代(ぢうだい)の太刀(たち)」(新日本古典文学体系「平治物語・中・頼朝生け捕らるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.238』岩波書店)

注釈にこうある。

「他諸本に『八幡殿の生取千人の首をうち、ひげながら切てンげれば、鬚切とはなづけたり』(金本)」(新日本古典文学体系「平治物語・中・頼朝生け捕らるる事」『保元物語/平治物語/承久記・P.239』岩波書店)

千人という数が本当かどうかは知らないが、首だけでなく、なぜ首を斬りつつ鬚も斬る、なのか。むしろ摩羅(まら)として考えたほうが自然ではないだろうか。男性器でいえばペニスだけでなく睾丸も、と考えるなら、ごく自然に同時に斬り落とすことができる。あるいは首と男性器(髭)と、という意味かもしれない。源義家(八幡太郎=はちまんたろう)の弟義光(神羅三郎=しんらさぶろう)は今の滋賀県大津市にある神羅(しんら)善神堂で元服式を上げている。三井寺所属のこの施設は大津市役所の裏手の警察学校のそのまた裏手にあり、さらにそこから少し登ると源義光(神羅三郎)の墓がある。墓は古墳ではなく日本式の墓石でもなく朝鮮様式の塚(つか)である。江戸時代に入ってからもずっと天皇に会うために朝鮮半島からやってくる朝鮮通信使を迎える手配(各地域から動員すべき人員とその役職の移動など)をすべて差配していたのは三井寺だった。

また、源義家(八幡太郎)・源義光(神羅三郎)の活躍が目立ってきた当時の朝鮮には、中国と同じ「宮」(きゅう)という刑罰があった。男性器の陰茎も睾丸も陰嚢も切断する。死刑に次ぐ重罰である。「髭切」はこの「宮」と千人斬りとを表象しているのかもしれない。女性の刑罰にも宮があったようだが、陰部閉柵手術だとする見解とそうではなく永久幽閉あるいは家系存続不可能とするための永久追放とする見解などがある。

ちなみに戦後日本の皇室の側も古代以来続く朝鮮諸王朝の儀礼を重じており、昭和天皇の死に伴って行われた一九八九年(平成一年)「大喪の礼」は、歴史家が見ればわかるように、古朝鮮時代の葬礼儀式に則ったまるで瓜二つの朝鮮様式が採用されていた。

そしてまた室町時代末期(戦国期)から江戸時代初期に成立した「舞の本」では源義家経由の宝刀「髭切」(ひげきり)と「蜘蛛切」(くもきり・ちちゅうぎり)について完璧なまでに神格化されている。「髭切(ひげきり)に官(くわん)をなる」、「鬼切(をにきり)に官途(くわんど)なる」、というのは刀そのものに官位を与えたという意味。

「二振(ふり)の太刀(たち)、多田(ただ)の満仲(まんぢう)の御手に渡(わた)る。小鍛冶(こかぢ)が打(う)つたる太刀(たち)にて、咎(とが)有者(もの)を召(め)し寄(よ)せ、首(くび)を切て見給へば、あまりに早(はや)く首(くび)が切(き)れ、髭(ひげ)をかけて切(き)れければ、髭切(ひげきり)に官(くわん)をなる。舞房(まうふさ)が打(う)つたる太刀にて、咎(とが)ある者(もの)を召(め)し寄(よ)せ、首(くび)を切(き)つて見給へば、あまりに早(はや)く首(くび)が切(き)れ、膝(ひざ)をかけて切(き)れければ、膝切(ひざきり)と官途(くわんど)なる。その後(のち)、彼(かの)二降(ふり)の太刀、頼光(よりみつ)の御手に渡る。少鍛冶(こかぢ)が打たる髭切(ひげきり)にて、鬼(をに)の手を切(き)りければ、鬼切(をにきり)に官途(くわんど)なる。舞房(まうふさ)が打(う)つたる膝切(ひざきり)にて、変化(へんげ)の蜘蛛(くも)を切(き)りければ、蜘蛛切(ちちうぎり)に官途(かんど)なる。其後(そののち)、二振(ふり)の太刀(たち)、八幡殿の御手に渡(わた)る。それよりも、為義(ためよし)の御手に渡(わた)りけり」(新日本古典文学体系「剣讃嘆」『舞の本・P.515』岩波書店)

古代には神聖なものとして呼ばれた摩羅(まら)の文字が、平安末期から鎌倉初期にかけて、刀剣へと姿形を置き換える。それは平安末期に台頭する源氏と皇室との固い結びつきによって、神聖な武具としてのみ置いておくばかりなのではなく、実際に人間を斬り殺すために用いられつつ三種の神器の一角を占めるように変わっていく。そして熊楠がわざわざ「本朝文粋」や「平家物語」の名を上げて時代背景を重視しつつ「摩羅(まら)」について考察しているのはただ単なる偶然でもなんでもない。怒張しつつそそり立つ摩羅(まら)、怪異な伝説を帯びた刀剣の授与、女性器の呼び名の曖昧な歴史性と比較して余りにも堅固な形式的絶対性を持つ男性の軍事組織化。武士階級が社会を動かし逆に皇室が「印璽」(いんじ・はんこ)へと転倒する時期。熊楠がそれを見逃したと考えるのはもはや笑止だろう。「本朝文粋」や「平家物語」あるいは「今昔物語」が描かれて日本の政治が転倒している思想的断層のありかが熊楠には見えていたのだ。

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仮面等価性15・科学的説明のリミット

2020年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
目を疑うような残忍この上ない惨劇を通過しつつどんどん飼主を置き換えていく驢馬のルキウス。飼主が驢馬を置き換えているのかそれとも驢馬が飼主を置き換えているのかもはやわからなくなってくる。また古代ギリシアではしばしば見られるように、近現代から見れば善悪の区別を思考停止に追い込む血塗れの大流血が演じられる。有名なエピソードだが、ルキウスの通過過程で発生している。そのうちの一つ。けっして裕福ではないがとても誠実な畑作人である三人兄弟が大富豪の横暴に耐えかねて、悲惨な目に遭っている友人のために立ち上がるシーン。血が血を呼ぶ大乱闘の末、貧乏な友人のために手に手を取った三人兄弟の側が無残極まりない死を遂げて、血の海の中で大富豪の側が勝利する。日本や韓国の物語によくある勧善懲悪という形式に慣れてしまっている目ではとても信じられない惨劇が何の脈略もなく出現する。それがニーチェのいう古代ギリシアである。そのようなことが起こったとき、人々はどのように振る舞うか。大富豪が正しいとか正しくないとかいうわけではない。

「『愚かさ』・『無分別』・少しばかりの『頭の狂い』、これだけは最も強く、最も勇敢な時代のギリシア人といえども、多くの凶事や災厄の原因として《許した》ーーー愚かさであって、罪では《ない》のだ!諸君にはそれがわかるかーーーしかしこの頭の狂いすらも一つの問題であったーーー『そうだ、そんなことが一体どうして可能なのか。それは一体どこから来たのか。《われわれ》高貴な素性(すじょう)の人間、幸福な人間、育ちのよい人間、最もよい社会の人間、貴族的な人間、有徳な人間のもっているような頭に?』ーーー数世紀にわたってあの高貴なギリシア人は、自分の仲間の一人が犯した合点の行かぬような悪虐無道に面する度ごとにそう自問した。『きっと《神》が瞞(だま)したのに違いない』とついに彼は頭を振りながら自分に言ったーーーこの遁辞はギリシア人にとって《典型的なもの》だーーーこのように当時の神々は、人間を凶事においてさえもある程度まで弁護するに役立った。すなわち、神々は悪の原因として役立ったーーー当時の神々は罰を身に引き受けないで、むしろ《より高貴なもの》を、すなわち罪を身に引き受けたのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・二三・P.113」岩波文庫)

いつも作動している社会的文法(社会的文脈)の一時的失効。血の惨劇。驢馬の飼主変更・再編。一般的生活の再開、という一連の流れがある。次に触れる箇所は、或る美貌の後妻が夫と前妻とのあいだにもうけた思春期の美少年(十二歳)に愛欲の焔を燃やすシーン。

「彼女は何をするのも億劫だという気振(けぶ)りで、からだの病気で心のうずく傷をごまかしていました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.385」岩波文庫)

とあるけれども、けっして「ごまかし」ではない。精神の病いは実にしばしば身体の病いへと置き換えられる。その傾向は古代ギリシアからすでにあった。後にフロイトが「症例ドラ」で語っているのと同じことだ。

「この領域は興奮したリビドーを表現するのに適しており、おそらくは最初の精神的変装、すなわち病気の父親に対するイミテーションの同情、そして『カタル』のために惹き起こされた自己叱責によって固着させられるのである。この症状群はさらにK氏との関係を描きだし、彼の不在を残念に思い、彼のよき妻になりたい願望を表現することが可能なことを示している。リビドーの一部が同じ父に向った後、この症状は自分とK夫人とを同一化することによっておそらく最後には父との性交の描写を意味することになる」(フロイト「あるヒステリー患者の分析の断片」『フロイト著作集5・P.335』人文書院)

というふうに。もっとも、ドラの場合、父とK氏への愛欲だけでなくK夫人へ向かう同性愛的リビドーも同時発生しているわけだが。ちなみにフロイトが開業していた十八世紀末から十九世紀前半にかけての顧客は上流階級の女性が圧倒的に多かった。その種の女性はただ単に名家の飾りとして結婚するわけであって恋愛結婚ではない。性生活などあってないようなものだ。だから当時は必然的に女性の「ヒステリー」が大量発生した時期でもある。

驢馬のルキウスに戻ろう。後妻は愛欲に燃えている。単に義理の関係に過ぎないばかりか、思春期で最も光り輝く時期にある美少年との性行為を実現させるため、手連手管を弄する。が相手はなかなか思うように応じてくれない。ところが後妻はただ単に美貌だというだけでなく頭の回転が速く鋭い。愛欲の成就を阻止しているのは言語構造なのだということに気づく。

「彼を『息子』と呼べばこそ、いつも彼女に恥ずかしい思いを起こさせるので、できたら喜んでそれを抹殺(まっさつ)したい」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の10・P.386」岩波文庫)

何ら血の繋がりを持たない義理の関係とはいえ、「法としての言語体系における《息子》の抹殺」=「美少年との性行為の成就」という等価性。もはや天才的着眼と言える。確かに性愛において顕著に見られる傾向なのだが、性愛の範疇であろうとなかろうと、妄想が病的な次元へ突入するのはどのようにしてか。例えば木村敏は、インゲニウム(超越論的構想力)とトピカ(=トポス=位相)という用語が現代精神医学で果たしている構造について述べる。ただしあくまで、批判的に、である。その理解のために、ただ単なる被害妄想ではなく病的(精神障害領域の)妄想におけるインゲニウム(超越論的構想力)とトピカ(=トポス=位相)との関連について述べておかなくてはならない。まずカントのいう超越論的構想力について。ただ、「構想力」といっても、想像力を駆使して創意工夫が開始される前の、アプリオリな直感的認識状態が前提となる。

「形象的綜合は、統覚の根源的-統合的統一にのみ、即ちカテゴリーにおいて思惟せられる先験的統一にのみ関係する場合には、純粋に知性的な綜合から区別せられて《構想力の先験的綜合》と呼ばれねばならない。《構想力》とは、対象が《現在して》〔現に存在して〕《いなくても》この対象を直観において〔即ち直観的に〕表象する能力である。ところで我々の直観はすべて感性的直観であるから、構想力は《感性》に属する、その理由は感性こそ悟性概念に、これに対応するような直観を与え得るための唯一の主観的条件だからである。しかしまた構想力による綜合は、自発性のはたらきである、この自発性は、規定するものであって、感官のように単に規定せられるのではない。つまり構想力の綜合は、感官をその形式に関して、統覚の統一に従ってア・プリオリに規定することができる。それだから構想力はその限りにおいて、感性をア・プリオリに規定する能力である。構想力が《カテゴリーに従って》直観〔における多様なもの〕を結合するところの綜合は、《構想力》の先験的綜合でなければならない。これは感性に及ぼす悟性の作用であり、また我々に可能な直観の対象に対する悟性の最初の(同時にまた他の一切の適用の根拠であるところの)適用である。構想力のかかる綜合は形象的であって、知性的綜合(構想力をまったく援用せずに、悟性のみによるところの)から区別せられる。構想力が自発的である限り、私はかかる構想力を《産出的》構想力と名づけて、《再生的》構想力から区別する。再生的構想力による綜合は、経験的法則即ち連想の法則のみに従うものである」(カント「純粋理性批判・上・第一部・第一篇・第二章・P.193~194」岩波文庫)

次にトピカ(=トポス=位相)について、アリストテレスによる定義を前提として。

「(1)証明を手段とする説得推論の一つの論点は、相反するものに基づいてなされる。
(2)同根の屈折語に基づくもの。
(3)相関関係に基づくもの。
(4)『より多い、より少ない』の比較に基づくもの。
(5)『時』を考慮に入れること。
(6)自分に対して言われた言葉を、言った者に向け返すことによる。
(7)例えば『ダイモン(心霊)的なものとは何であるか』というような、定義に基づくもの。
(8)語の持つ多義性に基づくもの。
(9)分割によって論ずるもの。
(10)帰納に基づくもの。
(11)当面のものと同じ問題、もしくは同類の、もしくは反対の問題について、すでに下された判断をもとにするもの。
(12)部分に基づいて全体を論ずるもの。
(13)ほとんどの場合、同じ一つのことによい結果と悪い結果の二つがつき随うことになるのであるから、一つの論点は、その結果に基づいて、勧めるか、それとも思い止まらせるか、告発するか弁明するか、称賛するか非難するか、するもの。
(14)二つの対立していることについて勧めるか、思い止まらせるかしなければならない場合で、しかも、それら二つのことについて先に挙げられた論点。
(13)を援用しなければならないような場合に用いられるもの。
(15)人々は、何かを賞めるのでも、人前でする場合と心中ひそかに賞める場合とでは、その内容が同じではなく、人前ではもっぱら正しいこと、美しいことを賞め讃えていても、一方、心中では利益のあるもののほうをむしろ望むのであるから、一つの論点は、これら二つの場合のうちいずれか一方の立場に立って、相手が言っているのとは別の結果を導くよう試みることである。なぜなら、この論点は、逆説を導く議論の中でも最も効果的なものであるから。
(16)結論が比例関係によって導かれることによる。
(17)結果が同じであるなら、それを導く前提となるものも同じである、と論ずることによる。
(18)同一人でも、前と後では、必ずしも同じものを選ぶとは限らない、むしろ前と逆の選択をする、という事実に基づくもの。
(19)何かがある、もしくは生じたのはそのためかも知れない、という可能的な動機を、そのもののあること、もしくは生じたことの実際の動機であると主張すること。
(20)係争当事者にも議会で助言する者たちにも共通なものであって、何ごとかを勧めたり思い止まらせたりする動機とか、行為に進んだり行為を避けたりする意図などを、調べること。
(21)生ずると一般に思われてはいるが、それ自体は信じられないことをもとにするもので、『それが実際にあったとか、ほとんどあったに等しい、というのでなかったなら、生ずると思うこともなかったはずだ』と論ずるもの。そして、『ますますもって、そのはずである。なぜなら、人々がそれのあることを確信するのは、現実にあることか、またはありそうなことか、そのいずれかであるから。それゆえ、もし問題のものが信じられないもの、つまりありそうなものではない、ということであるなら、それは現実にあるものということになるであろう。というのは、それが生ずると思われているのは、少なくとも、ありそうである、つまり信じられているという理由によるのではないのだから』と論ずる。
(22)反論に適したもので、時・行動・発言などのすべてにおいて、どこか整合性を欠くところがないかどうか、相手の言い分の不整合な点を調べ出すもの。
(23)人間でも行動でも、先入見をもって見られているか、または他人にそう思われているもののために、その誤解の原因を挙げるもの。
(24)原因から結果を推論するもの。
(25)現在人に勧めていること、もしくは現に行動に移していること、もしくはもう行なってしまったことが、それとは別の方法をとったらもっとよく行なうことができたかどうか、或いは、できるかどうか、を調べるもの。
(26)これまでなされてきたことと反対のことがなされようとしている時に、その両方を一緒に調べてみる、というもの。
(27)告発したり弁明したりする際に、自分の犯した過ちを手がかりに論ずるもの。
(28)名前をもとにして論ずるもの」(アリストテレス「弁論術・第二巻・第二十三章・P.265~285」岩波文庫)

最後の項目にある「名前をもとに」というのはギリシア悲劇にある次のようなケース。

「ヘカベ 人間の仕出かすあらゆる愚かな行いが、すなわち、これアプロディテ、女神の名が『阿呆』で始まっているのも当然ではないか」(エウリピデス「トロイアの女」『ギリシア悲劇3・P.687」ちくま文庫)

さて、ではなぜトピカ(位相)とインゲニウム(超越論的構想力)なのか。

「なぜこのようなトピカの異常、インゲニウムの異常が起こったのだろう。自然科学的な精神科医なら、それは神経系のニューロンとニューロンの接合部位(シナプス)でドパミンと呼ばれる伝達物質が移動する際に、その受容装置(レセプター)に機能異常があるためだ、という説明をするだろう。それはけっして間違ってはいない。実際、私たち精神科医が妄想をもった患者を治療するときにいつも使う薬剤は、このドパミン・レセプターに対して作用することが確かめられている。しかしこのドパミン・レセプターの変化は、トピカの異常と同時に起こるものではあっても、その原因ではない。トピカの異常がどうして起こったのかという問いはそのまま、ドパミン・レセプターの変化はどうして起こったのかという問いでもある。そしてその答えは、そうしなければ患者は生きて行きにくいのだ、ということに尽きる。患者は、通常の人と同じ意味で現実を捉え、通常の人と同じインゲニウムでもって周囲の事物を感じ取っていたのでは生きて行きにくいのである。これから述べることを先取りして言ってしまえば、それでは患者の『自己』が、患者の『主体性』が保てないのである。だから患者は普通の人と違ったしかたで現実を捉えなくてはならなかった。そして、人間という生物には、普通と違ったしかたで現実を捉えるための『生体機能』があらかじめ準備されていた。通常ははたらかないこの機能が作動を開始すると、それを身体的にみればドパミン・レセプターの変化ということになり、精神的にみればトピカの変化ということになるだけの話である」(木村敏「心を病むとはどういうことか」『心の病理を考える・P.21~22』岩波新書)

現代精神医学では、なるほどこのように説明することは幾らでもできる。しかし木村敏が言いたいのは、説明することはできても、あるいはそのような科学的分析は幾らでも可能になっていくだろうけれども、なおしかし説明はあいかわらず説明の次元にとどまるほかないし、その限りでいえばともすれば精神科医の側が脳科学や薬物治療のみに依存してしまう恐れがある、という指摘である。ニーチェがいっているように、科学は、説明するだけなら幾らでもしてくれる。けれども、ただひたすら説明するばかりであって今そこにある危機を解消することはできないと。臨床現場でも薬物治療はたいへん有効だ。けれども、それが目指しているのはあくまで症状の緩和であり症状の完全消失ではないからである。この意味の射程は何も精神医療の領域のみに限らない。むしろすべての医学にあてはまる。

そこで死と再生のテーマ系に遡行しなくてはならない。といっても神秘主義ではなく、今なお持ち越されている死と再生のテーマ系。現代医学の時代になってもはや二百年が過ぎた。にもかかわらずなぜ引き続き死と再生のテーマ系は何度も執拗に、病的なまでに繰り返し反復されるのか。古代ギリシア=ローマは人間の身体についてすでに多くを知っていた。

例えばディオゲネスの場合。

「神殿から何かを持ち去るとか、あるいは、ある種の動物の肉を味わうとかすることは、少しも異様なことではないし、さらに、人肉を食べることさえも、異国の風習から明らかなように、不敬なことではないとした。ーーー正しい言い方をすれば、あらゆるものがあらゆるもののなかに含まれ、あらゆるものを貫いて行きわたっているのだと彼は言っていた。すなわち、(身体の構成要素である)肉(の一部)はパンの中にも含まれているし、パン(の一部)はまた野菜のなかに含まれているのである。というのは、その他の物質についても、そのいたるところにおいて、目に見えぬ孔を通して、微粒子が中へ入ったり、また蒸気となって外へ出たりしているからである、と」(「ディオゲネス」『ギリシア哲学者列伝・中・第六巻・第二章・P.170~171』岩波文庫)

さらにマルクス・アウレーリウスはいう。

「地上においてはこれらの身体がしばらく土の中に滞在した後、変化し分解して他の死体に場所をあける」(マルクス・アウレーリウス「自省録・第四章・二一・P.49」岩波文庫)

そしてまた先史時代。伝説の次元においてすら、ヘルマフロディーテ(両性具有者)に関し、プルタルコスはアピスを例に上げて「月」と関係づけていたことはすでに述べた。

「アピスというのはオシリスの像に生命が吹き込まれたものだとされています。生成力の光が月から発して、発情期の牛に触れるとアピスが生まれるのだというのです。ですからアピスは、その明るい面が次第にかげって陰になるというように、いろいろの面で月の満ちかけに似ているわけです。さらに、パメノトの月の朔日(ついたち)には『オシリスの月詣で』という祭が催されますが、これは春の到来を告げるものです。このようにオシリスの力は月に帰せられているのですが、人々はこれをイシス(彼女は生殖の力です)とオシリスが交わっていると申します。ですから月は世界を生んだ母と言われ、かつ男女両性の具有者だと信じられています」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・四三・P.82~83」岩波文庫)

一方ヘロドトスは、アピスに関し、「月」ではなく「太陽」の光だとしている。なおかつ「牛」と関係が深い。

「アピス、またの名エパポスというのは、一度出産した後は再び受胎することができぬ牝牛から生れた仔牛のことで、エジプト人の言い伝えでは天上から光がこの牝牛に降り、牛はこの光によって受胎してアピスを産むのだという」(ヘロドトス「歴史・上・巻三・二八・P.345」岩波文庫)

さらに重要なのは次の箇所。「聖牛アピス」の出現と同時になぜか、軍隊の上官の命令が一時的に失効する。怒気を含んだ上官の言うことにまったく耳を貸さない人々(役人さえも含めて)の同時多発的出現。

「カンビュセスがメンピスに着いた頃、エジプトに聖牛アピスが出現した。ギリシア人がエパポスと呼んでいるものである。アピスが出現すると、エジプト人は早速一張羅の衣裳をつけて祝宴を催した。エジプト人のこの行動を見たカンビュセスは、てっきり自分の失敗を喜び祝っているものと邪推し、メンピスの役人たちを呼びよせた。役人たちが出頭すると王は、先に自分がメンピスにいた時には何もしなかったエジプト人が、部下の将兵多数を失って再びメンピスにもどってきた今、かようなことをするのはなぜかと訊ねた。役人は答えて、きわめて永い間隔をおいてしか出現しない神が現われたこと、この神が現われる時は、エジプトの全国民が歓喜して祝うのであることを説明した」(ヘロドトス「歴史・上・巻三・二八・P.344~345」岩波文庫)

この爆発的「歓喜」。ニーチェはいう。

「ディオニュソス的なるものの魔力の下(もと)においては、単に人間と人間との間の紐帯(ちゅうたい)が再び結び合わされるだけではない。疎外され、敵視されるか、あるいは抑圧された自然が、彼女のもとを逃げ去った蕩児(とうじ)人間との和解の祝祭を、再び寿(ことほ)ぐのである。大地も、みずから進んでその貢物(みつぎもの)を捧げ、岩山や荒野の猛獣も、来たって歓を交(かわ)すのである。ディオニュソスの車駕(しゃが)は、花や花輪で埋もれ、その軛(くびき)に伏して豹や虎も歩むのだ。ベートーベンの『歓喜』の頌歌(しょうか)を一幅の画と化せしめよ、そして幾百万の人間が怖れ戦(おのの)きて大地にひれふすとき、ひるむことなく空想の翼を羽撃(はばた)かせよ、しからば、ディオニュソス的なるものに近づき得るのである。今や奴隷は自由民となった、困迫、恣意、あるいは『厚顔な流行』が人間の間に厳然と打ち建てた一切の頑迷にして敵意に満ちた境界は、今や砕け去る。今や世界調和の福音に接し、人は各々(おのおの)、その隣人と結合し和解し同化せることを感ずるのみならず、また一体たることを感ずる、あたかもマーヤの綾羅が引き裂かれ、今はもはや襤褸(らんる)となって神秘に満ちた根源的一者の前に翻るにすぎざるのごとくである。歌いつつ、踊りつつ人間はより高い共同体の一員として現われる。彼は歩むこと、語ることを忘れ果て、踊りつつ虚空に舞い上らんとしつつある」(ニーチェ「悲劇の誕生・P.36~37」ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーは当事者だった。

「何を思って、彼は泣いたのだろう?そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥じなかった》のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた」(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟・中・第三部・第七編・P.187」新潮文庫)

「ある数秒間がある、ーーーそれは一度にせいぜい五秒か六秒しかつづかないが、そのときだしぬけに、完全に自分のものとなった永久調和の訪れが実感されるんだよ。これは地上のものじゃない。といって、なにも天上のものだと言うのじゃなくて、地上の姿のままの人間には耐えきれないという意味なんだ。肉体的に変化するか、でなければ死んでしまうしかない。これは明晰(めいせき)で、争う余地のない感覚なんだ。ふいに全自然界が実感されて、思わず、『しかし、そは正し』と口をついて出てくる。神は、天地の創造にあたって、その創造の一日が終るごとに、『しかり、そは善(よ)し』と言った。これはーーー感激というのではなくて、なんというか、おのずからなる喜びなんだね。人は何を赦すこともしない、というのはもう赦すべきものが何もないからだ。人は愛するのでもない、おおーーーそれはもう愛以上だ!何より恐ろしいのは、それがすさまじいばかり明晰で、すばらしい喜びであることなんだ。もし五秒以上もつづいたらーーー魂がもちきれなくて、消滅しなければならないだろう。この五秒間にぼくは一つの生を生きるんだ。この五秒間のためになら、ぼくは全人生を投げ出しても惜しくはない、それだけの値打ちがあるんだよ。十秒間もちこたえるためには、肉体的な変化が必要だ」(ドストエフスキー「悪霊・下・第三部・第五章・5・P.395」新潮文庫)

「彼はさまざまな物思いにふけるうちに、こんなことを考えてみたのであった。すなわち、自分の癲癇(てんかん)に近い精神状態には一つの段階があり(もっとも、それは意識のさめているときに発作がおこった場合にかぎっていたが)、それは発作のほとんど直前で、憂鬱と精神的暗黒と胸苦(むなぐる)しさの最中に、ふいに脳髄がぱっと炎でも上げるように燃えあがり、ありとあらゆる彼の生活力が一時にものすごい勢いで緊張するのである。自分が生きているという感覚や自意識が稲妻のように一瞬間だけ、ほとんど十倍にも増大するのだ。その間、知恵と感情はこの世のものとも思えぬ光によって照らしだされ、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、まるで一時にしずまったようになり、調和にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な境地へ、解放されてしまうのだ。しかし、この数秒は、この光輝は、発作がはじまる最後の一秒(決して一秒より長くない)の予感にすぎず、この一秒は、むろん、耐えがたいものであった。彼は健康な状態に戻ってから、この一瞬のことをいろいろと考えてみて、よくひとり言を言うのであった。この尊い自覚と自意識の、つまり、《至高の実在》の稲妻とひらめきは、要するに一種の病気であり、正常な状態の破壊にすぎないのではなかろうか。もしそうであるならば、これは決して至高な実在どころではなく、かえって最も低劣なものに数えられるべきものではなかろうか。彼はそう考えながらも、やはり最後には、きわめて逆説的な結論に到達したのであった。《これが病気だとしても、それがどうしたというのだ?》とうとう彼はこんなふうに断定した。《もしこれが異常な精神の緊張であろうとも、それがいったいどうしたというのだ?もし結果そのものが、健全なときに思いだされ、仔細(しさい)に点検してみても、その感覚の一瞬が依然として至高の調和であり、美であることが判明し、しかもいままで耳にすることも想像することもなかったような充実、リズム、融和、および最高の生の総合の高められた祈りの気持に似た法悦を与えてくれるならば、そんなことは問題外である!》この漠然(ばくぜん)とした表現は、まだあまりにも弱いものであったが、彼自身にはまったく明らかなものに思われた。いずれにしても、それが真に《美であり祈りである》ことを、また《至高なる生の総合》であるということについては、彼もまったく疑うことができなかった」(ドストエフスキー「白痴・上・第二編・P.419~420」新潮文庫)

ルソーもまた。

「しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じさせないのである。ーーーそのような境地にある人はいったいなにを楽しむのか?それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある」(ルソー「孤独な散歩者の夢想・第五の散歩・P.87~88」岩波文庫)

南方熊楠もてんかん発作を起こしたことがある。そして熊楠の感心は二つの方向を示している。第一にヘルマフロディーテ(両性具有)。生と性の哲学。

「西暦一世紀には、半男女を、尤物(ゆうぶつ)の頂上として求め愛した。男女両相の最美な所を合成して作り上げた半男半女の像にその頃の名作多く(一七七二年版ド・ポウの『亜米利加人の研究』百二頁)、ローマ帝国を、始終して性欲上の望みを満たさんため、最高価で贖(あがな)われたは、美女でも姣童(わかしゅ)でもなくて、実に艶容無双の半男女だったと記憶する」(南方熊楠「十二支考・上・馬に関する民俗と伝説・P.374~375」岩波文庫)

第二に粘菌(陰花植物)研究。フーコーの言葉を借りればサディズムとしての粘菌。

「獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによって始めて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれの死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえないということそれこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強府会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」(フーコー「言葉と物・第八章・P.298」新潮社)

しかしもっと驚くべきは、驢馬のルキウスが語るところによると、地中海諸都市では今から一九〇〇年ほども前すでに、例の後妻の諸行為をめぐって裁判が開かれ、法廷があり、町会議員らが召集されているということでなくてはならない。

BGM


仮面等価性14−2・パルマコン(医薬/毒薬)としての神々

2020年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
なお熊楠が生きていた時代には発見されていなかった資料が戦後、大量に発掘され、新しい調査技術も発明され、塗り替えられてきた歴史がある。次の文章の「松陰嚢(まつふぐり)」は松の実のことで一目瞭然、男性器の睾丸の隠喩であり、異性愛者だけでなく特に男性同性愛者のあいだで長く鍾愛されてきた。日本では古代の桓武天皇の劇的権力にあやかってか、平安遷都の際に立ち寄ったとされる京都近郊に、その男根信仰を愛でて先に述べた「摩醯首羅」(まけいしゅら)を本尊とする寺院がある。鉄道敷設に伴って現在地は変わってしまったが。京都の場合、市内というより、平安京近郊、周囲の境界領域にあたる相楽郡精華町、向日市、長岡京市、丹波、但馬、兵庫県西宮市、大阪府島本町、若狭湾沿岸、近江一帯、奈良県山間部、伊賀上野周辺、熊野一帯などに面白いものが見られる。また「キベレの祭式」についても基本的に変わったわけではない。だが「『聖書』に著名なバール神」という箇所は随分変わったと言わねばならない。

「日本でも松実を松陰嚢(まつふぐり)と称え、『後撰夷曲集』九に、『唐崎の松のふぐりは古への愛護の若の物かあらぬか』正盛、と出づ。愛護の若は継母に讒せられて死んだ美童で、『土俗と伝説』に折口君の委(くわ)しい考察があった。『聖書』に著名なバール神は、大陰相を像としてとも半男女を像としたともいい、その神官は女粧し全く毛を抜いた美男で、みずから参詣人に売淫しまた犬をも同じ道に使い、その揚銭(あげせん)を神に奉った。これは宦者でなかったらしいが、深夜林下に祭礼を行なうとて酒を被って奏楽中に切り合い流血裏に昏倒してとあるは、上述キベレの祭式に似ておる(ジェフール『売靨(ばいよう)史』巻一、頁七十二)」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.277~278』河出文庫)

熊楠が上げている「聖書」は旧約聖書の幾つかの箇所を指して言われている。おそらくウガリット文書の研究がままならなかった時期に死んでしまったため、多くは旧約聖書の記述に目を奪われてしまったのだろう。ところが。

「一九二九年以来、多くの神話テクストがシリア北部地中海沿岸の港町、古代のウガリットであったラス・シャラムでの発掘で、陽の目をみた。それらは前十四~十二世紀に書かれたが、それ以前の神話-宗教思想を含んでいる。ーーー断片的状態にもかかわらず、ウガリット文書は量り知れない価値をもっている。しかし、《ウガリットの宗教は、けっしてカナン全体の宗教ではなかった》という事実を記憶しておく必要がある。ウガリットの文献がとりわけ興味深いのは、それらがある宗教的イデオロギーから、別のイデオロギーへの移行の諸段階を描いているという事実のためである」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.220~221」ちくま学芸文庫)

熊楠が関心を抱いたのは次のような部分に違いない。

「神官はヘブライ語の神官と同じ名称で呼ばれる。男性神官とともに女性神官や『聖別された人』が言及されている(聖書ではこの語は聖娼を指すが、ウガリット語テクストには、それに似たものがまったくない)。最後に、神託を伝える神官や予言者があげられている。神殿には祭壇が設けられ、神像や神の象徴で飾られていた。儀礼には血を流す供儀のほかに、踊りや多くのオルギー的所作が含まれていた」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.232」ちくま学芸文庫)

エリアーデは「儀礼には血を流す供儀のほかに、踊りや多くのオルギー的所作が含まれていた」と紹介している。ヘロドトスはエジプトとギリシアとを比較してこう書いた。

「エジプトでは一般に豚を神に生贄として捧げることは禁じているが、ただセレネ(月の神)とディオニュソスだけには同じ時、すなわち同じ満月の日に豚を犠牲にしてその肉を食べる。エジプト人は他の祭礼では豚を忌むのに、なぜこの祭だけは豚を犠牲に供えるのかということについては、エジプト人の間に伝承がある。ーーーセレネに豚を犠牲にする儀式は次のように行なわれる。豚を屠ると、その尾の端と脾臓と大網膜(内臓を含む膜)とを集め、その豚の腹の周りの脂肪を全部使ってそれらを包み、火で焼くのである。残りの肉は犠牲の行なわれる満月の日に食べるが、日が変るともはや口にしない。貧民は乏しい家計がそれを許さないので、粉を捏(こ)ねて豚の形に作り、これを炙(あぶ)って神に供えるのである。ディオニュソスには、その祭の前夜、エジプト人はそれぞれ家の前で仔豚を屠ってささげ、その仔豚はそれを売った豚飼に持ち帰らせる。それ以外の点では、エジプトのディオニュソス祭はギリシアとほとんど全く同様に行なわれるが、ただギリシアのような歌舞の催し物はない。エジプト人は男根像(バロス)の代りに別のものを考案しているが、これは長さ一キュペスほどの糸で繰る像で、これを女たちがかついでを廻るのであるが、動体と余り変らぬほどの長さの男根が動く仕掛になっている。そして笛を先頭に、女たちはディオニュソスの讃歌を歌いつつその後に従うのである。像がそのように異常な大きさの男根を具え、また体のその部分だけが動く由来については、聖説話が伝えられている」(ヘロドトス「歴史・上・巻二・四七~四八・P.222~223」岩波文庫)

バアル神とエル神との関係。そもそもバアルはエルの息子だ。そしてウガリット文書の記述は他の民族創生神話の典型的パターンと極めて類似した構造を持つ。

「エルはその形容辞によって力ある神、真の『地上の主』と称えられ、供犠を捧げるべき神として真っ先にあげられているにももかかわらず、神話のなかでは肉体的に弱く、決断力に欠け、老化し、引退している神として現われる。エルを軽蔑する神もいる。ついには、彼の妻であるアシュラトとアナトは、バアルに奪われてしまう。したがって、エルへの賛辞は、エルが事実の上でもパンテオンの主であった昔の状況を反映している、と結論しなければならない。宇宙を創造し、主宰する年老いた神が、より活動的で宇宙の豊饒を『専門的に』司る若い神にとって代わられることは、よくみられる現象である。創造神が『ひまな神』(デウス・オティオースス)になり、自己の創造物からしだいに遠ざかってゆくことがしばしば起こる。ときに、この交代が神々の世代間、ないしはその代表者のあいだの闘いの結果である」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.221~222」ちくま学芸文庫)

次にエリアーデは諸説を網羅している。諸神の両義性についても注目。

「バアルはエルの息子(エルは諸神の父であったので)とされながら、『ダガーンの息子』とよばれる唯一の神である。ダガーンという名は『穀物』を意味するが、前三千年紀にユーフラテス川上・中流地帯で崇拝されていた。しかし、バアルが主役を演じるウガリット神話のテクストのなかでは、ダガーンはなんの役割も演じていない。普通名詞『バアル』(『主人』)は彼の個人名となった。バアルにはまた、ハッドゥ、すなわちハダドという固有名もある。彼は『雲に乗る者』、『大地の主、王子』とよばれる。彼の形容辞のひとつは『有力者』、『主君』を意味するアリャーンである。彼は豊饒の源泉にして原理であるが、戦士でもある。これは彼の妹で妻でもあるアナトが、愛の女神であると同時に戦いの女神でもあるのと同じである。その他の最も重要な神話の主役は、『海の王子、川の摂政』ヤムと、至高権力を若い神と争う『死神』モートである。実際、ウガリット神話の大部分はエルとバアルの争い、およびバアルが主権を主張、保持するための、ヤムやモートとの戦いにあてられている」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.222」ちくま学芸文庫)

さらにウガリット文書は散逸している部分が非常に多い上に歴史以前的世界についての記述として考えられる文書である。だがむしろそのために他の民族創世神話と比較することで、散逸した部分を再構成する作業は逆に容易になる場合がある。次のように。

「ヤムは、『神』であるとともに『悪魔』でもある者として描かれている。彼は『エルに愛された』息子で、パンテオンの他の神々と同様に、神として供儀を受ける。他方、彼は水生の怪物、七つの頭をもつ竜、『海の王子』、地下水の原理と顕われ(エピファニー)でもある。戦いの神話的意味は幾重にも重なっている。第一に、農耕的季節的比喩のレベルにおいては、バアルの勝利は、『海』や地下水に対する『雨』の勝利を意味するーーー宇宙の秩序をあらわす雨のリズムは、『海』の混沌として不毛な広大さと、破局的洪水にとって代わる。バアルの勝利によって、四季の秩序と安定への信頼が獲得されたのである。第二、海竜との戦いは、若い神が諸神のチャンピオンとして、パンテオンの神王として台頭するさまを描く。最後に、このエピソードには父神(エル)を去勢して王位から追い出した簒奪者に対する、長子(ヤム)の復讐が読みとれる。このような争いは範例的である。すなわち、何回でも反復されるものである。まさにそれゆえに、ヤムはバアルに『殺される』にもかかわらず、テクストにまた現われるのである」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.224~225」ちくま学芸文庫)

神々による殺戮行為と再生の反復。アルカイックな信仰のほとんどは死と再生の儀式を反復する点で共通している。そして何度も繰り返される反復のために、そのたびごとに、スケープゴートの必要性が出てくる。

「カフカス地方東部のアルバニア人は『月』の神殿に聖なる奴隷を数多く囲い、その中の多くの者が霊感を受けて予言を行った。ひとりがいつも以上に霊感の兆しを見せ、ちょうど密林を彷徨うゴンド族の男のように、森をひとりであちこちうろつきまわると、大祭司が彼を聖なる鎖で拘束し、一年間彼に贅沢な暮らしをさせる。一年が終わると彼は軟膏を塗られ、生贄として引き出される。そして、このような人間の生贄を殺すことが仕事となっている男、経験によってこれが手馴れたものとなっている男がひとり、群衆の中から進み出て、聖なる槍で生贄の脇腹を刺し、心臓を一突きにした。殺される男の倒れ方によって、国の繁栄の吉凶を占ったのである。その後遺体はある場所に埋められ、清めの儀式としてすべての人々がその上に立った。この最後の行為は明らかに、人々の罪がこの生贄に移し替えられたことを示している」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.256~257」ちくま学芸文庫)

世界中どこでも古代人の思考はとても似ている。

「害悪の一掃が定期的に行われるようになる場合、この儀式は概して一年に一度ということになり、それが行われる時期は通常、北極帯や温帯の地域では冬の終わり、熱帯地域では雨季の始まりか終わりといった、はっきりとした季節の変わり目になる。こういった天候の変化は、とくに食糧事情や衣料事情や住宅事情の悪い蛮族にとっては死亡率の上昇をもたらしがちであり、この事態を未開人は悪霊の仕業と考えることになる。ならば悪霊こそ追い払うべきものである。そこでニューブリテン島やペルーでは、悪魔は雨季に始まり追い出される。あるいはかつてはそうであった」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257~258」ちくま学芸文庫)

さらに、「祭祀の時期」=「全住民の放埒三昧の期間」と言える。

「公的・定期的悪魔祓いは、一般に全住民の放埒三昧の期間に、先行もしくは後続する」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.258」ちくま学芸文庫)

その意味で、ユダヤ=キリスト教がヨーロッパを制覇するまでは、ディオニュソスはどこにでもいたと言うことも不可能ではない。

「召使い女たちも、女主人も仕事をやめて、鹿皮の衣に身をつつみ、髪のリボンを解いて、頭に花冠をいただき、手には葉のついた常春藤(きづた)の杖をとるようにーーーそういう命令だった。もし、神をないがしろにしたばあい、神の怒りははげしいであろうとも予言した。女たちは、老若(ろうにゃく)をとわず、これに従った。機(はた)を離れ、羊毛籠を捨て、割り当てられた仕事を中止するのだ。香を献(ささ)げて、神のみ名を唱(とな)える。バッコスとも、『鳴る神』(プロミオス)とも呼べば、『解放者』(ヘリユアイオス)とも呼ぶ。『雷電のおん子』『二度出生のきみ』『ふたりの母のおん子』ともいうし、さらには、『ニュサのおん神』『セレメの髪長きみ子』『葡萄しぼりのおん神』(レナイオス)『快き葡萄植えの神』『夜祭の神』(ニュクテリオス)などとも唱えている。『父なる神エレレウ』『イアッコス』『エウハーン』など、この神に親しい掛け声でも呼ばれるし、そのほか、ギリシアの民たちが酒神に与えている数々の呼び名があるのだ。バッコスよ、あなたは、とこしえの青春にめぐまれた永遠の少年であり、天上の神々のなかでも、ひときわ目立って美しい。牛の姿を捨てられるときは、乙女にもまごう顔立ちでいらっしゃる。『東方』も、あなたへの信仰になびき、あなたの神威は、肌黒いインドの人たちのもと、はるかなガンジスの流れのあたりにまで及んでいる。いとも畏(かしこ)い神よ、あなたは、あのペンテウスと、両刃(もろは)の斧(おの)もつリュクルゴスというふたりの瀆神(とくしん)者をいけにえとし、リュディアの船乗りたちを海へ投げこまれた。あなたは、二頭の山猫を軛(くびき)につけ、色うつくしい手綱をとって、車を走らせる。信女たちや、獣神(サテュロス)たちが、そのあとにしたがう。いささかきこしめした老シレノスは、ふらつく足を杖で支え、へこんだ驢馬(ろば)の背にやっとこさしがみついている。どこへいらっしゃっても、若々しい声と、女たちの声がどよめく。打ち鳴らされる太鼓、シンバル、細長い黄楊(つげ)笛がひびく。『寛大なみ心と、お情をもって、どうかわたしどものもとへお出でのほどを!』テーバイの女たちはこう願って、命じられた祭をとり行なう」(オウィディウス「変身物語・上・巻四・P.137~138」岩波文庫)

犠牲者や犠牲獣は始めのうちは人間だった。祝祭の時期、祝祭はスケープゴートを要求する。いつもの秩序はいったん解体されなくてはならない。また、共同体の文化的発展の度合いの高度化に伴って、生(なま)の人間をスケープゴートとすることに躊躇を覚えるようになってくる。それでもなお人間を生贄にしなくてはならないような場合、スケープゴートは死刑囚の中から選ばれる傾向が出てきた。なぜなら死刑囚は、その力の「過剰-逸脱」において、共同体全体の債務を一挙に背負って償却してくれそうに見えるからである。

「なぜ人々の罪や悲しみをその身に引き受ける者として死にゆく神が選ばれねばならなかったか、という疑問については、スケープゴートとして聖性を用いる慣習において、かつて明確に別個のものとしてあった二つの風習が、結びついてしまったという可能性を考えることができる。一方では、すでに見たように、人間もしくは動物の神を殺すという風習は、その聖なる命を年齢ゆえの衰弱から救うことが目的であった。一方で、これもすでに見たように、一年に一度罪や害悪を全面的に追放するという風習があった。そして、人々がたまたまこの二つの風習を結びつけてしまうと、死にゆく神をスケープゴートとして雇うという結果になる。これが殺されるのは、元来は罪を拭い去るためではなく、老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならないのだから、人々はこの機会に、罪や苦しみという自分たちの重荷を、いっそ彼に背負わせてしまおうと考えたのかもしれない。この男ならば、墓場を越えた見知らぬ世界まで、その重荷を運んで行ってくれそうだからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.260」ちくま学芸文庫)

神々やその代理がスケープゴートになることもある。「老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならない」。バアル神の場合、祭礼の際、老いた父(エル)は去勢され、その妻はバアルに奪われ、さらにバアルは妹とも結婚し、神々の世界の若返りを果たさなければならない。

「聖なる存在をスケープゴートとして用いることは、以前述べた。『死神の追放』というヨーロッパの習俗にまつわる曖昧な部分を、消し去ってくれる。この儀式において『死神』と呼ばれるものが、本来は植物霊であったと考える根拠はすでに述べた。この植物霊は、再び若い活力を備えて蘇るようにと、毎年春に殺されたのだった。だが、すでに見たように、この仮説だけでは説明不可能なある種の特徴が、この儀式にはある。『死神』の像が運び出されて埋葬され、もしくは焼かれる際の、歓喜という特徴、そしてまたその担ぎ手たちが見せる、恐怖と憎悪という特徴である。だが、『死神』は単に植物の死にゆく神であるのみならず、同時に、過去一年の間に人々を苦しめた一切の害悪が負わせられる、公共のスケープゴートでもある、と考えれば、これらの特徴は即座に理解可能なものとなる。このような機会に歓喜が伴うのはもっともなことである。そして、死にゆく神が恐怖と憎悪の対象であるように見えたとしても、それは正確には神に対するものではなく、神が負わされている罪と不幸に対するものであって、その恐怖と憎悪は単に、荷を追う者とその荷を区別することが難しい、あるいは少なくとも、両者の違いをはっきりと目にすることが難しい、という原因によるものである。重荷が不吉な性格のものであれば、その担ぎ手は、それら危険物の特性をわが身に染み込ませているぶんだけ、恐れられ、また遠ざけられる。彼はたまたまその媒体となったに過ぎない。ーーーまた、これらの風習において、『死神』が聖なる植物霊を表すのみならずスケープゴートでもあるという見解は、この追放がつねに春に行われ、それもおもにスラヴ民族によって行われるという事実からも裏付けられる。スラヴの一年は春に始まるからである」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.261~262」ちくま学芸文庫)

カナンの地のバアル信仰の時代、古代人の思考はギリシア、エジプト、ペルシャ、アジアなどと余り変わらない。ヘルマフロディーテ(両性具有者)のテーマが見られる。

「竜退治を祝うために、アナトはバアルを讃える晩餐会を催す。このあと女神は王宮の戸を閉め、殺したいという発作に襲われて、守衛、兵士、老人を殺害しはじめる。腰にも届く血の海の中で、被害者の頭や手を自分の腰のまわりに着ける。このエピソードは意味深長である。似たものは、エジプトやインドの女神ドゥルガーの神話や図像に見いだされる。殺戮と食肉はアルカイックな豊饒の女神の特性である。この視点よりすれば、アナト神話は地中海東部からガンジス川流域にひろがる。古代農耕文明に共通した要素に分類される。他のエピソードでは、アナトは自分の父エルに、彼の髪やひげを血で塗りたくるとおどす(オルデンブルク『アナト・テクストⅤ』二十六頁)。アナトがバアルの屍体を見つけると、彼女は彼の死を嘆きはじめたが、そのとき『ナイフを用いずに彼の肉を食べ、杯なしに彼の血を飲んだ』。アナトがーーーほかの愛と戦いの女神と同様にーーー男性的属性を具え、したがって両性具有だと考えられたのは、この野蛮で血なまぐさい行為のためである」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.225~226」ちくま学芸文庫)

両性具有についてプルタルコスは、アピスを例に上げ、こう述べている。

「アピスというのはオシリスの像に生命が吹き込まれたものだとされています。生成力の光が月から発して、発情期の牛に触れるとアピスが生まれるのだというのです。ですからアピスは、その明るい面が次第にかげって陰になるというように、いろいろの面で月の満ちかけに似ているわけです。さらに、パメノトの月の朔日(ついたち)には『オシリスの月詣で』という祭が催されますが、これは春の到来を告げるものです。このようにオシリスの力は月に帰せられているのですが、人々はこれをイシス(彼女は生殖の力です)とオシリスが交わっていると申します。ですから月は世界を生んだ母と言われ、かつ男女両性の具有者だと信じられています」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・四三・P.82~83」岩波文庫)

ウガリット文書にも漏れなく「冥府降り」のエピソードがある。

「ウガリット神話の面白さは、嵐と豊饒の若い神で、諸神の首位に立ったばかりのバアルが冥界に降り、タンズムや他の農耕神同様死ぬという事実にある。ーーーこの《冥界下降》には、バアルに相補いあう多様な威光を与えようとする意図が察知される」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.228~229」ちくま学芸文庫)

バアルの冥府降りはオデュッセウスの冥府降りと同じくイニシエーションの一つと考えられるが、この儀式を通過することで、バアルに「相補いあう多様な威光を与えようとする意図」があるとエリアーデはいう。「相補いあう多様な威光」とは何か。おそらく死と再生ばかりでなく、ヘルマフロディーテ(両性具有)、あるいはもっと多様で宇宙論的な生の顕われでなくてはならないだろう。

「ギリシアのティタネスの伝説や夜祭の行事は、オシリスの切断、よみがえり、生まれ変わりの話と一致しております(ゼウスは女神ペルセポネと交わってザグレウス=ディオニュソスを生んだが、ティタネスらが彼を八つ裂きにして食う。ゼウスが怒ってティタネスを焼き殺すと、その灰から人間が生まれた。一方ゼウスはザグレウスの心臓を呑み込み、セメレと交わって、あらためてディオニュソスを生んだ)」(プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について・三五・P.69・訳注P.174~175」岩波文庫)

しかし諸神の信仰というものはすべて同一というわけにはいかない。それぞれに多様な個別性あるいは差異を同時に併せ持つ。地中海沿岸のリゾーム化とともに、また別の仕方で発展していくスラヴやアジアという世界とともに、イスラエル人はイスラエル人のための宗教を本格的かつ実用的なものへと練り上げていくことになる。

「このような宗教的ヴィジョンは、カナンのみにかぎられていたわけではない。しかし、その重要性と意義は、イスラエル人がカナンに侵入したときに、このタイプの宇宙的聖性に直面したという事実によって増大した。カナンの宗教性はオルギーの過剰にもかかわらず、崇高さを失わなかった複合的な儀礼活動を生んだのである。生命の聖性に対する信仰はイスラエル人も抱いていたので、最初から問題が生じた。すなわち、カナンの宗教的イデオロギーにとり込まれずに、その信仰をどのように保てるだろうかという問題である。すでに述べたように、このイデオロギーは、生全体のシンボルである主神バアルの、断続的で循環的な存在様式を中心に据える独特な神学を前提としている」(エリアーデ「世界宗教史1・第六章・P.233」ちくま学芸文庫)

しかし神々はいつもどれも両刃の剣である。神は神自身においてパルマコン(医薬/毒薬)たる両義性を身に帯びないではいられない。

BGM