中学生の頃、漢字にいささか自信のあった吉岡乾は同級生から挑戦されたらしい。
「一番長い訓読みの漢字を知っているか?」
”政(まつりごと)”、”恣(ほしいまま)”、”慮(おもんぱか)る”など5モーラばかりなら頭に思い浮かぶ。なんとか考えついたのが”糎(センチメートル)”。7モーラ。吉岡としてはこれでどうだ!という感じ。ところが相手は不遜なにやにや笑いを浮かべつつ黒板にこう書いた。
「砅。
”石”と”水”という、どちらも小学校一年で習う凄くシンプルな構成要素でありながら、僕はそれまでにこんな字を見たことがなかった。勿論、読めもしない。
そして彼は得意げに、『モヲカカゲテミズヲワタルって読むんだぜ』と呪文のように言い放った。12モーラ。完敗だった。いや、認めたくなくて僕は放課後にこっそりと図書室に行って、彼が引いたのであろう大修館書店の『大漢和辞典』(初版)というのを引っ張り出して確認した。そこには確かに、『もをかかげてみずをわたる』という読みの漢字として、”砅”の字が収録されていた。
けれどどういう意味かイマイチ解らないが、これはこの字の読みなのだろうか。疑問が頭を擡げる。
そもそも『モ(?)を掲げて水を渡る』というのは、言ってみれば文ではないか。これは一字で読ませるとは、どういうことなのだろう」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(14)」『群像・9・P.416』講談社 二〇二四年)
字義と字訓とを混同したまま延々慣例として用い続けられた結果、事実であるかのごとく、さらには口裏合わせでもし続けてきたかのごとく定着さえするに立ち至った、まことしやかな単なる出鱈目に過ぎない。知っている知っていない以前の暇つぶしとしてはかなり悪質。暇つぶしゆえに安易に拡散するぶん、かえって危険度は高いかもしれない。
にもかかわらずとりわけTV業界はどうだろう。
「知識披露愉悦界隈(真偽は扨置き)系の空間を眺めていると、子供時分に僕に挑戦状を叩き付けた彼のような人々がわんさか大言壮語していて、実にアレである。『諸説ある』と言えばどんな出たら目を言っても構わないと思っている辺りが、TV業界と親和性が高い感じの、そういう人々だ」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(14)」『群像・9・P.417』講談社 二〇二四年)
言語学の専門家は労多くしてはなはだ地味な作業の専門家でもあり、一見華々しく映って見えていても迷惑この上ない世渡りの危険性に敏感である。
「唯でさえ文字と音(読み)とは恣意的なものであり、歴史的な蓄積しかその結び付きを保証するものはないのに、漢字は余所からの借り物である。その読みに関して何が正解で何が不正解かというのは、究極的には水掛け論である。先般、生中な知識披露で愉悦を覚える人々とTV番組制作とには親和性があると述べたのは、結局こういった一意に決まらない筈の知識を、その周辺に纏わる別の知識や思想などを全て無視して『諸説あります』という免罪符をこっそりチラつかせながら、恰もこれこそが正解であるなどとしてセンセーショナルに広報するバラエティ番組が量産されているという事実に基づいている」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(14)」『群像・9・P.417~418』講談社 二〇二四年)
そしてこういう。
「サンダースがどうだかは知る由もないが、英語以外の言語の複雑怪奇な語義を持った単語を紹介しますよという行為の背景に、英語は最もエレガントで洗練されているので語義が単純明快にして論理的であり、それ以外のこういった難解な語義の語彙を持ち合わせているような言語というのは未発達で粗野で原始的なんだぞという帝国主義的な思想が潜んでいるかも知れない。どうにも世の中には、洋の東西を問わず、言語に優劣があって、文化にも高低があって、言語体系を見るだけでそれが判定できて、自分たちは生物として他の連中よりも優れているのだと信じ切ってしまっている人が残念ながら多い。えも言わない悲しい劣等感の裏返しなのかも知れないが、それにしても迷惑なのでそういった差別意識をむやみやたらと振り撒かないで欲しいものである」(吉岡乾「ゲは言語学のゲ(14)」『群像・9・P.419』講談社 二〇二四年)
なお「言語帝国主義」という戦略については一九八〇年代ポストモダン全盛期すでに盛んに指摘されていた。吉岡乾は英語それ自体が危険だといっているわけでない。いつだったか中国語(漢字)についても「帝国言語」と書いていた。「英語か中国語か」、あるいは「英語でなければ中国語/中国語でなければ英語」というような「優生思想」が、言語そして広くは文化全体を覆い尽くす飽くなき闘争を含み込んでいく人間の抜きがたくも無粋で歴史的大量虐殺をも勃発させてきた「ルサンチマン」(劣等感)が引き起こす事態に言及している。
そこで思い浮かべざるを得ない問い。「パレスチナ戦争を止めることはできるか?」
できる人々がやらないからこんなになってしまったとは言える。