白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/代参と梛の木の葉と山人と

2020年09月30日 | 日記・エッセイ・コラム
編纂された時期やその後の編集方針の違いによって、しばしば或るエピソードの移動が起こる。岩田準一の質問に答えて熊楠はこう述べている。

「『沙石集』一巻八章、熊野詣での女、先達に口説かれ愁えしに、下女、主の女に代わりて先達に密会したる条。さて、夜、寄り会いたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといえり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.452』河出文庫)

今日そのような説話があったのかと思って見直してみると、手元の書籍では「拾遺」の系列に編入されていた。

「サテ夜(よ)ルヨリアヒタリケルニ、先達ハ、ヤガテ金ニ成ス。熊野ニハ、死ヲバ金ニナルトイヘリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・六・P.466」岩波書店)

なるほど「金に成る」と言うらしい。しかしそれが可能だったのは熊野の森が信仰対象だったからこそ成立した説話である。梛(なぎ)の木は熊野の神木とされてきた。神社合祀に伴ってそれらを伐採するということが決定された時、熊楠が猛抗議したことは十分うなづけるのである。というのも、熊野の生態系はそのような森林とそこに生息する多種多様な動植物の諸力のせめぎ合いがあって始めて維持されてきたものだからだ。熊楠はわざわざ定家の和歌を引いて、古くからの信仰に訴えようとしていたことは前に述べた。

「千早振(ちはやぶる)熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千代のためしにぞ折る」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.224」岩波文庫)

他にもある。梛に限っただけでも。

「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)

「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)のぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)

柳田國男はいう。

「一郷一邑(ゆう)の産土(うぶすな)神に至っては、土人は始めよりいささかなりともこれを侵犯せんと企つるものがなかったゆえに、ほとんと一回もその威光を試むる機会なしに今日に及んだのである。これに対する村人の感情は、恐れるというよりも懐(なつ)くという傾きが多かったために子供なども入って遊び、祭礼の時になれば、森に溢れるほど老若男女が群集したのである。しかしその森全体に至っては、風雨雷火のために自ら損傷する場合は格別、今日までいまだかつてこれを切ろうの払おうのという考えを持たずに過ぎて来たのである」(柳田國男「村民の懐しき産土神」『柳田國男全集15・P.498』ちくま文庫)

次の歌は「梁塵秘抄」に載っているもの。「切目」は「切目王子」のこと。

「熊野出(い)でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五四七・P.215」新潮社)

しかし「うはき」とは何のことだろう。「うわぎ」(上衣)あるいは「かざり」(飾り)かもしれない、と考えられている。だが「万(よろづ)の人」に妥当するものではなくとも、山人にとっては極めて重要な意味を持つものだったことは疑いがない。

「まきもくのあなしの山の山人と人も見るがに山かづらせよ」(「古今和歌集・巻第二十・一〇七六・P.252」岩波文庫)

ここでいう「あなし」は「穴師」であり記紀で「鍛冶」(かぬち)と呼ばれている鍛治職人のこと。主に鉱山を本拠とする。祭祀の日の「山かづら」がその衣装に当たると考えられる。熊野では衣装のために「梛」の木の葉が用いられたのだろう。京の賀茂祭りの両蘰(もろかづら)が「葵と桂と」であるように。折口信夫はこう述べている。

「『穴師(アナシ)の山の山人』と神楽歌にも見えた大和宮廷時代から伝承したらしい山人は、大和國の國魂であり、長尾ノ市ノ宿禰が、祭主即、上座神人に任ぜられたのであつた。此は伊勢の大神が常世の神の性格を備へて居るのに対して、山の神である穴師の神に事へた山の神人即、山人の最初の記録である」(折口信夫全集2「村々の祭り・六・海の神・山の神・P.453」中公文庫)

さらに、熊楠は「下女、主の女に代わりて先達に密会」と言っている。何気ないことのように思える。「代参」、「身代り」、は主として忙しい日常生活を送る民衆のあいだで、古代から江戸末期まで続く広く認められた風習だった。西鶴「男色大鑑」に「科負比丘尼(とがおいびくに)」が出てくる。

「左側には衣をきた科負比丘尼(とがおいびくに)〔良家ノ子女ノ科(トガ)ヲ身代リニ負ウ尼〕、右には乳母らしい人が身近く付き添い、腰元、中通り〔下女ノ腰元ノ間ノ地位〕の女までみな色めいて振舞い、つづいて駕を吊(つ)らせ、押えには五十余りの親仁と若い男一人で大脇差の格好(かっこう)は町人であると見えた」(井原西鶴「心を染めし香の図誰(ずはたれ)」『男色大鑑・P.183』角川ソフィア文庫)

近代日本の成立とともに性の幅広さ、奥行き、厚み、などは逆に限定的になる。異性愛のみが自然でありそれ以外は不自然であるという転倒が起こる。あるべき性的関係は異性愛のみであるという不自然なイデオロギーが逆に自然な形態として設定し直され、知-権力装置によって規律-訓練を通して監視下に置かれる。だがそれは圧殺されるために監視されるわけではない。逆に規律-訓練を通して監視下に置かれることで、いつも測定され、家畜化され、階層秩序化され、匿名の管理社会の中でマーケティングされ、データ化されていくことになる。この匿名の管理社会による<パノプティコン>効果。自分で自分自身の行動をいちいち監視することで自動的に生じてくる人間のさらなる家畜化、平板化、記号化。労働力商品の均質化。均質化され、機械操作を通してますます均質化されていく労働力商品のいとも容易な置き換え、配置転換、不安定雇用の出現。

「性的欲望とは、権力が挫こうとする一種の自然的与件として、あるいは知が徐々に露呈させようとする暗い領分として想定すべきものではない。それは一つの<歴史的装置>に対して与え得る名である。捉えるのが難しい表面下の現実ではなくて、大きな表層の網の目であって、そこでは、身体への刺戟、快楽の強度化、言説への教唆、知識の形成、管理と抵抗の強化といったものが、互いに連鎖をなす。いくつかの、知と権力の大きな戦略に従ってである」(フーコー「知への意志・第四章・P.136」新潮社)

問題は深層にあるのではなく世界という「表層の網の目」に書き込まれている。睡眠中に見る夢は深層ではない。夢自体、表層である。とはいえ助詞を脱落させているため、何がなんだかわからなくなった象形文字に思えるわけだが、しかしまぎれもなくそれは表層として常に既に表層を成しつつ、ありありと目に見えているものだ。一般的な文章を読むのとほとんど変わりはない。ただ、任意に裁断された週刊誌のようにばらばらに切り刻まれ、前後の文脈を失っているけれども。

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冬虫夏草の両義性/近世の「千人切り」と近代の「千人切り」

2020年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
冬虫夏草(とうちゅうかそう)については前に触れた。だが熊楠はその希少性を訴えるだけでなく、冬虫夏草そのものの持つ変異性から粘菌の常識的理解をくつがえす資料を手に入れていたことがわかる。

「イサリアまた複菌にして、冬虫夏草(日光でしばしばとりしCordyceps属のピレノミケテス)の複菌はみなイサリアなり。しかるに冬虫夏草は主として虫に寄生すれども、イサリアは必ずしも虫に寄生せず、木にも菌にも糞にも生じ候。故にCordyceps外のピレノミケテス類にして木や菌や糞に生ずるものの複菌がまたイサリアなるかも知れず、またCordycepsのみの複菌がイサリアなれども、Cordycepsの胞子世代は必ず虫に付き、それより出す芽子は虫を好まず、木や菌や糞に付き生ずることあるかも知れず、これは一々いろいろとその胞子を種(う)えて試験するの外なし。とにかく今度のイサリア・ウエマツイは歴然虫に生じありたれば、この虫の死体をそのままおけば、今年冬あたりイサリアは去って、あとへ冬虫夏草なるピレノミケテスを生ずるかも知れず。もし余分あらば今年冬か来年正月ごろ一度行って見られたく候。しかるときは、この菌の胞子世態も複菌世態(胞子世態)をも知り得て大いに学問上の方付きがなり申し候」(南方熊楠「粘菌の複合・複菌について」『森の思想・P.207~208』河出文庫)

日本では一八〇一年(享和一年)、近江迫村(現・滋賀県近江八幡市)出身の柚木常盤(ゆぎときわ)が「江州冬虫夏草写」を出版している。柚木の職業は眼科医だが、医師ゆえ植物学にも関心を持っていた。しかし近江のどこでそのような希少種を発見したか。答えを言ってしまえば今の滋賀県大津市三井寺の山中で、である。このとき柚木が発見した冬虫夏草は大変貴重なもの。通常なら虫の頭部から茎状に出てくるわけだが、そうではなく、虫の口の中から伸び出ているものだった。どちらの場合も虫の体内中で冬虫夏草の菌が一杯に繁殖していることに変わりはないのだが。フーコーは言っている。

「獣は、死に従属するものとしてと同時に、死の担い手として姿をあらわす。動物のなかには、生命の生命自身によるたえざる食いつぶしがひそんでいるからだ。つまり動物は、みずからの内部に反=自然の核を秘めることによって始めて自然に所属するのにほかならない。もっとも秘められたその本質を植物から動物に移行させることによって、生命は秩序の空間を離れ、ふたたび野生のものとなる。生命は、おのれの死に捧げるのとおなじその運動のなかで、いまや殺戮者としてあらわれる。生命は、生きているから殺すのである。自然はもはや善良ではありえない。生命は殺戮から、自然は悪から、欲望は反=自然からもはや引きはなしえないということそれこそ、サドが十八世紀、さらに近代にむかって告知したところであり、しかもサドはそれを十八世紀の言語を涸渇させることによって遂行し、近代はそのためながいこと彼を黙殺の刑に処していたのである。牽強府会のそしりを免れぬかも知れないが(もっともだれがそれを言うのか?)、『ソドムの百二十日』は、『比較解剖学講義』のすばらしい、ビロード張りの裏面にほかならぬ」(フーコー「言葉と物・第八章・P.298」新潮社)

粘菌のサディズム性。サドとしての粘菌。虫が植物を食うのではなく植物が虫を食って育ち、その内部から這い出して姿を見せる。以前、冬虫夏草を見て人々は長い間、その逆のことを常識と考えて疑っていなかった。しかし粘菌の生態はそうではなかった。冬虫夏草の場合、虫が寄生するのではなく虫に寄生して虫を殺してしまう。しかしどこまで繁殖するのか。環境の許す限りである。その意味ではほんのちょっとした風が吹けばすぐに飛んでいってしまいもはや見当たらず、飛ばされていった先で生育条件が合わなければあっけなく失せてしまうほど繊細敏感な植物でもある。にもかかわらず、フーコーの言葉を借りれば、物言わぬ「獣」なのだ。

ところで熊楠は「千人切り」というステレオタイプ(常套句)について述べている。西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕」から。

「血書(ちかき)は、千枚(まい)かさね、土中(どちう)に突込(つきこ)み、誓紙塚(せいしつか)と名付(なつ)け、田代(たしろ)孫右衛門と、同じ供養(くやう)をする」(井原西鶴「諸艶大鑑〔好色二代男〕・卷八・五・大往生(だいあうしやう)は女色(ちよしき)の臺(うてな)・P.305」岩波文庫)

ほぼ同様の文章が別の箇所で見られる。

「田代如風(たしろじよふう)は千人切りして津(つ)の国(くに)の大寺に石塔を立て供養をした。自分も又、衆道にもとづいて二十七年、そのいろを替え、品に好き、心覚えに書き留めていたのに、すでに千人に及んだ。これを思うに、義理を立て意地づくで契ったのは僅かである。皆、勤子(つとめこ)のため厭々(いやいや)ながら身をまかせたので、一人一人の思ったことを考えるとむごい気がする。せめては若道供養のためと思い立って、延紙(のべがみ)〔鼻紙〕で若衆千体を張り貫(ぬ)きにこしらえて、嵯峨(さが)の遊び寺へおさめて置いた。これ男好(なんこう)開山の御作である。末の世にはこの道がひろまって、開帳があるべきものではある」(井原西鶴「執念は箱入の男」『男色大鑑・P.172』角川ソフィア文庫)

熊楠が言うには、これら「千人切り」は相手の性別に関係のない一種の「自慢」として堂々と通用していた。西鶴の小説が人気を博していた頃、この「千人」という数字はそれなりの意味を持っていたわけだ。ところが幕末になると自慢でも何でもなく、ただひたすら、憑かれたように「人斬り」の大流行期が出現する。

「この前後のこと、甲府の町うちに折々辻斬りがあります。三日か四日の間を置いて、町の端(はず)れに無惨(むざん)にも人が斬られていました。その斬り方は鮮やかというよりも酷烈(こくれつ)なるものであります。一刀の下に胴斬りにされていたのもありました。袈裟(けさ)に両断されていたのもありました。首だけをはね飛ばしたのもありました。丁度(ちょうど)神尾主膳の家で刀のためしのあったその夜もまた、稲荷曲輪(いなりくるわ)の御煙硝蔵の裏に当たるところで、一つの辻斬りがあったことがその翌朝になってわかりました」(中里介山「大菩薩峠3・伯耆の安綱の巻・P.361~362」時代小説文庫)

斬られたのは十八歳の娘。斬ったのは机龍之助。なぜ斬ったのか。しかも斬り方は見るも無惨である。斬られた娘は龍之助に向かって何ら失礼な言動を取ってはいない。

「盲目であった龍之助には、その刀の肌を見ることは出来ません。錵(にえ)も匂(にお)いもそれを見て取ることの出来るはずがありません。けれども、『これは斬れそうだ』と言いました。刃を上にして膝へ載せてから研石(みがきいし)を取って龍之助は、静かにその刃の上を斜めに摩(こす)りはじめました。龍之助は、いまこの刀の寝刃(ねたば)を合せはじめたものであります。刀の寝刃を合せるには、きっと近いうちにその刀の実用が予期される、明日は人を斬るべき今宵(こよい)というときに、刀の寝刃が合せられるはずのものであります。それですから刀の寝刃(ねたば)を合せるときには大概の勇士でも手が震うものであります。心が戦(おのの)くものでありました。それは怯(おく)れたわけではないけれども、明日の決心を思うときには、血肉が静止(じっ)としてはおられないのであります。それはそうあるべきはずです。しかるにこの人は平気で寝刃を合せています」(中里介山「大菩薩峠3・伯耆の安綱の巻・P.368」時代小説文庫)

辻斬りを演じたのは龍之助に違いない。始めにそう見抜いたのは龍之助と一緒に暮らすことになったお銀だ。お銀は問い詰める。

「『何という怖ろしいこと、人を殺したいが病とは』『病ではない、それが拙者の仕事じゃ、今までの仕事もそれ、これからの仕事もそれ、人を斬ってみるより外におれの仕事はない、人を殺すより外に楽しみもない、生きがいもないのだ』『わたしは何と言ってよいかわかりませぬ、貴方は人間ではありませぬ』『もとより人間の心ではない、人間という奴がこうしてウヨウヨ生きてはいるけれど、何一つしでかす奴らではない』『貴方はそれほど人間が憎いのですか』『馬鹿なこと、憎いというのは、幾らか見処(みどころ)があるからじゃ、憎むにも足らぬ奴、何人斬ったからとて、殺したからとて、咎(とが)にも罪にもなる代物(しろもの)ではないのだ』『本気でそういうことをおっしゃるのでございますか』『勿論(もちろん)本気、世間には位を欲しがって生きている奴がある、金を貯(た)めたいから生きている奴がある、おれは人が斬りたいから生きている』」(中里介山「大菩薩峠4・慢心和尚の巻・P.362~363」時代小説文庫)

何人斬るべきか。数値目標はない。ただ、斬りたいから斬る。お銀は意識していないが、お銀自身、しばしばわが身を傷つけることで欝々たる気持ちを晴らしている。

「お銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字」(中里介山「大菩薩峠6・禹門三級の巻・P.389」時代小説文庫)

写経は単なる口実に過ぎない。目的意識は無意識的である。龍之助が他人を斬りたくて斬りたくてたまらなくなるのと同様に、お銀は「針で自分の肉体を刺して」、血を流すことで精神の平衡を保っている。むしろ今の目で見れば、自分を傷つけることで平衡を保つような精神状態こそ逆に異常な精神状態なのでは、と考えるだろう。しかし近代日本の黎明期、明治維新の勢いは、数値目標のない大陸制覇へ、帝国日本による大流血へと収斂されていく。その意味で机龍之助にせよお銀にせよ、やっていることは江戸時代の「千人切り」とは似て非なる行為であり、どこまでも延々と延長可能で終わらない殺戮の前夜祭とも言えるものだ。そして日本が仕掛けた太平洋戦争もまた、ただひたすら血を流すための、絶好の合法的口実に過ぎない。

しかしこの時点では一度「千人切り」に立ち返ってみなくてはならない。なぜ「千人」でなければならないのか。数値目標が立てられなければならないのか。九百九十九人ではいけないのか。例えば数値目標が「百人」であり、しかし達成されたのは「九十九人」というような場合。残りの一人分は近親の「老女の死」で埋め合わせることが可能である。自分の母をすでに亡くしているような場合がそれに当たる。置き換え可能なのだ。ところがそれともまた少し異なるケースが日本霊異記に見られる。妻を手元に引き寄せよるため厄介になってきた老母を殺そうとした息子のエピソードとして有名だが、しかし結果的に老母と息子の髪とが残され息子は死ぬ。この物語が収録されているのは何がためなのか。

「逆(さかしま)なる子、歩(あゆ)み前(すす)みて、母の項(うなじ)を殺(き)らむとするに、地裂けて陥(おちい)る。母即(すなは)ち起(た)ちて前(すす)み、陥る子の髪を抱(うだ)き、天を仰(あお)ぎて哭(な)きて、願はくは、『吾が子は物に託(くる)ひて事を為(な)せり。実(まこと)の現(うつ)し心には非(あら)ず。願はくは罪を免(ゆる)し賜(たま)へ』といふ。猶(なお)し髪を取りて子を留(とど)むれども、子終(つひ)に陥(おちい)る。慈母、髪を持ちて家に帰り、子の為に法事を備(まう)け、其の髪を筥(はこ)に入れ、仏像のみ前(まへ)に置きて、謹みて諷誦(ふじゆ)を請(こ)ふ」(「日本霊異記・中・悪逆の子の、妻(め)を愛(めぐ)みて母を殺さむと謀(はか)り、現報に悪死を被(かぶ)りし縁 第三・P.50」講談社学術文庫)

もっとも、日本霊異記はもともと仏教説話集としてまとめられたもので、どの話も最後はいつも仏教の布教のための縁起形式が取られている。さらに各説話は当時の東アジアに散在していた説話から引いてきたエピソードであちこち継ぎ接ぎばかりである。それにしても、そのような陰惨なエピソードがなぜ多く盛り込まれているのか、なぜ無惨にも程があると考えざるを得ないほど陰々滅々たるエピソードがどんどん採用されているのかは、仏教とはまた別に論じられねば見えてこないに違いない。

なお、熊楠が「『摩羅考』について」で男性器を表す文字を摩羅と書くことに関し、日本霊異記では熊楠の指摘通り「門(もんがまえ)に牛(うし)」と書いて「まら」と読ませている。

「是(こ)の女、先世に一(ひとり)の男子を産む。深く愛心を結び、口に其の子の摩羅(まら)を唼(す)ふ。母三年を経て、儵倐(たちまち)に病を得、命終(みやうじゆ)の時に臨み、子を撫で摩羅(まら)を唼(す)ひて、斯(か)く言ひき。『我、生々(しやうじやう)の世、常に生(うま)れて相(あ)はむ』といひて、隣家の女(むすめ)に生れ、終(つひ)に子の妻と成り、自(おの)が夫の骨を祀(まつ)りて、今慕(しの)ひ哭(な)く」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.268」講談社学術文庫)

さらに女性器の場合、一つには、「開」と書いて「つび」と読ませている。

「稷(きび)の藁三束を焼き、湯に合(あは)せ、汁を取ること三斗、煮煎(にい)りて二斗と成し、猪(ゐ)の毛十把を剋(きざ)み末(くだ)きて汁に合せ、然して嬢(おみな)の頭足に当てて、橛(ほこたち)を打ちて懸け釣り、開(つび)の口に汁を入る」(「日本霊異記・中・女人(にょにん)の大きなる蛇(へみ)に婚(くながひ)せられ、薬の力に頼りて、命を全くすること得し縁 第四一・P.267」講談社学術文庫)

またさらに女性器の場合、漢和辞典を引くと、「門(もんがまえ)に也(なり)」と書いて「したなりくぼ」と読ませているものもある。「くぼ」は「久保」と書いて音読みするか、あるいは「窪」(くぼ)であり、後者の場合「木の窪」や「盆の窪」との類似から来たものと思われる。

しかしなお、長年の風雨に晒されてきたため剥き出しになった古墳の側面が開いて「窪」(くぼ)になっているものや、あるいは「塚穴」(つかあな)が定期的に住居とされていた場合などは、丸ごと一括りにして語ることはできない。側面が開いた古墳とか塚穴とかのケースについてはまたの機会に述べよう。なぜなら、側面が開いた古墳とか塚穴とかの場合、「開」(つび)、「久保」(くぼ)、等の言語が外国(多くは古代中国)から輸入される以前か少なくとも同時期、列島各地ですでにあった生活様式と重複するケースがあるからである。

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熊楠と生態系/自害に至る深情

2020年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム
神社合祀に伴う廃止ではなく玉置神社のように移転ということなら、条件付きで認めてもいいと熊楠はいう。その条件に、「移転して社地をば十分広げ置くならば」、そして「現在の樹木を一本なりとも伐らぬよう」、という二点を上げている。

「玉置神社移転の件は、他日社地をかの例の煙突多き製造所とか下宿屋とか不浄極まるものに蚕食せられぬ一方便として、移転して社地をば十分広げ置くならば宜しからんと存じ候。前日雑賀氏より聞きしは、玉置山はもと今の地にあらう、今度移さんとする地にありしを、いろいろの災難で当分今の地に移せしなりとか(拙妻も左様にいう)。ただし、移すことは移すとして、それがために現在の樹木を一本なりとも伐らぬよう願いたい。小生、熊野植物精査西牟婁郡の分の基点は、実にこの闘鶏社の神林にて、言わば一坪ごとに奇異貴重の植物があるなり」(南方熊楠「粘菌の複合・菌学に関する南方先生の書簡」『森の思想・P.216』河出文庫)

熊楠が世界で最初に発見した粘菌の多くは、ほかでもない「闘鶏神社」の境内、正確に言えば、その裏山の鬱蒼たる森に自生している種だった。何千年何万年に及ぶのか想像もつかないが、遥か昔から熊野の生態系を維持してきた種々雑多な粘菌は神社の背後に拡がる広大な森林をその生存の条件とし、また森林を存続させてきた生態系の円環の一つだった。神社というものは、その起源から言えば、まず森があって森そのものに対する自然信仰があり、それがためにそこに祠を作って祀ったのが時系列的事実である。神体は神社の建築ではなく、多くはその背後に広がる奥深い森林だった。今でも奈良県の三輪山のように、神社が先にあるわけではなく、本尊は神体山そのものであって、便宜上事後的に遥拝所を整えたというのがその名残りだ。

ところで「雑賀氏」というのは雑賀貞次郎のこと。長年、熊楠の弟子だった。柳田國男は東京にいる中央官僚でもあったため、紀州までわざわざ出かけて行ってフィールドワークする時間を惜しんだ。そのぶん、紀州に残る様々な民俗学的資料は雑賀貞次郎から提供されたものに頼っていた。次のように紀州に残る少年の「神隠し伝説」などは、柳田の代表作でもある「山の人生」に収録されたため雑賀貞次郎の名とともに紹介されることになったもの。

「紀州西牟婁(にしむろ)郡上三栖(みす)の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還って来たが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻っていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂(たもと)に残っているというので、出させてみるに皆柴の葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万歳という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津(せっつ)の西ノ宮に行き、盆の十三日の晩、多勢の集まって飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋(ぼくおく)随筆』の中に載せられてあるという(雑賀〔さいが〕貞次郎君報)」(柳田國男「山の人生・今も少年の往々にして神に隠さるる事」『柳田國男全集4・P.107』ちくま文庫)

アープレーイユス「黄金の驢馬」でプシューケーが「諸処の山谷を経廻」り、様々な試練を乗り越え冥界から戻ってきて、すべてのイニシエーションを終えたとき、クピードーとプシューケーとの婚礼の席が設けられる。その様子は次のように神々が集まる祝祭(「多勢の集まって飲む席」)として描かれている。

「一番の上席には花婿がプシューケーを傍らにひきつけて席を占めますと、同様にユーピテルもお妃のユーノーともども腰をかけ、また順ぐりにすべての神様方も席におつきになります。そのとき仙酒(ネクタル)の盃を、これはつまり神様方の葡萄酒(ぶどうしゅ)にあたるのですが、ユーピテルはいつもの酒つぎのお小姓のあの野山にいた少年(こども)が、他の神々へはまた酒神(リーベル)が酌(く)んでは差し、ウルカーヌスがお料理の世話をいたしますと、季節女神(ホーラエ)は薔薇やいろいろな花びらでそこらじゅうを紅(くれない)に照りかがやかしますし、優美神女(グラーティアエ)はにおいのよい薫香をあたりに撒(ま)き散らし、伎芸神女(ムーサエ)はまた朗々と歌を唄いあげる、アポローンが七絃琴(キタラ)を奏(かな)でますと、ウェヌスも妙(たえ)な音楽に姿(なり)美しく舞いつれて踊り、その地方(じかた)には手順を決めて伎芸神女(ムーサエ)が群を作って歌を唄ったり笛を吹いたりすれば、羊人(サテュロス)や若い牧神(パーン)は笙(しょう)を鳴らして合わせます」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の6・P.241」岩波文庫)

この種の慣習に出てくる祝祭の場は、日本に移ると「西ノ宮」になる。次のように。

「神のめでたく験(げん)ずるは 金剛蔵王(こんがうざわう) ははわう大菩薩 西宮(にしのみや) 祇園天神(ぎおんてんじん) 大将軍(たいしやうぐん) 日吉山王(ひえさんわう) 賀茂上下(かもじやうげ)」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・二四九・P.109~110」新潮社)

また「金剛蔵王(こんがうざわう)」は奈良県吉野の金峯山寺にある金剛蔵王像が有名だが、吉野という枠に嵌め込んでしまうより、修験道の霊場として名高い大峰山一帯を含め熊野との中間地帯と見たほうがより一層深く意味をつかみやすいだろうと思われる。吉野、熊野、伊勢は、山岳地帯で繋がっているのであり、アニミズム的な山岳信仰を通して古代から王家の禊(みそぎ)の場として崇められてきたからである。そしてこの種の信仰は古く東アジアの諸列島に王家というものが出現する遥か以前から人々が既に始めていた自然崇拝である。さらに「西宮(にしのみや)」は、今の西宮神社境内にある南宮神社を指していると考えられる。古くは「浜の南宮」と呼ばれたことからわかるように山地と海運との境界地点にあり、流通・軍事ともに要衝だった。また、ここでいう「祇園天神(ぎおんてんじん)」について、京都・八坂神社と言ってしまうと余りにも意味が拡張され過ぎてしまい、わけがわからなくなるため、厳密に「牛頭天王」(ごずてんのう)を指すと見るのがよい。牛頭天王は言うまでもなく牛を本尊とし疫病を司る神として信仰されてきた。先史時代から牛なしに民衆の生活はなく、しかし牛がいると疫病の蔓延は覚悟しなければならない。牛頭天王はそのようなパルマコン(医薬/毒薬)としての両義性の象徴と言える。

ところで熊楠と柳田とでは山神においても山人においても最後まで意見の一致を見ることはなかった。それはそれで構わない。むしろ異なる立場で研究しているにもかかわらず、いきなり意見の一致を見るような場合こそ極めて例外的だろう。それより両者の間に生じている社会的立場の差異が、両者の見解の相違を鮮明にするのであって、その逆ではない。例えば、熊楠のオコゼ論。柳田によればこうなる。

「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」「柳田国男全集4・P.429」ちくま文庫)

さて、この九月二十六日、北海道・旭岳で初冠雪を観測したとのこと。降雪を見て、人々は何を思うだろうか。例えば、伊賀の国守の小姓・山脇笹之介の嫉妬の物語はどうか。

笹之介は小姓というばかりでなく頭のいい美少年としても有名なだけあって男性同性愛(衆道)に長けていた。その相手・判葉右衛門の浮気を許すことができず、かといって今後ずっと和解するつもりがないわけではない。そこで和解のための酒席と寝床とを設けた上で、訪ねてきた葉右衛門を一度、降雪の中でさんざん嬲(なぶ)ってやれと思い実際にあれこれ嬲っていた。降り出した雪は急速にぐんぐん積もってくる。そのうち葉右衛門は余りの寒気のため死んでしまう。笹之介は慌てる。

「降り出しより積りそうな気配の雪となり、はじめのうちは袖を払っていたが、梢の古びた桐梧(あおぎり)の陰も、雪のやどりのたよりならぬから、段々耐えがたくなり、肺臓より常の声も出ず、『やれ、今死ぬるわ』とどなると、内では小坊主相手に笑い声を出して、『まだ思いざしの酒のぬくみもさめないでしょう』と二階座敷からいう。『そういったって何の心もないことなのだ。これにこりぬということはない。この後は若衆の足あとも通らぬつもりだ』と詫びても、なおその言葉をきらい、『それならその二腰をこちらへお渡し下さい』と受取り、又指さしてあざけり、『着物袴(はかま)をおぬぎなさい』と丸裸にして、『ついでのことに解髪(さばきがみ)になって』という。これもいやというわけに行かぬのですぐに形をかえると、梵字(ぼんじ)を書いた紙を放って、『額に当てなさい』という。今は息たえだえに、悲しいことに身にふるえが出て、まことに幽霊声になり、その後は手をあげておがむより外はない。笹之介は小鼓をうって、『ああら、有難の御とむらいや』などと謡い出して下をのぞくと、葉右衛門目ばたきせわしく立ちすくんでおり、死ぬらしいので驚き、印籠(いんろう)あける間にも、脈がだめになっていたから、同じ枕に腹かききって、一瞬の夢となった」(井原西鶴「嬲(なぶり)ころする袖の雪」『男色大鑑・P.81~82』角川ソフィア文庫)

葉右衛門の死を見届けるや笹之介は自ら切腹して果てた。当時の同性愛は白い雪を赤い血で染め上げるほかないほど苛烈な深さと厚みとを見せて止まない。

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熊楠による熊野案内/熊野水軍の異質性

2020年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は続ける。次の文章の後半は余り熊野に関係がない。関心を覚えるのは前半。

「西の王子は出立の浜と称し、脇屋儀助、熊野湛増、また征韓の役に杉岩越後守等、みなこの出立の浜かを出船せるなり。御存知通り熊野兵は昔よりどちらともつかず、ただ報酬多き方へ傭われたること、『平家物語』、『太平記』にて知られる。南北朝ころは、薩摩、大隈まで加勢に行き、また戦国には北条氏、里見氏までも援兵にやとわれ候。悪いことのようなれど、ハラムの『欧州開化史』にも、傭兵(マーセナレー)起こりてより戦士本気になって働かず、ある戦いに三日とか数万の傭兵仏国で大戦争し、戦士無慮三名、それも大酩酊の上馬に乗り行きしゆえ馬より落ち不慮に死したるなりと知れ、敵も味方も阿房(あほ)らしくなり、ついに戦争少なくなれり、とありしよう覚え候。しからば、ちと牽強ながら、慶元の際邦人兵戈(へいか)に飽き足りしとき熊野兵のようなものありしゆえ、いよいよ戦争がつまらなくなり、終(つい)に徳川三百歳の太平を享けるに及べりと故事(こじ)つけ得べく、恐縮ながら赤十字社などや平和会議の先鞭を着けしものの史蹟として保存すべきものなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.410~411』河出文庫)

熊野の「湛増」については前にも触れた。弁慶の父とされる人物。

「熊野(くまのの)別当湛増(タンゾウ)は、平家へや参るべき、源氏へや参るべきとて田辺(たなべ)の今熊野(いまくまの)にて御神楽(みかぐら)奏して、権現(ゴンゲン)に祈誓(キセイ)したてまつる。『白旗につけ』と御託宣(ごたくせん)有けるを、猶(なほ)うたがひをなして、白い鶏(にはとり)七つ、赤き鶏七つ、これをもッて権現の御まへにて勝負をせさす。赤きとり一(ひとつ)もかたず、みな負けてにげにけり。さてこそ源氏へ参らんと思ひさだめけれ」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)

湛増はなぜすぐに源氏を支援せず、卜占(うらない)を重ねたのか。年来、平家の安泰を祈願してきた立場だったから。ところが周囲はどんどん源氏に付いていくようになる。それまで気心の知れた知人友人らがこぞって動き始めると自分の心情も揺れ動くものだ。そこで田辺権現(闘鶏神社)でわざわざ「御託宣(ごたくせん)」を得ることにした。出た言葉が「『白旗につけ』」=「源氏方を支援せよ」とのこと。この「託宣」を出したのは誰だろう。形式的には神が出したことになっているわけだが、当時の神道では仲介者がおり、例えば「源平盛衰記」によれば、この時の仲介者は「巫女」だったらしい。だが巫女といっても女性とばかりは限らない。男巫(おとこみこ)も多くいたと柳田國男はいう。

「『巫女考』に『吾妻(あづま)には女は無きか男みこ云々』の古謡を引いて、神寄せの業は女子をもって原則とするかのごとく説いたのは(郷土研究一巻二〇六頁以下)、巫女考としてはやむを得ぬかも知らぬが、男巫女(おとこみこ)は実は決して例外ではなかった。中山流の法華宗において今も盛んに行わるる因祈禱(よりきとう)を始めとし、法師巫(ほうしみこ)すなわち仏者のこの部面に携わる者は、優に一階級を形づくるに足るほど多かった。ただ地方によりその呼称を区々(まちまち)にするのと、後世その活動がすこしく散漫になっていたために、第二の商売を有する女巫に負けたのである」(柳田國男「毛坊主考・護法童子」『柳田國男全集11・P.521』ちくま文庫)

女巫の「第二の商売」は舞を舞ったり歌を歌ったりして生活資金を稼ぐこと。本来の祈祷者、依代(よりしろ)という立場とは異なる。こうした兼業は早くから始まっていたようだ。

また、熊楠は「熊野兵」と言っているが、なかでも関心を引くのは熊野水軍についてである。熊野といえば山岳地帯ばかりとも限らない。ここでも「金剛童子」が登場する。

「一門の物どもあひもよほし、都合其勢二千余人、二百余艘の舟に乗りつれて、若王子(にやくわうじ)の御正体(をしやうだい)を舟に乗せまゐらせ、旗のよこがみには金剛童子をかきたてまッて、壇の浦へよするを見て、源氏も平氏もともにをがむ。されども源氏の方へつきければ、平家興(けう)さめてぞ思はれける。又伊予(いよの)国の住人、河野四郎道信(みちのぶ)、百五十艘の兵船(ひやうせん)に乗りつれてこぎ来り、源氏とひとつになりにけり」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・鶏合壇浦合戦・P.285」岩波書店)

金剛童子は修験道にせよ熊野三山にせよ、いずれからも護法神として祭祀されてきた「童形の守護神」である。性別不明。ともかく大事なのは童子であること。童子ゆえに中性性が保たれるのである。若王子(にやくわうじ)は若一王子を指す。王子信仰の起源にあるのはどのような信仰か。「熊野本地の草子」を通して既に見た。ところどころでグロテスクな描写が突発する怨嗟、怨霊、讒言、白骨化した女御の首など、無残無類の悲劇。そしてそれを絵解した(語り伝えた)のが熊野比丘尼(くまののびくに)である。「熊野本地の草子」の舞台は「摩訶陀(マカダ)国」とされているけれども、実をいうと、熊野の地こそが本当の舞台だ。大和政権誕生以前、熊野には夥しい数の王子信仰があらかじめ打ち立てられていた。万葉集編纂の時代すでに頻出している。さらに熊野水軍が興味を引く理由は、熊野水軍の行くところ、必ず不可解な現象が起こることになっていて、平家物語の次の箇所でもまたその種の現象が起こったとされている点にある。

「源氏のかたよりいるかといふ魚(うを)一二千はうで、平家の方へむかひける。大臣殿(おほいとの)これを御らんじて、小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)を召して、『いるかは常におほけれども、いまだかやうの事なし。いかがあるべきとかんがへ申せ』と仰(おほせ)られければ、『このいるか、はみかえり候はば、源氏ほろび候べし。はうでとほり候はば、みかたの御いくさあやふふ候』と申(まうし)もはてねば、平家の舟のしたをすぐにはうでとほりけり。『世の中はいまはかう』とぞ申(まうし)たる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第一一・遠矢・P.292」岩波書店)

いるかの群が出現し、平家方を放棄して泳ぎ去ったという箇所。「小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)」とあるのは、このとき預言者として呼び出された人物が「晴信(はれのぶ)」という名だったということ。「小博士(こはかせ)」があれば「大博士」もあったろうと考えられる。しかし通説とされるほど根拠のある資料は今なおない。ただ、「博士」(ハカセ)が何だったかは判明している。陰陽師であり卜占に従事した者のこと。だが卜占従事者もまた他の職業との兼業を余儀なくされていく。

「法師にしてハカセすなわち陰陽師を兼業した者は近世まであった」(柳田國男「巫女考・夷下し、稲荷下し」『柳田國男全集11・P.337』ちくま文庫)

そして「小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)」が予言を述べ終わる間もなく、いるかの群れが過ぎ去ったため、平家方は「『世の中はいまはかう』」との言葉を吐いてしまう。「いまはかう」は「もはやこれまで」という意味。

法師あるいはハカセすなわち陰陽師。森の信仰の絶滅によって思いも寄らない「兼業」が発生した。年少者の場合、男子なら男色がそうであり、とりわけ思春期の美童であればあるほど、同性愛といっても必ずしも友道・友愛にかなう純然たるものではなく、ただ単に女性の代わりとして酷使されもし、傷つき放浪するほかなくなり山中や路上での餓死者となって果てる者が後を絶たなかった。陰陽道の是非はともかく、兼業するしか生きていくことができなくなるような政治とはどのような政治だったか。それを政治と呼ぶに値する価値が本当にあるのか。あるとすれば一体どれほどなのか。しかし民衆の声は余りにも小さく、瞬く間もなく掻き消されてしまうのが常だった。

ところが「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)にあるように琉球王朝ではまったく事情が異なっていた。女性の神子(みこ)=巫女(みこ)としての託宣は絶対的であり、次のように宮廷内の権力闘争に関わり、多大な権威として振る舞いもし利用されもした。

「北谷(きただに)なる託女(みこ)の長(おさ)、阿公(くまぎみ)に問(とは)し給へ。彼(かの)阿公(くまぎみ)は、前中山省(さきのちうさんせう)勝連(かつれん)の親方(おやかた)、法司(ほうす)阿高(あこう)が女兒(むすめ)にて、幼稚(いとけなき)とき父母(ちちはは)を喪(うしな)ひ、兄弟(きやうだい)もなかりしかば、先王(せんわう)憐(あはれん)で、父(ちち)の舊領(きうれう)、三(みつ)が一ツを給はり、これを託女(みこ)の長(おさ)として、女君(によくん)に准(じゆん)せられしかば、世の人彼(かれ)を喚(よん)で、北谷(きたたに)の女王(によわう)と稱(となへ)、福(ふく)の禱(いのり)、禍(わざはひ)を禳(はら)はするに、響(ひびき)の物(もの)を應(おう)ずるがごとし。彼(かれ)原來(もとより)人(ひと)に嫁(よめ)らず。ーーー阿公(くまぎみ)は豫(かね)て利勇(りゆう)が伎倆(たくみ)に與(くみ)し、君眞物(きんまんもん)の祟(たたり)なり、と偽(いつは)りて、海山(うみやま)をあらするは、彼(かれ)が所爲(わざ)なれば、はやくそのこころを得(え)、夥(あまた)の弟子託女(でしみこ)を將(い)て、草圜(さうくわん)を戴(いただ)き、浄衣(じやうえ)をうち被(き)て、出迎(いでむか)へつつ、仰(おふせ)をうけ給はり、しばしうち按(あん)ずるおももちにて、いらへまうすやう、かしこけれど、大王(だいわう)既(すで)に神(かみ)と人(ひと)とのこころにたがはし給ふから、天(てん)この災(わざはひ)を降(くだ)し給へり、今これを禳除(はらひのぞか)んには、辰(たつ)の年月日時(ねんげつじつじ)に生(うま)れたる、女子(をなご)を犠(にえ)として、この海(うみ)に投(しづ)め、大王(だいわう)みづから懺悔(ざんげ)して、水伯(おうちきう)を祭慰(まつりなぐさ)め給はば、神の鎮(しづま)り給ふ事もありなん、もししかし給はずは、國中(こくちう)荒廢(あれすた)れて、忌々(ゆゆ)しき大事(だいじ)に及(およ)ぶべしといらへけり」(曲亭馬琴「椿説弓張月・中巻・第三十三回・P.90~91」岩波文庫)

なるほど「阿公(くまぎみ)」は長年ヒール役として見なされてきた。しかし一方、ヒール役がここまで重要な役割を受け持つ伝統はたいへん貴重である。琉球神道においては今なお女性固有の聖性の重さが段違いに認められている。この種の南方系の神話・信仰は、遠くメラネシアから東南アジア、台湾、八重山群島を経て、広い文化圏を形づくっている。その終着点としてもまた、熊野の地を見ないわけにはいかない。日本史のところどころに出現する熊野水軍の異質性を検出してみるためには、このように太平洋全体の物産と海運とその流れを前提条件として考えるほか、切り離せない生態系の循環が存在するのである。

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熊楠の憂鬱/公私混同政治の履歴

2020年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
神社合祀により土地を転売し突如として富裕になった高級官僚らはマスコミ取材に応じて述べた。「どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言」。さらに「合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」と。高級官僚による土地転売・遊郭籠城・花柳遊びは明治・大正を通して流行した。「二上り新内」の「二上り」というのは、三味線を「二上り」(にあがり)と呼ばれる方法で調弦し、楽曲の途中から独特の情緒へ転じさせるテクニック。「二上がり新内」(にあがりしんない)はその手法で作る俗唄のこと。そもそも「二上がり新内」(にあがりしんない)は江戸時代からあったが、しかし神社合祀に伴う土地転売並びに新興資本家階級の富裕層によって行われるようになったのは維新以後。それもほとんどが維新勢力ばかりなので江戸時代に「粋」(すい・いき)とされた優雅な遊び方は土足で踏みにじられたに等しい。

「時かわり世移りて、その神主というもの、斎忌どころか、今日この国第一の神官の頭取奥五十鈴という老爺は、『和歌山新報』によるに、『たとい天鈿女(あまのうずめ)の命のごとき醜女になりとも、三日ほど真にほれられたいものだ』などと県庁で放言して、すぱすぱと煙草を官房で環に吹き、その主張とては、どんな植物であろうがなかろうが、詮ずるところは金銭なき社は存置の価値なしと公言し、また合祀大主張紀国造紀俊は、芸妓を妻にし樟(くす)の木などきりちらし、その銭で遊郭に籠城し、二上り新内などを作り、新聞へ投じて自慢しおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.421』河出文庫)

男性高級官僚による遊女遊びの履歴は古く、万葉集にも見える。遊女らの中で名を残す一人に「児島」(こしま)がいる。次の二首は「遊行女婦(あそびめ)」=「児島」(こしま)が高級官僚を送り出す際に歌ったもの。

「凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖(そで)を忍(しの)びてあるかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六五・児島・P.154」小学館)

「大和道(やまとぢ)は雲隠(くもがく)りたり然(しか)れども我(わ)が振る袖をなめしと思(も)ふな」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六六・児島・P.154」小学館)

「児島」(こしま)が遊女だとなぜわかるのか。次の通り。

「右、太宰師大伴卿、大納言(だいなごん)を兼任し、京に向かひて道に上(のぼ)る。この日に、馬を水城(みづき)に駐(とど)めて、府家(ふか)を顧(かへり)み望(のぞ)む。ここに、卿を送る府吏(ふり)の中(なか)に遊行女婦(あそびめ)あり、その字(あざな)を児島(こしま)と曰(い)ふ。ここに、娘子(をとめ)この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き、涕(なみた)を拭(のご)ひて自(みづか)ら袖を振る歌を吟(うた)ふ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・P.154~155」小学館)

遊女を「遊行女婦(あそびめ)」と呼ぶ習いについて「和名抄」によれば「遊行女児、宇加礼女(うかれめ)、一云阿曾比(あそび)」とある。また「この別れの易(やす)きことを傷(いた)み、その会(あ)ひの難(かた)きことを嘆き」は、「遊仙窟」の「別ルルコトハ易ク、会フコトハ難シ」からの転用。

配置転換で任地を去ることになった際、高級官僚の側から馴染みの遊女へ送った返歌もある。次の二首。

「大和道(やまとぢ)の吉備(きび)の児島(こしま)を過ぎて行(い)かば筑紫(つくし)の児島(こしま)思ほえむかも」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六七・大納言大伴卿・P.155」小学館)

「ますらをと思へる我(われ)や水茎(みづくき)の水城(みづき)の上(うへ)に涙(なみだ)拭(のご)はむ」(日本古典文学全集「万葉集2・巻第六・九六八・大納言大伴卿・P.155」小学館)

また、万葉集に出てくる遊行女婦(あそびめ)では「土師(はにし)」も有名。次の二首。

「垂姫の浦を漕ぎつつ今日(けふ)の日(ひ)は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四〇四七・遊行女婦(あそびめ)土師(はにし)・P.243~244」小学館)

「二上(ふたがみ)の山に隠(こも)れるほととぎす今も鳴かぬか君に聞かせむ」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四〇六七・遊行女婦(あそびめ)土師(はにし)・P.250」小学館)

なお、「土師(はにし)」の「し」について、氏姓(うじ・かばね)を表わす「氏」ではないかという説も有力。さらに、「左夫流(さぶる)」という「遊行女婦(あそびめ)の字(あざな)」があった。「心さぶし」、「淋し」(さびし)、「寒し」(さむし)、との連想から「淋(さび)しさ」を癒す「遊行女婦(あそびめ)」という意味を帯びる。

「心さぶしく南風(みなみ)吹き雪消(ゆきげ)溢(はふ)りて射水川(いみづかは)流(なが)る水沫(みなわ)の寄(よ)るへなみ左夫流(さぶる)その児(こ)に紐(ひも)の緒(を)のいつがりあひてにほ鳥の二人(ふたり)並び居(ゐ)奈呉(なご)の海の奥(おき)を深めてさどはせる君が心のすべもすべなさ 左夫流(さぶる)といふは遊行女婦(あそびめ)の字(あざな)なり」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一〇六・P.270~271」小学館)

それにしても、夜となく昼となく「左夫流(さぶる)」に溺れて遊び疲れた「後姿(しりぶり)」=「出勤する後ろ姿」を他の人々にじろじろ見られていて、恥を知らないのか、という歌がある。

「里人(さとびと)の見る目恥(は)づかし左夫流児(さぶるこ)にさどはす君が宮出(みやで)後姿(しりぶり)」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一〇八・P.271」小学館)

高級官僚の妻が私用として使う馬になぜか「左夫流(さぶる)」が乗っていたりもする。公私混同のはなはだしさは今とほとんど変わらなかったのかもしれない。

「左夫流児(さぶるこ)が斎(いつ)きし殿(との)に鈴(すず)掛けぬ駅馬(はゆま)下(くだ)れり里もとどろに」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一八・四一一〇・P.272」小学館)

「児島」(こしま)、「土師」(はにし)、「左夫流(さぶる)」、だけでなく、さらに「遊行女婦(あそびめ)蒲生娘子(かまふをとめ)」も登場する。

「雪の山斎(しま)巌に植ゑたるなでしこは千代(ちよ)に咲かぬか君がかざしに」(日本古典文学全集「万葉集4・巻第一九・四二三二・遊行女婦(あそびめ)蒲生娘子(かまふをとめ)・P.336」小学館)

万葉集に登場する遊行女婦(あそびめ)では、差し当たり、「児島」(こしま)、「土師」(はにし)、「左夫流(さぶる)」、「蒲生娘子」(かまふをとめ)、を覚えておけば十分だろう。ただ、古代の祭祀に登場する巫女的遊女なのかそれともただ単なる「遊行女婦(あそびめ)」に過ぎないのかという点に関し、「遊女」と書いてあるだけで安易に判断できないということは「本朝文粋」に次の指摘がある。

「蓋以遊行為其名所謂以信名之也」(新日本古典文学体系「本朝文粋・巻第九・二三八・見遊女・江以言・P.272」岩波書店)

熊楠へ戻ろう。

「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極(きょく)鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐(とど)まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何(いかが)に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍(たけのこ)を売り、その収入を私(わたくし)すと聞く」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.491』河出文庫)

呼び名だが「渡御前(わたるごぜん)」はおそらく熊楠の慣れ親しんだもの。和歌山県新宮市新宮の「渡御前社」(わたるごぜんしゃ)が正式名称。地元では広く「おわたり様」の愛称で親しまれたらしい。だが重要なのは、日本書紀の中で、まさしくその地(新宮並びに神倉山)へ神武がやってきたのはなぜか、という点にある。

「進みて紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(みいくさ)に薨(かむさ)りましぬ。因りて竈山(かまやま)に葬(はぶ)りまつる。六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なくさのむら)に至(いた)る。即(すなは)ち名草戸畔(なくさとべ)といふ者(もの)を誅(ころ)す。遂(つひ)に狹野(さの)を越(こ)えて、熊野(くまの)の神邑(みわのむら)に到(いた)り、且(すなわ)ち天磐盾(あまのいはたて)に登(のぼ)る」(「日本書紀1・巻第三・神武天皇 即位前紀戊午年五月~六月・P.208」岩波文庫)

この箇所で言及されている「熊野(くまの)の神邑(みわのむら)」は新宮のこと。そして「天磐盾(あまのいはたて)」は神倉山を指す。神功皇后が船に乗ったまま紀州近辺をうろうろしているのと、神武があちこちの土地の神を掃討した後になおわざわざ熊野へ迂回してから都入りするというステレオタイプ。神功皇后も神武も大規模軍事行動の直後である。血まみれなのだ。ゆえにいったん熊野へ赴き「禊」(みそぎ)した後で始めて都への入城が許可される、という形式が出来上がっている。だから熊野は大和政権成立よりずっと早い段階で成立した自然信仰の一大聖地だったと考えられる。そしてそこは明治近代に入ってなお多種多様な生物の宝庫だった。だがしかし後先のことを考えない神社合祀という国策によって壊滅的打撃を受けることになった。

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