編纂された時期やその後の編集方針の違いによって、しばしば或るエピソードの移動が起こる。岩田準一の質問に答えて熊楠はこう述べている。
「『沙石集』一巻八章、熊野詣での女、先達に口説かれ愁えしに、下女、主の女に代わりて先達に密会したる条。さて、夜、寄り会いたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといえり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.452』河出文庫)
今日そのような説話があったのかと思って見直してみると、手元の書籍では「拾遺」の系列に編入されていた。
「サテ夜(よ)ルヨリアヒタリケルニ、先達ハ、ヤガテ金ニ成ス。熊野ニハ、死ヲバ金ニナルトイヘリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・六・P.466」岩波書店)
なるほど「金に成る」と言うらしい。しかしそれが可能だったのは熊野の森が信仰対象だったからこそ成立した説話である。梛(なぎ)の木は熊野の神木とされてきた。神社合祀に伴ってそれらを伐採するということが決定された時、熊楠が猛抗議したことは十分うなづけるのである。というのも、熊野の生態系はそのような森林とそこに生息する多種多様な動植物の諸力のせめぎ合いがあって始めて維持されてきたものだからだ。熊楠はわざわざ定家の和歌を引いて、古くからの信仰に訴えようとしていたことは前に述べた。
「千早振(ちはやぶる)熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千代のためしにぞ折る」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.224」岩波文庫)
他にもある。梛に限っただけでも。
「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)のぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
柳田國男はいう。
「一郷一邑(ゆう)の産土(うぶすな)神に至っては、土人は始めよりいささかなりともこれを侵犯せんと企つるものがなかったゆえに、ほとんと一回もその威光を試むる機会なしに今日に及んだのである。これに対する村人の感情は、恐れるというよりも懐(なつ)くという傾きが多かったために子供なども入って遊び、祭礼の時になれば、森に溢れるほど老若男女が群集したのである。しかしその森全体に至っては、風雨雷火のために自ら損傷する場合は格別、今日までいまだかつてこれを切ろうの払おうのという考えを持たずに過ぎて来たのである」(柳田國男「村民の懐しき産土神」『柳田國男全集15・P.498』ちくま文庫)
次の歌は「梁塵秘抄」に載っているもの。「切目」は「切目王子」のこと。
「熊野出(い)でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五四七・P.215」新潮社)
しかし「うはき」とは何のことだろう。「うわぎ」(上衣)あるいは「かざり」(飾り)かもしれない、と考えられている。だが「万(よろづ)の人」に妥当するものではなくとも、山人にとっては極めて重要な意味を持つものだったことは疑いがない。
「まきもくのあなしの山の山人と人も見るがに山かづらせよ」(「古今和歌集・巻第二十・一〇七六・P.252」岩波文庫)
ここでいう「あなし」は「穴師」であり記紀で「鍛冶」(かぬち)と呼ばれている鍛治職人のこと。主に鉱山を本拠とする。祭祀の日の「山かづら」がその衣装に当たると考えられる。熊野では衣装のために「梛」の木の葉が用いられたのだろう。京の賀茂祭りの両蘰(もろかづら)が「葵と桂と」であるように。折口信夫はこう述べている。
「『穴師(アナシ)の山の山人』と神楽歌にも見えた大和宮廷時代から伝承したらしい山人は、大和國の國魂であり、長尾ノ市ノ宿禰が、祭主即、上座神人に任ぜられたのであつた。此は伊勢の大神が常世の神の性格を備へて居るのに対して、山の神である穴師の神に事へた山の神人即、山人の最初の記録である」(折口信夫全集2「村々の祭り・六・海の神・山の神・P.453」中公文庫)
さらに、熊楠は「下女、主の女に代わりて先達に密会」と言っている。何気ないことのように思える。「代参」、「身代り」、は主として忙しい日常生活を送る民衆のあいだで、古代から江戸末期まで続く広く認められた風習だった。西鶴「男色大鑑」に「科負比丘尼(とがおいびくに)」が出てくる。
「左側には衣をきた科負比丘尼(とがおいびくに)〔良家ノ子女ノ科(トガ)ヲ身代リニ負ウ尼〕、右には乳母らしい人が身近く付き添い、腰元、中通り〔下女ノ腰元ノ間ノ地位〕の女までみな色めいて振舞い、つづいて駕を吊(つ)らせ、押えには五十余りの親仁と若い男一人で大脇差の格好(かっこう)は町人であると見えた」(井原西鶴「心を染めし香の図誰(ずはたれ)」『男色大鑑・P.183』角川ソフィア文庫)
近代日本の成立とともに性の幅広さ、奥行き、厚み、などは逆に限定的になる。異性愛のみが自然でありそれ以外は不自然であるという転倒が起こる。あるべき性的関係は異性愛のみであるという不自然なイデオロギーが逆に自然な形態として設定し直され、知-権力装置によって規律-訓練を通して監視下に置かれる。だがそれは圧殺されるために監視されるわけではない。逆に規律-訓練を通して監視下に置かれることで、いつも測定され、家畜化され、階層秩序化され、匿名の管理社会の中でマーケティングされ、データ化されていくことになる。この匿名の管理社会による<パノプティコン>効果。自分で自分自身の行動をいちいち監視することで自動的に生じてくる人間のさらなる家畜化、平板化、記号化。労働力商品の均質化。均質化され、機械操作を通してますます均質化されていく労働力商品のいとも容易な置き換え、配置転換、不安定雇用の出現。
「性的欲望とは、権力が挫こうとする一種の自然的与件として、あるいは知が徐々に露呈させようとする暗い領分として想定すべきものではない。それは一つの<歴史的装置>に対して与え得る名である。捉えるのが難しい表面下の現実ではなくて、大きな表層の網の目であって、そこでは、身体への刺戟、快楽の強度化、言説への教唆、知識の形成、管理と抵抗の強化といったものが、互いに連鎖をなす。いくつかの、知と権力の大きな戦略に従ってである」(フーコー「知への意志・第四章・P.136」新潮社)
問題は深層にあるのではなく世界という「表層の網の目」に書き込まれている。睡眠中に見る夢は深層ではない。夢自体、表層である。とはいえ助詞を脱落させているため、何がなんだかわからなくなった象形文字に思えるわけだが、しかしまぎれもなくそれは表層として常に既に表層を成しつつ、ありありと目に見えているものだ。一般的な文章を読むのとほとんど変わりはない。ただ、任意に裁断された週刊誌のようにばらばらに切り刻まれ、前後の文脈を失っているけれども。
BGM
「『沙石集』一巻八章、熊野詣での女、先達に口説かれ愁えしに、下女、主の女に代わりて先達に密会したる条。さて、夜、寄り会いたりけるに、先達はやがて金になりぬ。熊野には死をば金になるといえり」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.452』河出文庫)
今日そのような説話があったのかと思って見直してみると、手元の書籍では「拾遺」の系列に編入されていた。
「サテ夜(よ)ルヨリアヒタリケルニ、先達ハ、ヤガテ金ニ成ス。熊野ニハ、死ヲバ金ニナルトイヘリ」(日本古典文学体系「沙石集・拾遺・六・P.466」岩波書店)
なるほど「金に成る」と言うらしい。しかしそれが可能だったのは熊野の森が信仰対象だったからこそ成立した説話である。梛(なぎ)の木は熊野の神木とされてきた。神社合祀に伴ってそれらを伐採するということが決定された時、熊楠が猛抗議したことは十分うなづけるのである。というのも、熊野の生態系はそのような森林とそこに生息する多種多様な動植物の諸力のせめぎ合いがあって始めて維持されてきたものだからだ。熊楠はわざわざ定家の和歌を引いて、古くからの信仰に訴えようとしていたことは前に述べた。
「千早振(ちはやぶる)熊野の宮のなぎの葉をかはらぬ千代のためしにぞ折る」(「藤原定家歌集・拾遺愚草・下・P.224」岩波文庫)
他にもある。梛に限っただけでも。
「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)のぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
柳田國男はいう。
「一郷一邑(ゆう)の産土(うぶすな)神に至っては、土人は始めよりいささかなりともこれを侵犯せんと企つるものがなかったゆえに、ほとんと一回もその威光を試むる機会なしに今日に及んだのである。これに対する村人の感情は、恐れるというよりも懐(なつ)くという傾きが多かったために子供なども入って遊び、祭礼の時になれば、森に溢れるほど老若男女が群集したのである。しかしその森全体に至っては、風雨雷火のために自ら損傷する場合は格別、今日までいまだかつてこれを切ろうの払おうのという考えを持たずに過ぎて来たのである」(柳田國男「村民の懐しき産土神」『柳田國男全集15・P.498』ちくま文庫)
次の歌は「梁塵秘抄」に載っているもの。「切目」は「切目王子」のこと。
「熊野出(い)でて 切目(きりめ)の山の梛(なぎ)の葉し 万(よろづ)の人のうはきなりけり」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・五四七・P.215」新潮社)
しかし「うはき」とは何のことだろう。「うわぎ」(上衣)あるいは「かざり」(飾り)かもしれない、と考えられている。だが「万(よろづ)の人」に妥当するものではなくとも、山人にとっては極めて重要な意味を持つものだったことは疑いがない。
「まきもくのあなしの山の山人と人も見るがに山かづらせよ」(「古今和歌集・巻第二十・一〇七六・P.252」岩波文庫)
ここでいう「あなし」は「穴師」であり記紀で「鍛冶」(かぬち)と呼ばれている鍛治職人のこと。主に鉱山を本拠とする。祭祀の日の「山かづら」がその衣装に当たると考えられる。熊野では衣装のために「梛」の木の葉が用いられたのだろう。京の賀茂祭りの両蘰(もろかづら)が「葵と桂と」であるように。折口信夫はこう述べている。
「『穴師(アナシ)の山の山人』と神楽歌にも見えた大和宮廷時代から伝承したらしい山人は、大和國の國魂であり、長尾ノ市ノ宿禰が、祭主即、上座神人に任ぜられたのであつた。此は伊勢の大神が常世の神の性格を備へて居るのに対して、山の神である穴師の神に事へた山の神人即、山人の最初の記録である」(折口信夫全集2「村々の祭り・六・海の神・山の神・P.453」中公文庫)
さらに、熊楠は「下女、主の女に代わりて先達に密会」と言っている。何気ないことのように思える。「代参」、「身代り」、は主として忙しい日常生活を送る民衆のあいだで、古代から江戸末期まで続く広く認められた風習だった。西鶴「男色大鑑」に「科負比丘尼(とがおいびくに)」が出てくる。
「左側には衣をきた科負比丘尼(とがおいびくに)〔良家ノ子女ノ科(トガ)ヲ身代リニ負ウ尼〕、右には乳母らしい人が身近く付き添い、腰元、中通り〔下女ノ腰元ノ間ノ地位〕の女までみな色めいて振舞い、つづいて駕を吊(つ)らせ、押えには五十余りの親仁と若い男一人で大脇差の格好(かっこう)は町人であると見えた」(井原西鶴「心を染めし香の図誰(ずはたれ)」『男色大鑑・P.183』角川ソフィア文庫)
近代日本の成立とともに性の幅広さ、奥行き、厚み、などは逆に限定的になる。異性愛のみが自然でありそれ以外は不自然であるという転倒が起こる。あるべき性的関係は異性愛のみであるという不自然なイデオロギーが逆に自然な形態として設定し直され、知-権力装置によって規律-訓練を通して監視下に置かれる。だがそれは圧殺されるために監視されるわけではない。逆に規律-訓練を通して監視下に置かれることで、いつも測定され、家畜化され、階層秩序化され、匿名の管理社会の中でマーケティングされ、データ化されていくことになる。この匿名の管理社会による<パノプティコン>効果。自分で自分自身の行動をいちいち監視することで自動的に生じてくる人間のさらなる家畜化、平板化、記号化。労働力商品の均質化。均質化され、機械操作を通してますます均質化されていく労働力商品のいとも容易な置き換え、配置転換、不安定雇用の出現。
「性的欲望とは、権力が挫こうとする一種の自然的与件として、あるいは知が徐々に露呈させようとする暗い領分として想定すべきものではない。それは一つの<歴史的装置>に対して与え得る名である。捉えるのが難しい表面下の現実ではなくて、大きな表層の網の目であって、そこでは、身体への刺戟、快楽の強度化、言説への教唆、知識の形成、管理と抵抗の強化といったものが、互いに連鎖をなす。いくつかの、知と権力の大きな戦略に従ってである」(フーコー「知への意志・第四章・P.136」新潮社)
問題は深層にあるのではなく世界という「表層の網の目」に書き込まれている。睡眠中に見る夢は深層ではない。夢自体、表層である。とはいえ助詞を脱落させているため、何がなんだかわからなくなった象形文字に思えるわけだが、しかしまぎれもなくそれは表層として常に既に表層を成しつつ、ありありと目に見えているものだ。一般的な文章を読むのとほとんど変わりはない。ただ、任意に裁断された週刊誌のようにばらばらに切り刻まれ、前後の文脈を失っているけれども。
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