白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

遍在する廃墟/空虚の遍在8

2020年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム
「感染=パンデミック」報道を中心として、さらにはインターネットを介して、世界各地でまたたく間に表面化した差別や偏見という生身の暴力。とりわけ医療介護従事者に対する暴言が問題になっている。どうしてだろう。日本では差し当たり二十年ほどさかのぼってみることができる。先進諸国でグローバル化が達成された時期。欧米では早くも自己責任論が登場してきていた。ところで、グローバル化にもかかわらずなぜ自己責任なのか。問いがすり換えられたわけではない。むしろ出現するべくして出現してきたと十分にいえる。一九八〇年代後半。世界のリゾーム化はすでに始まっていた。絶対的中心の消滅〔神の死〕に取って代わって新しい神としての資本主義が世界をほぼ制覇したからである。消滅した「絶対的中心」に代わって、よりいっそう狡猾な《中心的なもの》が出現してきた。《中心的なもの》は固定されない。常に「移動する」ことを《欲する》。《移動》する《強度》としての資本主義とその世界化が実現された。

リゾーム型社会は世界を覆い尽くすとともにいつもすべてを接続状態に置きつつ様々な強度を全方向へ向けて流動させながら流れを調整する《公理系》として作動する。また《中心的なもの》は絶え間なく移動しているため、どこかで何か事件が発生した場合、その責任をたった一人の個人に還元することはできない。交通事故一つ取り上げてみても、それはいつもすでに「諸条件の一致」として、幾つもの多様な条件が重なり合った時点で瞬時に出現して始めて可視化されるものへと変換される。その場に複数の個人はいるが、すべての責任をたった一人の個人に帰することは不可能である。なぜならリゾーム型社会は絶対的中心の消滅に伴って出現した無数の網目によって覆い尽くされた世界であり、幾重にも折り重なっており、誰か特定の個人にすべての責任を帰すことはもはや不可能となっているからである。そして資本主義の高度化によって実現され更新されたさらなるリゾーム型社会の成立に伴って、誰か特定の人物にすべての責任を帰すことがますます困難になっていく世界が出現したとき始めて、逆説的に、誰か特定の人物にすべての責任をなすりつけようとする自己責任論が出現したのである。同時に、誰か特定の人物にすべての責任をなすりつけようとする自己責任論は、重大問題が発生した起源と問題発生に至るまでの全過程を覆い隠してしまう。

たとえば、事件事故の加害者が国民の総意で選ばれた社会的な特権的地位にあるような場合、被害者とその周囲は事件事故が発生する直前までずっと加害者の特権性を社会的規模で容認してきた側に位置していたという転倒は覆い隠されてしまうばかりか、被害者の側になった瞬間、被害者だけが逆に孤立してしまうといった転倒の転倒が生じる。

また、最近になって知ったのだが、日本では俗称「電通案件」と呼ばれるビジネスモデルが批判を浴びるようになってきたらしい。しかしもしそれが本当であれば思うのだが、あのようなビジネスモデルが日本で社会化したのは随分と古い話であって、今になって問題視される形で浮上してきたことにむしろ驚く。今から二十年ほど前、「PARCOとはなんだったのか」という書籍が出た。過去形である。たくさんの著名人たちがすでに整理し論じ終えていた。「憲法改正ありき」とか「東京五輪ありき」とか言われるようになって途中からすみやかに計画変更できなくなったのは、あのような一九八〇年代バブルの時期に確立された「シナリオありき」という世界的広告代理店商法が日本の政財官界を巻き込みつつ定着して以後のことである。さらに大規模な世界的広告代理店商法として一九九〇年代後半にアメリカ主導でNATOによって実行されたバルカン空爆によるバルカン全土の更地化、再土地化、不動産商品化、あらかじめシナリオ化されていた都市計画の実施による土地の投げ売りと貨幣を介した商品交換による剰余価値の実現を世界は目の当たりにした。あのような目に見える暴力的商法は資本主義をますます押し進めることに貢献した。そして加速的に高度化したネット社会が生み出されて以後、まず「シナリオありき」という世界的広告代理店商法は急速に丸裸にされていき、もうほとんどアナクロニズムの次元に頑固なまでにしがみついているとしか思えないほど価値下落しているかに見える。インターネットは世界を変えた。世界が変わったというより、変わったのは世界を見る「知の枠組み」である。「土地と地図」の違いでいえば、土地そのものはインプットできないため、デジタル変換され情報化された地図ばかりが大量に蓄積されるに至った。まず「シナリオありき」という世界的広告代理店商法が政財官界の上に立つことができるのは、現場としての「土地」が実際にあって、そこから「地図」としてのシナリオを描き出すことで「物語」(ストーリー)をパッチワークできるという条件が整っている限りで始めて成立する商法だったからだ。ところが今はどうか。すでに世界はほとんど「地図」ばかりであり、素材の現場となる「土地」は急速に失われた。「感動ポルノ」という言葉が発明され批判的に用いられ流通し出したときすでに、新しいシナリオを描こうにももはや「現場としての土地」はほぼ無いに等しく、逆にデジタル変換されデータバンク化され繰り返し組み換えられ使い古された「物語」(ストーリー)の残骸と無効化されたアナログ的「感動ポルノ」の断片ばかりが茫々として打ち広がっているという惨憺たる状況を迎えていたのだった。そこへ降って湧いたのが二〇二〇年の「感染=パンデミック」。主にマスコミを中心に可視化されている事態は新自由主義の大々的輸入によってずたずたに切り捨てられた医療介護の「現場」、社会保障の「現場」、全世界的相互依存体制の「不安定極まりない現場」である。切り捨てられたのは諸力の運動としての資本主義にとって必要不可欠な「いろは」の部分だった。今後、終息とともにまたしても「感動ポルノ」の投げ売りを始める材料が手に入った。世界的広告代理店戦略としては願ってもない無残な光景だ。思いも寄らぬ収穫だ。しかしどのようになるのか。まだ誰にもわからない。自己責任論の欺瞞性へ戻ろう。

先に述べた意味で自己責任論は、事実としての重大事件以上に重大な殺人的論理にほかならないという現実をも隠蔽する効果をもつ。「感染=パンデミック」による差別や偏見という生身の暴力の表面化は、この自己責任論が変形=応用され、全国各地で猛威を振るっているもう一つの「感染=パンデミック」として位置づけることができる。そして人間は結核が不治の病だった時代と同じように、事実としての病気の感染以上に、精神的な次元における病に感染する傾向を今なお根深く有する。人間は事実としての感染症よりも遥かに広く深く、精神的な病としての差別や偏見という生身の暴力に「感染=パンデミック」するのである。そしてその傾向について最も俊敏に反応した最初の人間はまたしてもマルクスだった。十九世紀のうちに欧米における資本主義的生産様式は劇的に変化=加速したわけだが、その無限に多様な網目状のリゾーム化を亡命者としてイギリスに腰を据えて注意深く観察することで、次のような事態がはっきり見えてきていた。

「経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、ほかのどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.26」国民文庫)

ところで、このような認識にしたがえば、「一個人の責任」という考えは発生してこない。というのも、欧米ではすでに大規模化した資本主義の中で、人間はすでに複雑化した「諸関係の所産」としてしか存在できなくなっていたし、事情がそうである以上、「責任主体《としての》個人」というものはあり得ないからである。だから「資本論」のマルクスは一貫して個人というものを「諸関係の所産」として取り扱っている。さらに。

「ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手であるかぎりでのことである」(マルクス「資本論・第一版序文・P.25~26」国民文庫)

この箇所ですでに「主体《としての》個人」というあり方はもはや無効化されている。むしろ個々人は「経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手である」とされる。個々人というのは労働力商品としての労働者のことをいうだけでなく同時に資本の人格化としての資本家を指す。一方に「経済的諸範疇《としての》労働者」がおり、他方に「経済的諸範疇《としての》資本家」がいる。「主体《としての》個人」というあり方は「一定の階級関係や利害関係の担い手」へと還元されていて、もはや個々人の「責任」という概念は永遠に括弧入れされる。括弧入れしたのは資本家ではなくましてや労働者でもなく、まぎれもない資本主義という諸力の運動であり、資本主義自らの運動によって両者ともに経済的諸カテゴリーの担い手として資本主義という制度のもとに分離した。この括弧入れをマルクスは資本の運動がそうした通りに括弧入れして取り扱うことにした。だから自己責任論というものは事後的かつ人為的に創設された単なる幻想に過ぎない。一人の人間の中にもニーチェのいう次のような流動性ならびに共同性が認められる以上、一方的な責任という抽象的観念はただちに頭の中だけで空想されたに過ぎない夢物語でしかないことが発覚した。

「われわれは任意の場合において同時に命令者であり、《かつ》服従者であって、服従者としては強制・切迫・圧迫・抵抗・運動の感情を知っており、これらの感情は意志の作用の後に直ちに起こることが常だからである。われわれは他面、この二重性を『われ』という綜合概念によって遠ざけ、誤摩化(ごまか)し去るという習慣をもっているかぎり、意欲にはなお誤謬推理の全連鎖と、従って意志そのものの誤った評価が取り憑(つ)いて来た。ーーーしかも意欲する者は、行為には意欲だけで《十分だ》、と信じ切るに至った。大概の場合、実に命令の効果、すなわち服従が、従って行為が《期待》されてよいときにのみ意欲されるので、この《外観》が転じてそこには《効果の必然性》が存在するかの如き感情に変った。とにかく、意欲する者は、かなりの程度の確実さをもって、意志と行為とは何らかの仕方で一つである、と信じている。ーーー彼は成効を、意欲の遂行をなお意志そのものに帰し、そこにおいてすべての成効をもたらすあの力の感情の増長を享(たの)しむ。『意志の自由』ーーーそれは、命令し、また同時に自らをその遂行者と同一視する意欲者のあの多様な愉悦状態を表わす言葉である。ーーー意欲者はこのような遂行者として抵抗に対する勝利を共に享(たの)しむが、しかしもともと抵抗に打ち克(か)つのは自己の愉悦感情に加えて、遂行し効果を挙げる道具の愉悦感情、隷属的な『下層意志』または『下層霊魂』ーーーわれわれの肉体は実に多数の霊魂の共同体にすぎないーーーの愉悦感情を享(たの)しむ。《その成果は私だ》。ここで起こることはあらゆるよく構成された幸福な共同体に起こることで、すなわち支配階級が共同体の諸成果と同一視されるわけである」(ニーチェ「善悪の彼岸・十九・P.36~37」岩波文庫)

フーコー権力論へ戻ろう。「狂気の歴史」、「監獄の誕生」、「知への意志」、といった作品系列が浮かび上がる。どの作品のあいだにも段階的切断がある。けれども「狂気の歴史」と「監獄の誕生」とのあいだには段階的というより質的切断が見られる。前回、そのことについて「強度と欲望の導入がある」として触れておいた。もっとも、「狂気の歴史」と「監獄の誕生」とを比較すればわかることではあるが、なおかつフーコーによれば、「監獄の誕生」を書くにあたってドゥルーズとガタリの共著「アンチ・オイディプス」がフーコー自身に与えた影響は測りがたいほど示唆的なものだったと原注で述べている。「狂気の歴史」は一九六一年発表。「監獄の誕生」は一九七五年。ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス」発表はそのあいだにあたる一九七二年。だから「監獄の誕生」がドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス」に対するフーコーなりの答えに見えるのは、両者による「対話」として捉えることができるからである。

さて、フーコーは次のセンテンスで「《国王の身体》の二重性」について触れた後、対極に「死刑囚の身体」を置いてみる。こう述べる。

「以前カントロヴィッツは《国王の身体》にかんすて注目すべき分析を行なったことがある。中世に形づくられた法律中心の神学にもとづいて二重の役割を与えられている身体、というわけである。というのは、生きて死す一時的な要素のほかに、国王の身体は別の要素を保有するのであって、それこそは時をつらぬいて止どまり、その王国の身体的な、だが触知しがたい(神聖にして冒すべからず、でもある)支えとして保持されるからである。しかも、こうした二重性はもともとキリストにまつわるモデルと近いつながりがあったので、この二重性のまわりに組み立てられたのが、君主政治の図像画・政治理論であり、人間としての国王と王権の要請とを区別しつつ同時に双方を結び合わせる法律機構であり、戴冠式と葬儀と服従制約式によって最高潮に達するすべての祭式である。その反対の極に、死刑囚の身体を置いてみようと考えたらどうだろう、その身体もやはり法律上の地位を持っている、それは儀式を営ませ、理論上の言説を生み出させる、がその目的は、君主の人格に割り振られていた《最大限の権力》に根拠を与えるためではなく、処罰に服す人々が押される烙印たる《最小限の権力》を記号体系化(コード化)するためである。政治の場のもっとも暗い地域で、死刑囚は国王と対称的で逆の形象を描くのである。カントロヴィッツに敬意を表しつつ《死刑囚の最小限の身体》とでも名づけうるものを分析する必要がある」(フーコー「監獄の誕生・P.32~33」新潮社)

国王の身体には「生きて死す」人間としての役割と、永遠に存続される「王権」という権力の二重化が認められる。それは「《最大限の権力》」である。だからといって死刑囚には権力がまったくないかといえば決してそうではない。死刑囚もまた「生きて死す」人間としての役割と、社会に対して永遠に働きかける「《最小限の権力》」の二重化が認められる。国王の身体は日常生活のみならずその儀式において最も極端な制約を与えられているが、他方、死刑囚は監禁空間の中の日常生活において処刑の瞬間までずっと「《死刑囚の最小限の身体》」が与えられている。死刑囚の場合、奪われるものは個人的レベルではたいへん大きいが、与えられるものは社会的レベルでの作用においてたいへん大きい。そしてその「《死刑囚の最小限の身体》」の分析から立ち現われる《政治学》の変化の歴史が書かれねばならないというのである。

「国王の側での権力を補足するために、国王の身体の二重化がひき起こされたとすれば、死刑囚の、服従した身体に行使される過剰な権力こそは、別の型の二重化をさそい出さなかっただろうか。身体不関与の二重化を、マブリー流の《精神》のそれを。そうだとすると、処罰権力のこの《微視的物理学》の歴史は一つの系譜調べ、いやむしろ近代《精神》の一つの系譜調べのための一断片となるにちがいない。われわれは、ある観念形態の再活性化された残りかすをこの近代精神のうちに見ることになるよりむしろ、そこに、身体にたいする権力の一種の技術論の現代的な相関を認めることになるだろう」(フーコー「監獄の誕生・P.33」新潮社)

フーコーが研究する権力の「《微視的物理学》」。それは具体的な「身体に対する権力の一種の技術論」として出現する。同時にその現代的な洗練への移行期に現われた「知の枠組み」の断層を目撃する作業である。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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遍在する廃墟/空虚の遍在7

2020年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
フーコー権力論の方法について。前半はすでに述べた。なので後半へ。

「権力の諸関連は濃密な社会の深部に降りていて、それらは市民にたいする国家の諸関連のなかとか階級間の境界とかには位置づけられないのであり、それらは個人・身体・身振り・行動などの水準で、法制のもしくは統治の一般形態を再生産することに甘んじないのである。しかも、〔それら諸関連の間に〕連続性は存在する(それらは一連の複合的な歯車装置全体に応じて実際にこの一般形態のうえに有機的に配置される)のだが、類比も相同もなくて機構上と様式上の種別性があるのである。最後に、それら諸関連は一辞一義的ではなく、それらは多数の対決点を、また不安定性の根源を規定するのであって、その根源のそれぞれが争いや戦いや、力関係のすくなくとも一時的な逆転などの危険を含んでいる」(フーコー「監獄の誕生・P.31」新潮社)

後に「知への意志」で描かれることになるアプローチがすでに公開されていると考えてよいだろう。「それら諸関連は一辞一義的ではなく、それらは多数の対決点を、また不安定性の根源を規定する」とあるところなどは「知への意志」で用いられる方法に最接近している。

「権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中にはいたるところに現前している」(フーコー「知への意志・P.123」新潮社)

さらにニーチェから。

「われわれは任意の場合において同時に命令者であり、《かつ》服従者であって、服従者としては強制・切迫・圧迫・抵抗・運動の感情を知っており、これらの感情は意志の作用の後に直ちに起こることが常だからである。われわれは他面、この二重性を『われ』という綜合概念によって遠ざけ、誤摩化(ごまか)し去るという習慣をもっているかぎり、意欲にはなお誤謬推理の全連鎖と、従って意志そのものの誤った評価が取り憑(つ)いて来た。ーーーしかも意欲する者は、行為には意欲だけで《十分だ》、と信じ切るに至った。大概の場合、実に命令の効果、すなわち服従が、従って行為が《期待》されてよいときにのみ意欲されるので、この《外観》が転じてそこには《効果の必然性》が存在するかの如き感情に変った。とにかく、意欲する者は、かなりの程度の確実さをもって、意志と行為とは何らかの仕方で一つである、と信じている。ーーー彼は成効を、意欲の遂行をなお意志そのものに帰し、そこにおいてすべての成効をもたらすあの力の感情の増長を享(たの)しむ。『意志の自由』ーーーそれは、命令し、また同時に自らをその遂行者と同一視する意欲者のあの多様な愉悦状態を表わす言葉である。ーーー意欲者はこのような遂行者として抵抗に対する勝利を共に享(たの)しむが、しかしもともと抵抗に打ち克(か)つのは自己の愉悦感情に加えて、遂行し効果を挙げる道具の愉悦感情、隷属的な『下層意志』または『下層霊魂』ーーーわれわれの肉体は実に多数の霊魂の共同体にすぎないーーーの愉悦感情を享(たの)しむ。《その成果は私だ》。ここで起こることはあらゆるよく構成された幸福な共同体に起こることで、すなわち支配階級が共同体の諸成果と同一視されるわけである」(ニーチェ「善悪の彼岸・十九・P.36~37」岩波文庫)

一人の人間の身体でさえ「多数の霊魂の共同体」としてしかあり得ない。そうニーチェはいう。もっと単純な例として。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含むのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)

といったふうに、単純な例だが述べられていることは同じ。そしてまた有機体としての身体について言えることは有機体としての社会にも当てはめて考えることができる。だからといって、身体とか国家とかを解剖=分析するわけではない。重要なのは、「一つの身体」とか「一つの国家」ではなく、諸関係の網目としての人間を貫通しつつ立ち現われる、世界中のどこにでも出現する、或る種の《政治性》についてである。次にフーコーは「すべてか無かを決めるような」素朴な二元論を退ける。

「これら《微視的権力》の置換えは、したがって、すべてか無かを決めるような法則には従っていない、また装置の新たな制御によっても、制度の新たな作用や破壊によっても、決定的に成しとげられはしない、また他方、その置換えの局地的な偶発的出来事はどれも、その置換えが自ら置かれる網目全体にもたらす効果に拠って以外には歴史のなかに加え入れることはできない」(フーコー「監獄の誕生・P.31」新潮社)

問題は、対立関係からではなく「諸関係の網目」という認識構造から導き出されねば見えてこない、という点にある。しかしこの「網目」とはどういうことなのか。「権力と知と」を切り離して考えることはできないし、そもそもそのような単純素朴な二元論はもはや無効化されている、という点に留意したい。

「同様に、権力的な諸関連が一時留保される場合にのみ知は存在しうるとか、知は自分が行なう禁止命令や要請や利害関係と離れる場合にのみ発展しうるとか、そのように想定させておく伝統的な考えのすべてを捨てさる必要が多分あるだろう。権力が狂人を生み出すとか、逆に、権力を捨てさることが人が学者たりうる諸条件の一つであるとか、そうした考えを捨てさる必要が多分あるにちがいない。むしろ、われわれが承認しなければならないのは、権力は何らかの知を生み出す(ただ単に、知は奉仕してくれるから知を優遇することによってとか、あるいは、知は有益だから知を応用することによってとか、だけではなく)という点であり、権力と知は相互に直接含みあうという点、また、ある知の領域との相関関係が組み立てられなければ権力的関連は存在しないし、同時に権力的関連を想定したり組み立てたりしないような知は存在しないという点である」(フーコー「監獄の誕生・P.31~32」新潮社)

権力は知を含み、知は権力を含む。両者はいつもすでに互いに互いを根拠化しつつ含まれ合っているということ。むしろそうでないような知は、したがって権力もまた、存在しないとフーコーはいう。また、「これ」と指名できるようなたった一人の権力者が確実にいるとか、たった一つの権力制度が世界を金縛りにしているとか、そういった目で見ても権力-知というあり方を《関わり合い》の観点から見抜くことはできない。

「《権力と知》のこの諸関連は、自由であるはずのひとりの認識主体をもとにしても、あるいは権力制度との関係によっても分析されえない。ところが反対に考慮しておく必要があるのは、認識する主体、認識されるべき客体、認識の様態はそれぞれが、権力-知の例の基本的な係り合いの、またそれら係り合いの史的変化の、諸結果であるという点である。要するに、権力の有益な知であれ不服従な知であれ一つの知を生み出すと想定されるのは認識主体の活動なのではない、それは権力-知〔の係り合い〕であり、それを横切り、それが組み立てられ、在りうべき認識形態と認識領域を規定する、その過程ならびに戦いである」(フーコー「監獄の誕生・P.32」新潮社)

この箇所で「過程ならびに戦い」とある。戦争とか闘争とかいう意味での「過程ならびに戦い」ではない。ではどういう意味でなのか。

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)

また、「諸関連」の捉えどころのなさ、という問題がある。「知への意志」から二箇所。第一に。

「権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的であること。事実としてそれが理解可能なのは、それを『説明して』くれるような別の決定機関の、因果関係における作用であるからではなく、それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の目標と目的なしに行使される権力はない。しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない。権力の合理性を司る司令部のようなものを求めるのはやめよう。統治する階級も、国家の諸機関を統治する集団も、最も重要な経済的決定をする人々も、一社会において機能し(そしてその社会を機能させている)権力の網の目の総体を管理・運営することはない」(フーコー「知への意志・P.122」新潮社)

第二に。

「権力に対して、偉大な《拒絶》の場が《一つ》ーーー反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったものーーーーーがあるわけではない。そうではなくて、《複数の》抵抗があって、それらすべてが特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している、這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない」(フーコー「知への意志・P.123~124」新潮社)

フーコーは権力論においても複数性ということに注目している。複数の抵抗点を前提として様々な形態で出現するとともに変化する政治的技術が問題だというわけだ。だからフーコーが権力について「解剖」というのは、無数の力関係のせめぎ合いからなる権力という装置を《政治学的》な場へ移動させ、政治の歴史の中で位置づけ直すことである。

「身体の政治的攻囲および権力の微視的物理学を分析するにあたっては、その前提としてわれわれはーーー権力についてはーーー例の暴力と観念形態との対比や《固有性》の比喩や契約ないしは征服というモデルを断念しなければならず、他方、知については、《利害関係のある》ものと《利害関係なき》ものとの対比や認識とういモデルや認識主体の最優位性を断念しなければならない。十七世紀にペティーと同時代の人々が政治《解剖》という語にこめたのとは異なる意味合いでこの語を用いつつ、われわれは一つの政治《解剖》を夢見てもよいかもしれない。それは一つの《身体》(その構成要素・資源・力を含めての)と見なされる一国家の研究ではあるまいし、また小さな国家と見なされる身体ならびにその周辺部の研究でもやはりないだろう。その《解剖》ではわれわれは《政治体》を、物質的構成要素ならびに技術の総体として取扱うであろうし、その技術たるや、人体を攻囲してそれを知の客体となしつつ、服従させる、権力と知の諸関連にとって、武器・中継地・伝達手段・拠点として役立つのである。重要なのは、ーーー処罰技術が身体刑の祭式で身体に襲いかかるにせよ、あるいは人間精神を対象とするにせよーーーそれら技術を政治体の歴史のなかに位置づけなおしてみることである。刑罰の実際を、法律理論の影響の一つとしてよりも、政治解剖の一つの章として考えること」(フーコー「監獄の誕生・P.32」新潮社)

さらに「知への意志」から。

「抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的断絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。縷々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める」(フーコー「知への意志・P.124」新潮社)

何やらぐるぐる回る堂々巡りめいて見えてくる。だが「可動的」、「移動する」、「再編成」、といった言葉の使用はたいへんニーチェ的な意味で用いられている。諸力の運動としての強度と欲望の導入がある。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

といったふうに。もはや世界に絶対的な不動の中心というものはない〔神の死〕。あるとしてもしばしば浮かんでは消えそうになる空虚なものでしかない。中心というものは本来的に空虚なものであって、空虚であるにもかかわらず生き延びるのではなく、空虚ゆえにかえって生き延びることができるのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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遍在する廃墟/空虚の遍在6

2020年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
マスコミ報道を見ていると「感染=パンデミック」について「経済か社会保障か」という問いを立てている。あからさまな見当違いを堂々と報道して見せるところはさすがにマスコミであってマスコミでなくてはあそこまで堂々たる見当違いを大々的に演じることはできないだろうとおもわれる。なぜなら「経済」という言葉が資本主義という意味で用いられているとすれば、「経済」はあらかじめ「社会保障」を含んでいるからである。「社会保障」を制度として内部に含み込むことで始めて資本主義は生成期のむき出しの資本主義から脱してよりいっそうモダンで洗練された資本主義として、なおかつ「ロシア革命を消化した」資本主義として東西冷戦を制し世界を制覇することができたからである。にもかかわらず、なぜ今になって「経済か社会保障か」という問いが出てくるのだろう。驚かないではいられないと言いたいところだが、「経済か社会保障か」という問いが事実として問題になっているとすれば、今の世界を覆い尽くしているのは資本主義ではなく新自由主義という制度のことであって、資本主義とは似て非なる別物だと言わねばならない。資本主義が快適な動作環境を維持していれば、多かれ少なかれ周期的な恐慌は当然のように起こってくる。けれども、「経済か社会保障か」という問いは二十世紀いっぱいを要してすでに克服され制圧された問いなのであって、まかり間違っても起こってくることは不可能だからだ。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)

世界中が「感染=パンデミック」に恐れおののいていてもなお銀行と病院とは原則的に休業できない。一人の銀行員が故障したとする。ただちに病院が修理回復させる。そして銀行員はすみやかに職場復帰する。このサイクルがいつもすでに快適な動作環境を維持継続できているか、その準備がいつも整理整頓されていていつでもただちに稼働できる状態に入っている限りで、始めて市民社会はその中へ溶け込むことができると同時に生産、流通、金融機関ならびに社会保障機構の担い手として生きることができ、さらにその再生産過程へどんどん参入していくことができる。というより、つい最近まではできていた。モダンな資本主義はそのような長期間に渡る苦闘の末にようやくグローバル資本主義としてのネット社会をも実現するに至った。ところがどういうわけでか、自分で自分自身の身体の中から新自由主義という前代未聞の怪物を生み出した。アメリカでいう「無政府主義的キャピタリズム」あるいは「急進的リバタリアン」という怪物を。すると自動的に時代は退行する。過去に叩き潰し念入りに葬り去ったはずの亡霊がゾンビのごとく蘇ってくる。だから「経済か社会保障か」という問いは、はなはだしい見当違いであるにもかかわらず、亡霊ではない事実として反復されるような事態が出現してきた。

一九三二年七月三十日。アインシュタインはフロイトに向けてこう問うている。

「国民の多くが学校やマスコミの手で煽(あお)り立てられ、自分の身を犠牲にしていくーーーこのようなことがどうして起こり得るのだろうか?答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜(ひそ)んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が」(アインシュタイン「フロイトへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.15』講談社学術文庫)

戦争阻止のために何ができるか。それがテーマ。国連(当時の国際連盟)がアインシュタインに宛てて考えてほしいと要請した。要請を受け取ったアインシュタインは議論の相手にフロイトを指名した。そこでずばりと提出された問いは、フロイトがかねてから発表していた人間の「破壊欲動」についての問いだった。フロイトは始めのうち簡潔に自説を述べるに留めている。

「『死の欲動』が《外》の対象に向けられると、『破壊欲動』になるのです。生命体は異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていきますが、破壊欲動の一部は生命体へ《内面化》されます」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.43』講談社学術文庫)

この内容はフロイト以前にニーチェが発表していた内容と一致する。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

フロイトはニーチェから多くのヒントを得たことを自分で述べてもいる。

「ニーチェは夢の中には『一片の原始の人間性がはたらきつづけており、われわれはそこへ直接にはほとんど到達しがたいのだ』といっているが、この言葉がいかに適切なものであるかがよくわかるような気がする」(フロイト「夢判断・下・P.309」新潮文庫)

さらに。

「グロデックの用語にしたがってエスと名づけるよう提案する。グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつもつかわれている」(フロイト「自我とエス」『フロイト著作集6・P.273』人文書院)

それに留まらずフロイトはもちろん自分でも論理展開している。たとえば次のように。

「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)

要するに、人間にとって、人間の「内面の起源」とはどのようになっているか、といった部分へ迫っている。

原始的社会に起こったであろう事情について、こう述べる。ここらへんはヘーゲルを参照したのだろう。

「敵を葬ろうとしたとき、新たな考えが浮かび、敵を殺すのをやめるかもしれません。恐怖心を徹底的に植えつけたうえで、敵を生かしておき、何かの労働に使おう!暴力で敵を殺すのではなく、屈服させるだけで満足するようになるのです。これこそ、敵に情けをかけることのはじまりにほかなりません」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.26』講談社学術文庫)

そして国連の重要さへ議論を進める。

「個人の粗暴な暴力が克服されるには、権力が多数の人間の集団へ移譲される必要があります」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.28』講談社学術文庫)

見解は悲観的におもえる。けれどもなお希望を持ち続けていくためには何が必要か。

「独自の権力、自分の意思を押し通す力を国際連盟は持っていないのです。否、国際連盟がそうした力を持てるのは一つの場合に限られるのです。個々の国々が自分たちの持つ権力を国際連盟に譲り渡すとき、そのときだけなのです」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.34~35』講談社学術文庫)

文化的発展は何をやるのか、そしてまた、何をやらないのか。悲観的でもなく楽観的でもない箇所で次のような見解を披露する。

「文化の発展の幾つかの特徴は、すぐに見て取れます。例えば、文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発展のために、人間の性的な機能がさまざまな形で損なわれてきているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています。こうした文化の発展はある種の動物の家畜化に喩えられるかもしれません」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.52~53』講談社学術文庫)

日本では田中康夫のデビュー作「なんとなく、クリスタル」の巻末で引用された人口統計に基づく資料が話題になった。妊娠出産の是非を問うものではなく、一般的に、世間あるいはマスコミを通して「文化的発展」と呼ばれて無批判に称賛されている「文化」とはなんなのか。それへの問いとして、小説という方法を利用して、提出された資料から資料価値を引き出すことに成功した。さらにアメリカの場合、文化的発展に伴ってすでに個々人が家屋を新築する際、新しく建設される家と家との間隔がだんだん隔たっていくという事態が起こってきていた。文化的発展は個々人を繋ぐのではなく逆に隔絶させていくという傾向がある。しかし当時、アメリカはただ単に広大な土地を持っているからということで、議論は途絶えてしまうことが多々あった。ところが一九九〇年代後半に入ってインターネットの全面的接続という動作環境が整うやいなや個々人は爆発的に隔絶して生きるのが当たり前の生活様式を選択するという傾向が人間の性質として焦点化されるに至る。職場はニューヨークだが家はニューヨークとアパラチア山脈のあいだにあると。そういう生活様式が同時多発するようになってきた。良い悪いの問題ではなく人間とその文化的発展との関係の中には、そもそもそういう傾向を生じさせる性質があったのだということが、職場と住居との隔絶、隣人Aの住居と隣人Bの住居との隔絶ならびに棲み分けという結果を見るに至り、ようやく後になって認識されるとともに問題視されるようになった。今やアパラチア山脈の麓周辺はニューヨークで失敗した人々、とりわけ貧乏白人密集地としてほとんどマフィアの巣窟と化してしまった箇所が幾つも見られる。しかしなぜ貧乏黒人でないのか。貧乏黒人あるいは貧乏な非白人は奴隷制度があった時代に低賃金労働者としてもともとニューヨーク近郊に移住することを余儀なくされ、たとえばブルックリンの黒人居住地区などがそうだが、同じ場所に長く住みついており、数百年にわたり大きな生活圏を築き上げていた。その動きに並走するかのようにイタリア系、中南米系、中国系、ロシア系、コリアン、日系、など多くの移民によってニューヨークという街区はよりいっそう巨大化しつつ中央集権的経済活動の中心地として形成されるに至った。もっとも、アメリカ人がアメリカ人になる前に先住民族がいた。インディアンといっても一つではなく様々な共同体がそれぞれの生活様式のもとで暮らしていた。新大陸へ渡ったヨーロッパ人はこれらの先住民族と出会い、出会うやいなや自分で自分自身をたちまち「自分たち」と「他者」という対立する両極という関係に置き、先住民族をほぼ全面的に制圧してしまうことで始めてアメリカ人というまったく新しい人々が出現したのである。しかしさらにここ十年ばかりの間にうようよ発生してきた問題の一つにアメリカ社会のメンタルヘルス大国化を上げておかねばならない。スマートフォンの全米化に伴って、まではよかったとしても、スマートフォンにイヤホンが付いたその瞬間、特に若年層を中心とした大量のアメリカ市民がスマートフォンのイヤホンの中へ自分で自分自身を閉鎖し、屋外から自分で自分自身を自己疎外してしまった。アメリカの中で、とりわけ多くの若年層が、ニューヨークの真ん中で隣人と隔絶するという閉鎖環境へ立てこもってしまった。だからといってアメリカ社会はもはや端末機器なしに生きていくことはできない。スマートフォンを取り上げることもできない。家畜化からの解放は端末機器との絶え間なく新しい「婚姻」という形で劇的に出現した。

資本主義は競争社会である。前提として不変資本と可変資本とに分かれている。一方に生産手段の所有者が、他方に労働力商品としての労働者が、分離された状態で存在していることが第一の前提。契約によって生産手段と労働力商品とを合体させることが第二の前提。この合体と同時に資本回転はすでに開始されている。さらに資本主義は資本主義自身の特徴として、資本主義に関わるすべての人間を均質化するという傾向がある。第一に言語の流通によって。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)

第二に商品交換を介した諸関係を押し進めることによって。

「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫)

第三に、近代社会になってやおら顕著になった特徴として「人間」としては誰もが同じであるという論理学を前提として、人間は「算定される」ものになったという点で。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

しかしこれらの過程にはどれも言語によってもたらされるコミュニケーションの論理学的一貫性が、とりわけ数学の絶対的一貫性が、貫かれていなければならない。

「《自称学問としての言語》。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第一章・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)

さらに。

「数は、世界を私たちの扱いやすいものとするための、私たちの大きな恒常手段である。私たちは、私たちが数えうるかぎりにおいて、言いかえれば、なんらかの恒常性が知覚されうるかぎりにおいて、〔世界を〕把握する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一八八・P.114」ちくま学芸文庫)

これら諸条件が資本主義的生産様式の前提として確実かつ実際に絶え間なく運用されている限りでのみ人間の《畜群化》は可能になったと言わねばならない。しかしこの動作が自動機械化するのはなぜなのか。第一に目に見える監視社会の成立があり、その終わりの始まりとして、第二に、目に見えない管理社会の成立があったからである。そしてこの第二の、目に見えない管理社会こそが、昨今の社会問題として取り扱われざるを得ない事態に立ち至ってきたという経過がある。問題を可視化するためには、目に見える監視社会の成立から目に見えない管理社会への移行期を焦点化しなくてはならない。

とはいえ、今回は問題の性質上、カントの一節に触れないわけにはいかない。

「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)

カントは「持続しながらたえず拡大する《連合》」という。この場合の「《連合》」は団結というより、遥かに“association”=「アソシエーション、繋がり」の意味に重点が置かれている。またこのような関係を重視する傾向はマルクスーーー「資本論」のマルクスーーーにも受け継がれている。

「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだす」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.437」国民文庫)

というふうに。

しかしなお最も大事なことは、それぞれ専門分野の異なる二人が、同時に亡命者として、《対話し合った》ということにあるだろうとおもう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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遍在する廃墟/空虚の遍在5

2020年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホそしてアルトーについて。彼らにとって何が問題だったのか。これまで述べてきた中では、実のところ、まだ何ら明確化されたわけではない。身体とは何か。それを明確化する作業なしにゴッホそしてアルトーの絵画あるいは言葉について何をどのように考えればいいのか。この作業なしにはまるで雲をつかもうとするような話になってしまう。それを回避するためには差し当たりフーコーを参照せねばならない。差し当たりというのは、これまでのように作品「狂気の歴史」を中心に参照してきたようにではなく、とりわけ作品「監獄の誕生」を参照せねばならないからである。少しずつしかできないけれども、ともかくやって行こうとおもう。

「われわれは次の一般的な主題をおそらく受け入れてもよいだろう、現代社会では処罰制度は身体についての一種の《経済学》のなかに位置づけをしなおさなければならない、という主題を。すなわち、その制度が暴力的なもしくは血なまぐさい懲罰に訴えない場合にも、あるいは閉じ込めや矯正を行なう《穏健な》手段を用いる場合にも、問題になるのはつねに身体であるーーー身体とその体力、体力の用途とおとなしさ、体力の配分と服従である。懲罰の歴史を道徳観念や法律構造を基礎にして書きあげることは、たしかに正当な仕事である。ところが、もはや懲罰のほうは目標としてもっぱら犯罪者のひそかな精神しか狙っていないと言っているわけだから、懲罰の歴史を身体の歴史を基礎にしてはたして書きあげることができるだろうか」(フーコー「監獄の誕生・P.29」新潮社)

身体を問題とするといっても、身体はなぜ「計測」されるのか。身体測定はなぜ行われなければならないのか。おそらく一般の教育機関で身体測定している教育者も測定されている学生もほとんどわかってはいない。わからないほど浸透した、ということについて、まるでわかっていない、ということができる。

「身体の歴史といえば、歴史家たちはずっと以前からそれに着手してきた。彼らは身体を史的な人口統計学や病理学の分野で研究してきた。身体をば、欲求と欲望との座として、生理過程と新陳代謝との場として、微生物と濾過性病原体との攻撃目標として考察してきた。つまり、史的な諸過程がいかなる程度まで、生存の純粋に生物学的な台座(つまり身体)と見なされうるもののなかに含まれるか、しかもまた、種々の社会の歴史のなかでいかなる位置を、細菌の伝播とか寿命の延びのような生物学的な《出来事》に与えるべきであるか、などを彼らは明らかにしてきた。ところが同じく直接に身体は政治の領域のなかに投げこまれているのであって、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、それを訓練し、責めさいなみ、それに労役を強制し、儀式を押しつけ、それから表徴を要求するのである。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。身体が権力関係と支配関係によって攻囲されるのは、かなりの程度までは生産力としてであるが、その代わりに、身体を生産力として組み込むことができるのは、身体が服従の強制の仕組(そこでは欲求もまた注意深く配分され計量され活用される政治的道具の一つである)のなかに入れられる場合に限られる。身体は、生産する身体であると同時に服従せる身体である場合にのみ有効な力となる」(フーコー「監獄の誕生・P.29~30」新潮社)

フーコーが注意を促しつつ焦点化しようとしていることは「身体の《政治性》」である。それはただ単なる経済に還元できるようなものではなく、また政治だけに還元できるようなものでもない。政治=経済は、なるほど頭の中でだけであれば単純に別々に切り離して考えることはできる。しかし事実上、両者は《身体において》一致している。だから、身体測定なのだ。その意味で身体は極めて政治的である。政治的だからこそ、いちいちしつこく、まったくこれでもかとばかり執拗に「測定」される。この種の「測定」が教育機関あるいは刑務所のような懲罰機関において最も厳格化されているのはそういう意味〔政治性〕を担っているからこそなのだ。また刑罰の領域では現代に入ってもなお物理的暴力が用いられることはある。けれども目に見える物理的刑罰は激減してきた。もっと合理的かつ効果的な刑罰が発見されたからだ。「服従」というシステムの政治性とその合理的活用の追求という課題が出現する。

「この服従の強制は単に暴力本位だけによっても、また単に観念形態を主とする手段だけによっても実現されない。よしんば、この強制は直接的で物理的であってもよい、力には力をもってしてでもかまわない、物質的な若干の要素を対象にしてもよい、しかしながら、それは暴力的であってはならない。しかも、その強制はなるほど、計算され組織化され技術的に考慮されていてもよいし、巧妙であり、武器も使わず恐怖に訴えなくてもよい、しかしながらそれは身体的(物理的な、をも含む)次元にとどまっていなければならない。すなわち、身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの《知》と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうるわけであって、つまりは、この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名づけていいものを構成する」(フーコー「監獄の誕生・P.30」新潮社)

差し当たり「技術」と「技術論」とを分けてみる。だがすぐに接続される。その瞬間を捉えてみよう。まず政治的身体の技術は今なお時々刻々と変化の過程をたどっていく。だがそれはただ単にのんべんだらりと続いている長く伸びきった飴のようなものではなくて、ところどころですっかり模様替えされる。刷新される。刷新されたとき、政治的身体の「技術」は政治的身体の「技術論」として一般的に可視化される。

「この技術論は散乱していて、体系的で継続的な言説のかたちではほとんど表明されていない、また、しばしば断片的なもので組み立てられている、しかも、ちぐはぐな方式や道具を使用している。その技術論は成果の点では首尾一貫しているにもかかわらず、大抵の場合には、雑多な形式をもった装置全体にすぎない。その上、われわれにはそれを一定の型の制度のなかにも国家管理の装置のなかにも位置づけるわけにはいくまい。これら制度と装置のほうがこの技術論の助けをかりたのであって、その技術論の用いる諸方式を活用したり、それらに価値を付与したり、それらを強制する。しかしながら、その技術論じたいは機構と効力の点では、まったく別の水準に位置を占めているのである。前述の国家装置と制度が作用させる、いわば、権力の微視的物理学(ミクロフィジック)にかかわってくるのであるが、それの有効性の場は、いわば、それら装置ならびに制度の大仕掛な作用と、物質性と力とを含む身体じたいとのあいだに置かれている」(フーコー「監獄の誕生・P.30」新潮社)

ここで始めて「権力の微視的物理学」というフーコーの方法が、フーコー自身によって述べられる。

「この微視的物理学の研究には次の点が仮定されている。そこで行使される権力は、一つの固有性としてではなく一つの戦略として理解されるべきであり、その権力支配の効果は、一つの《占有》に帰せらるべきではなく、素質・操作・戦術・技術・作用などに帰せらるべきであること。その権力のうちにわれわれは、所有しうるかもしれぬ一つの特権を読み取るよりむしろ、つねに緊迫しつねに活動中の諸関連がつくる網目を読み取るべきであり、その権力のモデルとしてわれわれは、ある譲渡取引を行なう契約とか、ある領土を占有する征服を考えるよりむしろ、永久に果てない合戦を考えるべきであること。要するに次の点を承認しなければならない、その権力は、所有されるよりむしろ行使されるのであり、支配階級が獲得もしくは保持する《特権》ではなく支配階級が占める戦略的立場の総体的な効果であるーーー被支配者の立場が表明し、時には送り返しもする効果であることを。他方この権力は、《それを持たざる者》に、ただ単に一種の義務ないし禁止として強制されるのではない、その権力は彼らを攻囲し、彼らを介して、また彼らを通して貫かれる。しかもその権力は彼らを拠り所にするのである。まったくちょうど、それに対する戦いで今度は彼ら自身が、それがこちらに加える影響力を拠り所にするように」(フーコー「監獄の誕生・P.30~31」新潮社)

重要な引用が見られる。「権力のモデル」《としての》「永久に果てない合戦」。もっとも、フーコー自身が引用したと言っているわけではないが、おそらくニーチェを参照したと思われる。

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)

さらに「支配階級が獲得もしくは保持する《特権》ではなく支配階級が占める戦略的立場の総体的な効果であるーーー被支配者の立場が表明し、時には送り返しもする効果」そして「この権力は、《それを持たざる者》に、ただ単に一種の義務ないし禁止として強制されるのではない、その権力は彼らを攻囲し、彼らを介して、また彼らを通して貫かれる。しかもその権力は彼らを拠り所にする」という事態の常態化について。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

有機体としての人間とはそういうものだ。新陳代謝とはそういうものだ。また同時に、有機体としてのすべての人間のさらなる総合としての世界もまたそういうものだ。有機体としてのすべての人間のさらなる総合としての世界もまた新陳代謝しているし、新陳代謝している限りでのみ、生きていくことができる。無限の複数性としてしかあり得ない世界。世界はそのような多様体であり、それはただちに諸力の運動であるにもかかわらず、なぜ「《一つ》の意味をもった多様体」なのか。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)

そんなわけで、手持ちの読解格子はたいへん少ない。しかし読解格子の多い少ないは問題でない。装置というものについて考えるためには量的変化よりもむしろ遥かに濃厚な質的変化が問題だからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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遍在する廃墟/空虚の遍在4

2020年04月26日 | 日記・エッセイ・コラム
アルトーのいう「彼ら」は、しかし一体誰のことなのだろう。「ヴァン・ゴッホの死刑執行人たち」であり、それは同じものであり、したがって「かつてジェラール・ド・ネルヴァル、ボードレール、エドガー・アラン・ポー、そしてロートレアモンの死刑執行人たちがいたように」ごく当たり前の顔をしてそこらじゅうにいた。要するに《有機体としての》「社会」である。

「彼らはある日ヴァン・ゴッホにこう言った。さあ、これでもう十分だ、ヴァン・ゴッホよ、墓に入れ、われわれはおまえの天才にはうんざりしている、無限はどうかといえば、無限はわれわれのためにある」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.168』河出文庫)

ところが「無限」ということに関して、社会の側は何一つわかっていない、と言えばそれは勘違いなのだ。ゴッホもまた「無限」の何たるかを知らなかった。だからといって社会もゴッホも知らなかったから両者は同じだというふうに同一化してしまうのはミステイク。社会は宗教の側から与えられたステレオタイプな無限の観念にしがみついていた。信じて疑うということを知らなかったわけではないが、それは許されない行為でありどんな所業よりも遥かに重い、何度処刑しても処刑したりない不滅の凶悪犯罪に等しかった。けれどもゴッホは「まだ見ぬ《固有の》無限」を欲した点で決定的に違っている。当時のヨーロッパ社会は全体主義的キリスト教社会なのであって、その教義の持つキャパシティを出ない限りで「無限」は社会の側の絶体的所有に帰していた。ゴッホやアルトーのように「まだ見ぬ《固有の》無限」などあるはずはなく、あってはならなかった。ニーチェのいう「別様の感じ方」。そんなものは許されなかった。もし「別様の感じ方」をしている人間あるいはそれを求めている人間がいれば、発見次第、精神病院送りにして厳重に監禁管理するという暗黙の了解がなされていた。二〇二〇年の世界でいえば、拡張されたGPS機能に伴って出現してきた拡大解釈された全地球人の中央集権的特権的管理ということになるだろう。すでにそれは諸国家をその各部分に組み込んだ多国籍資本複合体によって可能になってはいるけれども。

「というのも、ヴァン・ゴッホが死んだのは、無限を探し求めすぎたためではないからだ、彼が貧困と窒息状態で無理やり息苦しくさせられるはめになったのは、彼の存命中にさえ彼に対抗して無限を握っていると信じていたすべての者たちからなる烏合の衆によって、あまりにそれを拒絶されたためであり、それに大衆の獣のような意識が、絵画や詩とはまったく何の関係もなかった自分たちの乱交パーティの糧にするために、彼を我が物にしようなどと思わなかったなら、ヴァン・ゴッホは、その生涯全体を通じて生きるに足るだけの無限を見つけることができたはずである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.168~169』河出文庫)

アルトーの言葉でいう「無限を握っていると信じていたすべての者たちからなる烏合の衆」、すなわち、ほとんどすべてのヨーロッパの社会人。ゴッホが拒否したのは彼らと共犯関係を結びことである。ただそれだけ。それだけのことで、一個の感受性としてのゴッホは自殺するほかない場へと叩き込まれたのだった。感受性というのは社会規範と一致する限りで許される感受性と、ゴッホのような、したがってアルトーのようなもう一つの、あるいは多数の感受性がある。しかし社会規範は、他方の感受性、多数の感受性の実在を許すことができない。近代化が進めば進むほど目に見える公開処刑が急速に減少したのにはわけがある。人員も経費も膨大に要する公開処刑はまったく経済的(エコノミー)でない。もっと合理的で狡猾な方法がある。ゴッホやアルトーの身体を内部から乗っ取るという方法が。社会は気づいた。社会と共犯しようとしない人間、共犯関係に入ることを拒否するゴッホやアルトーのような場合は逆に、社会の側から精神的に強姦してしまえばいいのだと。いいアイデアのようだから押し進めようとして実際に押し進めた。

「いつもはつねに乱交パーティや、ミサや、赦禱や、あるいは聖別、憑依、女淫夢魔、男淫夢魔といったような他の祭儀の際に起こるような起こるように、それがヴァン・ゴッホに対して起こったのである。つまり社会というやつが彼の身体のなかに入り込んだ」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.119』河出文庫)

ところが結果的に狂気ゆえの自殺として取り扱われることになる。この「結果」が逆に社会の側の暴力を覆い隠してしまうのである。ニーチェのいう「遠近法的倒錯」がここでも生じている。「原因と結果の取り違え」が。目に見えないがゆえにますます狡猾化する「社会」という全員一致の暴力。にもかかわらず、ゴッホは、したがってアルトーもまた、「気が狂って」いたがゆえに自殺したのだというありもしない「言説」が出現して、ゴッホやアルトーが自殺へと追い詰められていった全過程を覆い隠してしまう。だから問題は、「全員一致の暴力《としての》社会」は、いつどこでどのようにして可能となったか、でなくてはならないだろう。

なお、以前、ボードレールについては事情が異なると言っておいた。その理由は後で述べると。ようやくそこまで来た。ほかに上げられている人々の名とボードレールとの《あいだ》には微細だが、微細ゆえに決定的な違い〔差異〕が認められる。ボードレールを苦悶の底へ叩き込んでいたのは歴史の弁証法というものだからだ。一方に社会から排除された詩人=狂人としてのボードレールがいて、他方、理性=社会の一部分としてのボードレールがいる。ヘーゲル弁証法に則して、ヘーゲル弁証法に忠実であればあるほど、だから両者を統合させようとすればするほど、両者は頑なに脱統合化する傾向をむき出しにしてくる。それでもなおボードレールは意識的に破格の強靭さを持っていたのだろう。詩人=狂人としてのボードレールとしても、同時に理性=社会の一部分としてのボードレールとしても、生きることを欲したばかりか実際に生きた。このメンタルの強さがかえってボードレールをさらに苦しめることになる。社会から排除されたものとしてボードレールは犯罪者の立場を担っている。けれども同時に理性としてボードレールは犯罪者を断罪する死刑執行人たらざるを得ない。ボードレールは犯罪者と死刑執行人とを一身に兼ねるほかなくなる。事情はそうだ。ダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)である。だがアルトーはボードレールもまた社会という名の死刑執行人によって殺されたに等しいとしている。そうではなく、ボードレールの場合、一方的に殺されたのではなく、自分で自分自身をダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)の中へ叩き込んだ。それも極めて意識的にそうした。なおかつダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)を生きた。意識的に生きられたダブルバインド(相反傾向、板ばさみ)が、どういうわけでか知らないが、統合を失調することなく最後まで生きられたという点で、ボードレールは他の名を持つ芸術家らとは違っている。事情が異なるというのはそういう意味でいうのである。

また、ロートレアモンの場合も、同列に取り扱うべきでない。代表作「マルドロールの悲歌」は「第六の歌」まであるのだが、すでにデリダが指摘しているように「第一の歌」はもちろん「第五の歌」もすべて「序文」である。そして「第六の歌」に至る。が、ようやくここから「本文」が始まるかと思われたその寸前、有名なフレーズ「君自身でそこに見にゆき給え」、が滑り込んできて終わる。「本文」かと思われた「第六の歌」はなるほど「序文」ではないものの、或る意味、より以上に性格の悪い「予告」として登場してくる。となると何が残っているのか。約束されてはいるが永遠に延期されていくばかりの初舞台〔デビュー〕。というわけだ。永遠回帰によってよりいっそう明確化されるのは本文という幻想ではなく、複数の「序文」であり、「序文」の複数性であり、複数性であるほかないという世界の現実である。詳しくはデリダ「書物外」『散種・P.52〜64』(法政大学出版局)。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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