二〇一七年五月三十一日作。
(1)虚をついたキリンが振り向く
(2)強くもなく弱くもなく壊れる
(3)降り出しそうな洗面器の空を見詰める
(4)バスタブごしごし雨音を聴く
(5)すっかり監視社会の静けさ
☞監視社会とは言うもののその実態となると途端にマスコミは黙り込む。冷戦時代のほうがどこか懐かしい風景にさえ思えてしまいそうだ。新しい監視社会体系はそれほど人々の内面を浸蝕していると言ってよいのかも知れない。
「権力は至るところにある。すべてを統轄するからではない、至るところから生じるからである。そして通常言われる権力とは、その恒常的かつ反覆的な、無気力かつ自己生産的な側面において、これらすべての可動性から描き出される全体的作用にすぎず、これら可動性の一つ一つに支えを見いだし、そこから翻ってそれらを固定しようとはかる連鎖にすぎないのだ。おそらく名目論の立場を取らねばなるまい。権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない。それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.120~121」新潮社)
「権力の関係は、意図的であると同時に、非-主観的であること。事実としてそれが理解可能なのは、それを『説明』してくれるような別の決定機関の、因果関係における作用であるからではなく、それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の目標と目的なしに行使される権力はない。しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない。権力の合理性を司る司令部のようなものを求めるのはやめよう。統治する階級も、国家の諸機関を統治する集団も、最も重要な経済的決定をする人々も、一社会において機能し(そしてその社会を機能させている)権力の網の目の総体を管理・運営することはない」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.122」新潮社)
「権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで縷々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、おのれの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.122~123」新潮社)
「互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、おのれの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出す」。
そうフーコーがいうように人間の姿をした絶対的権力者というものが居るわけではない。むしろそのような時代はもうとっくの昔に終わっている。
匿名性という問題を頭に置いておこう。突出したイデオロギーが世界を部分的に支配しているというわけでない。まったく逆に諸々のイデオロギーが他の諸々のイデオロギーを暗黙の裡に利用し合うという情況さえ生じている。
「そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表わした者もほとんどいない、ということが生ずるのだ。無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略のもつ暗黙の性格であって、そのような戦略が多弁な戦術を調整するが、その『発明者』あるいは責任者は、縷々偽善的な性格を全く欠いているのだ」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.123」新潮社)
「権力のあるところには抵抗があること、そして、それにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。人は必然的に権力の『中に』いて、権力から『逃れる』ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない、なぜなら人は否応なしに法に従属させられているから、と言うべきであろうか。それとも、歴史は理性の詐術であり、権力のほうは歴史の詐術だが、これはいつも勝負に勝つ者だと。それは権力の関係のもつ厳密に関係的な性格を無視するものだ。権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中にはいたるところに現前している」(フーコー「性の歴史1・知への意志・P.123」新潮社)
「共謀」とは何か。政府見解はまるで説明になっていないようでもあり、そうでないようでもある。いずれにしろその前に、前提として、情報というものの質と価値(=意味)が飛躍的に別次元へ移ったことを確認しておく必要があるだろう。フーコーは緻密な考察を述べていなかっただろうか。監視社会について。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)
「ある現実的な服従強制が虚構的な(権力)関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段にうったえる必要はない。ベンサムが驚嘆していたが、一望監視の施設はごく軽やかであってよく、鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、(独房の)区分が明瞭で、戸口の窓がきちんと配置されるだけで充分である。城塞建築にもひとしい古い《安全確保(シュルテ)の施設》(つまり牢獄)にかわって、今や《確実性(セイティチュード)の施設》(新しい一望監視の装置)の簡潔で経済的で幾何学的な配置が現われうるわけである。権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へ──権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。それゆえ、外側にある権力のほうでさえも自分の物理的な重さ(施設や装置の重々しさ)を軽くでき、身体不関与を目標にする。しかもその権力がこの境界(精神と身体との)へ接近すれば接近するほど、ますますその効果は恒常的で深いもの、最終的に付与され、たえず導入されるものとなる。つまり、あらゆる物理的(身体的、でもある)な対決を避け、つねに前もって仕組まれる、永続的な勝利」(フーコー「監獄の誕生・P.204~205」新潮社)
「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議はないのである」(フーコー「監獄の誕生・P.227」新潮社)
「監禁的なるものは、徒刑監獄や犯罪者の懲役刑にはじまり雑多で軽微な規制にまで広がる長い濃淡の段階をもっているとはいえ、法律によって正当化され司法が得意な武器として活用する或る型の権力を伝える。規律・訓練ならびにそこで機能する権力が、はたしてどのように恣意的な姿で現われたりしようか、それらが司法そのものの諸機構を、それらの強さをやわらげながらもひたすら活動させているからには。規律・訓練が権力の諸結果を一般化して、自分の最低段階の施設にまで権力を伝達するのは、権力の厳格さを避けるためであるからには。監禁制度のこうした連続性、ならびに《形式としての監獄》のこうした普及の結果、規律・訓練中心の権力の合法化が、いやいずれにせよそれの正当化が可能になり、こうしてその権力は自らに含まれうる過度なもの、もしくは職権濫用的なものを人目につかぬようにするのである」(フーコー「監獄の誕生・P.302」新潮社)
「ところが反対に、ピラミッド状の監禁制度は、法律上の処罰を行使する権力に、その権力があらゆる過度ないしあらゆる暴力からいわば免れた姿をおびるそうした脈略を与える。規律・訓練の装置とそこに含まれる《規制措置》が巧妙なやり方で拡大上昇する諸段階のなかでは、監獄が表明するのは別種の権力の爆発では全然なく、まさしく、すでに最初の段階の制裁以来たえず働いている機構の強さの補足的一段階にすぎないわけである。投獄するまでにいたらず人を閉じ込める《矯正》施設の最低段階のものと、法律違反を特定したのちにその罪人を送りこむ監獄とのあいだでは、差異はほとんど感じられない(しかも感じられてはならない)のである。独特な処罰権力をなるべく秘密にするという結果をみちびく厳重な経済策である。今後はいかなるものもその権力に、かつて身体刑受刑者の身体に権威の報復をおこなっていた時代の、君主権力の古い過激さをもはや思い出させはしない。監獄は他の場所で始められた仕事を、しかも社会全体が多数の規律・訓練上の機構をとおして成員のそれぞれに続ける仕事を、投獄される人々に継続して行なうのである」(フーコー「監獄の誕生・P.302」新潮社)
「こうした監禁の連続体のおかげで、判決をくだす審級(裁判中心の)が取締りと変容と矯正と改良にあたるすべての審級(行刑中心の)のなかにしのびこむ。極端な場合には、もはやいかなるものによっても前者の審級は後者の審級から区別されないにちがいない、もしも非行者のとくに《危険有害な》性格、彼らの逸脱のはなはだしさ、祭式(司法の有する)の当然の厳粛さなどが存在しなければ。ところが、この処罰権力は機能の点では、治療もしくは教育の権力と本質的には異なっていない。処罰権力はそれらの権力から、そしていっそう劣った取るにたりぬその職務から、下部からの保証を、ただし技術と合理性を中心とする保証である以上やはり重要な保証を受取る。監禁的なるものは、規律・訓練をおこなう技術的権力を《合法化する》ように、処罰をおこなう法律的権力を《自然なものにする》。このように両者の権力を等質化し、法律的権力のなかに存在しうる暴力的なものと技術的権力のなかに存在しうる恣意的なものを消し去り、両者の権力のせいで起こるかもしれない反抗の影響をやわらげ、したがってそれら権力の激化と執拗さを役立たぬものにし、機械技術的であれ慎ましやかであれ同一の計算された方法を一方の権力から他方の権力へ通いあわせる、以上の方法でもって監禁的なるものは、人間の有益な管理ならびに蓄積の問題があらわれた十八世紀にその方式が探究されてきた、あの権力の大いなる《経済策》の実効化を可能にする」(フーコー「監獄の誕生・P.302~303」新潮社)
このような経過を経て、人間は、各自が各自の内面を自主的に監視するという特異な構造を各自の内面に打ち立てるに至る。奇妙な光景だ。実に奇妙な。あたかも旧ソ連で見られた全体主義スターリニズムの再現であるというのに。
にもかかわらず、人々は今そこにある奇妙な光景に気付かないという、さらなる違和感が妖奇の如く立ちのぼってくるのである。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
二〇一七年五月二十九日作。
(1)揺りかごの主人を探す
(2)気が抜けそうな二度目にはじける
(3)仰向けにはぜるヒロシマ
(4)巨鱗が炎夏を横断して行った
(5)霧が晴れたまた霧
☞「仏法の難しい解釈はさておいて『無間』地獄とは絶え間のない欲望に狩り立てられ、駈け走らされて、狂い廻る『阿鼻』地獄でもあるようだ」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.13」河出文庫)
赤松民俗学の基本的態度が語られる。
「『無限』も『無間』も同意語らしいが、『無間』をどのような無法な手段であろうと、おのれの欲望のためには行使するという残虐無惨さの世界の実現とみて、また『無間』をいかほどに財宝を積み上げようと、更にその上の財宝を求めて狂う不満欠落の世界の希求とみれば、どうやらわれわれ人間は始発の時代から『無間地獄』『無限地獄』の世界を狂い走り抜けてきたらしい」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.13」河出文庫)
「世にいう教育者とか、学者とかいうバカモンは、自分の住んでいる世界すらよく見ていないのに、少しでも道徳、倫理に反したと独断すると、あれはウソだとか、創作だとかほざく」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.23」河出文庫)
この辺りは痛快でさえある。
「戦後の民俗学の研究者どもも、昔のわれわれのように地を這うような民俗採取はやらない。まとめて成績の上がりそうなところをねらって網を打ち、かかったものだけを分析、統計化して、いかにも科学的調査であるかのように見せかける。それでは貧乏人、渡世人、漂泊者など非定住人、被差別者たちの世界が欠落するのは当然だろう」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.23」河出文庫)
「さらに悪質であり、滑稽なのは、支配権力側の視角からより物が見えないから、公式的な文書記録といえば信用して典拠にする」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.23」河出文庫)
「私たち下から見上げる立場からいえば、徳川時代の地方(じかた)文書にしろ、明治以後の地方の報告文書にしろ、あれほどインチキ、ペテンの多いものはない。町村役場や現場の組織、団体が、どんなにして行政や調査の報告を書いているかを見ておれば、これほどひどい作文はなかろうといえる。ほんとうの民衆の非常民の生活実態を切り落としてしまうのだから、あれで民衆や底辺の人たちの世界がわかるはずがない」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.23」河出文庫)
赤松啓介の徹底性。この徹底性はどのような諸条件において生じてきたか。
「戦前、われわれは国家権力や政府を信用しなかったから、地獄の下まで自分で入って行って納得できるまで調べた」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.23」河出文庫)
「資料採取の標本を示すと──#“ハヤソメハン”東播地方の習俗は一般に様式としては極めて崩壊している。しかしそうした崩壊様式のなかに古い型が珠玉の如く含まれているのを発見する。ハヤソメハンもその一つだ。加西郡在田村下芥田では、元旦の朝早く山から青い葉の木と、葉のついていない木を二本切ってきて、戸袋に外からもたらしておく。これをハヤソメハンというのである(宮崎三之助氏談)。これと同一の型であり、系統を同じうすると思われるもので、現在やや異なった伝承をしているのに加西郡加茂村山下のものがある。即ち、大晦日に山へ行って樫の木を枝なり七尺位程に切って持ち帰り、じゃまにならない内庭にクイを打ちつけ、それをくくりつけてちょうど木が生えているようにする。それにシメを張り、二日の朝オトコシがなったドウビキを枝へかけて祭る。正月三日間祀り、その後はかたづけてトンドにいっしょに焼いた。しかし、これは大きい家やジュントウな家でないとしない。その名称は、話された山下鹿太郎氏は御存知でなかった(以下略)(『民間伝承』第三巻第一号、昭和十二年九月刊)#──明らかなように資料採取の地名、提供された氏名は僅かな差であっても記録したのであり、他に年齢、必要があるときはムラでの職分、学歴なども加えた。極めて厳密な資料採取と記録をしたので、後に同似の資料が出た場合の比較照合のためもある」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.26~27」河出文庫)
「しかし、これは昭和十三年二月、『唯物論研究会』解散とともに資料提出者、談話者の氏名を公表しないことにし、同年十二月、弾圧、検挙の開始とともに約三百名を越える一切の名簿を焼却して、被害拡大の防止処置をとった。これはまことにやむをえざる処分であり、さらに十四年十月、私の検挙による家宅捜索で大半の資料を掠奪され、僅かに残された資料を整理、目下『はりま民俗』として続刊中である」(赤松啓介「性・差別・民俗・P.27」河出文庫)
他の方法では、なぜ「生活実態を切り落としてしまう」ということが起ってくるのか。ニーチェの言語論を参照しよう。
「個別的なものを《無視する》ということが、われわれが概念をもつことの原因なのであり、これとともにわれわれの認識は始まるのである。すなわち、《標題づけ》において、《諸々の類》の提示において、われわれの認識は始まるのである。だが、こうしたものに、事物の本質は対応してはいない。それは認識過程ではあるが、事物の本質を射当ててはいないのである。多くの個別的特徴が、われわれに一つの事物を規定してくれるが、すべてのものを規定してはくれない。こうした特徴の同等性が機縁となって、われわれは多くの事物を一つの概念の下に統括するようになる」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」・「哲学者の書・P.319」ちくま学芸文庫)
「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」・「哲学者の書・P.352~353」ちくま学芸文庫)
「真理とは、何なのであろうか?それは、隠喩、換喩、擬人観などの動的な一群であり、要するに人間的諸関係の総体であって、それが、詩的、修辞的に高揚され、転用され、飾られ、そして永い間の使用の後に、一民族にとって、確固たる、規準的な、拘束力のあるものと思われるに到ったところのものである。真理とは、錯覚なのであって、ただひとがそれの錯覚であることを忘れてしまったような錯覚である。それは、使い古されて感覚的に力がなくなってしまったような隠喩なのである。それは、肖像が消えてしまってもはや貨幣としてでなく今や金属として見なされるようになってしまったところの貨幣なのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」・「哲学者の書・P.354」ちくま学芸文庫)
木地師と密接な関係がある鋳物師に関して。地名を巡って次のような興味深い記述が見られる。
「現在の小浜市金屋には近年まで鋳物師が住み製作に従事していた。この金屋鋳物師(以下、本文では現金屋地区に活動の跡を残す鋳物師を便宜『金屋鋳物師』と称す)が伝えた文書群が今にのこされているが、その代表格が『芝田孫左衛門家文書』(旧『金屋鋳物師組合文書』)である。そして、この『芝田孫左衛門家文書』を通じて、彼ら金屋鋳物師が、平安時代、蔵人所(くろうどどころ)に所属して燈炉(とうろ)などの鉄製品を貢納するかわりに諸役免除や諸国往反の自由を保証された『燈炉供御人(くごにん)』の末裔を称し、これを根拠に、守護など代々の領主から、独占的営業権や免税特権を認められていたことなどが判明する」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.123」吉川弘文館)
「しかし、これら文書のうち、『燈炉供御人』の末裔であることを示すために保存された平安~南北朝時代の年号をもつ蔵人所牒(ちょう)などは、江戸時代の認可をうけて全国の鋳物師支配にあたった真継家(蔵人所舎人職を世襲)から後世授与されたもので、金屋鋳物師がその年号の時代に得た文書ではない。おそらく、金屋の鋳物師が得た最も古い文書は、天文九(一五四〇)年の若狭守護武田信豊(のぶとよ)袖判奉行人奉書(そではんぶぎょうにんほうしょ)で、信豊はここで若狭国内での金屋鋳物師の独占的営業権を認めている。また、『金屋中』(かなやちゅう)の表現もこの文書が初見である」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.123」吉川弘文館)
「金屋(かなや)(下金屋・小南)の地が鋳物師の集住する職人村的な様相を示すようになるのは、おそらくこの武田信豊の安堵(あんど)を得る十六世紀中盤のことで、蔵人所(真継家)との関係もほどなく構築されたのであろう。金屋鋳物師が『燈炉供御人』の末裔であることを確かめる術はないが、彼らが何を拠り所にして近世という時代を迎えようとしていたかを、『金屋中』の文書は雄弁に語っているのである」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.123~124」吉川弘文館)
「金屋の地は、遠敷川沿いに南下して近江国境に至るルート上にある。後掲遠敷市庭(おにゅういちば)からもほど近い。金屋鋳物師はその原材料である鉄を他国から調達していたし、生産品を販売することで食糧などの生活物資を得る生業であるから、主要街道と市庭に近い立地はその点を配慮したものと知れる。十五世紀初頭にはすでに小浜津に『鉄船』(鉄を積載する廻船)が入津しており(『若狭国税所今富名領主次第』)、鉄の主要産地である出雲などから運ばれた鉄の一部が、金屋鋳物師たちの原材料となったのであろう」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.124」吉川弘文館)
「『燈炉供御人』たちが遍歴性を後退させ、諸国に定着してその地の需要に応えるかたちで『売庭』(商圏)を形成していくのは十四世紀のこととされる。そして、こうした動向のなかで、全国的に金屋という地名が生み出されてくるという(網野善彦『中世の生業と民衆生活』)。これまで本文中でも便宜金屋鋳物師と称してきたが、本来は鋳物師たちが工房を設営したことから金屋の地名が付されたと考えるのが筋である。その意味で、金屋鋳物師の作品が十四世紀末から確認できることは注目される(表1『中世金屋鋳物師の製作品』参照)」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.124」吉川弘文館)
「表1(中世金屋鋳物師の製作品)冒頭の大工来阿は太良荘(たらのしょう)の住人である。彼が拠点をおいた太良荘尻高名(しつたかみょう)は、彼のような職人が生み出す富に対して特設された名で田畠は存在しない(網野善彦『中世東寺領荘園』など)。しかし、銘文に『下金屋来阿』と記したことからみて、梵鐘(ぼんしょう)製作の工房は金屋にあった。鍋・釜などの生活用品を製作する工房は太良荘に設営できても、梵鐘製作が可能な工房は規模も異なり荘外に求められた結果であろう。嘉吉三(一四四三)年に東寺御影堂(みえいどう)梵鐘を鋳造・寄進した太良荘の大工(だいく)行信(ぎょうしん)の証言によると、当時の若狭には大きな梵鐘を鋳造できる細工所は一ヵ所しかなく、(鋳物師の)大工も(自分)一人しかいなかったという(『東寺百合文書』)。行信のいう細工所が金屋をさすのであれば都合がよいが、いずれにしても、十四世紀末にすでに金屋地名があり、ここに梵鐘の製作も可能な規模を有する鋳物工房が存在していたことは確かなようである」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.124~125」吉川弘文館)
「若狭に在来の(あるいは来住した)鋳物師たちが、原材料の調達と商品の販売・流通を考えて選地し設営した鋳物工房が、やがて金屋と呼ばれ、鋳物師たちの集住とあいまって地名化していくという歴史を現小浜市金屋の地もたどったといえよう」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.125」吉川弘文館)
隠れ里(かくれざと)伝説を伝えている地域は日本列島全域に幾らもある。多くはただ単なる伝説の域を出ない。ここで引用する箇所にはそれなりの「裏打ち」が見られると考えられる。木地屋あるいは木地師の本拠に関する。
「近江から伊勢に越える峠はいくつかある。前掲の千種(ちぐさ)峠・八風(はっぷう)峠はその代表的なものであるが、八風街道に沿って流れる愛知(えち)川の支流御池川沿いを北行し治田(はりた)峠(君(きみ)が畑(はた)越)を越えて伊勢員弁(いなへ)郡に入るルートは、天正十一(一五八三)年、羽柴秀吉(はしばひでよし)の率いる伊勢亀山城攻撃軍が用いたとも伝えられる(『武家事紀』)。そして、その御池川沿いの小椋(おぐら)谷に、蛭谷(ひるたに)・君ヵ畑というふたつの集落がある。今では隠れ里の風情さえみせるこれらふたつの集落が、江戸時代には全国に展開する木地師(きじし)の元締めとして重要な役割を果たしていた」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.119」吉川弘文館)
最も重要なポイントは天皇との繋がりである。さらに並行して、大手の武家との繋がり、要するに時の権力者との関係が重要となる。
「木地師は本来移動性を有する職人であり、原料となる木材を求めて各地を渡り歩き製作に従事した。木工技術やそのほか彼らが携帯する諸技術を各地に移転することもあった。また彼らは、原材料に不足すると移動(『宿替え』『飛び』)するのを常としたため、諸国通行を可能とする往来手形(おうらいてがた)やその裏付けとなる天皇の綸旨(りんじ)、武家の免状などを携帯していた。江戸時代、これらの文書(およびその写(うつし))を全国の木地師に発行し、また技術保存に有利な同族結婚を斡旋するなどして、その代償に『氏子狩(うじこがり)(駈)』と称し奉加料(ほうがりょう)・烏帽子着料(えぼしちゃくりょう)などを徴収していたのが蛭谷・君ヵ畑である。平安時代前期・文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王が皇位継承の望みを絶たれ逃亡・流浪。小椋谷に隠棲して土地の人びとに轆轤(ろくろ)を用いた木地椀などの製法を教授したとの伝承を根拠に、『氏子狩』は十六世紀には開始されたという」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.119~121」吉川弘文館)
「もとよりこの地は中世小椋荘(摂関家領)の領域であり、蛭谷・君ヵ畑は建築用木材の伐採・搬出などを生業とする杣(そま)に属した。律令制のもと、中央・地方の官衙(かんが)や寺社に所属した諸職人が律令制の崩壊とともにその職能を元手に自立していくなかで、木工職人が材料を求めてこうした杣に来着したことは容易に想像される。中世において、椀・盆など生活雑器の製作技術がこの地で発展し製作職人を輩出する素地は確かに存在したといえる」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.121」吉川弘文館)
以下では、いわゆる「通説」との比較がなされている。
「しかし、ここで木地師発祥の地であることを周囲に認知させていくまでには、多くの政治的労力を要したことは容易に想像される。近隣の大君が畑(現多賀町)との相論は著名であり、また各地の木地師も、以仁王(もちひとおう)、安徳天皇、平家一門などそれぞれの祖先伝承を有していたからである。いうまでもなく、惟喬親王がこの地に隠棲したことを確かめることは困難であり、親王の隠棲理由は病、隠棲地も比叡山麓の小野とするのが通説である。しかし『氏子狩』が機能し、多くの木地師が小椋氏(または大岩氏)を称していることもまた事実である。悲運の皇子は木地師の神としてふたたび歴史上の役割を与えられることになったのである」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.121」吉川弘文館)
滋賀県の湖東ばかりではない。湖西にもその歴史がある。そして、この湖西の側を「木地師の里」として採用するのが「通説」である。「朽木の椀・朽木の盆」などは全国的に有名でもある。
「九里浜街道に沿って流れる北川の源流は近江国境を越えた山間部にある。昔、小浜(おばま)の殿様と朽木(くちき)の殿様が相談して大杉川を流れる谷川を国境としたという伝説(行逢坂伝説)がのこり、ここでは分水嶺が国境とはなっていない。その谷川が北川の支流天増川(あますがわ)であり、天増川が開いた谷奥に、江戸時代、梨子木・六ツ石・轆轤(ろくろ)・水谷という四つの村があった(現今津町狭山)。轆轤地名から推察してここに木地師が生活していた可能性は高い。これらの村は、治暦四(一〇六八)年の太政官牒写(だじょうかんちょううつし)(『日置神社文書』)に、平等院領河上荘の『西限(西境)杣山等若狭国堺』に相当する地域に所在し、江戸時代の山論史料によると、天文年間(一五三二~五五)若狭から移住した人びとによって開かれたという伝承を持つ(『高島郡史』)。河上荘内の古刹(こさつ)酒波寺(さなみじ)(現今津町酒波)に伝存する大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻は、観応二(一三五一)年、天増川源流地域にある三十三間山(さんじゅうさんげんやま)の入会権(いりあいけん)と交換に若狭国倉見荘から『酒波社』(日置神社)に寄進されたという(『日置神社文書』『山田勘兵衛家文書』、日置神社から酒波寺に移されたのは江戸幕末の安政元(一八五四)年)。天文年間の移住もこうした入会慣行と無縁ではなかろう」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.121~122」吉川弘文館)
「一方、河上荘の南境を画する安曇(あど)川の支流麻生川(あそうがわ)のつくる谷筋は西に伸び、木地山峠(きじやまとうげ)を越えて若狭国上根来(かみねごり)村へ入る道を形成している(『針畑越』)。ここにもかつて轆轤村(現朽木村麻生)があり、天正十四(一五八六)年に『氏子狩』がおこなわれた(『大岩助左衛門日記』杉本壽『木地師支配制度の研究』)。前掲天増川上流地域と同様、木工職人の村としての歴史は中世にさかのぼる可能性がある。しかも、『針畑越』を東に行けば朽木市庭に至り、西の国境を越えて北行すれば、後掲の鋳物師(いもじ)集落金屋(かなや)をへて遠敷市庭(おにゅういちば)に至る」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.122」吉川弘文館)
木地屋はどこをどのように移動したか。
「一般に木地師は尾根筋を移動して川の上流に住みつくので、同じ川の下流に住む人びととの交流が希薄である場合があるという(椀貸伝説)。しかし、生活雑器製作に専従する木工職人(集団)を木地師(木地屋)とよび、ほかの生業集団(住人)との『すみわけ』が明確になるのは、『氏子狩』の開始と連動する事象である。しかも彼らは村を行商し市庭へ出て、製作品と交換に食糧などの生活物資を入手する必要があった。国境の入会山や峠を擁する山間が、彼らにとっては原材料と販路を同時に獲得できる場だったのである」(藤井讓治〔編〕「近江・若狭と湖の道・P.122~123」吉川弘文館)
移動民の職能集団であることから何らかの理由で天皇と繋がりを持っていたのは確実だろう。