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NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02007年007月014日(土)卵の話

2007-07-14 | 休み
以前、料理研究家の方が
テレビ番組で新しい卵ご飯として
カルボナーラ風卵ご飯を紹介してた。
生卵を溶いて、ご飯と混ぜ
粉チーズ(パルメザン)と胡椒を
ふりかけ、生ハムを刻んで乗せる
と云うものだった。

僕も真似してみて、確かに卵自体の
味を味わえて美味しかったけれど
カルボナーラのあの洗練さは
ちょっと感じられなかった。
生クリームが入っていないことは
別にしても。


そんで最近。
昼食の戯れに、何故か冷蔵庫で
大量に残っていたベーコンを
これまた大量に焼いてみた後に
「たまには目玉焼きでも」と思い立ち
目玉焼きを試みる。

完熟卵のあの硬さがどうも
ヒヨコに思えてきて嫌だので
火加減に留意して、注意深く焼く。
水を入れて蒸し焼きにする。
良い頃合に目玉焼きの表面が
うっすらと固まる。半熟だ。
良い線いっとる。

そんでもってまた戯れに
その半熟目玉焼きの黄身を崩す段で
塩と胡椒をかけながら、ふと
「塩と胡椒と黄身ってカルボナーラ?」
との思いをそのままにパルメザンも
一緒にかけて、焼いたベーコンに絡めてみた。

んまいっ。うんまい。
本来的にはパンチェッタなんだろうけれど
そんなブルジョワ的なものは
ここ数年口にしてないので
ベーコンでOK。十分に美味い。
カルボナーラっぽい。
ご飯とともに食べてみる。
ああぁっ、カルボナーラだっ!



ステーキの”レア”が単なる生肉ではなくて
某栗田さん云うところの「火の通った生」と
同様で、卵の黄身も熱をゆるりと通すことで
生とは違った味に成っているように思えた。
生卵の黄身と半熟卵の黄身は大分違う。

卵ご飯を食べられない人でも
半熟目玉焼きをご飯に乗っける
のなら食べられる人もいる。
生卵を食べる日本人をみて拒否反応を
示す欧米の人も半熟の目玉焼きは
食べたことあるだろうし。

02007年007月013日(金)インフレ棒・・・

2007-07-13 | 休み
昨日、妹のパシリでコンビニに。
いつものコンビニに行くと
「うまい棒牛タン塩味」と「豚キムチ味」
という何とも魅惑的なフレーバーが。
いつもは「コーンポタージュ味」とか「チーズ味」
みたいな定番フレーバーしか置いていない
コンビニなのに、今回に限って売ってる。
半年振りくらいに買ってみる。

「夢は時間を裏切らない」はニット帽な漫画家の
専売特許で、あんまり云うと怖いけど
「やおきんはお客を裏切らない」は某人の談。
うまい棒の冗談みたいなフレーバーはその第一印象
とは違う意味で期待を裏切ってくれる。
どこかの北海道に自社農場を持っている
変り種ポテトチップスを次々に出して
お客を裏切り続けてくれる会社とはエライ違い。

今回の「牛タン塩味」も「豚キムチ味」も
期待に違わず、表記されたその味がする。
「牛タン塩味」はさすがに焼肉屋の牛タン塩味とは
いかないまでも、パックに入った牛タンというか
コンビニの弁当に入ってる牛タン塩味っぽさはある。
レモン風味。

「豚キムチ味」はうん…キムチシーズニングが
入ってるから、キムチの味はするけど豚かどうかは
分かんない。でも、まぁキムチ味であれば
キムチの味するから問題ない。
というか、うまい棒の味にあんまりハズレが無いのは
うまい棒のベースであるコーンの力が大きい
ような気がしてきた。あれがあれば
ちょっと?なフレーバーでもいける気がする。


とか何とか考えてたら、何だか違和感。
うまい棒はいつものようにうまいが違和感。
あれ?何だかパッケージを持った感じが
いつもと違う。いつもより細いような。
チョコバット並みの細さ。ってか明らかに細い。
袋を開けてみても、何だか細くなってる。
穴も小さいし。これは…。


スライスチーズがBRICs諸国の影響で
枚数を減らしたりと実質値上げになっても
プロセスチーズがあんまり好きじゃない人間だので
大した影響も実感も無かったけれど
こりゃショックだ。バイオエタノール関連と
石油関連の値上げの影響なのかすら。かつら。



数ヶ月前、嫌がらせ半分に借りてお金を
うまい棒で清算したときに買ったときは
こんなに細くなかったような気がする。

02007年007月012日(木)0.37人前の戯言

2007-07-12 | 休み
今朝の朝日の朝刊の特集記事を読んでいて
現実にそぐわない理想主義を振りかざす
一部保守の方々にウンザリする。
男のすべきこと、女のすべきことが
男系社会の要請で構築されたと云うのは
リベラリストの戯言でもなんでもなくて
厳然とした事実としてあるわけで
自然に人間に備わっていないことは
明確だ。

にもかかわらず、ジェンダーを無いものとし
それをこの社会の荒廃のストーリーに還元し
要因の一つとして捏造し、位置づけるあの人たち
は一体何者なのか。
しれっと、さも自分たちは何も悪いことは
していないと、社会荒廃(したとされる)の
要因はリベラリストの度を過ぎた自由の
せいであると云うあの人たちは一体じゃあ
何をしてきたのか。

少なくともこの国ではリベラリストの主張は
全面化出来てはいない。何だかんだ云って
この国は現代においては単なる理想主義
(もうむしろセンチメンタリズムであると
云えるかもしれないが)に変わらない
保守の論理で転がってきている。
どっちに責任がある(そんなことを言うのは本来馬鹿馬鹿しい。
しいて云うなら、どっちにも等しく責任があるが)
のかと問われれば、長く行政を執行して来た側
なのではないかと考えるほうが自然だ。


産経的な下品で身も蓋も無い言葉を使うなら
現実を直視せず、理想主義の欺瞞に気付こうともせず
リベラリストを批判するだけ批判して
人口減少にストップをかけられない
保守の方が余程に売国奴ではないか。
もっと云えば、「死ね死ね団」じゃ無いのか。
人口が減少し続けるこの国で今の発展を維持しようと
するならば、少なくともジェンダーフリーの
考え方は必須だ。基本的に男女の別無く働ける
環境の構築抜きには、保守が拒み続ける
外国人労働者の本格受け入れをする他無い。


まぁ、消費税くらいしか払えていない
非国民が云うような台詞ではない。

02007年007月010日(火)関東の味の思い出

2007-07-10 | 休み
夏の風物詩である冷やし中華について
家族みんなで「苦手だ」と言う様な話を
していたら、不意に小学校のときの
調理実習の出来事を思い出した。


当時、調理実習で卵料理を作ることに。
なぜかうちの班は全員一致でニラ玉に即決。
それぞれが材料を家から持ち寄ることに。
ある子は卵、ある子はニラ、またある子は片栗粉を。
そして僕は中華だし顆粒。

だけれど、皆が材料を持ち寄ってみたものの
小学生の浅はかさかニラ玉の作り方を皆知らなかった。
卵とニラを混ぜればいいのだろうが
そこから先が厨房に立たない小学生には想像できなかった。

困ったときは先生と、小学生の中では
相場は決まっているので、もちろん家庭科の先生に
調理法を聞くことになる。
すると、家庭科の先生は中華スープも卵に入れろと仰られる。
そして止めに砂糖を山と卵の中に入れてくださった。

中華スープに、片栗粉に、大量の砂糖の入ったニラ玉。
ニラの独特の匂いと風味の砂糖との相性が好くないこと
この上なく、甘さを緩和させるために皆で
その甘いニラ玉に醤油をかけてみた所
砂糖と醤油の塩分が調和などには至らず
ただただ砂糖と醤油はぶつかってた。
舌を突くような凄い塩辛さと甘さの間を
縫うように匂い立つニラの香りが
今でも記憶に残ってる。

絶対に違うと、これはニラ玉ではないとの
皆の思いがつぎつぎに口をつく。
皆の総意のニラ玉としては、ニラの入った卵焼きに
中華スープベースの塩味の白湯の餡がこんもりと
乗せられたものだった。
だからこそ、その時中華スープを卵に入れたこと
餡かけを作らなかったことを百歩譲って理解したとしても
何故、あれ程の砂糖を入れたのかは理解できなかった。


ところが大きくなったある日、テレビで
ナイナイの岡村さんが上京当時の驚いたエピソードを
話されていた。
上京後、初めて東京の中華店で天津飯を注文したところ
琥珀色の、しかも甘酢餡かけが施されたもので
あって驚いたと体験を紹介していた。

あっ、そうなんだと。思い出した。
大阪で、王将などで天津飯と云えば上湯ベースの塩味だった。
ついでに云うと、僕の家の中華餡かけは上湯の塩味で
今思い返してみると、小学生の時の班のみんなの家も
中華餡かけは上湯ベースだったんだろう。

そんでもって家庭科の先生が作りたかったのは
甘酢餡かけだったんだとの結論に至る。
でもあれは甘酢でもなくて、餡かけですらない。
ただただ中華スープと片栗粉と大量の砂糖が入った
ニラ玉だ。

02007年007月008日(日)無駄なしアウフヘーベン?

2007-07-08 | 休み
夏目房之介さんの著書、『マンガの深読み、大人読み』で
ちばてつやの『あしたのジョー』のラストについての
面白い対談が掲載されていた。

ホセ・メンドーサとの戦いの後に
ジョーが真っ白に燃え尽きてしまうと云う
有名なラストも当初は全く違うものだったと云う。
原作者の梶原一騎さんが書いたラストに
納得できなかったちばさんは
担当編集者の方とともに
締め切りを過ぎた中でラストを考えていたそうな。


ちば―(締め切りが※引用者注)もう過ぎてて、何通りもラスト考えるんだけど、なかなか出来ない。<中略>担当者もほんとにイライラして。その彼が、最初からのゲラ(校正刷り)を綴じたのを、ずーっと読んでくれて、なかばで乾物屋の紀子とデートする場面を見つけて、「ちばさん、これがテーマじゃないですかね」っていってくれたんです。

夏目―カーロス・リベラと闘ったあと、紀子が丈に、ほかの若い人は青春を謳歌しているのに何でそこまでやるんだと。「さみしくないの?」って聞くんですよね。そこで丈が、「そこらの連中みたいに不完全燃焼じゃない。一瞬にせよ、燃えるんだ。あとにまっ白な灰が残るだけだ」って答える場面ですね。

ちば―それでラストがポーンと浮かんで、あとはあっという間、2日くらいで描きあげたと思います。アシスタントも担当も、原稿見てる顔がね、ああなんとなく納得してくれたかな、って思いましたね。(207頁~208頁 同書)


レポートなんかを書いていても
当初集めに集めた資料の中で
正直「無駄だった」と思うようなものも
あったとか思うけれど
後になってその無駄だった資料が
レポートの骨子が、ストーリーが
明確になってくるのとともに
無駄だと思っていた資料なりが
ストーリーに組み込まれて行くことは
往々にしてある。
それも綺麗にはまってしまうことが。
あとになって、ハッとする。

無駄なんて無いのかもしれないし
少なくとも、何かが無駄かどうかは
幸か不幸か、後になってみないと
判んないんだろうな。
ってな事を考えている日曜日の午後。
そんでそれは無駄なんか。