NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

平清盛 第一話「ふたりの父」

2012-01-14 | 授業
何だか巷では「画が汚い!」とか「王家とは何事だ!」とかいろいろと言われている様ですが、一番の問題はそんなところじゃないだろうと思いました。


大河ドラマ「平清盛」(NHK)
リトルランボーズ



一番引っかかった、一番解せない、一番腹立たしいと思うのは平太こと後の平清盛の出自。冒頭で源頼朝が「平清盛は武士の世の嚆矢だった」みたいなことを言っていたけれど、平清盛はこの大河ドラマでは白川法皇の子であった(!)とされているところじゃないのか。武士の世を築き上げた平清盛が実は天皇家の血筋だったというのは何と言う悪い冗談か。後の公家趣味の理由と言えば、筋は通りそうだけれど、結局は天皇家の血筋がって言うことのほうがよっぽど馬鹿にしている、と思うのです。

このことに関連して気になる描写がいくつかあります。第一に清盛の生みの母が舞子と言う名の白拍子、今で言えば娼婦という設定。何だかマグダラのマリアを思わせます。また彼女が清盛を産み落とす場所が厩だったりとどこと無くキリスト教的なモチーフを思わせます。また第一話のラスト、育ての父忠盛が地面に刺した洋剣(?)を抜くシーンは「王様と剣」のアーサーを想起させます。清盛が天下を取ることにまるで王権神授説的な正当性を持たせようとしているかのように思われます。(脚本化が歴史公証に反してまで天皇家を「王家」と表現するのはこの点があると思うのは邪推でしょうか。)

冒頭から表現された穢れた存在=武士という描写は現代にも普遍性のある興味深い描写だと思いました。自らの手は汚さず、それを武士に外部化している公家たちが武士を穢れていると見下げる。そんな見下げられた武士たちが政治の表舞台に立ち、天下を公家から奪うと言う歴史のダイナミズムを期待していたのに、その実その主役とも言うべき清盛が実は天皇の息子であったと言うのはどうかと思うのです。(もちろん出自など関係無く、結果として公家の世を一旦は終わらせるのでしょうが。)被差別者が差別者を越えて行ってこそ得られたものもあったのではと思います。

第二話の予告に「野良犬として生きてやる」とあります。ですが、血統書付きの野良犬です。確かに一度は捨てられた存在ですが、結局は天皇の子、”王家”の血筋を引く子供です。もちろんそこには様々な苦難や清盛自身の研鑽が表現されるのでしょうが、やっぱり解せないのです。結局は権力の座に着くべき人間が権力の座に着くという構造に思えてなりません。天皇家を軽んじていると非難された脚本ですが、その実は以後の武家社会はを作ったのは、武家社会は公家によって作られたものであると言われているような気さえしてしまいます。


いや、上記の点を鑑みても「平清盛」は面白いです。今まで観た中で一番綺麗な吹石一恵とか妖怪のような邪悪さを称えた伊藤四朗とかすごくいいです。松田聖子だけ何故かミュージカルのような芝居で一人浮いていますが、俳優もとても豪華で、映像もとてもリッチです。ただ冒頭の忠盛と舞子の立ち回りはとても良かったのに、海賊との戦闘は一部で観辛い箇所があったり、アクションが分かり辛いシーンも。加えて、忠盛と舞子が心を通わすまでが拙速だったり、朧月の子が平太に出自を言ってしまうと言う脚本にはちょっと引っ掛かりを覚えます。まぁ散々文句を言っておいて、第2話以降も観るんですが、「カーネーション」的な驚きは感じられないのでしょうか。

劇場版神聖かまってちゃん

2012-01-09 | 授業
『SRサイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督が神聖かまってちゃんのドキュメンタリー映画を撮るって聴いたときはちょっと期待してたんですが…



以前『SRサイタマノラッパー』を借りてきて途中で投げ出してしまったので、どうなのかなぁと思っていましたが、結論から言うと入江監督の映画はやっぱり合わないです。


話の骨子は保育園児、その母親、女子高生棋士、神聖かまってちゃんのマネージャーという4人の群像劇。その4人のそれぞれの状況が神聖かまってちゃんのライブの日に収束して行くという形式を取っています。見ている途中に思ったのですが、これって大昔にあったオムニバス映画『バカヤロー』シリーズを一本の映画にまとめたの?という感想。

群像劇の主人公たち4人はそれぞれにストレスにさいなまれている。(それは保育園児も含めて!)保育園児は保育園にノートパソコンを持って行き、ニコニコ動画でかまってちゃんの曲を他の園児に聞かせ保育園から怒られていた。その母親はシングルマザーで昼と夜の仕事を掛け持ちし疲弊し、息子のことで保育園から呼び出しを食らったりしていらだっている。

女子高生棋士はアマチュア将棋大会の準決勝にまで勝ち残っているが、彼氏は彼女が棋士であることを恥ずかしいという。棋士になるために大学には行かないというが、両親は大学に行かねば人にあらずといったような態度。そして彼女の兄は引きこもっている。かまってちゃんのマネージャーは上司たちからかまっちゃんをよりメジャー受けするようにしろと命じられる。


まぁ要はありがちなストレスというか、不幸描写のオンパレード。あんまりありがちなんでイラっとします。特に保育園の保護者の描写とか既視感が目いっぱいです。酷い。女子高生の話にしても酷いステレオタイプ。保育園児に至ってはは保育園にPCを持って行く方が悪いのでは?と思い感情移入できないです。唯一救われるのは女子高生役がひねた役をやらせたら最高の二階堂ふみなところ。「うっせー、ババア!!!」は地なのではと思わずにはいられないほどナチュラル!

前提もありがちなら、結末もありがち。保育園児がかまっちゃちゃんのライブを自宅のipadで他の園児たちと楽しんでいる間に、何故か保育園の園長たちもかまってちゃんのライブ配信を見て感銘を受ける。やさぐれていた母親は控え室にいた若い子のiphoneで偶然に目にしたかまってちゃんのライブで奮起する。女子高生棋士は特に関係無く頑張り、アマチュア大会を優勝。マネージャーは現在のままのかまってちゃんで居て欲しいと上司に告げる。これらが「ロックンロールは鳴り止まない」に乗せて展開される。

かまってちゃん、特にの子っていう圧倒的な現実がそこにあるのにこの能天気なフィクションが屹立すると途端に馬鹿馬鹿しく写ってしまいます。あれだけ逃れがたい、苦しい人生を歌っているのに、それを聞いた人たちの人生はライブで光指す方へと導かれます。保育園児は周囲の理解を、母親は確固たる決意を(その日のショーを頑張る?)、女子高生棋士は棋士としての未来を、そしてマネージャーは今のかまってちゃんへの肯定を。それを安っぽい、そしておそらく本当に安いCGで演出されます。辟易します。


そもそも何で神聖かまってちゃんの映画を作るのに、彼ら自身ではなく、彼らの音楽を聴く人たちの群像劇にしたのか。到底良いとは思えないこのアイデアはおそらくはの子が原因ではないかと思われます。メディアで垣間見るの子であれば、こんな映画は拒否するはずです。いみじくも劇中でマネージャーが拒否していたようなメジャー戦略の一環がこの映画だった思えてしまうのは酷い皮肉です。その妥協点として、の子がクローズアップされる必要の無いファンの群像劇という中途半端なものになったのだろうというぼくの推測はあながち間違っていないと思います。



劇中、女子高生棋士がひきこもりの兄にかまってちゃんのファーストを渡すシーンがあるけれど、死人に鞭打つような行為だと個人的には思うです。ただそのCDが彼氏から借りたCDをコピーしてCDRに焼いたものだったり、ひきこもりの兄を悪じゃなくて被害者であり、彼女の家族内での唯一の理解者として描いていたのには好感が持てました。


ただ色々残念映画だなぁととは思います。