NOTEBOOK

なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

テッド

2013-01-29 | 授業
ブロマンスの一類型だけれど、この映画にはジョナ・ヒルもセス・ローゲンもジェイソン・シーゲルも出てこない。代わりにテディベアのテッドが出てくる。まさかこの映画が日本で興収1位になるなんて。渋谷だと夜7時の回は売り切れ。ちょっと田舎で見たけれど、それでも月曜日のレイトショーの割にはかなりの人が入ってた。すごい!



リトルランボーズ



子供の頃、まったく友達の居なかったジョン(このジョンには友達が居ないという描写が酷い(笑))はクリスマスにもらったテディベアのテッドを友達のように扱っていたが、ただのぬいぐるみなのでつまらない。「きみがしゃべれたらいいのにね」と呟いたところ、テッドに命が宿ってしゃべり、動き出す。ここまでならよくあるファンタジーだけれど、その奇跡のその後を描くという真骨頂。テッドは喋る熊となり、セレブレティとなるが結局世間に飽きられ、人気子役の末路のようにボンクラおっさんとなる。ただこのボンクラ描写がアメリカンであり、おっさんになったテッドはジョンとともに家で映画を見つつ水パイプで大麻を吸引!(大麻というところがジャンキーじゃないっていう描写になってる)テッド一人のときはコールガールを呼んでドンちゃん騒ぎ。

一方でジョンには4年の付き合いになる恋人のロリーが居り、二人は愛し合ってはいるが、ジョンはその先のステップ、つまりは結婚のことなど考えられない。またロリーよりも親友であるテッドを優先することがしばしばで、とある事件をきっかけにロリーは堪忍袋の緒を緩めることとなってしまう。ジョンはテッドから自立して、大人になれるのか。そして大人になって、ロリーを取り戻すことができるのかというストーリー。



筋はぼくらが今まで観て来た、ぼくらが愛してやまないアメリカ製ブロマンスなどで何度も見てきた設定なのに、テッドが命の宿ったぬいぐるみというだけでこうも人気になるのかと。端的に言ってしまうと、『テッド』は『スーパーバッド 童貞ウォーズ』や『ショーン・オブ・ザ・デッド』と同じ構造。もっといえば、ぶっちゃけ可愛さ以外はテッドとジョナ・ヒル、ニック・フロストと入れ替えても大して代わらない。この手のブロマンスは通常DVDスルーが日本での定石だけれど、今回は吹き替え版で有吉さんを起用したり、CMはローラだったり、大量のスポットだったりと広告もすごかったけれど、やっぱりテッドの愛くるしさの勝ちかと。

ブラックジョークや下ネタの嵐はとても面白いが、骨子は前述のブロマンスものであり、自立し損ねた大人の成長物語であり、結末は予測できる。また複線も複線然としてわかり易さは良いが、意外性はない。後半のいくつかの事件はそれぞれ独立してしまっているためにラストへのカタルシスは生まれない。個別には面白い話も結局最後は力業でまとめているだけなのが残念だった。そして町山さん監修の日本語。正直、くまもんとかガチャピンとかアメリカの固有名詞を日本の固有名詞に置き換えるってやり方は昔の広川太一郎とかの吹き替えとかでよく聞いたけれど、個人的にはあんまり好きじゃない。日本人にはわからないアメリカ文化を無理に日本に置き換えると、急に現実に引き戻される気がするから。


面白かったんだけれど、ちょっと物足りない。

まほろ駅前番外地 第3話「キャバ嬢ストーカー、捕まえます」

2013-01-26 | 授業
川村ゆきえ(notひかる!)が地元のキャバ嬢で超可愛い!そして土下座されると断れないで、どんなキモい客ともホテルに行っちゃう自称馬鹿な女の子であり、行天曰く良い子。今回は実際の警察官によるキャバ嬢ストーカー事件を元にしているけれど、このキャバ嬢が土下座に弱いっていうのが効果的にラストで複線になってる。予告編での行天の言動に違和感があったけれど、合点が行く。

冒頭のピンクチラシのいかにもな女の子の写真のレベル具合がいつもの大根監督の底意地の悪さが垣間見られて素敵です。キャバクラの客のキャスティングもさすがというルック。『TOKYO JUNGLE』ががっつりフューチャーされているのもゲームファンには嬉しい。(ただあのゲーム、面白いか?)来週も面白そう!

ザ・フューチャー(原題;the Future)

2013-01-23 | 授業
なんだろうか。監督・脚本・主演と聞くと、北野武というよりもヴィンセント・ギャロが浮かんじゃう。そしてミランダ・ジュライの顔って他の俳優と表現形式が違う。浦沢直樹のマンガに萩尾望都というか。違うか。予告編を観てもまったくピンと来なかったけれど…


リトルランボーズ


冒頭、保護した猫を引き取るまでの時間が自分たちの残された自由な時間だと考えた(何で?)ダンス教室に勤めるソフィーとパソコンの遠隔サポート業務を行うジェイソンのカップルは自由な内に自分のやりたいことをしようと退屈でつまらない今の仕事を辞めてしまう(何で?ねぇ、何で?)。そして気の赴くままに自分のやりたいと、ほんのちょっとだけほんのちょっとだけ、思ったことをはじめる。具体的にはソフィーは自分が踊りたい創作ダンスを作ることであり、ジェイソンはたまたま道で声を掛けられた環境保護ビジネス(端的に言うと、寄付名目で木を売る怪しい商売)をはじめる。

「ELLE」日本版2月号のミランダ・ジュライのコメントによるとこれは「リアルに描いた」のだそうだけれど、創作ダンスと環境保護(という名の怪しいビジネス)と多くの人にとっては身近ではない職業。そもそも猫が家に来ることが自由な時間の終わり(=モラトリアムの終焉)という設定自体が寓話的だし、ソフィーもジェイソンもその仕事に本気に、心から取り組んでいるようではない。それはモラトリアムだから真剣にならないでも良いのか、モラトリアムだからこそ、その先の為に何かをすべきじゃないのか。でもソフィーはなんだかむにゃむにゃとダンスし、ジェイソンは訪問販売で寄付を募り木を売る。売れないけれど。


後半、ソフィーが偶然知り合った(この知り合い方もソフィーはメンヘルの危ない女にしか見えない…)おっさんとの立ちバック(!?)から物語は大きく転調する。ソフィーはおっさんの下に走り、ジェイソンを捨てる決意をする。別れ話を切り出されたくないジェイソンがソフィーの頭に「待って!」と手を置くと、何故か時間が止まる。状況が飲み込めないジェイソンに対して、月が状況を話して聞かせてくれる(これって『素晴らしき哉人生』の”神”として描かれる惑星のイメージなんだろうか)。おっさんの下に走ったソフィーの下に或るものが尋ねてきたり、ジェイソンが時間を戻すとか、ボキャブラリの少ないぼくの表現で言えば極めてデヴィッド・リンチ的な怪奇的な表現が展開される。



久しぶりにアート映画を見た気分。コンテンポラリーアーティストでもあるミランダ・ジュライの本領が発揮されてる後半部分とかは面白いけれど、基本的にはソフィー以外はみんな物語の駒でしかない。全編として苦笑せざるを得ない部分が続くけれども、そういう批判はいったん横に置いて、女性がこの映画をどう評価するのか大変興味深い。映画が終わった後、観客の大半を占めていたお洒落系女子の方々に感想を聞いてみたい所をぐっと抑えて帰って着た。(ちなみにエンドロールが始まると直ぐに席を立つ人が数人居たけれど、どれも男性だったように思う。)


良くも悪くもアート映画なんだと。

キラースナイパー(原題:Killer Joe)

2013-01-21 | 授業
『映画秘宝』3月号のベストテンで高橋ヨシキさんが2012年のナンバー1に上げていたが。それにしても何てタイトルだ。何故か暗殺者関連の映画には邦題で「キラー」と付けられちゃう傾向があるような。ホント邦題付ける人は何であんな感じなんだろう。ぼくでも出来そう! 


リトルランボーズ


絵に描いたようなホワイトトラッシュ。『ウィンターズヴォーン』がリアルなホワイトトラッシュ描写なら、『キラースナイパー』(原題は『Killer Joe』なのに…どうせDVDスルーで売れないんだから『殺し屋ジョー』で良いじゃないか!何で殺し屋がスナイパーなんだよ!スナイパーはスナイプするからスナイパー!殺し屋じゃない!)はブラックコメディ的なホワイトトラッシュ描写。

主人公のクリス(『Killer Joe』ってタイトルなのに…)はドラッグディーラーだけれど、大物のドラッグを中抜きしたせいで返金を迫られ6000ドル(約58万円)を工面しようとするが、ド貧乏なのでお金が無い。実家はトレイラーハウス住まいで、父親はアル中で自他共に認める馬鹿(本当に頭が悪いという意味で)、義母は寝てるときにパンツも履いてない町で有名なヤリマンおばさん。年頃の妹のドテイは赤ん坊のころに実の母親に枕を顔に宛がわれ死にかけた影響で脳の発育に障害を負ってしまっている。

そんな時に、何故か実の母親の恋人から実の母親が多額の生命保険に入っていること、その受取人が妹のドテイであることを聞かされ、実の母親の保険金殺人を計画する。でも実の息子だから殺すのは忍びない。そんなところにまたまた母親の恋人から、昼は警官だがお金を渡せば人を殺してくれるジョーの存在を知らされる。これ幸いとばかりに、ジョーに殺人を依頼するクリス。だがジョーは前払いオンリーで、保険金受け取り後の支払いを希望するクリスはジョーに袖にされる。ところがジョーは幸か不幸かロリコンだった。ジョーは担保としてドテイを性的に要求。それをしぶしぶ受け入れてしまう屑過ぎるクリスと父親。


何処まで本気なのか、おそらく全部本気の冗談なのだろうけれど、ジョーとドテイの前戯シーンのエロいことエロいこと。後半のジョーのフライドチキンを使ったある描写はウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』を髣髴とさせるような、鬼畜監督ウィリアム・フリードキンの面目躍如的な素晴らしくも最低最悪なシーンを見せ付ける。このシーンだけでも一見の価値はあるんじゃないのか。ちなみにフリードキン自身は『Killer Joe』をして、『シンデレラ』の類型と語っている。たしかに、担保として差し出されたドテイだったけれど、ジョーと居ると嬉しそうな幸せそうな顔をしている。でもそうするとラストカットは…と思ってしまう。


もっと調べたほうが良いなぁ。






まほろ駅前番外地 第2話「麗しのカラオケモデル、探します」

2013-01-19 | 授業


今回の元ネタは劇中でも触れられているけれど、「探偵ナイトスクープ」の「夢に出てくる少女に本気で恋をしてしまったおっさん」のエピソードだと思う。ちなみにこの依頼の落ちは夢の中に出てくる少女が実はおっさんの奥さんの少女時代にそっくりだったという落ちだった。


レイザーカラオケの出演女優に本気でほれてしまったおっさんが多田にその女優を探して欲しいと依頼。(しかも依頼人は奇しくも大島渚的に野坂昭如的な客にマイクで襲撃される!!)行天が「探偵スクープナイトですっていって聞いてみれば」と「探偵ナイトスクープ」のていで依頼を果たそうとする筋。途中カラオケビデオの制作会社がAV制作会社になっているとの話を受けて「『アウトレイジ』みたいだったらどうする?」とか最高。しかもガチで『アウトレイジ』という。

ナイトスクープのエピソードを下敷きにしつつ、大根監督らしく劇映画的に纏め上げていて、落ちを含めてハッピーサッドというか、幸でも不幸でも無い感じが実に上手く表現されてい(でもそうは言いつつもみんなそいういう状況を肯定的に受け入れているように思える)

『最高の離婚』は確かに面白いんだけれど、絵作りとか演出とかが悪い意味でフジテレビ的なのと比すと、きれっきれの映像。話も面白くて、絵もきれいで、芝居も良くて文句無いのですが、ただ一点、ただ一点のみ不満が。やっぱり「探偵スクープナイト」ではなくて「探偵ナイトスクープ」っていう単語を言って欲しかった。「探偵ナイトスクープ」という言葉が発せられてこそリアリティにこだわる大根監督らしい完成度になったんじゃないだろうか。本当に残念。ここだけ後々アテレコで修正してくれないだろうか。